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G線上の魔王【15】

 

・・・。

 

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坊っちゃん、そっちの女性は、坊っちゃんの女(イロ)ですかい?」


堀部がにたりと笑う。

午後三時過ぎだろうか。

おれたちはアイスアリーナのなかに入って、一度顔を合わせていた。

おれ、宇佐美、そして堀部以下六人の極道たち。

それなりにまともな・・・一見してヤクザではなく一般の人間と思われるような顔と身なりをしていた。


「浅井さん、自分、イロとか言われてるんですけど」


「・・・堀部さんも相変わらず口が悪いですね」
「おやあ、違うんですか。 そいつは失礼」


異様に細い目をさらに細めながら、堀部はおれの指示をうながした。


「じゃあ、みなさんにお願いします。
5のつく客席をすべて当たってください。
35なのか52なのかはわかりません。 なにか不審な人物を見かけた場合は、僕に連絡してもらえますか?」
「"魔王"は、背の高い青年なんでしたっけ?」
「そうですが、実行犯が別にいる可能性があります」
「てことは、5のつく席に座っている野郎全員に話(ナシ)をつけなきゃならんですね?」
「まず怪しいのは、チケットの名前と、本人の名前が一致しない場合です。
フィギュアスケートのチケットには、発売と同時に売り切れるような人気があります。
"魔王"はおそらく、ネットオークションかなにかでチケットを手に入れたことでしょう」
「でしたら、てきとうに怪しいヤツをしょっぴいて、"魔王"だの、脅迫状だの、犯人しか知らないようなことをカマかけてみますわ」


堀部は陰険な男だが、権三の組織のナンバー2だけあって、狡猾な頭脳を持ち合わせている。


「時間はかかると思いますが・・・なるべく穏便に、手荒な真似は控えてください」
「承知してますよー。 花音お嬢ちゃんの晴れ舞台を邪魔しちゃいけねえってことくらい」


「あるいは・・・」


宇佐美が口をはさんだ。


「席が空いていたとしても調べてもらえますか? なにか不審なモノが置かれていないか」
「そうか、紙袋だな・・・?」


宇佐美はあいまいに首を振った。


「その5という数すら、そもそも客席の番号とは何の関係もないかもしれませんが・・・」
「それにしたって、なにもしないよりはいいだろう。 実際、郁子さんは狙われているわけだし」
「おっしゃるとおりです。 では、動きましょう」


堀部が一喝すると、ヤクザ連中は散っていった。


「浅井さん?」
「ん?」
「ちょっと顔色が悪そうですが?」
「ああ、遅くまで花音の相手をしているからな・・・」


どうにもふらつく。

 

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「そうですか、無理しないでくださいね」


宇佐美も、また連絡すると言って、廊下の角に消えていった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 



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「たしかにご本人様ですね。 ご協力ありがとうございました」


おれはFの51番に座っていた女性に頭を下げた。

広すぎる会場を移動するだけでも十分十五分と過ぎる。

リンクで行われている演技の合間をぬって話をつけなければならないため、また時間がかかる。

私服警備員を装って話を聞いているものの、本物の警備員からの目も厳しいものになるだろう。

さらにいえば、チケットが本人のものだからといって、油断はできない。

いままで六人と話したが、すでに"魔王"の共犯者を見落としているかもしれない。


・・・手間のかかる作業だ。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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人が多い。

"魔王"の指示に従い、"悪魔"はCー5の席を離れた。

席を立った直後、不意に後ろの席から非難の声が上がった。

ふてぶてしい中年の女だった。


・・・なるべく目立たないようにしなくては。


"悪魔"は腰を低くして、顔を伏せながら二階の通路に向かった。

 

 

・・・。

 

 

 

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それにしても、なにが面白いというのだろうか。

"悪魔"はスポーツといえば、相撲のような国技しか認めていなかった。

"悪魔"は"魔王"からフィギュアスケートの魅力とやらを散々に語られた。

スポーツでありながら芸術でもあると。

その歴史は旧石器時代にまでさかのぼるのだという。

獣骨で作られた人類初のスケートが大英博物館に所蔵されているとか、うんちくの大半は聞き飛ばしていたが、浅井花音という選手についてはとくに思い入れがあるようだった。

いわく、浅井花音は暴力団の資金源である。

度し難い、と"魔王"は言った。

"悪魔"としても共感できるものがあった。

暴力団は思想とは無縁のただの利益追求集団である。

正当な活動はなく弱者から金をむしりとることを生業としている。

よく企業が不祥事を起こすと、"悪魔"と似たような政治団体街宣車を回して企業のビルの前で不
正を訴えるような演説を開始する。

企業側が政治団体の活動資金を援助することで、ようやく迷惑な活動をやめてもらえる。

"悪魔"はこのような思想の面をかぶった拝金主義者どもこそが、あらゆる政治団体の立場を悪くしているのだと常々考えていた。

"魔王"は重ねて、浅井花音を追求した。

花音さえ消えれば、また一つ、社会正義が保たれるのだと。

加えて、花音には我が国を代表するアスリートの風格はない。

観客をなめているような態度すら取るという。


"魔王"の嘆きは存分に伝わった。

同志の憤りは我が怒り。

"悪魔"は計画通りに、通路を進んでいった・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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午後八時四十五分。

そろそろ花音のフリースケーティングの演技が始まる時間だった。

廊下からほとんど人が消え、場内が異様な興奮を見せつつある。


ひとまず宇佐美と合流した。

 

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「どうだ?」
「いえ、まるでダメです。 怪しい人っていいますけど、どっちかっていうと自分のほうが怪しいですから」


・・・いちおう変人の自覚はあるんだな。


「手がかりが少なすぎるな。 5っていう数字と紙袋と郁子さんの『子』だけじゃな・・・」
「多すぎるくらいだとも思いますがね・・・」


ぼそりと言った。


「さっき、警備の人にさすがに捕まえられましたよ。
やっぱり世界の選手が集まるだけあって、それなりに警戒されてるんですね」
「これ以上は、やめておくか・・・」
「自分は尋問とか苦手でしてね」
「お前とまともに会話するのが難しいくらいだからな」
「こんなときに、ユキでもいれば・・・」
「犯行予告の九時まであと十五分か・・・」
「はい・・・」


そのとき、不意に携帯が鳴った。

堀部からだった。


「・・・空いている席に・・・茶色の袋・・・紙袋ですか?」

 

 

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「・・・マジすか・・・」


自分が提案したくせに、信じられないといった様子だった。


「わかりました、すぐ行きます。 Cー5ですね?」

 


 

・・・。

 

 

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熱気が渦巻いていた。

花音の演技が終わったのだ。

たかが四分。

演技中の選手や客にとっては長く感じる時間も、おれと宇佐美が移動している間にあっさりと過ぎ去った。


・・・。

 

 

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「いや、さすが花音でした。 素晴らしい」
「観てねえだろ、てめえ」


