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G線上の魔王【16】

 

・・・。


翌朝すぐに、おれは郵便局に、母さんへの手紙といくらかの現金を送りにいった。

帰りがてら借りてきたDVDを花音の前で掲げた。

 

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「おら、ご所望の品だ」
「ごくろー」


花音の朝は早い。

休みだというのに、きちっと身だしなみを整えている。


「菓子とかいるか?」
「気が利くねー、でも水でいいです」


ぼけーっとしているようで、自分の体の管理はしっかりとやっている。


「んじゃ、おれは書斎にいるから・・・」
「いっしょにみよーよ」
「ダメだ」
「はい!」


物分りはいい。


「なんかあったら呼べよ」


DVDの再生ボタンを押して、書斎に向かった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


だいたい二時間くらいたったので、リビングに戻ってきた。

テレビ画面では、映画のスタッフロールが流れていた。
やけに静かだったので、てっきり寝ていると思ったが・・・。

 

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「見終わりました」
「おう、どうだった?」
「んー、泣いた」
「泣いてねえじゃん。 どうせ寝てたんだろう?」
「見てたよ。 最後、ママが死んじゃった。 やっぱりいい人が死ぬと悲しいねー」
「そうだろうな・・・おれは見てねえけど」
「ちょっと質問!」
「え? おれ?」
「この映画は、ママがいい人でしたが、もし悪い人だったらどうなるの?」
「どうなるの、とか言われても・・・ぐだぐだになるんじゃねーの?」
「ぐだぐだかー」
「たとえ死んでも、ふーん、って感じじゃね?」
「だよねー」
「・・・・・・」
「だよねー」
「なんだお前?」
「さーて、次はなにして遊ぼうかなー。 なにしたらいいと思う?」
「とりあえず昼メシ食いに出かけるか?」
「どこ行く?」
「さあ、セントラル街まで出るかねえ・・・」
「わかったー、用意するねー」


ばたばたと洗面所に駆け込んでいった。

・・・わがままなくせに、意外と受身なヤツだな。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


花音を連れて歩くと、どうにも居心地が悪い。

道行くギャルが指差し、サラリーマン風のおっさんもテンションを上げて口をすぼめる。

 

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「わりいけど、もう3歩くらい離れてくれねえかな?」
「イヤです」
「頼むよ、マジできまじいんだって」
「もうっ、兄さんは、根暗だなー。 そんなに注目されるのがイヤなのかー?」
「ああ、そうだよ。 ちっぽけな男だよ、おれは」

 

 

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「こんなんじゃデートできないじゃないかー」


プンスカしながら、おれのあとをついてきた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


けっきょく、いつも利用している喫茶店に落ち着いた。

それでもウェイターは、花音の姿を認めて目を丸くしていた。



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「ここ、兄さんと前来たねー」
「来たっけ?」
「一年前に」
「さすがに覚えてないわ」
「えー、あのとき、兄さんはのんちゃんに告白したんだよ?」
「嘘をつくな」


でへへ、とだらしなく笑いながら舌を出した。


「なに食う?」
「まかせる」
「言うと思ったわ」


てきとうに注文してやった。


「おい、てめー、なに寝てんだ」


いきなり目を閉じてやがった。


「あ、ごめん。 瞑想の時間だなーって」
「瞑想だー?」
「イメージトレーニングね。コレ、大事。 跳べるっていう自信がつくの。
踏み切り方、流れてる曲、跳んでるとき、着地、全部成功したときのイメージするの」
「もしかして、お前、授業中とかもよく寝てるけど、あれって・・・」
「うん、たいがいリンクの上にいるね、魂は。 ・・・魂?」


さすがにちょっと尊敬したくなってきた。


「お前って実はすごいヤツなのか?」
「うん、すごいよ。 のんちゃんが間違うことないもの」
「大胆なこと言うなー」
「そうかな? みんな人がなに言うかなんて、興味なくない? なにしたか、じゃない?」
「いやいや、お前くらい有名人だと発言一つでいろいろ言われるわけで・・・」
「だから兄さんは好き。
兄さんはぶーぶー言いながら、なんだかんだでわがまま聞いてくれるもん」


にへらーっとしながら、指でおれの頬を突こうとする。

それを払いのけて聞いた。


「お前がいつもスケートのことを考えているのはわかった」
「というか、スケートしか知らないしできないの」
「ゆるいなー、お前」


・・・まあ、自分のできることとできないことを知っているのはいいことだろう。


「なんで始めた?」
「コーチがやれって言ったから」
「ゆるいんだよ。 それだけかよ」
「それよく言われるなー。 みんなドラマ求めてくるなー」
「スケートとの運命的な出会いを期待してもいいじゃねえか」
「強いて言えば・・・」
「強いて言えば?」
「女の日本人でも世界一になれそうなスポーツだったからかなー」


ふむ・・・ぶっちゃけ外国人と日本人じゃ体格からして違うもんな。

 

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「やたら世界一にこだわるのは?」
「さー、それもコーチが毎日言ってたからかなー」
「郁子さんの英才教育のたまものか・・・」
「だって、毎晩寝る前にぜったい自分のオリンピックのときのこと話すんだもの」
「郁子さんは、たしか・・・六位くらいだったか?」
「金メダルだったはずだって言ってるよ。
当時はロシアとアメリカが仲悪かったから、とか」
「よくわからんぞ」
「ちょっと前まで、六点満点で審判の人が点数つけてたの。
いまみたいに技術を分析する人とかいなくて、審判の人の思い込みでたいがい決まってたの」
「へー、へー」
「コーチが言うには、アメリカの審判がコーチに高い得点つけそうだったもんだから、対抗してロシアの人が点数を下げたって」
「高い得点つけそうだったもんだからって・・・なんだそれ。
審判も点数を出すときはいっせいに出すわけだろ?
なんでアメリカの審判が高得点つけるってわかったんだ?」
「ロビージャッジングっていうのがあるの。
リンクの外で、大会の役員とか審判とかコーチとかが茶ぁしばいて雑談してるなかで、なんとなくわかっちゃうんだって」
「いや、それにしたってあからさまにおかしい点数つけたら、もう審判としての人生も終わりだろ」
「でも、国に帰れば英雄だって。 なんか怖いねー」
「怖いな。 いまの採点方式はだいじょうぶなのか?」
「どーかなー。 いま、その新採点方式に変わったばっかりだからね。
選手もコーチも審判の人も慣れてないからねー。 ぶっちゃけのんちゃんも、細かく知らない」


・・・おいおい。


「でも、一人くらいイタズラしても無駄だよ。 最高点と最低点をカットしてそのあと平均点を出すから」
「じゃあ、ジャッジの半分くらいがイタズラしたらアウトじゃん」
「のんちゃんが万が一負けたら、まずそういうことだね」


にっこり笑った。

あくまで自信があるようだった。

やがて、ランチセットのオムライスが運ばれてきた。

 

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「どれどれ、のんちゃんミシュランが星をつけてあげよう」
「なに採点する気だ、てめえ」
「まず兄さんの根暗度・・・星ゼロ」
「おれかよ」
「あ、兄さん、お箸とって」
「オムライス食うのに箸は使わないだろ」
「兄さんのツッコミ・・・星ゼロ」
「腹立つわ・・・」
「普通に言われたからね、いま」
「とっとと食えや。 おれも午後から予定あるんだ」
「はーい」


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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朗報が届いたのは、陽が暮れかかったころだった。

花音を帰宅させ、おれは会社の事務所で新鋭会の動向を探っていた。


「見つかった?」


電話をくれたのは、堀部だった。

もう権三には報告済みらしい。


「ええ、坊っちゃん。 ついいましがた、野郎の居場所(ヤサ)が見つかりました」


・・・もう見つけたのか!?

さすがというか・・・やはり、この街における連中の嗅覚は尋常ではないな。


「居場所は見つけたけれど、男は捕まえていないんですね?」


堀部は恐縮したように続けた。


「ざっと経緯をお話しますと、自分が目をかけてるシュウってのがいまして・・・」


堀部の話はこうだった。

シュウという名のヤクザが面倒を見ている闇金の、ある多重債務者が例の共犯者に見覚えがあると申し出た。

有力な情報があれば、借金の一部を免除してやると約束――あくまで口約束だが――していたもの
だから、金に飢えた亡者たちは血眼になって探したという。

場所は、おれのマンジョンのある中央区の外れだった。

今日の昼ごろ、シュウが辺りを探っていたところ、なんと獲物とばったり遭遇したという。

すぐさま後を追ったが、通りの角を曲がったところで逆に襲われ、男の行方を見失ってしまった。

その後、堀部が率いる捜索隊が付近の住民に鬼のようなプレッシャーをかけて聞き込みを開始した
ところ、ようやく男のアパートにたどり着いた。


「シュウは、頭にナイフぶっ刺されたみたいでしてねえ、ほんとまあ、・・・やってくれますわ」


堀部はいまきっと電話の向こうで残忍な笑みを浮かべているのだろうな。


「わかりました。 いますぐそっちに行きます」
「野郎は西条って名前(もん)です。
どこ行ったのかしらねえが、ばっくれられると思ってるのかねえ・・・」


どす黒い笑い声を中断するように、通話を切った。

すぐさま宇佐美に連絡して現場に向かった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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夜八時。

一通り、家捜しは済んだ。

安アパートの一室。

気味の悪い部屋だった。

一面の黒。

テーブルも、食器棚も、床に敷かれたじゅうたんも黒。

ガラス窓にも色紙を張って、明かりすら届かせない。

壁一面に張られた掛け軸には、達筆な文字で皇国がどうのと書かれていた。

本棚には、その手の本が大量に並べられていて、男の反社会的な思想に拍車をかけているようだっ
た。

全体として整理整頓が行き届いているのが、また不気味だった。



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「すみません、遅れまして」


宇佐美が息を切らして駆け込んできた。


「遅いな。 バイトだったのか?」
「はい。 今日ばっかりは休めませんで・・・で、どうなりました?」


おれはこれまでの状況を話してやった。


「なるほど、西条(さいじょう)というお名前で。 で、ヤクザのみなさんは?」
「いま堀部を筆頭に、東京駅まで車を飛ばしているところだ」
「東京駅? 新幹線ですか?」
「ああ、ヤツは博多に逃げるつもりらしい」
「博多っていうと明(みん)じゃないですか」
「福岡だ、バカ。 なんで五百年も昔の中国なんだよ」
「しかし、どうして行方がわかったんです?」
「さっきヤツの部屋を探っていて気づいたんだ」


堀部はもぬけの殻となった現場を荒らさずにおいてくれた。


「まず、金庫が空になっていたんだ。
蓋がががらっと開いていて、なかには三文判が一つ転がっているだけ。
さらにクローゼットも開けっ放しで服や下着なんかが散らばってた」
「なるほど、荷物一式持って逃げ去ったと。
で、どうして豚骨ラーメンの国へ逃げたと?」
「パソコンの電源が落ちていなかったんだ。 慌てていたらしいな」
「ふむ」
「それで、どうもネットをしていたらしくてな。 ブラウザが開きっぱなしになっていた」
「西条は逃げる直前まで、なんのサイトを見ていたんですか?」
「ぜんぜん関係のなさそうな芸能人のブログだった」
「まさか、藤原・・・でも、それはフェイクでしょう」
「そうだと思って、ブラウザの履歴を調べてみた」
「さすがです」
「そしたらJRのページに飛んだわけだな。
検索サイトの履歴とかいろいろ探ってみてわかったんだが、どうもヤツは博多行き新幹線の空席状況を調べていたみたいだ」
「いま、八時ですが・・・西条はもうとっくに新幹線のなかですか?」
「おそらくな。 ヤツは四時半には部屋をあとにしている」
「四時半? それまたどうして?」
「部屋にあった電話だ。 ためしにリダイヤルしてみたら、タクシー会社とつながった」
「なるほど。 会社に問い合わせてみたところ、西条は四時半ごろにタクシーを一台、アパートの前に手配していたんですね?」
「東京駅までタクシーなら一時間半ってところだろう。 途中で電車に乗り換えればもっと早い」

 

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「いま、八時ですか・・・困りましたね・・・」
「間に合うかどうかはわからないが、飛行機で先回りするために羽田空港にも何人か回してる」
「新幹線で五時間の道のりも、飛行機なら一時間半くらいですからね。
なるほど、博多駅待ち伏せするわけですね、さすがに浅井さんは手際がいい」


感心したようにうなずいて見せて、宇佐美は指を立てた。


「しかし、落とし穴がありますね」
「わかっている。 博多行き新幹線を調べていたからって、博多で降りるとは限らない」
「素晴らしい」
「西条が調べた新幹線の名前はわかってる。
ちゃんと横浜、名古屋、大阪などのすべての停車駅に人が向かってる」


浅井権三の園山組は一千人を越える巨大組織だ。

駅の改札口すべてを抑えるとかなりの人数になったが、仲間を一人傷つけられたヤクザ連中にとっては、どんな長距離移動も苦ではないらしい。


「ただ、西日本に逃げられるとなると、ちょっと厄介らしいな」
「ははあ、ヤクザさんには領土ってのがあるんでしょうね」


たとえば博多なんかでは、総和連合の人間もこの街ほど大胆に獲物を捕まえることができなくなるらしい。


「だからこそ、博多ですか。 めんたいこもおいしいですしね。 なかなか考えていますね」


言いながら、通り沿いに腰を下ろした。

 

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「なにやってんだ、お前!?」
「ゴミ漁りです」
「まさか、手がかりを探っているとでも?」
「ええ。 部屋のなかは浅井さんがしっかりと確認してくださったと信じていますので、自分はヨゴレ担当ということで」


腐乱臭のするゴミ置き場で、平然と袋を開封していく。


「ありました。 大日本がどうとか書かれたノートの端切れです。
この袋が西条の出したゴミですね。 なるほどやはり・・・」
「なにが、なるほどやはり、なんだ?」
「いえ、西条は、"魔王"に指示された内容以外では、わりと無防備なのではないかと思いまして。
"魔王"のレールの設計図はともかく、レールを敷いている人間がミスを犯していることに期待します。
とくにゴミです。 普通に生活しているぶんには気にもしないでしょうが、ゴミの山は証拠の山です」


袋の中に手を突っ込んで、中身を食い入るように見つめる。


「証拠の山って・・・西条はもう、新幹線のなかだぞ?」
「ええ・・・浅井さんの言うことには、いちおうの筋は通ってますね」
「なにか、おかしいか?」
「できすぎているような気がするんですよ・・・うわ、クサっ! お風呂たっぷり入んなきゃ・・・」
「おい、なにができすぎてるんだ?」
「うーん、パソコンの電源を消し忘れるほど慌ててたんなら、最初からつけなきゃいいのに、と」
「・・・・・・」
「芸能人のブログなんてフェイクをかましてくれたわけでしょう? 本当に慌ててたんですかね?」


たしかに、わざわざ自宅でインターネットをする必要はないな。

逃亡中にネットカフェかどこかでじっくりと新幹線の情報を調べたほうがはるかに安全だ。


「そもそも、新幹線の空席情報なんて調べますかね。
年末ならともかく、自由席なら立ってでも乗れますし・・・」
「・・・それはそうだ」
「しかし、西条の心理的になるべく遠くに逃げたいと思っていても不思議はないです。
人間、テンパるとなにするかわかりませんし」


おれも焦っていたのかもしれない・・・。


「すまん、手がかりを拾った気になって、油断していた。
博多方面に逃げたと思わせることこそが、"魔王"の狙いだったのかもしれない」


宇佐美は黙って首を振った。


その顔が不意に引き締まった。



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「・・・・・・」


一枚の紙を拾い上げた。


「浅井さんたちは、何時くらいにこのアパートに来たんですか?」
「六時過ぎだな。 堀部たちはもう少し早く来ていたはずだが・・・」


宇佐美は、ゴミにまみれた紙を凝視している。


「本日五時ごろ配達にうかがいましたが留守でしたので・・・とありますね」


・・・くそ、なんてことだ!


「不在票か!?」


宇佐美はうなずいた。


「不在票を捨てたということは、西条は少なくとも、五時過ぎまでは家にいたということです」


そうだな・・・おれの読みどおり、西条が四時半に家を開けたのなら、不在票はゴミ捨て場じゃなく、部屋の郵便受けにささっているはずだ。


「タクシーは囮か。 呼ぶだけ呼んで、帰らせたんだ」
「いえ、乗車して少しの距離を走ったところで降りたのでしょう。
そうしないと、タクシー会社の人も、浅井さんになにか言うはずです」


リダイヤルしたときに、タクシーの行き先を聞いておけばよかった。

・・・いや、さすがに警察でもない人間にそこまで教えてくれなかっただろうか。


「近場でタクシーを降りて、部屋に戻ってきたところ、不在票が入っていたというわけか?」
「ええ。 しかしこれは、大きな手がかりです」


・・・・。


宇佐美は不在票を手に、立ち上がった。


「まだ荷物を受け取っていないのなら、西条は、再びここに戻ってくるつもりなのだろうか」
「それは考えにくいですね。
ヤクザさんに追われているという事実は揺るがないのですから」
「ということは?」
「はい。 荷物の配送先こそ、西条の新しい潜伏先です」


宇佐美は携帯電話に、不在票を見ながら番号を押した。

 

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「あ、もしもし・・・ええ、伝票番号ですね、はいはい・・・265・・・」


どうやら配達中のドライバーに直接電話をかけたようだ。


「ええ、さきほど再配達をお願いしましたね。
あ、わたしは西条の妹です。 ええ・・・兄はどこに荷物を届けさせましたかね?
兄が忘れちゃったみたいで・・・。
はい・・・中央区の、プラザホテルですか、そうですか。
ありがとうございました・・・いえいえ、そのままそこに届けてください」


通話は終わった。


「プラザホテルだな?」
「ええ、わかりますか?」
「わかる。 すぐに人をよこしてもらう」
「お願いします。 出入り口をしっかり固めて、ぜひとも捕まえなければ・・・」
「じゃあ、とりあえずおれは権三にお願いしに行く」


堀部たちを誤った方向に誘導してしまったし、直接会って頭を下げなくては。


「わかりました。 それでは・・・」


宇佐美はさっそうと、夜道を駆けていった。

さて、おれも・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

 

 

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不安要素がないでもない。

おれの計画はともかく、それを実行する人間に問題があるかもしれない。

胸のうちで、携帯が振動した。


忠実なる"悪魔"――西条からだ。

 

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「私からのメールは削除してもらえましたか?」
「ああ、きちんとパソコンから消去した」


しかし、警察の力があれば、消去されたデータも復帰させることができる。

いずれ、西条の部屋にパソコンごと盗みに入るとしよう。


「ところでホテルはいかがですか? 気に入っていただけるとうれしのですが」


西条は、なにやら不安そうに早口でまくしたてた。


「気を悪くしないで欲しい。 
"魔王"の実力を疑うわけではないが、本当にだいじょうぶなのだろうか?」
「というと?」
「連中の嗅覚は生半可なものではない。
ヤクザどもは、すでに私のアパートを探し出しているだろう」
「でしょうね。 それを見越して、罠を残しておいたのではありませんか?」
「ああ、しかし・・・ヤクザどもは気づいてくれるだろうか?」
「あの程度のパズルが解けないのなら、それこそ恐れるに足りません」
「そう言われると安心する。 いや、すまなかった・・・」


安心するのはまだ早いかもしれんぞ。


「問題はありません。 お約束します」


お前が、いたらぬミスをしていなければな・・・。


「それで、次の計画だが・・・」
「ええ・・・お話の途中でしたね・・・」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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ハルはそれまで、ホテル沿いの歩道からエントランスの様子をじっとうかがっていた。

つい先ほど京介から連絡が入っていた。

京介は、自分は権三の相手をしなけらばならず、ホテルに来られなくなったが、かわりに近くにいる園山組の男たちを派遣するという。

道路脇のガードレールに持たれかかって、その辺の若者がそうするように携帯電話をいじっているふりをしながら、ホテルの入り口を監視する。

十時を過ぎて人の波がまばらになったころ、いかにもがらの悪そうな顔つきの男たちが十数人ほど現れた。

軽く挨拶を交わし、すぐさま部屋に乗り込む手はずを整える。

地下の駐車場、四つあるホテルの出入り口、そして非常階段に何人か割り当てて逃げ場を封鎖した。

男たちはよほど規律が行き届いているのか、文句のひとつも言わずにそれぞれの持ち場に散ってい
った。

すでにホテルの受け付けで、来客を装って西条の部屋を聞き出していた。


あとは突入するだけだった。

 

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ホテルの厳粛な大理石の廊下を歩きながら、ハルは考えを巡らせていた。


静寂が支配していた。

防音が行き届いているのか、居並ぶドアから少しも音が漏れていない。


――"魔王"はなぜ、西条と組んで動いているのだろうか。


共犯者がいれば、犯罪のバリエーションは多彩になる。

しかし、同時に、問題も抱えることになる。

知能犯の計画が露見するのは往々にして、頭の悪い足手まといが証拠を残すからだ。


わからなかった。


もちろん"魔王"のことだ。

西条が捕えられても、自分だけは逃げおおせる算段を整えていることだろう。

それにしても、共犯者は自らの計画の一部でも漏らすかもしれない。


――なぜだ。



・・・。




「ここだな・・・」


ふと、付き添っている男がぼやいた。

太った男だった。

丸太のような首に金のチェーンをだらりとぶら下げている。

いつの間にか、西条がチェックインした部屋の前までたどり着いていた。


ハルは小声で言った。


「ノックしてもらえますか? 自分がドアの覗き穴の前に立ちます」


ハルは西条に面が割れている。

とはいえ、ひと目でヤクザ者とわかる男よりはましだと考えた。


・・・。


スカートのポケットから取り出した白いスカーフを頭に巻いて、ささやかな変装を遂げる。

必要以上に顔を近づければ、向こう側からこちらの服装までは確認できないだろう。


太った男が、ドアの前に立って、拳を浅く握った。


ノックを――。





・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 


む・・・?



 

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「なにか、ありましたか?」


電話の向こうの西条に問う。


「いまノックがあった・・・」
「こんな時間に?」
「ああ、ルームサービスだろうか・・・」
「用心して、ドアスコープから相手を探ってください」


しばらく、西条の息づかいだけが聞こえてきた。


「女だな・・・若い女・・・」


女・・・?


「白い・・・帽子だろうか・・・服装はよく見えないな・・・」


まさか・・・。


「見覚えは?」


港で宇佐美と出くわしているはずだ。


「ない、な・・・」


曖昧な返事。

宇佐美の、あのふざけた髪型を思い返す。

計算してのことかどうか知らんが、あの化け物みたいな髪がなければ、少女の印象も一変する。


「届けものだろうか?」
「ありえない」


きつく言った。


「夜の十二時になっても配送して回る業者を、私は知らない」


おれの警戒心を察したのか、西条もさらに声を潜めた。


「どうする?」
「女がその場を立ち去る様子は?」
「ないな・・・じっとこっちを見てる。 微動だにしないと言っていい」


もし宇佐美だとしたら、なぜ・・・?


戦慄が走る。


どうやってホテルを探し当てたというのか。


「ひとつお伺いしたい」


これが、西条との最後の会話になるかもしれんな。


「室内のゴミはちゃんと処理されましたか?」
「もちろんだ。
部屋に残さず、ゴミ袋に詰めてゴミ捨て場に投棄した」
「・・・・・・」


ならば・・・。


「返事をして、ドアを開けてください」
「いいのか」
「ええ」
「わかった。 一度電話を切るぞ」
「はい」


打つ手がなかった。

もし、追っ手だとしたら、もはや逃げられまい。

当然、総和連合の極道どもが、ホテルの出入り口をかためていることだろう。

部屋に籠城したところで、時間稼ぎにしかならない。



・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


ノックを繰り返した。

しかし、五分、十分と待っても返事はなかった。

部屋に人がいる気配も、まったくない・・・。

内心の動揺をよそに、ハルはフロントに連絡を取った。

室内で人が倒れているかもしれない。

コールしてもつながらない。

とにかく、部屋のなかを確認したかった。

やがて、キーを持ってホテルのマネージャーがやってきた。


ドアが開いた。




――なぜ・・・?



ハルは、ひしひしと忍び寄る敗北感に唇を噛み締めていた。



・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

最悪の予想は裏切られ、再び着信があった。


「"魔王"、たいしたことじゃなかった」
「ほう・・・」


おれに電話ができるという状況だけで、西条の安全は理解できた。


 

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「フロントの者が、私が落としたパスポートを部屋まで届けにきてくれただけだった。 すまない」
「急いで荷造りしたからでしょうね。 なんにしても、何事もなくてよかった」
「どうしてこのビジネスホテルの場所がわかったのかと、肝が冷えたよ」
「いまごろ連中は中央区のプラザホテルに向かっていることでしょう」


杞憂だった。

つまり、おれは宇佐美を買いすぎていたというわけか。

宇佐美がたどりつけるのは、プラザホテルまで。

いま西条が宿泊している東区の安ホテルを割り出せるはずがなかった。


「あえてミスを装えと、"魔王"は言ったな」
「ええ・・・やつらは、アイスアリーナの一件で、あなたのことを侮っているでしょうから」
「"魔王"の助けがなければ、こうまで上手く逃げられなかっただろう。
よくとっさにあんな手を思いつくものだな?」
「今日の夕方に荷物が届く予定だとおっしゃったでしょう? それでどうにか助かりました」


不在票を使った罠。

宅配業者には、偽のホテルの名を告げさせた。

一度チェックインするだけで、実際には泊まらないホテル。

プラザホテルでの西条は、一度部屋に入ると、すぐさまホテルを出て、東区に向かった。

「私は今度こそ"魔王"の指示通り、すべてをやってのけた。
博多行きを匂わせるようなウェブサイトを巡り、検索エンジンにも履歴を残し、最後は芸能人のブログを開いておいた」
「そして、四時半にタクシーを手配した。
そこまでは、暴力団の人間でも、博多に逃げたと推測できるでしょう」
「けれど、実際にはタクシーはすぐに降りて、アパートまで戻る。 そして、不在票を手に入れる」


実際に留守じゃなくても、居留守を使う手はずだった。


「不在票をゴミ袋につめて捨てれば、私のミスを探していた連中が必ず探し当てて、宅配業者に連絡すると」


・・・そこまでが、宇佐美の限界だった。


「裏の裏をかいたわけだな」
「ヒントを与えてやるのです。 もっともらしいヒントを、相手の程度に応じて。
すると、ヒントから解答を得た『坊や』たちは自分の手柄に酔いしれて、本当の正解を模索しなくなる」


博多に向かったヤクザどもも、ホテルに向かった宇佐美もたいして変わらん。


「鮮やかなものだな、"魔王"」
「いいえ」


冗談ではない。


孔明空城の計はご存知でしょう?
一見裏の裏をかいた鮮やかな駆け引きのようですが、その実、撤退のためのつまらない策にすぎな
い」


事実、西条が総和連合に追われているという大局は揺るがないのだ。

こんな局地的な勝利など、どうでもいい。


「それでは、お話の続きをしましょう・・・」
「ああ、その、宇佐美という少女だったな」


おれは、冷たく言った。




「殺してしまいましょう」

 


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「ったく、そろいもそろって使えねーヤツらだなー!」


「すいません」


「すいません」


翌日の午後、栄一が偉そうだった。


「いったい、いつになったら、女紹介してくれんだよ、宇佐美さんよー?」
「ええ、ですから近日中に」
「もういい加減正体ばらしちゃうけどさー、オレちゃんって相当なワルなんだよ?
ええっ? 穴があったら入れたい年頃なんだよ!? もう待てないっつーの!」


たった二日でシビレを切らしたようだ。


「いや、まあ、おれもなんとか期待に沿うような女性を探してみるから」


「今日のところは、ご勘弁を」


しかし、やけに機嫌が悪いな・・・。


「なんかあったのか?」
「いやよう、昨日久しぶりに親父とメシ食ってたのよ」
「お前親父いたんだっけ?」



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「あれ? たしか施設で育ったとか聞きましたけど?」
「んなもんは、全部ブラフだよ。 ボクの親父はホテルのオーナーやってるよ」


「マジで?」
中央区のプラザホテルも、グランドホテルもトップオブトマンベツも全部、親父のもんだよ」
「嘘つけや」
「嘘だと思うんなら、今度一泊させてあげようか?」
「・・・・・・」


「・・・・・・」


おれは宇佐美と顔を見合わせた。


「マジっぽいっすね」
「ふんっ」


知らなかった。

たしかに、相沢という名のホテルオーナーの話は聞いたことがある。

しかし、目の前のこの栄一の親父だと誰が信じるというのか。


「それにしても、人のことボンボンとか言っといて、お前もかなりのボン太郎じゃねえか」
「オメーと違って親父は厳しいんだよ。 爬虫類禁止だぞ、うちは。 ありえなくね?」
「ふーん」
「それでその親父がよー、夜中の二時くらいに帰ってきたと思ったら仕事のグチを始めやがってよー」


「プラザホテルのことですか?」
「なんかさー、客の一人が消えたらしいんよ。
たしかにチェックインしてるんだけど、電話もつながらないし、住所もデタラメでさ、こりゃ警察もんだな、と思ったら、部屋のキーも宿泊代もベッドの下にあったんだってさ」


「けっきょく被害はなかったわけだし、警察には連絡しなかったんだな?」
「親父に言われたよ。
んなもんでホテルの評判悪くなったら客がこなくなるだろうが。
ついでにそんな現場の話をいちいちオーナーの俺様に上げてくんなってな。
オレに言わせれば、そんな仕事の話をいちいち息子に上げてくんなっつーの。
そりゃ、オレも非行に走るわ」
「いやいや、いいお父さんじゃないか。 ちゃんと勉強させてもらえよ」
「けっ、おめーら凡夫には理解できない悩みだろうな」


栄一は、いつまでもふてくされていた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「まんまとしてやられたわけだな?」
「ご迷惑をおかけしまして・・・」


授業が終わり、宇佐美と善後策を練っていた。


「西条についてだが・・・」
「はい」
「権三に聞いたところ、西条の大日本革新義塾とかいう組織は知らないらしい」
「よほど規模が小さいのでしょうか?」
「わからん。 その手の政治結社は無数にあるからな」
「では、組織の線から西条を追うのは難しそうですね」
「堀部たちは、また総力を上げて市内のホテルをしらみつぶしにあたってる」


ホテルだけじゃなく、ネットカフェや、地下鉄や橋の下などのホームレスの住処、テナントの入っていないビルの一室など、およそ人が住めそうな場所はすべて探している。


「西条はすでに、県外に逃亡している可能性もありますが?」
「わかっている。 ヤツも総和連合の恐ろしさを知っているはずだ。
権三の指示で、百人くらいは県外に向かわせているらしい」


現地の暴力団と折衝(せっしょう)して、"魔王"や西条についての情報を集めているようだ。

新鋭会との戦いも控えて、園山組は大忙しだ。


「・・・わたしにできることといえば・・・」
「吉報を待つくらいじゃないか?」


はっきり言って、失態を犯したおれたちは、煙たがられている。


「原点に返りましょう」
「ん?」
「花音は、NKH杯で優勝しました。
"魔王"のいいつけを無視した以上、母親の郁子さんの命が狙われているはずです」
「だからこそ、西条を探してるんじゃないか」
「ですよね・・・」


はっきりしないヤツだな・・・。


「今回の"魔王"は、ゲームの駒に西条っていう共犯者をそろえた。
共犯者を抱えるってことは、それだけリスクもあるんだろうが、それに見合うリターンもあるはずだ」
「つまり、共犯者がいて初めて成り立つ手口で郁子さんを狙っていると?」
「それしか考えられない。
"魔王"一人でできるなら、最初から共犯者なんて雇わない。
だからこそ、まだ西条は街にいるはずだと思うが?」
「やっぱり、そうですよね。
西条を捕まえれば、"魔王"の計画を破綻させられるかもしれない」


おれは鼻で笑った。


「なんだよ、お前。 ちょっと落ち込んでるのか?」
「いえいえ、まさか。 自分がナイーブになったのは、財布を落としたときとペンギンも交尾をすると知ったときです」


・・・やっぱりアホだな、コイツ。


「自分は、もう一度西条のアパートを漁ってみるとします」
「わかった。 勝手な行動は慎めよ」
「わかっています。 いちおうわたしも、被害者候補の一人ですからね」


宇佐美はそう言って、帰り支度を始めた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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元気な子供の声が飛び交っている。

"悪魔"――西条は、東区の公園のベンチに腰掛け、"魔王"からの連絡を待っていた。

小学校帰りの子供たちが、寒さをものともせず、我先にと砂場や滑り台を占領している。

西条は妹を思い出す。

西条に取り調べをした刑事のことも思い出す。

西条が首を締めたのだと。

ランドセルを背負ったばかりの愛らしい妹。

天使のような笑顔から、いつの間にか目玉がせり出していた。


お前が殺したのだ・・・。


違う。


・・・あれは、そう・・・死んだわけじゃない。

妹は西条が好きだった。

よくいっしょに手をつないで登校した。

風呂で全身をくまなく洗ってやった。

お休みのキスを欠かしたことはない。

つまり、好きに決まっていた。

なにが悪い。

花は一番美しいときにつむものだ。

殺したというより、西条のものにしたに過ぎない。

ただ、公僕どもがあまりにもうるさいので社会的制裁は受けてやった。

西条は成人するまでの長い間を、必ず柵のある施設で過ごした。


・・・。



"魔王"からの着信があった。


「・・・ご無事ですか?」
「こんな町外れの公園までは、連中も追ってこないようだ」
「油断なさらないよう」
「わかっている。 あと三人殺すまでは、街を離れられない」


殺し損ねた吉田貴美子。

フィギュアスケートの金崎郁子。

そして、宇佐美ハルという少女だ。

これからどんな殺人計画を打ち明けられるのかと、期待に胸をふくらませた。


「いま、アイスアリーナに来ていましてね」


"魔王"はどこか気持ちよさそうに言った。


「明日からまた、グランドシリーズファイナルという大会が始まるのです。
世界六ヵ国で開催された大会の、最後の決勝戦とでもいうべき華々しい内容です」


・・・なんの話だ、と口に出かけたが、水を差すようでためらわれた。


「しかし、しょせんは賞金戦です。
運営資金に困った国際フィギュアスケート連合が主催する見世物。
それが証拠に、昨シーズンの世界チャンピオンなどは、敗北を恐れ、自らの名誉を守るために出場を辞退するのも通例となっている」


西条は、ただ、相づちを打つしかなかった。


「昨年から導入された新採点方式も、フィギュアをつまらなくしている。
たしかに、不正を防ぐ意味で一定の効果をあげているのは認めよう。
問題は、プログラムだ。 いまのルールでは、ジャンプを跳べる回数も決まっているし、リンクの端から端まで見事なスパイラルを続ける必要もない。 その結果どうなったか。
どいつもこいつも似たような演技ばかりではないか。
減点を恐れ、挑戦的なプログラムを避けている。 派手な転倒など見なくなった。
いったいどこがフリースケーティングだというのか・・・」


"魔王"が珍しくため息をついたものだから、西条は不安に駆られた。


「たとえば私は、浅井花音よりも瀬田真紀子を評価する。 理由は基本的なスケーティング技術だ。
動きも曲にマッチして非常に美しい。 苦境を乗り越え、地味な努力を重ねていることがわかる。
しかし、回転数の多いジャンプひとつで順位がひっくり返ってしまった。
容姿がよく、受けのいい決め技を持つ人間が勝利する。
おかしな時代になってしまったものだ・・・」


西条は、ふと、同志の嘆きを悟った。

よく考えてみればこれまでもターゲットはすべて、フィギュアスケートに関係する人物だった。


「いや、申し訳ない。 つい、長話になってしまいました」
「"魔王"、ひとつ聞きたい」


疑問が喉を突いた。


「"魔王"はこの国の現状を憂い、革命を志しているのではなかったか?」
「・・・・・・」
「やけにスケートにこだわるのはなぜだ?」


疑惑は深まる。

そもそも、標的は悪党ばかりとはいえ、一般人だ。

なぜ政府要人や宗教団体の幹部といった巨悪が殺人リストにないのか。

そこまで考えて、西条は追求の手を緩めた。


「いまさらすまない。 頭の鋭いお前にしかわからない事情があるのかもしれんな」


理解者に嫌われたくはなかった。

"魔王"は自分の窮地を救ってくれた。


「いいえ・・・」


"魔王"が申し訳なさそうに言う。


「あなたの疑問はもっともだ」
「というと?」
「私はただ、フィギュアスケートの現状を嘆いているだけなのです。
金儲けに走った連中をこの世から抹殺したかった」
「・・・・・・」
「そのために、利用したのです、あなたを」


"魔王"は苦しそうに言った。

不思議と怒りは沸いてこなかった。

長らく忘れていた感情が胸に宿る。

そう、あれは、妹が西条の大切にしていた玩具を壊したときだ。

あのときも、妹は素直に頭を下げた。


「これまで協力していただいて感謝します」


携帯電話を持つ手が震えた。


「ひとまず西日本に逃げるとよろしいでしょう。
新幹線もいいですが夜行バスやフェリーを駆使したほうがより安全といえます。
福岡まで着いたらまたご連絡を。 台湾行きの船を用意しておきますので。
口座を教えていただければ逃走資金を振り込ませて・・・」
「待て、"魔王"」


思わず、言った。


「誰も降りるとは言っていない」
「しかし・・・」
「いや、やらせてもらおう」
「なぜです?」


西条は観念したようにため息をついた。


「私もお前を騙していたからだ。
大日本革新義塾などという組織は存在しない。
いや、あるにはあるが、代表も広報も作戦参謀も全部たった一人の構成員が兼任している。
つまり、私だ」
「なんと・・・」
「世間は私を異常者だと決めつけている。
しかし、お前は私を立てて、熱意のこもったメッセージを送ってくれた。
実力のない私を英雄だと言った」


迷いはなかった。

"魔王"の真の目的がどうあれ、彼が友人であることに変わりはないのだから。


「教えてくれ。 "魔王"が最も殺したいのは例の三人ではないのだろう? 真の標的は――」


西条はその人物の名を口にした。

"魔王"は短く、はい、と答えた。


「協力しよう。 さあ、指示をくれ・・・」


公園を駆け回る子供たちの嬌声は、いつの間にかやんでいた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


 

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「チース!」
「お前、おれの家に上がり込むことに慣れてきただろ」


夕食を終えたころ、いきなり宇佐美がやってきた。


「あったかいなー、この家は」
「ソファに丸まるな。 起きろ」


宇佐美は制服のまましばらくゴロゴロしたあと、起き上がった。


「いやそれにしても、まるで社会とのつながりを持とうとしない人の追跡は難しいですね」
「新しい手がかりでも?」


宇佐美は曖昧に首をふった。


「電話の請求書があってチェックしましたが、自分と同じくらい安い通話料でした」
「友達がいないってことだな」
「仕事はどうにも、日雇いの現場作業なんかがメインみたいですね。
ヘルメットと軍手も見つかりましたし、人材派遣会社に登録しているらしく、いくらか給与明細がありました」
「・・・収入が安定しているとはいえない生活か」
「きっちりした真面目な人物です。
風俗の会員証とか馬券の切れ端とかそういうのは見当たりませんでしたし、自炊のあともありました。
アイロンやズボンプレッサーもありました」
「でも、意外にそういうヤツほど、アブなかったりするわけか・・・」
「手がかりになりそうなのは唯一・・・」


そのとき玄関で物音がした。


「たっだいまー!」


花音には部屋の合鍵を渡しておいたのだ。




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「チース!」
「チース!」


いきなりなんだこいつら・・・。


「やあやあ、うさみん、よくいらっしゃいました。 汚い家ですがどうぞごゆっくり」


「おれの家だから」


「いや、せっかくだけど、もう帰るよ」
「え? おい・・・」


手がかりがどうとか言いかけておいて・・・。


「なんで? あそぼーよ」


宇佐美はなぜか、ベッドを横目で見ていた。


「でわ・・・」


そそくさと、背中を丸めて退室していった。

 


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「ねえねえ、うさみん、なにしに来たの?」
「さあな・・・暖取りに来たんじゃねえか?」
「そういえば、うさみんってあの格好で寒くないのかな?」


当然の疑問だった。


「まあ、あいつは変人だから」
「んー?」
「な、なんだよ、いきなり顔を近づけてくんなよ?」


花音の瞳におれが映っている。


「なんか隠してるなー?」
「はあ?」
「ソファが荒れてるぞ? うさみんとなにしてたんだー?」
「なんもしてねえよ・・・って、あれ?」


ソファの下に、宇佐美のものらしき携帯電話があった。


「あいつ、ここでゴロゴロしてたとき、落としたんじゃ・・・」
「ゴロゴロしてたの?」
「一人で勝手にな」


まあ、明日、学園で渡してやろう。


「んー、なんかおかしいなー。 最近パパもかまってくれないし。
のんちゃんの周りで事件が起こってるぞー、これは」
「パパは年末に向けて忙しいんだよ」
「コーチの周りに、パパの部下みたいな人がいるのもおかしいぞー?」
「へえ、そうなんだ・・・」


さすがに気づくか。


「コーチ、守られてるみたいだったよ? トイレの前までついてくるんだもん」


ここで下手な嘘はつけんな。


「なんでコーチが守られてるのかなー?
ヒルトン先生とか大会の偉い人とかならわかるけど・・・んー、兄さんどう思う?」
「知らねえな・・・それより風呂入って来いよ」
「さては、兄さんもグルだなー? のんちゃんを驚かせようったってそうはいかないぞー」
「気にするなよ。
そうだ、お前はスケートのことしか興味ないんじゃなかったのか?」
「あ、そうだった。 兄さんいいこと言うなー」


すぐ笑顔に戻る。

 

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「明日からファイナルだろ?」
「うん、女子はしあさってからね」
「よし、ならとっとと風呂入れ」
「はいっ」


ばたばたと脱衣所に駆け込んだ。


「・・・・・・」


あの切り替わりの早さがなければ、花音もここまで有名にはなれなかったのかもしれないな。

自分の演技ひとつに、実はいろんな人間の思惑がかかっている。

ジャンプの出来不出来で、観客の動員数やスポンサーのご機嫌も変わってくる。

さらにいえば、今回は脅迫事件までからんでいる。

そんな周辺の利害をいちいち気にしていたら、演技になるわけがない。

当然、練習に明け暮れて、まともな学園生活だって送れるはずもなかった。


しかし、本当にスケートのことしか考えない人間なんているわけがない。

機械ではないのだから。

花音は、あのゆるい笑顔の裏で、いろいろな興味に耐えている。

もし、母親の命が狙われていると知ったら・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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ハルは住宅街の路上を行ったりきたりしていた。

風はなく空気は乾いていた。

時刻は正午を回った程度で、昼食の支度を終えた主婦の姿をちらほらと見かける。

同じ角を三度Uターンしたとき、ハルは、やはり自分は張り込みには向いていないと思った。

コンビニの袋を持ってただの通行人を装うとしても、無理がある。

髪型はもちろん、平日の昼間に閑静な住宅地で学園の制服を着ているのも問題だ。

観察目標は、さっきから何度も前を通り過ぎた病院だった。

看板には内科、神経科とある。

張り込みの理由は、昨日の晩、西条のゴミ捨て場から見つかった病院の薬袋だった。

薬の仕様書のような紙も同封してあり、西条は神経系の病気を抱えていることがわかった。

一つのゴミ袋から薬袋が三つも出てきたことから、頻繁に通院しているものと推測した。



「寒いよぉ・・・」



望みは薄いかもしれん。

病院を変えられたらおしまいだからだ。

"魔王"の指図も入っているだろう。

西条の部屋を探索した結果、暴力団が病院を当たると予想しているに違いない。

それでもハルが一人で張り込みを続けているのは理由があった。

薬袋は、おとといの時点では見当たらなかったのだ。

"魔王"の罠にはまり、西条がプラザホテルに逃げたと勘違いしたあのときにはなかった。

薬袋が三つも出てきた以上、見落としたとは考えにくい。

つまり、薬袋は何者かが、後日に残したということになる。

堀部たちは、西条が部屋に戻ることはないと考え、アパートに人を残してはいなかった。

だから、何者かがアパートにやってきても誰もわからない。


――西条ではなく、"魔王"だろう。


ハルは、そう当たりをつけていた。

西条とは違い、いまだに顔も知られていない"魔王"なら暴力団の目を恐れることもない。

"魔王"が薬袋をあえて残したということは・・・。

ハルはそこまで考えて、また唇を噛み締めた。

先日の敗北の味がする。


――これも、なにかのお遊びなのだろう。



「寒いぃ・・・」



ていうか、補導されなきゃいいな・・・ハルは思った。


だいじょぶか、十八歳以上だし・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


その日、グランドシリーズファイナルが開催された。

スケートマニアの栄一は初日から始まる男子の試合を見るために、学園をさぼっていた。

 


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「おい椿姫、宇佐美は?」
「来てないみたいだね。 どうしたの?」
「いや、あいつ昨日、おれの家に携帯忘れていきやがったんだよ」
「そうなんだ。 わたしが、預かっておこうか?」


椿姫がそう提案したのは、おれもよく学園を休むからだろう。


「いや、いい・・・」


・・・宇佐美のヤツ・・・どうしたんだ?

唯一の手がかりをつかんだとか・・・。

まさか、一人で先走っているのか・・・?


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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"魔王"の言ったとおりだった。


西条はレンタカーの後部座席に一人でいた。

別で買ったカーテン越しの窓からこっそりと病院の様子をうかがっていると、例の少女がうろついていた。


名前は宇佐美ハル。


港で出会ったときには、藤原などと名乗った暴力団の手先だ。

あの幽霊のような髪型の少女こそ、"魔王"の最も警戒する存在だという。

ぼんやりとした風体や言動の裏に、たしかな知性を秘めているらしいが、どうにもピンと来なかった。

寒いのか、両腕で肩を抱きながら、住宅地を何度も往復している。

西条は"魔王"の忠告を脳内で反芻(はんすう)した。



――機があれば、殺せ。



『薬袋の罠に気づくのは、おそらく宇佐美だろう。 現場百遍と教えられる刑事ならともかく、暴力団の男たちは気づかない。 もうあなたがアパートに戻ることはないと考え、他を探している』


"魔王"の読みは当たっていた。

辺りをうかがってみるが、暴力団らしき人間の姿は見当たらなかった。


『あくまで機があれば、行動を開始してください。 宇佐美はヤクザ者を引き連れているかもしれない。

宇佐美一人に見えて、実は辺りに伏せているかもしれない。 最後に、襲い掛かるなら、まず宇佐美の携帯電話を奪い、増援を絶ってからことに及んでください』


宇佐美を車に引きずり込み、人気のない場所で殺害する。

死体の処理は"魔王"がやってくれる。


・・・さて、どうするか。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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とうとう宇佐美は登校してこなかった。

考えすぎだろうか。

宇佐美は学園には顔を出すようなイメージがあったが・・・。

連絡の取りようがない。

宇佐美のことは驚くほど何も知らない。

住所も不明だし、そもそも、一人暮らしなのだろうか・・・。

何気なく宇佐美の携帯電話を眺めたそのときだった。

 


――鳴った。



誰からの着信だろう。

表示された番号を、宇佐美は登録はしていないようだった。

椿姫や花音からではなさそうだ。

となると、時田ユキか・・・。

いや、宇佐美のあの様子では、きっとまだ連絡を取っていないのだろう。

おれのまったく知らない宇佐美の友人だろうか。

電話は鳴り止まない。

 

・・・よし。


思い切って出てみるとしよう。

通話ボタンを押す。



「・・・・・・」



ひとまず、黙っておく。

けれど、相手も無言だった。

相手は静かな場所にいるようで、まったく物音がしない。

息も殺しているようだった。

親しい友人ではなさそうだ――もちろん宇佐美の知人は変態が多そうだからなんともいえないが・・・。


お互いなにも言わないまま、数十秒が経過した。


らちがあかんな・・・。


「・・・どなたですか?」


相手は、さらに数秒の間をおいて言った。


「私は宇佐美ハルの叔父にあたるものです」


男の声。

年齢は三十くらいだろうか。


「この番号は宇佐美のものかと思いましたが?」
「ええ、僕は宇佐美の知人です。 宇佐美が携帯を落としたので預かっていました」
「携帯を落とした?」
「用件がありましたら伝えておきますが、お名前は・・・?」
「川島です。 またかけなおしますので」


それで、通話は途切れた。


・・・ふむ。


いまの会話のなかで不自然な点は・・・。


・・・そうだな。

あくまで推測だが・・・。

いまの男は叔父と名乗った。

このご時世、叔父に電話番号を教える子供がどれくらいいるだろうか。

いるとしたら、よほど親しい間柄なのではないか?


しかし、親しい叔父が、この番号は『宇佐美』のものかと・・・、などと苗字で呼ぶだろうか。

もちろん、なにか訳ありの関係なのかもしれない。

とはいえ、おれが話しかけるまで口を開かないほど用心深い叔父というのは、いくら宇佐美の知り合いでも変態すぎるのではないか?


ぱっと、思いつくのは、いまの男が西条だということだ。

宇佐美は港で、西条に自分の電話番号を教えている。

西条がなんらかの目的で、宇佐美に連絡を取ろうとした。



・・・なぜ?



西条は"魔王"と組んでいる以上、宇佐美の正体は知っているはずだ。

宇佐美を知った上で、なんらかの目的があって電話をかけてきた。


・・・わからんが、なるべく早く宇佐美を探したほうがよさそうだな。

いちおう、堀部に、すぐ動けるよう連絡を入れておくとするか。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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宇佐美はいま、携帯電話を持っていない。

西条はほくそ笑む。

宇佐美の友人らしき男が電話に出た。

宇佐美は携帯を落としたという。

最初、やけに無言だったのが気にはなったが、いまこの場で路上をうろうろしている宇佐美が電話を取るような様子はなかった。


機があれば殺せ・・・。


先程から何度か車を動かし、住宅地を巡回してみたが、ヤクザ者の気配はない。


よし、やるか・・・。


宇佐美は通りを曲がっていった。

しかし、どうせまた、道を引き返して戻ってくる。

西条は車を降りて、道の角に潜むことにした。

不意をついて、襲いかかるとしよう・・・。


・・・。



曲がり角に立つ電柱にもたれかかって、じっと耳を澄ませた。

 

コツ、コツ、と甲高い足音が聞こえてくる。


西条はコートのポケットを探った。

痴漢撃退用のスプレーだ。

顔面にまともに浴びせれば、相手はしばらく激しい涙とくしゃみにおそわれ無抵抗になる。


幸運にも辺りに通行人はいない。

宇佐美の足音が大きくなってきた。

"魔王"の計略にはまり、病院を張っていたのだろう。

西条を追う手がかりは、それくらいしかなかったのだから。

罠と知りつつ一人でやってきたその度胸は認めよう。

 

・・・。



きた。


もうすぐこちらの道に曲がってくる。


西条はスプレーを握りしめた。


宇佐美の目の前に突然現れるべく、通りに身を乗り出した。

 


―――っ!



はっとして固まった。


宇佐美ではなかった。


スプレーの噴射スイッチにかかっていた指が凍りつく。


しかし、すでに飛び出してしまった。


追っていた甲高い靴音は、宇佐美ではなく、サラリーマン風の男のものだった。


静かな車内で宇佐美を見張っていたものだから、靴音の判別がつかなかったのか。


男はいぶかしむような目で西条をにらみつけ、脇を通り抜けていった。



「あ、ども・・・」



前方で、おどけた声があった。

背中を丸め制服のポケットに手を突っ込んでいる。

西条は怒りに身を任せ、少女と向き合った。

 

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「お久しぶりです、前にお会いしましたよね?」


西条は動揺を悟られまいと、適当にうなずいた。


「なに持ってらっしゃるんですか? お化粧品ですか?」


スプレーのことだ。

少女はそれを警戒してか、半身になって、目だけをこちらに向けている。


・・・。


西条はスプレーをしまうと、相手の出方をうかがった。



「あ、サインどうです?」
「・・・サイン?」
「ほら、ユグムントさんのサインです。 バレエダンサーの。
もらえるっておっしゃってましたよね?」


いったいなんの真似だ。

顔が強張るのを自覚した。

まさか、西条が宇佐美の正体を知らないとでも思っているのか。


「そんな約束をしたかな、宇佐美?」
「え、宇佐美?」


少女はきょとんとして


「自分、藤原ですけど?」


と首を小さくかしげた。


「嘘をつくな」
「はい?」
「とぼけても無駄だ。 お前は宇佐美ハル。 暴力団の手先だろう」


西条は語気を強めた。


黙らせてやろうか。


しかし、間の悪いことに道路を挟んだ歩道で、主婦らしき女が二人、立ち話を始めていた。


「あの、どうしたんですか? 学生証見せましょうか?」

 

宇佐美は制服のポケットをまさぐり始めた。

 

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「あれ、どこかな・・・ちょっと待ってくださいね・・・いっぱいモノいれてるから」
「いや、いい。 勘違いだった」


西条は宇佐美の誘いに乗ってやろうと、手で制した。


「あの、あなたは探偵さんとかですか?」
「どうしてそう思うんだ?」
「いやその、宇佐美って女を探しているのかなと。
前会ったときも、なんか血とか見ましたし・・・」
「探しているとしたら、なんだ?」
「はあ、いやまあ、自分に協力できることがあればと・・・」
「では聞きたい。 さっきからなぜ、ここら辺をうろついていたんだ?」
「え?」


不意に焦ったように目を見開いた。


「なんのことでしょう?」
「警察に連絡してやってもいいんだぞ」


宇佐美は観念したように、恐る恐る言った。


「いえ、実は、この近くにわたしの大好きな人の家がありまして」
「やっぱり、ストーカーじゃないか」
「すみません。
でも、その人のことは、ホント昔からでして、ええ、携帯の番号はおろか、メルアドすら暗記してます」


たいした演技だと西条は思った。


しかし、いつまでも演技を続けていていいのか・・・?

