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AIR【13】

 

7月30日(日)

 

 

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目が覚めた。

地面がやけに柔らかい。

ソファーの上だと気づいた。

ブラインドの隙間から差し込む、真っ白な遮光。

コチコチという壁時計の音。

低く唸るクーラーの音。

霧島診療所の待合室だった。


「・・・・・・」


寝場所を借りたことはあっても、住み込みというのは経験したことがない。

こういう目覚めは、初めてだった。

俺はいつまで、ここにいることになるのだろう?

頭をもたげたかすかな不安は、眠気と共に退いていった。


「さあ、やるか・・・」


俺は起き上がり、一日をはじめた。


・・・・・・。

 

 

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外に出た。

光が眩しかった。

手に持っているのはバケツと柄杓(ひしゃく)、それにゴミ袋だ。

目覚める前の商店街を見回す。

とたんに、気が重くなった。

花火の燃えかすが、路上に転々としていた。

ロケット花火30ダース、トンボ花火20ダースの都合600弾。

診療所前からジャカスカ打ち上げれば、当然こうなる。

溜息をつき、作業を始める。

燃えかすをひとつひとつ拾い、ゴミ袋に放り込む。

どこかの店のシャッターが開き、中年の店主が出てきた。

朝日を浴びながら、新聞を読みはじめる。

俺に気づくと、会釈してくれた。


「昨夜は悪かったな」


俺のせいではないが、一応謝っておく。


「いやいや。 毎度のことだからねえ・・・」


苦笑いが返ってきた。


・・・毎度のことなのか、あれが?


ちょっぴり恐怖する。

全部拾い終わってから、診療所前に戻る。

バケツに水を汲み、柄杓で盛大に撒いた。


・・・ざんっ。


商店街の谷間に、ささやかな水音が響く。

アスファルトが黒く濡れる。

水気を帯びて、空気が柔らかくなるのがわかる。

今日も暑くなりそうだった。


・・・。

 

「・・・さてと」


打ち水を終えて、俺は待合室に戻った。

だが、休んでいる暇はない。

次は俺の得意種目。

言うまでもなく、モップ掛けだ。

それが終わったらトイレ掃除だ。

それが終わったら診察室掃除だ。

その時、ものすごく重要なことに気づいた。

俺はこの格好のままなのか?

ユニフォームの支給はないのか?

せめてエプロンとかゴム手袋とか貸してもらえないのか?

というか、その辺をちゃんとしないと細菌で院内感染でマジで大ピンチなんじゃないのか?


「・・・・・・」


探してみることにした。

その手のものがあるとすれば、診察室以外にない。

ドアノブに手をかける。

当然のように、鍵はかかっていなかった。

扉を開けて、中に入る。

 

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改めて辺りを見渡してみる。

掃除しているところは見たことがないが、白い壁は清潔そのものに見える。

壁に白衣が掛かっている。

肘掛け付きの椅子が、主人を待っている。

カルテらしきバインダーが出しっぱなしになっている。

そして、俺には用途さえわからない医療器具の数々。

聖も佳乃も、まだ眠っているはずだ。

静かだった。

そして、不用心だった。


「・・・・・・」


早速、白衣に袖を通してみる。


・・・ごそごそ。


大きさ的には悪くなかった。

くるりとターンしてみた。

かなりいい感じだ。

決めゼリフのひとつも言いたくなるのが人情だ。


「改造人間が基地から逃げ出しました!」


・・・・・・。


今ひとつだった。


興味を失い、白衣を脱ごうとする。


「・・・ん、何だ?」


ポケットの中に、ちいさな鍵が入っているのに気づいた。

机か戸棚用のチャチなものだ。

基本どおり、部屋の中を見渡してみる。

机の手前に、白塗りの薬品棚があった。

観音開きの扉に鍵穴がついていた。

鍵が合いそうだった。

霧島診療所の秘密は、ここにあると見た。

開けてみるか・・・。

鍵を挿す。

かちりと回った。


「でえいっ」


扉を開け放った。

薬瓶、ピンセット、脱脂綿。

カッター、ナイフ、出刃包丁。

金槌、スパナ、ドライバー。

針金、ガムテープ、瞬間接着剤。


「・・・・・・」


ばたん。

何も見なかったことにして、扉を閉める。


「何をしている?」


・・・ぎくうううううっ。

 

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悪の診療所の女首領が、背後に立っていた。


「そうか、そっちの白衣に鍵が入れっぱなしだったか」


戸に挿したままの鍵を抜き、自分のポケットに入れる。


「そんなことより、あんたその棚に何を・・・」
「言っておくが、この薬棚は霧島家の道具入れ兼用だ」
「・・・まぎらわしいことをするな」
「危険物は所定の場所に保管しなければ医師失格だ」
「・・・あんた、終始メスを持ち歩いてるだろ?」



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「これのことか?」
「出さなくていい」
「そうか・・・」


残念そうにしまう。


「このメスは、私の白衣が保管場所だ」


・・・そんな保管場所があるか。


「だいたい、ここじゃメスなんて使わないだろ?」
「まあ、滅多にはな。
だから、うちにあるメスはこの4本だけだ。
私が持ち歩いていれば、佳乃も触れようがないだろう」
「過保護だな」
「過保護だとも」


妙に真剣に答える。


「ほら、わかったらモップ掛けだ」
「はいはい・・・」


戻りかけて、自分がまだ白衣を着ていることに気づいた。

脱ごうとすると、聖が言った。


「その白衣は君が使ってもいい」
「いいのか、俺が着て」
「医師が増えたように見えてお得な感じだからな」
「・・・・・・」


いいのか、それ?


・・・。

 

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「往人くん」


ごしごしごし・・・。


「往人くーん」


ごしごしごし・・・。


「おーい、やっほー、もしもーし、往人くーん」


ごしごしごし・・・。


「うぬぬ。 こうなったら・・・」


ご・・・。


「・・・・・・」
「往人くんってばぁ」
「モップの上に足を乗せるな」


俺が反応したとたんに、顔をぐいっと近づけてくる。


「あたし、手伝っちゃダメ?」


どうやらそれが言いたかったらしい。


「ダメだ。 これが俺の仕事だからな」


休めていた手を再び動かす。

こいつに手伝わせでもしたら、聖が黙っていないだろう。


「うぬぬ・・・でもぉ」


不満そうに言い、この場を動こうとしない。

邪魔されてはかなわないので、口だけは付き合うことにする。


「今日は学校に行かなくていいのか」
「今日はね、飼育当番お休みなんだぁ」
「そうか」
「ピョンタもモコモコも、とっても元気爆発なんだよぉ」
「ふーん」
「あたしねー、お掃除ってとっても得意技なんだよぉ」
「ふーん」
「超A級の腕前だから、各国から依頼がひっきりなしで貧乏暇なしなんだよぉ」
「ふーん」


ごしごしごし・・・。


「もぉ、ふーん、じゃないよぉ」
「ポテトと散歩にでも行ってきたらどうだ。
きっと超A級な気分になれるぞ」
「ポテトはねぇ、今日はひとりでお出かけみたい」
「ふーん」
「恋人でもできたのかなぁ」
「ふーん」
「あのねぇ、あたしと往人くんってねー・・・」
「ふーん」


ごしごしごし・・・。


「・・・・・・」


スネてしまったらしい。


「うぅ~~~~~~」


手足をバタバタさせながら、唸りはじめた。

うっとおしいことこの上ない。


「・・・ほらっ、交代してやる」


仕方がないので、モップを差し出した。


「やったぁ!」


すかさずひったくる。


「後はまかせた」
「うんっ。 おまかされたよぉ」


とは言っても、モップ掛けはほとんど終わっている。

一点のシミも残さない、素晴らしい出来映えだ。

超A級の腕前といえど、出番はないはずだ。

バケツにモップを突っ込み、ジャブジャブと濯ぐ佳乃。

なかなかいい手さばきだった。


「きえええぃっ!」


ばっしゃーーーん。


「・・・バケツひっくり返しちゃったぁ。
うわ~。 ビチャビチャだね。
こりゃもうビックリドッキリって感じだねぇ。
じゃあそういうことでー・・・」
「・・・・・・」


首根っこをふん捕まえる。


「ふえ~んっ、ごめんなさいごめんなさい~」
「ごめんで済むと思ってるのかこの大馬鹿者っ」


・・・がごっ。


後頭部にものすごい激痛が走った。


「~~~~~っ」


その場にしゃがみ込み、悶絶する俺。

 

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「私の妹を馬鹿呼ばわりして、無事で済むと思っているのか」


お姉さんが仁王立ちしていた。


「そういう不心得者は、この私が任意で改造するぞ。
車輪がついたりビームが出たり衛星電波が受信できたりするぞ。
どれがいい?」
「・・・どれも嫌です」
「そうだろうな」


深々と頷く。


「佳乃も仕事の邪魔をしないこと」
「だってぇ・・・。
お姉ちゃんぜんぜん手伝わせてくれないんだもん」
「可愛い妹に家事をさせるわけにはいかないだろう」
「うぬぬ・・・」
「雑用は全部、卑しい下僕に任せておけばいいんだ。
なあ、国崎君」


「・・・卑しい下僕でございます」


「そういうわけで、邪魔したな」


「往人くん、またあとでねぇ」


霧島姉妹は嵐のように去っていった。

待合室は俺一人になった。


「・・・・・・。
ホントはお前なんか怖くないぞ、へへ~んだ」


憎まれ口を叩いておく。

だが、状況は変わらない。

床を見る。

見事に水浸しだった。

もう一度やり直す以外になかった。

モップをしぼり、床を端から拭く。


ごしごしごし・・・。

   ごしごしごし・・・。

      ごしごしごし・・・。


「・・・・・・」


泣きたくなってきた。


・・・・・・。

 


真夏の昼下がり。

窓の外の木漏れ日。

クーラーがよく効いた診察室。

聖が茶をいれる、こぽこぽという音。


「しかし、今日はあれだな。 実に暇だな」
「『今日も』・・・だろ」
「ふむ。 確かにな」
「いくらなんでも暇すぎやしないか?」
「やはり、わかるか・・・」


・・・わかってないのはあんただけだと思うぞ。


「こういう過疎地の診療所というのは、通常マルロウで溢れ返っているものなんだ」
「マルロウって何だ?」
「平たく言えば、じいちゃんばあちゃんだな」
「なら、なぜここにはいないんだ?」
「この暑さだ。 診療所に来るまでに別のお迎えが来るぞ」
「ごもっとも」


説明終了。

 

・・・ずずずずずっ。


ふたりして茶をすする。

 

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「・・・そろそろなにか手を打たないと、まずいことになるかもしれないな」


顎に手を当てて、なにやら考える。


「国崎君」
「何だよ、改まって」
「君は白衣がよく似合うなあ」
「・・・そっ、そうか?」


なんとなく嬉しくなり、訊ね返す俺。


「それで顔に縫い目があれば、モグリの凄腕外科医という感じだ」
「・・・・・・」
「おっ、そうだ。 いいことを思いついたぞ。
こういうのはどうだ、国崎君」


どうせろくでもないだろうが、聞いてみることにする。


「まず、君を前途有望な新人医師ということにする」


いきなりろくでもなかった。


「・・・この辺りの人間の大半は、俺が道端で人形芸をしてるところを見ていると思うんだが」
「大道芸が趣味の医師ということにすればいい」


・・・それは設定的にOKなのか?


