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車輪の国、向日葵の少女【20】

 

・・・。


 

おれがまだ、樋口健だったころ。

 

 

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親父とおれとお姉ちゃんの三人で暮らしていたころ。


陽射しは傍若無人なまでに照りつけ、道の両脇に広がる向日葵は精一杯背伸びをしていた。
涼しげな山風が、道の真ん中でたたずむ少女の長い髪を、大きく波打たせる。
少女は右手を高く上げて、おれに向かって微笑む。

ささやかな、夏の日の光景。
それが、おれと璃々子お姉ちゃんの最後の光景だった。


おれとお姉ちゃんは川辺で遊んでいた。
おれはずっと水辺で水面を見つめていたと思う。
水際にいる妙な昆虫が気になっていたかからだ。
そんなとき、お姉ちゃんが帰り支度をして近づいてきた。

 

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「さあ、健」
「なに? お姉ちゃん」
「日が暮れる前におうち帰ろっか」
「ねぇ、お姉ちゃん」

帰ろうとするお姉ちゃんの袖を引く。

「コレ、なんていう生き物なの?」
「ああ、これはね、アメンボ。アメンボっていう生き物よ」
「ふーん。じゃあさ、どうしたらアメンボさんみたいにこうやって水面をすいすい滑る事が出来るようになるの?」
「えっとね」
「アメンボさんは虫? どっちが顔なの? それにこれはオス? メス?
それとも・・・」
「いっぺんにいっぱい質問しないで」
「ご、ごめんなさい」
「・・・足が、足がいっぱいあるからじゃない? 水面に浮いていられるのは」
「・・・ん? 何が?」
「何がって。健が聞いたんでしょ?
アメンボさんが水面でどうやって滑るかってこと」
「あ、そうだった。え? 足?
へぇ・・・足がいっぱいあると浮いていられるんだぁ」
「そうよ。まあ、多分ね・・・」
「ぼく、手と足、両方合わせても4本しかないからダメかな?」
「そうね、たぶんダメね」
「そっか」
「そうね」

お姉ちゃんの相づちは、いつも淡白だ。

「僕がもうちょっと大人になったら、足がいっぱい生えてくるといいなぁ」
「生えてこないほうがいいと思うよ。お姉ちゃんは」
「そうかな? 生えてきたらいいと思うけどなぁ」
「だって生えてきたら邪魔じゃない。というより大人になっても足は生えてこないから。
ほら、お姉ちゃんだって、お父さんだって生えてないでしょ」
「そっかぁ。残念だね」
「そうね・・・ねぇ、健」
「なぁに?」
「なんでアメンボみたいになりたいの?」
「だって、なんか楽しそうでしょ?スイスイ滑っていけるの。
あとアメンボさん、すぐ遠くにいっちゃうからさ。
遠くいっちゃうと遊べなくなっちゃうでしょ。
ぼく泳げないし」
「・・・そうね。だったら、ほら、泳げるようになればもっともっといっぱいアメンボさんと遊べるよ」
「・・・う、うん。
・・・でも泳ぐのはいいや」
「なんで?」
「・・・泳ぐのはいいよ」
「怖いの? 水が?」
「こ、怖いわけじゃないよ・・・ただ顔を水につけると体全体がいうこときかなくなったりとか、目が溶け落ちてきそうな気がするだけだよ」
「ものすごく怖がってるじゃない」
「あ!」

その時、ぼくはアメンボの近くに別の虫を見つけた。
見ると黒い点が水面をシャカシャカもがきながら滑っている。
蟻だ。

「アリさんがおぼれてた」
「助けてあげたの?」
「うん! でも、どうしよ? アリさんどっから来たのかな?
川の上のほうから来ちゃったのかな?」
「そうかもね」
「アリさん迷子になっちゃったのかな?おうちまで連れてってあげようかな?」
「でも、健。おうちっていってもアリさんのお家なんていっぱいあるし、わからないでしょ」
「でも・・・」
「ね」
「じゃあアリさんに道案内してもらうよ」
「え! いったいどうやって?」
「アリさんに聞いて」
「健はアリさんと喋れるの?」
「しゃべれないよ」
「え! じゃ、じゃあ、私が聞くの?」
「うん!」
「うん! って、無理よ。
いいの? お姉ちゃん、アリ語ペラペラでも。
お姉ちゃんアリ語ぺらぺらだったら怖いでしょ?」
「ぜんぜんいいよ」
「いいんだ・・・あ、そうだ。アリさんのおうちはね、実はみんな土の中でつながっているのよ。
だからこのあたりに放してあげればきっと帰れるわよ」
「そうなの?」

お姉ちゃんは、黙って頷いた。

「だから、ほら、アリさんにバイバイして」
「うん。・・・アリさん、もう溺れちゃダメだよ」
「あ、健。アリさん、もしかしたら溺れてたんじゃなくって水泳の練習してたんじゃない?」
「水泳の練習?」

お姉ちゃんの目が怪しく輝いた。
お姉ちゃんは、なにかあると、ぼくを鍛えようとしているのだ。

「そう、水泳の練習。
そうよ、きっとそう。
健も今度アリさんと水泳の練習しよっか?」
「バイバイ、アリさん」
「無視しないで! ちょっと、健!
そんな水なんか怖くないでしょ。いっつも飲んでるんだから」
「そ、そうだけど」
「もう健、そんなこと怖がってたら女の子にもてないよ」
「・・・いいよ、もてなくても」
「んもう! どうしてそうなのよ! もう、お姉ちゃん怒った!
健がちゃんと出来るように特訓してあげる」
「えぇ。いやだよ、ぼく」
「だーめ」
「えぇぇ。だって、ぼくが生きてくのに泳げなくても支障ないでしょ?」
「あなた、すいすい滑っていけたら楽しそうとか言ってたわよね」
「だって、怖いし」

