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Kanon【12】


・・・。


1月29日 金曜日


・・・。


窓の外を眺めていることが多くなった。

教室の喧噪に背を向けて、青い空に流れる雲を、ただ見上げていた。


「・・・時間が止まったように思えるのよね」


四角い窓に、美坂香里の姿が映っている。


「こうやって空を見上げていると・・・」


俺の席の前に立ち、同じように窓の外を眺める。


「本当に時間が止まるわけ、ないのにね」


香里の表情からは、あの夜の面影を感じることはできなかった。


「香里・・・」
「なに? 相沢君」
「昼飯はもう食ったのか?」
「昼食なんて、もう何日も食べてないわよ」


そう言って、穏やかに笑った表情は、少しやつれて見えた。

食べていないのは、昼だけではないのだろう。


「相沢君はもう食べたの?」
「ああ。 苦しいくらい大量に食った」
「そう」
「なぁ、香里・・・」
「なに?」
「・・・まだ栞のことを避けてるのか?」
「・・・・・・」
「あいつは、今を精一杯生きてるんだ」
「・・・・・・」
「残された時間があとどれだけか、なんて関係ない」
「・・・・・・」
「最後まで、栞のことを妹とは認めてやらないのか・・・?」
「相沢君」
「・・・・・・」
「あたしは・・・栞なんて子、知らないわ・・・」
「・・・・・・分かった」


足音を残して、香里が自分の席に戻っていく。

そして、チャイムが鳴った。


・・・。


「今日も1番乗りです」


昇降口の先では、すでに栞が手を振っていた。


「・・・どうして今日も栞の方が早いんだ」
「6時間目の授業が、担任の先生だったんです。 それで、ちょっとだけ早く終わったんです」
「詐欺だ」
「違います。 日頃の行いです」


真新しい鞄に、おろしたての制服。

そして、いつものように、穏やかに微笑む。


「行きましょう、祐一さん」
「よし、とりあえず商店街」
「・・・またですか?」
「だったら、俺が案内できるところで栞が行きたいところ」
「・・・商店街でいいです」
「そのかわり、今日は好きなのをおごってやるから」
「わ。 本当ですか?」
「うまい喫茶店があるんだ」


というか、その店しか知らない。


「楽しみですー」


嬉しそうに目を細める栞と一緒に、商店街に向かう。

陽が、また少し傾いていた。


・・・。


「ここがそうだ」


百花屋

俺が名雪にイチゴサンデーをおごらされた喫茶店だ。


「綺麗なお店ですね」
「綺麗なだけじゃないぞ。 うまくてリーズナブルだ」
「至れり尽くせりですね」


カランッ・・・とドアベルを鳴らしながら、店内に入る。


・・・。


「いっぱいですね・・・」


感心したように店内を見渡す。

放課後の百花屋は、学生服姿の客で埋め尽くされていた。

中には、俺たちと同じ制服もあった。

幸い、空いている席があったので、そこに案内される。

 

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「座れましたね」


おしぼりを持って、栞がほっと息をつく。


「この時間帯が一番混むみたいだな」
「・・・祐一さん」


真剣な表情でメニューを開いていた栞が、顔を上げる。


「確か、今日は祐一さんのおごりなんですよね?」
「まぁな」
「何を頼んでもいいんですか?」
「もちろん」
「わかりました・・・」


ぱたん、とメニューを閉じる。


「ご注文はお決まりでしょうか?」

「俺はコーヒー」

「私は、この。ジャンボミックスパフェデラックスをお願いします」


「かしこまりました」


メニューを受け取って、そのままカウンターに消える。


「楽しみですねっ」
「・・・栞」
「はい?」


おしぼりで手を拭きながら、栞が首を傾げる。


「今の、やたらと大げさな名前の食い物はなんだ・・・?」
「パフェです」
「普通のパフェじゃないだろ・・・」
「ちょっと大きいみたいですね」
「ちょっと・・・か?」
「もしかしすると、凄く大きいかもしれませんけど。 3500円しますから」
「・・・は?」
「3500円です」
「なんで、パフェが3500円もするんだ・・・?」
「やっぱり、大きいからですね」


栞は嬉しそうだった。


「まぁ、いいけど・・・」
「ありがとうございます」
「でも、そんなに食えるのか?」


栞は確か、人並みはずれて少食だったはずだ。


「今日はがんばって、たくさんたくさん食べます。 だって、折角のおごりですから」
「残っても知らないぞ」
「その時は、ふたりで食べましょうね」


おしぼりをテーブルに置いて、そしてにこっと微笑む。

他の誰でもない、俺に向かって。


「・・・ひとつのパフェを一緒に食うのか?」
「はい」
「・・・・・・」


想像すると、とても恥ずかしい光景が浮かんだ。

なんとかそんな事態を回避する方法はないかと思案していると・・・。


カランッ。


アベルが鳴って、新しい客が入ってきたようだった。


「あたし、やっぱり帰るわ・・・」
「わ。 いきなり出ていかないでよっ」
「あんまり、こういう店に入りたい気分じゃないのよ・・・」
「ここのイチゴサンデーが、すっごくおいしいんだよ」
「知ってるわよ。 何度も来てるんだから」
「だったら、ね」
「食欲ないって言ってるでしょ・・・」
「なくても食べないとダメだよ」


名雪と、そして香里だった。


「・・・・・・」


栞は、複雑な表情で、新しく入ってきたふたりの客をじっと見つめている。


「香里、少しは食べた方がいいよ・・・」
「ダイエットしてるのよ」
「嘘だよ」
「・・・そうね。 名雪に嘘ついても仕方ないわね」
「今日はわたしがおごるから。 だから、ね」


名雪は、泣きそうな表情だった。


「・・・分かったわよ。 つき合うわ」
「うんっ」


名雪と香里は、俺たちには気づいていない様子だった。


・・・。


「・・・お姉ちゃん」


栞が、ぽつりと言葉を漏らす。

誰にも届かないような、消え入るような声だった。


「・・・・・・」


俺は・・・。


「おーいっ、名雪


席を立って、名雪に向かって手を振って見せた。


「あれ?」


それに気づいた名雪が、驚いたような表情を覗かせる。


「・・・・・・」


同時に、香里も俺の姿を見つける。

そして、その向かいに座っている少女の姿も・・・。


「良かったら、一緒にどうだ?」
「うん。 わたしはいいよ」
「香里は?」


「・・・・・・」

「・・・・・・・・・分かったわ」

 

抑揚のない声で頷く。


やがて、店内の案内で、ひとつのテーブルに4人が座った。


「・・・・・・」

「えっと・・・初めまして」

「いや、こちらこそ」
「祐一じゃないよ・・・」


「・・・初めまして」


遠慮がちに、栞がお辞儀をする。


「わたしは、水瀬名雪。 こっちは、美坂香里


栞と香里の関係を知らない名雪が、香里も一緒に紹介する。


「私は・・・栞です」
栞ちゃん、1年生だよね」
「はい・・・」
「私たちは2年生だよ・・・って、言わなくてもリボンの色で分かるよね」
「はい・・・」


「挨拶はいいから、何か注文したらどうだ?」
「あ、そうだね」


「・・・・・・」


名雪がいつものごとくイチゴサンデーを注文して、香里はオレンジジュースを頼む。


栞ちゃんは何を注文したの?」
「えっと、ジャンボミックスパフェデラックスです」
「わたし、一度食べてみたかったんだ」
「それでしたら、みなさんで食べませんか」
「わ。 いいの?」
「はい。 祐一さんのおごりですから」
「祐一、お金持ち」

 