「トレトレピチピチの医大出が田舎に来るなんて大変珍しいことだ。
しかも外観上はクールで長身だ。
君見たさの客が殺到するぞ」
「・・・俺は医大出じゃないし、医者の真似事もできないぞ」


そんなことをしたら、確実に殺人者になる自信がある。


「大丈夫だ。
君は触診だけして、『冷たいものを食べ過ぎないように』とかなんとか適当なことを言っていればいい。
国崎ドクターは大人気、霧島診療所は大繁盛という寸法だ」
「・・・『寸法だ』じゃないだろ」
「有閑マダムにモテモテだぞ」
「まっぴら御免だ」
「国崎君は、年上は好みではないのか・・・」
「年下でないと嫌だ」


なぜか睨まれる。


「妹に手を出したら、保証しないぞ」
「命を懸けてまで手を出そうとは思わん」


なぜかメスが向けられる。


「それは妹に魅力が無いという意味か」
「・・・・・・」


困った姉だった。


「姉の私が言うのもアレだが、佳乃は本当に可愛い娘だぞ。
あれはあの子がまだ小学校の頃の事だ」


シスコン姉貴の自慢話が始まった。


「・・・話を始める前にお茶をもう一杯くれ」


俺は持久戦を覚悟した。

 


・・・・・・。


・・・。


 

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長い一日が終わった。


『本日の受付は終了しました』


軽く伸びをし、扉の取っ手に札をかけた。

それから玄関先に出た。

思わず溜息をついた。

午後にはちらほらと客が来た。

聖の言うとおり、じーさんばーさんばかりだった。

治療というより。雑談をしに来たようなものだった。

やはり、俺を雇えるとは思えない。

階段に座ってみた。

茜空を横切り、カラスが帰っていく。

近所の肉屋から、惣菜のにおいが漂ってくる。

通りのずっと向こうを、プール帰りの子供たちが走っていく。

どこかやさしく、懐かしい風景。

なぜだろう?

俺自身、この町の一部になってきたということだろうか?


と、何かが足にふわりと当たった。

 

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「ぴこ~」
「お前か」


いつ見ても能天気な毛玉を抱き上げる。


「佳乃を置いて遊び回って、いいご身分だな」
「ぴこー」
「恋人でもできたのか?」
「ぴこぴこぴこっ」
「っていうか、お前ってオス、メス?」
「ぴこぴこ~」
「ヒミツか。そうか・・・・・・ヒミツ?」


黄昏がいっそう色濃くなった気がした。


・・・・・・。


・・・。

 

夕食の時間になった。

今日も待合室が食卓だった。

一日寝かせたカレーは美味しさ倍増だった。

付け合わせの花ラッキョウも美味だった。

デザートはプリンスメロンだった。

 

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「レモン汁と粗塩で旨味が引き立つんだ」
「あっそうかぁ。
生牡蠣(なまがき)さんと親戚なんだねぇ」


「・・・違うぞ、たぶん」


そして食後のお茶。

飲み干したとたん、佳乃がいきなり叫んだ。


「空飛ぶ花火ぃ~~~っ!
トンボとロケットぉ~~~~っ!
愛と勇気の600連発ぅ~~~~~っ!」
「やめてくれ」



「私の妹の頼みを無下に断るとは・・・」
「世間体があるので、せめて週に一度とかにしてください」



「うぬぬ・・・」


不満そうだが、このぐらいではめげない。


「じゃあお散歩っ!」
「この時間にか?」
「お散歩は夜するのが通好みの味なんだよぉ」


何の疑問も抱かずに、にこにこと断言する。


「そうだな・・・」


遠出しないのなら、外で涼むのもいいかもしれない。


「お姉ちゃんも行こうよぉ」
「私はまだ仕事が残っている」


どんな仕事かは知らないが、聖はきっぱりと言った。


「国崎君にエスコートしてもらうように」
「うぬぬ、残念だよぉ・・・」
「そう言いながら、嬉しそうだな」
「そっ、そんなことないよぉ」


顔が赤かった。


「国崎君は誠実でやさしいから、二人で歩くのはさぞや楽しいだろうなあ」
「・・・えっと、じゃあ玄関で待ってるねぇ」


ぱたぱたと走っていく。

かなり恥ずかしそうだった。


「・・・では国崎君、悪いが頼む」
「ああ」


俺も佳乃の後に続こうとした。


「これを持っていけ」


ひょいっと放り投げられたものを、あわてて受け取る。


「・・・ぴこ~」


口元にカレーのついた毛玉犬だった。


「ポテト、いいか?」
「ぴこっ」
「この男が不埒な行動に及んだら、即刻私に連絡するように」
「ぴっこり」


・・・信用度0だった。

 


・・・・・・。

 

 

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「行ってきまーすっ」

「ぴこぴこー」

 


「遅くなるんじゃないぞ」
「わかってる」


夜の歩道に踏み出す。

蒸し暑かった。

ぬるま湯に浸かっているような、ねっとりとした空気があった。

電気屋の店先で、売り物のテレビが野球中継を流していた。

蚊取り線香の匂いが、ふと鼻をくすぐった。


「・・・ふう」


胸元に人差し指をかけ、ぱたぱたと風を入れる佳乃。

手首のバンダナが、恥じらうように揺れた。


「夜でも蒸し暑いねぇ」

「ぴこぴこ~」

「お腹いっぱいだねぇ」

「ぴこぴこ~」

「カレーは一日寝かせたのが絶品だねぇ」

「ぴこぴこ~」


会話が盛り上がっているようだった。


「せめて飯ぐらいは、ちゃんとした所で食べた方がいいんじゃないか?」


なんとなく気になったことを、俺は口にした。

待合室での食事は、霧島家ではごく普通のことらしい。

俺が来たから、という感じではなかった。


「うん、そうだねぇ。
お父さんが死んじゃってから、なんかあそこで食べるのがクセになっちゃって・・・」


歩道に視線を落とす。

俺は、聖の言葉を思い出していた。



――『母は佳乃がまだ小さな頃に他界したし、父も二年前に亡くなったよ。
それ以来、私と佳乃は二人で生きてきた』



「・・・・・・」


佳乃の横顔を眺める。

そういう不幸とは無縁に見えた。

ただ、俺にもわかった。

父親が死んだ時、佳乃はこう思ったのだろう。

聖とだけは離れたくない、と。


「ほらっ、あたし、甘えんぼだから」


すぐにいつもの笑顔に戻る。

蛍光灯が切れかかっているのか、鮮魚店の看板がちらちらと瞬いている。

店の主人が、ホースの水で木箱を洗っていた。


「佳乃ちゃん、お出かけかい?」
「こんばんわぁ」

「ぴこぴこ~」


「そっちは彼氏かい?」


「ボディーガードだ。
超A級の腕前なので、各国で引っ張りだこで貧乏だ」
「ふぇ~っ。 そうなんだぁ」
「お前が感心してどうする」
「うぬぬ・・・」


「聖さんによろしく言っといてな」
「うん。 おじさんありがとぉ」
「たまには魚も食べてくれな」
「うぬぬ。 そう来るかぁ・・・」


ひょこひょこと手を振って、佳乃はまた歩き出した。


「なんだお前、魚嫌いなのか」
「嫌いっていうか、ちょっと苦手かも。
お姉ちゃんは大好きなんだけどねぇ」
「そうか・・・」

 


・・・・・・


・・・

 

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「またここか・・・」
「またここだねぇ」


「ぴこぴこ」


立ち止まる。

空気が変わったのがわかった。

山から下りてくる風は、意外なほどに冷たい。

まるでそれ自体が、闇を運んでいるようだった。


「夜だと虫の声がスゴいねぇ」


言いながら、左右の暗がりを見渡す。

草木がひとかたまりになり、それぞれに虫の歌を宿している。

水音はほとんど聞こえない。


「夜中に出歩くことは多いのか?」
「ふぇっ?」
「神社で会っただろ、前に」


「ぴこぴこー」


「あー、あの時かぁ」


他人事のように言う。


「あの時はねー。

えっと・・・えーっと・・・」


やっぱり覚えていないようだった。


「まあ、何もなかったからよかったけどな」


佳乃はしばらく、口を開かなかった。

自分の内にある何かを、覗き込むように。

と、小声で言ってきた。


「往人くん」
「何だよ?」
「えっとね。 お仕事、どう?」
「あまり性に合わないかもしれないな」


性に合わないというより、居心地の悪さを感じていた。

俺は慣れていなかった。

誰かの世話をすることも、世話になることも。


「そっか・・・」
「まあ、給料をもらうまではいるけどな」


何となく後ろめたくなり、俺はそう付け加えた。


しかし・・・。


給料っていつ出るんだ?

