・・・。
一時間と経たずして、園山組の若い衆が学園に集まってきた。
「いやあ、坊っちゃんも、自分らをこきつかってくれますねえ」
「本当に申し訳ありません」
「いやいや、坊っちゃんのためならたとえ火の中、水の中」
権三には連絡がつかなかった。
仕方なく堀部に電話したのだが・・・あとが怖いな・・・。
「あ、たったいま、囲みがおわったようですよ。
自分らも借金の追い込みで家を囲んだりしますけど、学園ってのは初めてですわ」
また、悪魔みたいに口の裂けた笑みを浮かべていた。
これで、蟻一匹、学園の外には出られないだろう。
「で、あれなんですよね。 例によって桜田組(警察)にはわからんようにしたいと?」
「はい。 極力、目立たないようにお願いしたいのですが?」
「わかりやしたよ。
誰か通りかかったら、ちょっと黙っててもらうことにしますわ。 そういうのは得意でしてね」
通行人がいたとしても、ヤクザ者には関わりたくないと思うだろう。
「なにかとありがとうございます」
「いいんすよ、借りはお金で返してもらえればね」
高くつきそうだな。
彼らは、学園で立て籠もり事件が起こったとしても、なんら正義感の動くところはないのだろう。
「んじゃ、あとは好きに使ってください。 手前は、仕事がありますんで」
嫌な笑みを残し、堀部はベンツに乗って去っていった。
・・・。
「お、おいおい、京介、これどういうこと?」
「パパの知り合いの・・・悪い人たちだよ」
「ちょっとお前を見直したわ」
「見直す意味がわからんが、このことは黙ってろよ」
「わかってるよ、東京湾に沈められたくないし」
橋本からの電話はまだないようだ。
「ただいま戻りました」
宇佐美は、一度学園を離れていた。
「おう、道具を取りに帰るとか言ってたが、なにを持ってきたんだ?」
「先日、アキバの電気屋で手に入れたんですけど・・・」
言いながら、小型のラジオのようなものを見せつけてきた。
「これは、携帯電話に取りつけることで、ハンズフリーで双方向会話ができるというシロモノです」
「ああ、会議なんかで同時会話するためのものだな」
「それを、私の携帯につけようっていうの?」
時田がやや不満そうに言った。
「わたしも、犯人の声を聞きたくて」
「・・・なるほどね」
「もちろん、交渉はユキに任せる。 わたしはなにもしゃべらないから」
「そう・・・」
時田は納得がいかないようだった。
「ユキは昔、言ってたじゃないか。 交渉ごとはチームで行うのが普通だって」
「ニューヨーク市警なんかではそうね」
「必要なのは、交渉役と、補佐役と、記録係と、あとなんだっけ?」
「指揮官と、雑用係よ。
でも、補佐・指南役は大きな分署でも派遣してもらえないことがあるわ」
「だったら、ここに、ちょうど四人いるじゃないか?」
時田は、考えをまとめるように指で眉間を揉んだ。
「気が散るかな、と思ったのよ。 でも、わかったわ。 みんなで取り組みましょう」
「それぞれ、どういった役割なんだ?」
「そのままよ。
交渉役は実際の交渉に当たる。 記録係は状況の記録を残す。 指揮官は決定を下す。
重要なのは、それぞれ他の仕事に首を突っ込まないってことね」
「交渉役は決定を下さず、指揮官は交渉を行わないってことか?」
「そうやって、客観性を持たせるの。
たとえば交渉が進んでいくうちに、交渉役が犯人に感情移入しすぎて、つい相手に有利な条件を呑んでしまうことがあるの」
「決定権が別にあれば、そういったミスは犯さないってか?」
「さらに指揮官と交渉役を分ければ、戦術が一つ増えるのよ。
この前もそう。 西条っていう人と仲良くなるために、私はあなたを悪者にしたのよ」
いまさらだが、納得がいった。
「『私は西条を助けたいのだが、京介という悪役が首を縦に振らない。 さあ、困ったな西条さん、どうしようか』・・・って感じか?」
「勝手に利用してごめんなさいね」
「まあ、わかった。 なら、どう振り分けたものか・・・」
おれは一同の顔を見回した。
・・・時田が交渉役なのは当然として・・・。
「おれが指揮役を預かったほうがよさそうだな」
「ええ。 あなたは冷静だわ。 いつも利害で動いているような人だもの」
・・・わかったような口を利くが、実際その通りだ。
「具体的には、たとえば犯人がタバコを要求してきたとしましょうか」
「うん」
「そういうとき、私は必ず、あなたに一度確認を取るわ。
あなたは自分の判断で私に決定を下して」
「おれがタバコなんてやるなと言ったら、お前が反抗してくることもあるわけだな?」
「そうね。 お互いケンカにならないようにしたいものね」
役割分担の性質上、そういう摩擦は必ず生じるだろうな。
「となると、宇佐美は、記録役だな」
「仰せつかりました」
「できればメモを用意して。
私と犯人の会話の流れを記録に残しておいて欲しいの。
文章を読めば、いくらか冷静に状況を把握することができるわ」
「わかってたけど、ボクって雑用なのね?」
「オチみたいになってるけど、重要な役割よ?」
「え?」
「たとえば犯人が夜食に弁当を要求してきたら、あなたが買いに行くのよ?」
「うん、それはわかってるけど?」
「そのお弁当が温まってなかったら犯人の機嫌が損なわれると思わない?」
「わかりました!」
栄一の顔が引き締まった。
「じゃあ、準備をしよう」
時田の携帯に同時会話の機器を取りつける。
宇佐美は懐からメモ帳を取り出しペンを構えた。
「あとは・・・待つだけね」
そう、あとは、橋本からの入電を待つだけだった。
ややあって、時田の携帯がけたたましく鳴った。
・・・・・・。
・・・。
―――――
・・・。
・・・・・・。
時田ユキが犯罪交渉術に目覚めたのは、幼い子どものころだ。
ユキの母は過去において、それなりに著名なアーティストだった。
ボランティア団体や暴力団関係筋の要請で、たびたび刑務所の慰問に訪れていた。
幼いユキは、刑務所の外で母の帰りを待つうちに、高い塀の向こうに暮らすことを強要される人々に興味を覚えた。
母から刑務所内にいる囚人の様子を聞くと、ユキの心はなおさら高鳴った。
悪いことをしてはいけないと諭す大人が、悪いことをしているのだ。
犯罪者と呼ばれる人たちの心を知りたくなった。
なぜ、人が人を殺すのか、どうしてお金を盗もうとしたのか、なにがその人をそこまで追い詰めたのか。
ぜひとも犯罪者と話がしてみたい。
子供の無邪気だが遠慮のない興味は、母を大変に困らせた。
母に付き添って刑務所の門をくぐろうとしたことすらある。
反対されればされるほど、気になってしかたがなかった。
子供は入場を許されない闇がそこにあるのだから。
それでも、ユキは犯罪者と接触することができた。
慰問に訪れた母に宛てて、囚人から手紙が届くのだ。
中身を読ませてもらうよう母に拝み倒したが、良識ある母親は決して子供の目に触れさせなかった。
しかし、賢い少女は、手紙の中身こそ読めなかったが、囚人の姓名を記憶していた。
それは、やがて時がたち、便りを寄せた囚人が仮出所したとき、保護観察所を訪れるための口実となった。
――昔、母に手紙を出しましたよね?
