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G線上の魔王【8】

 

 

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・・・。


冬の朝はいつもより冷え込んでいた。

さて、今日は朝から大忙しだ。

支度をして玄関に立つと、胸ポケットのなかで携帯が鳴り響いた。


「もしもし・・・」


相手は椿姫だった。


「朝早く、ごめんね」
「ああ、かまわないよ。 なにかあったのか?」
「えとね、今日、身代金の受け渡しがあるの」
「へえ・・・」


驚いたふりをした。


「大変だな。 やれるのか?」
「ううん、やるしかないよ」


椿姫の声には、強い意気込みのようなものが感じられた。


「すまんな、こんなときにいっしょにいてやれなくて」
「浅井くんにはたくさんお世話になってるよ」
「ちょっと仕事があってね。 かたづいたらそっちの家に駆けつけるよ」


かたづいたら、な。


「ありがとう。 待ってるね」


通話を切って、外に出た。



・・・・・・。

 

・・・。




―――――



・・・。



・・・・・・。




 

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いよいよか・・・。


笑みが漏れ、口角がつりあがる。

遊びを楽しむとしよう。



・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

―――――



・・・。



・・・・・・。





午前九時。

冬の青空と同じように、ハルの頭は冴え渡っていた。

 

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「よーし、椿姫。 いっちょ我々の友情パワーを犯人に見せつけてやろうじゃないか!」
「ハルちゃん、元気いいね」
「お前こそ、ちゃんと身代金持ったか?」
「うん」


椿姫は封筒に入れた株券を、大事そうに抱えていた。

見送りに出てきた両親に手を振ると、二人はセントラル街に向かった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


 

いったいどこから人が集まってくるのか。

午前中とはいえ、休日のセントラル街の混雑は半端なものではなかった。

 

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「ねえ、ハルちゃん」
「なんだ?」
「わたしたちって、いっしょに行動していいのかな?」


椿姫の足取りが重くなった。

ハルもつられて足並みを合わせた。


「ダメだとは言われていない」


ハルはむしろ、この誘拐事件にからんでこいと"魔王"に誘われているような気がしていた。


「ただ、わたしは離れて行動したほうがいいとも思う」


"魔王"も、ハルの介入を予想しているだろう。

であれば、"魔王"の不意をつきやすいのではないか。

たとえば、身代金奪取に姿を現した"魔王"が、椿姫に気をとられているうちに背後から近づいたりできるかもしれない。


「どうするの?」


椿姫が訊いてきた。

一人では心細いのだろう。


「だいじょうぶだ。 そばにいる」
「そう?」
「ただし、少し距離をおいて、椿姫を遠目に見守るような形を取らせてもらう」


椿姫はけげんそうに首を傾げた。


「じゃあ、これから、わたしたちはお互いに連絡をとりあえないの?」
「そうなる」
「そっか・・・」


ハルは、椿姫の肩に手を置いた。


「窮地におちいっているようなら、さっそうと助けにいく」


その一言で、椿姫も少しは安心したようだ。

頬を朱に染めてうなずいた。


「最後に、ひとつだけ、聞いておく」
「なんでも言って」
「わたしは極力犯人を捕まえようとする。
だが、万が一取り逃がしてしまった場合、身代金だけは奪われないように動くつもりだ」
「・・・そうなの?」


また不安そうに椿姫の眉が下がった。

椿姫としては、やはり、素直に犯人のいうことにしたがって、身代金を渡したい気持ちが強いのだ
ろう。


「いいか、椿姫。 たとえ犯人に逃げられても、身代金さえ手元にあれば、もう一度交渉のチャンスはつかめる・・・と思う」


"魔王"は、身代金を奪おうと、もう一度椿姫家に接触してくるからだ。

その場合は、再戦となるだろう。


ただ、なにか嫌な予感が走っていた。

ハルの推測は、"魔王"が本当に身代金を欲しがっているという前提において、妥当といえる。

ただ、今回の誘拐事件は、生活に詰まった人物の、成り行きの犯行ではないのだ。


――"魔王"にとって、五千万の株券が、どれほどの意味のあるものなのだろうか。


しかし、ハルは、"魔王"の真の目的は、ハルへの挑発だとにらんでいる。

"魔王"にとっては、挑戦というよりお遊びなのかもしれない。

いずれにせよ、"魔王"がハルを叩き潰したいのであれば、その鼻をあかしてやればいい。

もちろん、敗北を悟った"魔王"が、腹いせに広明くんを殺害するという不安も拭いきれるもので
はないのだが・・・。


「ハルちゃん、昨日も言ったけど、ハルちゃんのいいようにして」
「ありがとう。 そう言ってくれると思っていた」
「ふふっ」


椿姫が舌を見せた。


「ハルちゃんて、不思議な人だね」
「なんだ、急に?」
「どよーんとしたり、キリっとしたり、いったいどれが、本当のハルちゃんなの?」
「さあ・・・」


見つめられると、なんだか首の裏がむずがゆい。


「ハルちゃんって、転校多かったんじゃない?」
「まあ・・・」
「そっか、大変だったね」


椿姫は、おそらくその生来の人の良さで、ハルの友達の少なさを感じ取ったのだろう。


「おい椿姫。 わたしはよく気持ちが悪いといわれる」


突然の一言に、椿姫は目を丸くした。


「気持ちが悪かったら、縁を切ってもらってかまわないんだぞ?


ハルは少しだけ昔を思い出した。

孤独を孤高と言い換えて、斜にかまえていた自分を・・・。


けれど、椿姫は強い口調で言った。


「悲しいこと言わないで」


はっとして、椿姫を見た。

 

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「お友達だよ、ハルちゃんは」


いったいどうして、こうまで純粋な少女が現実にいるのだろうか。

一途なまなざしには、ある種のカリスマすら感じる。

なにをさしおいても、椿姫のためにがんばろうという気分にさせられた。

その根拠が理解できなくて、ハルは戸惑いを隠せなかった。


「最後に、一つだけ聞きたい」
「え、さっきも最後にって言ってなかったっけ?」
「これが本当に最後だ。 そしてかなり重要なことだ」
「うん・・・」


ハルは椿姫を見据えた。


「椿姫は、浅井さんのことが好きなのか?」

 