勤めはじめてすぐに貰えるとも思えない。

というか、労働条件すらほとんど聞いていない。

考えれば考えるほど、いいかげんなアルバイトだった。

ふと見ると、隣で佳乃がうつむいていた。


「疲れたのか?」
「ううん。元気いっぱいだよぉ・・・」


茶化そうとして、途中でよどむ。


「えっとね・・・往人くん、聞いてくれるかなぁ」


上目遣いに俺を覗き込む。

その瞳が、どこか思い詰めた感じだった。


「ああ。 何でも聞いてやるぞ」
「それじゃあ言うねぇ」


佳乃が橋のたもとに座った。

その横に、ポテトがちょこんと陣取る。

俺は欄干に腰を預けたまま、佳乃が話し出すのを待った。

 

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「あたし、お母さんのことってほとんど覚えてないの。
もともと、あんまり体が丈夫じゃなかったんだって。
あたしを産んで、すぐに寝たり起きたりになって・・・。
あたしが三つの時に、いなくなっちゃった」
「・・・・・・」
「お父さん、よく言ってた。
『お母さんはおまえによく似てた』って。
想像しようとするんだけど、なんか、うまくいかなくて・・・」


夜空を眺めたまま、淡々と言葉をつなぐ。

いつもの口調ではなかった。

俺の視線に気づき、あわてて笑う。


「でもでも、あんまり淋しくなかったんだよぉ。
お姉ちゃんが、お母さん代わりだったから。
でも、それって・・・お姉ちゃんにはずっと、お母さんがいなかったってことだよねぇ。
お姉ちゃんはずっと、お姉ちゃんじゃいられなかったってことだよねぇ。
そんなの不公平だよねって、最近思ったり・・・」


そうして、言葉はまたよどんでしまう。


「お父さんも、診療所がずっと忙しくて。
それで、体壊しちゃって・・・。
あたし、ぜんぜん手伝えなかったから。
あたし、見てるだけだったから。
だからね、お手伝いさんがいてくれればなあって、ずっと思ってたんだよぉ」


あははと笑って、俺のことを見る。

俺を雇ったのは、ただの思いつきや同情ではない。

そう言ってくれているのだろう。


「俺も役に立ってないけどな」
「ううんっ」


ぶんぶんと首を振る。


「ゼッタイそんなことないよぉ・・・」


そうしてまた、夜空を見る。

外灯の明かりに肌が照り映え、透き通ってしまいそうに見える。

たぶん、こういう話をできる相手がいなかったのだろう。

やさしい姉が、どんな時でも側で助けてくれる。

それが少しずつ、佳乃の重荷になっていたのかもしれない。

明るくて誰にでも愛される少女。

夏をいっぱいにはしゃぎ回る少女。


ただ・・・。


手首に巻いたバンダナだけが、虚ろな影をまとわりつかせていた。


「もしも魔法が使えたらね。
あたし、お母さんに会いたい。
会って、謝りたいなって・・・」


そっとつぶやく。

恥ずかしさとためらいが、声色に覗いていた。

星明かりを映す、静かな瞳。

打ち明ける機会さえなく、胸の奥で積もってきた後悔。


――『もしも、魔法が使えたら・・・』


無邪気な夢を叶えるために、守られてきた封印。


だとすれば・・・。


――『お母さんに会いたい』

――『会って、謝りたい』


この少女には不釣り合いなぐらい、哀しい願いに思えた。


「・・・謝るんじゃなくて、礼を言うべきだろ」
「お母さんに?」
「そうだ。
お前がここにいられるのは、母親のお陰だろ。
『産んでもらってごめんなさい』なんて言われてみろ、俺なら激怒するぞ」


俺の母親も、とっくに死んでしまっている。

他人と違う道を俺に教えて、さっさといなくなってしまった。

それでも、俺は。

生まれてこなければよかったなんて、一度も思ったことはない。

・・・思う暇がなかっただけかもしれないが。


「そっか・・・そうだよねぇ」


何度も何度も、佳乃は頷いた。

 

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そして両手を空にかざす。

きゃしゃに見えて、しっかりとした手首。

夜風を含み、揺れるバンダナ。

大人になるまで外してはいけない、魔法の封印。

あのバンダナが解ける日は、近いのかもしれない。

周りが考えているより、ずっと。

その時佳乃は、何を知るのだろう?


「あ~~~~~っ!
蛍っ、蛍が飛んでたよぉ!」
「どこに?」
「ほらっ、あの草のとこ・・・うわわっ・・・」

 

ざっぱ~~~~~ん!


 

・・・・・・。



「生きてるかー」

「ぴこぴこー」


「・・・ふえ~~~~~ん」


なさけない答えが返ってきた。



・・・・・・。


・・・。

 


 

夜。

 

どうしても寝付けずにいた。


時計の秒針やクーラーの音が、耳について離れない。

ソファーで仰向けになったまま、暗い天井を眺めた。

今日一日のことを、思い返してみる。

霧島診療所は、今日も暇だった。

聖もポテトも、相変わらずだった。

佳乃は今日も元気だった。

小川に落ちても、当然のように傷ひとつなかった。

佳乃の言う通り、水面に舞う蛍を見た。

それから、ずぶ濡れの佳乃を連れて帰った。

クシャミを連発していたが、自業自得というものだろう。

もっとも、俺も聖にガッチリ怒られたが。


「・・・・・・」


もぞもぞと寝返りを打つ。

もう一度目を閉じた。

何かが引っかかっている。

封印された魔法。

誰かが佳乃に与えたバンダナ。


――『大人になるまで外してはいけない』


たったそれだけの、他愛のない約束。

忘れてしまった誰かの言葉を、ここまで守り抜けるものなのか?

よくわからなかった。

やがて。


答えの代わりに、眠気が押し寄せてきた。



・・・・・・。



かすかな物音と共に、目蓋の向こうが明るくなったのを感じた。


「わわっ・・・」
「何を驚いている?」
「だって、急に光るんだもん・・・」


ばたり。


扉を閉める音。


俺はゆっくりと目を開けた。

 

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診察室に明かりが灯っていた。


「あいつらか・・・」


寝ている俺に遠慮して、待合室の蛍光灯を点けなかったのだろう。

佳乃の調子が悪くなって、診察でもするのだろうか。

寝転がったまま、耳を澄ましてみる。


「・・・・・・」


何も聞こえない。

もう一度眠りに戻ろうとする。

当然、目が冴えてしまっている。


気になる。


何を話しているのだろう?

ものすごく気になる。

ただの診察ではないような気がする。

真夜中に姉妹が診察室で行うとなると、色々な意味ですごいことのような気がする。

ここに俺がいるのも、承知の上のような気がする。

聞かないと一生の損のような気がする。


「・・・・・・」


盗聴決定。


物音を立てないように、ソファーから降りた。

細心の注意を払いつつ、診察室の扉に近づく。

ドアノブの脇に、耳を当てる。

精神を集中する。


「・・・・・・」


二人の話し声が、かろうじて聞こえてきた。


「・・・ほらぁ。 熱なんてないって言ったのに~」
「だとしてもだ。 今日はもう寝ること」
「でもでも、今日の分の宿題、まだ終わってないよぉ」
「そんなもの気にするな。
私が学生だった頃は、夏休みの宿題なんて、九月に入ってからしたものだぞ」
「うぬう。でもぉ・・・」


いつも通りの、呑気な会話だった。

どうやら、ただの診察らしかった。


「ふーむ・・・佳乃も、ずいぶん成長したな・・・」
「うわわっ、や、やめてよお姉ちゃんっ」
「ん? なにをだ?」
「ふぇぇ・・・変なとこ触らないでよぉ~」
「これは触診と言ってだな・・・」
「触診はもみもみしないよぉ~」
「ぐへへへ・・・いいじゃねえか、お嬢ちゃんよぉ」
「はぅぅ・・・変態オヤジさんの出没だぁ・・・」
「うりゃっ」
「や、やめてよぉ~」
「はりゃっ」
「お・・・お姉ちゃ~ん・・・」
「とりゃっ」
「・・・ぁ・・・」
「おっ、今、少し反応したな」
「ち、ちがうも・・・ぅん・・・」


・・・・・・。


どうやら、診察室の中では、期待以上の光景が繰り広げられているようだった。

思わず、中の光景を想像してしまう。



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・・・・・・。


「ぐはっ」


なんともピンク色をした想像だった。


・・・。



「・・・あれれ? 今、変な声が聞こえたねぇ」


とっさに自分の口を両手で塞いだ。

意味のない行動だった。


「変な声?」
「うん」
「そうか?」
「うん。 なんか、ヒキガエルが腕立て伏せしてるみたいな声だったよぉ」
「・・・どんな声だ、それは」
「うぬぬ・・・わかんない」
「じゃ、気のせいだろ」
「そうだねぇ」

 

・・・。


「・・・・・・ふぅ・・・」


どうやら、気づかれなかったらしい。


再びドア越しの会話に耳をそばだてる。


・・・・・・。


「・・・だが、よかったな、佳乃」
「ふぇ? なにが?」
「それだけ立派に成長しているなら、国崎君もきっと喜んでくれるぞ」
「な、な、な、なに言ってるのぉ、お姉ちゃんっ」
「ふふ・・・そんなに照れないでいい」
「て、照れてないよぉ、なんでそこで往人くんが出てくるのぉ」
「なんだ、出てきてほしくないのか?」
「あ、当たり前だよぉ」
「そうか・・・それは残念だな。
なら、私が代わりに国崎君を喜ばしてやるか・・・」
「うわわっ、そ、それはダメぇーーーっっ」
「ん? どうしてだ? 私も捨てたものではないぞ」
「うぬぬ・・・そ、それは見たらわかるけどぉ・・・」
「ふ、ふぅ~ん・・・」
「う・・・なんかヤな笑顔・・・」
「ふっふっふっ・・・」
「うぅぅ~~~・・・」
「ふ・・・わかったよ、佳乃」
「な、なにがわかったのぉ~」
「二人で、というのはどうだ?」
「・・・なっ、なにが二人なのか全然サッパリわかんないよぉ」



・・・・・・。


・・・二人?


