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G線上の魔王【12】

 

 

 



・・・。


親父さんの相談というのは、他愛もないものだった。

おれを呼び出すための口実だったようだ。

別に、悪い気はしない。

そういうところが少しもないヤツのほうが、異常なんだ。

姿見の前で着飾る椿姫には、わずかとはいえおれを欺きたいという気持ちもあるのだろう。

それで、いい。

 

 

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「椿姫、そんな服、いつの間に買ったんだ?」
「通販だよ。 最近は、インターネットでなんでも買えるんだね。 すぐ届くし、便利だよね」
「知らなかったのか?」
「うん、興味なかったから。 なんだかすごく損してた気分」


浮かれた表情ではあるが、若干やつれていた。


「日記は、最近書いてるのか?」
「ううん、ぜんぜん。 書く暇なんてここんところなかったから」


目つきはぼんやりとして、どこか虚ろだった。


「はーあ、もう、日記なんてやめようかな。 いまどきないよね、日記が趣味とか。 どう思うかな?」
「本気でそう思うのか? 椿姫といえば、日記だったが?」
「・・・ん」


眉を寄せた。


「ねえ、お姉ちゃん」
「え? なあに、広明?」
「かくれんぼしよー」
「あとでね。 それより、これ、似合う?」


椿姫は、洋服を掲げて弟に見せつけた。


「んーん」
「・・・あれ?」


・・・子供は正直なもんだな。


「お姉ちゃんは、前にボクがいいって言った服が好きなんじゃないの?」
「あの、パーカー? あれは、もう、ずっと着てるじゃない?」
「うん、それで、お姉ちゃん、ボクのお友達に貧乏ってあだ名つけられた。
でも、それでも好きって言ってたよ?」
「・・・・・・」
「どしたの、お姉ちゃん?」



「浅井くんはどう思う?」


助けを求めるように、おれに目を向けてきた。


「さあな。 どっちかっていうと、新しく買った服のほうが似合うかもな」
「そう? そうだよね?」
「意外な感じがして、いいんじゃないか?」


椿姫はうれしそうに声を弾ませる。


「よかった。 こういうの着ないと、浅井くんに恥かかせちゃうもんね」
「そんなこと気にしなくていいぞ・・・」
「ううん。 だって、浅井くんの私服って、高いんでしょう? 街で並んで歩いてたら恥ずかしいじゃない?」
「本気でそう思うのか?」


おれは椿姫の心情を探るように首をひねった。


「え? なにか変かな?」
「いや、おかしくはないよ。 普通の感覚だな」
「よかった。 最近、ちょっと疲れてるみたいでね。 思ったこと、すぐ言っちゃうことがあるの。 変だったら言ってね」


おれは、黙ってうなずいた。


「ねー、お姉ちゃん」


広明くんは、相変わらず椿姫の足元でちょろちょろしている。


「お父さんに遊んでもらいなさい」
「だって、お父さん、引越しだもん」


親父さんは、朝からずっと荷物をまとめているようだった。


「お姉ちゃんたち、これからでかけるの・・・!」


声を荒げた。


「どこ行くの? ボクも行くー」
「ダメだったら・・・もうっ!」


椿姫は弟の小さな手を乱暴に振り払った。

 

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「あっ・・・」
「・・・っ」


瞬間、怯えのような表情が顔に浮かんだ。


「い、行こう、浅井くんっ!」


弟を見向きもせず、足早に玄関に向かう。


おれは、ただ、椿姫に従った。


・・・。

 


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「はあっ・・・はあっ・・・」


肩で息をする椿姫には、これから遊びに行けるような余裕はまったくうかがえなかった。

 

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「あ、うっかり、これ着てきちゃった」


いつも来ているコートを、不機嫌そうに触っていた。

おれはひどく冷めた気分で、椿姫を見つめていた。


「引越しの準備しなくていいのか? 親父さんがんばってるみたいだが?」
「・・・いいんだよ。 ここんところ、わたしが、ずっとやってたし」
「しかし、ついに引越しか・・・」


伸びをして、古ぼけた家の外観を眺めた。


「生まれたときからずっとここに住んでたんだろ?」
「だったら、なに・・・?」


不安そうに聞き返してきた。

 

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「いや、感慨深いものがあるんだろうなって・・・」
「あるにはあるけど・・・」


歯切れ悪く言いながら、視線を這わす。

椿姫のぼんやりとした目が、家のある庭を見つめていた。


「どうした?」
「ううん・・・よく、あそこで花火したなあって・・・」
「へえ・・・」
「秋になるとね、みんなでお芋焼くの。 お父さんが張り切っちゃって、火事になりそうだったこともあったの。 一番下の子がね、初めてハイハイしたとき、縁側から落っこちちゃってさ。 あのときは大騒ぎで・・・それで・・・・・・」


しぼんでいく、明るい笑顔。


「なあ、椿姫・・・」


おれはゆっくりと、そしてできるだけ優しげに椿姫の肩に手を置いた。


「新しい家でも、たくさんいい思い出は作れるだろう?
おれも間取りは見たが、いい部屋じゃないか。 おれの家も近い。
お前の家族におれも混ぜてくれよ。
おれは、あまり家族との交流のない生活を送ってるし、正直、温かいみそ汁が恋しい夜もある」
「・・・浅井くん」


椿姫は、そっとおれの手を取った。


「誘拐だの立ち退きだの、嫌なことが続いてストレス溜まってるんだろうが、これから楽しくやればいいじゃねえか」
「浅井くんにそう言われると・・・なんか元気でるな」


熱を帯びたように、頬が染まっていく。


「じゃあ、街に出ようぜ」
「・・・うん、あ、待って・・・」


不意に、椿姫が首を傾げる。


「浅井くんって・・・」
「ん?」
「ううん、ごめん。 なんだかね、そういう話し方するときの浅井くんってちょっと違うなって思ったの」
「たしかに、学園にいるときのおれとは違ったかな」
「あ、そうじゃなくて・・・なんだろ・・・」


また不意に、小さく笑った。


「犯人みたいなしゃべり方だなって、思ったの。 ごめんね」


おれもつられて笑う。



「おれが"魔王"かよ。 宇佐美みたいなこと言うなよ」
「え? ハルちゃんに疑われてるの? ひどいな。 浅井くんが犯人なわけないのにね」
「まったく、宇佐美には困ってるよ」
「気にしたらダメだよ。 わたしは信じてるからね。
浅井くんがいなかったら、広明も返ってこなかったかもしれないんだし」
「おれはたいしてなんもしてねえよ。 それより、いいかげん出かけようぜ」
「そうだね、寒いしね」


おれたちは、互いに似たような笑みを携えながら、家を離れた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「とりあえず満足か?」
「うん、化粧品なんて初めて買ったよ」
「ちょっとだけ、クラスの女の子連中に近づいたな」
「みんな、やってるもんね」
「おれも厚化粧は好みじゃないが、目の下のクマくらいなら隠して欲しいかもな」
「ごめんね、そういうの疎くて」


歩きながら雑踏を抜ける。


「あ、ごめん、電話」


買ったばかりの椿姫のケータイにはたびたび着信があった。

 

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「・・・うん・・・わかんないよ・・・うんっ・・・」


手を添えて小声で話す椿姫は、不機嫌そうだった。


「どうしたんだ?」
「また家から。 お母さんのバッグ知らないかって。 そんなのわたしが知るわけないのに・・・。
まったく、わたしがいないとなんにもできないんだから・・・」
「帰るか?」
「ううん、まだ平気だよ」


すぐさま首を振った。


「おや? 浅井さんじゃないすか?」


背後から宇佐美の声がして、振り返る。

 

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「おやおや? 椿姫もいっしょですか。 これはこれは」



「ハルちゃん、どしたの?」


「よくばったり会うよな? おれのあとつけてんのか?」



「そんないきなり二人して詰問してこなくても。 自分はバイトの帰りにちょっと、駅に寄ってただけです」
「駅に? どこか行くのか?」
「いえいえ、証拠でもないかなと」
「証拠だって?」


しかし、こいつは、知ってか知らずかおれをひきつけるようなしゃべり方をするな。

 

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「あ、いえいえ。 デート中に話すようなことでもありませんです、ハイ」


「浅井くん、行こう?」


「ちょっと待てよ。 なんだよ、なにか犯人の足取りでもつかめたのか?」
「いいえ。 まったく」


宇佐美は顔色一つ変えない。


「お前、きのう、なにか話があるとか言ってなかったか?」
「え? いいましたっけ?」
「・・・お前な」
「あー、なんか口走りましたね、自分」
「もったいつけるなよ」