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「えっ!?」


瞬間、湯でも沸いたような表情になった。


「どうなんだ?」
「え、えと・・・」
「どうなんだと、聞いているんだ」
「す、好きだよ。 もちろん。 あんなに頼りになる人いないよ」
「ふーん」
「ふーん、て」


やはり、か。

ハルは、複雑な気分だった。

反対に、椿姫はすでに余裕を取り戻していた。


「なんにしても、ありがとう、ハルちゃん」


椿姫が言う。


「広明が帰ってきたら、いっぱいお話しようね」


ハルはうなずいた。

そして、椿姫についてはこう思うことにした。


自分は素晴らしい友人を得たのだ、と・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

―――――



・・・。



・・・・・・。





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午前十一時十分。


セントラル街にそびえる大時計を見て、椿姫は時刻を確認した。

ハルと別れ、一人になった。

一人で犯人の指示をまっとうした。

開店と同時にデパートに向かった。

犯人の言うとおり、アタッシュケースは六千円で買うことができた。

椿姫家の全財産ともいえる身代金は、すでにケースのなかにおさまっている。


椿姫は、ハルから預かった携帯電話を操作した。

充電も電波も十分に入っていた。


「もしもし・・・」


通話はすぐにつながった。

誘拐犯の魅惑的な声が耳を突く。


「優等生だな、椿姫は」
「え?」
「急いでケースを用意した。 デパートの開店は十一時だからな」


なにを言っているのかわからなかった。

弟の命がかかっているのだから、なにごとも急ぐに決まっている。


「今後も、迅速な行動を期待する」


椿姫は黙って、あいづちだけを打った。


「いまは、セントラル街だな?」
「はい・・・」
「そのまま歩いてオフィス街に来てもらおう。
山王物産の本社ビルが見える広い公園があるのはわかるな?」
「公園のどこに行けばいいんでしょうか?」
「園内には大きな掲示板がある。 そのそばで、落ち合おう」
「わかりました・・・」
「急げよ」


唐突に、通話が切れた。

椿姫は立ち止まって、ハルの姿をさがした。

けれど、人だかりにまみれて、あの目立つ長い髪は見当たらなかった。


――ついてきて、くれてるんだよね・・・。


椿姫は、アタッシュケースを手に掲げて、混雑してきたストリートを進んでいった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――



・・・。




・・・・・・。



 

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長くても三十分。

あのデパートからこの公園まで、女の足でも二十分あれば足りるはずだった。

椿姫には落ち合おうと言ったが、おれにそんな気はまるでない。

身代金奪取にさいして、なにをさしおいても確認しなければならないことがある。

それは、運び屋が、誘拐犯に従順であるかどうかだ。

すなわち、責任感を持って身代金を運べるのか、また、運ぶ体力はあるのか・・・。

そしてなにより、警察を頼っていないかどうか・・・。



三十分だ。


おれは腕時計の秒針を目で追った。

三十分以上かかるのであれば、まず間違いなく背後に警察がいるとおれは考える。

もし、椿姫の一家が、あれだけ忠告したにもかかわらず、警察に通報した場合、おそらく百人単位
の捜査員が、身代金を運ぶ椿姫を監視していることだろう。

おれを捕まえるために、大勢の刑事が公園に張り込むわけだ。

ただ、どれだけ迅速な指示が飛んだとしても、相応の時間はかかる。

警察はセントラル街から、この公園に人員を転換しなければならないからだ。

警察は、人員配置が完了するまで、椿姫を引き止めるだろう。

だからおれは時間を気にする。

三十分以内に椿姫の姿が見えなければ、取引を中止するしかない。


「・・・・・・」


園内の見晴らしはいい。

一般人を装った刑事がいれば、それとなくわかるかもしれないが、見分けがつくかどうか、確信ま
ではもてない・・・。

たとえば、目につくだけでも、中年のカップルが二組、犬を連れた男が一人、サラリーマン風の男、妊婦に手を差し伸べる初老の男・・・疑い出せばきりがない。

だから、おれがこの場で、せめてやっておくべきことは、すれ違う人間の顔を覚えておくことだ。

なぜなら、これから先、椿姫をひっかきまわしていく過程で、同じ顔を見かけた場合、そいつは刑事である可能性が極めて高いからだ。

ベンチに腰掛けたおれは、目線だけを動かして、警察の影を探っていた。



「・・・む」



椿姫の姿を確認した。

園内の掲示板に向かって、猛然と走っている。

私服の少女が、アタッシュケースを手に掲げた姿は、あまりに目立つ。

想像力の突飛な人間がいまの椿姫を見れば、まさしく身代金の受け渡しに奔走していると考える
かもしれんな・・・。

時計を確認する。

さきほどの連絡から、十五分もたっていなかった。

次の指示を出すとするか。

園内にすでに捜査員が張り込んでいる場合を想定して、すぐには電話をかけない。

椿姫が電話を取ったときに、捜査員は園内の電話をしている人物を徹底的にマークするからだ。

去り際、椿姫を見やった。

遠目に見ても、緊張しているのが見て取れた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 


―――――

 



・・・。



・・・・・・。

 


待ち続けて、もう一時間近くになる。

椿姫は不安に胸の詰まる思いだった。

指定された場所にいるはずなのに、一向に犯人らしき人は現れない。

声をかけてきたのは、まったく関係のないナンパ目的の男だけだった。


突然、携帯が鳴り響いた。

犯人からだ。


「はいっ、ちゃんといますよ!」


電話に出るなり、叫んだ。

犯人は不機嫌そうな声を出した。


「・・・少し、騒がしいぞ、椿姫」
「えっ!?」
「大声を出すな。
周りの人間に不審に思われるだろう?
ただでさえ、アタッシュケースを手に持った格好というのは、お前のような少女には不釣り合いなのだからな」
「す、すみません・・・」


目立つ格好になったのは犯人の指示ではないのかと思ったが、口に出す勇気はなかった。


「あの、それで・・・このケースはどうすればいいんでしょうか?」
「大事に持っておけ」
「え?」
「予定変更だ。 受け渡し場所を変更する」


椿姫は戸惑った。

思わず、ハルの姿を探すが、気配すらなかった。


「セントラル街の駅に行け。
改札の近くに、ロッカールームがある。
使用禁止の紙が貼られたコインロッカーを探せ」
「ま、待ってください、いま書き留めます・・・」


携帯電話を首と肩の間にはさみながら、自由になった両手で日記帳を開いた。


「ロッカーのなかに、身代金の詰まったケースを入れて鍵をしろ」
「使用禁止じゃないんですか?」
「安心しろ、実はちゃんと使える」


使用禁止の張り紙は、犯人が用意したものなのだろうか。

椿姫は次の指示を待った。


「ロッカーの鍵をしっかりとかけたら、次にその鍵を持って、電車に乗れ。 終点の桜扇町だ」
「桜扇町?」


それは、隣の県にある電車の終点だった。

セントラル街からだと片道で二時間はかかる。

県を越えるほど遠い場所まで連れ出して、なにをさせるのだろうか。


「向こうの駅に着いたら、改札を出たあたりで待て」
「また連絡をもらえるんですか?」
「いいや、お前から連絡して来い。 急げよ」
「わかりました。 次こそ会えるんですよね?」
「椿姫が、いい子にしていたらな」


おどけたようなことを言う。

遊ばれているのだろうか。

椿姫はめったに表に出ない感情が、胸奥でぐつぐつと沸いていくのをおさえられそうになかった。


「あなたの言うことは守ります。 だから、ぜったいに弟は返してください」


怒りが、膨らんでいく。

けれど、犯人はそんな椿姫をあざ笑うかのように言った。


「返さなかったら、どうする?」
「許さない!」


飛び出た声の荒々しさに、自分でも驚いた。

 

嫌な間があった。

とたんに恐怖が襲ってきた。

犯人を怒らせてしまったかもしれない。

下手に刺激して、広明が危ない目にあうようなことがあったら、どう責任をとればいいのだろう。


犯人は、静かに言った。


「決めた・・・」
「え?」
「私が、お前を人間にしてやる」


言葉の意味がわからず、問い返そうとしたとき、通話が切れた。


――人間にしてやる?


