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―SUMMER編―
・・・。
空からなにかが降ってきた。
そう思った時には、もう避けようがなかった。
・・・どすっ。
なにか重いものの下敷きになった。
俺は地面に倒れ、そのまま空を仰ぐ羽目になった。
「・・・痛てててっ」
「・・・おぬし、なぜそんなところにおるのだ?」
重いものが言った。
「まさか・・・見ておったのか?」
「見えるのは空だけだ。
口を開く暇があったら、早くどいてくれ」
空から降ってきたそれは、あわてて立ち上がった。
打ちつけた腰をさすりながら、俺もゆっくりと身体を起こした・・・。
正暦五年 夏
少女がいた。
きゃしゃな身体。
上等そうな絹の巫女装束。
垂らし髪に響無鈴(こなれ)をからませている。
そして。
なぜか少女は、袴の帯を結びなおしていた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
目が合った。
「なにを見ておる?」
「空で着替えでもしてたのか?」
「・・・・・・」
気まずい沈黙がおとずれた。
「・・・おぬし、見慣れぬ顔だな」
俺の腰、鉄鞘の長太刀(ながだち)に視線をよこす。
「ああ。 今朝、着任したばかりだからな」
「名は?」
「正八位衛門大志、柳也(りゅうや)」
「性はないのか?」
「急だったからな。 名しかつけていない」
「どこから来たのだ?」
「ここの前は、若狭(わかさ)の辺りにいた。
家柄を訊いているのなら、俺にもわからん」
「そうか。 覚えておこう」
つぶやくように言って、また帯締めに没頭する。
その指がどうにもぎこちない。
どうもかなり不器用な少女らしい。
「人の上に降ってきといて、詫びのひとつもないのか」
「なぜ余(よ)が詫びねばならぬのだ?」
「随分と世間知らずだな。
だいたい、名をたずねておいて自分は名乗らないつもりか?」
帯にかけた手が、はたと止まった。
「知らぬのか、余の名を」
「知らん。 今会ったばかりだろう」
「そうか。 存外、知られておらぬものよの・・・」
面白そうにつぶやく。
「神奈だ」
少女はそう名乗った。
「神奈? それは奇遇だな。
俺が守護の命を受けた翼人の御名が、まさにその神奈という」
「・・・妙な男よの、ぬしは。
翼人をどのような者だと考えておる?」
「そうだな。 なんたって神の使いだ。
唐天竺では鳳翼(ほうよく)と呼びならわし、異名を風司(ふうじ)、古き名では空真理(くまり)ともいう。
肌はびろうど、瞳はめのう、涙は金剛石。
やんごとなきその姿は、まさしくあまつびと」
「・・・よくもまあ、美辞麗句を並べ立てたものよの」
呆れたようにつぶやく。
「ところでぬしは、なにをしておったのだ」
「別に。 ただぶらぶらと歩いていただけだ。
なにしろ、これだけの広さがあるからな。
護りをかためるなら、どこになにがあるか知っておきたい」
「それは殊勝な心がけよの」
誠意なく言いすてて、またも帯に手を戻そうとする。
「神奈」
「・・・初対面にしては、ぶしつけだの」
「おまえがそう呼べと言ったからだ」
「それで、何用か」
文句を言いたげだったが、先をうながしてきた。
「神奈は、この中はくわしいのか?」
「無論であろ。
この世のどこに、自分の住まう屋敷がわからぬ者がいるか」
「では、案内してくれ」
「なにゆえ、余が案内せねばならぬ」
「くわしいんだろう?」
神奈の眉がつりあがった。
「いま一度尋ねるぞ。
なにゆえ、余が、おぬしを、案内せねば、ならぬ?」
「理由はふたつある。
社殿の事情にくわしそうだ、というのがひとつ」
「もうひとつは?」
「少々骨張っていようが、そこそこ見られた顔(かんばせ)の女に案内してもらった方が気持ちがいい」
俺を覗きこむ顔に、複雑な色が浮かぶ。
ほめられたのか、けなされたのか、判断がつきかねているらしい。
「・・・案内してやる。 ついてくるがよい」
「そりゃ、どうも。
あ、そこそこってのは、『さほど悪くもなし』という意味だ。
妙な望みは持つなよ」
「やかましいっ」
・・・・・・。
中庭を望む廊下を、ならんで歩く。
貴人の住まいにふさわしい、端正に手入れされた庭だ。
神奈は笑いもせず、さらりと袖口をあげた。
「装束だけは、このようにもっともらしいがな。
実際は牢獄とかわらぬ、庭を歩くことさえ、好き勝手にはできぬ。
なにゆえに、余は閉じ込められねばならぬのだ。
余はひとりでも生きてゆけるぞ・・・」
俺は誤解を思い知らされていた。
見たこともない表着(うわぎ)の意匠は、この少女の背に羽があるからだと気づいた。
どうやら俺は、自分が護るべき翼人をからかっていたらしい。
今更どうにもなるまい。
なりゆきに任せ、話を続けることにした。
「しかし、羽はどこにいったんだ? 切り落としたのか」
「めったなことを言うな。
しまい隠しておる、普段は人のなりと同じだ」
「なんだ、そうなのか。
どんなものが拝めるかと期待していたのにな」
「悪かったな。 期待をことごとく裏切るような女で」
まさしく彼女のなりは、翼人からはほど遠い。
それだけではない。
・・・さわさわさわっ。
神奈の尻を撫でてみる。
「・・・なにをするっ!」
あわてて身をひるがえし、真っ赤な顔で俺をにらみつける。
その辺の娘となにひとつ変わらない。
「いや、いい形をしてたから」
「おまえはいい形をしておったら、いちいち触ってたしかめるのか」
「いい形をしている尻はそうそうない。
だから、めったなことでは触らない」
「・・・・・・ぬしほど無礼な男は、見たこともないぞ」
「無礼はお互いさまだろ」
「なにを申すかっ」
「さっき俺を下敷きにしただろ、その尻で」
「・・・・・・」
なにかを言おうとしたあと、呆れ顔で俺を見た。
「おぬしといると、羽を忘れそうになる」
「どういう意味だ、それは」
「言葉のとおりだ」
・・・・・・。
そこは屋敷の奥にある、こぢんまりとした屋敷だった。
「余はここで暮らしておる」
「・・・・・・」
「どうした? はよう入るがよい」
いくら俺でも、貴人の御座にずけずけと踏みこむのは気が引ける。
「神奈さま、失礼いたします」
突然、女の声がひびいた。
俺の右手は太刀の柄を探していた。
まったく気配がしなかったからだ。
振り返ると、女官らしき者が荷物をたずさえて立っていた。
俺は刀から手をはなし、神奈にそっと耳打ちした。
「あれは何者だ?」
「ここで唯一、余にまことからつかえる者だ」
「裏葉(うらは)と申します。 そのようにお呼びください」
そう言うと、女は手近な床に荷をそっと置いた。
やわらかそうな生地の夏衣で、神奈の着替えなのだろう。
「あの、神奈さま。 そちらは・・・?」
「案ずるな、ただの曲者だ」
「どういう紹介だ」
「いきなり余の尻にさわったであろ」
