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AIR【20】

 

 


8月6日(日)

 


翌朝。

 

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「・・・すいません・・・お米・・・焦げちゃいました」


遠野のすまなそうな声が、俺を起こしにきた。


「・・・炊き直しますので・・・もうしばらく待っていてください」


ぺこりと頭を垂れる。


「・・・・・・」


ずびっ。


「・・・?」


目の前にあった遠野のつむじに、人差し指を突き立ててやった。


「おまえでも、失敗することがあるんだな」


からかうように言う。


「・・・当たり前です」


くるりと背を向ける。


「・・・ちょっと痛かったです・・・つむじ」
「あ・・・」


どうやら、怒らせてしまったようだ。


(まずい・・・)


嫌な予感がした。


・・・・・・。


・・・。




案の定、朝ご飯には焦げたお米を出された。

食事中、遠野は一言も喋らなかったので、かなり機嫌が悪かったのかもしれない。

俺は、なんとか機嫌を直してもらおうと躍起になって『美味い』を連発しなければならない羽目になってしまった。

自業自得。

しかし、そんな状況でも、怒った遠野というのが珍しくて、何かかわいいと思えて、俺はまんざらでもなかった。

遠野の方にしても、心底怒っているわけではないらしく、お米はちゃんと焦げが少ないところを選り分けてくれた。

そして、最後に『美味かった』と言うと・・・。


「・・・よかった」


そう言って、喜んでくれた。

たまには怒った遠野というのも悪くないかもしれない。

と言ったら、また怒ってしまうだろうか・・・。


・・・・・・。


お昼になり、みちるがいつものように駆けてきた。


「おっはよーっ! きょうもあっついざますねーっ!」
「どこのマダムだ、おまえは」


みちるは、新たな登場の仕方をマスターしていた。


「・・・おはようざます」

「おまえもかいっ!」


びしっ!とツッコミを入れる。


「・・・・・・良いツッコミざます」
「・・・・・・」


どうやら、マダム語を気に入ってしまったらしい。

困ったものだ・・・。


・・・・・・。



夏の午後。

三人で、昨日約束したとおり、ハンバーグを食べた。

そして、日が暮れるまで遠野とみちるはシャボン玉を飛ばして遊んだ。

いつもの光景。

見慣れた情景。

俺は、ベンチに腰掛けながら、いつまでも楽しげな二人の姿を見つめ続けた。

時は、穏やかに流れていく・・・。


・・・・・・。


・・・。

 

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その夜。

俺はベンチに腰掛けながら、もはや習慣となってしまったかのように、一人星空を眺めていた。


「・・・今日も星が綺麗ですね」


シャワーを浴び終えた遠野が、熱いコーヒーをふたつ持って俺の隣に座る。


「・・・麦茶とかの方が良かったですか?」
「いや、そんなことはないぞ。 サンキュ」


コーヒーを受け取り、俺は火傷に気をつけながら、それをすすった。


「あちっ」


速攻で舌を火傷。

 

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「・・・大丈夫ですか?」
「へっちゃらだ」


冷静に強がってみるが、かなり舌は痛かった。


「・・・・・・・・・診せてください」


遠野は俺の前に立ち、息がかかるほどの距離まで、顔を寄せてきた。

洗いたての髪の芳香が、優しく俺の鼻先をかすめた。


「・・・診せてください」


心配してくれているのだろう。

遠野が、同じ言葉を繰り返した。


「へっちゃらだ」


だから、俺も同じ言葉を繰り返した。


「・・・診せてください」


少し語調が強くなった。


「かなりへっちゃらだ」


対抗してみた。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


見つめ合う。


「・・・診せてください」
「あがっ」


強引に、口を開けられた。


「・・・少し赤くなってます」
「あがあが」
「・・・お水・・・汲んできましょうか」
「あがあがあが」


口を開いたまま、首を横に振る。


「でも・・・」


心配そうだ。


「あがあがあが」


『大丈夫だ』と言ったつもりだった。


「・・・・・・」


ふわ・・・


「あが!?」

 

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「・・・こうすれば・・・少しは痛みが和らぎますか?」
「・・・・・・」

薄い夏服を透して、遠野の鼓動を感じた。

柔らかな鼓動。

優しい温もりが、俺の全身を包み込んだ。


「・・・じっとしていてくださいね」


腕に力がこもり、俺の頭は、より遠野の胸に押しつけられた。

良い匂いがした。

初めは少し緊張したが、しだいに心が安らいでいくのを実感できた。

懐かしい安らぎ。

いつかどこかで感じたことのある、まろやかな記憶。


「・・・こうしてると・・・国崎さんを感じます。
・・・もう少し・・・このままでいさせてください」
「・・・・・・」


・・・・・・。

 

・・・声を聞いた。

遠野の温もりを感じながら。

俺は白色灯が照らすベンチの上で、子守歌でも聴くかのように、遠野の声を聞いていた。

遠野の膝枕は、とても柔らかだった。

膝枕が遠野にとっての愛情表現だということに、ようやく気づく。


「・・・夕べ・・・夢を見たんです」


遠野が言った。


「・・・幼い頃の夢・・・父と二人で星空を眺めている夢・・・」


・・・・・・。


・・・。

 