念願かなって、ユキはついに元服役囚と対面することができた。
そのころには、母も亡くなっていて、ユキも福祉施設で暮らしていた。
施設には心を閉ざした少年少女が多いなか、ユキは活動的だった。
積極的に周囲に話しかけて人の心を知ろうとする。
それは、父に捨てられ、母も死んだ自分への慰みだったのかもしれない。
ユキと同じような境遇の子供たちを知ることで、自分自身を知ろうとしたのかもしれなかった。
前科を持つ人々と会うのに恐怖はなかった。
母から話をよく聞いていたし、なにより、孤独となったユキには、もう失うものなどなかった。
ひと月に一人か二人。
心優しい人がほとんどだった。
なにかの間違いで犯罪者となったとしか思えない。
娘のように扱ってくれたこともある。
ユキは規律の厳しい施設の監視の目をかいくぐって、過ちを犯した男たちとの対話を楽しんだ。
ユキはあとで知ったことだが、こういった少女の"お楽しみの時間"は、警察対テロ部隊における人質交渉班の訓練と同期するものがあった。
人質交渉班における犯人像の特定、すなわちプロファイリングは、科学的手法だけで達成されるものではない。
他人の心理を把握する公式は存在せず、マニュアルはヒントにしかならない。
「習うより慣れろ」
実際に、人質交渉班の人間は刑務所を直接訪問し、様々なタイプの犯罪者と面接を行う。
実地経験を通して感覚を磨くのだ。
経験則が鍛えられれば、実際に事件が起こったときにも犯人の心理状態のベースを把握することができた。
とはいえ少女のユキには心を開く犯罪者も、お上の命令を受けてやってきた警察官には嘘をつく場合もあるという。
こういった経験のなかで、ユキは知らず知らずのうちに目的と感情を持って犯行を起こす犯人像にいくつかのパターンがあることを学んでいた。
はたから見れば気味の悪い子供だった。
少女漫画に傾倒する友達の横で、犯罪心理学の本を読みふけった。
そうして、自らがすでに体感した犯罪者のパターンに、学者が作った言葉を当てはめていく。
そんな作業に没頭する少女は、いつしか大人びた、どこか達観したような人間へと成長していった。
いま、ユキは自分をこう分析する。
――父に母子ともども捨てられたくらいで、人を分析しなくては信用できなくなった、つまらない女・・・。
そんなつまらない女にも、譲れないもの、守りたいものはある。
ユキは、呼吸を整え、内面からネガティブな感情を追い払った。
犯人との交渉が始まる。
まず、交渉の目的を定める。
目的を持って人と話すのはなにより重要なことだった。
ユキは、犯人を無意味に刺激せぬよう、穏やかな声音を選んでしゃべりだした。
・・・・・・。
・・・。
―――――
・・・。
・・・・・・。
「また連絡してきてくれて、うれしいわ――」
「時田、なんの真似だ!?」
宇佐美が買ってきた端末機器から、橋本の声が響いた。
「警察に連絡するなと言っただろう!?」
「追い着いて欲しいわ、橋本くん」
「ああっ!?」
「警察じゃないわ。 よく見て、橋本くん。 パトカーのランプでも見える?」
橋本が息を詰まらせるのがわかった。
「じゃあ、なんだっていうんだ!?」
「彼らは京介くんのお友達よ」
「浅井の!?」
「そう、やけに柄が悪いでしょう。
警察とはある意味対極にいる人たちだから、まずは落ち着いて聞いて欲しいわ」
「てめえ・・・学園を囲みやがったな?」
「否定はしないわ」
「ふざけるなよ、このアマ。
どういう状況かわかってるんだろ。 おめえの腹違いの妹をぶっ殺されたいのか?」
歪みきった声。
橋本とは同じクラスでもたいして話をしたことはない。
おれと似たような年齢の男が、人質を取って立て籠もるなんていまだに実感が湧かない。
世間ではたまに増加する青少年の犯罪がどうのというが、それを目の当たりにしてなお、テレビの向こうの出来事のように思ってしまう。
いったいなにが、こうまで橋本を追い詰めたのか。
「親父が刑事だかなんだか知らねえが、あまり俺を怒らせるなよ。
ためしに、隣の部屋でびいびいうるせえ先公を窓から突き落としてやろうか?」
「そうね。 あなたにはいま、それだけの力があるわ。
ただ、橋本くん。 ノリコ先生を殺すのが、あなたの目的ではないと思うのだけれど?」
「それはそうだが、見せしめってのは大事だろう?」
時田は一瞬、目を伏せて、何事か考えるような間を取った。
「橋本くんをみくびっていたことは認めるわ」
「なに?」
「橋本くんは、せいぜい黒板に落書きするくらいのことしかできない人だと思ってたの」
「そうかよ、いまさら反省しても遅いぞ」
「まったくだわ。
まさか、夜中に学園に忍び込んで水羽とノリコ先生を人質にとって立て籠もるなんて、誰が想像できたかしら」
そう言うと、橋本の声に優越感の色が混じった。
「ふん、お前は心理学を勉強してたって? 笑えるな?」
「好きなだけ笑ってちょうだい。 実際、私も少しかじった程度の素人なのだから」
そして、ため息混じりに付け足した。
「あなたを学園でなじったことは謝るわ」
たしか、廊下で橋本を追い込んでいたっけ・・・。
「そうやってご機嫌を取ろうとしたって無駄だぞ」
「わかっているわ。
あなたはスポーツも得意だけれど、成績も優秀みたいだし。
そんな人が、計算もなしに無茶を犯すはずがないもの」
嘲るような笑いが返ってきた。
「いいだろう、時田。 のせられてやる。 俺の目的を知りたいんだろう?」
「教えてもらえると、すごくうれしいわ」
橋本は余裕そうに要求を言った。
「金だ」
「・・・お金?」
さすがに時田も眉をひそめた。
「250と5万、それに慰謝料の300万を足して白鳥理事長に払ってもらおうか」
「250、5万?」
「わかるだろう?