何か、哲学的な意味でもあるのだろうか。

そういう迂遠な表現は苦手だった。

そもそも、幼児を誘拐するような誘拐犯の言うことが、理解できるわけもなかった。


気を取り直して、駅に向かった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

声をかけられたのは、信号待ちをしているときだった。

 

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「椿姫、そのまま聞け」


ハルが、いつの間にか椿姫の隣にいた。

正面を向いたまま話しかけてくる。


「お前は、犯人の指示をメモにとっているな?」
「う、うん、日記に」
「じゃあ、そのページだけ破って、歩きながらそれとなく捨ててくれ」
「わかったよ・・・」


信号が青になった。

人々は一斉に歩き出した。

横断歩道を渡り切ったところで、ちらりと後ろを振り返ったが、ハルの姿は、もうなかった。


椿姫は、こんなときでも、街中にゴミを捨てるのは抵抗感があった。

ただ、すぐにハルが拾ってくれると思うと、いくらか気が楽だった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 


―――――

 


・・・。



・・・・・・。




二時間と十分が過ぎた。

あの公園から桜扇町まで、早ければ二時間で着くだろう。

それ以上かかれば、また警察の関与が考えられる。

おれはまだセントラル街にいた。

準備を整えたおれは、車の後部座席から、窓越しに景色を眺めていた。

冬の寒さをものともせず、街はいよいよ賑わってきた。


・・・。



電話の向こうから、慌てた声が届いた。


「もしもしっ!」
「ついたか?」
「はい! どこに行けばいいんですか?」
「ロッカーの鍵は、なくしてないだろうな?」
「ちゃんと持ってます。 どうすればいいんですか?」


おれは、当初から決めてあった通りに告げた。


「戻って来い」
「え?」


椿姫はうろたえるが、おれは続ける。


「戻って、ロッカーからアタッシュケースを取り出せ」
「ど、どうしてですか?」
「理由を説明する必要はない」
「だって、なんのために、こんな遠くまで・・・」


・・・それは、もちろん、身代金をいただくためだ。


「あの、ひょっとして、まだ警察のことを疑っているんですか?」
「・・・どうかな」
「だったら、こんなことは、無駄です。
本当に警察には連絡してないんですから」


声には、さっさと身代金を渡したいという気持ちがありありと出ていた。


「警察は、からんでいないのか?」
「はい、絶対です!」


富万別市から桜扇町まで、県をまたがせたのには理由がある。

警察の管轄が異なるからだ。

椿姫の背後に警察がいた場合、この誘拐事件の捜査が、他県に移る。

ここで、また人員の配置が混乱するのだ。

これだけ振り回せば、警察の追跡はかなり後手に回っているはずだ。

もちろん、両県警が相互協力のために、前もって連絡を入れておいた可能性はある。

しかし、ヤクザほどではないにしろ、基本的に警察は縄張り意識の強い組織なのだ。

富万別市の桜扇町の刑事が、犯人を挙げるために、全力で協力し合うことはないと、おれは判断
している。


・・・しかし、東京都に足を運ばせなくてよかったな。

当初の計画では、椿姫を東京に向かわせる予定だった。

この県と警視庁が、例外的に良好な関係にあるとは、つい昨日まで知らなかった・・・。


危ないところだった。


「よし、信じてやろう」


椿姫の行動は迅速だった。

少なくとも、椿姫と警察が綿密な連絡を取り合っているということはなさそうだった。


「次だ。 次こそ、身代金を受け取りに行こう」


おれは、ようやく、勝負してもいいと思えるほどに、警察の関与を否定しつつあった。


「えっと、ケースをロッカーから出したあと、どこに持っていけばいいんですか?」
「地下鉄に乗って、南区の住宅街に来い」
「はい」
「いまから言う住所と番地に向かえ」


番地を告げると、了解の返事が返ってきた。


「そこに、白いセダンが停めてある。
車の鍵は開いているから、お前は身代金を持ったまま後部座席に乗り込むんだ」
「それで、どうするんですか?」
「そのあとは、私を待てばいい」
「え・・・?」
「不安か? 狭い車内で、私と二人きりになるのは?」


おれは薄く笑う。


「な、なにを考えているんですか?」
「ドライブさ・・・」
「・・・っ」


愉しみだな・・・。

通話を切り、車の発進を命じた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 

 

・・・。




・・・・・・。



また二時間ほどかけて、セントラル街まで戻ってきた。

冬場は日が落ちるのが早い。

南区に着くころには、夕方になっているだろう。

 


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「おい、椿姫」


ハルだ。

不意に、背後から声をかけられた。

ハルは唐突に言った。


「お前が、桜扇町に行っている間、私はケースの入ったロッカーをずっと見張っていた。
ロッカーをあけようとした不審な人物はいなかった」
「そうなんだ・・・」


扇町まで着いてきてくれたわけではなかったのか。


「椿姫を追うか、ロッカーを見張るか・・・迷ったが、後者を選択した。
なぜなら、誘拐犯が鍵を手に入れたとしても、身代金が欲しければ、必ずロッカーを開けなければ
ならないからだ」


ハルの説明は、椿姫の不安を払拭させるには十分だった。


「もう少し人手があれば、よかった・・・」


ハルが寂しそうに言った。

また人ごみに姿を消した。


椿姫は胸を痛めた。

ひょっとしたら、ハルには頼れる友人などいないのかもしれない・・・。

ふと、ぼやいた。


「浅井くん・・・」


京介がいてくれたら、どれだけ心強いだろうか。

けれど、椿姫は弱音を吐きかけた心に鞭を打った。

ないものねだりをしても、弟は返ってこない。

ケースを握る手に力をこめる。

南区に、足を向けた。

なぜ京介の名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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椿姫はあまり訪れたことがなかったが、南区は全体的に閑静な住宅街だ。

西日が二階建ての新築の家や、屋敷を囲う鉄柵を朱に染めている。


椿姫は、番地を確認しながら、目的の場所を探した。


「あった・・・」


車を発見した。

白い普通車だった。

犯人のいう、セダンという車がどういうものか椿姫は知らなかったが、指定された住所に、白い車が一台だけ停めてある。


――あれの後部座席に乗って・・・。


動機が激しくなってきた。

犯人といっしょにドライブするなんて、思いもしなかった。

自分も誘拐されてしまうかもしれない。

ただ、それなら広明は返して欲しいと思った。

弟のためならいくらでも身代わりになるつもりだった。


車に近づいた。

恐る恐る様子をうかがう。

窓ガラスの向こうを覗く。

車内に人影はなかった。


意を決して、後部座席のドアに手をかけた。


・・・。

 


滑り込むように後部座席に乗り込んだ。

身代金の入ったケースを膝の上にのせると、ようやく一息ついた。



静かだった。

車内はまるで音がしない。

手に汗がうっすらとにじむ。

心臓の音だけが、やたらとうるさく聞こえた。


じっと待った。


不安に身がよじれる思いだった。

目をつぶると、広明の顔が浮かんでくる。

いま、どこにいるのだろうか。

食事はちゃんと取らせてもらっているだろうか。

早く、会いたかった。


・・・。

 

