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Kanon 【23】

 

1月21日 木曜日


・・・。

 

朝。


いつものように時間通り目を覚まして、カーテンを開ける。


「・・・・・・」


窓の向こう側に広がる景色を望む。

屋根の上の白い雪。

道の隅に残った雪。

今日も、清々しく、そして冷たい朝だった。


・・・。

 

「おはよっ、祐一君」
「だ、誰だ!」
うぐぅ、ボクだよ~」
「何だ、あゆか。 久しぶりに見たから顔が分からなかった」
うぐぅ・・・昨日も会ったもん」


「・・・おはようございます~」


玄関であゆをからかっていると、名雪が階段から降りてきた。


「おはよ~、名雪さん」


「今日は珍しく早いな」
「うにゅ・・・眠い・・・」
「でも、相変わらず朝は辛そうだな・・・」
「うん・・・」


こくりと頷いて、洗面所の方に姿を消す。


「・・・お前は朝から元気だよな」
「ボク、朝は強いよ」
「・・・それはなによりだ」


・・・。

 

「おはようございます」


食卓に顔を出すと、いつものように秋子さんが笑顔で出迎えてくれる。


「あゆちゃん、今朝はトーストでいい?」
「ボク、秋子さんの料理だったら何でもいいよ」


「俺も、あゆの料理以外だったら何でもいいぞ」
「いじわる・・・」


「おはようございます・・・」


最後に名雪が入ってくる。


「どうして、俺たちよりも先に洗面所に行ってた名雪が一番遅いんだ?」
「・・・気がついたら、庭に出てた」


寝ぼけて道に迷ったらしい。


「トースト、焼けましたよ」


人数分の皿の上に、1枚ずつのトーストがのっている。

どれも焼きたてで、見るからにうまそうだった。


「・・・・・・」

トーストと、その横のコーヒーカップをじっと見つめている。


「あゆ、食わないのか?」
「・・・うん、ちょっと」


カップを持ったまま、じっと中を覗き込んでいる。


「中に虫が入ってるって言って、いちゃもんをつけるつもりか?」
「ボク、そんなことしないもんっ」
「だったらどうしたんだ?」
「ボク、熱いのはダメなんだよ・・・」
「なんだ、猫舌か?」
「・・・うん」


「牛乳、入れますか?」
「うん」


牛乳パックを持ってきた秋子さんが、中身をあゆの、カップに注ごうとする。

しかし、全く減っていないあゆのコーヒーには、それ以上は足すことができなかった。


「コーヒーを少し減らさないとダメですね」
「ボク、飲めない・・・」


「それくらいなら、俺が飲んでやるぞ」
「え?」


あゆのカップを持って、熱いコーヒーをひとくちだけ飲む。


「ほら、これなら大丈夫だろ?」
「・・・・・・」
「どうした?」
「ど、どうもしないよ」


どうもしないと言っている割には、当人は赤くなって下を向いていた。


「祐一が悪い」
「俺が何をしたんだ・・・?」
「教えてあげない」


「・・・・・・」

「・・・・・・」


理由の分からない沈黙があった。


「あゆちゃん、今日はどうするの?」
「・・・え?」
「わたしたちは、いつまででも歓迎よ」


「うん。 歓迎」


「あゆ、家とは連絡ついたのか?」
「・・・何度も電話かけたんだけど・・・いないんだよ」
「ずっと留守なのか?」
「・・・それで思い出したんだけど・・・今、お母さん、旅行に行ってるんだよ」


「そうなの?」
「・・・うん」
「家には、他にご家族はいないの?」
「・・・うん。 お母さんと、ふたりだけだから」
「あゆちゃん、お留守番だったの?」
「・・・うん。 ずっとひとりだったよ」
「それなら、今日も泊まっていく?」
「・・・でも、迷惑だから」
「迷惑なことなんて、何もないわよ」


「ふぉうふぉよ」
「お前は、口の中の物を飲み込んでから喋れ」


「・・・祐一君は?」
「迷惑だったら、とっくに追い出してる」
「・・・ありがとう」


「決まりね」


嬉しそうに、秋子さんが締めくくる。


「・・・いいのかな」


あゆは、複雑な表情だった。


・・・。

 

何もない授業風景だった。

それでも、少しは内容が分かってきたので、転校当初よりはずいぶんとマシに思えた。

そんな風景も、やがてチャイムの音と共に終わりを告げる。


・・・。

 

学校が終わって、部活で残っている名雪と別れた俺は、いつものようにひとりで通学路を歩いていた。

 

 

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「祐一君」


呼び止める声に振り返ると、買い物袋を持ったあゆが息を切らせていた。


「買い物帰りか?」
「学校帰りの買い物帰り。 それで、祐一君の姿を見かけたから、走って追いかけてきたんだよ」
「ということは、今日はちゃんと学校に行ったのか?」
「うん。 ボク、学校大好きだもん」
「そんなに楽しいか、学校が?」


いつの間にか横に並んで歩いていたあゆ。


「楽しいよ」
「どんなところが?」
「そうだね・・・やっぱり、学校でしか会えない友達に会えることかな」
「そういうものか・・・?」
「うんっ。 そういうものだよ」


スーパーのビニール袋を揺らしながら、夕焼けの街並みを越える。


「しかし、あゆの学校って、聞けば聞くほどいい環境だよな」
「うん」
「この街の、どの辺りにあるんだ?」
「えっと・・・」


ぐる~っと、辺りを見回す。


「あっちの方」
「あっちって言われても分からないって。 それほど土地勘があるわけじゃないんだから」
「うーん・・・」
「商店街の方か?」
「違うよ」
「だったら、駅前の方?」
「違うよ」
「どこなんだ・・・?」
「森の方、かな・・・」
「森・・・?」
「街外れに森があるんだよ」
「言われてみれば、あったな・・・」
「その近くに学校があるんだよ」
「ずいぶんと外れの方にあるんだな」


道理で、名雪が知らなかったはずだ。


「ちょっと遠いけど、大好きな学校だよ」


笑顔で締めくくる。

やがて、家の門が見えてきた。


・・・。


夕食の準備が整い、部屋にいた俺にも声がかかる。


読みかけの雑誌を傍らに置いて、部屋をあとにした。

全員が席に座って、昨日と同じ顔ぶれで食事が始まる。


「ごちそうさまでした」


真っ先に、あゆが食べ終わる。


「ちゃんと噛んで食ったか?」
「ボク、子供じゃないもん」
「いや、三次方程式がすらすらと解けるようになるまでは子供だ」


「・・・そんなの、わたしでも無理」


「ボク、よく分からないよ」


あゆは、しきりに首を捻っている。


「あゆちゃん、おかわりは?」
「ううん、大丈夫」


「たい焼きはあんなに食ってたのに」
「甘い物は入る場所が違うんだよ」


だとしたら、えらく偏った胃袋だ。


「ごちそうさまでした」


もう一度手を合わせて、席を立つ。


「ボク、隣でテレビ見ててもいいかな?」
「うん。 わたしもすぐに行くから」


名雪が頷くのを確認してから、パタパタリビングに戻る。


「・・・なんか変に遠慮してるな、あいつ」
「遠慮しているというよりは、戸惑ってるみたいね」
「戸惑う?」
「何となく、そう感じただけですけど」


あゆの食器を持って、キッチンの奥に消える。


「わたしもごちそうさま」


名雪も食べ終わって、同じように席を立つ。

必然的に、俺と秋子さんだけが取り残される形になった。

 


「・・・祐一さん」


名雪の食器を取りに出てきた秋子さんが、俺の方を向く。


「はい?」


俺は、ちょうど最後の一口を食べ終わったところだった。


「ひとつだけ、訊ねてもいいですか?」
「どうぞ」
「7年前の冬に、この街で何があったか・・・ご存じですか?」


秋子さんの問いかけは、俺の予想していた範囲内ではなかった。


7年前・・・。


冬・・・。


「・・・いえ、何も知りませんけど」
「そう」
「何が・・・あったんですか?」
「大したことではないですよ」
「・・・・・・」
「木が、一本切られたんです」


それだけを言い残して、秋子さんはキッチンに消えていった。


・・・。

 