理事長が着服した金だよ。 5万はゴルフの優待券だったかな?」
・・・まさか、金とは・・・。
「差し出がましいかもしれないけれど、それがあなたの本当の望みなの?」
「おいおい、まだ俺をみくびってるみたいだな」
「・・・というと?」
「理事長は腐った野郎だよ。
俺の親父を警察に売って、てめえだけは助かろうとしやがった。
本来なら警察に出頭させたいところだ」
「てっきり、そういう要求かと思っていたわ」
「でも、俺の親父もそうだが、まず実刑なんてあり得ないんだよ。
警察に引き渡したところで、執行猶予だのとくだらねえことになる」
たしかに、橋本の言うとおりだ。
収賄事件なんかは、執行猶予がつくのをよく見る。
橋本が真に望むように、理事長が刑務所に入れられることはまずないだろう。
「なるほど、だから警察には関わって欲しくないのね?」
「俺にだって将来があるのさ」
「あなたはバスケットボールの名プレイヤーだものね」
「ノリコ先生には悪いことをしたと思っている。
本来は白鳥だけを人質にする計画だった」
「だったらなぜ?」
「白鳥を校門の前でさらって、学園のなかに入ったとき、偶然廊下で出くわしたものでな」
「学園に立て籠もったのはなぜ?」
「お前らが警察を頼るとも思ったからな。
その場合、当然、俺は終わりだが、学園の評判もがた落ちになると思わないか?」
・・・なるほど、立て籠もり事件があった学園なんかに、誰が進んで入学したがるものか。
最悪の場合、自分が破滅してでもこの学園に復讐するつもりのようだ。
「私たちが今日、学園に来ることはどうして知っていたの?」
「おとといだったか。 お前と浅井が教室でそんな話をしていたのを聞いたんだ。
寒空のなか、待たせてもらったよ」
時田は、わかったわ、とひと息ついた。
「肝心の水羽はもちろん無事なのよね?」
「無事じゃないと、さすがに取引にならないだろう」
そこで、なにやら、ごそごそとくぐもった音が響いた。
「姉さん・・・!」
白鳥の声。
「水羽、怪我はない?」
「うん、少し頭がずきずきするくらいで・・・」
「おしゃべりはその辺にしてもらおうか」
橋本が割って入ってきた。
「わかっただろう。 かわいい妹は無傷だ。
もっとも、これからのお前のがんばり次第だがな」
「私を指名してきたのは、水羽の姉だから?」
「そう。 必死になって理事長を説得してくれるんじゃないかと期待している」
「なるほど、なかなか考えたわね。
ひとまず、理事長をこの場に呼んだほうがいいのかしら?」
「いますぐにだ」
「すぐには無理よ、ここから南区の水羽の自宅までがんばっても一時間はかかるわ」
・・・一時間は言いすぎだと思うが・・・。
「娘の一大事だぞ? 車を飛ばして来させろ」
「気持ちはわたしも同じだけれど、きのう今日と、けっこうな雪が降ったでしょう?
だから、あっちこっちで通行止めになってるみたいなの」
「くそが・・・」
「でも、なるべく急いで来るようかけあってみるわ」
「三十分以内だ」
「難しいわ。 せめて四十分」
橋本の舌打ちが聞こえた。
「わかった。 少しでも遅れたら白鳥の顔に傷をつけてやる」
とんでもない脅しに、時田は顔色一つ変えなかった。
「ありがとう。 急ぐわ。 理事長が到着したら、また連絡すればいいのね?」
「ああ、番号を言う・・・」
橋本の携帯番号を、宇佐美がメモにすばやく書き取った。
「急げよ。 もう一度言うが、俺は本気だ」
通話が切れた。
・・・。
通話を終えた時田が、腕を組んでうなるように言った。
「ひとまず、要求を聞くことはできた、けど・・・」
「どうだ?」
「彼は肝もすわっているようだし、頭もキレるわ」
「そうか? おれは橋本はそれほど気が強そうなタイプには見えなかったが?」
「うん、学園でも、けっこう寡黙なほうだよ?」
「『あまり俺を怒らせるな』『俺は本気だ』とか、なんとも程度の低そうなことばかり言っていたぞ。 あまり度胸がありそうな男とは思えないが?」
時田はゆっくりと首を振った。
「犯人が本当に臆病な場合はね、たとえば銃弾のはいっていない拳銃を警察に向けたり、わざと警官に見えるように人質にナイフを突きつけたりするの」
「・・・ふむ」
「でも、彼はどう? 言葉こそ粗暴犯のように振る舞っているけれど、自分の将来、保身を考えて、実現可能な範囲の要求をつきつけてきたわ」
「そうか・・・たしかにな」
時田は、目を細めた。
「ここで講義をするつもりはないけれど、立て籠もり犯のタイプにはいくつかあるの。
そのなかで彼は、要求が明確で冷静なタイプ」
「そういうタイプにはどう対応していくのがいいんだ?」
「時間をかけて現実を直視した交渉を行うだけよ。
犯人側も冷静だから、交渉の過程でお互いに譲歩しあうことで、たいてい決着がつくわ」
「なんとも、抽象的だな・・・」
「マニュアルに書いてあることだからね。 でも、お互いの譲歩はすでにあったでしょう?」
「ああ、お前が理事長の到着を一時間と言って、ヤツは三十分と言ってきた」
「そこで、私が四十分と言ったところ、彼は受け入れたわ」
「なるほど、橋本がただのキレた野郎だったら、とにかく三十分で来いとか言いそうなものだからな」
不意に、栄一が手を上げた。
「えっと、とりあえず、理事長を呼んだほうがよくない?」