 

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「詳しく話を聞きたい」
「と、言いますと?」
「事務所まで来てもらおうか」


あくまで探偵を気取り、西条は言った。

そしてさりげなく周囲を見渡した。

主婦の立ち話が続いていた。


「いや、えっと、知らない人についていってはいけないと習ってまして・・・」
「なら警察に通報する」


そのとき、宇佐美の態度が一転した。

 


「警察に通報されると困るのはあなたじゃないですか、西条さん?」
「なに?」


とっさに、腕を離した。

詰問するような口調と視線に、西条の胸中に動揺が走った。

 

「"魔王"はお元気ですか? 先日はやってくれましたね?」
「なんの真似だ、宇佐美ハル」
「もうおしまいですよ。
浅井権三さんにケンカをふっかけた以上、法の裁きも期待しない方がいい」
「たいした自信だな。 私を捕まえてから言え」
「あなたはもうおわりです」
「くだらん」


・・・死ぬのはお前だ。

また道路の向こう側を見る。

もう、迷惑な主婦の姿はなかった。


「どうかいまのうちに自首してください。
警察に逃げ込むのが、あなたが唯一助かる道です」
「そんな話をしに一人でのこのこ現れたのか?」
「言っておきますが、わたしを捕まえようとしても無駄です。
誰にも話したことはありませんが、格闘には自信があります」


たいそうな口をききながら、腰を低く落とした。


「たとえば、あなたがいま懐に隠し持っているスプレーですが、まず風向きを考えましょう。
あなたは風下にいます。 この意味がわかりますか?」



西条は押し黙った。



「さらに、いまさら逃げようとしても無駄です。
わたしはこの辺りの地図を頭に叩き込んでいます。 あなたのような引きこもりとは違う」


たしかに、殺気めいたものを感じる。

年端もゆかない少女とは思えない目つきだ。

冷めた感じで、ゆっくりと理屈を詰めていくような口調は、"魔王"に似ていた。


しかし、宇佐美は愚か者だ。

こちらの武器がスプレーだけだと決めつけている。

おとといの日中、ヤクザ者が一人血を流したことを忘れている。

あのときの男は死んだだろうか。

ナイフで顔をえぐられて悶絶していた。


「わかった・・・私もこれまでということだな」


西条は呼吸を整え、コートのポケットのなかでしっかりとナイフの柄を握った。


「降参ですか?」
「ああ・・・」
「けっこうです」


寛容の言葉とは裏腹に、宇佐美の視線はまったく緩まない。

はっきりと、ポケットに隠れた西条の手に注視している。

だが、この至近距離では無駄なことだった。



――目があったら、殺したほうがいい。



不意に、"魔王"の一言を思い出した。

緊張に手が震えた。

ためらいはないが、人を殺すのに慣れるということはないようだ。


ナイフを浅く握り直す。

激しい動悸に胸が苦しい。

少女がわずかに目を見開いた。

はっと気づいたように視線を辺りに這わせる。

西条はとっさに判断した。



やるならいま――。



西条は殺意に身を任せた。


どういうわけか殺したはずの妹が宇佐美の顔に重なった。


その瞬間、タイヤが軋むような轟音に、ナイフを持つ腕に待ったがかかった。

 


――なんだ?



その筋の者が好むような高級車が急ブレーキをかけて、西条のすぐ後ろで停車した。

前方からも一台。

道路を完全に封鎖する勢いで続々と集まってきた。

スキンヘッドや角刈りの大男が、ドアを蹴飛ばし、三人、四人と飛び降りてくる。



・・・どうして・・・。


・・・そんなはずはない、なぜ・・・?




「こんのがきゃあ!!」


ヤクザが怒鳴りつけた。


「そこ動くんじゃねえぞ!!」


狐に化かされたような気分の西条は、たいした抵抗をすることもなく、すぐさまに腕という腕に頭や胸ぐらをもみくちゃにされた。



わけがわからない、こんな・・・こんなはずでは・・・。



西条はあっという間に組み伏せられ、容赦ない暴力を振るわれた。

 

 

 ・・・。



 

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「早く逃げるべきでしたね、西条さん」


頭上から声がした。


妹の声かと思ったが、そんなはずはなかった。

 

「な、なぜだ、宇佐美っ!」


西条は屈強な男たちに押さえつけられながら、それでも叫ばずにはいられなかった。


「いつ、どうやって、こんなっ! こいつらをっ! きさまあっ!」


宇佐美は困ったように首を回した。


「どうやって、と言われましても、携帯で連絡を取っただけですが?」
「携帯!?」
「ははあ、なんで逃げないのかと思ったら、そういうことですか。
わたしが携帯を一つしか持っていないと勘違いしていたんですね。
連絡手段がないから応援なんて呼べるはずがないと」
「二つ持っていたんだな!?」
「ええ、まあ。 いまどきの女子学園生は誰でも二つ持っています。
・・・というのは嘘で、もう一つの携帯は、あなたの飼い主から先月プレゼントされたものですよ。
まだ使用できるようなので、メールを打たせてもらいました」



――メール!



いつだ・・・そんな暇はなかったはずだ。


西条はくやしさに必死に脳みそを振り絞った。


「学生証を出そうとして、ポケットのなかを探っていたときだな!?」
「惜しい」
「なに!?」
「しかし、それでは、わたしはいまごろあなたに殺されていたかもしれません」
「いつだ!?」
「たぶん、あなたがここに来たときです。
日が暮れ始めたころに見慣れない乗用車が停車しているものですから、さりげなく中を覗いてみました」
「しかし、あの車はカーテンがあって、外から中の様子は見えないはずだ!」
「ええ。 あなたの顔までは見えませんでした。 しかし、人影くらいは見えました。
運転席ではなく後部座席に座っていたのが運のつきでしたね」


後部座席に座るようアドバイスしたのは、"魔王"だった。


「後部座席に座れば、運転手か誰か人を待っているふうを装うことができる。
付近の住民や通行人の目もいくらか緩和されます。
探偵も使う、張り込みの基本ですね。

そんな小さな作為が、逆に怪しいのです」


"魔王"が、裏をかかれたというのか・・・!?


なぜ"魔王"ほどの男が、こんな少女を気にかけるのか、ようやくわかりかけてきた。


「あなたの車は一向に発進する気配がありません。
狙いはわたしなのではないかと思っても不思議はないでしょう?
そもそも薬袋の罠から始まったのですから」
「襲撃すらも予期していたと・・・?」
「こんな住宅地です。
あなたが襲うとしたら、通りの角を曲がった瞬間でしょう。
そう思って、角を曲がるとき、わたしは必ず誰かと一緒でした」


よくよく思い返してみれば、宇佐美を待ち構えていたとき、靴音は一組しか聞こえなかった。

サラリーマン風の足音だけだった。

宇佐美はきっと、足音を殺し、逆に西条を待ち構えていたのだ。


「あなたと相対したあとは、適当なことをしゃべって時間を稼ぐだけでした」


愕然とした。


最初からすべて読まれていた。


視界が急速に暗くなっていった。


暗澹(あんたん)たる淵に立たされた西条の耳元で声がした。



――ないで・・・ちゃん・・・。



膝ががくんと折れた。

ずるずると力が抜けていった。

ヤクザ者の拳がまた顔面を弾いた。


惨めだった。


雨のように降り注ぐ暴力に、ただただ呑まれた。

彼らは同じ人間とは思えないほど、強靭で残虐だった。


怖い。


殺さないで欲しい。


また声があった。

 


――殺さないで、お兄ちゃん・・・。

 

 

「お疲れ様でした」

 


妹の懐かしい声は、不意に打ち切られた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


夜になって宇佐美が家にやってきた。

 


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「西条はどうなりました?」
「いま地獄にいる」


セントラル街にあるビルの地下に連れられて、拷問を受けているはずだ。

 

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「自分も、西条に聞きたいことがあるのですが・・・」
「今日は無理じゃねえか? やっと捕まえた獲物だ。
堀部がやたらニターッと笑っていたな・・・」
「お楽しみ中ってことですか・・・」


宇佐美は眉をひそめた。


「それにしても、いきなりメールが来たときは焦ったぞ」
「急いで欲しかったので」
「件名なしで、『へるふ』、だからな。 あとは病院の名前だけ」
「ヘルプよりも、緊迫感があったでしょう?」
「しかし、知らないメルアドからだったが、お前、よくおれのアドとか知ってたな。 登録してたのか?」
「いえいえ、ソラで言えます。 大好きな浅井さんですから」


気持ちわりいな・・・。


「話は変わりますが、最近、花音と同棲してんすか?」
「ああ・・・」
「花音は、どうすか?」
「どうもこうも・・・ちょっとおれたちの騒ぎに感づいてるかもしれんが、努めて気にしないようにしているみたいだな」
「いえいえ、今日殺されかけたわたしです。 そういうことを聞いているんじゃありません」
「はあっ?」
「ここでたたみかけますが、浅井さんは一月一日とかお暇ですか?」
「なにをたたみかけてんだ?」
「お暇ですか?」


・・・なんか有無を言わさぬものを感じる。


「一月一日って・・・元旦じゃないか」
「めでたい日ですね」
「いや、いちおう、おれってヤクザの息子なのよ。
どんだけ挨拶に回らなきゃいけないと・・・」
「ですから、ちょっとだけでよろしいんですがね」
「て、言われてもなあ・・・朝方・・・ようは四時とか五時とかみんな初詣が一段落したあたりなら、なんとかなるかもしれんが・・・」
「決まりですね」
「まてまてまて、なにが決まったんだ」
「ようは、わたしを選べってことです」
「もういい、帰れ」


変人との会話は疲れる。

 

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「でわ・・・」


のそりのそりと、すり足で玄関まで歩いていった。

ちらりとこちらを振り返ったとき、うすら長い前髪が揺れた。


「ふー、緊張したー」


なにやら解放感に満たされた様子で、宇佐美は去っていった。


「・・・・・・」


なんだ、あいつ?


もし、万が一・・・。


おれは恐ろしい想像をしてしまった。


万が一、あいつが、本当におれに気があるとしたら・・・。


いや、ありえん。


ぶるぶると首を振った。


やたらつきまとってくるからそう感じなくもないだけだ。


第一、宇佐美がおれに惚れる理由が見当たらん。


「馬鹿なこと考えてないで、仕事をするか・・・」



・・・。


 

やがて、花音が帰ってきた。

 

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「ふぃー、やっぱり兄さんちはいい匂いがするなーっ」
「おう、風呂沸かしといたぞ」
「やったー、兄さんだーいすきっ!」


いきなり抱きつかれた。

妙なことを考えていたせいか、おれは初めて意識してしまった。

花音という女を。

しかし、すぐに冷静になる。

どうかしている・・・。

権三についていった時点で、おれに幸せなどない。



母親にも満足に会えないのだから。



・・・。


 

G線上の魔王【15】

 

・・・。

 

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坊っちゃん、そっちの女性は、坊っちゃんの女(イロ)ですかい?」


堀部がにたりと笑う。

午後三時過ぎだろうか。

おれたちはアイスアリーナのなかに入って、一度顔を合わせていた。

おれ、宇佐美、そして堀部以下六人の極道たち。

それなりにまともな・・・一見してヤクザではなく一般の人間と思われるような顔と身なりをしていた。


「浅井さん、自分、イロとか言われてるんですけど」


「・・・堀部さんも相変わらず口が悪いですね」
「おやあ、違うんですか。 そいつは失礼」


異様に細い目をさらに細めながら、堀部はおれの指示をうながした。


「じゃあ、みなさんにお願いします。
5のつく客席をすべて当たってください。
35なのか52なのかはわかりません。 なにか不審な人物を見かけた場合は、僕に連絡してもらえますか?」
「"魔王"は、背の高い青年なんでしたっけ?」
「そうですが、実行犯が別にいる可能性があります」
「てことは、5のつく席に座っている野郎全員に話(ナシ)をつけなきゃならんですね?」
「まず怪しいのは、チケットの名前と、本人の名前が一致しない場合です。
フィギュアスケートのチケットには、発売と同時に売り切れるような人気があります。
"魔王"はおそらく、ネットオークションかなにかでチケットを手に入れたことでしょう」
「でしたら、てきとうに怪しいヤツをしょっぴいて、"魔王"だの、脅迫状だの、犯人しか知らないようなことをカマかけてみますわ」


堀部は陰険な男だが、権三の組織のナンバー2だけあって、狡猾な頭脳を持ち合わせている。


「時間はかかると思いますが・・・なるべく穏便に、手荒な真似は控えてください」
「承知してますよー。 花音お嬢ちゃんの晴れ舞台を邪魔しちゃいけねえってことくらい」


「あるいは・・・」


宇佐美が口をはさんだ。


「席が空いていたとしても調べてもらえますか? なにか不審なモノが置かれていないか」
「そうか、紙袋だな・・・?」


宇佐美はあいまいに首を振った。


「その5という数すら、そもそも客席の番号とは何の関係もないかもしれませんが・・・」
「それにしたって、なにもしないよりはいいだろう。 実際、郁子さんは狙われているわけだし」
「おっしゃるとおりです。 では、動きましょう」


堀部が一喝すると、ヤクザ連中は散っていった。


「浅井さん?」
「ん?」
「ちょっと顔色が悪そうですが?」
「ああ、遅くまで花音の相手をしているからな・・・」


どうにもふらつく。

 

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「そうですか、無理しないでくださいね」


宇佐美も、また連絡すると言って、廊下の角に消えていった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 



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「たしかにご本人様ですね。 ご協力ありがとうございました」


おれはFの51番に座っていた女性に頭を下げた。

広すぎる会場を移動するだけでも十分十五分と過ぎる。

リンクで行われている演技の合間をぬって話をつけなければならないため、また時間がかかる。

私服警備員を装って話を聞いているものの、本物の警備員からの目も厳しいものになるだろう。

さらにいえば、チケットが本人のものだからといって、油断はできない。

いままで六人と話したが、すでに"魔王"の共犯者を見落としているかもしれない。


・・・手間のかかる作業だ。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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人が多い。

"魔王"の指示に従い、"悪魔"はCー5の席を離れた。

席を立った直後、不意に後ろの席から非難の声が上がった。

ふてぶてしい中年の女だった。


・・・なるべく目立たないようにしなくては。


"悪魔"は腰を低くして、顔を伏せながら二階の通路に向かった。

 

 

・・・。

 

 

 

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それにしても、なにが面白いというのだろうか。

"悪魔"はスポーツといえば、相撲のような国技しか認めていなかった。

"悪魔"は"魔王"からフィギュアスケートの魅力とやらを散々に語られた。

スポーツでありながら芸術でもあると。

その歴史は旧石器時代にまでさかのぼるのだという。

獣骨で作られた人類初のスケートが大英博物館に所蔵されているとか、うんちくの大半は聞き飛ばしていたが、浅井花音という選手についてはとくに思い入れがあるようだった。

いわく、浅井花音は暴力団の資金源である。

度し難い、と"魔王"は言った。

"悪魔"としても共感できるものがあった。

暴力団は思想とは無縁のただの利益追求集団である。

正当な活動はなく弱者から金をむしりとることを生業としている。

よく企業が不祥事を起こすと、"悪魔"と似たような政治団体街宣車を回して企業のビルの前で不
正を訴えるような演説を開始する。

企業側が政治団体の活動資金を援助することで、ようやく迷惑な活動をやめてもらえる。

"悪魔"はこのような思想の面をかぶった拝金主義者どもこそが、あらゆる政治団体の立場を悪くしているのだと常々考えていた。

"魔王"は重ねて、浅井花音を追求した。

花音さえ消えれば、また一つ、社会正義が保たれるのだと。

加えて、花音には我が国を代表するアスリートの風格はない。

観客をなめているような態度すら取るという。


"魔王"の嘆きは存分に伝わった。

同志の憤りは我が怒り。

"悪魔"は計画通りに、通路を進んでいった・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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午後八時四十五分。

そろそろ花音のフリースケーティングの演技が始まる時間だった。

廊下からほとんど人が消え、場内が異様な興奮を見せつつある。


ひとまず宇佐美と合流した。

 

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「どうだ?」
「いえ、まるでダメです。 怪しい人っていいますけど、どっちかっていうと自分のほうが怪しいですから」


・・・いちおう変人の自覚はあるんだな。


「手がかりが少なすぎるな。 5っていう数字と紙袋と郁子さんの『子』だけじゃな・・・」
「多すぎるくらいだとも思いますがね・・・」


ぼそりと言った。


「さっき、警備の人にさすがに捕まえられましたよ。
やっぱり世界の選手が集まるだけあって、それなりに警戒されてるんですね」
「これ以上は、やめておくか・・・」
「自分は尋問とか苦手でしてね」
「お前とまともに会話するのが難しいくらいだからな」
「こんなときに、ユキでもいれば・・・」
「犯行予告の九時まであと十五分か・・・」
「はい・・・」


そのとき、不意に携帯が鳴った。

堀部からだった。


「・・・空いている席に・・・茶色の袋・・・紙袋ですか?」

 

 

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「・・・マジすか・・・」


自分が提案したくせに、信じられないといった様子だった。


「わかりました、すぐ行きます。 Cー5ですね?」

 


 

・・・。

 

 

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熱気が渦巻いていた。

花音の演技が終わったのだ。

たかが四分。

演技中の選手や客にとっては長く感じる時間も、おれと宇佐美が移動している間にあっさりと過ぎ去った。


・・・。

 

 

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「いや、さすが花音でした。 素晴らしい」
「観てねえだろ、てめえ」


そばにいる観客と同じように、興奮した面持ちで手を叩いていた。

観客の反応から察するに、花音は予想通り大勝ちしたみたいだな。

得点の出た電光掲示板を見る。

やはり、花音が独走していた。

花音のあとに一人の選手が滑走を控えているようだが、前日のショートの得点を考えても、おそらく花音を抜き去ることはできないだろう。


・・・となると、"魔王"も動き出すはずだ。


坊っちゃん、こっちです」


堀部に呼ばれていくと、その席を見下ろす。

Cー5の席は、空いていた。


「いちおう、手はつけないで、見張っておきました。 ホシがのこのこ戻ってくるかもしれませんしね」


そんな話をしていると、最後の選手の演技が始まった。

静まり返った会場のなか、さすがに私語は慎まれる。

客席におりていくこともためらわれるじれったい時間が過ぎた。

静謐(せいひつ)に流れていたクラシックアレンジが終曲すると、ようやく行動が再開される。


盛大な拍手のなか、宇佐美が一目散に席に向かっていった。


・・・・・・。

 

宇佐美は座席の下にあった紙袋をつかむとその場で言った。

 

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「なにか入っています。 中を開けてみましょう」


それは、デパートのロゴの入った小さな紙袋だった。


「爆弾だったらどうするんだ?」
「ええ、本当なら警察の方にお渡ししたいものですが、堀部さんが許さないでしょうね。
しかし、たとえばいまこの場で、わたしを含め無関係な人を爆弾で吹き飛ばしたとしても、それが花音の躍進を妨害することにはならないと思います」
「そうだな・・・」


死人が出れば大会は中止になるかもしれないが、それで花音のオリンピック行きがなくなるわけではない。

さらにいえば、"魔王"の嫌がる警察だって首を突っ込んでくることだろう。


「開けます・・・」


断って、宇佐美は紙袋の口を封じていたガムテープをはがした。


・・・。


「また、手紙か・・・?」


脅迫状と似たような質の紙が一枚入っているだけだった。


宇佐美と肩を並べて手紙の文章に見入る。

脅迫状と同じく、手書きの雑な字だった。

 



親愛なる同志へ。


浅井花音の勝利を確認しただろうか?

次の指示を与える。

狙いは金崎郁子だ。

アリーナの外。

関係者通用口で待て。

おそらく選手の出待ちで人がごったがえしているだろう。

そう、殺人を犯しても誰がやったかわからないくらいに・・・。

例の小刀の取り扱いには十分に注意していただきたい。

指の先でも切ってしまったら、眠ったように死んでしまうことだろうから・・・。

 


 

リンクでは氷の上に赤いじゅうたんが敷かれ、選手の表彰が執り行われようとしていた。

一番高い山に登るのは、花音だ。


「いますぐ関係者通用口を固めてください!」


おれは堀部をにらんだ。

"魔王"の指示を受けた共犯者が、郁子さんを殺害しようとてぐすね引いて待っている。


堀部が動く。

すぐさま取り巻き連中に命令して電話をかけさせた。


「おい、宇佐美・・・おれたちも行くぞ・・・」


すでに、宇佐美も動いていた。

しかし、客席を抜ける階段を登るでもなく、紙袋のあった席の後ろの観客に話しかけている。


「・・・そうですか、カーキ色のコート・・・三十くらいの男性ですね・・・」
「そうよ。 よく覚えているわ。 前の人、いきなり席を立つんだもの」
「何時ごろでしたか?」
「えっと、瀬田真紀子が演技してたから・・・」
「いまから十分くらい前ですね・・・八時四十分くらいですか」
「席についたと思ったら、すぐにいなくなっちゃって・・・ほんと迷惑だわ」


さすがに宇佐美は頭が回る。

どうやら、共犯者の特徴を聞いていたようだ。

 

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「え・・・?」


ふと、違和感を覚えた。


「おい、宇佐美・・・どうした?」


こちらを振り返った宇佐美の顔が事態の深刻さを訴えていた。



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「違う・・・」


抑揚のない声で言った。


「おかしい。 最初からおかしかった。
しかし、唯一の手がかりを追っていくしかなかった。
あらかじめ敗北の決まっているチェスのゲーム・・・」


ぶつぶつと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「いますぐ止めてください。
関係者通用口に向かっているみなさんを。 お願いです、早く・・・!」
「なんだ、いきなり?」
「"魔王"は、封筒にいくつも痕跡を残すようなヘマはしません。
あの文章にしてもおかしい。
ワープロ打ちではなく手書きというだけでも怪しいのに、妙に自慢げで程度の低い文面でした。
そして、この紙袋です。 おそらくミスをしたのは"魔王"ではなく共犯者です」
「紙袋にミス・・・?」


とっさに紙袋を拾い上げた。


「ガムテープです」
「あ・・・っ」


さすがに気づいた。


「まず、すぐれた犯罪者というものは、テープのように粘着性のある物を嫌います。
髪の毛、指紋、その他、衣服の繊維なんかも知らず知らずのうちに付着されてしまうからです。
なによりおかしいのは、共犯者はこの"魔王"の指示を、開封しないでどうやって確認したのでしょうか」


そうだ・・・宇佐美が開けるまで、紙袋の封は切られていなかったのだ。


「そもそも、もし共犯者が"魔王"の指示を確認したのなら、まずこの手紙を持ち去っているはずです。 

わたしたちは手がかりを失っているはずなのです」


殺人の指示書だからな・・・そんな証拠を現場に残しておくのはあまりにもおかしい。


「しかし、今確認したところ、八時四十分ごろに共犯者らしき男性がCー5の席についたようです。
なぜでしょう? 共犯者はなにをしに現れたんでしょう?
いま言ったように、"魔王"の指示を確認しに来たわけではありません」
「つまり・・・」
「はい。この紙袋を置いたのは、"魔王"ではなく、共犯者なのです。
我々の目を郁子さんに向けさせるだめにわざとこんな証拠を残したんです」


おれは、神妙にうなずいた。

携帯電話の時計を見る。

九時五分前・・・。


「急ぎましょう、浅井さん・・・。
これは、罠です――――!」


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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"悪魔"にとって最初の標的は、吉田喜美子という名の女だった。

金崎郁子も許しがたい母親ではあるが、吉田の場合はもっとひどい。

吉田はさる有名な宗教団体の信徒なのだ。

日本の政治に影ながら癒着し、この国を腐敗させる元凶となっている。

もちろん世間的には公表していないが、ほとんど公然の事実として知られていることだ。

"魔王"に指示されるよりも前から、吉田については鉄槌を下してやらねばと考えていた。


吉田はアイスアリーナの近くで喫茶店を営んでいる。


もうすぐだ。


殺害方法は単純明快。

"悪魔"は懐に潜ませた小瓶を握り締めた。

劇物の作成法は"魔王"から教えてもらった。

たとえば店のなかに放り投げるだけで、空気と混ざった液体から死をもたらす煙が発生するのだという。

吉田だけではなく、吉田の店にいる――どうせ同門だろう――客たちも一掃できる。

最高ではないか。


それにしても"魔王"は考えている。

フィギュアスケートの大会が終わった直後のこの時間を選んだ。

会場から出るだけでも一苦労だった。

愛国心のなんたるかもしらない有象無象どもが、続々と吐き出されてくる。

この人ごみにまぎれて、会場と目と鼻の先の距離にある地下鉄に乗り込めば、なにがあっても捕まることはない。

"魔王"のいいつけを守り、紙袋を席の下においておいた。

茶色の紙袋には偽の"魔王"の指示書を入れておいた。

我々の犯行があくまで金崎郁子に向けられていると警察に信じ込ませるためだという。


会場内では誰とも目を合わさなかった。

席を立ったとき後ろの席の中年の女ににらまれたが、どうせこちらの姿を覚えてはいないだろう。

いまの私はどこにでもいる普通の男なのだから・・・。


・・・・・・。


歩いて十分もすると、レンガ造りの華やかな喫茶店があった。

"悪魔"は残虐な笑みを浮かべながら、通り沿いにある店の窓辺に近づいた。


こじんまりとした店内で、数人の男女がカウンターの向こう側にいる店員と談笑していた。


いた。


あれが吉田喜美子だ。


換気扇を狙った。



死ね。



小瓶を握り締め、振りかぶった。


人を殺すことになんのためらいもない。


初めてではないから。


怒号があった。


後方から人の肉を通して『あいつだ』と舌を巻くような声。


『まてや、こら!』振り返った"悪魔"を指差している。


風体は一見してその筋の者だった。


続々と集まってきているようだ。


がらの悪い声がそこかしこで飛び交う。


・・・なぜだ?


しかし、"悪魔"は冷静だった。


小瓶を懐に隠すと、人の流れに沿って落ち着いて地下鉄を目指した。


切符は前もって買ってある。


取り乱すことなく改札をくぐる。


九時五分の列車。


時間通りにホームに入ってきた。


予定通り悠々と乗り込んだ。


いや、予定通りではない。


吉田を殺し損ねた。


・・・なぜだ・・・なぜ・・・?

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


「取り逃がしただと、ばかやろうがっ!!!」



九時半を回ったあたりで、共犯者の捜索はいったん打ち切られた。

 

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「ダメでしたか・・・」


宇佐美も息を切らしていた。


「おそらく地下鉄でしょう。 電車の到着時刻もあらかじめ調べておいたとしか思えません」
「それにしても、よく吉田さんが襲われるってわかったな?」


宇佐美は悔しそうに首を振った。


「共犯者はあの席に、およそ八時四十分に現れました。
会場から出るだけで十分はかかるとして、犯行予定時刻の九時まで残り十分ですね。
となると最も危険なのは、会場から十分程度の場所にいる人物です。
この混雑ですからタクシーは当てにならないでしょう。 バスも同じです。
地下鉄は八時四十六分の一本を逃すと、次は九時五分まで待たなくてはなりません。
つまり、共犯者は歩いて移動するはずです。
アイスアリーナから歩いて十分程度の距離に住所をかまえるのは、吉田さんだけでした」


後手に回ったとはいえ、権三の部隊の動きは迅速だった。

すぐさま吉田喜美子の喫茶店まで急行し、カーキ色のコートを着た男を目撃したという。

堀部が忌々しげな顔をして言った。


「すみませんね、坊っちゃん。 ふがいないとこみせちまって」
「いえ、よくやってくださったと思います。 父にもそう伝えておきますので」

 

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「あの、逃げた男を目撃した方にお話を聞きたいのですが」
「わかりやした。 おいっ、このタコ・・・!」


おれにへつらっていた態度が、下々の者に対しては一変する。

宇佐美は、堀部にタコと呼ばれた男と話しこんでいた。

しばらくして、質問も終わったようだ。


「じゃ、自分らは報告もありますし、撤収しますわ」


おれも礼をして、連中を見送った。


「・・・残念ですが・・・」
「どうした?」
「聞けば、一瞬のことだったそうです。
カーキ色のコートを着た男を見つけたと思ったら、いきなり喫茶店に向けてなにかモノを投げるような姿勢を取ったんだそうです。
顔はよく見えなかったが、年齢は三十くらいで痩せている印象だったということですが・・・」


そこでため息が出た。


「それだけじゃ、厳しいな・・・カーキ色のコートなんて誰でも着てるし・・・」
「惜しかったのですがね・・・」
「振り出しに戻るというわけか?」
「いいえ、浅井さん」


宇佐美は首を振った。


「まだ手がかりはあるはずです・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 

 


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「ったく、なんだよこんな時間にー」
「いや、ホントすんません」
「ボク、これから録画したスケートのテレビ中継見ようと思ったのにぃ」
「みんなで見たほうが楽しいじゃないすか」


「それにしても、栄一お前、今日も見にいったんだろ? 生で見たのに、テレビの録画もしてたんだな」
「もちろんだよ。 解説聞きたいもん。
会場内でも専用のラジオ貸し出してて、それで解説聞けるけど、テレビとは別の解説者だから」
「ふーん」


ひょっとして、共犯者の顔が映っているかもしれない。

宇佐美はそう言った。

たしかに、あの席は一番リンクに近かった。

前の観客の頭を気にすることなく試合に集中できる。

その分、カメラに顔が映っている可能性は高い。


「はい、コレ録画したDVDね」


栄一からディスクを受け取ると、専用のデッキに差し込んだ。

三人でテレビの前に近寄ると、しばらくして映像が流れた。


「・・・んっ、ああっ、あっ、いいっ・・・!」


「・・・・・・」


AV女優と思しき女体が画面いっぱいに激しく揺れていた。


「お前さ・・・」
「ごめん、本日の一発ギャグ」

 

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「・・・っ」


驚いたことに、宇佐美が恥ずかしそうにうつむいていた。


「はい、本物はこっち」
「これもネタじゃねえだろうな・・・」


DVDを入れ替えてセットした。


「今度は本物だったか・・・」


今日いやというほどうろついた会場の客席が俯瞰(ふかん)で映っていた。


「じゃあ、ボクの解説を交えて最初からいってみよー」
「あ、八時半くらいからのを最初に見たいです」
「ええっ!? 八時半ったら最終グループの選手たちだよ?
いきなりメインディッシュをいただこうっていうの!?」
「八時四十分くらいすかね・・・瀬田真紀子さんという方からお願いします」
「なんなのさ、瀬田のファンなの?」
「いや、まあ・・・」
「たしかにねー、瀬田はいい演技してたと思うよ。
でもね、なんつーの、無難すぎたんだよねー。 そりゃミスはなかったけどさー」


栄一のうんちくをよそに、リモコンを操作して、瀬田の演技まで画像を飛ばした。

瀬田はたしかに愛らしい女性だった。

花音の外人のような体型とは対照的に、背が低く、丸顔で笑うとどこかのマスコットキャラクターのようだった。


「あー、そこダブルだったんだねー、トリプル狙わないと花音に勝てないでしょうが瀬田ちゅわん・・・」


野球観戦中のおっさんみたいにだらしなく寝そべっていた。


「・・・・・・」


一方で、宇佐美は押し黙って、食い入るように見つめていた。

いったい何台のカメラを回しているのか、めまぐるしくアングルの変わる映像だった。

客席のはるか上方、空中に鉄線かなにかで吊られたカメラが忙しなく動き回っていたのを思い出す。

 

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「す、トーップ!」


思わず、一時停止ボタンを押した。

ちょうどアクセルジャンプのための踏み切りに差し掛かっていた瞬間だった。

瀬田の後方、広告の張られたフェンスの向こうに、目当ての人物がいた。


「ちょっとなに止めてんの!」
「おっさんはちょっと黙ってろ」
「なにぃっ!」


宇佐美が静かに言った。


「カーキ色のコート・・・この人ですね」
「少し進めてみるぞ・・・」


男はなにやらうつむいて、座席の下に腕を伸ばしていた。

直後に男が立ち上がる――が、カメラのアングルが変わってしまった。

次にカメラが同じ場所を映したとき、すでに客は無人だった。


「拡大してみようか・・・?」
「できるのであれば」
「やり方はいまいちわからないが、まあネットで調べてみる・・・」


「ボクわかるよ」
「あ、マジで? じゃあ頼んだ」
「でも、教えてあげない・・・おっさんとか言うヤツには教えてあげない」
「わかったよ。 コレが終わったらノリコ先生との復縁を計画してやるから」


「自分も協力しますんで」



「なんだよ、二人して・・・そこまでいうなら仕方ないなー」



・・・。

 

二人を書斎に入れたくなかったので、ノートパソコンを持ってリビングで作業した。

ツールを使って栄一のいう手順どおりにことを進めると、画像に手を加えることができた。

"魔王"の共犯者・・・カーキ色のコートの男が次第に鮮明になっていく・・・。


「なんとまあ・・・」


引きつった顔でぼやいた。


「見覚えありか? まさか・・・?」


宇佐美が夜の港で出会った男。


「そのまさかです。 急ぎましょう」


「え? ちょっとどこ行くの!?」
「ちょっくらセントラル街のバーで飲んでくる」
「ボクお酒飲めないんですけど?」
「そりゃ残念だな。 じゃあ、これにてフィギュアスケート鑑賞会は解散だ」
「なんかよくわかんないけど、ノリコ先生のことは頼むよ?」


「それは任せてください。 邪悪な計画を練り上げておきますので」


おれたちは部屋を飛び出した。




・・・。

 

外は肌を刺すように冷たい風が吹いていた。

 

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「浅井さん、車を出していただけると・・・」
「あ、ああ・・・」
「どうしました?」


ふらついて、手近な電柱にもたれかかった。


「カゼでもひいたんだと思う・・・」
「だいじょうぶですか? 最近、よく体を壊されるような気が・・・?」
「平気だ・・・」


おれは携帯を取り出した。


「どちらに電話を・・・?」
「権三だ。 人を増やしてもらう。  犯人を逃がさないようにしなくちゃな・・・」
「わかりました。 運転は控えたほうがよさそうですね。
少し休んでください。 自分はタクシーでも拾って行きますんで」
「ああ、すまん・・・あとから追いかける。 場所を教えてくれ」

 

・・・。

 

・・・・・・。



ずきずきと頭が痛んだ。

 

「では・・・」
「ああ・・・」


宇佐美は寒さをものともせずに走り去っていった。

 

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「・・・・・・」


宇佐美もなかなかがんばっているな・・・。

さて、と・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

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「もう、そのバーには近づかないほうがいいでしょう」


"魔王"が電話越しに言った。

"悪魔"は寒風に肩を狭くしながら、セントラル街を逃げるように歩いていた。


「それにしても、浅井花音と暴力団がつながっているというのは本当だったんだな」
「ええ、彼らは影ながらスケート会場の警備をしていたというわけです」
「連中をまくのは簡単だった。 しかし、わからないのはなぜ私だと気づいたんだ」
「ふむ・・・」


"魔王"が考えるように一息置いた。


「可能性の一つとして、知らず知らずのうちに人の目を引くような行動を犯してしまったとか。
たとえば、演技中に席を立ってしまったり・・・」
「ちょっと待て、演技中に席を立つだって?」


"悪魔"は目の前の歩道の段差につまづきそうになった。


「マナー違反なのか?」


"魔王"は不意に口を閉ざした。

その反応に、悟った。


「すまなかった。 そういえば後ろの席の女に悪態をつかれたような気がする」
「あなたも急いでいたのでしょう。 気が回らなかった私の不注意です」
「いいや、お前はきちんと指示してくれていた。
紙袋を置く瞬間を誰にも覚えられてはならないと。
滑走前の選手の練習中、観客が休憩しているときを狙えと。
そもそもあの殺人の指示書は、"魔王"が置いたものだと誤認させなくてはならなかったのだからな」


うかつさに頭を抱えたくなった。

ささいなミスから、革命の第一歩が失敗に終わった。

"魔王"も落胆したことだろう。


「どうも、申し訳なかった」


"魔王"がそれを口にしたので、言葉に詰まった。


「あなたを危険な目に合わせてしまった」


胸が詰まった。

熱いものがこみ上げてくる。

誰かに頭を下げられるなんてここ数年記憶にない・・・。

"悪魔"は電話の向こうの寛大な心を持った男に言った。


「"魔王"、次の指示をくれ・・・」


声には忠誠に近い響きがあった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


約一時間後、おれは宇佐美のあとを追ってようやくバーにたどり着いた。

薄暗い店内には客はなく、宇佐美とすでに到着していたヤクザ連中が店主に聞き込みをしていた。

 

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「わかりました・・・では、見かけたら連絡してください」


ヤクザ者に怯えきっていた店主は、宇佐美も仲間だと思ったのか、素直にうなずいていた。


「どうだった?」


宇佐美に尋ねる。



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「・・・残念です、もう一歩のところだったのですが。
逃げられました。 不意に電話がかかってきたと思ったら、店を出て行ったそうです。
わたしが着くちょっと前のことです」
「名前は? バーのマスターなら名刺くらい渡してるかも」
「それが、無愛想なお客さんらしくて、自分は革命家だと名乗ったっきりで、いつも一人で飲んでるんだそうです」
「革命家・・・?」


思いあたって言った。

そういえば、"魔王"の脅迫状には、なんらかの思想を匂わすような箇所があったな。


「まあ、相手の人相まで割れたんだ。 あとは時間の問題だろう」


この街で、浅井権三の組織の目から逃れて暮らせるわけがない。

借金に追われるおれと母さんはすぐに見つかった・・・。


「今日のところはこれまで、ですかね・・・」


納得がいかないようだった。


「共犯者を見つけたところで、"魔王"にたどり着けるのでしょうか」
「もっともだが、いまはそれしか打つ手がないじゃないか」
「それです」


ぴしりと言った。


「どこかで打開しなくては・・・。
いつまでも"魔王"の敷いたレールに乗っていたら、我々は地獄行きです」


あくまで真剣な宇佐美に、つい聞いた。


「"魔王"は、そこまで恐ろしい男だと?」
「脅迫状の文面に騙されてはいけません。 先日、身代金を奪われたことを忘れましたか?」
「あれは・・・こう言っちゃあなんだが・・・。
相手がおれたちのような一般人だから通じた手口じゃないか?」
「警察相手には通じないと?」
「今回だって、"魔王"は警察との対決を避けているわけだし」


宇佐美は目を閉じて首を振った。


「マジシャンは別にマジシャンを相手に商売しているわけではありません。
"魔王"は観客の程度というものを心得ています。 つまり、我々は遊ばれているということです」


・・・まあ、そうとも言えるな。


「それが証拠に、"魔王"は物証には細心の注意を払っています」
「これまでの物証といえば・・・"魔王"からお前が受け取ったという携帯電話と、今回の脅迫状か・・・?」


たったの二つ・・・?


「たしかに、あの使い捨ての携帯電話からはアシがつかなそうだが・・・」
「脅迫状もそうです」
「わざとだというのか?」
「すべて、万一脅迫状が警察の専門家の手に渡った場合を想定してのことです」
「筆跡鑑定とかいうヤツか?」
「それだけではなく、言語心理学の専門家が文章から犯人の特徴を分析します。
出身や国籍、性格やIQなんかも割り出せるんだそうです」
「・・・あえて、つまらない人間を装っていたと?」

 

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「なにが、ゲーテつながりですか。 なにが、鼻紙に使わせてもらった、ですか。
某世紀末アニメの第一話に出てくるモヒカンですら、こんなもん鼻紙にもなりゃしねえと言いますよね?」


言いますよね、とか聞かれてもそんなマニアックなセリフ知らねえし・・・。


「なら、なんで手書きなんだ。
警察が脅迫状を分析する可能性を考慮しているなら、最初からパソコンで書けばいいじゃないか?」
「だからこそ、わたしは、まず罠だと思いました。
そして、この文章には必ず仕掛けがあるのだろうと。
手書きでしかありえない細工がほどこしてあるのだろうと」


認めざるを得ないものがあった。


「実際、その通りで・・・文字の痕跡をあぶりだしたわけだな・・・」


そして、危うく人が死ぬところだったわけか。


「"魔王"はいずれ警察と戦うつもりなのでしょう。 そうとしか思えないほど慎重です」
「なら、今が、"魔王"を捕まえる絶好のチャンスだな」


宇佐美もおおきくうなずいた。


「なんのつもりかわかりませんが、"魔王"はわたしのような取るに足らない人間と遊んでくれています。
その慢心につけこむ余地があればいいのですが・・・」
「いや、今回はお前だけじゃなくて、権三もいるぞ」
「はい。 もう一度言いますが、"魔王"は観客の程度に合わせたマジックを用いてくるでしょう」
「それは、つまり・・・?」


宇佐美は息を呑んで、鋭い目つきになった。

 

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「椿姫のときより、大きな被害が出るということです」


・・・・・・。

 

・・・。

 



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「花音、昨日はおめでとう」
「うむっ」
「余裕でファイナル進出が決まったわけですが、勝利のご感想は?」
「んー、正直、フリーがいまいちでした」
「あ、そうなんだ。 やっぱりプログラムが悪かったのか?」
「はてー」


首をひねった。


「みんなはそう言うね」
「お前はそうじゃないと?」
「とにかくのんちゃんは、完璧だったよ。 のんちゃんは悪くないです」
「まあ、いまから曲を変えるわけにはいかないんだろ? だったらやるしかねえな」


おれに言われずとも、そんなことはわかりきってるんだろうが・・・。


「じゃあ、練習いってきまーす!」
「んじゃ、おれも学園行くかねえ・・・」


大会を連続で控えている花音は、年が明けるまではほとんど登校しないようだ。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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「ハヨザイマース」
「おう、てっきり今日も休みかと」
「この前さりげなくさぼってしまったんで。 本当なら例の共犯者の行方を追いたいんですが・・・」
「いま、権三が血眼になって探してるよ。
組が面倒見てるクラブや金貸しのケツ叩いてる。
クラブはホステス通して顧客に、金貸しは債務者に写真ばらまいて・・・あれじゃ、犯人は家から一歩も出られねえよ」
「・・・朗報を待ちましょう」


席につくと、宇佐美は考え込むように手の甲で机に頬杖をついた。

 

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「おい、京介ー」
「おう、栄一。 昨日はサンクス」
「んなことより、ちゃんと約束は果たせよ?」
「えっと?」
「あー、コロス」
「ああ、ノリコ先生を陥落する計画ね」


・・・無理だと思うんだがなー。


「んー、あの人、好きな人がいるらしいぜ」
「んなことは知ってんだよ」
「じゃあ、無理じゃん」
「オメーよー、だったら相手の野郎をコロス策を練るのがオメーの仕事だろうが」
「たとえ相手の男を殺したとしても、お前が選ばれるとは思えんのだよ」

 

 

・・・。



 

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「ねえ、ちょっと宇佐美さん聞いてよー」
「はい、聞いてますよ。
教室に来る前に職員室によってノリコ先生とお話してきました。
いまつきあって一ヶ月目だそうです。 よって無理です」


「無理だな、いまが一番楽しい時期じゃねえか」


「なんだよてめえら・・・」


栄一の顔が激しく歪んだ。



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「利用するだけ利用してポイかよ。 そんな程度だったのかよ、チクショー」
「落ち着いてください栄一さん。 此度の件、誠に申し訳なく思っております」
「そうだよ、邪悪な策を用意しておくって言ったのにぃっ!」
「ですから、代替案を用意しました」


「ん?」


「わたしの友人を紹介しましょう」
「は? なにそれ?」
「栄一さんは年上の女性がお好きですね?」
「まあね」
「ノリコ先生もそうですが、ロングがお好きですね?」
「黒髪ロングがベストだね」
「当然、身長が高い方がいいわけですね?」
「頭もよくなきゃダメだよ。 ボクとつりあうくらい」
「なるほどなるほど」
「あと世話好きじゃないとダメ。 ボクの話を聞いてくれる人じゃないと」
「めちゃめちゃ聞き上手ですよ」
「ホント?」


もう、浮いた顔になっていた。


「近々ご紹介します。 それでどうかご勘弁を」
「まあ、モノによるねえ。 キミを許すかどうかは」
「わかりました。 ではそのうちに・・・」
「(よっしゃー、なんか期待できそうだぜー)」


すっかり機嫌を取り戻した栄一は、スキップで去っていった。

 

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「おい宇佐美、お前の友達って、まさかあの時田とかいうモデルみたいな女じゃ?」
「はい。 それが精一杯でした」
「たしかに美人だし、栄一も喜ぶんじゃねえかな」
「・・・だと、いいんですがねえ・・・」


なにやらひっかかるものがあるようだった。


「ちゃんと電話したのか?」
「いえ・・・しなきゃなーとは思ってるんですがね」


どうやら本当に苦手らしいな。


・・・・・・。

 

・・・。

 


「あー、ミキちゃん、おひさし、うんうん元気してる。 最近忙しくってさー」


昼休み、おれは電話に忙しかった。

近頃どうにもトラブルが多い。

いまも、あるクラブのワインの仕入れ先をどこにするかで揉めていた。

浅井興行のテリトリーを犯してくる連中がいる。

少し、権三に聞いてみないとな。

 

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「みんなでスケート観てたんだけどね、広明もはしゃいでたなー」


相変わらず椿姫は明るい。


「いや、まったく。 あのぶんじゃ、世界は確実だな」
「だからお前は観てねえだろうが」
「これでも栄一さんからDVD借りて観たんですよ、昨夜」


・・・本当かねえ。


「あー、椿姫。 大事なこと忘れてたんだが、あの携帯、まだお前が持ってるよな?」
「携帯って・・・ああ、うん」


"魔王"から届いた携帯電話だ。


「明日にでも返してくれ」
「またなにかあったの?」


不意に、椿姫の表情が曇る。

 

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「なにもないでもないでもない」
「え? どっち?」


「宇佐美をまともに相手にすると疲れるぞ」


椿姫はおれと宇佐美を交互に見た。


「なにかできることあったら言ってね」


感づくものがあるのに、あえて黙っているような態度だった。


「ああ、広明くんのことだけど、来年から小学校・・・」


てきとうに他愛のない話をして、午後を乗り切った。


・・・・・・。

 

・・・。

 


学園が終わると、すぐさま権三とアポを取った。


・・・・・・。

 

 

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「どうも、お疲れ様です」


門番らしき黒服に声をかけ、家の敷居をまたいだ。

庭にも一人、がたいのいい男が彫像みたいに固まって警備していた。


・・・・・・。

 

礼をして畳に座ると、権三が言った。

 

 

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「新鋭会だな」
「・・・新鋭会・・・彼らが、幅をきかせてきていると?」


新鋭会は総和連合のなかでも屈指の武闘派集団だ。

詐欺、恐喝にも手を付けず、麻薬も御法度。

頭が固いのかわからないが、妙に筋だの仁義だのとうるさい連中なのだ。

人数も少ないが、それだけ組織の結束は固い。

当然、富を築くためならなんでもありの権三の組と同じ船に乗れるはずがなかった。


「年末に、連合の老人どもを交えた集まりがある。 それに向けていきりたっているのだろう」


老人ども・・・すなわち、総本山の頂きに君臨する方々だ。

浅井権三には、本当に怖いものなんてないようだな。


「損害はでているのか?」
「いまのところは平気ですが・・・昨日、セントラル街の飲み屋で乱闘がありまして・・・。
まだ、新鋭会の方々とはっきりしたわけでもないんですが・・・」


言いながらおれは恐怖していた。

権三の顔から表情が消えていったからだ。


「よし、潰す」


ある組が仕切っている店で、他の組の者が迷惑をかけた。

本当ならいまごろ組の幹部あたりが指を持って頭を下げにきてなくてはならない。


「差し出がましいとは思いますが、先ほど情報屋から妙な噂を聞きました」
「・・・・・・」
「どうにもロシアのほうの筋から、総和連合のどこかの組織に大量の武器が流れているとか・・・」


けれど、権三は、目でおれを黙らせた。


「ヤツらは百匹にも満たない。 こちらは一千を越える。
たとえ獲物が短機関銃を乱射しても俺は言う。 まだまだ死ね、屍が盾になると」


黙ってうなずくしかなかった。


「お前は"魔王"を探せ。 人もいままでどおり割く」
「了解しました」


もう話すことはなかった。

 

・・・・・・。

 

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権三の前を離れてようやく人心地がついたころ、携帯が鳴った。

相手は、母さんだった。


「ああ・・・うん、どうしたの?
え? 具合が・・・? 困ったね・・・うん、そのうちそっちに行くから・・・大事にしてよ・・・」


通話は長く続いた。

 

・・・なんてことだ。

 

今すぐにでも、母さんのもとに行きたい。

しかし、権三になんと言ったものやら・・・。

権三は"魔王"を探せと言ったのだ。

母親が容態を悪くしたからといって、それがなんだというのか。


くそ、権三め・・・。


おれは自分の小ささに苦痛を覚えながら、帰宅の途についた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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早めに帰ってきた花音と夕食をともにした。



「どしたの、ぼんやりして」
「・・・・・・」


母親のことを考えていた。

おれはよほど重い表情をしていたようだ。

花音は、そんなおれに気づいたのか、踏み込んでは来なかった。

 

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「まあいいや、あのね兄さん、聞いて」


それは、気づかいではなく、厄介ごとに首を突っ込まない花音流の処世術なのだろう。


「のんちゃん、明日オフなのです」
「休みなのか?」
「だから、守って」
「守る?」


花音は、困ったように口をへの字にしてみせた。


「いっぱい来るの。 テレビの人、雑誌の人、企業の人。
なんでのんちゃんの休みとか知ってるのかなー」
「ちゃんと対応してやれよ」
「いまの時期はさすがにお断りしてるんだよ。 でも来るの。
忙しいところすみません、みたいな。 仕事のことじゃなくて個人的にファンなんで、みたいな」


・・・そうやってご機嫌をうかがって、後々仕事につなげるんだろうな。


「つまり、遊んでくれってことか?」
「兄さんと遊ぶの一年ぶりくらいだよ」
「そんなに遊んでなかったか・・・でもなあ・・・」


まあ、学園はさぼってやってもいいが・・・。


「いっしょにいるぶんにはいいぞ。 派手に遊んだりするのはナシだ」
「千葉の遊園地はダメですか?」
「あんなところに行ったら、どんだけ写メ撮られるかわからんぞ?」
「じゃー、どーするの?」
「なにがしてえんだ?」
「わかんない」
「わかんないってなんだよ。 練習ばっかりで溜まってるんだろ?」
「溜まる? なにが溜まるの?」
「いや、ストレスみたいな・・・遊びたい、みたいな」
「へー」


へー、て。


「まあ、ここでゴロゴロしてろよ。 映画見たり」
「映画ね。 うん、なに見る?」
「どういうのが好きなんだ?」
「んー、わかんない」
「意外にラブストーリー路線とかいいんじゃねえの?」
「ヤダ」
「なんでまた」
「だって、別に大波乱がなくても好きになるもの。
思い出の約束とかしなくても好きになるもの。 のんちゃんは、ちょっと優しくしてもらえば十分好きになるよ」


なんのことを言ってるのかよくわからなかった。


「・・・んー、じゃあ、泣ける感じのヤツとかどうよ。
なんだったかなー、親子のヤツ・・・母親がすっごいいい人でさー、でも娘がすっごいわがままで・・・」
「ほーほー、じゃあそれ。 借りてきて」


すっごいわがままだな、こいつ・・・。

 

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「じゃあ、寝るー」


ベッドにダイブして、そのまま動かなくなった。


「おい、服着替えろよ」


しかし、返事はなかった。

おれも今日は早めに休むとするか。

ここのところ、妙なカゼをこじらせてて、たまに頭痛が襲ってくるからな。

 

・・・。


・・・・・・。

 


暗い部屋で、おれは、一人、写真を見つめている。


「宇佐美、ハル・・・」


その名を呼んでみると・・・こめかみが鈍く痛む。


宇佐美・・・宇佐美、ハルか・・・。


その名を、おれは知っていた。


もし、同姓同名でなければ・・・。


宇佐美の父こそが、おれを、家族を破滅させた張本人だ。

 

 

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おれには、父さんと母さんの他にも、血を分けた家族が二人いる。