携帯の音に弾かれるように目を開いた。

急いでポケットから電話を取り出す。


「車のなかの居心地はどうだ?」


犯人だった。


「せっかくのドライブなのに、安い車で申し訳ないな」


言っている意味がわからなかった。

ドライブするのに、安い車も高い車もあるのだろか。

男性は見栄のようなものを気にすることがあると、なにかの本で読んだが、椿姫にはさっぱり理解できなかった。


「・・・あの、まだですか?」
「いま行く・・・」


そのときだった。


「む・・・?」


犯人が不意に息を潜めた。


「どういうことだ?」


声質が変わった。

それまで余裕そうにしていた犯人のそれではない。


「な、なにかあったんですか?」


問い返すが、返事はなかった。


しばしの沈黙を置いて、通話が切れた。


「え・・・?」


唖然とした椿姫を、さらなる不測の事態が襲った。


自動車の窓がノックされた。

音につられるようにして見ると、そこには見慣れぬ顔があった。

こちらを無表情に覗きこんでいる。



――制帽と制服。



戦慄した。


口を開いたまま固まった。


犯人が最も恐れている存在が、目の前にいる。



――警察!



パニックにおちいった椿姫は、突如現れた警官にどう対応していいのかまったくわからなかった。


膝が、がくがくと震える。


警官は車を降りるよう求めている。


めまいがして、みぞおちが軋んだ。


椿姫は意思を失ったロボットのように車から降りた。


ドアを開けるとき、ほとんど無意識にアタッシュケースを手放し、座席の足元においた。

 

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わけのわからない質問を繰り返された。


この車は、あなたのものなのか――?


極度の緊張状態にある椿姫は、まるで他人事のように警官の話を聞いていた。


ここでなにをしているのか――?


椿姫は、あ、え、などと意味をなさない声を発しながら、ついには首を振った。


なんでもないです、そう言ったと思う。


すると形式的なことですから答えてくださいと詰め寄ってきた。


盗難車の可能性もある、などと言っている。


もう、完全に上の空だった。


警察に話しかけられたことなんてない。


恐怖に、尿意すら覚えた。


警察といっしょにいるところを犯人に見られていたら、どう弁解すればいいのだろう。

 

警官は二人いた。


自転車も二台。


ぼんやりと景色を追うだけだった。


あのケースはなんですか――?

 

警官が背後の車を指した。


中を見てもよろしいですか――?

 

聞かれて、少しだけ目が覚めた。


使命感に似たものが芽生えた。


「だ、めです・・・」


か細い声が出た。

顔はうつむいたが、はっきりと拒絶の意思を示した。

目の前の警官は、いつの間にか、椿姫の前にケースをかかげていた。


「だめです」


身代金の入ったケース。


弟の命がかかっている。


引き渡したら、誘拐事件のことが警察に知れてしまう。


想像しただけで、広明と二度と会えないと思えるほどの恐怖が襲ってきた。


そこから先は、自分でも、自分の行動がわからなかった。

 

奇声を発した。

腕を伸ばし、つかんだ。

アタッシュケースの固い感触がある。

警官がうめいた。

背を向け、走っていた。

制止する声が上がる。

怯えた。

足だけが別の生き物のように駆けた。




闇雲に逃げると息が上がり、頭がくらくらしてきた。

まるで犯罪者にでもなったような気分だった。

酸欠と罪の意識で涙が出てきた。



だが、泣いている暇はなかった。



 

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「あの、あの、すみません!」


セントラル街の雑踏にまぎれてなお、椿姫は人心地がついた感じがしなかった。


「すみません、でも逃げましたから。 身代金、ありますから!」


必死で許しを請う。

犯人は、それまで以上に冷酷な声で言った。


「なぜ謝る? あれは、ハプニングだったのだろう?」
「はい、知りません。 警察の人がいるなんて、知りませんでした」
「知らなかったのなら、なぜ謝る必要がるんだ?
警察と示し合わせていたのでなければ、頭を下げる理由がわからない」
「それは、えっと・・・ただ、なんとなく・・・」


電話越しの犯人は警戒の色を弱めなかった。


「裏切ったな?」
「ち、違います!
「私をあそこで捕まえる算段だったのだろう?」
「本当です、信じてください!」
「もういい、取引は中止だ」
「そんな!」


頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。

このままでは広明を失ってしまう・・・。


「なんでもします! なんでもしますから弟には手を出さないで!」
「・・・・・・」
「お願いです、お願い・・・!」


最後のほうは声にならなかった。

目に涙が溜まっていく。


「そんなに弟が大事か?」
「・・・もちろんです」
「なぜだ?」
「なぜって、家族だから・・・」


言うと、相手は低く笑った。


「そうか、家族だからか。 そうだな、家族は大切にしなくてはな」


せせら笑うように続けた。


「椿姫は、さぞ大切に育てられて、清く正しく成長したんだろうな」
「えっと、どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ。 お前からにじみ出る善良さが、まぶしくて仕方がない」


椿姫はなお、理解できなかった。

よく、人がいいとは言われる。

京介にも茶化される。

けれど、他の人も皆、いい人ではないか・・・。


「善良さというものは、たいていの場合、偽装した悪徳にすぎないと私は思っているが、どうやら椿姫は一味違うようだな」


もうたくさんだった。


「あの・・・」
「いいだろう。 取引を続ける」
「あ、ありがとうございます!」


思わず頭を下げていた。

理不尽な状況にあって、犯人に感謝していた。


「もう少し、慎重にやらせてもらうとしよう。 今後は、たとえ警察がからんでいても、身代金を受け取れる手順を踏ませてもらう」


椿姫は、犯人もやはり人の子だと思った。

誠心誠意お願いすれば、話が通じた。

もしかしたら、広明を誘拐したのにも深い理由があるのかもしれない。


椿姫は初めて、犯人の心情に興味を持った。

そして、なにより従順になっている自分に気づいていなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

―――――



・・・。



・・・・・・。



 

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日が落ちた。


初冬の風が寒さを運んでくる。

おれはガードレールに腰掛けながら、椿姫との通話を続けていた。

 

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あれから二度、西区の港と、隣の市まで、椿姫を走り回らせた。

