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・・・。
・・・・・・。
おれの右手は、何かを必死につかもうとしていたような気がする。
それはきっと、手のひらではなく、崖の岩や、木の幹なのだろうが・・・。
・・・どうやら、生きてるようだ。
・・・
一度、ひどく咳き込んだ。
頭の奥で鐘が鳴っているように、ずしりとした響きが残っている。
けれど、全身は意外なほど軽い。
ふわふわと、宙に浮いているようだ。
・・・
夏咲の部屋がぼんやりと視界に浮かび上がる。
時刻は・・・朝六時を回ったところ。
「・・・・・・」
上半身だけ起こしてみる。
「っ・・・つぅ!」
ずきりと腰が軋みをあげた。
つられて、背中にもじんわりと痛みが広がる。
太長い、タイヤにひかれたような痣ができていた。
落下したときに、木の幹に一度弾かれたような記憶もある。
逆にいえば、それだけで済んだのか・・・?
「・・・奇跡だな」
死ぬかもしれないと思ったんだがな・・・。
生きていたことに安堵したら、喉の渇きをもよおした。
どんなときでも、寝起きは水がないとなぁ。
水を飲むために台所へ向かおうと布団から這い出る。
「あ・・・」
不意に、夏咲が部屋の外から顔を出した。
「・・・も、森田さんっ!」
「なっちゃん・・・」
いつでも手を握っていてくれたなつみちゃんと、手のひらを拒絶した夏咲。
「む、無理しないでくださいっ」
目を丸くさせ、心配そうにおれの顔を覗き込んでくる。
「なっちゃん、とりあえず、水もらえるかな。喉が乾いちゃって」
「は、はいっ」
慌てて水を持ってくる。
「ど、どど、どうぞ・・・」
カタカタと震えるコップ。
水が零れそうだ。
「ありがとう」
手に触れないように、コップを上からつかみ取った。
「ふぅ・・・」
なんとか渡せた・・・と安堵のため息をついている。
「なっちゃんが、おれを助けてくれたの?」
「い・・・いえ・・・」
首を振った。
「違います。ごめんなさい・・・」
申し訳なさそうにうつむく。
「ああ、いやいや、責めてるわけじゃないんだ。
どうやってここまで来れたのか知りたくてね。
なっちゃんが、おれを運んできたってわけじゃないんだろ?」
「法月さんの知り合いらしい人が・・・森田さんをここまで運んでくれました」
「どういうこと? なっちゃんはもしかして、とっつぁんを呼びに行ってたの?」
「いえ・・・わたし、あの場から動けなくて・・・そこに、法月さんが来たんです」
おいおい、とっつぁん、あんた何者だよ。
「わたし、パニックになってて・・・一生懸命説明しようとしたんですけど、上手く伝えられなくて・・・。
でも法月さん、最初から知ってたみたいに、迷わず電話で人を呼んで、森田さんを探してくれました。
森田さんは、崖の途中の岩棚に倒れてたんだそうです・・・。
だから、きっと死ぬことはないだろうって・・・」
「・・・・・・」
おれは黙って、残りの水を飲み干した。
「体・・・だ、大丈夫ですか?」
「うん? なにが?」
「あ、あの・・・だから・・・体です・・・」
「ああ、体ね。大丈夫だよ」
なっちゃんから、こうやって正面きって話しかけてくれる機会なんて、あんまりないから面食らってしまった。
「おれは頑丈だからね。一度死んだことがあるくらいにね」
樋口健が、森田賢一に。
「わたし・・・謝らないといけません・・・」
「・・・・・・」
「なにも・・・できませんでした。助けてって、言ってたのに・・・動けませんでした。
怖くて・・・動けなくて・・・森田さんが落ちた後も、なにもできなくて・・・。
あ、あんなに高いところから落ちたのは、わ、わたしのせいだって・・・」
「なっちゃんは、なにも悪いことしてないよ」
「そ、そんな・・・わたしの不注意からこんなことになってしまったんですよ?
もしかしたら・・・し・・・し、死んでた・・・かも、しれないんですよ・・・」
「おれが、無理になっちゃんに近づいたから悪いんだよ」
「っ・・・」
「なっちゃんが、いまこうやって、おれを心配してくれるだけで、うれしい」
おれを助けられなかったことを後悔しているのが、痛いほどに伝わってくる。
「だから、気にしないで」
「だ、けど・・・わたし・・・」
なぜか、とても穏やかな気持ちになる。
「ありがとう・・・」
「森田・・・さん・・・」
「おれは、大丈夫だから」
おれは、言葉で夏咲に触れる。
「ごめんなさい・・・。
それから・・・ありがとう、ございます・・・」
うつむいたまま、夏咲は肩を震わせて泣いた。
自らの行動を悔いるように。
触れられないことの歯がゆさを、思い知ったかのように。
やっと・・・何かが動き出したのかもしれない。
・・・
「む・・・」
全身が重い・・・夏咲と話した後、寝てしまっていたようだ。
身体が休息を欲してるってわけか。
「お、おはようございます・・・」
「おはよ」
「ちょ、朝食ができてるので、よかったら食べませんか」
「ん、ありがと。お腹が空いたとこなんだ」
痛みはまだ残りそうだが、少しくらいなら動けるな。
「う、動いて大丈夫ですか?」
「うんうん。思ったより平気みたいだね・・・」
夏咲がテーブルに朝食を運んできた。
ごはんに、みそ汁に、ちくわ。
お互い向かい合って、箸を手に取った。
「うん、美味しい」
空腹は最高の調味料だな。
「・・・・・・」
「もぐもぐ・・・」
「・・・・・・」
「もぐ・・・」
目の前では、小さな口にちくわを運ぶ夏咲の姿。
「なんか、不思議だな・・・」
「え?」
「あ、いや・・・なんでもないよ」
どこかこそばゆいような、居心地の悪くない感覚があった。
変わり始めてるんだろうな。
おれも、夏咲も。
「監督についてから初めて・・・」
「は、はい?」
「美味しいと思った。なっちゃんのご飯」
「え、え? い、今まで・・・うまく作れてなかったですか・・・」
「料理の腕じゃなくて、見えない調味料の一つが入ってなかったんだ」
「見えない?」
空腹よりも、最高の調味料があった。
夏咲とこうして穏やかに食事してるから美味しいんだ。
「・・・・・・っ!」
じっと夏咲を見ていたら、顔を背けられてしまった。
けれど、またこちらの様子をうかがう夏咲。
上目遣いの瞳が、おれの心をくすぐらせた。
・・・
昼下がりを、室内で過ごす。
夏咲はぼーっと部屋の隅に座っているだけ。
意味もなく壁を見つめている。
特にすることもないおれは、SF小説を読んで時間を潰していた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
ふと、視線を感じた。
そっとおれを観察する夏咲。
壁を見ていたと思ったら、おれを見つめていたのだ。
「・・・・・・」
視線の意図が理解できない。
「どうしたの?」
「えっ!?」
「いや、おれを見てるから・・・なにかあったのかと」
「な、なな・・・なんでもないです・・・」
「そう?」
「そうですそうですっ!」
「そんなに慌てなくても」
「あ・・・慌てて、慌ててないです!」
ぶんぶんと首を左右に振る。
「ほんとに?」
「ですです!」
ぶんぶんと首を上下に振る。
「そ、そう・・・」
・・・本人が慌ててないって言うんだから、尊重してあげようか。
小説に目線を落とす。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
・・・またか。
今度はこっちもチラ見してやろう。
「ちらっ」
「びくっ!
お、お花に水を・・・」
あたふたと、ジョウロを取りに行った。
「・・・なにがしたいんだ?」
・・・
会話が弾むわけじゃないけど、のほほんとした空気の中ぼーっとしていた。
「待てよ・・・そういえば、今日は平日のはず」
おれは怪我で動けないから仕方ないとして、夏咲は?