お姉ちゃんは、ため息をついて視線を落とす。

「・・・いい、健、聞いて。ライオンさんは知ってる?」
「・・・うん」
「ライオンのお父さんはね、かわいい我が子を谷底に突き落とすのよ」
「えぇ! どうして、かわいそうだよ」
「それはね、かわいい我が子でも、甘やかしてばかりじゃダメだから、試練を与えるのよ。
ちゃんとした大人になるためにね」
「かわいさ余って、憎さ百倍ってこと?」
「全然違う。ていうかそんな言葉どこで覚えたの?」
「近所のおばあさんが教えてくれた」
「・・・そうなんだ」
「ねぇ、お姉ちゃん、それはライオンさんだけ?」
「え? どうかな? ライオンさんだけなのかな?」
「ネコさんもするの?」
「ネコさんはしないと思うわよ」
「そっか、じゃあ僕はネコさんがいいな。
うん、ネコさんがいい。ライオンさんは怖いから」

そのとき、お姉ちゃんがいきなりぼくの胸を押した。

「あうっ!?」

背中から水面に落ちる。

「ああっ! お、お姉ちゃん助けてぇぇ!」
「健、こんなの怖がってどうするの!」
「もがっ、お、おでえぢゃーん、だ、ず、げ、で、ガボボボ」
「ア、アメンボさんになりたいんでしょ!?」
ガボガボ・・・」
「・・・・・・」
「た、助け・・・ぼ、ぼく・・・」
「・・・・・・」

・・・・・・。

・・・。

 


「・・・・・・」
「ああああ、おでえぢゃーん、うえーん」
「・・・・・・」
「・・・怖いよぉ」
「・・・それでもいっか」
「・・・え?」
「まだネコでもいいか」
「う、うん」
「ふっ・・・ゆっくりね・・・ゆっくり、強くなっていこうね」

小さく笑った。
それにつられるようにぼくも笑う。

「帰ろ?」
「うん」

お姉ちゃんが笑うと、ぼくもうれしい。


お姉ちゃんの特訓は続いた。

近所の山道。
ぼくはだだをこねていた。
それをなだめるように、お姉ちゃんが中腰になって、ぼくと目線を合わせている。

 

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「・・・お、お姉ちゃん」
「何?」
「どうして?」
「何が?」
「だ、だから・・・どうしてぼくが木に登らないとダメなの?」
「どうしてだと思う?」
「え? どうしてって、わかんないよ。
だから、お姉ちゃんに聞いて・・・」
「いい、健。あのね、お姉ちゃんも別に好きで健に木登りをしてって言ってるわけじゃないのよ」
「え? どういうこと?」
「いい? あのね、漢字で男ってどういう風に書くか知ってる?」
「え、えっと・・・」
「わかる?」
「えっとね、確か・・・さんずいにくさかんむりで・・・漢?」
「ち、違うでしょ! 確かにそれもオトコって読む場合もあるけど、普通そっちで言わないでしょ!」
「え? 違うの?」
「いや、違わなくはないけど・・・どこで覚えたのその言葉?」
「き、近所のおばあさん」
「また近所のおばあさん! んもう・・・いい!
オトコっていう字は田んぼの田に、ちからこぶの力っていう字で形成してるのね」
「う、うん」
「要するに、男は力! 一人前の男は強くないとダメなの」
「・・・うん」
「だから、お姉ちゃんは健に強い男になってもらいたいの」
「それで木に登れっていうの?」
「そうよ」
「・・・」
「わかった?」

お姉ちゃんの目がいつになく怖い。

「・・・お姉ちゃん見て見て! ぼくもうこんなに大きくなったんだよ、去年来た時に付けた傷がこれだから、ほら、もうお姉ちゃんの跡に追いつき・・・」
「健、ごまかさないで。それにここでたけくらべなんてしてないでしょ」
「だって・・・」
「どうして? 木に登るだけなのよ?」
「や、やだよ」
「どうして?」
「だって、木に登ったらすごい高いんだよ。
そしたらすごい危ないし、怖いんだよ」
「そうね、でも健は登ったことないから危ないとか、怖いとかわからないでしょ?」
「そ、そうだけど」
「・・・健、お姉ちゃんもね、昔高いところが苦手だったの。
でもね、遊んでる時に、風に飛ばされて、お父さんからもらった大事な帽子が木に引っかかっちゃって」
「う、うん」
「それでね、お姉ちゃん怖かったんだけど、勇気を振り絞って木に登ったの。
すごく大変で、手も真っ赤になって。
下を見ると怖いから、ずっと帽子のほうを見つめながら、無我夢中で登ったの。

やっとの思いで帽子のところにたどり着いた時に、ふっと周りを見たら、枝の隙間から町全体が見渡せて、それにずっと遠くの海まで見えて・・・。
すごい綺麗でね。
そしたら、急に高いところなんて全然怖くなくなっちゃった」
「・・・・・・」
「だから、健」
「うん」
「ね」


「今日は少し霧がかってるから残念だね」
「そういうことが言いたいんじゃないよ!」
「だ、だってぇ」
「もう、長い話して損した! いいから早く登りなさい!」
「ええっ!?」
「ええっ!? じゃない! はやく!」
「だって、やだよ。強くなくたっていいじゃん」
「だめ!」
「それにさっきのオトコの説明もチカラはわかったけど、田んぼの田の意味がよくわからないよ・・・」
「つべこべいわない! ぐちぐちぐちぐち・・・もう知らない!」

