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Kanon【14】

 

・・・。

 


1月20日 水曜日

 


「あぅ、にくまん・・・」
「ぅにゃーーっ!!」


耳元の喧噪に目を覚ますと、寝ぼけた真琴がネコの尻に噛みついていた。


「おい、真琴っ。 とっとと自分の部屋に戻れ」
「・・・あぅ?・・・うん」


状況を把握しているのかいないのか、とりあえずは布団から起き出し、部屋を出てゆく。

その後に、ぴろもついていった。

そっちが、引き続き寝る班であると勘違いしているのかもしれない。

真琴の足取りが、そのまま寝直してしまいそうなほどおぼつかなかったからだ。


・・・。


その日も、俺と真琴は一緒に家を出ることになった。


「はぁっ・・・寒いねぇ」


白い息を吐きながら、真琴が何も持たない手を擦り合わせた。


「当たり前だろ。 いきなり汗かくほど暑かったら恐いぞ」
「日常会話よ、日常会話っ。 そんな突っけんどんに言い返すことないでしょっ」


確かにそうだった。

これまでが常に臨戦態勢だったためか、素直に会話を進めることを条件反射で拒否してしまっているようだった。

真琴も素直になってきているのだから、それは歓迎してやらなければいけない。

それこそここ最近の俺は、そんな関係を求めて奔走していたはずではないか。


「雪、降るよ、たぶん」


気を取り直したように、真琴が空を見上げていた。


「ああ。 雪以外は降らないだろうな」
「なによぅ・・・ウニが降ってきたらコワイだろ、とか言いそうな口振り」
「・・・すごいな、おまえ」


言わないでおこうと思ったことを、ずばり当てられた。


「祐一の考えなんて、簡単にわかる。 浅はかだもん」
「だろうな。 おまえと居ると、俺まで馬鹿になってる気がするもんな」
「それって真琴が馬鹿で、祐一がそれに合わせてるって意味に聞こえるんだけど」
「いや、ふたりが揃うと、一緒に馬鹿になるんだよ」
「あ、なるほどっ・・・って、納得していいのかな・・・」
「いいんじゃないか? 馬鹿なほうが楽しいからな。 それに今時貴重だぜ。 馬鹿でいられるような休まる時なんてな」
「ふぅん・・・」


そう言われて悪い気はしないのだろう。

少し弾むように歩を踏んで、真琴が先を急いだ。

俺もその後を追って、歩幅を広くした。


・・・・・・。


・・・。


昼休みだというのに授業が長引いた。


・・・。


俺は購買のパンの争奪戦に乗り遅れたことを悟り、授業が終わってもなお、のんびりとしていた。

中途半端に向かうと、一番混雑する時間に差し掛かり、人混みに揉まれ辟易するだけだった。

それで結局時間をずらして行った場合と手に入れられるものに変わりがないのだから、得することなどひとつとしてない。


・・・。


わざと時間をかけるために、普段は登下校時にしか通らない階段を使って、1階へと向かう。

その途中で、見覚えのある顔とすれ違う。

校内に酷似している生徒がいなければ、昨日の放課後、廊下で二、三言葉を交わした女の子に間違いなかった。

今日もひとりきりで、友達はいない。

俺は昨日、その女の子と別れてから考えていたことがある。

それは、この子なら、真琴の友達になってくれるんじゃないか、ということだった。

昨日のそぶりでは、真琴に対して良い印象を持っているようだったし、この子も友達が欲しいところだったのかもしれない。

だからその偶然を幸運とばかりに、俺は声をかけてみた。


「よぅ」
「・・・はい」


その子が立ち止まって振り返る。

 

「あ・・・」


そして俺の顔を見て、安心したように警戒を解いた。


「どうしました?」
「ああ。 ちょっと話をする時間あるかな、とか思って」
「今・・・ですか?」
「ああ。 今がいい。 昼飯は?」
「戴きました」
「早いんだな・・・」
「少食ですから」


少食だと食べるのが早いのだろうか。

そのあたりは俺にはよくわからなかった。


「じゃ、ええと・・・」


俺は頭の中で、これからの算段をつける。


「どこか・・・そうだな、学食で話さない? 俺、昼飯まだだし」
「・・・・・・いえ、人が多いところはちょっと・・・」
「そうか・・・なら・・・」
「中庭・・・でどうですか。 お昼ご飯、ゆっくり食べて頂いて結構ですので」
「中庭・・・? 寒いだろ?」
「私は構いませんけど」
「そうか。 なら俺も構わない」
「はい。 そうしましょう」


改めてこうして話すと、はい、という返事に印象的な響きを漂わす子だった。

真剣に話を聞いてくれている。

そのことを常に相手に訴えかけているような。

もっとじっくり話せば、他にも色々といいところが発見できそうで、好感が持てる。


「じゃ、急いでパンでも買ってくるよ。 だからゆっくり行っててくれ」
「はい。 そんなに急がなくても結構ですよ」


背中にその声を聞きながら、俺は嬉しく思っていた。

この子なら、真琴といい友達になってくれるだろう。

いい予感がしていた。


・・・。


中庭に辿り着くと、あの女の子が、こっちですよ、と手を振って呼びかけてくれた。


「寒いけど、ほんとにここでいいの?」


近づいていき、俺は改めて訊いた。


「はい」


ためらいもない返事を聞いて、これ以上は俺も気を使わないことにした。


「じゃ、座ろうか」


俺たちは石段の縁に腰を下ろした。

 

 

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「とりあえず、名前を教えてもらえると呼びやすいんだけど」

「はい。 天野です。 天野美汐(あまのみしお)」
「天野・・・ね」


下級生だったから、気を使わずに呼び捨てにさせてもらうことにした。


「俺は相沢祐一
「はい」
「相沢、とでも、祐一とでも好きに読んでくれればいいよ」
「はい。 では相沢さん、で」
「うん、なんでもいいよ」


腰の隣に烏龍茶の缶を置いて、買ってきた手巻き寿司の封を解く。

さて、どう切り出せばいいものか。

いきなり本題に入るのは唐突すぎるだろう。


「俺、最近転校してきたんだよ、この学校に」
「そうなんですか」
「そう。 まだ二週間ぐらいかな、この町に来てから」
「ずいぶんと変わってますでしょう、そうすると」
「あれ? 昔こっちに住んでいたって話したっけ?」
「いえ」
「だったら、どうしてわかったんだ? 俺が昔、この町に住んでいたって」
「相沢さんが、あの子と知り合いだとおっしゃいましたから、そう思っただけです」
「え?」


ますますわけがわからなくなる。


「あいつと知り合いだと、どうしてここに住んでいたってことになるんだ? 転向してきてから知り合った可能性だってあるし、実際そうだし」
「そうですか」


俺の意見に対して、とりたてて反論することもなく、天野は曖昧な返事をした。

不思議な子だという印象を一層深めて、俺は話を先に進めた。


「だからさ、まだ友達とかもいなくてさ」
「はい」
「こんなふうに気軽に話せる奴もそういないんだよな」
「はい」
「天野は友達たくさん居るんだろうな」
「いえ、いないです」
「そんなことないだろう? もう一年生も終わろうとしてるのにさ」


先を急いで、突っ込んで訊きすぎたかもしれない。


「いえ、本当にいないんです」


訂正するよりも早く、天野はしれっと答えていた。


「それは意外だな・・・気難しく見られるのかな? 話せば、こんなに穏やかに話せるのにな」


フォローをいれつつ、俺はそのまま話を続けることにした。


「私が悪いんだから、いいんですよ」
「積極性が足りないのか?」
「ええ。 知らない人は苦手です」
「そりゃ、誰だって初めは知らない人同士なんだからさ、話してみなくちゃな」
「そうですね」


そういえば、という疑問がふと頭に浮かぶ。


「俺だって、昨日の放課後に話をするまでは知らない人だったはずだよな? それとももしかして・・・昔に会ったことがあったっけ?」
「いえ、ないですよ。 昨日まで知らない人でした」
「じゃ、やればできるってことじゃないか」
「いえ」
「じゃあ、どういうことさ」
「それは・・・相沢さんがあの子と知り合いだとおっしゃったからです。 だから安心できました」


二度まで聞いて、訊き返さずにはいられなかった。


「さっきも気になったんだけどさ・・・あいつのこと知ってるの?」
「いえ」


やはり天野の話すことは、わけがわからない点が多い。

そういう辻褄が合わない不思議なことを言う子なのだろうか。

確かにそれならそれで、友達がいない理由ともなるかもしれないが。


「それで、話は真琴・・・その女の子のことなんだけど」


ようやく要点に入る。


「はい」
「あいつ、人見知りが激しいというか、他人に対して心を開かないんだよな。 家にも女の子は居るんだけど、一緒に暮らしていたって、なかなか親睦が深まらない様子でさ」
「はい」
「友達が一向にできないんだよな」
「・・・・・・」
「特に、ああいう年頃の女の子は友達って大切だと思うんだよ。 悩み事とか、話し合えるような。 ひとりでため込んでいたら、大変だろうからな。 そこで・・・」
「私にあの子の友達になれと言うのですか」


強張った声。

俺は驚いた。

あまりに唐突だったからだ。

それは、それまでの物静かな少女の印象を一変させるような、怒気をはらんだものだった。


「・・・そんな酷なことはないでしょう」


同じ様相で、そう続けた。

後ろめたいものでも見るような目が、じっと地面のその底に埋まるものを見つめていた。

それはひどく彼女を苛立たせるらしい。

だがそれがなんなのかは俺にはわからない。


「・・・・・・」


だから、返す言葉も思いつかない。


「私はあの子とは友達になりません」
「・・・・・・天野、きみは・・・」


ようやく俺は口を開けた。

先刻の、気にかかる言いぐさのこともある。


「やっぱりあいつのことを知ってるんじゃないのか」
「知りません。 それは嘘ではないです」
「じゃあ、どうしてそんなものの言い方をするんだよ。 さっきから、まるで何かを確信しているみたいに・・・」
「はい。 確信しています」
「なにを」
「出会っているはずです。 相沢さんとあの子は」
「いつ」
「ずっと昔に」