そばにいる観客と同じように、興奮した面持ちで手を叩いていた。

観客の反応から察するに、花音は予想通り大勝ちしたみたいだな。

得点の出た電光掲示板を見る。

やはり、花音が独走していた。

花音のあとに一人の選手が滑走を控えているようだが、前日のショートの得点を考えても、おそらく花音を抜き去ることはできないだろう。


・・・となると、"魔王"も動き出すはずだ。


坊っちゃん、こっちです」


堀部に呼ばれていくと、その席を見下ろす。

Cー5の席は、空いていた。


「いちおう、手はつけないで、見張っておきました。 ホシがのこのこ戻ってくるかもしれませんしね」


そんな話をしていると、最後の選手の演技が始まった。

静まり返った会場のなか、さすがに私語は慎まれる。

客席におりていくこともためらわれるじれったい時間が過ぎた。

静謐(せいひつ)に流れていたクラシックアレンジが終曲すると、ようやく行動が再開される。


盛大な拍手のなか、宇佐美が一目散に席に向かっていった。


・・・・・・。

 

宇佐美は座席の下にあった紙袋をつかむとその場で言った。

 

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「なにか入っています。 中を開けてみましょう」


それは、デパートのロゴの入った小さな紙袋だった。


「爆弾だったらどうするんだ?」
「ええ、本当なら警察の方にお渡ししたいものですが、堀部さんが許さないでしょうね。
しかし、たとえばいまこの場で、わたしを含め無関係な人を爆弾で吹き飛ばしたとしても、それが花音の躍進を妨害することにはならないと思います」
「そうだな・・・」


死人が出れば大会は中止になるかもしれないが、それで花音のオリンピック行きがなくなるわけではない。

さらにいえば、"魔王"の嫌がる警察だって首を突っ込んでくることだろう。


「開けます・・・」


断って、宇佐美は紙袋の口を封じていたガムテープをはがした。


・・・。


「また、手紙か・・・?」


脅迫状と似たような質の紙が一枚入っているだけだった。


宇佐美と肩を並べて手紙の文章に見入る。

脅迫状と同じく、手書きの雑な字だった。

 



親愛なる同志へ。


浅井花音の勝利を確認しただろうか?

次の指示を与える。

狙いは金崎郁子だ。

アリーナの外。

関係者通用口で待て。

おそらく選手の出待ちで人がごったがえしているだろう。

そう、殺人を犯しても誰がやったかわからないくらいに・・・。

例の小刀の取り扱いには十分に注意していただきたい。

指の先でも切ってしまったら、眠ったように死んでしまうことだろうから・・・。

 


 

リンクでは氷の上に赤いじゅうたんが敷かれ、選手の表彰が執り行われようとしていた。

一番高い山に登るのは、花音だ。


「いますぐ関係者通用口を固めてください!」


おれは堀部をにらんだ。

"魔王"の指示を受けた共犯者が、郁子さんを殺害しようとてぐすね引いて待っている。


堀部が動く。

すぐさま取り巻き連中に命令して電話をかけさせた。


「おい、宇佐美・・・おれたちも行くぞ・・・」


すでに、宇佐美も動いていた。

しかし、客席を抜ける階段を登るでもなく、紙袋のあった席の後ろの観客に話しかけている。


「・・・そうですか、カーキ色のコート・・・三十くらいの男性ですね・・・」
「そうよ。 よく覚えているわ。 前の人、いきなり席を立つんだもの」
「何時ごろでしたか?」
「えっと、瀬田真紀子が演技してたから・・・」
「いまから十分くらい前ですね・・・八時四十分くらいですか」
「席についたと思ったら、すぐにいなくなっちゃって・・・ほんと迷惑だわ」


さすがに宇佐美は頭が回る。

どうやら、共犯者の特徴を聞いていたようだ。

 

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「え・・・?」


ふと、違和感を覚えた。


「おい、宇佐美・・・どうした?」


こちらを振り返った宇佐美の顔が事態の深刻さを訴えていた。



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「違う・・・」


抑揚のない声で言った。


「おかしい。 最初からおかしかった。
しかし、唯一の手がかりを追っていくしかなかった。
あらかじめ敗北の決まっているチェスのゲーム・・・」


ぶつぶつと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「いますぐ止めてください。
関係者通用口に向かっているみなさんを。 お願いです、早く・・・!」
「なんだ、いきなり?」
「"魔王"は、封筒にいくつも痕跡を残すようなヘマはしません。
あの文章にしてもおかしい。
ワープロ打ちではなく手書きというだけでも怪しいのに、妙に自慢げで程度の低い文面でした。
そして、この紙袋です。 おそらくミスをしたのは"魔王"ではなく共犯者です」
「紙袋にミス・・・?」


とっさに紙袋を拾い上げた。


「ガムテープです」
「あ・・・っ」


さすがに気づいた。


「まず、すぐれた犯罪者というものは、テープのように粘着性のある物を嫌います。
髪の毛、指紋、その他、衣服の繊維なんかも知らず知らずのうちに付着されてしまうからです。
なによりおかしいのは、共犯者はこの"魔王"の指示を、開封しないでどうやって確認したのでしょうか」


そうだ・・・宇佐美が開けるまで、紙袋の封は切られていなかったのだ。


「そもそも、もし共犯者が"魔王"の指示を確認したのなら、まずこの手紙を持ち去っているはずです。 

わたしたちは手がかりを失っているはずなのです」


殺人の指示書だからな・・・そんな証拠を現場に残しておくのはあまりにもおかしい。


「しかし、今確認したところ、八時四十分ごろに共犯者らしき男性がCー5の席についたようです。
なぜでしょう? 共犯者はなにをしに現れたんでしょう?
いま言ったように、"魔王"の指示を確認しに来たわけではありません」
「つまり・・・」
「はい。この紙袋を置いたのは、"魔王"ではなく、共犯者なのです。
我々の目を郁子さんに向けさせるだめにわざとこんな証拠を残したんです」


おれは、神妙にうなずいた。

携帯電話の時計を見る。

九時五分前・・・。


「急ぎましょう、浅井さん・・・。
これは、罠です――――!」


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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"悪魔"にとって最初の標的は、吉田喜美子という名の女だった。

