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Kanon【15】


・・・。

 

1月26日 火曜日

 

眠っていたのだろうか。

それでも、気がついたときには目を開いて、真琴の寝顔を眺めていた。

真琴はぐっすりと寝入っていた。

その額に手を当てる。

熱はだいぶ下がっているようだった。

このまま寝続けていれば、よくなるだろう。

立ち上がってみると、やはり寝不足なのがよくわかる。

自分の体ではないみたいに、体重を支える足がおぼつかなかった。


・・・。


着替えと鞄を持って、そっと部屋を後にした。


「おはようございます」


食卓に顔をだし、そこに居た秋子さんに朝の挨拶をする。


「おはようございます、祐一さん。 寝てないの?」


俺の顔を見るなり、そう訊いた。

まだそんなにひどい顔をしているのか。

半日経っても、ひどい顔は相変わらずだと言うのだ、秋子さんは。


「少しは寝たと思うんですが・・・」
「そう。 無理しなくていいのよ」


それは学校を休んでもいいのよ、という意味だろう。


「大丈夫です」


俺は断った。


「熱は、下がった?」


秋子さんは、話を真琴の具合に移した。


「まだ少しあるみたいです。 だから、保育所のほうに連絡頼みます」
「えっと・・・それは・・・」


俺がそう言うと、秋子さんはいつになく迷った表情を見せた。

そして口先までかかった言葉を飲み込んだ。


「秋子さん?」


俺がそう繰り返すと、ようやく秋子さんはいつものように明るい表情を見せてくれた。


「わかったわ。 連絡入れておくから」
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・いえ、お願いします」


俺は椅子を引いて、腰を下ろした。

その前に、湯気があがるお味噌汁が置かれた。


・・・。


「・・・・・・」


もう、真琴は保育所での手伝いをしていない。

そのことを朝の秋子さんの素振りから俺は悟っていた。

はなからあいつに務まるはずなんてなかったんだ。

保育所での真琴の姿を思い浮かべてみればいい。

安易にその無様な姿が描ける。

誰とも話せず、ひとりでいて・・・

なにもできないで、迷惑をかけてばっかりで・・・

しばらく続いていたのだって、秋子さんの友達が弁護していてくれたからだろう。

いつからか、真琴は家を出る振りだけをして、そして俺の下校時間に合わせて校門前で待っていたのかもしれない。


「・・・・・・」


何にしろ今更、それをわざわざ追求する必要もなかった。

いつも気を使わせている秋子さんや、それに真琴のためにも、本当のことは知らないままでいよう。

同校の生徒たちの合間を縫って、俺は意味もなく早足で学校へ急いだ。


・・・・・・。

 

・・・。

 

「ただいま」


寄り道せずに帰ってくるなんて珍しかったから、まだ家の中は昼間明るさを保持したままだった。

洗面所でうがいを済ませ、リビングへと赴く。

買い物に出かけているのだろう、秋子さんの姿はなかった。


「・・・・・・」


くい。


不意に制服の裾が引っ張られた。


「ん?」


振り返ると、そこにパジャマ姿のままの真琴がちょこんと立っていた。


「おっと、びっくりした・・・おまえ、起きたりして大丈夫なのか?」
「・・・・・・」


じっと俺の顔を見ていた。

何か、考え事でもしているように黙ったままだった。


「熱は下がったのか?」


その額に手を当ててみる。


「・・・うん、下がったみたいだな。 でも治りかけが肝心だからな。 もうしばらく養生してろよ」
「・・・・・・」
「とりあえず部屋に戻っていろ。 着替えたら、俺もいくから」
「・・・・・・」
「・・・・・・」


真琴は俺の服の裾を掴んだまま、突っ立っていた。


「ほら、いこうぜ」


仕方なく俺が先にいくと、真琴もぴったりとその後ろについてくる。


「ほら、戻ってろ。 すぐいくから」


真琴の部屋の前で立ち止まり、俺はそう言った。


「・・・・・・」


だが真琴はじっと立ったままだった。


「どうしたんだよ。 おまえ、俺の着替え覗く気か?」
「・・・・・・ヤだぁ」


唐突に真琴は顔を伏せて、涙声をあげる。


「どうした、なにがヤなんだ・・・?」
「・・・こんどは祐一がいなくなるの」


俺は一瞬息が詰まるような思いがした。

それは、あの日のことを思い出して言っているのではないか、と思ったからだ。

記憶が戻ってしまったのかと思った。

そして、自分に訪れる運命も。


「・・・・・・」


でも冷静になって考えてみると、その疑念は立ち消えた。

ぴろと俺を重ねて見ているだけだ。

ずっと側に居たぴろがいなくなった。

次は俺もいなくなるのではないか、と。


「ぴろは飼い主の元に戻ったんだよ。 この家で遊び疲れてな。 だから、またひょいと現れるに違いない。 大丈夫だよ」


ぽむ、と頭の上に手を乗せて、安心させてやる。


「それに俺はいなくならないよ。 だから安心しろ」
「・・・・・・うん」


それでほっとしたのか、俺の制服から手を放した。


・・・。


「もういい・・・?」


真琴は俺が着替えている間、ドアを半開きにして、そう絶え間なく訊いていた。

部屋に戻るつもりはないようだった。


「ああ、もういいよ」


まだ途中だったけど、あまりに真琴が寂しそうな声をあげるので、俺はそう返事をした。

それに廊下に居ると体が冷える。

俺の部屋は暖房でほどよく暖まってきた頃だった。


「あたたかい」


入ってくるなりそう言って、俺のそばに寄ってくる。


「待て。 ズボンだけ穿かせろよな」


俺はそそくさとそれに足を通し、着替えを終える。


「・・・・・・」


真琴は俺の顔を下から見上げて黙っていた。

ふたりの背の差はちょうど頭ひとつ分くらいある。


「おまえ、温かくしてろよ。 それとも俺のベッドで横になってるか?」
「祐一が居るんだったら、どっちでもいい」
「じゃ、毛布だけでも被っておけ。 ほら、立ってないで座れ」
「うん・・・」


ベッドにもたれるようにして腰を下ろした真琴に、その上から毛布を被してやる。

俺も隣に座り込むと、真琴が毛布を半分譲ってきた。

急いで帰ってきたので暑いぐらいだったが、それでも断ることなくその中に入った。

すると真琴は満足げに微笑んでみせた。


(やっぱりこいつは俺と一緒に居たいんだな・・・)


それを実感する。

ふたりしてそうしていると、まるで恋人か、兄妹のようだった。

べつにどっちだっていい。

ようは、ふたりは仲がいい。

そういうことだ。

不意にちりん、と近くで音がした。


「ん・・・?」


それは真琴の手首に巻いた鈴だった。

真琴も偶然手首が揺り動いて鳴った音に、その存在を思い出したようだった。

しばらく、その音を楽しむようにして、手首を振って遊んでいた。

喋ることもなく、ただふたりしてその音を聴きながら、時間を過ごした。


・・・。


しばらくして、とんとん、とノックの音がした。


「祐一さん、居る?」


秋子さんの声がドアの向こうでした。


「はい、居ますよ」
「電話よ」
「あ、すぐいきます」


俺は腰をあげる。


くいっ。


俺の服の裾を真琴が引っ張っていた。


「電話だよ、電話。 すぐ戻ってくる」


その手を掴んで、言い諭す。


「・・・・・・」


真琴は何も言わず、手を放した。


・・・。


「誰からですか?」


廊下で待っていてくれた秋子さんに、そう訊く。


「ごめんなさい。 声が小さくて、名前が聞き取れなかったの。 なんだか不安げで、電話慣れしていない感じの子」
「女の子なんですね?」
「そう、女の子よ」


心当たりがあった。

それは・・・天野に違いない。

受話器をとり、保留を解除する。


「もしもし」


・・・。


「もしもし。 代わりましたけど」


・・・。


「天野だろ?」


・・・。


「・・・相沢さん・・・でしょうか」
「ああ。 やっぱり天野か」
「・・・ええ」
「どうしたんだ?」
「・・・・・・」
「今、どこ?」
「・・・・・・駅前です」
「・・・わかった。 すぐいく。 じっとしていてくれ」