いや、いた。


一人は生後まもなく心臓の病で死に、もう一人は留学中にテロ被害にあって死んだ。


父さんは、いまや暗い牢獄のなかで刑の執行を待つ身。


母さんは、遠い北海道の地で心の病をわずらっている。


そしておれは、鮫島の姓を捨て、浅井と名乗り、身辺を一新させたつもりになっている。


幸せとは、いったいなんなのだろうか。


この世には悪魔しかいない。


ならばおれが、"悪魔"の王となり・・・。


「・・・・・・」


いや、馬鹿な考えはやめよう。


宇佐美もなにも言ってこない以上、忘れたいのだろう。


おれが浅井となって過去を捨てた気になっているように、宇佐美も心に期するものがあるのだろう。


話すべきときがくれば、話すか・・・。


珍しくセンチメンタルに、妙なことを考えたせいだろう。


その晩、夢に、遠く離れて暮らす母さんが出てきた。


・・・とても、申し訳なかった。




・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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おれの人生に転機が訪れたのはいつのことだったか。


北海道の寒村。

壁が薄く、窓が二重ではない家。

吹雪が猛然と屋根を叩きつけていた。

母の指先は、薄皮を押し上げるように骨が隆起し、なにより冷え切っていた。

その夜はいつものように身を寄せ合って、寒さと暗闇に耐えていた。


「母さん、逃げよう?」


獣のような男に乱暴された母は、しかしゆっくりと首を振った。


「あんまり引越しが続くと、お友達もできないでしょう?」
「友達なんてどこでもたくさん作れるよ」
「無理しないの」
「母さんこそ、無理しないでよ」


げっそりとこけた頬にそっと手を添えた。

不意に冷たい風が室内に飛び込んできた。

はっとして布団から身を出すと、戸口に熊のような大男が立っていた。

カンヌだった。


「京介、だいじょうぶか?」


あろうことか、おれの体を心配しだした。

日中に意識が飛ぶほど痛めつけてくれた人間の口から出る言葉ではなかった。


「すまんかったなあ、酒飲んでたもんで、ついな」


カンヌは床にどっかりと腰を下ろし、持ち込んできた酒をあおり始めた。

我が物顔でおれと母さんの唯一の居場所に入り込んでくるカンヌに、おれは恐怖を覚えた。

殴られた背中や腰が、ずきずきと熱をもってうずき始めた。


「こわいか、京介? 明日になったら病院に連れてってやるべ」


母さんが、口を開いた。


「出てってください」
「すまんかったって。 このとおりだべ」
「京介が、怖がっています」


怖いのは、母さんもいっしょだった。


「なあ、仲良くするべ。 俺は京介の新しいお父さんになりたいんだわ」


その言葉をおれは生涯忘れることはないだろう。

カンヌはいま思えば、典型的な酒乱だった。

酒に呑まれ、暴力を振るまう。

酒が引けば、媚を振るまう。


「少しでも反省なさっているなら、京介に温かい飲み物でも買って与えてもらえませんか?」
「いまは吹雪だ。 どこの店もしまってる」


たしかに雪の勢いはすさまじいものがあった。

しかし、家のすぐ脇にある自動販売機は雪に埋もれてはいなかった。

カンヌが一升瓶をラッパ飲みする。


「あったまるぞ、京介」


酒の口をおれに差し向けてきた。

口臭とアルコールの匂いにめまいがした。


「やめてください・・・!」
「いいじゃないか、親子で酒を酌み交わそうってんだ」


間に入った母さんの手を振り払うと、カンヌは濁った目でおれを見据えた。


「飲め。 遠慮すんな」


おれは強張った唇を、必死に閉ざした。

肌があわ立つ。

目の前に突き出された酒瓶の口には、カンヌの唾液がびっしりとこびりついて艶だっていた。


「飲まんと母さんが困るぞ。 俺たちは家族だべ。
大黒柱の父親に見捨てられたら、お前ら生きていかれんべ?」


母さんの悲鳴が上がった。

おれをかばい、おぞましい大男を遠ざけようとしている。


「わかった! わかったから!」


とっさに酒瓶に腕を伸ばした。

けれど、酒のたっぷりとつまった瓶は異様に重く、慌てて手が滑った。

鈍い音がしたときには、瓶が床に横になっていた。

古ぼけた畳に染みていく液体を目で追っていると、耳元で声がした。


「お父さんの酒だべ・・・」


身構えようとしたが、すでに胸倉を締め上げられていた。


「なんま腹立つわ、京介。 父さんがせっかく仲良くしようと思ったのに・・・!」


苦痛と、恐怖と、それ以上の怒りに耐えかねるものがあった。


「ふざけんな! お前なんか父さんじゃない!」


直後、体が浮いた。

顔面に痛みが走って、目の裏で火花が散った。

母さんの絶叫が耳を突く。

床にうつぶせになる格好で、頭を押さえつけられていた。


「なめろ! 酒をなめろ! 父さんのクリスマスプレゼントだべ!」


クリスマス。

それはたしか、家族が愛を確かめ合う、温かい一日だったような気がした。

そういえば、その日はクリスマスだった。

神様はどこにいるのか・・・顔面を酒に浸った畳に突っ伏しながら、そんなことを考えていた。

悲鳴と怒鳴り声が交錯した。

壁が軋んだのは、外の吹雪のせいではない。

顔を殴られた母さんが窓に叩きつけられたのだ。

カンヌはそのまま母さんの髪をつかみ、唾を飛ばして汚い言葉を羅列していた。

何度か、暴力があった。

やがてすすり泣きが耳に届いた。

おれが泣いているのか、母さんが泣いているのか、とにかくもう見てられなかった。


「・・・ごめん、なさい・・・」
「ああっ!?」
「ごめんなさい・・・」


しぼり出すように言った。


「ごめんなさい、お父さん、だろ!?」


心がひどく冷えた。

急速に感情が消えていった。

窓の外の雪が目につく。

ただ無情に降り積もるだけの存在に、心を通わせた。

悔しさも、情けなさも、すぐに覆われていく。


「ごめんなさい、お父さん・・・」


それはおれにとって、新しい身の振り方を覚えた瞬間だった。

心が凍り、なにも感じない。

最後に一度だけ、無感動に願ってみた。


神様どうか助けてください。


言うだけ言ってみたような投げやりな祈りは、しかし聞き届けられた。


戸口が勢いよく叩きつけられていた。

猛吹雪の夜に訪れた客は、ドアを蹴破るように現れた。

 

「邪魔するぞ」

 

堂々と土足で踏み込んだ。

豪雪をものともしない姿が、まるで雪山に住まう猛獣のように見えた。

あとから数人の男がずかずかと部屋に上がりこんできた。

彼らは、コートも羽織っておらず、漆黒のスーツを雪にまみれさせていた。


「逃げられると思ったか?」


冷たい眼で、母さんを見下ろした。

彼らは借金取りなのだと、幼心に理解した。


「な、なんだ、てめえらはっ!?」


カンヌの目が大きく見開かれていた。


「てめえこそなんだ! 若頭(かしら)に向かってなに上等な口きいてんだ、ああっ!?」


突如、一人の黒服がどすのきいた声で叫んだ。


「こちらのお方はなあ・・・」
「おい」


ボスらしき巨漢が一瞥すると、取り巻きは軽く会釈して口をふさいだ。


「あ、あんたら、ヤクザもんか・・・?」


突如現れた男とカンヌとでは、そう体格は変わらなかった。

しかし、滲み出る雰囲気で、ひと目に役者が違うとわかった。


「てめえは、この親子のなんだ?」
「・・・俺は、その・・・なんでもない、他人だ・・・」


さきほどまで父親を気取っていた男が言った。


「払え」
「え?」
「こいつらが払えない分を、てめえが少しでも払え」
「ちょ、ちょっと待てよ! 俺は、関係ねえって・・・」


瞬間、カンヌの頭が跳ねた。

拳が顔面に埋まっていた。

苦痛のうめきが漏れるより早く、耳をつかんでひねりあげる。


「俺が誰だか知りたいか、そうか」


空いている手で横から名刺を取り出した。


「や、やめてくれ・・・!」


名刺の角を耳の穴に押し当てると、酷薄な笑みを浮かべた。

カンヌが白目を剥いた。


「よく、聞け」


穴に差しかかるにつれて細い筒状になった名刺が、ぐりぐりと耳奥に押し込まれていく。


ぎ、が、が、などと聞いたこともないような奇声が室内に響いた。


「あ、あなたは・・・?」


恐怖と高揚感に、つい、口をついた。

おれと母さんの前に山のようにそびえ立っていたカンヌを、一瞬にして沈黙させた。

天使は来なかったが、悪魔が助けてくれた。


「さらえ」


悪魔が、おれのことなど眼中にないといった様子で、下々の者に命令した。

即座に、取り巻きが詰め寄ってきて、引き立てられた。


「ま、待って、なんでもします、なんでもしますから・・・!」


ガキの哀願がうるさかったのか、一発殴られたが、不思議と痛みは感じなかった。


「教えてください・・・!」


その強さを。


「どうか、おれも、仲間に入れてください・・・!」


学校には友達が一人もいなかったことが、ふと頭をよぎった。

この人についていけば、もう誰からも蔑まされることもないのではないか。

母親を守れるだけの力を身につけられるのではないか。

恐怖よりも、期待が上回っていた。

我を忘れていたのは間違いない。

張り倒され、足蹴にされても苦痛を感じなかった。

きっと、おれは神を崇めるような目をしていたことだろう。


やがて、悪魔が言った。


「金を返せるか?」
「お金?」
「大金だ」
「払います」
「嘘つきだな、貴様は」
「え?」
「借金がいくらなのかも知らんくせに、よく言う」
「すみません」
「嘘をついてもかまわんが、嘘が発覚したときは許さんぞ?」
「・・・はい」
「俺の群れに加わりたいだと?」
「お願いします!」
「なら、母親をおいて、俺と来い」
「母さんを、置いて・・・?」


できるわけがなかった。


「その女はしばらく札幌にでも送る。 どの道お前らはいっしょには暮らせない」


有無を言わさぬ物言いに、しばらく逡巡した。


「お前もどうせ、どこかの施設に預けられる」


このときのおれにとって、悪魔の言葉は絶対だった。

彼がそう言うのなら、間違いなくそういう運命にあるのだと信じた。


「母さん・・・」


目が合った。

いまにして思えば、すべてをあきらめて受け入れたような、疲れた目をしていた。


「母さん・・・」


か細い首が、否定の意を込めて、静かに揺れているだけだった。

絶え間なく続いた悲劇に、もう限界だったのだろう。

おれも、もう、あとには引けなかった。


「連れて行ってください、お願いします」


すると、分厚い唇から低い笑いが漏れた。


「母親を捨てたか」


・・・捨てたわけじゃない。


「お前は、ものになりそうだ」


断じて、捨てたわけではない。


決意を胸に、浅井権三のあとに続いた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


必ず迎えに行くよ――。







母さんとの別れの言葉は、守られなかった。

 

権三に従って長い年月が過ぎた。

ようやく母さんといっしょに住めるくらいの経済力を身につけたおれは、さっそくその旨を打診した。

しかし、心の病を患った母さんを、こちらに呼び寄せることはできなかった。

担当の医師の話によれば、これまで何度も転居を強いられた母さんが、再び土地を動くことを拒んでいるらしい。

週に一度か二度電話をして、長期休暇に会いに行く程度のつきあいになった。

それが、おれのたった一人の家族だった。

いや、浅井権三という父ができた。

権三が、なぜわざわざおれを養子にしたのかは、疑問が残っている。

身寄りのないかわいそうな少年を拾うことで、当時、組の若頭の地位にいた権三が、組長に対して男気を見せたとも噂されている。

仁義や男気というものを軽んじている権三がヤクザの世界で出世するのに、おれは体よく利用されたのだろうか。

なんにせよ、おれと母さんは離れて暮らしている。

そしておれは、浅井権三という巨魁を前にして、いつも震えている。

権三さえ許せば、すぐにでも母さんの近くに暮らすのに・・・。


権三さえ・・・。

 

 

・・・。

 

 

G線上の魔王【14】

  

・・・。


おれの邪魔はしないと言った花音だが、しかし早朝にたたき起こされるとは思わなかった。



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「おはよ、兄さんっ」


すでに私服に着替えていた。


「いまは五時半です」
「のんちゃんは、いまから出勤です」
「ソファで寝ていたおれの身にもなってくれ」
「ねえ、朝ごはんは?」
「夜中にパスタゆでといたから、てきとーに食え」
「やったー、ありがとー!」


・・・うるせえな、しかし・・・。

ちくしょう、なんだか目が覚めてきやがった。


「ねえ、兄さん、夜中まで誰とお話してたの?」


パスタを皿に盛り付けながら聞いてきた。


「なんだって?」
「電話してたんでしょ?」
「仕事関係だよ」


・・・誰だったかは、おれも忘れた。


「眠れなかったか?」
「ぜんぜん」
「あ、そ」
「そんなことより、のんちゃんミートソース苦手」
「黙れ、食え」
「ヤダ」
「おれがせっかく作ってやったモンを食えんというのか?」
「だって、前から嫌いだって言ってたもん。 兄さんがまた忘れてたんだ」
「ホントかー? おれの忘れっぽさを悪用してんじゃねえだろうな?」
「のんちゃんは、人に嘘はつかないよ」
「気も使わないけどな」
「そんなことないよ、兄さんのぶんもちゃんと取り分けてあげる」
「いや、おれ腹へってねえから・・・」

 

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「黙れ、食え」
「寝起きで胃が重いのよ」
「せっかくのんちゃんが、よそってあげたモンを食えんのかー?」


ずいぶんと騒がしい朝になった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

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「見送り、大儀じゃった」
「へいへい」
「ついでにスケートリンクまで送ってくれたまへ」
「いやでござる」
「あははは、ござるとか言うなよー」


・・・たまに茶目ッけを出すと、みんなどうしておれのことを馬鹿にするんだろうな・・・?


「ストーカーがいるんだよ」
「いきなり物騒だな」
「いきなりカメラ撮られたりするの」
「む・・・」
「練習帰りに会場の外で待ち伏せしてたこともあるよ」
「お前は有名人だということをもう少し自覚したほうがいいな」
「え?」


不意に、目を丸くした。


「のんちゃんが、悪いっていうの?」
「いや、悪かぁねえけど・・・なんつーのかな、目立つと注目されるわけで・・・」
「別に怖いことされなければ、写真ぐらいいいよ。
でも、ねちっこいのはイヤ。 ねちっこい人が悪い」
「・・・わかったよ、パパに言いつけてやれ」
「もう言った」


・・・そいつは、死んだな。


「まあ、セントラル街の近くまで送ってやる。 そこからタクシーを拾え」
「ありがとっ!」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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花音をタクシーに放り込んで、ようやく一息つけた。

まったく、身がもたないな。

頻繁に頭痛も襲ってくるし。


・・・えっと、なんでセントラル街に来たんだっけか。


「・・・・・・」


そうだ、今日は秋元氏のカウンセリングを予約してたんだ。

・・・だいじょうぶか、おれは。

まだ早い時間だったので、喫茶店で新聞を読みがてら時間を潰した。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「やけに顔色が悪いね」


正面で、秋元氏が豊満な体を揺らした。


「あまり寝てませんで・・・」
「寝てない? 寝られないのかい?」
「いや、夜中に妹が泊まりに来ましてね」
「じゃあ、寝ようと思えば寝られるんだね。 なら良かった」


・・・どうやら、重要な質問だったらしい。


「しかし、君の妹さんはすごいねー。 僕も応援していると伝えておいてください」
「はあ・・・」


そっけなく相づちを打つと、秋元氏が身を乗り出してきた。


「さて、前回はどこまで話したっけ?」
「自分の初恋についてだったかと」
「ぜひ聞かせてもらおうじゃないか、下手な冗談は身を苦しめるよ?」


にんまりと笑った。


「お父さんの話だろう?」
「いいですよ。 その話は」


顔を背けた。

汗の滲んだ手で、差し出されたカップをつかんだ。


「鮫島京介くん」
「なんです!?」
「にらまないでくれよ」


おどけるような態度が気に入らなかった。


「いいですか? おれはもう、そのことは考えないようにしてるんです。 そうしなければ、やっていられないからです」
「だろうね」
「だろうねって・・・!」


唇がわなないていた。


「あなたそれでも高名な医者なんですか!?
患者を挑発するような真似をしていいんですか!?」


しかし、秋元は平然としていた。


「だって、君はちゃんとした患者さんじゃないんでしょ?
学園をさぼる口実を作るために、ここに通ってるわけでしょ?」


・・・この野郎・・・。


「そのとおりです。 だから、てきとうに雑談でもしませんか?」
「君は目立つのが大嫌いだろう?」
「・・・なんですか、いきなり」
「さんざん世間の注目を浴びたわけだからね。 そうか、人の目が怖いか・・・」


おれはようやく秋元氏のペースに乗せられていることに気づいた。


「とにかく、もう父のことはよく知りません。 知りたいとも思わない」
「面会にも行ってないのかい?」


責められているような気がした。

親不孝者と、罵られている――!


「・・・一度も」


動機が激しい。


「いや、一度だけ、母さんといっしょに・・・子供のころ・・・しかし、おれは、なにもしゃべらなかった・・・」
「お父さんに、なぜ、あんなことをしたのか、聞いてみたいとは思わなかったのかい?」


押し黙る。


「京介くん?」


黙って、心を凍りつかせる努力をした。

何も感じなくなるまで、母さんと過ごしたあばら家の窓から見える雪景色を思い出した。


そして――。


「聞く意味がありませんから」
「・・・む?」
「なぜ、四人も殺したのか。 理解してどうなるというんです?」
「・・・京介くん?」


秋元が初めて余裕の表情を崩した。

おれが、笑っているからだ。


「しかし、父が人を殺めた真意は、おれにはわかる。
いや、おれだけは、わかっている。

わかってやらねば、父が報われない」


秋元が、眉をひそめた。


「殺されて当然の人間を、当然に殺したまでのことだ」
「京介くん、それは違う・・・」
「違うのはお前らだ。
が、多くは語らん。
お前らに父の潔白を説いても無駄だからだ。
おれはやる。
お前らは身を持って知ればいい」


突如、秋元が立ち上がった。

その瞳に、明らかな狼狽の色が浮かんでいた。


「今日は、ここまでにしよう」
「おや? まだ二十分もたっていませんが?」
「診察料は特別に割引してあげよう」
「それはよかった」


手を振って、悠々と退室した。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 



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「ふー、花音がいないと和むぜー」
「ほんと、学園は和むぜー」
「なんだよ、遅刻してきた分際でよ」
「いつものことだろ」


栄一が我が世の春を謳歌していた。


「今日はよ、宇佐美の野郎もいねえし、マジやりたい放題だぜ」
「ほほう」
「手始めに花音の机に、賞味期限が明日までのお菓子を入れておいた」
「え?」
「するとどうなる?
あいつはしばらくスケートで休みだろ?
帰ってきたときには食えなくなってるわけか?
ええっ? こいつは困ったな兄弟?」


・・・普通に、食わずに捨てるだけじゃねえか?


「しかし、京介ちゃんよー」
「はい?」
「そろそろ、宇佐美に復讐しないといけないんじゃねえか?」
「復讐、すか」
「ほら、あの、職員室に忍び込んだときのことだよ」
「ああー、はいはい。 鍵、盗んだときだな?」
「あのときは、ヤツのせいで、オレたちの完全犯罪が暴かれたわけじゃん」
「いやいやいや、あれはどう考えてもお前が勝手に自滅しただけじゃねえかな?」
「あー、どーすっかなー・・・どうやって地獄を見せてやろうかなー」


ない知恵を、必死になって絞っているようだった。

 

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「・・・ねえ」

 


「あ、白鳥さん、こんにちはー!」


白鳥が屋上に来るなんて、珍しいな。


「よう、白鳥。 学園の件は少し落ち着いてるみたいだな」


学園の理事長・・・白鳥の親父さんが世間や警察から容疑をかけられている件だ。

 

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「私は興味ないから」


興味ないわけがないだろう・・・。


「浅井さんのことだけど」


浅井さん・・・というからには、おれのことじゃなくて、花音のことだろうな。


「花音がどうした?」
「あなたに用はないわ」


一瞥された。


「相沢くん、チケット、どうやって取ったらいいの?」
「え? ビスケット?」
「・・・・・・」
「なーんちゃってー! えへへっ、ボク、甘いもの大好きだからねー」
「気持ち悪いわ」
「(んだと、コラッ!?)」
「インターネットで手に入れられると聞いたんだけど、やり方がわからなくて」
「いつのチケットがいいの?」
「明日の」
「明日のはもう無理だよ。 当日券しかないね」
「当日券は、直接会場まで行けば買える?」
「まず無理だけどね」
「そう」


用件が済んだのか、白鳥は踵を返した。


「おい待てよ、なんでお前がスケート観たがるんだよ?」
「別に。 浅井さんに来てって言われてたから考えてみただけ」


こちらを振り返ることもなかった。


「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ったく、なんだよ、あいつは」
「同感だね。 アイツはオレを怒らせたよ」


寒空の下、おれも栄一もふてくされていた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「じゃあ、明日、何時に会場に行けばいいんだ?」
「本当は昼から全部見てけと言いたいところだが、花音の出番は、だいたい八時過ぎくらいだ。 それまでには来いよ?」
「明日は、ショートプログラムだよな?」
「ああ、あさってのフリーのほうが、本番っちゃあ本番だ」


・・・わざと負けろ、か。


「じゃあなー」


栄一を見送って、ふと、脅迫状を思い出した。

負けるはずがない。

花音は、脅迫のことを知らないのだから。

郁子さんの身辺警備は、権三が固めていると思うが・・・。

宇佐美はなにをしているのかな。

思い立って電話をかけてみたが、通話がつながることはなかった。

おれはどう動くべきか・・・。

どうやったら"魔王"の凶行を止めることができる?

どうも現実に危機が迫っているという実感がない。

おれには"魔王"を捕まえたいという意欲が権三や宇佐美ほどないのだろうか。

すでに人が一人死んでいるというが、正義感が沸き立つようなこともない。

身の回りの人間に危害が加えられて初めて、慌てだすのだろうか。

・・・もし、そうなら、遅いのだろうな。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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革命が始まる予感があった。

"悪魔(メフィストフェレス)"は、セントラル街の奥まった路地にあるバーのカウンターで、"魔王"からの入電を待っていた。

腕時計の針が午後八時ちょうどを差した。

"悪魔"は、携帯電話のバッテリーを入れた。

"魔王"の指示だった。

普段からバッテリーを外す癖をつけておくべきだと。

そうすれば、そう簡単に居場所を追跡されることはない。


"魔王"からの手紙が届いたのは、三日前のことだった。

"悪魔"は大日本革新義塾の代表として、事務所の住所を堂々とウェブサイトに公開していた。

書き出しは、ある人間を殺して欲しい、とあった。

それは、時間と場所の指定まである詳細で緻密な殺人計画だった。

初めはよくある悪戯か共産党の罠かと思われた。

しかし、その後に続く"魔王"の主張――堕落した政治家や第四勢力への批判――を読み進めるう
ちに、並々ならぬ興味を覚えた。

句読点の打ち方が妙であったり単語の誤用が見られたりするところから学識はなさそうだったが、
その激情は"悪魔"の胸を打った。

そして、昨日の深夜に交わした電話のやりとりで、彼が同志であると確信にいたった。

彼は浅井と名乗った。

"魔王"と呼んでくれ、とも。

"魔王"は、電話のなかで、一人の男を殺したと告げた。

マンションの階段から突き落とした。

物陰に隠れて被害者の帰宅を待ち、不意をついて背中を押した。

単純だが、目撃者さえいなければ事故との区別は難しいという。

"悪魔"は、なぜ殺したと聞いた。

その答えが気に入った。


『彼がホモセクシュアルだから』


それは、"悪魔"の主張と共鳴していた。

偉大なる日本に同性愛者のような弱者は不要である。

聞けば被害者は、服飾を専門とするデザイナーで、ゲイであることをカミングアウトしたことで、マスコミの注目を集めていたのだという。

たしかに、死んで当然の人間ではないか。

行動力のある男だと思った。

国を憂う同志が増えたことは喜ばしい。


着信があった。

しかし、相手は無言だった。


「"魔王"か?」


こちらの声を確認するまで口を開かない。

その慎重さも気に入った。


「いい夜ですね」


若い。

が、愛国心を抱くのに年齢は関係ない。


「我々の力を借りたいのだな?」
「一人より二人のほうが、より祖国のために働けます」
「殺すのだな?」
「改革に犠牲はつきものでしょう」
「手紙にあったお前の計画は完璧だ」


"魔王"は、低く笑った。


「計画は完璧だが、まだ私のことを信用なさってはいないようですね?」
「同志を疑うつもりはないが、こういう話は腰をすえてじっくりとしたいものだ。
ひとまず一度会ってみないか?」
「申し訳ありませんが、お断りします」
「なぜだ?」
「お互いの顔を知らぬほうが、公僕の目も欺きやすいというものです」


一理ある。

共犯ではなく単独犯と思わせられるだけでも、警察の捜査を誤った方向に導くことができる。


「しかし、あなたのお気持ちもわかります」


"魔王"が言った。


「もう一人、殺してみせましょう。
それで、私が本気であることを理解していただければと思います」
「誰を殺るんだ?」
「外国人です。 我が国に、彼らの住まう場所などないということを教えてやらねば」
「心意気は賞賛に値する。 英霊たちもお喜びになるだろう」


頭の切れる男ではありそうだった。

意志も強そうだ。

冷たい声に狂気じみたものすら感じる。

問題は"魔王"の背後関係だった。

すなわち、それだけ大胆な計画を胸に抱きながら、なぜ自分を頼ってきたのか・・・。


"魔王"が、見透かしたように言った。


「私は、この殺人の末、声明文を起草して、堕落した日本人に訴えかける所存です。
しかし、私は個人で動いている。
いまの政治では少数意見は必然的に無視されるものです。
私は真に信頼できえる同志を求めていました。
威厳ある組織を。

しかし、どの政治団体も手ぬるい。
どいつもこいつも口だけです。 もはや話せばわかる時代ではないというのに」


口調はやがて力強くなっていった。

次の一言には、"悪魔"の心を震わせるものがあった。


「あなたは違う」
「・・・・・・」
「あなたのウェブサイトに掲げられた主張に確信した。
あなたは英雄だ。 私の声明文を託せるのは、あなたしかいない」


高揚した気分を落ち着かせようと、グラスに口をつけた。


革命の予感があった。


「一人殺すと言ったな。 いつ殺すんだ?」
「明日(みょうにち)です」
「詳しく聞こう」
「ええ、夜は長い・・・」

 


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

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「たっだいまー!」


夜遅く、花音が帰ってきた。


「やっぱり、居座るつもりなんだな。
郁子さんやヒルトン先生の許可は得てるんだろうな?」
ヒルトン先生はあんまりプライベートに関わらないの。
日本語もあんまりできないから、なんか気が楽だよ」
「郁子さんは泊まっていいって言ってんのか?」
「ん・・・OKだって。 明日は車で迎えに来るって」


ならいいが・・・。

どうも体が冷え切っているようなので、お湯を沸かしてやった。

 

・・・。

 

 


「お前、コーヒー飲めるよな?」
「うん、兄さんのコーヒーはおいしー。 でも砂糖は入れないでください」


・・・食い物にも気を使っているんだろうな。


「兄さんって、暗いよね」
「いきなり無礼だな」
「なに考えてたの?」


花音が勝つと死人が出るということを、考えていた。


「いやー、花音はかわいいなーと」


肩をすくめてみた。

また、小馬鹿にされるかと思ったが、花音は目を輝かせた。

 

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「ほんと? 二回目だね。 兄さんに好きって言われるのは」
「好きとか言ってねーけど・・・って、二回目?」
「兄さんと会って最初のころ」
「ああ・・・」


おぼろげな記憶をたどる。

一時期、花音が権三の娘だと知って、媚を売っていたことがあったな。

よく覚えていないが、そんときに、かわいいだの、好きだのとささやいたかもしれない。


「のんちゃんは、のんちゃんが好きな人が好きです」


・・・まさか、真に受けているとはね。

もちろん、おれだってこいつが嫌いではないが・・・。


「兄さんは根暗で、嘘つきだけど、のんちゃんのことは大好きです」
「はいはい」
「じゃなかったら、頼んでないのにコーヒーとか出してくれません。 ご飯も用意してくれません」
「・・・・・・」


・・・なにを馬鹿なことを。


「なんか元気出てきた。 明日はすっごい点数出しちゃうぞー」
「勝手に元気になってよかったな。 四回転もとっとと決めてくれ」
「あれはもうやめた」
「え?」
「今日のテレビ見てなかったの? のんちゃん、インタビューで四回転しないって宣言したんだよ」
「なんだよ、残念じゃねえか・・・みんな期待してたんじゃねえのか? なんつーの、必殺技だろ?」


花音はぷるぷると、子犬のように首を振った。


「あれはやるもんじゃないよ。
男の選手でも腰と膝にずしーんとくるらしいよ。
のんちゃんもカナダで試してみてコイツはヤバイって思った」
「飛んだが最後、その後の演技がぐだぐだになるってことか?」
「イエース」


少し気に入らなかった。


「ちょっと人気が落ちるんじゃねーの、花音ちゃんよー」


栄一みたいなしゃべり方だった。

 

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「んー、みんな新しい技が大好きだからねー」


口をへの字にして困ったように言った。


「でも心配ない。 けっきょく勝てばいいから」
「勝てるのか?
栄一コーチの話しによれば、お前は基本的なスケーティングの評価がかんばしくないとか・・・」
「ジャンプに比べればの話だよ」
「ジャンプねえ・・・」
「四回転を狙わないぶんだけ、トリプルをきっちり決めるから」


たしかに、四回転に失敗して転倒するよりは、トリプルを確実にこなしたほうが、得られる得点は高い。


「転ぶなよー、マジで。 選手がジャンプするときって、客も緊張するんだよなー」
「あれれ? 兄さん知らないの?
のんちゃんは、ジャンプはジュニアのときからほとんど転んだことないんだよ?」
「へー」
「アクセルはちょっとやらかしちゃったことあるけど、序盤のコンビネーションジャンプなんかは一度も転んだことないんだよー」


どうも、こいつはへらへらしてんな。


「ほら、瀬田真紀子さんだっけ? 今年は調子いい日本選手もいるわけだろ?」
「うん、今日、いっしょにインタビューされた。
瀬田さんかわいい。 でも勝つのはのんちゃんなのでしたー」


・・・なのでしたー、じゃねえよ。


「お前ちょっと、油断してんじゃねえのか?」


呆れながら言った。


「転んだことないからって次も転ばないとは限らんだろうが」
「・・・・・・」


不意に、花音の口元が引き締まったので、おれも口を閉じた。

黙り込んでいた花音が、小鼻を広げ、わずかに笑った。

 

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「転ばないよ」



「なに・・・?」


とっさに、息を呑んだ。


「わたしが、負けるわけがないの」


おれを見つめている目に現れた光を、いままで知らなかった。


「五歳のときからスケートやってるの。 バレエも習った。
みんなが遊んでる夏休みに合宿にも行くの。 CMにも出させられるの。 わかるかな?」


こわばった顔に、あるとも見せない呼吸。

押し殺すような語り口には、絶対の自信があった。

 

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「瀬田さんは、インタビューでわたしのことをライバルだと言った。 わたしに勝ちたいみたい。
そんなこと考えてるから勝てないの。 よけいなこと考えたらダメなの。
わたしは普通の学園生であることを求めなかったし、パパが怖い人なのもどうでもいいの。
パパと母さんが一緒に暮らしていないのも、理由があるんだろうけど、あえて聞かないの。
ショックを受けてる暇なんてないから。
兄さんもそう。
いろいろ隠し事があるみたいだけど、聞かれたくなさそうだから、わたしも興味を持たないの。
どうすれば得点が伸びるのか。 わたしはそれだけを考えてる」


感情移入のない平坦なしゃべり方に、思わず背すじが伸びる。

気圧されてしまいそうな眼光は、誰かに似ていた。


「去年の故障を心配するような声もあるけど、よけいなお世話。
テレビの人は視聴率を取るのが仕事。 わたしも数字を取るのが仕事。
誰よりも高い点数を取って、観客をあっと驚かせてあげるの。
感動したければすればいい。 握手もサインもしてあげる。
そんなことより勝利の瞬間がたまらないから、何千、何万回と練習してきた」


・・・忘れていた。


「わかった、兄さん?」


こいつは、浅井権三の娘だった。


「明日は来てね。 それが本当だって教えてあげる」


おれが学園では緊張感のない毎日を送っているように、花音もまたスケートリンクの上に本当の自
分を見出していた。



・・・。

 


花音は、言いたいことを言って満足したのか、いつものでれっとした顔に戻って脱衣所に消えていった。

おれはしばらく、その場に呆然と突っ立っていた。


・・・明日は、嫌でも観にいかなくてはな・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 




あの不敵な笑み。

過剰なまでの自信に溢れた目つき。

超満員のアイスアリーナ内で、おれは浅井花音の真髄を思い知らされることになった。

 

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「ナンバー46。 浅井花音、日本!」


観客席から盛大な拍手が上がった。

割れるような歓声に包まれながら、花音が氷上に踊り出てきた。

企業の広告が張られたフェンスに沿うようにリンクを半周し、やがて中央で静止し、ジャッジに向けて艶めかしい媚態を作った。

息の詰まるような静寂が張り詰める。

内壁に備え付けられた巨大なスクリーンには、花音の顔がアップで映し出されていた。

その表情にまるで別人を見ているようだった。

挑むようなまなざし。

引き締まった唇が計算されたメイクも手伝って、美しさを際立たせている。

普段の花音を知る人間からは想像もできないほど、覇気に溢れていた。

姿勢を落とし、日本人離れした長い右腕を左足の付け根あたりに添える。

まるで、腰元の剣の束に手をかけるような格好。

今から戦いにでも行くのかと思わされた直後、その妄想があながち間違ってもいないことを知った。

 

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踊るような木管楽器の調べから始まったのは、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』だった。

楽劇『ニーベルングの指環』に登場するワルキューレは、戦没した勇士たちを天界の城に導く使命
を帯びていた。

日本では戦乙女とも呼ばれる彼女たちは、鎧に身を包み、剣をかかげ、翼の生えた馬に乗って戦
場に赴く。

ファゴットやホルンが奏でられるころには、花音はまさしくワルキューレのような勇ましさで氷上を疾走していた。

速い、と思った。

他の選手と比べてもスピードが段違いだし、なによりリンクが狭く見える。

フェンスの端から端まで一気に到達したかと思うと、ゆるやかなカーブを描きながら、いつの間にか後ろ向きの姿勢になっていた。

氷を粉砕するような暴力的な破壊音があった。

さながら天馬の馬蹄。

直後、花音の肢体が空中で回転していた。

高く、滞空時間の長いジャンプは、本当に羽でも生えたようだった。

転ぶはずがないと花音は言った。

当たり前のように、着氷は完璧だった。

コマの軸のようにエッジを利かせて半回転すると、優雅に伸びた両手が翼を広げた。

連続ジャンプを終えた花音に豪勢な拍手が浴びせられる。

種類はよくわからないが、おそらく何度の高いジャンプを成功させたのだろう。

芸術的なジャンプであったことは、おれにもわかった。

花音の前に何人かの選手が跳んだのだが、たとえば、踏み切りまでの準備が異様に間延びしてい
たり、回転不足で降りてきて着氷し、氷の上で足を回してさもジャンプが成功したように見せてしまう選手もいた。

花音の場合、まず飛距離が違う。

弾丸のような速度が成せる技なのか。

しかし、たとえばテレビで走り幅跳びなんかを見ていても思うが、助走のスピードが上がれば上がるほど、ジャンプのタイミングは難しくなるはずだ。

かといってのろのろと滑ってきてジャンプされたのでは、素直に拍手は送れない。

失敗した他の選手にしてもそうだが、高さと飛距離を両立させるのは至難の業なのだろうな。

二度目のジャンプも難なく成功させ、花音は進撃を続けていった。

派手な振り付けのステップシークエンスが始まる。

上体の忙しい演技に目を奪われるが、よくよく観察してみると足元は実になめらかだった。

片足だけで細かいターンを繰り返してなお、スピードは落ちない。

優雅かつ正確無比なステップは、まるで戦姫が目にも留まらぬ剣舞を披露しているようにも見えた。

三度目のジャンプ。

今度は前向きに滑ってきてそのまま踏み切った。

氷の削り屑が血しぶきのように弾ける。

大言を吐いただけあって、見ている側としても安心感があった。

転ぶかもしれない、などとは少しも思わない。

見事な着氷を決めた花音に、会場は異様な熱気に包まれた。

が、それまでのような黄色い嬌声はまったく聞こえなかった。

感嘆の吐息と、驚愕のうなり声。

賛辞ではあるが、それは悪寒を覚えるような畏怖からくるものだった。

 

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妖艶だった。

スクリーンに映し出された花音の表情には、鬼気迫るものがある。

神に刃向かう敵勢を皆殺しにするのだ。

そもそも『ワルキューレの騎行』と聞いて、映画『地獄の黙示録』を思い出す客も多いのではないか。

不気味な陽気さを漂わせる指揮官のもと、大音量の『ワルキューレの騎行』にのせて、ヘリの上か
らベトコンの村を機銃掃射するシーンだ。

作曲者のワーグナーの人柄にしてもそうだ。

音楽史に残る偉人であることは間違いないが、その人物は悪名高い。

自己中心的な性格の持ち主で、浪費家なうえに周りは自分のような天才に出資するのが当然だと
決めつけていた。

ニーチェと親交のあった時期もあり、その思想にいたっては後世においてナチに利用されたほどだ
った。

天才ではあるが、暴君でもあった。

非日常的な光景の続く銀盤で、氷上の暴君が圧巻のフィナーレを飾ろうとしていた。

嵐のような回転速度のスピンを終えて、決めのポーズを取った花音。


・・・。


曲が収束すると、一呼吸おいて、地鳴りのような音が会場のそこかしこからせりあがってきた。

満場一致のスタンディングオベーション

おれも気づいたときには腰を浮かせて手を叩いていた。

たかが二分四十秒の間に、人の心を鷲づかみにする威勢があった。

発表された得点は明らかに異質なものだった。

波いる世界の強豪を蹴散らし、花音は一気に首位に立った。

歓喜に沸く客席。

去年の故障から見事に立ち直った姿に感動しているのだろう。

彼らは、本当の花音を知らない。

キス&クライと呼ばれる、結果を待つ選手たちが待機するスペースに花音の姿があった。

その顔がスクリーンに浮かび上がる。

パーソナルベストを更新した花音は、しかし、飛び跳ねて喜ぶでもなく、隣に座ったヒルトンコーチに抱きつくでもなかった。

ただただ冷徹に、ニヒルな笑みを口元に携えるだけだった。

インタビューアーがマイクを差し向ける。

花音は一言、


「明日もありますから」


と、つぶやくように言うだけだった。

腹の底に強烈な愉悦を隠しているようにも見えた。

まるで、今日の勝利が当然のものであるといわんばかりに・・・。


・・・・・・。

 

 

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「いやいやいや、栄一さんよー」
「いやいやいや、京介ちゃんよー」


外に出て栄一と椿姫と合流した。

真冬の外気が肌にひんやりと気持ちいい。


「お前さー、なんか花音のステップがどうだとかぬかしてたけど、実際どうだったんよ、すげえじゃねえか」
「やっぱりオレちゃんがきつく言ってやったからかな。 去年までの花音とは別人だわ」


「ほんと感動したね。 ぞくぞくしちゃったよ」
「選曲も良かったと思うんだよ」
「わたしもそう思った。
最初は怖い曲だなって思ったし、いつもニコニコしてる花音ちゃんには合わないような気がしてたんだけど・・・」

 

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「だんだん、ハマってきたと思ったら、いつの間にかこれしかないみたいな気分にさせられたわ」


栄一もよほど興奮しているのか、椿姫の前だというのに本性を現したしゃべり方をしていた。


「やっぱりヒルトンは偉大だなー。 コーチが違うとこうまで変わるもんかねえ・・・」
「そんなに違うのか?」
「違う違う。 去年までの花音はよー、なんつーの、どっちかっつーとキャワイイ系で売ってる系だったのよ」
「売ってる系だったんだ」
「元コーチの金崎郁子には悪いけど、花音にはああいう悪魔系が似合うよ」


「ちょっと怖すぎたけどね。 でも、ああいう花音ちゃんも素敵だよね」
「よくよく見たら、あいつ背も高いし手足も外人みたいに長いもんな」


「なんかの記事で読んだけど、ガキのころからバレエやって体柔らかくして、メシも自分で管理して食ってたらしいぜ」
「この分じゃ、明日も楽勝だな」


すると、栄一が突然、顔をしかめた。


「あー、それなんだけどよー」
「どうした?」
「明日のフリーな。
フリーのプログラムはあんまり評判良くねえんだわ。 プログラムっつーか、曲か?」
「え? そうなの?
今日が『ワルキューレの騎行』だったんだから、明日は『英雄』とかじゃねえの?」
「そう思うだろ? でもなに考えてんだか知らねえけど、今日のショートとは百八十度違う曲調なんだよなー」
「なんてヤツだ?」
「マニアのお前ならわかると思うけどよー・・・」


その曲名に、たしかにおれも首を傾げた。


「そりゃ、まずいんじゃねえの?」
「だろう? 今日のイメージじゃねえよな?」


「でも、花音ちゃんはそれで、この前のカナダ大会は優勝してるんだよね?
だったら、だいじょうぶじゃないかな?」


おれも椿姫に同意した。


「花音の技術は、ハンパないんだろ? だったら得点にはあんまり曲とか関係ないんじゃねえの?」
「ぬりぃんだよ。 スケートはよー、芸術だぜえ?
得点を決める要素には曲の解釈って項目もあるくらいだ。
実際、前のカナダじゃその辺がだいぶ弱かったらしいぜ?」
「じゃあ、変えればいいじゃん」
「だよなー。 なんでまたあんな曲なんだろうな。
噂によると元コーチの母親にまだ義理立てしてるって話もあるけどな」


「浅井くんはそういう話しないの?」


「そうだよ、なにか聞いてねえのか?」
「ぜんぜん」
「お前らホントに家族なのかよ・・・」


呆れ果てていた。



・・・。



「じゃあ、また明日ね」


「京介も、ちゃんと来いよー」


「おう・・・」


少し薄情かもしれんが、別におれが行かなくても花音はやり遂げるだろうな。

今日の演技を見て確信した。

花音にとって客の歓声などたいして意味のないものなのだ。

浅井権三が己のみを頼みとするように、花音もまた自分の実力を信じている。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。



 

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たしかに死人が出ていた。


夜、十一時。

"悪魔(メフィストフェレス)"は、西区の港に足を運んでいた。

黒ずんだ血が、携帯していたライトの光に浮かび上がった。

灰色の路面にまばらに模様を作り、点々と暗い海に続いていた。


――肺を一刺し、海に突き落とす。


"魔王"の冷淡な声を思い出した。

この辺りの海は冬になると流れが急になり、死体ははるか遠くの外海に運ばれるのだという。

発見されなければ殺人事件にはならない。

年に九万人も出る行方不明者のリストに加わるだけだ。

"魔王"は自らの殺人計画をそう力説していた。


"魔王"の指定どおり、岸辺の縁に運転免許証があった。

血の垂れたそれを拾い上げて名前を確認する。

"悪魔"は満足した。

この西洋人の職業はバレエダンサーだという。

日本には古来より由緒正しき舞踊がある。

敗戦後のアメリカの文化侵略しかり、こういった輩はすべからく我が国から排除されるべきなのだ。


――"魔王"は頼もしい男だ。


闘志が沸いてきた。

期待にこたえてやらねばなるまい。




「あの・・・」



不意に、背後から声をかけられた。

"悪魔"はとっさに、血染めの運転免許証をコートの内側に隠した。


「あの、すいません・・・」


ゆっくりと振り返ると、幽霊がいた。

懐中電灯の光が幽霊を照らす。

驚いて一歩あとずさった。


「あ、危ないすよ」


背後は海だ。

幽霊が腕を伸ばして踏み込んできた。


・・・足?

 

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よく見れば前髪が異様に長いだけの少女だった。

どこかの学園生らしく、胸にリボンのついた制服を身にまとっておいた。


「女学生がこんな時間までなにをしている」


嘆かわしいことに、近頃の女学生はまったく狂っている。

深夜に人気のない場所を徘徊するような非行こそが、犯罪を助長しているとなぜ気づかない。

襲われる側にも問題があるのだ。


「なにをしているんだ、貴様」
「あ、いえ、この辺は、ちょこちょこ来るんすよ。
考え事をするときはとくに・・・ええ、この先にちょっとした見栄えのする場所がありましてね」


ぼそぼそとはっきりしないしゃべり方だった。


「昔、大好きな人とお別れした場所でしてね。
この街は変わってしまいましたけど、この辺りだけは、大して変わってないなと、懐かしんでいたんです」
「名前を言え」
「あ、藤原則香です」


少女は長い前髪の隙間から、ぼんやりとこちらを見つめた。


「藤原、いまが何時だかわかるか?」
「・・・・・・」
「おい」
「え? ああ、十一時くらいすかね・・・」
「子供は家で寝てる時間だろ?」
「いちおう十八歳以上なんすけどね、これでも」


おどけるように言った。


「そんなことより、お怪我はありませんか?」
「怪我?」
「ええ、足元に点々と・・・」


血のことを言っているのだろう。


「私は知らん。 ジョギングをしていたらふと気になって調べてみた」
「はあ、そすか・・・」


疲れたようなため息をついた。


「私は帰る。 お前も夜更かししないでちゃんと帰るんだぞ」
「あ、お気遣いありがとうございます」


薄気味悪い風体には似合わず、深々と礼をした。


"悪魔"は少女の脇を抜けて歩き去った。


「あ、ちょっといいですか?」


呼び止められて立ち止まった。


「ミヒャエル・ユグムントさんとよくお会いします?」


"悪魔"は目を見開いた。

その男はよく知っている。

いま海の底だ。


「誰だって?」
「ですからユグムントさんです。 バレエの先生ですよ。 いま話題の浅井花音に指導したこともあるんです」
「そんな奴は知らん」


少女は残念そうに肩を落とした。

不意に不快感に襲われて聞いた。


「なぜ私にそんな話をする?」
「いえ、ジョギングされてたんですよね? ていうことは、この辺にお住まいなのかなと」


つまり、死んだ西洋人もこの辺りに住んでいたということか。

不信感が募った。

なぜ、この状況で見知らぬ少女が、死んだ男の話を始めるのか。


「自分、あの方のファンでして。 もし会ったら、サインもらっておいてください」
「いいだろう。 連絡先を教えろ」

 

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「マジすか、やったー! わー!」


少女はなんの警戒もせずに、携帯電話の番号を口にした。


・・・ただの偶然か?


"悪魔"はあどけない笑顔を浮かべた少女に、別れを告げた。


連絡先は控えた。


なにかあればすぐに始末してやる。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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いつものバーで"悪魔"はさっそく電話をかけた。


「死体を確認した。 見事なものだな」
「これで私を信用していただけましたか?」
「もちろんだ」


力強く言った。

電話の向こうの青年が本気であることは十分に伝わった。

いまこそ革命を遂行すべきときだ。


「では、明日だな」
「手順どおり、九時にお願いします」
「わかっている。
二度も殺人を犯したお前の計画だ。 きっと完璧なのだろう」


酒が進んだ。

"魔王"と祝杯をあげたくなった気持ちをぐっと堪えた。

聞けば、許しがたい女だった。

なんでもフィギュアスケートのコーチだった。

過去、オリンピックにも出場したことのある名選手でもあったそうだが、引退後は堕落した人生を送っているという。

名前は金崎郁子。

自らを引き上げてくれたフィギュアスケート連合を批判するような本を出版したかと思えば、ヤクザ者との逢引き疑惑まで囁かれた。

全盛期は細く美しい体をしていたらしいが、いまではぶくぶくと太り、収入にも無頓着で、娘の賞金を当てにするようなだらしない生活をしているという。

親として最低の人間だった。

このような親が一人でもいなくなれば、教育の未来は明るい。


「なにか質問は?」


不意に、"魔王"が問うた。

"悪魔"はしばし思案した。

先ほど出会った少女の顔が思い浮かんだ。


「やはり、顔を見られたら殺したほうがいいのか?」
「いい質問ですね」


感心するようなため息があった。


「場合によります」
「というと?」
「目撃者というのは非常に厄介な存在です。
特徴を覚えられた場合、警察が最新鋭の機器を使って、かなり正確なモンタージュを作成します」
「下手をすれば、私の顔が交番や地下鉄にばら撒かれるってことか?」
「しかし――」


間をおいて言った。


「目撃者というものはたいていの場合、事件の光景よりも事件で味わった感情を記憶しているもの
です。
犯人の持っていたナイフが恐ろしかったとか、警官の発砲に耳が割れそうになったとか、そういうことは覚えています。
しかし、たとえばその場で自分と同じように悲鳴を上げていた人物のことは、記憶からすっかり抜け落ちるものです」
「なるほど、周りと同化してしまえということだな?」
「もちろん、あなたがたいそうな肥満であったり、鼻の下にブドウのようなホクロがあるのなら話は変わってきますが・・・」
「安心しろ。 酒は好きだが、ビール腹には縁遠い」


"悪魔"は、やや身長はあるものの、どこにでもいるような風采の上がらない疲れた男だった。


「とはいえ、目が合ったら殺したほうがいい」
「目か・・・」
「目は最も感情を伝える部位の一つです。
あなたの瞳に異常を感じれば、相手はきっと忘れないことでしょう」


つまり、なるべく顔を伏せておけばいい・・・。


「なら、もう一人殺しておかなくては」
「む・・・?」


"悪魔"はもう一杯酒をあおってから語りだした。


「実は、さっき、港で妙な女に出くわしてな。 幽霊かと思ったよ。
ただの女学生だったが、膝まで届きそうなくらい髪が長かった。 お前が殺した男の話をされたぞ」


"魔王"は珍しく押し黙った。

沈黙に耐えきれず"悪魔"は続けた。


「藤原とか名乗ってた。 海に沈んだ男のファンらしい。 連絡先は聞いておいた」
「・・・・・・」
「なんだ、何を考えている?」


返答はなかった。

なにか気に触ることでも言っただろうか。

それともあの少女に心当たりでもあるのだろうか。


「ぜひ・・・」


やがて"魔王"がささやくように言う。


「ぜひ、殺してください」


"悪魔"はその口調に殺気を感じたが、それも一瞬のことだった。


「その少女こそ、あるいは最大の敵です」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「ふぃー、ただいまー」
「遅かったな。 もう一時近いぞ」
「コーチとお話して、ちょっと調整して、そのあとインタビューとかしてたら遅くなったー」


ぼけぇーっとした顔で荷物をソファの上に放り投げた。


「兄さん、なにしてたの? 魚くさいよ?」
「ああー、ちょいと料理でもしてやろうと思ってな。 魚さばいてたんだ」


どうもおれは貧乏性なのか、安売りしていたスーパーでさんまを十匹も買い込んでしまった。


「のんちゃん、もう食べたよ」
「だろうな。 明日の朝にでも食え」


余った分は、近所の椿姫にでもやるとするか・・・。

おれはコーヒーを煎れながら、ソファにだらしなく寝転がった花音に言った。


「今日、すごかったな」
「なにがー?」
「いや、お前」
「演技が? そう?」


きょとんとしていた。


「いや、余裕の一位だったじゃん。
二位のロシアの選手と二十点くらい差つけてたじゃねえか」
「あ、そうだっけ? じゃあ、それなりだね」


二位の選手のことなど、まるで興味がなさそうだった。


「今日のご感想は?」
「はい。 結果に満足せずに精進したいと思います」
「テレビ向けのコメントだなー」
「本当にそう思うんだよ。 だって、NKH杯は外国の選手も来るけど、世界で一番強い人が集まるわけじゃないもの」
「なんだよ、周りが雑魚ばっかりだったから、楽勝だったってか?」
「そんなつもりはないけど、けっきょくそーいうことかも」


無邪気に言われると、嫌味には聞こえなかった。


「のんちゃんは、世界一になりたいのです」
「はい」
「トップ、優勝、一番、最強、王様、そーいう言葉が好きです」
「わかりました」


おれは、花音がいつの間にかぐちゃぐちゃにしたソファーカバーを指差した。

 

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「わかりましたから、それ、直せ」
「ヤダ。 どーせすぐに、ぐっちゃにするから」
「ぐっちゃにするな。 どうやったらぐっちゃにならないか反省してみろ」
「王は、省みないものです」
「まだ王じゃねえだろ」
「兄さんにはかなわないなー」


しょうがないといった調子で、カバーをかけなおした。


「風呂入るか? 沸かしといたぞ」
「気が利くねー、やっぱり兄さんの家に来て正解だったなー」
「なんだよ、郁子さんだって風呂ぐらい沸かしてくれるだろ」
「うん、すごい、気を使ってくれるよ」
「・・・・・・」


花音の目にかすかに寂しそうな光が宿った。

 

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「コーチは、のんちゃんが世界一になることばっかり考えてる人だから。
いつもヘコヘコしてるよ、わたしに・・・」


なにもないフローリングにまなざしを落としていた。

ふと思い立って聞いた。


「そういや、明日の、フリーのプログラムさ・・・」
「んー?」
「なんかお前のイメージじゃねえんだけど、なんで?」


花音は、一瞬とまどったように口をすぼめた。


「・・・知らない。
コーチがヒルトン先生にお願いしたみたい・・・でも、知らない」


郁子さんのことをあくまでコーチと呼ぶ花音に、おれはそれ以上突っ込むのをやめた。


「んじゃ、いっしょに寝よっ!」
「寝ないから」
「のんちゃんね、なにかを抱っこしてないと眠れないの」
「わがままばっかり言うなよ・・・それだけはまずいっての」
「だいじょうぶだよ、誰も見てないよ」


・・・ったく、どうすりゃいいんだよ。

笑顔の裏にただよう影が少しだけ気になった。

・・・まあ、こいつが寝つくまで、隣にいてやってもいいかもな・・・。


しかし・・・。

 

「わりいけど・・・」
「えー!」
「とっとと彼氏でも作れや」
「兄さんがカレシだもん」
「はいはい・・・」


おれは書斎に足を向けた。


「あ、逃げたなー・・・もー!」
「とっとと風呂入ってこい」


・・・。


・・・・・・やれやれ。

書斎の椅子に腰掛けて、あくびをした。

花音はきっと、明日も勝つだろう。

すると、新たな犠牲者が・・・。

そう考えると、気分がめいるものがあった。

とはいえ、おれには打つ手はなさそうにみえる。

おれには・・・。


「っ・・・」


どういうわけか、まためまいがする。

秋元がよけいなことを言うからだ・・・。

くそ・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


「ふう・・・」


・・・それにしても・・・。

 

 

 

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予想外だ。

宇佐美と"悪魔"が、すでに接触しているとは思わなかった。

宇佐美は、どうして、夜の港に現れたのだ?

