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G線上の魔王【29】

 


・・・。

 


・・・・・・。

 

 

エレベーターは上昇を続けていた。

狭い箱の中で、"魔王"は腕を組み、じっとハルを観察していた。

ハルも同様に、飛びかかる機会をうかがっていた。


"魔王"はあきらかに状況を楽しんでいるようだった。

ハルを拘束もせずに、ただ見据えてくる。

まるで、なにか策があるなら試してみろといわんばかりに、口の端を歪めていた。


エレベーターのドアが開く。

薄暗い通路を進み、たどり着いた先は、屋上だった。

 

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「京介も、街に来ているのだろう?」
「・・・それがどうした?」


見上げれば曇りがかった空があった。

地上からの無数の光が厚い雲を突き上げるように輝いていた。


「ここで、京介と出会ったらしいな」


"魔王"が昔を懐かしむように言った。

武器も構えず、あくまで傲岸にハルと対峙している。


「なんの真似だ、"魔王"」
「お前の死に場所を演出したいと思ってな」


にたりと笑う。


「本来なら外郭放水路で殺したいところだが、この封鎖状況ではかなわない」


ハルは眉をひそめ、挑むような目を向けた。


"魔王"が言った。


「昔、京介とゲームをしてな。
夜中まで遊んだものだ。 ロールプレイングゲームとかいうジャンルらしい」
「・・・それが、なんだ?」
「勇者と"魔王"が最後に戦うのが、ちょうど、ここのように、いわくのある場所なのだ」


満足げに遠くを眺めていた。


「勇者は成長し、やがて"魔王"を倒すのだが、お前はどうかな?」
「・・・・・・」
「私の十年は、復讐がすべてだった。
対象は、国家であったり、浅井権三であったり様々だが、憎悪の中心にいるのは、いつも宇佐美だった」
「それは、わたしも、同じことだ。 お前がわたしの人生を狂わせた」
「私を殺すというのか。 京介の兄である私を?」


ハルの顔がわずかに強張った。

逡巡めいたものがこみ上げてくる。


「京介がかわいそうだと思わないか。
あれは私を慕っていた。 私が死ねば、きっと少なからず悲しむことだろう」
「この期に及んで命乞いか?」
「いいや」


さもおかしそうに首を振った。


「お前だって、悪を犯そうとしていると教えてやりたかっただけだ」
「そんなことはわかっている」


不意に、"魔王"が目を見開いた。

瞳には憎しみがみなぎっていた。


「宇佐美よ、どんな人間も、最後まで自分の正しい世界に生きて死んでいくのだ」


わかっている。

いまのハルも、"魔王"を叩き伏せることに正当性を見出そうとしている。

人が暴力を許すとき、この自己の正当性という、誰もが大好きな弱さを頼みにする。

武器を持ったテロリストであろうと、かよわい少女であろうと、いったん殺し合いともなれば、彼らは必ず正義でありたがるのだ。


「人はいつまでも同じ感情を抱いてはいられないという。
私も、ときには、お前を許そうなどと考えないでもなかった。
親は親、子供は子供と、当たり前の主張が良心に語りかける」


ハルもそうだった。


復讐なんて馬鹿げた真似をせずに、普通に暮らそうと、ふと我に返る夕暮れもあった。


「だが、けっきょくは憎しみが勝った。
父が言っていた。 ハルという少女を殺さなければ、宇佐美に思い知らせてやれないと」


つい、口を開いた。


「わたしも、けっきょくは、お前を追うことをやめられなかった。
ヴァイオリンケースを開くたびに母の無念が蘇る」


"魔王"は納得したようにうなずいた。

いままでで一番深いうなずきだった。

彼はもしかしたら、免罪符を得ようとしたのかもしれない。

"魔王"がハルを憎むように、ハルも"魔王"を憎んでいて欲しかったのだ。

少なくともハルは、"魔王"が自分を憎んでいてくれて、どこかほっとした気分だった。


復讐の連鎖はどこまでも救いがない・・・。


「なあ、宇佐美。
この世でもっとも長生きする感情は、憎悪だと思わないか。
だからこそ、何千年の昔から、戦争が絶えないのだ」


ハルには、わからなかった。


「もう一つくらいはある・・・」


"魔王"は笑う。

彼にはハルが何を言いたいのかわかっているようだ。

ハルの胸のうちを支配しているのは憎悪だけではない。

ハルは少なくともこの十年、ずっと、京介のことが好きだった。


「京介か・・・」


ハルはぎょっとした。

"魔王"の目に、初めて優しさのような光が募ったからだ。

ほんのわずかな一瞬とはいえ、不憫な弟を思いやる兄がそこにいた。

束の間、"魔王"はいつもの薄ら笑いを浮かべた。


「安心しろ。 お前を殺したあと、京介もあの世に送ってやる。
いつまでも二人仲良くやってるがいい」


陳腐なセリフだった。

哀しい男だとも思った。

鮫島恭平は常軌を逸した才能と行動力を持ち合わせていたばかりに、復讐に生涯を捧げることになった。

最後の最後まで寓意的(ぐういてき)に"魔王"であろうとするのだろう。


「さて・・・」


"魔王"が上着の奥から拳銃を抜いた。


「私を殺しに来たというからには、なにかまた新しい策を用意してきたんだろうな」


じりと床を鳴らし、一歩詰め寄ってきた。

間合いを取るように、ハルも後退する。

正面きっての腕力勝負で、勝ち目がないのは明らかだった。


――どうする?


この状況で、ハルが"魔王"に勝っている部分はなんだろうか。

格闘は論外。

武器もない。

屋上にはなにか"魔王"の注意をそらせるようなものはないだろうか。

いや、"魔王"もこの建物の構造は熟知しているのではないか。


「やはり、首を絞めて殺すか・・・」


・・・やはり、この慢心こそが、"魔王"の最大の弱点ではないか。

いつでも引き金を引ける。

いつでも仲間を呼べるこの状況で、なお敵を弄ぶような余裕を示す。

とはいえ、それでも、この状況を打破することは難しい。

"魔王"は演出がどうのと言いながら、ハルを逃げ場のない屋上に連れ込んだ。

全身からみなぎる殺気は、これがただのお遊びではないことを物語っていた。

対してハルには、なんの用意もなかった。


ハルは、気圧されるように後ろに下がる。

"魔王"がその分だけ距離をつめてくる。


「お前は高いとことが得意だったようだな」


とうとうハルは、屋上のフェンス際まで追い詰められた。

逆襲の手立ては、なにも見出せない。

銃口に追いやられるまま、フェンス際を伝って移動する。


――玉砕するしかないのか。

 

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そのとき、頭上で轟音があった。

上空をヘリが旋回している。

マスコミの類だろう。

とくにこちらに気づいて近づいてくる様子もないし、また近づいてきたからといって助けてくれるわけもない。


けれど、"魔王"の注意がわずかにそれた。

あごを上げて、空を見やっている。


――いまか!?


いや、違う。

あれは誘いだ。

それが証拠に"魔王"が言う。


「フフ・・・チャンスではなかったか?」


突如、"魔王"が突進してきた。

ハルは逃げ道を探す。

取っ組み合いになったら、今度こそ殺される。

けれど、遮蔽物のなにもない屋上。

"魔王"とハルでは足の速さが違いすぎる。


逃げ場は――フェンスの奥しかなかった。


風があった。


ハルは"魔王"の手をぎりぎりのところでかわし、屋上の端に足をつけた。

地上からつきあげるような風を背中に感じた。


「まあ、山王物産のビルから落ちて死ぬというのも、悪くないかもしれんな」


"魔王"が銃口を向けた。

引き金には指。

背筋が凍ったのは、寒さのせいではない。

"魔王"と向き合いながら、首だけでちらりと地上をみやった。

ハルは最後の希望をつかんだ気がした。


「さらばだ。 あの世で母親に会うがいい」


直後、弾丸を避けようと、ハルは身をよじらせた。


"魔王"の放った一発は、命中しなかった。


そのかわり――。


「・・・うあっ!」


足がもつれる。

体が空中に投げ出されていく。

たしか、落ちるのは二回目だ。

幼かったあのときは、あの少年が助けてくれた。


――京介くん。


闇雲に腕を伸ばす。


もがいた。


必死で何かをつかむ。


雪だった。


手のなかで無情に溶ける。


悲鳴。


自分のものとは思えぬ声で救いを求めた。


――死ぬ!