彼女がそう言うと、本当にそれは確信めいて聞こえた。

それは、躊躇ということを知らない彼女の口調のせいかもしれない。


「でも、相沢さんの記憶にはない。 そうですね?」
「ああ・・・」
「当然です。 だってそのときのあの子は」


体の温度が下がってゆく。

寒かったから当然かも知れないが、それは血の気が引いてゆく、という感覚かも知れなかった。

ならそれは不吉な予感だ。


「待てっ」


だから俺は腕を伸ばし、天野の顔の先に手のひらを突きつけていた。


「はい」


天野は言われた通り、そこで言葉を止めた。


「それ以上は言わないでくれ・・・」
「わかりました」


天野だからこそ、そんなに冷静でいられるのだ。

おそらく彼女が言おうとしたことは、少なくとも俺をしばらく混乱させるに足る内容のはずだった。

天野の口にかかれあ、身内の不幸だって、他人事のように語られるに違いなかった。

いや、それは言い過ぎか・・・。


「・・・・・・」


俺が続ける言葉に迷っていると、天野が何も言わずに、立ち上がった。

それを待っていたかのようにチャイムの音が鳴り響いた。


・・・。

 

俺は天野という女の子と関わるべきではなかったのではないか、と後悔していた。

彼女は俺の動揺を誘うようなことを的確に口にする。

それが彼女の空想癖のような性分であるとすれば、それほどやっかいなことはない。

それで友達がいないのだとすれば、納得のいく理由だった。

このまま俺と真琴の間に深入りされて、その関係を彼女の妄想から生まれる言葉によりかき回されるとなると、それはやっかいなことだった。

午後の授業も上の空で、俺はくるくるとシャーペンを回していた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

下校時間となると、俺はそそくさと鞄に教科書を詰め込み、教室を後にした。

あの子がどこかで待ち伏せているのではないか・・・

そんな不安が胸中をよぎったが、知った顔には出会うこともなく校門まで辿り着くことができた。


・・・。


「よぅ、待ったか」
「うん、ちょっとね・・・」


いつものように顔を赤く火照らせて待つ真琴と落ち合う。


「じゃ、帰るか」


真琴の肩を押して、早々に学校を立ち去った。


・・・。


家に戻ってくると、真琴は何に夢中になっているのか、一歩も部屋から出てこない。

相変わらず漫画にでもうつつを抜かしているのだろう。

夕食を食べた後は、リビングで流れていたテレビを名雪や秋子さんと一緒になって見ていた。

順番通りに風呂に入ると、後は寝るだけだった。


・・・。

 

布団に潜ったところで、いきなりドアが開き、廊下の光が漏れる。

その影となっていたのは、小さな女の子の体だった。


「ねぇ、祐一」
「なんだ、真琴か」
「うん」
「どうした」
「あのね、ぴろがね」


胸に抱くネコの頭をごしごしと撫でていた。

ネコはそれから逃れようとジタバタと手足で宙を掻いていた。


「ぴろが、祐一と寝たいって」
「おまえは、ネコの言葉がわかるのか」
「もちろんわかんないけどっ・・・でも、そう思ってると思うの」
「・・・・・・ま、俺は構わないけど」
「うん、じゃあ、よろしく」


言って、とてとてと寄ってくる。


「うんしょ」


そして、ネコを抱いたまま、俺の隣に潜り込む。


「どうした、接着剤でネコが手から離れないのか」
「え・・・?」
「つまり、どうしておまえまで布団に潜り込むんだ、ということだ」
「だって・・・ぴろと寝たいもん」
「・・・つまり、こういうことだな。 ぴろは俺と寝たい。 おまえはぴろと寝たい。 だから、みんな一緒に寝る、と」
「うん」
「狭いだろがっ」


堪らず文句を言ってやる。


「ひとり一部屋割り当てられてるっていうのに、どうしてわざわざひとつのベッドで寝なきゃいけないんだよっ。 俺はひろびろーっと寝たいんだよ。 ぐあーって両手両足広げて、ぐるんぐるん寝返りうちたいの」
「いいよ。 そのたびに、空いてるところ探して寝るから」
「そんな器用なことができるか。 それになぁ、おまえと俺はそんなに年が離れてないんだから、世間体も悪い」
「せけんていって?」
「そんな言葉も知らないのか、おまえは。 ようは、おまえと俺が一緒に寝てるなんてことが知れれば、あらぬ不純な関係を想像される、ってことだ」
「よくわかんない」
「・・・・・・とにかく出ろ」
「もう眠い。 部屋まで歩いていけない」


言って、ずぶずぶと鼻まで布団に身を沈める。


「おやすみっ」
「じゃ、俺がおまえの部屋で寝るからなっ」


出よう身を起こすと、ずるっ、とパジャマの下が勢いよくずり落ちた。

真琴が掴んでいたのだ。


「わ、ごめん・・・」
「おまえは何をしたいんだ、一体」
「祐一、向こうにいっちゃうと、ぴろまでいっちゃうもん・・・」
「・・・・・・はぁ・・・わかったよ」


その執念に観念して、俺は布団にもう一度潜り込んで、パジャマをはき直す。


「いいか、今夜限りだぞ。 こんなこと習慣づけられたら、たまったもんじゃない」
「うん・・・」


真琴の寝息を聞きながら、俺も目を閉じた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

なかなか寝付けず、俺は天野という子の言葉を思い出していた。


・・・出会っていた・・・昔に・・・


そして、沢渡真琴という名を漏らすことができた、唯一の存在・・・それは・・・


・・・当然です。 だってそのときのあの子は・・・


こいつは・・・


顔を横に向けると、目と鼻の先に真琴の寝顔がある。


「おまえは一体何者なんだ・・・?」
「・・・・・・それは真琴も知りたいよ」


真琴が薄く目を開けた。


「起きていたのか・・・」
「・・・・・・手がかりがもうひとつあったの」
「なんだ・・・?」
「あの丘・・・あの場所に長い間、居た気がするの」
「丘・・・?」
「うん・・・」
「わかった。 また明日行こうな」
「うん・・・」
「おやすみ」


俺は夢の続きに没頭していった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

楽しい日々・・・。


ずっと・・・


ずっと一緒にいられると思ってた。

ただ、一緒に居たかった。

そして捨てられたと思って・・・

それを考えたら許せなくなって・・・


「・・・・・・」


俺は少女の声に目を覚ましていた。


「許せなくなって・・・ただ・・・」


真琴の小さな唇が動いていた。

その目には、カーテンの隙間から差す月明かりを受けて、涙が光っていた。

すべては明日だ。


・・・・・・。

 


・・・。

 

1月21日 木曜日

 

自然に目が覚めた。

目覚まし時計の針を見ると、起床時間までには、まだ少し余裕があるようだった。

隣で体を丸めて眠る真琴を起こさないようにして、俺は一足先に抜け出すことにした。


・・・。


1階を降りると、秋子さんが炊事に精を出していた。


「早いわね。 もう少ししたら、みんなを起こしてあげてね」
「ええ」


言われなくても、そうするつもりだった。


・・・。


そして起こそうと、自分の部屋に戻って、そこでしばらく真琴の寝顔を眺めていた。

どこか手の届かない胸の奥をくすぐられるような・・・

そして同時に深いところにできた淀みのようなものが揺れ動くような、不思議な感覚が錯綜していた。

ただ、その感覚が何であるかを確かめるようにして、時間を忘れて真琴の寝顔に見入っていた。

その真琴の姿が別なものと重なって見えると、俺は目を閉じてその場を立ち去った。

真琴を起こすことなしに。


・・・。


「真琴っ、先にいくからなぁっ」
「うわぁ、待ってよぅっ」


どたどたと騒がしく、着替えを終えた真琴が階段を降りてくる。


「ほら、早くしろ。 置いてゆくぞ」
「だって、今朝は目覚ましがなかったからぁっ・・・」


それは俺が止めて、部屋を出たからだ。


「鳴ってたのに、おまえが気づかずに止めたんだろ」
「そうなのかな・・・おかしいなぁ」


首を傾げながら、靴をちまちまと履き始める。


「そんなもの、向こうに着いてから履けっ」
「そんなことしたら、靴下、真っ黒になっちゃうよぅっ」
「いってきまーすっ」


いつも通りに騒がしく、家を出る。


・・・。


「時間、だいじょうぶ?」
「まあ、これだったら走らなくてもいいけど。 おまえのほうは?」
「うん、だいじょぶ・・・」


夕べのうちに降り積もった雪がまだ残る道を、俺たちは歩いてゆく。


「・・・・・・」


真琴は、その雪の上をわざと選んで歩いていた。


「危ないぞ」


べちっ。


忠告はぎりぎり間に合わず、真琴の体は思い切り顔面から地面に叩きつけられていた。


「言ってるそばからこれだからなぁ、おまえは」
「あ・・・あぅっ・・・」
「大丈夫だったか」


起きあがった真琴が顔についた泥を払う。

俺も手伝って、服の汚れを落としてやる。


「うん、だいじょぶ・・・」
「でも、俺の時間は大丈夫じゃなくなった」
「え? 間に合わない?」
「急げば大丈夫だけどな」
「じゃ、急ごうっ」
「またおまえが滑るからな。 おまえと別れてから、急ぐよ」
「いいの・・・?」
「いいよ」
「あぅ・・・ごめん」


顔を赤くしたまま、それだけを言って歩き出す。


・・・。


「・・・・・・」
「今日・・・いくんだよね?」
「ああ。 そう思ってる」
「・・・・・・」


最後の角でその会話を交わした後、真琴はひとり踵を返した。


・・・。


昼休みになって、俺はあの子とすれ違った。

俺は努めて気づかない振りをした。

彼女から話しかけてくることはなかった。

確かに、今俺たちに、話す話題などなかった。

凍結されている話題を除いては。


・・・・・・。


・・・。

 

放課後。

 

 

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「祐一、やっときた」


いつものように真琴が校門で待っていた。


「すごく寒かったよぉ」
「悪い悪い」


言いながら、空を見上げる。

低い雲が張りつめていた。


「降ってきそうだな・・・」
「うん、そだね」
「でも、いかないとな・・・」
「うん・・・」
「帰りに肉まん買ってやるからな」
「うーっ・・・お腹空いたから、先に買って」
「・・・・・・」


道順を思い起こす。

行きがけにコンビニのひとつやふたつはあっただろう。


「オッケー。 ふたりで食いながらいくか」
「うん」


ふたり肩を並べて、木々に囲まれた小道を登っていく。

相変わらず濡れたような落ち葉が地面を覆い尽くし、足元を不安定にさせていた。


びたんっ!