それだけを言って、受話器を置いた。

直に会って話したほうがいいことを、お互いわかっていた。


・・・。


俺は一度部屋に戻って、真琴に出かける旨を伝えることにした。

納得してくれるだろうか。

ついてくる、なんてことになったらやっかいだ。

真琴がいては、天野は何も話さないだろうから。

だが、それらは杞憂に終わる。


「・・・・・・」


鈴で遊び疲れたのだろうか、真琴はベッドにもたれかかるようにして、すやすやと寝入っていた。

起こさないように、毛布だけを肩まで羽織らせて立ち去った。


・・・。


俺が辿り着くまでの短い時間、天野が心変わりしないよう、祈るばかりだった。


・・・。


駅前まで辿り着くと、俺は辺りを見渡す。

天野はわかりやすい場所にいた。

誰もいない閑散とした路地への入り口。

そこにぽつん、とひとり立っていた。



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「よぅ」
「・・・・・・はい」


俺に気づいて天野はワンテンポ遅れの返事をした。


「こんなところで、どうしたんだ? 天野の家、この近くなのか?」
「いえ。 遠いです」
「そうか・・・」
「はい」
「・・・・・・」
「・・・・・・」


しばらく、相手の出方を窺うようにして、お互い黙っていた。


「・・・・・・」
「・・・・・・あの子は、どうしてますか」


不意に天野が口を開いていた。

俺はその言葉で救われた気分になる。

最後に会ったとき、天野は俺に告げた。


『もうこれ以上巻き込まないで』と。


だから俺からその話を持ち出すわけにはいかなかったのだ。

俺はいつだってそのことを天野と話したかった。

話して、現状を把握していたかった。

不安で不安で仕方なかったのだ。


「いろいろと変わってしまったよ。 天野と話していた頃からな」
「なにかありましたか」
「真琴は・・・まるで子供に戻ってゆくように、いろいろなことを忘れていってる」
「高熱を出しましたね」
「ああ、出した」
「・・・・・・力が失われるとき・・・発熱するようです」
「それは・・・予兆、ということなのか」
「予兆・・・いえ、本来ならば、それで終わっていたのでしょう。 ただ、思いが強いだけに、不完全な形で今も居続けているんです」


ずっと前から始まっていたのだ。

以前から真琴の日常生活における不備は目についていた。

あれこそが予兆だったんだ。

本の文字が読めなくなるのもそうだったし、箸が持てなくなるのもそうだった。

よく転ぶのも、そうだったのかもしれない。

そして今回の発熱で、一気に症状が進行してしまった。

でもぎりぎりのところで、真琴は持ちこたえた。

ならばもう、真琴の思いはいつ費えてもいいような状態なのだ。


「二度目を越えることはない、と思ってください」


真琴はそんなにも俺と居たいのか。

あんな、子供のようになってまで・・・。


「そして、どうなるんだ、あいつは・・・」
「消えます。。 初めからいなかったかのように」


俺は目を瞑り、顔を伏せた。

なんて言っていいか、わからない。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


天野は、ただ黙って、俺が次の言葉を促してくれるのを待っていた。

そんなふうに見えた。

彼女なら、もしこれ以上話を続けたくなれば、簡単に俺を置いて去れたはずだからだ。

これまでもそうだったように、俺の知っている彼女とは、そういう人間のはずだった。


「なんでもいい。 話をしてくれ」
「・・・他愛ない昔話です」
「いいよ。 聞かせてくれ」
「ものみの丘は、ご存じですね」
「・・・・・・」


ここからでは建物が邪魔して見えなかったが、俺が目を向けた方向で合っているはずだ。

真琴が、長い間ここに居たような気がする、という丘のことだ。

通称をそう呼ぶことを同時に思い出した。


「ああ」
「そのものみの丘には、不思議な獣が住んでいるのだそうです。 古くからそれは妖狐と呼ばれ、姿は狐のそれと同じ。 多くの歳をえた狐が、そのような物の怪となるのだそうです。 それが姿を現した村はことごとく災禍に見舞われることになり、その頃より厄災の象徴として厭(いと)われてきた。 現代に至るまでです・・・」


すぅ、と天野は小さく息を吸った。


「ただそれだけの、どこにでもよくある昔話です」
「それが、あいつだと言うのか」
「・・・・・・相沢さん。 あの子は、相沢さんに災禍を見舞いにきたのですよ」
「・・・・・・」


出会ったときのことを思い出してみる。

確かにあいつは出会ったときから、俺を憎んでやまなかった。

本当にあいつは俺に災禍を見舞うために訪れた、妖狐なのだろうか。

それだけの報いを受けるだけのことを、俺は行ったのだろうか。

気づくと、天野が顔を伏せて、肩を震わせていた。


「相沢さんは・・・本当に、つらい目に遭うのですよ、これから・・・」


鎮痛な声。


「天野は・・・それを経験してるんだな」


確信めいた予感から、そんな言葉が口をついてでていた。


「あの子たちは・・・昔話にあるような・・・そんな忌むべき存在ではないです・・・」
「ああ、もうわかってるよ」
「本当に・・・いい子たちだから・・・。 だから・・・こんなに辛くて、悲しい・・・」


天野が、頑なに真琴と知り合うことを拒んだ理由がそこにあったことを、今知る。

同じ境遇に天野も身を置いていたことがあるのだ。

そして、二度としたくないような、辛い別れを経験していた。

天野の震える肩が、そう語っていた。

もう二度と、悲しい目に遭いたくなかったのだ、彼女は。


「すまなかったな」
「・・・・・・」


天野は涙を流さず、泣いていた。

そして俺は、これから天野の後を追おうとしている。

同じ運命を辿ろうとしているのだ。


「相沢さん・・・」


掠れた声を天野があげた。


「私は・・・それでこんなふうになってしまいましたが・・・相沢さんは、どうか強くあってくださいね」


こんなふうに・・・それは、今の、友達もいないような彼女の境遇を指すのだろうか。

その別れを経て、彼女がどう変わってしまったのかは、知り合って少しの俺には知る由もなかった。

でも天野は変わってしまった。

その別れを経て。

俺は大きく息を吸った。

そして・・・


「おうっ」


感謝の意味も込めて、互いを叱咤するような力強い返事をした。


・・・。


天野と話をして、不安だった俺の胸中は幾分落ち着いていた。

訪れる別れが避けられないものだとしたら、真琴の想いに応え続けてやる。

それだけしかできなかったし、それで真琴が本望ならば、俺も満足だ。

もとより、それがあいつの目的であるのだから。

ただ最後の時まで一緒に居続けよう。

そう思った。


・・・。


家に帰ってくると、俺はまだ真琴が眠っていることを確かめてから、秋子さんと名雪をリビングに集めた。

そして、すべての事情を話した。

誰の目から見ても、真琴の容態は深刻だったし、それを現実的に考えれば傍観していろというほうが無理な話だったからだ。

でも俺は酷にもそれを傍観してくれと言うしかなかった。

真琴の中で進行している症状に対して現実的な処方はなかったからだ。

無駄に労力を割いて貴重な時間を失うわけにもいかない。

ただ、見守ってくれ。

そう懇願した。

皆は俺の話を聞いた後も、理解したような顔ではなかった。


「あの子が・・・昔に拾った狐?」


そう言葉で聞いてしまうと俺だって、信じられない。

あまりに、非現実じみている。

でもそれは事実なのだ。

俺は黙ったまま、頷いてみせた。


「人間だよ。 言葉だって使ってるし、二本足で歩いてるよ」
「それだって難儀になってるじゃないか。 それこそ人じゃなかったみたいにだ」
「それは・・・医者に診せないといけない症状じゃないの?」
「それだけはやめてくれ。 あいつと俺が一緒にいられる時間がなくなってしまう」