―――


『ほら、見てごらん美凪。 あれが、射手座だよ』


父の優しい声が、今も耳に残っている。

家までの道。

手を繋ぎながら私に星の話をたくさん聞かせてくれた父の声だ・・・。


「じゃあね、じゃあね、あれはなにざ?」


仕事を終えた父を、駅まで迎えにいくのが私の日課だった。

そして、駅でしばらく星を眺めて、手を繋ぎながら星の話をして家に帰る。

私は、優しい父が大好きだった。

そして、その父が好きだった星の光を、私はとても自然な形で大好きになった。


美凪、いいことを教えてあげようか」


ある夏の夜。

いつものように、手を繋ぎながら星を見上げて家に向かっていた。

父は私に微笑みかけながら言った。


「星はね、人の心を綺麗にしてくれるんだよ」


星の一つ一つに神様が住んでいて、私たちを見守ってくれている。

そう教えてくれた。

とてもステキな話だと思った。

星を見ていると、優しい気持ちになれた。

どんな嫌なことも忘れることが出来そうな気がした。


「汚れた心を星が綺麗にしてくれるんだよ・・・」


そう言った父の目は、とても悲しげだった。

私は、父の心が汚れているなんて考えもしなかった。

むしろ、そんなことを考えた私の心の方が汚れていると思った。

だからお願いした。

星に私の心が綺麗になるようにと・・・。


・・・・・・。


・・・。


それからしばらくして、父は家を出ていった。

母がみちるを流産してから、家では父と母がいつも言い争いをしていた。

家を出ていくとき、父は私と一緒に行こうと言ってくれた。

だけど、幼心に母を一人おいていくのはかわいそうに思えたので、私はこの家で父の帰りを待つことにした。


「そうか。 お母さんをよろしくな」


優しく私の頭を撫でながら、父は最後に小さなプレゼントをくれた。

それは、かわいい小瓶に入った砂だった。


「これはね。 星の砂というんだよ」


父は、私にそう教えてくれた。

これを持っていると、幸せになることができるんだと教えてくれた。

私は、その星の砂を宝物にした。

幸せになれるなら、父はいつか帰ってきてくれるのだろう。

私にとっての幸せは、この家で優しい両親とともにいることだったから・・・。

だけど、もう父が帰ってくることはなかった。

毎日のように駅前へ父を探しにいったが、会うことはなかった。

暗い夜道をひとりで歩いて帰る。

隣に父はいない。

悲しかった。

星の話を、もっとたくさん聞かせてほしかった。

私は星の砂を持っているのに、どうして父は帰ってきてくれないのか。

私は、自分の心が汚れているから幸せになれないのだと思った。


それ以来。

私は、毎晩のように星の砂を持って、駅前のベンチから星空を眺めた。

私の心を綺麗に清めてほしい。

そうすれば、父は帰ってきてくれる。

母も、真夜中に一人で泣くことはなくなる。

またみんなで楽しく暮らせる。

母よりおいしいハンバーグを作って父を驚かせよう。

みんなでおいしいご飯を食べたら、きっと楽しいに違いない。

幸せになれるに違いない。

幸せになれるに違いない・・・。

幸せになれるに違いない・・・・・・。


父が、私の知らない遠い町で、母以外の女性と結婚したと知ったのは、それからずいぶん後のことだった。


・・・・・・。


・・・。

 

 


8月7日(月)

 

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翌日。

どこまでも青く澄みわたった空からは、夏の陽射しが大地へと降り注いでいた。

いつもどおりの朝。

木立で鳴くセミの声に目を覚ますと、遠野がちょうど俺を起こしにきたところだった。

 

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「・・・残念・・・がっくり」


朝っぱらから、遠野さんのがっくりが入った。


「・・・国崎さんの寝顔・・・見られませんでした」
「・・・そいつは無念だったな」
「・・・はい・・・がっくりです」
「そっか。 なら・・・明日まで我慢してくれ。
夜更しして、明日はゆっくり眠ることにするから」
「・・・はい・・・楽しみにしてます」


くるりと背を向けて、遠野は朝食用にひろげたビニールシートの方へと歩いてゆく。


「ったく・・・人の寝顔を見て、なにが楽しいんだろうな」


毒づくように一人言いながらも、まんざらでもない気持ちだった。

遠野の声で目覚める。

それは、決して悪い気がするものじゃない。

でも、どうしてだろう。

遠野の姿に、何となく違和感のようなものを感じた。


・・・・・・。


朝食を食べ終えると、ベンチに腰掛けながら、遠野と二人でみちるがやってくるのを待った。

青空の下。

夏の陽射しとセミたちの声。

その中で、陽炎の向こうから駆けてくるみちるの姿を想像する。

ぱたぱたと、少女の軽快な足音が聞こえてくる。

遠野がゆっくりと立ち上がり、少女を出迎える。

そして、今日も三人の一日がはじまる。


・・・・・・。


・・・。


「・・・じゃあ・・・見ててね。
・・・今日は・・・がんばってたくさん飛ばすから」
「うんっ! がんばれ美凪っ!」
「・・・はい・・・がんばります・・・ガッツ」


遠野は張り切っていた。

どうしてもうまく飛ばすことのできないみちるが、遠野にシャボン玉が飛ぶところを見せてほしいとせがんだからだ。

 

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「・・・・・・」


みちるは、そんな遠野の姿をじっと見つめていた。

みちるの横顔に、俺はなにか不安に似た感情を覚えた。

みちるの様子が、どこか空々しく見えた。


「・・・どうかしたのか」


遠野にまでは聞こえない声で、俺はみちるにそう訊ねた。

 

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「・・・・・・んに・・・やっぱりおかしいねぇ」


みちるは、俺の問いかけに、そんな呟きを返した。


「そうか?」
「うん。 あれは、いつもの美凪じゃないよ」


心配げな眼差しで、みちるは遠野を見つめていた。

俺なんかよりも、ずっと長い間遠野を見つめ続けてきたみちるには、それがわかるのだろう。

確かに、家を出て、この駅に寝泊まりするようになってからの遠野は、様子がおかしいようにも思えた。

元気、というと御幣があるかもしれないが、どこか無理をしてはしゃいでいるようにも見えた。

まるで、遠野が言う夢の終わりが訪れるまでに、すべてのことを成し終えておこうとしているかのように。

こうして三人でいられる時間のすべてを、大切な宝石箱の中にしまい込もうとする、幼い少女のように。


(やっぱり・・・このままにしておくわけにはいかないか・・・)


心中で呟くと同時に、みちるが言った。


「・・・美凪が元気なのは・・・すごくうれしいけど・・・。
・・・やっぱり・・・もう無理なのかな・・・」
「え・・・」


ひどく悲しい音色に聞こえた。

みちるの声が、空を知ることなく、生まれてすぐに消えたシャボン玉のよう
な声に聞こえた。

そして・・・。


美凪ー、やっぱりみちるもいっしょにするー」


勢いよくベンチから立ち上がり、みちるは遠野のもとへと駆けてゆく。

俺は、その姿を見つめる。


「・・・今日の石鹸水は・・・完璧な配合です」
「んにゅ? そなの?」
「・・・うん」
「んじゃあ、きょうはぜったいせいこうするねっ」


白に輝く夏の大気の中で、二人の少女が空へむかってシャボン玉を飛ばす。

遠野は、あいかわらずうまくて、いくつもいくつもシャボン玉をつくっていった。

でも、みちるはうまくつくれなくて、うなりながらストローで石鹸水をぐしゃぐしゃと掻き回していた。

見慣れた対比。

見慣れた光景。

二人は楽しそうだった。

でも、なぜだろう。

俺には、それがとても儚いものに見えた。

セピアに色あせた、遠い思い出の中の光景に見えた。

思い出の中・・・。

夢の中・・・。

いつかは終わる夏の情景が、儚い陽炎のようにゆれて・・・。


・・・・・・。


・・・。

 



8月8日(火)

 

午前中。


俺は、みちると二人で町を歩いて回った。

遠野は、夏期講習のために一人学校へ。

すぐに帰ってくると言ってはいたが、待つ方としては時の流れがやけに遅く感じられた。

だから、こうして町を歩いた。

誘ってきたのは、隣をとことこ歩くみちるの方だった。


『ねえねえ、国崎往人
美凪が帰ってくるまで、みちるとでーとしよう』


みちるは、そう言って笑った。

俺の方も、とくにすることがなく、芸をしに町へ繰り出そうかと考えていたので、みちるの提案に対して首を縦に振った。


『やったー、でーとだー』


みちるは、俺の返答にぴょこぴょこ飛び跳ねて、小さな体全体で喜びを表現した。

でも・・・と、俺は喜ぶみちるを見つめながら思った。

昨日、シャボン玉を飛ばす遠野を見つめながら呟かれたみちるの言葉が、脳裏をかすめた。



――『・・・やっぱり・・・もう無理なのかな』



悲しげな音色。

寂しげな響き。

何かが変わりはじめている日常。

俺には、どうしても、みちるが心の底から喜んでいるようには見えなかった。

 