「・・・そうね、その前に栄一くん、初仕事よ」
「え?」
「コンビニで、携帯電話の即席充電器を買ってきて欲しいの」
「あ、うん、わかった」
途中で電話が切れたらシャレにならんからな。
「本来なら、携帯電話なんて使っちゃいけないんだけれどね」
栄一はすぐさま走り去った。
ノリコ先生のことが心配なのか、いつものふざけた感じがまったくなかった。
「それじゃ、水羽の自宅に電話するわ」
「来てもらえるだろうか?」
「だいじょうぶだと思うわ。 あの人は、私に引け目もあるし・・・」
時田の声に、少し影が落ちた。
「宇佐美、なにかあるか?」
「いえ・・・書き留めるのに精一杯でした」
宇佐美のノートを見る。
「って、てめえなに書いてんだ?」
アニメのキャラクターがそこにいた。
「ル○ンですけど?」
「おい!」
「三世ですよ、三世」
「何世とか問題じゃねえんだよ! てめえなにしてんだ!」
「すみません、危機的状況に陥ると、素数を数えながらル○ンを描きたくなるんです」
「・・・もうどっからツッコんでいいのかわからねえよ」
「というのは冗談で、いちおう橋本さんの似顔絵です」
あ・・・。
「まあ、たしかにちょっと似てるかもな」
「ええ、自分、速記ができるわけじゃないんで、これだけの会話を記録しようと思ったら、絵に頼った方が理解しやすいかなと」
「わかったよ。 回りくどいヤツだな・・・」
「で、記録係の意見ではないんですがね」
「うん?」
「ほら、理科準備室の窓、見てくださいよ」
おれは、言われた場所を見上げる。
「懐中電灯の明かりがちらちらしてますよね?」
「それがどうした?」
「いえ、ユキの見立てでは橋本さんは冷静だということですが?」
「・・・・・・」
「落ち着きなく、室内をうろついているようにも見えませんか?」
「そうだな・・・なにか向こうであったのか・・・」
さりげなく時田を見やると、すでに理事長との交渉の真っ最中だった。
「ええ、状況はおわかりでしょう?」
「し、しかし、信じられん」
「ですから、その目で直接お確かめください。
犯人の要求を呑むかどうかは、そのあとで決めても遅くはありません」
「こ、こんなことが、世間に知れたら・・・」
「落ち着いてください。 犯人も警察の介入は避けようとしています。
もっとも、あなたがここに来ていただけないことには、最悪の事態が待っていますが?」
時田の声には、いつも柔和な時田らしからぬものがあった。
理事長は、時田を母子ともども見捨てたというのだから、心中穏やかなものではないだろう。
おれだったら、娘の命がかかっているのだから、早く来いと怒鳴りつけているかもしれない。
「お願いします、お父さん・・・」
目を見張った。
時田が憎き父に頭を下げたのだ。
妹の命のため、自分のプライドを捨て去った。
「・・・わかった。 すぐにそっちに向かう」
押し殺すような声を最後に、不通音が鳴り響いた。
「ハル、あなたの言うことはもっともだわ」
すぐさま気を取り直したように言う。
「私も、犯人像の特定を急ぎすぎたのかもしれない。
もう一度、こちらから連絡してみるわ」
「ちょっと待て。 理事長が到着してから、電話をかけるという取り決めだったはずだぞ?」
「あの様子では、四十分以内に来るとは思えないわ。 時間を引き伸ばす必要もあるのよ」
「わかった・・・」
おれは渋々うなずいた。
「ただ、まあ、よく理事長を説得したな」
褒めたつもりだったが、時田はやるせなさそうに目線を落とした。
「本当は、犯人の要求する人間を連れてきてはいけないものなのよ。
犯人の本当の目的が、たとえば理事長を殺害することだったらどうするの?」
「・・・・・・」
「それでも理事長に来てもらうのはね、責任を取ってもらいたいからよ」
時田を責めることはできなかった。
「ごめんなさいね。 私だって人間だし、思うところはあるの」
・・・・・・。
間をおかずして、時田が橋本に電話をかけた。
「やけに早いな」
「いいニュースよ。 理事長がいまこちらに向かってる」
「それは良かった。 で、時間通り来れそうにはないから、もう少し待って欲しいのか?」
時田は声に出して笑った。
「あなたに嘘はつけそうにないわね」
「なめるなと言っているんだ」
「それは、十分承知しているわ。 ところで、橋本くんは、いま何をしているの?」
「何って? お前の妹ににらまれているよ」
「水羽は、理事長に似てとっても気が小さいの。
虚勢を張っているだけだから、許してあげてもらえないかしら?」
ふんと、橋本が鼻を鳴らした。
「そうだな。 親のやったことは子供には関係ないからな。
俺だってそうさ。 親父のせいで部活でも白い目で見られる。 理不尽な話だとは思わないか?」
「まったくだわ。
ただ、あなたは学園にとってなくてはならない存在でしょう?」
「おだてるなよ。
転入してきたばかりのお前は知らんだろうが、この学園はスポーツも盛んでな。
バスケだけじゃない、ほらあのアイスアリーナを見ろよ。
浅井花音みたいなのがなくてはならない存在っていうんだよ」
「でも、私はあなたもすごい選手だと聞いているわ。 ポジションはセンター?」
「当たり前だろう。 それがどうした?」
「私も背が高いでしょう?