金崎郁子も許しがたい母親ではあるが、吉田の場合はもっとひどい。

吉田はさる有名な宗教団体の信徒なのだ。

日本の政治に影ながら癒着し、この国を腐敗させる元凶となっている。

もちろん世間的には公表していないが、ほとんど公然の事実として知られていることだ。

"魔王"に指示されるよりも前から、吉田については鉄槌を下してやらねばと考えていた。


吉田はアイスアリーナの近くで喫茶店を営んでいる。


もうすぐだ。


殺害方法は単純明快。

"悪魔"は懐に潜ませた小瓶を握り締めた。

劇物の作成法は"魔王"から教えてもらった。

たとえば店のなかに放り投げるだけで、空気と混ざった液体から死をもたらす煙が発生するのだという。

吉田だけではなく、吉田の店にいる――どうせ同門だろう――客たちも一掃できる。

最高ではないか。


それにしても"魔王"は考えている。

フィギュアスケートの大会が終わった直後のこの時間を選んだ。

会場から出るだけでも一苦労だった。

愛国心のなんたるかもしらない有象無象どもが、続々と吐き出されてくる。

この人ごみにまぎれて、会場と目と鼻の先の距離にある地下鉄に乗り込めば、なにがあっても捕まることはない。

"魔王"のいいつけを守り、紙袋を席の下においておいた。

茶色の紙袋には偽の"魔王"の指示書を入れておいた。

我々の犯行があくまで金崎郁子に向けられていると警察に信じ込ませるためだという。


会場内では誰とも目を合わさなかった。

席を立ったとき後ろの席の中年の女ににらまれたが、どうせこちらの姿を覚えてはいないだろう。

いまの私はどこにでもいる普通の男なのだから・・・。


・・・・・・。


歩いて十分もすると、レンガ造りの華やかな喫茶店があった。

"悪魔"は残虐な笑みを浮かべながら、通り沿いにある店の窓辺に近づいた。


こじんまりとした店内で、数人の男女がカウンターの向こう側にいる店員と談笑していた。


いた。


あれが吉田喜美子だ。


換気扇を狙った。



死ね。



小瓶を握り締め、振りかぶった。


人を殺すことになんのためらいもない。


初めてではないから。


怒号があった。


後方から人の肉を通して『あいつだ』と舌を巻くような声。


『まてや、こら!』振り返った"悪魔"を指差している。


風体は一見してその筋の者だった。


続々と集まってきているようだ。


がらの悪い声がそこかしこで飛び交う。


・・・なぜだ?


しかし、"悪魔"は冷静だった。


小瓶を懐に隠すと、人の流れに沿って落ち着いて地下鉄を目指した。


切符は前もって買ってある。


取り乱すことなく改札をくぐる。


九時五分の列車。


時間通りにホームに入ってきた。


予定通り悠々と乗り込んだ。


いや、予定通りではない。


吉田を殺し損ねた。


・・・なぜだ・・・なぜ・・・?

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


「取り逃がしただと、ばかやろうがっ!!!」



九時半を回ったあたりで、共犯者の捜索はいったん打ち切られた。

 

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「ダメでしたか・・・」


宇佐美も息を切らしていた。


「おそらく地下鉄でしょう。 電車の到着時刻もあらかじめ調べておいたとしか思えません」
「それにしても、よく吉田さんが襲われるってわかったな?」


宇佐美は悔しそうに首を振った。


「共犯者はあの席に、およそ八時四十分に現れました。
会場から出るだけで十分はかかるとして、犯行予定時刻の九時まで残り十分ですね。
となると最も危険なのは、会場から十分程度の場所にいる人物です。
この混雑ですからタクシーは当てにならないでしょう。 バスも同じです。
地下鉄は八時四十六分の一本を逃すと、次は九時五分まで待たなくてはなりません。
つまり、共犯者は歩いて移動するはずです。
アイスアリーナから歩いて十分程度の距離に住所をかまえるのは、吉田さんだけでした」


後手に回ったとはいえ、権三の部隊の動きは迅速だった。

すぐさま吉田喜美子の喫茶店まで急行し、カーキ色のコートを着た男を目撃したという。

堀部が忌々しげな顔をして言った。


「すみませんね、坊っちゃん。 ふがいないとこみせちまって」
「いえ、よくやってくださったと思います。 父にもそう伝えておきますので」

 

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「あの、逃げた男を目撃した方にお話を聞きたいのですが」
「わかりやした。 おいっ、このタコ・・・!」


おれにへつらっていた態度が、下々の者に対しては一変する。

宇佐美は、堀部にタコと呼ばれた男と話しこんでいた。

しばらくして、質問も終わったようだ。


「じゃ、自分らは報告もありますし、撤収しますわ」


おれも礼をして、連中を見送った。


「・・・残念ですが・・・」
「どうした?」
「聞けば、一瞬のことだったそうです。
カーキ色のコートを着た男を見つけたと思ったら、いきなり喫茶店に向けてなにかモノを投げるような姿勢を取ったんだそうです。
顔はよく見えなかったが、年齢は三十くらいで痩せている印象だったということですが・・・」


そこでため息が出た。


「それだけじゃ、厳しいな・・・カーキ色のコートなんて誰でも着てるし・・・」
「惜しかったのですがね・・・」
「振り出しに戻るというわけか?」
「いいえ、浅井さん」


宇佐美は首を振った。


「まだ手がかりはあるはずです・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 

 


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「ったく、なんだよこんな時間にー」
「いや、ホントすんません」
「ボク、これから録画したスケートのテレビ中継見ようと思ったのにぃ」
「みんなで見たほうが楽しいじゃないすか」


「それにしても、栄一お前、今日も見にいったんだろ? 生で見たのに、テレビの録画もしてたんだな」
「もちろんだよ。 解説聞きたいもん。
会場内でも専用のラジオ貸し出してて、それで解説聞けるけど、テレビとは別の解説者だから」
「ふーん」


ひょっとして、共犯者の顔が映っているかもしれない。

宇佐美はそう言った。

たしかに、あの席は一番リンクに近かった。

前の観客の頭を気にすることなく試合に集中できる。

その分、カメラに顔が映っている可能性は高い。


「はい、コレ録画したDVDね」


栄一からディスクを受け取ると、専用のデッキに差し込んだ。

三人でテレビの前に近寄ると、しばらくして映像が流れた。


「・・・んっ、ああっ、あっ、いいっ・・・!」


「・・・・・・」


AV女優と思しき女体が画面いっぱいに激しく揺れていた。


「お前さ・・・」
「ごめん、本日の一発ギャグ」

 

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「・・・っ」


驚いたことに、宇佐美が恥ずかしそうにうつむいていた。


「はい、本物はこっち」
「これもネタじゃねえだろうな・・・」


DVDを入れ替えてセットした。


「今度は本物だったか・・・」


今日いやというほどうろついた会場の客席が俯瞰(ふかん)で映っていた。


「じゃあ、ボクの解説を交えて最初からいってみよー」
「あ、八時半くらいからのを最初に見たいです」
「ええっ!? 八時半ったら最終グループの選手たちだよ?
いきなりメインディッシュをいただこうっていうの!?」
「八時四十分くらいすかね・・・瀬田真紀子さんという方からお願いします」
「なんなのさ、瀬田のファンなの?」
「いや、まあ・・・」
「たしかにねー、瀬田はいい演技してたと思うよ。
でもね、なんつーの、無難すぎたんだよねー。 そりゃミスはなかったけどさー」