宇佐美はさらりと、けれど無表情に言った。


「はい、では言います。 あなたが"魔王"です、浅井さん」


断言した。


あまりに突拍子もない言い方だった。


おれの右の頬がひきつっていく。


「あなたは前もって、駅のコインロッカーの鍵を複製しておいたんです」
「・・・なんだと?」
「あの身代金を巡る追走劇のなかで、駅のコインロッカーに身代金が収められたことがありました。
そのとき、わたしはあなたに、不審な人物が来ないかどうか見張っておいて欲しいと頼みましたね?」
「ああ・・・たしか、椿姫がロッカーの鍵だけを持って街中を走り回ってたときだろ?」


宇佐美はうなずいて続けた。


「あなたは、前もって用意しておいたコインロッカーの鍵を使い、ようようと身代金の株券を手に入れたんです」
「冗談もそのへんにしろって。 駅の鍵を複製したって? おれが? いつ?」
「あなたは事件当日、仕事があるといって行方をくらましていましたよね?
鍵の複製なんて、その辺のお店で三十分もあればやってもらえます」
「記憶にない」
「いや、盲点を突かれました。
トリックそのものは単純ですが、まさか、信用していた浅井さんこそが、犯人だったなんて」


おれは言葉に詰まった。

おれは犯人では断じてないが、宇佐美の推論をとっさに論破するだけの機転が利かなかった。


「ハルちゃん、もういいよ。 事件のことは、もうハルちゃんには関係ないでしょう?」


椿姫は、あくまでおれの味方のようだった。


「なんか、やだよハルちゃん。 いろいろ手伝ってくれたのはわかるけど、けっきょくハルちゃんは、なにも解決してくれなかったじゃない?」
「・・・・・・」


宇佐美は、無表情を崩さない。


「せっかく、こうして嫌なこと忘れようとして遊んでるのに・・・」
「まったくだ。 とっとと行こうぜ」


椿姫をうながしながら、軽く頭を振る。

少し、めまいがする。


「おい、宇佐美。 今日のことは忘れてやる」
「そすか。 ありがとうございます。 では最後に一つだけ」


「ハルちゃん!」


「もし、わたしの言ったことに心当たりがあるのなら、すぐに自首してください。
警察はすぐに証拠をあげるでしょう。
近場の鍵屋さんを徹底的に洗うでしょうし、駅には監視カメラもあるんです」
「その警察は動いていないんだろう?」
「ええ、ですから、残念でしかたがないんです」
「話にならんな」


椿姫の手を引いた。


「・・・・・・」
「じゃあね、ハルちゃん」


宇佐美は、軽く会釈して歩き去っていった。


・・・。



「気にしないでね、浅井くん・・・」
「ああ・・・」


・・・宇佐美め、まだあきらめていなかったのか。

しかし、警察さえ出てこなければ、だいじょうぶだ・・・。


・・・む?

なにが、だいじょうぶなんだ?

深く考え込む。


・・・いや、おれは、浅井興行と総和連合に警察の手が入らずに済むことを願っているだけだ。


おれが、"魔王"であるはずがない。


そういえば、最近秋元氏のところに行っていないな。

 

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「どうしたの? だいじょうぶ、わたしはたとえ浅井くんが"魔王"でもいいよ?」


軽口のつもりだろうが、あまり笑えなかった。


「さ、ご飯食べに行こう?」


椿姫は改めて手を差し伸べてくる。

おれに従順な椿姫。

気持ちを切り替えて、椿姫と楽しもう。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「あー、すっごい、楽しかったー」


両腕を振り上げて、伸びをした。

こういう仕草も、以前の椿姫にはないものだった。


「今日は一日遊んだな。 満足か?」
「うん、ご飯もおいしかったー」
「金があるって素晴らしいだろ?」


椿姫は大いにうなずいた。


「なんか見聞が広がるよね。 いままでそういうの興味なかったけど、お金ってとっても大事だね」
「金はさ、使いようによっては、どんなもんでも買えるぞ」
「どんなものでも? たとえば?」
「お前の気持ちとかな・・・」


冗談ぽく言った。


「え? や、やだなあ、それにはお金なんていらないよ?」
「あー、すまん、ギャグだよ。 どうもおれのギャグは半スベりだな」


人気のない夜の公園で、笑いあう。

それなりに楽しかった。

おれが、もう少しまともな人間なら、こういう毎日の積み重ねで、椿姫に愛情を抱くのかもしれないな。

寂しい気持ちもあった。

椿姫と別れるのが、なぜか名残惜しい。


「ねえ、浅井くん、明日は?」
「お、またお誘いか?」
「うん、ダメかな?」


・・・明日は、さすがにやるべき仕事がある。


「浅井くんってお父さんのお仕事手伝ってるんだよね? それで忙しいんだよね? どんな仕事なのかな?」


まくしたてるように尋ねてきた。


「興味あるのか?」
「うん」


おれは少しだけ思案した。

仕事をする上で、長らく望んでいたことがある。

秘書・・・というとずいぶん偉そうだが、つまり助手のような人間が欲しいのだ。

ちょっとした書類をまとめたり、郵送に行ったり、メールをチェックしてもらったりと・・・細やかな作業を任せたい。

浅井興行の人間はダメだ。

実力はあっても、おれに従順なわけではない。

彼らは皆、おれではなく権三に忠誠を誓っているのだ。

そう遠くない将来、おれはおれの組織を持たなくては。

そういった意味で、椿姫はうってつけの人材といえる。

この闇社会で、女はそう表には出せないが、使い道はいくらでもあるだろう。


「明日、ちょっといっしょに動いてみるか?」
「え? どういう意味?」
「手伝って欲しいんだよ」


椿姫の顔に当惑の表情が浮かぶ。


「わ、わたしなんかでいいのかな?」
「だいじょうぶだよ。 お前は真面目で几帳面だから」
「ほんと? うれしいな。 でも、びっくりだな」


興奮して漏れた息が、寒さに白く染まっていた。


「もちろん、誰にも言わないでくれよ?」


椿姫は目を輝かせて、おれの声に聞き入っていた。


「ぜったい、言わないよ。 約束するよ」
「なら、明日また改めて連絡する」
「必ず出るようにするよ」
「必ずだぞ」


念を押すと、椿姫の顔が強張った。

 

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「明日おれは、学園を休む。 でも、お前は学園だな。
授業中でも電話に出られるか?」
「え?」


さすがに不安になってきたようだ。


「おれはいままでけっこう休んでるだろ? たまに本当に頭痛がひどくて休むこともあるが、たいていはカイシャのためだ」
「カイシャ・・・? お仕事のことだね・・・」
「納得したか? おれにとって学園は、息抜きの意味合いしかない場所なんだ。
仕事を手伝ってるってのは嘘で、あくまで、カイシャの仕事がメインなんだ」
「知らなかった・・・すごい人だなって思ってたけど、そうなんだ・・・」
「だから、電話があったら、すぐに出てくれ。 それぐらいシビアな仕事でもある」


一歩詰め寄った。


「約束できるか?」


椿姫は、息を呑んだ。


「わ、悪いことしてるわけ、じゃないよね?」
「当然だろ。 法律に触れるようなことはしてないよ。 悪いことなんて一つもないよ」


たまに犯罪すれすれのグレーなラインを踏むこともあるが、いまは教えなくていいだろう。


「・・・えっと」


迷っていた。

けれど、ここまで話した以上、逃がすわけにはいかない。


「こんなことを話すのは椿姫が初めてだ。 正直なところ、いままで誰にも打ち明けたことがない」


最初は小さく、低い声でゆっくりと話す。


「なんせおれみたいなガキが、社会人の真似事をしてるわけだからな。
みんな信じないし、苦労なんてわかってもらえるわけもない」


徐々に口調のテンポを上げ、そのうち感情に訴える。


「でも、お前は別だ、椿姫。 縁あって仲良くなれた。
誘拐っていう悲劇を通じてだけど、お互いに知りえた部分は多かったはずだ。 なにより・・・」


声を張る。


「ここ数日、楽しかった。
正直あんまり人に心を許したことはないけど、お前は別だ。
椿姫だから、打ち明けた。 おれが秘密を打ち明けられるような人間は椿姫しかいない」


何度も名前を呼ぶことも忘れなかった。


「・・・・・・」


椿姫は目を丸くして、浅い呼吸を繰り返していた。


「そんなふうに思われてるなんて・・・。
うん・・・わかった・・・わたしも、明日、学園休んで電話待ってる・・・」


・・・これでいい。

別に、緊急で呼び出さなきゃならん仕事なんてないが、問題は、椿姫がおれの言うことをちゃんと聞くかどうかだった。


「じゃあ、明日な」
「うん、おやすみ・・・」


手を振って、別れた。


振り返ると、椿姫はしばらくその場に立ちすくんでいた。

そこに、小さな影が沸いて出てきた。


「お姉ちゃーん・・・!」


弟だった。

 