バスケ部とバレー部からは、しつこく勧誘を受けていてね。 それで、ちょっと興味を持ったのよ」
「お前みたいに筋肉のない女には無理だ」
「そのとおりね。
ためしに前の学園でちょっと入部してみたの。
ピッペンっていう選手がモデルのバスケットシューズも買ったのに、一週間で履かなくなったわ」
「スコッティ・ピッペンか・・・ありゃ、いい選手だった」
「シカゴブルズの人だっけ?」
「昔の選手だがな。
巷じゃ、みんなジョーダンばっかり褒め称えてたけど、ピッペンがいたからブルズは強かったんだ」
「なにごともチームワークは大切よね」
そこで、橋本の高笑いが響いた。
「そうだな、いまのは一本取られたな」
「どうしたの?」
「チームワークだよ。
たしかに、俺もお前の協力なくしては目的を達成できない」
「さすがね。 だったら、お互いに歩み寄れるはずよ?」
「お前らが素直に要求を呑めば、すべて丸く収まる。
明日からは、また何事もなかったように学園が始まる」
「そう願っているわ。 あなたが怖い人たちにボコボコにされるところなんて見たくないもの」
「俺だって、妹を殺されて悲しみに暮れる時田を見たくはない」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
・・・時田の言うように、橋本はそれなりに頭がキレるな。
常に、時田の先を行くように会話を進めようとしている。
「で、我らが理事長はまだなのか?」
「残念なことにね」
「それは困ったな。
あまりもたもたしていると、近所の人のいいおばちゃんが、警察に通報するかもしれない。
そうなったら、悲しい結末になる」
「承知しているわ。 私だって、一刻も早く理事長には来てもらいたいと思ってる。
だから、そうね・・・」
含むような間を取って言った。
「なにか、欲しいものはある?」
「懐柔しようってんだな? まあいい、理事長をあっさり説き伏せた手腕は評価しよう」
「ありがとう。 それで、ハンバーガーでも食べる?」
「あいにく腹は空かせてない。
ドラマなんかで立て籠もり犯がピザと引き換えに人質を解放するところを見るが、実際こうなってみると食欲なんて湧かないもんだ」
「そう? アメリカではけっこうそういう事例もあるけれど?」
「わかったよ、あまりに空腹になったらお願いするとしよう。 でも、いまはいらない。
代わりにお前の初体験の思い出でも聞かせてもらおうか」
「あいにくと、私はプライドが高すぎるのか、男性とおつきあいしたことがないの」
「本当かねえ・・・」
下卑た笑い声が上がる。
こういうところは、青臭いガキって感じだが・・・。
「私を動揺させようとして、わざとそんないやらしいことを言ったのね?」
橋本が息を詰まらせた。
「・・・ああ、そうさ。 さすがだな。 小細工は通じねえか」
なんとも狡猾な野郎だ。
「一度、電話をきるぞ、 しゃべり疲れたんでな。
差し入れをくれるってんなら飲み物を用意しとけ。 スポーツドリンクがいい。
お前の妹も喉が渇いたみたいだぜ?」
「スポーツドリンクね。 それじゃ、またね」
・・・。
再び、辺りは静寂に包まれた。
「理科準備室から、懐中電灯の明かりが消えたな」
「ですね。 橋本さんも落ち着いてきたんでしょうか」
「なかなか、手こずらせてくれるわね」
「お疲れ、ユキ・・・」
「ハル、飲み物」
「あ、はい! コーラでいいすか?」
いきなりパシリと化す宇佐美。
「甘口のコーヒー。 ついでに、橋本くんご所望のスポーツドリンクも」
「お金を!」
「あ、待って。 コンビニで紙コップも買ってきて」
「紙コップ?」
「ええ、ペットボトルのドリンクと紙コップを差し入れることで、犯人が人質に危害を加える確率が下がるの」
「どういうことだ、時田?」
「聞いたことない? ストックホルム症候群って」
「うん・・・犯人と人質が、いつの間にか仲良くなっちまうって話だろ?」
「そう。 長い緊張状態を共にすることで、連帯感が生まれるの」
「ああ、なるほど・・・つまり、こういうことか?
橋本は、白鳥も喉が渇いたとか言っていたな。
てことは、紙コップとペットボトルのドリンクを差し入れれば・・・」
「そうよ。 橋本くんが、水羽に飲み物をついであげなくてはならないでしょう?
それが、犯人と人質の連帯感情を高めるの」
「そうだな。 もちろん、橋本は白鳥を無視して一人でドリンクを飲むかもしれんが、そこにコップがある以上、白鳥を意識はするだろうな」
時田もうなずいた。
「ストックホルミングは、多くの場合、人質交渉を助けてくれるわ。
犯人が人質を大切に思えば、それだけ解放の時間も早まる」
「とりあえず、わかりました。 ダッシュで行きます」
時田から駄賃を受け取って、宇佐美は近場のコンビニに向かった。
「それで、指揮官の京介くん。 犯人にスポーツドリンクを与えていいかしら?」
「かまわんだろう。 反対する理由が見当たらない」
「そう言ってくれると思ったわ」
「しかし、お前って男いなかったんだな」
「あら? 私に興味あり?」
「本当なのか?」
「交渉中は嘘をついてはいけないわ。
嘘をついたら、それまで積み上げてきた信頼関係が崩れてしまうもの」
「信頼関係か・・・西条のときもそうだったが、犯人と同調するっていうのは重要なテクニックなのか?」
「ネゴシエーターがあくまで強硬な姿勢を貫くと、交渉ごとは20%も合意に達しないの。
逆に、相手の要求にたいして見返りを求めていくような協調体制を確立できれば、80%もの確率で事件が解決するわ」
「そういうものなのか・・・」
時田は、おれが感心しているのを読み取ったように頬を緩めた。
「私だってFBIの特別な訓練を受けたわけじゃないのよ。
でも、考えてみてよ。 人生って毎日が交渉の連続じゃない?」
「そう言われるとな」
おれもうなずいた。
「朝起きて何時までに帰ってくるよう言われて、学園で先生からあれやこれやと質問されて」
「まあ、たいていの場合は、いまみたいに差し迫った状況じゃないけど、毎日が選択と交渉の連続なのはそうだな」
「あなたなら、接待もするんでしょう?」
「ああ、仲良くなるのは、当然商談をまとめるためだ」
「だから、誰もが交渉人なのよ。
私はたまたま、犯罪者に興味を持ってしまったからそっち方面を勉強してただけ」
「おかしな女だ」
「ええ、だから恋人もできない」
自嘲すると、時田はまた鋭い目つきで、理科準備室を見上げていた。
・・・・・・。
・・・。
「ただいま、なんか進展あった?」
「ああ、たったいま、理事長が到着した」
理事長は、服装こそ立派だが、頼りなさげな中年といった印象だった。
後退した前髪に脂汗を浮かべて、時田から事情を聞いていた。
「あの、校舎を取り囲んでいる連中は?」
「おれの知人です」
「あ、君は・・・」
「正月にお会いしましたね。 そうです、父の組の方々ですよ」
理事長は深いため息とともに、頭を抱えた。
時田は、そんな父を憮然と見据えながら言った。
「要求は、合計して555万です。 用意できますか?」
「そんな大金・・・」
目に狡猾な光が宿ったのを、おれも時田も見逃さなかった。
「どうやら、用意できるようですね」
「しかし、こんな時間だ・・・銀行だって閉まってる」
「たしかに銀行は閉まっていますね。
しかし、不正に受け取った金をそのまま銀行に預ける馬鹿はいません」
「以前、水羽を尋ねてご自宅におうかがいしたとき、金庫があるのを確認しましたが?」
「・・・っ・・・」
「問題は、着服した250万に上乗せされた300万ですが、それもだいじょうぶでしょうか?」
最悪の場合、おれが立て替えるという手もあるが・・・。
「わかった、すまなかった。 まさか、こんな大事になるなんて・・・」
「答えになってません。 全額、いま用意できるんですか?」
死人に鞭を打つような口調だった。
「ああ、できるとも・・・たったの500だろう?」
たったの、と強がってはいるが、この人はそれでいろいろなものを失ったことに気づいていないようだ。
「ありがとうございます。 それでは、犯人に連絡しますので」
・・・。
数回のコールの後、陽気そうな橋本の声が届いた。
「理事長のご到着か?」
「ええ、待望のね。 お金も用意できるって」
「そうかそうか、銀行が閉まってるだのと見え透いたことを言われたら、娘を傷物にしてやるところだった」
「安心して。 もう、あなたの望みはかなったも同然よ」
「その前に、娘は、水羽は無事なんだろうな!?」
不意に、理事長が口をはさんできた。
「さっき声を聞かせてやったんだがな? もう一度聞きたいか?