あらゆる音が消えていった。


ハルは自らが落ちていくのをはっきりと自覚した。


"魔王"の顔があった。


もう笑ってはいなかった。


粛々と死者を送る大人の表情だった。


ハルの視界は、カメラが高速移動するように、"魔王"の顔から、底なしに暗い空へと移り変わっていった。


高く伸ばした右腕の指先が屋上の角に触れた。


けれど、体重を支えるには足りなかった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「異常はなさそうだな」


宇佐美がビルから落ちるのを確認したおれは、踵を返して、人質の様子を見に来ていた。

なぜなら、そろそろ警察から連絡が来るころだからだ。

おれは携帯電話をかまえた。

警察との交渉に携帯電話を選んだのは、こちらの居場所から人質の居場所を推測されにくくするためだ。

警察は、おれがいま、どこからかけているのかをきちんとつかんでいる。

けれど、おれはさきほどはオフィス街からかけたし、次も別の場所で応答を受けるつもりだ。


・・・。

 

「そろそろ時間だな、警視正
「ああ、そのことなんだが、実はまだ決定が降りてこないんだ」
「それは残念だ。 こちらの誠意が足りなかったようだな」


電話を片手に、室内の様子を見やった。

抵抗する気力のありそうな人間はほとんどいない。

皆、壁際でうずくまり、重そうな顔をしている。

いや、一人だけ、おれをにらみつける男がいた。

若い青年社員といった風貌だった。

肩に包帯を巻いている。

育ちのよさそうな顔立ちだが、瞳には状況を打開しようという強い意志が見て取れた。


・・・なるほど、彼が、子供をかばったという社員か。


「そこで、相談なんだが・・・」
「言ったはずだ。 時間の延長は一切認めない」
「わかっている。 けれど、君もわかっていたのではないか?」


・・・プロだな。


「現実的に八時間というのは、短すぎるとは思わないか?
総理以下、関係閣僚を招集するだけでもかなりの時間がかかったらしい。
その上、これほど重大な決定を下すには、どう考えても時間が足りない」
「それで?」
「せめて、あと五時間待ってもらえないだろうか?」
「五時間待つと何かいいことがあるのかな?」
「それだけあれば、決議はおりるというのが警察の見解だ」


おれは軽く舌打ちした。


「のろまは罪だと思わないか?」
「待て。 早まるな」
「いまから人質の一人を殺す。 銃声をきちんと聞き届けるように」
「落ち着け。 人を殺してなんになる。
たしかに我々は要求された時間に間に合わなかった。 しかし、君はプロだろう?」
「だったら?」
「せめてもう少し時間をくれ。
少しの猶予が、君の計画にそれほど支障をきたすのか?
君はそんな甘い算段を持って、我々に挑戦してきたのか?」


見事な交渉テクニックだ。

犯人のプライドをくすぐり、現実を直視させようとしている。

やはり、時田ユキを使って、父親は排除しておくべきだったかな・・・。


「我々がプロであるからこそ、時間には正確ありたいのだよ」


その瞬間、躊躇なく拳銃を抜いた。


引き金を引く。


女の頭が背後の壁に吹き飛んだ。


人質たちの間に漂う、重苦しい空気が一気に切り裂かれた。


悲鳴がフロアにこだました。


撃ち抜かれた女性社員の名前が呼ばれ、すすり泣きが聞こえる。


「聞こえたかな?」


時田警視正は屈辱に声も出ないようだった。


「一時間後、また連絡をもらおう。 人質はあと十人はいる。
言っている意味がわかるかな?」


一時間につき一人、死んでいくというわけだ。


通話が途切れた。


ふと、おれを呼ぶ声があった。


「おい・・・!」


さきほどの若手社員だ。

何を言い出すかと思えば・・・。


「次は、俺をやれ。 なぜかよわい女性を・・・!」


目に涙を浮かべ、義憤にかられていた。

おれは薄笑いを放り、その場をあとにした。

あのような勇敢な男を殺しても効果は薄い。

効果的な悲鳴というものは、いつだって女が上げるものだ。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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橋本が出て行ったドアには当然のように、外から鍵がかかっていた。

おれは、まさしくこれから公開処刑を待つ捕虜のように、監禁されたというわけだ。

懐にしまってあったはずの携帯電話も、どうやら取られたようだ。

助けは呼べないし、助けて欲しいのは栄一と宇佐美のほうだろう。


・・・考えろ。


部屋の中を見回す。


ドア以外に、どこにも出口はなかった。

換気扇すらない、濁った密室だった。

壁を伝って隅のがらくたに寄った。

漫画雑誌やポルノ雑誌が束になって散らばっていた。

運よく、壁を破壊できそうな削岩機や、実弾つきのマシンガンなどは落ちていなかった。


考えろ、どうやって脱走する・・・!?


外に出て、宇佐美と栄一を救うには・・・!?


あのドアを開けるには・・・!?


弱気になりかける心を叱咤する。


おれは正義のヒーローでもなんでもないのだ。


絶望し、いままでの人生を振り返りながら、仲間が助けてくれるような展開を期待してはならない。


考えろ。


おれは、あの浅井権三の息子だ。


これまでの人生、人に誇れるような善行は何ひとつつんでこなかったが、橋本ごとき小悪党にやられるほど、甘く生きてきたわけではない。


もし、権三がこの場にいたら、こんな無様なおれを許さないだろう。


今日は、ヤツの葬式・・・ヤツの魂はまだ現世にとどまっている。


――葬式!?


思わず、笑みがこぼれた。


見てろ、権三。


おれの命がけの脱出を肴に、地獄に落ちていけ。


・・・。

 

おれは部屋の中央に雑誌や木でできた丸テーブルなどを集めた。

積めるものは積み、ばらけるものはばらして井桁をくみ上げる。

とにかく燃えそうなものはなんでも薪にした。

丸めた紙に、テーブルの上で転がっていたライターで火をつける。


さあ、燃え上がれ。


火勢が強くなるまで、慎重に足し木をした。

木材や合板は乾燥していて、いったん燃え移ってしまえば、あとは見守るだけだった。

赤く吹き上がり始めた黒煙が、天井を覆い始めた。

火の粉がはじける。

たまりきって行き場を失った煙が、徐々に下へ下へと迫ってきた。

室内の気温が一気に上昇し、顔が熱くなっている。

刻一刻と厚みを増した黒煙が、出口を求めてのたうちまわっていた。


・・・もっとだ。


もっと濃密になるがいい。


あのドアが開いた瞬間、爆風となって吹き荒れろ。

 

・・・。

 


「ぐっ、ごほっ・・・!」


尋常なけむたさではなかった。

とても目を開けていられない。

空気がなくなりかけていく。

火の勢いが弱くなって、そのぶん、煙が濃くなってきた。

おれはドアのそばでうずくまった。

 

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呼吸困難に負けず、猛烈な勢いでドアを叩き始めた。

上の階には栄一が捕らえられているのだという。

当然、見張りの一人や二人はいるはずだ。

騒ぎを聞きつけてかけつけてこい。

ドアが開いたその瞬間、皆殺しにしてやる。


ドアを叩く。


足音に耳を澄ます。


誰も来ない。


なぜだ。


「ごほっ、ごほっ・・・!」


閉じた目から涙が出てくる。


・・・出て来い!


なぜ、様子を見に来ない!?


力の限りドアを殴った。


恐怖が噴き出す汗となって背筋を伝っていった。


もし、誰もいなかったら・・・?


たとえようもないほど間抜けな死に様だ。


「あ、ぐっ、ごっほ、ごほっ・・・!」


背後では、炎がすでに、ぶすぶすと不完全燃焼の音を発していた。

ドアの下から入ってくるわずかな空気を求め、顔を押し当てた。

叩くのをやめるわけにはいかなかった。

右手に力が思うように入らない。

たまに、意識がはっきりと空白になる。

だが、あきらめるものか。

ここで死んだら・・・!


爪が皮膚に食い込むほど拳を固く握った。


宇佐美はどうなる!?


浅井権三は、なんのために死んだのだ!?


父よ・・・ああ、父よ・・・あんたはおれをかばって死んだ!


真実はどうでもいい!


おれはまだまだ、あんたのところにはいかんぞ!