仰向けに天井を眺めていると、知らず知らずのうちに寝入ってしまっていたようだった。

枕元の目覚ましで時間を確認すると、10時を過ぎている。


小1時間ほど、記憶の中の時間が進んだ計算になる。


こん、こん・・・。


ドアがノックされる音。


俺は、体を起こす。


「あゆ、か?」
「・・・うん」
「いいぞ、入ってきても」
「おじゃまします・・・」


かちゃっ、とドアを開けて、遠慮がちにあゆが顔を出す。


「どうした?」
「・・・用はないんだけど」
「つまり、暇だから相手をして欲しいわけだな?」
「暇じゃないよ。 見たいテレビいっぱいあるもん」
「それを暇って言うんだ」
「・・・入ってもいい?」
「この部屋にテレビはないけど、それでよければ」
「・・・うん」


パジャマ姿のあゆが、部屋に入ってくる。


名雪はもう寝てるのか?」
「うん、そうみたい」
「これだけ早く寝て、それで朝起きられないんだから不思議だよな・・・」
「きっと、クラブが大変なんだよ」
「それはあるだろうけどな」
「陸上部なんだよね、名雪さん」


秋子さんか、名雪本人に聞いたのだろう。


「凄いよね」
「別に凄くはないだろ。 入部届けに名前を書いたら、誰だって陸上部だ」
「でも、部長さんは名前を書くだけでは無理だよ」
「それだって、他のやつが嫌がったのを押しつけられただけかもしれないし・・・」
「祐一君、名雪さんのことになると、いつもそういう言い方になるよね」
「俺は誰にだってこんなだ」
「きっと、祐一君にとって、名雪さんは特別なんだよ」
「それは、いとこだからな」
「ほら、やっぱりそんな言い方になる」
「・・・あゆ」
「うん?」
「お前は、名雪の話をするために俺の部屋に来たのか?」
「半分はそうだよ」
「だったら、もう半分は?」
「秋子さんのこと」


立ち上がって、窓の外を眺める。


「祐一君」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないよ・・・」
「またベランダに出たいって言うんだろ?」
「あ、よく分かったね」
「寒いから嫌だ」
「3分だけだから」
「2分30秒」
「うん、分かったよ」


ベランダに出ると、すぐ向かいの窓から光が漏れていた。

闇の中に、四角い光が浮かび上がっている。

路上では、淡くて白い街灯の光が、暗闇の中でぼうっと浮かび上がっていた。


「・・・やっぱり、いい風」


あゆは、手すりに両手をついて、闇の中の情景を楽しんでいる。


「秋子さんも、名雪さんも、本当に優しい人だね・・・」


吹き荒ぶ風の中で、穏やかに言う。


「もちろん、祐一君も」
「俺はともかく、あのふたりは本当にそうだな」
「ボク、迷惑かけるだけで何もできないから、本当に申し訳ないよ・・・」
「少なくとも、あのふたりは迷惑だなんて少しも思ってないぞ」
「だから、申し訳ないんだよ」
「確かにな」
「・・・祐一君は、どうかな? ボクがいると、やっぱり迷惑かな?」
「迷惑だ」
「うん。 祐一君だったら、きっとそう言うと思った」


頷く表情は、笑顔だった。


「だって祐一君、いじわるだもん」
「悪かったな」
「昔から、そうだもん」
「それは、俺が昔から何も成長してないってことだな」
「そんなことはないと思うよ。 成長したけど、祐一君は祐一君のままだったんだよ。 ボクが好きだった、祐一君のまま・・・あっ、違うよ! 好きって言うのは、その好きじゃなくて・・・!」


しどろもどろに手を振る。


「取り乱すな、馬鹿」
「馬鹿じゃないもん・・・」
「いちいち断らなくても、真に受けてなんかないって」
「・・・う、うん」
「それよりも、ほら、2分30秒経ったぞ」
「・・・そうだね」


・・・。

 

「・・・ボク、寝るね」
「ああ、また明日」
「うんっ、また明日」


あゆが、静かに名雪の部屋を開ける。


「お休みなさい、祐一君」


それだけを言い残して、明かりのついていない名雪の部屋に入っていく。


「・・・・・・」


ひとり暗がりの廊下に取り残されて、ふと考える。


(結局、あゆは何を言いたかったんだろうな・・・)


最近のあゆの様子は、どこかおかしいような気がしていた。

そう思い始めたのは、いつからだろう・・・。


(・・・この家で泊まるようになってから・・・?・・・でも、どうして・・・)


理由も分からない焦燥感にさいなまれながら、俺は、ひとり自分の部屋に戻った。

ベッドに入って、ただ目を閉じて・・・。

そして、夢の中へと落ちていく・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 

「・・・・・・」


女の子が座っていた。


「・・・・・・」


雪を払い落としたベンチに腰かけて、じっと流れる雑踏を見つめていた。

通り過ぎる、人の波。

その中に、たったひとりの姿を見つけて、少女は顔を上げた。


「・・・祐一君」


ほっとしたような表情で、あゆが立ち上がる。

 

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「今日は来ないのかと思ったよ」
「俺も今日は来られないかと思った」


息を吐きながら、膝に手をつく。

全速力で走ってきたためか、乱れた息は、なかなか元には戻らなかった。


「・・・どうしたの?」


あゆが心配げに首を傾げる。


「走ってきた」
「・・・それは、見れば分かるけど」
「ちょっと、商店街に寄ってたんだ」
「また?」
「俺は商店街が好きなんだ」
「そうなんだ・・・」


実は、あゆに渡すプレゼントを買っていたのだが、それはまだ秘密だ。

折角だから、いきなり渡してびっくりさせたかったし、何より気恥ずかしかった。


「今日はこれからどうする?」
「・・・また、あの場所に行こうよ。 この街全てを眺めることのできる、あの場所に」
「今からか?」
「うん」
「俺は構わないけど、あゆは時間大丈夫なのか?」
「・・・ボクも大丈夫だよ」
「あんまり遅くなると、家の人が心配するんじゃないか?」
「・・・大丈夫だよ」
「それなら、いいけど・・・」


・・・。

 

街外れの、森。

獣道のような小さく細い通路を、ゆっくりと進む。

たっぷりと雪の残った道。

雪の木々に囲まれて、オレンジに光る森を歩く。

目印は、ただひとつ・・・。


森の中央にそびえ立つ、雪をまとった大きな木。

やがて、森が開けた場所に出る。


・・・。


幻想的な光景が広がっていた。

この街のどこよりも綺麗な場所だ。

 

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「何とか、暗くなる前にはついたな」
「まだ、大丈夫」


森の中を突っ切ってきた時についた泥を、ぱたぱたと払い落とす。

あゆとこの場所に来たのは、これで5回目になる。

俺のお気に入りの場所は、あゆにとっても大好きな場所になっていた。


「ずっと、このままだったらいいのに」
「このままだよ。 何年経っても、何十年経っても・・・」
「でも、夏になったら、雪は溶けちゃうよ」
「それでも、また冬が来れば同じ景色が見られるんだ」
「そうだね」


あゆが、雪を踏み固めながら中央の大木に近づく。


「また登るのか?」
「うん」


頷いてから、上を見上げる。


「今のうちに、もっと見ておきたいんだよ。 大好きな街の姿を」
「俺はもうすぐいなくなるけど、でも、あゆはまた来ればいいじゃないか」
「・・・・・・」
「それこそ、春でも、夏でも、秋でも・・・」
「・・・そうだね」


あゆが木に手をかけたので、俺はいつものように後ろを向いた。


・・・。

 

「・・・もういいよ」

 

次に振り向いたとき、あゆの姿は木の上にあった。

 