「さわりたくなったものは、しかたがない。
さわられたくなければ、隠せばよかっただろ?」
・・・。
「神奈さま、いったいどのようなご格好で・・・」
「ちがうちがうちがうぞっ。
隠しておった、余はちゃんと隠しておったぞ」
あわてふためいてから、俺の笑いに気づく。
「見てのとおり、曲者で痴れ者だ。
裏葉も気を許すでないぞ」
こほんと咳払いをすると、何事もなかったようにそうつけくわえる。
「うふふふ・・・」
「なんだ、なにがおかしい?」
「恥じらう神奈さまのお姿が」
「恥も糸瓜(へちま)もあるものか。 余は憤慨しておるのだ」
「でも、お顔が赤うございますよ?」
ずばり言われて、その顔がさらに赤くなる。
「こっ、この者に作法を教えてやるがよい」
神奈は座敷を飛び出していった。
だんだん! という大きな足音が遠ざかっていく。
「・・・どっちがどっちに教えたらいいんだ?」
「さあ・・・」
裏葉と二人きりになってから、名乗っていないことに気づいた。
「俺は柳也という。
位は正八位衛門大志、ここには今朝着任したばかりだ」
しかし、反応はない。
じろじろと顔を眺めわたされ、なんとも居心地がわるい。
と、唐突にこんなことを訊いてきた。
「衛門さまは、どうして神奈さまのお尻にさわられましたか」
「どこにでもいる普通の娘のように思えたからだ」
「・・・でございますよね」
安心したように、何度も頷く。
「わたくしも神奈さまのお尻にはさわりとうございます。
わたくしが殿方であれば、そうしておりましたでしょう」
涼しい顔で、すごいことを言う。
「今度、手伝ってやるよ」
「機会がありましたら」
・・・・・・。
・・・。
翌朝。
俺は正式に神奈備命(かんなびのみこと)警護の任についた。
俺の役職は大志という。
社殿の警護を指揮する立場だ。
名目上は、勅命を受け衛門府から派遣されたことになっている。
とはいえ、護手が二十名に満たないここでは、雑用をおこなうことも多い。
俺にあたえられた最初の任も、立番だった。
早い話が、ただの見張りだ。
真面目そうな若侍と対になり、正門を守る。
あたりは青々とした夏の山。
ときおり吹く風も、汗ばむ肌に心地よい。
半刻もしないうちに、若侍がうたた寝をはじめた。
俺は苦笑しながら、心中ではまったく別のことを考えていた。
運よく仕官の口を得たといっても、しょせん俺は無頼者(ぶらいもの)だ。
ことが起きれば、部下や上役に裏切られることもありえる。
己の置かれた立場を正しく把握すること。
俺のような身分の者が生き抜いていくには、それが絶対に必要だった。
・・・・・・。
非直の時間をつかって、社殿の様子をそれとなくうかがった。
社殿は、敷地全体を杉の板堀にかこまれている。
正門はもちろん、裏木戸にいたるまで寝ずの番がつく。
貴人を護るのだから当然の用心だ。
だが、人員の割り振り方に違和感があった。
見張りに必要なはずの、高みの櫓(やぐら)もない。
何者かが攻め入ってくることを想定しているのではない。
むしろ、内から外に出るのを警戒した配置に思えた。
最初の数日は立番が続いた。
神奈本人はおろか、おつきの女官さえ見かける機会はなかった。
五日ほどたったある日。
見覚えのある女官に声をかけられた。
・・・・・・。
俺は詰め所の奥で、ひとり事務をとっていた。
書状の文面を考えあぐね、もがき苦しんでいたというのが正しいが。
「衛門さま」
「うおあっ」
あやうく、墨を硯(すずり)ごとぶちまけるところだった。
「にぎやかでございますね」
「そっちが静かすぎるのが悪い」
今度もまったく気配がしなかった。
仕事に気をとられていたせいもあるが、武士として体裁のいいことではない。
裏葉は俺の前の真っ白な紙を見て、なぜか目を丸くした。
「あらあらまあまあ・・・」
「どうした?」
「衛門さまは文(ふみ)をあぶりだしでお書きになるのですか?」
「あぶりだし?」
「橘(たちばな)の汁を筆にふくませ、文字をしたためますれば・・・。
万が一他人に文をとかれても、あら不思議」
「いや、あら不思議じゃなくてだな。
あぶりだしで書いたら、文を送った相手だって読めないだろ」
「『この文はあぶりだしでしたためた』と、墨ではし書きしておけば」
「・・・・・・」
完全に無意味だと思うが。
裏葉の顔をしげしげと眺めてしまった。
冗談なのか本気なのか、まったく読めないところが怖い。
「で、何用か?」
口調を戻して言うと、裏葉も居住まいをただした。
「社中の守警に関しまして、ご足労いただきたく・・・」
言葉をにごし、意味ありげに廊下に視線をやる。
「しかし・・・」
「神奈備様御直々(かんなびさまおんじきじき)のお申しつけにありますれば」
「あいわかった」
これで形式はととのったというわけだ。
俺は筆をおき、床から腰をあげた。
「それはそうと、『衛門さま』はやめてくれないか?」
「なぜでございましょうか?」
「堅苦しいのは苦手なんだ」
「なら、どのようにお呼びすれば?」
「柳也でいい」
「では柳也さま、まいりましょう」
「ああ」
・・・・・・。
「おそかったではないか」
俺の姿を見つけるなり、神奈は不機嫌そうに言った。
「この五日、姿も見せずになにをしておったのだ」
「仕事をしてたんだ、仕事を」
「そのようなくだらぬもの、放っておけばよいであろ」
「・・・・・・」
「まったく、益体(やくたい)もない」
「益体ないのはおまえの頭だっ!」
「ほお。
曲者痴れ者のぶんざいで、余をうつけ呼ばわりするとは笑止千万」
「まあまあ、神奈さま」
俺たちの様子を見かねて、裏葉が間に入ってきた。
「柳也さまも大人げない」
やんわりといさめられ、俺もやっと我にかえった。
最初に会った時以来、神奈と話しているとどうもおかしな調子になる。
「面目ない」
「うむ。 わかればよい」
「おまえに謝ったんじゃない」
「隠さぬでもよい、無礼はすべて赦(ゆる)してつかわすゆえ。
余はなんと寛大なことよの」
「・・・・・・」
なにを言っても無駄に思えてきたので、話題をかえることにした。
「で、俺になんの用だ?」
「まず座るがよい」
俺はその場にどっかりとあぐらをかいた。
着物の裾を合わせながら、裏葉もとなりに座る。
「余と二人だけではつまらぬと、裏葉がうるさく申すのでな。
特別にはからい、呼び寄せてやったのだ。
ありがたく思え」
「本当か?」
「もちろん、空言(そらごと)でございます。
神奈さまはこのところ柳也さまのお話ばかり。
何かにつけて『あの者は来ぬのか』とおっしゃるものですから」
裏葉が気をきかせて、執務中の俺に声をかけたらしい。
「そっ、そのようなことは断じてないぞ。
裏葉はなにか勘違いをしておるのだ」
わめいている神奈を尻目に、裏葉が神妙なおももちで訊いてきた。
「やはり、ご迷惑でしたでしょうか?」
「いや、それはいいんだが・・・」
この三人で集まって、なにをしろというのだ?