煙にまかれた肉体が、活動を停止しようとしたのに対して、意志だけが絶命を拒んでいた。


おれはもうおれではなくなっていたのかもしれない。


一頭の野獣となって必死にドアを連打していた。


思い知らせてやらなければならない。


おれがなめられるということは、浅井権三がなめられるということなのだ。


怒りを成就させるべく、憎悪を燃やした。


前後の記憶がかなり曖昧になっていた。


それははじめ、鼻に差し込んでくる空気として自覚した。


脳細胞が不意に活性化し、突然、意識が明瞭につながった。


自分が他人の体のように思えた。


ドアを叩いていたはずの右手が、さっきから空ぶっている。


煙が奔流となって飛び出していった。


ドアがない。


開いている。


入り乱れる足音。


酸素を取り入れて再びぱちぱちと爆ぜる火の粉。


おれは牙を剥いた。


狼狽した叫びが聞こえる。


水。


消せ。


つまり、獲物のさえずりだ――。


立ち上がり、煙の方向を見定めたあとは、理性の出る幕ではなかった。


ありったけの力で突進した。


ハイエナが、一人、二人・・・。


おれの形相に怯んだ。

腕を振り回し、顔面を陥没させた。

絶叫を待たず、その横を駆け抜けた。

まっしぐらに階段を駆け上がる。

背後からおれの腕を捕まえようとした輩に、頭上からめちゃめちゃに蹴りを振り下ろした。

手足に鈍い感覚が何度かあった。

その度に、悲鳴が上がっていた。

おれが強いのではなく、やつらに覚悟が足りないのだ。

手負いの獣ほど狂暴なものはない。

黒煙が出口を求めて天井を走っている。

おれはそのあとを追う。

煙を追い抜いたとき、一階にたどり着いていた。


誰かとぶつかって、もみ合いになった。

 

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「お、お前っ!?」


聞いた声に体が反応した。

肺のなかが空気に満たされるにつれて、憎悪が猛々しく燃えた。

止まらぬ咳、止まらぬ涙、止まらぬうめき声。

床や天井がのたうっている。

頭痛に、吐き気に、胸がむかつき、呼吸ができない。

喉や器官の火傷、悪寒、発熱、擦り傷打撲の合併症。

無我夢中で、目の前の小悪党を蹂躙した。


「殺せるものなら殺してみろ!」


それから先は、橋本のどこをどう殴ったのかおれにもわからなかった。


人を最後の最後まで奮い立たせてくれるもの、それはいつだって怒りだ。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

全身がぎしぎしと痛んだ。

身動きするだけで骨がきしむ。

顔がひんやりと冷たい。

雪だ。

雪が降っている。

雪の冷たさを感じられる。

ということは、生きている。

 

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空が見える。

まだまだ深い夜だ。

肘がとくに痛む。

きっと大きな青あざができていることだろう。

ハルは自分が気を失っていたと知った。


しかし、なぜ生きているのか。

屋上から転落したのは間違いない。


「あ・・・」


もしかすると・・・。

落下の瞬間を思い出す。

屋上の端から、ちらと地上を振り返ったあのとき、希望が見えた。

あれに向かって飛び降りられれば助かるかもしれないと期待していた。

 

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ハルは、いま空中にいた。

窓ガラス清掃用のゴンドラにひっかかって、地上に叩きつけられるのを回避していた。

屋上までの距離は五メートルほどだった。

どうやら、足から落ちることができたらしい。

昔から、高いところは得意だ・・・。


ハルは大きく深呼吸した。

強風がいつでも心に恐怖を招く。


落ち着け。

ゴンドラを吊るしているワイヤーは非常に丈夫なようだ。

慌てなければ、落ちることは多分ない。


だがどうやって・・・。


――ここから脱出すればいいのか?

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

 

「我々をどこに連れて行こうというのかね?」


銃口を突きつけられた染谷室長が、ぼそりと言った。


「これから、皆で大型バスに乗っていただきます。 当然、今川先生も一緒です」
「観光気分ではないのだがね」
「ご安心を。 十分もすれば、目的地に到着します」


新しい、監禁場所にな。


人質をいつまでも同じ場所に囲っておくのは危険だ。

警察は、事件の発生がこの山王物産のビルから始まったことをすでに調べ上げているだろう。

さらに、当日の今川の行動スケジュールも把握しているだろうから、まず、山王物産にあたりをつけているはずだ。

もし、屋上から空挺部隊が急襲してきたら、大きな被害が出る。


「それぐらいの距離なら歩いてもいける」


今川も、まだまだ元気なようだな。


「さすがはCO2削減を標榜(ひょうぼう)している先生ですな。
しかし、外には暴徒が充満しておりましてね。
私の命令も聞かない血気盛んな若者がいるかもしれませんが、それでもよろしいですか?」


実際、外での暴動はおれの感知するところではない。

欲望のままに遊び尽くせと命じただけだ。

おれですら安全とは言い切れない。

薬物に頭をおかしくした少年に、いきなり撃ち殺されるかもしれないのだ。


「おわかりですね。 では、出発しましょう」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「京介っ・・・っ、おい京介っ・・・!」


拳がひりひりと痛む。


「京介ったら・・・!」


荒い息が耳にうるさい。


「あ、え、栄一・・・か・・・無事だったのか?」
「無事じゃねえけどな・・・なんつーの、満身創痍ってヤツ?」
「ヤツらは?」
「みんな逃げたよ。 火事だから」


妙に、焦げ臭い。


火事?


はっとして気づいた。


おれがやったのだ。


おれが、橋本を床にねじ伏せていた。


橋本は腫れ上がった顔で、なにやらうめいていた。


アドレナリンが引いたからか、全身が悲鳴を上げていた。


特に、橋本を殴りつけるために酷使した腕は、ほとんど感覚がなくなっていた。


「おい、京介、逃げるぞ・・・!」


おれの脇に、ぼろぼろになった栄一が立っていた。


「ヤツらがまた現れる前にずらかろうぜ」


相当な暴行を受けたのだろう、足元がふらついていた。


「このクラブは、外に通じてるらしいな」
「ああ、そうだよ。 だから、急げっての。 火に巻かれるぞ!?」
「・・・おれの携帯、知らねえか?」
「あ? 携帯? 知らねえよ。 んなもんまた買えよ、ボンボンだろ!」


栄一がはやしたてるのも無理はない。

地下から這い上がった火の手はすでに、このフロアにも迫ってきていた。


「おい、急げよ。 出られなくなっちまうぞ」


建物が炎上すれば、当然、警察もこの場からは踏み込んで来れないか・・・。


「お前の携帯をよこせ」
「オレもねえよ! こいつらに取られちまった!」」


なら、橋本から奪えばいいか。


「おい、京介・・・なんだよ、てめえ・・・」


・・・宇佐美の番号は・・・090・・・。


完璧だ、憎たらしいほど覚えている。


「ちょ、ちょっと落ち着けって。
いや、お前の考えてることはオレにはわかるぜ、さすがに」


何度も無駄にかけてきやがったからな。


「無茶すんなって。 こいつらみんな狂ってんだぞ!?
つーか、おめえ、オレ以上にぼろぼろじゃねえか・・・」


おれは、どうやら、本気で・・・。

 

・・・。

 

 

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「なんだ、宇佐美!?」
「あ、つながった」
「あ?」
「自分、携帯電話とか持つの初めてでして。
はあ、なんだかドキドキしますね、マイケータイは」
「はあっ?」
「あ、とくに用事はないです。 つながるかな、とドキドキしたかっただけです」

 


・・・。

 

 

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「ですから、ちょっとだけでよろしいんですがね」
「て、言われてもなあ・・・朝方・・・ようは四時とか五時とかみんな初詣が一段落したあたりなら、なんとかなるかもしれんが・・・」
「決まりですね」
「まてまてまて、なにが決まったんだ」
「ようは、わたしを選べってことです」
「もういい、帰れ」

 


・・・。

 

 

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「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あれ?」
「はい?」
「おめかしは?」
「してるじゃないすか」
「ジャージじゃね?」
「おめかしじゃないすか」

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

刑務所にいる父さん・・・。


すまない。


おれは、仇の娘に・・・。

 

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「栄一、お前は一人で逃げろ・・・」
「なっ!?」


おれは気を失った橋本の懐に手を伸ばした。

長方形で固い感触。

あった、携帯電話だ。


「京介よぉ、なんで? わけわかんねえよ、てめえ。
いまなら、逃げられるんだぞ?」
「・・・だな」
「け、警察に任せておけって。
オレたちみたいなガキがどうにかできる話じゃねえって」
「そうだろうな・・・」