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「・・・・・・」


ただじっと、その先にある街の風景を眺めていた。

赤く染まったあゆの姿が、どこか寂しそうに見えた。


「祐一君」


俺の方は向かずに、名前だけを呼ぶ。


「あと、3日だね・・・」
「そう言えば、そうだな」


冬休みの終わりまで、あと3日・・・。

それは、俺が自分の街に帰るまで、あと3日しかないと言うことだった。


「短いお休みだったけど、色々あったね・・・」
「悲しいことも、辛いことも、そして、楽しいことも・・・」
「・・・・・・」
「もし、祐一君がいなかったら、祐一君と出会えなかったら・・・悲しいことだけだった」


――『・・・お母さんが、いなくなっちゃったんだ』

 

 

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「今、笑顔でいられるのは、祐一君のおかげだよ」


――『・・・ボクひとり置いて、いなくなっちゃったんだ』


「ありがとう、祐一君」
「俺だって、あゆと出会えて良かったと思ってる」
「そう言ってもらえると、嬉しいよっ」


目を細めて、満面の笑顔で頷く。


「・・・でも、どうしてお別れって、こんなに悲しいんだろうね」
「・・・・・・」
「きっと、当たり前のことが当たり前ではなくなるからだよ。 今までは、すぐ目の前にいて・・・。 一緒に話して、一緒に遊んで・・・。 そんな、何も特別ではなかったことが、特別なことになってしまうから・・・。 他愛ない幸せがすぐ目の前にあった時のことを、ふと思い出してしまうから・・・。 だから、悲しいんだよ」
「・・・・・・」
「祐一君。 絶対に、また会おうね」
「もちろんだ。 また、来年も絶対に来るから。 その時は、ここで再会だな」
「うん・・・約束・・・」
「ああ、約束だ」


無邪気に笑う、あゆの笑顔。

赤い森の中で、ゆっくりと時間が流れていった・・・


・・・・・・。

 

・・・。

 


1月22日 金曜日


・・・。

 

「・・・・・・」


目が覚めて、そのままの体勢で天井を眺める。

頭の中に、まだ残っている情景があった。

雪の感触。

冷たい風。

そして、寂しそうに微笑む少女。


「・・・・・・」


まばらな記憶の断片が、天井をスクリーンにして流れていた。


「・・・起きるか」


口に出して、布団から抜け出す。

制服に着替えて、荷物をまとめる。

そして、部屋を出る時にふと考える。


・・・あの夢の場所。


・・・あれは、どこだっただろう。


もう一度天井を眺めても、その答えは映し出されなかった。


・・・。

 

玄関には、すっかりお馴染みになってしまったダッフルコートと羽つきリュックがかけてあった。


「・・・祐一・・・おはよう~」


パジャマで目を擦りながら、名雪が階段を降りてくる。


「・・・ふぁ」


危なっかしい足取りで階段を降りきって、小さくあくびをかみ殺す。


「・・・まだ眠い」
「先に顔洗ってこい」
「・・・うん・・・そうする・・・」


とたとたと裸足のまま廊下の奥に消える。


「洗面台で溺れるなよ」
「・・・だいじょうぶ」


律儀に返事をしている段階でとても不安だった。


「おはようございます」


食卓に顔を出すと、すでに朝食の準備は整っていた。

インスタントではないコーヒーの香りが、室内を満たす。


「わぁ、綺麗・・・」


あゆが、テーブルの上に並んだ色とりどりのガラス瓶に興味を持っていた。


「これって、ジャムだよね?」
「ええ、そうよ」
「いっぱいあるんだね・・・」


感心したように、顔を近づける。


「何種類くらいあるの?」
「今は、6種類よ」
「全部秋子さんが作ったの?」
「色々なジャムを作ることが、好きなんですよ」
「そうなんだ・・・」
「わたしの、趣味ですね」
「ボクも作りたいなぁ」
「今度、教えましょうか?」
「え? でも、ボクにできるかな・・・」
「簡単ですから」
「うん、ボクがんばる」


ぐっと拳を握るあゆ。


「・・・あら、おはよう名雪
「・・・おはよう」
「どうしたの、その格好?」


名雪の体は、水浸しだった。


「・・・溺れた」

「器用なやつ・・・」
「・・・私、着替えてくる」


どのみちパジャマ姿なので、制服を着るために部屋に戻る。


「今日も走らないとダメだな・・・」


トーストをかじりながら、ため息をつく。

やがて、制服に着替えた名雪が降りてくる。


「おはようございます」


改めて挨拶。


名雪、トーストとコーヒーでいい?」
「うん。 イチゴジャムも」
「はいはい」


「わぁ、このジャムもおいしい・・・」


あゆは、たくさんのジャムを代わる代わる塗って食べていた。


「・・・あゆちゃん、実はもうひとつだけジャムがあるんですけど」

「・・・・・・」


名雪の動きが止まる。


「これなんですけど・・・」


台所から、オレンジ色のジャムを取り出して、食卓に置く。


「わぁ。 おいしそう・・・」
「・・・あゆ」
「どうしたの? 急にしんみりした声出して?」
「・・・短いつきあいだったな」


言い残して、席を立つ。


「えっ? えっ?」
「・・・ごめんね、あゆちゃん」


同じく席を立つ。


「えっ? えっ? えっ?」


しきりに首を傾げるあゆをひとり残して、俺と名雪は家を出た。


・・・。

 

「祐一、ひどいよ」
名雪だって逃げてきただろ」
「だって・・・」
「気持ちは分かるけどな」


秋子さんの料理の中で、唯一食べられない物・・・。

「あのジャムって、一体・・・」


全ては闇の中だった。


うぐぅ・・・」

涙目のあゆが、玄関から出てくる。


「みんな、ひどいよ」
「正当防衛だ」
うぐぅ・・・」


「お母さん、色々な材料でジャムを作るのが趣味なの」
「色々な物って言っても、限度があるだろ・・・」


「あのジャム、材料が分からなかった・・・」
「俺たちにも謎だ」
「変な味だった・・・」


3人揃ってため息をつきながら、俺たちは学校に向かった。


・・・。

 

「ボク、こっちだから」


通学路の途中で、右の道を指さす。


「うん。 気をつけてね」
「うんっ、またね」


大げさなくらい手を振って、あゆがパタパタと走っていく。


「可愛いリュック」
「・・・そうか?」
「わたしも欲しい」
名雪は絶対に似合わないって」
「・・・残念」


あゆの姿の消えた先。

街並みの向こう側には、白く浮かび上がる森があった。


「なぁ、名雪。 7年前の冬、この街で何があったか、知ってるか?」
「・・・7年前の冬?」
「そうだ」
「冬だったら、祐一もいたよ。 この街に」
「覚えてないから訊いてるんだ」
「うーん・・・」


いつもの通学路を、商店街に向かって歩きながら、名雪が頭を捻る。


「うーん・・・」


・・・。

 

結局、何も思い出せないまま、学校に到着した。


・・・。

 

6時間目の授業が無事に終了して、これで放課後。


「祐一、放課後だよ」
「疲れた・・・」
「うん、そうだね」


全然疲れた様子もなく、うん、と頷く。


名雪は、今日も部活だろ?」
「うん。 部活」
「俺は、まっすぐ帰る」
「そうだね。 あゆちゃん、待ってるかもしれないもん」
「あいつは商店街だと思うけど」
「そうなんだ」
「大切な、探し物があるからな」
「・・・探し物?」
「俺も、詳しくは知らないけどな」
「・・・?」


・・・。

 

学校からまっすぐ家に帰って、リビングに顔を出すと、誰の姿もなかった。

自分の部屋に戻って、時間を潰す。

やがて、玄関の開く音がして、秋子さんが帰ってきた。

どうやら、あゆも一緒のようだった。


「すっかりなついてるな、あゆのやつ・・・」


秋子さんと楽しく話をするあゆの嬉しそうな声が、階下から聞こえていた。


・・・。


夕食を食べて部屋に戻り、しばらく時間を潰す。


「・・・そろそろだな」


時計で時間を確認する。

この時間だと、みんな風呂を上がった頃だろう。

俺は、着替えを持って部屋を抜け出した。


・・・。

 