移動手段も、徒歩、電車、タクシーと、様々な動きを見せた。

椿姫に言ったとおり、慎重にことを進める。

南区の住宅街で、椿姫は大きな騒ぎを起こした。

アタッシュケースを持った少女の姿は目立つ。

そんな不審者を、どこかの人のいい市民が通報しないとも限らない。

そして、警察が、不審者と、誘拐事件とを結びつける可能性がないとは言いきれない。

しかし、本日中に、警察が不審者を椿姫と断定し、誘拐事件の被害者であることを調べ上げるとは、とても考えにくい。

身代金奪取は今日中に、行う。

証拠も残していない。

あの白いセダンにしても、もともとが盗難車だ。

今夜中に県外のスクラップ工場に運ぶ手はずも整えている。

あの車から足がつく心配をするならば、たとえばいますぐに関東域に大震災が起こる心配をしたほうがいい。


「・・・・・・」


ほとんど全ての準備が整った。

あとは、宇佐美だ。

どうやら椿姫と行動をともにしているようで、それとなく距離を置いているようだ。

椿姫を監視しながら、宇佐美の姿も探しているが、これが意外なほどに見つからない。

あのおかしな髪型が、尾行に適しているとはまったく思えないが、それこそが盲点なのかもしれな
い。

あれだけの長髪ならば、いくらでも髪型を変えることができる。

帽子をかぶり、メガネでもかけられれば、ぱっと見にはわからないほど変貌するだろう。


しかし、最後には必ずおれが身代金を奪う。

いまはヤツらをひっかきまわして、疲弊させることだ。


「・・・っ」


また、頭痛を覚えたが、今度ばかりはこらえることにした。

いま頭痛に身を任せるわけにはいかない。

体内に燃え盛る、鬱屈した感情に闘志を募らせる。


・・・邪魔をするな、浅井、宇佐美・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 


―――――

 

 

・・・。



・・・・・・。

 

 

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――さあ出て来い、"魔王"。


もう時刻は夜の八時を回っている。

朝早くから、市内を駆けまわされて、ついには東区の公園までたどりついた。

ハルは、茂みに身を潜めていた。

物音一つ立てない。

日中は市民の憩いの場となっているであろう公園も、いまでは不気味なまでに静まり返っている。


椿姫の体力はだいじょうぶなのだろうか。

公園に来るまでに、椿姫はまたコインロッカーにケースを入れていた。

鍵だけを持って、園内のゴミ箱のそばにやってきた。


ハルは、今度はロッカーを無視して、椿姫を追うことにした。

身代金を奪うには駅構内のロッカーに近づく必要があるが、ロッカーを開けるには、鍵が必要なの
だ。


いちおうロッカーの近くにも人を残していた。

セントラル街で偶然に、京介に出会ったのだ。

事情を説明すると、京介は喜んで協力してくれた。

父親の仕事を手伝っているというが、意外とフリーな時間が多いようだった。

 


椿姫の携帯が鳴った。

ハルは耳を澄ました。

顔を出すのはまずい。

音だけで状況を判断しなければならない。


「はい・・・わかりました・・・」


椿姫の声にはさすがに疲弊の色がうかがえた。

極度の緊張が続いたのだから無理もない。

警官に囲まれたときなど、パニックにおちいっていた。


「鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね?」


考えてのことかどうかはわからないが、椿姫は、犯人の指示を復唱してくれていた。


「・・・わかりました。 すぐ、行きます」


言い切って、携帯を切る音がした。

足音が聞こえる。

どうやら椿姫は走り去っていったようだ。

 

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取り残されたハルは、身を小さくした。

待っていれば、"魔王"が鍵を回収しに現れるはずだ・・・。


――いや、違う。


自分も疲れているのか。

"魔王"がここに現れるはずがない。

なぜなら椿姫は、まだ鍵を手に持っているからだ。

じっと耳を澄ませていたが、椿姫がゴミ箱に何かを捨てるような物音は拾えなかった。


椿姫は、鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね、と言った。

しかし、それはたまたま口にしたのではないか。

なぜなら、もし、椿姫が気を利かせて"魔王"の指示を復唱してくれたのであれば、その後も、逐一
状況を伝えるような発言や行動があってもいいものだからだ。


鍵をゴミ箱に捨てるときにわざと大きな音を立てたり、捨てたことを声に出してくれてもいい。

なにより、その後の椿姫の『すぐ行きます』という発言は、気を利かせて復唱してくれているにしては、どこに向かうのかわからないあいまいさがある。


"魔王"と椿姫との会話はおそらくこんな感じだったのだろう。



『鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね?』
『いや、待て。 やはり、セントラル街に向かえ』
『・・・わかりました。 すぐ、行きます』



そもそも、椿姫は南区で警官に職務質問を受けて以来、"魔王"にえらく怯えていた。

気も焦っていることだろう。

そんな状況で、ハルのことを気にかけている余裕はないはずだ。


思わぬ足止めを食らうところだった。

単なる聞き違いから、勝手に勝負をリタイアしてしまうところだった。


「それにしても、いつになったら現れるんだ・・・」


言いつつも、ハルは、決着のときが近づいているような切迫さをひしひしと感じていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


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もうどれくらい駆け回っていることだろうか。

何度、引渡し場所を変えられたかわからない。


極度の緊張が続いた椿姫は疲れ果て、会話をするにも息がつまりそうになっていた。


「がんばるな、椿姫」


犯人が電話越しに言った。


「もう九時になるか・・・そろそろ弟たちを寝かしつける時間じゃないか?」
「・・・次は、どこに?」


椿姫は息を切らせながら聞いた。


「お金は、必ず渡しますから、弟を返してください!」
「そればかりだな」
「広明が帰ってくれば、それでいいんです!」
「だが、本当にいいのか?」
「え?」
「身代金を渡したりして、いいのか?」


いまさら、なにを言うのか。

椿姫は、すでに、まともに頭を働かせる気力が薄れていた。


「その金は家族の全財産ではないのか?」
「はい・・・」
「金を失えば、弟は返ってくるかもしれんが、お前たちは路頭に迷うことになるのではないか? それでもいいのか?」
「弟の命にはかえられませんから」


犯人は感心したようなため息をついた。


「命は金に変えられないというが、果たして本当にそうなのかな?」
「当たり前です。 お金より大事に決まっているじゃないですか」
「そういった決まり文句こそ、貧乏を経験したことのないなによりの証拠だと思うがな」