「いや、別にお金持ちなわけじゃないけど・・・」


「でも、祐一さん。 何を頼んでもいいって」

「え? 何を頼んでもいいの?」


「ちょっと待て!」


「わたし、イチゴのクレープもお願いしようかな」
「おいしそうですね」
「うん。 わたしのお勧めだよ。 一番はやっぱりイチゴサンデーだけど」
「私も食べたいです」


「・・・やめてくれ」


「冗談ですよ」


最初は緊張気味だった栞も、いつの間にか馴染んでいた。

これも、名雪のおかげかもしれない。


「あ、来ましたよ」


やがて、注文の品が、次々にテーブルの上に並べられる。


「おっきいですね・・・」


テーブルの中央には、巨大なガラスの器が置かれた。

バケツくらいはありそうな器に、たっぷりのアイスや生クリーム、そして果物が盛りつけられている。


「・・・確かに、これだったら3500円くらいはするかもしれないな」


「みなさんで食べませんか?」
「うん」


「というか、ひとりで食えるような量じゃないだろ、これは・・・」


はっきり言って、4人でも無理だと思うが・・・。


「いただきますっ」


嬉しそうに手を合わせる栞に続いて、俺と名雪もパフェをすくい取る。

名雪に至っては、自分のイチゴサンデーと交互に口に運んでいる。


「・・・・・・」


そんな中、香里だけは自分のオレンジジュースを飲んでいた。


「香里も食ったらどうだ?」


無駄だとは分かっているが、一応声をかけてみる。


「・・・・・・」


案の定、返事さえなかった。


「・・・・・・」


そんな姉の表情を、悲しげに見つめる妹。

いなくなるのなら、最初から妹なんていなければいい・・・。

香里にとって、栞を妹として認めるということは、逃げられない悲しみを受け入れるのと同じことだった。

悩んで、苦しんで、そして絶望した先にあった答え・・・。


「・・・・・・」


俺とは反対の選択を選んだ香里・・・。

今、その心の奥にある感情はなんだろう、とふと考える。


「全然なくならないね・・・」

「私・・・もう、無理です・・・」


結局、半分以上を残したまま、俺たちは店を出ることになった。


・・・。


夕暮れの商店街を、4人で歩いていた。

名雪はずっと栞と話をしているし、香里はひとことも口をきかなかった。


「大丈夫、栞ちゃん?」
「ちょっと苦しいです・・・」

 

「食い過ぎだ」
「でも、楽しかったです。 みんなで一緒に食事できて、本当に嬉しかったです」


「そうだ。 今度一緒にお昼食べようよ」
「私でもいいんですか?」
「もちろんだよ。 だって、祐一の大切な人だもん」
「・・・え」


思わぬ言葉に、栞が恥ずかしそうに俯く。


「何なんだ、その大切な人っていうのは・・・」
「え? だって、祐一の彼女でしょ?」


「え、えっと・・・」


名雪の言葉に、栞が真っ赤になって俯いている。

俺としても、こうもはっきり言われると、何も言葉がなかった。


「可愛い子だよね。 祐一にはもったいないよ」
「あ、あの・・・」


「ほっとけ」


「ほんと、見る目がないわね」


今まで一言も喋らなかった香里が、不機嫌そうに呟く。


「余計なお世話だ」


「・・・・・・」


一度も栞と目を合わせようとしなかった香里が、妹の顔をじっと見つめている。



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「余計なお世話じゃないわよ・・・。 だって、栞は・・・あたしの妹なんだから・・・」

 

「・・・え」


香里の口から出た言葉・・・。

かたくなに妹の存在を否定し続けていた、姉の口から出た言葉・・・。

その時の、香里の表情・・・。

それは・・・。


「・・・名雪、帰るわよ」
「え?」
「寄りたい店があるのよ。 喫茶店につき合ったんだから、今度はあたしの買い物につき合って貰うわよ」
「う、うん」


戸惑う名雪を促して、そして、歩き出す。


「それじゃあね、ふたりとも」
「・・・ああ」


夕日の中で、じっと栞の顔を見つめていた香里の表情は・・・。

確かに、笑顔だった。


「・・・・・・」


栞は、ただじっと姉の後ろ姿を見送る。

一度も目を離すことなく・・・。

そして・・・。


「・・・ばいばい、お姉ちゃん」


小さく、そう呟いていた・・・。


「・・・俺たちも、そろそろ帰るか」
「そうですね」


頷いて、香里の後ろ姿を見送っていた視線を戻す。


「それでは、ここで解散です」
「そうだな」
「また明日です、祐一さん」
「ああ、また明日だ」
「はいっ」


満面の笑顔を湛えた栞が、ぺこっとお辞儀をする。


・・・・・・。


・・・。

 

 

 

ふと空を見上げてみる。

赤い雲。

赤い空。

そして、赤い世界。


「・・・祐一君」


呼び止める声に、視線を戻す。

 

「・・・祐一君」


もう一度、赤く染まった少女が、俺の名前を呼ぶ。


「なんだ、あゆか」
「・・・・・・」
「久しぶりだな。 元気だったか?」
「祐一君、あのね・・・」


オレンジに染まる羽。

力なく、揺れる・・・。

 

 

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「探し物、見つかったんだよ・・・」


言葉とは裏腹に、寂しげに呟く。


「良かったじゃないか」
「・・・うん」
「大切な物だったんだろ?」
「・・・うん。 大切な・・・本当に大切な物・・・」
「見つかって良かったな、あゆ」
「・・・・・・」


赤い雲の影が、地面の上を流れている。


「あのね・・・探していた物が見つかったから・・・ボク、もうこの辺りには来ないと思うんだ・・・。 だから・・・祐一君とも、もうあんまり会えなくなるね・・・」
「・・・そう、なのか?」
「ボクは、この街にいる理由がなくなっちゃったから・・・」
「だったら、今度は俺の方からあゆの街に遊びに行ってやる」
「・・・祐一君」
「あゆの足で来れるんだから、そんなに遠くないんだろ?」
「・・・・・・」
「また、嫌っていうくらい会えるさ」
「・・・そう・・・だね」


あゆの小さな体が、赤く染まって・・・。


「ボク・・・そろそろ行くね・・・」


夕焼けを背景に・・・。


「・・・ばいばい、祐一君」


あゆの背中が見えなくなるまで、俺はその場所から動くことさえできなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

1月30日 土曜日


いい天気だった。

まばらに空を覆った雲が、ほとんど流れることなく形を変えている。

眩しいくらいの陽光に照らされて、緩やかな水面が金色に輝いていた。

石畳に浮かび上がる黒い影と白い雲。

1月30日。

ぴんと張りつめた空気は冷たく、まだまだ冬の本番もこれからだが、それでも今日の気候は幾分か過ごしやすかった。

学校が午前中で終わり、そして、走って家まで戻り、簡単に着替えを済ませて家を飛び出す。

約束の時間まではまだ余裕もあるが、ただ、じっとしていることが嫌だった。

限られた時間。 あと、僅か・・・。


・・・。


「・・・あっ、祐一さんっ!」


眩しく視界を遮る光を手のひらで遮りながら、声のした方向に目を凝らす。

同じように私服に着替えた栞が、心臓の鼓動を沈めるように、胸に手のひらを宛いながら駆け寄って来る。


「あれ・・・? もうそんな時間ですか?」


不思議そうに、きょろきょろと街頭の時計を探す。


「いや、まだ約束の時間までだいぶあるぞ」
「ですよねっ。 だって私、急いで来ましたからっ」


白く弾む息を整えながら、俺の元へ。


「もっとゆっくり来ても良かったのに」
「先に来たかったんです。 祐一さんよりも」
「残念だったな」
「残念です・・・。 でも、次は負けませんからねっ」
「じゃあ、ふたり揃ったところで出かけようか」
「はいっ」


無邪気に元気よく頷く栞。

その笑顔を眩しそうに見上げながら、俺もゆっくりと立ち上がった。


「それで、どこに行く?」
「そうですねぇ・・・」


口元に白い手をあてながら、微かに俯いて思案する。


「やっぱり、まずは腹ごしらえだよな」
「アイスクリーム」
「腹ごしらえにアイスクリーム・・・か?」
「アイスクリームを食べましょう」


うんうん、と満足げに頷く。


「もっと腹に溜まる物がよくないか?」
「アイスクリーム、ふたつ」
「数の問題じゃないと思うが・・・」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど、昼飯をちゃんと食べてからにしような」
「それは大丈夫です」


嬉しそうに笑顔を見せると、得意顔で頷く。

そして、どこからともなくハンカチで包まれた弁当箱のような物を取り出した。


「実は、大好評にお応えして、またお弁当を作って来たんです」
「いつ大好評だったんだ・・・?」
「えっ! 違うんですか?」


本気でびっくりしている。


「確かに、結構うまかったけど、大好評ってほどじゃないな。 まぁ、強いて言うなら中好評ってとこだな」
「そんな語呂の悪い中途半端な評価、嫌です。 祐一さん、嫌いですっ」