・・・。
俺は想像してみた。
寝所に近い一室での密会。
そばにいるのは美しい翠髪(すいはつ)の女官と、やんごとなき貴人・・・。
神奈の顔を覗きこむ。
・・・・・。
貴人というより奇人か、これは。
「余はおまえが今、無礼なことを考えておるような気がするぞ」
「・・・とりあえず、姿かたちは放っておくとしてもだ。
せめてこのおかしな言葉づかいだけでもどうにかならないか、と考えてたんだ」
「余の言葉のどこがおかしい」
「まず、その『余』ってのがおかしい」
神奈の言葉づかいは、公家と武家の物言いがまじりあった独特のものだ。
身分としてはおかしくないが、男言葉なので珍妙なことこの上ない。
「わたくしがおつかえしました時には、もうこのようにお話しでしたから」
苦笑いしながら、裏葉が言う。
「では、余は余のことをなんと呼べばよいのだ?」
「『まろ』か『わらわ』だろうな」
「余は余であって、まろでもわらわでもないぞ」
「理屈になってないぞ」
「理屈などいらぬ」
「はあっ・・・」
「・・・なぜそっちで溜息をついている?」
「うらやましいのでございます」
「何が」
「そのように神奈さまと親しくお話しされる柳也さまが」
「これが親しく話しているように見えるのか?」
だとしたら相当に能天気な性質(たち)だ。
「ええ、見えますとも」
やっぱりそう答えるか。
「それに・・・柳也さまだけでございます。
神奈さまのご身分を知ったあとも、変わらぬままでおられるのは」
「たしかに。 変わった男よの」
「お前だけには言われたくないぞ」
口ではそう言ったものの、裏葉の言葉は俺に役職を思いおこさせた。
「そろそろ戻るぞ」
俺が腰を浮かすと、裏葉も立ちあがった。
「もうしばらく、お相手をお願いできませんか?」
「使いの者を待たせている」
もっとも、渡す書状はまだ白紙のままだが。
神奈はだまったままだったが、やがてぼそりと言った。
「また来るがよい」
「そう簡単にここに来れるようでは、俺の仕事ぶりが疑われる」
一礼してその場を辞そうとした時。
神奈の声が聞こえた。
「余は、変わりものであろうか?」
「俺と同じくらいにな」
俺はそう答えた。
神奈は安心したようだった。
「よいか、また来るのだぞ」
それだけ言って、そっけなく背中を向けた。
話の間じゅう、神奈に羽があるのを忘れていた自分に気づいた。
・・・・・・。
・・・。
退屈な任務が続いた。
慣れるにしたがって、社中の雰囲気もつかめるようになってきた。
気になることがあった。
守護職全体の士気が、あまりにも低い。
立番はおざなり、警邏(けいら)もお粗末なものだ。
女官たちも同じだ。
神奈の身の回りの世話さえ、定めどおりなされているか怪しい。
社殿につとめる者たちが、真面目に職務を果たす気がないことは明らかだった。
守護すべき者への無関心は、俺にとっては好都合だった。
俺は日に一度、神奈の座敷を訪ねるようになっていた。
「神奈、おまえ、本当に翼人か?」
「来て早々に、そのいいぐさはなんだ」
「みなの様子を見ていると、どうにも解(げ)せないことがある」
翼人は天からつかわされた存在、とされている。
飢饉や疫病にのぞんでは、霊力をもって加持祈祷をなす。
言ってみれば、神々と直談判できる存在だ。
巫女装束を身につけていても、普通の巫女とは位が天と地ほどちがうはずなのに。
「話に聞いていたのと、ずいぶん処遇がちがう」
そのことか、とでも言いたげに、神奈は溜息をはく。
「余にもわからぬ。 昔からそうであったからな。
それに、余は神の使いなどではない」
「しかし、羽はあるんだろう?」
「羽があるからといって、神の使いとはかぎらぬ」
「たしかにそうだ。
竈馬(いとど)にも蟋蟀(きりぎりす)にも羽はある」
「おまえのたとえはいちいち気にさわる」
「藪蚊(やぶか)にも猩猩(しょうじょう)にも羽はございますね」
「なお悪いわっ」
神奈が振り向いた先で、裏葉がにっこりとほほえんでいた。
いつもながら、見事なまでに気配がない。
裾をすべらせて畳にあがり、ささげ持っていた高坏(たかつき)をそっと置く。
こんもりと盛ってあったのは、真っ白な雪のかけらだった。
「その氷はどこにあった?」
「さきほど酒殿の前を通りましたら、その奥になにやら恐ろしげな冷気をはなつ小屋がありまして。
入ってみましたらあら不思議、夏の盛りだというのにこのような氷が」
「ほお。 それは奇怪なことよの」
「守護方にご報告せねばなるまいと思い、こうして持参いたしました。
「それは氷室(ひむろ)といって、冬に降った雪をたくわえておくための小屋だ」
「はあ、そうでございますか」
「ちなみにことわりなく氷室に入れば重罪だ」
「あらあらまあまあ」
「剣呑剣呑」
両人ともに、まったく反省の色なし。
「まったく、氷室びらきはまだ先だというのに」
「これはもともと神奈さまのためにたくわえられたもの。
それに、今さら戻しましても、氷室につく前に溶けてしまいます」
困ったように言うが、もちろんすべて計算の上だろう。
「まあいい」
俺が頷くと、裏葉は居住まいをととのえ、神奈に正対した。
まず自分が雪片を口にふくみ、それから高坏を神奈の前に置く。
「さあ神奈さま、どうぞ」
「うむ、大儀であった」
「やっぱりおまえが言いつけたな」
「無論であろ。
このような暑い日にひらかんで、なにが氷室か」
氷を指でつまみあげ、そのまま口に運ぶ。
薄桃色をした唇が、しゃくっと鳴った。
「つべたいのお。
柳也どのもためすがよい。 特に許してつかわす」
神奈備様への供物を口にするなど、到底許されることではない。
今さら説明するのも馬鹿馬鹿しく、俺はおとなしく頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
雪片をつまみ、指がかじかむ感触を楽しむ。
外は蒸し暑い。
御簾(みす)の向こうを吹く風は、どこかまがまがしい気配をはらんでいる。
雪片を口に入れる。
しみるような冷たさは、俺の不安をほんの一時だけ忘れさせた。
「こうして三人で同じ氷をいただいておりますと、まるで・・・」
「寒空にたくわえももなく、軒下の雪で飢えをしのぐ死にかけた家族のようだな」
「たいそう楽しげなたとえでございますね」
「真顔で返すな、真顔で」
「・・・・・・」
「どうした。 氷の食いすぎで腹でも冷やしたか?」
「家族、とはどのようなものだ?」
答えたのは裏葉が先だった。
「そうでございますね、しいて申しますなら・・・」
ぴとっ。
「このようなものでございましょうか」
神奈の背中ごしに、ぴったりと身をよせる。
「こらっ、この暑いのにはりつくでない。 はなれよっ」
「・・・・・・」
さびしそうに肩を落とし、座敷を出ていこうとする。
「まてまて、そこまで離れずともよい」
ぴとっ。
「だから、はりつくでないと言うておろうが」
「・・・・・・」
・・・・・・。
「まてまてまてっ、いちいち去ろうとするでない。
もどれ、ちこう寄れ」
ぴとぴとっ。
「・・・なぜおまえまで余にひっつく?」
「いや、何となくなりゆきで」
「ふたりとも余から離れよっ」
・・・・・・・・・。
「だから、ふたりとも出てゆくでないっ!」
「ああだこうだと注文が多い」
「まったく、まったく」
「そなたたちは余をからかっておるのだろう?」
「めっそうもございません。
家族とは、このように身を寄せあって暮らすものでございます」
「そうか」
「そうか・・・?」
何かがちがうような気がするが。
「そうでございますとも」
もう一度すり寄り、てれくさそうな神奈の顔を袖でつつむ。
「い、息が苦しいぞ」
「息苦しいほど身を寄せあうのが、まことの家族というもの」
ぎゅううううっ。
じたばたする神奈と、あくまでも笑顔の裏葉。
無理して見れば、仲むつまじい母子に思えないこともない。
「ふむむっ。 ふむむふむーむむむむむぅ・・・」
「この身には過分なおほめの言葉、恐悦至極にぞんじます」
「俺には『苦しいっ、息ができぬからはなせ』と言っているように思えるが」
「それは柳也さまのお耳がひねくれているのでございます。
ねえ、神奈さま」
「・・・・・・」
「神奈さま?」
「ぷはっ」
「あらあら、お顔が真っ赤」
「・・・だれの、せいだと、思うておるのだ?」
息もたえだえの神奈に、裏葉はしれっと答えた。
「神奈さまが可愛いすぎるのがいけないのでございます」
「まったく、裏葉のなす事はいちいちとっぴでいかん」
褒められてまんざらでもないのか、ぶつぶつ小声で言う。
神奈のことを見守っていた裏葉が、そっと俺に向き直った。
「まだむずかしい顔をされておいでですね」
「生まれつきだからな」
「つまらぬ。 余の前ではほかの顔をせよ」
「無茶を言うな」
神奈のことをうかがい見る。
知れば知るほど、神奈の心根は娘子と相違ない。
「神奈はいつからこんな暮らしをしている?」
「柳也さまがご着任されてからは、このような明るい暮らしぶりに・・・」
「そうじゃない。 社殿に住まうようになったのはいつからだ?」
「覚えておらぬ。
物心ついた時には、もう閉じこめられておった」
神奈の瞳がさっと曇った。
触れられたくないことだったのだろう。
「そうか」
俺はそれ以上の詮索をあきらめ、あぐらをかき直した。
高坏の氷はとうに水となり、ゆらゆらと波紋をたてていた。
・・・・・・。
・・・。
妙な噂を知ったのは、その日の夕刻だった。
日没近く、裏戸番の引き継ぎをした。
山中の夜は早い。
向こうの山に日が落ちれば、暗闇が社殿をおおうまで四半刻もない。
松明(たいまつ)に種火を移していると、衛士(えじ)の不安げな様子に気づいた。
「何をそうおどおどしている?