栄一のうんちくをよそに、リモコンを操作して、瀬田の演技まで画像を飛ばした。

瀬田はたしかに愛らしい女性だった。

花音の外人のような体型とは対照的に、背が低く、丸顔で笑うとどこかのマスコットキャラクターのようだった。


「あー、そこダブルだったんだねー、トリプル狙わないと花音に勝てないでしょうが瀬田ちゅわん・・・」


野球観戦中のおっさんみたいにだらしなく寝そべっていた。


「・・・・・・」


一方で、宇佐美は押し黙って、食い入るように見つめていた。

いったい何台のカメラを回しているのか、めまぐるしくアングルの変わる映像だった。

客席のはるか上方、空中に鉄線かなにかで吊られたカメラが忙しなく動き回っていたのを思い出す。

 

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「す、トーップ!」


思わず、一時停止ボタンを押した。

ちょうどアクセルジャンプのための踏み切りに差し掛かっていた瞬間だった。

瀬田の後方、広告の張られたフェンスの向こうに、目当ての人物がいた。


「ちょっとなに止めてんの!」
「おっさんはちょっと黙ってろ」
「なにぃっ!」


宇佐美が静かに言った。


「カーキ色のコート・・・この人ですね」
「少し進めてみるぞ・・・」


男はなにやらうつむいて、座席の下に腕を伸ばしていた。

直後に男が立ち上がる――が、カメラのアングルが変わってしまった。

次にカメラが同じ場所を映したとき、すでに客は無人だった。


「拡大してみようか・・・?」
「できるのであれば」
「やり方はいまいちわからないが、まあネットで調べてみる・・・」


「ボクわかるよ」
「あ、マジで? じゃあ頼んだ」
「でも、教えてあげない・・・おっさんとか言うヤツには教えてあげない」
「わかったよ。 コレが終わったらノリコ先生との復縁を計画してやるから」


「自分も協力しますんで」



「なんだよ、二人して・・・そこまでいうなら仕方ないなー」



・・・。

 

二人を書斎に入れたくなかったので、ノートパソコンを持ってリビングで作業した。

ツールを使って栄一のいう手順どおりにことを進めると、画像に手を加えることができた。

"魔王"の共犯者・・・カーキ色のコートの男が次第に鮮明になっていく・・・。


「なんとまあ・・・」


引きつった顔でぼやいた。


「見覚えありか? まさか・・・?」


宇佐美が夜の港で出会った男。


「そのまさかです。 急ぎましょう」


「え? ちょっとどこ行くの!?」
「ちょっくらセントラル街のバーで飲んでくる」
「ボクお酒飲めないんですけど?」
「そりゃ残念だな。 じゃあ、これにてフィギュアスケート鑑賞会は解散だ」
「なんかよくわかんないけど、ノリコ先生のことは頼むよ?」


「それは任せてください。 邪悪な計画を練り上げておきますので」


おれたちは部屋を飛び出した。




・・・。

 

外は肌を刺すように冷たい風が吹いていた。

 

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「浅井さん、車を出していただけると・・・」
「あ、ああ・・・」
「どうしました?」


ふらついて、手近な電柱にもたれかかった。


「カゼでもひいたんだと思う・・・」
「だいじょうぶですか? 最近、よく体を壊されるような気が・・・?」
「平気だ・・・」


おれは携帯を取り出した。


「どちらに電話を・・・?」
「権三だ。 人を増やしてもらう。  犯人を逃がさないようにしなくちゃな・・・」
「わかりました。 運転は控えたほうがよさそうですね。
少し休んでください。 自分はタクシーでも拾って行きますんで」
「ああ、すまん・・・あとから追いかける。 場所を教えてくれ」

 

・・・。

 

・・・・・・。



ずきずきと頭が痛んだ。

 

「では・・・」
「ああ・・・」


宇佐美は寒さをものともせずに走り去っていった。

 

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「・・・・・・」


宇佐美もなかなかがんばっているな・・・。

さて、と・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

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「もう、そのバーには近づかないほうがいいでしょう」


"魔王"が電話越しに言った。

"悪魔"は寒風に肩を狭くしながら、セントラル街を逃げるように歩いていた。


「それにしても、浅井花音と暴力団がつながっているというのは本当だったんだな」
「ええ、彼らは影ながらスケート会場の警備をしていたというわけです」
「連中をまくのは簡単だった。 しかし、わからないのはなぜ私だと気づいたんだ」
「ふむ・・・」


"魔王"が考えるように一息置いた。


「可能性の一つとして、知らず知らずのうちに人の目を引くような行動を犯してしまったとか。
たとえば、演技中に席を立ってしまったり・・・」
「ちょっと待て、演技中に席を立つだって?」


"悪魔"は目の前の歩道の段差につまづきそうになった。


「マナー違反なのか?」


"魔王"は不意に口を閉ざした。

その反応に、悟った。


「すまなかった。 そういえば後ろの席の女に悪態をつかれたような気がする」
「あなたも急いでいたのでしょう。 気が回らなかった私の不注意です」
「いいや、お前はきちんと指示してくれていた。
紙袋を置く瞬間を誰にも覚えられてはならないと。
滑走前の選手の練習中、観客が休憩しているときを狙えと。
そもそもあの殺人の指示書は、"魔王"が置いたものだと誤認させなくてはならなかったのだからな」


うかつさに頭を抱えたくなった。

ささいなミスから、革命の第一歩が失敗に終わった。

"魔王"も落胆したことだろう。


「どうも、申し訳なかった」


"魔王"がそれを口にしたので、言葉に詰まった。


「あなたを危険な目に合わせてしまった」


胸が詰まった。

熱いものがこみ上げてくる。

誰かに頭を下げられるなんてここ数年記憶にない・・・。

"悪魔"は電話の向こうの寛大な心を持った男に言った。


「"魔王"、次の指示をくれ・・・」


声には忠誠に近い響きがあった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


約一時間後、おれは宇佐美のあとを追ってようやくバーにたどり着いた。

薄暗い店内には客はなく、宇佐美とすでに到着していたヤクザ連中が店主に聞き込みをしていた。

 

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「わかりました・・・では、見かけたら連絡してください」


ヤクザ者に怯えきっていた店主は、宇佐美も仲間だと思ったのか、素直にうなずいていた。


「どうだった?」


宇佐美に尋ねる。



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「・・・残念です、もう一歩のところだったのですが。
逃げられました。 不意に電話がかかってきたと思ったら、店を出て行ったそうです。
わたしが着くちょっと前のことです」
「名前は? バーのマスターなら名刺くらい渡してるかも」
「それが、無愛想なお客さんらしくて、自分は革命家だと名乗ったっきりで、いつも一人で飲んでるんだそうです」
「革命家・・・?」