宇佐美には浅井権三もついているのだから、こちらの殺害予定者のリストアップくらいはしているだろう。

花音の関係者は、学園、スケート、親戚・・・少なく絞り込んだとしても、十数人になる。

そのなかから、ドイツ人のバレエダンサーをピンポイントで当ててきた。

ミヒャエル・ユグムントの所在は、たしかに西区の港付近ではある。

自宅を警戒していた宇佐美たちが、港で不審な動きを見せる"悪魔"を発見したのだろうか。


・・・なぜだ?


偶然か、よほどの強運か。

浴室から、水の滴る音とともに、声があった。

バスタオルはないのか、と聞いている。


・・・まったく図々しい女だ。


「いま用意する」


・・・明日が、楽しみだな。

宇佐美がどれほどのものなのか、お手並み拝見といこうか。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「兄さん眠そうだねー」
「お前はいつも元気だな」


翌朝、マンションの入り口まで花音を送り出した。

しばらくすると、高級外車が走り込んできて、路上の縁石すれすれに停まった。

 


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「おはよう。 京介くん」


郁子さんが、左側の運転席からのそりと出てきた。


「おはようございます、いい車ですね」
「そう? もう二世代も前の車よ」


・・・それにしたって、ファミリー向けの車が三台は買えるだろうな。


「そいじゃ兄さん、いってくるねー」


花音が、そそくさと後部座席に乗り込んだ。

助手席に人はいなかった。


「ごめんなさいね、私からも連絡しておこうと思ったんだけど、つい忙しくて」
「いえいえ」


花音のことだ。


「なにか言ってなかった?」
「いえ・・・とくには」
「私の悪口とか?」


長年作りこんできたような、奇妙な笑顔。

冗談なのか本気なのか、よくわからなかった。


「いやいや、がんばって世界一になるって言ってましたよ」
「ならいいけど」


たるんだ頬に思わせぶりに手を添えた。

そういえば、この人も昔はオリンピック選手だったんだよな。


「花音は甘えん坊だから、大変でしょう?」
「はあ・・・」
「でも、それがかわいいのよね」


どうにも居心地が悪かった。

はっきりとした理由はないのだけれど、なんとなく会話の弾まない相手だった。


「ねえ、行かないの?」


花音が窓から顔を出した。

不機嫌そうにも見えた。

いや、花音にしては珍しく顔に表情がないものだから、そう思ってしまうのか・・・。


「なにかあったら連絡してね」


軽く会釈すると、郁子さんは車に乗り込んだ。

静かなエンジン音を立てて車を発進すると、あとから黒いワゴン車が続いていった。

郁子さんの車を追うように現れたワゴン車には、こわもての男が二人乗っていた。


権三の手の者か・・・。


郁子さんを影ながら護衛しているのだろう。

しかし、たとえばスケート会場など。

関係者しか立ち入りを許されない場所では、どうだろうか。

いかにヤクザ者でもつまみだされるに違いない。

"魔王"が狙ってくるとしたら、そういう瞬間だろうな。

 

着信があった。


権三か・・・。


「もしもし、京介です」
「宇佐美はどうだ?」
「いえ・・・あれから会っていませんが」
「つれて来い、すぐにだ」


それだけで、通話は切れた。


・・・なんだ、いきなり。


舌打ちして、宇佐美に連絡した。


・・・。


「宇佐美でございます」


一回目のコールで電話に出てきた。


「相変わらず気持ち悪いヤツだな・・・なにしてる?」
「いまはフランス風の喫茶でカッファを頼んでいます」
「嘘をつけ」
「本当です。 新聞も読んでいます。 花音のことがでかでかと載ってますね」


宇佐美は昨日、会場には現れなかった。


「『氷上の戦女神!』とかなってますよ」
「お前も一度は観ておいたほうがいいぞ。 さすがにシビれるものがあった」
「あ、ちょっとすいません」


不意に、ごそごそと物音がした。


「なんだ? なにしてる?」


しかし、返事はなかった。

耳をすませると、かすかにカントリー系のBGMが聞こえてきた。

どこかの店内にいるのは本当のようだ。


「おい?」
「あ、えっと、なんですか?」


おれは用件だけを告げることにした。


「権三が呼んでる、急いで来い」
「マジすか・・・」


ふと、考えるような間があった。


「わかりました。 いまセントラル街にいましてね」
「ならおれもそっちに行く。 近くまで来たらまた連絡する」


宇佐美の了解を得て、おれは歩き出した。

今日は、わりと暖かい一日だった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 



呼び出してからしばらく待って、宇佐美と合流した。

 

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「なにしてたんだ?」
「もちろん尾行です」
「尾行? 誰をつけてたんだ?」
「それはまだ、なんとも。 怪しい人ではあるんですが、シロだったらご本人に迷惑がかかりますので」
「怪しいヤツだって?」
「昨日、ばったり出くわしましてね。
まだ事件に関係があるかどうか確信が持てないんですが、んー・・・どうでしょうー」


目をくるくる回していた。


「詳しいことを権三の前で話せ」
「もしかして、なんの進展もなかったらぶち殺されるんですかね?」
「かもな」
「ひええ・・・・・・え?」


宇佐美の顔が急に引き締まった。

見開かれた目が、おれの背後を凝視している。


「ど、どした?」

 


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後ろを向くと、背の高い女がいた。

光沢感のあるスーツが、冬の陽射しに異様に冴えていた。

口元に薄い笑みを貼りつけて、こちらを見ている。

女がゆっくりと歩み寄ってくる。

柔らかそうなストレートの黒髪が陽射しに輝いていた。


「なんだ・・・?」


背後の宇佐美に聞いた。


「・・・・・・」
「おい、宇佐美・・・」
「・・・・・・」


黙り込んでいるようだ。

まさか、宇佐美の言っていた怪しい人って・・・。

やがて女が言った。

 

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「久しぶりね、ハル・・・」


思わず、宇佐美を振り返った。


「・・・・・・ゆ・・・ゆ・・・」


・・・。

 

「ユキだああああああああああああっ!!!」


いきなり全力で逃げ出した。

めちゃめちゃ速い。

あっけに取られていると、いつの間にか雑踏にまぎれて見えなくなった。


「な・・・え・・・っ!?」


ユキ?


わけもわからずユキと呼ばれた女と目を合わせた。

対峙してみるとおれと同じくらいの身長があることがわかった。

切れ長の眉に、勝気そうな瞳。

花音のように日本人離れした長い手足。

手に黒いブリーフケースを掲げているところが、やり手のビジネスウーマンを想像させた。

 

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「こんにちは、私は時田ユキ。 あなたは?」


宇佐美を震え上がらせた女は、穏やかに聞いてきた。


「・・・京介、浅井京介だ。 お前は?」
FBIよ」
「なんだって?」


一瞬、本当なのかと仰天しかけたとき、次の質問が迫っていた。


「あなたはハルの恋人?」
「驚かせるなよ。 ただの知り合いだ」


時田はニッと笑うとブリーフケースを開いた。

 

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「これ、私の連絡先」


メモを渡された。


「ハルに伝えておいて。 私がまたあなたを狙ってるって」


瞳になにやら邪な光が宿っていた。

 

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「それじゃ。 また会いましょう」


言いたいことだけ言って、去っていった。

しばし呆然とする。


・・・狙ってる?

宇佐美の知り合いか・・・。



・・・。



「浅井さん、浅井さんっ!」
「お、戻ってきたか」


ぜえぜえと息を切らしていた。

 

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「ゆ、ユキは何か言っていましたか?」
「いや、お前を狙ってるって」
「げえっ!」
「なんだあの女は。 やたら美人だったが?」


宇佐美はぶるぶると首を振った。


「わたしの友達です」
「お前にも友達いたんだな」


宇佐美の友達というだけあって、かなりの変人なんだろうな。


「つーか、友達に狙われるってどういうことだ?」
「ユキが狙っているのは、わたしのビーチクです」
「ビーチク・・・? ああ、胸か」


とくに気にしたことはなかったが、宇佐美のそれはへたなグラビア女優よりも豊満だった。


「まあいい。 これ、連絡先な」
「電話をしろと?」
「・・・そんなに嫌なのか?」
「わたしのビーチクがこーなったのは、ユキのせいです」


・・・胸は揉まれると大きくなるというのは嘘らしいが・・・。


「だったら、このメモをなくしたことにしてやってもいいぞ」


めんどくさくなって言った。


「いえいえ、ユキに嘘は通じません」
「はあ?」
「くうう、これは大変なことになったぞー・・・」


額に汗を滲ませるほど慌てる宇佐美を初めて見たかもしれない。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

さすがの宇佐美も権三を前にしては、おとなしくなる。

さきほどまでの痴態はどこへやら。

真剣な表情で権三と向かい合っていた。

 

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「脅迫状によれば、今日の夜九時に人が死ぬ。 なにかつかんだか?」
「・・・それが・・・」


「宇佐美・・・はっきり言え」
「浅井さん・・・。
わかりました・・・では、これをご覧下さい」


言って、かばんの中から、例の脅迫状を取り出した。


「それがどうした?」
「この、封筒なんですがね・・・」


宇佐美は脅迫状の入った封筒を裏返して、テーブルの上に置いた。


「・・・これは?」


鉛筆でこすったような黒い跡があった。


「ちょっと気になる引っかき傷があったので」
「文字の痕跡か?」
「ええ、よくテレビで刑事がやるようなことをやらせてもらいました」
「もうやるな。 痕跡の大半が消える。 本来なら・・・」


権三が、なにか言いたげに、一瞬口を尖らせた。


「何か出てきたか?」
「謎の文字が・・・」


目を凝らす。

封筒の裏面には、漢字の『北』・・・それから、間を置いてカタカナの『ツ』・・・?


「北、とツですね」
「・・・なんだそれは?」
「おそらく"魔王"は、この封筒の上に紙をおいて、なにかを書いたんです」
「それは、そうなんだろうが・・・」


首を振った。


「権三さんはどう思われます?」


権三はわずかに目を細めたのち答えた。


「殺しのあった現場だ」
「どういうことです?」
「北欧ハイツ。 北区にある死んだデザイナーの自宅マンションだ」


「わたしと同じ意見です。 少し自信が持てました」
「続きがある・・・斉・・・斉藤だな。 これもデザイナーの名前だ」


殺害予定者の名前と住所の痕跡か・・・。


「まだなにかあるな・・・」
「ええ、それなんですがね」
「・・・子供の『子』、か?」
「はい、おそらく」
「よく見ると、斉藤という名前の横隣りに書かれているな。 文字が整列しているような・・・」
「なるほど、よく気づかれましたね。 ということは、これもやはり、次の殺害予定者でしょう」


すぐさま、花音の関係者をリストアップした表をみやった。


「子のつく名前は・・・紀子・・・ノリコ先生か」


栄一が一時期夢中だった女教師だ。


「それから、花音と親交のあった元選手の吉田喜美子さん」


資料によると引退後は、スケートリンクから十分足らずの場所で喫茶店を営んでいるらしい。

主にスポーツ選手相手の商売は、それなりに賑わっているようだ。


「あとは、郁子だな」


元愛人を呼ぶ声には、なんの感情の色もなかった。


「この三人のうち誰かが、殺される」
「そうですね・・・"魔王"の脅迫状にはそうありました」


『忠告に耳を傾づくつもりがあるのならば、近日開催されるNKH杯でわざと負けろ。
さもなければ、最終日夜九時にまた新たな死が生まれる。』


花音は、まず間違いなく優勝するだろう。

・・・となると、今日の夜九時に・・・。


"魔王"は、すでに犯行の準備を整えているのかもしれない。


「他に手がかりは・・・?」
「ここ、なんですが・・・」


宇佐美が差した先にははっきりと漢字が書かれたあとがあった。


「いとへん・・・紙か? その下にも人べんに・・・代かな?」
「いえ、袋でしょう。 紙袋です」
「紙袋だって?」


なにがなにやら・・・。


「あとは、その紙袋という文字のすぐそばにある数字ですかね」
「・・・ご・・・5?」
「5の前にもなにか・・・数字ですかね? あるようですが・・・ちょっと読めませんね」
「これは、いったい・・・?」
「わかりませんが、いまのところ思い当たるのは・・・」


「スケート会場内の客席番号だな」
「わたしもそう思います。 今日は女子フリーです。
スケート会場内はたいへんな賑わいです。 郁子さんの警護も難しくなるでしょう」


「そうか。 狙いは郁子さんだとすれば・・・この数字は会場の客席番号かも・・・」
「5番なのか、25番なのか、56番なのかはわかりませんが・・・」
「さらに数字の前にAからKまでのアルファベットがつくからな・・・」


イムリミットが九時として・・・大混雑した会場のなかで、すべての客席を調べている時間はあるだろうか。

いつの間にか、陽射しが強くなっていた。

時刻は午後二時くらいだろうか・・・。

縁側から声が上がった。


「お話中失礼します」
「堀部か」


男が低頭しながら部屋に上がってきた。


「これは、坊っちゃん、お久しぶりでございやす」


おれのことを坊っちゃんと呼んだのは、若頭の堀部だった。

組のなかでは権三の次に権力がある。

切れ長の目の奥で、いつもサディスティックな光をちらつかせている。

 

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「組長(オヤジ)の指示通り、若いのを三十人ばかりかき集めておきました」
「おう」
「いつでも動けます」


権三がうなずくと、堀部も心得たもので、礼だけして退室していった。


「兵隊はそろった」


さすがに権三の手際はいい。

あらかじめ自由に動ける部隊を編成していたんだろう。


「だが、会場内に入れるのは、よくて十人だろうな」
「いまから十人分のチケットを手に入れられるのが、まず、すごいです」


権三のことだ・・・会場周辺でチケットの転売目的でうろついている人間やダフ屋のケツを叩くつもりなんだろう。


「残りの人間は会場の出入り口を固めさせる。 郁子が出入りする関係者通用口はとくに。
宇佐美と京介は、中の人間と協力して会場内で該当する客席を調べろ」
「わかりました」


宇佐美も黙ってうなずいた。


「"魔王"の背格好だが」
「はい。 身長は高めです。 浅井さんくらいでしょうか。
髪型はとくに印象的なものでもありませんでしたね。
顔をはっきりと見たわけではありませんが、やや前髪が長めだったような気がします。
服装は・・・もちろんわたしが目撃したときの服装ですが・・・どこにでも売ってそうな黒いコートに、これまた街のサラリーマンが着てそうなスーツでした」
「あえて、だろうな」


あえて、自らを周囲に溶け込ませているというのか・・・?


「しかし、"魔王"ばかりを追っていると、思わぬ罠におちいるかも知れんぞ」
「おっしゃるとおりです」


「なるほど、共犯の可能性もあるからな」
「はい。 "魔王"は、封筒の上で、次の殺害予定者を紙かなにかに書いたと思われます。
それが自分への覚書なのか」
「それとも、共犯者への指示書なのか・・・そういうことだろう?」


"魔王"からの脅迫状にも、メフィストフェレスとかいう殺人鬼を野に放ったとかいう記述がある。


「しかし、どうにも・・・」


宇佐美は、また押し黙って眉をひそめていた。


「宇佐美、ところでお前は、誰を尾行してたんだ?」
「あ、はい、その話ですね」


「なんだ?」


軽く咳払いをしてから言った。


「実はですね、昨日、怪しげな人と出会いまして・・・・・」
「いつ? どこで?」
「西区の港ですね。 倉庫が連なっているような場所です。 時間は夜中ってところでしたが・・・。
男性が岸の縁でしゃがんでたんです。 目の前は海です。
真っ暗な海を覗き込んでいるものだから自殺かな、と思って声をかけましたら、妙に驚かれまして」
「そりゃ、お前が幽霊にでも見えたんだろうよ」
「年齢は三十ちょっとでしょうかね。 妙に無精ひげが濃かったような・・・」
「どこが怪しいんだ?」
「男性の足元で血が点々と海に続いていたんです」
「血か・・・」
「血についてはノーコメントでした。
が、地面には何かを持ち去ったような跡がありました。
あとで調べてみたところ、血の点が途中で途切れていた箇所がありました」
「何かって・・・?」
「わかりませんが・・・カード、でしょうかね。 四角い物だと思います。 そういう跡ができていました」
「その男が持ち去ったとは限らないんじゃないか?」
「いえ。 彼の懐中電灯を握る親指の先が、かすかに赤に染まっていました。
血染めのカードを拾ったと考えるのが自然です」


・・・よく見てるんだな。


「彼はジョギングしていると言ったんですがね、それも多分嘘です」
「そうだな・・・筒状の懐中電灯だろ? そんなもん持ってジョギングするヤツはあまりいないんいじゃないか?」
「あの晩は、なにか人に言えないようなやましい事件があったんだと思います」


おれたちのやりとりを黙って見ていた権三が、重い口を開いた。


「で、宇佐美はなぜ、そんな場所に行ったんだ?」


・・・それは、気になるところだな。

なにかつかんだのだろうか。


「あの近くに、被害者リストにあるバレエダンサーが住んでいますよね?」
「ミヒャエル・ユグムント・・・だな。 会って来たのか?」
「念のため訪問しましたが留守でした。
手元の資料にあるように、その方は、二ヶ月前に一時帰国しているはずですから」
「話はそれるが、それなら、そのダンサーに危険は及ばないだろうな」
「だと、いいんですけどね・・・」


権三が、いまだに宇佐美を見据えていた。


「それで、その怪しげな男を、今日の朝まで追っていたというわけです」
「話を聞く限り、今回の脅迫事件と、関係はなさそうだが?」
「ええ・・・とくに、これといった確信はないんですが・・・」


首をひねった。


「わたしがユグムントさんの名前を出したときに、やけに食いついて来たような気がするんです」
「食いついてきた? おれは知らなかったが、それなりに名前の売れているダンサーなんだろ?」
「いえいえ、藤原則香も知らない人が、ユグムントさんを知っているとは思えません」
「は?」
「名前を聞かれたので、憧れの芸能人の名前を出したんです」
「ひくわ、お前・・・」
「そしたらまったくの無反応でしてね。
一瞬、だだスベッたのかと思って死にたくなりましたが、どうも相手の様子が素でしてね・・・」


・・・まあ、普通は偽名だと思うだろうな。


「まあ、わらにもすがるってヤツです」
「その男の住所はわかったのか?」
「いいえ。 彼は朝までセントラル街のバーで飲んでいました。 帰宅する様子も見ませんでした」
「なるほど。 そんな長居するようなバーなら、きっと男にとって行きつけの店なんだろうな」
「ええ、そのバーさえ張っていれば、尾行はいつでも再開できます」


「話はわかった。 その男についてなにかあれば、人を割く」
「それでは、これで・・・」


一通りの話は済んだ。


礼をして権三に背を向けた。


「郁子は殺されてもかまわん」
「・・・なんですって?」


驚いて振り返ると、権三はまったくの無表情で言う。


「重要なのは、ホシを必ず捕まえることだ」


おれたちは警察ではない。

市民の安全など二の次なのだ。


「あの女は花音にとっても、もう不要な存在だ。 むしろこれから先は邪魔になる」


どこまでも酷薄な男だった。

想像もできないが、郁子さんとは、昔、肌を重ねた仲でもあるのだろうに。

ふと、母さんのことを思い出す。

浅井権三こそが、おれの母親を極貧の淵に追い込んだのだ。

鬼だった。

しかし、その鬼に媚びへつらうおれは、やり場のない鬱屈した感情をいつも溜めている。


・・・いつか、権三を、この手で・・・。


「浅井さん、どうされました?」
「・・・なんでもない」


おれたちは権三宅を辞した。


・・・・・・。

 

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「しかし、このお宅の警備もなかなかものものしいですね」


宇佐美の言うように、多数の人間が常に詰めていた。

家の前に一人、庭に三人。

それぞれなんらかの武器を携帯している。


「やはり、ヤクザさんの偉い人ともなると代わりのきかないお体なんでしょうね」

 

・・・・・・。

 

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「それにしても、ちゃんと手がかりをつかんでいたんだな」
「はあ・・・これで権三さんに役立たず扱いされなければいいんですが」
「脅迫状の書いてあった紙ではなく、封筒のほうに目をつけたのはなかなか筋がいいと思うぞ」
「ですかね・・・あまり褒めないでもらえるとうれしいです」


なにやら不満げな顔をしていた。


「あまり時間がないし、タクシーでも拾うか?」
「電車のほうが早いでしょう」


おれたちは足早に地下鉄の駅を目指した。


・・・。

 

G線上の魔王【13】

 


・・・。


宇佐美がおれの部屋を訪れてから、しばらく何気ない日々が続いていた。

椿姫たちは無念ながらも家を立ち退き、いまはおれの家の近くのマンションの一室に住んでいる。

椿姫も家事に忙しいのか、最近では、あまりいっしょに時間を過ごすこともなくなった。

なにより、おれのほうから距離を置くようにしている。

 

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「京介ちゃん、そろそろ部活しようぜ?」
「いや、議題がないじゃん」
「そうなんだよなー、お前、邪神だもんな」
「はあ・・・?」
「なんつーの? 前は花音だったじゃん?
復讐の相手がいないと、部活やる理由もないだろ?」
「最近、花音も学園休みがちだしな」
「スケートだかなんだか知らねえが、ちょっと生意気なんだよなー、あのアマァ」
「そんなにキレるなよ」
「いや、あいつは調子こいてるっての。 ほら、CM出てんじゃん」
「出てるな。 なんだっけ?」
「あれだよ、アイスのCM。 あと車な」
「あー、見たことあるかもな」
「あいつさー、テレビ受けするっつーか、まあ、それなりにかわいいじゃん。 手足なげえし」
「だから、人気あるんだろうな。 エージェントもついてるし、けっこうオファー来てるみたいだぞ」
「でもよー、ほら、実力はどうなんよ、と言いたいわけだよ。
んな、人気取りみたいなことばっかやってんじゃねえよ、とか思うわけだよ」
「おれも花音の実績は詳しく知らんが、人気と実力はある程度比例するもんじゃねえのかな?」
「だから、お前は甘いんだよ。 よし、わかった。 そこまで言うなら、オレがガツンと言ってやんよ」

 


「エイちゃん、おはよー!」

 


ひょっこり顔を出した花音が、栄一の肩をどんと叩いた。

 

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「や、やあ、花音ちゃん、今日も笑顔がまぶしいねー」

 


「よう、花音。 栄一がなんか言いたいことあるみたいだぞ」
「げっ!」


「んー、なにかな?」


栄一は腹をくくったのか、ずいっと花音の前に歩み出た。


「か、花音ちゃん、大会近いんだよね?」
「うん。 今年はあと三つあるよ」
「世界大会だよね?」


三つあるうちのメインが世界大会というらしい。


「それがどうしたの?」
「出れるの?」
「出るよ?」
「いや、出るよじゃなくて・・・次回は枠が一つしかないらしいじゃない?」
「うん、でも出るよ?」
「前回の世界大会は出られなかったじゃない?」
「あれは、棄権だよ?」
「そうだよね、腰痛めてたんだもんね」
「それがどうしたの?」
「次回の世界大会の日本選手の出場枠が一人しかないのは、花音ちゃんのせいじゃない?」
「そうなの? なんで?」
「世界大会の出場枠はさ、前回の成績で決まるわけだよね」


花音は、ぽかんと口を開けながらうなずいた。


「もし、花音ちゃんが出てれば、上位入賞確実だったわけでしょ」
「そだね」
「前回は三人も出て、そろいもそろってズタボロだったけど、それについてどう思う?」
「あー、それ、どこかで同じインタビューされたことあるよ。
なんとも思ってないよ。 他の人がどれだけ負けても、わたしは勝つから。 出場枠は一つで十分だと思うよ」

 

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「それが、おごりなんだよ、花音ちゅわん!!!」


急に、恐怖の大魔王の存在でも言い当てたかのように、コワオモシロイ顔になった。


「花音ちゃんは、日本のフィギュアスケートの将来を担うとまで言われた超新星なわけでしょ!?」
「言われたことあるね」
「なんで!?」
「なんでって・・・目立つからじゃないかな。 トリプルできるし」
「そうだよ、ジュニアのときからトリプルアクセルできたでしょ?」


・・・つーか、なんだかんだで、栄一ってけっこう詳しいのかな。


「キミは、去年のグランドシリーズも日本大会も制覇したのに、なんで腰とか砕いちゃうかな!?」
「うん、テレビとかじゃ言ってないけど、日本大会の公式練習のときにどっかの選手にどーんされたんだよ」
「え、うそおっ!?」
「ぶつかるのは、よくあることだよ。 うちどころが悪かったんだねー。
あのときはなんとか優勝したけど、終わってから大変だったねー」
「そんな他人事みたいに言わないの! とにかく、いまの日本のフィギュアは花音ちゃんにかかってるんだからね!」
「うんうん、スポンサーの人にもよく言われるよ。
三つあった枠が一気に一つになったもんだから、フィギュア人気そのものが心配されてるんだって」
「そんな裏事情はいいんだよ! ボクはキミに勝ってもらいたいんだよ!」


そこで、花音がにっこり笑った。


「わかった。 ありがとー、エイちゃん」


栄一の肩をぽんぽんと叩くと、背を向け、何事もなかったかのように机に突っ伏した。

栄一が、なにやら勝ち誇った顔をして言った。


「どうよ?」
「いやいやいや、お前、励ましてたから最後のほう」
「ガツンと、へこませてやったぜ!」


窓の外では雪がちらつくことが多い時期だが、学園はいつだって暖かい。


・・・・・・。

 

・・・。

 


「そういや、あったなー・・・」
「なにがすか?」
「いやいや、去年花音が、腰悪くして世界大会行けなくなったことを今思い出した」

 

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「どええ!?」


「いや、さすがにひくよ、京介くん」


「あのときの権三・・・あ、いやパパのキレ・・・いや落胆ぷりったらなかったな、花音?」
「パパ、いろんな病院連れてってくれたもんね」


おれも、なぜか病院送りにされるかと思うくらい、殴られた。

 

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「残念だったよね。 今年もちゃんとチケット取ってるから、応援行くね」
「あ、取れたんだね」
「栄一くんが、がんばってくれたみたい。
電話受付開始から取れるまでコールしたんだもんね?」


「じ、自分のぶんのチケは?」


宇佐美が、なにやら焦った顔で手をあげた。


「ないよ。 だって、宇佐美さんが転入してきたときには、もうチケット買ってたし」
「もう、売り切れすかね」
「当たり前だよ。 今年からちょっと落ち込んでるけど、まだまだ女子フィギュアは人気スポーツだから」
「そこをなんとか」


「当日券は・・・無理かな・・・?」
「しょうがないな・・・ちょっとネットオークションで探してみるけど、席によっては五万とか十万とかするよ?」


「あ、じゃあ当日券で」


花音がおれの腕を取って言った。


「兄さん、これから先の大会は全部来てもらうからね」
「これから先っていうと?」
「三つ全部だよ」
「えっと、なんだっけ・・・NKH杯と、ファイナルと全国大会か? 全部日本でやるのか?」
「今年は、ファイナルも日本だよ。 兄さんのチケットは特別に用意してるからね」
「え? ああ、家族だしな。 親族待遇か?」

 


「わ、わたしのぶんの特別チケは?」
「ないよ」
「勇者待遇じゃないんだ・・・」

 


「まあ、応援に行くのはいいけどさ」

 


「わたし、垂れ幕作ってくからね」
「椿姫、わたしも手を貸そう。 こう見えて裁縫は得意なんだ」


そういえば、着ぐるみ作ってたしな・・・。


「えっと、どうやったら世界大会に出場できるんだ? 枠が一つしかないっていうが」


おれにとって気になるのはそこだ。

花音は、いまだに一度も世界大会に出場したことがない。

やはり、一度くらいは出てもらわないと、箔がつかないというもの。


「これから先の大会で全部勝てば、間違いなく選ばれると思うよ」
「・・・そりゃそうなんだろうけどな」


「世界への切符はね、今回は全国大会の結果で一発決めするみたいだよ」
「へー、じゃあ、なにか? 全国大会さえ勝てばいいんだから、他の二つの大会は、そんなに意味ないわけか?」
「いちおう、ファイナルの結果も考えるみたいなことになってるけどね」


「こういうとプレッシャーかもしれないけど、テレビも新聞ももうほとんど花音ちゃんが世界に行くようなこと言ってるよね」
「この前のカナダで優勝したからね。 期待も大きいんだよ」


「まあ、おれとしては世界もいいけど、再来年のオリンピックで優勝を飾って欲しいな」
「お馬鹿だね、京介くんは」
「あ?」


「まったくです」


栄一に馬鹿扱いされただけでもショックなのに、宇佐美の便乗がなお腹立たしかった。


「世界に出れないと、花音ちゃんの場合、再来年のオリンピックにも出られないんだよ?」
「まったくです」


「は? 意味わかんねーよ。 オリンピックは再来年だろ? 来年の成績で決めろって話じゃねえの?」
「そうでしょ? ボクもそう思うし、そういう声も多いんだけどね」


「まったくで――」
「お前ちょっとうるせえんだよ」


宇佐美をどついて、栄一の語りに耳を傾けた。


「オリンピック代表選手の選び方は、前回のオリンピックが終わったときに決まったんだ。
前のオリンピックのときがさ、ポイント制っていうやつで、とっても揉めたんだ。
だから、今回、いろいろ悩んだみたいなんだけどね」
「え? 誰が悩んだんだ?」
オールジャパンフィギュアスケート連合」


「なんかゾクみたいすね。 なんで横文字なんすかね。
普通に日本フィギュアスケート連盟、でいいじゃないですか」
「ダメなの! そういうの出したら怒られるの!」
「あ、はあ・・・」
「あー、なんの話だっけ?」


「再来年のオリンピックの代表選手に選ばれるにはどうすればいいのかってこと」
「あ、そうだ。 もちろん、京介くんの言うように、来年のいまごろの成績が重要視されるんだけどね。
厄介な条件がいくつかあってさ?」
「厄介な条件?」


まるでおれのオウム返しを期待していたかのように、栄一が無知をあざ笑う顔になった。


「世界大会の出場経験が必要なの」
「あ、そうなの? じゃあ、なにか?
もし花音が来年の世界大会を逃したら、来年の成績がマックスハートだとしても再来年のオリンピックには出られないんだな?」

 

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マックスハートて・・・」


「いちいち若干スベりたがるよね・・・」


・・・うるせえな。


「そりゃ、ちょっとまずいんじゃねえか?
だって、次回の世界大会の日本選手の出場枠は一つだろ?」
「ひどいことにね」
「たとえば花音以外に調子の出てきた選手がいても、世界大会に出たことないもんだから、オリンピックに出られない選手が続出するかもしれないじゃねえか」
「もちろん、過去二季以内の世界大会出場経験だけどね。
日本は去年も一昨年も出場枠三つもってた強豪だったからさ。
まさか今期がこんなことになるなんて思ってなかったんじゃないかな」

 


「口はさんでごめんね。 その規定って、取り消しになるかもしれないんだよね?」
「だろうな。 いきなり日本が弱くなったものだから慌ててるんだろ」


栄一は我が意を得たりと、偉そうに大きくうなずいた。


「花音ちゃんにしたって、前回は棄権したわけだからね。
出場資格はあったんだから、まずだいじょうぶだろうね」


まあ、そんなもんだろ。

スポーツだ芸術だといっても、人気商売なわけだから。

数字の取れる花音をどこのテレビ局もスポンサーも押し出したいだろう。


「なんにしても、花音が全国大会で優勝すれば文句ないわけですよね?」
「ん、そういうことだねー!」


花音は相変わらず、真冬の陽射しの照り返しみたいなまぶしい笑顔で、元気よく腕を振り上げた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

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「なにやら、お困りのご様子ですね」


久方ぶりに呼び出されたが、染谷は相変わらず眉間に深いしわを刻んでいた。


「だから、君を呼んだんだ」
「左様で」


染谷の瞳に媚の色が浮かんだ。


「浅井花音を知っているだろう?」
「ええ。 私の妹ですよ」


冷たく笑うと、染谷は破顔した。


「面白い冗談だ。 あんな人気選手が妹なら、さぞ鼻が高いだろう?」
「いえ、手のかかる妹でしてね。
一度、身の程を思い知らせてやらねばと考えているところでしたよ」
「ぜひ、そうしてもらいたいんだがね」


目を光らせ、顔をこわばらせて染谷は言った。


「詳しくお伺いしましょう」


染谷は息をつめて、おれの目を見つめた。


「瀬田真紀子という選手を知っているかね?」
「たしか、前回の世界大会に出場したとか・・・その程度ですね。 あいにく芸術には疎いものでして」
「芸術!? フィギュアスケートが!?
あんなものはただのショービジネスだよ。 見世物小屋と変わらん」


はき捨てるように言う染谷に、しかし、おれはなんの感情も抱かなかった。


「瀬田は、うちが資本を出してるクラブの所属でね。 前回はいろいろと手を回して世界にまで出させてやったんだ」
「なるほど。 あなたに言わせれば、瀬田は子飼いの剣闘士のようなものですか。
いいでしょう。 私はあなたのそういった人の見くびり方に品のないところが好きだ」
「褒め言葉と受け取っておくよ。 それで、その瀬田なんだがね・・・」
「ええ・・・」
「今シーズンは調子も出てるんだ。 グランドシリーズのロシアでは二位だったしね」
「しかし、浅井花音の人気には及ばないわけですか」
「ご推察痛みいるね。 採点競技は人気が全てだよ。
たとえ瀬田が同じ演技をしても、審判も観客も花音に点を入れるだろうね」
「実力はどうなんでしょう?」
「瀬田も技術の堅実さなら花音に遅れを取るもんじゃないらしいがね、華がないんだよ」
「華とは?」
「わかりやすいのはジャンプだな。
花音はトリプルアクセルにくわえ、先のカナダ大会では四回転ジャンプにも挑戦している」
「成功したんですか?」
「両足で着氷して、さらにバランスを崩して手をついてしまったらしいな。
危うく史上初の記録が出るところだったよ」
「ほう、たしかに、大衆の興味を引く選手のようですね」


おれは苦笑しながら頭を振った。


「で、私になにをしろと?」
「わかっているくせに、ずいぶんと人が悪いな」


染谷は顔をゆがめ、おれに哀願するような口調で訴えた。


「高くつくのはわかっている。 しかし、君ほど頼もしい男もいないんだ」
「非合法な手口がお望みなら、あなたにもお抱えの連中がいるでしょう?」
「ヤクザどもも、今回ばかりは無理だ。
なにせ、浅井花音のバックに総和連合がついているのは周知の事実。 報道こそ決してされないが
ね」
「・・・ふむ」


心に揺れるものはあった。

先の身代金誘拐事件は、ほぼおれの勝利と言っていい結果になった。

けれど、いくらか危うい局面もあった。

椿姫の心境次第では警察も動いただろうし、セントラル街では宇佐美に腕をつかまれるところだった。

これ以上の『お遊び』は控えるべきなのだろうが、どうにも血が騒ぐ。


暴力団が背後にいるのならば、逆にいえば警察が出てくることはなさそうですね」
「少なくとも、ヤクザがすんなりデカに泣きつくことはないだろうね」


染谷の声は期待に弾んでいた。

おれは染谷を見据え、心のなかで念を押した。

・・・高くつくぞ。


「近頃、頭痛がひどいのですよ」
「頭痛? 医者にかかったらどうかね?」
「医者では治せません。 長年患っている持病でしてね」
「これは、驚いたな。 初めて君の人間らしい一面を覗いたよ」


なにやら恐縮するそぶりを見せる染谷に、おれは意図的に笑みを作った。


「ご安心ください。 お引き受けしましょう」


病状を理由に断られると思っていたらしい。


「いいのかね?」


しかし、すぐに狡猾な笑みを口元に携えた。


「花音は、君の家族なのだろう?」


冗談を言ったつもりらしい。


「家族と人間のクズとは、いくらでも両立します」


おれの顔があまりにも酷薄だったのか、染谷は目を丸くして口をすぼめた。


「私も救われない男でしてね。
策略を巡らし、人を陥れているとね、痛みが引くのです」
「救われんね。 まるで他人の生気でも吸って生きているようなものじゃないか」
「まさに」


うなずいて、黒い笑いを交換し合った。


・・・・・・。


頭痛は、ひいていた。

その夜は、いつもよりはるかに穏やかに、春の陽だまりのような眠りに落ちることができた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


有時を迎え、赤黒い地平線が、四角や三角の屋根に切り刻まれている。

 

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「兄さん、今日どうしてガッコさぼったの?」
「お前こそなんだ、こんな時間に」


浅井興行の事務所があるセントラル街からの帰り、自宅マンションの前で花音とばったり出くわした。

 

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「練習はどうした? もうすぐ大会だろ?」
「いまから行くよー、兄さんと一緒にね」
「え? おれも?」
「うん。 たまには観ててよ」
「いやいや、練習の邪魔をするわけにはいかんだろ」
「いいから」
「う、腕をつかむなっての」
「いいからいいから」
「お、おい! 抱きついてくんな!」
「ロシアの挨拶だよ?」
「うるせえ。 近所の目ってもんがあるだろうが」
「まったく兄さんは日陰っ子だなあ」
「おれはお前と違って目立つのが大嫌いなんだ」
「ほえー?」
「ほえー、じゃねえよ。
こんなところを、週刊誌にあげられてみろよ、大変なことになるぞ?」
「そうかな? いままで一度もプライベートな写真取られたことないよ?」
「あったんだよ!」
「ないよー」


・・・あ、そういえば、記事になる直前に権三が編集部に殴りこんで、もみ消したんだったな。

 

 

・・・。

 


「いや、まあ、なかったわ」
「変な兄さん。 ほら、行くよー? 来ないともっとくっついちゃうぞー?」
「・・・わかったよ、しゃーねーな」


渋々うなずいた。


「あ、言い忘れてた。 パパリンも来るって」
「え? マジで?」
「なんか兄さんにお話あるって言ってたよ?」
「バカ、それを早く言えよ」


おれたちは、一路スケートリンクを目指した。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

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「じゃあね。 休憩時間になったらいっしょにご飯しようね」
「ああ・・・」


花音は、長い足を見せつけるように軽快に去っていった。

おれは客席に至る入り口を探して、巨大な施設のなかに向かう。


・・・と、そのときだった。

 

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「ちわす」
「なんだてめえ・・・!?」
「今日も冷えますねえ」
上着羽織れよ。 ていうか、急に沸いてくんなよ」
「バイトはお休みですから」
「そうか。 よかったな。 だったら一人で遊んでろ」
「ちなみに浅井さんは、今日の学園はなぜにブッチされたんですか?」
「おれと会話を合わせる気がないのか?」
「あ、お仕事ですか、そうですか」
「・・・・・・」
「怒りました?」

 

 

おれは太いため息をついて、これみよがしに舌打ちした。


「実は、なぜ自分もここにいるのかわからないのです」
「記憶喪失かよ」
「いえいえ、しかし、記憶喪失の少女って、どうして美人で色白でいつも病院のベッドにいるような善人ばっかりなんですかね?」
「美人で善人のほうが、死んだときにドラマ的に泣けるからだろうが。 そんなことより、どっか行けよ」
「そういうわけにもいきませんでね。 さ、行きましょうか」


宇佐美はおれに背を向けて足を施設に向けた。


「あ、おい・・・!」


大会を間近に控えている今の時期は、一般客は来場できないはずだが・・・?


・・・・・・。

 

 

リンクでは、すでに何人かの選手が練習を開始していた。

衣装を着て滑走する選手も多く、さながら氷上に色のまばらな花が咲いたようにも見えた。

 

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「うわ、広いっすねえ・・・」


すんなり入場した宇佐美。


「爆弾でもしかけられたらどうするんですかねえ」
「お前、どうやって入ったんだ?」
「いや、別に、受付で事情を話しただけです」
「事情だ?」


宇佐美に詰め寄ったそのとき、後方の客席から声があがった。


「俺が呼んだ」

 

振り向くと、見知った悪漢の姿があった。



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「お前が、宇佐美ハルか?」
「・・・・・・」


宇佐美は、どういうわけか、まるで能面のような無表情を顔に浮かべ、ゆっくりとうなずいた。


「お義父さん、これは、どういう・・・?」


なぜ、権三が宇佐美を呼び出したんだ。


「つい先ほど、俺の家に一通の封書が届いた」


権三は、じっと宇佐美だけを探るような目で見据えていた。


「内容はざっとこうだ。
浅井花音が日本代表に選ばれた場合、花音の母親を殺す」


瞬間、息が詰まった。


「脅迫、というわけですか・・・?」


権三は、おれの問いには答えない。


「しかし、そういった手紙が届くのはよくあることなのでは?」


花音のことだから、ファンレターはもちろんのこと、頭のおかしい人間から怪文が来てもおかしくはないだろう。


「黙れ、京介」


一瞥され、おれは身がすくむ思いだった。

権三の態度は、おれがなにか失態を犯したときのものだ。

すぐに思案する。


「すみません・・・お義父さんのご自宅に届いたんでしたね」


考えてみれば、まずそこがおかしい。

花音の所属しているクラブではなく、なぜ、父親の自宅に宛てつけられたのか。

そして、この場になぜか宇佐美が呼び出されている。


「差出人は"魔王"だ。 わかるな、宇佐美?」
「・・・・・・」


宇佐美は、押し黙って、首を縦に振った。


「"魔王"について知っていることを話せ」
「・・・・・・」
「どうした? 京介が言うには、お前と"魔王"はただならぬ因縁があるそうだが?」
「・・・・・・」


口すら開かない。

相変わらず、一切の感情が欠落したような顔で、じっと権三を見つめ返していた。


「おい」
「・・・・・・」
「口がきけねえのか?」


権三の傍らに直立していたヤクザが、一歩身を乗り出した。

それを手で制する権三。


「"魔王"を追っているのだろう?」
「・・・・・・」
「動け。 尻尾をつかんだら俺に言え」
「・・・・・・」
「いいな?」


言い放つと、権三はおれたちに背を向けた。

取り巻きも権三の後に続いていった。


「おい、宇佐美・・・?」


権三が去ると、不意にスケートリンクに活気が戻ったように、コーチの掛け声や選手の氷を切る音が耳についてきた。


・・・まったく、なんてことだ。


宇佐美に、権三の存在が露見したのもそうだが、またしても"魔王"だと・・・!?


今度は、花音への脅迫?


いったい、何が目的だっていうんだ。


「宇佐美、なにぼーっと突っ立ってんだ」
「・・・・・・」
「おい、こら。 考えていることを少しは話せよ」
「・・・っ」


かすかにうめいた。


「い、いや・・・」
「なんだ?」


直後、雄たけびが上がった。

 

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「いやああ、びっくしたああああー!!!」
「・・・は?」


呆気に取られるおれ。


「びっくしたー、おぉぉおぉぉー、びっくしたー!」
「な、なんだなんだ、落ち着けよてめえ・・・!」
「いやいやいやいや、浅井さんっ!!!」


丸まった目が、自分は仰天していますと主張していた。


「な、なんなんすか、あの人は!? ええっ!?」
「・・・だからおれの親父だってば」
「うそでしょうが!? だって、アレ、モノホンじゃないですか!?
モノホンのコレモンじゃないですか!?」


しきりに親指で頬を切るような仕草を繰り返していた。


「いや、親父だから」
「だって、パパリンとか読んでたじゃないすか!?」
「あ、ああ・・・」
「パパリンってなんすか!? パパリンってレベルじゃないすよ!?
あれどう見ても親分じゃないですか!?」
「・・・そうだな・・・」


ひょっとしてこいつ、さっきずっと黙ってたのは、権三にびびってたからなのか・・・?


「いやあ、死んだふりをしてなんとかやり過ごしましたけどねー。
危なかったー、あの人絶対ひと殺したことありますよ」
「やっぱりびびってたんだな?」
「・・・し、心外な。 勇者とは勇気ある者のことです。 相手がモノホンの親分でもびびったりしません」


おれは軽く頭痛を覚えながら、宇佐美に言った。


「で、びびりながらも話は聞いてたのか?」
「ええ、まあ・・・」
「どう思った?」
「ですから記憶喪失の少女は美人に限るな、と」
「めちゃめちゃ記憶が飛んでるじゃねえか」
「え?」
「"魔王"だよ。 また"魔王"が暗躍してるってよ」
「それはまったく、笑い事ではありませんね。 さ、詳しく話してください」
「・・・・・・」


・・・こいつ、本当にだいじょうぶなのか?


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 


練習に明け暮れる選手たちを尻目に、おれたちは会話を続けていた。

 

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「いえね、今日の学園帰りにいきなり先生に言われましてね、浅井さんのお父さんが呼んでるって。 ミステリでしょう?」
「権三もいきなりだな・・・」
「権三さんというんですか。 ますますパパリンから遠ざかっていきますね」
「誰にも言うなよ」
「言えませんよ。 しゃべったら東京湾に沈められてしまいますからね」


いまどきコンクリ詰めにされるようなことはないと思うが・・・。


「それで、"魔王"のことだが・・・?」
「ええ。 現時点ではなにもわかりません」


きっぱりと言う。


「権三の自宅の所在を知っている人物こそが、"魔王"です」
「おおざっぱすぎるな。
幹部組員はもちろん、権三と付き合いのある人間すべてが容疑者になっちまうぞ」
「ええ、ですから、わたしは"魔王"じゃありませんね」
「んなことはわかってんだよ」
「さらにいえば、権三と花音の関係を知っていて、なおかつ花音が敗退すると得をする人物です」
「なら、おれも"魔王"じゃないな」
「そうなんすか?」
「もうこうなったらばらすが、花音の所属しているクラブは、おれの関係している会社が金だしてんだ」
「それが浅井興行ですか? いわゆるフロント企業というヤツだったんですね?
ヤクザが資金洗浄や、法律の目を逃れるためによく設立するという」
「厳密にいえば金を出しているのは浅井興行じゃなくて、権三が持ってる会社の一つなんだが・・・まあ、それはいいとしておれが"魔王"じゃないことはわかっただろう?」
「そうですね。 花音が負けたらなにかと損するのでしょうね」
「いわゆる、面子も丸つぶれだしな」
「妹を脅迫してなおかつ、自分の母親を殺そうだなんて鬼畜にもほどがありますよね」
「ああ・・・」


ひっかかるものがあって、口をすぼめた。


「えっとな、その、母親なんだが・・・」
「なるほど、浅井さんの実のお母さんではないんですね?」
「なんでわかった?」
「いえ、さきほどのお話では、権三さんはこう言われたのでしょう。 浅井花音が日本代表に選ばれた場合、花音の母親を殺す、と」


うなずいて、宇佐美の話の先をうながした。


「花音の母親を殺すということですが、もしこれが、"魔王"の脅迫文そのものだったとしましょうすると、少し表現が怪しいです」
「・・・なるほどな」
「脅迫状が、権三さんに宛てられているのならば、文面は『お前の妻を殺す』となりそうなものです。
ここで、たとえば『お前の妻』では文意が通らなかったとしましょう。
すると、花音の母親は、権三さんの妻ではないということになります。
母親だけど、妻じゃない、これはいかに・・・?」
「わかったわかった。 ・・・愛人だったんだよ、昔のことだけどな」
「花音は連れ子というわけですか?」
「いいや、権三と、その愛人の間にできた子供だ。 ちなみにおれが権三の養子なんだ」
「ぶっちゃけ似てませんもんね。 あなたと権三さんは」
「花音と権三は血がつながっているけど・・・?」
「いや、その辺は、ギャルはかわいくなきゃみたいな恣意的なオトナの力が働いているわけでして、わたしにはなんとも・・・」
「・・・ま、まあいい」


宇佐美に釘をさしておく。


「このことはぜったいに言うなよ。 花音はいまでも、自分が妾の子だなんて知らないはずなんだからな」
「わかってますって。 東京湾が血の海になりますからね」


恐怖にがたがたと震える素振りをみせた。


「で、そのお母さんは、いまなにを?」
「郁子さんと言うんだがな・・・」


おれはどうもあの人が苦手だ。


「おや? 花音ですね・・・」


ふと、宇佐美が後方の客席を振り向いた。

 

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「おーい、兄さん!」


手をふっていたので、おれも軽く手を掲げた。


「あれ? うさみんもいっしょなの?」
「うむ。 わたしもペンギンのはしくれだからな。 氷が恋しくなったんだ」


ふざけたことを言いながら、宇佐美の視線は、花音の脇にいる人物に注がれていた。



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「どうも、こんにちは」


穏やかな笑みを浮かべる。


「久しぶりね、京介くん。 元気だった?」
「ええ、郁子さんもお変わりなく」


ぎこちなく頭を下げる。


「花音の調子はどうです?」


尋ねると、不可解な間をおいて、ようやく花音にあごを向けた。


「だって。 どう、花音ちゃん?」
「どしてわたしに聞くのかな? コーチから見てわたしはどうなのってことだと思うよ?」
「あら・・・?」


また、一息入れるような間があった。


「そうなの、ごめんなさいね」


なにやら困ったように目尻を下げて笑った。


「わたしは絶好調だよ、兄さん」


不意に花音が取り繕うように言った。


「そうね、花音ちゃん」
「え?」
「だから、好調よねって」
「うん」

 


「だって、京介くん」

「あ、はい・・・」


どうにも郁子さんテンポには慣れがたいものがある。


「そんなことより夕飯の話しませんか?」


宇佐美・・・、こいつはこいつで会話を乱す。


「うん、お腹すいたー。 テラスでご飯食べよー」
「花音ちゃん、七時からまたジャンプの練習ね」
「え? また? 曲流して欲しいよ」
「そう・・・?」


ぼんやりとした顔つきになって、直後気を取り直したように言った。


ヒルトン先生がそう言ってたから」
「そうなんだ・・・じゃあ、やるよ」
「お願いね」
「うん、だからわかったよ」


花音の顔に困惑を通り越して疲労の表情が浮かんだ。


「じゃあね、京介くん。 花音も寂しがってるから、たまにはうちに顔を出してね」
「・・・すみませんね、いつも忙しくて、なかなか挨拶にも行けませんで」
「そんな堅苦しくなることないのよ。 私はあなたのお母さんじゃありませんけどね」


・・・当たり前だ!