・・・・・・。



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そして、みちるは今、俺の隣を歩いている。

うつむきながら、まるで悲しい夢から覚めたばかりの子供のように歩いている。


「・・・なあ、みちる」


俺は、正面を見据え、飛びゆく鳥を追いかけながら言葉を紡いだ。


「・・・んに?」


一瞬だけ上目遣いで俺を見やり、またうつむく。

理由がわかりかねるだけに、みちるのこんな顔を見ているのは寂しい。


「ほら、あれ、見てみろよ」


堤防の上で、一羽のカモメが翼を休めている。


「カモメだぞ、カモメ」
「・・・んに・・・カモメさん?」
「かわいいと思わないか」
「・・・うん、かわいい」
「だよな。 餌あげてみようぜ」
「ごはん?」
「そう、ごはんだ。
つっても、カモメって何を食べるんだろうな・・・」
「んに・・・なんだろ」
「・・・・・・やっぱ、魚か」
「アジ?」
「そうだな。 アジも食べてるかもしれないな」
「みちるも、アジ好きだよ」
「アジのフライだろ? うまそうに食ってたもんな」
「うん。 カモメさんとおなじもの、たべた」
「じゃあ、おまえはカモメとお友達だな」
「んに? お友だち?」
「そう。 お友達だ」
「にゃはは。 そっか、カモメさんはお友だちか」
「ああ」
「んじゃあ、お友だちになったしるしに、カモメさんにはこれをあげるよ」


ごそごそと、ポケットの中から、袋に入った飴玉をひとつ取り出す。


「これね、美凪からもらったの。 ミカン味なんだよ」
「いや、それは・・・」
「んに? ダメなの?」
「ダメというか、たぶん、食べてもらえないと思うぞ」
「なんで?」
「う・・・」
「なんで?」
「うう・・・」


少女の純真な眼差しが、俺を見つめている。


「ま、まあ、試しに一回食べさせてみろよ」


苦し紛れ。


「うん。 ちょっとまっててね」


とてとてとカモメが翼を休める堤防まで小走りで駆けてゆく。


「うんしょっと・・・」


カモメの隣に座る。

不思議なことに、カモメはみちるが近づき、隣に座っても一向に逃げる気配を見せない。


「こんにちは、カモメさん」


みちるの呼びかけに、カモメはひと鳴きする。


「にゃはは。 げんきそうだねー」


会話成立。


(もしかして・・・旧知の仲なのか?)


「あのね、カモメさん。 いま、おなかすいてる?
んに? さっきごはんたべたの?
そっかー、んじゃあ、おなかいっぱいだねぇ。
あのね、これをカモメさんにあげようと思ったんだけど」


飴玉をカモメに差し出す。


「んに? いらない?
そっか・・・残念。 おいしいのに・・・。
んに? なに? 自分はいいから、みちるがたべろって? いいの?」


こくりとうなずくカモメさん。



(男前だ・・・)



「にゃはは。 んじゃあ、いただきまーす」


ぱくっ、と飴玉を口に入れる。


「んにに・・・おいひー」


満足そうに、口の中で飴玉を転がす。


「んに? もうかえっちゃうの?
そっか。 きをつけてかえってね」


ひと鳴きしてから、カモメは、その体よりも大きな羽をばさばさとはためかす。


「え・・・うん・・・わかってる」


何ごとか、みちると言葉を交わした後、カモメは飛び立っていった。

陽射しに輝く波頭の上を、大空に向かって羽ばたいていった。


・・・・・・。


「良かったな。 飴玉、ゆずってもらえて」


戻ってきたみちるの頭を撫でてやる。

 

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「うんっ。 おいしかった。 にゃはは」


嬉しそうに笑う。

ようやくみちるに笑顔が戻って、心が休まるのを感じる。


「最後、何て言ったんだ、あのカモメ」


別れ際に、神妙な顔でカモメと言葉を交わしたみちるを思い返しながら訊ねる。


「もうすぐ、風がふくって」
「風?」
「うん。 だから、のりおくれないようにしなくちゃ・・・」


・・・・・・。


・・・。

 


夏の匂いをかきわけながら、俺たちは歩き続けた。

幾つもの軒先を通り過ぎ、清らかな風鈴の音色に耳を澄ませながら、言葉少なに歩く。


・・・・・・。



辿り着いた先は、何度となく訪れたことのある商店街。

人影もなく、いつもどおりの静けさに満ちている。


「・・・腹減ったな」


到着するなり、思わず口に出してしまう。

 

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「にゃはは、はらぺこはらぺこ」
「お腹が、ぐうぐう鳴るな」
「ぐうぐうぐうぐう」
「昼飯を食べようにも、遠野はまだ学校だしな・・・」


駅に帰って、先に食べてしまってもいいんだが、やはりそれは気が引ける。


「と言うわけで、買い食いをするぞ」
「んに? かいぐい? なにそれ?」
「学校帰りに食い物を買って食べるのが、買い食いというらしいぞ」
「みちるたち、がっこうがえりじゃないよ」
「まあ、見よう見まねでいいだろ」
「でもでも、おかねもってないよ」
「案ずるな。 そういうときのために、こいつがある」


さっ、と後ろポケットから人形を取り出す。


「見よ、この凛々しさを」


無意味に人形を太陽にかざしてみる。


「おおぉ~~~」


太陽の光を後光のように背に受けた人形を見て、みちるが感嘆の声をあげる。


「ちょっと待ってろよ。 すぐにお金を稼いでやるからな」
「うんっ」


いつもの場所である、霧島診療所の看板脇に陣取る。

みちるは、俺の横にちょこんと座り、目の前にある人形を期待に満ちた眼差しで見つめる。


(そういや、こいつには一回しか見せたことがなかったな・・・)


気を集中させながら、そんなことを思う。

初めてみちると遠野に人形芸を見せたとき、みちるは仕掛けがないかどうか、いつまでも確かめていた。

あの時の光景を今思い返してみると、とても微笑ましいものに思えて、俺は口元を小さくゆるめる。


「んに? どしたの、国崎往人
「ん・・・いや、なんでもない。 よく見てろよ」


改めて集中しなおす。

ぴ・・と・・・。

人形が立ち上がる。

動きはじめると、みちるは楽しそうに人形の動きに魅入った。


・・・・・・。


・・・。



「・・・・・・はぁ・・・」
「・・・ふにゅぅ・・・」


二人同時にため息をつく。


「当たり前だな・・・ひとがいないんだから」
「んに・・・そだね」


金は稼げなかった。

通行人がいない商店街でいくら気合いを入れようが、そうなるのは必然である。

ずっと同じことを繰り返してきたのだから、始める前に気づくべきだった。


「・・・悪いな。 買い食い、できなくて」
「いいよ。 みちるはたのしかったもん」
「・・・そっか」


みちるの頭を撫でてやる。


「にゃはは」


みちるが嬉しそうに笑う。

買い食いはできなかったが、俺はこの絵顔を見られただけで満足だった。


「・・・腹、減ったよな」
「うんっ」
「よし。 じゃあ、そろそろ帰るか」


人形をポケットに押し込み、立ち上がる。



きぃ・・・



「あ・・・」


「ん?」


俺が立ち上がると同時に、診療所の扉が開いた。


「・・・すいませんでした・・・お手数をおかけしまして」
「いえ、かまいませんよ。
また何かありましたら、遠慮せずいらしてください」
「・・・はい。
・・・それでは・・・失礼いたします」


診療所から出てきたその女性は、聖と会話を交わし、おぼろげな眼差しで俺たちの前を通りすぎていった。

俺たちの存在には、気づいた様子すらない。


「あれは・・・」


たどたどしく歩く女性の後姿を見つめていた。

間違いなかった。

あれは、遠野の母親の姿だった。


・・・でも、なぜ霧島診療所に?