お姉ちゃんは機嫌悪そうにぼくから一歩離れた。

「お、お姉ちゃん、どこ行くの?」
「帰るの」
「じゃ、じゃあぼくも帰る」
「ダメ!」
「ええっ!?」
「登るまで帰ってきちゃダメよ」
「ど、ど、どうして?」
「どうしても!」
「ええええっ!」
「ええっ、じゃない。何回も言ったでしょ!」
「やだよぉ、おでえぢゃーん」
「わかった?」
「おでえぢゃぁぁん、やだよ、ゆるじでぇ」

けれど、お姉ちゃんは行ってしまう。

「ああああああああーん。待っでぇ、おでえぢゃーん!」

 

ぼくがいくら泣いても、お姉ちゃんは振り返ってくれなかった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

 

 

「・・・健? どこ? けーん!!
・・・どうしよ・・・いない・・・・・・ま、まさか野犬とかに襲われたのかしら」

ぼくは呆然とお姉ちゃんの声を聞いていた。
やがて、お姉ちゃんがぼくを見つける。

「・・・健!
け、健、だ、大丈夫!?」
「・・・ん・・・おねえちゃん?」
「よ、良かった・・・」
「お、お姉ちゃん、ごめんね」
「え?」
「ぼく、頑張って木登ろうかと思って、一番高い木に登ろうと思って・・・。

でもやっぱり怖くって・・・」
「・・・・・・」
「ごめんね」

お姉ちゃんは、寂しそうな、それでいて優しげな笑みを作った。

「・・・ううん、お姉ちゃんこそ、無理言ってごめんね、健」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 


お姉ちゃんはとにかく、ぼくに試練を与え続けた。

ぼくはいつも姉にくっついて、どこに行くにも一緒だったのだけれど、その時ばかりはついていくのをためらった。

 

理由は三つある。

 

一つ目は普段なら陽が落ちてからは基本的に外に行くことを勧めないのに、その時は陽が落ちるのを待っていたかのように誘ってきたから。

 

二つ目は、懐中電灯と虫よけスプレーとよくわからない紐のついたこんにゃくが玄関においてあったから。

 

三つ目は勘・・・ぼくは勘がいい。

 

なんかある、おかしい・・・そう思った。

 

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「健、どうしたの、さっきからずっと黙って」
「・・・・・・」
「何もないの?」
「・・・・・・」
「もう」
「・・・え、えっと」
「何?」
「ど、どうしてこんな時間に学園にきたの?」
「ん? どうしてって、ほらあれよ、あの、何ていうか、忘れ物したのよ、お姉ちゃん」
「忘れ物?」
「そう、音楽室にね、忘れ物したの」
「何、忘れたの?」
「え?」
「何を学園に忘れたの?」
「えっと、何だっけなぁ・・・」
「え? 忘れ物を忘れちゃったの?」
「あ、思い出した、書道の道具忘れたの」
「ええっ? 音楽室に書道の道具忘れたの? そんなことあるの?」
「あ、あるのよ」
「そ、そんな・・・音楽室に書道の道具は明らかにおかしいよ」
「見つけにくいし、気づかなかったのよ、お姉ちゃん」
「そうなの? 家にあるんじゃないの?」
「家になかったのよ。ちゃんと探したもの。
かばんの中も机の中も捜したけれど見つからないのよ」
「そ、それで?」
「え? それでって、だからたぶん音楽室に忘れたのよ」
「・・・・・・」
「何? お姉ちゃんの言うこと信じられないの?」
「え? え、そ、そんなことないけど」
「けど、何?」
「・・・ううん、なんでもない」
「でしょ」

お姉ちゃんは、たまに、すごく怖い目つきをする。

「うん。でも怖いよ、なんか」
「大丈夫。お姉ちゃんもいるんだし、ね」
「・・・うん」
「怖くないよ」
「うん、わかった。怖くない」
「よし、じゃ行こっか」
「うん」
「ちなみに音楽室は正面の入り口を行って、まず右に曲がってまっすぐ行くと階段があるから、その階段を登って、そしたら正面におっきな風景画があるからそこを左に折れて二つ目の・・・」
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん」


「何?」
「ど、どうしてそんなに詳しく説明するの?」
「え? なんで?」
「お姉ちゃんも一緒に行くんでしょ?」
「い、行くよー」
「ほ、ホントに?」
「ホントよ」
「ホントにホント?」
「ホントにホントよ」
「・・・わかった」
「じゃ、行こ」
「うん」

 

 


・・・

・・・・・

 

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「お、お姉ちゃん、やっぱし僕怖いよぉ」
「見慣れてるはずなのに、どうして夜ってだけでこんなに不気味になるのかしら? 不思議」
「・・・やっぱ、帰ろぉ」
「ダメ、まだ書道の道具持ってきてないじゃない」
「だ、だって・・・」
「健、よく見て。ほら、不気味は不気味だけどちゃんと見れば普通の学園なのよ」
「そうだけど」
「健、男なんだからこんなことでビクビクしてちゃダメでしょ」
「・・・うん、わかった。ぼくもう怖がんない!」
「そう! 健、えらい。そうよ、その意気。なんか今日の健はすごく頼もしくみえるわ、お姉ちゃん」
「そ、そうかな?」
「うん! 心なしか大きく見えるわ。二メートル位に見えるわ」
「心なしどころの話じゃないね」
「でも、お姉ちゃんうれしい。健がちょっと男らしくなったんじゃないかなって」
「・・・えへへ、そうかな」
「そうよ・・・ああっ!?」