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「・・・祐一さん」


風呂を出たところで、秋子さんとばったり出会う。


「・・・・・・」
「秋子さん、これから風呂ですか?」


言ってから、秋子さんがパジャマ姿であることに気づく。


「・・・いえ、わたしは自室に戻るところです」


頬に手を当てて、小さく笑う。

その表情が、どこか熱っぽいような気がした。


「・・・大丈夫ですか? 顔色、良くないですよ」
「・・・いえ、大したことではないです」
「でも・・・」
「・・・そうですね、今日は早く寝ることにします」
「その方がいいですよ」
「・・・ごめんなさいね、心配かけて」


軽く会釈をして、薄暗い廊下を歩いていく。

その足取りも、どこかおぼつかなかった。


「・・・・・・」


大丈夫だとは思うけど、やはり心配だった。


(秋子さんのあんな表情、初めて見た・・・)

 

・・・。


風呂から戻ると、時間はすでに11時。

適当に学校の宿題を片づけていると、廊下を歩くような音が聞こえてきた。


コン、コン・・・。


そして、案の定ドアをノックする音。


「あゆか?」
「うん。 ボク」
「いいぞ、入っても」
「ありがとう・・・また来ちゃったよ」
「俺も、来ると思ってた」
「ちょっと、いいかな?」
「今更、追い返す理由もないからな」
「ごめんね・・・」


ふと考えることがある。

どうして、あゆは俺の元に来るんだろう。

最初は、名雪が寝入ってしまって、ひとりぼっちが怖いのだと思った。


「祐一君、外に出よ」
「・・・またか?」
「お風呂上がりには、夜風だよ」
「そんなの聞いたこともないぞ」
「2分30秒だけ」
「2分」
「うん。 2分でいいよ」


結局、あゆのペースのような気がしていた。


・・・。

 

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「・・・ボク、明日家に戻るよ」


ベランダに手をついて、ぽつりと呟く。


「明日、お母さんが帰ってくるのか?」
「ううん、帰ってこないよ・・・。 ボクのお母さんは、もう2度と帰ってこないから。 ボクは、ずっとひとりぼっちだから・・・」


ずっと・・・。


その言葉の意味。


「でも、昨日は確か・・・」
名雪さんも、秋子さんも優しいから・・・。 本当のことを言ったら、きっと気遣ってくれると思うんだ・・・でも、ボク・・・これ以上、迷惑・・・かけたくないから・・・嘘、ついちゃったけど・・・」
名雪は分からないけど、秋子さんは気がついてるかもしれないぞ」
「・・・え?」
「あの人は、あれで聡明な人だからな」
「うん。 そうかもしれないね」
「・・・家に帰っても、ひとりぼっちなんだろ?」
「・・・うん」
「だったら、しばらくここにいてもいいんじゃないか?」
「・・・ダメだよ・・・だって・・・みんな、優しいから・・・」


呟いた声が、微かに震えていた。


「・・・あれ・・・?」


自分の感情に戸惑うように、あゆが俺の方を向く。


「・・・ボク・・・どうしたんだろう・・・」


俺を見る瞳から流れるものは、涙。


「・・・ボク・・・どうして泣いてるんだろ・・・」


自分自身が、その流れる涙に一番驚いてるようだった。


「・・・あはは・・・悲しくないのに・・・涙が止まらないよ・・・どうしてだろ・・・ボク・・・どうしちゃったんだろ・・・こんなの、おかしよね・・・」


あゆの涙で気づいたこと・・・。

あゆにとって家族の団らんは、羨望であると同時に悲しい記憶との邂逅(かいこう)でもあったんだ・・・。

「・・・うぐ・・・」


せきを切ったように、涙が溢れていた・・・。


俺は、そんなあゆの姿を、ただ見ていることしかできなかった。


気がつくと、2分はとっくに過ぎ去っていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

1月23日 土曜日


『朝~、朝だよ~』


いつものように目覚ましの声を遠くに聞きながら、ゆっくりと体を起こす。

時計の頭を叩いて、目覚ましを止める。


ドタドタドタ・・・。


目覚ましの代わりに、廊下から騒がしく走る音が聞こえてくる。


「かばんー、かばんー」


ドタドタドタ・・・。


「中身空っぽだよー」


ドタドタドタ・・・。


「わたし、まだパジャマだよー」


ドタドタドタ・・・。


(そう言えば、今日は朝練があるからいつもより早く行くって言ってたな・・・)

 

「時間、ないよー」


ドタドタドタ・・・。


大方の予想通り寝過ごしたらしい。


「練習、もう始まってるよ・・・」


しかも、大幅に・・・。


ドタドタドタ・・・。


「行ってきますー」


たっぷりと走り回った後、足音が遠ざかっていく。


(俺が来るまでは、いつもあんな感じだったのかもしれないな・・・)


そんなことを考えながら、いつものように服を着替えて廊下に出る。

よほど急いでいたのか、名雪の部屋のドアは開けっ放しだった。


・・・。

 

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あゆもすでに起きているのか、中は無人だった。


ドアを閉めてから、俺も階段を降りる。


・・・。

 

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「おはようございますっ」


いつものように、台所で朝食の準備をしている秋子さんが、穏やかに微笑みながら・・・。


「朝ご飯、トーストでいいよね?」
「・・・なにやってんだ、あゆ」
「見ての通りだよ」
「俺には、朝食の準備をしているように見えるが・・・」
「うん、その通りだよ」
「なんで、あゆが台所に立ってるんだ?」
「朝ご飯を作ってるからだよ」
「秋子さんはどうしたんだ?」


普段なら、秋子さんが台所で朝食を作っているはずだ。

しかし、今朝はその姿がなかった。


「秋子さん、まだ寝てるみたいだよ」
「珍しいな」


俺がこの家に来てから、秋子さんが朝寝過ごしたことなんて一度もなかった。

だから、名雪も寝過ごしたのか・・・。


「だからボクが秋子さんのかわりに朝ごはんを作ってるんだよ」


心底嬉しそうに、うんうんと頷いている。


「じゃあ、俺もそろそろ学校に行くから」
うぐぅ・・・待ってよっ」
「俺は急いでるんだ」
「時間なら、まだ大丈夫だよ」
「今日は俺も朝練があるんだ」
「・・・祐一君、帰宅部
「じゃあな、あゆ」


そのまま部屋を出ようとする。


うぐぅ・・・祐一君が起きてくるの、ボクずっと待ってたのに・・・」
「待ってなくていいって」
うぐぅ・・・祐一君の分も、一生懸命作ってるのに・・・」
「作らなくていいって」
「・・・うぐぅ
「朝くらい食べなくても大丈夫だから」
「・・・朝ご飯食べないと、お腹空くもん」


フライパンを持ったまま拗ねたように横を向く。


「はぁ・・・分かったよ、食べて行くから」


当人は本当に俺のためを思って朝早くから準備してくれてるんだから、このまま相手にしないのはさすがに悪いと思った。


「うんっ、ありがとう祐一君」
「ちなみに、フライパンを持って何を作ってるんだ?」
「トーストを焼いてるだけだよ」
「あゆ・・・トーストは普通フライパンで焼かないぞ」
「えっ・・・そうなの?」
「本当に知らなかったのか・・・」
「・・・でも、1枚焼いちゃったよ」
「もしかして、この皿の上にのってる四角い物体か?」


実はさっきから気にはなっていたが、あえて見なかったことにしていた黒い固まり。

すでに焦げているというレベルではない。

原型が食パンであったことさえ疑わしくなるような、不可思議な形状。

そして、カラスの羽のような黒。

食パンの領域を大きく超越している。

すでに食べ物ですらない。

どうすれば食パンを材料にこんな物が完成するんだろう・・・。


「・・・これを見て、少しは自分が間違っているんじゃないかって思わなかったのか?」
「・・・ちょっとは思った」
「火事にならなかっただけでも幸運かもしれないな・・・」


今、心からそう思う。


「それ、祐一君の分だから食べてね」
「絶対に食わん」
「おいしいかもしれないのに・・・」
「だったら、あゆが食ってみろ」
「うん、いいよ」


フライパンを置いて、代わりにテーブルの上のトーストを掴む。

そして、かじる。


ごきっ!