「・・・かあ・・・さ・・・」
「え・・・」
「・・・・・・」


地面にぺたりと座りながら、みちるは遠野の母親を寂しげな眼差しで見送っていた。

 

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「・・・探してる・・・」


みちるは、誰に向けるともない呟きをもらす。


「・・・・・・」
「・・・んに? どしたの?」
「あ・・・いや・・・」


視線を逸らす。

触れることの叶わない幻に、手をさしのべるように。


「おまえ・・・あのひとのこと、知ってるのか」
「・・・んに・・・」


みちるは答えない。

ただ、光に霞む遠い人影を見つめるだけ。


「・・・ねえ・・・国崎往人
「・・・なんだ」
「あのね・・・」


一瞬、ためらうように小さな息をはく。


「・・・たいせつなひとに忘れられるのって・・・やっぱりかなしいことだよね・・・」
「え・・・」
「・・・・・・でも・・・忘れただけならいつか必ず思い出せるから・・・。
・・・やっぱり・・・このままじゃダメだね・・・」
「・・・おまえ・・・何を・・・」


俺の中で、輪郭を持たない何かが呼吸をはじめる。

でも、それを口に出すことはできなくて・・・。

それでも、口に出さなければ何も変わらないような気がして・・・。


「・・・んに・・・」


みちるは、言葉を見つけられず、悲しげに瞳をふせた。

溢れる想いだけが、消えることなく少女を取り巻いていた。


「・・・・・・」


俺は、少女が言葉を見つけるまで口を噤んで待ち続けた。


・・・・・・。



「・・・・・・・・・あのね」



躊躇いがちに口を開く。


「・・・美凪・・・いま、家出してるでしょ」
「え・・・」
「・・・かくしてもダメだよ・・・。
みちるはね、美凪のこと・・・いつも見てるから」
「・・・・・・そっか・・・そうだったよな」


くしゃっ、とみちるの頭を撫でてやる。


「んに・・・」


みちるは、僅かに肩をすくめながらうなずく。

確かに、俺と遠野はみちるに家出のことを隠していた。


――『みちるには、心配をかけたくない』


それは、遠野のみちるに対する思いやりからだった。

みちるにも遠野の思いが伝わっていたのだろう。

気づいていながらも、みちるは遠野の前で、そのことについて一切触れようとはしなかった。

そうすることが、二人の関係。

二人の距離だった。

離れているからこそ触れ合うことができる、安らかな隙間。


「でもね・・・」


と、みちるは言う。


「みちるは、美凪が寂しそうにしてるのはイヤだよ」


きっ、と眉を上げて、意思を示す。


「あんな美凪を見るために、みちるはいたんじゃないもん」
「・・・っ」


みちるの言葉が、不意に俺の思考を乱した。

それがなぜなのかは、すぐに答えがでない。

俺は、乱れた思考の整理もつかないまま、みちるを訝しげに見た。


「・・・・・・」


・・・そして、ようやく思い至る。

俺の思考を乱したものの正体。


――『あんな美凪を見るために、みちるはいたんじゃないもん』


みちるは、確かにそう言った。


『いる』ではなく、『いた』という過去形を使って。


・・・なぜだ?


みちるは、ここに『いる』のに・・・。

今も、そして未来も、ここにいてくれるはずなのに・・・。

靄(もや)がかかる。

優しいはずだった夏の記憶に、暗い夜闇のような靄がかかる。


「・・・やっぱり・・・このままじゃダメだよ。
美凪は・・・もう夢からさめないといけないのに・・・」
「・・・夢?」
「うん・・・」
「それって・・・どういう意味だ」
「・・・たぶん・・・国崎往人が考えてるとおりだよ」
「考えてる通りって・・・おまえ・・・」
「・・・・・・うん」


こくりと小さくうなずく。


「ねえ・・・国崎往人は・・・このままでいいと思ってる?」
「え・・・」
国崎往人は・・・美凪になにをしてあげられる?」
「・・・俺が?」
「うん・・・」
「・・・・・・」


俺が、遠野にしてやれること・・・。


「・・・たぶんね・・・みちるはもうなにもしてあげられないから・・・。
だから・・・国崎往人がしてあげられることをしてほしい」


その声は、優しさを滲ませながらも、黄昏の色をしていて・・・。

まるで、別れの言葉のような色をしていて・・・。


「みちる・・・」


俺は、指先を少女に向けて伸ばす。

でも・・・。


「みちるは、先にかえってるよ」
「え・・・」
「んじゃあ、また後でね」


立ち上がり、ぱたぱたと駆けてゆく。


伸ばした指先を、少女が擦り抜けてゆく。


「お、おい、待てよ、みちる」
国崎往人は、ゆっくりしてていいからねーっ」


遠くで振り返り、陽炎の中へと霞んでゆく。


そして、見えなくなった。


「・・・あいつ・・・」


夏の陽射しの中に、一人取り残される。

真夏の暑気に熱くなった胸に、消えることのないしこりを残して・・・。


・・・・・・。

 

「よお、国崎君じゃないか」


「ん?」


後ろから呼びかけてくる声。


振り返ると、いつから俺の存在に気づいていたのか、聖が俺を見つめていた。

 

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「どうした。 今日も無駄な努力をしにきたのか?」


挨拶代わりに、ひどいことを言われた。


「・・・いや。 今日は芸をしにきたわけじゃない」
「ほぉ・・・ついに諦めたか」
「諦めてない。 あまり、そういうことを楽しそうに言わないでくれ」


ため息を添える。


「ん? どうした。 元気がないな」
「そうか?」
「うむ。 悩みがあるなら、この綺麗なお姉さんに話してごらん」
「・・・・・・・・・・。

・・・・・はぁ・・・」


呑気なもんだ、このお医者様は。


「・・・おい。

なんだ、今のやたらとムカツク間とため息は」

「・・・・・・」


やれやれと言わんばかりに、無言で首を振る。


「む・・・なんだ、そのひとを小馬鹿にしたような態度は」
「馬鹿になんかしてないぞ。
本当に、うらやましいと思ってるからな」
「うらやましい?」
「ああ」
「ふむ・・・」


左手をあごにあてて、何かを思案する。


「・・・・・・国崎君」
「なんだ」
「今、時間はあるか」
「ああ。 なくはないが・・・」
「そうか。 なら、少しつき合ってくれ」


ぐいっ、と俺の腕を引っ張る。


「こら、なにをする」
「ちょうど、これから茶を飲もうと思っていたところでな。
佳乃もいないし、一人だと味気ないんだ」


ずるずると、診療所の中へと引きずられてゆく。


「悪いが、俺はそんな気分じゃない」


足を踏ん張り、聖の手をふりほどく。


「ったく・・・」


ぽりぽりと頭を掻く。


「・・・・・・」


ぽかっ。


「いてっ」


いきなり叩かれた。


「こらっ、いきなり何をする」
「馬鹿者。 この私が気を遣ってやってるんだ、素直に甘えろ」


怒った顔をしているものの、聖の口調は柔らかかった。


「そんな顔をしていると、すぐに夏バテしてしまうぞ」


手を伸ばし、俺の頬に触れる。


「・・・・・・」
「ふ・・・。 ほら、いいからつきあえ」


ぺしっ。


軽く頬を叩き、再び俺の腕を引っ張る。


「・・・・・・わかったよ」


小さくうなずき、俺は聖とともに診療所の中へと入っていった。


・・・・・・。


・・・。

 