もの凄い音がして、振り返ると、案の定真琴が俯せに倒れていた。


「おまえ、ほんとよく転ぶよな・・・」
「あ・・・あぅーっ・・・」


どうにか食べかけの肉まんだけは死守したらしい。

立ち上がると、服の汚れを払う前にそれをもぐもぐと頬張った。


「ほら、こい」


代わりに俺がぱんぱんと上着の汚れを払ってやった。

一日に二度も転ぶと、さすがに汚れが重なって、濃い染みとなっていた。


「帰ったら、すぐに洗濯してもらえよ」
「うん・・・」
「よし、とりあえずはこれでいいだろ」


真琴から手を放して、立つ。


「ね・・・」
「ん?」
「服、掴んでていい? 転ばないように・・・」
「ああ」


真琴がしっかりと俺の上着の裾を掴む。

それを確認してから、再び歩き出した。


・・・・・・。

 

・・・。


視界が開けると、そこは数日前に訪れた場所だった。

二度目だと言うのに、こんなに見慣れてしまう光景なのだろうか・・・。

いや、違うな。

真琴を俺に、接点はあったのだ。

 

 

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「やっぱり・・・家なんて見あたらないのに・・・ここに長いこと居たような気がする・・・」


真琴がじっと、俺の顔を見ていた。


「そうか・・・ヘンな話だな・・・」
「あっ・・・!」


不意に真琴が走り去った。


「おい、真琴!」


俺はその後を追う。


・・・。


茂みの中に分け入り、ぽっかりと小さく空いた広場を前にして真琴は立ち止まる。


「・・・・・・」
「おい、どうしたんだよ・・・」
「・・・・・・」


真琴はただ顔を強張らせ、じっと地面に目を落としていた。

その目は、この場所を見ていない。

遠く、数年前にさかのぼった景色を見ていた。

何故俺が今の真琴の様子を見て、そんなふうに思えるか。

それは俺自身が天野の言葉から触発されるように、ある過去の思い出と対面していたからだ。

つまり、俺は真琴と出会っていたことに気づき始めていた。

でもそれは、そうであるというあくまでも予感でしかなかった。

そしてそれを受け入れてしまった自分を普通の思考では疑わずにはいられなかったから、それを否定し続けてきただけだ。

それは不吉な予感であり、天野の言葉を制した理由でもある。

だから俺は心の底に深い淀みを作り、そこにそのあらぬ妄想を埋没させていた。

でも、今それは妄想なんかではなく、現実味を帯びて首をもたげていた。


「・・・・・・」


真琴の目から、涙が溢れでようとしていた。

だからなおさら、揺さぶられる。

そこは、あの日の別れの場所だったからだ。


・・・。


走れるようになったにも関わらず、そいつは俺の前にちょこんと座ったまま、立ち去ろうとしなかった。

だから俺が去った。

振り返ると、無表情な獣の目が、いつまでも俺のほうをじっと見ていたのだ。


「あのさ・・・」


真琴が小さく口を開いた。


「・・・・・・」


何かを言い出したくて、口ごもっている様子だった。


(記憶が・・・戻ったのか・・・?)


それはどういうことなのだろう。

こいつの記憶は・・・


「真琴・・・」


ぼかっ!


真琴に向けた顔をそのまま思い切り殴りつけられる。


「なにすんだよ、いきなりっ!」
「なんだかわかんないけど、ものすごくムカついたの。 だから今回だけは大目に見てっ」
「理由もなく殴られて、多めに見れるかっ!」
「・・・だって、ここでもの凄くイヤなことがあった気がするから」
「・・・・・・」


そう言われると、俺は何も返せなかった。

もしこんな幻想的な話がほんとうにあるとして、やはりそのきっかけは俺が作ったのだろうから。


「寒いね・・・」


はぁーっと真琴が白い息を漏らした。


「ああ」
「あ、雪・・・・」


見上げると、ちらちらと白いものが目に映った。


「・・・・・・本降りになる前に、帰るか」
「・・・うん」


確かに俺たちは出会っていたのだ。


・・・・・・。

 

・・・。

 

「祐一ーっ、祐一ーっ!」


どんどんどんどんどんっ!


「なんだよっ」


俺がそう返すと、がちゃりとドアが開いて、真琴が顔をぴょこんと出す。


「叩くか、呼ぶか、どっちかにしろ。 うるさいだろ?」
「いきなり開けたら文句言う。 合図しても文句言う。 勝手すぎるっ」
「どうしておまえには中間がないんだっ、端から端へふっ飛んでゆくな」
「ねぇねぇ、そんなことよりもさぁ、新しい漫画買ってきたんだぁ」


ずずいと部屋の中に押し入り、持っていた漫画を自慢げに掲げる。


「それがどうした。 そんなこと、いちいち知らせにくるな」
「でもさ、難しい字が多いんだよね・・・」


ぱらぱらぁーっと目の前でそれをめくってみせる。


「おまえがバカなだけだ。 あきらめろ」
「何よ、バカバカって・・・真琴、バカじゃないもん」
「じゃあ、頑張って読め」
「待って待って。 そこで考えたのよ」
「聞きたくない」
「祐一だって読みたいよね?」
「読みたくない」
「だから一緒に読ませてあげるから、祐一が朗読して。 これで一石二鳥っ」


とことこと近づいてくると、俺の隣に腰を下ろして、ばんっと漫画を広げる。


「森本さんでお願いね」
「おまえは俺の言葉を一言も聞いていないんだな」
「え・・・?」
「誰もおまえの選んできた漫画は読みたくないし、森本さんの真似もしたくない」
「どうして?」
「面倒だからだよっ」
「でも暇そう」
「そりゃ暇かもしれないが、漫画を朗読するよりやりたいことが沢山ある」
「はぁ・・・わかった。 秋子さんに読んでもらう・・・」


俺はその言葉に意表をつかれる。


「なんだ、みんなに断られたから俺に言ってきたんじゃないのか?」
「違うよ。 祐一が最初」
「そうか。 おまえが最初に頼る人間は俺なのか。 それを考えると悪い気はしないな」
「一番暇そうだったから」
「秋子さんに読んでもらえ」


俺は寝返りをうって壁のほうを向く。


「うそうそっ! ほら祐一、面白いよ、これ。 一緒に読もうよぅっ」
「・・・・・・」


機嫌を窺うようにして、慌てて場を繕う真琴がなんだか可笑しい。


「かっ・・・仕方のない奴だなぁ」


秋子さんだって夕飯の支度で忙しいだろう。

それに実際暇だったので、俺は渋々体を反転させた。

ふたり並んで、床に肘を立てて寝そべる。


「なんだ、おまえ、こんな字も読めないのか?」
「だって、難しい字ばっかだもん」
「前に俺が貸してやった漫画が読めて、これが読めないはずないだろ」
「祐一の買うのは、お子さま向けだもん」
「ばぁか、どう見たってこれのほうがガキ向けじゃないか」
「そんなこといいから、夕飯までに読んじゃおうよ」
「ああ、わかったわかった。 わかったから、そんなにくっつくな」
「そんなに離れたら見えないーっ」
「手に息をかけるな、気持ち悪いだろっ」
「いちいちうっさいーっ」
「ほら、読むぞ。 『恋はいつだって唐突だ』・・・げ、なんだこれ、少女漫画か?」
「私語、挟まないのっ」
「『下痢もいつだって唐突だ』」
「そんなこと書いてないっ!!」
「バレたか・・・」


冗談を口にしながらも、俺は何とも言いしれぬ感覚にとらわれていた。

真琴の小さい体をそばに置いて、そのことに初めて気づく。


(あのときとまったく同じじゃないか・・・。 俺が寝転がって本を読んで・・・こいつは、そばに居て・・・)


つん、とその頬を指先でつついてみる。


「わ、なによぅ」
「いや、なんでもない」
「早く、続き」
「わかったわかった」


そうして、たまにアドリブを挟んでは怒鳴られながら、夕飯までの時間を真琴とふたりで過ごす。


・・・。


「・・・『わかった。 絶対に迎えにくるから。 そのときはふたりで一緒になろう。 結婚しよう。 それまで・・・さようなら』・・・っと」
「はぁーっ・・・」
「なんつーベタなラストだ」
「人が余韻を味わっている隣で、けなさないでくれるっ?」
「なんだ、落胆のため息じゃなかったのか? 金の無駄遣いだったぁ・・・って」
「まったく違うーっ!」
「あぁ~、すんごくいいお話だったぁ・・・。って、感動してるのっ」
「それがガキなんだよな、おまえは。 結婚は人生の墓場って言うんだよ。 よく憶えておけ」
「もーっ、そんなに真琴の夢、ぶち壊して楽しいっ?」
「おまえが、理想で固めすぎなんだよ。 現実を知ったときにショックを受けないように、今からレクチャーしてやってるんじゃないか」
「はぁっ・・・祐一と結婚する人は最悪ね・・・」
「おまえとはしないから、安心しろ」
「されたら、舌噛みきるっ」


たんっ、と立ち上がると漫画本を抱いて、部屋を出て行った。


・・・。


その夜・・・

俺は床に入って、暗がりのため高さもわからないような天井をただじっと見上げていた。

覚醒しているにも関わらず、夢の中にいるような気がした。

今日の午後、あの丘に立ったときからその感覚は続いていて、ずっと現実に戻っていない気がする。

長い長い夢だ。


・・・。


あの日、少年だった俺は、丘で一匹の子狐を助けた。

 

 

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何にやられたのかわからなかったが、怪我を負って走れない状態だったからだ。