今度は悲鳴を上げさせてやってもいい」
「やめて。 あなたの目的はお金でしょう。
水羽を傷つけたって、なんの意味もないはずよ?」
「クク・・・冗談だよ、時田。
そのくたびれたおっさんを黙らせときな。 じゃないと冗談が本気になるかもしれん」
時田が、理事長を一瞥する。
理事長はわなわなと震えながら、押し黙った。
「さて、金の準備だが・・・」
「そうね、いまから自宅に現金を取りに帰るから、往復で二時間見てもらえれば間違いないわ」
「理事長の妻を使って、金を届けさせろ。 そうすれば、一時間で来れるだろう?
「それが可能かどうか、聞いてみてもいい?」
「そうだな。 ついでに、飲み物も持って来い」
「いいわ。 その代わりといってはなんだけれど、ノリコ先生を解放してもらえる?」
「ジュースと人の命じゃ割りに合わないが、まあいいだろう。
もともとノリコ先生は無関係だからな」
「じゃあ、いまから栄一くんに持っていってもらうわ」
「えっ!?」
栄一の顔に緊張が走る。
「お前が持って来い、時田」
「私が?」
「俺はお前が気に入った。 なぜだかわかるか?」
「私だって、理事長を快く思っていないからでしょう?」
橋本は我が意を得たりと、笑った。
「つまり、俺たちは仲間ってことさ。 かわいいぼうやだ」
「・・・・・・」
その瞬間、宇佐美のメモを取るペンが止まった。
「ご指名ありがとう」
時田はあくまで落ち着いていた。
「いまから飲み物を持っていくわ」
・・・・・・。
時田は買ったペットボトルを持って、校舎の闇のなかに入っていった。
「つーか、オレいまだに実感湧かないんだけど・・・」
「まあ、気持ちはわかる」
「マジ、ノリコ先生、解放してくれんのかねえ」
「いままでの会話はけっこう順調だったからな、宇佐美?」
「そうですね。 さすがユキです。 正直、自分なんてなんの役にも立ってません」
「それはおれも同じだ。
交渉ごとはチームでやるとかいうが、ほとんど時田に任せているようなものだ」
「いや、ホント、ユキは頼りになります。 自分の唯一の友達ですから」
「あいつもちょっと変わってるし、妙にウマがあったのか?」
「一度、家に泊めてもらいましてね。 それ以来、主従の関係となりました」
「・・・・・・」
「朝は起こしてあげて、昼は胸を揉まれ、夜は肩を揉まされました」
「お前、それでよく友達でいられたな」
「なぜか、頭が上がらないんですよ。
さすがにトサカに来たぜって思っても、相対してしゃべってると、まあいっかーってなるんです」
「ま、いるよな、そういうヤツ・・・」
「しかし、私がお金に困ると、いつもラーメンおごってくれました。
誕生日にはペンギンのぬいぐるみももらいましたし・・・いやはや、懐かしい、遠い日の記憶です」
「まるで死んだ人みたいに言うなよ」
「私はユキの誕生日に、『世界の拷問』という本をプレゼントしました」
「いやいやいや、あいつにそんなもん与えるな」
「すごい喜んでましたね・・・いやはや懐かしい、在りし日の追憶です」
遠い目で、校舎の窓を見上げていた。
「浅井くん・・・」
理事長が遠慮がちに声をかけてきた。
「どうです? お金は持って来てもらえるようですか?」
「ああ、妻がいまからタクシーを拾って来るそうだ・・・」
うなだれるように言った。
「これで、全部丸く収まるのかね?」
「ひとまず、この事件が表ざたになることはなさそうですよ」
「だと、いいんだがね」
重いため息が返ってきた。
「まさか、娘がこんな目に合うなんて・・・こんな、こんなことなら・・・」
その言葉の続きを予測するのは容易かった。
とっとと罪を認めておけばよかったのだと、理事長は疲れきった顔を両手で覆っていた。
「・・・・・・」
おれの父も、こんなふうに、息子を思って嘆いたのだろうか。
・・・っ。
いかんな、頭がふらつく。
何も考えないようにしよう。
ようやく両親の呵責に目覚めた無様な父親が、そこにいるだけだ。
「京介、どした?」
「む?」
「いや、お前ってたまーに、すげえ目つきになるよな」
「・・・ですよね」
「そうか?」
「うん、なんか悩みあるなら、人生経験豊富なオレに相談しろよ?」
「フフ・・・」
「・・・・・・」
「どうした、宇佐美まで?」
「いえ、自分もなにかお役に立てるのであれば、と」
「役に、か」
「・・・なんです?」
「いいや、そんなことより、時田が戻ってきたようだぞ?」
「あ、ホントだ、ノリコ先生もいる!」
時田がノリコ先生の肩を支えながら、玄関を出てきた。
「ただいま」
「ユキ、なにもされなかったか?」
「ええ、意外と紳士よ、彼は」
「先生、怪我はない?」
ノリコ先生は、恐怖に腰が抜けたのか、その場にへたりこんでしまった。
「・・・ご、ごめんなさい・・・だいたいの事情は時田さんから聞いたわ」
「中の様子はどうです?」
「残念ながら、まったくわからなかったそうよ。
真っ暗な薬品室に閉じ込められて、恐怖に震えていたみたい」
「隣の理科準備室から、たまに橋本くんの怒鳴り声が聞こえてね・・・ああ・・・とても現実とは思えないわ・・・」
「だ、だいじょうぶだよ、ボクがついてるよ!」
さっと手を取る栄一だった。
「時田はどうだ? 理科準備室の様子はどうだった?」
「ええ、廊下の窓から覗いたのだけれど、水羽は後ろ手に手錠をかけられていたわ。
橋本くんはナイフを片手に、飲み物を廊下に置いていくよう指示してきた。
私はそれにしたがって飲み物を残すと、隣の部屋のノリコ先生を助けに行ったわ」
「どうして橋本は、ノリコ先生だけ隣の部屋に閉じ込めておいたんだ?」
「そうね。 二人いっしょのほうが、管理しやすいのに・・・」
宇佐美がノリコ先生を見ながら言った。
「ノリコ先生のぶんの手錠なりロープなりがなかったからでしょう」
「なるほど。 橋本くんもノリコ先生を人質に取る気はなかったみたいだし、用意がなかったのね」
「時田との交渉中にいきなり襲いかかられでもしたら、たまらないからな」
ふと、理事長がノリコ先生に向かって頭を下げていた。
「・・・先生、このことは、内密にお願いしたいのですが・・・?」
「な、内密にって・・・こんな犯罪をですか、白鳥理事長?