思わず喉まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。


「では、ごきげんよう


・・・どうにも勝手が違うというか、調子が狂う。

いまにしたって一言多かったわけだが、それに気づいていないというかなんというか・・・。


「さ、兄さん、ご飯ご馳走してー」
「ああ・・・」
「あれれ? ほんとにゴチなの? 珍しいなー」

 

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「いやいやすみませんね、浅井さん」


ぼんやりと返事をしてしまったが最後、宇佐美のイソギンチャクみたいなもみ手が、目前に迫っていた。


「貸しにしておくからな・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 

三人で夕飯をともにすると、すっかり辺りは闇に包まれていた。

 

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「花音は夜遅くまで練習ですか。 大変ですねえ」
「九時くらいから筋トレしてランニングするみたいだな」
「ははあ、氷の上だけじゃなくて地面の上でもがんばらなきゃいけないわけですね」
「あのちゃらんぽらんな性格の裏で、そりゃ血の滲むような努力をしてるんだろうな」
「そんな花音を陥れようだなんて、まったく、"魔王"は最低の人間ですね」
「ああ・・・」


隣を歩く宇佐美が、ぼさぼさの髪から目だけを覗かせる。


「なんとしても、捕まえたいものですね」
「またお前がしゃしゃり出るのか?」
「今回は警察も頼れないでしょう?」
「む・・・そうだな」


"魔王"からの脅迫状は、権三宅に届いた。

権三はこれを挑戦状と受け取ったに違いない。

自らの力だけで、己に刃向かった愚か者を吊るし上げることだろうな。


「なにより、権三さんに動けと言われた以上、なんにもしなかったら東京湾ですからね」
「いや、別に権三はお前に期待しているわけじゃないと思うぞ」
「それはわかっていますよ。 現時点で"魔王"へのつながりがありそうなわたしを、とりあえず泳がせてみたいんでしょう」


・・・そんなところだろうな。


「警察を頼らせない辺り、椿姫のときと同じニュアンスを感じさせます」


宇佐美の顔が引き締まった。


「"魔王"はまた、わたしと『遊ぶ』気ではないかと」
「しかし、今度はそう容易くはないだろうな」
「ええ。 自分も雪辱を晴らします」
「いや、お前はともかく、"魔王"は、権三以下、有象無象の極道たちを完全に敵に回したわけだろう? 警察とやり合ったほうがまだ良かったとおれは思うがね」
「よほど、自信があるんでしょうね」
「お前も今回は自信ありか?」
「さあ・・・」


小首を傾げて、目の前のくそ長い髪の束を、いじりだした。

 

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「ひとまず、明日もう一度、権三にお会いしたいですね」
「・・・なぜだ?」
「封書が届いたときの状況なんかを詳しくお聞きしたいので」
「伝えておくが、もう権三にびびるんじゃねえぞ」
「耐性はついていると思いますが、浅井さんも同行してくださいね。
自分ひとりだと、ヘビににらまれた蛙みたいになってしまいますから」
「わかった。 じゃあな」


宇佐美に別れを告げると、スケートリンクを後にした。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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「・・・って、なんでまだついてきてんんだよ」
「ですから、家が近くなもので」
「本当かよ!?」


静けさに溢れた住宅街で、思わず叫んでしまった。


「どこに住んでるんだよ?」
「ですからここをまーっすぐ行くと、細かい路地がありますよね」
「ああ・・・」
「その先を抜けると、コンビニがありますよね?」
「あるな」
「ま、コンビニは、おいといて・・・」
「関係ねえのかよ!」
「路地に入る前に信号がありますから、そこをひとまず右往左往・・・」
「もういいよ右往左往とか。 要するに教えたくないんだろ?」
「それなりに人間らしい生活はしていますんで、ご安心ください」


軽く頭を下げると、前髪が水面の葦草(よしくさ)のように揺れた。


「なんだかお前につきまとわれているような気がするな」
「ええ、自分は浅井さんのそばにいたいと常々思っておりますから」
「気持ち悪いな・・・」
「明日は、学園に出られますか?」
「出るよ」
「しかし、浅井さんがよくさぼられるのは、権三さんのお仕事を手伝っているからなんですね。
そりゃ、学園なんて行ってられませんね」
「誰にも言うなよ」
「もちろん言いませんが、浅井さんは本当に目立ちたがらないですね」
「うるせえ」


宇佐美としゃべっていると、いつの間にか自宅マンションのすぐ手前まで来ていた。


「今度また、お邪魔させていただきますね」
「来なくていいから」
「いえいえ、次はわたしの特技を披露しにうかがいますから」
「特技だ?」
「座禅です」
「お前が座禅を組んでる様子を見て、おれが面白いと思うのか?」
「跳ねますから自分」
「いいよ、気持ち悪いから」
「浅井さんは大のクラシック好きと聞いてますから、きっと満足されると思いますよ」
「あー、うるさいもう失せろ」
「はい、おやすみなさい」


宇佐美を無視して、マンションのエントランスに向かった。


・・・・・・。

 

 

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・・・宇佐美と話をしていると頭がおかしくなりそうだ。

真面目に取り合わないのが一番なんだろうな。


・・・。


顔を洗ってベッドに体を沈める。

一息ついて、今日起こった出来事をまとめようとしたときだった。

来客を告げる音色が鳴り響いた。


・・・また宇佐美か!

インターホンの画面を覗いて叫んだ。


「しつけえんだよ!」
「えっ! ご、ごめんなさい!」


インターホンの画面の向こうで、椿姫が身をすくませた。


「・・・すまん、椿姫か」
「ごめんね、忙しかった?」
「いいや。 なにか用か?」
「ううん。 ちょっとしたご挨拶だよ」
「挨拶?」


ピンとくるものがあった。


「引越しが終わったのか?」
「おかげさまでね」


純粋そうな目に、思わず目を逸らした。


「そうか。 とりあえず上がっていけよ」


オートロックの玄関を開放して、椿姫を招き入れた。


・・・。

 

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「お邪魔します」


なにやら四角い包みを差し出してきた。


「そんな気を使わんでもいいのに・・・」
「京介くんのおかげで、引越しもスムーズに終わったから。
あそこって、この辺にしては奇跡みたいに安いんだね」
「だな・・・」
「今度、遊びに来てね」
「ああ・・・」


曖昧にうなずきながら、決して椿姫の新居を訪ねることはないだろうと予感していた。

椿姫たちを田舎の家から追い出したのは、おれだ。

引け目を感じるほど弱くはないが、椿姫の前で友達然とした態度を取っていられるほど面の皮も厚くない。

椿姫は、他人だ。

ただの、金のない女だ。



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「えっと、お仕事、どうかな?」
「もう手伝わなくていいぞ。 ありがとな」


冷たく言った。


「それじゃ、おやすみ」


椿姫は、おれの声色にいつもと違うものを感じ取ったようだ。


「おい、椿姫」


玄関で靴を履き始めた椿姫を呼び止めた。

おれはとっさに言葉を失った。


「また、金のトラブルで困ったら相談してくれ」


なんの意味もなく、慰めにも自己満足にもならないことを口にしてしまった。


「ありがとう。 浅井くん」


呆然と、椿姫の後姿を見送った。


また、目まいがする。


吐き気すら覚える頭痛は、どういうわけか、決まったパターンにしたがって襲いかかってくる。


誰かを哀れんだり、同情したりすると、心が騒ぐのだ。


「仕事をしよう・・・」


つぶやいて、ふらついた足取りのまま、書斎にこもった。

その晩は、意識がはっきりとせず、夢遊病者のように深夜の外出を繰り返した。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 


寒さも手伝って、今朝は体も活動を拒否したかのように、がちがちに固まっていた。

 

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「さーむいねぇ」
「おう、お前が迎えに来なかったら、確実にさぼってたわ」

 

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「まったく、京介くんが進級できてるのが、信じられないよ」

 


「つーか、なんで栄一もいるんだ?」


栄一は、花音の肩に手を置こうとして、身長差に慌てだした。


「とにかく、ボクは花音ちゃんの専属コーチになったから」
「ちょっとちょっと、わけわからん遊びはやめろよ」
「花音ちゃんも了解済みだから」


「はい、コーチ」


コーチ呼ばわりされた栄一は、偉そうに胸を張った。


「なんでそんなことになったんだ?」
「きのう、エイちゃんと電話してたら、エイちゃんがけっこー詳しいことが発覚したの」
「詳しい?」


「スケートだよ。 ボクはね、ペットとスケートと三国志においては誰にも負けない知識を備えているんだ」
「ふーん」


つーか、こいつら、電話とかしてるんだな。


「これからは二人三脚でオリンピック目指すんだもんね」
「うんうん」
「花音ちゃん、学園にいるときは、ボクの指示にしたがうんだよ」
「はい、コーチ」
「じゃあ、ボクのかばん持って」
「ヤダ」


・・・いきなりダメじゃねえか。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「花音ちゃん、いつも寝てちゃダメなんだよ」


栄一の説教が続いていた。


「スケートしかない人になったらどうするの?」
「金メダル取ったらプロに転向するからいいの」
「だからダメなんだよ。
フィギュアスケートはメンタルなスポーツだよ?
人間性を養ってこそ、観客を魅了するような演技ができるってもんじゃないか」
「でも、のんちゃんエイちゃんよりテストの成績いいよ?」
「ボクはいいんだよ。 男だから」
「男だから?」
「男はね、糸の切れた凧のようなもんさ。 それで女が苦労する」


やたらハードボイルドなことを言っている栄一。


「まあ、わかったよ」
「そう?」
「うん、おやすみ」


毎朝のことで、机に突っ伏す花音だった。

 

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「ったくよー・・・」


栄一なりの憤怒の相で、おれをにらみつけてきた。


「どうなんよ、マジでこのアマは? ああっ? オメーの妹だろうが?」
「まあ・・・人の話を聞かないことにかけては天下一品なものがあるが」
「こりゃマジでやべえよ、オレちゃんがコーチとしてビシっと決めてやんねえと、道を間違えるぜあのアマは」
「いやいや、花音にはちゃんとした母親がコーチしてるじゃねえか」
「はあっ!?」
「だ、だから顔ちけえんだよ、なんだ・・・?」
「金崎郁子はもうとっくにコーチじゃねえよ」
「は? お前こそなに言ってんだ?」
「花音のコーチは名将ジョージ・ヒルトンだろうが」
「あれ? そうだっけ?
おれの断片化された記憶では、たしか母親がコーチをしてるのが珍しくて、それで花音も注目を浴びて・・・」
「オメーの頭はどんだけ断片化されてんだよ。
今シーズンからフィギュアスケート連合の要請でヒルトンが花音についてんだよ」
「いや、だって、花音も郁子さん・・・ママのことをコーチって呼ぶぜ?」


栄一が、あからさまな侮蔑をこめて、深いため息をついた。


「いいか、オメーのその要デフラグな脳みそにちゃんと書き込んどけよ?」
「お、おう・・・」
「花音みてーに才能がありそうな選手はよー、連合の指示でそれまでお世話になった地元の先生か
ら、時期を見てたいてい海外の実績のあるコーチに移籍させられるんだよ」
「ははあ、なるほどな・・・」
「でもよー、ガキのころからずっとお世話になってたわけだろ?
花音の場合は金崎郁子か? 愛があるわけだよ」
「わかったわかった。 コーチじゃなくなったからって、もうお払い箱ってわけでもないだろうな」


しかし、郁子さんも大変だな。

いきなり仕事を奪われたんだからな。

その辺の経済的フォローはあるのかね・・・どうでもいいが。


「で、そのジョージ・ワシントンってのはすごいのか?」
「ぬりいぃぃんだよっ! てめえ、わざと間違えただろうが!」
「ぬるいとか言うな」
ヒルトンはよー、半端ねえぞ。
選手時代にオリンピクックに二度出場してどっちも表彰台に上がってる。
四十年くらい前の世界大会では金メダル、翌年も銀。 引退してからは有名選手を次々に・・・」
「あー、わかったわかったすごいすごい」
「ぬりいぃぃんだよっ!」
「とにかく、その人に任せておけば花音も万全なわけだろ?」
「まあな」
「じゃ、お前なんかぜんぜんいらねえじゃん」
「オレはともかくお前がそれじゃ話になんねえよ」
「おれが?」


栄一はビシッと指を突きつけてきた。


「なんでテメーはそんなに興味ないんだ? 妹がオリンピックに行くかもしれねえんだぞ?」
「興味はあるってば」
「普通の親兄弟はよー、とにかく気が狂うくらい応援するらしいぜ?
娘がオリンピックに出るためなら学校だって辞めさせますってな勢いだ。
コーチの指導に口をはさむのもいるらしいぜ?」
「だから、興味あるってば。
あれだろ? スケートだけに、スゲー、トぶんだろ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ぬ、ぬりいぃぃんだよっ!!!」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


「わかったわかった、グランドシリーズってのは、いわゆる賞金戦で、選手権じゃないんだな」
「だから、必ずしも世界最強が決まるわけじゃないんだ。 棄権する選手もいるからな」


昼休みになっても、栄一の説教は続いていた。

 

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「なるほどですね。
花音は今後そのグランドシリーズのNKH杯とシリーズ決勝戦であるファイナルというのを控えてるわけですね」


なぜか宇佐美も勉学に加わっていた。


「で、今年最後に、日本最強決定戦である全国大会が行われるわけだな?」


「でも、世界大会は来年の三月ですよね? やけに間があきますね」
「その辺がアメリカとかと違うところでね、選手のコンディションにもブランクが出るってのに」


栄一は、なにやら我がことのように不満げな顔をしていた。


「で、もう一度聞きますが、世界大会に出るには、全国大会で優勝しなければならないんですね?」
「いちおう、現状の取り決めではそうなってるね」
「では、たとえばグランドシリーズファイナルで優勝しても関係ないんですね?」
「昨日も言ったけど、いちおう考えるみたいな曖昧なことになってるみたいだよ」
「と、言いますと?」
「たしか、全国大会で、一位と二位の選手の得点差が一位の選手の十パーセント以内だったらとか
そんな感じ」
「それは現実的に意味のある規定なんですかね?」
「あるよ、もちろん。 けっこう僅差で決まることがあるからね」


「ほう?」


「女子フィギュアはショートとフリー合わせて二百点いかないくらいだからね」
「なるほど、二位の選手と二十点くらいの差をつけなければ、世界への切符が確実とは言えないわ
けですね」


宇佐美がしきりにうなずく理由がようやくわかった。


「ファイナルで優勝すると、"魔王"のご機嫌もかなり悪くなるわけですか・・・」


「しかし、考える、ってのが実に曖昧だな」
「でしょ? なにかと腹黒いんだよね」


もし、花音が全国大会で優勝するとしても、ファイナルをおとしていた場合、二位の選手と大差をつけて勝たなくては、世界は怪しいってことか・・・。


「で、花音のほかに、強豪はいるのか?」
「んー」


栄一はらしくない仕草で、いっちょ前に腕を組んだ。


「瀬田真紀子かねえ・・・今年になって調子いいのは」
「ほほー、その人はどんくらいすごいんだ?」
「ま、花音の武力が90くらいだとしたら、瀬田は85くらいはあると思う」


「一騎打ちをしたら、ちょい危ないですね」
「人気だけでいったら、花音の戦闘力が1500で、瀬田は5くらいなんだが・・・」
「圧倒的ではないですか、我が軍は。
しかし、人気というのはちょろちょろ変動するもんでしょう?」
「瀬田もそこそこかわいいからねー。
いままで注目されなかったのは、先の世界大会でわけのわからん負け方したからと、バックについ
てるスポンサーかな」


「スポンサー?」
「よく知らないけど、瀬田は山王プリンセスホテル所属だよ?」
「・・・っ!?」


・・・面倒なことになったな。

東区の開発の件で、ついこの間まで良好な取引を続けていた山王物産が相手か・・・。


「そのスポンサーは、なんかやらかしたのか?」
「いや、もちろん噂だけどね。
前回の世界大会でさ、金の力で無理やり世界大会に出したとか・・・」
「根も葉もない噂か?」
「いいや、なんで瀬田なんだっていう意見は多かったよ?
連合は経験を積ませるためみたいなこと言ってたけど、それにしたってもっといい選手はいたからね」
「けっこう、いまでも騒がれてるのか?」
「いいや、もうぜんぜん」


おれもたいがい忘れっぽいが、世間もそういうことをすぐ忘れるんだろうな・・・。

 

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「みんな、なんの話ー?」


花音が、おれたちの輪に割って入ってきた。


「花音ちゃんのことを話してたんだよ?」
「え? まだコーチごっこ続いてたの?」
「続いてるよ。 君がその手に五輪をつかむまではね」
「もう、飽きたよ」
「飽きるの早すぎるんだよ! 君には集中力ってものが・・・!」
「四分は持つからだいじょうぶだよ」


四分は、フリースケーティングの演技時間・・・だったかな?


「たとえば、花音ちゃんはよく言われてるだろう? ジャンプは上手いけど、ステップシークエンスはどうなの?」
「それは、おいおい」
「おいおいじゃないよ、こっちがオイオイだよ!」
「だって、いまの採点方式だったらジャンプができれば他でちょっとミスしても平気だもん」
「だーかーらー!
極端にいえば、花音ちゃんは、ハドーケンができないのにショーリューケンばっかりうまくなっているみたいなもんなんだよ・・・!」


栄一コーチのお叱りはまだまだ続くようだった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

時間は午後四時を回ったばかりだった。

宇佐美がすぐさまおれを捕まえに来た。

 

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「では行きましょう」
「ああ・・・っと、権三の家だったな?」
「まさか忘れてたんですか? 昨日の話ですよ?」
「昨日はいろいろと忙しくてさ」
「ほう、どちらへ?」
「・・・いや、それも忘れたが・・・」
「一度、医者にいかれることをお勧めします」


・・・もう行ってるが。


「言っておくが、失礼のないようにな」
「礼儀作法には自信があります」
「そんな軽口かましたらマジで東京湾だぞ?」


やや緊張気味の宇佐美を連れて、南区に向かった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

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「同じ富万別市でも、ここは静かな街ですねー」


整った歩道の両脇にそびえる樹木に、参道を歩いているような印象を受ける。


「まったく、こんなところを身代金の受け渡し場所に選ぶはずがないんですよね」
「恨めしそうな顔すんなよ、本当にお化けみたいだぞ?」


しかし、もし、宇佐美がもう少し富万別市の地理に明るかったら、"魔王"の手口に気づけたのかもしれないな。


「ものものしいくらいにリッチな街並みですね」


宇佐美の言うように、柵や門に囲われていない家を探すのが難しいくらい豪勢な建物が続いている。


「白鳥の家もこの辺だぞ?」
「そういえば、ここ最近休んでますよね、彼女」
「家庭事情が大変なんだろうな」
「ふむ・・・」


人生の勝者が住むに相応しい豪壮な建物と、豊かな緑を宿す大きな木々を尻目に、おれたちは浅
井権三宅を目指した。


・・・・・・。

 

・・・。

 

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「うわ、これまたいかついすね。 庭に池のある家とか初めて見ましたよ」
「ちょっと黙ってろ」


インターフォンをコールすると、しばらくの沈黙の後、女中さんの声が聞こえた。


「やっぱり、神棚とか日本刀とかあるんでしょうねー」


どこかピクニックに行く前の子供のような顔をしていた。


・・・。

 

「京介です。 宇佐美ハルを連れてきました」


襖越しに呼びかけると、何かをしまったのか、棚を動かすような音が聞こえた。


「入れ」


・・・。

 

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広々とした和室に、浅井権三が座していた。

書き物の途中らしく、おれたちの姿を認めると、筆をテーブルに置いた。


「おい、挨拶しろ」


宇佐美の丸まった背中を叩いた。


「て、てまえ、生国と発しますは・・・」
「馬鹿! 仁義切ってどうすんだ!」
「あわわ・・・!」


パニックに陥りそうになった。


「続けろ」
「え?」
「お前は何者なんだ?」


権三は、値踏みするような目で宇佐美に聞いた。


「じ、自分は・・・その・・・」
「黙れ」
「はい?」
「どうも京介から女の、それも至極上等な雌の匂いがすると思ったが、お前だな?」
「えと、自分は、こんな髪型でもお風呂には毎日入っていまして・・・」


権三が押し黙り、おれも背すじを凍らせた。


「あの・・・頭くせーとか言われるヒロインじゃないんで・・・あの・・・」


おどおどと、しかしいつもの調子で口を動かす宇佐美に、ついに権三は・・・。

 

 

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「面白い女だ」


どういうわけか、ささやくように言って、唇の端に笑みすら携えた。


「そうやって、京介をたぶらかしているわけだな?」
「いえいえ、まさか・・・浅井さんとは、まだおててをつないだことも・・・」
「死に損ないの匂いがするぞ、宇佐美ハル」
「・・・っ?」
「恐縮しているふりを見せているが、腹の底じゃ極道なんて少しも怖くないって面構えだ」
「それは・・・」
「目線を外しているようで相手の様子を探っている。
それが証拠に、お前はついさっき俺が隠した拳銃の場所を知っている」
「え? え?」
「後ろの棚が気になるか?」


・・・そういえば、この和室に入る前に、引き出しを閉じるような音が聞こえたが。


「た、たしかに、あの、そちらの棚をチラ見してたのは、認めますけど・・・」
「では、なぜ、三段ある棚の一番下だけを見ていたんだ?」
「・・・・・・」
「音だろう? 最下部は一番重い音がするからな。 だいぶ音感も優れているようだ」


宇佐美は、しばし固まったあと、ゆっくりと背すじを正した。


「これはどうも・・・本当に恐縮しました」


いままでとは打って変わって、低く、絞り出すような声だった。


「無礼は"魔王"を捕まえたら帳消しにしてやろう」
「では単刀直入にお願いします。 "魔王"から届いた封書を拝見させてください」


権三はうなずいて、スーツの内ポケットから、茶色の封筒を取り出してこちらに放った。

宇佐美がそれを拾い上げる。


「・・・"魔王"」


宇佐美が"魔王"と口ずさんだ理由はなんのことはなく、裏面に、小さく"魔王"と書かれていたからだった。


「中を見させてもらいます」


すでに開封してあった封筒から、白い紙を引き上げた。


「手書き、ですか・・・」

 




親愛なる勇者と怪物殿へ――


大勢の犠牲者が出ることだろう。

浅井花音がオリンピックを目指す限り。

ある殺人鬼を野に放った。

名前は〈メフィストフェレス〉としよう。

戯曲ファウストに出てくる悪魔だな。

ゲーテつながりということだ。

すでに昨晩不幸な男が命を、散らした。

花音の周りにいる人間は次々に同じ運命を辿る。

とくに花音の母親に、ついては殺人リストから外れることはない。

忠告に耳を傾づくつもりがあるのならば、近日開催されるNKH杯でわざと負けろ。

さもなければ、また新たな死が生まれる。

一つ、アドバイスを。

まずありえないと思うが、國家権力に知らせた場合、報復は苛烈を極める。


追伸:例の株券は鼻紙に使わせてもらった。


                        "魔王"

 

 

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


宇佐美と額を寄せて文章を目で追っていった。


「どう感じた?」
「やけに汚い字ですね」


宇佐美の言うように、文字はひどく歪んでいた。

まるで幼い子供が書いたように、雑で癖の多い字が不気味でもあった。


「まさか、手書きですか・・・」
「手袋でもして書いたのか、指紋は残していないようだがな」


・・・たしかに、脅迫状である以上、文章には最新の注意をはらうはずだ。

新聞の切抜きを利用したり、パソコンを用いたりと、とにかく筆跡がばれないようにするのでは?


「わざと、雑に書いたんでしょうかね」
「それにしたって、警察が本腰入れて調べれば、この文章から"魔王"の特徴くらいつかめるんじゃないか?」
「あるいは・・・」


宇佐美は黙り込んで、眉間にしわを寄せた。


「ところで、内容から、すでに犠牲者が出ているということですが・・・?」
「昨日の夕刊を読んでないのか?」
「・・・え?」
「あるデザイナーが死んだ。 花音の衣装を手がけたこともある」
「・・・死因は?」
「自宅マンションの階段から足を滑らせて頭を打った。
目撃者はいない。 争った形跡もない。 事故の線で進めていると話を聞いた」


"魔王"が、突き落としたのか・・・。


「消印ですが・・・」


宇佐美がぼそりと口を開いた。


「市内からだな」
「当然、この手紙が投函されたポストの周辺は洗っているのでしょう?」
「徹底的にな」


宇佐美は指で脅迫状を叩いた。


「さらにこの『國』という文字ですがね・・・」


・・・國家権力に知らせた場合、とある。


「気づいたか」
「これは、現体制に不満を抱いた人たちが好んで使う漢字ですね」
「いま付き合いのある組織を通して、できる限り調べている。
だが、連中は自分たちの思想に共鳴しない人間には鎖国的だ。 時間はかかる」


つまり、"魔王"は、なんらかの政治思想を持った人間で、かつそういった団体に所属している可能性もあるということだ。


「どうも考えがまとまりません。 浅井さんはどう思います?」
「なにがだ?」
「なんでもいいからとにかくしゃべってください、ワトスン的な発言を」


ワトスン的な意味がわからなかったが、とにかく口を開いてみた。


「そうだな・・・"魔王"は、あまり程度の高い教育を受けなかったんじゃないかな・・・」
「ほほう?」
「たとえば、句読点の位置がちょっとおかしくないか?」


おれは該当箇所を指で示した。


『すでに昨晩不幸な男が命を、散らした』
『とくに花音の母親に、ついては殺人リストから外れることはない』


「ここなんだが、たとえば『すでに昨晩、不幸な男が命を散らした』とかのほうが読み安くないか?」
「ふむぅ」
「『とくに花音の母親に、ついては殺人リストから外れることはない』・・・これなんか、変だろ。
『とくに花音の母親については、――』じゃねえのか?」
「なるほどなるほど」
「あと、耳をカシヅク・・・とかいう表現も聞かない。 傾ける、だろ」
「ですよねー」


・・・なんかムカツクなこいつ。


「ちなみに浅井さんも国語は苦手とか?」
「お前もだろ?」
アインシュタインもです」


・・・ああいえばこう言う・・・。


「さしあたっていまやるべきことは、被害予定者のリストアップだと思うのですが?」
「もうやっている」


権三は、背後の書棚から一枚の紙を取り出して、宇佐美に差し出した。


「けっこうな数ですね・・・」


リストには、死亡したデザイナーを含め、郁子さんやコーチのヒルトン、振付師や大会の役員などの名前も連ねてあった。


「自分と浅井さんの名前もありますよ?」
「花音の周りにいる人間だからな・・・下手すると次はお前かも知れんぞ?」


当然、父親である権三の名もあった。

この数あるリストのなかで唯一殺害が確定しているのが、郁子さんというわけか・・・。


「これは頂戴してもよろしいでしょうか?」


権三は宇佐美の申し出を了承した。


「できれば、この脅迫状もお願いしたいのですが?」
「いいだろう」
「ありがとうございます。 封筒もセットでお借りしますね」


丁重にハンカチにつつんで、さらに鞄の中から取り出したクリアファイルに挟み込んだ。


「では、失礼します。 なにかわかりましたら、浅井さんを通してご報告します」


おれも宇佐美にならって一礼した。


「あ、すみません。 最後にひとつだけ」


振り返る。


「このことは花音には・・・?」
「もちろん話さん」
「ですよね」
「が、人の口に戸は立てられん。 そのうち知られてしまうだろうな」


「花音のオリンピック出場を決める全国大会は、いまから二週間後でしたっけ?」
「その間に二つの大会がある」


おれがそう答えると、不意に、宇佐美が眉を吊り上げた。


「長期戦になりそうですね・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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昨日もそうだったが、宇佐美は、またおれのあとをついてくる。


「お前、権三が怖くなかったのか?」
「え? なんの話ですか?」
「とぼけんなよ、びびったふりしやがって」
「いえいえ、権三さんはわたしをかいかぶっていましたが、昨日は、完全に卵をかかえたペンギンのように固まってしまいましたよ」


・・・ペンギンは卵をかかえると、固まるのか・・・?


「ただ、たしかに、今日お会いして、いくらか気が楽になったのは本当です。
あの方は、恐ろしいですね。 平静さと荒々しさを兼ね備えている上に、相対していていつも監視されているような不気味な印象も受けます。
ただ、なんでしょう・・・無意味な暴力は振るわないというか・・・。
こっちのお肉がおいしそうに見えなければ襲い掛かってこないというか・・・。
利害関係が一致している限りでは、心強い味方だなと思いました」

 


・・・おれと似たような見かたをしているな。

 


「それはともかく、浅井さん」


不意に立ち止まった。


「浅井さんは、この事件をどう見ますか?」
「どうって・・・」


しばし、考えをめぐらせる。


「殺人予告だからな。 なんにしても花音が心配かな」
「花音は、どこに住んでるんですか?」
スケートリンクの近くだが?」
「お母さん・・・郁子さんと二人暮らしですか?
「それがどうした?」
「花音は、お父さんである権三といっしょに暮らしていないことに、なんの疑問も感じていないんですか?」
「さあ・・・まったく不満を覚えていないわけでもなさそうだが、そういった話を花音から聞いたことはないな」
「権三さんが、暴力団の親分であることも知らないんですか?」
「知らない・・・と思うな」


あるいは、知っているが興味がないようだ。


「花音は、変わった子ですね」
「宇佐美もな」
「自分が愛人の子であることにも、父親の職業にも疑問を抱かない、オリンピック候補の学園生ですからね」
「そういうふうに言われるとな・・・」


言葉に詰まった。


「なんにしても、人の命がかかっています」
「そうだな。 しかも、もう犠牲者も出ているときたもんだ」
「・・・警察は頼れないでしょうね」
「こっそり警察に密告したりしたら、"魔王"はもちろん、権三もぶちキレるぞ」
「脅迫状を、警察の専門家の方に預けてみたいものですが・・・」


おれは肩をすくめた。


暴力団は合法的な手続きを踏まなくていいぶん、警察より機動力に勝るものがあるんじゃねえか?」


宇佐美は苦笑いを浮かべる。


「あまりお近づきになりたくない方々ですが、今後、力を貸していただくことになるのでしょうね」


・・・。

 


話しこんでいると、家の前までたどり着いていた。

 

 

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「では、この辺で」
「間違っても花音には知られないようにな」


自分の母親の命が危ないとなったら、さすがに演技にも支障がでることだろう。


「花音は明日から学園も休みですよね? 大会前ですし」
「だったな。 あさってだったか? NKH杯は」


宇佐美は軽くうなずいた。


「さて、引きこもって、手がかりを探るとしましょうか」


背中を丸めて去っていった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

 

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シャワーを浴びて、パソコンと向き合った。

ふと思うのは、宇佐美が転入して以来、あまりに非日常的な事件が続いているということだ。


・・・かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう。


謎のメールが届いたのはいつのことだったかな。

 


・・・。

 

 

 

 ・・・む。

 

どうも、最近は深夜の来客が多いな。

椿姫かな?

 


「やほー、兄さんっ!」
「花音か・・・」
「開けてよー」


大きな瞳をくりくりさせていた。

・・・しかし、このタイミングで花音か。

とりあえずオートロックを解除してやった。


・・・・・・。

 

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「やあやあ、いつきても兄さんちは広いねー」


なんの遠慮もなく上がりこんできた。


「お前来たことあったっけ?」
「ん?」
「あ、いや、あったな」
「なんだよ、また忘れんぼうなのかー?」
「うるせえな、何の用だよ。 大会二日前だってのに」


花音の顔に驚愕の表情が浮かんだ。

 

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「ええええっ!? 兄さんが、大会の日にち覚えてるなんて、どういうこと!?」


・・・そういえば、いままではほとんど興味がなかったからな。

このまえ観戦したのはいつのことだったか。

 

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「なにかやましいことでもあるんでしょう?」
「じと目で見るなよ」


恐ろしく勘のいいヤツだな・・・。


「まさか、バッキーかうさみんとつきあうことになったのかー?」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。 んなくだらない話をしに来たのか?」
「んーん、お泊りしに来たの」


けろっと言った。


「え? マジ?」
「マジ」
「なんでまた」
「なんとなく」


頭痛を覚えた。


「ベッドが一つしかない」
「じゃあ、それはのんちゃんのもんだ」
「だから、一つしかないんだってば」
「いっしょに寝ればいいんだってば」
「あのな・・・」


どう言って聞かせたものやら・・・。


「お前、大会前だからコンディションとか大事な時期じゃねえの?」
「別に夜更かしするつもりはないよ。 ただこれから寝泊まりさせてもらえればいいの」
「まてや」
「あ、お風呂も貸して」
「まてっての」
「あと着替えるときは隣の部屋に行ってください」
「おめーよー! これからってなんだ、これからって! まさか住み着くつもりか!?」
「朝ごはんはしっかり食べるからね。 兄さんの手料理がいいです」
「おまえホントマジでB型だな」
「んーん、O型だよ」
「衝撃的だわ」
「周りとの協調を重んじるタイプです」
「よそへ行ってくれねえかな?」
「ヤダよ、のんちゃん、友達少ないもん」
「それはお前の性格が災いしてるんだ」
「バッキーは大変そうだし、うさみんの家は知らないの」
「栄一は?」

 

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「エイちゃんちはなんかヤダ」
「・・・・・・」
「あとは兄さんだけなんだよ」


なにやら困ったような顔をしていた。


「なんだよ、お前・・・」


少しだけ心配になってきた。


「まさか、郁子さんとケンカして家出してきたのか?」


コーチと選手の衝突というヤツだろうか・・・。


「んーん、ぜんぜん」


キレるわ、こいつ・・・。


「兄さんの邪魔はしないよ?
朝早く出てくし、夜は遅く帰ってくるから。 ね? いいよね?」


おれは・・・。

 

「帰れボケ」


ビシっと言った。


「イヤだボケ」
「オメー、兄に向かってボケとはなんだ!」
「兄さんが先に言った」
「うるさい、謝れ!」
「さ、ストレッチして寝ーよーっと」


おれをガン無視して、床に足を伸ばしだした。


・・・これはもう、折れるしかないのか?


「わかったよ、しゃーねーな」


これみよがしにため息をついた。

 

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「ありがと、兄さんっ」


でへへ、とだらしなく笑った。


「なんだかね、今回の大会はちょっといつもと違うの」
「ん?」
「なんていうかー、ふ、あん?」
「不安?」
「勝つのはわかってるんだけどー、ぷ、れっしゃー?」
「プレッシャー?」
「ていうことにしてよ、無理やり泊まりに来た理由」


・・・単純に、寂しかったということか?


「一つ、言っておくが・・・」


おれは花音のへらへらした顔を見据えた。


「書斎には絶対に入るな、いいな?」
「はい」


特に、理由を聞いてくることもなかった。

花音は、興味のないことに関してはまったく無関心なのだ。

瑣末(さまつ)なことにとらわれないことで、自分の時間を増やしているようにも見えた。


「兄さん、肩もんでー」


・・・やれやれ、おかしな毎日が始まりそうだな。

 

・・・。

 

G線上の魔王【12】

 

 

 



・・・。


親父さんの相談というのは、他愛もないものだった。

おれを呼び出すための口実だったようだ。

別に、悪い気はしない。

そういうところが少しもないヤツのほうが、異常なんだ。

姿見の前で着飾る椿姫には、わずかとはいえおれを欺きたいという気持ちもあるのだろう。

それで、いい。

 

 

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「椿姫、そんな服、いつの間に買ったんだ?」
「通販だよ。 最近は、インターネットでなんでも買えるんだね。 すぐ届くし、便利だよね」
「知らなかったのか?」
「うん、興味なかったから。 なんだかすごく損してた気分」


浮かれた表情ではあるが、若干やつれていた。


「日記は、最近書いてるのか?」
「ううん、ぜんぜん。 書く暇なんてここんところなかったから」


目つきはぼんやりとして、どこか虚ろだった。


「はーあ、もう、日記なんてやめようかな。 いまどきないよね、日記が趣味とか。 どう思うかな?」
「本気でそう思うのか? 椿姫といえば、日記だったが?」
「・・・ん」


眉を寄せた。


「ねえ、お姉ちゃん」
「え? なあに、広明?」
「かくれんぼしよー」
「あとでね。 それより、これ、似合う?」


椿姫は、洋服を掲げて弟に見せつけた。


「んーん」
「・・・あれ?」


・・・子供は正直なもんだな。


「お姉ちゃんは、前にボクがいいって言った服が好きなんじゃないの?」
「あの、パーカー? あれは、もう、ずっと着てるじゃない?」
「うん、それで、お姉ちゃん、ボクのお友達に貧乏ってあだ名つけられた。
でも、それでも好きって言ってたよ?」
「・・・・・・」
「どしたの、お姉ちゃん?」



「浅井くんはどう思う?」


助けを求めるように、おれに目を向けてきた。


「さあな。 どっちかっていうと、新しく買った服のほうが似合うかもな」
「そう? そうだよね?」
「意外な感じがして、いいんじゃないか?」


椿姫はうれしそうに声を弾ませる。


「よかった。 こういうの着ないと、浅井くんに恥かかせちゃうもんね」
「そんなこと気にしなくていいぞ・・・」
「ううん。 だって、浅井くんの私服って、高いんでしょう? 街で並んで歩いてたら恥ずかしいじゃない?」
「本気でそう思うのか?」


おれは椿姫の心情を探るように首をひねった。


「え? なにか変かな?」
「いや、おかしくはないよ。 普通の感覚だな」
「よかった。 最近、ちょっと疲れてるみたいでね。 思ったこと、すぐ言っちゃうことがあるの。 変だったら言ってね」


おれは、黙ってうなずいた。


「ねー、お姉ちゃん」


広明くんは、相変わらず椿姫の足元でちょろちょろしている。


「お父さんに遊んでもらいなさい」
「だって、お父さん、引越しだもん」


親父さんは、朝からずっと荷物をまとめているようだった。


「お姉ちゃんたち、これからでかけるの・・・!」


声を荒げた。


「どこ行くの? ボクも行くー」
「ダメだったら・・・もうっ!」


椿姫は弟の小さな手を乱暴に振り払った。

 

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「あっ・・・」
「・・・っ」


瞬間、怯えのような表情が顔に浮かんだ。


「い、行こう、浅井くんっ!」


弟を見向きもせず、足早に玄関に向かう。


おれは、ただ、椿姫に従った。


・・・。

 


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「はあっ・・・はあっ・・・」


肩で息をする椿姫には、これから遊びに行けるような余裕はまったくうかがえなかった。

 

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「あ、うっかり、これ着てきちゃった」


いつも来ているコートを、不機嫌そうに触っていた。

おれはひどく冷めた気分で、椿姫を見つめていた。


「引越しの準備しなくていいのか? 親父さんがんばってるみたいだが?」
「・・・いいんだよ。 ここんところ、わたしが、ずっとやってたし」
「しかし、ついに引越しか・・・」


伸びをして、古ぼけた家の外観を眺めた。


「生まれたときからずっとここに住んでたんだろ?」
「だったら、なに・・・?」


不安そうに聞き返してきた。

 

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「いや、感慨深いものがあるんだろうなって・・・」
「あるにはあるけど・・・」


歯切れ悪く言いながら、視線を這わす。

椿姫のぼんやりとした目が、家のある庭を見つめていた。


「どうした?」
「ううん・・・よく、あそこで花火したなあって・・・」
「へえ・・・」
「秋になるとね、みんなでお芋焼くの。 お父さんが張り切っちゃって、火事になりそうだったこともあったの。 一番下の子がね、初めてハイハイしたとき、縁側から落っこちちゃってさ。 あのときは大騒ぎで・・・それで・・・・・・」


しぼんでいく、明るい笑顔。


「なあ、椿姫・・・」


おれはゆっくりと、そしてできるだけ優しげに椿姫の肩に手を置いた。


「新しい家でも、たくさんいい思い出は作れるだろう?
おれも間取りは見たが、いい部屋じゃないか。 おれの家も近い。
お前の家族におれも混ぜてくれよ。
おれは、あまり家族との交流のない生活を送ってるし、正直、温かいみそ汁が恋しい夜もある」
「・・・浅井くん」


椿姫は、そっとおれの手を取った。


「誘拐だの立ち退きだの、嫌なことが続いてストレス溜まってるんだろうが、これから楽しくやればいいじゃねえか」
「浅井くんにそう言われると・・・なんか元気でるな」


熱を帯びたように、頬が染まっていく。


「じゃあ、街に出ようぜ」
「・・・うん、あ、待って・・・」


不意に、椿姫が首を傾げる。


「浅井くんって・・・」
「ん?」
「ううん、ごめん。 なんだかね、そういう話し方するときの浅井くんってちょっと違うなって思ったの」
「たしかに、学園にいるときのおれとは違ったかな」
「あ、そうじゃなくて・・・なんだろ・・・」


また不意に、小さく笑った。


「犯人みたいなしゃべり方だなって、思ったの。 ごめんね」


おれもつられて笑う。



「おれが"魔王"かよ。 宇佐美みたいなこと言うなよ」
「え? ハルちゃんに疑われてるの? ひどいな。 浅井くんが犯人なわけないのにね」
「まったく、宇佐美には困ってるよ」
「気にしたらダメだよ。 わたしは信じてるからね。
浅井くんがいなかったら、広明も返ってこなかったかもしれないんだし」
「おれはたいしてなんもしてねえよ。 それより、いいかげん出かけようぜ」
「そうだね、寒いしね」


おれたちは、互いに似たような笑みを携えながら、家を離れた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「とりあえず満足か?」
「うん、化粧品なんて初めて買ったよ」
「ちょっとだけ、クラスの女の子連中に近づいたな」
「みんな、やってるもんね」
「おれも厚化粧は好みじゃないが、目の下のクマくらいなら隠して欲しいかもな」
「ごめんね、そういうの疎くて」


歩きながら雑踏を抜ける。


「あ、ごめん、電話」


買ったばかりの椿姫のケータイにはたびたび着信があった。

 

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「・・・うん・・・わかんないよ・・・うんっ・・・」


手を添えて小声で話す椿姫は、不機嫌そうだった。


「どうしたんだ?」
「また家から。 お母さんのバッグ知らないかって。 そんなのわたしが知るわけないのに・・・。
まったく、わたしがいないとなんにもできないんだから・・・」
「帰るか?」
「ううん、まだ平気だよ」


すぐさま首を振った。


「おや? 浅井さんじゃないすか?」


背後から宇佐美の声がして、振り返る。

 

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「おやおや? 椿姫もいっしょですか。 これはこれは」



「ハルちゃん、どしたの?」


「よくばったり会うよな? おれのあとつけてんのか?」



「そんないきなり二人して詰問してこなくても。 自分はバイトの帰りにちょっと、駅に寄ってただけです」
「駅に? どこか行くのか?」
「いえいえ、証拠でもないかなと」
「証拠だって?」


しかし、こいつは、知ってか知らずかおれをひきつけるようなしゃべり方をするな。

 

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「あ、いえいえ。 デート中に話すようなことでもありませんです、ハイ」


「浅井くん、行こう?」


「ちょっと待てよ。 なんだよ、なにか犯人の足取りでもつかめたのか?」
「いいえ。 まったく」


宇佐美は顔色一つ変えない。


「お前、きのう、なにか話があるとか言ってなかったか?」
「え? いいましたっけ?」
「・・・お前な」
「あー、なんか口走りましたね、自分」
「もったいつけるなよ」


宇佐美はさらりと、けれど無表情に言った。


「はい、では言います。 あなたが"魔王"です、浅井さん」


断言した。


あまりに突拍子もない言い方だった。


おれの右の頬がひきつっていく。


「あなたは前もって、駅のコインロッカーの鍵を複製しておいたんです」
「・・・なんだと?」
「あの身代金を巡る追走劇のなかで、駅のコインロッカーに身代金が収められたことがありました。
そのとき、わたしはあなたに、不審な人物が来ないかどうか見張っておいて欲しいと頼みましたね?」
「ああ・・・たしか、椿姫がロッカーの鍵だけを持って街中を走り回ってたときだろ?」


宇佐美はうなずいて続けた。


「あなたは、前もって用意しておいたコインロッカーの鍵を使い、ようようと身代金の株券を手に入れたんです」
「冗談もそのへんにしろって。 駅の鍵を複製したって? おれが? いつ?」
「あなたは事件当日、仕事があるといって行方をくらましていましたよね?
鍵の複製なんて、その辺のお店で三十分もあればやってもらえます」
「記憶にない」
「いや、盲点を突かれました。
トリックそのものは単純ですが、まさか、信用していた浅井さんこそが、犯人だったなんて」


おれは言葉に詰まった。

おれは犯人では断じてないが、宇佐美の推論をとっさに論破するだけの機転が利かなかった。


「ハルちゃん、もういいよ。 事件のことは、もうハルちゃんには関係ないでしょう?」


椿姫は、あくまでおれの味方のようだった。


「なんか、やだよハルちゃん。 いろいろ手伝ってくれたのはわかるけど、けっきょくハルちゃんは、なにも解決してくれなかったじゃない?」
「・・・・・・」


宇佐美は、無表情を崩さない。


「せっかく、こうして嫌なこと忘れようとして遊んでるのに・・・」
「まったくだ。 とっとと行こうぜ」


椿姫をうながしながら、軽く頭を振る。

少し、めまいがする。


「おい、宇佐美。 今日のことは忘れてやる」
「そすか。 ありがとうございます。 では最後に一つだけ」


「ハルちゃん!」


「もし、わたしの言ったことに心当たりがあるのなら、すぐに自首してください。
警察はすぐに証拠をあげるでしょう。
近場の鍵屋さんを徹底的に洗うでしょうし、駅には監視カメラもあるんです」
「その警察は動いていないんだろう?」
「ええ、ですから、残念でしかたがないんです」
「話にならんな」


椿姫の手を引いた。


「・・・・・・」
「じゃあね、ハルちゃん」


宇佐美は、軽く会釈して歩き去っていった。


・・・。



「気にしないでね、浅井くん・・・」
「ああ・・・」


・・・宇佐美め、まだあきらめていなかったのか。

しかし、警察さえ出てこなければ、だいじょうぶだ・・・。


・・・む?

なにが、だいじょうぶなんだ?