これから非直という時に、心配事でもあるまい」
「衛門さまは、ご存じないので?」
ひかえめな口調に、非難の匂いを感じた。
守護職の態度は二種類あった。
あからさまに任を軽んじる者と、なにかを恐れるように息を殺し、奉公明けを待つ者。
この衛士は後者だった。
「話してみろ。 他言はしない」
うながしてやると、辺りをはばかるように喋りはじめた。
「みな、気が気ではありません。
神奈備様は、その・・・人ではありません。
みだりにふれれば、神罰が下るのではないかと」
「しかし、俺の見たところでは、神罰など信じている者は少ないようだが」
衛士は何事か考えたあと、さらに声を落として言った。
「かつてここより南の社に、翼人の母子が囚(とら)われていたと聞いております」
「囚われていた?」
思わず聞き返した。
『囚われていた』など、翼人を護る者が口にすべき言葉ではない。
だが、衛士はこう言葉を続けた。
「母親は人心とまじわり、悪鬼となりはてた、と・・・」
・・・・・・。
・・・。
その晩。
不寝番を終え、詰め所にもどる途中だった。
だれもが寝静まっているはずの本殿に、新たな灯がともされた。
不審に思い、近づいてみた。
起き出してきたのは、神奈だった。
小さな燭台をかたわらに置き、階段(きざはし)に腰かける。
神奈は月を見上げているようだった。
「どうかしたか?」
「柳也どのか・・・」
「まだ夜明けには間がある。 身体にさわるから、早く寝ろ」
「そなた、今日はひとりなのか?」
忠告を聞こうとせず、逆に質問を返してくる。
「夜番の者が物病(ものやみ)で、床から起きない。 おかげで寝ずの番だ」
「そうか」
そのまま、神奈はだまってしまう。
俺はとっさに、声をかけられなくなった。
それほどまでに、表情がはかなげだったからだ。
「・・・柳也どのは、夢を見るか」
「夢か?」
「そうだ」
「たまにはな。 昔のことをときおり見るくらいだ」
「どんな夢か、聞かせてもらえぬか」
俺は昔見た夢をぼんやりと頭に浮かべた。
「・・・旅の空のことだ。
土地土地で会った人々や風物が、とりとめもなく現れる」
「旅か・・・。 ひとりでか?」
「そうだ」
「そうか」
月光の下で、眉根がかすかにゆらぐ。
「その夢は楽しげなものか?」
「・・・つらい夢だな。 どちらかと訊かれれば」
「つらい夢を見た後は、そなたはどんな心持ちになるのだ」
「雨雲、かな」
「雨雲?」
「降りだしそうな雨をかかえた雲だ」
「ならば、どうやって追いはらうのだ」
「雨雲は時が流してくれるさ。 ただ過ぎるのを待つだけだ」
「そうかもしれぬな」
かすかにふくみ笑い、俺を見あげる。
燭台の照りかえしを受け、童子のような瞳がゆれる。
「長雨もあるが、その時はどういたす?」
「長雨か。 そうだな・・・だれかに話し、うさを晴らすくらいのものだな」
「ならば、聞け。 雨が降っておる」
「俺には風雅な月夜に思えるが」
「たとえで申しておるのだ」
「・・・・・・」
何も答えずにいると、ぶっきらぼうな声音が命じた。
「そこでは声が遠い、ちこう寄れ。
だが、くっつくではないぞ」
「わかっている。
こんな夜更けに悪戯(わるふざけ)などしない」
ごんっっ!
「やっておるではないかっ」
「暗くて見通せなかっただけだ」
「まったく、益体もない」
「ここでいいだろ」
「よい」
満足そうに頷く。
月を仰ぎ、そのまま語り出す。
「ちょうど、このような暗闇に、幼き日の余がすわっている。
なにも見えぬ、この身があるのかさえわからぬ。
恐ろしくて、さびしくて、それでも泣くわけにはいかぬ。
助けてくれとわめくこともかなわぬ。
そのような日々だ」
言葉を切り、だまって月を見つめる。
「だが、ひとつだけ温かい光を見る時がある。
おぼろげに浮かぶ、人の姿だ。
近づくと、光は消えてしまう。
余は追いかけようとする。
いつも、そこで目が覚める。
一度ではない、幾度も同じ夢を見る」
話の内容とはうらはらに、神奈は笑顔だった。
笑顔には、凶相を払う力があるとされている。
だとすれば、神奈の笑みは空蝉(うつせみ)にすぎなかった。
永劫の闇をともす、温かな光。
求めても求めても、決して得られるはずのないもの。
「柳也どのには、だれかわかるか?」
「神奈の母君(ははぎみ)だろう」
おそらく神奈は、その答えを予期していたのだろう。
風が吹きわたり、燭台の炎をゆらした。
黒々とした神奈の髪が、闇を払うようにふくらんだ。
「・・・余は、母の顔など覚えておらぬぞ」
「夢ってのは、どこかで見た景色を思い出してるんだ。
だから、覚えていなくても見ることはある」
「・・・どこかで見た景色?」
神奈が首をかしげる。
「神奈も、母君から生まれたんだろ?