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「広明、なにしてるの・・・!?」
「お姉ちゃん、迎えに来たんだよ?」


おれは、姉弟のやりとりを遠巻きに眺めていた。


「・・・まさか、また一人で?」
「んーん。 お父さんも、もうすぐ来るよ?」
「どうしてお父さんといっしょに来ないの!」


椿姫がまた、ヒステリックな声を上げた。


「お姉ちゃん言ったよね? もう、一人で勝手に出歩いちゃだめだって」
「ごめん、でも、お姉ちゃん帰ってくるって言って帰ってこなかったから」


頻繁にあった電話のなかで、椿姫は帰宅時間を家族に告げていたようだ。


「だから、何回同じこと言わせるの?」


椿姫は、しゃがみこんで、弟に話しかけていた。


「・・・・・・」


しかし、あの弟には手を焼くだろうな。

椿姫の気持ちもわからんでもない。


「いい加減にして!」
「なにがー?」


田舎の夜は、声の通りがとてもよくて、小さい声でも聞こえてくる。


「心配してるの! 広明がまた同じ目に合うんじゃないかって、どうしてわからないかな?」
「だいじょうぶだよ! ボクはだいじょうぶだって!
一人で保育園から帰ってこれるよ? 一人でお姉ちゃん迎えに来たよ?」
「・・・くっ」


椿姫の低いうなり声が響き渡った。


・・・立ち聞きもなんだし、そろそろおれは帰るかな。

気にならないこともないが、家族の問題は、おれにはどうしようもないことだ。


去り際、椿姫が言った。

 

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「そう・・・なら、もう、わたしも気にしないから・・・」


声には、いままでで一番暗い、押し殺すような響きがあった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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このところ大気がとても不安定で、深夜から朝方にかけて雪が降っていることもある。

時間がたつにつれてアスファルトは乾き、椿姫が目覚めるころには、点々とした模様が路面に残っていた。

椿姫は、心臓の高ぶりに身を任せ、いずれ置き去りにしてしまう住み慣れた我が家を、棒立ちになって眺めていた。

足元で蟻が行列を作っていた。

蛾の羽の切れ端に黒々と群れ、庭先に運び込んでいる。

椿姫のなかでただれるまでに変化した純真さも、新しい春を迎えるための貴重な餌だったのか。

突拍子もない誘拐事件が、家族への責任感が、京介への想いが、自分をふさわしい巣穴へと誘導
していく。

 

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玄関先から広明が出てきた。

子犬のような足取りで、椿姫に迫ってくる。


「じゃあ、出発」


拳を丸め、腰をかがめた直後、おもいっきりジャンプする。

花のような笑顔で椿姫を下から覗き込んでくる。

弟の仕草は素直に愛らしいと思う。

これから広明を保育園に送り、その足で学園に向かう。

いつもの日課だった。

途中でおやつをねだられたら、コンビニに立ち寄るし、遊ぼうと言われたら時間の許す限りかまってやった。

幼い子供だった。

わがままにつきあうのも、時間を費やすのも、姉として当然のことだった。

今日は違う。

学園をさぼり、京介の連絡を待つ。

場合によっては、広明を迎えに行かないかもしれない。

弟の手を引いた。

脂肪がつまっていて柔らかかった。


「お姉ちゃんの手、ぷにぷにしてるよね」
「太ってるっていうの?」


口調が知らずきつくなる。


「広明だって、ぷくぷくしてるよ。 お菓子の食べすぎじゃない?」
「うん、お姉ちゃんといっしょだね。 ボク、お父さんに、椿姫にそっくりだって言われるよー」
「そっくり・・・」


屈託のない弟の笑顔に、椿姫はどこか居心地の悪い気分だった。

こういう笑顔をどこかで見ていたような気がする。

鏡の前で、それも毎日、飽きるほどに・・・。

なぜだろうか。

弟のなにが、気に入らないというのか。


「・・・行くよ」


歪んだ感情を抱えた胸から腹にかけて、汗が滴り落ちるのがわかった。


・・・・・・。

 

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京介の朝は早いようだ。

七時を過ぎたばかりだというのに、いきなり着信があった。

眼下で楽しそうに歌を口ずさむ弟を一瞥し、携帯電話を手に取った。


「早いね、浅井くん」
「なにか、まずかったか?」


問い詰めるような感情が伝わってきた。

たまに声色が変わることはあったが、いまの京介は学園にいるときとは明らかに違っていた。

椿姫は気圧されるように口を開いた。


「だいじょうぶだよ、いまから行けばいい?」
「いま、外にいるな?」
「え? うん・・・」
「こんな時間に表を出歩いているということは、これから弟か妹を保育園に送るのか?」


すらすらと自分の行動を言い当てられて、狼狽した。


「すぐにうちに来てくれ」
「いますぐ?」
「すぐだ」


心のどこかで警鐘が鳴っていた。

こんなふうに不安が募るのは、"魔王"と呼ばれる犯人と密会したとき以来だ。

拒否できる勇気も、また拒否するつもりもなかった。


「わかった。 急いでいくから、待ってて」


椿姫の返答に、京介は満足したように、ありがとうと言って、電話を切った。

 

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「お姉ちゃん、なあに?」


子供は本当に、人の顔色を読むのがうまいと思った。

椿姫はこれから言い出すべき言葉に喉を詰まらせた。

けれど最近になって培った欲求に身をゆだねると楽になった。

自分くらいの少女が、親や兄弟といるより、友達と過ごしたほうが楽しいと考えても、なんの不思議もないではないか・・・。


「広明、ひとりで行ける?」


弟は、誘拐された。


「行けるよね? きのう、一人でだいじょうぶだって言ってたもんね?」


誘拐の事実を知って、自分の迎えが遅かったせいだと椿姫は泣き喚いた。


「お姉ちゃんちょっと、大事な用事があるから、ここでバイバイだよ」


迷いを胸の奥深くに押し込め、それまでの自分と決別する。

そんなに悪いことだろうか。

弟を放り出して、大切な人の仕事を手伝う。

学園をさぼっているという付録はついているものの、犯罪というほど大げさでもないし、人に軽蔑されるほどの愚行でもないと思う。

ちょっとした冒険という程度ではないのか。

そんな些細なことに、いつまでも気をわずらわせている椿姫は、不意に、自分がとてもちっぽけなものに思えて、腹立たしくなった。


「じゃあね・・・帰りは迎えに来るから」


椿姫の心情など知りもしない弟は、小さく首を傾げた。


「終わるの、お昼だよ? お姉ちゃん、ガッコでしょ?」


純粋な瞳に見つめられ、また冷や汗をかいた。


「お姉ちゃんも、終わるのお昼だから」


小さい子供に追い詰められ、口が勝手に嘘をついた。

それでも弟を迎えに行くと口にしたのは、椿姫の良心がうずいたからだった。


「じゃあ、この公園で待ってるね。 缶ケリして遊ぼう?」
「うん・・・」


たまらず、目を逸らした。

 

・・・・・・。

 

・・・。


 

それから先は、息を潜めるようにして、京介の家まで向かった。

電車のなかやセントラル街の人ごみに紛れると、ふと周囲の誰もが椿姫に目を向けているような不
安に襲われ、終始落ち着かなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

―――――

 

・・・。

 

・・・・・・。

 


おれは椿姫を部屋に上げた。


出迎えると、椿姫はいままでになく暗い顔をしていた。

 

 

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「お邪魔します」
「えーっと、お前が来るのは初めてだったか?」
「ううん、二度目だよ・・・」


・・・そうだったか。


「元気か? 急に呼び出して悪かったな」


椿姫は、いいんだよ、と力なく首を振った。


「悩み事でもあるのか?」
「え? なんで?」
「顔に書いてある」


おれはいつの間にか不敵に笑っていた。


「最近ちょっと、家族とうまくいってないみたいだな?」
「・・・やっぱりわかる?」


悪いことして見つかった子供のような、ばつの悪い顔をしていた。


「ちょっと、いままでが、べったりしすぎてたんじゃないか」
「かまいすぎたっていうこと?」
「大家族だから大変なのもわかるが、さしあたってやることやってればいいんじゃないか?
とりあえずここに来る前に、弟を保育園に送ってきたんだろ?」
「・・・え?」
「どうした? 送り届けなかったのか?」