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「・・・ふむ・・・なるほどな」


窓の外から、夏の木漏れ日が室内に落ちていた。

真っ白な部屋。

微かに漂う消毒液の匂いが鼻先をかすめた。


「と言うことは、あれか。
君は、遠野さんを家に帰してやりたいわけだな」


手にしていた茶を飲み干し、音をたてて湯飲みをおく。


「・・・どうだろうな。
彼女にとって、何がいちばん良いことなのかはわからないからな」
「ふむ・・・それはそうだな」
「ああ」


俺は、聖に遠野のことを話した。

べつに相談をしようと思ったわけじゃない。

ただ、聖が遠野の母親と親しげに会話をしていたのを見て、何かを聞き出せると思えたからだ。


「それにしても、世間ってのは狭いもんだな。
あんたと遠野のおふくろさんが知り合いだなんて、なんか不思議な気分だ」
「ふふ・・・まあ、小さな町だからな。
それに、この町には私以外の医者がいないから、そういうつながりも多いさ

「なるほど」
「でも、私の方も意外だったぞ」
「なにがだ」
「ふふ・・・君が、遠野さんのためにそこまで必死になることが、だよ」
「・・・・・・べつに、必死にはなってない」


ぽかっ。


「いてっ」


「馬鹿者。 照れることじゃないだろうが」
「照れてない。 そんなにひとの頭をぽかぽか叩くな」
「ふ・・・まあいい」


(・・・よくはない)


「で、君はどうしたいんだ」
「え・・・」
「呆けるな。
君が遠野さんに何をしてやりたいと思っているのか訊いてるんだ」
「俺が・・・遠野に?」
「ああ」
「・・・・・・」


聖の言葉に、俺は考えを巡らした。

俺が遠野にしてやれること。

そして・・・。


「・・・なあ、聖」


ぽかっ。


「いてっ」


「年上を呼び捨てにするな 聖さんと呼べ」
「・・・なあ、聖さん」
「なんだ、往人ちゃん」
「・・・・・・」
「軽口だ。 笑え」
「笑えない」
「む・・・そうか。

場を和ませようと試みてみたんだが・・・」
「和ませなくてもいい。 話し、続けるぞ」
「・・・ああ」


残念そうだ。


「実際のところ、遠野の母親って、どんな症状なんだ」
「・・・症状?」
「俺にはよくわからないんだ。
心を病むってのが、いったいどんなものなのかがな」
「ふむ・・・むずかしいところだな・・・。
一応、遠野さんの母上のことは把握してるつもりではあるが・・・。
なにせ、彼女が流産したとき、一番最初に往診したのは、うちの父だったからな」
「あんたの父親?」
「ああ。 だから、たびたび遠野さんから母上の健康については相談を受けていたんだ」
「・・・そうだったのか」
「ふふ・・・ますます世間というのは狭いと思うだろ?」
「まあな」
「でな、その時、いちおう精神的な症状についても話を聞いたんだ。
だから、遠野さんがおかれている立場も、理解はしているつもりだぞ」
「そっか。 そこまで知ってるなら、話は早いな」
「早い? 何がだ?」
「回りくどい言い方は性に合わないから、率直に訊くぞ」
「あ、ああ」
「遠野の母親は、本当に娘のことを忘れてしまったのか?」
「え・・・」
「母親ってのは、自分の腹を痛めて産んだ子供のことを、そう簡単に忘れて
しまえるものなのか?」


言いながら、俺は遠野の悲しみを思った。

大切に思っていた母親に忘れられる悲しみ。

自分以外の者を演じることでしか愛されなかった、永い悲しみ。

そして、夢から覚めた大切なひとに『あなた誰?』と言われた悲しみ。

それは、俺なんかが考え及ぶものではないはずだ。


でも・・・。


「どうなんだ」


俺は、聖に答えをせまった。

遠野の悲しみを、少しでもいいから共有できる存在になりたかった。

悲しみを引き受けられる、そんな関係になりたかった。

俺は、遠野のために・・・。

そして、遠野のことを想う、みちるのために・・・。


「・・・ふ・・・そんな顔するな」


笑みを浮かべながら、聖は俺の頭をくしゃ、と撫でた。


「ひとの親が、そんな薄情なわけないだろ」


優しさをにじませながら、聖が俺の髪を撫でる。


「しかし・・・」
「そう心配するな。
さっきな、私が遠野さんの母上と、何を話していたと思う?」
「・・・何って・・・」
「ふふ・・・必死だったぞ、母上は」
「え・・・」
「家出してるんだろ、遠野さんは」
「あ、ああ」
「母上はな、何か大切なものをなくしてしまったそうだ」
「・・・大切なもの」」
「・・・・・・」


こくり。


「ま、そういうことだな」


ぽんっ、と聖が俺の頭を軽く叩く。


「後は、君がしてやれることをすればいい」
「俺が・・・してやれること」
「そうだ、君がしてやれることだ。
いまできることを、できる形でしてやればいい。
後悔なんて、するもんじゃないからな・・・」


・・・・・・。


・・・。

 

 


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その日の夕方。

俺たちは遠野に連れられて、学校の屋上へ向かった。

陽は落ちていなかったけれど、もう学校にひとけはなかった。

屋上の鉄扉を開けると、陽に焼かれた足下から、じりじりと熱気が立ち上っているのが見えた。

いくつもの夏が、ゆらめき色褪せていくようだった。

 

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「・・・やっぱ、綺麗なもんだな」


俺は、どこまでも広がる赤い夕焼けを遠くに見ていた。


「・・・そうですね・・・綺麗です」


二人並んで風に吹かれた。

笛の音のような風を聴きながら、今日一日の出来事を夢見るように思い返していた。


「・・・また鳥が飛んでますね」


遠い海。

夕陽の赤が色を落とす穏やかな海の上を、彷徨うように飛ぶ鳥がいた。

あの日の夕暮れと同じ光景。

居場所をなくして彷徨うしかない、飛ぶことを忘れた翼。

でも、決して目指すところを忘れたわけじゃない。

ただ、辿り着くことに躊躇っているだけで・・・。


「・・・ん?」
「・・・どうかしましたか?」


ふと横を見て、みちるがいないことに気づく。


「・・・みちる?」


 

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「・・・・・・」


振り返ると、みちるは少し離れた場所から、遠野の姿を見つめていた。


「・・・どうしたの?」


遠野が、優しく声をかける。


「・・・んに?
ううん、なんでもないよ」


にゃはは、といつもの笑顔を見せながら、とことこと歩いてくる。


「・・・・・・」


その姿は、見たことのある姿だった。

遠野が母親と歩く姿を、寂しそうに見つめていたときの姿。

そして今日、俺の隣で遠野の母親を見つめていた時の姿だった。


「・・・どうかしたのか?」


俺と遠野の間に立ったみちるの頭に手を乗せながら訊ねてみる。


「・・・ううん・・・なんでもない」


みちるは、それだけしか言わなかった。

あのときと同じように、それだけしか言わなかった。


「・・・・・・」


そんなみちるの姿を、遠野は悲しげな眼差しで見つめていた。


そして・・・。

 