いつ離れたのか知らないが、お前は忘れてないんだ」
そう言ってなお、自分の笑みが苦かった。
俺は親の顔を知らない。
夢枕に現れたこともない。
だが、神奈は笑った。
「我が身が覚えておるのか」
自分の胸元に、そっと手のひらをあてる」
「ならば、悪い夢というわけでもないの」
また、風が吹く。
折り込まれた事実のように、沈黙が過ぎていく。
不意に、神奈が言った。
「逢いたい・・・。
そう想うのは、我が身には過分なことか」
だれに聞かせるでもないつぶやき。
俺は何も言えず、おしだまるしかない。
「よい。 そなたのせいではない」
雰囲気を察したのか、神奈は慰めを言った。
「柳也どのは、己の責務を果たしておるだけだ」
「ああ・・・」
「余も己の責務を果たすとしようぞ。 寝間に戻る」
俺は一礼し、詰め所へと歩を進める。
だが、背後の気配はいっこうに動かない。
振り向くと、神奈が立ち尽くしていた。
「どうした?」
答えはない。
「さびしいのか?」
月光の加減なのか、瞳はうるんでいるようにも見える。
「泣いているのか?」
「ひとりは、つらい。
これほどまでにつらいとは、思うたことがない。
守護、大儀である」
その一言を残して、神奈は寝所へと消えていった。
・・・・・・。
・・・。
翌朝。
出仕の前の打ち合わせの時だった。
上役は、思ってもいなかったことを伝えた。
「・・・神奈備命は五穀豊穣の願を唱えるべく、北の社にところを移すことにあいなった。
出立は土用の入り、大暑と定める。
みな、次の命(めい)が下るまで万端につとめよ」
以上である、としめくくりかけた時、ようやく事の重大さが飲みこめた。
神奈をここから別の社に移す、というのだ。
俺にはまったく寝耳に水の話だった。
「質疑がある」
「申してみよ」
「われらも、神奈備命につき従い、あらたな社へおもむくのか?」
「いや、荘園の世話もせねばならん。
われらはすべて残り、開墾の指示に従ずる事になる」
周囲の者たちが安堵の息を漏らした。
俺のような無頼者をのぞけば、ほとんどが百姓の出だ。
もとより、翼人の警護を納得している者などいない。
「納得できぬ。
翼人を守護せよとの命を受け、ここに赴(おもむ)いたのだ」
「その命は撤回される」
「なにゆえに?」
「先ほど申したであろうが」
不毛なやり取りが続けられた。
だが、俺の意向は受けつけられなかった。
守護役ではただひとり、毛並みのちがう俺を応援する者はいなかった。
通達が済み、一日の仕事がはじまろうとしている。
それにもかかわらず、俺は神奈の元へと走っていた。
・・・・・・。
「神奈、聞いたか?」
「騒々しくもなる。
おまえが北の社に移ると、通達があった」
「ほう、もうそのような時期か」
神奈は驚きもせずに答えた。
「どういうことだ?」
「毎年そういったことがあるからの」
「しかし、俺は今朝まで知らなかった」
着任の時、俺の任期は決められていなかった。
事情をたしかめなかった己のうかつさを呪った。
しかし、俺がいきり立ったところで、決定を変えられるものではない。
「決まりは決まりだ。 柳也どのにどうなるものでもあるまい」
俺の心中がわかったのか、神奈が皮肉まじりに言った。
「だからといって、この処遇はあまりに・・・」
「随身(ずいじん)は別に定め、社の者はここに残る・・・であろ?」
「知ってたのか?」
「いつものことであるからの」
呑気をよそおい、虚ろに笑う。
「ここで別れだ。 出立はいつ頃となっておる?」
「土用の大暑」
「とすると、そう日もないの」
「いいのか?」
俺の問いかけに、神奈の瞳が動いた。
「なにがであるか」
「離ればなれになってもいいのか、と訊いている」
「仕方ないであろ」
返事はまるで別人のように生気に欠けている。
「裏葉とも、俺とも離れるんだぞ?」
「ほう、そなたは余と離れたくないか?」
ささくれ立った声音で挑発する。
せいいっぱいの虚勢は、俺にはただ痛々しいだけだった。
「先でも、変わり者はおる」
「俺と裏葉はいない」
「うぬぼれるでないっ! それほど余が弱く見えるかっ!」
「・・・・・・」
「おぬしがおらずとも、余は生きてゆける」
それは、はじめて会った時に聞いた言葉だ。
――『余はひとりでも生きてゆけるぞ』
そう言いはなった神奈のもうひとつの素顔を、俺は知ってしまった。
月光の下で俺に垣間見せた、意外なほどのもろさ。
あの時すでに、神奈は悟っていたのだろう。
いずれ自分がひとりで旅立つことを。
「強がるな」
「何だとっ」
「さびしかったんじゃないのか?」
「ちがう」
「なら、なぜ俺に胸の内を明かした?
さびしいから、母君に逢いたいんじゃないのか?」
「そうは申しておらぬ!
望んでも逢えぬものは、詮無(せんな)いことと申しておるのだ」
「なぜ逢えないと決めつける? お前の母君は死んだのか?」
一瞬で神奈の顔色が変わった。
「死んでなどおらぬ!」
「なぜそう言い切れる?」
「死んでなどおらぬっ。 そのようなはずがない!」
頬を真っ赤にし、駄々っ子のように首を振る。
神奈の気持ちは俺にもわかった。
夢の中で見た、淡く温かい光。
それさえもが幻だとしたら。
「母上はかならず・・・かならず、どこかで余のことを・・・」
そこから先は、言葉が続かなかった。
崩れそうになった威厳を、袖でおおい隠した。
「去れっ。 顔も見とうない」
俺は黙礼して、神奈の座敷を辞した。
いれちがいに現れた女官が、驚いてこちらを振り向く。
怒気は消しようがなかった。
自分がなにに怒っているのか、よくわからなかった。
・・・・・・。
・・・。
夜番の交代前に、俺は裏葉を訪ねた。
ちらかった部屋の中で、忙しくばたばたと立ち働いていた。
「何をしている?」
びくりと肩を震わせ、こちらを振り向く。
声の主が俺だとわかると、裏葉は緊張をといた。
「ただいま取り込み中でございます。 ご用件はのちほど」
にべもなく言う。
裏葉は旅支度をしているようだった。
黒塗りの背負いつづらに、たたんだ着物をぎゅうぎゅうとつめこんでいる。
「おい」
「放っておいてくださいませ」
「どこかに行くのか?」
「ええ、そうでございますとも」
きっとした表情には、強い怒りがただよっている。
「なぜ、神奈さまとお別れせねばならないのですか」
「聞いたのか?」
「お仕えして、まだ半年も過ぎてはおりませぬ。
これからと思っておりましたのに、この仕打ちは理不尽にすぎます」
「ついていく気か?」
「あたりまえではございませんか」
なぜわからないのか、そう言いたげだった。
「出立まで時間がないとはいえ、今日明日に出るわけじゃないぞ」
「ですから、その前にお連れするのではありませんか」
「・・・逃げる気か?」
俺は呆れ果てた。
逃げればどうなるかぐらい、それこそ幼子(おさなご)でもわかる。
「女の足で逃げきれるほど、守りは甘くないはずだ」
「これでも足は達者(たっしゃ)ですので、ご心配は無用でございます」
溜息がもれた。
どうも最近多くなっているような気がする。
「ひとつだけ訊いていいか?」
「なんでございましょう?」
「なぜそれほどまでに神奈のことを案ずる?」
「同じことを、わたくしも柳也さまに訊きとうございます」
にっこりと問い返され、思わず言葉を失う。
「なぜだろうな・・・・・・強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
「あいつほど、からかいがいのある奴はいない」
「・・・で、ございますよね」
声をそろえ、二人して笑う。
「先日の未明のことだ」
「はい?」
「神奈が月を見ていた。 母親に逢いたい、そう言っていた」
「・・・そうでございましたか。
わたくしが拝聴しましたのも、つい最近です。
神奈さまは本当に、柳也さまをお気に入られたのですわ」
「からかわれただけかもしれないぞ」
「それはございません」
自信たっぷりに言う。
「神奈さまは苛烈な性質(たち)であらせられますので、気に入らぬ者には見向きもされません」
「そうか」
そこで、出仕の時刻を過ぎていたことに気づいた。
「長居しすぎたようだ。 夜番に行ってくる」
「はい、お気をつけ下さいませ」
部屋を出ようとしたところで、大切なことを思い出した。
床にちらかった装束のたぐいを指さし、声を落として伝える。
「悪いようにはしないから、自重(じちょう)しておいてくれ」
「なにをなさるおつもりですか?」
「いや、ちょっとした約束を取りつけるだけだ」
「神奈さまんお御為(おんため)に、ですか?」