椿姫は、黙ってうなずくだけだった。


・・・どうやら、おれの指示を優先して、弟をほっぽりだして来たみたいだな。


「学園も、さぼっちゃったね」
「やっぱりちょっと悪い気がしてるのか? すぐに慣れるぞ」
「う、うん・・・慣れていいものなのかな?」


いいか悪いかなんて自分で決めればいいことだが、おれに従う以上、そんな小さなことで、いちいち気を揉んでいる暇はない。

いままでの真面目で常識的な学園生の椿姫では困る。

悪徳宗教の教祖と信者のような関係こそ望ましい。

教祖の言うことがどれだけ荒唐無稽でモラルを逸脱していたとしても、信者にとっては神の福音となって聞こえる。

椿姫には、信者となる素質があるように思えるがどうだろうか・・・。


「なあ、椿姫。 おれが、どうしてこういう仕事をしているか、興味ないか?」


不意に尋ねられて、椿姫は驚いたように顔を上げた。

おれは柄にもなく、自分自身について語ることにした。



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「いまでこそ、こんな裕福な生活をしているが、実はおれはとんでもなく貧乏な暮らしをしていたことがあるんだ」
「・・・え? ほんと?」


ため息をついて、目を丸くした。

なにかの本で読んだが、人間は不思議と、相手の過去を知ると親近感を抱くものらしい。

椿姫には、もっともっとおれに近づいてもらわなきゃな。


「中学にあがりたてのころかな。 うちはそれまでそれなりに幸せな家庭だったんだが、ちょっとした事件から、なにもかもおかしくなったんだ」
「・・・事件?」
「自分で言っといてなんだが、まあ、その話は、ちょっと勘弁してくれ。 頭痛の種なんだ」
「わかった、ごめんね・・・」


おれは、少しずつ昔を振り返っていく。


「話して信じてもらえるかどうかわからないが・・・」


前置きして、切り出す。

記憶を、浅く巻き戻した。

過去をたどると、まぶたの裏のスクリーンには、いつも同じ光景が宿る。

うす暗い部屋で、おれは一人、沈んでいる。


・・・・・・。

 

・・・。

 



 

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「北海道の片田舎。
牛の寝藁(ねわら)や餌が収納された納屋のすぐ隣に、おれと母さんが住む部屋があった。
真冬になれば気温は毎日氷点下だが、部屋の窓は二重じゃなかった。
牛の異臭が立ちこめる和室の畳には、ムカデやクモが、髪の毛や米粒を巡ってよく戦争をしていた
な。 北国なのに、小さいゴキブリを見たときは、さすがにひいた」
「ど、どうして・・・そんな生活を?」
「・・・父さんが、家を破滅させていたからだ」
「お父さん?」
「ああ、おれがよくパパっていってるのは、義理の父親でね。 わけあって、養子に入ったんだ。
父さんは、すでにそのとき家にいなかった。
死んだのでも、蒸発したわけでもないが、莫大な借金を暴力団に作ってしまっていたんだ。
だから、おれは母さんと二人で逃げるように、居場所を点々としていたわけだ。
そして、最後に流れ着いたのが、いま言った豚小屋みたいなところだった」
「・・・・・・」
「部屋を貸してくれたのは、遠い親戚にあたる人だった。
カンヌさんとか呼ばれてたな。
そういう呼び方は地元では差別的な意味合いがあったらしいが、おれにはよくわからん。
路頭に迷っていたところを住まわせてもらってなんだが、カンヌは前科もちのろくでなしだった。
日雇いの仕事をしていたみたいだが、たまに稼いだ日銭をちらつかせては、母さんをいびっていた。
母さんも細々と働いていたが、小さな村でよそ者に与えられる仕事なんてたかが知れていた。
けっきょくは、カンヌの言いなりになるしかなかった。
一番困ったのは灯油だった。 田舎だと信じられないくらい値段が跳ね上がることがある。
鼻水が凍るような寒さのなかで暖が取れないっていうのは、死ねと言われているようなもんだった。
母さんはなにをさしおいても先にストーブの燃料を買い込んでいたが、日に日に足りなくなっていった。 一日に二時間だけ保証期間の過ぎたオンボロストーブに火をつける。
そんなとき、おれは母さんと毛布にくるまって、いろんな話をしていた。
もっとお金があればいいのに・・・おれはいつもそんなことを言っていた。
新聞配達をしたいと頼んだが、母さんは許さなかった。
早朝はとても冷えるとおれの体を気づかっていた。
雪山を踏み分けての配達は、子供にはとてもきついものだからだ。
それでも灯油は減っていく。
どうやら豪雪で村全体が供給不足に陥っていたらしい。
一日二時間の幸福な時間は半分の一時間になった。
おれは、中学のクラスメイトに・・・といっても学年全体で五十人もいない小さな学校だが・・・灯油をわけてもらえないかと頼んだ。
結果は、乞食とかいうあだ名がついただけで、なにも得るものはなかった。
貴重な灯油を無駄づかいしているから足りないんだと、相手にされなかった。
無駄づかいなんてしていないはずだった。
だが、ひょっとして、みんなは、もっと我慢しているのではないかと、少し反省しながら家に帰った。
言われてみれば、少しおかしかった。 灯油の減りがやけに激しかった。
母さんが、日中、こっそりストーブを炊いているのだろうかといやな妄想にも襲われた。
そして部屋に戻る直前、カンヌと出会った。
ヤツは、おれの姿を認めると、突然怒り出し、禿げ上がった頭を振り乱して言った。
『誰のおかげでここに住ませてもらっているのか』。
ヤツの手にはポリタンクがあった。
おそらくおれの家から盗んだ灯油が、たっぷりと揺れていた。
おれはヤツを問い詰めた。
熊みたいな大男でいつも酒で顔が赤らんでいた。
だが口論をしていると、近所から人がやってきた。
カンヌはずる賢いヤツだった。 外面と内面をうまく使い分けていた。
外では身寄りのない親子を助けた善人として振る舞っていた。
当然、悪いのはおれということになった。
それでも、担任の先生に相談したことがある。
だが、そこでおれは、おれとおれの母親が、村の連中からどう思われているのかようやく知った。
母さんが、場末のスナックで働いているのが悪評の原因らしい。
たかがスナックだぞ? 売春しているわけじゃあるまいし。
ど田舎の北海道弁で母親を、まるで女郎のように罵られた。
勢いでおれは母さんに、村を出て行くように頼み込んでも、母さんは、少し疲れ過ぎていた。
優しい人だったが、少し疲れていたんだな・・・どこにも行き場がなかったから、しかたがなかったんだな・・・。
・・・・・・ある日を堺に、一晩中ストーブがこんこんと火を灯すようになった。
カンヌの態度も変わった。 おれに媚びるようにモノを買ってくれるようになった。
糞ガキと呼ばれなくなった。 夕食を三人ですることもあった。
ガキのころのおれは、カンヌのような偽善者が、なぜ、おれたち親子を助けたのか、その理由を考えなかった。
おれは見た。
手足を押さえつけられて、悲鳴を上げる女の人を。
うちの部屋だった。 学校を病気で早退したのがまずかったのかもしれない。
酒の匂いがひどくむせた。 一升瓶が中身をぶちまけて倒れていた。
それを飲んでいた大男が、丸裸の下半身を隠そうともせず、おれをにらみつけた。
黄色く濁った目。 岩みたいに角ばった顔。 こぶのように隆起する腕の筋肉。
肉体労働で養われた屈強な体に、おれは恐怖に身がすくんだ。 圧倒された。
胃が飛び出るほど殴られ、倒れこんだら背骨が折れるほど蹴り込まれた。
母さんが泣いておれをかばった。
ヤツは汚い言葉を浴びせて母さんの髪を引っ張った。
そのまま酒臭い口を母さんに近づけながら、ぎらついた目だけおれに向けた」


――『きょうすけぇ、くやしいか!? なんまくやしいか!? くやしいなあ!? ぜんぶおまえらのせいだべ! 金さもってないおめえらのせいだべっ・・・!!!』


「ヤツはとにかく、まくしたてた。
自分こそが、薄汚い牛小屋の支配者なのだと。 嫌なら出て行けと、お前らは家畜だと。
畜生をどう扱おうと勝手なのだと、勝ち誇っていた」


――『家畜のくせに文句たれるなら、おみゃあがはたらけぇっ。 ああっ、きょうすけぇっ。 おみゃあ、母さん食わしてやれるんか? 家借りて、学校いって、生活できるんか?』


「母さんが手をついて謝った。 私たちが悪かったと。
同時におれに強がった。 私はだいじょうぶだと。 さあ早く、ヤツに謝ってくれと。
おれは、母さんに従った」



・・・・・・。

 

・・・。

 

 


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椿姫は肩を震わせて、雷にでも打たれたかのように、呆然と立ちすくんでいた。