だが、その警察も、いまは動きが取れないでいる。


「お、女か? そんなに女が大事なのか・・・?」
「・・・違う」
「ぐっ、わ、わかったよ、じゃあ、オレも・・・」
「いらん。 てめえは役立たずの足手まといだ」


つい、口が必要以上の暴言を吐いてしまう。


「・・・いや、外に出て警察に駆け込め。
警察も、なかの情報はのどから手が出るほど欲しいはずだ」
「でもよ・・・」
「うるせえ、行け!」


橋本が所持していたらしき拳銃が、床に転がっていた。

おれはそれを拾い、栄一に向けた。


「・・・しょうがねえヤツだな、お前は・・・」
「悪いな・・・」
「わかったよ・・・」


うなだれるように、そう言った。


「次の部活を楽しみにしておくよ」


栄一は戸口に向かって走り去っていった。

おれも煙にまかれる前に、とっとと建物を出るとしよう。


「あ、ぐっ・・・」


橋本が気づいたようだ。

おれは頬に平手を打った。


「あ、浅井・・・てめえ・・・」
「死にたくなかったら、とっとと逃げるんだな」


ぎしぎしと悲鳴を上げる体を起こし、おれは外に向かって飛び出した。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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遥か地上で、車のエンジンが聞こえた。

バスだろうか。

大型車両がライトを煌々とつけてアイドリングしていた。

明かりにうっすらと人影が浮かび上がっている。

ぞろぞろと列になって、バスに乗り込んでいった。


人質か。


行くあてを見定めなければ・・・。


携帯が鳴った。


驚いて足を滑らすところだった。

ふらふらとゴンドラが揺れる。


「浅井さん・・・!」


ひどく懐かしく聞こえた。

思わず、目に涙が溜まる。

無事か、と彼は言った。


「浅井さんこそ、変な電話番号からかかってきましたが?」


気にするな、と返ってきた。

いまどこにいる、と低い声で聞いてきた。


「それが、上手く説明するのが難しいんですが・・・」


ハルは現在の状況を打ち明けた。

屋上から落ちたこと。

落下の途中にゴンドラに引っかかって一命を取り留めたこと。

いまなお、ゴンドラに揺られていること。


「さっきから、窓ガラスを破ろうとしてるんですが、どうにも非力でして・・・」


再び、短い質問。

何階だ?


「多分、四十八か七階のあたりではないかと・・・」


わかった。

そして、最後のひと言。


待ってろ――。


「え・・・」


唖然としたまま、通話が切れた。


――まさか、助けに?


そのとき、がくんと、ゴンドラが揺れた。

支えているワイヤーが嫌な金属音を立てていた。


ハルが落ちたとき、その衝撃で・・・。

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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山王物産のビルを目指し、おれは通りを渡り歩いた。

休みたがる体を酷使し、足を前に突き出す。

右手には、橋本が持っていたごつい拳銃。

実弾射撃の経験はないでもない。

一メートルくらいまで近づけば人間にだって命中させられる。

メインストリートは静けさに包まれていた。

連中もいい加減、破壊に飽きたということか。

まだ、生き延びている人間も少なからずいるようだ。

雑居ビルの窓からこちらを覗いていた女が、おれと目が合うと、とっさにカーテンを閉めた。

いまのおれは、どこからどう見ても、まともじゃないらしい。


「坊ちゃんじゃないですか・・・」


不意に、路地の影から、数人の男が姿を見せた。

園山組のヤクザたちだ。

事務所はセントラル街にあるのだから、巻き込まれていて当然といえば当然だが・・・。


「よくご無事で・・・」


男たちは武装も服装も様々だった。

抜き身の刀を持つ上半身裸の男、スーツにサングラスといった出で立ちに拳銃を握る男。


「いやあ、坊ちゃんこそ、災難でしたねえ・・・」


こんな状況でも、笑顔を絶やさない堀部はどこかユニークですらあった。


「いやね、自分らもいままではやられる一方だったんですがね、さすがにガキは寝る時間じゃないですか。
そろそろ反撃に出ようかと思ってたところなんですよ」
「そうですか・・・」
「なにせ新鋭会のゴミどもまで、ガキに加担してるって話じゃないですか。
ったく、オヤジが許してやった恩を忘れてくれちゃってまあ・・・」


残忍に笑っている。

こいつは、死んでも死ななそうだな。


「父の葬儀には参列できそうにありませんね」
「そこですわ。 オヤジの死に目に会えなかったばかりか、葬式にも顔だせねえとあっては、末代までの恥ってヤツでしてね」


おれはゆっくりと首を振った。


「浅井権三に、形式ばった葬儀など不要ですよ」


堀部のめつきが変わった。


「ヤツはきっと、いまごろぶちキレてるでしょう。
聞こえませんかね、怪物の雄たけびが・・・」


俺の葬式などいらん、はむかう者を皆殺しにしろと。


「なあ、堀部さんよ」
「・・・・・・」
「聞こえませんかね?」


堀部は、おれを値踏みするように眺め、やがて、すっと道を開けた。

おれは前へ足を踏み出す。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

「兄貴、どうしたんです?」
「いけねえ、いけねえ、この堀部、ついぶるっちまった」
「はい・・・?」
「一瞬、オヤジが地獄から帰ってきたかと思ったぜ。
ありゃあ、やっぱ、怪物の息子よ」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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静けさに包まれたセントラル街を歩く。

咳が止まらない。

身体の痛みがぶり返し、悪寒と吐き気が足を取ろうとする。

おれはよろめき、ふらふらとしながら夜を掻き分けていく。

道端に寝転がっていた少年がゆっくりと起き上がる。

初めはおれの顔、次に、握っている拳銃に目をやった。

少年は道をよけていった。

見回りをしているようなグループやバイク、自動車をみかけるが、変に逃げたり隠れたりしなかったせいか、呼び止められることはなかった。

車が止まり、すぐに走り去っていく。

道行く暴徒はガンを飛ばしてくるが、たいまち嫌悪感に眉をひそめた。

煤にまみれ、垢にまみれ、汗と血にまみれたおれの行く手をさえぎるものはなかった。

地面がのたうっている。

明かりが宙で揺れている。

歩きに歩いた。

気を失うのはまだまだ先の話だ。

唯一おれを力づけている感情があった。

愛なのか憎しみなのかわからない。

この力をいま少し残してくれるよう悪魔に祈る。


せめて、たどりつくまでは・・・。

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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ゴンドラを吊るしている四本のワイヤーのうち、一本が、切れていた。

耳障りな金属音とともに、ゴンドラが傾いてくる。

傾斜は刻一刻と深くなっていった。


建物側にある一本のワイヤーも、つないである太いネジが取れかかっていた。

腕を伸ばし、ネジを回そうと試みるが、素手では無理な話だった。


・・・二本切れたら終わりだ。


ゴンドラは空中ブランコみたいに回転し、足場が完全になくなる。

ハルは窓ガラスを叩いた。

懸命に、しかし、足場を揺らさないよう慎重に。


けれど、窓ガラスまびくともしない。

なにか、固いものはないか。

分厚いガラスを破れるような・・・。


ない。


何もない。


パニックに陥りそうになる。


慌てればそれだけゴンドラが揺れるとわかっていながら、足が震えだした。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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たどりついた。

高くそびえ立つビルを見上げる。

空は暗く、宇佐美がいるというゴンドラは発見できない。


・・・しかし、妙だ。

山王物産のビルには大勢の人質がいるはずだ。

つまり、テロリストが立て籠もっているはずなのに。

まるで、もぬけの殻といった印象。


・・・ためらっている場合ではない。

中に、入るのだ。


・・・。


エントランスに人気はなく、静寂だけが支配していた。

おれはエレベーターを探し、足を引きずるようにして歩いた。


・・・本当に、誰もいないのか。


はっとして立ち止まる。

暗闇の向こう、非常灯の明かりに、ぼんやりと人影が浮かび上がった。

カチャと音を鳴らし、黒くて大きい銃を構えなおしていた。

なにやら英語で暗闇に向かって話をしている。

円形の大きな柱の陰に隠れながら、様子をうかがう。

敵は、あろうことか、エレベーターホールの前にいた。

直立不動の姿勢で、ぴたりとも動かない。


三十秒・・・一分と、なにもできない時間が過ぎた。


・・・どうする?