「なっちゃん、今日学園だよね?」
「あ・・・はい」
「なんでここにいるの?」
「今日、学園は休みました」
「どうして?」
「森田さんが、怪我してるのに・・・わたしだけ学園になんて行けません」
「気にしなくていいのに」
「わ、わたしが気にします・・・」
「じゃあ、二人で勉強しようか?」
「あ、はい・・・ナマモノの勉強でも・・・
「え? な・・・ああ、生物ね」
「・・・はあ・・・」
急に、ため息。
「ど、どしたの?」
「ご、ごめんなさいっ!」
「えっ!?」
「わたしって、渦巻きを見るとぼーっとするし、ちくわを見るとひとさし指を穴に通したくなるし、マカロニを見ると、口にくわえて水をちゅーちゅー吸いたくなるんです・・・」
突然の、衝撃の告白だが・・・。
「あ、うん・・・そっか・・・大変だね」
「本当は、さっきの朝ごはんのちくわも、口にくわえてふーふーしたかったんですが・・・どうにも、森田さんの手前・・・。
ナマモノは、本当に、誘惑が多いです・・・。
気が重くなります」
ため息混じりにつぶやいた。
「す、すごい疲れました・・・寝てもいいですか?」
そして、勝手に疲れた。
おれが目を覚ますまで、寝てなかったのかもしれない。
そんな気がする。
「じゃ、おれもまた一眠りしようかな」
ごろんと寝転がる。
夏咲も布団を敷いて、もそもそと布団に入る。
その姿を見ていると、夏咲がこっちに身体を向けてきた。
「あ・・・」
目が合う。
「っ!」
逸らされる。
「・・・・・・ぁ」
また目が合った。
「んっ!」
逸らされる。
「じ、じっと見ないで下さいっ・・・」
それなら、おれを見ないか、背中を向ければいいのに。
「・・・・・・ぅ」
あ、また目が合った。
「あぅっ!」
もそっと布団を持ち上げ、口と鼻が隠れる。
おでこと、大きな瞳、それから、恥じらうような指先が、布団からはみ出ていた。
「うぅ・・・」
どうしたと言うのか。
目はおれの方に向けられたままだ。
「な・・・なんか・・・」
「ん?」
「その・・・。
や、やっぱりいいです・・・」
「なっちゃん。
言葉にしなきゃ伝わらないよ?」
「ぁ・・・。
その・・・えとぉ・・・」
「うん、なに?」
「は、恥ずかしいですね・・・」
「なにが?」
「こうやって・・・い、一緒に寝るのって・・・」
「・・・・・・」
「―――っ!」
「な、なんか可愛いな・・・」
思ってることを口にしてみた。
「か、かわい・・・っ!」
強く目をつむって、体をぷるぷるさせた。
その仕草が、子供らしいというか、夏咲らしいというか・・・。
「ああ、ごめん・・・思ってること口にしただけだから」
「や、やめてくださいっ!」
顔が真っ赤だ。
「そ、そんなに怒らないで」
おれは体を起こし、立ち上がる。
「ど、どうしたんですか?」
「なんか、おれがいると寝られないみたいだから、外でケムリ吸ってくる」
「べ、別に気にしてません・・・」
「いいよ、おれがいると邪魔でしょ?」
ジュラルミンケースを持つ。
「か、体・・・大丈夫なんですか?」
「遠くに行くわけじゃないよ。寮からは出ない」
「む、無理しちゃ、だめですよ・・・」
「無理じゃないけど?」
「でも、でもダメなんですっ」
「ちょっと外に出るだけだよ?」
「・・・そう、ですけど・・・。
あ、安静にしてたほうがいい、と・・・思う、だけです・・・」
「・・・ま、なっちゃんがそうまで言うなら」
もう一度布団に入りなおして、夏咲を見つめる。
「っ・・・」
「寝るまで、なっちゃん見ててもいい?」
「だ、ダメです!」
さすがに、ぷいっと体を捻られた。
でも、気持ちよくは眠れそうだな。
「おやすみ、なっちゃん」
「お、おやすみなさい・・・えっと、起きたら、またご飯食べましょうね・・・」
ほどなくして、夏咲は眠った。
夏咲が、自分の意志で学園を休んだというのは、ちょっとした変化かもしれない。
・・・
台所からは、味噌汁の匂いが漂ってきた。
夏咲が夕飯を作っている。
「新しいことを発見したなぁ」
「なんですか?」
すぐに声だけが返ってくる。
「おれたち、今日一度も外に出てないと思って」
「そう言えばそうですね」
「引きこもりの気持ちが分かったかもしれない。
癖になりそうだ」
「それは、あるかもしれませんね」
「なっちゃんは、サボりの気持ちとかわかったんじゃない?」
「い、いじめないでください!」
振り返った夏咲は顔を真っ赤にしていた。
「ひ、ひどい・・・」
「ごめんごめん、なっちゃんの反応が面白くって、ついね」
夏咲が、反応してくれているのがうれしい。
「あ、はは・・・ぁ・・・」
怒りながらも、苦笑いしていた夏咲の声が、沈んでいく。
「なっちゃん?」
「・・・・・・」
「言い過ぎたかな・・・」
「いえ・・・わたし、思ったんです」
トントンと、包丁の音がリズムよく聞こえる。
「森田さんは、正直、まだ苦手です」
「ぎゃふんっ!」
「で、でも・・・森田さんが皆さんに好かれる理由は、わかりました」
まだ・・・ってことは、少しは意識が変わり始めたかな。
「わたしみたいに、いじめられることもないし。誰にでも優しいし。
最後には誰とでも仲良くなってしまう人なんだろうなって・・・思いました」
そんなわけねえだろ・・・。
「なっちゃんは、つらいの?」
「・・・つらくないですよ。当然の報いだと思ってますから・・・。
わたしはただ・・・森田さんがすごい人なんだなって、感じただけです」
つらいんだね。
「なっちゃん、実はね。
おれもいじめられていた経験があるんだ」
「も、森田さんがですか!? いじめてたんじゃなくて?」
「おいおい、おれはいじめなんてしないぞ」
「あ、す、すいません・・・つい」
ついって・・・。
「信じられないですね、森田さんがいじめられてたなんて・・・」
「昔のおれは、ひどく臆病で弱虫のぺーぺーだったから」
「・・・わたしと、同じですね」
「いじめられるのが怖くて、家に引きこもった時もあったよ」
「・・・・・・。
どうやって・・・」
「ん?」
「どうやって、いじめられなくなったんですか?」
「孤独から助けてくれた友達がいたんだ・・・。
どうしようもなくクズだったおれを、助けてくれた友達がいたんだ。
家に引きこもったおれを、いつまでも待っててくれた友達が・・・」
おれは、無言で夏咲を見つめた。
「・・・っ」
夏咲は、視線をまな板の上に落とす。
「そ、そうですか・・・」
包丁のリズムがずれた。
・・・
毎夜のことながら、テーブルに並べらた夕食はおれの分だけだった。
「今日も一緒に食べないの?」
「は、はい。森田さん一人で食べてください」
「一人で食べるの、味気ないんだよね。
朝なんか、すごく美味しかったのに」
「ごめんなさい・・・ダイエット、してるので・・・」
ねばってもダメかな。
「じゃ、いただきます」
一人で食べ始める。
「・・・もぐ」
「・・・・・・」
「もぐもぐ・・・」
「・・・・・・」
やっぱり視線が気になるな。
美味しい美味しくないじゃなくて、気になって味がわからない。
「あのさ・・・」
「は、はいっ?」
「いや、さすがにジロジロ見られてると食べにくくてさ」
「み、みみ、見てないですよ?」
「・・・・・・」
ちょっとだけ真面目な顔をしてみる。
「・・・・・・。
ご、ごめんなさい・・・朝から・・・見てました」
素直でよろしい。
「おれは怒ってるんじゃなくてさ、どうして見てるのかなって思っただけ」
「それは・・・」
「言いにくいこと?」
「えっと・・・」
指先をもじもじとした後、小声で言った。
「退屈・・・なので・・・」
「・・・おれで遊んでるわけね」
そりゃ言いにくい。
「じゃあどんどんおれで遊んでよ。かまってくれると安心できるから」
「わ、わかりました・・・」
「まあ、見られるのもありか」
視線を感じたまま、おれは食事を続けた。
・・・
電気を消して、おれたちは布団の中に入った。
今日はちゃんと、布団の中で寝てくれたようだ。
「そろそろ寝ようか」
「そう、ですね」
「今日は一日、眠りデーだね」
「・・・ですね」
あはは、と控えめに笑う。
「よし、寝よう寝よう」
まぶたを閉じる。
「あ、あの・・・」
「ん?」
「も、森田さん・・・」
「なに?」
「これ・・・」
スカートの内ポケット。
そこから出てきたのは、一枚の紙。
外からの月明かりに、ぼんやりと浮かび上がる。
家族の写真だった。
「森田さんの・・・ですよね・・・」
「・・・これ、どこで?」
「落ちてたのを、拾いました・・・」
夏咲の表情は、月明かりでうかがい知れない。
「どう思った?」
「どうって・・・別に・・・」
「別に?」
「別には、別に、なのです・・・」
「・・・おかしなしゃべりかただね・・・」
「なんとも、思ってないですよ?」
「そう・・・拾ってくれて、ありがとうね・・・」
震える夏咲の手から、写真を受け取る。
「早く寝よう」
「・・・はい」
・・・寝よう。
・・・
おれたちは、いつもより遅くに部屋を出た。
夏咲があれこれとおれを心配するから、準備に手間取ったのだ。
「動いても・・・大丈夫ですか?」
「一晩じっくり休んだからね、平気だよ」
岩にこすられたのか、右腕の裏がひりひりと痛むが、それ以外はほとんど痛みもなく身体が動く。
「無理は、しないで下さいね・・・」
「なっちゃんが心配してくれるなら、無理してもいいかなぁっと」
「森田さん・・・」
「冗談だよ。おれだって限界はわきまえてるつもりだから」
「・・・はい、そうしてください」
「さあさあ、遅刻しないように学園に行こう」
「はい」
おれたちは二人で歩き出す。
・・・ん?
二人で?