傷の手当をしてやり、そして走れるようになるまで、家に置いていた。

そいつを話し相手代わりに色々なことを喋った。

一緒に寝たりもした。

半月ばかりのことだ。

たったそれだけだ。

一体そこからどんな物語が発想できるだろう。

何があのとき、始まっていたというのだろう。

一瞬で過ぎ去った出来事の、そのひとつでしかない。

なにもない。

夢なんて見ていない。

そのはずだった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

1月22日 金曜日


・・・。


ぱしっ。


起床を促す目覚まし時計を、布団から抜き出した手で叩く。


「・・・・・・」


(そういや、あいつ・・・夕べは自分の部屋で寝たんだな)

布団に籠もった熱で蒸れたような胸を掻いて、ベッドから降りる。

ヘンにふたりで長く一緒にいると、慣れてしまっていけない。

居ないとなると妙に違和感があるからだ。


(それほど、時間も経っていないというのにな・・・)


あるいは、昔のものまで合計して感じているのだろうか。


・・・。


「真琴ーっ、起きろよっ」


部屋の前を通る際、どんっ、とそのドアを叩いてやってから、朝食の場へと向かった。


・・・。


皆、黙々と朝食をとっている。

珍しく静かだった。

その中、カン、と音がした。

「ん?」

見ると、真琴の手には何もなかった。


「あれ・・・箸落としちゃった」

「あらあら。 はい、洗ってあげるから」


秋子さんが立ち上がり、真琴の手から箸を受け取る。


「ごめんね」


水で濯ぐと、布巾で軽く拭き、それを真琴の手に戻す。


「はい。 しっかり持って食べなさいね」
「うん」


真琴は受け取ったはいいが、握る様子もなくそれを手の中でころころと転がしていた。


「・・・・・・」
「どうした、真琴」
「あぅ?」


真琴が顔をあげる。


「もう食べないんなら、もらうぞ」
「あ、ダメーーーッ!!」


自分の分のおかずを死守するように手を広げて、それを覆った。

すると、再び手の中の箸が、床に落ちる。


「なにやってんだ、おまえ」

「あ、秋子さん、ごめんなさい・・・」


再び秋子さんが立ち上がり、落ちた箸を受け取っていた。


「ねえ、秋子さん・・・」
「なに?」
「スプーンで食べたい・・・」
「どうして? 箸使えてたでしょ?」
「そう・・・なんだけど、なんか手が疲れてて・・・」
「そう。 わかった。 それじゃ今日だけね。 行儀悪いから、習慣づけたりしちゃダメよ?」
「うん、わかってる」


「おまえなぁ、親心でおまえの成長を見守ってやってるのに、意に反してガキに戻ってゆくな。 嫌がらせのつもりか」

「祐一、そんなわけないよ」


「はぁ・・・疲れてるのよ、今日は・・・」


受け取ったスプーンで、カチカチと音をたてながらご飯をつつき始めた。


「ふぅん・・・」


本当に疲れているようだったので、それ以上茶々を入れるのは止めにしておいた。

 

・・・。


「真琴ーっ、いくぞーっ」


玄関から呼びかけると、とんとんとんっと階段を降りて、真琴が姿を現す。


「うん、いこっ」


・・・。


「夕べはどうした」
「うん?」
「どうせ夜更かしして、また漫画でも読んでたんだろう」
「ううん、ちゃんと寝たよ」
「じゃ、調子が悪いのは寝すぎか?」
「え・・・? あ・・・うん、そうかも・・・」
「おまえは限度を知らないからん。 何事もほどほどにしておくんだぞ」
「うん・・・わかった」


素直に頷く真琴。

今朝の様子からしてみてもわかる。

水瀬家にきてからずっと気を張り詰めさせていて、精神的に疲れていることに気づいていないのだろう。

俺は肩でもほぐしてやるように、頭を軽くぽむっ、と叩いてやった。


「じゃ、バイト、頑張れよ」
「うん・・・」


学校を目前に、別れた。


・・・。


昼休み。

俺たちは、中庭で肩を並べていた。


一日を経て、互い共通する唯一の話題は解答の日を見る。


「本当に俺とあいつは出会っていたのかもしれない」


俺はそう話を切り出した。


「はい」


天野という子は、いつも通りの無表情で返事をした。

俺にはその無表情が信じられない。

そう返事をするということは、にわかには信じがたい事実を受け入れているということだった。

いや、実際受け入れているのだ、彼女は。

ずっと前からそれを知っていたのだ。


「それは人じゃない、ということなのか」
「はい」


そういうことだ。

実際、そのひとつとして挙げた事実は、今信憑性を帯びてきている。

もはや彼女は妄想癖を持った狂言者などではなく、俺にとっての唯一の相談相手だった。

もしやこの天野という子も、過去に真琴と接しているのではないのか。

そうも考えるが、それよりも先にすべき質問が山ほどあった。


「一体、何なんだ、あいつは。 何が目的で、こんなことをしているんだ」
「あの子は、ただ本当に相沢さんに会いにきただけでしょう。 それ以外に理由はないはずです」
「会いにくるって・・・会ってどうしたかったんだよ」
「会いたかっただけです」


天野は繰り返した。


「今、相沢さんは、束の間の奇跡の中にいるのですよ」
「奇跡・・・」


確かにそれぐらいの言葉を持ち出してこないと、見合わないような状況だ。


「そして、その奇跡とは、一瞬の煌めきです。 あの子が自らの命を引き換えとして手に入れたわずかな煌めきです。 それを知っていてください」
「それは・・・自分の命を捨ててまでしてわずかな時間、俺に会いにきたってことか」
「私はそう思います」
「なんなんだよ、それって・・・」


あいつのとっている行動と、今、天野の口から語られている事実にはあまりに食い違いがある。

そんな過酷な運命を背負って・・・そんな大層な決意を持って、俺の前になんか現れていないはずだ。

もっとのほほんと、能天気にいつも居たはずだ、あいつは。


「・・・・・・」


しばらく空いたその間を天野はどう読んだのだろうか。

やはり的確に、答えを提示した。


「でもこの奇跡の一番の悲劇は・・・それをあの子が悟っていないということです。 知ってますでしょう。 あの子は何も知らないのです」


それは記憶喪失のことを言っているのだ。

本当に、何もかも知っているのだ、この子は。


「奇跡を起こすには、ふたつの犠牲が必要だってわけだ。 記憶と、そして命」
「はい」


俺は一度深呼吸をして、自分を落ち着けることに精一杯だった。


「訪れる別れは、相沢さんがあの子に情を移しているほどに、悲しいものです。 それを覚悟しておいてください」
「どういうことなんだよ、それって・・・」


話が終わってしまいそうだったから、そう訊いた。


「・・・・・・」


だが天野はそれには答えない。


黙って立ち上がると、始業合図の訪れを待っていた。


「あと、ひとつ」
「ああ」


続きがあることで、俺はほっとした。


「これ以上、私を巻き込まないでください」


それを言い終えたとき、チャイムが鳴り始めた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


校門には、いつものように真琴がひとりで佇んでいた。


「寒かったか」


その頬に手をあてる。

子供のように血色よく火照ったそれは、俺の手よりも温かい。


「寒かったけど・・・寒いほうが、肉まん美味しいから・・・」


強がりのようなことをいって、俺の先を歩いてゆく。


今日も肉まんか・・・と呆れて俺もそれに続いた。


・・・。


ふたりして肉まんを食べながら、商店街を呑気に眺めて歩く。

ここのところ肉まんばかり食べていたから、さすがに飽きてきたような気がした。

だが真琴は微塵もそうは感じていないようで、夢中でもぐもぐと頬張っていた。

その食べっぷりを見ていると、飽き飽きしているはずの肉まんでも、とても美味しそうに見えてくるから不思議だ。

いつもと変わらないはずの肉まんに期待をこめて、俺もかぶりついた。


・・・同じ味だった。

 

・・・。


「あぅ・・・」


先を歩いていた真琴が足を止めたかと思えば、やはりそこはゲームセンターだ。

見入るのは、店前に設置されたプリント機。

宣伝文句を見ると、新型のものが入荷されたようで、女子高生が気の遠くなるような長い列を作っていた。


(そういやこいつ・・・この前もひとりで写真撮ってたよなぁ・・・)


そのことを思い出す。

あのひとりきりで写っている写真は今も大事に財布の奥に仕舞ってあるのだろうか。

それを思うと、いつもひとりきりの真琴を象徴しているようで、気分が暗澹(あんたん)となる。


「おい、真琴」


肩に手を置いて呼ぶと、敏感に反応して、さっと身構えた。


「そんなに警戒するな」
「だってぇ、また混ざって撮ってこい、とか言うんでしょ・・・?」
「撮りたいんんだろ?」
「あんなもの撮りたくないわよぅっ」


いくら素直になったといっても、この辺りのあまのじゃくはまだ治っていないようだった。


「そっか。 じゃ、撮りたくなったら言えよ。 付き合ってやるから」


俺は精一杯気を使ったつもりで言ってみる。


「祐一と一緒に写ってる写真なんて、速攻で燃やしてやるわよぅ」


だが真琴はそれにも悪態をついて、逃げるようにぱたぱたと駆けてゆく。


「ったく、あいつは・・・」


ゆっくり歩いたり、突然走ったりと、いつものように無茶苦茶なペースで家路を辿る。


合わせるこっちの身にもなって欲しいものだ。


・・・・・・。


・・・。

 

今日も相変わらず真琴は家に戻ってきてからは、部屋にこもりっきりだった。

部屋の前を通りかかると、中からたまに、困り果てたように『あぅーっ』と声が聞こえてくる。

寝ているわけでもなさそうだった。

みんなと一緒にテレビでも見ていたほうが楽しいだろうに・・・。

そう思いながら、俺は自室へと戻った。


・・・・・・。

 

・・・。

 

「ね、祐一・・・」


浅い眠りの淵で声がした。


「また、ぴろが一緒に寝たいって。 いいよね? ちゃんと、訊いたからね。 入るよーっ」


布団が持ち上がり、ごそごそと小さな体が隣に入ってくる。

ネコの体臭が鼻先に漂った。


「ばか・・・誰が返事した」


目を閉じたまま、言ってやる。

 

 

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「わっ・・・起きてるっ!」
「ほんとはおまえが、俺と一緒に寝たいんじゃないのか」
「気持ちの悪いこと言わないでよぅっ・・・そんなことあるわけないでしょっ」
「耳元で大きな声を出すな・・・ったく、好きにしろ」