いったい、二人で、俺をどうやって喜ばせてくれるのだろうか。


想像してみる。

 


・・・・・・。



「うぐおぉぉーっっ」


ほとんど犯罪的なまでにピンク色をした想像だった。


「・・・あれれ? また、変な声が聞こえたねぇ」


(うおっ、やばいっ、今度こそバレるっ)


誰もいない薄闇の待合室で、一人あたふたする俺。


「変な声?」
「うん・・・なんか、すごく・・・」


その先が聞き取れなかった。


数秒の沈黙。


「・・・佳乃?」


聖の声の様子が、突然変わった。


「・・・おい佳乃、どうした? おい・・・」


それきり、物音が聞こえなくなった。

何が起こっているのか、まったくわからない。

俺がドアノブに手をかけようとした、その時だった。


「そうか・・・来たのか・・・」


聖の声に、別の誰かが答えた。

小声すぎて聞き取れない。


「久しぶりだな・・・」


それきり、声は聞こえなくなった。

ただ、誰かと話している気配だけがする。

何がどうなっているのか、俺には全くわからない。

扉の向こうに全神経を集中する。

シャツの胸元が汗ばんできたのがわかる。

薄闇の中、得体の知れない予感だけが膨らんでいく。


「・・・いつも通り、繰り言を喋るだけか」


聖の声が言った。


「意味もわからなければ、役にも立たない・・・。
佳乃をどうしたいんだ? 私にどうしてほしい? 答えろ」


氷を突き立てるような、鋭い詰問。


あまりにも上手すぎるひとり芝居を聴いているかのようだった。

数秒の沈黙が、異様に引き伸ばされて感じた。


そして。


別の声が弱々しく答えた。



――「・・・このこは・・・わたくしの・・・いのち・・・」



ぞくり。


背筋が慄えた。


それはたしかに、佳乃の声だった。


だが、佳乃の口調ではなかった。


こんな喋り方を、佳乃がするはずがない。


「・・・違うっ!」


聖が叫んだ。


「佳乃は、佳乃のものだ。 私の、大切な妹だ・・・」


椅子を揺らして立ち上がる音。

そして、吐息とも悲鳴ともつかない声。

扉の外からでもわかった。

聖が佳乃を抱きしめたのだ。


次の瞬間。


「・・・あれっ?
あれあれあれあれあれっ?」


間違いない。

佳乃の声だった。

張りつめた空気が氷解した。


「あたし、どうしてお姉ちゃんとこんなになってるのぉ?」
「・・・寝ぼけてたぞ」
「・・・ふぇっ?」
「抱きついてきたから、お返しに抱擁してやったんだ」
「うぬぬ・・・ぜんぜん覚えてないよぉ」
「だから早く寝ろと言ってるだろ?」
「うぬぬ・・・まあいっかぁ。 ねぇ、お姉ちゃん?」
「なにかな、妹さん」
「ちょっとだけ、このままでいい?」
「ああ、いいぞ・・・」
「・・・・・・」


・・・・・・。


「・・・お父さんが死んじゃった時も、こうしてくれたよね」
「ああ、そうだったな・・・」


そして、声は聞こえなくなった。

普段と変わらない、姉妹の温もりだけが伝わってくる。

俺はゆっくりと扉から離れた。



・・・・・・。


・・・。

 



7月31日(月)

 

 

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肌寒さで目が覚めた。

クーラーをつけっぱなしにしていたせいだと気づいた。

ソファーから身を起こす。

診察室の扉を見る。

人の気配はない。

昨夜のことを思い返してみる。

漏れてきた二つの声。

佳乃ではない佳乃。

そして、聖の叫び。


・・・夢、だったのだろうか?

頭がぼおっとしていて、考えがまとまらない。

立ち上がろうとして、床に何かが落ちているのに気づいた。

メモ用紙の切れ端だった。

拾い上げて、裏返す。


『佳乃の側にいてやってくれ』


聖がカルテに書き込む文字と、筆跡は同じだった。

玄関口に近づき、下駄箱を開けてみた。

聖の靴がなかった。


・・・・・・。

 

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辺りを見回す。

動きはじめる前の町。

今日も変わらない青空。

見覚えのある白衣の裾が、角を曲がるのが見えた。


俺は後を追った。



・・・・・・


・・・


 

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橋にさしかかった。

聖は躊躇なく渡り、そのまま山際に向かった。

散歩という風ではなかった。

見失わない程度に距離を置いて、俺も橋を渡った。


・・・・・・

 

・・・



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やがて、山道になった。

俺にも目的地の察しがついた。

 

・・・・・・


・・・


 

階段を登り、鳥居をくぐる。




・・・


早朝の神社。

露に濡れた葉の匂いがする。

左右の玉砂利が、今も冷気を貯えている。

まだ蝉さえ鳴いていない。

当然のように、他に人はいない。

元々、この神社は不便な場所にある。

人を遠ざけるような雰囲気さえ感じられた。

鳥居に身を隠し、聖の様子をうかがった。

参拝するわけではない。

ただ参道の真ん中あたりに、所在なげに立っている。

そこにあったはずの何かを、見ているようだった。

声をかけるべきだと思った。

聖の姿はそれほど幼く、心細く見えた。

俺は鳥居の影から踏み出した。


「・・・散歩にしては、遠出だな」


聖が振り返った。

俺を見るなり、細い眉を動かす。

 

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「なぜここにいる?
留守番しているように、と書いただろ?」
「あんな書き方で伝わると思うか? てっきり俺は・・・」


・・・あんたがもう、戻ってこないのかと思ったぞ。


「そうか、それは済まなかった」


妙に素直だった。

俺の方に歩み寄ってくる。

と、聖の身体がぐらりと揺れた。


「・・・もしかして、寝てないのか?」
「仕事中にいくらでも寝る時間はある」


・・・それは色々な意味で、洒落になっていない。


聖は無言のまま、神殿の瓦を眺めていた。

俺は思い出していた。

聖とは以前にもここで会っている。

佳乃がうわごとを言って倒れた晩のことだ。

佳乃の姿を見つけるなり、聖は言った。


『やはりここにいたのか』


なぜ聖は、佳乃がここにいると知っていたのだろうか?

訪ねても、答えてもらえるとは思えなかった。

視線を上向ける。

電線も建物もない、泉のように澄んだ空があった。

たぶんこの場所は、この町でいちばん空が近い。


「願掛けにでも来たのか?」
「・・・違う」


はっきりと、聖は答えた。


「私は多分、罪滅ぼしをしたいだけだ。
願っても叶えられないことは、わかっているからな」


問い返そうとするより早く、聖は俺に背を向けた。


「戻るぞ。 佳乃の朝食を作らないとな」


大股で歩き始める。


「あんたの分と俺の分も作ってくれるんだろうな?」


思い出したように、聖は答えた。


「・・・そうだな。 作るとしよう」


その笑いが、どこか淋しげだった。

 

・・・・・・


・・・



 

診察室で、佳乃が電話をしている。


「うん・・・えっと、鳥さんは水替えだけでオッケーだよぉ。
あと、モコモコが食べすぎないように気をつけてあげてねぇ」


どうやら、飼育当番を代わってもらう連絡らしい。


「・・・ありがとーっ、お礼にキミをかのりんの仲良しクラスメート1号に任命するよぉ」


相変わらず、適当に番号をつけている。


「それじゃ、頼むねぇ」


受話器を戻し、小さく溜息をつく。

 

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「ふう・・・」
「調子、悪いのか?」
「うん・・・。 ちょっと、風邪気味かも」


すこし顔が赤いような気がする。

昨夜、川に落ちたまま歩いたのが、身体に障ったらしい。

少し、罪悪感を覚える。


「でも大丈夫っ!
かのりんの野望はこれしきで挫折したりしないよぉ」


・・・だから野望って何だよ、野望って。


がちゃり。

扉が開き、聖が入ってきた。

 

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「まだいたのか」


佳乃を見るなり、瞳を心配げに細める。


「部屋で寝てなきゃ駄目だろ?」
「そんなあ。大げさだよぉ」
「今日は一日安静にしていること」
「でもでも、宿題もあるし」
「宿題よりも身体が大切だ」
「うぬぬ。 わかったよぉ・・・」


意外に素直だった。


「それじゃ、寝てるねぇ」


診察室を出ていこうとした佳乃に、聖が声をかけた。


「昼は部屋まで運んでやるぞ。 何が食べたい?」
「流しソーメンっ!」


・・・まさか、部屋まで流すのか?