真横に目線を送ると、かたわらを歩く夏咲。
いつものように、おれの半歩後ろの位置を保つ、距離の開いた登校とは違う。
「なっちゃ・・・」
「は、はい?」
「い、いや・・・なんでも、ないよ」
「そうですか・・・」
きっと、おれの体調を心配して隣についてくれてるんだろう。
「・・・ありがとう」
夏咲に聞こえないほどの声で、小さく呟いた。
・・・
「今日もいい天気・・・」
煌々と照りつける太陽を見上げて、つぶやいた。
「暑い・・・まだまだ暑いなぁ・・・」
「そ・・・そうですか?」
「そうだよ」
「わ、わたしはそうでもないんですが・・・」
「なっちゃんだけだと思うぞ」
「そんなこと、な、ないと思います・・・」
「誰だって暑いっていうさ。あきらめてくれ。なっちゃんの感じ方が変なんだ」
秋はまだまだ先みたいだ。
一分突っ立っていれば、汗をかき始めるぞ。
「たぶん、ズボンを履いてるからじゃないかと」
まだあきらめてなかった。
「それはあるかもしれないけど・・・」
「わ、わたしみたいに、スカートにしたらいいと思いますよ」
「・・・・・・。
本気?」
「え、なにがですか?」
「おれがスカート履いたら、危険でしょ?」
「危険ですか?」
「危ないでしょ?」
「別に・・・」
「変態でしょ?」
「どこがですか?」
「いや、常識でさぁ・・・」
「・・・ああ」
ようやく理解してくれたようだ。
「森田さん、よく動き回りますもんね。
下着が見えたら、困りますよね・・・」
あはは、と照れ笑い。
「そういうことじゃなくてさ・・・」
論点がずれちゃってるよ。
「ふふ・・・わかってますよっ。いまのは冗談です」
からかわれたようだ。
・・・
学園に近づいて、ふと思う。
男女二人組みの学生が、たくさんいるように見えるのは気のせいか。
「立ち止まって、どうしたんですか?」
「ん・・・いや・・・。
なんか、カップルが多いなと」
「かっぷる・・・ですか・・・」
おれのように周りを見る。
「・・・なんか、皆さん手をつないでますね」
手を取り合って校内へ入っていく。
そう言えば、学園が始まってから妙にカップルが多かった気が・・・。
夏休み明けっていうのは、お盛んな時期なのかも知れないな。
そして、秋になったら別れる、と。
隣の夏咲を見る。
「・・・・・・」
別段変わった様子もなく、ぼーっと門の先を見ていた。
「ねえ、なっちゃん・・・。カップルに興味とかあるの?」
「ないです・・・」
即答だった。
そして、少し不機嫌そうな顔をして前を見据える。
「あ、なんか、ごめん・・・」
「いえ・・・わたしは、恋愛をしてはいけないのですから」
「・・・・・・」
「いいんです・・・」
おれたちは、校門をくぐった。
・・・
昼休みになるや、磯野が間髪入れずにやってきた。
「ふふ、聞いたよ森田くん」
「なにを」
「崖から落ちたんだって?」
「・・・もう、クラス中が知っているのかな?」
「でも・・・無事だったんだね」
「まあ、な・・・」
磯野の温かな視線を受けて、悪い気はしなかった。
「死ねばよかったのに・・・」
・・・やっぱりか。
「おう、賢一、おうおうおうっ!」
さちがおっとせいみたいに、首とあごをくいっくいっと突き出していた。
「い、生きてたんだね・・・心配したんだよぉ・・・!」
「賢一、もう動いてもいいわけ?」
二人とも、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いやあ、死ぬかと思ったけど、まだ生きてる」
「賢一ってさ、いっつも平気な顔してるから・・・騙されるんだよねー」
「私も同じ意見かな。賢一って肝心なことを黙ってる性格っぽいし」
・・・
「そんな森田くんだけど、さちさんと委員長には気に留めておいて欲しいことがある」
「なに? くだらないことだったら怒るから」
「ふふ、大丈夫だよ。これでも作家だからね。
こんな話があるんだ。
あるとき階段から転落事故を起こした人がいてね。
かなりの高さがあったんだけど、幸いかすり傷程度ですんだんだ。
ところが、事実とは酷なものさ。
その人は無事だったんじゃなく、気づかなかっただけ。
脳を酷く損傷したことに気づかないまま放置していて、あるとき、ぽっくりあの世に逝った。
早めに精密検査をしていれば、助かったかもしれないのにね・・・」
「賢一、病院行こう病院!」
「こ、こら! 腕を引っ張るなっ」
「もしものことがあったらどうする気!?」
さちも灯花も磯野の話を真に受けたらしい。
「とにかく心配いらないっての!」
両脇からからんできた腕を振り解く。
「まあ、夏咲ちゃんを命懸けで助けた部分は評価してあげるけどね」
「日向さんを、かばったんだって?」
「すごいじゃん、超かっこいいじゃん!」
「いや、違う・・・おれが、なっちゃんに無理に近づこうとしたんだよ」
「うげっ!」
「なにそれ、どういう状況なの!?」
「・・・っ!?」
急に騒ぎ出した。
「ついに、襲い掛かってしまったんだろう!?」
「マジで!? 寝込み!?」
「・・・へ、変態・・・!」
「ちょ・・・待て・・・!」
「目の前で夏咲が柔らかそうな胸を上下させていた。
寝息を立てている。
俺は喉を鳴らした。
触れてみたい。
同じ部屋で、数日過ごした結果、邪な葛藤は最高潮に達していたのだ」
「なにを朗読してるんだよ!」
「悪魔がささやいたんでしょ?
やっちゃえ、やっちゃえって!」
「でもそこに、天使がささやいたんでしょう?
やっちゃえ、やっちゃえって!」
・・・おれには、良心がないのか?
「だから、違うよバカども、ちょっと聞けよ!」
と言いつつも、みんなわかっているようだった。
おれに、夏咲を襲うような度胸なんてないってことを。
それにしても、こいつら本気でおれを心配してくれてるんだな。
こっちが面映ゆくなるような感情が、ひしひしと伝わってくる。
ふと、おれは机に座って縮こまる夏咲の背中を見つめた。
夏咲は、おれたちの輪に入ってこない。
昔は、みんなの輪の中心にいたというのに・・・。
声をかけようと近づいたときだった。
「森田くん・・・!」
「あ、お母さん・・・」
「なんだか久しぶりですね。元気ですか?」
「ぼちぼちね・・・」
ふっと笑う京子さんは、前より肩の力が抜けているようだった。
「それより、法月先生が呼んでいるわよ?」
「・・・あらら」
「け、賢一・・・気をつけてね・・・」
・・・急な呼び出しか。
「じゃあ、行ってきます。京子さん、どうもありがとう・・・」
「フン、犬がよぉ・・・飼い主に尻尾ふりにいくのかよ・・・」
「・・・・・・」
磯野の文句は、ギャグだとわかっていても、なぜか、おれの心に傷をつける。
・・・犬、か。
気持ちを切り替えて、教室を出た。
・・・
入室した瞬間、ぞくりと、背筋を悪寒が走った。
穏やかな日常が、急変するような予感がある。
部屋に、法月ともう一人、厳粛な制服に身を包んだ男がいた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
そいつは、おれを値踏みするような眼差しを当てつけると、何も言わずに部屋を出て行った。
「いまの男は、お前の命の恩人だぞ?」
・・・崖からおちたおれを、担いでくれたわけか。
「それは・・・お礼を言い忘れましたね・・・」
法月はおれの身体に、上から下まで視線を這わせた。
「かすり傷で済んだか・・・お前は実に運がいいな」
「私も、そう思います」
「だが、私に拾われたのは、不幸だったな?」
「・・・どういうご用件ですか?」
「無論、日向夏咲の監督についてだ」
おれは即答する。
「あまり、進展は見られません。ただ・・・」
少し、おれに対して心を開いてくれているような気がする。
「歯切れが悪い」
「・・・っ!」
「遊んでいるのか、貴様・・・?」
「い、いいえ・・・」
くそ・・・やはり、こいつはおれの上司なのだ。
にらまれると、萎縮してしまう。
「なつかしい故郷に帰り、昔の仲間と触れ合い、友情や愛情を育み、いつの間にか、自分が特別高等人を目指しているということを忘れているのではないか?」
「・・・いいえ」
国家の犬が、飼い主の前で狼狽している。
「よもや、何かよからぬことでもたくらんでいるのではあるまいな?」
「えっ・・・?」
違和感だった。
なにか、得体の知れない種を植え付けられたような感覚が胸奥に残る。
「まあよい。今日は日向夏咲についての追加調書が届いたので、森田に内容を話しておくとする」
「はい・・・ありがとうございます」
ありがとう、ございます・・・?
違和感が胸の奥でじんわりと滲むように広がっていく。
「森田が・・・いや、樋口健にとって・・・」
「・・・っ?」
「幼馴染の日向が、いつでも明るい笑顔を振りまいていた少女が、どうして他人を拒絶するようになったのか、興味があるだろう?」
そうして、法月は、夏咲が勾留されたときの状況を説明し始めた。
事細かに、まるで、法月自身が夏咲を追い詰めたかのように。
―――――
・・・
それは、四年前。
樋口健が森田賢一になって、特別高等人の試験に明け暮れていたころの出来事だった。
薄暗い取調室に、少女の声が響き渡る。
「なんていわれても、知らないものは知りません!」
尋問官は顔色一つ変えずに、同じ質問を繰り返す。
「お前が、誘惑したんだろう?」
「だから、違います!」
「びぃびぃわめくな!
お前が佐久間さんの一人息子をたぶらかし、多額の金品を受け取っていたのは事実だろう!」
「確かに佐久間くんは、わたしに時計やネックレスをくれましたけど、それはそっくりそのまま返しました!」
「佐久間さんは、そうは言っていない。ここに被害届けまであるぞ?」
「知らないものは知らないんです!」
「ガキのくせに、なかなか、強情だな・・・」
夏咲の瞳は、常に真っ直ぐで、大人たちも手を焼いてたという。
「そろそろ、時間ですよ? もうお家に帰してください!」
「家? お前の家族はあの樋口三郎に加担した重罪人だろう?
お前に帰る家などあるのか?」
「あります!
お友達が待ってくれています。さっちゃんや、磯野くん・・それに・・・。
・・・ケンちゃんも、帰ってきてくれているかも・・・」
「誰だ? ケンちゃんというのは? また男か?」
「あ、あなたたちには関係ないです!」
尋問官たちは、ケンという男が夏咲の弱点であることを察したらしい。
「ケンというのは、もしかして、樋口三郎の一人息子か?」
「な、なんでそれを知ってるんですか?」
夏咲の周辺は全て調べがついているのだった。
「そいつはな、崖から転落して死んだそうだ」
「・・・そ、そんなの、嘘に決まってます!」
「しかし、もっと話が聞きたくなっただろう?」
・・・
あの手この手で、取調べの時間は延長されていったという。
当初二日の予定だった拘留は、二週間も続いた。
朝から晩まで、夏咲は、固い椅子に座り、口達者で恐ろしい顔をした男たちと向き合うことを強制させられていた。
「お前がやったと証言する人がいるんだぞ?」
「だ、誰ですかその人は?」
「確かな人だ」
「その人に会わせてください・・・会って、話がしたいです」
「規則でできないことになっている」
「・・・うぅ」
「早く認めてしまえ。
色目を使っていたと、みだりに手をつないで、相手の心を惑わせたのだと」
「い、いや、いやです・・・わたし、そんなつもりじゃない・・・手をつなぐのは、暖かくて・・・それが、お友達なら、普通のことだから・・・」
「貴様ぁ・・・」
正直なところ、尋問官も焦っていたのだそうだ。
選りすぐりのプロを集めて、自白を取ろうとしているのに、夏咲は異常なまでの意志の強さを見せる。
このままでは、公的に被疑者を勾留できる期間が終わってしまう。
野蛮な手が伸びたのは、そんなときだった。
「てこずらせるんじゃねえよ、ガキが!」
被疑者に暴力を振るうなど、法律上は許されない。
けれど、灰色の密室においては、尋問官たちの黒い私法だけがルールとなる。
「ひぁっ、さ、さわらないでっ!」
これは、実に効果があったそうだ。
特に、リボンに触れると異常なまでの拒絶を示し、結果、少女の心を追い込むことができたという。
・・・お母さんからもらった大切なリボンであり、おれが軽い気持ちで褒めてあげたリボン。
「うぅ・・・ぐっ・・・さ、さわらないでぇ・・・お母さんの、ケンちゃんの・・・思い出が・・・」
夏咲は泣きながら、男たちの手を振り払ったのだという。
それが、逆に夏咲を追い詰めた。
「我々に手を上るとは・・・」
新たに、暴行、公務執行妨害の罪が問われ、夏咲の拘留機関は延長された。
・・・
三ヶ月。
もはや、裏で大きな力が動いていたとしか考えられない期間。
信じられないほどに長い時間が、夏咲を虜にした。
「うぅ・・・い、いつまで・・・」
「お前が素直になるまでだ」
「す、素直に・・・?」
「認めちまえよ!」
「や、やぁだっ・・・髪に触らないでぇ・・・。
こ、怖い・・・怖いよぉ、ケンちゃん・・・お母さん・・・!」
「そいつらは、もういないんだ! お前にはもう未来はないんだ!」
「あぅっ・・・ぐっ・・・怖い・・・もうやだ・・・助けて・・・」
夏咲の瞳は、すでに力を失っていたという。
「会いたいよぉ・・・ケンちゃん、お母さん・・・」
もはや、うわごとのように、おれと母親の名前を呼び続けていたのだという。
「さあ、言え。わたしがやったのだと!」
「うぅ・・・あぅ・・・っ」
「ほら! また大切なリボンを汚されたいか!?」
「ひ、ひぃっ!」
夏咲は全身をひきつらせる。
「も、もうやめて! 近寄らないで! い、いやぁああああっ!