「いや、自分のためにさ」
「ご自分のために、ですか?」
俺はなにも答えず、ただ笑ってみせた。
・・・・・・。
・・・。
神奈に会う機会は、なかなか訪れなかった。
『自重しろ』と言った手前、裏葉の助けは借りたくない。
適当な理由をつくり、座敷に日参するが、そのたびに女官にとめられた。
「神奈備様にあらせられましては、本日は御気分がすぐれないとのこと」
「あいわかった。
まだ臍(へそ)を曲げているのか・・・」
「はあ?」
「いや、何でもない」
・・・・・・。
あわててごまかし、俺は詰め所に引き返した。
・・・・・・。
・・・。
神奈への目通りもかなわず、日々がすぎていく。
守護の任が終わるというしらせは、社殿全体の緊張を取りはらっていた。
社中の者たちはみな、憑き物が落ちたように笑い、冗談をかわしあう。
神奈が社殿を去る三日前。
上役が辺りをはばかるように声をひそめ、言った。
「一両日中に、この社殿および神奈備命に関する文書、文消息(もんじょ、ふみしょうそく)のたぐいをすべて集めよ」
「つまり、神奈備様が出立される前に、と?」
「よけいな詮索は無用」
「それはなにゆえに?」
なおも食いさがろうとした俺に、上役はにべもなく言いすてた。
「貴殿は知らずともよいことだ」
廊下を歩きながら、俺はあることを考え続けていた。
手薄すぎる警護。
士気が落ちるままにまかせ、訓練さえしなかった上役。
神奈が去るのと時を合わせて集められる文書のたぐい・・・。
神奈の異動を知った日から感じていたきざしが、俺の中で確信に変わっていった。
これには何か裏がある、と。
・・・・・・。
・・・。
大暑の前日。
その日の仕事を終え、俺は私室に引き籠もった。
明日、神奈はこの社殿を去る。
随身も餞(はなむけ)もない、さびしい出立だ。
向かう先がどこなのか、俺は知るはずもない。
衝立(ついたて)をまくように、湿り気を帯びた風が入ってきた。
夜半から雨になるな、そう思った。
「・・・・・・」
枕元に置いてある長太刀を持ちあげ、すらりと刀身をさらした。
銀色をした刃が、薄闇を吸うのがわかる。
今夜の手順を心中で整理してみる。
準備は万端にととのえてある。
邪念が忍び寄ってくる。
馬鹿げたことをしているぞ、頭の中でそうささやく声がある。
なぜ自ら重荷を背負おうとする? そうせせら笑う。
お前はひとりで生きてきたのだ。
これからもひとりで生きよ、と・・・。
両眼を閉じ、刃を鞘におさめる。
かちん。
切羽(せっぱ)が澄んだ音をたてて、心は決まった。
行動を起こしたのは、日没から半刻ほどあとだった。
・・・・・・。
・・・。
「衛門さま、ご苦労様でございます」
「ああ、ご苦労さん」
宿直(とのい)の衛士が充分に遠ざかってから、気づかれないよう殿内に入る。
目指すのは、神奈の寝所だった。
無謀なことをしているのは、自分でもわかっていた。
神奈の寝所に入れる者は、裏葉を含めた数人の女官だけだ。
昼間ならごまかしようもあるが、夜ではそうもいかない。
発覚すればこの場で首が飛ぶ。
罷免(ひめん)という意味ではなく、ほんものの俺の生首が、だ。
足音をころし、慎重に歩みを進める。
だれにも見つかることなく、神奈の御座に入ることができた。
・・・・・・。
夜風が入りやすいように、簾(す)は降ろしてはいない。
かわりに、屏風(びょうぶ)を立てており、外からは見せないようになっていた。
明かりが漏れていた。
寝所に歩を進める。
思った通り、燭台の火がともっていた。
きっと、遅くまで寝つけずにいたのだろう。
枕元にかがみこみ、耳元でささやいてみる。
「・・・おい、神奈。 起きろ」
寝具の下の体がごそごそと動いた。
面倒くさそうに寝返りを打とうとして、気配に気づいた。
瞳が薄くひらき、俺の方を向く。
「おはよう」
「・・・・・・」
ゆっくりと首をめぐらし、部屋を見渡す。
自分の目前に、あるはずのないものを見つける。
つまり、この俺だ。
「くっ、曲者っ!」
「俺だ俺だ。 大声を出すな」
あわてて口をふさぐ。
「そうあばれるな、ちょっと話があるんだ」
「むーっ! むむむっ! むむむぐうむうむ・・・」
思いつくかぎりの罵詈雑言を並べているようだ。
それだけはわかる。
「別に怪しいことをしに来たんじゃない。
とりあえず、怒鳴るのだけはやめてくれ、わかったか?」
「むがむが・・・」
「わかったら、うなずいてくれ」
しぶしぶながら、神奈はうなずいた。
そっと手を話したとたん。
ぼかっ。
いきなり頭を殴られた。
「余に夜這いをかけるとは、ふざけたまねをしてくれるの・・・」
「だから夜這いじゃないっての」
「言い逃れをするでない」
「ちがうって」
「なら、なぜこんな真似をっ・・・」
「約束をもらうためだ」
それだけを伝えた。
俺の声音になにかを感じ取ったのだろう。
神奈の顔色が変わった。
「約束・・・とな?」
「俺はこの社に奉公する者だ。 社殿の法をひるがえすことはできない。
でも、ただひとつ・・・、俺は役目がら、神奈備命の直命には絶対にさからえないことになっている。
もっとも、今までさんざんさからってきたけどな」
笑いながらつけくわえる。
神奈は笑わなかった。
俺がなにを言い出すのか、計りかねているようだった。
「だから、な。
おまえが『母君に逢わせろ』と言えば、俺はそのために命をかける。
神奈、主(あるじ)としての命を、俺に与えるか?」
神奈が絶句したのがわかった。
神奈がここを離れると聞いた時から、俺の腹は決まっていたのかもしれない。
ただ一言だけ、素直な心持ちさえ聞くことができれば。
おれは白刃に身をさらすことも厭(いと)わない。
「・・・・・・」
「選ぶのはおまえだ。 俺はこれ以上言わない」
その場に座り、返事を待つ。
ときおり、燭台の炎が揺れ、灯芯がちりちりと鳴った。
雨はもうそこまで来ていた。
ずいぶん長い時が過ぎたように感じた。
そして、神奈は言った。
「・・・では、余はそなたに命ずる。 母上の元まで余を案内せよ」
てれくさかったのだろう、言い捨ててからぷいと横を向く。
それで、すべてが決まった。
腰にくくりつけた長太刀を床に置く。
膝をつき、拳を肩幅にそろえ、床につける。
「正八位衛門大志柳也。
神奈備様が命、違えぬ事を誓約致し候。
・・・礼儀だからな、一応だ」
「あいわかった。 諸処万端に務めよ」
儀式はそれで終わった。
足を崩し、どちらからともなく破顔する。
俺はふところから包みを取り出し、神奈に手渡した。
中には女物の草鞋(わらじ)が入っている。
「これをどこかに隠しておけ。
できるだけ寝ていろ、一刻たったら起こしに来てやるから」
「・・・なにゆえだ?」
「もうすぐ雨が来る。 見張りの気もゆるむはずだ。
それに、寝ておかないと体力がもたない」
「そうではない。 逃げきれると思っておるのか?」
「これでも刀で位(くらい)をもらったんだぞ?」
「嘘はつかぬ方が身のためだぞ」
「そうか?」
「おぬしが強いとも思えん」
言いきられては、苦笑するしかない。
「俺はおまえに仕える者だ。
だから、おまえの望みをかなえてやる」
そこで俺は目を細め、自信ありげに笑ってみせた。
「なにゆえ、余のためにそこまでする」
「さあ。 なぜだろうな・・・」
それは俺の、素直な心持ちだった。
神奈はなにも言わず、ただ俺の顔を眺めていた。
「それじゃ、あとでな」
衝立(ついたて)から向こうをうかがい、廊下に出ようとした時。
神奈がなにかを言おうとしたのを感じた。
「なんだ?」
「待って・・・おるからな」
「やけに素直だな。 さては惚れたか?」
「だれがそんなことを申したっ」
「本当に寝ておけよ。 あとあとつらくなるぞ」
神奈は素直にうなずいた。
俺は足音に気をつけながら、寝所をあとにした。
・・・・・・。
もうひとつ、訪ねるべきところがあった。
裏葉の寝間だ。
神奈の身の回りの世話は、ほとんどすべて神奈がこなしている。
そのため、神奈の寝所に近い座敷に、私室を設けてある。
足音を殺したまま、寝間に入った。
・・・・・・。
がらんとした部屋の中央に、寝具がたたんであった。
しかし、人影はない。
「裏葉、いないのか?」
目をこらし、だれもいない部屋を慎重に見渡す。
「お待ちしておりました」
「うおあっっ」
暗がりの中に溶けこむように、裏葉がほほえんでいた。
貴人のそばに侍(はべ)る女官は、普段は邪魔にならないことを求められる。
それにしても、これほどまでに気配を消せるものなのか?