深く考え込む。


・・・いや、おれは、浅井興行と総和連合に警察の手が入らずに済むことを願っているだけだ。


おれが、"魔王"であるはずがない。


そういえば、最近秋元氏のところに行っていないな。

 

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「どうしたの? だいじょうぶ、わたしはたとえ浅井くんが"魔王"でもいいよ?」


軽口のつもりだろうが、あまり笑えなかった。


「さ、ご飯食べに行こう?」


椿姫は改めて手を差し伸べてくる。

おれに従順な椿姫。

気持ちを切り替えて、椿姫と楽しもう。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「あー、すっごい、楽しかったー」


両腕を振り上げて、伸びをした。

こういう仕草も、以前の椿姫にはないものだった。


「今日は一日遊んだな。 満足か?」
「うん、ご飯もおいしかったー」
「金があるって素晴らしいだろ?」


椿姫は大いにうなずいた。


「なんか見聞が広がるよね。 いままでそういうの興味なかったけど、お金ってとっても大事だね」
「金はさ、使いようによっては、どんなもんでも買えるぞ」
「どんなものでも? たとえば?」
「お前の気持ちとかな・・・」


冗談ぽく言った。


「え? や、やだなあ、それにはお金なんていらないよ?」
「あー、すまん、ギャグだよ。 どうもおれのギャグは半スベりだな」


人気のない夜の公園で、笑いあう。

それなりに楽しかった。

おれが、もう少しまともな人間なら、こういう毎日の積み重ねで、椿姫に愛情を抱くのかもしれないな。

寂しい気持ちもあった。

椿姫と別れるのが、なぜか名残惜しい。


「ねえ、浅井くん、明日は?」
「お、またお誘いか?」
「うん、ダメかな?」


・・・明日は、さすがにやるべき仕事がある。


「浅井くんってお父さんのお仕事手伝ってるんだよね? それで忙しいんだよね? どんな仕事なのかな?」


まくしたてるように尋ねてきた。


「興味あるのか?」
「うん」


おれは少しだけ思案した。

仕事をする上で、長らく望んでいたことがある。

秘書・・・というとずいぶん偉そうだが、つまり助手のような人間が欲しいのだ。

ちょっとした書類をまとめたり、郵送に行ったり、メールをチェックしてもらったりと・・・細やかな作業を任せたい。

浅井興行の人間はダメだ。

実力はあっても、おれに従順なわけではない。

彼らは皆、おれではなく権三に忠誠を誓っているのだ。

そう遠くない将来、おれはおれの組織を持たなくては。

そういった意味で、椿姫はうってつけの人材といえる。

この闇社会で、女はそう表には出せないが、使い道はいくらでもあるだろう。


「明日、ちょっといっしょに動いてみるか?」
「え? どういう意味?」
「手伝って欲しいんだよ」


椿姫の顔に当惑の表情が浮かぶ。


「わ、わたしなんかでいいのかな?」
「だいじょうぶだよ。 お前は真面目で几帳面だから」
「ほんと? うれしいな。 でも、びっくりだな」


興奮して漏れた息が、寒さに白く染まっていた。


「もちろん、誰にも言わないでくれよ?」


椿姫は目を輝かせて、おれの声に聞き入っていた。


「ぜったい、言わないよ。 約束するよ」
「なら、明日また改めて連絡する」
「必ず出るようにするよ」
「必ずだぞ」


念を押すと、椿姫の顔が強張った。

 

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「明日おれは、学園を休む。 でも、お前は学園だな。
授業中でも電話に出られるか?」
「え?」


さすがに不安になってきたようだ。


「おれはいままでけっこう休んでるだろ? たまに本当に頭痛がひどくて休むこともあるが、たいていはカイシャのためだ」
「カイシャ・・・? お仕事のことだね・・・」
「納得したか? おれにとって学園は、息抜きの意味合いしかない場所なんだ。
仕事を手伝ってるってのは嘘で、あくまで、カイシャの仕事がメインなんだ」
「知らなかった・・・すごい人だなって思ってたけど、そうなんだ・・・」
「だから、電話があったら、すぐに出てくれ。 それぐらいシビアな仕事でもある」


一歩詰め寄った。


「約束できるか?」


椿姫は、息を呑んだ。


「わ、悪いことしてるわけ、じゃないよね?」
「当然だろ。 法律に触れるようなことはしてないよ。 悪いことなんて一つもないよ」


たまに犯罪すれすれのグレーなラインを踏むこともあるが、いまは教えなくていいだろう。


「・・・えっと」


迷っていた。

けれど、ここまで話した以上、逃がすわけにはいかない。


「こんなことを話すのは椿姫が初めてだ。 正直なところ、いままで誰にも打ち明けたことがない」


最初は小さく、低い声でゆっくりと話す。


「なんせおれみたいなガキが、社会人の真似事をしてるわけだからな。
みんな信じないし、苦労なんてわかってもらえるわけもない」


徐々に口調のテンポを上げ、そのうち感情に訴える。


「でも、お前は別だ、椿姫。 縁あって仲良くなれた。
誘拐っていう悲劇を通じてだけど、お互いに知りえた部分は多かったはずだ。 なにより・・・」


声を張る。


「ここ数日、楽しかった。
正直あんまり人に心を許したことはないけど、お前は別だ。
椿姫だから、打ち明けた。 おれが秘密を打ち明けられるような人間は椿姫しかいない」


何度も名前を呼ぶことも忘れなかった。


「・・・・・・」


椿姫は目を丸くして、浅い呼吸を繰り返していた。


「そんなふうに思われてるなんて・・・。
うん・・・わかった・・・わたしも、明日、学園休んで電話待ってる・・・」


・・・これでいい。

別に、緊急で呼び出さなきゃならん仕事なんてないが、問題は、椿姫がおれの言うことをちゃんと聞くかどうかだった。


「じゃあ、明日な」
「うん、おやすみ・・・」


手を振って、別れた。


振り返ると、椿姫はしばらくその場に立ちすくんでいた。

そこに、小さな影が沸いて出てきた。


「お姉ちゃーん・・・!」


弟だった。

 

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「広明、なにしてるの・・・!?」
「お姉ちゃん、迎えに来たんだよ?」


おれは、姉弟のやりとりを遠巻きに眺めていた。


「・・・まさか、また一人で?」
「んーん。 お父さんも、もうすぐ来るよ?」
「どうしてお父さんといっしょに来ないの!」


椿姫がまた、ヒステリックな声を上げた。


「お姉ちゃん言ったよね? もう、一人で勝手に出歩いちゃだめだって」
「ごめん、でも、お姉ちゃん帰ってくるって言って帰ってこなかったから」


頻繁にあった電話のなかで、椿姫は帰宅時間を家族に告げていたようだ。


「だから、何回同じこと言わせるの?」


椿姫は、しゃがみこんで、弟に話しかけていた。


「・・・・・・」


しかし、あの弟には手を焼くだろうな。

椿姫の気持ちもわからんでもない。


「いい加減にして!」
「なにがー?」


田舎の夜は、声の通りがとてもよくて、小さい声でも聞こえてくる。


「心配してるの! 広明がまた同じ目に合うんじゃないかって、どうしてわからないかな?」
「だいじょうぶだよ! ボクはだいじょうぶだって!
一人で保育園から帰ってこれるよ? 一人でお姉ちゃん迎えに来たよ?」
「・・・くっ」


椿姫の低いうなり声が響き渡った。


・・・立ち聞きもなんだし、そろそろおれは帰るかな。

気にならないこともないが、家族の問題は、おれにはどうしようもないことだ。


去り際、椿姫が言った。

 

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「そう・・・なら、もう、わたしも気にしないから・・・」


声には、いままでで一番暗い、押し殺すような響きがあった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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このところ大気がとても不安定で、深夜から朝方にかけて雪が降っていることもある。

時間がたつにつれてアスファルトは乾き、椿姫が目覚めるころには、点々とした模様が路面に残っていた。

椿姫は、心臓の高ぶりに身を任せ、いずれ置き去りにしてしまう住み慣れた我が家を、棒立ちになって眺めていた。

足元で蟻が行列を作っていた。

蛾の羽の切れ端に黒々と群れ、庭先に運び込んでいる。

椿姫のなかでただれるまでに変化した純真さも、新しい春を迎えるための貴重な餌だったのか。

突拍子もない誘拐事件が、家族への責任感が、京介への想いが、自分をふさわしい巣穴へと誘導
していく。

 

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玄関先から広明が出てきた。

子犬のような足取りで、椿姫に迫ってくる。


「じゃあ、出発」


拳を丸め、腰をかがめた直後、おもいっきりジャンプする。

花のような笑顔で椿姫を下から覗き込んでくる。

弟の仕草は素直に愛らしいと思う。

これから広明を保育園に送り、その足で学園に向かう。

いつもの日課だった。

途中でおやつをねだられたら、コンビニに立ち寄るし、遊ぼうと言われたら時間の許す限りかまってやった。

幼い子供だった。

わがままにつきあうのも、時間を費やすのも、姉として当然のことだった。

今日は違う。

学園をさぼり、京介の連絡を待つ。

場合によっては、広明を迎えに行かないかもしれない。

弟の手を引いた。

脂肪がつまっていて柔らかかった。


「お姉ちゃんの手、ぷにぷにしてるよね」
「太ってるっていうの?」


口調が知らずきつくなる。


「広明だって、ぷくぷくしてるよ。 お菓子の食べすぎじゃない?」
「うん、お姉ちゃんといっしょだね。 ボク、お父さんに、椿姫にそっくりだって言われるよー」
「そっくり・・・」


屈託のない弟の笑顔に、椿姫はどこか居心地の悪い気分だった。

こういう笑顔をどこかで見ていたような気がする。

鏡の前で、それも毎日、飽きるほどに・・・。

なぜだろうか。

弟のなにが、気に入らないというのか。


「・・・行くよ」


歪んだ感情を抱えた胸から腹にかけて、汗が滴り落ちるのがわかった。


・・・・・・。

 

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京介の朝は早いようだ。

七時を過ぎたばかりだというのに、いきなり着信があった。

眼下で楽しそうに歌を口ずさむ弟を一瞥し、携帯電話を手に取った。


「早いね、浅井くん」
「なにか、まずかったか?」


問い詰めるような感情が伝わってきた。

たまに声色が変わることはあったが、いまの京介は学園にいるときとは明らかに違っていた。

椿姫は気圧されるように口を開いた。


「だいじょうぶだよ、いまから行けばいい?」
「いま、外にいるな?」
「え? うん・・・」
「こんな時間に表を出歩いているということは、これから弟か妹を保育園に送るのか?」


すらすらと自分の行動を言い当てられて、狼狽した。


「すぐにうちに来てくれ」
「いますぐ?」
「すぐだ」


心のどこかで警鐘が鳴っていた。

こんなふうに不安が募るのは、"魔王"と呼ばれる犯人と密会したとき以来だ。

拒否できる勇気も、また拒否するつもりもなかった。


「わかった。 急いでいくから、待ってて」


椿姫の返答に、京介は満足したように、ありがとうと言って、電話を切った。

 

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「お姉ちゃん、なあに?」


子供は本当に、人の顔色を読むのがうまいと思った。

椿姫はこれから言い出すべき言葉に喉を詰まらせた。

けれど最近になって培った欲求に身をゆだねると楽になった。

自分くらいの少女が、親や兄弟といるより、友達と過ごしたほうが楽しいと考えても、なんの不思議もないではないか・・・。


「広明、ひとりで行ける?」


弟は、誘拐された。


「行けるよね? きのう、一人でだいじょうぶだって言ってたもんね?」


誘拐の事実を知って、自分の迎えが遅かったせいだと椿姫は泣き喚いた。


「お姉ちゃんちょっと、大事な用事があるから、ここでバイバイだよ」


迷いを胸の奥深くに押し込め、それまでの自分と決別する。

そんなに悪いことだろうか。

弟を放り出して、大切な人の仕事を手伝う。

学園をさぼっているという付録はついているものの、犯罪というほど大げさでもないし、人に軽蔑されるほどの愚行でもないと思う。

ちょっとした冒険という程度ではないのか。

そんな些細なことに、いつまでも気をわずらわせている椿姫は、不意に、自分がとてもちっぽけなものに思えて、腹立たしくなった。


「じゃあね・・・帰りは迎えに来るから」


椿姫の心情など知りもしない弟は、小さく首を傾げた。


「終わるの、お昼だよ? お姉ちゃん、ガッコでしょ?」


純粋な瞳に見つめられ、また冷や汗をかいた。


「お姉ちゃんも、終わるのお昼だから」


小さい子供に追い詰められ、口が勝手に嘘をついた。

それでも弟を迎えに行くと口にしたのは、椿姫の良心がうずいたからだった。


「じゃあ、この公園で待ってるね。 缶ケリして遊ぼう?」
「うん・・・」


たまらず、目を逸らした。

 

・・・・・・。

 

・・・。


 

それから先は、息を潜めるようにして、京介の家まで向かった。

電車のなかやセントラル街の人ごみに紛れると、ふと周囲の誰もが椿姫に目を向けているような不
安に襲われ、終始落ち着かなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。

 


おれは椿姫を部屋に上げた。


出迎えると、椿姫はいままでになく暗い顔をしていた。

 

 

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「お邪魔します」
「えーっと、お前が来るのは初めてだったか?」
「ううん、二度目だよ・・・」


・・・そうだったか。


「元気か? 急に呼び出して悪かったな」


椿姫は、いいんだよ、と力なく首を振った。


「悩み事でもあるのか?」
「え? なんで?」
「顔に書いてある」


おれはいつの間にか不敵に笑っていた。


「最近ちょっと、家族とうまくいってないみたいだな?」
「・・・やっぱりわかる?」


悪いことして見つかった子供のような、ばつの悪い顔をしていた。


「ちょっと、いままでが、べったりしすぎてたんじゃないか」
「かまいすぎたっていうこと?」
「大家族だから大変なのもわかるが、さしあたってやることやってればいいんじゃないか?
とりあえずここに来る前に、弟を保育園に送ってきたんだろ?」
「・・・え?」
「どうした? 送り届けなかったのか?」


椿姫は、黙ってうなずくだけだった。


・・・どうやら、おれの指示を優先して、弟をほっぽりだして来たみたいだな。


「学園も、さぼっちゃったね」
「やっぱりちょっと悪い気がしてるのか? すぐに慣れるぞ」
「う、うん・・・慣れていいものなのかな?」


いいか悪いかなんて自分で決めればいいことだが、おれに従う以上、そんな小さなことで、いちいち気を揉んでいる暇はない。

いままでの真面目で常識的な学園生の椿姫では困る。

悪徳宗教の教祖と信者のような関係こそ望ましい。

教祖の言うことがどれだけ荒唐無稽でモラルを逸脱していたとしても、信者にとっては神の福音となって聞こえる。

椿姫には、信者となる素質があるように思えるがどうだろうか・・・。


「なあ、椿姫。 おれが、どうしてこういう仕事をしているか、興味ないか?」


不意に尋ねられて、椿姫は驚いたように顔を上げた。

おれは柄にもなく、自分自身について語ることにした。



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「いまでこそ、こんな裕福な生活をしているが、実はおれはとんでもなく貧乏な暮らしをしていたことがあるんだ」
「・・・え? ほんと?」


ため息をついて、目を丸くした。

なにかの本で読んだが、人間は不思議と、相手の過去を知ると親近感を抱くものらしい。

椿姫には、もっともっとおれに近づいてもらわなきゃな。


「中学にあがりたてのころかな。 うちはそれまでそれなりに幸せな家庭だったんだが、ちょっとした事件から、なにもかもおかしくなったんだ」
「・・・事件?」
「自分で言っといてなんだが、まあ、その話は、ちょっと勘弁してくれ。 頭痛の種なんだ」
「わかった、ごめんね・・・」


おれは、少しずつ昔を振り返っていく。


「話して信じてもらえるかどうかわからないが・・・」


前置きして、切り出す。

記憶を、浅く巻き戻した。

過去をたどると、まぶたの裏のスクリーンには、いつも同じ光景が宿る。

うす暗い部屋で、おれは一人、沈んでいる。


・・・・・・。

 

・・・。

 



 

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「北海道の片田舎。
牛の寝藁(ねわら)や餌が収納された納屋のすぐ隣に、おれと母さんが住む部屋があった。
真冬になれば気温は毎日氷点下だが、部屋の窓は二重じゃなかった。
牛の異臭が立ちこめる和室の畳には、ムカデやクモが、髪の毛や米粒を巡ってよく戦争をしていた
な。 北国なのに、小さいゴキブリを見たときは、さすがにひいた」
「ど、どうして・・・そんな生活を?」
「・・・父さんが、家を破滅させていたからだ」
「お父さん?」
「ああ、おれがよくパパっていってるのは、義理の父親でね。 わけあって、養子に入ったんだ。
父さんは、すでにそのとき家にいなかった。
死んだのでも、蒸発したわけでもないが、莫大な借金を暴力団に作ってしまっていたんだ。
だから、おれは母さんと二人で逃げるように、居場所を点々としていたわけだ。
そして、最後に流れ着いたのが、いま言った豚小屋みたいなところだった」
「・・・・・・」
「部屋を貸してくれたのは、遠い親戚にあたる人だった。
カンヌさんとか呼ばれてたな。
そういう呼び方は地元では差別的な意味合いがあったらしいが、おれにはよくわからん。
路頭に迷っていたところを住まわせてもらってなんだが、カンヌは前科もちのろくでなしだった。
日雇いの仕事をしていたみたいだが、たまに稼いだ日銭をちらつかせては、母さんをいびっていた。
母さんも細々と働いていたが、小さな村でよそ者に与えられる仕事なんてたかが知れていた。
けっきょくは、カンヌの言いなりになるしかなかった。
一番困ったのは灯油だった。 田舎だと信じられないくらい値段が跳ね上がることがある。
鼻水が凍るような寒さのなかで暖が取れないっていうのは、死ねと言われているようなもんだった。
母さんはなにをさしおいても先にストーブの燃料を買い込んでいたが、日に日に足りなくなっていった。 一日に二時間だけ保証期間の過ぎたオンボロストーブに火をつける。
そんなとき、おれは母さんと毛布にくるまって、いろんな話をしていた。
もっとお金があればいいのに・・・おれはいつもそんなことを言っていた。
新聞配達をしたいと頼んだが、母さんは許さなかった。
早朝はとても冷えるとおれの体を気づかっていた。
雪山を踏み分けての配達は、子供にはとてもきついものだからだ。
それでも灯油は減っていく。
どうやら豪雪で村全体が供給不足に陥っていたらしい。
一日二時間の幸福な時間は半分の一時間になった。
おれは、中学のクラスメイトに・・・といっても学年全体で五十人もいない小さな学校だが・・・灯油をわけてもらえないかと頼んだ。
結果は、乞食とかいうあだ名がついただけで、なにも得るものはなかった。
貴重な灯油を無駄づかいしているから足りないんだと、相手にされなかった。
無駄づかいなんてしていないはずだった。
だが、ひょっとして、みんなは、もっと我慢しているのではないかと、少し反省しながら家に帰った。
言われてみれば、少しおかしかった。 灯油の減りがやけに激しかった。
母さんが、日中、こっそりストーブを炊いているのだろうかといやな妄想にも襲われた。
そして部屋に戻る直前、カンヌと出会った。
ヤツは、おれの姿を認めると、突然怒り出し、禿げ上がった頭を振り乱して言った。
『誰のおかげでここに住ませてもらっているのか』。
ヤツの手にはポリタンクがあった。
おそらくおれの家から盗んだ灯油が、たっぷりと揺れていた。
おれはヤツを問い詰めた。
熊みたいな大男でいつも酒で顔が赤らんでいた。
だが口論をしていると、近所から人がやってきた。
カンヌはずる賢いヤツだった。 外面と内面をうまく使い分けていた。
外では身寄りのない親子を助けた善人として振る舞っていた。
当然、悪いのはおれということになった。
それでも、担任の先生に相談したことがある。
だが、そこでおれは、おれとおれの母親が、村の連中からどう思われているのかようやく知った。
母さんが、場末のスナックで働いているのが悪評の原因らしい。
たかがスナックだぞ? 売春しているわけじゃあるまいし。
ど田舎の北海道弁で母親を、まるで女郎のように罵られた。
勢いでおれは母さんに、村を出て行くように頼み込んでも、母さんは、少し疲れ過ぎていた。
優しい人だったが、少し疲れていたんだな・・・どこにも行き場がなかったから、しかたがなかったんだな・・・。
・・・・・・ある日を堺に、一晩中ストーブがこんこんと火を灯すようになった。
カンヌの態度も変わった。 おれに媚びるようにモノを買ってくれるようになった。
糞ガキと呼ばれなくなった。 夕食を三人ですることもあった。
ガキのころのおれは、カンヌのような偽善者が、なぜ、おれたち親子を助けたのか、その理由を考えなかった。
おれは見た。
手足を押さえつけられて、悲鳴を上げる女の人を。
うちの部屋だった。 学校を病気で早退したのがまずかったのかもしれない。
酒の匂いがひどくむせた。 一升瓶が中身をぶちまけて倒れていた。
それを飲んでいた大男が、丸裸の下半身を隠そうともせず、おれをにらみつけた。
黄色く濁った目。 岩みたいに角ばった顔。 こぶのように隆起する腕の筋肉。
肉体労働で養われた屈強な体に、おれは恐怖に身がすくんだ。 圧倒された。
胃が飛び出るほど殴られ、倒れこんだら背骨が折れるほど蹴り込まれた。
母さんが泣いておれをかばった。
ヤツは汚い言葉を浴びせて母さんの髪を引っ張った。
そのまま酒臭い口を母さんに近づけながら、ぎらついた目だけおれに向けた」


――『きょうすけぇ、くやしいか!? なんまくやしいか!? くやしいなあ!? ぜんぶおまえらのせいだべ! 金さもってないおめえらのせいだべっ・・・!!!』


「ヤツはとにかく、まくしたてた。
自分こそが、薄汚い牛小屋の支配者なのだと。 嫌なら出て行けと、お前らは家畜だと。
畜生をどう扱おうと勝手なのだと、勝ち誇っていた」


――『家畜のくせに文句たれるなら、おみゃあがはたらけぇっ。 ああっ、きょうすけぇっ。 おみゃあ、母さん食わしてやれるんか? 家借りて、学校いって、生活できるんか?』


「母さんが手をついて謝った。 私たちが悪かったと。
同時におれに強がった。 私はだいじょうぶだと。 さあ早く、ヤツに謝ってくれと。
おれは、母さんに従った」



・・・・・・。

 

・・・。

 

 


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椿姫は肩を震わせて、雷にでも打たれたかのように、呆然と立ちすくんでいた。


「長くなったが、どう思った?」
「・・・・・・」


椿姫は眉根を寄せて、つぶやいた。


「ひどい人だなって・・・お母さんが、とても不憫で・・・」


おれは、しらけた気分になった。


「あー、そういうのはいいんだ。
ヤツはゲスで、母さんはかわいそう。
それはたしかにそうなんだが、おれが言いたいのはな、椿姫・・・」


一息ついて言った。


「あのとき、この部屋にある金のほんのわずかでも、持ってたらってことだ」
「いや、でも、浅井くんは中学生だったんでしょう?」
「セントラル街に行ってみろよ。
どう見ても小学生の自称高校生がフードかぶって路上でアクセ売ってたり、イベントのチケットさばいてたりするぞ?」
「それは・・・ここは大きな街だから」
「なんにしてもおれには金がなかった。
そりゃあ、少しは運も悪かったのかもしれないが、金がないから運も逃げていったんだ」


そのとき、椿姫が、思いついたように言った。


「うちはだいじょうぶかな・・・?」
「大変だと思うぞ。 親父さんから愚痴でも聞いてないか?」
「ううん、ぜんぜん・・・楽観してるのかな?」
「知らんが、もしそうだとしたら、おれの話に少しでも感化されてくれるとうれしいな」
「・・・うん、わたしが、家族を支えなきゃ。 みんなわたしに甘えてるところあるから」
「仕事を手伝ってくれれば、いくらか報酬は出せるよ。
たいした額は出せないけど、その辺でアルバイトするよりは割がいいと思うぞ」


微笑むと、椿姫も頬を緩めた。



「がんばるよ。 浅井くんの話し聞いて、ちょっと家族とももう一度向き合ってみる」
「・・・というと?」
「ほとんど広明のことなんだけどね。 あの子って、どう思う?」
「さあ・・・よっぽどわがままに育ってるなあと思うこともあるが・・・」
「そのとおりだよ。 わたしが、甘やかしてたんだと思う」
「あのまま大人になったら、逆にかわいそうかもしれんぞ」
「保育園の先生にも同じようなこと言われたよ」
「なら言わせてもらうが、正直、おれみたいな日陰もんからすると、ちょっと眉をひそめたくなるようなこともあったな」


腕を組んで、話を続ける。


「なんで、叱らないんだろうってな。
真剣に怒ってやったほうがいいんじゃないかとか思うわけだよ」
「・・・最近は、ちょっと叱るようにしてるんだよ?」
「夜、出歩いてたときか?」


おれは短くため息をついた。

・・・あれは、叱るっていうより、椿姫がただヒステリックにわめいていただけのような気がするが。


「もうちょっと、心を込めたほうがいいんじゃないか?」
「そう、かな? どうすればいい?」
「どうすればいいって・・・」
「わたし、あんまり誰かに怒ったことないから、それを相手にどう伝えていいかわからなくて」
「感情に身を任せてみたらいいんじゃないか?
溜まってるもんを思いっきりぶつけてやれば、相手が子供でもわかってくれるって」
「うん・・・」

 

 

椿姫の目に、得体の知れない光が宿った。

 

 

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「やってみるよ」


おれを、じっと見据えた。


「今度また、勝手に外に出歩いてたら、そのときは・・・」


自分に言い聞かせているようでもあった。


「さて、話が長くなったな・・・」
「うん、じゃあ、なにからすればいいのかな?」
「お前って、パソコンは使えるのか?」
「インターネットくらいなら」
「とりあえずそこの資料に目を通してくれ」


おれは、テーブルの上に積んだ紙の束を指差した。

それは、総和連合系のビルのリストの一部だった。

ビルの管理業務は広範、多岐に渡るが、浅井興行のビル管理には定評がある。


「こ、これ、全部・・・? 五百枚くらいあるよ?」
「やることは簡単だ。
一枚一枚目を通して、そのなかで、付帯設備のある物件を抜き出しておいてくれ」
「付帯設備?」
「プールとか駐車場とかだよ、運動場もか。
抜き出し終わったら、その物件の名称と電話番号をパソコンに打ち込んでいって欲しい」
「・・・けっこうかかりそうだね・・・」
「夕方には終わるだろ」
「夕方・・・」


言葉を詰まらせた。


「なんだ? 用事でもあったのか?」
「う、ううん、平気だよ・・・」
「じゃあ、おれは向こうの部屋にいるから。 わからないことがあったら呼んでくれ」


椿姫は、いそいそと書類に手をつけた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


「おい、椿姫。 携帯、鳴ってるぞ」


午後になったあたりで、休憩がてら椿姫の様子を見に来た。

椿姫は携帯を手にしたまま、その場に固まっていた。


「家からだ・・・どうしよう」
「どうしようって、出ればいいじゃないか。 学園に行っていることになってるんだろ?」
「それもそっか・・・なに慌ててるんだろうね、わたし・・・」


話をしている間に、通話が切れた。


「あ・・・」
「かけなおすか?」
「いいよ。 どうせなんでもない用事だと思う。
お父さんったら、わたしが携帯もったもんだから、意味なく電話かけてくるの」


そう言って、作業に戻った。


・・・なかなか、手際がいいようだ。

すでに、パソコンの画面には、建物の名前が羅列されていた。


「いい調子だな」
「そう? わたし、こういう単純作業向いてるのかも・・・」
「助かるよ。 やっぱり、椿姫に任せてよかった」
「本当?」


うれしそうに目尻を下げた。


「ねえ、浅井くん・・・」
「なんだ?」
「広明をね、昼に迎えに行くって、言っちゃったのね」
「・・・ああ・・・」
「公園まで迎えに行くことになってるんだけどね。 さすがに帰るよね? わたしが来なかったら」
「まあ、普通はな・・・」
「だよね・・・」
「・・・いいのか?」


おれは詰めるように聞いた。

仕事の途中で帰られるのは、おもしろくない。

けれど、椿姫はすでにおれの期待通りの人間になっていた。


「ちゃんと終わらせてから帰るよ。 広明は、ひとりでも帰れるからね。
わたし、ちゃんと働いて、ちょっとでも家にお金入れたい。
そのほうが、なんていうのかな、家族のためだよ」
「・・・・・・」
「こういうとあれだけど、けっきょくお金があれば、家を出て行かなくてもすんだわけじゃない?
広明が誘拐されたとき、人にお金を借りずにすんだんだよ」
「だいぶおれよりな意見だな」


口元が、つい、にやけていた。

 

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「わたし、浅井くんに出会って良かったな」
「急になんだよ」
「だって、浅井くんって、わたしにないものをたくさん持ってるんだもの」


椿姫も、おれにないものを・・・いや、おれにないものしか持っていなかった。

けれど、けっきょくは、おれのような俗物に歩み寄ってくる。

疑い、欺き、保身に走り、策略をめぐらせる。

それが、いいとか悪いとかではなく、誰でもそうなんだ。

おれは、おれの今までの生き方が間違っていなかったのだと知って悦に浸っていた。


「じゃあ、もうひとがんばりしよう」
「うんっ・・・」


椿姫は、その後、持ち前の真面目さを十分に発揮してくれた。

帰る直前まで、迷いが吹っ切れたように、てきぱきと手を動かしていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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日が落ちるに連れて、急に冷え込んできた。

セントラル街の雑踏にまぎれても、寒さは緩まない。

学校帰りの中高生を、深夜番組のテレビカメラが捕まえてインタビューしている。

見慣れた光景だった。 マイクを向けられれば有頂天になる。

椿姫も、京介に必要とされれば、カメラの前ではしゃぐ少女たちとなんら変わらなかった。

歩きながら、ふと、通り沿いのショーウィンドウが目に入った。

マネキンがハイブランドの洋服を着せられ、媚態を作っていた。


「いいな・・・」


つぶやいてみた。

本心からそう言えたのか確かめてみた。

わからなかった。

ただ、焦燥感が胸に募った。

マネキンの手前、ガラスに映った椿姫は、自分でも変化に気づけるくらい、険しい顔つきをしていた。

寒さに身をよじらせながら、地下鉄を目指した。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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椿姫が家を出てしばらくたってから、気づいた。

どこか見覚えのある日記帳。

椿姫が、後生大事にかかえている一品だ。

・・・こんな大事なもんを忘れるなんて。

日記を書ける人間は心に余裕があるそうだが、最近、あいつが日記を手に取っているのを見たこと
はない。

・・・とはいえ、さすがに不必要なものでもないだろう。

おれは、椿姫に電話をかけた。

すると、電波の届かない云々の、機械的なメッセージが返ってきた。


・・・電車の中か?


電源を切っているあたりが、椿姫らしいというかなんというか。

これからセントラル街に出る用事があるし、その足で送り届けてやるとするか。

コートを羽織って、表に出た。

目の覚めるような冷たい風がすぐにおれを出迎えた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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カゼでもこじらせたのか。

頭が重く、額から汗が滲んでいる。

熱気の次は、悪寒が襲ってきて体温調節がままならない。

椿姫はおぼろげな足取りで公園を歩いていた。

糸がからまったような膝を、前へ前へと繰り出して、帰宅を急ぐ。

自分は、なにを慌てているのだろうかと、もつれる足が地面をける速度を緩めた。


学園をさぼってうしろめたいのだ。


いや、京介に認められて浮ついているのか。

抱え込んでいた様々な不安が、重石となってのしかかってきた。

たとえば、宇佐美ハルという転入生。

なんの疑いもなく友人として接した。

するといつの間にか、ハルを毛嫌いしている自分が出来上がった。

京介の話を聞いて、家族の借金というものがどれほど恐ろしいことかを思い知らされた。

幸いにして転居先は京介が用意してくれたものの、貧しい生活が待っていることに変わりはない。

父親が、もっと深刻に対策を練るべきではないのか。

椿姫は息苦しくなった。

なぜ、わたしばかりが悩んでいるのか・・・。


そうして、椿姫の悩みの原因そのものが姿を現した。

 

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「あ、お姉ちゃん、やっときたー・・・!」


弟が、駆け足でこちらに向かって飛び込んでくる。

当然のように、待っていた。

寒さをものともしない、屈託のない笑顔。

また悪寒に襲われた。

さきほど街中のガラスに映った椿姫では、もう二度と、弟のような笑顔は作れないだろう。

悲しくて、腹立たしかった。

椿姫は、自分が約束を破っていることをすっかり忘れ、広明をにらみつけた。


「なんで帰ってないの」


鬱積した感情が椿姫の心の底にしたたり落ちる。

その音が、闇の底で跳ね返って、椿姫の口で声となり、広明の耳へと滑り込んでいく。


「困らせるんだ、そうやってお姉ちゃんを・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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・・・相変わらず、うっとうしい街だ。


・・・。

 

地下鉄に乗って東区を目指す。

座席の端に腰掛けてまどろみながら、椿姫のことを考える。

椿姫は、見る見るうちに人柄を変えていった。

まっさらな白紙に墨を落としたように、ノンストップで崩れていった。

よく、何事も積み上げるのは難しくても崩すのは一瞬というが、そういうものなんだろうか。

椿姫がいままで培ってきた純真さや清潔さも、ひとたび金の問題が発生すればすぐにナリをひそめ
てしまった。

つまりは、その程度のものだったんだ。

椿姫の善良さなんて、あっさりと崩れるようなちゃちなものだったわけだ。

これまで、たいしたものを積み上げてこなかった結果といえる。

たしかに、おれは椿姫に誘いをかけたし、不幸も続いた。

誘拐事件もあれば、莫大な借金に追われ家を出て行く羽目にもなった。

しかし、とおれは思う。

人間がそんなに弱くていいのかねえ・・・。

いつだって、搾取される側に問題があるんだ。

誰だって騙される方が悪いってことを知ってるんだが、それをおおっぴらに言うと、非難されるから黙ってるだけのこと。

おれの手は汚れているが、おれは正しい。

決意をあらたにして、眠気に身を任せた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 



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自制の回路にスイッチは入らなかった。

ちらついてきた雪が、理性を凍結させていった。


「これで何回目だと思ってるの。 一人で出歩いちゃダメだって教えるのは」


ひどく酷薄な声で問うが、愚かな弟は椿姫の変化に気づいていなかった。


「それより、聞いてよ。 マサトくんがね、マサトくんってお友達がね、犬買ってもらったんだって。 まふまふしてるの。 ボクも欲しい。 買ってー」


ぴくりと、こめかみで血管が脈打った。


「ねえ、買ってー。 チワワっていうの。 買ってー」
「・・・いくらすると思ってるの?」
「知らない。 高いの? コンビニのアイス全種類買うより高い?」
「当たり前でしょう?」


そんなこともわからないほど、甘やかしてしまったのか。


「でも、お姉ちゃん、ずっと前ボクに、ゲーム機買ってくれたよ。
すっごい高いって、みんな言ってた。 うらやましいって言われたよー」


そういう自分は、もう、いないのだ。


「お金、ないの」
「嘘だー。 お姉ちゃんの貯金箱みたよ。 お札がいっぱいだったよー」
「人の財布を勝手に見たらだめでしょう?」
「えー? だって、ボクいっつもそのお金でおやつ買ってるよー」
「本当は、いけないことなの」


かわいい弟だと思って、なんでも言うことを聞いていたのが間違いだった。

これから先、美輪一家には十分な貯蓄はない。

もう親から小遣いなんてもらえないし、また、それを弟たちに振る舞うこともない。

皮膚に滲む汗が、雪混じりの風で急速に冷え込んでいく。


「お姉ちゃん、缶ケリしよう」
「やだ。 寒いし」


椿姫の手が小刻みに震えていた。

寒さからくる震えではないことは、あきらかだった。

ある黒い衝動を必死になって抑えていた。

それをやってしまったら、もう後には引けない。


「ねえ、やろうよー」
「いやだって」
「もし、やってくれたら、ボクなんでも言うこと聞くよ。 だから、ほらっ」


小さな腕が伸びて、空き缶を突きつけられた。

椿姫の闇が、一滴、また一滴と、器に落ちていく。

もう、縁から溢れそうだった。


「なんでも?」
「うん」
「ならわかるよね。 何回もおんなじこと言ってるもんね」


心に蓋を落とすつもりだった。

"魔王"によって開かれた暗い門を閉じようと、椿姫はすがるような思いで弟に訊いた。


「わかるよね、広明」
「なにかな、教えて? ボク、お姉ちゃん好きだよ。
お姉ちゃんのいいつけ破んないよ、ぜったい。
だから、遊ぼう。 そして終わったら子犬買いに行こう?」


今、椿姫の胸のうちでどういうわけか、"魔王"と京介の声が重なった。


――どうしようもない坊やだ。


その声に闇の滴が器から溢れ、即座に奔流となった。



――広明!



衝動が弾け、燻っていた手のひらが、暴力を求めて風を切った。

差し出されていた空き缶が小気味よい音を立てて飛んでいった。

もう、破れかぶれだった。

あとは波が浜辺に打ち寄せるように、弟の頬に平手が吸い込まれていった。

 

痛い。

手首が悲鳴を上げる。

広明のぷっくらとした頬。

かわいいからよくキスをした。


ぶった。


ぶってしまった。


我に返りたくなかった。


音を立てて崩れるそれまでの自分。


真面目でしっかり者の椿姫。


完全に壊れてしまった。


しつけのために手をあげた。


言いわけが浮かぶ。


家族なら許される行為ではないのか。


むしろよくやったと、いう人はいうかもしれない。


しかし、椿姫にとっては高層ビルから飛び降りるような惨事だった。


「広明・・・」


恐る恐る、小さな弟に尋ねた。

広明は地面に膝をついて、糸の切れた人形のように沈黙していた。


「・・・お姉ちゃん」


ショックは計り知れなかった。

手を上げた本人ですら後悔の念に押しつぶされそうなのだ。

信頼する姉が暴力を振るうなど、夢にも思わないはずだ。


「・・・もう、なの?」


顔を上げた広明が、きょとんとした表情で首をかしげた。

動揺に窒息しそうな椿姫には、ぶったの、と責められているように聞こえてならなかった。


直後、へらへらと緊張を緩めた顔が、椿姫の目に飛び込んできた。



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「相撲なの、お姉ちゃん・・・?」


――わけが、わからなかった。


広明は、泣くどころか、やはり嬉しそうに、椿姫の膝に抱きついてきた。

その無垢な笑顔がたまらなく嫌だった。

いつもどこかで見ていた笑顔。

椿姫は鬱々としたどす黒い燻りに火をつけた。

勢いに身を任せ、もう一度弟に襲いかかった。

華奢な胸板を突き、頬を張り飛ばす。

足をかけて、地面に叩きつけた。

一生分の凶暴さを吐き出すつもりだった。


「えへへ、えへへ・・・」


それでも、広明は泥だらけになり、膝を擦り、雪に濡らした笑顔で立ち上がってきた。


なぜ、泣かないのか。


なにが、そんなに楽しいのか。


どうして、疑わない、恨まない、泣かない?


あからさなま虐めではないか。


遊んでやっているんじゃない。


言うことを聞かない子供をヒステリックに嬲っているのだ。


わたしはお前が嫌いだ。


無垢で、無知で、人を疑うことを知らないお前が、憎らしい・・・!


「お姉ちゃん、もっとしよおぉっ」


語尾の伸びきった甘ったるい声。

張られた頬を赤く腫らし、無邪気に尋ねてきた。

どうやっても椿姫の悪意に満ちた叫びは届かなかった。

この子は本当に頭の足りない子なのだろうか。

わからなかった。

なぜ、何度も殴られて、じゃれていると思えるのか。


「どしたの、もう終わり? あれ、お姉ちゃん・・・?」


胸奥からこみ上げるものがあった。


「寒いの、お姉ちゃん?」


弟は、純真に、椿姫が寒いのだと信じている。


「なんで、泣いてるの? どっか痛かった? ボク、やりすぎた?」


心底心配そうに、椿姫を見つめてくる。

その目に、もう、限界だった。

椿姫は、悟った。

弟は己を愛してくれる人だけを瞳に映して育った。

これまで限りない愛情を与えていた姉が、自分を脅かすはずがないと信じきっているのだ。

 


まるで、鏡のようだった。


 


 

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「広明っ・・・!」


雪が桜のように舞う。

椿姫の心に落ちて、熱を冷ましていった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 



 

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意外な光景だった。

おれは途中から、椿姫とその弟のやりとりを眺めていた。


「ごめん、ごめんねっ・・・痛くなかった・・・!?」
「んーん、お姉ちゃんこそだいじょうぶ?」
「・・・わたしは、ぜんぜん・・・」
「だって、泣いてるよ? どっか痛いんでしょ?」
「いいの、ごめんね、なんでもないのっ!」


椿姫は、きっと怖いぐらいの信頼に責め立てられているのだろう。


「お姉ちゃん、ボクが悪いの? ボクが一人でお外に行くのがそんなに悲しかった?」


椿姫は、頼りなげに首を振った。

おれは椿姫に、指図した。

感情に身を任せて、溜まってるもんを思いっきりぶつけてやれと。


「おねえちゃんが、おかしかったんだよ・・・」


その結果が、これだ。

どれだけわがままをしようが、椿姫の弟は椿姫の弟だった。

無知でうさんくさいほどの純真な椿姫の家族。


「ご、ごめん、ごめんね・・・ぼく、ボクっ」
「ううん、広明は、なんにも悪くないよっ・・・わたしが嘘をついてたの。
広明との約束をやぶって、学園もずる休みしてたの。
さっきだって、遊んでたんじゃなくて、いらいらして、広明をぶったのっ。 ごめん、ごめんねっ!」


まるで鏡を合わせたように、二人して泣いていた。


胸がうずく。


椿姫の人柄を、おれが本当はどう思っているのか、気づかされた。


気に入らないのではなく、憧れていたのではないのか。


幼稚に、嫉妬していたのではないのか。


だから、壊したかった。

 

・・・くそ。


関わり合いになるんじゃなかった。


椿姫は、おれがとうてい手に入れられない素晴らしいものを、大切に積み上げていたんだ。


それは、ちょっと風が吹いたくらいじゃびくともしない堅固な家だった。


「ボク、もうぜったい、勝手に出歩かないよ」
「そう・・・?」
「うん、だって、お姉ちゃんといっしょにいたいもん。
お姉ちゃんがお外連れてってくれるもん。 お姉ちゃんが、ボクの頼みを聞いてくれなかったことないもん」
「・・・っ・・・!」


椿姫が、顔にゆっくりと笑みを浮かばせた。


「ありがとう。 なんだか、とっても楽になったよ。
わたしはこれでいいんだね、広明。
誰も疑わないし、お金にも興味ないし、恋愛にも消極的。
それでも、わたしには、たくさんの家族がいるもんね。
お父さんが買ってくれたダサいコート着るし、みんなが繁華街で遊んでるときに、わたしは公園で広明と缶ケリするの。 それで、いいんだよね。 ね、広明っ・・・?」

 

・・・・・・。

 


雪が強くなってきた。

おれはこのあとに控えている仕事すら忘れ、その場に呆然としていた。


しゃくぜんとしない。


これ以上、こいつらに感化されたら、おれがおれでなくなるような気がする。


「・・・・・・」


もう、関わるのはやめておこう。

椿姫を助手にするのもやめだ。

あいつには、あいつに相応しい人生があるだろう。

一度決めると、もう迷うわけにはいかなかった。

日記は明日でもいいだろう。

踵を返し、駅に戻る。

姉弟は雪のなか、いつまでも楽しそうにじゃれあっていた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 



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寝る前に顔を洗っていると、まるでひどい目にあったような顔をしたおれが鏡にうつっていた。


・・・まったく、椿姫には踊らされてしまったな。


もう夜の十時になろうかというのに、来客のようだ。


インターホンを覗いて、うんざりした。


「ちわす」
「お前か」
「すみません、ちょっとお醤油貸してもらえませんかね」
「醤油だあ?」
「ご近所なんですよ、実は」
「嘘をつけ、このへんにお前が住めるようなアパートはない」
「いいえ、本当ですよ。 ちょっとした知人のつてで、ある社屋の二階を間借りしてるんです」


・・・たしかに、この辺りには、表札がそのまま会社名になっているような家がいくつかあるが・・・。


「上がっていいですか? たいした用もないんですが」
「帰るがいい」
「そこをなんとか。 たいした用もないんですが」
「ちょっとお前、あんまりカメラに顔を近づけるなよ。 だいぶおもしろいことになってるぞ」
「お嫁にいけなくなってしまいましたね。 責任を取って部屋に上げてください」
「・・・わかったよ。 五分で帰れよ?」


オートロックを開錠すると、宇佐美はひゃっはーとか言いながらエントランスに入っていった。

待つこと数分。

玄関のドアの向こうで足音がしたので、鍵とチェーンロックを外してやった。


「お邪魔していいですか?」
「半開きのドアからこっちを覗くなよ、怖いな・・・」
「では遠慮なく・・・」


そそくさと足音も立てずにリビングに上がってきた。

 

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「で、なんだよ?」
「はい?」
「急になんの用だと聞いている。 話があるなら、携帯でもいいだろう?」
「椿姫がさっき、うちに来ましてね」
「・・・っ・・・椿姫、が?」
「おや? 椿姫となにかありましたか? クンクン・・・」
「ベッドの匂いをかぐな。 何もねえよ」
「いや、驚きましたよ。 玄関先でいきなり頭下げられましたからね」
「ほー、最近の態度のことか?」
「ですです。 こんな夜更けにですよ。 うちの住所にしてもわざわざ学園に問い合わせたんだそうです」
「よかったじゃねえか。 仲直りできて」
「いやいや、自分も、ほっとしました。
子供が帰ってきたんだから警察に連絡しろとかいうのは、よくよく考えてみれば酷な話でした」
「考え直したのか?」
「ええ、椿姫たち家族が犯人の報復を恐れているというのに、無関係なわたしがしゃしゃり出るのは筋違いにもほどがあるな、と」
「ふーん」
「それにしても、ホント浅井さんは罪な男だなと思って、今晩おしかけてきたわけです」


・・・やはり、椿姫は、宇佐美に嫉妬していたのだろうか。


「"魔王"様は恋愛とかするんですか?」
「おれは"魔王"じゃねえよ」
「しかし、ここのところバイトも休んで"魔王"の足取りを追っていたんですが、ぜんぜんさっぱりでしてね」
「もう、やめればいいじゃねえか」
「それでは、母が浮かばれませんから」
「死んだみたいに言うなよ」
「ワハハ」
「ワハハじゃねえから」
「いやいや笑いたくもなりますよ、浅井さんには」


ひとしきり笑ったあと、宇佐美の口元が急に引き締まった。



「必ず尻尾をつかんでみせますから」
「そんなぎらついた目でおれを見られてもだな・・・」


おれはおどけて見せるが、宇佐美の顔はいっそう険しくなるばかりだった。


「今回の誘拐事件ですがね」
「おう・・・」
「よく聞いてください」
「なんの話だ?」
「犯人はどうやって、ケースのなかの株券を回収したのか、というお話です」
「いまとなっては、意味がない話だな」
「ええ。 自分もそう思って、黙ってたんですが、やはり、浅井さんにはお伝えしようと思いまして」
「なんのために?」
「わたしは、ちゃんとお前の策を見破ったぞ、という宣言をしたいんです」


・・・だから、なんでおれにそんな宣言をするのか?


「"魔王"に言えっての」
「まあまあ、もうめんどくさいから、聞くだけ聞いてやってくださいよ」


これ以上掛け合っても無駄だと判断したおれは、ひとまず口をふさいだ。


「まず、"魔王"はなぜ身代金を株券で要求してきたのか。
前もお話ししましたが、一番の目的は持ち運びを楽にするためです。
しかし、それだけなら、他の有価証券・・・たとえば小切手でもいいわけです」


おれは口をはさむことにした。


「でも、小切手は現金化するときに足がつくだろう?」
「はい。 株券もそうです、発行する会社が株券に通し番号を振りますから、誰がどこで売り買いしたのか警察が調べればすぐにわかってしまいます」
「そうだな。 小説でもなんでも、犯人が小切手や株券ではなく、よく番号の不揃いの現金を要求するのは、換金するときの危険を回避するためだろうな」


もちろん、手形なんかは闇で割ってくれる業者もあるし、株券にしてもたとえば善意の第三者を使って換金する手口もあるにはあるんだろうが、なんにしても警察には徹底的にマークされることになる。


「前提として、"魔王"は、五千万からの現金を欲していたわけではないと思います」
「そのへんまでは、おれも考えてたよ。 金が欲しいだけなら誘拐なんてしないだろ」
「つまり、"魔王"は、椿姫たちから奪い取った株券を換金するつもりはなかった。
これは、つまりどういうことでしょう?」


探るような目で聞いてくる。


「自分は金なんていらないが、椿姫たちには、金を吐き出させたかったってことだな?」
「その可能性は極めて高いです。
だから、あらかじめ急落することがわかっていた銘柄を指定してきたんだと思います」
「急落することがわかっていた?」
「そこは浅井さんに教えてもらいましたよね? ちょっとでも株に詳しい人なら誰でも予想できたって」
「ああ・・・」


おれも、権三に教えてもらったわけだが。


「"魔王"は最悪、身代金を奪取できなかったとしても、椿姫の家が窮地に陥るように周到に保険を
打っておいたんだと思います」
「もしそうだとしたら、恐ろしいくらいに慎重なヤツだな。 つまり、椿姫たちが土地を売った金を株に変えた時点で"魔王"の勝利だったわけだろ?」
「ですが、"魔王"はその後、約一日をかけて、身代金の受け渡しを巡る駆け引きを演じて、見事に株券を奪うことに成功しています」
「そこは、よくわからんよな?」
「"魔王"にとっては、その一日こそが、"お楽しみ"の時間だったんだと思いますよ」
「お楽しみ?」


首を傾げる。


「"魔王"は椿姫の家から大金を奪うという目的のついでに、わたしと遊んでやってくれたんです」
「おいおい、"魔王"様は、ずいぶんと余裕を見せるな。 警察に捕まるかもしれないってのに」
「ですから身代金を株券にして保険を打ったんでしょうね。
余裕のお遊びで本来の目的を逸脱しないように。
なにか問題があれば、すぐにでも誘拐を中止して雲隠れするつもりだったんでしょう」
「なんにしても、いかれてる男だが、宇佐美よ・・・」


今度はおれが尋ねる番になった。


「なんでお前が、"魔王"に遊んでもらったんだ?」
「前にも言いましたが、"魔王"は、わたしを試してきたんだと思います」
「だから、なんで、お前みたいな変な女を試すんだ?」
「わたしが、"魔王"の存在と過去の罪を知る、数少ない人間の一人だからです」


困惑していると、宇佐美は目を細めた。

 

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「さらにいえば、"魔王"はわたしのことを憎んでいるのだと思います」


おれは舌打ちした。


「どうせ、詳しくは話してもらえないんだろう?」
「すみませんね」


ちろと、舌を出した。


「わかったから、話を戻そうぜ」
「はい、"魔王"はどうやって、身代金を奪ったのか」
「おれがロッカーの鍵をあらかじめ複製してたんじゃなかったのか?」


にらみつけると、宇佐美は小さく笑う。


「違うんですか?」
「たしかに、おれはお前に頼まれて、ちょっとの間だけ駅のコインロッカーを眺めてたわけだが」
「でしょう? そのときに、複製した鍵でちょちょっとやっちゃったわけですよ」
「駅のロッカールームには監視カメラもあるわけだろう?
身代金を入れたロッカーの中身を出し入れしているおれの姿が映っているわけだ」
「間抜けですね、浅井さん」
「いい加減にしろよ。 たしかにその可能性も否定しきれんことは認めるが、お前はもっと別の推測を働かせている」
「別の?」
「もっと・・・。

もっともらしい、身代金奪取の手口だ」


宇佐美は、深くうなずいた。


「確証はありませんがね」
「それでいいよ、話せ。 おれに対する数々の無礼はそれでチャラにしてやる」
「ありがとうございます」


直後、あごを引いて眉根を吊り上げた。


「事件が終わってから気づいたので、とても歯がゆいのですが・・・。
あの日、あのときの犯人の要求には不自然な点がありました」


宇佐美は指を一つ立てた。


「犯人は、警察の介入をひどく恐れていましたよね?」
「ああ・・・」


うなずきながら、椿姫から聞いた事件のあらましを思い起こす。


「"魔王"は、たかがわたしとの『お遊び』で、警察と戦うつもりなんてなかったわけです。
警察の影でも見えれば、すぐにでも取引を中止したことでしょう」
「それはわかったが・・・」


そのとき、なにか閃くものがあって、思わず目を見開いた。


「それはおかしくないか?」
「なぜです?」
「詳しくは知らんが、椿姫は一度、警官に職務質問を受けてるだろう」
「はい。 南区の高級住宅街で」
「あれは、アクシデントだったんだろうが・・・それでも・・・」


突然、おれは言葉に詰まる。


「え・・・っ?」


喉をつまらせたように、続きの言葉が見当たらない。


「その通りです、浅井さん。
"魔王"が、ケースから身代金を奪ったのはおそらく――」

 

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「――あのときです。
警察の介入を恐れているはずの"魔王"こそが、警察官に成りすましていたんです。
アクシデントを装い、椿姫に激怒したふりをし、その後も市内を引っ掻き回してくれましたが、それもすべて陽動です」

 

 

 

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「おかしいと思いませんか? 椿姫は、職務質問を振り払って逃げたんですよ?
よく騒ぎにならなかったものです。 よしんば騒ぎにならなかったとしても慎重な"魔王"が椿姫を許して、取引を続けるとは考えにくいです。
そう考えると、いくつかの疑惑が線を結びます。
"魔王"は、なぜ、アタッシュケースに株券を入れさせたのか?
「持ち運びに便利なはずの株券を、またわざわざ大きなケースに入れる理由は、なんだったのか?
椿姫のあとを追いながら、ずっと疑問に思っていました。
情けないことに、いま考えてみればおかしな話なんです。
"魔王"は警察を警戒しているはずなのに、椿姫にケースなんて似合わないものを持たせ、よく警官
が巡察する南区の住宅街を受け渡し場所に選んだんですから。
その答えは事件が終わってからわかりました。
サイズの大きい黒のアタッシュケースは、警察が職務質問のなかで、中身を確認してきても妥当と
思われるものだからです。
少なくとも、椿姫のあとをつけて、動向を探っていたわたしには、そう思えました。
南区のような高級住宅街に、不審車両が公然と路駐しているんです。
巡回中の警官が窓を叩いても無理はありません。
わたしは、まんまと、椿姫が運悪く警官に捕まったのだと、信じ込まされたわけです。
あのとき、警官は二人いました。
一人が狼狽する椿姫に質問を浴びせていましたが、もう一人、おそらく"魔王"の仲間が車内を探っていました。 ケースを開けて株券を取り出していたんでしょう。
おそらく椿姫は警官の背格好も声も覚えていないでしょう。
"魔王"は椿姫の心理状態をよく推し量っていたといえます。
かくいうわたしも、もっと注意して警官を見ておくべきだったんです。
いまとなっては、制帽を深くかぶっていた程度にしか思い出せませんが、一人は、鼻が高く、外国人風だったような気もします。
"魔王"にとっては、一番の正念場だったでしょう。
その場に、本物の警官が出てきてもおかしくはないのですから。
そう思って、つい先日、あの辺りの交番に迷子になったふりをして行ってみました。
どうも巡回には定められた時間があるようですね。
"魔王"はそういったところも入念に調べあげていたのかもしれません。
ついでに聞いてみたところ、その交番の警官の方が、二人いっしょに町を巡回したことは、ここのところないそうです」


おれは、宇佐美の眼光の鋭さに、少し遠慮がちに言った。


「・・・なるほど、いちおう裏付けは取ったわけだな」
「ええ・・・しかし、しょせんは当てずっぽです」


そして、宇佐美は、再び眉間に深いしわを寄せた。


「捕まえなければ、意味がありませんから」


まなざしは鋭いだけでなく、深い。


「"魔王"は椿姫を・・・なんの関係もない椿姫を巻き込みました」


怨嗟のこもった、ぞっとするような目の色だった。


「赦されないと思いませんか、浅井さん――――?」


おれは、宇佐美の視線を受け止めて、逆に挑むように見つめてやった。


「赦されないな、宇佐美――」


どういうわけか、心が冷めていった。

まるで、宇佐美の挑発を真っ向から受け入れてなお、余裕を示すように、堂々とした態度をとりたくなる。


もし、おれが、"魔王"だったら・・・?