触らないで・・・怖い・・・触らないで・・・!」
悲痛な叫びは、やがて罪を認めるうような声に変わるのだった。
――――
・・・
「もういい・・・やめてくれ・・・」
「時間をかけてゆっくりと痛みつければ、人の心など簡単にしぼんでいくのだ」
「・・・勉強に、なりましたよ・・・」
心が、からっぽになっていた。
不当な尋問への怒りも、夏咲に対する同情もすっぽりと抜けて、ただただ、やるせない気持ちになる。
「え、冤罪・・・。
明らかな、冤罪じゃないですか・・・どうして?」
「政情が不安定だった当時では、よくある話だ」
「す、すぐにでも・・・控訴を・・・裁判のやり直しを・・・」
「証拠がない」
「馬鹿な・・・いま、あなたがつらつらと述べたことは?」
「非公式の情報で、裁判での証拠能力はない」
めまいがする。
「そんな無法が、許されるんですか?」
そのとき、法月がこつりと床に杖をついた。
「許す、許さないではない。
ただ、現実、日向夏咲は義務を負っている。
それだけのことだ」
「・・・おかしい・・・」
ぼそりと、喉から言葉が漏れる。
「おかしすぎる・・・なにかが・・・」
内乱を起こした親父か、夏咲のそばにいてやれなかったおれか、夏咲を苦しめた大人たちか・・・。
頭の中が沸騰しきって、定まらない。
「さらに・・・」
「え?」
「義務を科せられ、寮暮らしを始めた日向は、それほど幸福ではない毎日を過ごしていたようだな」
「・・・なにか、あったんですか?」
「詳しくは不明だが、日向に親切にしていた寮の管理人が、行方不明になっている」
「・・・気に、留めておくとします」
気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸した。
「では、戻れ」
おれは、退室の挨拶をする気力もなくしていた。
・・・
いつの間にか、放課後になっていた。
平静を装う。
トイレで顔を洗って、何度も深呼吸を繰り返す。
そうして、ジュラルミンケースを取りに、教室に戻ってきた。
もう誰も残っていないだろう。
その方がありがたい。
下手をして、今の感情を表に出したくはない。
・・・
「やっと戻ってきたようだな、サボり魔」
「なんでここにいるんだ、磯野・・・それからさちと灯花も」
おれは慌てて、笑顔を作る。
「一度は帰ろうとしたんだけどね」
少しぶすっとしていた。
「灯花、機嫌悪いな。饅頭でも没収されたか?」
「ち、違うよ!」
「あははは、饅頭を没収されたのは本当だけどねっ!」
本当なのか。
「ば、ばれないかなって・・・」
「京子先生、すごい形相で取り上げてたよ」
・・・なんだか、気持ちが落ち着いてくるな。
おれは、みんなに救われている。
「それより、おまえらなんで残ってるんだよ」
「んー?」
近い。
「んんーっ?」
「な、なんだ・・・?」
「賢一、なんか変?」
・・・おいおい。
「あー、確かになんか変」
おいおいおい。
おれって、こんなに見抜かれやすいヤツだったのか?
「ずいぶんと機嫌が悪そうだね、森田くん」
・・・こいつはっ。
「え、なに、賢一機嫌悪いの?」
「なんか、トゲトゲしてる感じはするね」
「トゲはおまえだろ」
「なんでよ!」
「もう忘れたのか? 大音・トゲ・灯花じゃないか」
「な、なんでそんな前の話っ!!」
「なになに、どんな話!? アガりそうじゃん!」
「キミ達、森田くんのペースに呑まれてるぞ。話をはぐらかされてるじゃないか」
また磯野に引き戻される。
「そ、そうよ。どうして機嫌悪いの?」
「・・・なんかあったの?」
「おれのことはほっとけ」
「なんだい、呼び出しで嫌な話でもされたかい?」
「・・・・・・」
「あ、黙った」
「やっぱりねえ・・・」
「ほい、賢一!」
さちに投げつけられたジュラルミンケースを受け取る。
「おい、粗末に扱うなよ」
「ぶつぶつ文句言ってないで、行ってあげて」
「行く、だと?」
「待ってるよ、日向さん」
「なっちゃんが?」
「校門のあたりで、ぼーっとしてるよ?」
「・・・わかった・・・お前ら、なんか知らんがありがとう!」
「礼はいらん。京子さんをクレ」
・・・おれに言われてもな。
「そのことなんだけどさ・・・磯野って、本気で・・・」
三人は、まだ残って話を続けるようだった。
・・・
校門にもたれかかって、うつむいている少女がいた。
その表情は、いつでも憂いを含んでいる。
「なっちゃん・・・」
「あ、森田さん・・・」
「帰ったんじゃ?」
「あ、いえ・・・」
「もしかして、おれを待ってたの?」
知ってて、芝居をする。
「・・・は、はい」
「マジで? ホントに?
うわ、かなり嬉しいんだけど! 踊ってもいい!?」
「わ、わたしは・・・。
わたしは・・・森田さんに監督されてますから・・・。
だから、です・・・」
口調はいつものまま。
「でもさ、待っててくれたんだよね?」
「え・・・」
「今までは、監督中でも、抜け出したりしてたよね?」
「そ・・・それは、その・・・」
「帰ろう、なっちゃん」
「・・・はい。い、一緒に帰りましょう・・・」
・・・おれは、傷ついたなっちゃんに何をしてあげられるのだろう。
・・・
静かな下校だった。
「・・・・・・」
何かを考えるわけでもなく、夏咲は赤い空を見上げていた。
「なっちゃんて、景色見るの好きだよね」
「景色を見ていると、時間の流れが早いんです。
壁をみてぼーっとするよりも、時間が過ぎるたびに姿形を変える景色は、見ていて飽きませんから」
「・・・そっか」
「それくらいしか、することも、したいこともありませんし」
おれもつられるように空を見上げた。
「それだけじゃないです」
「え?」
「静かに壁を見ていると、わたしってここに存在してしまっているんだって思ってしまうときがあるんです。
ああ、わたしがここにいて、誰かに干渉をしてるんじゃないかって・・・」
「・・・・・・」
「けれど、景色・・・空は違います。
どこまでも広くて、どこまでも深い・・・そして、風の旋律があります。
わたしが、ちいさい存在なんだって、何度でも教えてくれます・・・。
道端の小さな石ころみたいに、気づかれることもないような存在なんだって」
夏咲は変わったんじゃない。
変えられたんだ。
跡形もなく、めちゃくちゃに。
もしも昔の夏咲のままだったなら、どうだっただろうか。
こんなふうに、無気力で生きていたか?
きっと夕陽を追いかけて、夢中で走っていたはずだ。
笑いあいながら、友達と手を取り合って。
「あ・・・」
夏咲が立ち止まる。
「どうしたの?」
「風です・・・」
そっと手を広げ、綺麗な瞳を閉じた。
ゆっくりと、胸が上下する。
・・・深呼吸か。
「風の、匂いがするんです」
「へぇ、どれどれ」
おれも同じようにしてみる。
目を閉じて、手を開いた。
隣にいる夏咲の匂いを風が運んできた。
「どうですか? 森田さん・・・」
「・・・懐かしい匂いがする」
「懐かしい・・・ですか・・・」
「ああ・・・おれの大好きな匂い・・・。
長い間・・・記憶でしか思い返せなかった・・・」
「・・・詩人みたいですね」
おれは目を開いた。
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
「な、なんですか、急に?」
おれは黙って空を見上げる。
・・・
「ごっはん、ごっはん!」
ちんちん、ちんちんっ。
茶碗を箸で叩いて、夕飯を要求。
「ぎょ、行儀が悪いと思うんです、やめておいたほうがいいと思います。
もうすぐ出来ますので、我慢して待ってください」
「怒られた・・・」
注意されたおれは、ごろごろと床を転がって、食事を待つ。
「おかしいなあ。いつもなら、もう夕飯が並んでる時間なのに」
さちほどじゃないにしても、時間を気にする夏咲。
夕飯が出てくる時間も、ほとんど誤差がなかったのに。
「も、森田さん・・・なんで回ってるんですか?」
「っとと、気にしないで」
頭がぐるんぐるんしだしたところで、夕飯が運ばれてきた。
「うわ、美味しそう!」
「そ、そうですかね・・・ならいいんですけど」
「ほら、こんなに美味しそうだし、なっちゃんも一緒に食べない?
そんな隅っこに座ってないでさ」
「あの、まだ座ってないですけど・・・」
「ほらほら、こっちに来て一緒に食べようよ」
「・・・そうですね。わたしも食べることにします」
「むぅ・・・なっちゃんも頑固だ」
「じゃあ、わたしの分も持ってきますね」
「絶対一緒に食べた方が美味しいよ・・・。
・・・ん?」
今、なんていった?