「今日は駄目だ」
「うう~、いじわるぅ」
「メニューは私が適当に選ぼう。
その代わり、国崎君の出前つきだ」
「・・・ホントっ?」


きらきらと目を輝かせる。


「俺でよければな」


意外な反応に、俺は苦笑いしながら答えた。


「うん、文句なしっ。 じゃあ待ってるねぇ」


病人とは思えない笑顔を残して、佳乃は診察室を出ていった。


・・・・・・。


・・・。

 

午前中の仕事が始まった。

奇跡的に3人も客が来た。

診療の間、俺は受付にぼおっと座っていた。

色あせた検診日程表や今は使われていない薬棚が、ここが繁盛していた頃を偲ばせた。

昼食は粥だった。

佳乃のために、聖が選んだメニューだ。

ホタテをだし汁にしたという薬膳粥は、なかなか美味だった。

 

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「今さら言うのもなんだけどな」
「いきなり何だ?」
「あんた、料理が上手いな」
「世辞を言っても何も出ないぞ」
「おかわりもないのか?」
「ない」


無慈悲に頷く。


「あとは佳乃の分だけだ」
「ポテトは?」
「今日も外出だ」
「そうか・・・」
「・・・・・・」


・・・・・・。



どうも会話が進まない。


「風邪気味なだけだろ? 医者のあんたが過剰に気にしてどうすんだ?」
「ああ。 それはわかっているんだが・・・」


聖が立ち上がった。

無言のまま診察室を出ていく。

しばらくして、木の角盆を持って帰ってきた。

佳乃の茶碗、スプーン、水の入ったコップと薬が並んでいる。

温めなおしてきたのだろう、茶碗からは湯気が上がっている。


「悪いが、運んでやってくれ」


言いながら、俺に盆を差し出す。


「あんたがそのまま持っていけばよかっただろ」
「朝、約束したんだ。 君が持っていくと。
あの子は楽しみにしているはずだ」


真剣すぎるほど真剣に言う。


「・・・わかった」
「すぐに戻って来いよ」


俺は頷いてみせ、盆を受け取った。



・・・・・・


・・・とんとん。


盆を片手で持って、扉をノックした。


「起きてるか?」


「うわわっ・・・ちょっ、ちょっとだけ待ってぇ」


なにやらどたどたと音がする。


「うんっ。 いいよー」
「入るぞ」


俺はドアノブを回し、扉を開け放った。

 

 

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よく整理された部屋だった。

大きな窓から、陽光がさんさんと射し込んでいる。

立派な書棚には、百科事典や文学全集が置かれている。

聖のお下がりだな、と何となく思った。

ベッドに腰かけていた佳乃が、俺を見て立ち上がった。

 

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「散らかっているから、恥ずかしいかも・・・」
「別に散らかってないだろ。
居心地がよさそうな、いい部屋だと思うぞ」
「えっと・・・」


何か言いかけて、顔を赤くする。


「・・・どうだ、具合は?」
「もう大丈夫だよぉ」
「って、なんでお前、寝間着を着てないんだ?」
「だって・・・もう治ったもんっ」


子供レベルの言い訳だった。


「そっ、それだけじゃないもん」
「何だよ?」
「えっと・・・。 パジャマ見られるの、恥ずかしいし・・・」


それで、俺が来る前に着替えようとしていたらしい。


「そんなこと気にしてる場合じゃないだろ」
「うぬぬ。 だって・・・」
「寝てろっ」


びしっとベッドを指さしながら、言ってやる。


「俺が聖に怒られるんだ。 ベッドから離れるな」
「う~。 ごはん~~」


しぶしぶベッドに腰かけ、恨めしそうに唸る。

そうだった。

食事が乗せられた盆を、ベッドの上に置いてやった。


「まず、食べてから寝ろ」
「うん・・・食べるぅ」


スプーンと茶碗を持ち、くんくんと匂いを嗅ぐ。


「わ~、ごちそうお粥だぁ」
「美味かったぞ。 俺には量が足りなかったけどな」
「いただきまーす」


スプーンで掬い、ぱくっと口に入れる。


「・・・あつひかも~」


とたんに情けない声を出す。

水をこくりと飲んで、粥の続きに取りかかる。

俺はしばらく、佳乃が食事をするのを見ていた。

本人は気にしていないようだが、手首のバンダナが邪魔に見えた。


「あーん、してやろうか」
「それは恥ずかしすぎだよぉ」
「そうか。 そうだな」


考えてみれば、俺も恥ずかしくてできない。


「じゃあ、ゆっくり食えよ」
「あれれ? もう行っちゃうのぉ」


とたんに佳乃は淋しそうな顔をした。


「ああ。 まだ、仕事が残ってるからな」
「そっかぁ。 じゃあ、しょうがないねぇ・・・」
「じゃあな。 ちゃんと寝てろよ」


部屋を出ていこうとして、もう一度振り返った。

思った通り、佳乃は食事の手を止めて俺のことを見ていた。


「佳乃」
「ふぇ?」
「いつでも、呼んでいいからな」
「うんっ」


いつも通り、にっこりと笑う。


「残さず食べろよ、薬もちゃんと飲めよ」
「うんっ。 わかってるよぉ」


・・・・・・


俺は佳乃の部屋を後にした。

聖が過保護になる気持ちが、少しだけわかったような気がした。


・・・・・・。


・・・。

 

 

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午後にも数人の患者を診て、今日の診察は終わった。

すかさず床をモップ掛けする。

『とにかく清潔に』が聖の方針だからだ。

バイトを無駄に遊ばせたくないというのが、真の理由のような気もするが。

診察時間の間も、俺は何度か佳乃の様子を見に行った。

よほど退屈なのか、行くたびに雑談につきあわされた。


『今度は聖にこさせようか』


俺がそう言っても、佳乃は首を縦に振らなかった。


「ううん。 お姉ちゃん、仕事中だから」


そう報告しても、聖は何も言わなかった。

淋しさと嬉しさを、同時に感じているようだった。



・・・・・・。


・・・。

 


一通りの仕事を終えた時には、もう暗くなっていた。

 

・・・。


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「晩飯だ」


診察室に戻ってきた聖が言った。


「茹でたてだぞ」


持ってきた盆を机に置く。

霧島家、夏の定番メニューだった。


「・・・またソーメンなのか?」
「安心しろ。 今日は流さない。
代わりに竹を皿に使ってみたぞ。 なかなかのハイセンスだろ?」


戦わずに食えればどうでもいいので、頷いておく。


「さらに付け汁だが、食欲がないだろうから薄目の梅ダレにしてみた」
「俺は食欲大ありだぞ」
「君の食欲など知ったことか。
私は佳乃のことを言っているんだ」
「そうだろうな」


適当に答える。

というか、何でもいいからもう食べさせてほしい。


竹を切った容器に盛られたソーメンを見た。

涼しそうで、美味そうだ。

だが、食器も箸もなぜか二人分しかない。

背筋を汗が伝うのを感じた。


「おっ・・・俺には、食わせない気か?」


まさに悪魔の所行だった。


「私はこれから用事がある」


言いながら、書類入りの茶封筒を掴む。

どうやら食わないのは聖らしかった。


「どこか行くのか?」


胸をなで下ろしながら、一応訊いてみた。


「寄り合いだ」
「人体改造関係のか?」

 

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「・・・・・・」
「お医者様方の有益な話し合いっすね~」
「有益かどうかは私の知ったことではないがな」


うっとおしそうに溜息をつく。


「・・・ちょっと意外だな」
「何がだ?」
「あんたが人付き合いがいいようには見えないからな」
「もちろん、私は人付き合いなどよくはないぞ」


なぜか自慢げに答える。


「出席しておかないと、佳乃がうるさいんだ」
「なんで?」
「『お姉ちゃんがちゃんとしてくれないと、ウチはおまんまの食い逃げだよぉ』だそうだ」


・・・食い逃げじゃなくて食い上げだと思うが。


「家計のことをちゃんと考えてくれるなんて、あの子も成長しているんだなあ・・・」


遠い目をして嬉しそうに言う。


「成長といえばだ、国崎君」


俺の肩をぽんと叩く。


「何だよ、改まって」
「佳乃はな、外見は子供っぽく見えるだろ?」
「・・・中身も子供っぽいぞ」
「ふっふっふっ。 甘いぞ国崎君」


腕組みしたまま、意味ありげに笑う。


「あの子はな、脱ぐと結構スゴいんだ。
去年まではやせっぽちだったが、今年は胸のあたりが当社比2倍で容量アップしたぞ」


・・・当社ってどこだよ、当社って。


「骨盤の成長ぶりも臀部の肉づきも申し分ない。
いわゆる安産型というやつだな」
「・・・・・・」


その手の用語で言われると、必要以上にいやらしく感じるのはなぜだ?


「この私の妹だ。 豊満な美女に育つのは当然だがな」


結局、それが言いたかったらしい。


「そういうわけなので、夕飯と薬をあの子の部屋まで頼む。
なお、特別手当として、君もあの子と一緒に食べることを許可しよう。
なお、食事以上の行為に及んだ場合は・・・」

 

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しゃきしゃきしゃきしゃきーん。


「・・・・・・」


いつもと同じオチだった。



・・・・・・。


・・・。


「今日中には戻るから、佳乃のことを頼むぞ」


・・・。


そう言い残し、聖は出かけていった。

俺は夕食を持って、佳乃の部屋に向かった。


・・・・・・


「・・・・・・」


こんこん。


小さくノックする。

だが、中からの返事はない。


(寝てるのか・・・)


戻ろうとして、何かが引っかかった。

ドアノブに手をかけてみた。

音をたてないよう、ゆっくりとひねる。

鍵はかかっていないらしい。


「・・・入るぞ、佳乃」


小声でことわりを入れてから、扉を開けた。

 

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電灯は消えている。

空気に動きがあった。

ほんの少しだけ、窓が開いていた。

海の香りを含んだ風に、カーテンの裾が揺れていた。


「佳乃・・・?」


一瞬の空白の後、部屋を見渡す。

音のない部屋。

通りを照らす外灯の明かりが、光の帯をベッドに投げかけている。

空っぽのベッド。

そこに在るべきはずのものがない。



――がしゃんっ!



手にしていた盆を投げ捨て、俺は走り出した。

 


・・・・・・


・・・

 

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まだらな外灯の列。

次を目指して、その次を目指して、足を前へと運び続ける。

知らぬ間に速くなった鼓動。

胸が痛い。

走っているせいじゃない。

なにか得体の知れないものが、胸を押し潰そうとしている。

だから、今は走る。



・・・・・・


・・・

 

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橋を渡った。

夜が濃くなった。

自分が誰なのかさえ見失ってしまいそうな闇だった。

 

・・・・・・

 

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無意識のうちに、足はこの場所を目指していた。

 

無意識?