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「・・・ねえ・・・みちる」
「・・・んに?」
「・・・私の・・・せいかな」
「えっ? なにが?」
「・・・みちるが・・・そんな顔をしている理由」
「んに・・・」
「・・・・・・」


・・・・・・。


みちるは、何も答えなかった。

否定も肯定もしない。

ただ、うつむいて、目の前に広がる夕焼けから視線をそらすだけだった。


「・・・そう・・・」


遠野は、みちるの沈黙を答えと受け取ったのか、みちるに向けていた眼差しを、空へと返した。

風の隙間を漂う沈黙の中に、三人は身をおく。

今日という日の終わりが、確実に近づいているのがわかった。


「・・・やっぱり・・・やっぱりちがうよ・・・美凪・・・」


みちるは、海を見つめていた。

穏やかな凪の中で、夕陽をその身に抱く海を見つめていた。


「・・・違う?」
「・・・うん」
「・・・何が・・・違うの?」
「・・・ここは」


そこまで言って、みちるは一度口を噤んだ。

ためらうように自分の足下を見つめ、ため息ともとれる息をはいた。

小さく深呼吸をした後、次の言葉を紡ぎだす・・・。


「・・・ここは・・・美凪の居場所じゃないよ」
「え・・・」
美凪だって、わかってるんでしょ?
ぜったい無理してるよ・・・」
「・・・・・・無理なんて・・・」
「だめだよっ、うそついたらっ」


みちるは、強い語調で遠野の言葉を制した。


「だって、美凪、さみしそうだもんっ。
どんなにごまかしたって、みちるにはわかるんだもんっ」
「・・・みちる・・・」


それは悲痛な声だった。

少女は、小さな体全体で振り絞るように想いを言葉に変えて、叫んでいた。


「ずっと・・・ずっといっしょだったから、わかっちゃうんだもん。
みちるには・・・美凪のことがわかっちゃうんだもん・・・」
「・・・・・・」


・・・想いは、どこまで届くことを許されているのだろうか。

届けてあげたい想いは、力一杯伸ばした指先に、辿り着く先を見つけられるだろうか。


「・・・んに・・・」


みちるは、目に浮かんだ涙を必死で堪えながら、遠野を見つめた。

幼い瞳に精一杯の強さを秘めて、じっと見つめ続けた。

手を伸ばし、指先が何かに触れるまで、少女は言葉では足りない想いを瞳に宿し続けた。


「だめだよ美凪・・・。
さみしいときはさみしいってちゃんと言わないと・・・だめだよ・・・」
「・・・・・・」
「そうじゃないと・・・みちるだってかなしいよ・・・。
みちるは・・・そんな美凪をみてるの・・・かなしいよ・・・」
「・・・・・・みちる・・・」
「・・・だから・・・ね?」
「・・・・・・」


・・・・・・。

 

 

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「・・・うん・・・ごめんね」


柔らかな翼をひろげるように、遠野は夕映えにみちるを優しく抱きしめていた。


「・・・んに・・・」


みちるは、目に涙を浮かべながら、遠野の温もりを小さな体いっぱいに受け止めようとしていた。

つながる想いが黄昏てゆく海にまで届いて、波は夕凪に優しげな顔を見せていた。

想いを込めて伸ばした指先が辿り着いたのは、どこまでも広がり、やがて水平線の彼方で空と交わる海。


「・・・・・・」


俺は、そんな二人の姿を、少しうらやましく思いながら見つめ続けた。

そして、二人のために俺ができることを考えていた。

俺にできること。

そんなことは、深く考えるほどのことではない。

限られたことしかできないけれど、俺にしかできないことは、確かにあった。

そして、俺はそれをしなければならない。

二人のために。

俺自身のために。


だから・・・。


・・・・・・。


・・・。

 

 

「・・・ねえ・・・国崎往人・・・」


帰り道。

前を歩く遠野の後ろ姿を見つめながら、みちるが俺の服を引っ張った。

小さな手のひらから、精一杯の想いが伝わってくる。


「・・・わかってる」


俺は、みちるの想いに、そう答えた。

 

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「・・・うん」


みちるは、少しだけ微笑みながら、頷いた。

そして、呟くような声で・・・。


「・・・あとのことは・・・国崎往人にまかせるよ・・・。
・・・これで・・・やっと永かった夢は終わることができるから・・・」


・・・・・・。


・・・。

 

 

夜明け。

俺と遠野は、二人でベンチに腰掛け、いつものように星空を眺めていた。

深くなった夜の闇の中、星々の瞬きはその輝きを増していた。

吸い込まれそうな夜の世界に、小さなため息を吐く。

 

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「・・・みちるに・・・無理をさせてしまいました」


申し訳なさそうに呟く遠野の声を聞きながら、俺は自分の考えをまとめていた。

俺は、俺にできることをしなければならなかった。


「・・・なあ、遠野」


穏やかな声で、俺は切り出す。


「・・・はい」
「俺な、この町を出ていくことにした」
「え・・・」
「いい加減、長居しすぎたからな。 そろそろ潮時だと思うんだ」
「・・・・・・そう・・・」


とても悲しげに、遠野はうつむく。


「・・・あの・・・お金の方はどうされるんですか。
・・・少しでよろしければ・・・」


ごそごそとスカートのポケットを探る。


「いや、いい。 何とかなるだろ」


路銀を貸してくれようとする遠野の手を押さえる。


「・・・でも・・・」
「大丈夫だって。
もともと、その気になればこの町を出られないってことはなかったんだ。
まあ、意地みたいなところもあってな。
こいつで金が稼げるまで、この町は出たくなかっただけだ」


人形を取りだして、それを遠野に示す。

ついでに、人形に軽くお辞儀をさせると、遠野もなぜか人形に対して頭をぺこりと垂れた。


「それでな。 実は、おまえにお願いがあるんだ」
「・・・私に?」
「ああ」
「・・・私にできることなら・・・」
「できるさ。 簡単なことだからな」
「・・・簡単?」
「そう、簡単なことだ。
俺と一緒に、この町を出てくれたらいいだけだからな」
「え・・・」
「嫌か?」
「・・・あの・・・意味がよくわからないのですが・・・」
「・・・・・・おまえに、見せてやりたくてな」
「・・・何をですか」
「世界を」
「・・・世界?」
「そうだ。

夢なんかじゃない、本当の世界を見せてやるよ。
だから・・・」


俺は、遠野の細い指を固く握りしめた。


「一緒に行こうぜ。 世界を見つけに」


遠野の目を見つめる。

これが、俺にできることだった。

これしか、俺は遠野やみちるに対してやれることがなかった。


「・・・・・・」


遠野は、俺の目を見つめ返しながら、何も言わなかった。

夜虫たちの声を背景に、二人の間に永い沈黙があった。


そして・・・。

 

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「・・・はい」

 

遠野は、夏の夜に静かな微笑みを浮かべた。


・・・・・・。


・・・。

 