確か、一緒に食べるって言うようなニュアンスが聞こえたんだけど。
「お待たせです」
お盆に食器をのせ、戻ってきた夏咲。
それをテーブルに並べていく。
「え、なに・・・一緒に食べるの? ダイエットは?」
「・・・わ、わたし、邪魔ですか?」
「ま、まさか! うっわ、すげぇ嬉しい・・・」
思わず正座。
「あ、はは、よかった・・・」
お互い、正しい姿勢で向き合う。
「な、なんか・・・朝と違って、恥ずかしいですね・・・」
「そういうことは、思っても口に出さない方がいいんじゃないかな・・・」
「・・・そ、そうですね」
「冷める前に食べよう」
「はい」
初めて、夕飯を一緒に食べる。
「うん、今日の夕飯は格別に美味しいなぁ。
やっぱり、誰かと食べる食事はいいね」
「・・・ですね」
「おれが灯花の監督についてた時にさ、灯花の料理食べたんだ。
かなり美味しかったよ。恩赦祭のときよりも三段くらい昇級していた」
「大音さん、料理うまいですもんね」
「・・・今度みんなで食べようよ。批評を兼ねてさ」
「あ・・・」
「どう?」
「そう、ですね・・・。
そうできたら、いいと思います」
会話が弾んでいた。
おれは、夏咲のためにできることを探し続ける。
・・・
ケムリを吸いに寮の外に出ていたおれが戻ってみると、部屋の電気は消えていなかった。
「・・・・・・」
こくり。
「・・・・・・」
こくり。
「・・・っ!」
ほとんど閉じられていたまぶたを、懸命に開こうとする夏咲がいた。
「ど、どうしたのなっちゃん!? もう寝てると思ったのに・・・」
「ぁ・・・森田・・・さぁん・・・」
「これはまた、とろんとしてるな。寝たほうがいいんじゃない?」
「い、いぇ・・・森田さん・・・お話が、あるん、ですよね・・・?」
「・・・・・・」
「話したい、ことが・・・あるって・・・言ってたから・・・。
それ、聞こうと思って・・・起きて、待ってました・・・」
「なっちゃん・・・」
「は、はい・・・」
眠たい目をこじ開けて、おれを見る。
「じゃあ、言ってもいいかな」
「・・・はい。
言ってくださっていいです・・・」
おれは、少しだけ夏咲に近づく。
「明日・・・デートしよう!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ぇ・・・えぇ!?
こ・・・困ります・・・で、デートだなんて・・・」
「なんで? おれのこと嫌いだから?」
「す、好きとか嫌いとか、そういうことじゃないです。
わたしの義務、知ってて言ってるんですか?」
「いや、おれなっちゃんの高等人だから、越権行為が許されるし」
もちろん、嘘。
高等人でも、夏咲に理由なく触れれば罰せられる。
「で、でも・・・」
「いいでしょ?」
「あ、明日、平日で、休みじゃなくて・・・えっと、仏滅だし」
パニックになった。
「そうですそうです、学園があるじゃないですか!
だから、残念ですけど・・・」
「あ、デートとはいっても、普通のデートとは違うよ。
これは特別指導の一環だから。
被更生人であるなっちゃんには拒否できないよ」
「そ・・・そんな・・・」
「いやぁ、まさか起きて待っててくれるなんて。
朝どうやって切り出そうか迷ってたんだよね」
「断れない・・・んですよね・・・」
「うん」
「どうしても、ですか・・・?」
「うん」
「・・・わ、わかり・・・ました・・・。
指導なら・・・仕方、ありません・・・」
しぶしぶ承諾する夏咲。
「さ、気分も良くなったし、寝よう」
「・・・わたしは・・・逆に眠れなくなりそうです・・・」
がっくりと肩を落とし、布団に入る。
「なっちゃん・・・また明日・・・」
なんとか明日の約束が出来た。
満足したおれは、すぐに眠りに落ちていった。
・・・
「本日も快晴なり」
窓の外からは、強い陽射しが入り込んできている。
今日は絶好のデート日和。
「おはよう、なっちゃん!」
洗顔を済ませて戻ってきた夏咲に声をかける。
「お、おはようございます」
「ん、引きつった笑顔だけど・・・どうしたの?」
「いえ・・・朝からすごく元気だなぁと・・・」
「そりゃそうだよ。なんたって記念すべき第一回だからね」
「第一回? なにがですか?」
「もちろん、なっちゃんとのデート」
「でーと・・・ですか・・・。
で、でー・・・ぁ・・・」
どうやら、忘れていたらしい。
少しショック。
「本当に・・・行くんですか?」
「当然」
「学園、休むんですか?」
「そう」
「ちゃ・・・ちゃんと・・・学園に報告したほうがいいです・・・よね」
「ちゃんと報告・・・なにを?」
「あ、遊びに行くと・・・です」
「遊びに行きたいから、休ませてくれって?」
「は、はい・・・」
「京子さんにぶっ殺されるよ?」
「あ、はぁ・・・そうですね・・・」
「どうやら、おれとのデート、相当嫌らしいぜ」
「そ、そいいうわけでは・・・」
「じゃあ問題ないね?」
「あ・・・えっと・・・」
「学園の方にはおれから説明しておくから」
ね? ね? と念押し。
「わ、わかりました・・・。
そ、それじゃあ、朝食の準備をしますね・・・」
「だね。まずは朝食で外に出る元気をつけないと・・・あ」
そうだ。
いいこと思いついた。
「なっちゃん」
「は、はい?」
「お弁当作ってよ」
「・・・え、お弁当?」
「そう。初デートといえば、女の子の手作り弁当が定番だし」
「・・・・・・」
「え、えっと・・・」
「ん?」
「ご、ごめんなさい・・・」
「・・・・・・そう言わずに作ってよ。朝食作るようなもんでしょ?」
「でも・・・そういう、気分には・・・」
「どうしても?」
「はい・・・ごめんなさい」
「じゃあ、仕方ないか」
「ほっ・・・」
「こんなこと言いたくなかったんだけどね」
おれは人差し指を夏咲の鼻先に伸ばした。
「えっ?」
「もう一つ特別指導だ」
「も、もうひとつ・・・もしかして・・・」
「高等人の権限において、日向夏咲にお弁当を作ることを強制する」
「そ・・・そんな・・・」
「なっちゃんはお弁当を作るしかないよ?」
「・・・も、森田さんて・・・ひどい人だったんですね・・・」
「なんとでも言えばいい、おれはなっちゃんのお弁当が食べたい!」
「・・・これも指導、なんですよね・・・」
「その通り」
「・・・仕方ない、ですよね・・・わかりました、作ります・・・」
どうしようもないと分かるや、納得する夏咲。
物分りがいいというか、流されるというか。
肩を落として、台所へ消えていく。
・・・職権濫用だな。
「ぁ・・・ぅ・・・」
きょろきょろとせわしなく目を移ろわせる。
「どうしたの?」
「い、いえ・・・その・・・学園をサボってるのに、出かけようとしているので・・・ドキドキします・・・」
「・・・あ、京子先生だ!」
「ぇえっ!?」
とっさに、手にしていたバスケットを隠す。
「わ、わたし、や、やましいことなんて・・・その、えっと、だから・・・。
これは、違うんです・・・今日は天気もよくて、雨は降らないし・・・」
目をつむって、必死に謝る。
「ご、ごめんなさいっ!」
・・・・・・。
・・・。
「・・・え、えっと・・・先生?」
恐る恐る目を開く。
当然、廊下には誰もいない。
「あ、あの・・・大音先生は・・・」
「・・・いないね」
「・・・・・・。
・・・うそ、だったんですか?」
「ほらほら、早くしないと、遅刻の学生に見られるかもしれないよ!」
「え、えっ!?」
急かすように歩き出す。
「ま、待ってくださいっ!」
慌ててついて来る。
・・・
昨晩に、雨でも降ったのか、空に小さな虹が描き出されていた。
「律儀だね、なっちゃんも」
「・・・どうしてですか?」
「だって、サボってるのを誰かに見られるのは嫌なんだよね?」
「は、はい・・・」
「なのに・・・」
周りを見渡す。
おれたちを覆い隠す遮蔽物など一つもない。
「こんな堂々と花に水与えてるんだもんなぁ」
「り、理由がどうあれ、水をあげないわけにはいきません・・・枯れてしまいますから」
「まあ、そうだけどね」
「そんなの困ります。わたしの時間つぶしが、できなくなります・・・。
あと・・・お花が枯れるのは・・・かわいそうですし」
「まあ、気がかりとか残してたら楽しめないもんねー」
「はい、これで心置きなく遊びに出かけられます」
「遊び?」
「あ、いや・・・ま、間違いました。特別指導でした・・・」
「間違ってないよ」
「でも・・・」
「楽しもうね」
「え・・・」
「確かに、指導なんて言っちゃったけど、おれは純粋になっちゃんと楽しみたいし。
こればっかりは、なっちゃんがどう思ってるかによるけど」
「・・・・・・」
「おれと、楽しもう」
「・・・は、はぃ」
消え入りそうな返事をして、おれのあとについてきた。
・・・
・・・・・・
平日の商店街は、人通りが少ない。
「なんだか、開放感あるよね?」
「・・・そ、そうですね・・・」
「あれ? そんなに下向いて、どうしたの?」
「わ、わたしは森田さんみたいに、勇気・・・持ってないですから・・・。
みつ、みつかったら、どうしようって・・・そればかり、頭の中でぐるぐるしてしまって・・・」
「誰にも見つからないって。みんな学園なんだし」
「け、けれど、商店街の人に、み、密告されるかも・・・」
「・・・密告って・・・気にしすぎだよ。
なにかあっても、おれが説明するから大丈夫だって」
微笑んで見る。
「は、はい・・・」
「ほら、ちゃんと背筋伸ばして」
「は、はい・・・んっ」
にょきっと首だけが伸びた。
「・・・え、もしかして、それが伸ばしたつもり?」
「は、はあ・・・そうですけど・・・」
・・・なんというか、年老いたキリンみたいだった。
とりあえず、この場はよしとしよう。
「どこか行きたいところとか、ある?」
・・・というのも、おれだって、デートなんて実は恥ずかしいのだ。
何をどうすればいいのか、いまいち勝手がわからない。
「パチンコでもする?」
「え、えぇ!? そ、そういうのは・・・」
「デートっぽくない?」
「や、ヤクザ屋さんは、怖いですっ・・・」