思いあたって言った。

そういえば、"魔王"の脅迫状には、なんらかの思想を匂わすような箇所があったな。


「まあ、相手の人相まで割れたんだ。 あとは時間の問題だろう」


この街で、浅井権三の組織の目から逃れて暮らせるわけがない。

借金に追われるおれと母さんはすぐに見つかった・・・。


「今日のところはこれまで、ですかね・・・」


納得がいかないようだった。


「共犯者を見つけたところで、"魔王"にたどり着けるのでしょうか」
「もっともだが、いまはそれしか打つ手がないじゃないか」
「それです」


ぴしりと言った。


「どこかで打開しなくては・・・。
いつまでも"魔王"の敷いたレールに乗っていたら、我々は地獄行きです」


あくまで真剣な宇佐美に、つい聞いた。


「"魔王"は、そこまで恐ろしい男だと?」
「脅迫状の文面に騙されてはいけません。 先日、身代金を奪われたことを忘れましたか?」
「あれは・・・こう言っちゃあなんだが・・・。
相手がおれたちのような一般人だから通じた手口じゃないか?」
「警察相手には通じないと?」
「今回だって、"魔王"は警察との対決を避けているわけだし」


宇佐美は目を閉じて首を振った。


「マジシャンは別にマジシャンを相手に商売しているわけではありません。
"魔王"は観客の程度というものを心得ています。 つまり、我々は遊ばれているということです」


・・・まあ、そうとも言えるな。


「それが証拠に、"魔王"は物証には細心の注意を払っています」
「これまでの物証といえば・・・"魔王"からお前が受け取ったという携帯電話と、今回の脅迫状か・・・?」


たったの二つ・・・?


「たしかに、あの使い捨ての携帯電話からはアシがつかなそうだが・・・」
「脅迫状もそうです」
「わざとだというのか?」
「すべて、万一脅迫状が警察の専門家の手に渡った場合を想定してのことです」
「筆跡鑑定とかいうヤツか?」
「それだけではなく、言語心理学の専門家が文章から犯人の特徴を分析します。
出身や国籍、性格やIQなんかも割り出せるんだそうです」
「・・・あえて、つまらない人間を装っていたと?」

 

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「なにが、ゲーテつながりですか。 なにが、鼻紙に使わせてもらった、ですか。
某世紀末アニメの第一話に出てくるモヒカンですら、こんなもん鼻紙にもなりゃしねえと言いますよね?」


言いますよね、とか聞かれてもそんなマニアックなセリフ知らねえし・・・。


「なら、なんで手書きなんだ。
警察が脅迫状を分析する可能性を考慮しているなら、最初からパソコンで書けばいいじゃないか?」
「だからこそ、わたしは、まず罠だと思いました。
そして、この文章には必ず仕掛けがあるのだろうと。
手書きでしかありえない細工がほどこしてあるのだろうと」


認めざるを得ないものがあった。


「実際、その通りで・・・文字の痕跡をあぶりだしたわけだな・・・」


そして、危うく人が死ぬところだったわけか。


「"魔王"はいずれ警察と戦うつもりなのでしょう。 そうとしか思えないほど慎重です」
「なら、今が、"魔王"を捕まえる絶好のチャンスだな」


宇佐美もおおきくうなずいた。


「なんのつもりかわかりませんが、"魔王"はわたしのような取るに足らない人間と遊んでくれています。
その慢心につけこむ余地があればいいのですが・・・」
「いや、今回はお前だけじゃなくて、権三もいるぞ」
「はい。 もう一度言いますが、"魔王"は観客の程度に合わせたマジックを用いてくるでしょう」
「それは、つまり・・・?」


宇佐美は息を呑んで、鋭い目つきになった。

 

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「椿姫のときより、大きな被害が出るということです」


・・・・・・。

 

・・・。

 



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「花音、昨日はおめでとう」
「うむっ」
「余裕でファイナル進出が決まったわけですが、勝利のご感想は?」
「んー、正直、フリーがいまいちでした」
「あ、そうなんだ。 やっぱりプログラムが悪かったのか?」
「はてー」


首をひねった。


「みんなはそう言うね」
「お前はそうじゃないと?」
「とにかくのんちゃんは、完璧だったよ。 のんちゃんは悪くないです」
「まあ、いまから曲を変えるわけにはいかないんだろ? だったらやるしかねえな」


おれに言われずとも、そんなことはわかりきってるんだろうが・・・。


「じゃあ、練習いってきまーす!」
「んじゃ、おれも学園行くかねえ・・・」


大会を連続で控えている花音は、年が明けるまではほとんど登校しないようだ。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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「ハヨザイマース」
「おう、てっきり今日も休みかと」
「この前さりげなくさぼってしまったんで。 本当なら例の共犯者の行方を追いたいんですが・・・」
「いま、権三が血眼になって探してるよ。
組が面倒見てるクラブや金貸しのケツ叩いてる。
クラブはホステス通して顧客に、金貸しは債務者に写真ばらまいて・・・あれじゃ、犯人は家から一歩も出られねえよ」
「・・・朗報を待ちましょう」


席につくと、宇佐美は考え込むように手の甲で机に頬杖をついた。

 

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「おい、京介ー」
「おう、栄一。 昨日はサンクス」
「んなことより、ちゃんと約束は果たせよ?」
「えっと?」
「あー、コロス」
「ああ、ノリコ先生を陥落する計画ね」


・・・無理だと思うんだがなー。


「んー、あの人、好きな人がいるらしいぜ」
「んなことは知ってんだよ」
「じゃあ、無理じゃん」
「オメーよー、だったら相手の野郎をコロス策を練るのがオメーの仕事だろうが」
「たとえ相手の男を殺したとしても、お前が選ばれるとは思えんのだよ」

 

 

・・・。



 

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「ねえ、ちょっと宇佐美さん聞いてよー」
「はい、聞いてますよ。
教室に来る前に職員室によってノリコ先生とお話してきました。
いまつきあって一ヶ月目だそうです。 よって無理です」


「無理だな、いまが一番楽しい時期じゃねえか」


「なんだよてめえら・・・」


栄一の顔が激しく歪んだ。



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「利用するだけ利用してポイかよ。 そんな程度だったのかよ、チクショー」
「落ち着いてください栄一さん。 此度の件、誠に申し訳なく思っております」
「そうだよ、邪悪な策を用意しておくって言ったのにぃっ!」
「ですから、代替案を用意しました」


「ん?」


「わたしの友人を紹介しましょう」
「は? なにそれ?」
「栄一さんは年上の女性がお好きですね?」
「まあね」
「ノリコ先生もそうですが、ロングがお好きですね?」
「黒髪ロングがベストだね」
「当然、身長が高い方がいいわけですね?」
「頭もよくなきゃダメだよ。 ボクとつりあうくらい」
「なるほどなるほど」
「あと世話好きじゃないとダメ。 ボクの話を聞いてくれる人じゃないと」
「めちゃめちゃ聞き上手ですよ」
「ホント?」