「俺の来るのがわかってたみたいだな」
「ことを起こすなら、もう今宵(こよい)しかございません」
にっこりと笑う。
「すでに旅支度もととのえてございます」
俺は、裏葉の背後にぼんやりと見えるかたまりを指さした。
「それが全部荷物か?」
「はい。
すべて神奈さまの御衣(おんぞ)でございます。
なにが入り用になるか、わかりませんでしたので」
葛籠(つづら)が十ばかり、小山をなしている。
その中に、子供が隠れられそうなひときわ大きな葛籠があった。
「その大きな葛籠は?」
「十二単衣(じゅうにひとえ)一具でございます。
五衣(いつつぎぬ)の重ねもうるわしく、神奈さまにはたいそうお似合いになります」
・・・ちなみに衣ひとそろえでは、雑兵の武具一式より重い。
「置いていけ」
「なっ、なぜでございますか?」
大きな葛籠に取りすがり、真顔で問い返してくる。
「神奈さまが母君とご対面するあかつきには、ぜひにもこれをお召しにと思っておりましたのに。
唐衣(からぎぬ)の色目もたいそう涼しげでございますのに~」
その場に見を伏せ、おおげさに泣き崩れる。
「泣きたいのはこっちだ。
・・・っと、待てよ。
神奈を母君に逢わせる件は、まだ話してないはずだぞ」
「柳也さまのお考えなど、お見通しでございます」
やはり嘘泣きだった。
その時。
二人同時に気配を感じた。
衝立障子をへだてた向こうに、何者かが身をひそめている。
裏葉がするりと身を寄せてきた。
「・・・のぞき見られております」
耳元でささやく。
「・・・そうらしいな」
俺も肩を落として応じる。
のぞき見の主は、どうやら裏葉の同僚の女官らしかった。
息を殺しているつもりらしいが、まったく気配が消せていない。
「夜這いに来たと思われたらしいな」
「そのようでございますね」
「どうにかして追いはらいたい」
「それでは・・・」
裏葉は俺の胸板に顔をすり寄せてきた。
「わたくしの腰に、腕をお回しください」
あっけらかんとした言いようだったが、さすがにとまどう。
しかし、手段を選んでいる場合ではなかった。
言われたとおり、衣の上から右手をあてがう。
「ああ、柳也さま。 この時をどんなに待ちかねたことか」
「まだ夜明けまでは時がある。 二人して楽しもうぞ」
「柳也さまぁ・・・」
鼻にかかったような声音が、なかなか色っぽい。
せっかくなので、すこしばかり尻をもんでみた。
ふにふにふに。
「ああ、おたわむれを」
「よいではないか、よいではないか」
「ならばわたくしも・・・」
お返しとばかりに、袴(はかま)の上から急所をにぎられた。
「うぐおあっ!」
「うふふふふ」
あでやかに笑う裏葉・・・。
が、その動きがぴたりと止まった。
「・・・どうした?」
「・・・・・・」
裏葉は俺の股間に視線を落としたまま、軽蔑しきった口調で言った。
「さては益体もない御逸物(ごいちもつ)」
救いようがないほど冷めた声が、部屋にがらんと響いた。
「つ、勤めで疲れておるのだ」
俺は情けなく言い訳する。
「ああくちおしや。
今宵はなすべきこともなさず、乳母(めのと)のようにただあやし寝とは。
ああくちおしや、くちおしや」
衝立障子の向こうで、小さな舌打ちが聞こえた。
続いて、廊下を歩き去っていく気配。
「・・・行ったらしいな」
「そうでございますね」
「本気でにぎるなよ、本気で」
「それはこちらの言い分でございます」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「話を戻そう」
「はい」
「あと半刻もしたら、俺は神奈を連れてここから逃げ出すつもりだ」
「わたくしもお供いたします」
「だが、本当にいいんだな? つらい旅になるぞ」
「覚悟の上でございます」
普段と変わらない声音で言う。
だが、それがどれほどの覚悟か、見極める必要があった。
右手を太刀の柄にそえる。
鞘から刀身をすべらす。
裏葉の首筋に、刃を当てた。
「見つかれば、こうなる」
俺の太刀は、儀仗用の平鞘太刀(ひらざやだち)とはちがう。
幾度となく人血をぬぐった刃だ。
「わかるか? たやすく人は死ぬぞ」
いかに気丈な女でも、白刃を前にして強情を貫けるものではない。
だが、裏葉はのほほんと言った。
「かまいません。
この身が朽ち果てようとも、わたくしは神奈さまにおつかえすると誓いました」
動揺はおろか、身じろぎひとつしない。
「神奈さまの御為なら、この命ささげようとも惜しくはございません。
すこしでも、神奈さまのお心がやわらぐのであれば」
おだやかな顔もそのままに、澄んだ瞳だけが俺を圧倒する。
そばで笑っているだけの、無垢で愚鈍な女。
俺は今まで、裏葉のことをそんな風に見ていた。
刀を鞘におさめた。
このようにして負けをさとるのは、悪い気分ではなかった。
「わかった。 一緒に来てくれ」
裏葉は心から嬉しそうに笑った。
「これでずっと、神奈さまのおそばにいられるのですね」
「ただし、荷は詰め直せよ」
「やはりこれではいけませんか・・・」
うしろの大荷物を、未練ありげに振り向く。
「身軽な衣だけでいい。
表着(うわぎ)は一枚だけ、笠(かさ)もいらないからな。
それから水と干飯、塩、脯(ほじし)、薬があればなおいい」
しぶしぶながら、裏葉はうなずいた。
「あとでもう一度迎えに来る。 それまでに身支度をととのえておいてくれ」
「わかりました」
「自分の着替えも忘れるなよ」
「あらあらまあまあ。 ちっとも気づきませんでした」
のほほんと答える。
「・・・・・・」
やはり俺は、ただの役立たずを相棒にしてしまったのではないか?