「へ? や、ヤクザ屋!?」
「ギャンブルは、ヤクザな人がやるものですから」
「じゃあ、さちは?」
「さっちゃんは・・・ヤクザな人じゃないです・・・」
「ギャンブルやってるじゃない?」
「で、でも、違うんです。さっちゃんは、いいんです・・・」
「だから、なんで?」
「さっちゃんは、さっちゃんだからです・・・」
「なんか、頑固だね・・・」
「も、森田さんは、森田さんです」
「うん?」
「でも、わたしは、わたしじゃないんです・・・」
また物憂げな表情になる。
少しの間、静かに町並みを歩くことにした。
・・・やがて、呼吸も整ってきたところで、声をかけた。
「こうやって人通りが少ないと、はっきり実感するんだけどね」
「なにをですか?」
「うん、ここも随分変わったなぁって」
「変わった・・・ですか・・・はあはあ・・・」
しきりにうなずいている。
「あの、よくわからないんですが」
・・・わからねえのかよ。
「ほら、この辺りって、昔一度瓦礫の山になったし」
「・・・・・・。
・・・どういうことですか?」
「なっちゃんも経験したでしょ、内乱事件」
「・・・・・・」
「これくらい、誰だって知ってることだと思うけど?」
「そ・・・そうですね・・・嫌なことはすぐ忘れるんで・・・」
「うわ、このポスト無事だったんだなぁ」
昔から住んでないと、言えないセリフを言ってみた。
戦場で生き残ったポスト。
「・・・ポ、ス、ト?」
「そう、ポスト」
「・・・・・・ポ、ト、ス?」
「・・・なにをごまかそうとしてるの?」
「な、なんのことですか?」
「このポスト、知ってるよね?」
「・・・え? なにがですか?」
あきらめて、他のネタを探すことにした。
「あー。ここの駄菓子屋は、なくなったんだったか」
今は古着屋になってしまっている。
「・・・・・・」
「よく、友達と一緒に買いに来たな。馴染みの店だったのに」
ここも、夏咲との思い出の場所。
一緒に、少ない小遣いを持ってやって来ては、クジを引いたものだ。
「なっちゃんはどう? よく買い物に来た?」
「・・・へ、部屋の鍵・・・」
「ん?」
「部屋の鍵、閉め忘れた、気がします・・・」
「大丈夫、おれが確かめたから」
「が、ガスの」
「ガスの元栓も締めたよ?」
「か、カーテン!」
「カーテンはしめてないけど?」
「だ、ダメですダメです! 邪神が来ますよ! 魔界から! すっごいのが!」
「・・・ど、どんなヤツ?」
「いや、本当に、勘弁してください・・・」
「だ、だいじょうぶだよ、おれがやっつけてやる」
「・・・うぅ」
夏咲はどうしても、過去を思い出したくないらしい。
・・・
さっくさっくと、山道を歩く。
それほど急な斜面は避けるようにしてるから、夏咲にも負担は少ないだろう。
「やっぱり、デートは山にピクニックだよね。
こうやって野山を散歩してると、走り出したくなるよね?」
「元気があっていいですねぇ・・・わたしはゆっくり登りたい派です」
と言いつつ、足取りはしっかりしていて、送れずにおれについてくる。
「なんか、野山を歩くのに慣れてる感じだね」
「そんなことないですよ・・・普通です」
「いやいや熟練のそれをみたよ」
「ま、まあ・・・田舎っ子ですから」
「なるほど、田舎っ子か」
それは納得できる部分があるな。
・・・
開けた場所に出たおれたちは、適当な場所を選んでビニールシートを広げた。
二人で、バスケットを囲むように座る。
「期待して、いいのかな?」
バスケットに手をかける。
「と、当日に言われたので・・・が、頑張ってはみましたけど・・・」
綺麗に整えられたサンドウィッチ。
具材も、トマトからツナまで、選り取りみどりだった。
「さ、さすがと言わずには、いられないな」
「そ・・・そうですか? なんか、自信ないので」
「いやいや、これは素人にはできないよ。よく作れたもんだ」
早速食べてみることに。
「じゃ、トマトから・・・」
口の中へ。
「・・・お、おいしい」
オーバーリアクションを取り忘れるくらいにおいしい。
サンドウィッチなんて、誰が作っても似たようなものだと思ってたのに。
それがお世辞でないことを悟ったのか、夏咲は恥ずかしそうに顔を落とした。
「この辺りだけどさ」
「はい?」
「なっちゃんはこの辺に来たことはない? 子供の頃とか」
「・・・・・・」
またですか、って顔だ。
「そ・・・そうですね、来ましたよ・・・」
お、脈あり。
「なになに、昔から山登りが好きだったの?」
「いえ・・・昔、この近くに幼馴染が住んでたので・・・」
「こんな辺ぴな場所に?」
「辺ぴですか? わたしは・・・この辺り全部、好きですよ・・・。
毎日が、楽しかったですから・・・。
自分に正直になれてた頃、ですから・・・」
「その、幼馴染がいたから?」
一瞬戸惑った顔を見せた。
「・・・ですです」
けれど頷いた。
少し悲しそうに。
「突然なんだけどさ」
「はい」
「その幼馴染がおれだ、って言ったら、どう思う?」
「えっ・・・」
指先から力が抜けていった。
サンドウィッチが、夏咲の膝上に落ちた。
拾い上げる様子は無い。
「は、はは・・・びっくりしました・・・」
ぎこちない笑顔。
「森田さん、すぐに、そうやってわたしの過去を詮索するんですね?」
いけないいけないと、頭を振る。
「全然、似てませんし。ケンちゃんに」
「そう・・・」
「・・・ケンちゃんは帰ってきませんよ。
きっと・・・どこかで幸せに暮らしてるんです」
はは、と乾いた笑い声を漏らして、サンドウィッチを拾い上げた。
夏咲はちょっとずつサンドウィッチを口に入れながら、上下左右に広がる大自然を見渡していた。
わたしは全然平気ですと・・・そう言い聞かせているように見えた。
・・・
日が暮れる前に、川辺に立ち寄った。
流れる川は、涼しそうにせせらいでいる。
「時間が経つの、早いなぁ」
「ですね・・・」
おれたちは川の流れを目で追う。
「学園なんかだと嫌になるくらい時間の経過は遅いのに、楽しい時はあっという間に過ぎていく。
恩赦祭なんかも、一瞬に感じられた。
中止されるまでの時間は、本当に僅かで」
「でも・・・楽しかったですね・・・」
「そうだね。それは間違いない」
夕焼けは、人を感傷に浸らせる。
やがて訪れる、一日の終わりに備えるように。
「さち、灯花、なっちゃん。三人の義務を持った女の子がいた」
「・・・・・・」
「それぞれが義務を負わされながらも、今を生きていた。
おれは、その三人に深く関わることで、色々なことを教えて、同時に学んだ。
いままでの試験や訓練だけじゃ見えない、人の強さを見た」
そこで、夏咲を見つめた。
「さちと灯花の義務は解消された」
「・・・・・・」
「そうして、最後に、なっちゃんの義務が解消されるんだ」
「わ、わたしは・・・」
唇を噛み締める夏咲。
「・・・わたしは・・・」
おれは石ころを拾い上げ、川面に向けて投げつける。
「頑張って、義務を解消しようよ。またみんなで、遊ぶために」
夏咲は、自分の肩を両腕で抱きしめる。
「向日葵畑、行こう」
「・・・え?」
「向日葵畑が、見たいんだ」
「で、でも・・・そろそろ暗くなりますよ?」
「行こうよ、話したいことがあるんだ」
「・・・・・・」
おれは夏咲の返事を待たずに歩き出す。
立ち尽くしていた夏咲だが、やがておれの後ろを追いかけてきた。
・・・
夜の向日葵畑は少し肌寒い。
「寒くない?」
「大丈夫です・・・」
言いながら、夏の盛りを過ぎた向日葵畑を、すっと見渡す。
きっと、景色を見に来たと思ってるんだろう。
おれも一度だけ周りを見渡した。
「なっちゃん」
声をかける。
「はい?」
声だけが返る。
「こっちを、向いてほしい」
「え・・・?」
「おれの、目を見てほしい」
「あ、あの・・・」
「なっちゃん・・・」
こっちは向いた。
でも、視線を合わせてはくれなかった。
けれど、黄色いリボンはよく似合っている。
昔と比べて、多少古くなって、ところどころほころんでいるが、いつも丁寧に扱われているのが見てわかる。
「なっちゃん・・・」
あの日のおれは、逆に視線を合わせられなかったね。
恥ずかしかったんだ。
でも、今は違うよ・・・。
腹の底から、心の底から、声を吐き出した。
「リボン、可愛いね」
瞬間、繊細な少女の身体の先が弾けた。
「・・・な・・・え・・・っ?」
「よく似合ってるよ。お母さんからもらったんだよね?」
「ど、どうして・・・? どうして、そのこと・・・っ」
どもりがちな声は、まるで昔のおれをみているようだ。
「も、森田さん・・・え・・・?」
言葉が詰まる。
「・・・・・・森田、さん・・・?」
時間だけが平等に流れ、おれたちは交差するように性格を変えた。
「森田さん・・・です、よね・・・あれ・・・あれ・・・?」
「おれ、健だから」
告げた。
口の中は、もう乾ききっている。
しゃべっているのは、気持ちの力だけ。
「け・・・健・・・? え・・・あ、あの・・・なに、言って・・・」
思考が働かない様子の夏咲に、語りかけ、過去と現在を繋いでいく。
「いろいろ事情があって、名前は変わってる。でも本当なんだ」
何かを知るたびに、夏咲の身体は反応を示す。
「・・・そ、そんなはず・・・そんなはずないんです・・・」
「信じられないかな・・・名前は変わってるし、性格も変わったもんな。
顔つきも、まるで別人のようだろ?」
「・・・あ、あぁ・・・」
やがて、夏咲は理解していかざるを得ない。
名前が変わっても。
どんなに性格が変わっても。
どれほど顔つきが変わったとしても。
おれは、樋口健なのだ。
幼馴染である夏咲が、いつまでも気づかないはずがない。
瞳は対となり、交わりあう。
「け、ケン・・・ちゃ・・・ん・・・」
真実が、夏咲の顔の上で氷解していく。
「なっちゃん・・・」
笑顔を期待していた。
夏咲の生きる希望になってやれるはずだって。
そう信じて、おれは話したんだ。
「・・・そんな、そんなはず・・・」
けれど・・・。
暗く重苦しい影が少女の顔にのしかかった。
それらが、夏咲に渦巻いていた。