追い返すのも面倒で、俺はそれだけを言って壁のほうを向いた。

するとネコを抱いた真琴が、その背中にぴったりと張りついた。


「ねぇ・・・」
「ん・・・」
「なんだか、恐い・・・」
「どうした」
「よくわかんないけど・・・ひとりで寝てると、いつの間にかものすごく暗いところにひとりで居て・・・真っ暗でなんにも見えなくて・・・ひとりっきりなの・・・」
「・・・・・・」


・・・今、相沢さんは、束の間の奇跡の中にいるのですよ。

・・・そして、その奇跡とは、一瞬の煌めきです。

・・・あの子が自らの命を引き換えとして手に入れた、わずかな煌めきです。

 

眠っていたところを起こされたためだろうか、不意に昼間の天野の言葉を思い出す。

いや、寝ぼけてるためなんかじゃないな・・・。

俺が、真琴と出会っていた事実を受け入れたからだ。

だから、真琴が見るその暗い夢が、やがて訪れる・・・真琴が向かうべき場所だということがわかる。

その結末を覚悟して、真琴は旅立ってきたのだろう。

こいつに帰る場所なんてない。

今がすべてであり、それが最後なのだ。

それを真琴は知らない。

自分の運命を知らない。


「仕方のない奴だな・・・。 これからは文句言わないから、好きなとき、ここで寝ればいいよ」
「・・・ほんと?」
「ああ。 おまえだけ追い出すのも可哀想だからな。 な、ぴろ」


間に挟まって眠る、ネコの鼻を指先で弾く。

うにゃ、と返事のような鳴き声をあげた。

 

「だってさ」
「・・・うん」
「・・・おやすみ」
「おやすみ・・・」


安心したように、真琴が目を閉じた。

自分の境遇を何も知らずに怯える真琴。

記憶がないことが幸いしているのか、それともそれこそが不幸なのか、よくわからなくなってきた。

記憶が戻れば、真琴は自分が人間じゃないことを知り、そして、今の生活が一瞬であることを知る。

それは、あまりに酷というものではないか。

でも今の真琴は、自分の目的を自覚していない。

どうして、自分がここに来て、なにをしたかったのか。

俺と居たいならいればいい。

でもこいつはあまのじゃくだから・・・

無駄に時間を過ごして、いなくなってしまうのではないか。

俺だけが、焦るばかりだった。

 

・・・・・・。


・・・。

 

1月23日 土曜日

 

・・・。

 

目覚まし時計が鳴っている。


「あぅ・・・」


真琴も起きたようだった。

布団が持ち上がり、冷たい空気が入り込んでくる。

真琴が動き出したのだ。

 

ぴっ。


目覚ましの音が止む。


「静かになった・・・」


もぞもぞと真琴が布団の中に入り直す。


すーすー・・・


すぐ寝息が聞こえてくる。


「おい、真琴っ、寝直すんじゃないっ」


その体を揺すってみる。

布団の隙間からぴろが飛び出してきて、床にタッと降り立った。


「ほら、ぴろも起きたぞ」

「あぅ・・・なに」


薄目を開けて、俺を見る。


「なに、じゃないだろ。 おまえ、保育所の手伝い、あるんだろ?」
「・・・・・・」
「あるんだろ?」
「・・・うん」


覇気なく答える。

そんなに嫌なのか、あるいはまだ眠いだけか。


「ほら、起きないと遅刻して、また迷惑かけるぞ」
「・・・あぅ、わかった」


ずるずるとようやく布団から這い出すに至った。


・・・。


カチカチと箸が合わさる音が立つ。

皆が、真琴の手の動きに注目していた。

真琴はそんなことも知らずに、必死で二本の箸と格闘している。


「あぅーっ・・・」


カチン、と音がして、その箸の一方が大きく跳ねた。

同時にいくつかの米粒が食卓にぱらぱらと散らばった。


「あ、ごめん・・・なさい・・・」

「こうでしょ、こう」


横から親切に秋子さんが箸の持ち方を示してみせる。


「うん・・・」


だが、真琴のほうはすでに意気消沈していて、箸をぐーで握ることしかしなかった。


「俺が食わしてやろうか。 あーん、してみ」
「そんな子供みたいにっ、放っておいてよぅっ」


俺のからかいに対してだけは、敏感に反応する元気がある。


「またスプーンで食べる・・・?」
「・・・・・・うん・・・そうする」


秋子さんが立ち上がって、真琴のためにスプーンを用意する。


「はい」


それを受け取ると、夕べと同じように、ひとりカチャカチャと高い音を立てながら、ご飯を食べ始めた。


「・・・・・・」


妙な空気が流れている。

真琴も居たたまれない様子で、周りの目を気にしていた。


「真琴、今朝も一緒に出るか?」
「あ・・・うん」
「じゃ、早く食って用意しろ。 たまにはゆっくり歩いていこうぜ」
「うんっ、急ぐね」


救われたように、表情を和らげると、そそくさと残るおかずを口に詰め込んだ。


・・・。


「おまえ、歯ぁ磨いたか?」
「えっと・・・あぅ・・・うん」
「ウソつけ。 おまえのウソは速攻でバレるんだよ」
「だって、もう時間ないし・・・」
「夕べも磨いてなかっただろ?」
「わ・・・どうしてわかるの?」
「顔付き合わせて寝てるんだから、それぐらいわかるよ。 歯磨き粉の匂いがしなかったからな」
「うーん・・・じゃ、帰ってきてから磨く・・・」
「虫歯になるぞ」
「いいもん」
「歯医者でウィンウィンされるぞ。 痛い目にあっても、知らないからな」
「うんっ」


・・・・・・。

 

・・・。

 

昼休みになると、俺は天野を探していた。

一年生の教室をまわり、天野美汐という名を訊ねてまわった。

なかなか見つからない。

まさか探せないように名まで偽っていたのだろうか?

そう不安になりかけた頃、ようやくその名に反応を見せる生徒に出会えた。


「天野さん? いますよ」


教室の中を振り返り、そう女生徒は答えた。


「えっと・・・呼びましょうか?」


躊躇した後、そう言った。

目が一瞬俺の襟の校章に向いたから、学年を確かめたのだろう。

同学年ならば、『自分で呼んで下さい』だったのかもしれない。


「頼むよ」


さすがに学年の違う教室に入るのは気が引ける。


「待ってください」


不運だったとばかりに、顔色を変えて女生徒は背中を向けた。

天野は窓際の席で、ひとり静かに読書をしていた。

そこへ今の女生徒が近づいていき、二、三会話を交わした。

答えは聞かないでもわかった。

天野の目がこちらには向かず、再び本に落とされたからだ。

もし彼女に俺と会う意志があれば、本を置いて立ち上がっていたはずだ。

ひとりで戻ってきた女生徒は俺に告げた。


「放っておいてほしい、だそうです」
「そうか・・・サンキュ」


あからさまに憮然としていた女生徒に礼を言った後、俺はその場を立ち去った。

最後まで、天野はこっちを見なかった。

いつもの無表情の横顔が、他人のものに思えて、悲しかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

放課後になると、寒空の下で待つ真琴のことを思って、急いで教室を出る。


・・・。


「よぅ、待ったか」
「うん、ちょっとだけ」


言って、親指と人差し指を少しだけ開いてみせた。

俺が辿り着くまでも動かし続けていたので、それは指の体操にも見えた。


「寒いのにさ。 先に帰ってればいいのに」
「ううん、どうせ暇だし・・・」
「それに、何か奢ってもらえるかもしれないし、か?」
「あはは・・・うん」
「じゃ、商店街寄って帰るか」
「うん」


・・・。


本屋に立ち寄った後、いつものように肉まんを購入してふたりして食べながら歩く。

ゲームセンターの前までくると、昨日と同じような人だかりが見てとれる。

それは店先に設置されたプリント機に並ぶ列だ。

この時間となると、当然のように学生服が多い。

学校帰りに皆、立ち寄ってゆくのだ。


「・・・・・・」


わざと真琴がとてとてと早足で先を急ごうとする。


「おい、こら。 鬼門とばかりに避けて通るな」


その首根っこを掴んでやる。


「あぅっ・・・なによぅっ」
「お、今日はウチの学校の連中も並んでるなぁ。 頼んだら、入れてくれるぞ」
「そう言われると思ったから、避けて通ろうとしたのっ」
「どうして。 みんなと一緒に撮りたいんだろ?」
「そ・・・それはっ・・・あぅ・・・」
「じゃ、ほら、女の子同士和気あいあいと撮ってこい。 楽しいぞ」
「でも・・・知らないひとばっか・・・」
「誰だって、友達なんてものは最初は知らない人同士なんだよ」
「あぅーっ・・・先帰るーっ」


俺の腕を振り切ろうと、両腕を上下にぶんぶんと揺り動かす。

肉まんの具が飛び散り、ふたりは肉まみれになる。


「おまえ、人見知り、激しいよな」
「あぅ・・・ごめん」


自分の頭を払った後、真琴の髪の毛についた肉を指先で落としてやる。


「秋子さんや、名雪にだっておまえから話しかけることないもんな」
「そだっけ・・・」
「そうだよ。 ほら、きれいになった」
「ありがと・・・」
「一回、みんなで写真撮るのもいいかもな」
「どうして?」
「どうしてって、こうやって同じ屋根の下で暮らしてるんだから、それぐらいしたって当然だろ」
「真琴は居候だもん」
「俺だって居候だ」
「じゃ、ふたりは抜けないとね」
「ばぁか、何寂しいこと言ってんだよ、おまえは」
「祐一は、ずっと知り合いだからそうかもしれないけど・・・真琴は違うよ」
「じゃ、みんなに訊いてやろうか?」
「いい。 訊いたら、気を使ってくれるのわかってるし」