ぷいっと横を向く。


「じゃあ、中の上好評」
「一緒ですっ。 やっぱり嫌いですっ!」


横を向いていた栞がそのまま後ろを向く。

まぁ、拗ねるのはいつものこと・・・。


「3秒も経てば機嫌も戻るだろう」
「・・・思いっきり聞こえてますよ」


苦笑を浮かべながら、くるっと振り返る。


「そんなこと言った罰です。 今日こそは本当に全部食べてくださいね」
「・・・そうだな」


土曜日の正午。

元気よく走り回る子供たちの喧噪を聞きながら、俺と栞は歩き出す。


「今日は残さず全部食べる」
「約束ですよっ」
「ああ」
「絶対に、絶対に約束ですよっ」


上着のポケットに突っ込んだ俺の手を取るように、栞が横に並ぶ。


「アイスクリームも忘れないでくださいね」
「そうだな・・・。 じゃあ、商店街でアイスクリームを買ってから、弁当を広げられる場所を探そうか」
「はいっ」


上着越しに栞の体温を感じながら、

ゆっくりと遠ざかる水の音を聴きながら、

小春日和と呼ぶには遅すぎる日常の中を、

今はただ、ゆっくりと歩いていく。


「あったかいですー」


いつまでもこんな時間が続けばいいのに、と・・・。

悲しい期待を隠しながら・・・。


・・・。


「わぁ、大盛況ですねー」


土曜日の商店街。

特に、放課後の学生が集まるこの時間は大勢の人で溢れかえっている。

俺たちの学校の生徒だけではなく、他の学校の生徒も大勢混じっている。


「私、今までは人の少ない時間に出かけることがほとんどだったので、びっくりです」
「俺だってびっくりだ」


今日は暖かいから、いつもより人が多いのかもしれない。


「・・・祐一さん」


掴んだ腕を引っ張りながら、栞が俺の顔を見上げる。


「私たち、立派な恋人同士に見えますよねっ」


満面の笑顔だった。


「立派がどうかは分からないけどな」
「そうですね」


他愛ないやりとりに言葉を弾ませ、昼下がりの雑踏を歩く。

特別なことなんて何もない。

他人が見ればくだらないと思うようなことでも、俺にとっては大切な時間。

そして・・・。


「栞、楽しいか?」
「どうしたんですか? 急に?」
「いや、なんとなくな」
「楽しいですよ。 すっごく。 でも、私が楽しいだけではダメです。 側に居てくれる人が、同じ時間を一緒に感じて、一緒に楽しんで、それで初めてかけがえのない思い出になるんです。 えっと・・・」


言葉を止めて、微かに俯く。


「よくは分からないですけど・・・たぶん、そういうものなんだと思います。 あはは・・・私、ずいぶんと勝手なコト言ってますよね?」


もう一度顔を上げて、そして微かに笑う。


「いや、そんなことはないぞ」
「祐一さんも楽しいですか?」
「ああ」
「・・・後悔、していませんか?」
「・・・・・・」


その問いかけを無言で否定するように、栞の細い腕を掴む。


「え・・・わっ!」


そして冬の喧噪の中、商店街を走る。


「わっ、わっ!」


腕を引っ張られて、つんのめるように走り出す。


「ゆっくり行きましょうよぉっ」
「走った方が暖かいぞ」
「今日は走らなくてもあったかいですよっ」


栞の言葉を背中に聞きながら、人混みの商店街を走り抜ける。


「ゆっくり行ってくれないと、祐一さん嫌いですっ!」


栞の非難の声をきっぱりと無視して、やがて目的の場所まで辿り着く。


「着いたぞ」
「・・・つ、つきました」


けほけほと息を詰まらせる栞。

それでも少し落ち着いたようで、ゆっくりと深呼吸している。


「アイスクリームはとりあえずここでいいだろ?」


商店街の奥の方にある、洋菓子専門店。


「わー」


店の看板を見上げて、目を輝かせている。


「ここのアイスクリーム、すっごくおいしいんですよ」
「そうなのか? この前、名雪がシュークリームを買ってて、それで知ったんだ」
「ここはシュークリームもおいしいんですよー」
「栞、涎でてるぞ」
「出てないですっ!」
「冗談だ」
「そんな通りすがりの人が誤解するような冗談言わないでください・・・」
「さて、じゃあ買ってくるか」
「あっ、私、チョコチップがいいですっ」


さっきまでの不機嫌な表情から一変、無邪気に注文を告げる。

見ていて思わず笑みがこぼれるくらい、ころころと表情が変わる。

最初に出会った頃の、どこか不思議な浮世離れした雰囲気は、今では微塵もなかった。

おそらくこれが、本来の栞の姿なんだと思う。


「どうしたんですか?」
「いや、何でもない」
「ふーん・・・」
「そんなことよりも、早く並ぶぞ」
「あ・・・はいっ」


さすがにうまいというだけあって、店の前にはちょっとした人だかりができていた。

もっとも、この季節にアイスクリーム目当てで並んでいるのは、俺とその横の女の子くらいのものだ。


「・・・祐一さん」


じーっとショーケースに貼りついて、色とりどりのアイスクリームのケースを見つめる栞。


「・・・やっぱり、ストロベリーにしてもいいですか?」
「どうせなら、両方食べたらいいんじゃないか?」
「両方はちょっと・・・太りますから」


ガラスに映った顔が、恥ずかしそうに俯く。


「なんだ、そんなこと気にしてたのか?」
「そんなこと・・・じゃないです。 きわめて重要なことです」
「そういうものなのか・・・?」
「そういうものなんです」


神妙な顔で頷く。

やがて、並んでいた客も流れて俺たちの番が回ってきた。


「いらっしゃいませ。 何になさいますか?」
「えっと、バニラひとつ」
「はい」
「それと・・・」


まだ迷っている栞を促す。


「ストロベリーひとつ・・・と、チョコミントも」
「はい。 しばらくお待ちください」


軽くお辞儀をして、クーラーボックスを開ける。

そして、器の中のアイスクリームを機械ですくい取ってカップに入れていく。


「・・・太るから1個にするんじゃなかったのか?」
「・・・これくらいなら、大丈夫です・・・たぶん」
「ふっ・・・だといいけど」
「なんですか、その意味深な『ふっ』は」
「ふっ・・・」
「・・・祐一さん、嫌いです」


ぽつりと呟く。


「お待たせしました」


アイスクリームの入ったカップを袋に入れて、店員が戻ってくる。

中にドライアイスが入っているのか、少し開いた袋の口から白い蒸気がカウンターに漏れる。

とても冷たそうだった。

アイスクリームの袋を見て一瞬で機嫌を直した栞が、店員から嬉しそうに受け取る。


「ありがとうございました」


おそらく久しぶりにアイスクリームをすくったであろうと思われる店員に見送られて、俺と栞は店を後にした。


「さて、問題はどこで食うかだな」


アイスクリームだけなら、別に歩きながらでもいいのだが(もっとも、間違いなく奇異の目で見られるが)弁当もあるとそうはいかない。


「・・・今日は、祐一さんの知っている場所に行きたいです」
「俺の知ってる場所なんて、ほとんど限られてるぞ」
「そうですか?」
「商店街と、学校と、それと居候先の家・・・あとは、栞に教えてもらった公園。 この中で行きたいところなんて、あるのか?」
「祐一さんの家がいいです」
「俺の家・・・?」


予想外の答えに戸惑っていると、栞が真剣な表情でこくんと頷く。


「はい。 祐一さんの住んでいる家を見てみたいです」
「普通の家だぞ」


見たって特別面白いことがあるとは思えないけど。


「それでもいいです」
「商店街の方が12倍は面白いと思うけど」
「どんな基準ですか?」
「何となく」


くすっと微笑みながら言葉を続ける。


「それでも構いませんよ」
「そうだな・・・わかった」
「祐一さん、変なこと考えてませんよね?」
「さて、行こうか」
「わー。 質問に答えてないですー」
「そうと決まれば、走って行くぞ」
「どうして、そんないきなり乗り気なんですか?」
「腹が減ったんだ」
「・・・ホントですか?」
「栞の弁当、楽しみだな」
「・・・そう言っていただけると、嬉しいですけど」
「というわけで、行こうか」
「・・・はい」


アイスクリームの袋を抱えたまま、先に歩き始める。


「わ。 待ってくださいー」


慌てて、栞もついてくる。


「お弁当、重いんですけど・・・」
「俺だって、アイスクリームが重いんだ」
「ぐす・・・少しは持ってください・・・」


情けない声を上げる栞と一緒に、商店街を抜ける。


「仕方ないな、半分だけ持ってやるから」
「はいっ」


栞の、屈託のない笑顔と一緒に・・・。


・・・。

 

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「ついたぞ」
「ここですか?」
「どうだ、見るからに普通の家だろ?」
「ここで、祐一さんは暮らしているんですね・・・」