椿姫はたしかに、お金がなくて困っている両親の姿を見たことがない。

それほど裕福でもないと思うが、決して貧乏と言い切れるほどの家庭でもなかった。


犯人はたびたび、椿姫の理解できないことを問いかけてくる。

椿姫を困惑させるようなことを言って、それが身代金の引渡しにどう関係するのだろうか。


「あの、早く・・・早く、終わらせませんか?」
「もう限界か?」
「いえ、ただいつまで続くのかと・・・」
「弟の命がかかっているのに、弱音を吐くのか?」


その瞬間、椿姫の心に火がついた。


「違います! 弟に早く会いたいだけです!」


赦せなかった。

また、赦せないと思えるほど、犯人を憎んでいる自分に戸惑いもした。

けれど、言葉は溢れ、止まらなかった。


「赦さないから! 広明になにかしたら、赦さないから!」


もう、わけがわからなかった。

さきほどまで、犯人の心情を慮っていた自分はどこにいったのか。

短気を起こして、犯人を怒らせてしまったらどうするのか。


――広明に、会いたい・・・。


ただ、それだけを考えた。


「ころあいか・・・」


犯人がふと言った。


「次が最後の指示だ。
いますぐ駅のロッカーからケースを回収しろ。
そして、九時半までにセントラル街のハンバーガーショップの前までこい」


メモを取る余裕はなかった。


「く、九時半ですか?」


いまから、駅に行って、また街まで戻ってくるにはぎりぎりの時間だった。


「急げばなんとか間に合う。 店の前の歩道に、ケースを置いてすぐに走り去れ」
「わかりました・・・」


やるしかなかった。


「以上だ。 遅れたら弟の命はない。 今度は絶対だ。 身代金を確認したら、おって連絡する」


通話が切れた。


椿姫はしばらくの間、携帯を耳に添えたままだった。

まさか、身代金の引渡しが、こんなに体力を使うものだなんて知らなかった。


犯人は、これで最後だと言った。

いままで何度か同じ文句を言われその度に騙されたが、今回は違うような気がした。

帰りを待つ家族のことを思った。

父も母も心配していることだろう。


――もうすぐ、帰るからね。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。



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ハルは椿姫を追うのに必死だった。

椿姫は、駆け足でセントラル街を抜けていった。

勢いよく駅に入ってケースをロッカーから取り出した。

椿姫の動きは、疲労している割にかなり素早かった。

まるで、最後の気力をふりしぼっているかのようだった。

駅構内が混雑しているのもあって、ロッカーを見張ってもらっているはずの京介の姿を探している
余裕はなかった。


――まずい。


ハルは人でごった返したストリートを見渡した。

まるで視界がきかなかった。

路上に若者が溢れ、まるで道をふさぐ土砂のようだった。

何度人と肩をぶつけただろうか。

椿姫のコートの背中も、ときおり人にまみれて見失ってしまうほどだった。


ハルも普段、アルバイトの帰りにこの道を通るのだが、これほどまでの大混雑は初めてだった。

いったいなにが起こっているのか、すぐに見当がついた。

 


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『みんなー、わたし、テレビ出るよー!』

 


生放送のテレビ番組。

花音を一目見ようと、あるいは少しでもテレビに映ろうとしている人々が集まってきているのだ。

道路わきにテレビ中継車と思われる車や、機材を運ぶ人もいた。


――"魔王"はこのときを待っていたのではないか。


息がつまりそうなほど大混雑したセントラル街は、身代金を奪って逃走するには、絶好の機会といえる。


「椿姫っ!」


ハルは、一度椿姫を引き止めて、身代金をどこに運んでいるのか聞き出したかった。

けれど、叫び声は、当然のように喧騒にかき消された。

椿姫には、もう余裕はなさそうだった。

"魔王"から急かされているに違いない。

しかし、椿姫をいままで以上に急がせているということは、"魔王"にとっても今回が勝負どころだということだ。

 

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――やるなら、いまだ・・・!


ハルは、もうぜんと椿姫に迫った。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

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椿姫は肩で息をしながら、ようやく目的のハンバーガーショップまでたどりついた。

まだ九時半になっていないことを祈るばかりだった。


人混みをかきわけるように進んだ。

無理に走って人にぶつかって、怒鳴られた。

大勢の人に迷惑をかけてしまった。

謝っている余裕もなかった。


焦っていた。

アタッシュケースを落として、転倒してしまったことすらあった。

命より大事なケース。

しっかりと握り直して、駆け抜けた。


「はあっ、はあっ・・・」


立ち止まった。

何気なくあたりを見渡す。

ここに置いていいのだろうか。

関係ない人に拾われたりしないだろうか。

犯人は、ケースを置いてすぐに立ち去れと言った・・・。


そんなとき、底抜けに明るい声が、大音量で雑踏を貫いた。


『全国のみなさん、九時半ですよー!』


椿姫は唖然として、耳を疑った。


――どうして花音ちゃんが・・・?


わけのわからないことばかりだった。

ただ、はっきりと聞いた。

いま、九時半なのだ。

ケースを置いて立ち去らなければ、広明の命はない――。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 

 

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・・・いまだ。


椿姫がアタッシュケースを路面に置いた瞬間だった。

おれは人ごみを抜け、足早にケースに近づいた。

ケースをしっかりとつかむ。

ケースが持ち主の手を放れたのは、時間にして五秒もなかっただろう。

人々は、皆、颯爽と現れた人気フィギュアスケート選手『浅井花音』に目を奪われている。

これだけの大混雑だ。

生番組の放映に合わせた身代金奪取。

これだけ引っ掻き回したのだ。

たとえ背後に警察がいても、逃げおおせる自信はある。

なぜならおれは、この町を知りつくしているからだ。

逃走ルートはいくつも考えられる。

宇佐美ごとき一人の少女に、なにができるというのか・・・。


――「ケースを持った男を捕まえてください!」


背後から声が上がった。

宇佐美だ。

どうやらきちんと椿姫のあとをつけてきたようだな。

一瞬だけでも姿を見られたか?

しかし、宇佐美よ・・・このオフィス街に近い雑踏のなかに、どれだけケースを持った人間がいると思うんだ?

おれの目論見どおり、衆目がおれに集まっている様子はない。


――「ひったくり! ひったくりです!」


・・・騒いだところで無駄だ。

おれは背筋をただし、落ち着いて歩く。

ひったくりなら、なおさら急いで逃げるようなものだ。

誰も、おれが誘拐犯などとは思うまい。


「・・・・・・」


いや、妙だ・・・。

悪寒を覚えたとき、スピーカーから声がした。


「あれあれー? なんだか騒ぎが起こってますよー?」


ち・・・。


生中継のテレビが厄介だ。

カメラを向けられたら、おれの姿が映像に映らないとも限らない。

こんな『お遊び』でおれの姿が映像に残っては、今後の計画に支障をきたすかもしれない。

急いで逃げ出したいが、ここで走り出せばひったくり犯だと名乗り出ているようなものだ。

 

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「・・・っ!」


肩越しに背後を覗き見た。

宇佐美の長い髪が、人を隔ててかいまみえた。



・・・・・・。



・・・。



―――――


 

・・・。

 



・・・・・・。



さきほどちらりと、ケースを持った男の後姿が見えた。

あれが、"魔王"だ。

足をゆるめず、人の波をかきわける。


「・・・・・・っ!?」


もう一度、"魔王"の後姿が見えたとき、正面から誰かとぶつかった。

小さく謝って、脇をすり抜けた。


焦慮に急かされながら、"魔王"を探す。


――いた!


人垣の向こうに、ケースだけが見えた。

人の群れに飛び込むようにして、体をねじ込ませた。

距離は縮まらない。

もみくちゃにされながら、腕を伸ばす。

あと少しだ。

あと少しで、"魔王"に手が届く・・・!


・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――


・・・。


・・・・・・。

 

f:id:Sleni-Rale:20190929091519p:plain

 

もっとも混雑した場所を抜けた。

宇佐美を、うまく撒けただろうか。

後ろを振り返るのは危険だ。

顔を見られる恐れがある。

ひょっとしたら、宇佐美はもうすぐ後ろにまで迫ってきているのかもしれない。

タクシーを使うか?