8月9日(火)

 

・・・いつもと変わることのない朝だった。

セミたちの声が、陽射しとともに俺たちのいるこの場所を優しく包み込んでいた。


「さてと。 行くか」


翌日、朝食を食べ終えた後、俺は食器を洗う遠野の肩を叩いた。

 

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「・・・どこへですか?」


遠野は、小首を傾げながら、俺を不思議そうな眼差しで見つめた。


「決まってるだろ。 出立の準備だ」
「・・・?」
「?じゃない。
おまえ、まさかそのままで旅に出るつもりか?」
「・・・・・・」


こくりと頷く。


「・・・着替えとかは持ってますし・・・」
「甘いっ!」


びしっ、と言ってやる。


「旅ってのは、そんなに甘いもんじゃないぞ」
「・・・そうなんですか?」
「ああ。

まだ大事なものを持ち忘れてるぞ、おまえは」
「・・・それは何ですか・・・師匠」
「うむ。

それが何かは、道々教えてやる。
だから、とりあえず行動だ」
「・・・・・・・・・はい」


・・・・・・。


・・・。




駅前を離れて、陽炎にゆれる町中を歩いた。

遠野は、いまいち納得しかねるといった顔つきをしながらも、黙って俺の後ろについてきていた。


(たしか、この道であってるんだよな・・・)


たった二度しか行ったことのないその場所を目指して、道を確かめながら歩く。


「・・・あの・・・どこへ行かれるんですか」


遠野は、俺が行こうとしている先にまだ気づいてはいない。

おそらく、彼女がいつも歩いている道とは、違う道順を俺は辿っているのだろう。

幸い、長く旅をしてきたおかげで、俺は方向感覚には自信がある。

だから、迷うことはないだろう。

それに、もう少し歩けば、きっと遠野も気がつくはずだ。

俺が目指している先。

遠野が持ち忘れてきた、大切なものがある、その場所に・・・。


・・・・・・。


・・・。

 


そして、俺たちは足をとめた。


「・・・・・・」


遠野も途中で気づいたのだろう。

何も言わなかった。

何も言わず、ただ、幼い頃より見続けてきたその家の外観をじっと見つめていた。

 

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「やれやれ。 やっと到着だな」


俺は、わざとおどけたように言って、自分の腰を軽く叩いた。


「・・・・・・どうしてですか」


遠野は、自分の家の門構えを見つめながら、少し悲しそうに言った。


「ん・・・これしか・・・俺がしてやれることはないからな」


彼女の悲しみを、すべて引き受けられるわけじゃない。

できることならそうしてやりたいけれど、できたところで、それは意味を持たない行為だ。

彼女の悲しみは、彼女の中にしかない。

だから、俺は彼女を悲しみに正面から向かい合わせる。

 

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「・・・・・・」
「・・・迷ってるか?」
「・・・・・・」


小さく頷く。


「そっか。
なら、あれ、見てみろよ」


俺は、垣根の向こう側に見える縁側を指さした。


「いつまであのひとを待たせておくつもりなんだ、おまえは」


そこには、陽射しの中で誰かを待ち続けるように座る、遠野の母親の姿があった。

呆けたように空を見上げているそのひとは、とても寂しげで、とても小さく見えた。


「・・・お母さん・・・」


遠野は、そんな母親の姿を、複雑な瞳の色で見つめていた。


「そうだ。 おまえの母親だぞ、あのひとは」


ぽむっ、と遠野の頭に手を乗せる。


「・・・・・・」
「さてと。

これからどうするのか、最後はおまえ自身が決めろよ」


遠野の頭に手を乗せながら言う。


「・・・・・・」
「俺と一緒に旅に出るのか、あるいは一人でどこかへ行くのか。
それとも・・・おまえのいるべき場所へ帰るのか・・・選択は自由だ」
「・・・私が・・・決める?」
「そうだ。 遠野美凪自身の意思で決めるんだ」
「・・・美凪・・・?」
「ああ。 おまえは、遠野美凪だからな」
「・・・遠野・・・美凪・・・」


遠野は、その名前をかみしめるように呟く。


「・・・・・・」


そして、これからどうするのかを、うつむき、考えた。

それは、とても永い時間だった。

この家に生まれ育ってきた過去をゆっくりとさかのぼるためには、どれほどの時間が必要なのだろうか。

幼い日々。

幸せだった日々。

そして、幸せではなかったかもしれない、もうひとつの日々・・・。

でも、その答えは決まっていた。

たとえ、そこに悲しみしか残っていなかったとしても、彼女にとっての家はここにあるのだから・・・。


「・・・国崎さん・・・私・・・」


遠野が、もの言う瞳を俺に向ける。


「・・・・・・」


俺は、黙って頷く。


「行ってこい。 忘れ物を見つけにな」


とんっ。


遠野の背中を、軽く押す。

それが、俺とみちるとの間で無言の内にかわした約束だった。

幼い少女が、俺に託した願い。

たったそれだけのことしか俺にはできないけれど、それをしてやれるのは俺しかいないと思った。

自負などという、おこがましいものじゃない。

俺たちの関係の中では、それが当たり前のことで、ありふれたことであるはずだった。


「・・・国崎さん」


振り返り、遠野が俺の名を呼ぶ。


「また、明日な」


俺は、遠野の口が動くよりも先に、そう言った。


「・・・・・・」


遠野は、声を出さなかった。

ただ、口元だけが小さく動いて、想いを俺に伝えた。

それだけで、じゅうぶんだった。

そして、遠野は少し躊躇いを残した足取りで、ゆっくりと垣根の隙間に足を踏み入れる。

もう寂しさに振り返る必要はない。

それは、遠野美凪自身が決めて、踏み出した一歩だったから・・・。

それが、この世界で生きてゆくということだから・・・。

 

 

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俺は、踵を返し、遠野の家に背を向けた。

頭上にひろがる夏空に視線を投げると、一羽の鳥が彼方を目指して飛んでいく姿が見えた。

もう、彷徨う必要なんてない。

行くべき場所は、いつだって手の届くところにある。


美凪っ」


どこまでものびゆく空に放たれた、とても清らかな声が、鳥のように羽ばたいてゆくのが見えた。

口笛を吹いてみる。


――『飛べない翼に意味はあるんでしょうか』


遠野の言葉を、不意に思い出す。


(・・・意味はあるさ。

それが、空を飛んでいた日々の大切な思い出だからな)



「・・・・・・そうだろ・・・みちる・・・」


・・・・・・。


・・・。

 


その日の夜。

俺は、隣に誰もいないベンチに腰掛けながら、ずっと一人で星空を眺めていた。

聞こえてくるのは夜虫たちの声だけで・・・。

俺は、その静けさに、自分が旅をしていることを思い出さずにはいられなかった。

そして、ようやく永い放浪から、帰るべき場所を見つけた少女のことを想った。


「・・・美凪・・・帰っちゃったね・・・」


夜闇の中から、聞き慣れた声が聞こえた。

 