いったい何につまずいたのか、お姉ちゃんが急に転倒した。

「お、お姉ちゃん!?」
「あ、足が・・・」
「足? 足がどうしたの? 二本になったの?」
「もとから二本じゃない!? そうじゃなくて、足くじいちゃった・・・」
「ええっ! だ、大丈夫、お姉ちゃん!」
「いたたたた」
「お、お姉ちゃん!」
「いたた。健、お姉ちゃん足くじいちゃったから」
「足くじいちゃったから何?」
「だから、えっと」
「お姉ちゃん、大丈夫だよ!」
「え?」
「心配しないで」
「健! じゃあ・・・」
「大丈夫、ぼく、お姉ちゃんが足痛くなくなるまでちゃんとそばにいるよ」
「そうじゃないでしょ!」
「ええっ!?」
「お姉ちゃん、さっきからずっと言ってるでしょ 書道の道具取りに来たって!」
「だ、だって、足痛いなら・・・」
「健がそばにいてくれるのも、すっごく嬉しいけど、そうじゃなくて、音楽室に書道の道具取りに行ってきて欲しいの!」
「え? ぼ、ぼ、ぼ、ぼく一人で?」
「そう、健、お願い!」
「ええっ!! 一人で・・・こ、怖いよ・・・」
「怖くない! さっき健、怖くないって言ってたじゃない!」
「・・・で、でも」
「健、お願い、行ってきて!」
「・・・わ、わかったよ、お姉ちゃん」
「健! うん、お願い! 場所はね・・・」

 

 

嫌な予感的中。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

 


・・・
ぼくは、お姉ちゃんから音楽室の場所を聞き、懐中電灯を片手に真っ暗な校舎内を進んだ。
歩くたびに靴の音が廊下全体に響き渡って、まるで誰かが叫んでるように聞こえた。

怖すぎる。

「怖くない怖くない怖くない。
あーあーあー怖くない怖くない怖くない。
・・・えっと階段を登って・・・えっと階段を登ったあと・・・何だっけ・・・えっと。

あ、思い出した、大きな風景画の隣の教室が音楽室だ」

 

 


・・・
「し、失礼します・・・誰もいませんよね?
・・・・・・書道の道具、書道の道具・・・ない! ど、どこだろ?
あれ? なんだこれ?」

見ると、人が立っている。

「え・・・?」

よく見ると、人体模型。

「あああああああああああ、お、お、お姉ちゃーん!
ち、ち、ち、違う!! こ、ここ、音楽室じゃない、ピアノとかもないし。
ど、どうしよ・・・迷っちゃったよ・・・。
そ、そうだ、戻ってお姉ちゃんにもういっかい聞いてみよ。
も、もしかしたら足治ってるかもしれないし」

ぼくは、来た時の倍くらいの速さで階段を駆け下りて、お姉ちゃんのもとへ戻った。

 

 

 

・・・
「お、お姉ちゃん! あ、あれ!? お、お姉ちゃん?
お、お姉ちゃんどこ行ったのー!?」

ぼくの甲高い声が廊下に響き渡る。

「おねえちゃーん! おでぇぢゃーん! ううっ、お、お、おで、おでぇぢゃぁぁん。
うわーん!!!」

しばらく泣き喚いていると、廊下の影から白い物体が現れた。

「ひぇぇ・・・っ」

しかもその物体は、釣竿を掲げていた。
釣竿の先に、こんにゃく!

「って・・・?お、お姉ちゃん!!!」
「・・・健」
「お姉ちゃーん!」
「・・・・・・」
「ち、違うよ。怖くて帰ってきたんじゃないよ。
ぼ、ぼく、ちゃんとお姉ちゃんの書道の道具取ってくるために頑張ったんだけど・・・な、なんか体が、体が半分ぐちゃぐちゃの人間が、た、立っててぇ」
「・・・・・・」
「だからだから・・・うぇーん」
「健・・・」
「お姉ちゃん怖かったよぉ」
「・・・・・・」
「お、お姉ちゃん?」
「健、ごめん。お姉ちゃん書道の道具やっぱ家に忘れてたみたい」
「ええっ! そ、そんな!」
「だから、帰ろ」
「さっきちゃんと聞いたのに・・・」
「健、ごめんね」
「・・・ううん、いいよ」
「ごめん」
「あ! お姉ちゃん、足治ったの! 良かったぁ」
「え? ああ、うん。心配してくれたの?」
「う、うん。よ、良かったぁ」

すると、お姉ちゃんは、ぼそりと言う。

「優しいわね・・・」
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「・・・ん? 何でもない。帰ろ」
「うん」
「・・・ごめんね」
「うん、いいよ。それよりなんでそんなかっこしてるの」
「え? えっと・・・」
「何で?」
「なんでだろ? よくわかんないや」
「え? なんだかおかしいや、お姉ちゃん」
「ふふっ・・・」
「えへへ」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

正直、理解できなかった。


どうしてお姉ちゃんは、当時のおれにとっての無理難題をふっかけるのか。

けれど、突然の告知があったのだ。

一月ほどたった、蒸し暑い日だった。

 

 

 

 

・・・


買い物の帰り道。

ぼくらは疲れ果てて一休みしていた。

 

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「健、そろそろ行こうか?」
「え、えっともうちょっと休んじゃダメ?」
「うーん。でももうちょっとしたら日が暮れてきちゃうから」
「そうなんだけどね。ぼ、ぼく、足が痛くって動けないよぉ」
「いっぱい歩いたから痛いのはわかるのよ。
でも足だったらお姉ちゃんも痛いわ」
「だったら、もうちょっと休んでからにしようよ」
「うーん・・・でも、もうかれこれ一時間くらい休憩してるわ。
そろそろよくない?」
「だって、ぼく、足が・・・」
「だから、それはお姉ちゃんも痛いって言ったでしょ」
「僕の場合は、何ていうか、もうすっごい痛いんだよ。
ホントに。死んじゃうくらいに痛いの」
「そんな大げさに言わないで」
「大げさじゃないよ! 棒が足のようで、それで歩くと犬に当たって、藪かと思ったら蛇の大群だったりして・・・」
「なにそれ! 混ざってない? 何か怖いし!
・・・とにかくもう行くよ」
「無理だよぉ、もうちょっと休もうよ」
「健、いい加減にして!」
「だ、だってぇ」
「健、お姉ちゃん先行っちゃうぞ」
「・・・・・・」
「健、聞いてる?」
「・・・いいよ」
「いいの?」
「いいよ」
「・・・健、あなたどうせまたすぐお姉ちゃんが迎えに戻ってきてくれると思ってるでしょ」
「・・・・・・」
「そうでしょう」
「・・・思ってないよ」
「・・・じゃあいいのね」
「・・・いいよ」
「お姉ちゃんいなくなっちゃうよ」
「・・・・・・」
「・・・健」
「な、何?」
「お姉ちゃん、ホントにいなくなっちゃうのよ」
「だから、いいよって」
「そうじゃないの」
「え? ど、どういうこと?」