いきなり襲い掛かってみるか。


・・・いや、ありえない。

あの背格好と装備からするに、相手はプロだろう。

では、なにか注意を逸らして・・・そうたとえば、物音を立てて、敵がこちらに近づいたときに、一気にエレベーターに駆け寄る。


「・・・・・・」


しかし、何機あるか知らないが、エレベーターが都合よく一階に下りてきているとも限らないし、そもそも、稼働しているのかどうかもわからない。

では、このままヤツがいなくなるまで待つのか?

それが、最も賢い選択に思える。

どういうわけか、テロリストどもは拠点を放棄したようだ。

ずっと待っていれば、あいつも撤収するはずだ。


だが・・・。


すぐ左手に非常口のランプが光っている。

馬鹿な考えが頭をよぎった。

非常口の先には階段の手すりが見えた。


まったく、無謀な考えだ。


けれど、全身がうずく。


じっとしてはいられないと、何かがはやし立てる。


宇佐美が、おれの助けをいまかいまかと待っているかもしれないのだ。


待てば待つほど、力が抜けていく。

休んでいると、不意に眠りたくなる。

反対に、一歩足を踏み出せば、活力が満ちる。

それでいいと、耳元で誰かが吠えた。

その助言に、どこか安心した気持ちになって、おれは階段を目指した。


――そう、四十七階にだって歩いていける。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「も、もしもし、浅井さんですか・・・?」


ハルはたまらず、携帯を手に取っていた。

なんだ、とまた素っ気無いひと言が返ってきた。


「自分、だいぶやばいなと・・・い、いまどちらです?」
「ビルのなかだ」


ぐらりと地面が揺れたような気がした。


「ちょ、ちょっと、正気ですか? テロリストが立て籠もっているんですよ?」
「どうやら、いまは手薄なようだ」
「あ・・・」


そうか。

先ほど人質を移動するためのバスが発進していた。

となると、もう、このビルを守る必要がないのだ。

ならば、もう少し待てば、助けは来る・・・!


「エレベーター、動いてるんですね?」
「さあな」
「・・・え?」


稼働していないのか。

そういえば、先ほどからビルのなかが一気に暗くなったような気がする。


それとも、まだビル内に見張りが残っていて・・・などと考えていると、京介がまた野太い声で聞いてきた。


「だいじょうぶか」
「え、い、いや・・・あのですね、ワイヤーが一本切れまして・・・」


そのとき、電話の向こうでガタンと音がした。

耳障りな風の音が響く。


「どうしました!?」


うめき声が返ってきた。

しかし、どういうわけか、直後に返ってきたのは落ち着き払った声だった。


「いまにも落ちそうなわけだな?」
「え、ええ・・・」


わからなかった。


浅井京介の身になにが起こっているのか。

胸騒ぎが止まらない。


「ビルのどちら側にいるかわかるか?」
「おそらく西側ではないかと。 大手百貨店のデパートがある方角です」


返答がぽつりと途切れた。

空白のときを置いて「わかった」と京介が言った。

続けざまに、また低い声が響いた。


「十分で行く」


京介が怪我をしているのは予想ができた。

けれど、この落ち着きよう、胆のすわりようは、いったい・・・?


「まさか、浅井さん・・・」


通話が切れた。

あとに残るのは吹き上げる風の音のみ。


「まさか・・・」


彼はまさか、一階から階段を登ってきているのではないか。

ハルは知らない。

彼はもっと利口な男のはずだ。

ハルを抱きながらも、好きだと口にしたことも一度だってない。


――なぜ?


ただ、胸のうちで熱いものがこみ上げてきて――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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闇のなか、足を踏み出す。

非常灯の薄明かりだけが頼りだ。

一つ、また一つと階段を登っていく。

鉛のように重い足を前に突き出す。

意識はまるで、眠りに落ちる前のようだった。

もうろう状態が続いている。

だが、まだ自分でちゃんとコントロールしているものがある。

最後に隠し持っていたとっておきの意識みたいなものが、おれを上へ、上へと押し上げていく。

むしろ、自分ではない何かに、引っ張られているような感覚。

そいつが、一刻も早く歩けと命じていた。


もう、それほど時間はないのだと。


凄まじい重力で押さえつけられている足の裏を何度引き剥がしたことか。


太ももは、ぱんぱんに腫れていることだろう。

同じような箇所を何度も回るものだから、めまいが加速していく。

吐き気をごまかして、力を足に集約する。

すでに、十階は踏破したと思う。

たったの十階。

これが、あと五回近く続くのだ。


・・・まったく、なんの罰ゲームか。


くそ、宇佐美め・・・。

 

・・・。

 

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もし、ヤツと再会しなければ・・・。

 


・・・。

 

何度か足がもつれ、階段から転げ落ちそうになった。

壁に寄りかかったとき、そのまま意識を失いそうになった。

眠気というより、純然たる闇が、頭を黒く染め上げようとする。

ふと、壁にあった数字が視界の隅に入った。


26。


「ぐっ・・・」


まだ、二十六階。


暗闇のなか、うめき声が無情に響いた。

圧倒的な寒気に、歯ががちがちと鳴り始めた。

けれど、おれはまだ、腰をおろしてはいない。

よろめいても、ふらついても自分の足で立っている。

誰の助けもいらない。

前に見える階段の踊り場に目標を見定め、そこに向かって踏み出した。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

 

 

また傾斜が深くなった。

みしみしと、金属がねじれるような音がする。


あと、どれくらいもつのだろうか。

緊張のためか、とめどなく汗が噴き出してくる。

汗をぬぐおうにも、それでバランスを崩したらと思うと無駄な動きは一切できない。


窓ガラスの向こうを見やった。

彼の顔を思い浮かべ、目の前に現れる瞬間を想像した。


考えろ。

なにかいま、自分にできることはないだろうか。

ハルは、自分が、京介に愛される資格があるのかどうか、ふと疑問に思うことがあった。


・・・。

 

 

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彼は許してくれたのだろうか。

彼の家庭をめちゃくちゃにしたのは、他ならぬハルの父なのだ。

だからこそ、このまま無力なお姫様のように震えているだけでいいのだろうか。

 

・・・。

 

ハルは冷静に、切れかかっている一本のワイヤーを見た。


――あれが、切れたらこのゴンドラはどうなる?


おそらく、水平だった地面が、垂直になる。

面はなくなり、あとに残るのは・・・。


ハルは慎重にゴンドラの前方に移動し、さらにワイヤーにつながるパイプの上に足をかけた。

意味があるかどうかはわからない。

けっきょく、四本あったワイヤーが二本になれば、長くは持たないだろう。


時間稼ぎにしか・・・。


いや、彼は十分で来るといったのだ。

信じなくては。

ハルは大きく深呼吸して、救いの手を待つことにした。

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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・・・いま、何階か。

いったい、いくつの段を越えたのか。

ぐらぐら、ぐらぐらと、床がうねっている。


熱い。


焼けるようだ。


喉が、肺が、ぜえぜえ、ぜえぜえと、うるさい。


なにを、ぐずぐずしている。


急げ。


足を、前へ、振り上げろ。


くそったれの靴の裏。


地球の中心がここだといわんばかりに、びたりと床を離そうとしない。


横っ腹が息をするたびに刺すような痛みを上げる。


独りだった。


光も風もない人口のビル。


月の光も差し込まない。


役立たずで気まぐれな神様よ、お前の手は借りん。


孤独が人を強くする。


孤独の果てに守るべき女がいればなおいい。


止められるものなら止めてみろ。


この階段は天国には続かない、ぐれた男の花道だ。


獣のいななきが鼓膜を切り裂く。


おれの、声。


「どうしたあっ――!!!」


浅井権三の、声。


宙ぶらりんの自意識が、己の声すら錯覚させる。


おれの心の真髄に染み渡った恐怖の怪物が、吠えに吠える。


さあ、進め。


虫けらのようにひねり殺された母の業を背負い、


復讐の狂気に取りつかれた兄の哀しみを胸に、


仇の娘のもとへ――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 


「・・・っ?」


何かに頭をぶつけた。

硬い、鉄の壁。

押してもびくともしない。

指先が痙攣を起こした。

屈辱の火柱が体内で燃え盛る。

ふと壁を見やった。


四十六階とペイントされている。


防火扉だ。


一度はおれと宇佐美を救ってくれた分厚い壁が、今度はおれの行く手を阻んでいる。

奥歯を噛み締めて身を奮起させた。


・・・こんな・・・。


こんな、馬鹿なことがあってなるものか。


あと少し。


あと、たったの一つか二つ登るだけなのだ。


どこかに、上階にいたる道があるはずだ。


折れそうになった心と足をひきずり、四十六階のフロアを探索した。


亡者のように、歩き回る。


いまさらだが、エレベーターを使うというのはどうか。


いまなら、テロリストはいないかもしれない。


・・・いや。


エレベーターの前まで行ってみて気づいた。


まだ、稼働している。


動かないエレベーターを見張る必要はない。


ということは、一階には、まだまだ銃を持った男がいるということだ。


エレベーターを呼べば、必ず、不審に思って上がってくるだろう。


ならば、他の手立てを・・・。


たとえば、荷物運搬用の小さなエレベーター。


たとえば、人が通れそうなくらいの換気口。


たとえば・・・たとえば・・・なんでもいい・・・。


秘密の隠し通路とか。


テロリストが上階の床を爆破したとか。


なにか、なにか・・・糸口は・・・?