 

違う。

 

俺は、知っていたのかもしれない。

 

ここに答えがあることを。

 

石段を登りきった。

 

鳥居の向こうに、たくさんの星が瞬いているのが見えた。

 

呼吸が苦しい。

 

それ以上に、予感が胸を塞いでいる。

 

・・・・・・

 

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「佳乃っ」


自分の声は、ひんやりとした夜気に吸い込まれていった。


ざわざわざわ・・・。


風が吹き抜けた。


その向こう。


少女は一人、立ち尽くしていた。

 

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「・・・・・・」
「佳乃っ」


俺は駆け寄った。


「・・・・・・」


光を映さない瞳。

何を見据えるでもない、虚ろな瞳。


「佳乃・・・」


手を伸ばす。

指先が、髪に触れる。

その瞳には、俺がいない。


「・・・・・・」


そして。

佳乃の唇が動いた。

佳乃の言葉ではない言葉で。


「ならばいっそ、わたくしの手で・・・」


佳乃の両腕が持ちあがる。

細い指が、俺の首を左右から包む。

ゆっくりと、力がこめられる・・・。

灼けるような激痛が、首筋を襲った。


・・・・・・。


俺は我に返った。

目の前に佳乃がいた。

だがそれは、佳乃ではなかった。

俺の首を、佳乃が両手で締めつけている。

起こっていることに全く現実味が感じられない。

首の皮膚が熱い。

まるで熱した鉄棒を押し当てられているようだった。

首を絞める手に、一層の力が込められる。


「・・・ぐはっ」


それは、少女の力ではなかった。

振り解こうと、佳乃の手首をつかんだ。


「くっ・・・」


渾身の力を込めて、佳乃の両手を外そうとする。

俺より遙かに細いその手を、どうしても振り解くことができない。


息ができない。


目の前が暗くなっていく。


恐怖や悔しさはなかった。


なぜだかわからない。


ただ、たまらなく悲しかった。


意識が途切れそうになった、その時。


全く不意に、圧迫感が消えた。


佳乃が俺のことを見た。


一瞬だけ宿った光が、俺の姿を映した。


佳乃の瞳が見開かれた。


そこから先は、スローモーションを見ているようだった。


佳乃の両手が、俺の胸元を撫でるように落ちていく。


佳乃ががくりと膝を折り、地面に倒れていく。


朦朧とした意識の中で、俺は佳乃を抱きとめた。


「佳乃っ・・・」


自分の声が聞こえなかった。

喉が潰れてしまったのか、耳がおかしいのか。

それとも悪夢の中にいるのか、それさえ判別できなかった。


「なんなんだよ・・・これは・・・」


混乱に苛まれながら、佳乃の体を抱き上げた。


・・・軽い。


まるでそこに、存在しないかのように。


「くそっ」


怒りが沸き上がってくる。

何に対しての怒りなのか、わからないまま。

そうすることでしか、意識を保つことができなかった。

足を踏み出す。

地面が揺らぐ。

足取りがおぼつかない。

だが、ここにいるわけにはいかなかった。

俺の腕の中で、佳乃は身動きひとつしない。

かすれそうになる視界の中、朽木のような鳥居が見えた。

佳乃を抱きかかえたまま、俺は必死に足を動かそうとした。

この場から逃げ出すために。

ただ、現実に帰るために。


・・・・・・


・・・

 

 

8月1日(火)

 


目覚めると、そこは真っ白な部屋だった。

真っ白な壁。

真っ白なシーツ。

自分が今どこにいるのか把握するのに、しばらく時間がかかった。

柔らかな消毒液の匂い。

その向こうから、穏やかな声が聞こえた。

 

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「・・・目が覚めたか」
「ああ・・・」


声に答えながら、俺は診察用のベッドの上で上半身を起こした。

頭が重い。

こめかみの辺りに、鈍い痛みがあった。


「今・・・何時だ」


訊ねてから、目の前の壁に掛け時計があるのに気づいた。

針はちょうど六時半を指していた。

窓の外は赤い夕暮れ。

どうやら、丸一日近く眠り続けていたようだった。


「調子はどうだ」


身を寄せながら、聖が俺の体を気遣う。


「・・・悪くはない」


そう答えて、ベッドに腰掛ける。


「ふむ・・・。 傷は? 痛んだりしないか?」
「傷?」
「なんだ、気づいてないのか・・・」


ため息混じりに呟き、そっと俺の首筋に手を伸ばしてきた。


「しばらくは、痣が残るかもしれないな」


細い指先が、俺の首筋を撫でた。


「鏡、見るか?」
「ああ」
「見かけは派手だが、傷そのものは大したことはない」


柔らかく微笑みながら、机の上に置いてあった小さな鏡を俺の前に据える。


覗いてみる。


首筋には、指の形をした青い痣と、赤黒く変色した幾つかの爪痕が残っていた。

しかし、そこに感情は生まれなかった。

拍子抜けするほど、落ち着いている自分。

ただ、思考の整理がついていないだけだろうか・・・。


「・・・佳乃は?」
「部屋にいるよ。
よく眠っている、もうすぐ起きるだろう」
「そうか・・・」
「・・・・・・」


・・・・・・。


重い沈黙を破ったのは、聖の方だった。


「何があった?」
「・・・・・・」
「・・・言いたくない、か?」
「いや・・・」
「そうか。 なら・・・」
「わからないんだよ」
「え・・・」
「まだ、俺は何も知らないからな・・・」


そうだ。

俺はまだ、何も知らずにいる。

知るべきことなのかどうかさえ、わからずにいる。

窓の外に目を移す。

庭に植えられた木立の隙間から、小さな空が見えた。

夏の夕暮れ。

夏の空。

そして日が暮れて、また夜がくる。

ゆっくりと、しかし確実に昨夜の記憶が甦ってくる。

あれは、夢じゃない。

現実だ。

爪痕を撫でてみる。

皮膚とは微妙に違う異質な感触と共に、微かな痛みが走った。

誰の痛み?

佳乃の?

それとも・・・。


「・・・彼女に、逢ったのか?」


聖はそう言った。


「ああ」


俺は答えた。


「・・・そうか。 その傷は、彼女か?」
「みたいだな」
「ふむ・・・」
「・・・・・・なあ、あれは誰・・・えっ」

 

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「お、おい」
「・・・・・・」


柔らかな唇が、俺のすぐ側にあった。

艶やかな髪の香りが、鼻先をくすぐる。


「・・・すまなかったな」


俺の耳元で呟く。

首筋に、言葉の数だけ息がかかる。


「これは、私が受けるべきものだったんだ」
「・・・・・・」
「すまない・・・」


なぜだろう。

胸が痛い。

訊ねるべきことは、抱えきれないほどあるはずなのに。

言葉が出なかった。


「話さなければならないだろうな」
「そっちが話したいのなら」
「そうか・・・」


・・・・・・。

 

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「・・・それなら、聞いてほしい。
あれは、佳乃がまだ小さかった頃のことだ。
母親が死んで、最初の夏だった・・・」


・・・・・・。

 

――――

仲のいい姉妹がいた。

いつも、二人一緒だった。

口うるさいけど物知りでやさしい、自慢の姉。

泣き虫だけど素直で可愛い、大切な妹。

二人とも、夏が大好きだった。

二人とも、お祭りを楽しみにしていた。

でも、その年の夏はいつもと違った。

お祭りに連れていってくれる母親が、今はどこにもいなかった。

 

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「・・・お姉ちゃん
お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃんってば~」
「・・・服を引っ張るな」
「だって、お姉ちゃん歩くの速すぎるんだもん」


姉は溜息をつく。

お祭りになんて、来るんじゃなかった。

がらんとした部屋の中に、二人きりでいるのが嫌だった。

母親と歩いた楽しい思い出が、外で待っている気がした。

だから家を抜け出して、妹と二人で高台の神社まで来た。

にぎやかな祭囃子に、たくさんの屋台。

時折すれ違う、楽しそうな親子連れ。

唇を噛みしめる。

妹の手を握り、うつむいたまま歩く。

その時、賑やかな声が言った。


「見て見てっ。 風船っ!」
「風船だな。 じゃっ、そういうことで」


何事もなかったかのように、その場を離れようとする。

でも、妹は動こうとしない。

瞳の先には、屋台に結ばれた色とりどりの風たち。


「浮かんでるう~」


ほっぺたに手を当てて、うっとりと言う。


「そりゃあ、風船だからな」
「ねえねえ、あれ買ったら、空飛べる?」
「飛べない」
「うぬぬぅ。 なんで?」
「風船ひとつで人間一人が浮き上がるなら・・・あの夜店は、今頃空を飛んでる」


びしっと指摘した頭のいい姉。


「ふえ~。 お姉ちゃんあったまいい~」


よくわからないけど感心顔の妹。


「でもそれって、いっぱい風船あれば飛べるかもだよね?」
「・・・・・・」


墓穴を掘った姉。


「・・・飛べるかもしれない。
でも、ひとつだけしか買えない」


スカートのポケットから取り出したのは、彼女の全財産。

100円玉が4枚。

いちばん小さい風船ちょうどひとつ分だった。


「へへ~。 佳乃もおこづかい持ってるもんっ。 はいっ」


10円玉が2枚。


「・・・・・・」
「ねーねー、風船いくつ買えるの?」
「ひとつ」
「だって、佳乃もお金出したんだよ~」
「それでもひとつ」・・・うぬぅ。 むずかしい~」


幼い眉を寄せ、世の中の不条理についてしばし考える妹。

だが、すぐに次の手を思いつく。


「そうだっ!
風船がひとつでも、いっぱい膨らませればいいんだよ。
そうすれば、もっと重いものだって持ち上げられるよ」


・・・どこか間違っているような気もしたが、この妹にわからせるだけの自信が姉にはない。


「・・・わかった。 でも本当にひとつだけだぞ」


それで妹の気が済むのなら、買ってあげようと思った。

お金を払い、淡いピンク色の風船を受け取る。


「ほら」
「うわわぁ。 ありがと、お姉ちゃんっ!」


こぼれ落ちそうに笑いながら、妹は小さな手を伸ばす。

すれ違った誰かの肩が当たり、姉の身体がほんの少しだけ揺れた。

渡そうとした糸が、指の間をすり抜けた。


「あっ・・・」


風船は浮きあがり、ゆっくりと夜空に消えていった。

姉がどんなに手を伸ばしても、もう届かなかった。


・・・・・・。

 