ぼくがはっとして顔を上げると、お姉ちゃんは、少しためらいがちに言った。

「お姉ちゃんね、中央の大学に行くの」
「ええ? な、なんで?」
「先月、お姉ちゃん二日間くらい出かけてたでしょ。
あの時ね、お姉ちゃんは大学の試験を受けに行ってたの」
「え? え?」
「・・・それで」
「やだよ! 行かないで!」
「・・・健、ちゃんと聞いて」
「で、でも・・・でもぉ・・・」
「合格通知が今朝届いたの」
「いやだよぉ」
「・・・・・・」
「お、おねえちゃん。ぼく、もう足痛くないよ! だから行かないで!」
「そういう問題じゃないでしょ」
「・・・やっぱ、まだ痛いから、中央に行かないで」
「・・・健」
「お願い! 行かないで!」
「・・・・・・」
「ぼ、ぼく、おねえちゃんがいないとダメだよ。
すぐ迷子になっちゃうし、一人じゃどこにもいけないよ。
だから・・・だからぁ・・・」
「・・・・・・」
「だから、ぼくを置いて遠くに行ったりなんか・・・い、行ったりぃなんがぁ、じ、じないでぇよぉ」
「・・・あ、健! 私の足元に大きな蛇がっ!」
「えっ!?」

とっさにその場で飛び跳ねた。

「あ? え? へ、蛇なんて・・・いないよ?」

いつの間にか、ぼくはお姉ちゃんの腕をつかんでいた。
まるでお姉ちゃんをかばうように、お姉ちゃんの体を引き寄せているじゃないか。

「・・・健、お姉ちゃんの話、ちゃんと聞いて欲しいの」

お姉ちゃんは、ぼくの頭を優しくなでてくれる。

「・・・・・・」
「あのね、お姉ちゃんずっと思ってたの。
健はやれば出来る子だって。
弱虫でも泣き虫でもなんでもないって」
「・・・・・・」
「むしろ運動神経なんかいいほうなんじゃないかなって思うの。
それに、健はとってもとっても優しくて、お利口さんなんだから」
「・・・で、でも」
「お願い。

お姉ちゃんが心おきなく大学にいけるようにまともな男になってほしいの」
「・・・・・・」
「健! いつまでもめそめそしないの!」
「・・・ぐ、ぐぇ」
「健・・・」
「や、やっぱり、やっぱりやだよぉ、お姉ちゃんがいないなんてやだよぉ・・・ぐ、ぐぇーん」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

あのとき、お姉ちゃんは黙っているだけだった。
泣きじゃくるおれを抱きしめて、いつまでもおれの名前を呼んでいた。

大好きな姉がいなくなってしまう。
けれど、その日が来るまで、お姉ちゃんはいつもおれのそばにいてくれた。

 

お姉ちゃんが中央の大学に行くという話を聞いてから、ぼくは前よりも輪をかけて、お姉ちゃんにべったりくっついていった。
少しでも離れたら、姉がどこかに行ってしまいそうだったから。

「ちょっと健、そんなにくっついたら、お姉ちゃん歩きづらいでしょ?」
「う、うん。でも」
「でも、何?」
「な、何でもないけど」
「けど?」
「もう、何でもない」
「健、怒ってる?」
「お、怒ってないよ」
「そ・・・じゃあ、その木に登ってみて!」
「な、なんで。いくらなんでも唐突すぎるし! 最近お姉ちゃんそんなのばっかじゃん!」
「やっぱり怒ってる」
「え、いや、怒ってないけど・・・」
「けど?」
「この間だって、ぼくのこと騙して脅かそうとして・・・」
「騙してって、そんな人聞きの悪い」
「騙したでしょ!?」
「違うの、あれはお姉ちゃんの勘違いで」
「もういいよ。ねぇ、お姉ちゃん、帰ろ」
「健が木に登ったらね」
「嫌だってば!」
「なんで!? 健、お姉ちゃん言ったでしょ。お姉ちゃんもう少しでこの町を出るのよ?」
「し、知ってるけど・・・」
「お姉ちゃん、健が今のままじゃ心配で大学に行けないの」
「でも・・・」
「・・・健」
「でも、こないだやってみたけど、登れなかったし」
「じゃあ、今日はお姉ちゃんが、登り方ちゃんと教えてあげるから」
「いいよ別に・・・ぼくには無理だよ・・・」
「よくない! 登れるようになるの! いい!?」
「え、え・・・うん、わかった」
「うん! 健、がんばろ!」
「・・・うん!」
「えっと、まず、手が滑らないように唾をつけて・・・」
「ええっ! き、汚いよ」
「汚くない! お姉ちゃんの唾は汚くない!」
「・・・わ、わかったよ」
「それでこういう木の節に足をかけて登るの」
「う、うん」
「簡単でしょ?」
「う、うん」