「・・・・・・」


それまで無言だった秋子さんが立ち上がっていた。


「どうしたの、お母さん?」


「部屋にいるの、真琴は?」


名雪の言葉を無視して、俺にそう訊いた。


「俺の部屋に居ますよ。 ぐっすり寝てます」
「そう」


俺の回答が彼女にとって満足なものかどうかはわからなかった。

珍しく、無表情だったからだ。

ただ一言答えて、部屋を出てゆく。

その後に名雪と俺も続いた。


・・・。


ベッドにもたれたまま眠っている真琴のそばに膝をつくと、秋子さんはその頬に手を当てた。

 

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「ふぅん・・・これがあの時の、あの子なのね・・・」


秋子さんは、知っていたのだ。

ここで、少しの間だけ飼われていた狐のことを。

俺は部屋の中に隠していたつもりだった。

でもそれも俺が子供の時分だ。

当時は注意深いつもりでも、大人の秋子さんからしてみれば、滑稽なほどに見え透いた行動だったのかもしれない。


「あぅーっ・・・」


ぐっすりと眠る真琴の口から声が漏れた。

寝言なのだろう。

同時に手が膝の上から落ち、その手首がちりん、と音をたてた。


「鈴・・・」


その手首を秋子さんが取っていた。


「これ、祐一さんがあげたの?」
「ええ」
「・・・鈴の音が好きだったものね、この子は」
「え?」
「だから、これを贈ったんじゃないの?」
「違います。 こいつが・・・これが欲しいってうるさく言うから」
「そう。 じゃあ、やっぱりあの子で合っているのよ、真琴は。 当時ね、ずっとお財布に鈴をつけていたのよ、私」


名雪もそれを思い出してか、隣で頷いている。


「お買い物に出かけるとき、大変だったのよ。 お財布を持ち出すたび、2階から降りてきてはついてくるから」
「そうだったんですか・・・知らなかったです」
「見つからなかったはずね。 親御さんが」


その言葉は、俺の話した信じがたい事実を受け入れてのものだった。

秋子さん自身にも、真琴との思い出があるというのなら、やはり俺と同じなのかもしれない。

いくら現実離れしていても、受け入れざるをえない何かを、真琴本人を目の前にして感じとっているのだろう。

しばらく秋子さんは真琴の顔に実入り、そして不意に立ち上がった。


「夕飯の支度しなくちゃ」
「あ、今晩はなんだっけ。 手伝うよ」


ふたりのやり取りは、もういつも通りのものだった。

そんなふたりを見て、俺は感謝せずにはいられない。

一番俺が望んでいた状況を、ふたりは作ってくれたのだから。


・・・・・・。

 

・・・。

 


そして真琴は、その日を堺に物静かになってしまった。

物静か、というのは本当は適切じゃなかっただろう。

あくまでもきれい事だ。

言葉を扱うことすら苦手になってしまった、というのが実際のところだった。

何もしない時間も多くなり、日がな一日ぼぉっとしていた。


・・・。


窓の外に降る雪を、俺と真琴は黙って見ていた。

真琴の手は俺の膝の上にある。

小さく、温かな手だ。

俺がそばに居ることをいつだって確かめていたいのだろう。


「真琴」
「・・・・・・」
「おい、真琴」
「・・・?」


ゆっくりと真琴の顔がこっちに向く。


「みかん、食べるか」


秋子さんから貰ってあったみかんを手にとり、それを真琴に見せてみた。


「・・・・・・すっぱい?」
「さぁ・・・それは食べてみないとな。 じゃあ、まず俺が食ってみるからな」


親指をみかんの窪みに差し込み、それに力を込めて真っぷたつに引き裂く。

その片割れをさらにふたつに割ってから、一房を剥がして取り、口に含む。


「・・・すっぱい?」
「いや、甘いよ。 美味しい」
「じゃあ、ほしい」


その真琴の手のひらに、一房を置いてやる。

真琴は少しそれを眺めた後、口に放り込んだ。


「・・・・・・んーっ」


すっぱそうに、口をすぼめてみせた。


「はは、すっぱかったか」
「・・・でも、おいしい」
「だろ?」


ふたりして、ひとつのみかんを分け合って食べた。

食べ終わっても、名残惜しそうに、皮だけを口の中に残して、真琴はもぐもぐと口を動かし続けていた。


「あんまり食うと、またおまえ、あれだからな」
「うん・・・」


真琴が頷いて、窓のほうに目を移す。

雪は本降りに変わっていた。

無表情のままの真琴の横顔を、俺はじっと眺めていた。

そして真琴は、もう笑うことも、怒ることもしなくなっていた。

それは人間らしさが失われてゆくということだった。

辛うじて人の姿でいることを考えれば、それは当然のことだった。

人の姿でいて、その感情はもう人のものではない。

こうしてその過程を見守っていることは、辛いことだった。

いっそあの時、消えていたほうがよかったのではないか。

そんな考えさえ浮かぶ。

俺のほうが弱気になっているのだろうか。

真琴と、いがみあうようにして、はしゃいでいられた時がもう懐かしい。

あの頃の真琴は憎たらしいぐらいに元気だったのに。


「な、真琴」
「・・・・・・?」

目だけをこちらに向ける。

今はもう、何にも曇らない目をしていた。

それは無垢な子供のような。


「あぅ・・・」


真琴は口から飲み込めないみかんの皮を出しては、俺の手に返すのだった。


・・・。


夕食を終え、ベッドに俯せになって寝転がっていた。

食事はひどく疲れる。

それでももう、みんな事情を理解してくれているし、以前のような重苦しい雰囲気はない。

それに唯一、みんなで一緒に居られる時間だ。

迷惑をかけても、それを大事にしたかった。


「ねぇ・・・祐一・・・」


気づくと、部屋に戻っていたはずの真琴がドアを開けて、顔を覗かせていた。


「どうした、真琴」


俺は疲れを見せないようにして、ベッドから降りた。


「ごほん、よんで・・・」
「ごほん? 漫画か」


こくり、と頷く。


「よし、こっちこい」
「うん」


嬉しそうにとてとてと歩いてくる。

隣にきて寝そべると、俺の腕に鼻面を押しつける。

以前なら、鬱陶しいと無下に振り払っていたことを思い出す。

だけど、今は好きなようにさせてやる。

もう裏返しの愛情表現なんて意味がなかった。


「どれ」


真琴の持ってきた漫画を手にとって、ページをめくる。


「あれ・・・これ、少し前に読んでやったやつじゃないか」
「よんで」


真琴はただそう繰り返す。

まだこういった娯楽に興味を示すのは俺としては勇気づけられることだった。


「ああ、そうだな。 なんだって読んでやるぞ。 『恋はいつだって唐突だ』」


ごろごろと頭を擦りつけてくる真琴。

聞いているのか聞いていないのか、よくわからなかったが、俺は朗読を続けた。


・・・・・・。

 

・・・。


「・・・『わかった。 絶対に迎えに来るから。 そのときはふたりで一緒になろう。 結婚しよう』」
「・・・・・・したい」
「あん?」


不意に真琴が声をあげる。


「何か言ったか?」
「したい・・・けっこん」
「大きくなったらな」
「祐一とけっこんしたい・・・。 そうしたらずっといっしょにいられる・・・」
「ああ、そうだな・・・」
「・・・・・・」
「続き・・・読むぞ?」
「うん・・・」