栞が、感心したように水瀬家の門を見ていた。

商店街からここまでは、それほど遠くはない。

見上げると、まだまだ陽は充分に高かった。

昼飯を食うには、少し遅い時間ではあるが・・・。


「・・・・・・」


見上げた視線を戻すと、栞はまだ家の外観を眺めていた。


「・・・・・・」


この風景を、心のどこかに刻み込むように・・・。

まるで、もう二度とこの場所に訪れることはないと、確信しているかのように・・・。


「・・・少し、寒いですね」


栞が、ストールの裾を合わせる。


「・・・そうか?」


もちろん、寒いことには変わりない。

だけど、今日は風も穏やかで、商店街にいた頃と比べてもさほど差はないような気がした。


「・・・寒い・・・です」


もう一度、栞が呟く。

と同時に、白い息が漏れる。


「こんなところに突っ立ってても仕方ないから、とりあえず中に入るか」
「・・・はい」


栞が、どこか力なく頷いたのを確認して、俺は先に門を開けた。


・・・。


「・・・お邪魔します」


玄関にあがった栞が、遠慮がちに声を出す。


「・・・あら?」


ちょうどその時、リビングのドアが開き、中から秋子さんが顔を出す。


「お帰りなさい、祐一さん」
「ただいま・・・。 ちょっと、お客さん来てるんだけど」


半歩横に移動して、後ろの栞を紹介する。


「おじゃましています」


ぺこっと頭を下げて、挨拶をする栞。


そして顔を上げる。


「・・・・・・」


その顔を、秋子さんがどこか真剣な眼差しで見つめている。


「えっと・・・」


秋子さんが、微かに首を捻る。


「あ・・・栞です。 美坂栞
栞ちゃんね」
「はい」
「何もない家ですけど、ゆっくりしていってね
「ありがとうございます」


もう一度、ぺこっとお辞儀をする。


「2階にいます」


秋子さんに断ってから、栞を促す。


栞ちゃん


階段を上がろうとする栞を、秋子さんが呼び止める。


「・・・もし、祐一さんに変なことをされそうになったら、悲鳴をあげてくださいね」


秋子さんがひどいことを言う。


「はい。 分かりました」


栞も素直に頷く。


「・・・・・・」


少し悲しかった。


「冗談ですよ」


階段の上で、栞は笑顔だった。


「一番奥のドアが、俺の部屋だから」
「一番奥ですね? 分かりました」


とたとたと、階段をのぼっていく。


「祐一さん・・・ちょっと」
「はい?」


振り向く俺を、真剣な表情の秋子さんが見つめ返していた。


「・・・どうしたんですか、秋子さん?」
「・・・栞ちゃん、どこか悪いの?」


真剣な顔そのままで、そう問いかける。


「・・・全然、そんなことないですよ」
「そう・・・それならいいのだけど・・・」
「・・・・・・」
「ごめんなさいね。 変なこと訊いてしまって」


頬に手を当てて、いつもの穏やかな表情に戻っていた。


「・・・いえ」


俺は低い声で小さく頷きながら後ろを向く。

そして、階段を駆け上がった。


「あ・・・祐一さん」


2階にあがると、ドアの前に栞の姿があった。


「先に入ってても良かったのに」
「そういうわけにもいかないですから」
「変に律儀だな」
「普通です」


栞が横に移動して、場所をあける。

俺を先頭に、栞と一緒に部屋に入った・・・。


・・・。

 

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「・・・ここが、祐一さんの部屋ですか」
「ちゃんと片づいてるだろ?」
「私の部屋よりも綺麗です」
「まだ、1ヶ月も暮らしてないからな」


ふたりで座れるような机もないので、部屋の中央に弁当箱やアイスクリームを置く。


「よく考えたら、座布団もないな、この部屋・・・」
「私は平気ですよ。 床の上でも」


そう言って、ベッドにもたれるように、ちょこんと星座する。


「冷たくないか?」
「雪の上よりは暖かいです」
「確かにな」


俺も、その向かいに座る。

しかし、栞の短いスカートでは、床の上はいかにも寒そうだった。


「ストールを下に敷いたらどうだ?」
「ストールは、敷くものではないです。 それに、このストールは私のお気に入りですから」
「だから、いつも羽織ってたのか」
「1枚しか持っていないんですけどね」
「今度、俺が編んでやろう」
「わー、嬉しいですー」
「いや、冗談だけど」
「わー、嬉しいですー」
「いや、だから・・・」
「祐一さんの手編みのストール、楽しみです」
「・・・俺、編めないって」
「大丈夫ですよ、本を読めばできるようになります。 時間はかかるかもしれませんけど、いつか、きっと・・・」


寂しそうに最後の言葉を締めくくる。

その表情の意味を、俺は知っている。

栞との本当に他愛ない話・・・。

そんな小さな幸せの時間さえ、白い肌の少女には残されていなかった。

約束の時間は、明日で終わる。


「栞」
「はい・・・きゃっ!」

 

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栞の小さな体が、後ろに倒れる。


「・・・祐一さん」


すぐ横で、栞の戸惑うような声が聞こえる。

気がついたとき、俺は栞の体を抱きしめていた。


「・・・祐一さん、苦しいです」


力一杯抱きしめた、栞の小さな体・・・。

それは思った以上に小柄で、そして、柔らかかった。


「・・・祐一さん、恥ずかしいです」


言葉通り恥ずかしそうに、顔を赤く染める。


「もう少しだけ・・・」


このままでいたかった。


「私、すごく恥ずかしいんですけど・・・」
「・・・・・・」
「でも、分かりました・・・もう少しだけです」


静かだった。

動くもののない部屋で、栞の鼓動と時計の動く音だけが聞こえる・・・。


「このまま、時間が止まったらいいのに・・・」


そんな栞の言葉さえ、遠くに感じながら・・・。


「栞、キスしたい」
「わ。 ダメですよ・・・」


栞の言葉を、途中で重ねた唇が覆う。

 


「・・・・・・」


栞は真っ赤になって、ぎゅっと目を閉じていた。


「・・・祐一さん、ひどいです・・・そんなことする人、嫌いです」
「俺は、好きだけど」
「・・・・・・」
「栞のこと、ずっと好きでいる」
「・・・・・・」

「約束する」
「祐一さん、恥ずかしいこと言ってますよ・・・でも・・・嬉しいです・・・」


真っ赤な顔で涙ぐみながら、栞が精一杯に微笑む。

俺は、そんな栞が本当に愛おしく思えた。

そして、栞を好きでいられたことが、本当に嬉しかった。

 

「わ・・・」


俺は、栞の唇にもう一度自分の唇を重ねた。

触れあった部分から、栞の体温が流れ込む。

間近で感じる、栞の息づかい。

やがて、どちらからともなく唇が離れた・・・。


・・・。


「・・・いきなりでしたので、びっくりしました」


ベッドから起きあがって、栞が息をつく。


「ごめんな・・・栞」
「祐一さん、私は謝られるようなことをされた覚えはないですよ」


顔を真っ赤に染めて、恥ずかしそうに微笑む。


「私、嬉しかったですから・・・」


その言葉が、その笑顔が、俺には嬉しかった。

だけど・・・。


「お腹、空きましたよね?」


残された時間、あと僅か・・・。


「よく考えたら、朝食べたっきりだよな」
「たくさんありますから、いっぱい食べてください」


笑顔のまま、弁当箱の包みをほどく。


「・・・また、えらく豪快な弁当だな」


中から、色とりどりの具で満たされた弁当が顔を出す。


「でも、この前よりは少しだけ少ないですよ」
「・・・そうかぁ?」


何種類あるのか判別できないくらい大量の具。

ほとんど丸ごと入っている果物。

炊飯器の中身を全て移植したかのようなご飯。

そんな盛りだくさんの巨大弁当箱が、3つ・・・。


「ですから、少しだけ、です」


栞が微笑む。


「こうなったら、全部食ってやる」
「私も応援します」
「・・・他に助っ人を呼んでもいいか・・・?」
「ダメですよ、祐一さんが食べてください」
「できれば、応援だけじゃなくて、栞も手伝ってくれ・・・」
「私は、アイスクリームがありますから」


嬉しそうにアイスの袋を開ける。


「こうなったら、倒れるまで食ってやる・・・」


箸を持って、ひとつ目の弁当箱に取りかかる・・・。


「どうですか?」
「うん。 前よりもうまくなってる・・・」
「良かったですー」


ほっと、息をつく。

笑顔の向こう側にある、悲壮な決意から目を逸らして・・・。

俺は栞の弁当箱に視線を戻す。

リンゴのうさぎは、この前よりはうさぎだった・・・。


・・・。


約束通り弁当を空にして・・・。

もう動けないとその場で倒れる俺に、栞が膝を貸してくれる・・・。

見上げた視界に映るものは、見慣れた天井と、少女の笑顔だった・・・。

栞の膝枕の感触を楽しみながら・・・。

やがて、陽は落ちていく・・・。

また、1日が終わる・・・。


・・・。


1月31日 日曜日

 