いますぐにでも警察に連絡するべきです」
もっともな意見だ。
「犯人は警察に連絡すれば、娘を殺すと言っているんです。
親として、そんなまねはできません・・・」
本心なのか、それとも自らの学園を守るためか、とにかく理事長は必死だった。
「まずは、人質の命を優先しましょう。
犯人は要求さえ満たせれば、水羽を解放してくれます」
自信ありげに言う時田に気圧されたのか、ノリコ先生も戸惑うような顔でうつむいた。
「・・・時田さんが、私を救ってくれたのだから・・・わからないわけでもないけれど・・・」
「先生、おれも考えましたが、いまさら警察を呼ぶというのはないです」
警察が来たら、集まってきた園山組の極道たちがなにを言い出すかわからん。
下手すると、ヤクザと警察でひと悶着あって、交渉どころではなくなるかもしれない。
「・・・あなたたちは、いったい?」
時田が微笑んだ。
「勇者とそのご一行ですよ」
・・・・・・。
「しかし、時田・・・」
現金が届く前に確認したいことがあった。
「このまま、犯人の要求に従って、金を渡すのか?」
「・・・どう思う、指揮官?」
逆に挑戦するような笑みを浮かべた。
おれは、少し迷いながらも答えた。
「白鳥の安全を確保するのが一番の目標だ。 すると、やはり、金を渡す必要はあるな」
「同じ意見だわ」
「ただ、金を渡せば人質を解放するという確約がない」
「私の見立てでは、彼は目的さえ達成できれば約束は守るタイプだと思うけれど?」
「まあ、もちろん、橋本が白鳥を殺したところで、なんの得にもならないがな・・・」
「ええ、彼が本当に殺したいのは・・・」
ちらと理事長を一瞥した。
「だな」
おれは時田と理事長を交互に見比べながら、判断を急いだ。
「宇佐美は、なにかあるか?」
宇佐美は、あごを手の甲で撫でて、なにやら考えていたようだ。
「・・・橋本さんは、現金を受け取ってどうやって逃亡するつもりなのでしょうか?」
「逃亡する? ヤツは、逃げるってのか?」
「ええ、彼は、自分にも将来があるとか言っていましたが、どうなんでしょう?」
これは、おれたちにとって重大な見落としといえた。
「人質を取って、校舎に立て籠もったんですよ?
その上五百万からの現金を奪って、明日から何事もなかったかのように部活にせいをだす橋本さんがいると思いますか?」
「ハルの言うとおりだわ・・・」
「水羽を解放してしまえば、我々も理事長も、もう彼の命令を聞く必要がありません。
一度奪われた現金も、なんとかして取り返すでしょう?
警察ではなく、我々に挑戦してきたのは、単に、我々のほうが与しやすいと思ったからでしょう。
さらにいえば、ユキへの復習も兼ねているのかもしれませんが。
浅井さん、もともと、橋本さんは目だし帽をかぶっていましたよね?」
「ああ、顔をすっぽりと覆うような・・・実際、声を上げるまで、橋本だとは気づかなかった」
「ということは、橋本さんは、変声機でも使い、自分の身元を隠して交渉に乗り出す予定だったのでしょう。
しかし、わたしと浅井さんがいち早く現場に駆けつけたものだから、やむを得ず正体をさらしたんです」
「・・・かもしれんな」
「橋本さんは、自分の正体をばらさずに現金を奪うつもりだった。
これならば、明日から何食わぬ顔で学園に来るつもりだったとしても、おかしくはありません」
おれも納得がいった。
「しかし、正体を晒している以上、ヤツはもう終わりだ。 逃げるに決まっている」
「問題は、この包囲網のなかで、どうやって逃げるのかということです」
「一番考えられるのは、水羽を人質にしたまま、用意させた車で逃走するというパターンね」
「・・・・・・」
宇佐美は、さっきから、いやに怖い顔をしている。
「どうも、おかしいですね」
「・・・・・・」
「勘ですがね」
おれは、半笑いで聞いた。
「また、"魔王"の気配でも感じるのか?」
宇佐美がおれを見据えた。
「ええ、ビンビンに」
・・・・・・。
・・・。
事件発生からおよそ三時間がたった。
園山組の人々も、上の命令とはいえ、我慢の限界のようだ。
だるそうに芝生に腰を下ろし、ところかまわずタバコをふかしていた。
タクシーの運転手が、学園の様子を不審そうに眺めて、走り去っていった。
ようやく、犯人の要求する現金が届いたようだ。
「橋本くん、お待たせ」
すかさず、時田が交渉を再開する。
「ええ、スーツケースに五百万入っているわ」
「スーツケース? そりゃまたかさばるものに入れてくれやがったな?」
・・・かさばっては困るということは、やはり、橋本は逃げるつもりか・・・。
「まあいい。 なら、それをこっちに持ってきてもらおうか」
「わかったわ。 また、私が持っていけばいいのよね?」
「ああ、他の連中は信用ならんからな」
「じゃあ、そのときに、水羽も解放してもらえる?」
すると、橋本が低く笑った。
「慌てるなよ、時田」
「・・・あら? どうしたの? 私とあなたの仲じゃない?」
「そうだな。 金をきっちり用意したんだから、俺もお前の役に立ちたいとは思う。
しかし、白鳥を解放したら、俺はどうやって逃げればいいんだ?」
やはり、か。
「車を用意してもらおうか。 ボンボンの浅井にでも頼め。 できるだろう?」
「それは、聞いてみないとわからないわ・・・」
車か・・・浅井興行の事務所から一台用意することはできるが・・・。
「いいか、車は絶対に用意しろ。 ここは譲歩できん。
時田もわかるだろう? お前が犯人だったら、どうだ?」
「ええ、まったく妥当ね。 逃げられる算段が整っているのならね」
だが、この街にいる以上、園山組からは逃れられないぞ。
「わかったな? まずはケースを持って来い。
車の到着を確認したら、こっちからまた連絡する」
通話が終わり、時田が肩をすくめた。
「というわけだけれど、京介くん」
「よし、車を用意してやろう」
「やけに早い決断ね」
「ヤツは、おれの親父がどれだけこの街を支配しているかを知らない。
車で逃げたところで、すぐに捕まえることができる」
西条のときもそうだった。