真琴もすでに悟っていたのだろうか。

最後に迎える時のことを。

そのとき、真琴は大きくないことを。


・・・。


翌朝。


「いってくるからな、真琴。 大人しく待ってろよ」


そう言って、俺は出かけようとした。

でも玄関先で見送る真琴の姿は、ただ俺を不安にさせるばかりだった。

その俺の言葉に対して、真琴は何も答えられなかったからだ。


「・・・・・・」
「どうした、真琴。 出かけるひとを送り出すときは、なんて言うんだ?」
「あぅ・・・」


俺の責め立てるような口調が、非難として真琴を脅かすだけだった。


「いってきます、真琴」


語調優しく言ってはみたが、俺はとてもじゃないが家を出る気にはなれない。


「・・・・・・」


「あら、祐一さん、まだ居たの?」


秋子さんが、俺たちの声を聞きつけてか、奥の台所のドアから姿を現した。

手をエプロンで拭いながら、やってくる。


「大丈夫。 真琴は私と遊ぶから」
「そうですか。 忙しいのに、すみません」


俺は恭しく頭をさげた。

すると秋子さんはとんでもない、と頭を振ってみせた。


「私が遊びたいのよ、真琴と。 楽しいから。 ね、真琴。 今日はお母さんと一緒に遊びましょうね」
「うん」


真琴はようやく大きく頷いて返事し、俺をどうにか学校へ向かわせるに至ったのだった。


・・・・・・。

 

・・・。


学校での生活は、空虚だった。

でも休むわけにもいかず、俺はただ下校時間に思いを募らせていた。

その頃の俺は、誰もが寄りつけない人間だっただろう。

学校ではまるで面白くない人間になっていた。

みんなが休み時間騒いでいるのも、中に入る気にはなれず、ただ遠巻きにひとり見つめているだけだった。

そんな自分の姿が誰かに似ていると思った。

誰だっただろうか・・・。

まあ、いい。

深くは考えないでおくことにした。


・・・。


もう真琴は迎えに来ない。

家にじっとしていて、俺が帰ってくるのを待っているだけだ。


・・・。


またお土産に、肉まんを買っていってやろうと商店街に立ち寄る。


「あ・・・」


そこで俺はあるものを目にして、唐突に思い立つ。

居ても立ってもいられずになって、走り出していた。


(後になって後悔しないようにな)


真琴の思いには、応え続けてやる。

そう俺は誓ったはずだったから。


・・・。


「はぁ・・・はぁ・・・秋子さーんっ! 名雪ーっ!」


靴を脱ぎ捨て、二人の名を呼びながらリビングへと飛び込む。


「どうしたの?」


都合良く、ふたりしてお茶を飲んでいるところだった。


「・・・?」


俺の勢いに驚いてか、ふたりは同時に俺へと顔を向けていた。


「今から出かけないか」
「え? どこにいくの?」
「商店街。 たまにはみんなで外食、なんてのもいいんじゃないかと思って」
「・・・?」


「いいアイデアね。 楽させてもらえるなら大歓迎よ」


秋子さんが、意を介したように言ってくれた。


「お母さんのご飯は外で食べるより美味しいもんね。 でも、確かにたまにはいいかもね」


名雪も別段文句も付けず、賛同してくれた。


「で、真琴は?」
「遊び疲れたようで、寝てるわよ」


本当に秋子さんは真琴の相手を一日していてくれたようだ。

俺は感謝を笑顔で表すと、秋子さんはそれ以上の笑顔で答えてくれた。


・・・。


俺は2階まで駆け上がると、真琴の部屋をノックして叫ぶ。


「おい、真琴ーっ、今からみんなで出かけるぞーっ」


・・・。

返事がなかった。


「俺の部屋かな・・・?」


着替えるついでに、自室に戻ってみる。

すると案の定、真琴が俺のベッドですやすやと寝息をたてていた。


「おい、真琴っ」


ぽん、とその頬に手を添える。


「・・・・・・?」


薄目を開けて、俺の顔を見る。

そして、すぐその手で俺の服を掴んだ。

ちりん、と鈴の音が転がった。


「今から、みんなで出かけるぞ。 いくだろ?」
「うん」


もちろん、というように寝ぼけまなこのまま、ベッドから這い出る。


「好きなもの、食わしてもらおうぜ」


・・・。


秋子さんは、大歓迎と言っていたものの、台所を覗くと、それが気遣いであることが明らかになった。

すでにそこには夕食の用意が済ませてあったのだ。

でも、そのことを追求したとしても、秋子さんにそれ以上の気を使わせるばかりだったので、

俺は何も言わずに皆と一緒にはしゃいでおく。

本当、秋子さんには迷惑をかけっぱなしだった。


・・・。

 

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街に一軒だけあるファミリーレストランに入り、たくさんの家族に混じって、俺たちも賑やかに夕食をとった。

真琴も久しぶりに、表情を弛ましていたような気がした。

笑うことはもうなかったけど、それだけで喜んでいるのが充分伝わってくる。

名雪も率先して、真琴の面倒を見てくれたし、俺たちは間違いなく仲の良い家族に映って見えたはずだ。

満足だった。


・・・。


「さて、と・・・」


後は帰るだけとなったところで、俺は切り出す。


「あれ、みんなでやらないか?」
「え?」


皆が、俺の指さす先、煌々としたゲームセンターの店先に目を向ける。


「なに、あれ?」
「プリント機ね。 その場で撮った写真がシールになるの」


名雪が俺の代わりに説明した。


「へぇ、面白そうねぇ」


秋子さんは歳の割にノリがいい。

なんてことを口に出して言ったら、怒られるだろうけど。


「よし。 じゃ、いこうぜ」


時間帯がよかった。

いつもは若い女の子たちが列を作っているはずのプリント機は無人だった。

のれんのような帳をくぐり、ディスプレイの前に並ぶ。


「狭いわね・・・」

「わ、お母さん押さないでよっ、わたし、はみ出るっ」

「こらこら、俺の前にくるなっ!」


押し合いへし合いする中に、真琴がいないのに気づく。


「おい、真琴っ、どこいった!?」


振り返って探すと、少し離れたところでぼぉーっと突っ立って、こっちを見ていた。

 

「・・・・・・」


そう。

真琴はいつもそうして、外から楽しそうな風景を見ているだけだったのだ。

そしてその喧噪が消えてなくなった後、ひとり寂しく自分をその中に投影させていた。

そんね幻影だけを写した、ひとりぼっちの写真を大切に持っていたのだ。

もうそんな写真なんて、持っている必要はない。


「なにやってんだよ、おまえ。 もう見てるだけじゃなくていいんだよ。 ほら、一緒に映る仲間がいるだろ?」
「・・・・・・」
「待ってるんだぞ、おまえが来るのを。 ほら、こいよ」


「ね、真琴っ、一緒に撮ろうよっ」


名雪も、そう真琴の名を呼んだ。


「真琴、真ん中、きなさい。 お母さん脇役でいいから」


秋子さんも、そう言って笑う。

そうして、みんなで真琴に呼びかけた。

すると・・・

 

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「わぁ」


嬉しそうに顔を綻ばせて、とてとてと寄ってきた。

俺はその姿を見て、涙が出そうになった。


「よし、真ん中入れよ」


感情をほとんど失っているにも関わらず、こんなにも喜ぶなんて。

憧れだったのだ。

ずっと、こいつはこうしたかったんだ。

人の繋がりから生まれる温もり。

そんな温もりの中に居て、ぬくぬくとそれを感じていたかっただけなんだ。

こいつが切望していたものとは、こんなにもささやかなことだったんだ。


「なんか、書き文字が入れられるみたい」


付属のペンを持って、名雪がディスプレイの説明書きと睨めっこしていた。


「こんなものは、適当にやれば合ってるんだよ」


それを奪い取って、俺はディスプレイの上に字を走らせた。


「これでいい?」
「おう」
「じゃ、撮るね」
「おう」


「真琴もいい?」
「うんっ」


名雪が目の前の撮影ボタンを押した。


・・・。


夜には花火をした。

それは秋子さんのアイデアだった。

いつか、真琴が花火をしたいと言っていたことを思い出してのことだった。

だがあの言葉は、真琴が叱られないように、その場しのぎで言ったものにすぎなかった。

でも、それこそ今更だ。

俺たちが四人で共有できる時間が作れるのなら、なんでもよかった。

冬の花火は、わけもなく寂しく、費えるものたちの宴のように思えた。

真琴はよほど嬉しいのか、いろいろな花火を持って、子供のように狭い庭をぐるぐると駆け回った。

花火の明かりを受けた、真琴のその健気な横顔さえも、いつか消えゆくものなのだろうか。

すべての花火がなくなると、真琴はただ寂しそうに庭に立ちつくす。


「寒いから、そろそろ中に入りましょうね。 温かい飲み物でもいれてあげるから」


秋子さんが真琴の肩に手を置く。

それでも真琴はずっと、次の花火を差し出されるのを待っていた。

祭りの後の寂しさ。

楽しかった時間は、次に差し出されるものなく、いつしか費える時を迎えるのだ。


・・・。

 