くるりと体を反転させて、真琴が歩き出す。


「困った奴だなぁ・・・」


その後を俺も追いかけた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

家に帰ってくると、机に向かい、俺は久々に勉強に精を出していた。

と言っても、宿題だったが。

黙々とノートに字を連ねているところで、ドアが開く。


「ねぇ、祐一、暇?」


ぴょこんと、真琴が首だけを出す。


「なんだよ」
「あのさ、面白い本あるんだよ」
「そりゃ良かったな」
「祐一も、読みたいよね?」
「なぁ、真琴」
「うん?」
「俺は忙しそうに見えないか?」


シャーペンを握った手を真琴に向けて突きつけてやる。


「べつにそんなの、後でいいじゃない」
「勉強してるんだよっ! 勉強より、漫画読むのが先かっ」
「楽しいことは、先にしておかないとね」


とてとてと歩いてきては、漫画本を床に置いて、その場に陣取る。


「幸せな奴だよな、おまえって」
「はい、読んで」


真琴はすでにページを開いて待ち構えている。

そうなっては追い出す手だては真琴ごと運ぶことしか思いつけない。

それよりかは、素直に読んでやるほうが疲れずに済みそうだった。

それに正直、宿題にも飽きていたところだ。


「わかったよ」


重い腰をあげて、その真琴の隣に座り込んだ。


「これもね、とっても感動できるお話だと思うの」
「なんだ、また少女漫画か・・・?」
「キレイな声で読んでね」
「よし。 丸々と肥えた力士の声で読んでやろう」


朗読を開始しようとしたところで、俺はふと思い出す。


「あ、おまえ、歯は磨いたか?」
「ん?」
「ん?じゃないって。 おまえ、朝に約束しただろ。 帰ってきたら磨くって」
「あぅ・・・うん・・・磨いたよっ」
「見え透いた嘘をつくな。 歯、見せてみろ」
「ヤだ」
「磨いてないんだろ」
「磨いたけど、ヤだぁ」
「本当のこと言わないと、読んでやらないぞ」
「わ・・・そんなぁ・・・」
「歯磨くのなんて、すぐだろ。 行って来い」
「ご飯食べてから磨く・・・」
「そうやって後回しにするから忘れるんだよ。 思い出したときに片づける。 ほら、いってこい」
「・・・うん」


渋々立ち上がると、あからさまに重い足取りで、ドアへむかってのそりのそりと歩いてゆく。

『ま、後でいいよ』とでも言って欲しいのだろうか。

ぱたん、とその姿がドアの向こうに消えると、俺は手の漫画本のページをめくる。

先に少しだけ目を通しておくことにした。


・・・・・・。

 

・・・。

 

10分近く経ったところで、ようやく真琴が戻ってくる。


「はぁ・・・」
「やけに遅かったな。 そんなに頑張って磨いてきたのか? 歯茎痛めるぞ」
「うん・・・」
「じゃあ、キレイになったか見てやろう。 あーん、してみろ」
「そんなことより早く読もうよ。 夕飯になっちゃうよ」
「おっと、そうだな。 じゃ、そばにこい」
「うん」


一度離れた場所に腰を下ろしてから、ずずず・・・とゆっくり近づいてくる。


「時間がない、って言ってるだろ」
「あ・・・うん」


ようやく俺の隣にくると、漫画の本のページをめくった。


「じゃ、読むぞ」
「うん」


真琴の返事を聞いて、俺は朗読を始める。

真琴が葉を磨いている間にそのほとんどに目を通してしまっていたので、いつも以上に流暢に読んでやることができた。


・・・。


夕飯はカレーだった。

秋子さんが、真琴に対して気を使ってのことだろうかと思った。

それでも真琴はスプーンをぐーの手で行儀悪く持って食べていた。

時々後ろめたそうに皆に目をやりながら食べるので、秋子さんも何も言わず黙ったままだった。


・・・。


リビングでテレビを見ていると、ようやく炊事から解放された秋子さんが、姿を現す。


「そろそろお風呂いれないとね」
「それぐらいやりますよ」
「テレビ見てたんじゃないの?」
「別にそんな面白いものでもないですし」


なにより、手伝えることがあれば、少しでも手伝いたい。

俺は立ち上がった。

洗面所に入ると、妙な物が床に落ちているのに気づく。


「なんだ・・・これ」


ねっとりと歯磨き粉がついたままの、ハブラシだった。


「このオレンジ色のハブラシは・・・」


俺は廊下に戻ると、大声で叫ぶ。


「おい、真琴ーっ!」


やがて、とんとんと階段を降りる足音が聞こえてくる。


「・・・なぁに」


真琴が廊下の先に半身だけをちょこんと出して、こっちを見ていた。


「そんなところに隠れてないで、こっちこい」
「・・・・・・」


身構えたままの格好で渋々洗面所までやってくる。


「これは、なんだよ」


ハブラシを拾い上げて、真琴の目の前に突き出す。


「ハブラシ」
「誰の」
「・・・真琴の」
「どうして歯磨き粉ついたままで、床に落ちてるんだよ」
「あぅ・・・」
「磨いた、って言ってなかったか?」
「うん・・・」
「磨いてなかったのか?」
「うーっ・・・」
「磨いてなかったんだろ」
「・・・・・・うん」
「じゃあ、今、磨くんだ。 見ていてやるから」
「うん・・・」


俺からハブラシを受け取ると、それを一度水でゆすぐ。

それから歯磨き粉を片手に持ち、少しだけハブラシの上に練り出した。


「・・・・・・」


そしてそこで止まっていた。


「どうした」
「・・・からいのヤだ」
「からい? 歯磨き粉がか?」
「うん・・・」
「おまえ、今までどうやって磨いてたんだ・ まさか、磨いてなかったのか?」
「ううん・・・ずっと磨いてたけど・・・。 ここ最近、磨けなくなっちゃった・・・」
「歯磨き粉、変わっていたか・・・?」
「ううん・・・一緒だと思う」
「・・・・・・」


最近のおまえ、おかしいよな・・・とは言えなかった。

それを言葉にしてしまえば、一気に何かが崩れ去ってしまう気がしたからだ。

でも、何かが、真琴の中で変わり始めているのは確実だった。

それがやがて訪れる別れへの布石なのだろうか。

それとももう、それは始まっているのだろうか。


「ったく。 仕方のない奴だな。 ハブラシ持って、ついてこい」
「え? どこに?」
「俺の部屋だよ」


俺はそれだけ言って、先を歩いて洗面所をでた。


・・・。


「ね、どうするの?」
「俺が磨いてやる。 ほら、こい」


俺はベッドにもたれて座ると、両腕を開いた。


「そんなぁ、また子供扱いするーっ」
「でも、おまえが嫌がるんだから、仕方ないじゃないか。 おまえは目をつぶって、からいのを我慢してるだけでいい。 目を開けたら、終わってるよ」
「あぅーっ・・・」


しばらく眉ねをひそめて悩んでいたが、結局とてとてと歩いてくると、黙ったまま俺に背中を向けて体重を預けた。

俺はその手から歯磨き粉がついたハブラシを受け取る。


「・・・・・・」
「ほら、口を開けろ。 鼻に突っ込むぞ」
「・・・・・・」


あーん、と真琴が口を開ける。

並びの良い白い歯が現れる。

小さく、どれも可愛らしかった。

その奥歯から、俺は磨き始めた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

風呂に入った後、2階へと上がると、ちょうど真琴が部屋から出てくるところだった。


「トイレトイレーっ」


パジャマ姿でダンボールを抱えて、慌ただしく走ってくる。

ぴろが大きいのでもして、それを捨てにいくのだろう。

足でも引っかけて倒してやったら大惨事になること間違いなしだ。

でも俺は大人なので、そんなことはしない。


「階段、気をつけろよ」
「うんーっ」


とてとてと降りていった。


・・・。


取り立てて用もなかったけど、俺は真琴の部屋の前で待っていた。


・・・。


やがてとんとんとん、と階段を上ってくる足音がして、真琴が姿を現す。


「ふぅーっ、キレイになったぁ。 うん、臭くない」


ダンボールの中に顔を突っ込んだままやってくる。


「おまえ、前見て歩けよ」
「ん?・・・わっ!」


びたーーんっ!


予想を裏切ることなく、真琴は転んでいた。

だが、すんでの所で俺が手を差し出していたため、ダンボールの中のトイレ用の砂をこぼすことだけは免れた。


「はは・・・ありがとっ」
「おまえの足の関節は、逆にも曲がるのか」
「曲がらないよ」


ダンボールを抱えなおして、真琴が立ち上がる。


「でも、なんかね、へんなカンジ・・・」


そして、足の指をたてて、それでとんとんと床を叩いたりした。


「・・・・・・」

 

俺はそれ以上、そのことについて追求しないことにした。


「で、今日も俺の部屋で寝るのか?」
「そんな訊き方しないでよぅ・・・まるで真琴が祐一の部屋で寝たいみたい」


顔を嫌悪に歪めて、そう言い放つ。


「違うのか?」
「違うわよぅっ・・・ぴろが寝たいの」
「わかったわかった。 そういうことにしておいてやる」
「あぅーっ・・・」
「ま、来るんだったら、早くこいよ。 もう寝るから」


ぽむ、と真琴の頭に手を置いてそう言ってやる。


「う・・・うん」


仕方なしに、といったふうに真琴が頷いた。

その日も、ふたりと一匹で、狭いベッドの上で眠った。


・・・。

 

1月24日 日曜日


翌日は日曜だったから、目覚ましはかけずにいた。

それを忘れて、いつまでも寝入ってしまっていた。


とんとん・・・


ノックの音でようやく目が覚める。


「まだ寝てるの?・・・だらしない」


寝返りを打って、ドアのほうを視界に入れると、名雪が顔を覗かせていた。


「ああ・・・今何時だ?」
「もうお昼。 もうすぐお昼御飯できるよ」
「そっか・・・」


「・・・お昼ご飯なに」


寝ぼけたような声が、俺の胸の辺りから聞こえてきた。


忘れてた・・・真琴が居たのだ。

 

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「あれ? 今、祐一が喋ったの?」
「ああ、そうだぞ。 お昼ご飯なに?」
「たらこスパゲッティ」


名雪はどんな耳をしているのか、真琴のくぐもった声を俺のものだと信じている。

布団の中にすっぽり真琴の姿が埋まっているのが幸いした。


「おう、そりゃ楽しみだ。 すぐいくからな」


「あぅ・・・」


「あぅ?」
「そう、あぅ、だ。 まったく、あぅだ。 とても、あぅだ。 名雪は最近あぅか?」
「使い方、まちがってない?」
「いいから早くいけっ。 目の前で着替え始めるぞっ」
「きゃっ」