「長くなったが、どう思った?」
「・・・・・・」


椿姫は眉根を寄せて、つぶやいた。


「ひどい人だなって・・・お母さんが、とても不憫で・・・」


おれは、しらけた気分になった。


「あー、そういうのはいいんだ。
ヤツはゲスで、母さんはかわいそう。
それはたしかにそうなんだが、おれが言いたいのはな、椿姫・・・」


一息ついて言った。


「あのとき、この部屋にある金のほんのわずかでも、持ってたらってことだ」
「いや、でも、浅井くんは中学生だったんでしょう?」
「セントラル街に行ってみろよ。
どう見ても小学生の自称高校生がフードかぶって路上でアクセ売ってたり、イベントのチケットさばいてたりするぞ?」
「それは・・・ここは大きな街だから」
「なんにしてもおれには金がなかった。
そりゃあ、少しは運も悪かったのかもしれないが、金がないから運も逃げていったんだ」


そのとき、椿姫が、思いついたように言った。


「うちはだいじょうぶかな・・・?」
「大変だと思うぞ。 親父さんから愚痴でも聞いてないか?」
「ううん、ぜんぜん・・・楽観してるのかな?」
「知らんが、もしそうだとしたら、おれの話に少しでも感化されてくれるとうれしいな」
「・・・うん、わたしが、家族を支えなきゃ。 みんなわたしに甘えてるところあるから」
「仕事を手伝ってくれれば、いくらか報酬は出せるよ。
たいした額は出せないけど、その辺でアルバイトするよりは割がいいと思うぞ」


微笑むと、椿姫も頬を緩めた。



「がんばるよ。 浅井くんの話し聞いて、ちょっと家族とももう一度向き合ってみる」
「・・・というと?」
「ほとんど広明のことなんだけどね。 あの子って、どう思う?」
「さあ・・・よっぽどわがままに育ってるなあと思うこともあるが・・・」
「そのとおりだよ。 わたしが、甘やかしてたんだと思う」
「あのまま大人になったら、逆にかわいそうかもしれんぞ」
「保育園の先生にも同じようなこと言われたよ」
「なら言わせてもらうが、正直、おれみたいな日陰もんからすると、ちょっと眉をひそめたくなるようなこともあったな」


腕を組んで、話を続ける。


「なんで、叱らないんだろうってな。
真剣に怒ってやったほうがいいんじゃないかとか思うわけだよ」
「・・・最近は、ちょっと叱るようにしてるんだよ?」
「夜、出歩いてたときか?」


おれは短くため息をついた。

・・・あれは、叱るっていうより、椿姫がただヒステリックにわめいていただけのような気がするが。


「もうちょっと、心を込めたほうがいいんじゃないか?」
「そう、かな? どうすればいい?」
「どうすればいいって・・・」
「わたし、あんまり誰かに怒ったことないから、それを相手にどう伝えていいかわからなくて」
「感情に身を任せてみたらいいんじゃないか?
溜まってるもんを思いっきりぶつけてやれば、相手が子供でもわかってくれるって」
「うん・・・」

 

 

椿姫の目に、得体の知れない光が宿った。

 

 

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「やってみるよ」


おれを、じっと見据えた。


「今度また、勝手に外に出歩いてたら、そのときは・・・」


自分に言い聞かせているようでもあった。


「さて、話が長くなったな・・・」
「うん、じゃあ、なにからすればいいのかな?」
「お前って、パソコンは使えるのか?」
「インターネットくらいなら」
「とりあえずそこの資料に目を通してくれ」


おれは、テーブルの上に積んだ紙の束を指差した。

それは、総和連合系のビルのリストの一部だった。

ビルの管理業務は広範、多岐に渡るが、浅井興行のビル管理には定評がある。


「こ、これ、全部・・・? 五百枚くらいあるよ?」
「やることは簡単だ。
一枚一枚目を通して、そのなかで、付帯設備のある物件を抜き出しておいてくれ」
「付帯設備?」
「プールとか駐車場とかだよ、運動場もか。
抜き出し終わったら、その物件の名称と電話番号をパソコンに打ち込んでいって欲しい」
「・・・けっこうかかりそうだね・・・」
「夕方には終わるだろ」
「夕方・・・」


言葉を詰まらせた。


「なんだ? 用事でもあったのか?」
「う、ううん、平気だよ・・・」
「じゃあ、おれは向こうの部屋にいるから。 わからないことがあったら呼んでくれ」


椿姫は、いそいそと書類に手をつけた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


「おい、椿姫。 携帯、鳴ってるぞ」


午後になったあたりで、休憩がてら椿姫の様子を見に来た。

椿姫は携帯を手にしたまま、その場に固まっていた。


「家からだ・・・どうしよう」
「どうしようって、出ればいいじゃないか。 学園に行っていることになってるんだろ?」
「それもそっか・・・なに慌ててるんだろうね、わたし・・・」


話をしている間に、通話が切れた。


「あ・・・」
「かけなおすか?」
「いいよ。 どうせなんでもない用事だと思う。
お父さんったら、わたしが携帯もったもんだから、意味なく電話かけてくるの」


そう言って、作業に戻った。


・・・なかなか、手際がいいようだ。

すでに、パソコンの画面には、建物の名前が羅列されていた。


「いい調子だな」
「そう? わたし、こういう単純作業向いてるのかも・・・」
「助かるよ。 やっぱり、椿姫に任せてよかった」
「本当?」


うれしそうに目尻を下げた。


「ねえ、浅井くん・・・」
「なんだ?」
「広明をね、昼に迎えに行くって、言っちゃったのね」
「・・・ああ・・・」
「公園まで迎えに行くことになってるんだけどね。 さすがに帰るよね? わたしが来なかったら」
「まあ、普通はな・・・」
「だよね・・・」
「・・・いいのか?」


おれは詰めるように聞いた。

仕事の途中で帰られるのは、おもしろくない。

けれど、椿姫はすでにおれの期待通りの人間になっていた。


「ちゃんと終わらせてから帰るよ。 広明は、ひとりでも帰れるからね。
わたし、ちゃんと働いて、ちょっとでも家にお金入れたい。
そのほうが、なんていうのかな、家族のためだよ」
「・・・・・・」
「こういうとあれだけど、けっきょくお金があれば、家を出て行かなくてもすんだわけじゃない?
広明が誘拐されたとき、人にお金を借りずにすんだんだよ」
「だいぶおれよりな意見だな」


口元が、つい、にやけていた。

 

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「わたし、浅井くんに出会って良かったな」
「急になんだよ」
「だって、浅井くんって、わたしにないものをたくさん持ってるんだもの」


椿姫も、おれにないものを・・・いや、おれにないものしか持っていなかった。

けれど、けっきょくは、おれのような俗物に歩み寄ってくる。

疑い、欺き、保身に走り、策略をめぐらせる。

それが、いいとか悪いとかではなく、誰でもそうなんだ。

おれは、おれの今までの生き方が間違っていなかったのだと知って悦に浸っていた。


「じゃあ、もうひとがんばりしよう」
「うんっ・・・」


椿姫は、その後、持ち前の真面目さを十分に発揮してくれた。

帰る直前まで、迷いが吹っ切れたように、てきぱきと手を動かしていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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日が落ちるに連れて、急に冷え込んできた。

セントラル街の雑踏にまぎれても、寒さは緩まない。

学校帰りの中高生を、深夜番組のテレビカメラが捕まえてインタビューしている。

見慣れた光景だった。 マイクを向けられれば有頂天になる。

椿姫も、京介に必要とされれば、カメラの前ではしゃぐ少女たちとなんら変わらなかった。

歩きながら、ふと、通り沿いのショーウィンドウが目に入った。

マネキンがハイブランドの洋服を着せられ、媚態を作っていた。


「いいな・・・」


つぶやいてみた。

本心からそう言えたのか確かめてみた。

わからなかった。

ただ、焦燥感が胸に募った。

マネキンの手前、ガラスに映った椿姫は、自分でも変化に気づけるくらい、険しい顔つきをしていた。

寒さに身をよじらせながら、地下鉄を目指した。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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椿姫が家を出てしばらくたってから、気づいた。

どこか見覚えのある日記帳。

椿姫が、後生大事にかかえている一品だ。

・・・こんな大事なもんを忘れるなんて。

日記を書ける人間は心に余裕があるそうだが、最近、あいつが日記を手に取っているのを見たこと
はない。

・・・とはいえ、さすがに不必要なものでもないだろう。

おれは、椿姫に電話をかけた。

すると、電波の届かない云々の、機械的なメッセージが返ってきた。


・・・電車の中か?