――――

 

 

 

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「あんなに泣いたのは初めてだったな・・・」
「あんたがか?」
「佳乃がだよ」
「わかってる」
「なら訊くな」
「・・・・・・」


冗談は通用しないモードになっていた。


「・・・それから、どうしたんだ?」
「佳乃をなだめながら、家に帰った。
『お父さんにお小遣いを前借りして、それでたくさん風船を買おう』、そう言い聞かせて」
「で、風船は買えたのか?」


聖はゆっくりと首を振った。


「父は急患の往診に出ていて、一晩帰ってこなかった」


俺は想像してみた。

いたはずの人がいない家。

ひんやりとした夜の空気。

逃げてしまった風船。

自分を空に運んでくれるはずだった風船・・・。


「なぜ佳乃は、空を飛びたいなんて考えたんだ?」
「母親に会いたかったからだろう」
「・・・母親に?」


意味がわからず、俺は問い返そうとしていた。

聖の瞳が、かすかに揺らいだように見えた。


「あの頃、佳乃は信じていたんだ。
お母さんは空にいて、自分のことを見ていてくれる、と・・・。
そういう風に、私が教えたからだ」


自分自身に罪状を伝えるように、聖はつぶやいた。


「父も私も、言えなかったんだ。
『お母さんはもうどこにもいない』なんて、あの子には言えなかったんだよ」


・・・・・・。

 

――――



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満天の星。

蚊取り線香と西瓜の匂い。

花火の燃えかすが、道端に散らばっている。

踏みしめていく、足音が二つ。

路地を抜け、蛍の舞う田んぼを過ぎる。

真っ暗な山道を、手をつないで急ぐ。

最後の坂を登り切ると・・・。


「お姉ちゃん、まだやってるよっ!」

 

 

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神社の参道に続く、土の細道。

提灯の光が連なり、二人の行く手を示していた。

鳥居の向こうは、ぼうっと輝いている。

数時間前に見た夜店の賑わいは、今も続いているようだった。


「・・・よかった、間に合った」


立ち止まり、苦しい息を整える。

鳥居の方を食い入るように見つめながら、妹が心配そうに言った。


「売れ残り、あるかな?」
「ある。 絶対ある。
風船なんて、きっと誰も買わない」
「みんな、風船きらいなの?」
「きらいじゃなくて、他に買いたいものがあるんだよ」
「でも、佳乃は風船大好きだよぉ。
風船があったら、たこ焼きもりんご飴もいらないよ」
「・・・お腹減ってるのか?」
「ううんっ」


元気に首を振ったとたん、きゅううと腹が鳴る。

二人きりの夕食は、どちらも箸が進まなかった。

冷えたご飯を箸でつつきながら、妹は言った。


『お祭りがおわったら、風船はきっと空に放すんだよ。
頼めばきっと、ひとつぐらいもらえるよ』


幼い妹の、他愛のない言葉。

姉の指先には、まだ糸の感触が残っていた。

風船屋のおじさんはやさしそうだった。

正直にわけを話せば、本当にくれるかもしれない・・・。

最後の石段を駆け登る。

そして、二人は鳥居をくぐった。



・・・・・・。


風船なんてどこにもなかった。

浴衣を着た家族連れもいなかった。

賑やかに並んでいた夜店は、ほとんどがもう骨組みだけになっていた。

疲れた顔の大人たちが、無言で荷造りをしている。

そして、別の町に向かう。

楽しかった祭りの終わり。

胸を締めつけられる光景。

梢をざわざわと鳴らし、夜風が吹き抜けていった。

隣にいる妹が、ぎゅっと手を握ってきた。

すがりつく指先が、『ここにはいたくない』と伝える。

それなのに・・・。


『家に帰ろう』


その一言が、どうしても言い出せなかった。

 

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我に返った時、祭りの片づけは終わっていた。

二人の他には誰もいない神社。

元に戻っただけのはずなのに、別の場所のようだった。

妹のことを見た。

薄闇にさらしたほっぺたに、涙の跡が残っていた。


「お腹、空いただろ・・・」


答えは返ってこない。


「帰ったら、何でも作ってやるぞ」


言ったとたん、冷蔵庫の中が空っぽなのを思い出す。

それでも姉は笑顔をつくる。


「お姉ちゃんにできる料理なら、だけど」


答えは返ってこない。

妹は何かを一心に見つめていた。

こぢんまりとした神社の本殿。

階段を登った先。

わずかな戸の隙間から、淡い光が漏れている。

炎や電灯とは違う、夏の夜気そのものが滲んでいるかのような、不思議な輝き。

取り戻せない何かさえ確かに思い出させるような、そんな光。


「お姉ちゃん・・・」


顔を見合わせる。

どちらからともなく、恐る恐る近づく。

普段は鍵のかかっているはずの扉は、音もなく開いた。


・・・。


手をつないだまま、本殿の中に入った。

何百年も昔から身じろぎさえしたことのない、黴(かび)臭い闇の匂いがした。

がらんとした空間の突き当たりに、祭壇があった。

いちばん上の棚で、何かがぼおっと光っていた。


「うわぁ・・・」


妹の声が、それを見つけた。

横たわっていたのは、一枚の羽根だった。

輝く鳥の羽根。

白とも銀色ともつかない、柔らかそうな光に包まれている。


「魔法の、羽根だあ・・・」


姉は何も答えない。

一目その羽根を見た時から、妹と同じことを考えていたからだ。

綿のようになめらかな羽毛は、二人を誘うように慄(ふる)えている。

これさえあれば、きっと空を飛べる。

お母さんのところにだって、本当に行けるかもしれない・・・。


「んしょ・・・あれっ? もうちょっとなのに~」


背伸びしながら、羽根に手を伸ばす妹。

どうしても届かない。

姉は羽根の軸をそっとつまむと、妹に差し出した。


「ほら・・・」


幼い指が、羽根を受け取った。


その瞬間。


生命を持たないはずの羽根が、ざわりと波打った。


空にいた頃の記憶を、取り戻したかのように。


凶暴なほどの光が辺りに満ちる。


目が眩み、何も見えない。


そして・・・。


――――

 


「・・・どうなったんだ?」
「何も起こらなかった」


ただぽつりと、聖は言った。


「神社の管理人に、懐中電灯で照らされて、早く帰れと怒鳴られただけだ。
羽根は元に戻して、二人で家に戻った。
帰り道で、佳乃は言ったよ。
『お母さんのところには、もう行けないんだね』、そう言ったんだ」
「・・・・・・」
「その翌日から、佳乃の様子がおかしくなった。
自分でも知らないうちに外を出歩いたり、意味がわからない独り言をつぶやくようになった」


神社での印象を、思い出していた。

虚ろな視線で、空を見ていた佳乃。

その唇から漏れてきた言葉。


――『・・・たとえば・・・ほしのかず』

――『やまでは・・・きのかず・・・かやの・・・』


何を意味するかは、今もわからない。


「そんなことが何度か続いた」


言葉を切り、俺のことを正面から見る。

医者としての冷徹な瞳と、妹を想うやさしげな眼差し。

そのどちらもが、深い愁いを帯びていた。


「深夜に起きて隣を見たら、佳乃がいなかった。
一人ではトイレにもいけないような子だったからな。
あわてて探したよ。
佳乃は診察室にいた。
父が片付け忘れたメスを、自分の手首に押し当てていた」
「・・・・・・」


俺は視線を外した。

診察室の四隅に、夕闇がうずくまっている。

それはまるで、この家に染み込んだ後悔を宿しているように見えた。


「処置が早かったから、大事には至らなかった。
あの時、私は思ったよ。
これは佳乃じゃない。
別の誰かが、佳乃の振りをしているんだ、と・・・」


佳乃のことを思いだしていた。

俺たちに向けられる、屈託のない明るい笑顔。

あれが佳乃のものでなくて、誰のものだというのだろう?

だが、俺は気づいていた。

佳乃が右手首に巻いたバンダナ。

華奢な手首には不釣り合いなぐらい、よく目立つアクセサリー。


「そうすると、あのバンダナは・・・」


訊ねると、聖は無言で頷いた。


「私があの子につけさせたものだ。
『これは不思議なバンダナだ。
大人になるまで巻いていれば、魔法が使えるようになる。
それまで、どんなことがあっても絶対に外さないように』
そう言い聞かせて。
無意識に手首を切ろうとしても、バンダナを見れば正気に返ることができる。
・・・子供心に、そう考えたんだ」


自嘲するように、聖は言った。

椅子をくるりと回して、窓の外の黄昏を見る。


「あの子はすごく喜んだよ。
『大人になるまで絶対に取らないよ』って、にこにこ笑ってくれたよ・・・。
あの日のことは、佳乃はほとんど覚えていないはずだ。
それでもあの子は、今も私の言いつけを守っている。
佳乃はあのバンダナを外さない。
いや、外せないんだ」
「・・・・・・」


それは違うと思った。

佳乃も、大人になる日が来る。

もしかしたらそれは、今年の夏なのかもしれない。


「そして、私は父の跡を継ぐことを決心した。
勉強して医者になれば、いつか佳乃の病気を治せると思ったからだ」


聖は手を伸ばし、机から一冊の本を取った。

俺にはよくわからない、専門用語の書名。

何回も読み返されたせいだろう、表紙がぼろぼろになっているのがわかった。


「二重人格というのを知っているだろう?」
「聞いたことはあるが、よくは知らない」

「子供の頃に抑圧された体験があると、それを別の人格にして、辛い記憶から逃れようとすることがあるらしい」
「それが、『彼女』か?」
「そういうことになるな」


沈黙。


「だけどな・・・」


分厚い本を、開かないまま元に戻す。


「あるいは私は、佳乃の症状は医学では治せないと思っているのかもしれない」


独り言のような口調。

佳乃が単なる二重人格だとは、俺も思えない。

俺が断片的に『彼女』と接した印象に、人格という言葉は遠い。

壊れて雨ざらしにされた機械が、何かの拍子に動き出した・・・そんな感じだった。

あるいは『彼女』は、自分がそこにいることさえ、わかっていないのかもしれない。

そんな風に感じていた。


「あの時佳乃は、神様に願い事をした。
叶うはずのない願い事だった。
だから、佳乃は・・・」


何か言いたそうにして、そのまま言葉を濁す。

聖の視線は、俺の首についた痣に注がれていた。

身体の奥から絞り出すように、聖は言った。


「最初に羽根に触ったのは、あの子じゃない。 私なんだ。
母親は空にいると教えたのも私だ。
それなのに、なぜあの子が・・・。
あの子だけが、罰を受けなければならないのだろう」