「うまいか?」
「・・・噛めない」
「やっぱりな」
「・・・うぐぅ・・・硬い・・・」
「これで分かっただろ。 それは食い物じゃない」
「・・・お湯かけたらちょうどいいかも」
「インスタントのラーメンじゃないんだから・・・」
「・・・うぐぅ・・・朝ご飯どうしよう?」
「コンビニでも寄ってパンを買うから」
「・・・ごめん、祐一君」
「あゆも学校だろ? 急いだ方がいいんじゃないか?」
「ボク、後かたづけしてから行くよ」
「そっか、だったら悪いけど先に行くぞ」
「うん。 行ってらっしゃい、祐一君」


台所に立つあゆに見送られて、俺はひとり家を出た。


・・・。

 

「・・・結局、秋子さん起きてこなかったな」

『水瀬』と書かれた表札を振り返りながら、白い息と共に呟く。

外は相変わらずの気候だった。


・・・。

 

いつもは名雪と一緒に歩く道。

ひとりで学校に行くことなんて、ほとんどなかった。
そのためか、通い慣れたはずの道も、いつもとは違う雰囲気に思えた。


「祐一君っ!」


通学路も中程まで来たところで、突然後ろから呼び止められる。


「祐一君っ! 祐一君っ!」


切迫した声で、何度も俺の名前を呼ぶ。


「どうした、あゆ? ちゃんと片づけしてきたか?」

 

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「秋子さんがっ、秋子さんがっ!」


息を切らせながら、振り返る俺の元に走ってくる。


「秋子さんが、どうしたんだ・・・?」


あゆの様子は、誰の目にもおかしく映った。

よほど急いでいたのか、コートも着ていない。

 

「・・・うぐぅ・・・祐一君・・・」
「一体、何があったんだ?」
「・・・うぐぅ・・・秋子さんが・・・」

目には涙をためて、すがるように俺の制服を掴む。


「早くしないと・・・! 秋子さんがっ、秋子さんがっ・・・お母さんみたいに・・・っ!」


涙声で、俺の胸にすがりつくように震えていた。


あゆの言葉が要領を得ない。


だけど、その様子から秋子さんに何かがあったらしいことは分かる。


「お願い・・・祐一君、一緒に来てっ!」


俺の手をつかんで、引っ張る。

手袋さえもしていないその手は、冷たくなっていた。


「とりあえず、一度落ち着け」
「・・・うぐぅ・・・お母さん・・・お母さん・・・」
「落ち着いて、ゆっくり、何があったのか説明するんだ」


俺は、小さな子どもに言い聞かせるように、ひとつひとつ言葉を区切った。


「・・・うぐ・・・秋子さんが・・・」


それが功を奏したのか、少しずつあゆの嗚咽が治まる。


「秋子さんが・・・ずっと起きてこないから・・・だから・・・ボク・・・心配で・・・」
「秋子さんの部屋に行ったんだな?」
「うぐ・・・秋子さん・・・苦しそうで・・・熱があって・・・それで・・・っ」


夜の秋子さんの様子が思い起こされる。

確かに、どこか熱っぽかった・・・。


「秋子さんが・・・っ! 秋子さんが・・・っ! 祐一君! お願い、秋子さんのこと助けてあげてっ! ボク、もうお母さんがいなくなるのは嫌だよっ! 悲しいのは嫌だよぉっ!」


一度は落ち着きを取り戻していたあゆの声が、再び嗚咽混じりの物に変わる。


「分かったから、落ち着け」
「・・・ぐす・・・」
「熱は計ったのか?」
「・・・うぐ・・・まだ・・・」
「秋子さんはなんて言ってるんだ?」
「・・・ただの風邪だから大丈夫・・・って」
「そうか・・・」
「祐一君っ! お願いだから、一緒に戻って! 秋子さん、助けて!」
「・・・分かった、一緒に戻ろう」
「・・・ぐす・・・ありがとう、祐一君・・・」


あゆの表情が、初めて安堵のそれに変わる。


「走るぞ。 大丈夫か?」
「・・・うん」


頷くあゆの頭を撫でて、そして来た道を引き返す。


「・・・うぐ・・・お母さん・・・」


(・・・お母さん、か・・・)

 

・・・。

 

雪の上に残った自分の足跡を越えて、家の中に入る。

 

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「お帰りなさい、祐一さん」


ドアを開けたところで、パジャマ姿の秋子さんと出会う。


「今日は、ずいぶんと早かったですね」
「秋子さん・・・寝てなくて大丈夫なんですか?」
「あまり大丈夫ではないですね」


そう言って微笑んだ表情は、やはり疲労の色が滲んでいた。


「秋子さんっ」


後ろから、あゆが顔を覗かせる。


「秋子さん、熱、大丈夫・・・?」
「そうね、39度くらいです」
「寝てないとダメだよっ」
「今、お仕事の方にはお休みの電話を入れたところよ」


「やっぱり、風邪ですか?」
「そうみたいね。 風邪薬を飲んで、今日一日眠ったら、大丈夫だと思います」


大丈夫とは言っているが、素人目に見ても顔色は悪かった。

立っているのもやっとらしく、時折苦しそうな息を吐いている。


「わたしは大丈夫ですから」


もう一度言い残して、1階の自分の部屋に戻っていく。


「・・・秋子さん」


その後ろ姿を、心配げにあゆが見送っていた。

 

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「・・・ボク、今日一日秋子さんの看病するよ」
「止めてもきかないよな?」
「うんっ。 だって、ボク秋子さん大好きだから」
「分かったよ。 だったら、俺や名雪が学校行ってる間、秋子さんのことはあゆに全部任せたから」
「うんっ」
「じゃあ、俺は学校に戻るから。 一応、休み時間の度に学校から電話する」
「うん。 お願い、祐一君」


頷くあゆの頭をもう一度撫でてから、俺は学校に戻った。


・・・・・・。


・・・。

 

教室に入ると、すでに1時間目の授業が始まっていた。

担当の先生に事情を説明して、自分の席につく。

 

 

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「・・・祐一」


隣の名雪が、心配そうに声をかける。


「あとで説明する」


それだけを言うと、それで納得したのか授業に戻っていった。


・・・。


1時間目の授業が終わって、教科担当の先生が出席簿を閉じて教室を出る。


「祐一、今朝はどうしのた?」
「秋子さんが風邪で倒れたんだ」
「・・・え?」
「あゆが知らせてくれたんだよ。 それで、一度家に引き返したんだ」
「・・・お母さん、大丈夫・・・?」
「ちょっと熱があるみたいだけど、寝ていれば大丈夫だって言ってた」
「・・・そう」


名雪が安堵の息をつく。

自分の母親の言葉を、素直に信じているのだろう。


「それから、あゆが看病をするために家に残ってる」
「・・・あゆちゃん?」
「心配だったんだろうな。 本当に」
「・・・うん」
「それで、定期的に電話を入れることになってるんだけど、公衆電話ってどこにあるんだ?」
「電話なら、昇降口の横の廊下にあったはずだよ」
「そっか、ありがと」


小銭を確認してから、名雪に礼を言って教室を出る。
授業と授業の間の休み時間は10分だけなので、あまり時間はなかった。


・・・。

 

「・・・・・・」


そして、廊下に出たところで教師に引き返す。


・・・。


「どうしたの、祐一?」


すぐに戻ってきた俺を、不思議そうに見る。


「・・・家の電話番号を教えてくれ」
「家って、わたしの家?」
「そうだ」
「祐一、電話番号知らなかったの?」
「知ってたら、駅のベンチで2時間も待ってたりしない」
「それもそうだね」