ありえないと思いつつも、それも、悪くないなどと、不意に魔が差したように嗤ってしまった。

 

・・・。


G線上の魔王【11】

 

 

・・・。


翌朝すぐに、椿姫の家に出向いた。

休日の朝らしく電車も空いていた。

声をかけると椿姫は弟を連れてすぐに出てきた。

 

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「お兄ちゃん、こんにちはー!」
「お・・・」


少なからず驚いた。


「おう、元気いいなー」


誘拐され、一週間近くも廃病院に監禁されていたというのに。


「でしょ? わたしも心配してたんだけどね」


椿姫の顔に笑みが戻っていた。


「寒くなかったか?」
「んーん。 真っ暗だったけど、お部屋はあったかかったよー」
「ご飯は?」
「パンがたくさんあったよ。 お菓子もあったよー」


・・・人質にしては、妙に優遇されていたみたいだな。


「犯人・・・いやその、広明くんは、どんな人についていったんだ?」
「お馬さんだったよー」
「馬?」
「うんっ。 お父さんの親戚の人だって言ってた。
ちょっとおうちに帰れなくなるけど、いい子にして待ってなさいって言われた」


・・・馬の面でもつけていたのだろうか。


「最初、車に乗ったときは、怖い人かと思ったけど、お菓子くれたり、玩具くれたりして、いい人だったよー」


それにしても、犯人は、広明くんをうまく手なずけていたようだな。


「お姉ちゃん、寂しかったでしょー?」


いたずらな笑みを浮かべる。

 

「もうっ、この子は・・・ほんとに・・・」


「なんにしても、よかったな」
「一件落着だね。 今日からようやく日記を再開できるよ」
「なんだよ、最近は書いてなかったのか」
「うんっ、日記も書けなくなるほど動揺していたみたいでした○(まる)」


すがすがしいまでの笑顔だった。

これから先、この家族には引越しが待っているわけだが、ひとまず事態は落ち着いていた。

 

・・・。


 

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「おはよう・・・」



こいつが現れるまでは・・・。

 

・・・。

 


「あ、ハルちゃん、どうしたの?」
「広明くんが帰ってきたと聞いたんで」


椿姫が小首を傾げておれを見た。


「ああ、昨日電話もらったときに、宇佐美もすぐ横にいたんだよ」
「え? あんな夜中に? 二人でなにをして・・・」


さらになにか質問が続きそうなときに、宇佐美が広明くんのそばに近づいた。

 

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「髪の毛ボーボーのお姉ちゃん、こんちはー」
「ちわー。 だいじょうぶだったかー?」
「みんなに聞かれるよー。 だいじょうぶだよー」
「ホントかー? わたしにはなんでも言うんだぞー?」


「ハルちゃん、きのうはごめんね」
「ん?」
「ひどいこと言っちゃったような気がして」
「気にしてない。
わたしこそ、お前を知らず知らず傷つけていたようで、申し訳なく思ってる」


その言葉に、椿姫はほっとしたようにため息をついた。


「せっかくだし、上がってく?
引越しが近いから、散らかってるけど、居間はまだ手をつけてないから」
「そうだな、警察にも連絡しないといけないしな」


さらりと言った直後だった。


「けい、さつ・・・?」


椿姫の顔が見る見るうちに青くなっていく。



「警察って、どういうこと?」
「どういうことって・・・一連の事件を警察に通報するんだ」


宇佐美はそのために来たんだな。

なんとかして椿姫に通報を思いとどまらせなければ・・・。

 

しかし、意外な展開になった。


「なに言ってるの?」


椿姫の唇が、わなないていた。


「そんなことしないよ」
「・・・なんだって?」


宇佐美の眉が吊り上った。


「おかしいよ、ハルちゃん」
「おかしい? わたしが?」
「ハルちゃんみたいな頭のいい人ならわかるでしょう?」
「まだ、警察を頼る気はないのか?」
「あ、当たり前だよ、なんて恐ろしいこと言うの?」


信じられないと、表情が語っていた。

 

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「なぜだ・・・?」
「だ、だって、そうじゃない? 警察に連絡したら、犯人が怒るよ? そしたら、どうなると思う?」


その瞬間、おれと宇佐美は顔を見合わせた。


・・・第二第三の誘拐事件を、椿姫は恐れているのだ。


「ハルちゃんは、身代金をすりかえて、一度犯人を怒らせたのに、また、そんなこと言われても困るよっ!」
「・・・・・・」


宇佐美は耐えるように押し黙っていた。


「ご、ごめんね、心配してくれてるのはわかるんだよ、だけど、警察には連絡しないよ、ぜったい」
「・・・・・・」


宇佐美は獣のような目つきで、冷静に椿姫を見つめていた。


「犯罪者の報復を恐れるがあまり、犯罪者を憎もうともしないのは、あまりにも弱腰というものじゃないか?」


低く、絞り出すような声だった。


「ハルちゃんにはわからないよ、ハルちゃんの家族がこんなことになったわけじゃないでしょ?
家の電話が鳴るだけで心臓が飛び跳ねるくらい驚いて、風で窓が鳴っただけで、広明が帰ってきたんじゃないかって、夜中に目が覚めるんだよ? そんなのはもういやだよ」
「・・・・・・」
「ごめんね、そういうわけだから」


苦しそうに目を伏せた。

思わぬ展開。

おれにとってはこの上なく好都合な状況といえる。


「というわけだ、宇佐美」
「・・・・・・」
「なんだ? なにか言いたそうだな」


宇佐美はけっきょく、なんの役にも立たなかったわけだ。

心中穏やかではないだろうが、これ以上宇佐美が椿姫の家に口を出す権利なんてないだろう。


「広明くんが無事で本当によかった。 帰ります」


それだけ言って、歩き去っていった。

広明くんが、椿姫の袖を引いた。


「ねえ、お姉ちゃん、遊んでー」
「広明、ちょっと中に入ってなさい」


腕を振りほどいた。


「・・・・・・」
「あ、ごめん。 ちょっと浅井くんとお話あるの」
「うん、わかった。 あとで、おやつ作ってね」


広明くんはおれを一瞬だけ見て、家のなかに入っていった。

 

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「・・・・・・」
「そう気にするなよ」
「うん・・・」
「とにかく、これで事件は解決だ。 今日から、またいつもどおりだな」
「そう、かな」


苦い表情。


「浅井くん、わたし、変かな?」
「変?」
「変になっちゃったかな?」
「いや・・・どうかな・・・」


ここ数日でいっぺんに襲ってきた不幸を考えれば、おかしくなるのも無理はないが・・・。


「なんかね、怖いの。 いままで知りもしなかった感情が、どんどん大きくなっていくような気がして」


震えを抑えるように、両手で肩を抱いた。


「たしかにちょっと、気持ちの浮き沈みはあるみたいだけど、気にすんな」
「ありがとう、浅井くんにそう言ってもらえると、心強いよ」


笑顔を見届けたおれは、踵を返す。


「じゃあな。 またなんかあったら教えてくれ」


一件落着だな。

誘拐事件にしろ、椿姫の心境の変化にしろ、常におれに有利になるようにことが運んだ。

やけに運に恵まれたな。

悪魔にでも魅入られたかな・・・。


「待って浅井くん。 今日、時間ある?」
「今日? ないことはないけど?」
「なら、ちょっと会わない?」
「・・・もう会ってるが?」
「改めてっていう意味」
「・・・・・・」


・・・別に、もう椿姫に用はない。


「せっかくだけど、ちょっと忙しいな」
「よ、夜ならどうかな?」
「今日は、家族といっしょにいたほうがいいんじゃないか? お母さんも退院したんだろう?」
「うん、だから、深夜とかは?」
「深夜だって?」


真面目な椿姫が夜中に男と出歩こうってのか。


「ごめんね、なんだか不安で、浅井くんといっしょにいたいんだよ」
「・・・・・・」


うすうす感じてはいたが・・・。

こいつは、どういうわけか、おれなんかに気があるようだな。


それは・・・。



「うちに来るか?」
「浅井くんのおうち?」
「ああ、深夜なら、そのほうが都合がいい」
「わかったよ」
「・・・・・・」


二つ返事で了解かよ。

警戒心ゼロだな。

夜になったら、ちょっとお灸をすえてやるか。


「じゃあな・・・」
「夜、電話するね・・・」


椿姫の声が名残惜しそうに糸を引いた。


・・・・・・。

 

・・・。

 





 「広明くんの具合はどうだ?」


夜十時。

椿姫を部屋にいれてやった。




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「平気みたいだよ。 まるで誘拐されたことをもう忘れてるみたい」
「犯人は、広明くんを丁重に扱ってたみたいだな」
「ちゃんと返してくれたしね」


やんわりと笑った。

椿姫は、犯人に対して憎しみを抱いていないようだ。

おれはコーヒーを差し出して、椿姫と向かい合って座った。


「で?」
「え?」
「気分、落ち着いたか?」


おれといっしょにいたいと椿姫は言った。


「うん、少しね・・・」
「そうか・・・」


コーヒーをすする椿姫を見つめながら、おれは考える。

なにが不安なんだろうな。

広明くんは帰ってきたし、もう、事件は終結したんだ。

引越しが、不安なのかな?

住み慣れた家を出て行くわけだし・・・。


「引越しの準備、進んでるか? もうすぐ期日だけど?」
「ちょこちょこやってたから、たぶんだいじょうぶ」


・・・弟が誘拐されてるなかで、引越しの準備をしていたのか。

しっかり者というか、一家の中心的な位置にいるというのは本当らしいな。


「やっぱり、嫌だよな。 引越しは」
「しょうがないことだよ。 浅井くんは精一杯してくれたんだし」


態度を見るに、立ち退きを恐れている様子はなかった。


「それにしても、すごいおうちだね」


話題を変えるようなそぶりを見せた。


「ああ、部屋に上がるのは初めてだったな?」
「何畳くらいあるの?」
「宇佐美と同じ事を聞くな?」


鼻で笑った。


「ハルちゃん・・・?」
「あ?」
「ハルちゃんも、来たことあるんだ。 そっか、なんか言ってたね」
「なんだ? なにかまずいのか?」
「ううん・・・」


首を振るが、ばつの悪そうな表情が顔に浮かんでいた。


「そういやお前、最近、宇佐美とちょっとギクシャクしてんな」


椿姫の眉が跳ねた。


「そう、見える?」
「見えるよ」


すると、椿姫は戸惑うように言った。



「ハルちゃんって、浅井くんのこと好きなのかな・・・」
「な・・・!?」


冷や汗が出る。


「おぞましいことを言うな。 んなわけあるかよ」
「でも、ここんところ、いつもいっしょにいるでしょう?」
「そりゃあ、二人で広明くんの行方を追っていたわけだからな」


・・・まあ、おれはたいして何もしていないが。


「今日はね、本当は、そのことを聞きに来たの」
「・・・そのことって・・・おれは宇佐美の気持ちなんて知らんぞ」
「うん、でも、わたしは・・・」


目を伏せた。

 

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「なんだ?」
「わたしは、浅井くんのことが・・・えっと・・・」
「・・・・・・」


面倒だな。

こいつがなにを勘違いしているのか知らないが、おれはただ、椿姫を利用しただけだ。


愛情なんて・・・ない。


「おい、椿姫」


おれは低い声で言った。


「お前の気持ちはなんとなくわかった」
「・・・っ」
「こんな時間に来るくらいだしな」


椿姫の顔が、みるみるうちに強張っていく。


「つきあいたいとか、そういう話だろ?」


絶句した。


「まあ、考えておくよ」
「え?」
「お前のことは嫌いでもないけど、とりわけ好きってわけでもないから」
「・・・・・・」


椿姫は、おれの次の言葉を待っていた。


「ひとまず今日は帰れ」
「え? あ、うん・・・」


けれど、椿姫はじっとしたまま動かない。


「え、えっと・・・どうやったら、つきあってもらえるかな?」


軽く笑ってしまった。


「さあな。 とりあえず、こんな時間に男の部屋にほいほいとあがりたがるのは、やめろよ」
「え? どうして?」
「軽く見える」
「そうなんだ。 ごめんね」
「実際、お前が軽い女じゃないことは知ってるがな。
でも、そういう体裁みたいなのは、気にしたほうがいいぞ」
「気にした方がいい?」
「ああ、おれは、目立つのが嫌いだ。 女を連れ込んでるとか噂されたくないしな」
「服装とかもオシャレなほうがいいかな?」
「まあな。 見栄ってのは大事だと思う」

 

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「がんばってみるよ」


なにやら意気込んでいた。


「・・・よかった。 日記やめろ、とか言われたらどうしようかと思った」
「じゃあ、やめろ」

 

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「ひ、ひどいよ・・・」


しかし、こいつもどこか変わったな。

なにが変わったとは言い切れないのだが。


「おやすみ」


おれは椿姫を送り出した。

帰り道、椿姫は終始緊張した面持ちで、口数も少なかった。


・・・。

 


紆余曲折あったが、椿姫の周りに起こった事件はひとまず収束した。

明日からは、いつもどおりの毎日が始まるな。

椿姫の気持ちにどう答えるか。

それだけが、少し心に引っかかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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「女は囲っておいて損はないぞ、京介」


翌日、権三に呼び出された。

朝食を交わしながら、ふと、権三が言った。


「いきなり、なんです?」
「例の美輪椿姫だったか?」
「ええ・・・」
「食ったか?」


口角を吊り上げて笑った。


「いいえ。 なにかと面倒もありそうなので」


おれの返答に、権三は不満げだった。


「きちんとしつけておけよ」
「それは、重々承知してます。
誘拐事件が終わったとはいえ、警察が出てこないとも限りませんから」


昨日の椿姫の様子からして、まずだいじょうぶだとは思う。


「もし、警察がうちの身辺を捜査するようなことがあったら、どうする?」
「そのときは、僕の責任ということになります」
「わかっているならいい」


どんな目にあわされることやら。

おれは箸を置いて、茶をすすった。


「それでは・・・」


別れを告げようとしたとき、権三が引き止めた。


「これから、ならしにいくが、来るか?」
「ならし・・・ですか」


初めて誘われたな。


「そろそろお前も、覚えておいたほうがいいかと思ってな」


要するに、遠出して射撃の訓練をするのだ。

当然、本物の拳銃を使う。


「せっかくのお誘いですが・・・」
「ならしておかないと、いざというときに使えんぞ」
「すみませんが、このあと、山王物産の方とお話がありまして」
「・・・・・・」


権三はそれ以上、何も言わなかった。


「それでは・・・」
「京介」
「はい?」
「しっかりやれよ」


・・・・・・。

 

・・・。

 


今日は、朝から肩がこるな。

山王物産との打ち合わせを終えて、ようやく一息つけた。


・・・帰って寝るか。


・・・ん?

 

雑踏のなかに、見慣れた顔があった。

 

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「椿姫じゃないか?」
「あ、浅井くんっ?」


きょろきょろと、辺りを見回している。

 

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「おにいちゃん、こんにちはー」


弟もいっしょだった。


「買い物か?」
「うん、お姉ちゃん、玩具買ってくれるって」
「そりゃよかったな」


広明くんは、出会ったときと変わらない笑顔を見せた。

誘拐の傷跡のような雰囲気は、まったく感じられない。


「ついでに、携帯電話持とうと思ってね」


さすがに弟の前だからか、昨日のように緊張してはいなかった。


「携帯? へえ・・・」
「便利でしょう?」
「まあな・・・」


必要ないとか言っていたような気がしたが・・・忘れたな。


「あとね、お洋服も買うの」
「そろそろ本格的に寒さの厳しい季節だしな」
「それだけじゃないんだけどね」


ひょっとして、昨日の会話を気にしているのだろうか。


「ねえ、お姉ちゃん、早くー」


小さな手が、ぐいぐい椿姫の袖を引っ張っていた。


「ねえ、浅井くん、ひまかな?」
「え?」
「よかったら、いっしょにお買い物しない?」
「たしかに、ひまだが・・・」
「じゃあ」


・・・なんか、強引だな。


「ねえ、早くー」


広明くんが口をへの字に曲げていた。

 

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「わかったわかった。 連れてってやるよ」
「やったー」


・・・ガキは苦手だ。


・・・。

 

 


手近なデパートで買い物を済ませた。


 

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「ねえ、早く帰ろうよー」


広明くんは、買ってもらったプラモデルを、さっそく家で組み立てたいらしい。


「まだお姉ちゃんの買い物が終わってないんだよ?」
「えー」
「もうちょっと回らせてよ。 お願い」
「むー・・・」


どうにか、なだめすかしたようだ。


「洋服って、なにを買うんだ? コートか?」
「ううん、とくに決めてないけど」


ぶらりぶらりとセントラル街を回った。



・・・・・・。



いくつかのセレクトショップに椿姫を案内してやった。

 

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「浅井くんって、お店に詳しいんだね」
「いやいや、学園の連中なら誰でも知ってるから」
「わたしが、ちょっと田舎ちゃんなだけ?」
「この界隈なら、おれより栄一のほうが詳しいぞ」
「そっか。 栄一くんって、だから女の子に人気があるんだね。 いろいろ聞いてみようっと」
「で、決めたのか?」
「あ、どうしようかな・・・」
「さっき見たダッフルコートとかどうよ?」
「えっと・・・もう一周してもいい?」
「・・・まあ、いいけど」


「・・・・・・」


広明くんは、おとなしくついてきた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


女の買い物は長いということを、嫌というほど思い知らされた。

 


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「ねえ、お姉ちゃん、まだー?」


「さすがに、長いぞ」


「お姉ちゃん、いつもはパパっと決めちゃうのに、どうしたの?」
「ごめんね。 なんか目移りしちゃって」


「わかった。 先に、携帯を買いに行こうぜ」


しかし、たくさんの機種に囲まれて、また迷いだすかもな。


「ボク、もう、帰りたいよー」
「もうちょっとだけ、ね?」
「いやだー! 疲れたよー!」


駄々をこねだした。


「もう、ひとりでも帰るー!」


椿姫の顔色が変わった。

 

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「わかったよ・・・ごめんね、広明」
「・・・・・・」
「だから、一人で帰るなんて言わないで」


じっと、弟を見つめた。

誘拐されたことを思い出したのだろう。


「・・・いいよ」


ぼそりと言った。


「もうちょっとだったら、いいよ」
「え?」


なんだかんだで、仲のいい家族なんだよな、こいつら。


「そう? いいの?」


椿姫も控えめに尋ねた。


・・・てっきり、このまま解散になると思ったが?


「じゃあ・・・」


椿姫の靴の先が、携帯ショップに向いた。


が、おずおずと元の位置に戻った。


「帰ろっか・・・」
「ん?」
「おうちに帰ろう、ね?」


まるで自分に言い聞かせているようだった。



ん・・・。


おれの携帯が・・・。


着信は、宇佐美からだった


「出ていいか?」


椿姫は、どうぞと、手の平を差し出してきた。


「なんか用か?」
「いや、浅井さん。 いまバイト終わりました」
「はあ・・・?」
「ところで、今晩どうっすか?」
「おっさんみたいな誘い方するなよ」
「夕飯まだなんでしょう?」


今日は、朝から誘いが多いな。

たまには、流されるがままの一日もいいか。


「いいぞ。 どうする?」
「じゃあ、駅前の三百円ラーメンでいいすか?」
「なんでもいい。 あとで連絡する」
「はい」


通話を切った。


「どうしたの?」
「いや、宇佐美とメシ食いに行くことになった」
「あ、そうなんだ・・・」
「なんだ?」
「いや、今日は、ご飯用意するつもりだったから」
「お前が?」
「うん、つきあってくれたお礼に」
「なら、宇佐美に連絡するよ」
「断るの?」
「いや、宇佐美もいっしょにどうよ?」
「あ・・・うん」


目を泳がせた。


「ハルちゃんとはきのう、ケンカしちゃったしな・・・」
「別に、ケンカってほどじゃないと思うが」


後味の悪い別れ方をしていたがな。


「宇佐美は外した方がいいか?」
「ううん、そんな、仲間はずれみたいなこと、できないよ」


小さく笑った。


「じゃあ、ちょっと宇佐美にかけなおすな」


言って、再び携帯を取り出してダイアルをプッシュした。


「はいはい。 自分、もう向かってますよ」
「ああ、そのことなんだが、いま椿姫と一緒にいるんだ。 それで・・・」
「お断りしておきます」
「人の話は最後まで聞けよ」
「椿姫の家で、ご飯っていうプランでしょう? お断りしておきます」
「なんだよ、お前、きのうのこと根に持ってるのか?」
「いいえ。 ただ、わたしは椿姫に近寄らない方が賢明なのではないかと」
「・・・そうなのか?」
「わからないでもないでしょう?」


・・・椿姫は、おれに気がある。

そして、椿姫は、宇佐美もおれに気があるのではないかと勘ぐっている。

宇佐美も、椿姫のそういった心情を推察しているのだろうか。


「では、自分、このまま帰ります」


今度は、宇佐美のほうから通話を切ってきた。


「帰るらしい」
「え? どうして?」
「どうも、もともと用事があったらしいな。 お前の家の東区までいくと時間がかかるだろう?」


さらっと嘘をついた。

 

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「ほんとに? わたしに気をつかってくれたんじゃないの?」
「違うと思うが・・・」
「ほんと? 嘘ついてないよね?」


おれは少しだけ、驚いていた。

違和感のようなものが、ついに結晶化した。

椿姫に、疑われるなんて、いままで記憶にない。

やっぱり、少し変わったな、こいつ・・・。


「お姉ちゃん・・・?」


弟が、低いところから、椿姫の顔色をうかがっていた。


「なんにせよ、宇佐美は来ない。 とっとと・・・」

 


不意にめまいが襲ってきた。


「・・・っ」



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「だいじょうぶ?」
「平気だ・・・最近、かぜをこじらしていてさ・・・」


眉間を指で軽くもんだ。


「すまんが、今日は帰って寝るわ」
「わたしも、浅井くんのおうち行っていい? おかゆとか作るよ?」
「おいおい、広明くんはどうするんだ?」
「あ・・・」


広明くんは、きょとんと、おれたちのやりとりを眺めていた。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


視線を交わす。


「おれのことはいいから、とっとと帰るんだな」


椿姫は、ようやくうなずいた。


「じゃあな・・・」


足早に、椿姫から離れた。

なにかに急かされているような気がした。

椿姫がなにか言ったが、聞き取れなかった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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疲れていた。

むしろ、少し病んでいるのかもしれないと、椿姫は思った。


「お父さん、書斎の荷物まとめた?」


大家族は、引っ越しの準備に忙しかった。

椿姫は、寝室にある子供たちの玩具をかたづけ、本の山を紐で縛る作業に没頭していた。


「ねえ、お父さんたら、聞いてるの?」
「ああ、すまんすまん。 いまやってるよ。 ほら広明、ちょっとどいてなさい」


書斎からは、楽しげなやりとりが聞こえてくる。

買い与えたプラモデルに、父親と息子がはしゃいでいた。


昨日、広明が帰ってきてからというもの、父親は緊張の糸が一気にほぐれたようだ。

広明につきっきりになって、仕事もほったらかしにして、遊んでいる。

気持ちはよくわかるので、なにも言えなかった。


椿姫は、いまだに体調を崩している母に代わって、一家の食事を一身に引き受けていた。

食事を作り、家族全員分の衣服を洗濯し、弟を寝かしつけて、父親の酒のしゃくをして、引越しのための荷造りに追われている。

椿姫は、せっせと働いている自分に、ふと、首を傾げたくなっていた。


「ほら、紗枝っ、ちゃんとお布団で寝てなさい! トイレ? トイレはあっちでしょう、もうっ!」


つい、口が荒くなる。

それが、たまらなく嫌だった。


――わたし、どうしちゃったんだろう?


なにも変わっていないはずだった。

美輪家の長女として、いままで炊事洗濯を任されることは何度もあった。

病気がちな母親の代わりに、弟たちの世話をするのも当たり前のことだった。

父親の愚痴につきあうのも、好きなはずだったのに。


椿姫は変化の原因を探ろうと、思い悩んだ。

すると、いつも、あの男がやってくる。

忘れられない悪魔のささやきが襲ってくる。


――『お前を人間にしてやろう』


身代金を持って市内を駆け回っているとき、彼はそう言った。

その後、二度、彼と密会した。

弟を誘拐した凶悪犯は、けっきょく、椿姫になにをさせるつもりだったのだろうか。

心理的な話題を好んでいたようにも思う。

結果、椿姫の心は自分でも気づかぬうちに、何度もえぐられていた。


椿姫は、いつしか、彼にもう一度、会ってみたいような気持ちになっていた。

会って、この鬱憤をぶつけてやりたい。

歯軋りする思いだった。

だが同時に、人を恨むような感情を抱く自分に、いいようのない不安を覚えた。



願いが通じたのか。

電話が鳴った。

犯人から渡された携帯電話。

捨てるに捨てられず、保管しておいたのだ。



家族に気づかれぬよう、そっと手にとった。

ためらいがちに、通話ボタンを押した。


相手は黙っていた。

もしもしと、小声で呼びかけた。


「久しぶりだな」


怪しげな雰囲気を持つ声。

犯人だった。


「少し、話がしたい」
「わかりました・・・」


即座に口が反応した。

待ち望んでいたのかもしれない。

椿姫はそのまま、何も言わずに、冬空の下に出た。


・・・。

 

 

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「名残惜しいが、これが最後の連絡だ」


ころあいを見計らって、犯人が言った。


「広明くんは、元気かな?」
「はい・・・監禁されていたことなんて、もうすっかり忘れているみたいに元気です」
「監禁だなんてとんでもないな。
保護していたようなものだ。 トラウマになってしまったら、かわいそうだろう?」


冗談なのか本気なのか。

犯人は、自分が慈悲深い存在であるといいたいようだった。


「警察には連絡していないだろうな?」
「もちろんです」
「わかっていると思うが、わたしはまたいつでもお前の家族を絶望の淵に立たせることができる」


有無を言わさぬ響きがあった。

椿姫は下腹に力を入れて聞いた。


「なんの用ですか? もう、あなたのことは早く忘れたいんですが」


嘘だった。

男のことは、忘れようとしても、忘れられなかった。


「最後に、確認しておこうと思ったのだ」
「確認?」


思わず、息を呑んだ。

犯人が矢継ぎ早に言った。


「私が、憎いか?」


挑発するような声。

椿姫は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。

すぐには返事ができなかった。


「そうか、憎いか」


どこか満足げに、嗤っていた。


「しかし、私はもうお前の前には現れない。
たとえ警察が調べをいれたとしても、私の足取りはつかめないだろう」


椿姫は突如切迫感に苛まれた。

犯人が消えてしまう。

この鬱憤した気分を、どこにぶつければいいのか。


「言っておくか、お前は巻き込まれたにすぎない。 私の真の目的は別のところにある」
「真の目的って、なんですか?」
「わかるだろう?」
「・・・・・・」
「お前の、身近な友達だ」


気づいた。

そしてその名を口にした。


「ハルちゃん・・・?」


その瞬間、不通音が鳴った。

悪魔のささやきは風のように消えていった。

寒天のなかに立ちすくむ自分の吐息だけが、耳に届いた。


「そんな・・・」


携帯電話を握り締めた。

唇がわななき、眉間にしわが寄っていく。

叫びだしたい衝動に駆られた。

汚れた感情が募り、一人の友達に向かって牙を剥いていく。

あの少女は、京介のことも好きなのだ。

抑えられそうになかった。

とたんに、いままでの自分が、逆に珍妙に思えてきた。

請われてクラス委員になった。

休みがちな友達にかわって掃除当番も進んでやる。

なにをするにも小さな弟たちを優先し、買いたい物も買わず、貯金や時間すらも周りのために費やしてきた。

いつも善人であるというレッテルを貼られていた。

そして、そういった風評に、何の疑問も抱かなかった。


欲望が、じわり、じわりと、顔を覗かせていく。


椿姫は、いつしか妄想にふけっていた。

もっといい服を着て、自由に遊んで、そして・・・。

椿姫は、同世代の少女が当然持つ欲望を、一つ、また一つと背負って、ゆっくりと自室にこもっていった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「京介ちゃんよぉ、おいおい京介ちゃんよぉ」


朝一で、栄一が顔をしかめていた。


「なんだよ、近いぞ、顔」
「そろそろよお、オレの家でパーティの時期じゃねえの?」
「そういう時期あったっけ?」
「今年からだけどよお、ついにオレちゃんも爬虫類に手を出したわけだよ」
「ペットの話か?」
「とりあえず蛇からいってみたわけだ。
チャーリーっていうんだが、これがまた冬だけあって切なそうなんだよ」
「つまりなにか? おれがお前のチャーリーをねぎらいにいくのか?」
「イグザクトリィだぜぇ」


なんかムカツクなこいつ。

 


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「楽しそうな話してますね」
「あ、宇佐美さんも来るかい?
「お誘いありがとうございます。 宴会は地味に好きです」
「ちゃんとお土産持ってきてね」
「蛇さんにですか?」
「んーん、ボクに」
「死んだバッタとかでいいすかね?」
「だからボクにだってば!」


そんなこんなで、授業が始まった。

 

・・・・・・。

 

授業中に、宇佐美が振り返った。

 

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「椿姫、きてないっすね」
「だな。 なにかあったのかな?」
「きのう、ご飯食べたんじゃないんですか?」
「いや、けっきょくやめておいたんだ・・・」
「椿姫、最近ちょっと疲れ気味だと思うんで、心配です」
「それは同感だな。 引越しが迫ってるみたいだし」
「浅井さんのフォローが必要ですね」
「なんで、おれなんだよ」
「自分はちょっと、敬遠されているみたいなので」


たしかにな・・・。

 


・・・・・・。

 



椿姫がやってきたのは、昼近くになってからだった。

 


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「みんな、おはよう」


てっきりカゼでもこじらせたのかと思ったが、元気そうだった。


「遅かったな」


「なにしてたの?」
「ちょっときのう、夜ふかししちゃって」


「引越しの準備か?」
「うん、そんなとこかな・・・ちょっと、日記つけたり、本読んでたりしてたの」
「それで遅刻かよ・・・」


まあ、疲れてるのかな。


「あ、引越しするんだ。 へー、どこに引っ越すの?」


中央区だったよな?」
「うん。 浅井くんのうちの近くだよね?」


声が弾んだ。


「歩いて十分くらいか」
「うんうん。 うれしいなっ。 新築のマンションなんだよね?」
「ああ・・・」


それなりにいい部屋を、紹介してもらったんだったな。


「ボクちょっと、残念だなー」
「なにが?」
「んーん。 なんか、あそこ、アットホームな感じがあったからさー」
「・・・・・・」


椿姫の表情から笑顔が消えた。


「でも、うちってすごく古いんだよ。 すきまかぜとかすごいし、砂壁だし、ストーブないと寒くてたまらないんだよ」
「いやボクさー、生まれも育ちも都会だからさ。
ちっちゃいころから、ああいう、一戸建ての家に住みたいなーとか思ってたんだよね」
「そうなの? 栄一くんって、ずっとマンションだったの?」
「よくいう鍵っ子だよ。 お父さんは単身赴任ばっかりだし、お母さんも夜遅いからね」
「そうなんだ・・・」


神妙にうなずいた。


「言ってくれたら、今度ごはん作りに行くねっ」


・・・こういうところは、いつもの椿姫なんだが。


「ありがと。 正直、さみしいときあるんだよね」


しかし、栄一の家庭環境なんて初めて知ったな。


「(へっへっへ。 ちょっとオーバーに言い過ぎちまったかな。 しかしコレいいな。 不幸アピールっつうの? 今度はみなしごっていう設定にしようかねえ、クク・・・)」


・・・一瞬でも同情したおれが馬鹿だった。



・・・。




さて、そろそろ昼休みも終わるな。

今日は、なんの予定もないし、帰って寝るとするかな。

ここんところ頭痛がひどいし・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 


帰り際、椿姫から声をかけられた。

どうも、遊びの誘いらしい。

 

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「浅井くん、今日、ちょっと寄っていかない?」


椿姫も、フレンドリーになってきたな。

最初誘われたときは、もっとおっかなびっくりだったような気がする。


「んー・・・きのうも、つきあったしな」
「ダメかな? セントラル街でね、ヴァイオリニストのイベントあるみたいだよ」
「え? そうなの? そんなのあるんだ」
「うん、なんか、デパートのイベントで、ちょっとした演奏会と、そのあと握手会するみたい」
「なんていう人?」
「えっとね・・・」


日記を覗き込む椿姫。

名前を聞いて、おれは沸き立った。

 

 

「あれだろ? とくに入場料とかいらないけど、聞いた後CD買えば、サインしてくれるっていう・・・」
「そうそう。 ちっちゃい企画みたいだけど、どうかな?」
「行く」


即答すると、椿姫はうれしそうに笑った。

 

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「しかし、よくそんなマニアックなこと知ってるな」
「きのう、調べたの」


なにやら誇らしげだった。


「広明くんはいいのか? 保育園は?」
「しばらく休ませてるから」
「他の子供たちは? 名前忘れたけど・・・」
「お父さんが、面倒見てくれてる」
「引越しの準備は・・・っていい加減しつこいか?」
「準備は、夜中やればいいから。 最悪明日でもいいしね」
「なら、行こうか」
「今日は、遊びたいの」


おれのすぐそばで、甘えるように微笑んだ。


・・・・・・。

 

・・・。

 


デパートを出ると、すっかり暗くなっていた。

 

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「いやあ、やっぱり生は違うなあ、生は」
「ご満悦だね。 CDも、ちゃんと二枚買ってたしね」
「当然だよ」


イベント後の解放感というか、ほてった頬が、ひんやりとした空気に触れて気持ちよかった。


「ありがとうな、椿姫」
「また行こうね」
「そうだ。 ケータイ買うとか言ってなかったか? つきあってやろうか?」
「ホントっ? ありがとう」
「・・・って、時間だいじょうぶか? もう、八時になるが」
「今日は平気だよっ」
「そうか・・・」


ちょっと前までは、すぐに帰ったのにな。

しかし、椿姫がいいって言うんならいいんだろう。

おれたちは、繁華街をふらふらと遊び歩いた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

街をうろつくこと二時間。

携帯を買って、夕食をともにした。

 

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「さてと・・・」
「ねえ、浅井くん、次どこ行こうか?」


おれは思わずうなった。


「おいおい、もう十時だぞ」


さすがに帰りたい。

仕事はないが、常時たまっているメールを出さなきゃならん。


「ゲームセンターとか行く? 浅井くんってゲームするのかな?」
「いやいや、お前どうしたんだよ」


椿姫の態度が気になった。


「なにが?」
「んな夜遊びキャラだったか?
椿姫と夜のゲーセンほど似合わない組み合わせもないぞ」
「そんなことないんじゃない?
ほら、よくカップルでぬいぐるみキャッチャーとかしてるじゃない? ああいうのしたいなあって思って」
「・・・・・・」


なんなんだろうな、こいつは。

おれに気があるんだとしても、妙に強引に遊びたがるな。


「急に遊びに目覚めたのか?」
「あははっ、そうかな・・・そうかもね」


あくまで軽い調子の椿姫。

別に、特段悪いことをしているわけじゃない。

たまに学園に遅刻したっていいし、夜にゲーセンくらい行ったっていい。

ただ、なにかがおかしい。


「真面目なヤツが遊びを覚えると、手がつけられねえっていうぞ?」


冗談ぽくいうと、椿姫の目つきが少しきつくなった。

 

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「なんだかね、遊ぶと気持ちがすっとするの」
「は?」
「嫌なこと忘れて遊んでると、楽なの。
自分でもちょっとダメかなって思うんだけど、それがまた気持ちいいの」
「これまたレベルの高い発言だな」
「冗談だよ」



思いっきり笑った。

大口をあけて、歯を見せるような笑い方も、ここ最近になって見るようになったな。


「とりあえず、帰るぞ。 ゲーセンは今度だ」
「うん、ごめんね無理言って」


素直なところは、いつも通りだが。

 

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「ふふっ、なんか観察されてるみたいだよ・・・」
「気のせいだ。 帰るぞ。 送ってってやる」


先を促すように首を振った。


「でもね、浅井くん・・・わたし・・・」


また気になることを言った。


「いままで、我慢しすぎだったのかなって思うんだ」


事件が終わった解放感から来てるのか。


なにかに憑かれているようにも見えた。


・・・・・・。

 

・・・。

 



 

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「わざわざありがとっ」
「しっかし、この辺は空気がいいなあ」


大きく伸びをする。

おれの住んでいる中央区なんかよりも、よっぽど星が多く見える。


「ちょっとあがってく?」
「帰りの電車がなくなっちまう」
「泊まってく? 浅井くんならお父さんも許してくれると思う」
「お父さんが許しても、おれが許さん。 明日いっしょに登校する気かよ」
「あははっ、ダメかな?」
「そんなところを栄一や宇佐美に見られたら、どんなアオリをくらうかわからんぞ」
「ハルちゃんは、そういうの冷やかす人なのかな?」
「冷やかすっていうか、ツッコミに困るようなコメントを残して去っていきそうだ」
「なんにしても、ハルちゃんはちょっとわけわかんないときあるよね」
「ん・・・まあな」


やっぱり、宇佐美とはうまくいっていないみたいだな。


「そうだ。 携帯の番号交換してもらっていいかな?」
「おう・・・」


そのとき、背後から足音がして振り返った。


「あれ・・・?」
「ん?」



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「あ、お姉ちゃんたちだー。 おかえりー」
「ちょっと、広明、どこ行ってたの!?」
「アイス買いに行ってたんだよー」


コンビニの袋を手に掲げていた。


「一人で!?」
「うんっ」
「なにしてるの!? 危ないじゃない!」


椿姫が血相を変えて、弟に詰め寄った。


「もう、馬鹿っ! お父さんは?」
「お父さん、なんか忙しいみたいだったから。 こっそり出たの」
「だからって・・・! 一人でなんて・・・」
「ダメだった?」
「お金はどうしたの?」
「お姉ちゃんの貯金箱から借りた」
「・・・っ!」


わなわなと震える唇。

荒い吐息がはっきりと聞こえた。

椿姫は、目を見開いた。


「広明、お姉ちゃんの気持ちわからない?」
「・・・ん?」
「広明は、悪い人にさらわれたんだよ?」
「悪い人じゃなかったよ?」
「悪い人なの! お姉ちゃんたち、とっても心配したんだよ?」


椿姫の形相に恐れをなしたのか、さすがの弟も急にしおらしくなった。

 

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「ごめんなさい・・・」


小さい頭を下げた。


「・・・・・・」


椿姫は弟を不満げに見つめていた。

だらりと下がった腕の先には拳が作られていた。


「お姉ちゃん・・・?」


広明くんは、椿姫の許しを待っていたのかもしれない。


「あんまり、困らせないで」


いつもどおり、優しく抱きしめてくれることを期待していたのかもしれなかった。


「まったく、お父さんもお父さんだよ・・・なんで広明から目を離すかな・・・」


ぶつぶつと、恨み言を続けていた。


「ごめんね、お姉ちゃん。 お姉ちゃん困ってるの?」
「・・・・・・」


「おい、椿姫。 ちょっと頭冷やせよ」
「うん、わかってる・・・」


ようやく口を挟めそうな雰囲気になった。


「でも、お姉ちゃんだって、帰ってくるの遅いよ?」
「お姉ちゃんはいいの。 大人なんだから」



「あー、すまんすまん、広明くん。 おれがお姉ちゃんと遊んでたから遅くなったんだよ」


面倒になって言った。


「ボク、あのお馬の人と遊んでもらって楽しかったけど、寂しいことあったんだよ。
お姉ちゃんに会えないのは寂しかったんだよ? だからもっと遊んでよ」
「・・・・・・」


椿姫は、首を縦には振らなかった。


「引越しの準備しなきゃ・・・」


広明くんから目を逸らした。


「じゃあ、おやすみ」
「うん。 また明日ね」


携帯の番号だけ交換すると、あとはたいした会話もなく別れた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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・・・。


椿姫のヤツ、妙に、俗っぽくなったな。

いままでのようなうさんくささが消えた。

溜まっているものがあったのかな。

考えてみれば、病気がちの母親に代わって、あの大家族を支えているわけだからな。

遊びの一つも知らないみたいだし。

世間知らずでスカウトに引っかかりそうになったこともあった。

人を疑おうともせず、真面目に他人や家族のために毎日を過ごすしっかり者の苦労人・・・。

そういう人間が、ひとたび崩れたらどうなるんだろうな。

おれにとって椿姫はただの学園の友人として、息抜きさせてもらえればいいだけの存在だ。


・・・そのはずなんだが、少し深くつき合い過ぎたかな。


「寝るとするか・・・」


頭痛は、今日は襲ってこなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 




翌日学園に行くと、栄一が声をかけてきた。

 

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「で、けっきょくパーティどうするよ?」
「別に、暇なときならいいぞ」
「なら今日だな」
「これまた急だな」
「だって、明日は祭日だろう?」
「・・・そうだったな・・・」

 

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「パーティするの?」
「うんうん。 ボクんちおいでよ」
「いくいくっ。 楽しそうだね」


そこに、ひょっこり宇佐美が顔を出した。

 

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「椿姫、だいじょうぶか?」
「なにが?」
「顔色が悪いぞ」


見れば、厚ぼったく腫れた目の下に濃いクマがあった。


「平気だよ。 ハルちゃんこそ、寝ぐせひどいよ?」


軽く笑って受け流す椿姫だった。


「んで、パーティとやらだが・・・」
「わたし、広明を迎えに行ってからだから、遅くなる」


「遅くてもいいよ。 ちゃんとお土産持って来てくれれば」
「みかんでいいかな。 とっても甘いよ?」


「お、みかん、自分、みかん、大好き」

「宇佐美・・・なんでカタコトになる・・・」


「ハルちゃんも来るんだね」
「ああ・・・」


宇佐美は真顔になって椿姫と向き合った。


「・・・やめとこうか?」
「なんで? 別にくればいいと思うよ?」
「そっか」


それきり宇佐美は口を閉ざした。


「花音も誘うか・・・?」
「いや、花音ちゃんはスケートの練習に忙しいからよそうよ。
別に仲間はずれにするわけじゃないよ、うん」
「・・・たしかに、間近に大会を控えてたな・・・」


当の花音は、机に突っ伏してグーグー寝ていた。


「で、京介くんは、おみやげなに持ってきてくれるのかな?」
「ハブだろ? マングースとかどうよ」
「ハブじゃないよ。 ていうか、マングースなんて持ってこれるもんなら持ってきてよね」


・・・しかし、最近、遊びすぎかもな。

とりわけ大きな仕事はないから、別にかまわないんだが・・・。


「浅井くんも来るんだよね?」


椿姫の赤みのない顔を見ると、どうにも気になる。


「なあ、椿姫・・・」


おれは何気なく言う。


「お前、なんか俗っぽくなったよなあ・・・」
「え? そうかな?」
「ああ・・・それならそれでいいんだがな」


まともになったってことだ。

うさんくさい純真さなんてないほうが、つき合いやすいというものだ。

そう考えると、椿姫という少女がとても身近な存在に思えてきた。


「・・・変、かな?」


不安そうな椿姫に言った。


「いや、むしろそれでいい。 これからも、もっとガンガン遊ぼうぜ」


椿姫は、ほっとしたのか、笑顔を作った。


「うん、遊ぼうっ」


「いやいや、なんか二人で盛り上がってるけど主催はボクだからね・・・」

 

それから放課後まで、あっという間に時間が過ぎていった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 


日が落ちるのがとても早くなった。



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「じゃあ、わたし、一度帰るねー」
「うん、またねー」


椿姫はひと足先に去っていった。


「そういえば自分、バイトでした」
「え? 来ないの?」
「すみません。 もっと早くにお誘いいただければ、善処したんですが・・・」
「いやいや、宇佐美さんももっと早くに断ってよ」


・・・椿姫に遠慮してるんだろうか。


「椿姫に遠慮してるわけじゃないですよ?」
「・・・っ」
「でも、椿姫は心配です」
「心配?」
「疲れてるみたいですし」


「だから、今日、ボクが盛り上げてあげるよ」
「さすが栄一さんです。 自分は、盛り下げるのは得意なんですが・・・」


宇佐美はもじゃもじゃの髪の毛をいじりだした。

 

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「椿姫のお父さんとかも、だいじょうぶですかねえ?」
「親父さん? なんで、家庭の心配までするんだ?」
「いえ、なんとなくそう思ったんです」


心配しているといいながら、宇佐美の顔に表情はなかった。


「ほら、家族は、似るもんじゃないですか」
「・・・・・・」
「浅井さんみたいにお父さんがすごい方だと、息子もすごい人になるじゃないですか。 いろんな意味で」
「どういう意味だ」


こいつは、権三を知っているわけではないだろうに。


「だから、椿姫が疲れてると、家族も・・・そう、まるで鏡のように元気をなくしていくんじゃないですかねえ」
「鏡のように、ねえ・・・」


妙に引っかかる言葉だった。


「なら、お前の親は、お前みたいに妙な人なのか?」
「失敬な・・・知らないわけじゃないでしょう?」
「知るかよ、お前の親なんて」


・・・ったく、くだらんことばっかり言うな、宇佐美は。


なにが、鏡だ。


「んでは、また。 浅井さん、今度お話したいことがありますので、そのときはよろしくお願いします」
「なんだよ、いま言えよ」
「いえいえ、他愛もないギャグですので」
「さっさとバイト行け!」


手を振って、追い払った。


・・・。

 

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「さて、どうすよ?」
「んー、たしかに、おれとお前でパーティはなあ・・・」
「サムイよ、マジで。 オレとお前とチャーリーとかマジサムイって」


・・・女が必要らしい。


「お前、友達呼べよ。 年上の女医とか」
「えー・・・」
「ほらあの、ミキちゃんって娘は? お前のセフレの」
「セフレじゃねえよ。 ミキちゃんは、ダメだ」


そういえば、しばらく連絡を取ってなかったな。

元気かな、ミキちゃん。


「じゃあ、椿姫が来るまでナンパしようぜ? お前の財布とオレのスイーツ知識があればどうにでもなるって」
「めんどくせえなー」
「んだよ、グズグズしやがって。 ほら、行くぞっ」
「お、おい、ひっぱんじゃねえよ・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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セントラル街の路上。

行き交う人々に混雑した歩道で、栄一が張り切っていた。


「おい、女」


ビシッと、指を突き刺した。


「メシ食いに行くぞ」


・・・いきなり人様の目の前に立ちふさがって『メシ食いに行くぞ』、はねえだろ・・・。

案の定、女の子は気味悪そうに栄一を遠巻きに眺めながら、足早に去っていった。


「けっ、クソがっ!」
「いやいや、栄一さんよー」
「なんだよ、オメーももっとやる気と財布だせよ」
「もうちょっと、工夫しろよ」
「オレに意見する気かよ?」
「お前はかわいい系で売ってるんだからさ、その路線を活かせよ」
「わーったよ」


つーか、かわいい系で売ってるヤツに、そもそもナンパなんて向いてないわけだが。


「ねえ、お姉さん・・・」


そうこうしているうちに、栄一がまた新たな女性に声をかけていた。

 

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「あのね、聞いてくれる? ボク、手相の勉強してるんだ? ちょっといいかな?」


女性は、栄一を見向きもしなかった。


「おいおい、手相の勉強とかなんだそれ?」
「オレなりの工夫だよ。 女は占いとか好きだからなー」


・・・ダメだわ、コイツ。



突然、携帯が鳴った。



「はい、もしもし・・・」
「あ、浅井くん、ごめん」


椿姫か。


「ごめん、ちょっと遅くなりそうなんだ」
「なんかあったのか?」
「んーん。 ちょっと、広明が・・・」
「あ?」
「いや、かまって欲しいみたいで」


そういや、昨晩、広明くんがそんなこと言ってたな。


「じゃあ、また連絡くれ。 おれたちはてきとーにやってるから」
「ごめんね、なるべく急いで行くから」


別に急いでもらう必要はないんだが・・・。

と、言おうとしたときには、通話は切れていた。


「なんだって?」
「椿姫、遅くなるってさ。 なんでも、弟と遊んでるらしい」
「なんだよ、またあの弟かよ。 わがままなガキだぜ」
「子供は、そんなもんだろ」
「椿姫も苦労してんなー。 遊ぶ暇とかないんだろうなー」
「そうだろうな」
「あいつって、化粧っけもぜんぜんねえじゃん。
服も毎年似たようなの着てるしさ。 まあ、そこがちょっとオレちゃんのなかで評価高いわけだけど」
「評価高いんだ?」
「なんつーの? 清く正しい感じがするじゃん。
貧乏だけどがんばりマス、みてーな。 萌へるじゃん」
「萌へるかねえ・・・」


おれは逆に、気に入らなかった。

とくにいままでの椿姫は。


「あー、ナンパ飽きた。 ゲーセンでも行って時間潰そうぜ」
「まあ、いいぞ。 おれは観てるだけだが」


ゲームは無駄に金を使うからな。

おれたちは、椿姫からの連絡があるまで、セントラル街をふらついていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「気づいたら、もう、十時じゃね?」
「だなあ・・・」


椿姫からは、まだ連絡がなかった。


「さすがに、お開きにするか。 椿姫には悪いけど」
「さすがにな。 椿姫には、おれから言っておくわ」
「じゃあ、帰るわー」
「おお」


栄一はさっさといなくなった。


「・・・・・・」


帰る前に、少し、仕事でもしておこうか。

カイシャに顔を出しておくのも悪くない。

最近は、幹部の方がよく働いているみたいで、おれがでしゃばる必要もないんだが。

いくつかの助言を求められることはある。

おれの助言というより、権三の威を借りたいだけなんだろうが・・・。


・・・・・・。

 


椿姫から電話があったのは、さらに一時間ほど過ぎてからだった。

 

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「やけに遅かったな」
「ごめん、いまどうしてる?」
「いや、とっくに解散になった」


電話越しの椿姫は、いらだっているようだった。


「なんだ・・・そっか。 残念だな・・・」
「まあ、パーティなんざいつでもできるし」
「浅井くん、明日は?」
「は?」
「明日、空いてない?」
「なんか用か?」
「えと、今日の、埋め合わせみたいな・・・」
「また遊びか?」
「それだけじゃなくて、ちょっと、お父さんがお話したいみたいで」
「・・・親父さんが?」


土地の話かな?