電源を切っているあたりが、椿姫らしいというかなんというか。

これからセントラル街に出る用事があるし、その足で送り届けてやるとするか。

コートを羽織って、表に出た。

目の覚めるような冷たい風がすぐにおれを出迎えた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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カゼでもこじらせたのか。

頭が重く、額から汗が滲んでいる。

熱気の次は、悪寒が襲ってきて体温調節がままならない。

椿姫はおぼろげな足取りで公園を歩いていた。

糸がからまったような膝を、前へ前へと繰り出して、帰宅を急ぐ。

自分は、なにを慌てているのだろうかと、もつれる足が地面をける速度を緩めた。


学園をさぼってうしろめたいのだ。


いや、京介に認められて浮ついているのか。

抱え込んでいた様々な不安が、重石となってのしかかってきた。

たとえば、宇佐美ハルという転入生。

なんの疑いもなく友人として接した。

するといつの間にか、ハルを毛嫌いしている自分が出来上がった。

京介の話を聞いて、家族の借金というものがどれほど恐ろしいことかを思い知らされた。

幸いにして転居先は京介が用意してくれたものの、貧しい生活が待っていることに変わりはない。

父親が、もっと深刻に対策を練るべきではないのか。

椿姫は息苦しくなった。

なぜ、わたしばかりが悩んでいるのか・・・。


そうして、椿姫の悩みの原因そのものが姿を現した。

 

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「あ、お姉ちゃん、やっときたー・・・!」


弟が、駆け足でこちらに向かって飛び込んでくる。

当然のように、待っていた。

寒さをものともしない、屈託のない笑顔。

また悪寒に襲われた。

さきほど街中のガラスに映った椿姫では、もう二度と、弟のような笑顔は作れないだろう。

悲しくて、腹立たしかった。

椿姫は、自分が約束を破っていることをすっかり忘れ、広明をにらみつけた。


「なんで帰ってないの」


鬱積した感情が椿姫の心の底にしたたり落ちる。

その音が、闇の底で跳ね返って、椿姫の口で声となり、広明の耳へと滑り込んでいく。


「困らせるんだ、そうやってお姉ちゃんを・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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・・・相変わらず、うっとうしい街だ。


・・・。

 

地下鉄に乗って東区を目指す。

座席の端に腰掛けてまどろみながら、椿姫のことを考える。

椿姫は、見る見るうちに人柄を変えていった。

まっさらな白紙に墨を落としたように、ノンストップで崩れていった。

よく、何事も積み上げるのは難しくても崩すのは一瞬というが、そういうものなんだろうか。

椿姫がいままで培ってきた純真さや清潔さも、ひとたび金の問題が発生すればすぐにナリをひそめ
てしまった。

つまりは、その程度のものだったんだ。

椿姫の善良さなんて、あっさりと崩れるようなちゃちなものだったわけだ。

これまで、たいしたものを積み上げてこなかった結果といえる。

たしかに、おれは椿姫に誘いをかけたし、不幸も続いた。

誘拐事件もあれば、莫大な借金に追われ家を出て行く羽目にもなった。

しかし、とおれは思う。

人間がそんなに弱くていいのかねえ・・・。

いつだって、搾取される側に問題があるんだ。

誰だって騙される方が悪いってことを知ってるんだが、それをおおっぴらに言うと、非難されるから黙ってるだけのこと。

おれの手は汚れているが、おれは正しい。

決意をあらたにして、眠気に身を任せた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 



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自制の回路にスイッチは入らなかった。

ちらついてきた雪が、理性を凍結させていった。


「これで何回目だと思ってるの。 一人で出歩いちゃダメだって教えるのは」


ひどく酷薄な声で問うが、愚かな弟は椿姫の変化に気づいていなかった。


「それより、聞いてよ。 マサトくんがね、マサトくんってお友達がね、犬買ってもらったんだって。 まふまふしてるの。 ボクも欲しい。 買ってー」


ぴくりと、こめかみで血管が脈打った。


「ねえ、買ってー。 チワワっていうの。 買ってー」
「・・・いくらすると思ってるの?」
「知らない。 高いの? コンビニのアイス全種類買うより高い?」
「当たり前でしょう?」


そんなこともわからないほど、甘やかしてしまったのか。


「でも、お姉ちゃん、ずっと前ボクに、ゲーム機買ってくれたよ。
すっごい高いって、みんな言ってた。 うらやましいって言われたよー」


そういう自分は、もう、いないのだ。


「お金、ないの」
「嘘だー。 お姉ちゃんの貯金箱みたよ。 お札がいっぱいだったよー」
「人の財布を勝手に見たらだめでしょう?」
「えー? だって、ボクいっつもそのお金でおやつ買ってるよー」
「本当は、いけないことなの」


かわいい弟だと思って、なんでも言うことを聞いていたのが間違いだった。

これから先、美輪一家には十分な貯蓄はない。

もう親から小遣いなんてもらえないし、また、それを弟たちに振る舞うこともない。

皮膚に滲む汗が、雪混じりの風で急速に冷え込んでいく。


「お姉ちゃん、缶ケリしよう」
「やだ。 寒いし」


椿姫の手が小刻みに震えていた。

寒さからくる震えではないことは、あきらかだった。

ある黒い衝動を必死になって抑えていた。

それをやってしまったら、もう後には引けない。


「ねえ、やろうよー」
「いやだって」
「もし、やってくれたら、ボクなんでも言うこと聞くよ。 だから、ほらっ」


小さな腕が伸びて、空き缶を突きつけられた。

椿姫の闇が、一滴、また一滴と、器に落ちていく。

もう、縁から溢れそうだった。


「なんでも?」
「うん」
「ならわかるよね。 何回もおんなじこと言ってるもんね」


心に蓋を落とすつもりだった。

"魔王"によって開かれた暗い門を閉じようと、椿姫はすがるような思いで弟に訊いた。


「わかるよね、広明」
「なにかな、教えて? ボク、お姉ちゃん好きだよ。
お姉ちゃんのいいつけ破んないよ、ぜったい。
だから、遊ぼう。 そして終わったら子犬買いに行こう?」


今、椿姫の胸のうちでどういうわけか、"魔王"と京介の声が重なった。


――どうしようもない坊やだ。


その声に闇の滴が器から溢れ、即座に奔流となった。



――広明!



衝動が弾け、燻っていた手のひらが、暴力を求めて風を切った。

差し出されていた空き缶が小気味よい音を立てて飛んでいった。

もう、破れかぶれだった。

あとは波が浜辺に打ち寄せるように、弟の頬に平手が吸い込まれていった。

 

痛い。

手首が悲鳴を上げる。

広明のぷっくらとした頬。

かわいいからよくキスをした。


ぶった。


ぶってしまった。


我に返りたくなかった。


音を立てて崩れるそれまでの自分。


真面目でしっかり者の椿姫。


完全に壊れてしまった。


しつけのために手をあげた。


言いわけが浮かぶ。


家族なら許される行為ではないのか。


むしろよくやったと、いう人はいうかもしれない。


しかし、椿姫にとっては高層ビルから飛び降りるような惨事だった。


「広明・・・」


恐る恐る、小さな弟に尋ねた。

広明は地面に膝をついて、糸の切れた人形のように沈黙していた。


「・・・お姉ちゃん」


ショックは計り知れなかった。

手を上げた本人ですら後悔の念に押しつぶされそうなのだ。

信頼する姉が暴力を振るうなど、夢にも思わないはずだ。


「・・・もう、なの?」


顔を上げた広明が、きょとんとした表情で首をかしげた。

動揺に窒息しそうな椿姫には、ぶったの、と責められているように聞こえてならなかった。


直後、へらへらと緊張を緩めた顔が、椿姫の目に飛び込んできた。



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「相撲なの、お姉ちゃん・・・?」


――わけが、わからなかった。


広明は、泣くどころか、やはり嬉しそうに、椿姫の膝に抱きついてきた。

その無垢な笑顔がたまらなく嫌だった。

いつもどこかで見ていた笑顔。

椿姫は鬱々としたどす黒い燻りに火をつけた。

勢いに身を任せ、もう一度弟に襲いかかった。

華奢な胸板を突き、頬を張り飛ばす。

足をかけて、地面に叩きつけた。

一生分の凶暴さを吐き出すつもりだった。


「えへへ、えへへ・・・」


それでも、広明は泥だらけになり、膝を擦り、雪に濡らした笑顔で立ち上がってきた。


なぜ、泣かないのか。


なにが、そんなに楽しいのか。


どうして、疑わない、恨まない、泣かない?


あからさなま虐めではないか。


遊んでやっているんじゃない。


言うことを聞かない子供をヒステリックに嬲っているのだ。


わたしはお前が嫌いだ。


無垢で、無知で、人を疑うことを知らないお前が、憎らしい・・・!