名雪が、ノートの隅をちぎって、それに番号をメモする。


「はい」


それを受け取って、すぐに教室を出る。


・・・。


公衆電話は、すぐに見つかった。

1台しかなかったが、幸い他に使っている生徒の姿はなかった。

名雪から預かったノートの切れ端を片手に、ボタンを押す。


「・・・・・・」


しばらくの間、呼び出し音が続いて、やがてぷつっと途切れる。


『はい、水瀬です・・・』
「あゆか? 俺だ」
『・・・うぐぅ・・・祐一君・・・』


受話器越しに、安堵の声が漏れる。


「悪い、あんまり時間ないんだけど、秋子さんの容態はどうだ?」
『・・・熱がちょっと下がった・・・』
「そっか、それはよかった」
『でも、風邪薬がないよ・・・』
「秋子さんに訊いても見つからなかったのか?」
『ううん、場所は分かったんだけど、からっぽだった・・・』


あゆが力なく声を落とす。


『それで、今からお薬を買いに行こうと思って・・・』
「そうだな、それがいいんじゃないか?」
『でも、どんなお薬買ったらいいのかな・・・?』
「とりあえず、普通の風邪薬が無難だと思うぞ」
『薬局って、どこにあるの?』
「確か、商店街にゲーセンがあるだろ?」
『・・・うん』
「その近くにあったはずだ」
『うんっ、ボク、すぐに行ってくるよ!』
「ちょっと待て!」


今すぐにでも走っていきそうなあゆを、引き止める。


「薬買う金持ってるのか?」
『うん。 今まで秋子さんのお手伝いして貰ったお小遣いがあるから』
「そうか、だったら大丈夫だな」


チャイムの音が、校内に響き渡っていた。

10分間の休みが、終了を告げる。


『ボク、行ってくるよ』
「ああ、俺も教室に戻るから」
『・・・祐一君』
「どうした?」
『・・・秋子さん、元気になるよね?』
「当たり前だ」
『うんっ』
「じゃあ、1時間後にまたかけるから」
『ばいばい、祐一君』


電話を切って、そして教室に戻った。


・・・。


「・・・・・・」


2時間目の授業。

あゆには心配ないと言ったが、気にならないと言えば嘘になる。


「・・・・・・」


それは名雪も同じらしくて、心配そうな表情で授業を受けていた。

やがて、2時間目の授業も終了する。


・・・。


受話器を上げて、電話番号を押す。


「・・・・・・」


横には、心配だからとついてきた名雪の姿があった。
何度か呼び出し音が鳴った後、あゆが電話に出た。


『・・・祐一君』


心細かったのか、あゆの声は細かった。


「薬は買えたのか?」
『・・・うん』
「そうか・・・だったら、一安心だな」
『・・・でも、ダメなんだよ』
「何がダメなんだ?」
『・・・このお薬、食後って書いてあるんだよ』


確かに、大抵の風邪薬は食後ってことになってるだろうな。


『どうしよう・・・』
「簡単に食えるような物、何もないのか?」
『探したんだけど・・・』


声の調子が落ちる。


「もう一度商店街に行って、買ってくるしかないか・・・」
『でも、もうお金ないよ・・・』
「秋子さんの様子はどうだ?」
『・・・苦しそう』
「さすがに、秋子さんに料理をしてもらうのは、無理だな・・・」
『・・・ボク、どうしていいのか分からないよ』


今にも泣き出しそうな声だった。


「・・・あゆちゃんが作るしかないよ」


今まで、黙って俺たちのやり取りを聞いていた名雪が、ぽつりと呟く。


「それは、一番無謀だと思うぞ・・・」
「祐一、電話代わって」
「あ、ああ」


普段見ることのない、名雪の真剣な表情に気圧されて、受話器を渡す。


「もしもし、あゆちゃん?」


やがて、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、名雪はあゆに何かを教えているようだった。


・・・。

 

教室に戻る道すがら、話題は電話のことだった。


「本当に、あいつに料理させて大丈夫なのか?
「大丈夫だよ」
「でも、今までの惨状を見てると・・・」
「あゆちゃんは、作り方を知らなかっただけだよ。 ちゃんと作り方説明したから大丈夫」
「・・・・・・」
「あゆちゃんのこと、信じてあげないと」
「・・・そうだな」


あんなに、一生懸命なんだから・・・。

 

・・・。


3時間目の授業が始まって、そして、終わった。

内容は、ほとんど覚えていなかった。


・・・。


あゆに電話をかけるために、昇降口まで降りてくる。

「しまった、使われてる」


しかし、唯一の電話は、すでに先客がいた。


「・・・困ったね」


いつもはあまり困っているようには見えない名雪の表情も、今回ばかりは本当に言葉通りだった。


「他に、公衆電話はないのか?」
「生徒が使えるような電話はここだけだよ・・・」
「事情を話して、職員室で借りるか・・・」
「でも、もうほとんど時間ないよ・・・」


3時間目の授業は、少し長引いていた。

結局、電話をかけることもできないまま、短い休み時間は過ぎていった・・・。


・・・。


土曜日最後の授業。

時間がいつもよりもゆっくりと流れているような錯覚があった。

それでも時間が止まることはなく、やがてチャイムの音が教室を満たしていた。


・・・。


どうしても部活を抜けられない名雪と別れて、俺はひとりで家路についた。


「・・・本当に、ごめんね」


部長という立場を考えると、それも仕方のないことだった。


・・・。

 

まだ人の少ない通学路。

冷たい北風と、風に舞う粉雪の中、まっすぐ家に戻る。


家の前はひっそりとしていた。

預かっていた合い鍵で扉を開けようとして、鍵がかかっていないことに気づく。


「・・・不用心だなぁ」


俺は苦笑しながら玄関を開けた。


家の中も静かだった。

物音ひとつしない。


「・・・ただいま」


小声で呟いて、玄関に上がる。


「・・・・・・」


微かに、鼻腔をくすぐる匂いがあった。


「あゆのやつ、まだ台所で料理をしてるのか・・・?」


いくら何でも時間がかかりすぎのような気もしたが、あゆならあり得る気がした。

冷たい廊下を抜けて、キッチンに顔を出す。

キッチンには、誰の姿もなかった。


「・・・相変わらずだな」


食卓やキッチンの上には、材料や調味料、そして食器や調理器具が乱雑に並んでいた。

その中のひとつ。

コンロにのった鍋から、いい匂いが漂ってくる。


「・・・・・・」


まだ温かい鍋の蓋を開けると、中には、雑炊が入っていた。

試しに、その雑炊を一口食べてみる。


「・・・薄い」


雑炊は、薄味だった。


「・・・でも、うまいな」


病気の時は、これくらい薄味の方がいいかもしれない・・・。


「・・・後で、俺も貰うか」


鍋に蓋をして、キッチンを後にする。


「秋子さんの様子を見てこないと・・・」


キッチンを出て、1階にある秋子さんの部屋の前に移動する。


「・・・・・・」


秋子さんの部屋も静かだった。

ノックをしようとして、躊躇する。

秋子さんが寝ているような気がしたからだ。


「・・・入りますよ」


結局、ノックはせずにドアを開けた。

 

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「お帰りなさい、祐一さん」


西日の差し込む部屋の中で、秋子さんがベッドから体を起こして微笑んでいた。

パジャマに上着を羽織った姿で、穏やかに寝息を立てる少女の頭を撫でていた。


「起きてても大丈夫なんですか?」
「大丈夫・・・とまではいかないですけど、でもずいぶんと楽になりました」


穏やかな表情で、あゆの頭に手を置く。


「この子のおかげです」


カーテン越しに差し込む光を浴びて、あゆは緩やかに眠っているようだった。


「ずっと、看病していてくれたんですよ」


テーブルの上には、氷水の入った洗面器が置かれていた。


「おかげで、熱は下がりました。 雑炊も、おいしかったですよ」


規則正しい寝息を立てるあゆに視線を落として、もう一度髪の毛を撫でる。


「・・・おかあさん・・・」


小さく声を漏らす。


「あゆちゃん?」
「・・・・・・」


再び、規則正しい寝息に変わる。


「こうしていると、本当にわたしの子供みたいですね・・・」
「あゆは、本当に秋子さんのことを慕っていますよ。 それこそ、本当のお母さんのように・・・」
「そう言ってもらえると、わたしも嬉しいです」