しかし、この混雑では車はすぐに移動できないだろう。


いや、待て・・・タクシーか・・・。

おれは歩きながら、道路脇に連なって停車しているタクシーのミラーを覗き込んだ。


「・・・っ」


幸運というべきだろう、宇佐美の制服と長い髪が後方にはっきりと映った。

何かを手に掲げているように見える。

距離にして十メートルもない。

宇佐美は、しっかりとおれの後姿を捉えているだろう。


・・・あまり、目立ちたくはないが、やむをえないか。


おれは、地面を蹴った。



・・・・・・。



・・・。

 

―――――

 


・・・。



・・・・・・。



"魔王"が突如走り出した。

後ろも振り返らずに、どうしてハルの接近に気づけたのだろうか。

次の瞬間、ハルは、路上に無秩序に連なるタクシーの群れに悔しさを覚えた。


ハルは"魔王"の後ろ姿を見た。

背の高い男性だった。

前回、対峙したとき、"魔王"と名乗った人物とかなり輪郭が似ている。

足も長いようで、ぐんぐん引き離されていく。


しかし、追跡は楽になった。

この雑踏のなかで走るという行為は、かなりの注目を集めるからだ。

道を退ける人々の声や、迷惑そうな視線がいやでも"魔王"に集中する。

所在なく歩いている通行人をかきわけながら、"魔王"がコーヒーショップに入るのが確認できた。


袋の鼠だ、と思った。

しかし、店の前にやってきたとき、自らの浅はかさを呪った。

規模の大きい、大手チェーンのコーヒーショップだったのだ。

立地面積も広く、大通りの角に位置していた。

当然、出入り口は二つ以上あるのだろう。

一瞬でも、足を緩めた時間を悔やんだ。


わざわざそんな店に入るあたり、"魔王"はやはり、この町を知り尽くしているのかもしれない。


追いきれるか。


自問自答した。


けれど、なんとしても捕まえたい。

椿姫のためにも、そして、自分自身のためにも・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――


・・・。



・・・・・・。




 

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セントラル街を抜けると、人通りも少なくなってきた。

何度か背後を振り返った。

夜の闇でわからないが、通行人の非難するような声が後方からあがっている。

宇佐美は、まだ追いかけてきているようだ。

執念深いな、まったく・・・。


完全に撒いてやるとしよう。


おれは歩道のガードレールを飛び越え、車道に出た。

渋滞気味で、のろのろと走る車の前を横切り、一気に反対側の歩道に渡り切る。

けたたましいクラクションが鳴った。


・・・これで、宇佐美もおれを追いやすいはずだ。


足を休めず先を急ぎ、細かい路地に入った。

薄暗い路地。

光の差さない場所に定住する彼らの姿を発見して、おれは勝利を確信した。

ごっこは、もう終わりだ・・・。

俺はハンカチを取り出し、指紋を残さぬよう自らの指を包んで――――。

 

・・・・・・。


・・・。

 


―――――

 

・・・。



・・・・・・。



「すみません、どいてください!」


何度、同じ事を言ったことだろうか。

その度に、非難の視線や罵声を浴びせられた。

手に持っているものも、かなりかさばる。

ハルはきょろきょろとあたりを見回しながら、"魔王"の背中を目で追った。


セントラル街から少しはずれても、まだまだ周りは明るかった。

車道を進むおびただしい数の車のライトがとても頼もしい。


そんなとき、車道からクラクションが鳴り響いた。

見れば、"魔王"らしき男が、悠々と車道を横断していた。

ライトの逆光で顔が見えないのが残念でならなかった。


"魔王"はそのまま、ビルの間の細かい路地に入っていった。

ハルもすぐさま後を追った。


人が二人並んで歩けないような、狭くて視界の悪い路地だった。


――誘い込まれた?


嫌な気配がしたが気にしている余裕はなかった。

そして、暗がりに飛び込んだとき、なにかを踏んづけた。

バランスを崩し、前につんのめるような格好で、地面に倒れてしまった。


「・・・っ!?」


肉感があった。

ハルも驚いたが、踏まれた何かも悲鳴を上げた。

目を凝らすと、それが人間の足であることがわかった。


「す、すみません。 だいじょうぶですか!?」


無意識にしゃがみこんだ。

独特の異臭が鼻を突く。

ホームレスと思しき男たちは数人いた。

白く濁った目で、ハルをにらみつけるが、すぐに興味を失ったようだ。

彼らは、何かに熱中しているようだった。

地面に膝をついて必死に手を動かしている。

薄暗い路面をまさぐるように、何かをかき集めていた。


――お金・・・。


指の間から、数枚の紙幣が見えた。


やられた、と内心でほぞを噛みながら、路地を抜けた先を見据えた。


それまでしっかりと目に焼き付けていた"魔王"の後姿は、もう、なかった。

 

「・・・椿姫」

 

つぶやくと、いっそう無力感を味わった。

一日に渡った身代金を巡るやりとりも、ついに終わりを迎える。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 ―――――



・・・。



・・・・・・。






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「なにはともあれ、お疲れ様・・・」


おれは、何食わぬ顔で言った。

 

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居間には、椿姫と椿姫の親父さんだけがいる。


「悪いな、なんもしてやれないで・・・」
「ううん、いいの、ありがとう」
「なんにせよ、椿姫は犯人の指示通りに動いたわけだろう?」
「うん、たぶん・・・途中でアクシデントもあったけど?」
「だったら、犯人もちゃんと広明くんを返してくれるさ」

 

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「そうだと、いいけど・・・」


一息ついて、おれは額の汗をぬぐった。

今日の仕事は忙しかった。

まさか、市内をあっちこっち駆け回ることになるなんてな。

権三も、本当におれをこき使ってくれるな。


「すまないね、浅井くん。 こんな時間まで」
「いえいえ。 乗りかかった船です。 今後もお手伝いさせてもらいますよ」


今後、とは当然、立ち退きの手続きだ。

身代金が奪われた以上、椿姫家に五千万の借金は返せない。

返済期限が来たら、さっそく、担保の土地をさし押さえさせてもらおうか・・・。


「・・・あとは、ハルちゃんか・・・」
「なんだって?」
「ハルちゃんが、犯人を捕まえてくれているかもしれないの」
「そうか・・・宇佐美がな・・・」


歯がゆいな、まったく・・・。

宇佐美が犯人を捕まえるだって・・・?


「椿姫は、宇佐美に犯人を捕まえるよう、頼んだのか?」
「きっちりお願いしたわけじゃないけど、ハルちゃんの好きにしていいって言ったの」
「・・・そうか」


馬鹿か、こいつは・・・。

宇佐美を頼るくらいなら、最初から警察に連絡したほうが何倍もましだろう。

 

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「ハルちゃん、はりきってたし、きっとよい結果をもたらしてくれると思うんだ」


澄んだ目をして言った。

・・・どうやら、おれのいないところで、お友達ごっこでもしていたらしいな。


「まあ、犯人が捕まえれば、万々歳だしなー」


一抹の不安はあった。

まともに考えて、幼児を誘拐し、身代金を株券で要求してくるような犯罪者に、宇佐美のような少女が対抗できるはずがない。

ただ、気にしすぎかもしれないが、どうも宇佐美には底の知れないようなところがある。

おれとしては、犯人にきっちり身代金を奪ってもらわねば困るのだ。


「・・・あ、噂をすれば、来たんじゃない?」


玄関で、物音がした。

 