もう、浮いた顔になっていた。


「近々ご紹介します。 それでどうかご勘弁を」
「まあ、モノによるねえ。 キミを許すかどうかは」
「わかりました。 ではそのうちに・・・」
「(よっしゃー、なんか期待できそうだぜー)」


すっかり機嫌を取り戻した栄一は、スキップで去っていった。

 

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「おい宇佐美、お前の友達って、まさかあの時田とかいうモデルみたいな女じゃ?」
「はい。 それが精一杯でした」
「たしかに美人だし、栄一も喜ぶんじゃねえかな」
「・・・だと、いいんですがねえ・・・」


なにやらひっかかるものがあるようだった。


「ちゃんと電話したのか?」
「いえ・・・しなきゃなーとは思ってるんですがね」


どうやら本当に苦手らしいな。


・・・・・・。

 

・・・。

 


「あー、ミキちゃん、おひさし、うんうん元気してる。 最近忙しくってさー」


昼休み、おれは電話に忙しかった。

近頃どうにもトラブルが多い。

いまも、あるクラブのワインの仕入れ先をどこにするかで揉めていた。

浅井興行のテリトリーを犯してくる連中がいる。

少し、権三に聞いてみないとな。

 

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「みんなでスケート観てたんだけどね、広明もはしゃいでたなー」


相変わらず椿姫は明るい。


「いや、まったく。 あのぶんじゃ、世界は確実だな」
「だからお前は観てねえだろうが」
「これでも栄一さんからDVD借りて観たんですよ、昨夜」


・・・本当かねえ。


「あー、椿姫。 大事なこと忘れてたんだが、あの携帯、まだお前が持ってるよな?」
「携帯って・・・ああ、うん」


"魔王"から届いた携帯電話だ。


「明日にでも返してくれ」
「またなにかあったの?」


不意に、椿姫の表情が曇る。

 

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「なにもないでもないでもない」
「え? どっち?」


「宇佐美をまともに相手にすると疲れるぞ」


椿姫はおれと宇佐美を交互に見た。


「なにかできることあったら言ってね」


感づくものがあるのに、あえて黙っているような態度だった。


「ああ、広明くんのことだけど、来年から小学校・・・」


てきとうに他愛のない話をして、午後を乗り切った。


・・・・・・。

 

・・・。

 


学園が終わると、すぐさま権三とアポを取った。


・・・・・・。

 

 

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「どうも、お疲れ様です」


門番らしき黒服に声をかけ、家の敷居をまたいだ。

庭にも一人、がたいのいい男が彫像みたいに固まって警備していた。


・・・・・・。

 

礼をして畳に座ると、権三が言った。

 

 

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「新鋭会だな」
「・・・新鋭会・・・彼らが、幅をきかせてきていると?」


新鋭会は総和連合のなかでも屈指の武闘派集団だ。

詐欺、恐喝にも手を付けず、麻薬も御法度。

頭が固いのかわからないが、妙に筋だの仁義だのとうるさい連中なのだ。

人数も少ないが、それだけ組織の結束は固い。

当然、富を築くためならなんでもありの権三の組と同じ船に乗れるはずがなかった。


「年末に、連合の老人どもを交えた集まりがある。 それに向けていきりたっているのだろう」


老人ども・・・すなわち、総本山の頂きに君臨する方々だ。

浅井権三には、本当に怖いものなんてないようだな。


「損害はでているのか?」
「いまのところは平気ですが・・・昨日、セントラル街の飲み屋で乱闘がありまして・・・。
まだ、新鋭会の方々とはっきりしたわけでもないんですが・・・」


言いながらおれは恐怖していた。

権三の顔から表情が消えていったからだ。


「よし、潰す」


ある組が仕切っている店で、他の組の者が迷惑をかけた。

本当ならいまごろ組の幹部あたりが指を持って頭を下げにきてなくてはならない。


「差し出がましいとは思いますが、先ほど情報屋から妙な噂を聞きました」
「・・・・・・」
「どうにもロシアのほうの筋から、総和連合のどこかの組織に大量の武器が流れているとか・・・」


けれど、権三は、目でおれを黙らせた。


「ヤツらは百匹にも満たない。 こちらは一千を越える。
たとえ獲物が短機関銃を乱射しても俺は言う。 まだまだ死ね、屍が盾になると」


黙ってうなずくしかなかった。


「お前は"魔王"を探せ。 人もいままでどおり割く」
「了解しました」


もう話すことはなかった。

 

・・・・・・。

 

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権三の前を離れてようやく人心地がついたころ、携帯が鳴った。

相手は、母さんだった。


「ああ・・・うん、どうしたの?
え? 具合が・・・? 困ったね・・・うん、そのうちそっちに行くから・・・大事にしてよ・・・」


通話は長く続いた。

 

・・・なんてことだ。

 

今すぐにでも、母さんのもとに行きたい。

しかし、権三になんと言ったものやら・・・。

権三は"魔王"を探せと言ったのだ。

母親が容態を悪くしたからといって、それがなんだというのか。


くそ、権三め・・・。


おれは自分の小ささに苦痛を覚えながら、帰宅の途についた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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早めに帰ってきた花音と夕食をともにした。



「どしたの、ぼんやりして」
「・・・・・・」


母親のことを考えていた。

おれはよほど重い表情をしていたようだ。

花音は、そんなおれに気づいたのか、踏み込んでは来なかった。

 

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「まあいいや、あのね兄さん、聞いて」


それは、気づかいではなく、厄介ごとに首を突っ込まない花音流の処世術なのだろう。


「のんちゃん、明日オフなのです」
「休みなのか?」
「だから、守って」
「守る?」


花音は、困ったように口をへの字にしてみせた。


「いっぱい来るの。 テレビの人、雑誌の人、企業の人。
なんでのんちゃんの休みとか知ってるのかなー」
「ちゃんと対応してやれよ」
「いまの時期はさすがにお断りしてるんだよ。 でも来るの。
忙しいところすみません、みたいな。 仕事のことじゃなくて個人的にファンなんで、みたいな」


・・・そうやってご機嫌をうかがって、後々仕事につなげるんだろうな。


「つまり、遊んでくれってことか?」
「兄さんと遊ぶの一年ぶりくらいだよ」
「そんなに遊んでなかったか・・・でもなあ・・・」


まあ、学園はさぼってやってもいいが・・・。


「いっしょにいるぶんにはいいぞ。 派手に遊んだりするのはナシだ」
「千葉の遊園地はダメですか?」
「あんなところに行ったら、どんだけ写メ撮られるかわからんぞ?」
「じゃー、どーするの?」
「なにがしてえんだ?」
「わかんない」
「わかんないってなんだよ。 練習ばっかりで溜まってるんだろ?」
「溜まる? なにが溜まるの?」
「いや、ストレスみたいな・・・遊びたい、みたいな」
「へー」