ようやくドアを閉ざして、名雪は去っていった。


「ふぅ・・・」


その足音が聞こえなくなるまで間を置いてから、布団から抜け出す。


「真琴っ」


布団を剥ぐと、ぴろと一緒に丸まって眠る真琴の姿が露わとなる。

その口からは、つーっと涎が垂れていた。


(寝ぼけていたところに、昼飯の献立なんてものを聞いたもんだから、こいつは・・・)


今頃、夢の中でたらこスパゲッティでも食べているのだろう。


・・・・・・。

 

・・・。

 

午後になると、俺と真琴はふたり揃って町まで出かけた。

それは居心地の悪さから逃げ出すようだった。

家にいると、行き場所を失った重苦しい空気がどんどん溜まってゆくようで、それが嫌だった。

別に秋子さんや名雪が悪いわけではない。

みんな良くしてくれている。

迷惑をかけているのは俺たちのほうだ。

ただ、事態がことのほか特殊なだけだった。


「肉まんだけ、いっぱい食べたいなぁ」
「バカなこと言うな。 秋子さんが夕飯作って待ってるぞ。 おまえ、秋子さんの作る料理好きだったろ?」
「うん、そうなんだけどね・・・はぁ・・・」


真琴の手は、一向に改善の兆しを見せなかった。

それどころか、前にも増して細やかな作業を苦手としているようだった。


「どうしてなんだろ・・・」


真琴が自分の手を見つめる。


「疲れが溜まってるんだろ。 大丈夫。 そのうち元通りになるさ」
「うん・・・」


弱々しく握って、その手を下ろした。

そして作り笑いで、俺に微笑みかけてくれる。

その表情にはまったく覇気がなかった。


「何かさ、買ってやるよ」


思わずそんなことを口走っていた。

それで少しでも元気になってくれたら、という思いからだった。


「え?」
「欲しいものあったら言えよ。 今日はなんでも買ってやるから」
「いきなり、なによぅ・・・」


あからさまに気持ち悪がって、真琴は少し距離を置いた。


「俺はおまえほど金遣いが荒くないからな。 有り余ってるんだよ」
「ほんと・・・?」
「ああ。 今月はもう、使う予定もないからな。 なんでもプレゼントしてやるよ」
「わぁ、じゃ、欲しいものなんでも言っていいのね?」
「あ、ああ・・・」


俺はズボンのポケットに入った財布の中身を後ろ手に探る。


(うーん・・・安請け合いしすぎたかな・・・。 こいつのことだから、遠慮なく高価なものを言いつけてくるに違いないぞ・・・)


少し(というか、かなり)心配になってきた。


・・・。


「ね、祐一ーっ」


早速何かを見つけたらしく、真琴がすぐ近くの店先で俺を呼んでいた。


「何か、あったか」
「うん、これ」


真琴が指さすのは、アクセサリーを陳列した棚だった。

狭い枠組みの中で色褪せたような髪留めやらブローチがひしめき合っている。

ひとつとってみても粗野な造りのものばかりだった。


「なんだよ、これ・・・」


それは当然で、店先の看板に目を移すと、『オール100円』の文字が見て取れた。

いわゆる100円ショップというやつだ。


「これがいい」


真琴がその中から拾い上げたのは、ゴム紐に鈴がふたつ飾られたものだった。

髪留めのようだ。

にしても、あまりに素っ気ない。

子供だって喜びそうもない。


「こい。 デパートで、もっといい髪留め買ってやるから」
「わっ・・・どうして? これ、ダメなの?」


俺が腕を引っ張ってやると、真琴が驚いたような声をあげる。


「こんなところで無理して選ぶな。 俺からのプレゼントなんて滅多にないんだから、もっといいものを選べ」
「いいよ、これで」


言って、それを手首に巻いてみせる。

手を振ると、ちりんちりんと鈴の音がした。


「ほら、可愛い」
「そうか・・・?」


貧乏くさいだけだと思ったが、真琴はよほど気に入っているようだった。

はなから真琴を元気づけるための思いつきだったから、体よく機嫌取りとなったそれを無理に諦めさせる理由はなかった。


「よくわかんない奴だな、おまえって。 ほんとにそれでいいのか?」
「うん」
「じゃ、金払ってくるよ」
「うん」


100円の代物なんて全然プレゼントした気にならなかった。

でも真琴自身はご満悦の様子で、耳元で手を振っては、その転がる鈴の音を楽しんでいた。

その様を見ていると、情けないようでありながらも、微笑ましく思えた。

俺も満足することにした。


・・・。


夕食後、俺は真琴が部屋に戻ったことを確認すると、コートを引っかけて、出かける準備をする。


「あれ、どうしたの?」


玄関で靴の紐を結んでいるところで、声がかけられる。

振り返ると、名雪だった。


「なんだ、おまえか」
「出かけるの?」
「ジョギングでもしてこようかと思ってな」
「どうしたの、いきなり」
「最近腰回りが気になってきたんだよ。 一緒にどうだ?」
「わたし、気になってないもん」
「そっか。 じゃ、ひとりで寂しくいくか」
「あの子は? 一緒に連れていってあげれば?」
「あいつは連れてゆくと転んでばっかで邪魔になる」
「そんな子供じゃあるまいし」
「そうだな・・・子供じゃなかったな、あいつは」


立ち上がり、ドアを開いた。

すぅと冷たい風が吹き込んでくる。


「1時間もしないで、戻ってくるから」
「うん。 お風呂沸かしておくから」
「ありがたい」


フードを頭に被って、玄関を出た。


・・・。


向かうべき場所は、あの丘だ。

探せば、何かが見つかるかもしれない。

真琴の身に起きている『何か』の進行を止められる手がかり。

あるいは、真琴がずっと人間で居られるような。


「・・・・・・」


俺は自分を卑怯だと思った。

俺は自分のことしか考えていない。

訪れる悲しみを回避しようとしているだけだ。

今の真琴とずっと一緒に居たいだけなんだ。


・・・・・・。

 

・・・。

 

夜の丘に来るのは二度目だった。

街灯も届かないその場所は、あらゆるところに真の闇を造り、全体としては不完全な世界を形作っていた。

不意に自分が立っている足元が揺らぐような錯覚を覚える。

遠く見下ろせる町並みの明かりだけが、それを安定させてくれた。

しかし一体この場所で何を探せばいいのだろう。

何を見つければ、真琴を救うことができるのだろう。

まったく見当もつかない。

ただ真琴と俺との唯一の接点である場所だったから、闇雲に訪れてしまっただけだ。

いつもながら無策だったが、じっとしていろという方が無理な話だ。

時間が限られているのなら、その中で精一杯の努力を試みる。

俺は丘をあてもなく、彷徨い始めた。

濃い影に残った雪をさくさくと踏みしめ、染み込んでくる雪水に足を貫かれながら歩く。

めぼしい物ひとつ見つけられない。

あるのは小石に木の枝、落ち葉がせいぜいだった。

生き物だって、見かけることはない。

振り返っても、動いているものは、自分の影でしかなかった。


・・・。


立ち入れないような藪を除いて、ぐるりと一周してきた俺は、白い息を吐きながら立ちつくすだけだった。

ここにはなにもない。

それが結論だった。


「・・・・・・」


俺はぼぅっと立ちつくしていた。

これ以上ここにいて、何をすればいいのだろう。

わからなかった。


ちりん。


背後で音がした。

そこに真琴が立っていた。

 

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「真琴・・・」


ついてきていたのか。

気づかなかった。


「ねぇ、真琴は・・・」
「ばか、思い出すなっ」


俺は走って、その小さな体を抱きしめた。


「寒かっただろ。 ジョギングは終わりだ。 帰ろうな」
「うん・・・帰る」


早々に真琴を連れて去ろう。

ただでさえ、この気温は体に障る。


・・・・・・。

 

・・・。

 

家に帰ってくると、俺と真琴は名雪が沸かしてくれた風呂に続けて入る。

出てきたところを、秋子さんが食卓へと誘ってくれた。


・・・。


「外は寒かったでしょ」


外出していた理由もい訊かず、湯を沸かし始める。


「湯冷めしないうちに、いいものいれてあげる」
「すみません」


本当に申し訳なく思った。


「いいのよ」


そして湯飲みに注いでくれたのは、白っぽい不思議な飲み物だった。


「熱いから気をつけてね」
「なにこれ・・・」


真琴がくんくんと鼻をつけて臭いを嗅いでいた。


「しょうが湯よ」
「しょうが・・・?」
「温まるから」


それは甘くて、辛いような変わった味だった。

真琴が苦手そうな味だったが、文句も言わず、頑張って飲んでいた。

しょうがの匂いがなぜだかとても懐かしく思えて、俺も時間をかけてゆっくり味わった。

他にやることもなかったし、眠くなるまでそうしていればいいと思った。


・・・。

 

1月25日 月曜日

 

「起きろよ、真琴」


俺は真琴の耳元で囁く。

もう昨日のように名雪に見つかりそうになって、肝を冷やすのは勘弁だった。


「あぅ・・・」


薄目を開けて、俺の顔を見た。


「・・・おはよぅ」
「おう、おはよう」


ゆっくりとした動きで上体を起こす。


「・・・あれ、ぴろは」
「ぴろ? おまえが踏んづけてるんじゃないのか?」
「あぅーっ・・・」


くるんくるんと首を回して、自分の近くにぴろがいないかを探す。


「ぴろーっ」


すたんっ。


「あぅ・・・重い・・・」


真琴の頭の上にぴろが飛び乗っていた。

珍しく俺たちよりも早起きして、本棚の上に隠れていたようだ。


「じゃ、戻るね・・・」


ぴろを頭に乗せたまま、真琴は布団から抜けだし、部屋を出ていった。


・・・。


「はぁーっ、今日も寒いねぇ・・・」
「そうだな・・・でも、もう少しの辛抱だ。 もう少しで暖かくなってゆくよ」
「よかったぁ。 寒いのは・・・もうヤだよ」
「真琴は寒いのが苦手か」
「うん、暖かいのがいい。 春がきて・・・ずっと春だったらいいのに」
「そっか。 真琴は春が好きか」
「うん。 ずっと春だったら、ずっと元気でいられるのに」