寝る前には、真琴とふたりで紙飛行機を作って遊ぶことにした。

以前に、真琴がそう誘ってきたのを思い出し、俺が提案したのだ。

今日は遊び尽くそう。

折り紙がなかったから、ノートのページをはさみで正方形に切って、二枚用意した。


「ほら、こっちは真琴の分だぞ」


その一枚を真琴の目の前に置く。


「まず、半分に折るぞ」


ぱたっ、と紙を折ってみせる。


「・・・・・・」


真琴が俺の手の動きを真似て、紙を折りたたもうとする。


「・・・・・・」


ぱたっ。


「あぅ・・・」


半分にならない。

斜めに折れ曲がっていた。


「ほら、もう一度開いて」
「あぅ・・・」
「半分に、折りたたむ」


ぱたっ、ともう一度、手本を見せる。


「・・・・・・」


ぱたっ。


「・・・・・・」


また斜めに折れ曲がった。

真琴には酷な遊びだっただろうか。


「ほら、もう一度開いて」
「あぅ・・・」
「慎重にな。 ここ持っててやるから」


・・・。


ぱたっ。


「あぅっ」


俺が手を貸して、どうにか半分に折れ曲がった。


「じゃ、開いて。 これは、線をつけるだけだからな」


真琴の紙は折り目だらけで、どれが正しい線かも、わからないような状態だった。


「ここだぞ。 この線に合わせて、こう折る」


ふたりで力を合わせて、ひとつの紙飛行機を仕立ててゆく。


・・・。

 

「あぅ」


完成した紙飛行機は、至るところが折れ曲がった、みすぼらしいものだった。

でも、これは遊びだ。

楽しかったらよかった。

その後、それを飛ばした遊んだ。

すぐ墜落する飛行機だったけど、真琴は何度も何度も拾いなおして飛ばした。

その姿が、滑稽で、俺はずっと眺めていた。

眠たくなるまで、ずっと。


・・・・・・。

 

・・・。

 

目覚めは、いつだって恐い。

真琴がもう隣にはいないかもしれないからだ。

でも、まだ今朝もいてくれた。


「・・・・・・」


俺が起き出しても、真琴はまったく目覚める様子もなく、小さな寝息を立て続けていた。

このところは、昼間でも少し目を離すと寝入ってしまっていることが多かった。

疲れているのだろう。

そのまま寝かせて、俺は部屋を出た。


・・・。


その日の放課後。


「よぅ」


俺は努めて明るく、彼女に声をかけた。

彼女はもうこれ以上、俺と関わりたくなかったかもしれない。

でも俺は彼女と話したい。

話題はなんだっていい。

ただ、その後ろに背負っているものを、暗黙のうちにでも共有できればいい。

それだけで俺は落ち着ける。

自分を繋ぎ止めておくことができる。


「はい」


天野はこれまでのように無感情な返事をした。


「今から、帰り?」
「はい」
「じゃあ、一緒に帰るか」
「でも、家の方向がぜんぜん違います」
「いいんだよ、校門までだってな。 嫌か?」
「いえ。 なら校門まで」


俺と天野は言葉少なに会話を進めながら、廊下を歩いてゆく。


・・・。


下駄箱までくると一度別れて、再び昇降口を抜けたところで落ち合う。


「もう、後少しですね」


校門までの距離を目で計り、天野が言った。


「そうだな」
「・・・・・・」


ふたりの足が、校門を踏み越えた。


「それでは」


天野が軽く頭を下げて別れの挨拶をした。


「ああ、またな」
「はい」


ふたりはその場で別れ、背を向け合った。


「・・・・・・なぁ、天野!」


だが俺は再びきびすを返していた。


「会ってやってくれないか、あいつに」
「・・・・・・」


背を向けたままの天野は黙ったままだった。

また俺は彼女に辛い思いをさせてしまっているだろうか。

だけど、天野に会ってもらいたい。

今、すべてを理解してあいつに接してくれるのは、俺以外には天野しかいなかった。

何か、声をかけてやってほしかった。

あいつを少しでも安心させてやってほしい。

俺の我が儘を聞いてほしい。


「・・・・・・はい」


天野はそう答えていた。


・・・。


「・・・・・・」
「・・・・・?」


向かい合って立つ、真琴と天野。

ふたりとも無表情だった。

真琴は実際何も考えていないのだろう。

だが天野はその胸の内にどんな思いを今、巡らせているのだろうか。


「はじめまして。 天野といいます」


天野は挨拶から始めた。


「・・・・・・」


そして、真琴の挨拶を待った。

俺には天野の意図するところがわからない。

それはまるで、自分自身に対する当てつけのような、そんな気がした。

真琴は自分の名を名乗ることができない。

それを彼女は真琴の様子を一目見て、理解していたはずだったからだ。


「ほら、お名前は?」
「あぅ・・・」


何を訊かれているのかもわからないのだろう。

真琴は口ごもって、ただ天野の顔を見返すばかりだ。


「お名前は?」


天野は質問を繰り返した。

語調は優しく、焦れったい反応を見せる真琴を前にしても、終始穏やかなままだった。

そしてそれは、相手のことを一から十まで理解している者の優しさだった。

決して自虐的になっているわけでもなく、真琴に対して辛辣にあたっているわかでもない。

言うなれば、見守る者、母の優しさだった。

そのことを悟ったとき、俺の天野に対する疑念は立ち消えていた。

やはり、天野でよかった。

俺だって、今の天野のような気持ちにはなれなかったかもしれない。

それは、大きな痛みを受け入れて初めて生まれる、強さだと思う。

俺はそんな天野の姿を見られただけでも充分満足だった。

天野は、きっと時間をかけてもとに戻ってゆく。

そんな気がしていた。

真琴も初対面にも関わらず、逃げ出したりしない。

ずっと、天野の問いかけを理解しようと頑張っているように見えた。


「お名前は?」
「あ、あぅ・・・」


真琴の顔が知恵熱でも出したように、赤くほてっていた。

懸命に、真琴なりに、必死なのだ。


「おいで」


天野が両手を開いていた。


「・・・・・・」


少し迷ってから、その腕の中へと真琴がとてとてと歩いてゆく。



「・・・・・・」


天野はその小さな体を抱いて、そしてその頭を撫でてやっていた。


「こうしたら、落ち着くんです」


俺のほうも振り返らず、天野は小声で説明した。


「・・・・・・」


真琴は気を許して、その少女の体に身を預けていた。


「お名前は?」


頭を撫でながら、天野はそう繰り返した。


「あぅーっ・・・」
「ほら、頑張って。 お名前は?」
「うーっ・・・」


出てこない。


「お名前は?」


根気よく、天野は質問を繰り返す。

口調は、ずっと穏やかなままだった。


「ほら、お名前は?」
「あぅ・・・ま・・・」
「ま?」


こくり、と真琴が頷く。


「まの次は?」
「こ・・・」
「まこ? まこでいいの?」


ぷるぷると顔を横に振る。


「まこ・・・の続きは?」
「あぅ・・・」
「ほら、もう少し」
「・・・・・・と」
「と? まこと? 真琴でいいの?」
「まこと、あぅ。 まことっ」


大きく頷く。

ようやく挨拶が終わったのだ。


「いい名前ね、真琴」

 