へー、て。


「まあ、ここでゴロゴロしてろよ。 映画見たり」
「映画ね。 うん、なに見る?」
「どういうのが好きなんだ?」
「んー、わかんない」
「意外にラブストーリー路線とかいいんじゃねえの?」
「ヤダ」
「なんでまた」
「だって、別に大波乱がなくても好きになるもの。
思い出の約束とかしなくても好きになるもの。 のんちゃんは、ちょっと優しくしてもらえば十分好きになるよ」


なんのことを言ってるのかよくわからなかった。


「・・・んー、じゃあ、泣ける感じのヤツとかどうよ。
なんだったかなー、親子のヤツ・・・母親がすっごいいい人でさー、でも娘がすっごいわがままで・・・」
「ほーほー、じゃあそれ。 借りてきて」


すっごいわがままだな、こいつ・・・。

 

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「じゃあ、寝るー」


ベッドにダイブして、そのまま動かなくなった。


「おい、服着替えろよ」


しかし、返事はなかった。

おれも今日は早めに休むとするか。

ここのところ、妙なカゼをこじらせてて、たまに頭痛が襲ってくるからな。

 

・・・。


・・・・・・。

 


暗い部屋で、おれは、一人、写真を見つめている。


「宇佐美、ハル・・・」


その名を呼んでみると・・・こめかみが鈍く痛む。


宇佐美・・・宇佐美、ハルか・・・。


その名を、おれは知っていた。


もし、同姓同名でなければ・・・。


宇佐美の父こそが、おれを、家族を破滅させた張本人だ。

 

 

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おれには、父さんと母さんの他にも、血を分けた家族が二人いる。


いや、いた。


一人は生後まもなく心臓の病で死に、もう一人は留学中にテロ被害にあって死んだ。


父さんは、いまや暗い牢獄のなかで刑の執行を待つ身。


母さんは、遠い北海道の地で心の病をわずらっている。


そしておれは、鮫島の姓を捨て、浅井と名乗り、身辺を一新させたつもりになっている。


幸せとは、いったいなんなのだろうか。


この世には悪魔しかいない。


ならばおれが、"悪魔"の王となり・・・。


「・・・・・・」


いや、馬鹿な考えはやめよう。


宇佐美もなにも言ってこない以上、忘れたいのだろう。


おれが浅井となって過去を捨てた気になっているように、宇佐美も心に期するものがあるのだろう。


話すべきときがくれば、話すか・・・。


珍しくセンチメンタルに、妙なことを考えたせいだろう。


その晩、夢に、遠く離れて暮らす母さんが出てきた。


・・・とても、申し訳なかった。




・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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おれの人生に転機が訪れたのはいつのことだったか。