「け、ケンちゃんなんじゃないかなって、ケンちゃんだったらどうしようって・・・そんなふうに思ってて・・・!」
しゃくりあげるような声を出す。
「どうして・・・やだよ・・・。
なんで・・・こんな・・・。
ケンちゃん・・・なんで、わたしの、わたしの前に・・・。
前にいるのぉっ・・・。
こんなに・・・こんなになったわたし・・・。
やだ・・・やだぁ・・・こんなわたし・・・ケンちゃ・・・見られ・・・。
信じ・・・たく、な・・・ぅ、ぁあ・・・。
あ、ぁあ・・・ぁああ!」
聞いたこともないほどの大声で、夏咲が泣き叫ぶ。
「ああ、ぁあ、ああああぁぁぁ!」
おれは、ただ、笑顔を望む。
夏咲は涙を流しながら、おれを指差す。
「ひ、ひどい! ひどいよぉ!」
「ごめんな・・・」
「・・・な、なんで!? なんで、も、もっと、もっと早くに、早くにぃっ・・・!?」
「ごめん」
「・・・ケンちゃんに、ケンちゃんにだけは、こんなになっちゃったわたしを見られたくなかったのにっ!」
「なっちゃんは、なっちゃんだよ」
「わたしは、わたしじゃないよぉ!」
ひときわ甲高い声。
「ケンちゃんの知っているわたしは、もう、いなくなっちゃったんだよぉ!」
おれの告白は、夏咲に深い絶望を与えてしまったようだ。
いつまでも泣き止まない夏咲に向かって、おれはこっそりと告げる。
―――ただいま。
そのとき、夏咲が手を伸ばした。
おれにではなく、向日葵の顔に向けて。
夜風に揺れる向日葵だけが、七年前からずっと変わらない。
「さ、寒い・・・寒いよぉ・・・」
おれは、目の前で震え続ける少女を抱きしめてやりたくてしょうがなかった。
「あんたも知っての通り、おれは、夏咲の大切な友人の樋口健なのだから・・・」
・・・
昨日は泣きじゃくる夏咲を、連れて変えるのに大変だった。
途中、何度手を触れそうになったことか。
非常の場合、特別高等人は恋愛できない義務を負った人間に触れることができる。
けれど、いつ、どういう状況で触れたのか、詳細な記録として残さなければならない。
崖で夏咲をかばうために触れたときとは違って、昨日のあの状況での接触は、違法行為だろう。
・・・・・・。
・・・。
本来の登校時間はとっくに過ぎているのに、夏咲は学園に行こうとしない。
「ねえねえ、学園に行かないの? 遅刻してるよ」
夏咲はまた、部屋の隅で膝を抱えている。
「・・・・・・」
「なっちゃーん」
「・・・っ」
聞こえてないってわけじゃないようだ。
「今から出れば、二時限目に出られるよ?」
「・・・・・・」
「そんな隅っこに座ってないでさ」
「わ、わたしはいいですから・・・行って下さい」
「そう言われてもね・・・」
「行って・・・ください・・・」
「なっちゃんが本当に休みたいのなら止めない。
だけど、おれもここにいるから」
「どう・・・して・・・。どうして・・・」
夏咲は昨日の晩から一睡もしていない。
「森田さんが・・・ゃんだなんて・・・」
すぐに、泣きそうになる夏咲。
「そんな悲しい顔しないで、笑ってよ」
笑わせたい。
「・・・どうして・・・どうして・・・」
「そんな、思いつめないでよ・・・」
「・・・わたし、グズだし、根暗だし、後ろ向きだし・・・。
・・・こんなわたし、全然ダメなのにっ・・・」
「・・・はは・・・グズで、根暗で、後ろ向きって・・・。
思いつめてるのに、けっこう欲張りだね・・・」
我ながら苦しい。
「うぅっ・・・ひっぐ・・・」
「なっちゃん、なっちゃん・・・」
「し・・・静かに、してもらっても・・・いいですか・・・」
「あ、ああ・・・」
夏咲の傷は深いようだ。
おれは学園に連絡をして、休みの許可をもらった。
・・・
泣き声が、止まない。
いままで夏咲と生活してきた中でも、一番長くつらい時間だった。
「・・・け・・・森田、さんは・・・」
「あ、うん、なになに?」
不意に、夏咲のほうから話しかけてくれた。
「い、今まで、なにをやってたんです・・・か?」
「おれ? おれか・・・」
「話しては・・・もらえない、ですか・・・」
少し、うしろめたい感情が芽生えるが、いまさらなにも隠す必要はない。
「特別高等人になるための試験を受けてた」
「・・・特別、高等人」
「ずっと、ずっとね。
森田賢一としての人生は、高等人になるためのものだったよ。
だったよ・・・って。まだ高等人になったわけじゃないけどね。
誇れるほどの過去はない。
出されたか課題をクリアして、与えられた指示をこなし、それを淡々とこなしていく毎日だったから」
「・・・どうして、今まで黙ってたんですか・・・」
「え?」
「わたしが、気づかなかったのが・・・いけないんですかね・・・」
「おれは色々と変わってしまった。
なっちゃんが気づけなくても無理はない」
「さ、さっちゃんや磯野くんは・・・その、知ってるんですか?」
「いや、知らない。話してないからね」
磯野は、気づいているようだが・・・。
「ごめんね、黙ってて・・・。
ただ、さ・・・これは言い訳だけど・・・。
おれって、樋口三郎の息子でしょ?
本当なら連座制で捕まってるはずなんだよね。
だから、うかつに自分の正体は明かせなかったんだ・・・」
そう言うと、夏咲はまた、口元をひきつらせる。
「やっぱり・・・やっぱり、そうなんだ・・・だから、写真も持ってて・・・わたしに、や、優しくしてくれてたんだ・・・」
必死に涙を堪えるが、目の端には水滴が浮かんでいた。
「な、泣かないでくれぇ・・・」
「だっ、て・・・ぅあ・・・ケンちゃんが・・・」
「あ、あれだ。お腹が空いてるから泣いちゃうんだって!」
「そ、そうです・・・かぁ・・・ぅく・・・」
「よしよし、おれが腕によりをかけて、ご飯を作ってあげるよ!」
「ぐす・・・ぅ・・・」
「台所、おかりしまーす」
・・・・・・。
・・・。
・・・
「できた! ちくわとマカロニのペロペロキャンディ!
すごいでしょ!? 食材をどっから引っ張り出してきたのか、おれもわかんない」
「うぅ・・・・・・」
見向きもしない。
「さあさあ、なっちゃんの、大好物だよ?」
「も、森田さんが・・・食べてください」
「お、おれは、ちょっと遠慮しておくよ・・・お腹を壊しそうな組み合わせだし・・・」
「わ、わたしは・・・いいです・・・」
「なっちゃんしか食べられないよ?」
やっぱり、メシが喉を通る具合じゃないようだ。
そんなとき、誰かが部屋を訪ねてきた。
学園は放課後の時間だから、さちや灯花かもしれない。
夏咲はノックにも反応しないので、おれが出ることになる。
「やあやあ」
来客は磯野だったが、ここは・・・。
バタン!
「こ、こら、ドアを閉めるなっ!」
磯野が来ると、いろいろとややこしくなりそうだ。
「どうせ、悪ふざけにきたんだろうが?」
ドア越しに言う。
「僕はキミ達のプリントを届けに来ただけなのに・・・」
「え・・・?」
「その僕を、追い返すのかい?」
「じゃあポストに投函、いや、部屋の前に置いといてくれればいい」
「へえ、相当ご機嫌斜めみたいだね。そうするよ」
ひたっと、紙が床に置かれる音がした後、磯野の気配が消えていく。
・・・帰ったか。
・・・なんだか、悪いことをしたかもしれない。
おれはドアを開け、プリントを拾い上げる。
「かかったな!」
「そう来ると思ってたって」
素早く扉を閉める。
ガッ!
「む・・・」
「ふ、ふふ・・・甘いよ」
扉が閉まる寸前、磯野の足が差し込まれていた。
「む、むっ・・・」
ぐいぐいと扉を引っ張るが、足があるので閉まりきらない。
「い、痛い・・・痛いっ!」
ダメージは与えられるみたいだが。
「し、しつこいぞっ・・・帰れ!」
「お、お願いしますよお客さん。
朝刊だけでいいですから! うちの新聞とってくださいよ!」
「馬鹿は間に合ってるよ!」
「いた、痛い・・・いたっ! は、はぁはぁ・・・せ、洗剤もつけますからぁ」
「なにをつけられても、いらんもんはいらん!」
「じゃあ、つけませんから!」
「じゃあってなんだよ、じゃあって!?」
「い、いまなら、いままでの一月分まとめて置いていきますから!」
「それ、古新聞だろうが!」
「た、頼むよ森田くん、痛いんだっ!」
がんがんがんっ!
ドアが悲鳴をあげる。
このままじゃ、磯野が壊れる前にドアが壊れてしまう。
「プリントを届けに来たんだろ? だったらほら、渡せ」
ドアの隙間から要求。
「痛くてそれどころじゃないよ! は、早くあけてくれっ!
ホラーな絶叫を上げるぞ!?」
「ホラーだ? やってみろや!」
「・・・いたいっいたいいたいっイタイイタイイタイいたいちあちあいちあいたぎゃあーーーーーーーーー!」
なぜ、エコーが・・・?
「わ、わかったよ・・・恐ろしいヤツだな・・・」
ドアを放してやる。
「クソの犬が! さっさと開けろや!」
態度急変。
「・・・懲りないな。まあいい、プリントくれ」
「これだよ」
数枚のプリントを手渡される。
「ね?」
「待てこら、ここに妖精通信って書いてるが!?」
「僕の自宅から発行された、地域限定の妖精通信だよ」
「中身は全部ポエムじゃねえか!」
「ふふ、あとで読んでおくといい。きっと涙するから」
「・・・・・・」
「よし、もう満足しただろ。帰れ」
「お邪魔します」
「こら!」
・・・
「こんにちは、夏咲ちゃん」
「・・・・・・」
「元気ないね? 森田にSEでも受けたのかな?」
「エス、イー?」
「セクシュアルハラスメントの略だよ。そんなことも知らんのか?」
「・・・せめてSHだろうが」
・・・もう、頭が痛くなってくるな。
「・・・・・・」
「おっと、森田くんとじゃれ合っている場合じゃなさそうだ」
「・・・なんの用なんだよ?」
「それで、夏咲ちゃんはどうしたんだい?」
「ちょっと、な・・・」
「ひょっとして、しゃべれなくなっちゃったとか?」
「・・・い、磯野くん、何か用事ですか?」
「しゃべれるじゃないか?」
「・・・お前、やりたい放題だな。なぜ空気を読まない?」
「ふふ・・・まだまだ元気だね、夏咲ちゃん・・・」
・・・どこがだよ?