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「あぅーっ」


嬉しそうに、真琴は手をぐーにして振り上げてみせていた。

言葉を発することができない本人の代わりに、その手首に巻かれた鈴が、ちりんちりんと歌うように跳ねた。

天野はご褒美でも与えるように、その真琴の頭をずっと撫でていた。

安らかに微笑みながら。

そんなふたりの姿を見て、俺もつられて笑っていた。

本当によかった。

ふたりを引き合わせて。

一時的にとはいえ、真琴は自分の名前まで思い出してみせたのだ。

そんなこと俺にはできなかっただろう。

きっと、天野は真琴のいい友達でいてくれる。

今日から、ずっとこれからも。

よかった。


・・・・・・。


・・・。

 

夕食後、食卓の片付けを手伝った後、部屋に戻ると、一足先に真琴が床を占拠していた。


ちりんちりん・・・


夢中で、腕に填められた鈴をもう一方の手で掻いている。


「おい、真琴、みんなでテレビ見ようぜ」
「・・・・・・」


俺の声が聞こえているのか、いないのか、鈴を鳴らすのに夢中だ。


「下でみんな待ってるぜ。 世界の楽器がどうとかいう番組だぞ。 楽器たくさん出てくるぞ。 鈴がいっぱいついた楽器も出てくるかもしれないぞ。 興味ないか?」


そばまで寄っていって、そう説明するが、真琴に興味を示す様子はなかった。


「そっか、興味ないか」


仕方なく、その隣に俺は腰を下ろす。


ちりんちりん・・・


その音をただぼぉっと俺も聞いていた。

目を瞑ると、隣にいるのが、誰なのかわからなくなってくる。

手を伸ばして触れた体は、間違いなく人の温もりを携えたものだった。


・・・・・・。


・・・。


「なあ、真琴」
「・・・・・・」


真琴は、もう返事もしなくなった。

ただ俺のそばにいて、体を寄せているだけだ。


「ご本、読んでやろうか」
「・・・・・・」


自分に話しかけられているとも思っていないのだろう。

ただ手首の鈴を、ちりんちりんと鳴らして遊んでいるだけだった。

夕べから暇があれば、そうしている。

それだけで満足している真琴を見ているのは、とても辛かった。


「もっといいものにしておけば良かったのにさ」


もう、別なものを買い与えたとしても、その意味もわからないだろう。

それが最初で最後の、プレゼントとなってしまったのだ。


「な、真琴。 何か、したいことないか」
「・・・・・・」


ちりんちりん、と鈴を鳴らすのに没頭していた。

それをしていると、他のことは一切気にならなくなるらしい。


「ほら、そんなことしてないでさ。 やりたかったこと、たくさんあったんだろ? 今日一日なら、なんだって付き合うぞ。 学校休んじまったからな」
「・・・・・・」


ちりんちりん。


「雪もやんでるし、遊びにでるか? どこにいきたい? 遊園地とか、動物園とか、水族館、なんでもいいぞ」
「・・・・・・」
「おい、真琴・・・返事してくれよ・・・。 ふたりで遊ぼうぜ」


それは俺自身の願いでもあったのだ。


「・・・・・・あぅ・・・」


真琴が口を開いて、こっちを見た。


「お、どうした? なんだ、言ってみろ」
「・・・・・・」


じっと俺の顔を見ているだけだった。

もう真琴の口からは、人の言葉はでない。


「・・・・・・」


ただ、頬を寄せてきて、俺に体重を預けただけだった。


「そっか。 真琴は俺と一緒に居られれば、いいんだな。 それだけなんだな」
「・・・・・・」


真琴の体を抱きしめると、安心して、真琴は体の力を抜いた。


・・・・・・。


・・・。

 

一月、最後の日。

その日も、真琴は俺の隣にいた。

今日が終われば、月が変わり、一歩春に近づく。

でも、まだまだ遠い。

まだまだ暖かな春は遠い。

早く春になってほしい。

真琴が好きな季節になってほしい。


そうすれば・・・


また、真琴は元気になるだろうから。


・・・。


翌朝。

真琴が再び、熱を出した。

それがどういうことか、痛いほどにわかっていたから、俺はただ打ちひしがれるだけだった。

天野が言っていた。

二度目を越えられることはない、と。

ならばそれは間違いないのだろう。

天野の言葉が間違っていたことはなかった。

それに、もし天野の言葉がなかったとしても、俺は悟っていただろう。

次、真琴が眠りについたとき。

それが真琴の想いが霧散するとき。

そのことを。

俺は、誰よりも長く真琴と一緒にいたのだから。

だから今日という日の真琴が眠りにつくまでの短い間・・・

それが真琴と一緒に過ごせる最後の時間なのだ。


・・・。


真琴は俺のベッドに横になっている。

その目が薄く開かれ、こっちを向いていた。

すぐにも寝入ってしまいそうだった。


「大丈夫か、真琴」
「・・・・・・」


ただじっと、俺の顔だけを見ている。


「何か・・・して欲しいことあるか」
「・・・・・・」
「ご本は?」
「・・・・・・」
「よぅし、ご本、読んでやろうな」
「あぅ・・・」


嬉しいのか、表情は変えなかったが、わずかに声を漏らした。


・・・。


俺は真琴の部屋に赴くと、散乱した漫画本の山を物色する。

手つかずのままの本はないようだった。

しかし今の真琴を考えると、あいつが一番好きだった本を繰り返し読んでやるのがいいだろう。

言葉の意味はわからなくとも、その雰囲気ぐらいは思い出せうかもしれない。

俺は、真琴のお気に入りだった一冊を持って、部屋へと舞い戻る。


「おい、真琴ーっ」
「・・・・・・」
「真琴?」
「・・・・・・」


閉じていた目を開いて、俺の顔を見る。


「ばか、寝るんじゃないぞ。 これから俺が本を読んでやるんだからな」
「・・・・・・」


俺はベッドの脇にしゃがみ込み、本を枕元で開いて、真琴にも見えるようにしてやる。


「おまえが一番好きだった本だぞ」
「・・・・・・」
「よし、読むからな。 はじまりはじまり。 『恋はいつだって唐突だ』」


何度となく繰り返した、そのくだりから俺は朗読を開始した。


・・・・・・。


・・・。

 

 

「・・・『わかった。 絶対に迎えに来るから。 そのときはふたりで一緒になろう。 結婚しよう』」
「・・・・・・」


・・・けっこんしたい


・・・だったら、ずっといっしょにいられる


今思えばそれは、真琴が人の言葉で残した、最後の願い事だった。


「結婚しようか、真琴」


本を読むのをやめて、そう訊いた。


「・・・・・・あぅ・・・」


眠たそうな目が、俺のほうを向く。


「な、真琴」


俺が指を差し出すと、真琴がそれを小さな左手で握った。


「そうか、よし」


俺はそれを返事だと受け取った。


「じゃあ出かけよう。 ずっと、いっしょにいられるようにな」


・・・。


「・・・・・・」


俺が立ち上がると、真琴は不安げに、わずかに表情を曇らせた。


「大丈夫。 手、繋いでいてやるから」


真琴の手をとって、立ち上がらせる。

熱を出している真琴には酷だったが、今そうしなければ、ずっと後悔する。

ここで寝かしておいても、迎える結果は同じなのだ。

なら、ひとつでも多く、願いを叶えさせてあげたかった。

真琴を着替えさせる。

どうしてもパジャマをぬぐのを嫌がった。

袖を固く握って離さない。


(結局これも気に入っていたんだな・・・)


仕方なく、その上からいつものタートルネックのセーターを着せてやった。


・・・。


ふたりで過ごしていた、部屋を後にする。

そして並んで、階段を降りる。

真琴が転げ落ちないように、その体重を支えてやりながら。


「おまえは、よくここから落ちたからなぁ」
「あぅ・・・」


もう、真琴がこの家に戻ってくることはないかもしれない。

そんな気がしていた。


・・・。

 