床に視線を落とす。

誰にも答えられない疑問が、かすかな消毒の匂いの中を漂う。

何か声をかけなければ。

そう思った時にはもう、いつもの聖に戻っていた。

 

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「医者の言う台詞ではなかったな。 忘れてくれ」


照れたように笑う。

だが、俺が考えていたのは、全く別のことだ。


「あんたが佳乃に教えたことだが、出鱈目じゃないだろ」


意味がわからなかったんだろう。

きょとんとした顔で見返してくる。

だが、俺は構わず続ける。


「空に誰かがいる。
俺もずっと、そう言い聞かされてきた」
「誰だ、そんな戯言を君に教えたのは」
「俺の母親だ」
「・・・・・・」


・・・。


「君のお母さんは、澄んだ心を持った永遠の夢追い人なんだなあ」


今さら意味不明なフォローしても、遅い。


「いや本当だ。
機会があったらぜひ紹介してほしいぐらいだぞ」
「それは無理だな、俺が小さい頃に死んだ」
「そうか・・・」


それきり、黙り込む。

聖も佳乃も、知っているのだろう。

肉親を失った者にかける言葉など存在しないのだ。

窓枠に切り取られた、茜色の夏空を仰ぐ。

幼い頃に何度も何度も聞かされた、母親の言葉が耳に戻ってくる。


――『この空の向こうには、翼を持った少女がいる』

――『それは、ずっと昔から』

――『そして、今、この時も』


だから俺は、今も旅をしている。

母親が遺した、ちっぽけな人形だけを連れて。


「そうそう、国崎君も不思議な力を持っているのだったな」


突然、思い出したように言ってきた。


「断っておくが、あれには本当に種も仕掛けもない」
「ほお、それはすごいな」


全くすごいと思っていない顔で言う。


「それが本当なら、君は今頃世紀の大スターだ」
「俺の力は、社会には貢献できないお茶目な特殊技能なんだ」
「いや、そんなことはないぞ」


力強く言いながら、俺の肩をぽんぽんと叩いてくる。


「君を解剖したいと思う奴は山ほどいる。 医者の私が保証するぞ」
「そんなことを医者に保証してもらって、嬉しいと思うか?」
「冗談だよ、心配するな。 あいにく私は堅気の町医者だからな。
脳を切開する技術も設備もない」


・・・技術と設備があったら本気でやるんか、あんた?


「せめて、『興味はない』と言ってほしいんだが」
「興味は大ありだ。
君のこの魅力的な身体で、医学の進歩に貢献してみないか?」
「・・・・・・」


・・・。


無言のまま、熱く見つめ合う女医と患者。

こんな身体の求められ方は、いくらなんでも嫌すぎる。


「まあ、医学の進歩はこっちに置いといてだ」


両手で『置いといて』のポーズをする。


「今の問題は、佳乃のことだ」
「そうだな。
・・・ひとつだけ、訊いていいか?」
「ああ、何でも訊いてくれ」
「羽根に触った時、どんな感じだったんだ?」


どんな時にも冷静な聖が、めずらしく目を丸くした。

無理もない。

俺自身、なぜそんな質問をしたのかよくわからなかった。

顎に手を当てて考えた後、ゆっくりと聖は言った。


「正直に言うと、あの晩のことはもうよく覚えていない。
だが、あの羽根を持ち上げた時の印象は、まだ覚えているよ」


その瞬間を思い出すように、自分の指先を見つめる。


「悲しい。
羽根に触れた時、私はそう感じた」
「悲しい、か・・・」
「だが、それだけの話だ。
羽根は光りはしなかったし、私にも特に異状はない。
神社の管理人によると、羽根に触れた者は他にもいるが、佳乃のような例は聞いたこともないそうだ」


常識的に考えれば、そうなのだろう。

しかし俺は、こう訊かずにはいられなかった。


「結局、その羽根は何なんだ?」
「神社に古くから祀(まつ)られている御神体、ということだが、詳しいところはわからない」
「そうか・・・」


俺の頭の中で、何かが引っかかっている。

白く輝く羽根。

昔からそこにある羽根。

空に連れていってくれる羽根。

それは、もともと・・・。


「それより、気になっていることがある」


真剣な聖の声が、俺を現実に引き戻した。


「最近、『彼女』が現れる頻度が多くなっている。
『彼女』の現れ方も、今までにないぐらいはっきりとしている。
常識ではありえない力を、佳乃に与えてしまうほどに」


最後の言葉の意味がわからなかった。

無言のままでいると、聖は俺の首を指し示した。


「その傷だが、ただ手で締めただけではそんな風に痕は残らない。
詳しく検査をしてみなければわからないが、炎症に近いものだと思う。
つまりそれは外傷ではなく、内的な症状が誘発されているということなんだ」
「・・・・・・」


何を言っているのか理解するのに、かなりの時間がかかった。

もう一度、首の傷痕をなぞってみた。

実際に俺を傷つけたのは、佳乃の指ではない。

得体の知れない佳乃の『力』が、俺の首に内側から傷痕をつけた・・・。


「なぜそんなことになるんだ?」
「わからない」


あっさりと、聖は言い捨てた。

曖昧な表現を許さないその態度が、医師という立場の重さなのだろうと思った。


「私は不安なんだ。
このままでは、佳乃はどうなってしまうのか・・・」


椅子に座ったまま、うなだれる。

初めて聞く、聖の弱音。

着古した白衣の襟に、残光が染み入っていく。

何秒かの沈黙の後、聖は顔を上げた。

いつものように背筋を伸ばし、真っ直ぐ俺に向き直る。


「国崎君、君に頼みがある」
「頼まれても、聞くかどうかはわからないぞ」
「佳乃のことを守ってやってくれ」


そのまま頭を下げる。

俺は何も言わず、診察室の扉に視線を巡らした。

その向こうにある薄闇と、ちっぽけな海辺の町のことを想った。

いつの間にか、俺の根城になってしまった診療所。

仲のいい姉妹の営みが、そこかしこに刻まれている。


・・・。


天井を見上げる。

耳の奥、絶えず俺に囁いているあの言葉があった。


・・・この空の向こうには、翼を持った少女がいる。

・・・それは、ずっと昔から。

・・・そして、今、この時も。


そうだ。

俺は旅の途中で、俺は余所者でしかない。

俺が佳乃にしてやれることなんて、何もないのだろう。

そう思ったのに、俺は別の言葉を伝えていた。


「せめて期限を決めてくれ」
「そうだな、なら・・・。
あの子がバンダナを外せる日まで。
そんな日は、来ないのかもしれないが」


冗談めかして付け加えた。

淋しげと言うには、あまりにも冷静な笑顔だった。


・・・・・・。


・・・。

 

その夜。

俺は一人、待合室のソファーに腰を下ろしていた。

静かだった。

窓は締め切り、クーラーもついていない。

空気の底を漂うような、不思議な冷たさがあった。

耳を澄ませば、遠くから虫の鳴き声が聞こえてくる。


「・・・往人くん」
「ん?」


薄闇の中、佳乃がぽつんと立っていた。

 

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「どうしたのぉ、電気もつけないで」


心配そうな顔。


「・・・いや、少し考えごとをしてただけだ」
「そうなの?」
「ああ」


佳乃の顔をじっと見つめた。

見たことを、見たままに受け止めるには、まだ時間が足りなかった。

俺の目の前にいる少女。

霧島佳乃


「・・・体、大丈夫か」
「うん。 もう大丈夫だよぉ。
ごめんね、心配ばっかりかけて」


そう答える佳乃の笑顔が、今夜はやけに遠いものに思えた。


「・・・大したことじゃない」


右手を伸ばす。

佳乃の頭に指を置き、くしゃっと撫でた。


「うん・・・」


俺の手を頭の上に乗せたまま、小さく頷く。

昨夜に起きたことを、佳乃は何ひとつ覚えていなかった。

佳乃に残っているのは、ただ、空白の時間だけだった。

俺はなにも訊くことができないでいた。

訊いてしまえば、すべてが音をたてて崩れてしまいそうな気がした。


「・・・ねえ、往人くん。
けが、だいじょうぶ? 痛くない?」


首筋に青黒く残った爪痕をまじまじと見つめながら、心配そうな顔をする。

昨夜のことを、聖はこう説明していた。

佳乃は神社でまた『記憶喪失』になった。

ふらついたところを助けようとして、俺は階段を転がり落ち、首を打ち付けた。

かなり無理がある説明だ。

だが、姉の言葉に佳乃が疑問を抱くはずがなかった。


「なんともない、大丈夫だ」
「・・・・・・あのね、往人くん」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
「・・・そっか」
「うん」
「じゃあ、もう遅いから、さっさと寝ろよ。
一応、おまえは病み上がりなんだからな」
「うん・・・わかったよぉ」


安らかな笑顔を返す。

佳乃の瞳の中に、俺自身が映っている。


「・・・じゃあ、おやすみなさいって言ってもらえるかなぁ」
「よし、おやすみなさい、だ」
「だ、は余分だよぉ」
「おやすみ」


言いながら、俺はもう一度、佳乃の頭を撫でた。


「本当に早く寝ろよ」
「ありがとっ。 じゃ、おやすみなさ~い」


ぱたんっ。


居間につながる扉が、小さな音をたてて閉まった。


・・・・・・。


・・・。