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「・・・・・・」


みちるだった。


「・・・おかえり」


俺は、そう言った。

とても穏やかな声で言ったと思う。

何となく、ここに来ることがわかっていたから・・・。


「・・・ただいま」


みちるが言う。

俺たちの挨拶は、それだけだった。

もう、何も言う必要はなかった。

二人でベンチに座る。

聞こえてくる夜虫の声に耳を澄ませながら、しばらくの間、みちるは足をブラブラさせていた。


「・・・ねえ、国崎往人


うつむき、自分の足の動きを見つめながら、みちるが声を紡ぎだした。


国崎往人は、やっぱりこの町をでていっちゃうのかな?」
「・・・たぶんな」
「・・・んに・・・そっか」
「でも、いつになるかはわからないぞ。
なんせ、出ていくためのこれが手に入らない状態だからな、今は」


冗談交じりに、右手の人差し指と親指で輪をつくってみせる。


「にゃはは。 それはこまったねぇ」
「まったくだ。
だから、まだしばらくは、ここに住まわしてもらうことになるだろうな」


大げさにため息をつく。


「・・・んに・・・そっか」
「ああ」
「・・・んじゃあさ・・・美凪のこと、国崎往人におねがいしてもいいかなぁ」
「え・・・」
「きっとね・・・美凪はもうみちるがいなくてもだいじょうぶだとおもうか
ら・・・」
「・・・・・・どこかへ・・・行くつもりなのか」


みちるの寂しげな姿を見つめていた。

俺の隣。

みちるは、いつの間にか足下から、星空へと視線を移していた。

 

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「みちるはね、もう帰らなきゃいけないんだよ」


夜空には、今日も無数のきらめきが広がっていた。


「帰る?」
「うん・・・」
「どこへ・・・?」
「・・・・・・お空にはね・・・とってもさみしそうな女の子がいるの」


穏やかな声で、みちるが言う。

その声は、俺が知っている幼いみちるの声じゃなくて、ずっと大人びた声に聞こえた。


「その子は、いつも悲しい夢をみるだけで、ほかにはなにもない。
しあわせになれないから、悲しい夢をみるしかない。
みちるはね・・・その悲しい夢のかけらなんだよ」
「・・・・・・それって・・・」


俺は、みちるの言葉に思い出していた。

幼い頃から母親に聞かされ続けていた、少女の姿。

悲しい翼を持った、少女の姿を。


「ううん・・・ちょっとちがうか・・・」


みちるは、俺の思考を制するように首を横に振った。


「みちるは、その子の夢を少しだけわけてもらったの。
その子の背中には、とても傷ついた羽があって・・・。
その羽には、すごくふしぎな力があるの。
いっぱいの人たちが見た、いっぱいの思い出が、その羽にはつまってるんだよ。
でも・・・すごくかわいそうだった。
だから・・・たすけてあげたいとおもったの・・・」


・・・・・・。

 

 

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「みちるはね、その子の羽を一枚だけわけてもらった。
会いたいひとがいたから・・・。
会って、しあわせにしてあげたいひとたちがいたから・・・。
そのひとたちのしあわせが、その女の子のしあわせにつながるとおもったから・・・。
みちるは、女の子に思い出をひとつだけわけてもらったの。
そのひととおともだちになるには、思い出が必要だったからね。
みちるには、思い出がなにもなかったからね・・・」


・・・・・・。


国崎往人は、しってる?」
「・・・何をだ」
「・・・ニンゲンはね・・・思い出がないと生きていけないんだよ」
「・・・・・・」
「・・・でもね・・・それなのに、思い出だけでは生きていけない。
・・・夢はいつかは覚めないといけない。
覚めることをわすれた夢は・・・それがどんなにしあわせな夢であったとしても・・・いつかは悲しみにかわってしまうから。
それは・・・とてもさみしいことだから・・・。
とてもつらいことだから・・・」
「・・・・・・」


俺は、黙って少女の語りを聞いていた。

幼い少女の声は、空に届いただろうか。

静寂の深淵を漂う澄んだ空気の中で、少女の声は、どこまで辿り着くことを許されたのだろうか。


「だからね・・・みちるはかえるの。
みちるは・・・しあわせな思い出をいっぱいもらったから・・・。
美凪と・・・それに国崎往人にも、いっぱいもらったから・・・。
女の子からもらった悲しいだけの思い出に、少しはしあわせな夢をみせてあげることができたとおもうから・・・。
だからね、みちるはあの女の子に羽をかえしにいくの。
しあわせな思い出をいっぱいかかえて、女の子に会いにいくの。
大好きなひとたちとお別れするのはさみしいけど・・・。
みちるは、ただの夢だから・・・。
星は・・・夜が明けたら消えないといけないものだから・・・」


うつむいて、少女が悲しげに呟く。

でも、すぐに視線を上げて、まっすぐに前を見据えた。


「みちるがいなくなっても、美凪はきっとだいじょうぶだとおもう」


もういちど、みちるはそう言った。


美凪はね、やっぱり美凪でいなくちゃいけないんだよ」


最後の声は、輪郭がとてもはっきりしたものだった。

大切なひとへ。

大切な友人へむけられた、想いそのものだった。


「・・・おまえは・・・」


俺は、少女を見つめながら、声を紡ぐ。


「おまえは、遠野の・・・」


まるで、そこには存在しない何かを掴むように。

そこにあるのが、ただの幻であることを知っているかのように・・・。


「・・・みちるはみちるだよ・・・それでいいの」


少女が、微かに笑みをもらす。

それは、自分の名前を口に出せることのうれしさを知っているかのような笑顔だった。


「・・・でもね・・・やっぱりみちるはみちるじゃない・・・。
ほんとうのみちるはどこにもいない・・・どこにも居場所なんてないの・・・。
ここにいるのは、ただの夢なんだよ・・・。
そして・・・その夢ももう・・・」
「・・・・・・」
「・・・にゃはは。

・・・すごく・・・楽しい夢だったよ・・・。
・・・すごく・・・しあわせだった。
みちるは・・・この世に生まれてくること・・・ゆるして・・・もらえなかったけど・・・」

 

 

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少女は、黄昏に似た声を最後に、その場で涙を流した。

その涙が何を意味しているのか、俺はすべてを知ることができなかった。

でも、悲しかった。

いつも元気に笑っていた少女の涙を見るのは、とても辛いものだった。

 

だから、俺は少女を抱きしめた。

そして、少女が笑ってくれるまで、いつまでもいつまでもその頭を優しく撫で続けた。

たったそれだけのことしかできなかったけれど、少女の涙が乾くまで、俺は少女を抱きしめた。

 

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空を見上げれば星が見えた。

夜の闇でしか輝くことの出来ない星が・・・。

もし彼らが、消えることの寂しさを知っているのなら、どうか叶えて欲しい・・・。

この少女をどこへも連れていかないでほしい。

連れ去ってしまわないでほしい。

俺たちの心をいつだって温かくしてくれたこの少女と、ずっと一緒にいさせてほしい。


ずっと・・・ずっと・・・。


いつまでも三人でいたい・・・。


覚めない夢を・・・見続けていたい・・・。

 

  ・・・でも・・・別れはいつもそこにあって・・・

  俺たちはそれを見つめることしかできなくて・・・

  悲しいけれど・・・

  寂しいけれど・・・

  出逢いと別れを繰り返すことでしか・・・

  ひとは生きていけなくて・・・

  夢の終わりは・・・

  いつもそこにあって・・・

 

・・・・・・。

 

・・・。