探せ。


もう、約束の十分はとっくに過ぎている。


おれはまた、約束をすっぽかすのか。

 

・・・。

 

 

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宇佐美っ!


ヤツはきっと、今度こそおれを信じている。

なのに・・・それなのにっ!


・・・。

 

「くそおおおっ――――!!!」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「次こそは、誠意ある回答をもらえるんだろうな?」


きっかり一時間後、警察から連絡があった。

わかっている。

時田警視正もつらい立場なのだろう。

政府や警察上層部は、あくまで強気の姿勢なのだろう。

釈放など許さない構えだ。

しかし、囚人は釈放しない、人質を解放しろで、その上、おれに投降しろなどと虫がよすぎる話だ。

どうせ、政府は死傷者の数に見合うだけの警察官の首を切ればいいとでも考えているのではないか。

だが、時田警視正の次の発言はおれの予想を覆すものだった。


「君の要求を、政府は部分的に呑むと、決定が下った」


おれは鼻で笑った。


「交渉人にはフェイクという戦術があるそうだが?」
「にわかには信じがたいだろう。 しかし、これは事実だ。
我々は人命尊重の観点から、君たち武装グループの要求を条件付きで認めることにした」


予想よりも五時間も早い。

正直、政府が要求を認めるかどうかは、やってみなければわからないところがあった。

よほど、今川の命が惜しいのか。

それとも、罠なのか。


「条件とは?」
「まず、君が指名した全ての人間を釈放することは認められない」


・・・いいぞ。


「とくに、国内過激派の主格、過去に政府転覆を企てた・・・」


時田警視正は、そう前置きして、一人二人と、おれの用意したダミーの名前を上げていった。

もともと、そいつらの身柄などどうでも良かった。

警察との交渉材料になると思ったからこそ、さも釈放を匂わせたのだ。


「ふざけた条件だな・・・」


本心をいえば、すぐにでも了承したいところだが、いきなり飛びついては逆に怪しまれる。

腹を立てるふりをしながらも、譲歩の姿勢を示すのだ。


「ということは、残ったのは・・・」
「筧洋介、南田君江、鮫島利勝の三名だ」
「ふざけるな。 たったの、三人だと・・・?」


予想通り、おれの父はリストに残った。

なぜなら、鮫島利勝は、過激派の一派と噂されていた時期もあったが、本物ではない。

実際には政治的な思想などなにひとつ持ち合わせてはいない、善良な死刑囚なのだ。


「これでも最大限の譲歩だとは思わないか?」


ああ、思うさ・・・素晴らしい。


「断れば、武力解決も辞さないというわけだな」
「最大限の譲歩と言っただろう。
これがいかに常識を逸脱した決断か、察してもらえないだろうか」


おれは、ひとまずうなずいておいた。


「回答は後回しにして、他の条件を聞こう」
「無論、人質の解放。 封鎖区域での暴徒の鎮静化。 そして・・・」
「我々の投降というわけだな・・・」


日本の法律で裁かれるなら、まず間違いなく死刑だろうな。


「では、囚人の身柄についてだが・・・」


おれは、どうやって父を含めた三名を国外に逃がすかを指示した。

日本海沿岸の小村まで空輸させ、そこから船で北朝鮮に・・・武器の密輸と大して変わらない。

船が日本の領海を離れれば、あとは手配しておいた仲間が父を拾ってくれる。


「了解した。 それでは、この取引は成立したと考えていいのかな?」
「五分後にかけ直す」


そう言って、通話を切った。

けれど、五分後の答えは決まっていた。

おれは、さすがに満たされる気持ちを抑え切れなかった。


・・・勝ったのだ。


感無量だった。


父さん・・・。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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ハルの予想通り、ワイヤーは無情にも切れた。

いまや、ハルの足元を支えるのは、一本の棒でしかない。

さきほどまで体重を支えていたワイヤーは二本になり、みしみしと音を立てていた。


「・・・っ・・・あ・・・」


まるでサーカス。

もはや、バランスを取ることすら難しい。

ふらふらと、半壊したゴンドラが揺れる。

体勢を立て直そうとするハルを、いたずらな風が煽る。


もう、限界だった。


ワイヤーが持たない。


引きちぎれていくワイヤーの音が、死神の囁きに聞こえる。


「京介、くん・・・」


切れ切れの吐息で呼んでみた。

窓ガラスの向こうに、人が現れる気配もなかった。

自分の恐怖に青ざめた顔があるだけだ。

なんとか歯を食いしばってみるものの、状況はなんら好転する気配を見せなかった。


ひどく、寒い。


また雪がちらついてきた。


ほとんど重さのないはずの雪ですら、いまは、ゴンドラに降り注いで欲しくなかった。


――ああ、どうすれば・・・。


心臓の音が耳の奥で爆発している。

足が、ついに、がたがたと震えだした。

勇者が欠いてはならないはずの勇気が、刻一刻としぼんでいく・・・。


恐る恐る、上を見た。

二本のワイヤー。

ハルの体を支える最後の命綱。

すでにその役割を終えようとしていた。


――京介くん、ごめんなさい。


最後に、ハルは彼を想うことにした。

恐怖に震えたまま死にたくはなかった。


気持ち悪いといいながらも、いつもかまってくれた。

幼少のころに交わした安っぽい約束を思い出してくれた。

彼こそが、暗い人生に暖かい春をもたらしてくれた。

彼を想っていたからこそ、復讐だけにとらわれることもなかった。


「ヴァイオリン・・・もう一度くらい・・・」


・・・せめて、彼のために弾いてあげたかった。


そして、その瞬間は唐突に訪れた。


足場の感触がなかった。


心臓が浮いた。


血液が逆流する。


無様な悲鳴を上げてしまう。


最後の悪あがきと、窓に手を伸ばす。


無駄だった。


窓ガラスは実になめらかだった。


視界が絶望に閉ざされた。


不意に、ガラスが割れる音が闇を切り裂いた。


ああ、彼は来てくれたのだ。


しかし、間に合わなかった。


ハルの身体は、もうすでに空中に投げ出されていた。


重力がハルを死の淵へと誘う。


意識が断続的になり、やがて途切れた。


最後に、京介の絶叫を聞いたような気がした。


彼を悲しませてしまったのが、心残りでならなかった・・・。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

 

 


それははじめ、ハルを呼ぶ声として自覚された。

死を認めたはずの脳が外からの刺激に再び活性化し、活力を与えられた細胞が息を吹き返そうと試行錯誤を繰り返している。


胸のすぐ下、胃の辺りに特に強い刺激があった。

締め付けられるような感触。

ぬくもりすらあった。

一度捕らえたものを逃すまいとする、獣の牙のような力強さがあった。


「ハル・・・!」


また、名前を呼ばれた。


今度は、すぐ耳元。

熱い吐息に思わず体が反応する。

男の声。

自分の下の名前を呼び捨てにする男性は、亡くなった父くらいのものだ。

ということは、ここは地獄なのか。


「目を開けろ・・・!」


しかし、この火照り具合はどうだ。

まるで、彼に抱かれているようだ。

夢でもいい。

ためしに目を開けてみようか。


もしかしたら。


そう、こんなことは、前にも一度あったような気がする。

あのときの空は夕焼けだった。

母からもらった大切な時計を落としてしまったが、命は助かった。

少年はハルをかばうように、抱きすくめてくれていた。


今も、そう――。

 

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「・・・京介、くん・・・!」


背後に、たしかな息づかいを感じた。

荒々しくも優しい吐息は十年前の少年のものだった。

いきなり悪態をつくような男の子ではなかったが。


「・・・手間かけさせやがって」


涙が、止まらなかった。


「どう、して・・・わたし・・・落ちたんじゃ・・・?」
「ああ、ぎりぎりだった。
銃には安全装置ってのがあるんだったな。 もう少しもたついてたら、終わりだった」
「どういうこと・・・?」
「ガラスをぶち破ったんだ、拳銃で」
「それは・・・なんとなく覚えているけれど・・・?」


落下の瞬間に、手をつかまれたような覚えはない。

が、現実にハルはいま、建物のなか、しっかりとした床の上にいる。


「間に合ったんだね・・・そっか・・・落ちたと思ったのは、錯覚だったんだね・・・」
「錯覚じゃねえよ。 実際、落ちてきたよお前は」
「・・・え?」


落ちて、きた――?