「わかった。 なら、そっちに出向くよ。 午前中でいいか?」
「助かるよ。 そのあと、ちょっと出かけたりできるとうれしいな」


・・・とことん遊びたいらしいな。


「よし、いいだろ」


おれは何気に、椿姫に心を許し始めていた。

なにからなにまで口にする気はないが、そういったおれの裏事情について少し話してみてもいいかもしれない。

ストレス発散にもなるし、そういうことを話せる相手が一人いてもいいだろう。

椿姫はおれに従順みたいだしな。

ちょっと前までは気に入らない部分もあったが、いまの椿姫なら金回りの話になんかも興味を示しそうだ。


「ちょっと、高めのレストランとか行くか?」
「え? 連れてってくれるの?」
「もちろん割り勘だが。 お前のことだから、貯金はけっこうあるんだろ?」
「けっこうあるよ。 いままで、お金の使い方とか知らなかったから。 そういうことも教えて欲しいな」
「悪いことたくさん教えてやるよ」


冗談めいた口調で言うと、椿姫も嬉々として笑っていた。


「あのね、聞いてくれるかな。 広明がさ、さっきやっと眠ってくれてさ・・・」
「それで、来れなかったんだな?」
「そうなの。 わたし、そういうのばっかりだよ・・・」
「貧乏くじ引いてるってか?」
「そうかも。 クラスでもさ、委員やってるけど、最近、なんでわたしなんだろうって思うの」


電話は長く続きそうだった。


「あとさ・・・お父さんがね・・・」


帰路の路に着きながら、おれはいつしか椿姫との会話に夢中になっていた。


「あー、これからまた引越しの準備だよ。 お父さんももっと手伝ってくれればいいのに・・・」


平気で愚痴をこぼす椿姫。

どこか口調まで変わった。

おれはといえば、なにか大切なものを貶めたような気がして・・・。

けれどそれが逆に嗜虐心を沸かせた。

下劣な気分ではあったが、人を貶めて得られる快楽というものが本当にあるのだと、この歳になってようやく知った。

椿姫のように清潔な女がおれのような人間に近づいてくるのが、正直、心地よかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

G線上の魔王【10】

 


・・・。



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朝起きて、牛乳を飲みながら新聞を読む。


――『自由ヶ咲学園に捜査のメス』


見出しを見て、納得がいった。

賄賂を渡した疑い・・・。

どうも、学園の拡張工事を巡って理事長と業者の間で、不正な取引が交わされているらしい。

そりゃあ、株も下がるってもんだ。


「・・・白鳥か」


あいつも、家庭では大変なのかもしれないな。

おれには関係ないし、どうでもいいが。


・・・・・・。


・・・。

 

 

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「京介、今日のニュース見たか?」
「ああ、なんか大変そうだな」
「まったくだよ。 まさかあの女優が結婚するなんてなー」
「・・・ああ、そっち?」


よく考えれば、栄一が白鳥建設の記事なんて読むわけがなかったな。

学園の運営がどうなろうと、おれたちの毎日に変化はないだろう。

 

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「おはよー」


挨拶をする椿姫の顔色は、あまりよくなかった。


「昨日、夜更かししてゲームしてたの?」
「え? ゲーム?」
「あれ? ネットゲームするとか言ってなかった?」
「あ、ああ・・・うんうん」


・・・なにを隠しているんだろうな。


「お前、学園とか無理して来なくてもいいんじゃないのか?」
「うん・・・本当なら、休ませてもらいたいんだけどね。 今日は、生徒会の仕事もあるし」
「強いなあ、椿姫は」


椿姫は頭を振った。


「忙しくて、いろいろと嫌なことを紛らわせたいだけだよ」
「あー、その気持ちわかるなぁ」


「なに悟ったような顔をしてんだよ」
「いたっ! ひどーい! 京介くん!」


おれたちのやりとりに、椿姫の頬に赤みが差した。


・・・・・・。


・・・。

 


椿姫と二人で教室に向かっていると、意外にも白鳥に出くわした。

 

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「よう・・・」


「おはよう、白鳥さんっ!」
「おはよう」


白鳥は、おれには視線を向けない。


「たいへん、みたいだな?」
「なにが?」
「新聞、見たよ」


言うと、白鳥は腕を組んだ。

 

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「別に、前々からわかってたことだし」



「え? 新聞? なあに、どうかしたの?」


どうやら椿姫も事情を知らないらしい。


「わたしの父が贈収賄の疑いで警察に捕まりそうなの」


他人事のように言った。


「え・・・」
「だからって、みんなの毎日には影響ないから安心して」
「・・・・・・」
「それじゃ」


教室に足を向けた。


「待って!」
「っ・・・!?」


突如、椿姫が水羽の手を取った。

 

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「ご、ごめん、いきなり」
「なんなの?」
「ううん、なんとなく・・・」
「同情してくれるの?」
「ごめん、なんていうふうに声かけていいかわからないけど・・・」
「・・・そう、ありがとう」


椿姫の手を振りほどいて、今度こそ教室に入っていった。


・・・。

 

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「浅井くん、詳しい事情知ってるの?」



救いを求めるようなまなざし。


「簡単にいうと、白鳥の親父さんが、この学園の拡張工事にあたって、一つの業者だけを優遇してたんだよ」
「それって、たしかなことなの?」
「新聞がそう言っているんだから、そういう事実はあったんだろうさ」
「・・・そうなんだ」


浮かない顔をしている。


「それで、お前らが用意した白鳥建設の株だけど、それもとんでもなく値下がりしてるんだ」
「うん?」
「だから、犯人が奪った株券にはもう、ぜんぜん価値がないってことだよ」


おれは、暗に、椿姫家の不幸を説いたつもりだった。

たとえ株券が戻ってきたとしても、もう五千万の現金は戻ってこないのだ。

けれど、椿姫はただ、白鳥のことを案じるだけだった。


「白鳥さん、お父さんのこと信じてるのかな・・・」
「は?」
「家族がたいへんな目にあって、なんかかわいそうだなって・・・」
「お前が言うなよ・・・」
「え?」
「おれから見れば、お前のほうが不幸だよ」
「・・・それはそれ、だよ」
「まったく、よく人の心配している余裕があるもんだ・・・」
「余裕なんてないよ。 ただ、白鳥さん、寂しそうだな、と思ったの」


そういうのを余裕っていうんじゃないのかねえ・・・。

おれたちは教室に入った。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 


昼休みのことだった。

屋上に出て、ミキちゃんと電話をしていた。

 


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「浅井さん、ちょっとお話したいんですが」


パンを買いに行こうと思っていたところを呼び止められた。

 

 

「広明くんのことか?」
「もちろん」
「なにかわかったのか?」


宇佐美は、昨日、おれと別れて椿姫の家に行ったんだったな。


「ちょっと二人で話をしたいんですが」


屋上にはやがて花音や栄一もやってくる。


「わかった。 教室に行くか?」
「ええ・・・」

 

 

・・・。

 

 

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「で、なにか手がかりでもつかんだのか?」
「手がかりというほどでもありませんが・・・」
「なんだ?」
「写真です」
「写真?」
「犯人から送られてきた写真です」
「ああ、そういえば、髪の毛といっしょに送られてきたんだったな」


あのときは、髪の毛にばっかり意識がいっていたな。


「昨日、椿姫の家にお邪魔して、もう一度詳しく見せてもらったんです」
「どんな写真だったんだ? 当然、広明くんが写っている写真なんだろうが」


宇佐美はうなずいた。


「問題は、広明くんの居場所です」
「写真から手がかりがつかめたのか?」


あいまいに首を振った。


「どうも、どこかの廃屋ではないかと思っています」
「詳しく説明してくれないか。 おれはその写真を見ていないんだ」
「まず、写真はかなり鮮明なものでした。 広明くんの顔がアップで写されていました」
「どんな顔をしていた?」
「寝ていました」
「広明くんは、床に横になって寝かされていたんだな?」
「おっしゃるとおりです」
「時間は?」
「夜か、もしくは窓のない室内でしょう」
「監禁場所は暗かったんだな」
「フラッシュをたいて撮られた写真でしたね」
「それで、どうして廃屋だと?」
「床に寝かされた広明くんの周りには小石やガラス片が散乱していました。
さらに顔のそばに倒れた書棚のようなものが見えました」
「書棚?」
「はい。 書類のようなものが散乱していまいた」
「全体的に薄汚れた感じだったわけだな?」
「薄汚れた、というよりモロ廃墟という印象でしたね」


宇佐美はそこで一息ついた。


「さらに、わたしが廃墟だと考える理由は、広明くんの顔です」
「顔?」
「顔のあちこちに、虫さされのあとがあったんですよ」
「なるほどな」
「椿姫のお父さんに聞いたんですが、誘拐された日まで、広明くんの顔に腫れ物なんてなかったそうです」
「いや、言いたいことはわかるぞ。 いまは冬だからな」
「はい。 あちこち刺されてましたよ」
「この時期にそんな大量のやぶ蚊が出るってことは、広明くんは、人の手の入っていない、それこそ山奥の廃墟にでも監禁されてるのかもしれないな」
「まあ、もちろん、確信に至っているわけではありませんが、闇雲に探すよりは、いいかなと思っています」
「なかなかいい線を突いているんじゃないか?」
「五歳の子供を監禁する場所として、人気のない場所を選ぶというのは妥当だと思います」
「そうだな。 住宅街だったら、出入りの際に、近隣住民に見られるかもしれないからな。
人質を連れて家を出るときに、近所のおばちゃんに見られた・・・なんてことは犯人も、回避したいだろう」
「さらに、人質が泣き喚く可能性もありますからね。
まあ、何か噛ませて口は封じるのかもしれませんが・・・」
「まあ、言いたいことはわかった」


おれはため息をついて言った。


「で? おれといっしょに廃墟を探検しようっていうチキチキツアーのお誘いか?」

 

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「チキチキツアーて」


なんか知らんが、盛大にスベったことになったらしい。

 

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「すみません。 そういうチキチキなお誘いです」
「うるせえな。 本気で言ってるのか?」
「本気ですとも」
「お前、この市内だけで、いわゆる廃墟と呼ばれる物件がどれだけあると思ってるんだ?」
「どれぐらいあるんですかね?」
「・・・いや、詳しくはしらんけど、五十件以上はあるんじゃないか?」
「ほほう、一日二件回るとして、だいたい一ヶ月ですね」
「ほほうじゃねえんだよ。 一ヶ月も見つけられなかったら、さすがに・・・」


言いよどむ。


「ええ。 犯人が、一ヶ月も人質を生かしておく理由はないと思います」
「はっきり言うなよ」
「よくて一週間でしょう。 そういう統計もあります。
それまでに人質が解放されなければ、最悪の事態が待っています」


宇佐美は淡々と語る。


「いまふと思ったんだが、お前が頑なに、人質がもう返ってこないと主張してたのは、写真が届いたからか?」


宇佐美は深くうなずいた。


「犯人は、どうして写真を送りつけてきたのか。
それはもちろん広明くんを誘拐したことを被害者に証明するためです」
「だが、それだけなら電話口に立たせて声を聞かせればいいからな」
「はい。 電話のほうが、写真を残すよりは、犯人にとってまずい証拠を残さずに済みます。
それをあえてしないということは・・・」
「広明くんは、もうすでに電話ができない状態だったということだな」
「あくまで推測ですがね。 裏をかかれているかもしれませんし」
「そうだな。 写真を撮った場所が、広明くんがいまも監禁されている場所ということにはならないからな」
「それでも、なにもしないよりはいいと思いまして」
「しかしなあ・・・」

「乗り気じゃないんですか?」
「富万別市だけで五十件以上だぞ?」
「はい。 他県の廃墟なのかもしれませんしね」


おれが渋い顔を作っていると、宇佐美は不意に背筋を伸ばした。

 

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「五十件以上とは言ってもですね、浅井さん・・・」
「なんだよいきなり胸を張って・・・」
「広明くんが監禁されている可能性が高い物件から優先的に回っていきます」
「可能性が高い物件?」
「やぶ蚊の出るような山林があって、人気がない場所です」
「山はともかく、廃墟ってのはもともと人気がないだろうよ」
「いいえ、浅井さん。
誘拐事件の人質を隠すような場所です。
可能性の話でいえば、珍走団やホームレスの方も近づかないようなレアな廃墟なんじゃないでしょうか」
「そうか・・・そうだな。 おれが犯人だったら、そういう場所を選ぶかな」


よく知らないが、廃墟というのは、暴走族の溜り場であったり、行き場のないホームレスが生活していたりすることもあるらしい。


「一日二件。 三日もあれば、広明くんを発見する確率は十パーセント以上になります」
「ふむ・・・」
「道端で突然ペンギンと出くわすより高い確率です。 当たり前の話ですが!」
「お前がそんなポジティブなキャラだとは知らなかったな」
「とにかく、探してみます」
「・・・わかったよ」


根負けした。


「じゃあ、早速リストアップしてもらっていいですかね?」
「廃墟情報を、か?」
「無理すかね? 神でも?」
「神? ああ・・・おれと栄一のギャグね」


廃墟の情報か・・・。

どうやって調べたものやら・・・。

いくつかはインターネットや書籍で調べるとして・・・。

あとは、浅井興行のなかで暴走族上がりの人間に話を聞いてみたり・・・。



「とりあえず、家に帰ってからだな」
「じゃあ、自分も浅井さんの家にお邪魔します」
「ええっ!?」


おれが露骨に嫌な顔をしたそのとき、椿姫が顔を見せた。

 

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「あ、二人ともここにいたんだ」
「ああ、ちょっと宇佐美と話し込んでるんだ」
「へえ・・・」


椿姫は宇佐美をちらっと見て、少しだけ顔を強張らせた。


「なんの話? わたしもまぜて」
「なんやかんやあって、わたしが、今日の放課後、浅井さんの家にお邪魔するということになったんだ」
「えっ!?」


「いや、ちょっと待てよ・・・」


クラスメイトは部屋に入れたくない。

ましてや宇佐美などなおさらだ。


「浅井さん、きのう約束したじゃないですか」
「約束って・・・」


「・・・・・・」


広明くんを探すのに協力するっていうアレか。


「電話番号まで交換した仲じゃないですか」
「え? そうなの?」
「うん。 わたしの初コールが浅井さんだった」
「・・・へえ」


「本当に、うっとうしいヤツだな・・・」


頭をかきむしった。

悩んでいるところに、教室の外から声が上がった。


「美輪さん、いますか!?」


ノリコ先生だった。

なにやら慌てている様子だった。


「はいっ!?」


返事をして戸口へ向かう。

ノリコ先生は青い顔で、椿姫に何か話していた。




「なんすかね?」




しばらくして、椿姫が戻ってきた。


「ごめんっ」


椿姫もまた、険しい表情になっていた。


「わたし、早退するね」
「なにがあったんだ?」



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「お母さんが、倒れたって・・・いま、病院にいるって」
「・・・・・・」


そういえば、ここ最近、体調を崩して寝込んでいたんだったな。


「なんていう病院だ?」


おれは努めて冷静に言った。


「えっと・・・」


椿姫が口にした病院の名を聞くと、それは東区にある総合病院だった。


「わかった。 ならタクシーが早い」
「えっ、タクシー!? 乗ったことないよ!?」
「いま呼んでやる。 金も貸す。 五千円もあれば着く」
「そんな、悪いよ・・・!」
「気にするな。 急いでるんだろ?」
「・・・・・・っ」


財布から五千円札を取り出し、椿姫に差し出す。

同時に携帯を操作して、タクシー会社を呼び出した。


「浅井くん、ごめん・・・」


椿姫がおろおろしているうちに、通話は終わった。


「五分で来るそうだ。 校門前で待ってろ。 行き先も言ってある」
「浅井くん・・・」
「なんだ、泣きそうな顔しやがって・・・」
「ありがとう。 本当に、ありがとうっ」


椿姫は、五千円札を握り締め、走って教室を出ていった。

その後姿を見送っていると、宇佐美がぼそりと言った。

 

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「かっちょいいっすねえ、浅井さん」
「ん?」
「浅井さんは、ホント、頼りになるというか、なんというか・・・」
「ボンボンだからな」
「友達想いですねえ、ホント」
「別に、普通だろ」


何を勘違いしているのか。

今回の山王物産との取引は、椿姫のおかげでたんまり儲けさせてもらったんだ。

ちゃんと、恩は返さないとな。


「では、当然、椿姫の弟さんを探すのにも協力していただけるわけですよね?」
「・・・それは、もちろんだが、お前がおれの家にくるってのはなあ・・・明日じゃまずいのか?」
「広明くんの発見が遅れれば遅れるほど、まずいことになるのはおわかりでしょう?」


・・・なんだかやり込められているような気がするな。


「わかった。 ただ、知りたい情報を調べたらすぐに帰れよ」


夜中には予定が入っているんだ。


「ありがとうございます」


昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。


・・・まあいいか。


宇佐美と"魔王"の関係をそれとなく探る機会かもしれんな。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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「いやあ、うわさには聞いてましたが、とんでもなく高いマンションですねー」


マンションを見上げる宇佐美は、目と口を大きく開けて嘆息した。


「浅井さんって、すごいですねー」
「おれじゃなくてパパがすごいんだよ」


キーを挿し込んで、オートロックの玄関をあけた。


「こんなところに一人で住んでるんですか?」
「文句あるか?」
「ありますよもちろん、ひがみますよもちろん」
「うるさいヤツだなあ・・・」


おれたちは玄関をくぐって、エレベーターに乗り込んだ。


・・・。


 

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「お邪魔します」
「先に言っておくが、勝手に物に触れるなよ」
「広いっ・・・何畳くらいあるんですか、コレ?」
「百五十㎡(平方メートル)くらいだ。 きょろきょろしてないで、その辺に座ってろ」
「眺めも最高じゃないですか。 こんなところに女性を連れ込んでいったいどんな邪悪なことをしてるんですか?」


落ち着きなく室内を歩き回る宇佐美だった。

 

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「・・・コーヒーでいいか?」
「ありがとうございます。 あ、金庫だ。 へえ、お金貯めてるんですか?」


宇佐美が指差した金庫には五千万入っている。


「まあ、それなりに金は貯めてるよ」
「浅井さんってアルバイトしているわけじゃないですよね?」
「パパの仕事を手伝って、それで小遣いをもらってるよ」
「なんにしても、真面目にお金を貯めてらっしゃるんですね?」
「どうしてだ? おれが、金を貯めてるって?」


問い詰める。


「こんなクソ高い家賃の部屋に住んでいるおれが、金を貯めてるってのは、おかしいんじゃないのか?」
「いやまあ、なんとなくそう思っただけですけどね」


言って、家具に目を向けた。


「部屋自体は、とても高いんでしょう。
ただ、ソファやテーブルなんかは、実は安物なんじゃないですか?」
「・・・よくわかったな」
「自分、リサイクルショップとかよく行ってましたんで。 見かけた品があるな、と思ったんです」
「たしかに、家具だけじゃなくて、食器とか家電もたいてい安物だ」


総和連合のバッタ屋から安く買ったものばかりだ。

もらい物も多い。


「浅井さんは、洋服もたくさんもっているみたいでオシャレですし、お部屋もこんなに立派です。 車も持っているんですか?」
「ああ・・・駐車場は地下にある」


会社名義の車だがな。


「失礼なことを言わせていただきますと、浅井さんは、なんだか見栄を張るためだけにお金を使っていて、普段はとても質素な方なんじゃないですか?」
「部屋に上げたら、いきなりおれの性格分析かよ」
「すみません。 つい気になってしまいまして」
「ったく・・・」


しかし、宇佐美の言うことはだいたいあたっている。

見てくれは豪華な生活だった。

それは、権三の命令でもある。

金は貯めたい。

おれには父の残した二億の借金があるのだから。

ただ、外面には気を使わなければならない。

家、車、服。

義理とはいえ、園山組四代目組長の息子が、なめられるような格好をしていられるわけがない。

権三を通して、見せ金の力というものを、嫌というほど思い知らされた。

腕に巻いている時計、持っている車、住んでいる部屋の広さ・・・。

そういったものが、そのまま人間の価値につながる闇社会。


「でも、たぶん、おれはお前よりはいいもん食ってるぞ」
「そうでしょうねー」
「CD買ったり、椿姫と喫茶店入ったりと、散財もけっこうしてるしな」
「それもそすね。 質素はいいすぎでしたね」


ちょこんと頭を下げた。


「いやあ、わたし、てっきり、浅井さんには何か事情があって、お金を稼ぎまくっている好青年かと思いましたよ」
「はは・・・四畳半の部屋で共同風呂に共同トイレ。
まさに爪に火を灯すような生活をして、病床の母親の借金でも返すってか・・・?」


馬鹿馬鹿しい話だ。

百や二百ならともかく、そんな生活をしている人間が億単位の借金を返せるわけがないのだ。

金は使わなければ入ってこない。

おれは重ね重ね、自分に言い聞かせている。


借金は必ず返す。


だが、みすぼらしいのはごめんだ、と。

清貧という言葉をなじらなければ、どこかの知った風な顔をした連中に哀れみのまなざしを受ける。

そういう屈辱は、もう味わいたくない。

 

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「それで、本題ですけど」
「ああ、ちょっと、書斎でいろいろ調べてみるわ」
「じゃあ自分も」
「お前はここで待ってろ」
「え? じゃあ、自分はなにしにお宅にお邪魔してるんですか? いっしょに調べましょうよ」
「廃墟関連の資料をネットで漁って、印刷して持ってくる。
お前はそれに目を通しておけ。 その間におれは、他の資料を検索する」
「ああ、なるほど。 そういう役割分担ですね」


おれはただ、宇佐美を書斎に入れたくなかっただけだ。

パソコンのなかには、見られたくないデータがたくさんあるからな。


「じゃあ、さっそく・・・」


おれは宇佐美を置いて書斎に入った。


・・・。


・・・・・・。

 


一時間ほど過ぎて、おれたちはリビングで額を寄せ合っていた。


いつの間にか、日も暮れている。



「こうしてみると、廃墟ってかなりあるんだな」


戸建ての廃墟も多いが、遊園地やホテル、変わったのになると軍の施設なんてのもあった。

宇佐美も、おれが印刷した資料を眺めていた。

 

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「この旅館、温泉旅館といって、温泉が出なかったみたいですね。 シュールですわ・・・」


だから、潰れたんだろうな。


「この市営住宅跡を見ろよ。 廃墟っていうけど、意外にも、街中にあったりするんだな」
「ですね。 そういうのは、後回しにしていいと思います」


人の寄り付くような廃墟に、犯人が人質を隠しているとは考えにくい。


「はい、というわけで、浅井さんにお願いしたいことがあるんです」
「なんだいきなり?」
「いくら廃墟でも、勝手に侵入するのは、まずいですよね?」
「ああ・・・そうだな、つい忘れていたが」


廃墟だって管理者がいるわけで、黙って入れば立派な犯罪だ。


「いまから当たってみたい廃墟をリストアップしてみました。
ですので、浅井さんのお力で、管理者に連絡を取ってみてもらえませんか?」
「そうきたか・・・」
「無理ですかね?」
「いやまあ、聞いてみないことにはなんともいえんけど・・・」


なんと言って了解を得ればいいんだ?

五歳の子供が監禁されているかもしれないので・・・とは言えないだろう。


「わかった・・・ちょっと待ってろ。 知り合いの不動産屋をあたってみる」


おれは、宇佐美からリストをもらって、また書斎に戻った。

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

不動産の横のつながりはすごいな。

浅井興行の名前を出して、不動産屋に問い合わせると、仲間に電話をしてすぐに持ち主を割り出し
てくれた。

 

「ひとまず五件ほど確認してもらった」
「結果はどうでしたか?」
「喜べ。 了解してもらったぞ」

「本当ですか? それはよかった」
「ああ・・・」


本当のところ、了承なんて得られていない。

五件のうち五件とも、廃墟の所有者が地元の金融機関で、話にもならなかった。


「浅井さん、だいじょうぶなんですよね?」
「ああ、パパの関係者だっていうのが、間違いないんならって」
「そうですか。 自分はそういうの疎いんで、助かりました」


五歳の子供を捜すという大義名分があるんだ。

罪の意識を感じないでもないが、ひとまず、宇佐美には黙っておくとしよう。


「んじゃあ、行ってきます」
「え? いまからか?」
「善は急げと」
「待てよ。 ちゃんと準備を整えてからにしろよ」


調べれば調べるほど、廃墟というものは好奇心で探索できるほど安全な場所ではないということが
わかった。


「軍手に防塵マスク、それから底の厚いブーツですかね」
「懐中電灯もいるだろ。 昼でも暗いらしいし」
「だいたい持ってます。
以前、工事現場でアルバイトしていたことがありまして、そのときに一式そろえたんです」


いろんなバイトしてるんだな・・・。


「それじゃ、資料とかはお借りしていきます。 浅井さんは来られないんですよね?」
「ああ、すまん。 今日はちょっと用事がある」


しかしこいつは、一人で怖くないのか?

廃墟の写真は、どれもこれも薄気味悪い。

幽霊が出るとまでは言わないが、浮浪者が住み着いていたり、野犬の群れがうろついてたりするこ
ともあるらしい。


「暇を見て、市内の廃墟をさらに詳しく探しておく。 パパにも相談してみるわ」
「ありがとうございます」


軽く手を振って、宇佐美は玄関に向かった。


「あ、ちょっと待て」


宇佐美は振り返って、首を小さく預けた。


「ちょっと聞きたいんだがな・・・」
「ええ」
「お前は、犯人は"魔王"だって頑なに主張しているわけだよな?」
「それがなにか?」
「"魔王"は、どうして、椿姫の弟を誘拐したんだと思ってる?」
「動機ですか?」
「金目あての犯行じゃないことは、お前だってわかってるだろう?」
「いまひとつ、"魔王"の心境が理解できない部分が多いんですがね、浅井さん・・・」


宇佐美は一度うなずいて、話を切り出した。


「ある仮説を立ててみました」
「仮説?」
「"魔王"の真の目的は、わたしを陥れることなのではないかと」
「はあっ?」


さすがに顔が引きつった。


「もしくは、"魔王"は、"魔王"にとってわたしが、どの程度の驚異になりうるかを試してきたんです」
「いやいや、とんでもなく自意識過剰というか・・・なんだそれ?」
「自分でも、変態なことを言っているのはわかっています」


おれは半笑いで言った。


「なんだよ、お前と"魔王"は宿命のライバルとでもいうのか?」
「いやいや、"魔王"にとって自分なんかミジンコみたいなもんですよ。
いや、ミジンコはいいすぎか、ゴキブリみたいなもんか。
あ、でも、ゴキブリはかわいくないからヤダな・・・」


なんなんだ、コイツは・・・。


「だったら、なんで"魔王"は・・・"魔王"みたいな凶悪犯が、お前みたいなミジンコを陥れようとするんだ?」
「それは・・・」


言いかけて、また口を閉じた。


「なんだよ、そろそろ教えてくれてもいいだろ?」
「ちょっとお話できませんね」


おれは聞こえよがしに舌打ちした。


「隠し事の多い女だな」
「すみません」


宇佐美はあくまで平然としていた。

なんだか、馬鹿らしくなってきたな。

権三に"魔王"を探れと命じられたものの、肝心の宇佐美がこれじゃあ、なにもわからない。


「わたしが、隠し事の多い女だということですが・・・」
「気にさわったか? 本当のことだろう?」
「浅井さんにも、お話したくないことの一つや二つあるんじゃないでしょうか?」
「なんだと?」
「浅井さん、こんなことを言うとケンカになってしまいそうで怖いんですがね。
浅井さんのお人柄は、どうにもつかめません」
「どうつかめないって言うんだ?」
「あなたは学園では、ひょうきんで明るくて、友達想いです。
今日、椿姫にタクシーを手配してあげたりもしましたね。
けれど、身代金を引き渡す当日には、用事があると言って姿を消しましたね。
今日もそうです。 協力してくれると言ったのに、肝心の廃墟の探索には同行してくれません」


おれは、頭に血が上っていくのを自覚した。


「だから、用事があるんだよ。 事情があるんだ、仕方がないだろう?」
「はい。 ですから、わたしにだって、事情があるんです。
"魔王"との関係を話したくない事情が」
「・・・ちっ!」


うまく言いくるめられてしまったな。


「まだ、おれが"魔王"だと疑っているんだろう?」


嫌味を言ったつもりだった。

 

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「・・・・・・」


宇佐美は黙って、首を横に振った。


「どうも失礼しました。 帰ります」
「ああ・・・」


背中を曲げておずおずと部屋を出ていった。


・・・。


「もう、宇佐美に関わるのはやめるかな」


ひとりごちて、ソファにもたれかかった。

"魔王"が宇佐美を陥れようとしただって・・・?

なんにしてもおれには関係のないことだ。

どうにも、宇佐美の線から"魔王"を探るのは難しそうだな。

しかし、"魔王"を捜し出さなければ、権三にどんなプレッシャーをかけられることか・・・。


「くそっ・・・」


それにしても、"魔王"は、椿姫の弟を返すつもりがないのだろうか。

すると、とても困ったことになるな。

いくら呑気な家族でも、いい加減に警察を頼るだろう。

警察が動けば、おれが借金を仲介したこともばれて、総和連合にも捜査のメスは入る。

そんなことになったら、権三に何をされるかわからんぞ・・・。


「・・・・・・」


おれは思案をまとめる。

やはり、椿姫の一家を監視しておくか。

部外者のおれが家族の問題に口を挟むのは難しいが、やるしかないな。

考え込んでいると、めまいが襲ってきた。

このところ、頻繁に起こる。


・・・仕事を済ませなければな。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「あ、浅井くん?」


仕事が終わり、椿姫の家を訪ねた。


「夜中にすまんな。 ちょっと近くまで来たんで、寄ってみたんだ」


椿姫は、驚いたように目を丸くした。

 

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「どこかに、出かけるのか?」
「う、うん・・・もう、帰ってきたんだけどね」


端切れ悪く言いながら、コートの裾をつかんだ。


「お母さん、だいじょうぶだったか?」
「あ、うん。 明日まで入院するんだけどね」
「過労かな?」
「みたいだね。 お母さんも参っちゃったみたいで」
「そういう椿姫はだいじょうぶか?」


辺りが暗いせいか、椿姫の顔色もだいぶ悪そうに見えた。


「わたしは、ぜんぜん平気だよ」
「すごいなあ、椿姫は」


本心からそう思う。

家族が誘拐され、身代金は奪われ、しかも人質は返ってこない。

そんな状況で、よく笑顔を見せられるものだ。


「強いんだな、お前って」


椿姫はまた、そんなことないと、首を振る。


「おうち寄ってく?」
「ああ・・・」


・・・・・・。

 

 

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活気はなかった。

子供たちはもう眠っているのだろうか。

居間には親父さんだけが、ふさぎこむようにしてちゃぶ台に頭をうずめていた。


「ああ、浅井くんじゃないか、いらっしゃい・・・」


憔悴した目でおれを迎えてくれた。

 

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「浅井くん、わたしちょっと弟たちを寝かしつけてくるね」


・・・。


「お邪魔します、お父さん」
「うん・・・」


椿姫とは違い、目に見えて弱っていた。


「すまないね、こんな格好で」


頬もげっそりとこけている。


「だいぶ、お疲れのようで・・・」


当然といえば、当然だった。

やはり、椿姫が少し異常なのかもしれない。


「浅井くん、椿姫は?」
「え? いま、そっちの部屋に行きましたよ?」
「あ、ああ、そうか。 そうだったね」


ずっとふさぎこんでいるのだろうか。

気まずい間があった。

親父さんがぼそりと言う。


「浅井くん、椿姫をよろしく頼むね」
「はい?」
「あれは、とても優しい娘なんだ」
「ええ・・・それはよく知っています」
「いまもね、無理に明るく振る舞ってるんだ。 内心ではつらいくせにね」
「・・・そうですか。 そうでしょうね」


親父さんのため息は重かった。


「ちょっといい子に育ち過ぎてしまったかなあ」
「・・・・・・」
「椿姫は、人を疑うということを知らないんだ」


一人ごとのようだった。


「僕も母さんも世間知らずの田舎者だから、騙すより騙されるような人間になれと教えてきてしまったんだよ。 そのほうが疲れずにすむからね」
「いや、実際、椿姫はすごいいい子ですよ」


ありえないくらいにな・・・。


「ところで、その後、犯人から連絡はありましたか?」


話題を変えようと切り出したとき、椿姫が別室から戻ってきた。


「浅井くん、なんのお話してたの?」
「いや、犯人のことを・・・」


「連絡はまだないよ」
「・・・そうですか」


もう、広明くんは殺されているのだろうか。

 

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「だいじょうぶ、広明はちゃんと返ってくるよ」


声は、場違いなまでに明るかった。

まるで、確信でも抱いているかのよう。


「そろそろ警察を頼ろうかと思うんだ」
「え?」
「父さんが間違っていたんだ。
最初から警察を頼っておけば、こんなことにはならなかった」


やはり、そういう考えに及ぶよな。


「お父さん、ちょっと待って・・・!」


いまにも受話器に腕を伸ばしそうな親父さんを、椿姫が制した。


「も、もうちょっとだけ、待ってみようよ」
「椿姫、すまなかった。 でも、もう待てない」


・・・まずいな。


「待ってよ。
犯人は、身代金さえ受け取れば広明を返すって言ってたんだよ?」
「それは口実だよ。 現に、犯人から何の連絡もないじゃないか」
「でも、いまさら・・・」
「すまん、父さんは、もうじっとしていられないんだ」


親父さんが勢いよく立ち上がった。


もう、限界か。


「早まらないでください」


親父さんが険しい顔でおれをにらんだ。


「これは、いままで黙っていたのですが・・・。
実は、身代金が奪われてから、父に頼んで、犯人の足取りを探ってもらっているところなんです」


椿姫が息を呑んだ。


「どういうこと?」



「父の警察時代の知り合いを通して、いま、広明くんの行方を追っているんです」


でたらめだった。


「さしあたって、犯人が市内近郊の廃墟に潜伏している可能性があると見て、調査は進んでいるそうです」


でたらめのなかに、さりげなく事実を混ぜておく。


「つまり・・・警察の方はもう動いているということかい?」
「ええ・・・正式な捜査ではないんですが」
「それは、本当なんだろうね? にわかには信じがたいよ」
「本当です。 父の元同僚や私立探偵の方が捜査を進めています」


親父さんは口をつぐんだ。


「いまは、表立って警察に通報して、いたずらに犯人を刺激するより、調査の結果を待つほうが得策かと思います」
「しかしね・・・」
「必ず、広明くんを取り戻してみせますから」


力強く言った。


「お父さん、浅井くんに任せてみようよ」


椿姫が、いまだに渋い顔をしている親父さんに言った。


「む・・・」


疲れ果てて、まともな判断力も鈍っていたのだろう。

やがて、親父さんは何も言わずうなだれた。


「少し、休ませてもらうよ」


おれのでたらめに納得したわけではなさそうだった。

もともと警察に電話する気力も残っていなかったのかもしれない。


「・・・ふう」


ひとまず、なんとかなったな。

しかし、でたらめをでっちあげたはいいが、時間稼ぎにしかならないな。

生きているのならば、早いうちに広明くんを捜し出さなければ・・・。


「ごめんね、お父さん、疲れてるみたいで」
「無理もないよ・・・」


時計を見ると、すでに時刻は深夜十二時を回っていた。


「そろそろ帰るわ」
「もう?」
「とくに用事があったわけではないからな」


言いつつ、椿姫に釘をさしておく。


「もし、警察に連絡するときはおれにも教えてくれよな?」


おれを信頼しきっている椿姫は、素直に返事をした。


「お父さんが早まったことしようとしたら、今日みたいにとめてもらえるかな?」
「お父さんも、ちょっと冷静じゃないみたいだからな」
「それと、ありがとうね。 実は、犯人を捜してくれてたんだね」
「・・・ああ」


目を逸らし、コートを羽織った。


・・・・・・。

 

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「じゃあ、おやすみ・・・」
「うん・・・」


微笑していた。


「・・・がんばれよ」


椿姫の笑顔に違和感を覚えながら背を向けると、案の定、声がかかった。


「待って、浅井くん」
「ん・・・?」
「えっと、もう遅いし、泊まっていく?」
「はは・・・まさか椿姫からそんなオサソイを受けるなんてなー」


おれは学園でそうしているような明るい声で、椿姫をからかった。

けれど、椿姫には冗談の意味が通じなかった。


「ごめんね、本当いうと、ちょっと心細くて」
「・・・そうか」


親父さんの言ったとおりだな。

明るく振る舞っているだけで、内心は不安に満ち溢れているんだろう。


「ようやく、お前の人間っぽいところが見えたなー」
「え? どういう意味?」
「いやいやなんでもない」


まともでいられるほうがおかしいというものだ。


「泊まりはよしておくよ。 明日も学園だしな」


椿姫の肩にぽんと、手を置いた。

 

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「ごめんね、無理言って。 浅井くんにしか、こんなこと相談できなくて」


上目遣いで見つめてくる。

つぶらな瞳は、夜の闇のなかでいっそう際立って光っていた。


「なんかあったら、すぐケータイに連絡くれよ」
「うん・・・」


寂しそうにうつむいた。


「わたしも、携帯電話、持とうかな・・・」
「そうか? 便利だからな」
「だよね・・・いつでも連絡できるし」
「落ち着いたらいっしょに買いに行こうな」
「買ったら、わたしも一番に、浅井くんの番号を登録するね」
「ん? ああ・・・」


椿姫の表情に切迫したものを感じたような気がしたが、すぐに気にならなくなった。


「じゃあな・・・」


椿姫の家をあとにした。

角を曲がるとき振り返ると、椿姫が手を振った。

見送りに出てきた椿姫は、素直にかわいらしいといえた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「おいおいなんだよ、今日は休みが多いなあ」


風邪が蔓延しているのか、欠席が目立つ。


「椿姫は?」
「さあ、遅れてくるんじゃないかな?」
「また、なんかあったのか?」
「・・・らしいな」
「マジかー。
つーか、いいかげん警察にポイしちゃったほうがいいんじゃねーの?」
「お前にはわからん事情があるんだよ」
「事情ってなんだよ、オレだけハブられてんのかよ?」

 

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「ハヨザイマース」


のっそりと宇佐美が現れた。


「ちょっと宇佐美さん、聞いてよ」
「はい」
「椿姫どうなったの? あれから進展ナッシング?」
「ナッシングです。 残念なことに」


「なんだ、昨日は無駄足だったのか?」


尋ねると、宇佐美はおれの質問には答えず、軽く頭を下げた。


「昨日はどうも、不快なことを言ったようで、すみませんでした」
「・・・あ、ああ」


宇佐美と"魔王"の関係を探ろうとして、うまくはぐらかされたんだったな。


「どうしたの? 二人ともなにわかちあってるの?」
「いえ、わけありな事情がありまして」
「え? また事情? もういい加減にしてよー」


栄一は、うんざりしたのか、他の女の子の輪に加わりにいった。


「あ、なんか悪いこと言いましたかね?」
「気にするな」


宇佐美と向かい合う。


「で、どうだったんだ?」

 

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「収穫はゼロです。
初日だし勢いで三件くらい回ってみようとしましたが、これが大変で・・・」
「だろうな・・・」
「暗いわ、寒いわ、怪物は出るわで、気がついたら朝日を拝んでいました」


・・・なにしてんだ。


「ガラスとか散乱してますし、いきなり床に大穴が開いてたり、ネズミが運動会してたりと、息をつく暇
もなかったですね」
「だいぶ疲れたみたいだな?」
「いえいえ、これからです」


よく見ると、宇佐美のすねに引っかいたような傷があった。

 

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「まあ、なんとかなると思いますよ」


あくまで軽いノリの宇佐美だった。


「すまんが、今日と明日は、つきあえん」


例の土地を巡って、山王物産との最終的な交渉がある。


「いいですよ。 では、今日か明日には広明くんを見つけ出すとしましょう」


この自信はどこから湧いてくるんだろうな。


「なんか自信たっぷりだな」
「いまのところ雲をつかむような手ごたえを感じてます」
「ぜんぜんつかんでねえじゃねえか」
「ですねー。 もうすこしヒントがあればなあ、とか思いますね」
「犯人から送られてきた写真を、もう一度見てみたらどうだ?」
「それもそうですね」


そんなやり取りをしていると、チャイムが鳴り、授業が始まった。

授業中の宇佐美は、どうやら例の写真をずっと眺めているようだった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 


昼休み。

屋上の寒さはかなり厳しいものになっていた。


椿姫が遅れてやってきた。

 

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「おう、今日はどうしたんだ?」
「病院に寄ってたんだよ」


母親に付き添ってたのかな。


「あれ? みんなは?」
「花音は寝てる。 栄一は知らん」
「・・・ハルちゃんは?」
「宇佐美も教室かな」


ずっと写真とにらめっこしていた。


「そっか、ふたりっきりだね」


なにやらうれしそうだった。


「最近、なにかあったか?」


数日前にあった違和感を思い出す。


「なにかって・・・それは浅井くんも知っての通りだよ?」
「いや、それはそうだが・・・」


誘拐事件のことを言っているんじゃない。

 


「ごめんね、昨日も心配かけたみたいで。 変かな、わたし」
「ん・・・さあな」



「昨日も、心細くてね」


不意に、顔が暗くなった。


・・・不安定なんだろうな。


とにかく、椿姫の明るそうな見た目だけで、心情を推し量るのは軽率だな。


「今日、ちょっとだけ買い物でも行くか?」
「え? いいの?」
「三十分くらいならな」


打ち合わせの時間までのつなぎで、少し遊んでやるとするか。


「やっぱり、やめておくよ」
「そんな気分じゃないってか?」


苦笑して、疲れたような吐息を漏らした。


「ごめんね、せっかく誘ってもらったのに。 わたし、浅井くんと・・・」


緊張した面持ちで、何か言いかけたときだった。

 


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「浅井さん!」


宇佐美が、小走りに寄ってきた。


「浅井さん、ちょっとこの写真見てもらっていいですかね?」
「なんだ、ぶしつけに・・・」


「ハルちゃん、おはよう」
「おう・・・」


写真に夢中なようで、気のない挨拶だった。


「広明くんの顔がアップで映ってるじゃないですか?」
「ああ・・・」
「すぐそばに倒れた書棚があるじゃないですか?」
「あるな・・・」
「今日のわたしの髪型どうですか?」
「どうでもいいよ」
「すみません。
書棚の下に、白い・・・書類のようなものが見えますよね?」
「む・・・」


目を凝らす。

宇佐美の言うように、なんらかの書類が、書棚の下敷きになっていた。


「これ、なんて書いてありますかね?」
「え? この紙に、か・・・?」


手に取った写真を舐められるような距離まで近づける。


「わかんねえな。 殴り書きっていうか、汚い字っていうか・・・」


およそ他人が読むことを想定して書かれた文章ではなさそうだった。


「日記のはしくれなのかな?」
「日記といえば、椿姫はどうだ?」


「・・・えっと、どうかな・・・」


三人で顔を寄せ合う。

 

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「あ、あんまり見たくないな。 ごめんね」
「そうか、悪かった」


捕らえられた弟の姿なんて、まじまじと見たくないだろうな。


「宇佐美はどう思うんだ?」
「わかりません、内容は」
「内容は?」
「はい。 これはアルファベットだとは思います」
「アルファベット・・・?」


言われてみれば、アルファベットのように見えなくもない。


「ここが、『a』で、この辺が、『J』ですね・・・」
「みたいだな・・・よく気づいたな」
「ここちょっと眼がっつり開いて見てもらえませんか?」
「・・・アール・・・・・・ピー、か」
「なんなんすかね、このアールピーって」
「行頭にきてるな・・・大文字の『R』に小文字の『p』だな」
「ダイイングメッセージですかね?」
「誰が死んだんだよ」
「まあ、この発見がどれほど意味があるかというと、微妙なところなんですがね」
「おいおい」


たしかに、それがなんの手がかりになるというのか。

広明くんが監禁されている廃墟には、英語で書かれた書類があるとわかった。

大きな展開とはいえない。


「もう少し頭をひねってみますわ」


「ねえ、ハルちゃんは、なにしてるの?」


宇佐美は戸惑ったように答えた。


「もちろん、広明くんを探してるんだが」
「やっぱり」
「ん?」


眉をひそめた。


「なにか、いけなかったか?」
「・・・えっと・・・」


椿姫の声が震えていた。


「無理、しないでね」
「・・・・・・」
「気持ちは、うれしいんだけど・・・なんていうか、ハルちゃんは、別に探偵さんでも警察の人でもなんでもないわけじゃない?」


聞いている宇佐美も当惑しているようだが、言ったほうの椿姫も困ったように口をつぐんだ。

 

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「手を引いてくれと言っているのか?」
「・・・えっと、あの・・・うん、ごめん」


小さく頭を下げた。


「だって・・・ハルちゃんはどうして、犯人を捕まえようとしているの?」
「犯人を捕まえなければ、今後第二第三の誘拐事件が起こるかもしれないぞ?」
「・・・そういう正義感みたいなもので?」
「大口叩いておいて、わたしは、身代金も奪われてしまった。 責任も感じている」
「責任って・・・そんな・・・もう、いいよ」
「どうしたんだ椿姫? わたしはただ、犯人の手から、広明くんを取り戻したいんだが?」


そのとき、ふと、椿姫の顔色が変わった。


張り詰めていたものが一気に噴出したよう。

 

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「ハルちゃんは、自分のせいで広明が誘拐されたと思ってるんじゃないの?」


おどおどしていた目が、いつの間にかしっかりと宇佐美を見据えている。


「犯人の動機のことを言っているのか?」
「だって、お金が目的なら、どうして広明なのかな? どうしてうちみたいな普通の家を狙ったのかな?」


椿姫にしては意外だな。

他人を責めるような態度もそうだが、椿姫が犯人の動機なんてものに興味を抱いているとは思わな
かった。


「椿姫の言うとおりだよ。 "魔王"がわざわざ誘拐事件を起こしたのは、わたしをなんらかの形で陥れるためだと思う」
「じゃあ、わたしたちはとばっちりを受けたっていうの!?」


ほとんどヒステリーを起こしたような、悲痛な声だった。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


昼どきで賑わっていた学園の空気が一気に冷え込んでいく。


「ご、ごめん・・・」


肩を震わせながら、たどたどしい手つきで口を覆っていく。


「な、なんでかな・・・ごめん・・・こんなこと言うつもりじゃなかったのに・・・」


宇佐美のせいで、椿姫の家族が辛酸を舐めさせられている。

なんとなく、行く先々で殺人事件を起こす、小説のなかの探偵を想像した。

しかし、気持ちはわからなくはないが、椿姫の憤りをぶつけるべき相手は、宇佐美ではなく犯人なんだろうな。


「わたしのせいで広明くんが誘拐されて、わたしのせいで家族が不幸になっている。
だから、もうこれいじょう関わらない欲しいというわけだな?」


驚くほど冷静に、淡々と言い放った。


「・・・っ・・・」


気圧されたように目を逸らす。


「ど、どうしてそんな、きつい言い方するのかな?」
「きついかな?」
「ハルちゃんが、よくわからないよ・・・」


上目遣いで、宇佐美の反応をうかがうように言った。

 

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「ごめん。 迷惑かけて」
「・・・・・・」



・・・。



「自分、教室に戻ります」


これ以上、話すことはなにもないといった様子だった。




「なあ・・・」


いまだに肩をいからせている椿姫に言った。


「お前、昼飯食ったか? まだなら、いっしょに食おうぜ」


椿姫は、しばらく答えなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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授業中、椿姫の様子を後ろの席から眺めていた。

ぼんやりとして、先生から指名されてもまともに答えられなかった。

英語の時間、栄一が小声で話しかけてくる。


「やべえよ、マジ、今日は、カゼでみんな休んでるからすぐ指名されるよ」


・・・季節の変わり目らしくカゼが蔓延しているらしい。


「なんでこの世に英語とかあるんだろうな? ていうか、なんで言葉の違いがあるんだろうな? 愛に国境はないのによ」
「今日は詩人だな、栄一」
「あー、オレ決めた。
世界の共通語を日本語にする。 将来そういう職場で働くわ」
「そうかそうか、そのためには英語を勉強しないとな」
「なんつーの、英語とかイタ語とかドイツ語とかは、とりあえず滅ぼすわけだよ」
「滅ぼさなくてもいいだろ?」
「だってさー、大文字の『O』と数字の「0」がマジ見分けつかないじゃん。 不便だってこれ、共通語として」
「滅ぼしたら、大勢の人が困るってば」
「いいや、真のアルファベットはオレが完成させる」


前の席の宇佐美がぬっと振り返った。

 

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「いま、なんて?」


「あ?」


「栄一さん」
「ぼ、ボク?」
「ええ」
「アルファベットはオレが完成させる・・・」
「もっと前ですっ」
「大文字の『O』と数字の『0』が見分けつかない・・・」
「もっ、もうちょい前ですっ」
「セックスは面倒だけど、股間は愛しい・・・」

 

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「コラコラそんなこと言ってねーだろうが」
「えっと、なんだっけ?」


「英語とイタリア語とドイツ語はとりあえず滅ぼすとか言ってたな」
「・・・それです」


神妙にうなずいた。


「え? いっしょに滅ぼす?」
「いや、栄一さん、助かりました」
「へ?」


「浅井さん、雲をつかむよう手ごたえが、綿菓子くらいになりましたよ」
「それは、どういう・・・」


聞こうとしたとき、教師の注意が飛んできた。

授業中に騒ぎすぎたらしい。

宇佐美も、黙って前を向いた。

釈然としないまま、授業が進んでいった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


放課後になると、宇佐美は一目散に教室から出ていった。


 

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「ちょっと待てよ、宇佐美」
「なんすか、急いでいるんですが?」
「さっき、なにを閃いたんだ?」
「ああ、そのことですか」


ふと思いついたように言う。


「あ、そうだ。 浅井さんに調べてもらった方が早いかな」
「なにを調べろって?」
「気づいたんです。 写真にあった書類の文字」
「ほう」

 

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「あれは、英語ではなく、たぶんラテン語かなにかなんです。 詳しくは知りませんが」
ラテン語だって?」
「あの『Rp』なんですがね」
「あれが、ラテン語なのか?」
「栄一さんが、ドイツ語とか言ったので、一瞬ドイツ語かなーとか思ったときに、ピンときました。
今日はカゼで欠席が多いみたいですしね」


おれも、なにかピンときそうだった。


「カルテ、か?」
「おそらくその類です。
病院で、お医者様がよく『Rp』と書いているのを目にしていたので、それを思い出しました」
「どういう意味なんだ?」
「たしか、処方するとかそういう意味らしいです」
「そうか・・・」


・・・でも、待てよ。


「おい宇佐美。
でも、あの写真を見る限り、書類にはアルファベットばかりだったよな?」
「はい。 カルテなんじゃないかなと疑って読むと、他にドイツ語で血液という単語を拾えなくもなかったです」


・・・こいつ、ドイツ語が読めるのか。


「しかし、ドイツ語っていうけどな、実際のところカルテをドイツ語で書く医者はあんまりいないって聞いたことがあるぞ。
たいていは、日本語か英語らしいって・・・」
「はい。 カルテにしては、日本語が少しも混じっていないのが、おかしいとも思いました」


髪をさっとかきあげる。

 


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「ただ、ですね、お歳を召した開業医の方のなかには、稀にいらっしゃるんだそうです」
「なるほど・・・廃病院だもんな」
「調べやすいと思いませんか?」


広明くんは、廃墟となった病院に監禁されている・・・?


「すると、だいぶ絞り込まれるんじゃないか?」
「はい、病院とわかっただけでも、かなりの収穫です」
「さっそく調べてみよう。 そう何件も廃病院があるとは思えないから、あっさりわかるかもしれない」
「昨日みたいに立ち入りの許可もお願いしていいですかね? 自分も調べてみますので」
「あ、おい待て」


いまにも走り出しそうな宇佐美を引き止める。


「さっき椿姫に言われたことだが・・・気にしてないのか?」
「もう、関わらないで欲しいと言われましたね」
「ああ・・・ちょっと椿姫にしては珍しく気持ちが高ぶっていたみたいだが・・・」
「気にはしていません」
「・・・・・・」
「せめて、椿姫が警察を頼るまでの間は、自分なりに調べてみようと思っています。 それでは」


さっそうと廊下を走っていった。

おれも、帰るとするか。

カゼなのか、おれも妙な頭痛を覚えた。


・・・それにしても、よく気づいた。


「・・・っ」



なかなかがんばっているな、宇佐美・・・。



目まいがして、額に手を置いた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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雑踏のなか、ふらふらと歩きながら、染谷室長からの電話を受けていた。


「浅井くん、君のおかげで助かったよ」
「いえ・・・」
「例の東区の件だがね、美輪という一家がついに折れてくれたらしく、計画はまた軌道に乗り始めたそうだ」
「それはなにより」
「君がどんな手口を使ったのかは、わざわざ問うまい。
なんにせよ礼を言う。 さすがは"魔王"といったところか」


染谷は上機嫌だった。


「いえ、こちらこそ。 例の場所もお貸しいただいて、ありがとうございます」
「あの、東区の廃墟か?」
「ご紹介のとおり、暴走族やホームレスも立ち寄らないような素晴らしい物件でした」
「あの病院跡は、警備会社の人間をたまに巡回させているからね」
「なるほど。

・・・ご用件はそれだけですか?」
「その廃墟の件だがね」
「なんでしょう?」
「担当の人間から偶然耳にしたんだが、ついさっき、立ち入りの許可を求められたらしい」
「・・・誰から?」
「さあ、警察の人間ではなさそうだったらしいがね」
「相手は、名乗らなかったのですか?」
「こっちが山王物産だと知って尻込みしたらしいな。 だから当然、立ち入りの許可は出していない」
「そうですか。 またご連絡します」



通話を切って、考えをめぐらす。

宇佐美、か・・・?

だとしたら、思ったよりも調べが早い。

写真を送りつけたのは、少しサービスが過ぎたかもしれんな。

広明が生きていることを家族に伝えるだけなら、電話口に立たせればいい。

わざわざ監禁場所の手がかりとなる写真を送りつける必要はない。

宇佐美は写真を頼りに広明の居場所を探すに違いない。

しかし、おれの狙いは別のところにある。

廃墟を探し当てたとしても、人質は見つからないのだ。

宇佐美は身代金に続いて、二度目の失態を犯すことになる。

それは、宇佐美と椿姫の確執の火種となる。

だから、写真を送りつけたのだが・・・。

今回の身代金誘拐は、用地買収に悩む山王物産に力を貸すことが主な動機だったが、もちろんそれだけではない。


宇佐美ハル・・・。


あの女は、おれの過去を知る数少ない人間のうちの一人だ。

現在のところ、おれを追ってくる唯一の人間でもある。

叩き潰してやる・・・そう思っていたが、今回はここまでにしておくか。

あの写真にしても、想定よりも面倒な手がかりを残しすぎた。

繁華街でも、宇佐美に危うく腕を捕まれるところだった。

もちろん、おれにたどり着くような決定的な証拠は残していない。

だが、用心に越したことはない。

もう少し広明の居場所を突き止めるのが遅ければ、宇佐美から友人を奪ってやれたものを・・・。

椿姫を使ってな・・・。

しかし、椿姫には種だけはまいておいた。

あとはどう、発芽するか楽しみだ。

最後に、おれは椿姫に連絡を入れる。



弟は返してやろう。

だが、調子に乗って警察に連絡したら、家族はまた悲しい目に合うということをしっかりと伝えておく。

椿姫には、広明の他にも、小さい弟や妹がいるのだからな。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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打ち合わせを終えたおれは帰宅して、少しの時間、寝込んでいた。

風邪を引いたようで、どうも熱っぽい。


・・・ん?


誰か来たな。

備えつけの受話器を取ると、モニターに宇佐美の顔が映っていた。


「夜分にすみません、浅井さん」
「・・・なんの用だ?」
「廃病院の場所、わかりましたか?」
「廃病院・・・」
「え?」
「あ、ああ・・・調べたぞ」
「助かりました」
「ちょっとうちにあがっていくか?」


お邪魔しますと、宇佐美が軽く会釈した。

 


・・・。



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「それにしても、わざわざ来なくても電話すればいいのに」
「いやいや、二回くらいかけましたよ?」
「え? そうか? すまん、寝てたからな・・・」
「そすか。 カゼすか? お大事に」


おれは、印刷しておいた廃墟の資料をテーブルの上に上げた。

不動産屋から送られてきた情報だった。


「えっと、江尻病院っていうらしいな。 東区の外れに放置されているらしい。
院長の江尻氏は明治生まれの人らしく、もうとっくに亡くなっているらしいが」


詳しい住所も教えてやった。


「さすが、浅井さん、ありがとうございます」
「市内には該当するような廃病院は他になかったぞ」
「さっそく出かけてみます」
「おれも行こう」
「本当ですか? いいですよ、体調悪いんでしょう?」
「別にお前が心配とかそういう理由じゃないからな」


この病院の所有者は山王物産の系列だった。

面倒を起こしたら、山王物産に迷惑がかかる。

宇佐美がなにかしでかさないように、見張っておく必要がある。


「では、行きましょうか」
「そういえば、おれは、軍手の一つも持ってなかったな」
「貸しましょうか? お揃いにしましょう」
「・・・・・・」


うんざりしながら、外に出た。


・・・・・・。

 

 

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すっかり冷え込んだ夜の住宅街。

椿姫から着信があったのは、宇佐美のアパートに向かっている途中だった。


「どうした・・・?」


尋ねると、弾んだ声が返ってきた。


「あ、浅井くんっ!」
「なんだ、なにかあったのか!?」
「浅井くんっ、聞いてっ!」


いまにも唾が飛んできそうなくらい切迫した口調だった。


「か、かえって、帰ってきたの!」
「帰ってきた・・・?」

 


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「え・・・」



「帰ってきたって、広明くんがか?」


心なしかおれの声も震えていた。


「うんっ、うんっ!」


泣いているようだった。


うん、うんと、何度も繰り返す。


「本当か、よかったな・・・」


全身から力が抜ける思いだった。


「迷惑かけたね、浅井くんっ! 本当にありがとうっ」
「いやいや、おれはなにもしてないよ」


たんまり儲けさせてもらっただけだ。


「とにかく、それだけだから」
「わかった。 広明くんにも、ショックが大きいだろうけど、がんばれって伝えておいてくれ。 そのうち顔を出すよ」
「うんっ、おやすみっ!」


底無しに明るい別れの挨拶だった。

ようやく、ぐっすり眠ることができるのだろう。

おれも、ほっとした。

これで、警察が出てくることはない。


「・・・・・・」
「宇佐美、聞いてのとおりだ」
「良かったです」


口元をほころばせた。

が、目だけ異様にぎらついていた。



「これで、警察を頼ることができますね」
「・・・っ!?」
「広明くんが帰ってきたのなら、『こと』をおおっぴらにできます。
わたしも警察にいろいろと証言するつもりです」
「・・・・・・」


たしかに、人質がいたからこそ犯人の言いなりになって警察を頼らなかったのだ。

人質が返ってきたいま、通報をためらう理由はない。


「今日はもう遅いですし、帰ります。 椿姫の家に行くのは明日にします」
「ああ・・・明日は休みだしな」
「おやすみなさい。 それにしても、良かったです」


歯がゆい思いで、宇佐美の後姿を見送った。


・・・なんとかしなくてはな。


椿姫と違い、おれにはぐっすり眠る暇なんてなさそうだった。

 

・・・。