「あら、出かけるの?」


洗濯物を抱えた秋子さんと、廊下で出会う。


「ええ。 真琴とふたりで」
「学校さぼっておいて、不良ねぇ」
「そうですね」


俺が頭を掻くと、秋子さんは、冗談よ、と言って笑った。

秋子さんは、ずっとよき理解者だった。

きっとこれからも。


「じゃ、おいしい晩ご飯、作って待ってるわね」


真琴の頭に手を置いて秋子さんが言う。

真琴がじっと、その顔を見つめる。


「・・・・・・」


口が小さく動いた。

声にならず、なにを言ったかわからなかった。

正面から口の動きを見ていた秋子さんには、もしかしたらその言葉がわかったのかもしれない。

声を詰まらせて、不意に後ろを向いた。


「いってらっしゃい」


それだけを口を押さえた手の下から紡ぎだした。


「いってきます」


俺は真琴の手を引いて、その場を後にした。


・・・。


天野がいた。

でももう、俺には決心がついていたから、彼女にすがることはなにもない。

彼女だって、会いたかったのは俺のほうではなかったはずだ。


「さぼりかい、お互いデキが悪いな」


俺は冗談を言った。


「この機会を見過ごすほうが人としては、不出来でしょう」


なるほど。

いいことを言うものだ、天野は。


「丘にいくつもりなんだ、これから」
「そうですか。 いいことだと思います。 その子の生まれ故郷なのですから」
「でもその前に学校にいかなくちゃいけないんだ。 もうひとり、挨拶させたい奴がいる」
「はい」
「一緒にきてくれるよな」
「もともと学校には戻ろうとしていましたし」
「よかった」
「それに友達ですから」


言って、目を優しげに真琴に向けた。


「ああ、そうだった。 当然だったな」


その天野を連れて、俺たちは歩き出した。


・・・。

 

「でも、学校に戻るのなら、わざわざ出向いてきた私はなんだったんでしょうか」
「まったくだ」


天野なりの控えめな冗談が、場を和ませた。

笑えるようなものではなかったけど、今の俺たちにはぴったりだ。


・・・。

 

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張り詰めた雲。

時間ごと凍り付いたような空気。

悲しいことと楽しいことの境目さえ朧げにさせる、この天候には、笑えないくらいの冗談がちょうどいい息をつかせてくれる。

笑ってしまえば、それはもの悲しく、泣いてしまえば、それはひどく滑稽だったからだ。

真琴もい発熱しているにも関わらず、その表情は穏やかだった。

そう。

友達と一緒にいるんだから、暗い顔をしている理由なんてないのだ。


・・・。


「では、ここで」


天野は中庭まできたところで、俺たちに別れを告げた。


「ああ、さっき言った奴に声をかけておいてくれよ」
「はい」


用件は言い終えていた。


「真琴」


天野が真琴の前に立ち、そしてその頭に手を置いた。


「またいつか、遊びましょうね」
「あぅ・・・」


手が離れた。


「さよなら」


そう言って、天野は振り返りもせず、昇降口へと消えていった。

彼女らしい、別れ際だった。


・・・。



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「あれ、どうしたの」


しばらくして訪れた名雪は俺たちを見て、驚いて言った。

天野が呼んでくれたのだ。


「いや、なんでもない。 遊びにきたんだ。 ふたりで」
「学校休んでおいて? 呆れた」
「いや、礼を言いたかったんだ、おまえに」


俺はそう訂正した。


「礼? そんなもの言われる覚えはないけど?」


真琴が俺の服の裾を引っ張っていた。

それはまるで、そんなことはどうでもいい、と言いたげな仕草だった。


「いや、やっぱ遊びにきたんだ」


もう一度訂正した。


「そう。 休み時間だから、そんなに時間ないけど、なにする?」

名雪は真琴に話しかけていた。

昼休みも終わりかけで、もう残り10分ばかりだった。

そんな中、ふたりは雪遊びを始める。

俺はひとり距離を置き、石段に腰を下ろしてその様子を眺める。

雪だるまを作っているようだった。

うまくできるだろうか。

ふたりとも不器用そうだった。


・・・。


「じゃあね、ばいばい」


チャイムが鳴り響いて、俺たちは別れることになった。

真琴の胸には作りたての雪だるまが抱かれている。


「おぅ、ありがとな」


真琴の代わりに、礼を言ってやった。

結局言わずにはいられなかった。


「うん」


ひとつ頷いて、笑顔のまま名雪は校舎へと戻っていった。

真琴はずっとその方向を眺めていた。


「じゃ、いくか」

俺はそう促した。

用は終わったのだ。


・・・。


今年に入って、三度目の道。

濡れた落ち葉に足をとられて、いつも真琴が滑って転んでいた道だ。


「ほら、足元を見て、気を付けて歩けよ」
「・・・・・・」


一生懸命に真琴は足を踏みしめてゆく。

それでも足を滑らせたが、俺がしっかりと肩を持って支えてやっていたので、倒れなかった。

俺がそばにいるから、真琴はもう転ばなかった。


・・・。


「寒いな・・・」

丘は一面、靄に覆われていた。

吐く息さえも、それに混じって見えない。

俺と真琴はしばらく黙って、風を受けていた。

ただ、手の温度から伝わる互いの存在を感じながら。

空を見上げると、人工物が視界から消え、世界が変わる。

互いだけが信じられる、そんな世界だった。


「あぅ・・・」


声がして、上着が引っ張られた。


「どうした」


視線を現実に戻すと、真琴が俺の胸に抱えられたものを見ていた。

 

 

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「おっと、そうだったな。 悪い悪い」


それは肉まんの入った袋だった。

食べながら歩くと、真琴がそれにばっか気を取られて危なかったから、おあずけにしていたのだ。


「好きなだけ食え」


開いた口に、ひとつ放り込んでやる。

ここまで大事に抱えてきた雪だるまを傍らに置くと、真琴は夢中になって食べ始める。

たくさん買ってきてあったから、いくら食べてもなくならないだろう。

俺もそのひとつに手を伸ばした。


・・・。


冷え切ってしまった肉まんを数個残して、俺たちは大地に身を投げ出していた。

いつしか日は傾き、その大地と一緒に俺たちも赤く染め抜かれていた。

横を向くと、真琴が眠そうに、眼をとろんとさせていた。


「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・そろそろ始めるかぁ」
「・・・・・・」
「おい、真琴、起きてるか?」
「・・・・・・」
「うり~」


俺の胸にあった真琴の頬を人差し指で押し込んでやる。


「・・・?」


ようやく気づいて、真琴が俺の顔を見る。


「始めるぞ」
「・・・・・・」


すぐ前の真琴の顔に向かって囁く。


「俺たちの結婚式だ」


ウェディングドレス一式なんて、とてもじゃないが、手が出るような値じゃなかった。

だから、俺が真琴に与えられたのは、頭にかぶるベールだけだった。

 

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真琴はそれが何かわかっていない様子だったが、俺が頭に被せてやると、風で飛ばされないようにと手で押さえた。

それだけで充分だった。

参列者は、名雪が作ってくれた雪だるまだけ。

名雪に見られているようで恥ずかしかった。

でもそいつは溶けかけていて、自分のことで精一杯にも見えた。

それでも、そんな振りをして祝福してくれているのだろう。

あいつらしかった。

そして俺は寒風に向かって立ち、永遠の祝詞を口ずさむ。

真琴は鼻歌でも聞くように、静かに耳を傾けていた。

これで真琴の願いは成就したと信じた。

最初、俺に憎しみの念を抱いて現れた真琴。

それは俺が一瞬の、人の温もりを与えてしまったためなんだろう。

何も知らなかった、純粋に無垢だったあの頃に。

そして真琴は帰ってきた。

もう一度、人の温もりの中に身を置くことを望んで。

子供のようにはしゃいで、みんなを困らせて・・・真琴は幸せだっただろうか。

それでも家族で一緒にいて、真琴は幸せだっただろうか。

嫌いな俺なんかといつも一緒にいて、真琴は幸せだっただろうか。

すべては、報われただろうか。

それでも本当はみんな大好きだったことに気づいていれば、幸せなはずだった。

うわべではいがみ合っていても、俺もおまえを大好きだったことに気づいていれば、幸せなはずだった。

でも、おまえはいつだってあまのじゃくだったから・・・

ちょっとだけ心配だよ、俺は。


「真琴」


俺は小さな体を引き寄せて、抱きしめた。


「ずっと、いっしょにいような」


びゅうと風が吹きつけ、白いベールが真琴の手から離れ、遠く空へと舞った。


「あ・・・」


真琴が小さな声をあげて、手を伸ばした。

でも、もう届かない。

 