本当の娘に接するように、優しく髪に触れる。


「でも、秋子さんももう少し寝た方がいいですよ」
「そうですね」
「あゆ、起こしましょうか?」


俺の問いかけに、秋子さんがゆっくりと首を横に振る。


「折角、気持ちよさそうに眠っているのですから・・・」
「分かりました」


ひとりで頑張ったものな・・・。


「俺が、名雪の部屋まで運びますよ」
「そうですね、お願いします」


「・・・おかあさん・・・」


俺は、起こさないようにあゆの体を抱きかかえた。

あゆの小さな体は、想像していた以上に小柄で軽かった・・・。


・・・。

 

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「・・・まだ寝てるよ」


様子を見に行っていた名雪が、リビングに戻ってくる。


「どっちが?」
「ふたりとも」


簡潔に答えて、俺の隣に座る。


「お母さん、ずいぶんと顔色が良かったよ」
「そっか・・・これでもう大丈夫だな」
「うん」
「それで、あゆは?」
「よっぽど疲れたんだね。 まだ眠ってるよ」
「がんばってたからな、あいつ・・・」
「うん。 あゆちゃんのおかげだよ。 お料理だって、ちゃんとできてたもん」
「おかげで、俺たちは昼も夜も雑炊だったけどな」
「うん。 そうだったね」


楽しそうに名雪が笑う。


「わたし、そろそろ寝るね」


言って、立ち上がる。


「どこで寝るんだ?」
「うん。 自分の部屋」
「大丈夫だよ、すぐに寝るから。 あゆちゃんは起こさないよ」
「ああ、おやすみ」
「うん。 おやすみ、祐一」


寒そうに半纏の裾を合わせて、名雪がリビングを後にする。


「・・・・・・」

ひとり取り残されて、俺はテレビをつけた。

退屈な番組で時間を潰して、終了と共にソファーから体を起こす。


「・・・俺も、寝るか」


自然と足が自分の部屋に向いた。

部屋に戻ると、電気もつけずに布団に潜り込んだ。

目を閉じてから、眠りに入るまでは、あっという間だった・・・。


・・・。


1月24日 日曜日

 

・・・。

 

・・・・・・。

 

「・・・・・・」


朝、目が覚めると、すでに朝と呼べるような時間ではなかった。

昨日の出来事は、自分で思っていた以上に精神的に負担が大きかったらしくて、気がつくと昼を大きく回っていた。

重たい頭を引きずって、服を着替える。

そして、腹が減っていることに気づいて、部屋を抜け出した。


「・・・あ」


廊下に出たところで、ちょうど名雪の部屋から出てきたあゆと顔を合わせる。

 

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「・・・祐一君」
「今起きたところか?」
「・・・うん」
「だったら・・・おはよう、あゆ」
「あ・・・うん・・・。 おはよう、祐一君」
「大丈夫だって、熱も下がったって言ってたから」
「・・・・・・」
「これも、あゆがずっと看病してくれたおかげだって・・・秋子さん、感謝してたよ」
「・・・でも・・・ボク、途中で寝ちゃったよ・・・」
「ひとりでがんばったんだから、それくらい仕方ないって」
「・・・それに・・・ボク、昨日帰るつもりだったのに・・・」


昨晩も泊まってしまったことが、あゆにとっては重荷になっているようだった。


「・・・腹減ってないか?」
「・・・え?」
「俺なんか、昨日は味の薄い雑炊しか食ってないからな」
「・・・祐一君、ボクの料理食べたの?」


上目遣いに、あゆが俺の顔を窺う。


「・・・・・・」
「・・・うまかったぞ、薄味だったけど」
「・・・ほんと?」


あゆの表情が、ぱっと明るくなる。


「今までの料理に比べたら、遙かにましだった」
「・・・よかったぁ」


下を向いて、小さく声を漏らす。


「でも、キャベツの大きさはバラバラだったな」
「・・・うぐぅ・・・食べられたらいいもん」
「本当にその通りだ」


ぽん、とあゆの頭を撫でて、階段を降りる。


「・・・うんっ」


後ろには、元気良く頷くあゆの姿があった。


・・・。

 

「おはようございます、祐一さん」


キッチンには、まるで何事もなかったかのように、秋子さんが立っていた。


「・・・秋子さん、もう大丈夫なんですか?」
「ええ、おかげさまで」

コーヒーを注ぎながら、秋子さんが微笑む。

その表情からは、昨日の姿は想像できなかった。


「でも、あまり無理はしないでくださいね」
「今日ももう1日、仕事を休ませてもらいましたから」


「・・・秋子さん」


服を着替えたあゆが、心配そうに入ってくる。


「本当に、あゆちゃんのおかげね」
「・・・・・・」


じっと俯いていたあゆが、何かを決心したように顔を上げる。


「・・・ボク、今日、家に帰ろうと思うんだ」
「・・・そう」


秋子さんは、微笑んだだけだった。


「何時頃、帰るの?」
「暗くなるまでには、帰るよ・・・」
「あゆちゃん」


秋子さんが、優しくあゆの名前を呼ぶ。


「またいつでも、好きなときに来てね」
「・・・うん」
「わたしは、あゆちゃんのお母さんの代わりにはなれないけど・・・。 でも、家族にはなることができると思ってるから」
「・・・秋子さん・・・」
「お昼ご飯は、ちょっと張り切って作りますね」

「わたしも手伝うよ、お母さん」


いつからいたのか、名雪がドアのところから顔を覗かせていた。


「ボクも手伝うよ」
「そうね、あゆちゃんにも手伝ってもらおうかしら」
「うんっ。 ボク、がんばるよ」


あゆの笑顔を見ていると、こんな一瞬が永遠に続くといいなと、心から思う。

そして、それは、叶えられない願いではないと・・・

今の俺は、信じて疑わなかった・・・。


・・・。


秋子さんがちょっと張り切ったという昼食を4人で囲んで、しばらくは他愛ない話で盛り上がっていた。

やがて、最初に名雪が席を立ち、場は解散になった。


・・・。

 

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「・・・ボク、そろそろ帰るね」


リビングには、俺とあゆのふたりっきりだった。


「送っていくよ」
「うん。 優しいね、祐一君」
「そうでもないって・・・」
「だって、本当に昔のままだもん」
「そう言うあゆだって、昔のままだぞ」


断片的な記憶の中で、幼い日の少女の姿を、今、目の前にいるあゆに重ねる。


「お互い、成長してないんだね」
「そうかもしれないな」


立ち上がって、薬箱から風邪薬の入った瓶を探す。


「・・・ほら」


その瓶を、あゆに放り投げる。


「・・・?」


薬瓶を受け取って、あゆが首を傾げる。


「これ、どうするの?」
「決まってるだろ。 飲むんだよ」
「誰が?」
「あゆが」
「ボク、お腹いっぱいだよ・・・」
「だから飲むんだ」
「・・・ボク、元気だけど」
「風邪薬は、ひく前に飲むのが一番なんだ」
「・・・もしかして、ボクのこと心配してくれてるの?」
「一応な」
「一応でも、嬉しいよっ」
「いいから、さっさと飲め」
「う、うん・・・」