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「ちわす・・・」


ぬっと、お化けのような顔を覗かせた。


「よう、宇佐美、汗だくじゃないか?」
「ええ、まあ、自分、基本走り込みが足らないんで・・・」


わけのわからないことを言いながら、玄関のドアにもたれかかった。


「浅井さん、ありがとうございました」
「・・・ん?」
「ロッカーを見張っててもらいましたよね?」
「あ、ああ・・・街で偶然会ったよな? そうだ、ロッカーに身代金が入ってるから、見張っててくれって・・・」
「助かりましたよ、ホント」
「あのロッカーに近づいた怪しいやつは、いなかったぞ」
「そすか。 お忙しいのに、ホント恐縮です」


時間にして一時間くらいだったかな・・・。

おれは宇佐美に頼まれて、駅のロッカー付近にいた。

ちょうど次の約束まで時間が空いていたから、頼まれてやることにしたんだったな・・・。

記憶を整理すると、気分が落ち着いた。


「それで、宇佐美・・・」


浮かない顔をしていた。


「どうだったんだ?」


まさか犯人を捕まえたとも言わないだろうが・・・。


「ハルちゃん」


椿姫も、期待のまなざしを向けていた。

おれもいつの間にか手のひらに汗を感じていた。


「・・・・・・」


直後、宇佐美は、椿姫に向かって頭を下げた。

 

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「ごめん、犯人には逃げられた」


・・・こんな顔もするのか。


「気にしないで。
ハルちゃんがそばにいてくれてるって思うだけで、あ、いや・・・あんまりそんな余裕なかったけど、とにかく心強かったよ」

「ごめん・・・」


おれはつとめて明るい声を出した。


「まあまあ、そう落ち込むなって」
「・・・・・・」
「犯人の言うとおりに動いたんだ。
警察にも連絡していない。 身代金に満足した犯人は、きっと広明くんを解放してくれるさ」


すると、宇佐美が鋭い声を出した。

 

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「それはないです」



「なに・・・?」


「え・・・?」


・・・。


「広明くんは返ってこないっていうのか?」
「はい」


きっぱりと言い放った。


「なぜだ?
たしかに、犯人が約束を守るという保証はないけど、どうしてそう決めつけることができるんだ?」


「そうだよ、犯人は身代金を受け取ったんだから、あとは信じるしか・・・」


宇佐美はゆっくりと首をふった。


「犯人はまだ、身代金を手にしていない」


・・・なんだと?


「・・・えと、どういうことかな?
わたし、ちゃんと、指定どおりハンバーガーショップの前に、ケースを置いたよ?
他の誰かが勝手に持ってっちゃったってこと?」


椿姫の問いに、宇佐美はまた首を横にふった。


「椿姫、今日の朝、家を出るときに、わたしは言ったよな?」
「え?」
「最悪の場合、身代金だけは奪われないようにすると」
「あ、うんうん。 そうすれば、たとえ犯人に逃げられたとしてももう一度、交渉のチャンスはあるとか・・・」


宇佐美は、深くうなずいた。


「だから、そうさせてもらった」
「ど、どうやって?」
「覚えがないか?」
「なんのこと?」

 

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そのとき、宇佐美がおもむろに腕を後ろに伸ばした。

半開きだった背後のドアを押し開くと、何かをつかんだようだ。

 

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「ケース!?」


驚きの声が上がった。

椿姫だけでなく、親父さんも含め、その場の全員が食い入るように宇佐美を見つめた。

椿姫から話を聞いていたおれには、宇佐美がなにをしたのか、推察することができた。


「すりかえたのか?」
「さすが、浅井さんです。
そうです。 混雑したセントラル街で、わたしは、椿姫にぶつかっていったんです」


「あ!」


椿姫には思い当たるふしがあるようだった。


「そういえば、誰かにぶつかって、一度ケースを落として・・・・・・。
あれは、ハルちゃんだったの?」
「そのときに、すりかえさせてもらった。 わたしが用意していたケースの中身は空だ」


「いつ、用意したんだ?」
「朝一番に、椿姫がケースを購入したあと、同じものを買わせてもらいました。
六千円は痛かったですが、それはまあどうでもいいです」


・・・なんてヤツだ。


「ということは、犯人は空のケースを持って、逃走したということになるな」
「はい、身代金の株券はまだ、このケースのなかにあります」


宇佐美はそれを抱えたまま、犯人を追っていったというわけか。

唐突に、椿姫の親父さんが口を開いた。


「それじゃあ、お金はまだ、あるんだね・・・?」


土地を手放すということに未練があるのだろう。

親父さんは、どこかうれしそうだった。


「ハルちゃん・・・そう・・・」


椿姫も、感動したようなため息をついた。

おれも、椿姫とはまた別の意味でため息をついた。


「そうか・・・なら、勝負は持ち越しってわけだな・・・」
「だと、いいんですが・・・」


余裕そうな顔をしているが、不安もあるようだった。


「犯人が逆上しなければいいな・・・」
「はい。 それが怖いです」
「それが怖いですって・・・お前、広明くんの命がかかっているんだぞ?」


よけいなことをしやがって・・・!


「あ、浅井くん、やめて。 ハルちゃんはよかれと思って・・・」


「浅井くんの気持ちもありがたいけれど、あの株券も、家族の進退がかかった大切なものなんだ。
それを守ってくれたのは素直に喜ばしいよ」


椿姫だけでなく、親父さんまで口をはさんできた。


「・・・まあ、悪かった」


殊勝な態度を見せておくとするか。


「宇佐美は、身代金を渡したが最後、人質は返ってこないと思った。 そういうことだな?」
「はい。

犯人――"魔王"は、恐ろしく慎重な人物です。
もっといえば、身代金を渡そうが渡すまいが、人質を返すつもりはないのかもしれません」
「なるほど。 ようやくわかった。
どうせ人質が返ってこないなら、せめて身代金だけでも渡さないと。 そういうことだったんだな?」


皮肉っぽく言った。


「合理的だな。 宇佐美も恐ろしく合理的な女だ」
「・・・・・・」


宇佐美は押し黙った。


「宇佐美さん、警察を頼らなかった時点で、責任は全て僕が持つつもりだよ。
だから、あんまり思い悩まないでね」


「そうだよ。
たとえ、警察の人がいても犯人は捕まえられなかったかもしれないんだから」


・・・まったく、見るに耐えない光景だ。


「じゃあ、とりあえず、株券を渡してもらおうか」


親父さんが宇佐美に言った。

宇佐美はわかりましたと返事をして、ケースに手をかけた。




――思いもよらなかった。

 


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「どういうことだ・・・」


目を見開いた。

宇佐美の顔面が一気に蒼白になっていく。

対照的に、おれの心は、どういうわけか、勝利宣言でもしたかのように沸いていった。

まるで、おれのなかにいる悪魔が、牙をむき出しにして嗤っているかのよう・・・。


「ない・・・」


呆然自失の宇佐美が、ぼそりと言った。


「ない・・・」


それは、敗北の表情だった。


「株券が・・・。

身代金が、消えている・・・・・・」


・・・・・・。

 

・・・。