・・・。


目が覚めていた。

カーテン越しに差し込む光は眩しくて、今日が良い天気であることを物語っていた。

体をゆっくりと起こして、壁にかかっているカレンダーを見る。

1月のカレンダーの、1番下の数字。

1月31日。

1月最後の日。

そして、栞と約束した1週間が、終わりを告げる日・・・。

栞と会える、最後の日。

そんな1日が、まるで何事もなかったかのように、ただゆっくりと動き出す。


・・・・・・。


・・・。

 

「今日もいいお天気です」


商店街を歩きながら、隣で微笑む少女が、ぐっと背伸びをする。


「私の日頃の行いですね」
「でも、夜は雪になるらしいぞ」
「夜は、祐一さんの日頃の行いです」
「どうして、そんな都合よく分かれるんだ」
「日頃の行いがいいからです」


たおやかに微笑んで、そしてもう一度伸びをする。


「本当に、いいお天気ですね。 それに、やっぱり外は空気が気持ちいいです。 家の中の、25倍は気持ちいいです」
「どんな基準だ、それは」
「それくらい、外の方がいいってことですよ・・・」
「・・・栞?」
「はい?」
「・・・さっきから気になってたんだけど・・・ちょっと顔色悪くないか?」
「いつも通りですよ」


そう言って、首を傾げる。

しかし、そんな何気ない仕草も、どこか憂いを帯びて見えた。


「・・・・・・」
「わ。 じっと見ないでください・・・ちょっと恥ずかしいです」


照れたようにふいっと横を向く。


「・・・栞、ちょっと待て」


栞の手を掴む。


「・・・・・・」


栞の、小さくて柔らかい手・・・。


「もしかして、熱があるんじゃないか・・・?」


その手は、明らかに熱を帯びていた。


「・・・えっと」
「えっと・・・じゃない!」
「ちょっと、だけです・・・」
「でも・・・」
「本当に、ちょっとだけですから・・・」


普通の人にとっては、ちょっとだけかもしれない。

しかし、栞にとっては・・・。


「今日は、ずっと祐一さんと一緒にいます」
「・・・・・・」
「お願いします・・・」


栞にとっても、俺にとっても最後の日・・・。


「本当に大丈夫なんだな?」
「はい」
「分かったよ・・・」
「嬉しいですっ」


栞の表情が、ほころぶ。


「そのかわり、本当に無理はするなよ・・・?」
「はいっ」
「よし、じゃあまずはどこに行く?」
「ゲームセンターがいいです」
「この前の雪辱戦か?」
「はいっ。 今度は負けませんっ」
「じゃあ、今回も負けるにジュース1本」
「祐一さん、ひどいですー」
「だったら、栞は勝つ方にジュース1本だな?」
「わ、わかりましたっ」
「楽しみだな」
「・・・負けないですっ」


栞の笑顔と、その先にある現実の姿・・・。

最後まで、いつもと何も変わらない日常の中を、たったふたりで歩いていく・・・。

それが、少女の望みだから・・・。

俺が栞にしてやれる、たったひとつのことだから。


・・・・・・。


・・・。


流れるように、時間が過ぎていた。

朝。

白く光る粉雪が舞い落ちる街で、

約束の時間よりも早く着いた俺を、白い帽子を被った少女が遅いと言って笑っていた。

昼。

吹き荒ぶ木枯らしにコートの襟を合わせる人の行き交う街で、

お腹をすかせたふたりが、お互いの顔を見合わせながら、どちらからともなく笑い合っていた。

夕暮れ。

帰路を急ぐ大勢の人が、たったひとつの色に染まる街で、

大きな流れに逆らうように、手を繋いだふたりが赤い雪に影法師を落としていた。

そして、夜。


・・・。


「見てください祐一さん、息がこんなに白いですよ」


口元に当てた手のひらの中に、何度も息を吹きかけながら、

上目遣いに俺の顔を覗き込む少女が、陽の落ちた闇の中でたおやかに微笑んでいた。


「祐一さん」


深呼吸をするように息を吐きながら、うっすらと朱を帯びた顔を上に向ける。


「・・・手、繋ぎませんか?」
「そうだな」


ストールを押させる栞の白い手。

ゆっくりと差し出される小さな手に、俺の手のひらを重ねる。

栞の手は、柔らかくて、温かくて・・・。

そして、栞の体にまだ温もりが残っていることに安堵の息を吐いて・・・。

そんなことを考えてしまった自分にどうしようもなく憤りを感じて・・・。

まるでそんな心の内を見透かしたように・・・。

栞は、穏やかに微笑んでいた。


・・・。


淡い証明に照らされた公園。

お互い無言だった。

どちらからともなく向かった先は、静寂の闇を流れる水の音だけが響く場所。

表面の凍った雪をぱりぱりと踏み割りながら、俺と栞はふたり、その場所に立っていた。

雪の結晶に公園の照明が反射して、白い絨毯がきらきらと輝いている。

 

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「・・・・・・」


そんな景色を、栞はただ無言で見つめていた。

栞に言葉はない。

だけど、胸は微かに上下し、小さな唇からは白い息が規則正しく吐き出されていた。


「少しだけ、疲れました・・・」


俺の体にもたれるように寄りかかり、力なく言葉を吐き出す。


「そうだな・・・今日は・・・たくさん歩いたもんな」
モグラさんも叩きました」
「そうだな・・・上手になったな、栞」


俺はこみ上げる感情を押し込めて、努めて平常に言葉を吐き出す。

少女の白い息がすぐ間近で闇にとける。


「・・・どうしたんですか?」


俺にも、そして栞自身も気づいていた。


「・・・あはは、少しだけじゃないかもしれません」


すでに栞の体は、この季節の風に耐えられる状態ではなかった。


「きっと、遊びすぎだな・・・」
「・・・そうですね」


力なく笑った表情が、痛々しかった。


「祐一さん・・・」


栞が、真剣な表情で俺に向き直る。


「もう一度、訊いてもいいですか?」

 

真っ白な息を吐きながら、精一杯の表情で、言葉を紡ぐ。


「・・・1週間前のこと・・・後悔していませんか? 私を受け入れたこと・・・私と一緒にいること・・・今日という日を迎えてしまったこと・・・後悔、していませんか?」
「約束しただろ・・・栞。 俺は後悔なんてしていないし、これから先もずっと同じだ。 今、目の前に栞がいることが、何より嬉しいんだ。 俺は、最後まで栞のすぐ隣にいたいと思っている」
「・・・祐一さんは、強いです」


栞が、笑ったような気がした。


「強いのは栞の方だ」
「それは、違いますよ・・・」


そう言って、ゆっくりと左手の袖をまくる。


「今はほとんど残っていないですけど・・・」


そして、差し出した左手・・・。


「私、自分の手をカッターナイフで切ったことがあるんです」
「・・・・・・」
「祐一さん、最初に出会った時のこと・・・覚えていますか?」


食い逃げをしたあゆと一緒に、ただ闇雲に走った先で、俺は栞と出会った。

雪の上に座り込んで、呆然と俺たちの顔を見上げていた。

散乱した紙袋の中身を、拾うこともなく・・・。


「その日の夜に、私は手首を切ったんです」
「・・・・・・」


言葉はでなかった。

ただ、呼吸に合わせて、白い息が風に吹かれて流されていった・・・。


「3学期の、始業式の日でした。 自分の部屋からお姉ちゃんを見送って、そして、私も部屋を出ました。 普段は、ほとんど使うことのできなかった、このストールを羽織って・・・。 このストール、お姉ちゃんから貰った物なんです。 ちょうど1年前・・・プレゼントをせがんだ私に、お姉ちゃんが特別にって言って、1日早く渡してくれたんです。 ほとんど、使うことはなかったですけど・・・」
「・・・・・・」
「商店街のコンビニでカッターナイフを買って・・・必要もないのに、他にも色々な物を買って・・・大きな紙袋を持って、最後の雪景色を楽しみながら家に帰りました・・・その途中です。 突然、雪が降ってきて・・・そして、祐一さんと、あゆさんに出会ったんです」
「・・・そう・・・だったのか」


あの時の、何かに怯えたような栞の表情・・・。

その向こう側にあった、悲壮な決意・・・。


「あの夜のこと・・・私、覚えています・・・電気の消えた、自分の部屋で・・・たったひとりで・・・静かでした・・・何も聞こえなくて・・・。 何も見えなくて・・・。 何も考えられなくて・・・。 この世界に、ひとりだけ取り残されたような感覚・・・。 自分だけが、場違いな所に迷い込んでしまったような・・・そんな、夜でした・・・」