「わかったわ。 私も、いまから、お金を届けに行くわ」
「おう。 無茶をして、橋本に襲い掛かったりするなよ?」
「水羽になにかあったら、さすがにわからないわ」
時田はほほ笑んで、ケースを手に再び学園に向かった。
「い、いよいよ、大詰めってヤツか?」
栄一がノリコ先生のそばでつぶやいた。
「なんかよ、椿姫のときもそうだったけど、凶悪犯罪ってけっこうあるもんなんだな」
「ああ・・・」
おれは、何気なく宇佐美を見やった。
「・・・・・・」
こいつが転入してきてからだな・・・。
・・・・・・。
・・・。
さらに三十分後、逃走用の車が到着した。
同時に追跡用の車も、学園の周辺に待機させておいた。
「時田、なかの様子はどうだった?」
「二人で仲良く差し入れのドリンクを飲んだようね。 いい兆候とはいえるわ」
「なにか話したか?」
「いいえ。 すみやかに出て行くよう言われたわ」
「わかった。 とりあえず、こっちの準備は万全だ」
あとは、橋本からの入電を待つのみ。
「浅井さん、学園の包囲は完璧でしょうか?」
「というと?」
「いえ、この学園は外の塀が低いので、校舎から出られると、あとはどうとでも逃げられるのではないかと」
「一階の窓、玄関、職員通用口・・・およそ人が出入りできそうな場所はすべて固めたが?」
「なら、いいんですがね。 みなさんも、お疲れのようですし、ちょっと不安になりました」
「お前も疲れてるんじゃないか? 橋本は車を使って正面から堂々と逃げるつもりなんだぞ?」
「あ、そうでしたね、なにを言ってるんすかね、自分は・・・」
てれくさそうに頭をかいた。
「時田は、平気か?」
「うん?」
「いや、疲れてないかと」
「うれしいわね。 じゃあ、肩でも揉んでちょうだい」
「減らず口がきけるなら、だいじょうぶだな」
とはいえ、時田も長時間の交渉に疲れたのか、口数が減っていた。
ここから先の逃走劇は、おれの手腕にかかっているといっていいな。
「京介くんって、特定の女の子いるの?」
「なんだ、いきなり?」
時田は笑う。
「これもストックホルミングかしらね。
長い間チームを組んでたものだから、あなたと妙な連帯感を覚えているの」
「それはおれも否定しないが、おれはやめておくんだな」
「・・・そう、残念ね」
時田らしからぬ冗談だな。
「浅井さんには自分がいますもんね」
「死んでください」
「・・・あらあら、阿吽の呼吸とはこのことね」
なにやらニヤニヤと腕を組む時田だった。
「それにしても、連絡がないですね・・・」
「そうだな。 上から車が見えているはずだし、車のエンジンはかけっぱなしにしてあるから音でもわかるはずだ」
「もう少し、待ってみましょう・・・なにかあったのかも・・・」
「下手にこちらから連絡して、橋本を刺激するのもよくないだろうな・・・」
「でも、待つにしても限度があるでしょう?」
「そうだな、あと十分待ってみよう」
・・・・・・。
・・・しかし、十分たっても、なお連絡はなかった。
「つながらないわ・・・」
時田がさきほどから、二回も電話をかけているが、すべて空振りに終わっている。
「どうします?」
「悩みどころではあるな・・・」
なぜだ?
「時田、どう思う?」
「正直予測がつかないわ」
「橋本が急に手のひらを返したとか?」
「それはない、と断言したいわね。
これまでの交渉過程で、私は私の持てる力をすべて出し切ったわ」
「じゃあ、なぜ、ヤツは連絡してこない?
ヤツの要求をこれまで全部のんできたはずだぞ?」
「・・・・・・」
時田が厳しい目でおれをにらんだ。
「・・・いや、すまん。
そんなことお前に聞いてもわかるはずがないな。 問題は、いま、どうするかだ」
「様子を見に行くしかないでしょうね」
「そうだな。 おれもそう思う」
誰が見に行くか、だ・・・。
「お、オレが行こうか?」
意外なところで手が上がった。
「なんつーか、さすがにオレも一発くらい橋本をぶん殴ってやらねえと、気がすまねえっつーか」
「殴りにいくわけじゃねえんだよ、栄一。 白鳥の命がかかってるんだぞ?」
「でもさ・・・」
そのとき、時田が一歩進み出た。
「いいわ。 私と栄一くんで行きましょう」
「ユキが・・・?」
「たしかに、お前なら、橋本と顔を合わせているし、相手をそう刺激することはないだろうが・・・」
「京介くんは、ここで、全体の指揮があるでしょう」
「そうだな・・・」
「ハルは、京介くんを補佐してあげて。 いままでずっとそうだったんでしょう?」
「まあ・・・」
「ふん、なぜか宇佐美といっしょに事件に取り組むことが多いからな」
「ええ、なにかあったら、助けてちょうだい」
・・・。
「僕が守ってあげるよ」
「心強いわね」
時田が栄一を選んだのは、おバカで評判の栄一なら、橋本も油断するかもしれないと踏んだからだろう。
おれや宇佐美が行くよりは、ぜんぜんいい。
「それじゃ、行くわよ・・・栄一くん」
「はい!」
二人はやや緊張した面持ちで、校舎のなかに消えていった。
「いったい、橋本になにがあったんだろうな・・・」
「最悪の場合、水羽がもう殺されているかもしれません」
「おれもそれは考えた。 乱闘になって、二人とも倒れたんだ。
だから、橋本も電話に出られない」
「ユキは、それを覚悟の上で、校舎に入っていったんでしょうね」
「勇ましいもんだな、お前の友達は」
「かっこいいんですよ。 本当に、かっこよすぎるくらいです」
宇佐美が言った、その直後だった。
携帯がけたたましく鳴り響いた。
無論、時田のものではない。
おれの携帯。
「なんだ、どうした時田!?」
「信じられないわ・・・!」
珍しく、時田の声が震えていた。
「なにがあった!?」
「落ち着いて聞いて・・・」
「ああ・・・」
「いないのよ・・・」
「なに!?」
時田は呼吸を整え、自らを落ち着かせてようやく言った。
「水羽も、橋本くんも・・・いない」
「・・・そんな、馬鹿な話が・・・」
その瞬間、時田が怒鳴った。
「あるのよ! 二人とも忽然と消えてしまったのよ・・・!」
・・・。