北海道の寒村。

壁が薄く、窓が二重ではない家。

吹雪が猛然と屋根を叩きつけていた。

母の指先は、薄皮を押し上げるように骨が隆起し、なにより冷え切っていた。

その夜はいつものように身を寄せ合って、寒さと暗闇に耐えていた。


「母さん、逃げよう?」


獣のような男に乱暴された母は、しかしゆっくりと首を振った。


「あんまり引越しが続くと、お友達もできないでしょう?」
「友達なんてどこでもたくさん作れるよ」
「無理しないの」
「母さんこそ、無理しないでよ」


げっそりとこけた頬にそっと手を添えた。

不意に冷たい風が室内に飛び込んできた。

はっとして布団から身を出すと、戸口に熊のような大男が立っていた。

カンヌだった。


「京介、だいじょうぶか?」


あろうことか、おれの体を心配しだした。

日中に意識が飛ぶほど痛めつけてくれた人間の口から出る言葉ではなかった。


「すまんかったなあ、酒飲んでたもんで、ついな」


カンヌは床にどっかりと腰を下ろし、持ち込んできた酒をあおり始めた。

我が物顔でおれと母さんの唯一の居場所に入り込んでくるカンヌに、おれは恐怖を覚えた。

殴られた背中や腰が、ずきずきと熱をもってうずき始めた。


「こわいか、京介? 明日になったら病院に連れてってやるべ」


母さんが、口を開いた。


「出てってください」
「すまんかったって。 このとおりだべ」
「京介が、怖がっています」


怖いのは、母さんもいっしょだった。


「なあ、仲良くするべ。 俺は京介の新しいお父さんになりたいんだわ」


その言葉をおれは生涯忘れることはないだろう。

カンヌはいま思えば、典型的な酒乱だった。

酒に呑まれ、暴力を振るまう。

酒が引けば、媚を振るまう。


「少しでも反省なさっているなら、京介に温かい飲み物でも買って与えてもらえませんか?」
「いまは吹雪だ。 どこの店もしまってる」


たしかに雪の勢いはすさまじいものがあった。

しかし、家のすぐ脇にある自動販売機は雪に埋もれてはいなかった。

カンヌが一升瓶をラッパ飲みする。


「あったまるぞ、京介」


酒の口をおれに差し向けてきた。

口臭とアルコールの匂いにめまいがした。


「やめてください・・・!」
「いいじゃないか、親子で酒を酌み交わそうってんだ」


間に入った母さんの手を振り払うと、カンヌは濁った目でおれを見据えた。


「飲め。 遠慮すんな」


おれは強張った唇を、必死に閉ざした。

肌があわ立つ。

目の前に突き出された酒瓶の口には、カンヌの唾液がびっしりとこびりついて艶だっていた。


「飲まんと母さんが困るぞ。 俺たちは家族だべ。
大黒柱の父親に見捨てられたら、お前ら生きていかれんべ?」


母さんの悲鳴が上がった。

おれをかばい、おぞましい大男を遠ざけようとしている。


「わかった! わかったから!」


とっさに酒瓶に腕を伸ばした。

けれど、酒のたっぷりとつまった瓶は異様に重く、慌てて手が滑った。

鈍い音がしたときには、瓶が床に横になっていた。

古ぼけた畳に染みていく液体を目で追っていると、耳元で声がした。


「お父さんの酒だべ・・・」


身構えようとしたが、すでに胸倉を締め上げられていた。


「なんま腹立つわ、京介。 父さんがせっかく仲良くしようと思ったのに・・・!」


苦痛と、恐怖と、それ以上の怒りに耐えかねるものがあった。


「ふざけんな! お前なんか父さんじゃない!」


直後、体が浮いた。

顔面に痛みが走って、目の裏で火花が散った。

母さんの絶叫が耳を突く。

床にうつぶせになる格好で、頭を押さえつけられていた。


「なめろ! 酒をなめろ! 父さんのクリスマスプレゼントだべ!」


クリスマス。

それはたしか、家族が愛を確かめ合う、温かい一日だったような気がした。

そういえば、その日はクリスマスだった。

神様はどこにいるのか・・・顔面を酒に浸った畳に突っ伏しながら、そんなことを考えていた。

悲鳴と怒鳴り声が交錯した。

壁が軋んだのは、外の吹雪のせいではない。

顔を殴られた母さんが窓に叩きつけられたのだ。

カンヌはそのまま母さんの髪をつかみ、唾を飛ばして汚い言葉を羅列していた。

何度か、暴力があった。

やがてすすり泣きが耳に届いた。

おれが泣いているのか、母さんが泣いているのか、とにかくもう見てられなかった。


「・・・ごめん、なさい・・・」
「ああっ!?」
「ごめんなさい・・・」


しぼり出すように言った。


「ごめんなさい、お父さん、だろ!?」


心がひどく冷えた。

急速に感情が消えていった。

窓の外の雪が目につく。

ただ無情に降り積もるだけの存在に、心を通わせた。

悔しさも、情けなさも、すぐに覆われていく。


「ごめんなさい、お父さん・・・」


それはおれにとって、新しい身の振り方を覚えた瞬間だった。

心が凍り、なにも感じない。

最後に一度だけ、無感動に願ってみた。


神様どうか助けてください。


言うだけ言ってみたような投げやりな祈りは、しかし聞き届けられた。


戸口が勢いよく叩きつけられていた。

猛吹雪の夜に訪れた客は、ドアを蹴破るように現れた。

 

「邪魔するぞ」

 

堂々と土足で踏み込んだ。

豪雪をものともしない姿が、まるで雪山に住まう猛獣のように見えた。

あとから数人の男がずかずかと部屋に上がりこんできた。

彼らは、コートも羽織っておらず、漆黒のスーツを雪にまみれさせていた。


「逃げられると思ったか?」


冷たい眼で、母さんを見下ろした。

彼らは借金取りなのだと、幼心に理解した。


「な、なんだ、てめえらはっ!?」


カンヌの目が大きく見開かれていた。


「てめえこそなんだ! 若頭(かしら)に向かってなに上等な口きいてんだ、ああっ!?」


突如、一人の黒服がどすのきいた声で叫んだ。


「こちらのお方はなあ・・・」
「おい」


ボスらしき巨漢が一瞥すると、取り巻きは軽く会釈して口をふさいだ。


「あ、あんたら、ヤクザもんか・・・?」


突如現れた男とカンヌとでは、そう体格は変わらなかった。

しかし、滲み出る雰囲気で、ひと目に役者が違うとわかった。


「てめえは、この親子のなんだ?」
「・・・俺は、その・・・なんでもない、他人だ・・・」


さきほどまで父親を気取っていた男が言った。


「払え」
「え?」
「こいつらが払えない分を、てめえが少しでも払え」
「ちょ、ちょっと待てよ! 俺は、関係ねえって・・・」


瞬間、カンヌの頭が跳ねた。

拳が顔面に埋まっていた。

苦痛のうめきが漏れるより早く、耳をつかんでひねりあげる。


「俺が誰だか知りたいか、そうか」


空いている手で横から名刺を取り出した。


「や、やめてくれ・・・!」


名刺の角を耳の穴に押し当てると、酷薄な笑みを浮かべた。

カンヌが白目を剥いた。


「よく、聞け」


穴に差しかかるにつれて細い筒状になった名刺が、ぐりぐりと耳奥に押し込まれていく。


ぎ、が、が、などと聞いたこともないような奇声が室内に響いた。


「あ、あなたは・・・?」


恐怖と高揚感に、つい、口をついた。

おれと母さんの前に山のようにそびえ立っていたカンヌを、一瞬にして沈黙させた。

天使は来なかったが、悪魔が助けてくれた。


「さらえ」


悪魔が、おれのことなど眼中にないといった様子で、下々の者に命令した。

即座に、取り巻きが詰め寄ってきて、引き立てられた。


「ま、待って、なんでもします、なんでもしますから・・・!」


ガキの哀願がうるさかったのか、一発殴られたが、不思議と痛みは感じなかった。


「教えてください・・・!」


その強さを。


「どうか、おれも、仲間に入れてください・・・!」


学校には友達が一人もいなかったことが、ふと頭をよぎった。

この人についていけば、もう誰からも蔑まされることもないのではないか。

母親を守れるだけの力を身につけられるのではないか。

恐怖よりも、期待が上回っていた。

我を忘れていたのは間違いない。

張り倒され、足蹴にされても苦痛を感じなかった。

きっと、おれは神を崇めるような目をしていたことだろう。


やがて、悪魔が言った。


「金を返せるか?」
「お金?」
「大金だ」
「払います」
「嘘つきだな、貴様は」
「え?」
「借金がいくらなのかも知らんくせに、よく言う」
「すみません」
「嘘をついてもかまわんが、嘘が発覚したときは許さんぞ?」
「・・・はい」
「俺の群れに加わりたいだと?」
「お願いします!」
「なら、母親をおいて、俺と来い」
「母さんを、置いて・・・?」


できるわけがなかった。


「その女はしばらく札幌にでも送る。 どの道お前らはいっしょには暮らせない」


有無を言わさぬ物言いに、しばらく逡巡した。


「お前もどうせ、どこかの施設に預けられる」


このときのおれにとって、悪魔の言葉は絶対だった。

彼がそう言うのなら、間違いなくそういう運命にあるのだと信じた。


「母さん・・・」


目が合った。

いまにして思えば、すべてをあきらめて受け入れたような、疲れた目をしていた。


「母さん・・・」


か細い首が、否定の意を込めて、静かに揺れているだけだった。

絶え間なく続いた悲劇に、もう限界だったのだろう。

おれも、もう、あとには引けなかった。


「連れて行ってください、お願いします」


すると、分厚い唇から低い笑いが漏れた。


「母親を捨てたか」


・・・捨てたわけじゃない。


「お前は、ものになりそうだ」


断じて、捨てたわけではない。


決意を胸に、浅井権三のあとに続いた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


必ず迎えに行くよ――。







母さんとの別れの言葉は、守られなかった。

 

権三に従って長い年月が過ぎた。

ようやく母さんといっしょに住めるくらいの経済力を身につけたおれは、さっそくその旨を打診した。

しかし、心の病を患った母さんを、こちらに呼び寄せることはできなかった。

担当の医師の話によれば、これまで何度も転居を強いられた母さんが、再び土地を動くことを拒んでいるらしい。

週に一度か二度電話をして、長期休暇に会いに行く程度のつきあいになった。

それが、おれのたった一人の家族だった。

いや、浅井権三という父ができた。

権三が、なぜわざわざおれを養子にしたのかは、疑問が残っている。

身寄りのないかわいそうな少年を拾うことで、当時、組の若頭の地位にいた権三が、組長に対して男気を見せたとも噂されている。

仁義や男気というものを軽んじている権三がヤクザの世界で出世するのに、おれは体よく利用されたのだろうか。

なんにせよ、おれと母さんは離れて暮らしている。

そしておれは、浅井権三という巨魁を前にして、いつも震えている。

権三さえ許せば、すぐにでも母さんの近くに暮らすのに・・・。


権三さえ・・・。

 

 

・・・。