京介がしゃべるのもめんどくさそうに言った。


「ここは四十六階だ。 防火扉のせいでそれより上には行けなかった。
おれは下の階から、お前の乗っているというゴンドラを探した。 言っている意味はわかるな?」


うまく、頭が回らなかった。

ずっと彼の声を聞いていたいような甘酸っぱい感情が胸に募る。


「お前は胸もでかいし、髪もバカみたいに長い。
落下してきた瞬間を捕まえるくらい、わけなかったよ」
「そんな・・・」


簡単なはずがない。

ハルは四十八階か四十七階くらいの高さにいたのだ。

そこから、この四十六階までの距離は、最低でも三メートルはあったはずだ。

その落下速度とハルの体重を考えれば、支えた人間が無傷でいられるはずがない。


窓際を見やった。

床から一メートルほど上がったところに窓枠があった。

その一メートルほどの壁に京介は足腰をかけて、踏ん張ったのだろうか。

それがなければ、捕まえた本人も外に放り出されてしまっただろう。


「よく、最後まで生き残ろうとしたな」
「・・・はい?」
「窓にへばりつこうとしやがっただろ。 蛙みたいに」


ふん、と笑っていた。


そうか・・・。


窓のすれすれを落下したからこそ、捕まえてもらえたのだ。


「あ、ありがとう・・・ございました・・・」
「礼なんていい・・・」


とたんに、京介の腕から力が抜けていくのがわかった。

彼は死力を尽くしていたのだ。

煤にまみれた衣服と擦り切れた指を見れば、いかに辛らつな状況を切り抜けてきたかが理解できた。


「礼なんていいから・・・」
「あ、お、お金ですか・・・?」
「違う・・・」


声が、かすれていく。


「・・・もう一度、ヴァイオリンを・・・」

 

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それきり、京介は動かなくなった。

息はある。

気を失ってしまったのだ。


ハルは身をよじらせた。

けれど、もう少しこのままでいたいとも思った。

このままなにもかもを忘れて眠ることができたらどれだけ幸せだろうか。


命懸けで自分を救ってくれた男の腕の中で、少しだけ――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 


「・・・ぐ・・・っ・・・」


ずいぶん寝ていたようだ。

おかげで熱病のようにうなされていた意識はわずかに持ち直した。

けれど、腰や手足、太ももの痛みが思いなおしたように活気づいていた。

すでに、山王物産からテロリストたちは撤収していたが、おれたちは安全のため、再び階段を使った。

二人とも、のろのろと、亀のような動きで、途中、何度も休憩を挟んだ。

 

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「だいじょうぶですか?」
「ああ・・・」


心配されるのは苦手だ。

笑う膝を、なんとかごまかす。


「・・・実は、移動した人質の居場所がわかったんです」
「どういうことだ?」
「ゴンドラに乗っているときに、地上で移動するバスを見つけたんです。
ビルの前から出発して、ちょうど、セントラル街の奥のホテル街の方へ行きました」
「よく見ていたな」
「ええ、バスは明るかったですし、移動するルートもネオンでいっぱいの明るい道でしたから」
「うん、それで?」
「この情報は大きな武器になるのではないかと?」


おれは曖昧にうなずいた。


「なるほどな・・・人質の、得に今川議員の居場所さえつかめれば、警察も突入してくるだろうな」


思案した後、言った。


「近くまで行って、確認してみよう」
「え・・・いいんですか?」
「このまま、あるのかわからない脱出路を探すよりは、確実性がある」


ここまで来てただ逃げ出すのでは、腹の虫が治まらないという理由も少しあった。

怪物の仇を討てと、おれのなかの獣が牙を研いでいた。

おれたちは、互いに肩を支え合いながら、セントラル街の奥へ向かった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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事件発生から約十六時間後。

・・・午前、五時。

警察の対応は迅速だった。

日本海沿岸の漁村に潜む仲間から、先ほど囚人三名をこちらの手配しておいた漁船に乗せたと報告があった。


「結構だ。 鮫島利勝以外の二名は、警察との取引に使ってもいいし、邪魔ならば海に突き落としてもかまわん」


さて・・・。


勝利は約束された。


あとは・・・京介、だろうか。


「フフ・・・せいぜいがんばってほしいものだな」


期待しているぞ、我が半身よ。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

栄一の親父が経営しているというホテルの前を横切った。

 

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「たしか、あっちの通りの方へ・・・」
「ああ、バスが停まってるな・・・」


小さなビジネスホテルがあった。

入口には、銃を構えた男が立っている。


「あそこですね・・・」


おれたちは通りをはさんだ路地の角から、ホテルの様子を探っていた。

突如、入り口のドアからぞろぞろと人が出てきた。

スーツ姿の一団・・・捕らえられていた人質たちだ。

岩井の姿もあって、心底安堵した。

一列に並んで歩き、バスに乗り込んでいく。

人質の列のなかに、今川の姿はなかった。


「浅井さん、これではっきりしましたね・・・」
「ああ、今川はあのホテルに捕らえられているんだろうな」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

「こちらは約束どおり、囚人を所定の場所で引き渡した」
「ご苦労だった。 では、こちらも人質を解放しよう」
「今川議員も?」
「察しがいいことだ。
彼については、仲間が操舵する船が日本の領海を出たら、解放しよう」
「封鎖区域で行われている暴力行為を即刻やめさせたまえ」
「努力しよう。 すぐに収まるものではないと思うがな」
「さて、肝心の君たちの投降についてだが・・・」
「慌てるな。 約束は守る。 もはや、この身がどうなろうともかまわない」


交渉の合間に、ホテルの屋上から周辺を偵察しているアランからある報告があった。


・・・おれはほくそ笑んだ。


勝利だ。


もはや、船は止まらない。


あとは・・・。

 

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

おれは宇佐美に小声で話しかける。


「問題は、どうやって警察に信じてもらうかだが・・・」
「ええ、もう少し明るければ、写メでも撮ってやるところなんですが」
「でも、もう少し近づけないかな?」


人質が乗り込んでいくバスは、かなり明るい。

車内の照明が外まで漏れている。


「・・・たしかに、明かりが取れそうですね」
「暴徒Aが素通りするとみせかけて、こっそり盗撮する」


ホテルの入り口と、人質が護送される瞬間を捉えた一枚があればいいだろう。

おれたちは意を決して、おずおずとバスに向かっていった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「時田警視正、少し待て」


おれは、不意に通話を切った。

ホテルの外に向かって飛び出した。

懐から拳銃を抜き、バスに乗り込んでいく人質の列を割って通りに出る。

 

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・・・宇佐美!


ヤツは屋上から落とした。


・・・まさか、生きてこの場に現れるとはな・・・。


京介と二人、堂々と通りの真ん中を歩いている。


なぜ、ここにいるのか?


このホテルが人質の居場所だとにらんだ結果だろう。


なにやら、まっすぐに歩いているようで、徐々にバスに接近してくる。


バスに近づいてどうする気か?


まさか、銃撃戦を演じて人質を助けようとはしないだろう。


ふと、京介の右手のなかで、フラッシュが炊かれた。


――カメラか。


警察を呼び込む気だ。


おれは冷静に、二人に向かって発砲した。

 


―――――

 

 


「・・・っ!」


おれの頬のすぐ横を銃弾がかすめていった。

 

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振り向けば、黒い"魔王"。


「鼠が・・・!」

 

・・・。

 

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直後、おれと宇佐美は計り合わせたように、地面を蹴っていた。

酷使しすぎた筋肉が、一斉に悲鳴を上げる。

死にたくなかったら動けと、身体に命じた。

もう、写真は抑えたのだ。

逃げ切れば、助かる!