・・・。

 

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「家に帰って・・・雪で濡れた紙袋を開けて・・・黄色いカッターナイフを握って・・・銀色の刃を押し出して・・・自分の左手に宛って・・・ゆっくりと呼吸をして・・・右手に力を入れて・・・左手に、赤い筋が走って・・・それでも、何も考えられなくて・・・ふと、笑い声が聞こえたような気がして・・・それは、昼間出会った、あの人たちの声で・・・あの笑顔を、あの楽しそうな声を思い出して・・・今の自分がどうしようもなく惨めに思えて・・・つられるように笑って・・・本当に久しぶりに笑って・・・次の誕生日まで生きられないと、お姉ちゃんに教えられた時にも流さなかった涙が流れて・・・笑って出たはずの涙が止まらなくて・・・もう、おかしくもないのに涙が止まらなくて・・・赤く染まった左手が痛くて・・・自分が、悲しくて泣いていることに気づいて・・・そして、ひとしきり笑ったら・・・腕、切れなくなってました」
「・・・・・・」


小さな少女の、悲痛な言葉・・・。

それでも、少女は笑顔で・・・。


「もしかしたら、これが奇跡だったのかもしれませんね・・・」


その笑顔が痛かった・・・。

目の前にある現実を、ただ受け入れるしかない・・・

そう信じている・・・栞の心が痛かった・・・。


「それは、栞の強さだ・・・」
「・・・そんなこと・・・ないですよ・・・。 私は、弱い人間ですから・・・他人にすがらないと生きていけない、弱い人間なんです・・・」
「それでいいじゃないか・・・」
「・・・・・・」
「誰だって、人にすがらないと生きていけないんだから・・・」
「・・・・・・」
「起きる可能性が少しでもあるから、だから、奇跡って言うんだ」
「・・・私には、無理です」
「だったら、俺と約束してくれるか?」
「・・・約束・・・ですか?」
「もし奇跡が起きたら、学食で昼飯おごりな」
「・・・分かりました。 約束します」
「俺は、いっぱい食うぞ」
「その時は、たくさん用意します」
「楽しみにしてる」
「・・・・・・」


手を繋いだまま、ゆっくりと、雪の中を歩く。


「・・・祐一さん・・・」


握った手に、僅かに力が入る。

 

「今日は楽しかったです・・・」
「俺も楽しかった」
「今度、行きたいところがあるんです・・・。 この前、祐一さんと一緒に入った喫茶店に、もう一度行きたいです・・・それから、祐一さんと一緒に、商店街を歩きたいです」
「そうだな・・・歩くだけなら、ただだし・・・な・・・」
「もちろん、買い物もしますよ」
「俺も居候の身だからな・・・あんまり金持ってないぞ・・・」
「ダメですよ、たくさん買って貰いますから」
「・・・そう・・・だな・・・」
「欲しいものもあります・・・」
「・・・ああ」
「・・・それに・・・昨日、新しいお友達ができたんです・・・他のクラスの人ですけど・・・今度、一緒に遊びに行こうって・・・誘ってくれたんです・・・」
「・・・そっか・・・よかったじゃないか・・・」
「・・・はい」
「・・・もうすぐで、新しい学年だな」
「私はたぶん・・・もう一度1年生です・・・」
「大丈夫・・・栞だったら、充分1年生でも通用するから・・・」
「・・・それって、どういう意味ですか・・・」
「小さいからな」
「・・・そんなこという人、嫌い、ですよ・・・」
「・・・そうだな」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「行きたい場所・・・」
「・・・・・・」
「やりたいこと・・・」
「・・・・・・」
「まだまだ・・・たくさん・・・たくさん・・・たくさん・・・あるのに・・・」
「行きたい場所があるんだったら、俺が連れて行ってやる。 やりたいことがあるんだったら、俺も一緒についていってやる」
「でも・・・私・・・祐一さんを困らせることばかりしていました・・・それなのに・・・最後の最後まで・・・迷惑をかけていますよね・・・」
「俺は迷惑だなんて思っていない」
「・・・本当に・・・優しいですね」
「俺は優しくなんかないって」
「それは嘘です」
「自分に正直なだけだ」
「・・・・・・嬉しいです・・・本当に・・・」


雪が、強くなっていた・・・。

舞い降りる光の粒が、空いっぱいに広がっている。

栞の手をぎゅっと握って・・・。

本当に好きだと言える人と一緒に・・・。


「・・・あれ・・・」


横を歩いていた栞の体が、風に流されるように、大きく揺らぐ。


「・・・あはは・・・歩けないみたいです・・・」


崩れかけた栞の体を、できるだけ優しく支える。


「ありがとうございます・・・」


肩にもたれかかったまま、それでもまだ笑顔で、俺の顔を見上げる。


「少し、横になりたいです・・・体、熱いです・・・」
「そこのベンチまで連れていってやるから・・・だから・・・」
「熱いです・・・」
「歩けないんだったら、俺がおぶってでも連れていってやるから」
「私、芝生の上がいいです・・・。 雪の上、冷たそうです・・・冷たくて、綺麗で・・・私・・・雪が好きですから・・・だから・・・」
「分かった・・・」


すでに、自分の力では立つこともできなくなっていた栞の体を、雪の上にゆっくりと横たえる。


「・・・ありがとうございます・・・祐一さん・・・」


微笑むその横に、俺も体を並べる。

 

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見上げた夜空からは、絶え間ない雪・・・。

すぐ隣には、雪に負けないくらい白い肌の少女・・・。

繋いだ手から伝わる温もりだけが、すべてだった。


「祐一さんと出会って、たったの3週間でしたけど・・・」


白い吐息と一緒に、ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぐ・・・。


「私は、幸せでした・・・。 夕暮れの街で、初めて出会いました・・・。 雪の舞う中庭で、再会しました・・・。 一緒にアイスクリームを食べました・・・。 ふたりで商店街を歩きました・・・。 がんばってモグラさんを叩きました・・・。 噴水のある公園を、一緒に散歩しました・・・。 夜の公園で、初めて好きな人の温もりを知りました・・・。 制服を着て、学校に行きました・・・。 好きな人と一緒に、学食でカレーライスを食べました・・・。 好きな人のために、一生懸命お弁当を作りました・・・。 喫茶店で、大きなパフェを食べました・・・。 その夜、本当に久しぶりに、お姉ちゃんとお話しできました・・・そして」


俺の手を、ぎゅっと握りしめる。


「たった3週間の間に、これだけたくさんのことがありました・・・全部、大切な思い出です・・・でも・・・おっきな雪だるまを作れなかったのは・・・残念です・・・私・・・たぶん、死にたくないです。 本当は、祐一さんのこと好きになってはいけなかったんです・・・でも・・・ダメでした・・・」


いつも笑顔で、ずっと笑っていた少女・・・。

最後の最後まで、流れ出る涙をこらえながら・・・。


「私、笑っていられましたか? ずっと、ずっと、笑っていることが、できましたか?」
「ああ、大丈夫だ・・・」
「・・・良かった」


螺旋の雪が、降っていた。

真っ黒な雲から、溢れ出るように流れていた。

聞こえてくるのは、水を叩く噴水の音だけ。

時計の針が回るように、真っ白な雪が螺旋を描いて空に舞っていた。


「あと、どれくらいでしょうか・・・」
「そうだな・・・」


街灯に照らされた、大きな時計・・・。


「これで、私もやっと祐一さんのひとつ下です・・・」


あと、数分で日が変わる・・・。

新しい時間。

新しい月。


「・・・ちゃんと、プレゼントだって買ってあるんだ」
「・・・ほんと・・・ですか・・・?」
「・・・高かったんだからな」
「・・・嬉しいです・・・」
「でも、まだだ・・・」
「・・・そうですね・・・」
「あの時計の針が、0時をさすまで・・・」
「・・・もう・・・少しですね・・・」
「そうだ・・・もう少しだ・・・」
「・・・はい」


そして・・・。


「・・・栞」


・・・。


「誕生日、おめでとう・・・」

 

 

 


====================


夢を見ていた。

とても仲のいい、姉妹の夢。

姉は、誰よりも妹を可愛がっていた。

妹は、そんな姉が大好きだった。

一緒の制服を身に包んで・・・

同じ学校に通って・・・

温かい中庭で弁当を広げて・・・

そして、楽しそうに話をしながら、同じ家に帰る。

そんな些細な幸せが、ずっとずっと続くという・・・

・・・悲しい・・・夢だった・・・。


=====================

 