お姉ちゃんは、するすると登っていく。
高い木の半分くらいまで登って、下にいるぼくに声をかける。

「ほら、このくらいまでならすぐだよ。健、わかった?」
「うん、わ、わかったよ」
「じゃあ、やってみて。簡単でしょう?」
「も、もう!?」
「何?」
「・・・や、やっぱりぼくできないよ」
「も、もう! そんなのやってみなくちゃわからないでしょ」
「・・・・・・」
「ちょっと、健、聞いてるの?」

 

・・・

と降りようとした、ときだった。

木の節の部分が剥がれ落ち、木屑と一緒にお姉ちゃんが降ってきた。

 

 

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・・・

「お、お姉ちゃーん!」
「・・・い、痛い」
「お、お姉ちゃん、大丈夫?」
「いたた、あ、足。お姉ちゃん足くじいちゃったみたい・・・」
「足? ・・・あ」
「え?」
「お姉ちゃん、また僕のこと騙そうとしてるね」
「ええっ?」
「ぼくもう騙されないよ」
「ええっ!?」
「お姉ちゃん、こないだもそうやって足くじいたって、ホントはくじいてないのにそうやってぼくに嘘ついて、ぼくのこと試してるんでしょ!」
「ち、違うわよ」
「そうだよ」
「違うってば・・・痛っ」
「ほら! また嘘ついた!」
「・・・健・・・」
「・・・」
「健・・・お姉ちゃん・・・狼少年だね」
「え? お、お姉ちゃん、お、男なの?」
「違う! そういう意味じゃない。ちなみに狼でもないからね」
「どういうこと?」
「あるSF小説の童話でね、いたずら好きの少年が村の人を驚かせるために、何回も狼が来たって嘘言って驚かせていたのね。
そしたら村の人も最初はみんなびっくりして逃げ出しりしてたんだけど、そのうち嘘だって気づきだして、だんだん誰もその少年の言うことを信じなくなってしまったの。
そして村の人が誰も少年の言うことを信じなくなったとき、本当に狼が村に現れて、少年は必死に村人に助けを求めた。
みんなまた嘘だろうと信用しないで、とうとうその少年は狼に食べられてしまったってお話」
「あ、ぼく、それ聞いたことあるかも」
「知ってた?」
「うん。それもあれでしょ? で、その後、その狼がベッドから飛び出てきて、お前を食べるためだよ! ってやつでしょ」
「ち、違う! しかもさっきのお姉ちゃんの話でおしまいだから。続きないから」
「あ、わかった。その後、それでさっきからお前さんが背負ってるその女の子は誰だい? ってやつでしょう?」
「誰!? お前さんとか言ったヤツ誰!?
・・・ていうかお姉ちゃんのお話でおしまいなんだってば」
「そ、そっか・・・かわいそうだな、狼に食べられちゃうなんて・・・。
え? てことはお姉ちゃん本当に足くじいてるの?」
「よ、良かった、気づいてくれて。
お姉ちゃん、健が、じゃあ、お姉ちゃん狼に食べられちゃうっ・・・て言ったらどうしようかと思ったわ」
「そんなこと言うわけないでしょ! だ、大丈夫!?」
「う、うん。だいじょ・・・いたたっ」
「お姉ちゃん、無理しないほうがいいよ」
「ううん、大丈夫。・・・きっと最近お姉ちゃん健のこといじめてたから罰が当たったんだね」
「そ、そんなことないよ」
「ごめんね、健」
「お、お姉ちゃん・・・」
「・・・痛っ・・・どうしよ、お姉ちゃん歩けないや」
「・・・お姉ちゃん・・・」

ぼくはお姉ちゃんに背を向けて、しゃがんでみせた。

「えっ?」
「の、のって」
「お、おぶってくれるの?」
「う、うん。あ! で、でも、ぼ、ぼく力ないから、しかも道とかもすぐ迷ったりするから、お姉ちゃんがいないとちゃんと家まで帰れるかわからないよ」
「・・・健」
「だから・・・とりあえずのって」
「・・・うん、ありがとう、健」

背負ってみると、お姉ちゃんは意外と軽かった。
ぼくはお姉ちゃんをおぶって、無事、家路についた。

 

 

 

・・・
それから、お姉ちゃんのおれを見る目つきが変わっていった。
お姉ちゃんは、もともと、攻撃的というか、おれをいじめるのが好きな性格だった。
特訓は次第にエスカレートしていった。

 

 


・・・じりじりと音を立て、ロウソクの火が燃えている。

 

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「あ、アツ、熱いよ、お姉ちゃん。そして寒いよ・・・」
「これくらい我慢しなさい。
・・・さあ、問題を出すわよ」

ぼくの目の前には火を灯したロウソクが、ゆらゆらと揺れている。

「ど、どうしてこんな奇妙な勉強を教えるの?」

ロウソクを持つお姉ちゃんは、うれしそうに言う。

「健は賢いと思うのよ」
「賢い?」
「・・・勉強はできると思うの、すごく、ね」
「そ、そんなことないよ・・・」

目の前の火が気になって仕方がない。

「でもね、いまの世の中、どれだけ知識があってもダメなの。
知識を知恵に変えて、行動に移せる能力こそが問われる社会なのよ。
あなたがどれだけ知識を持っていても、いざっていうときにそれを発揮できなかったらダメでしょう? 要するに、胆力よ。
どんな人の前でも、どんな状況でも、自分の意志を伝えることができる強さを持ちなさい」
「その前に、ちょっとトイレ行ってもいい?」
「ダメッ!」