さっきの盗み見の一件を思い出した。
明日になれば、社は噂で持ちきりだろう。
『夜這いをかけた衛門どの、衣も脱がずに女房と共寝』
・・・・・・。
思わず頭を抱える。
男としてこれ以上恥ずかしいことはない。
「どちらにしても、ここにはいられなくなったぞ」
「それはけっこうなことにございますね」
「・・・本気で喜ばないでくれ、たのむから」
・・・・・・。
表に出ると、雨が降っていた。
まとわりつく湿気に、額からじくじくと汗が吹き出る。
「・・・・・・」
軒先で雨をさけながら、遠くにけむっている山ぎわに目を向ける。
目指す先は、その山を越えたさらに先にある。
ざああああああ・・・。
不意に雨足が強くなる。
「・・・そろそろ刻限か」
私室に戻り、自分の荷を背負う。
入っているのは乾飯と薬のたぐい、そして幾冊かの文書。
闇と雨にまぎれ、もう一度神奈の寝所に上がった。
・・・・・・。
燭台の炎はまだ灯っていた。
だが、響いているいびきの質が前とはちがった。
「ぐう・・・ぐう・・・ぐお・・・」
「・・・・・・」
・・・まあ、不安と興奮で眠れないよりはましだが。
「神奈。 起きろ」
耳元でささやいてみる。
「・・・ぐう・・・すう・・・」
が、まったく起きようとしない。
ゆさゆさ。
肩をゆすってみる。
うっとおしそうに払いのけただけで、丸くなってしまう。
「・・・起きないか、こら」
むに。
頬をつまんでみる。
むにゅ~~~っ。
変にやわらかく、どこまででも伸びそうな気がする。
ぺちっ。
「・・・痛て」
手をたたかれた、しかも、寝たまま。
敵ながら見事な攻撃だ。
と思ったら、今度は何やら寝言を言いはじめた。
「・・・う・・・ん・・・ゆるして・・・たもれ。
入らぬ・・・入らぬというに・・・。
ゆるして・・・う・・・くっ・・・。
これ以上は・・・もう・・・。
もう・・・食べられぬ・・・」
むにゃむにゃ口を鳴らし、寝返りをうつ。
薄衣の裾をととのえるついでに、ぽりぽりと尻をかいている。
「・・・・・・尻かいてないで起きろぉっ!」
ぽりぽりぽり。
逆側の尻をかいて応じる神奈。
「かくなる上は・・・」
鼻をつまんでやることにした。
ふにっ。
しばらくそうしていると、なにやら苦しそうにもがきはじめた。
じたばた。
じたばたじたばた。
じたばたじたばたじたばた。
・・・ぐばっ!
よほど苦しかったのか、いきなり寝具をはねのけた。
枕から頭を上げ、上体を起こす。
童子のような瞳が開き、俺の方を向く。
「おはよう」
指を離し、にこやかに挨拶する。
「・・・・・・」
状況がまったくわかっていないらしい。
ゆっくりと首をめぐらし、部屋を見渡す。
目前に俺の姿を見つける。
「・・・・・・」
ぱたり。
「二度寝するなっ!」
また起きる。
部屋を見回す。
「・・・・・・」
ぱたり。
「三度目も同じかっ!」
「柳也さま、手ぬるいですわ」
「どぐわあああっ!」
「しっ、お声が高い」
「裏葉、お前いつからそこにいたっ?」
「ほっぺたをむにっとおつまみになったあたりから」
「俺が迎えに行くまで待ってろと言ったろ?」
「そろそろ刻限かと思いまして。
それに、神奈さまおひとりでは着付けに手間がかかります」
「言われてみればそうだな」
この期におよんでまだ眠り呆けている神奈を見下ろす。
「とりあえず、こいつを起こしてからだ」
「奥の手がございます」
「・・・どうすればいいんだ?」
裏葉は意味ありげに微笑むと、神奈の頭の下にそっと両手をさし入れた。
ごいんっ。
鈍い音をたてて、神奈の頭が床にめりこんだ。
「・・・痛いぞ。 なにをするか」
枕を抜き取っただけだが、効果は絶大だった。
「神奈さまにあらせられましては、今朝もご機嫌うるわしゅう・・・」
「これがうるわしい機嫌に見えるか?」
「はあ」
「まったく、もうすこしやさしく起こせぬのか」
「では、次からは力の加減を工夫いたしまして・・・」
「枕を抜くのをやめろと申しておるのだっ」
「掛け合いならあとでいくらでも聞いてやるから、早く支度しろ」
ぶつぶつ不平をこぼしながらも、神奈は素直に用意をはじめた。
その手がとまり、俺をにらみつける。
「・・・おまえはそこにいる気か?」
「あたりまえだ」
「余がこれからなにをするか、わかっておるのか?」
薄衣の裾をばたばたと振りながら詰め寄る。
「着替えだろ。 見ててやるから早くしろ」
「・・・・・・」
げしっ。
何か硬い物が飛んできて、俺の脳天を直撃した。
「~~~っ」
かなり本気で痛い。
額をさすりながら見ると、神奈の枕だった。
「今、角がぶつかったぞ。 ここんとこの角がげしっと」
「出ていけ、この痴れ者がっ!」
・・・・・・。
・・・。
人影がないのを確認してから、三人で雨の中に歩みでた。
物音を立てないよう、小走りで壁ぎわに寄る。
神奈と裏葉も見様見真似で続く。
二人とも雨をいとわないのは、俺としても心強い。
高く組まれた板塀を見上げながら、神奈が言った。
「これをどのように越えるつもりなのだ?」
「それぐらいは考えてあるさ」
目印をつけておいた所に、慎重に指をかける。
ぱきりと音を立て、一枚の羽目板が簡単に外れた。
「いつの間にこのような細工を?」
「かなり前から準備しておいた。 いつでも逃げられるように」
「職務熱心なことよの」
「ほっとけ」
板堀の向こうは深い山だ。
背の高い藪(やぶ)が、水気を含んだ闇とからみあっている。
「神奈、先に出ろ。 段があるから気をつけろよ」
段といっても二尺たらずだが、地面の具合はほとんどわからない。
「これしき大したことはない。 馬鹿にするでないぞ」
神奈がいきおいよく飛び降りた。
がさがさと藪が音を立て、神奈の姿を隠した。
「裏葉、行け」
裏葉が穴の前に立った。
闇を流したような行く手の様子に、一瞬ためらう。
「急げ」
「はい」
裏葉が向こうへと飛び降りた。
それから俺は、板塀を元通りに直した。
すこし離れた塀際にある立ち木をよじ登った。
音を立てないように注意して、塀ごしの闇に身をおどらせた。
・・・・・・。
背丈ほどの藪にはばまれ、いきなり視界がきかなくなった。
「・・・猿(ましら)のようであったぞ」
神奈の声が、見たままの感想を伝えた。
「ほかに言い方はないのか?」
「ほめておるのだ。 喜ぶがよい」
「そりゃどうも」
適当に答えながら、腰の太刀をたしかめる。
「ここからしばらく道がない。足下に気をつけろ」
「これしきのところ、かるく踏み越え・・・うわっ」
・・・びちゃっ。
言っているそばから転んだらしい。
「あらあら。 ご無事でございますか?」
「これが無事に見えるか?」
「見えません、こうも暗いと。
表着が汚れていなければいいのですが・・・」
「・・・おまえは主より衣が大切か」
「あらもうこんなにびしょびしょに」
「こらっ。 妙なところを手探りするでないっ」
「神奈さまは悪戯がすぎます。 今からこれでは先がもちませんわ」
「だからさわるでないというに」
「ああやっぱり。 袴もこんなに濡らして、はしたない」
「やめい。 くっ、くすぐったいではないか」
「神奈さまがそんなにお動きになるからでございます」
「うくっ・・・もうやめろと申すに・・・くくくふっ」
「えいえいっ」
「くっ・・・ふはっ・・・やめ・・・っはあっ」
「・・・袴の裾を上げろ。 裏葉もだ」
「まあ。二人一緒になんて柳也さまったらいやらしい」
「まったく、鬼畜も同然よの」
「・・・意味がわかってて言ってるのか、おまえは。
歩きやすいように裾をまとめろと言ってるんだ」
「あらあらまあまあ」
「うむ。 もとよりそうすればよかったのだ」
「俺のうしろから離れるな、行くぞ」
・・・・・・。
・・・。