 

 

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・・・。


誰かの声が聞こえる・・・。

すぐ近くから・・・。

大好きな人・・・。

その人の声・・・。

たったひとつの言葉・・・。


『さようなら、祐一さん』


そして、唇に触れる、温かな感触を残して・・・。

声は、聞こえなくなった・・・。


・・・。


夢から覚めたとき・・・。

その場所に、栞の姿はなかった。

俺の体を包み込むようにかけられたストール・・・。

唇に残る、柔らかな感触・・・。

そして・・・。

降り積もった雪の上に、1冊のスケッチブックが残されていた。

栞への誕生日プレゼント・・・。

そこに描かれた、たったひとつの似顔絵・・・。

目が細くて・・・。

口が大きくて・・・。

色がはみ出していて・・・。

相変わらず下手くそで・・・。

誰を描いたのか分からないような・・・。

そんな、どうしようもなく滑稽な似顔絵・・・。

だけど・・・。

俺はその似顔絵に、ひとりの少女の・・・。

髪の短い、白い肌の少女の・・・。

穏やかな笑顔を重ねて・・・。

そして、最後の言葉・・・。


『さようなら、祐一さん』


その言葉の意味を、知っていて・・・。

俺は・・・。

その場所に崩れ落ちることしか、できなかった・・・


・・・。

 

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『わたし、笑っていられましたか? ずっと、ずっと、笑っていることができましたか?』

 


・・・・・・。

 

・・・。

 


ゆっくりと、

本当にゆっくりと、

見慣れた街並みが姿を変えていた。

街を覆っていた薄暗い雪雲は晴れ、屋根に積もった雪が、路上に流れ落ちる。

うららかな日差しが、開け放たれていたカーテンから差し込み、薄闇の部屋をオレンジ色に浮かび上がらせていた。

穏やかな目覚めだと思った。

あれだけ嫌だった寒風も、緩やかな春風に姿を変えつつある。

後、ほんの少しで、本当の春が訪れる。

白一色に彩られた光景が嘘のように、新しい姿を見せる街並み。

それは、眩しくて、穏やかで、そして俺の知らない姿だった。

布団から身を起こし、制服に着替えて、そして部屋を出る。

相変わらず閑散とした朝の風景にため息をつきながら、名雪の部屋をノックする。

しばらくの沈黙。

曖昧な返事と共に、ゆっくりと扉が開く。

そして、間延びした朝の挨拶。

最近は珍しく寝起きがいいのだという。

やはり、それも春の日差しのせいだろうか。

もう一度着替えに戻る名雪を残して、俺はひとりで階段を降りた。

そして、食卓では秋子さんと顔を合わせて、朝の挨拶。

この冬の間、ずっとこれが朝の姿だった。

小さな変化はあった。

だけど、そんな小さな変化は、全て白い雪に覆われて、まるで風景が凍りついたように同じことの繰り返しだった。

退屈ではなかった。

退屈どころか、毎日が楽しかった。

名雪を起こして、

秋子さんの用意してくれた朝ご飯を食べて、

名雪がのんびりしているものだから時間がなくなって、

名残惜しそうに食器を見つめる名雪の手を引っ張り学校に向かう。

雪の街並みを歩き、

舞い落ちる粉雪の中、

いつの間にかすっかり慣れてしまっていた通学路。

名雪と一緒に学校に向かうこと。

今まで一度も顔を合わせたことのなかったクラスメートと一緒に授業を受けて、

休み時間にはくだらない話で盛り上がる。

そして・・・。

ひとり、雪の中庭に立つ少女。

寂しそうなまなざしで、

全てに怯え、

全てを克服して・・・。

そして悲しみを受け入れて・・・。


『そうですね、奇跡でも起きれば何とかなりますよ』


雪のように白く、


『起こらないから奇跡っていうんですよ・・・』


楽しいときには笑って、

怒ったときには拗ねて、

寂しいときには甘えて、

だけど、悲しいときには決して泣かなかった。

涙を凍らせたように、緩やかに微笑んでいた。


なぁ、栞。

俺は・・・約束守ったぞ。

もうすぐ、長かった冬は終わりを告げる。

誰もが待ち望んでいた瞬間。

もうすぐ。


「・・・名雪
「どうしたの? 祐一」
「春、好きか?」
「うんっ」


白いかけらが舞い落ちていた。

見上げると、どこまでも青く広い空。

名残雪さえ姿を消した街並み。

もう一度、ひらひらと何かが舞い落ちる。

名雪が手のひらをかざしてそのかけらを受け止める。


「・・・桜」


珍しいものを見つけた子供の様に無邪気な笑顔で、自分の手のひらを見つめる。

もう春なんだな・・本当に。


「俺は、冬の方がよかったな」
「どうして?」


不意に呟く俺に、不思議そうなまなざしを送る。


「祐一、寒いの苦手だったのに」
「寒いのは今でも嫌いだけど・・・」


だけど・・・。

雪だるま作れないのは、残念だな。


授業中。

あれだけ室内に響いていた空調の音も消え、黒板をノックするチョークの音が、一際教室に響いていた。

何気なく顔を上げると、すぐ目の前に英語教師の姿があった。

さすがにこの席だと黒板がよく見える。

もっとも、両端に書かれた文字だけは、光が反射して余計に見えにくいのだが。


「・・・・・・」


席替えがあった。

新しい机は、教卓前の特等席だった。

もっとも、これは自分で希望したことだ。

くじ引きに運を託すより、担任に頼んでこの席にしてもらう方を選んだ。

さすがにこの場所を希望する生徒は他になく、俺の願いはあっさりと叶うことになった。

・・・どうしても、窓際の席だけは嫌だった。

やがて、間延びしたチャイムの音が、昼休みの到来を伝える。

俺はいつものように、財布だけを持って立ち上がる。

名雪の姿を確認して、廊下へ。


「・・・ずっと、学食ばっかりだね」


可愛い色の財布を胸元で抱きしめる。

不満を言っている割に楽しそうだった。


「そう思うんだったら、名雪が弁当でも作ってくれ」
「うん、いいよ。 そのかわり、交互につくるんだよ」
「交互って・・・?」
「もちろん、わたしが作った次の日は祐一が作るの」
「・・・マジか?」
「うんっ」
「しばらく学食でいいや・・・」
「残念」


廊下に落ちる日溜まりの中、幼なじみが緩やかに微笑む。

暖色に浮かび上がる、四角く切り取られた陽光。

生徒の影で賑わう廊下。


「・・・・・・」
「どうしたの? 外ばっかり見て?」
「・・・いや、何でもない」
「ん?」
「行くぞ、名雪っ」
「あ・・・! 廊下は走ったらダメなんだよ・・・」


・・・。


「おーい、名雪、大丈夫か・・・?」


いつも通り手軽ね定食を注文して、カウンターで料理を受け取る。


「・・・ごめん、祐一。先に行ってて・・・」


いつも通り、要領の悪い名雪が食券を渡せず手間取っている。


「だから、一緒に取ってきてやるっていったんだ」


数人の頭越しに、名雪らしき姿に声をかける。

この段階で、すでに名雪の姿は人垣で見えなくなっていた。


「だって・・・」


その後の声は、雑踏にかき消されて届かなかった。


「・・・なんか、今日は特に混んでるよな」


これだけの人に囲まれると、さすがにかなり暑い。


「・・・そういえば、ずいぶん暖かくなったな」


生徒で賑わうカウンターの横。

業務用のクーラーボックス。


「・・・もう、おかしくないよな」


たまには、食べてやってもいいかもしれない。

いくら暖かくなったとはいっても、こんなものを好きこのんで食べる物好きも他にいないだろう。

白く曇った業務用のクーラーボックスを開ける。


「・・・あれ?」


しかし、ボックスの中は空っぽだった。

突然の大人気で売り切れ・・・?