「お姉ちゃん、もっとしよおぉっ」


語尾の伸びきった甘ったるい声。

張られた頬を赤く腫らし、無邪気に尋ねてきた。

どうやっても椿姫の悪意に満ちた叫びは届かなかった。

この子は本当に頭の足りない子なのだろうか。

わからなかった。

なぜ、何度も殴られて、じゃれていると思えるのか。


「どしたの、もう終わり? あれ、お姉ちゃん・・・?」


胸奥からこみ上げるものがあった。


「寒いの、お姉ちゃん?」


弟は、純真に、椿姫が寒いのだと信じている。


「なんで、泣いてるの? どっか痛かった? ボク、やりすぎた?」


心底心配そうに、椿姫を見つめてくる。

その目に、もう、限界だった。

椿姫は、悟った。

弟は己を愛してくれる人だけを瞳に映して育った。

これまで限りない愛情を与えていた姉が、自分を脅かすはずがないと信じきっているのだ。

 


まるで、鏡のようだった。


 


 

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「広明っ・・・!」


雪が桜のように舞う。

椿姫の心に落ちて、熱を冷ましていった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 



 

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意外な光景だった。

おれは途中から、椿姫とその弟のやりとりを眺めていた。


「ごめん、ごめんねっ・・・痛くなかった・・・!?」
「んーん、お姉ちゃんこそだいじょうぶ?」
「・・・わたしは、ぜんぜん・・・」
「だって、泣いてるよ? どっか痛いんでしょ?」
「いいの、ごめんね、なんでもないのっ!」


椿姫は、きっと怖いぐらいの信頼に責め立てられているのだろう。


「お姉ちゃん、ボクが悪いの? ボクが一人でお外に行くのがそんなに悲しかった?」


椿姫は、頼りなげに首を振った。

おれは椿姫に、指図した。

感情に身を任せて、溜まってるもんを思いっきりぶつけてやれと。


「おねえちゃんが、おかしかったんだよ・・・」


その結果が、これだ。

どれだけわがままをしようが、椿姫の弟は椿姫の弟だった。

無知でうさんくさいほどの純真な椿姫の家族。


「ご、ごめん、ごめんね・・・ぼく、ボクっ」
「ううん、広明は、なんにも悪くないよっ・・・わたしが嘘をついてたの。
広明との約束をやぶって、学園もずる休みしてたの。
さっきだって、遊んでたんじゃなくて、いらいらして、広明をぶったのっ。 ごめん、ごめんねっ!」


まるで鏡を合わせたように、二人して泣いていた。


胸がうずく。


椿姫の人柄を、おれが本当はどう思っているのか、気づかされた。


気に入らないのではなく、憧れていたのではないのか。


幼稚に、嫉妬していたのではないのか。


だから、壊したかった。

 

・・・くそ。


関わり合いになるんじゃなかった。


椿姫は、おれがとうてい手に入れられない素晴らしいものを、大切に積み上げていたんだ。


それは、ちょっと風が吹いたくらいじゃびくともしない堅固な家だった。


「ボク、もうぜったい、勝手に出歩かないよ」
「そう・・・?」
「うん、だって、お姉ちゃんといっしょにいたいもん。
お姉ちゃんがお外連れてってくれるもん。 お姉ちゃんが、ボクの頼みを聞いてくれなかったことないもん」
「・・・っ・・・!」


椿姫が、顔にゆっくりと笑みを浮かばせた。


「ありがとう。 なんだか、とっても楽になったよ。
わたしはこれでいいんだね、広明。
誰も疑わないし、お金にも興味ないし、恋愛にも消極的。
それでも、わたしには、たくさんの家族がいるもんね。
お父さんが買ってくれたダサいコート着るし、みんなが繁華街で遊んでるときに、わたしは公園で広明と缶ケリするの。 それで、いいんだよね。 ね、広明っ・・・?」

 

・・・・・・。

 


雪が強くなってきた。

おれはこのあとに控えている仕事すら忘れ、その場に呆然としていた。


しゃくぜんとしない。


これ以上、こいつらに感化されたら、おれがおれでなくなるような気がする。


「・・・・・・」


もう、関わるのはやめておこう。

椿姫を助手にするのもやめだ。

あいつには、あいつに相応しい人生があるだろう。

一度決めると、もう迷うわけにはいかなかった。

日記は明日でもいいだろう。

踵を返し、駅に戻る。

姉弟は雪のなか、いつまでも楽しそうにじゃれあっていた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 



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寝る前に顔を洗っていると、まるでひどい目にあったような顔をしたおれが鏡にうつっていた。


・・・まったく、椿姫には踊らされてしまったな。


もう夜の十時になろうかというのに、来客のようだ。


インターホンを覗いて、うんざりした。


「ちわす」
「お前か」
「すみません、ちょっとお醤油貸してもらえませんかね」
「醤油だあ?」
「ご近所なんですよ、実は」
「嘘をつけ、このへんにお前が住めるようなアパートはない」
「いいえ、本当ですよ。 ちょっとした知人のつてで、ある社屋の二階を間借りしてるんです」


・・・たしかに、この辺りには、表札がそのまま会社名になっているような家がいくつかあるが・・・。


「上がっていいですか? たいした用もないんですが」
「帰るがいい」
「そこをなんとか。 たいした用もないんですが」
「ちょっとお前、あんまりカメラに顔を近づけるなよ。 だいぶおもしろいことになってるぞ」
「お嫁にいけなくなってしまいましたね。 責任を取って部屋に上げてください」
「・・・わかったよ。 五分で帰れよ?」


オートロックを開錠すると、宇佐美はひゃっはーとか言いながらエントランスに入っていった。

待つこと数分。

玄関のドアの向こうで足音がしたので、鍵とチェーンロックを外してやった。


「お邪魔していいですか?」
「半開きのドアからこっちを覗くなよ、怖いな・・・」
「では遠慮なく・・・」


そそくさと足音も立てずにリビングに上がってきた。

 

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「で、なんだよ?」
「はい?」
「急になんの用だと聞いている。 話があるなら、携帯でもいいだろう?」
「椿姫がさっき、うちに来ましてね」
「・・・っ・・・椿姫、が?」
「おや? 椿姫となにかありましたか? クンクン・・・」
「ベッドの匂いをかぐな。 何もねえよ」
「いや、驚きましたよ。 玄関先でいきなり頭下げられましたからね」
「ほー、最近の態度のことか?」
「ですです。 こんな夜更けにですよ。 うちの住所にしてもわざわざ学園に問い合わせたんだそうです」
「よかったじゃねえか。 仲直りできて」
「いやいや、自分も、ほっとしました。
子供が帰ってきたんだから警察に連絡しろとかいうのは、よくよく考えてみれば酷な話でした」
「考え直したのか?」
「ええ、椿姫たち家族が犯人の報復を恐れているというのに、無関係なわたしがしゃしゃり出るのは筋違いにもほどがあるな、と」
「ふーん」
「それにしても、ホント浅井さんは罪な男だなと思って、今晩おしかけてきたわけです」


・・・やはり、椿姫は、宇佐美に嫉妬していたのだろうか。


「"魔王"様は恋愛とかするんですか?」
「おれは"魔王"じゃねえよ」
「しかし、ここのところバイトも休んで"魔王"の足取りを追っていたんですが、ぜんぜんさっぱりでしてね」
「もう、やめればいいじゃねえか」
「それでは、母が浮かばれませんから」
「死んだみたいに言うなよ」
「ワハハ」
「ワハハじゃねえから」
「いやいや笑いたくもなりますよ、浅井さんには」


ひとしきり笑ったあと、宇佐美の口元が急に引き締まった。



「必ず尻尾をつかんでみせますから」
「そんなぎらついた目でおれを見られてもだな・・・」


おれはおどけて見せるが、宇佐美の顔はいっそう険しくなるばかりだった。


「今回の誘拐事件ですがね」
「おう・・・」
「よく聞いてください」
「なんの話だ?」
「犯人はどうやって、ケースのなかの株券を回収したのか、というお話です」
「いまとなっては、意味がない話だな」
「ええ。 自分もそう思って、黙ってたんですが、やはり、浅井さんにはお伝えしようと思いまして」
「なんのために?」
「わたしは、ちゃんとお前の策を見破ったぞ、という宣言をしたいんです」


・・・だから、なんでおれにそんな宣言をするのか?