ジュッ。

「アヅッ」
「ふふふ・・・」
「お、おねえちゃん・・・?」

お姉ちゃんの顔には、燃え上がる火の向こうで、怪しく歪んでいた。

「ああ、なんかお姉ちゃんドキドキしてきちゃった。
コレ危ないよー。私なにかに目覚めちゃったよー」
「え? え?」
「じゃあ、始めは数学の問題からね」
「う、うん・・・」
「カッコエーサインカッココサインジジョウマイナスニヒク・・・」
「ちょ、ちょっと待って! 口じゃわかんない! せめて文字にして!」
「はい、不正解!」

ジュッ。

「ぎゃあっ!」
「くすくす、だらしないわねえ・・・」
「お姉ちゃん、ひどいよ・・・わざとでしょ?」

泣きそうだったが、お姉ちゃんは、ぼくを心配するでもなく、吐息を荒くしていた。

「・・・じゃあ、次ね。歴史の問題」
「うぅ・・・」
「世界の三大美少女といえば?」
「え? 美少女? わかんないよぉ・・・」
「一人もわからないの?」
「え、えっと・・・お、お姉ちゃん・・・?」
「やだ、なに言ってるのよぉ・・・」

ジュッ。

「ぎゃあぁっ!」
「まったく、いじめて欲しいとしか思えないわね」
「せ、正解は?」
「うーんとねぇ、言ってもいいんだけど、人名とか商標とかキャラ名っていろいろとピーピーうるさいからやめておくね」
「い、意味がわかんないよぉ。はじめから正解なんてないじゃないかよぉ!」

ジュッ。

「ぎゃあっ!」
「じゃあ、次の問題ね」
「うぅ・・・」
「これはラッキー問題よ。健の好きなSF小説のお話ね」
「う、うん・・・」
「ローマのカエサルが暗殺されたときの名言は?」
「あ、え、えっと・・・」

なんだっけ・・・覚えてるはずなのに・・・ロウソクが気になって・・・。

「ぶ、ブルータス・・・お、お前もか?」

ジュッ。

「ぎゃあああっ!」
「違うでしょ。ブルータス・・・までは合ってるけど」
「ご、ごめん・・・なんだっけ?」
「チョーきもちいい! でしょ?」
「それ絶対違うと思う! 刺されてるのに、そんな水泳選手みたいなこと言って、カエサル馬鹿じゃないか!」
「こんにちワンツー! だったかしら・・・」
「もう、いいよ・・・お姉ちゃん・・・ぼくをいじめるつもりなんだね?}
「じゃあ、これが最後の問題よ」

と、お姉ちゃんは机の上にあった教科書のページを開いた。

 

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「これは、なんの義務を表しているでしょう?」
「こ、これって・・・」
実際に一度も見たことはないが、それは、あまりにも有名な義務だった。

「極刑でしょ?」

ジュッ!

「あ、アヅ、いたたた!!」
「あ、ケンの大事なとこに・・・」
「な、あんでぇ!? 合ってるじゃないかよぉ!?」
「やっちゃったなぁ。いままでの流れからいって間違えるんじゃないかなって・・・フフフ」
「フフフじゃないよぉ!」
「ドンマイ、私!」
「・・・・・・」

ひどすぎるよ、この人。

「お姉ちゃん、これ特訓じゃない。ディーブイだよ!」
「痛いの? 大丈夫よ、わたしがちゃんと癒やしてあげるから・・・。
健は、私のもの・・・ずっと、一緒だからね。
たとえ私が極刑を負ったとしても、ずっと、ずっとそばにいるからね」
「で、でも・・・大学に行っちゃうんでしょ?」
「あ・・・それは・・・。 ドンマイ、私!」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

軽いトラウマになった。
ただ、お姉ちゃんは、おれに遊び半分でそういうことをしていたわけではなかった。
そういうことをするのは、好きな人にだけだと、言った。
それは、お姉ちゃんが旅立つ前日のことだった。

「はあっ、はあっ・・・」

薄暗い室内で、ぼくは床にへたり込んで、荒く糸を引くような吐息を垂れ流していた。

「フフ・・・気持ちよかった?」
「う、うん・・・まだジンジンしてる・・・」
「そう・・・もう一回してあげようか?」
「ううん・・・平気・・・」

お姉ちゃんは満足そうな笑みを浮かべて、ぼくの顔に手を添えている。
頬や唇の上で、その繊細な指を這わせて、ぼくをぞくぞくさせる。

けれど、ぼくは不安になる。

「お、お姉ちゃんは、どうして、ぼくにこういうことをしてくれるの?」
「あなたが、つらそうだったからよ」
「つらそう?」
「夜、怖くて眠れないって、よく言ってたでしょう?」
「あ、うん・・・風が鳴ると起きちゃうし、電気つけてないと眠れなかったり・・・」

でも、いまいちよくわからない。
ぼくが怖がると、どうしてお姉ちゃんは、ぼくにエッチなことをするのだろうか。

「人間の感情ってね、身体に支配されているのよ」
「支配?」

そのとき、頬をつねられた。

「いたっ!?」
「痛いでしょう? そういうことよ」

そうして、いまぼくに痛みを与えた腕で、そっと撫上げてきた。

「んっ・・・」
「今度は、気持ちいい?」
「う、うん、でも・・・」
「頬の痛みが残ってて、あんまりエッチな気分になれないでしょう?」
「感情の移行には時間がかかるの。
過去、現在、未来っていう時間軸の中で、私たちはゆっくりと感情を変化させていくけれど、身体という大きな枠が必ず阻んでくるわ・・・。
社会にはいろんな枠があるけれど、一番大きな枠は、自分の身体でしょうね」
「どういう意味?」
「あ、ごめんね。私は、そういうことを勉強しに行くのよ」