「というか、入荷してないだけだろうな・・・」


考えてみれば当然だ。

その当然のことに、やっと学校が気づいたのだろう。


「・・・まあ、いいか」


もっと暖かくなった時。

もっともっと暖かくなった時。

その時に、また・・・な。


「・・・・・・」


ここの風景も、ずいぶん様変わりしていた。

俺の知っている中庭の景色。

一面の雪に囲まれて、冬の冷たい風に揺れる木々。

相変わらず人の姿はないけど・・・。

それでも、もっともっと暖かくなれば、きっと弁当を抱えた生徒で溢れることになるだろう。


「そうなったら、本当に知らない場所だな・・・」


うららかな風を辿るように、陽光に照らされる校舎を見上げる。

開け放たれた窓ガラスの向こう側に揺れるカーテン。

楽しそうに机を並べて、昼食をとる生徒・・・。


・・・。

 


そして・・・。


「・・・で、何やってんだ、こんなところで」
「来たら、ダメなんですか?」
「・・・家で寝てないと・・・治るものも・・・治らないぞ・・・」
「大丈夫です。 今日から学業再開ですから」
「・・・そうか・・・」
「はい」
「もうすぐ3学期も終わりだぞ・・・」
「はい」
「もう1回・・・1年生確定だな・・・」
「そんなこと言う人、嫌いですよ」
「・・・約束、覚えてるだろうな」
「ちゃんと、覚えてますよ。 だから、ここに来たんですから」
「俺、今日はもう昼食食べたぞ」
「ダメですよ、無理してでも食べてください。 折角、いっぱい買って来たんですから」
「そうだな・・・もう、ずいぶん暖かくなったもんな・・・」
「はい。 やっぱり、寒い時より暖かい時に食べた方がおいしいですから」
「当たり前だ・・・」


暖かな日差しだった。

あの白い風景が嘘の様に、

土の香り、

春の風、

そして、紙袋を抱えた少女。


「起こらないから奇跡っていうんです」
「・・・そうだったな」
「でも・・・」


ひとつ、ひとつ、

確かめるように、


「私・・・嘘つきですよね・・・」


噛みしめるように、


「ああ、そうだ」
「祐一さん・・・」


緩やかな表情が、

ゆっくりと、

本当にゆっくりと、


「こんな時・・・」


今まで決して人に見せたことのなかった表情、

誰も悲しませたくないから、

凍った涙の中に隠していた少女の思い。


「こんな時は・・・泣いていいんですよね・・・?」
「泣いてくれないと俺が困る」
「どうして、ですか・・・?」
「男が先に泣くわけにはいかないだろ」
「あはは・・・そうです、よね」


乾いた地面に、アイスクリームの入った袋が落ちる。

 

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「う・・・うぐっ・・・えぐっ・・・祐一・・・さんっ。 私、本当は死にたくなかったです・・・っ・・・お別れなんて嫌です・・・っ・・・ひとりぼっちなんて・・・嫌ですっ・・・うぐっ・・・えっ・・・ううぅ・・・」


絶対に人に見せなかった、悲しい涙。

冬の雪が溶けるように・・・。

地面に落ちる涙、拭うことなく・・・。


「悲しいときには、泣いたっていいんだ」
「えぐっ・・・ううっ・・・っ!」
「ずっと、今まで我慢してきたんだから」
「・・・はい・・・っ」


栞の小さな体を抱きしめながら、

二度と来ることの無いと思っていた時間を確かめながら、

震える少女の肩に手を重ねながら、

耳元で微かに聞こえる声を聴きながら、

俺は、

春の暖かさを、背中一杯に感じていた。


・・・。

 

==================


夢。

夢が終わる日。

雪が、春の日溜まりの中で溶けてなくなるように・・・。

面影が、人の成長と共に影を潜めるように・・・。

思い出が、永遠の時間の中で霞んで消えるように・・・。

今・・・。

永かった夢が終わりを告げる・・・。

今・・・。

ひとつだけの夢を叶えて・・・。

たったひとつの願い・・・。

ボクの、願いは・・・。


====================

 

 

 

 

真っ白な雲の合間を縫うように、頭上からは眩しい陽光が差し込んでいた。

瞼を閉じても赤く染まる暖かな光。

その眩しさに思わず手をかざしながら、瞳を細め青い天井を仰ぐ。

 

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「動かないでくださいっ」


ぷ~っと頬を膨らませながら、空と同じように青いスケッチブックを抱えた少女が、困ったように声をあげる。

静かな公園に、水面の揺れる音が響いていた。

遠くには、微かに聞こえる人の声。

石畳に浮かび上がる影法師を応用に、無邪気に走り回る子供たちの喧噪。

そのすべてが、一足遅れの春の日差しを心から喜んでいた。


「ちょっとくらい、いいだろ」
「ダメです」


真剣な表情できっぱりと却下される。


「今日は最後までつきあってもらいますよ」
「最後って・・・どれくらいかかるんだ」
「ちゃんと描けるまでです」
「・・・ちゃんとは・・・無理だろ」
「・・・うー」


上目遣いで非難の視線。


「そんなこと言う人、嫌いです」


緩やかに表情を崩して、そして、たおやかな笑顔を覗かせる。


「ひどいことを言った罰です。 やっぱり最後まで動かないでください」
「背中が暑いんだけど・・・」
「寒いよりはましです」
「確かに・・・そうかもしれないな」
「はい」


頷いて、スケッチブックに視線を戻す。

再び訪れる静かな時間。


「祐一さん」


スケッチブック越しに、栞の穏やかな声が聞こえる。


「例えば、ですよ・・・。 例えば・・・今、自分が誰かの夢の中にいるって、考えたことはないですか?」
「何だ、それ?」
「ですから、たとえ話ですよ。 祐一さん、退屈そうでしたから」


自分が、誰かの夢の中にいる・・・。


「俺は、ないな」
「私もなかったです」
「なかった・・・ってことは、今は違うのか?」
「そうですね。 そうかもしれません」
「曖昧すぎて俺には分からないけど・・・」
「私にもよく分からないです。 でも、私はこう考えているんです。 私の、私たちの夢を見ている誰かは、たったひとつだけ、どんな願い事でも叶えることができるんです。 もちろん、夢の中だけですけど」
「どうして、そいつは願いを叶えることができるんだ?」
「最初から願いを叶えることができたわけではないですよ。 夢の世界で暮らし始めた頃は、ただ泣いていることしかできなかった。 でも、ずっとずっと、夢の中で待つことをやめなかった・・・そして、小さなきっかけがあった・・・」
「・・・・・・」
「たったひとつの願い事は、永い永い時間を待ち続けたその子に与えられた、プレゼントみたいなものなんです。 だから、どんな願いでも叶えることができた・・・本当に、どんな願いでも・・・例えば・・・ひとりの重い病気の女の子を、助けることも。 たったひとつだけの願いで」
「・・・・・・」
「どうですか、祐一さん? 今のお話は? ちょっと意味ありげでかっこいいですよね」
「別にかっこよくはないけどな」
「祐一さん、ひどいですー」


拗ねるような表情で、そしてすぐに微笑む。


「・・・そういえば、最近あいつの姿見ないな」


ダッフルコートに手袋姿で、いつも元気いっぱいに走り回って・・・。


「あゆさん、ですか?」
「ああ」


子供っぽくて、そして、無邪気で・・・。


「最後にあゆと会ったのは、いつだったかな・・・」


確かまだこの街が真っ白な雪に覆われていた頃・・・

落ちる粉雪の中で・・・。

最後の言葉は何だっただろう・・・。


「相変わらず、元気にたい焼き持って走り回ってるんだろうな」
「もう、たい焼きの季節じゃないですよ」
「そっか・・・そうだな」


季節は春。

舞い落ちるものは、桜の花びら。

木々を覆うものは、新緑の木の葉。


「栞・・・」


呟いて、俺は一歩を踏み出す。


「わっ。 まだ動いたらダメですっ」


吐く息は空気に溶けて、

青一色の空に、白く、どこまでも広い雲のかけら。

木々は緑の帽子を乗せて、

乾いた地面に影法師が落ちる。


「だ、ダメですよっ」


声と共に、栞の小さな体を包み込むように、

真正面から栞を抱きしめる。

 

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「・・・そんなことする人、嫌いです・・・」


耳元で大切な人の声が聞こえる。

そんな、本当にささやかな喜びの中で、

俺は、温かなぬくもりを感じていた。


「結局、作れなかったですね・・・雪だるま。 残念です」


季節は巡り・・・。

そしてまた雪が降る頃・・・。

その時はまた・・・。


「雪だるま作ろうか」


取り戻した時間、再び。


「折角ですから、おっきいの作りましょう」


色とりどりの陽光、そして、雪解けの泉。


「そうだな。 全長50メートルくらいの作るか」


温かな髪にぽんと手を置き、くしゃくしゃになるくらい乱暴になでてやる。

困った表情を覗かせる少女は、それでも、今まで見た中で一番の笑顔で・・・。

精一杯の笑顔で、

氷結した時間を、

来るはずのなかった時を、

そして、あるはずのなかった瞬間を、


『起こらないから、奇跡って言うんですよ』


凍った涙、溶かすように・・・。

 

 

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「はいっ」

 

・・・。

 

 

 


美坂栞編 END