「"魔王"に言えっての」
「まあまあ、もうめんどくさいから、聞くだけ聞いてやってくださいよ」


これ以上掛け合っても無駄だと判断したおれは、ひとまず口をふさいだ。


「まず、"魔王"はなぜ身代金を株券で要求してきたのか。
前もお話ししましたが、一番の目的は持ち運びを楽にするためです。
しかし、それだけなら、他の有価証券・・・たとえば小切手でもいいわけです」


おれは口をはさむことにした。


「でも、小切手は現金化するときに足がつくだろう?」
「はい。 株券もそうです、発行する会社が株券に通し番号を振りますから、誰がどこで売り買いしたのか警察が調べればすぐにわかってしまいます」
「そうだな。 小説でもなんでも、犯人が小切手や株券ではなく、よく番号の不揃いの現金を要求するのは、換金するときの危険を回避するためだろうな」


もちろん、手形なんかは闇で割ってくれる業者もあるし、株券にしてもたとえば善意の第三者を使って換金する手口もあるにはあるんだろうが、なんにしても警察には徹底的にマークされることになる。


「前提として、"魔王"は、五千万からの現金を欲していたわけではないと思います」
「そのへんまでは、おれも考えてたよ。 金が欲しいだけなら誘拐なんてしないだろ」
「つまり、"魔王"は、椿姫たちから奪い取った株券を換金するつもりはなかった。
これは、つまりどういうことでしょう?」


探るような目で聞いてくる。


「自分は金なんていらないが、椿姫たちには、金を吐き出させたかったってことだな?」
「その可能性は極めて高いです。
だから、あらかじめ急落することがわかっていた銘柄を指定してきたんだと思います」
「急落することがわかっていた?」
「そこは浅井さんに教えてもらいましたよね? ちょっとでも株に詳しい人なら誰でも予想できたって」
「ああ・・・」


おれも、権三に教えてもらったわけだが。


「"魔王"は最悪、身代金を奪取できなかったとしても、椿姫の家が窮地に陥るように周到に保険を
打っておいたんだと思います」
「もしそうだとしたら、恐ろしいくらいに慎重なヤツだな。 つまり、椿姫たちが土地を売った金を株に変えた時点で"魔王"の勝利だったわけだろ?」
「ですが、"魔王"はその後、約一日をかけて、身代金の受け渡しを巡る駆け引きを演じて、見事に株券を奪うことに成功しています」
「そこは、よくわからんよな?」
「"魔王"にとっては、その一日こそが、"お楽しみ"の時間だったんだと思いますよ」
「お楽しみ?」


首を傾げる。


「"魔王"は椿姫の家から大金を奪うという目的のついでに、わたしと遊んでやってくれたんです」
「おいおい、"魔王"様は、ずいぶんと余裕を見せるな。 警察に捕まるかもしれないってのに」
「ですから身代金を株券にして保険を打ったんでしょうね。
余裕のお遊びで本来の目的を逸脱しないように。
なにか問題があれば、すぐにでも誘拐を中止して雲隠れするつもりだったんでしょう」
「なんにしても、いかれてる男だが、宇佐美よ・・・」


今度はおれが尋ねる番になった。


「なんでお前が、"魔王"に遊んでもらったんだ?」
「前にも言いましたが、"魔王"は、わたしを試してきたんだと思います」
「だから、なんで、お前みたいな変な女を試すんだ?」
「わたしが、"魔王"の存在と過去の罪を知る、数少ない人間の一人だからです」


困惑していると、宇佐美は目を細めた。

 

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「さらにいえば、"魔王"はわたしのことを憎んでいるのだと思います」


おれは舌打ちした。


「どうせ、詳しくは話してもらえないんだろう?」
「すみませんね」


ちろと、舌を出した。


「わかったから、話を戻そうぜ」
「はい、"魔王"はどうやって、身代金を奪ったのか」
「おれがロッカーの鍵をあらかじめ複製してたんじゃなかったのか?」


にらみつけると、宇佐美は小さく笑う。


「違うんですか?」
「たしかに、おれはお前に頼まれて、ちょっとの間だけ駅のコインロッカーを眺めてたわけだが」
「でしょう? そのときに、複製した鍵でちょちょっとやっちゃったわけですよ」
「駅のロッカールームには監視カメラもあるわけだろう?
身代金を入れたロッカーの中身を出し入れしているおれの姿が映っているわけだ」
「間抜けですね、浅井さん」
「いい加減にしろよ。 たしかにその可能性も否定しきれんことは認めるが、お前はもっと別の推測を働かせている」
「別の?」
「もっと・・・。

もっともらしい、身代金奪取の手口だ」


宇佐美は、深くうなずいた。


「確証はありませんがね」
「それでいいよ、話せ。 おれに対する数々の無礼はそれでチャラにしてやる」
「ありがとうございます」


直後、あごを引いて眉根を吊り上げた。


「事件が終わってから気づいたので、とても歯がゆいのですが・・・。
あの日、あのときの犯人の要求には不自然な点がありました」


宇佐美は指を一つ立てた。


「犯人は、警察の介入をひどく恐れていましたよね?」
「ああ・・・」


うなずきながら、椿姫から聞いた事件のあらましを思い起こす。


「"魔王"は、たかがわたしとの『お遊び』で、警察と戦うつもりなんてなかったわけです。
警察の影でも見えれば、すぐにでも取引を中止したことでしょう」
「それはわかったが・・・」


そのとき、なにか閃くものがあって、思わず目を見開いた。


「それはおかしくないか?」
「なぜです?」
「詳しくは知らんが、椿姫は一度、警官に職務質問を受けてるだろう」
「はい。 南区の高級住宅街で」
「あれは、アクシデントだったんだろうが・・・それでも・・・」


突然、おれは言葉に詰まる。


「え・・・っ?」


喉をつまらせたように、続きの言葉が見当たらない。


「その通りです、浅井さん。
"魔王"が、ケースから身代金を奪ったのはおそらく――」

 

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「――あのときです。
警察の介入を恐れているはずの"魔王"こそが、警察官に成りすましていたんです。
アクシデントを装い、椿姫に激怒したふりをし、その後も市内を引っ掻き回してくれましたが、それもすべて陽動です」

 

 

 

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「おかしいと思いませんか? 椿姫は、職務質問を振り払って逃げたんですよ?
よく騒ぎにならなかったものです。 よしんば騒ぎにならなかったとしても慎重な"魔王"が椿姫を許して、取引を続けるとは考えにくいです。
そう考えると、いくつかの疑惑が線を結びます。
"魔王"は、なぜ、アタッシュケースに株券を入れさせたのか?
「持ち運びに便利なはずの株券を、またわざわざ大きなケースに入れる理由は、なんだったのか?
椿姫のあとを追いながら、ずっと疑問に思っていました。
情けないことに、いま考えてみればおかしな話なんです。
"魔王"は警察を警戒しているはずなのに、椿姫にケースなんて似合わないものを持たせ、よく警官
が巡察する南区の住宅街を受け渡し場所に選んだんですから。
その答えは事件が終わってからわかりました。
サイズの大きい黒のアタッシュケースは、警察が職務質問のなかで、中身を確認してきても妥当と
思われるものだからです。
少なくとも、椿姫のあとをつけて、動向を探っていたわたしには、そう思えました。
南区のような高級住宅街に、不審車両が公然と路駐しているんです。
巡回中の警官が窓を叩いても無理はありません。
わたしは、まんまと、椿姫が運悪く警官に捕まったのだと、信じ込まされたわけです。
あのとき、警官は二人いました。
一人が狼狽する椿姫に質問を浴びせていましたが、もう一人、おそらく"魔王"の仲間が車内を探っていました。 ケースを開けて株券を取り出していたんでしょう。
おそらく椿姫は警官の背格好も声も覚えていないでしょう。
"魔王"は椿姫の心理状態をよく推し量っていたといえます。
かくいうわたしも、もっと注意して警官を見ておくべきだったんです。
いまとなっては、制帽を深くかぶっていた程度にしか思い出せませんが、一人は、鼻が高く、外国人風だったような気もします。
"魔王"にとっては、一番の正念場だったでしょう。
その場に、本物の警官が出てきてもおかしくはないのですから。
そう思って、つい先日、あの辺りの交番に迷子になったふりをして行ってみました。
どうも巡回には定められた時間があるようですね。
"魔王"はそういったところも入念に調べあげていたのかもしれません。
ついでに聞いてみたところ、その交番の警官の方が、二人いっしょに町を巡回したことは、ここのところないそうです」


おれは、宇佐美の眼光の鋭さに、少し遠慮がちに言った。


「・・・なるほど、いちおう裏付けは取ったわけだな」
「ええ・・・しかし、しょせんは当てずっぽです」


そして、宇佐美は、再び眉間に深いしわを寄せた。


「捕まえなければ、意味がありませんから」


まなざしは鋭いだけでなく、深い。


「"魔王"は椿姫を・・・なんの関係もない椿姫を巻き込みました」


怨嗟のこもった、ぞっとするような目の色だった。


「赦されないと思いませんか、浅井さん――――?」


おれは、宇佐美の視線を受け止めて、逆に挑むように見つめてやった。


「赦されないな、宇佐美――」


どういうわけか、心が冷めていった。

まるで、宇佐美の挑発を真っ向から受け入れてなお、余裕を示すように、堂々とした態度をとりたくなる。


もし、おれが、"魔王"だったら・・・?


ありえないと思いつつも、それも、悪くないなどと、不意に魔が差したように嗤ってしまった。

 

・・・。