「おい、磯野・・・」
「森田くん、寮の玄関まで送ってくれ」
「え? もう帰るのか?」
拍子抜けだった。
「・・・いいから」
鋭い視線だった。
「・・・・・・」
おれは磯野について、玄関へ向かう。
・・・
「なにがあったかは聞かないけど・・・」
磯野は、珍しくおれに気を使っているらしい。
寮の廊下や壁を眺めている。
「・・・どうしたんだ?」
「なにがあったんだ?」
「・・・そういうベタなの好きだなぁ」
「ふふ・・・しかし、すっきりした顔をしているな?」
「なんだ突然?」
「どうなんだい?」
「・・・おれは、ある意味すっきりしたよ・・・。
だが、結果的になっちゃんを悲しませてしまった」
磯野は理由を知ったような顔でうなずく。
「夏咲ちゃんを幸せにするには、君の力が必要だろうな」
言いつつ、廊下の先へと歩みを促してくる。
「でも、だいじょうぶ、きっと立ち直ってくれるよ」
「なぜ、そう言い切れる?」
「僕は昔、もっとひどい状態だったころの夏咲ちゃんを見ているからね」
「・・・昔、というと?」
「四年前、夏咲ちゃんが不当に捕まったときさ」
「裁判前の取り調べのときか・・・」
「笑って町を出て行って、絶望して帰って来た。
帰ってきたといっても、夏咲ちゃんに家はなかった。
夏咲ちゃんが拘留されていた三ヶ月の間に、親戚が売り払ったんだそうだ」
「それは、知らなかった・・・それ以来、ずっと寮で暮らしていたんだな?」
「ご両親は、ほら、収容所にいるんだろ?」
「そうらしい・・・」
うっかり、個人の機密を漏らしてしまった。
「夏咲ちゃんのお母さんはね、それはそれは絵に書いたような優しい人だったよ?」
おれも、顔を合わせたことがある。
目が大きくて、笑うと夏咲にそっくりなんだよな。
「いつかの祭日にさ、家族ぐるみで川辺で鍋をしたことがあるんだよ。
お母さんがてきぱきと食材を整えて、夏咲ちゃんはそれを手伝って、僕は、お父さんと川釣りをしていたんだけどね」
・・・おれは知らないな。
「そのとき、ケンと夏咲ちゃんは珍しくケンカしていたそうなんだ」
・・・ささいな、子供のケンカだろうな・・・おれは覚えていない。
「もう、ケンちゃんなんかに会いたくない! って声が、夜の河原に響いてさ、そしたら、お母さんが言うんだよ。
会いたくないなら、会わなくてもいいよって・・・」
「・・・・・・」
「でも、自分が会いたくないって思ったら、ずっと会えないよ・・・って。
そしたら、夏咲ちゃん、泣いちゃってねぇ。
ケンちゃんに、会えなくなっちゃったら、やだぁ・・・って。
それで、お母さんがその頭を撫でながら言うんだよ。
いつでも心を開いて、全てをあるがままに受け入れて、会いたいって願いなさい・・・そしたら、たとえ離れ離れになっても、また会えるからって・・・」
「・・・そんな話があったのか」
「まあ、全部僕の作った物語だけどね」
「本当なんだろ?」
すると、けろっとした顔をしておれを見つめてきた。
「三郎さんが残したデータの入ったメモリ・・・それをくれるなら、君にもっといい話を聞かせてあげよう」
「よほど、欲しいらしいな?」
親父の遺産が。
「それが、僕の物語を完結させる鍵になると、信じているからね・・・」
「お断りだ」
「そうか、実に残念・・・なくさずに、ちゃんとパンツの中にでも隠しておくんだぞ?」
メモリは、ズボンの内ポケットに大切にしまってある。
「またな・・・」
寮の出口が近づいていた。
「しゃきっとしろよ? 夏咲ちゃんを助けられるのは、お前だけなんだからな?」
・・・
磯野が帰ってからも、夏咲は部屋の片隅から動こうとしなかった。
夕食も、おれが作っておれがひとりで食べる羽目になった。
おれは意を決していた。
大切な友達と、今、ちゃんと向き合おうと。
「なっちゃん・・・ちょっとは落ち着いたかい?」
「っ・・・」
おれが視線を合わせると、慌てて逸らした。
ようやくデートまでこぎつけたってのに、また振り出しに戻ってしまったような気がする。
それからも夏咲はおれを見つめてきた。
・・・おれが夏咲を見ていない時だけ。
同時に交わることのない視線。
どうしてこうも、うまくいかないのか。
「なっちゃん・・・」
「・・・・・・。
・・・森田さん、聞いてもいいですか?」
「え・・・」
意表を突かれた思いだった。
「ダメ、ですか?」
「だ、ダメじゃないダメじゃない! なになにっ!?
むしろ、話しかけてくれるのを待ってたんだから」
「わたし・・・変わりましたよね?」
「・・・う、うん・・・」
「信じられないくらい・・・変わっちゃいましたよね・・・」
「誰だって変わるよ」
「・・・嫌いに、なったでしょう?」
「おれだって変わったよ?」
おれはゆっくりと、首を横に振った。
「わたしは、大きく変わってしまいました・・・笑わなくなったし・・・お友達もいなくなったし・・・」
「灯花なんて怒ってばっかりだし、磯野なんて友達いないぞ」
「さっちゃんや大音さんみたいに、なにかしたいこともないし・・・」
「さちは、さち。灯花は灯花だろ?」
「あ・・・それもそうでした」
急に納得する。
「いつも一人でいるのに、誰かと比較しようだなんて、おこがましいですね・・・」
・・・不安定だな。
「で、でも・・・わ、わたしは・・・。
助けてって・・・叫んでる人を・・・崖で、あなたを、助けられなかった・・・」
「義務なんだから、仕方ないよ?」
・・・義務はともかく、単純に人と触れるのが怖いのだろうが。
「・・・嫌いになったでしょ? わたし、最低です・・・」
「そんなことないって」
「うぁ・・・っ・・・友達を助けられない・・・最低な人間ですっ・・・!」
頬を、涙がつたっていく。
「嫌いに、なったよね?」
「そんなことない」
「あぁ・・・ぁぁ・・・。
・・・嫌いに、なったよねぇ・・・!」
「ならないよ、嫌いになんて」
「どうして、どうしてぇ・・・わたし、こんな・・・違うのにぃ・・・。
絶対、嫌いになったよぉ・・・ぁぁっ・・・うぁあ!」
「そんなことないよ。どうして嫌いになるのさ」
「いいの・・・いいのっ・・・。
嫌いでも・・・どうしようもないからっ・・・。
関係ない・・・なにが、どうなったって、関係ないっ・・・」
「じゃあ、なんで泣くの?」
「わからない、わからなぃっ・・・・!」
顔を覆う指の隙間から涙が溢れそうだった。
「なんで、なんで泣いてるのぉ・・・ぅああ・・・」
「嫌いになんてならない」
「ぅぅ・・・変だよ・・・そんなの、変だよっ・・・嫌いにならなきゃ、変だよぉ・・・」
「なら、変なんだろうさ」
おれは、夏咲の隣に腰をおろす。
触れることは出来ないけど、そばにいてやることはできるんだから。
「こ、こんな、毎日死んだように生きているだけの、なんの意味もない、つまんないわたしなんかが・・・どうして?」
手は差し伸べられないけれど、心は近づけられる。
それは詭弁だと、七年前に逃げたおれが、いまのおれを罵る。
お前には、夏咲に近づく資格などないのだと。
けれど、資格を気にして悩むほど、おれは弱くはない。
恥知らずだが、自分のことを気にするあまり、七年前に少女からもらった優しさを返せないほど、弱いおれではない。
・・・おれも、いまの自分が大嫌いだ。
「なっちゃんがね、いいんだよ」
それは、なっちゃんの言葉。
「なっちゃんがね、いいんだよ。
いつも目を合わせてくれなくて、つまらなくて、毎日死んだように生きている人とは、友達になったらいけないのか?」
偉そうに、少女に告げる。
「・・・わ、わたしなんかと一緒にいても、得することなんて一つもないでしょう?
むしろ、森田さんの足を引っ張ってる・・・!」
「得がなきゃ、友達になったらいけないのか?」
「・・・ひぅっ!」
「そういうのは、違うと思うな」
「嫌いじゃ・・・なぃ・・・こんな、わたし・・・なのに・・・」
ゆっくりと、瞳がおれへと揺れ動く。
「ぅ、ぁあ・・・」
「ただいま、なっちゃん」
「あ・・・あぁ・・・」
「ただいま・・・」
「わた、わたし・・・わたしっ・・・」
「ただいま・・・」
「・・・待ってた・・・っ、長い間・・・会いたい、会いたいって・・・思ってた・・・願ってれば、いつか会えるって・・・」
「そう、お母さんが言ってたんだね?」
「うんっ、うんっ!」
「なっちゃんだけは、おれの帰りを待ち望んでいてくれたんだね?」
最低なおれを許してくれていたんだね・・・。
「ずっと、ずっと・・・長い間・・・っ・・・待ってたぁ、諦めちゃいそうなほど・・・長い間・・・わたしっ・・・。
ケ・・・ちゃん・・・」
こちらに向かって、歩みを寄せてくる。
「・・・ケンちゃ・・・」
ひたひたと、畳の上で両足を交互に擦り寄せている。
「・・・ケンちゃんっ・・・」
吐息が交わるくらいの距離に、顔を近づけてくる。
「ケンちゃん・・・ケンちゃんっ!」
おれたちは微笑みあう。
あのころのように、手を取り合うことは、できないけれど・・・。
「ケンちゃん・・・」
そうして、ようやく、夏咲は言ってくれた。
―――おかえりっ!
この日、おれたちは、遠い遠い回り道をして・・・再会を果たした。
・・・・・・。
・・・。