俺はその言葉に、ただ願いを描いた。

春がくれば真琴は元気になる。

そうすれば、きっとすべてがいい方向へと向きはじめる。

そんな気がしていた。

だから、今のまま春が訪れてくれればいい。

これ以上、何も悪いことが起こらずに、春がやってくればいい。

そうすれば、また真琴の悪戯が始まって、俺は辟易するのだろう。

呆れるほどの、騒がしい日々が戻ってくるのだ。


「もう少しの辛抱だな・・・」


俺はそう繰り返した。


・・・・・・。

 

・・・。

 

放課後。

いつも待っているはずの、真琴の姿がなかった。


(今日は先に帰ったのかな・・・)


少しだけ待ってやることにする。

後にきた真琴が、まだ俺が校内に残っているものと信じて待ち続けるようなことになっては可哀想だと思ったからだ。

何人もの生徒が、グループを作って下校してゆく。

その様をじっと、眺めていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

しばらく時がすぎ、目の前では下校する生徒も疎(まば)らとなっていた。

今日は痛烈に風が冷たい。

制服を通して、その冷気が背中にまで感じられた。

この風に追い立てられて、あいつも先に帰ったのだろう。

そう思うことにして、俺はひとりで歩き出した。


・・・。


「・・・・・・」


家に帰っているとすると、お土産に肉まんを買って帰ったほうがいいだろうか。

それとも今日は自分で買って、持ち帰っただろうか。

まあ、それで余ってしまったら秋子さんや名雪にも分けてやればいい。

多くて困ることもないだろう。

買って帰ってやることにした。


・・・。


商店街に寄ってきたにも関わらず、家に帰り着いた時間はいつもより早かった。

どれだけ真琴が一緒にいることによって、無駄な時間を過ごしてしまっているかがよくわかる。

さっさとひとりで歩いてくれば、こんなにも有効に使える時間が作れるのだ。

進級して受験生となってしまえば時間なんて、そのほとんどが勉強に、費やされることになる。

好きなことができるのも今のうちなのかもしれない。

それを考えると、とてももったいなく思えてくる。


(でも、こうして早く帰ってきたところで、やることはあんまり変わらないのだろうけどな・・・)


結局、余った時間さえも無駄に費やしてしまうのだろう。

それが学生というものだ。


・・・。


「・・・・・・」


玄関に入って、すぐ気づいた。

真琴はいない。

靴がなかったのだ。


(まだ、帰ってなかったのか・・・)


しばらくその場で固まって考えを巡らす。


(・・・・・・行き違いで、待ってるかもしれないな、校門で)


そこへ考えが至ると、迷いもなく玄関を背にし、再び冷たい風に身を晒した。


・・・・・・。

 

・・・。

 

「・・・・・・」


閑散とした校門前には誰の姿もなかった。

ただ、喪失感だけが際だって感じられ、俺は焦燥感のようなものを覚える。

なんでもない可能性だっていくらでも考えられた。

ひとりでどこかで遊んでるのかもしれないし、悪戯でもしようと隠れているのかもしれない。

しかし事態を把握できていないにも関わらず、嫌な予感がした。

安心しようと努める心なんて、うわべだけだ。


(・・・真琴!)


俺は走り出していた。


・・・。

 

心当たりのある場所は、あそこだけだ。

夕べも訪れた、あの場所。

濡れた路に足を取られないように気をつけて、俺は緩やかな斜面を登ってゆく。

きっと、いつものように真琴はこの辺りで転んで、服をドロだらけにしているはずだ。

そしてまた、この先の開けた場所にひとり腰を下ろして、遠くを眺めているはずだ。


(面倒をかけるやつだ・・・)


今度はどんな文句を言ってやろうかと、考える。


・・・。


そして・・・


「・・・・・・」


誰もいなかった。


「おい、真琴ーっ! 真琴ーっ、真琴ーっ!」


二度、三度と続けて真琴の名を呼んでみるが、返答もない。

無駄なことはわかっていた。

視覚として捉えられないだけではない。

感覚として、その場所には人の気配がしなかった。

それとは対照的に無機質な闇だけが、その存在を克明としている。

それは恐くなるほどに、人を寄せつけないでいた。

重油が覆う海にでも踏み入るようにして、闇の中へと分け入った。

皮膚を傷つけながらに藪の真っ直中を突き進んだ。


「真琴ーっ!」


いなくなってしまった者の名前を呼び続けた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

そして、すべてが徒労と終わったとき、俺は冷え切った体を地面に横たえ、これは結末であることを悟っていた。

真琴は消えたんだ、と。

天野は言っていた。


・・・その奇跡とは、一瞬の煌めきです。


・・・あの子が自らの命を引き換えとして手に入れた、わずかな煌めきです。


・・・その奇跡は、その光を閉ざした。

天野なら、最後にそう言うのだろうか。

俺はその場でうなだれて、そして真琴の境遇を思って悔いた。

これは神様があいつに見せてくれたおとぎ話だったんだろう。

最後の思いを、こういう形で叶えてあげたんだろう。

ならば、俺はそれに見合うだけの、報いを与えてあげられたのだろうか。

あいつの思いは成就したのだろうか。

いや、もっとできることがあったはずだ。

もっといろいろなことをしてあげたかった。

俺は体が冷えて、痛くなってゆくのをその報いだとばかりに甘受した。

支えを失った意識を、どこまでも繋ぎ止めて、痛みに耐えていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

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「どうしたの?」


俺の顔はそんなにも変わり果ててしまっていたのだろうか。

帰ってきた俺の顔を見て、名雪が驚いた声をあげていた。


「すごく冷たい・・・」


名雪は俺の手をとって、握っていた。


「なんでもない」
「なんでもないわけないよ、これで・・・」


確かに。

なんでもないわけがない。

ふたりで出掛けておいて、帰ってきたのは俺ひとりなのだから。


「あの子は?」


そう。

まだ名雪は、あいつのことを『あの子』と呼ぶ。

おまえがもっと親しく呼んであげていればよかったんだよ、と俺は心の内で憎まれ口を叩いた。


「消えたんだ」


何も考えず、そう口にしていた。

それは当てつけのようなものだった。

俺はただ、誰かに少しでも責任を押しつけて、嫌な人間の仲間を作りたかったのだ。

でなければ、あまりに自分ひとりが嫌すぎて、気がどうかなってしまいそうだったからだ。

名雪も嫌で、秋子さんも嫌で、そして結局俺が一番嫌で・・・

それでも、そうしたかった。


「また? でも、今日は冷えるから心配ね・・・」


後ろで聞いていたのだろう。

秋子さんもいつの間にか会話に入っていた。

真琴はもう帰ってこない。

それを知っているのは、俺だけなのだ。


・・・。


真琴の部屋・・・

何もかもが乱雑に放置されたままだ。

でも、漫画ぐらいしかないところが、あいつらしい。

そして、その場には不似合いなものを俺は見つけた。

割り箸だ。

それがいくつも、漫画本に混じって散乱していた。

ほとんどが中程から折られたものだった。

それが何を指すかが、わかるだけに俺はやりきれずその場に膝をついた。

ずっと、ひとりで箸を持つ練習をしていたのだ、あいつは。

歯磨きのときと同じように、疳を起こして箸を割って、途中で投げ出して・・・

それでも頑張って、最初から始めて、それを繰り返して・・・。

必死で、人でなくなってしまうことに抗っていたのだ。

でもそれは、そんなことではどうにもならないようなことだったのだ。

あいつの努力なんて、誰にも届かなかった。

そんなあいつの姿を知っているのは、今ここにいる俺だけだった。


「・・・・・・」


・・・。


その場を片づける気にもならず、ただゆっくりとドアを閉ざした。

そして俺の知らないうちに、この部屋が空っぽになっていることを願うだけだった。

はじめから、誰もいなかったように。


・・・。


真夜中、ばたん、という玄関のドアが閉まる音が家中に響いた。

皆が起き出して、玄関に集まる。

そこに立っていたのは、真琴だった。


「真琴・・・」
「・・・・・・」


顔を真っ赤に紅潮させ、冷え切った体を俺に委ねた。


「おまえ・・・むちゃくちゃ心配したんだぞ」
「・・・・・・」
「ぴろがいなくなったの・・・」
「ぴろが・・・?」
「ずっと探してたんだけど・・・見つからなかった・・・」
「そうか。 わかった。 後は俺たちに任せて、おまえはゆっくり安め。 な」
「うん・・・」


それだけの会話を終えると、真琴は目を閉じ、すべての体重を俺に預けた。


「すごい熱・・・」


その額に手を当てた秋子さんが、呟いていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

ずっと俺は真琴のそばにいた。

暖かくした部屋で、何度も濡れたタオルを絞り、真琴の額を冷やし続けた。

たまに浅い夢から覚めるのか、薄目で俺の顔を見た。

そのたび、俺の名前を呼ぶので、俺もそれに何度も応えた。


「俺はここにいるぞ、真琴」


・・・と。

そうすると再び安心したように、眠りに落ちてゆく。


チッ・・・チッ・・・チッ・・・


いやに時計の針の音だけがうるさく聞こえる。

誰かが音を大きくしたのだろうか、と思った。

時計の針の音量調節なんてできたか、よく思い出せない。

朝は遠く、いつまでも続くような夜だった。

でも思考さえも底なし沼の淀みにはまっていて、それを長いとも退屈だとも思わなかった。

家具と一緒だ。

なんだか背後の本棚に唐突に話しかけられそうな気がした。

時計の針の音が少しだけ小さくなっていた。


チッ・・・チッ・・・チッ・・・


と思ったら、また大きくなってしまった。

とても、うるさかった。

今、この部屋から外にでると、そこは見たこともない異質な空間が広がっているような気がした。

今、自分の居場所はここだけだという気がした。


今・・・


ちりん、と音がした。

真琴が手を俺に向けて差し出していた。

俺はそれを両手でしっかりと握ってやった。


・・・・・・。

 

・・・。