僕はお姉ちゃんが大学に行ってしまう現実を思い出し、痛いよりも、気持ちいいよりも、ただ、悲しくなった。

悲しい。

お姉ちゃんの身体が、かっこいい瞳が、優しい腕が、目の前から消えてしまうのが、ひどく、心を痛みつける。

ぼくは、悲しいと、素直に告げた。

お姉ちゃんは私もよと、ため息をついて、こう言った。

「だから人は、愛っていう強い感情を表現するために身体を使うのよ。
相手を全身で感じるために。
たとえ、その人がいなくなっても、身体が覚えているように」
「お姉ちゃん・・・」

ぼくは、すでに泣きそうだった。

「なーんて、ね」

突然、かっこよく笑った。

「うそうそ。そんな難しい話じゃないよ。
ただ、私がね、健のことが大好きだって話ね。
だからエッチなことするのよ」
「ぼ、ぼくも、お姉ちゃんが大好きだよぉ」
「フフ・・・そういう、好きとは違うのよ」
「違わないよ」

お姉ちゃんは、ぼくの頭に手を置く。
いかにも子供だなあ、という顔で、ぼくを見ている。

「手で、しただけでしょ?」
「え?」
「続き、たくさんあるんだよ?」

そのときの、お姉ちゃんはいままでで一番エッチな表情を浮かべていた。

「そ、それは・・・?」

すると、お姉ちゃんはバシっと頭を叩いた。

「あなたが本当に好きな人に、してあげなさい」
「だ、だから、ぼくはお姉ちゃんが・・・!」
「ああ、なんかたまんないかもぉ。
健が他の女とそういうことしたとしても、一番最初に手をつけたのは、私?

この私? うはあぁ・・・コレ、危ないよー。
私、ゾクゾクするよぉーっ」
「お、お姉ちゃん・・・?」

変なスイッチが入ってしまったお姉ちゃんは、しばらくクネクネしていたが、やがて立ち直った。

「健・・・」

真剣な目をしていた。

「私は、あなたを強くしようと躍起になっていたけど、あなたは多分、とんでもなく強いわ。
ただ、まだそのスイッチが入っていないだけ」
「・・・・・・」
「・・・がんばってね。私は、いつでも、そばにいるから」
「いなくなっちゃうのに?」

ぼくは、てっきり、お姉ちゃんが、またふざけるのかと思った。

「・・・それでも、そばにいるから」

 

そう言って、背を向けた。

ぼくはいつの間にか、泣いていた。
しゃくりあげるような声で、お姉ちゃんの名前を呼んだ。

けれど、お姉ちゃんは、一度も振り返らずに、部屋を出ていった。

 

 

 


・・・
翌朝早朝、ぼくはお姉ちゃんと向日葵畑に来ていた。
お姉ちゃんを、送り出すのだ。

 

笑顔で。

 

「こ、こんなときにお父さんは、家から出て来ないなんて・・・」
「『俺、絶対泣いちゃう! 涙で泉ができちゃうから見送りには行かない!』

・・・だってね」
「・・・もういいよ。あんなヤツ!」
「こらこら、お父さんのこと悪く言わないの。
お父さんも、いろいろあるんだから」
「いろいろ? いつも家でごろごろしてるだけじゃない?」
「・・・そのうち、わかるわ」
「え?」
「さぁて、っと!」


青々しく澄み切った空。

「・・・バイバイ、健」

お姉ちゃんは、去っていく。

「がんばるのよ。お姉ちゃん、いつか、健に守ってもらうんだからね」
「う、うん・・・ぼく、がんばる」

泣きたくない。

せっかく、毎日特訓してもらってたんだから。

「いつか、あんたが私の前に立つのよ。
私は健の背中をずっと見ている・・・そんな毎日がいいな・・・」
「う、うん・・・約束するよ・・・」
「約束なんて関係ないわ。きっとそうなるの」
「うん・・・約束なんて、関係ない」
「がんばれって」
「がんばるって」
「ふふ・・・はははっ」

お姉ちゃんが笑うと同時に、道の脇で背を伸ばす向日葵も、風に揺れた

「うぅ・・・ひっく・・・か、帰って、帰って来るよね?」
「当然」
「じゃあ、待ってる」
「待ってるんじゃなくて、追ってくるぐらいの気持ちで」
「じゃ、じゃあ追いかける。
も、もっと、もっともっと強くなって、お姉ちゃんを助けるよ!」

ふとお姉ちゃんの足が止まった。

「聞いたわよ・・・健。
私を、助けてくれるって・・・?」
「う、うん! 絶対!」
「・・・その言葉、忘れないわ」

 

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かっこいい笑顔を見せて、お姉ちゃんは道の先へと足を進めていった。

「っく・・・!」
「いってきますっ!」

 

 


・・・
「うぅ・・・ひっく・・・うあぁ・・・。
あ、お、お姉ちゃん、おでぇちゃん・・・あ、ああぅぅ・・・。
お姉ちゃあーんっ!!!」

 

 

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

お姉ちゃんは、真っ直ぐに道を歩いていった。

 

 

 

おれは、ダメだった。

小さくなっていく姉の後姿がまぶしくて、涙が止まらなかった。

目を腫らして家に帰ると、その日は珍しく親父が遊んでくれた。

おれの頭を撫でながら、お姉ちゃんがどれだけ優秀で、強い人間かを語ってくれた。

 

けれど、そんな親父も、また去っていくのだった。

非暴力主義だった親父が、一転して、国家に反旗を翻す。

それは、おれが夏咲と知り合い、磯野やさちといった友人を紹介してもらったあとのこと。

 

 

 

 


おれは、ダメだった。

 

夏咲たちとの友情も、お姉ちゃんから受けた愛情も、全部無意味だった。

 

無様な痴態を晒したおれ。

 

 

 

 

 

 

 

 


―――仲間を見捨てたおれの過去を知らない少女の監督が始まる。

 


大音灯花。

 

正直、さちのときより、少しは気が楽だった。
楽なだけに、油断はできない。

 

・・・。