 

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「あ・・・あぅーっ・・・」


そして泣いた。

ぼろぼろと涙を零し、子供のようにしゃくりあげた。


「あーあ・・・ほら、泣くな、真琴。 ベールなんて、どうでもいいから・・・。 今日は記念の日なんだからな。 めでたい日なんだぞ。 今日から俺たちは、本当の家族なんだからな」
「あぅーっ・・・うぐっ・・・」


それでも涙は止まらない。

後から後から溢れ出た。


「仕方のない奴だな、おまえは・・・。 ほら、こい。 頭、撫でてやるから」
「あぅっ・・・うぐぅーっ・・・」


地面に腰を下ろして、そして後ろから抱いてやる。



「ほら、これで遊ぼうぜ、真琴」
「うーっ・・・」


いつまでも泣きやまない真琴をあやすため、俺はその手首にはまる鈴を指先で転がした。

 

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「ちりんちりーん、ってな」


ちりんちりん。


小気味よく、音が転がった。


「あぅーっ・・・」


それへ視線を落とす真琴。

頬の震えが止まった。


「ほら、真琴も、ちりんちりんしてみな。 おまえ、そうやって遊ぶのが好きだっただろ」
「あぅ・・・」


指先をネコのように丸めて、その鈴を掻いた。


ちりんちりん。


「あぅーっ・・・」


一度鳴らすと、それが鳴り止まないように、何度も何度も指で掻き続けた。

 

ちりんちりん・・・ちりんちりん・・・


熱心な面もちで真琴がそれに耽る。

 

・・・ちりんちりん・・・ちりんちりん・・・


ちりんちりん・・・ちりんちりん・・・

 

ちりん・・・ちりん・・・

 

「・・・・・・」


やがて、それを子守歌代わりにするようにして、真琴の目が閉じてゆく。

 

「真琴・・・?」

 

ちりん・・・ちりん・・・


鈴の鳴る感覚が開いてゆく。


「おーい、真琴・・・」
「あぅっ・・・」


真琴が返事をして、もう一度目を見開いた。

そして、再び鈴を頑張って掻きだす。

 

ちりんちりん・・・ちりんちりん・・・

 

・・・ちりんちりん・・・ちりんちりん・・・


ちりんちりん・・・ちりんちりん・・・


・・・ちりん・・・・・・ちりん・・・


・・・ちりん・・・・・・ちりん・・・

 


・・・・・・ちりん・・・


鈴の音が、途切れてゆく。

 

・・・。

 

 

 

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・・・。

 

「おーい、真琴ぉ・・・」
「・・・・・・」
「寝るなよ、真琴」


うりうりと、その頬を指で押し込んでやる。


「あぅ・・・」
「ほら、鈴で遊ぼうぜ」


手首を振ってやる。


ちりんちりん。


「楽しいぞ、真琴」


それに習って、真琴も片方の指先で、その鈴を弱々しく掻いた。

 

ちりん・・・


「そうそう。 今度は俺の番だな」


俺もその鈴を指で弾く。


ちりんっ。


小気味よく音が転がる。


「ずっとこうして遊んでような。 な、真琴。 次、真琴の番だぞ」

 

・・・。

 

「真琴・・・?」

 

・・・。

 

「ほら、おまえの番だって。 聞いてるのか?」

 

・・・。

 


「ちりんちりん、って弾くんだよ」

 

・・・。

 

「どうしたんだよ、真琴・・・」

 

・・・。


「真琴・・・」

 

・・・。


「真琴ぉ・・・」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


とすっ、とその腕が俺の手から地面に落ちて・・・

 

ちりん・・・

 

 

 

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最後の音をたてた。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

 

 

 

 


『真琴、真ん中に入りなさい。 お母さんは脇役でいいから』

『おう。 よし、真ん中入れよ』

『ね、真琴っ、一緒に撮ろうよっ。 じゃ、撮るね』

『真琴もいい?』

『うんっ』

 

 

 

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・・・。

 


俺はずっと忘れていたような、普通の日常の中にいた。

そこは呆れるくらいに退屈な場所だったけど、そこに居るのが当たり前になってくると、やがてリハビリを終えた体のようにしっくり合ってくる。

そうなると、小さな驚きや発見でも新鮮だった。

もとよりそういうものの集合で日常は成り立っているわけだから、楽しくないはずがない。

緩やかに流れる時節に、そうやって、たゆたっているのも悪くなかった。

春が訪れようとする頃、一匹のネコが水瀬家の空き部屋に住み着き、皆を驚かせた。

それは、ぴろだった。

何事もなかったように、家の中を闊歩してみせ、皆を呆れさせたものだった。

子づくりにでも励んできたのだろう、というのが大方の予想だった。

ぴろは雄だったからだ。

すぐには出てゆく様子もなく、ぴろは再び水瀬家の飼い猫となった。


・・・。

 

 

 

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「こんにちは」


と天野が言った。


「こんにちは」


と俺は答えた。


「いいお日柄ですね」
「天野は相変わらず、おばさんクサイな」
「ひどいですね。 物腰が上品だと言ってください」


俺と天野はこうしてたまに時間を合わせては、話をするようになっていた。


「約束は守ってくださっているようですね」
「ああ。 元気だけが取り柄のようなものだ。 心配ないよ」
「そうですか。 良かったです」


俺に感化されるように、天野も明るくなってきているような気がする。

嬉しかった。


「また、あの子たちは・・・あの丘を走り回っているんでしょうかね」
「だろうな」


俺たちは、そこからでは見えるはずのない丘を見ていた。


「小さな営みの中、また新しい命が生まれ、育まれて・・・そしてまたひとの温もりに憧れる子が出てくるんでしょうか」
「そうかも・・・な」
「でもそれは仕方がないですね。 あの子たち性分ですから」
「さすが、昔話になるだけのことはあるってことだな」
「でも・・・」


一呼吸置いて、天野が真剣な面もちとなる。


「もしかすると、この街に住む人間の、その半分くらいがあの子たちなのかもしれませんよ?」
「え?」
「それと気づいていないだけで、みんな人ではないのかもしれません」


真顔で、しばらく俺の顔を見つめてから、そして笑顔になる。


「あははっ・・・冗談ですよ。 そんなことないです」
「はは・・・びっくりさせるようなことを言うな。 想像してしまっただろ」
「ええ、可笑しかったですよ、今の相沢さんの表情は」


俺たちは笑い合った。


「でも、あの丘に住む狐が、みんな不思議な力を持っているのだとしたら・・・たくさん集まれば、とんでもない奇跡を起こせる、ということなのでしょうね」


また天野がおかしなことを言い始める。

それは本来の癖なのかもしれない。

妄想を口にしてしまうのは、女の子らしい、悪くない癖だ。


「たとえば・・・空から、お菓子を降らせてみたり」
「なんだよ、そりゃ」
「夢ですよ、夢。 空から、お菓子が降ってきたりすれば、素敵だと思いませんか?」
「思わないね。 道に落ちたお菓子は汚いし、交通機関が麻痺してしまうだろ」
「相沢さんは、現実的すぎます」
「いや、そうでもないよ」
「そうですか?・・・そうですよね」


天野が、空を仰いだ。

俺たちは、同じ夢の中にいて、そこから帰ってきた人間だった。


「じゃあ、相沢さんなら、何をお願いしますか?」


くるん、と天野が体をひねって、俺の顔を覗き込んでいた。


「そうだな・・・」


そんなことは決まっていた。

 

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・・・。

 

沢渡真琴編 END