再び、銃声。


生命本能に火がついた。

おれは走りながら、振り向きざまに一発、撃ち返す。

当然、"魔王"に命中するはずもなく、ただ、反動で手首を痛めただけだった。

しかし、一瞬の足止めにはなったようだ。


「あっちです!」


おれたちは細かい路地に逃げ込んだ。


・・・。

 

―――――

 


・・・。

 

銃声が響いた先の路地を追った。


「ちっ・・・!」


宇佐美と京介が逃げ込んだのは、行き止まりの袋小路だった。

にもかかわらず、二人の姿はない。

右手には居酒屋やスナックの裏口らしきドアが三つ連なっていた。

左手にもドアが一つ・・・こちらは物置のようだ。


どのドアか・・・。


候補は右に絞るべきだ。

左を選べば、逃げ場はなく、閉じ込められる形になる。

なぜなら、居酒屋やスナックには表の出口があるだろうが、物置は行き止まりだからだ。

では、三つあるうちのどれが正解か。

一番手前が最も怪しい。

慌てて逃げている状況では、余計な距離を走る余裕はないはずだ。

ためらいなく、手前のドアのノブを回す。

鍵がかかっている。

ヤツらが内側からかけたのか、それとも、もとからかかっていたのか。


・・・いや、待て。


さらに奥のドアを見て気づいた。

ドアの鍵穴が撃ち抜かれている。

さきほど、この路地から一発の銃声が響いた。


つまり、ここだ・・・。


・・・。


ドアを押し開ける。


しゃがんで武器を構え、万一の逆襲に備えた。


いない・・・。


明かりのない居酒屋の店内。

読み違えたか。

椅子は乱れ、テーブルの上に食器が割れている。


不覚。


逃げる二人が踏み荒らしたにしては、店内は荒れすぎている。

鍵穴を打ち抜いたのは、暴れまわった"坊や"たちということか。

路地から聞こえた一発の銃声はただのおとりだったわけだ。

そのとき、目の端に動きが見えた。

路地を挟んだ物置のドアが、ゆっくりと開く。

銃口がのそりとこちらを向いた。

とっさに身を伏せ、弾丸をやりすごした。

弾が床に跳ね返る甲高い音を聞きながら、おれはトランシーバーを取り出し、仲間を呼び出した。


「私だ・・・」


宇佐美も京介もなかなか悪運が強いな。


愉しかったぞ・・・。


しかし、おれの決意は固い。


いまさら警察を呼んでも無駄なのだ。


おれはアランに告げた。


「お遊びは終わりだ。 わかるな?」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

どうやら、思ったほど傭兵の数は多くないようだ。

おれと宇佐美は、追ってを振り切り、セントラル街のメインストリートまで来ていた。

宇佐美が荒い息を整えながら言う。

 

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「お怪我は?」
「いまのところ平気だ」


しかし、たった一日で、一生分の体力を使い果たしたような気がする。

もう、足が、完全に棒になっていた。


「追われたことで、あそこに人質がいるってはっきりしたな」
「ええ・・・しかし、警察にどうやって画像を送ればいいのかと・・・」
「時田に協力してもらおう」
「なるほど・・・そういえば、ユキから二回くらい着信がありましたね。
電話を受ける暇もなかったわけですが」
「時田はたしか、お偉いさんの娘だろ。
おれたちが暴徒じゃないって証明してくれるかもしれない」


宇佐美はさっそく電話をかけた。


「・・・あ、もしもし、ユキか・・・わたしだ。
うん・・・無事だ・・・そっか、ニュースでだいたいのことはわかってるな?
今川議員の所在をつかんだ。
いまから画像をメールするから、なんとかしてお父上に取り計らってくれ・・・」


でも、犯人との対決の真っ最中に、警察官が家族からの連絡を受け入れてくれるものなのだろうか・・・。


いや、緊急で、事件に関係する重要な情報の提供なら・・・。


警察も、今川議員の場所はとにかく知りたいだろう。


「任せといてと言ってます」


・・・ひとまず、時田を信じるしかなさそうだな。


「やはり、"魔王"なのか、とも・・・」
「そうか・・・」


時田は"魔王"と会ったことがあるのだから、その人物像も警察に語るだろう。

当然、警察は"魔王"と時田の関係を追及することになる。


「ちょっと代われ・・・」


宇佐美から携帯をひったくる。


「よう、時田」
「元気? その様子じゃ元気じゃないみたいね」


挨拶につきあっている暇はない。


「この暴挙の首謀者は、お前も知ってる"魔王"だ」
「いま聞いたわ。
ニュースでは、アサイと名乗っていると言っていたけれど」
「そうなのか・・・しかし、おれたちはいまさっきも襲われたところだ。 犯人は"魔王"だ」
「わかったわ。 私もこれから、知っていることを警察にあらいざらい話すわ」


やはりか・・・。


「わかっているだろうが、学園での立て籠もり事件のことは警察には言うなよ」


時田はためらいがちに言った。


「・・・承知したわ」


通話を切った。

しかし、"魔王"の関係者とわかれば、時田もただではすまないだろうな。

過去に"魔王"に従って、いくらかの犯罪者と出会ったというが、その際に、わずかな罪も犯していないとは言い切れないだろう。


・・・まあ、それは、時田が自分でまいた種だ。

自分で、けりをつけるだろう。


「さて、あとは警察が来るのを祈るとしよう」


幸いにも、おれは形だけは武装している。

ごつい拳銃がお守りとなって暴徒を追い払ってくれるだろう。


「・・・・・・」
「ん、どうした?」


なんだ、難しい顔しやがって・・・。


「いえ・・・」
「ん?」
「・・・なにかが、ひっかかりましてね・・・」
「たとえば・・・」
「いえ、漠然としているんですが・・・」


・・・。

 

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「なにか・・・おかしいような・・・」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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数十分後、おれは再び警察との交渉に乗り出していた。

だが、不意に、時田警視正の流暢な口調が淀んだ。


「・・・投降してこい・・・いまから一時間以内に武装を解除し・・・」
「なんだ?」
「なんでもない。 機材のトラブルだ。 さて、どこまで話したかな?」


・・・なにかあったな。


「どうした、アサイ


おそらく、京介たちの送った画像が、対策本部に届いたのだ。


「おい、聞こえているのか?」


特殊班とSATが突入してくるのも、時間の問題だな。


「ああ、聞こえている。 安心してくれ。  約束どおり、投降の用意はある」
「だが、いまだに人質は解放されていないが?」


間違いないな・・・警察もいくらか強気に出てきている。


「負傷者がいるため、手間取っていた。 いま、人質を乗せたバスが発進したところだ」


・・・しかし、もう遅い。


父を救えたのだ。


やるべきことを成し遂げたおれは、母を想った。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

しかし、十分、二十分とたっても、一向に警察が突入してくるような気配はなかった。


「なぜでしょうね?」
「わからんが・・・考えられるのは、突入経路がないからじゃないか?」
「ですね・・・なんとかして、こちらから作れないものでしょうか」
「・・・・・・」


宇佐美の目は真剣だった。

やってやれないことはなさそうだった。

おれのなかに、今日昨日と培ってきた闘志が蘇る。

確認したとおり、プロフェッショナルの傭兵らしき男の数は、暴徒に対して圧倒的に少ない。

ということは、封鎖地点にも、もろい箇所があるはずだ。

道を塞いでいるトラックを動かすことができれば・・・。

「宇佐美、堀部の電話番号はわかるか?」
「え? あ、はい・・・アイスアリーナの一件で」
「ヤツらの協力があれば、封鎖地点を守るガキの一人や二人、排除できるだろう」
「では・・・」
「ああ、こうなったら強引に、警察を招きいれてやる」


"魔王"め、あんたの思い通りにはさせないぞ。


兄さんの悲しみはわからないでもない。


母親を守れなかったおれが、兄さんを責める資格はないのかもしれない。


けれど、"魔王"は、宇佐美を殺そうとした。


何度も、弄んだ。


報いを受ける理由は、それだけで十分だろ、恭平兄さん・・・。

 


・・・。