頷いた後、じっと薬瓶を見つめていた。


「・・・見てたって仕方ないだろ?」
「あはは・・・そうだね・・・」
「?」
「・・・・・・」


それでも、まだ飲もうとしない。


「どうしたんだ?」
「ボク・・・実は錠剤って苦手で・・・」
「錠剤が苦手だったら、いつもはどんな薬を飲んでるんだ?」
「粉薬とか・・・水薬とか・・・」
「子供だな」
うぐぅ・・・絶対に言うと思ったよ・・・」
「錠剤がダメなんだったら、飴みたいに噛み砕いて飲んだらどうだ?」
「飴は噛み砕かないよ、普通・・・」
「俺はバリバリ噛んで食べるぞ」
「そんな食べ方したらおいしくないよ」
「でも、高速で食べられるぞ」
「飴はゆっくり食べた方がおいしいもん」
「だったら、その薬も飴みたいにゆっくり食べたらいいんじゃないか?」
「・・・うーん・・・」


少し躊躇した後、何粒かの錠剤を口の中に入れる。


「祐一君・・・」
「どうした?」
「苦いよ・・・」
「我慢しろ」
「すっごく苦いよ・・・」
「薬だからな」
うぐぅ・・・」
「水飲んでこい」
うぐぅ・・・うん・・・」


とたとたと、台所に消える。


「やっぱり、どっか子供だな・・・」


からかう俺も悪いんだけどな・・・。


「お待たせっ」
「じゃあ、行こうか」
「うん・・・」


振り返って、少しの間暮らしていた家を、じっと見つめる。


「秋子さんも言ってたけど、またいつ来たっていいから」
「うん・・・ありがとう、祐一君」
「じゃあ、そろそろ行くか」
「うん。 そうだね」
「・・・それで、あゆの家ってどっちだ?」
「うん。 こっちだよ」


駅の方を指さす。


「でも、ホントに送ってくれるの? やっぱり、悪いよ・・・」
「気にするなって。 昨日のお礼みたいなもんだ」
「それなら、駅まででいいよ。 そこまで行けば、すぐだから」
「あゆがそれでいいって言うんなら」
「うん。 ボクは大丈夫」


先頭をきって歩き出したあゆの背中を追うように、俺も夕暮れにさしかかろうとする街を歩く。

ひょこひょこと揺れる背中の羽が、どこか寂しげに見えた・・・。


・・・。

 

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「到着っ」


たんっ、とその場で跳ねるように振り返る。


「本当にここまででいいのか?」
「うん。 平気だよ」


すっかり赤く染まった駅前の風景は、どこか不思議な雰囲気に包まれていた。


「祐一君、このベンチ覚えてる?」


赤く染まる、木のベンチ。

駅前の広場に設けられたその場所は、薄く雪が積もっていた。

オレンジの雪・・・。

赤いベンチ・・・。

そして、少女の笑顔・・・。


「ボク、ずっと待ってたんだよ」


ベンチの背もたれに軽く手を触れる。


「祐一君が来てくれるのを、ずっと、ずっと・・・。 このベンチに座って・・・」


そうだ・・・。


あの冬。


俺とあゆは、この場所で会う約束をしていたんだ・・・。


日が傾く頃、俺は家を抜け出してこの場所にやってきた。


その時、いつもこの場所に座っている、不安げな瞳の少女がいた。


その少女は、俺がやってくると顔を上げて、そして屈託なく笑った。


7年前の思い出・・・。

 

思い出の中の風景・・・。


「遅いよ、祐一君・・・」


あゆがベンチに座って、俺の顔を見上げる。


「悪い、ちょっと遅れた・・・」
「ちょっとじゃないよ、たくさんだよ」

 

オレンジ色の光の中、ベンチに座るあゆが、にこっと微笑む。


そんな日常は俺が自分の街に帰る日まで続いた・・・。

 

「今日は、送ってくれてありがとう」


ベンチに座っていたあゆが、ぴょこっと立ち上がる。


「言っただろ。 昨日のお礼だって」
「秋子さん、元気になって本当に良かったね」
「でも、あゆもあんまり無理するなよ。 あゆが倒れたら、今度悲しむのは秋子さんなんだから」
「・・・・・・」
「俺だって、そうだ・・・」
「・・・祐一君」


駅の窓に反射した光が、向かい合うあゆと俺の姿を赤く照らす。


「・・・ボク・・・もう、大切な人がいなくなるのは嫌だよ・・・」
「・・・・・・」
「祐一君・・・目の前で、大切な人を失ったこと・・・ある・・・?」


そう言って俺を見つめるあゆの表情は分からなくて・・・。

 

聞き慣れたはずの声も、どこか遠くから囁かれているようで・・・。


「ボクは・・・あるよ。 どうすることもできなかった・・・。 自分が、どうしようもなく無力な子供なんだって・・・嫌って言うほど、思い知らされた・・・。 ボクにできたことは・・・大切な人の・・・お母さんのことを・・・ただ何度も声がかれるまで呼ぶことだけだった・・・」
「・・・・・・」
「だから・・・もう、あんな思いはしたくないよ・・・」


声が震えていた。

瞳には涙が滲んで、そんなあゆを見ていることが、いたたまれなかった。


「・・・祐一君・・・そんな経験ある・・・?」
「・・・俺は」


・・・。

 

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赤い夕焼け。

赤い雪。

そして・・・。

不意に、記憶の奥底から湧き出る風景があった。

目の前で失われていく大切な人。

本当に大切だと言える人。

どうすることもできなかった。

俺は、その人の名前を呼ぶことすらできなかった。

ただ、力なく差し出された手を繋ぐことが・・・。

その時の俺にできる、精一杯だった。


「・・・あるんだ、祐一君にも」


目の前の少女が呟く。


「大切な人を目の前で失った、悲しい思い出が」


夕焼けの赤が、その光を増していた。

全てを同じ色に染めるように、ゆっくりと街並みを侵食していく。


「だって、今の祐一君、ボクと同じ顔してるもん」


いつの間にか、少女の顔がすぐ近くにあった。

涙を湛えた大きな瞳で、俺の顔を真正面から見つめていた。


「ボクと、同じだね・・・。 大切な人を失う悲しみ・・・ボクは知ってるから・・・。 だから、ボクはもう・・・」

 

最後の言葉は声にならなかった。

溢れる涙が、赤く染まった頬を流れていた。


「祐一君・・・ボクの顔見ないでね・・・。 きっと、ぼろぼろ・・・だから・・・」


涙混じりの、言葉にならない声。


「だ・・・から、目を閉じて・・・」
「分かった・・・」
「ボクも・・・」


小さな体を寄せて、精一杯背伸びをする。


「目を閉じるから・・・」

 

 

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あゆの吐息をすぐ近くに感じて・・・。


初めて触れた少女の唇は、柔らかくて、そして温かくて・・・。


触れあった部分から伝わる温もりが嬉しくて・・・。

ただ唇を重ねるだけのキスは、どこか懐かしい味がした。


やがて・・・そっと、唇が離れる。


・・・。


「え、えっと・・・あ、あの・・・。 その・・・ボク・・・ご、ごめんなさいっ」


真っ赤な顔で、俯く。


「謝るなっ、馬鹿っ」
「で、でも、ボク・・・っ、祐一君の気持ち、無視して・・・それで、あんなこと・・・」
「あゆ、俺のこと好きか?」
「え・・・?」
「俺は、あゆのこと好きだけど」
「ボクも・・・祐一君のこと・・・ずっと好きだったよ・・・。 祐一君がボクのことを好きでいてくれるのなら、ボクはずっと祐一君のことを好きでいられるんだと思う・・・」


一気に早口でまくしたてて、そのまま恥ずかしそうに下を向く。


「・・・よく分からないけど、きっとそういうものなんだとボクは思うよ」


ゆっくりと赤く染まった顔を上げる。


「えと・・・あはは・・・なに言ってるんだろボク。 似合わないことは言うもんじゃないよね・・・」


照れたように笑みをこぼす少女。


「だったら、俺と一緒だな・・・」
「・・・え?」
「7年間、待ったんだから・・・」
「・・・祐一君」
「これから、7年分取り戻さないとな」
「・・・うんっ」


7年前の冬・・・。

あの時、好きだった女の子がいた・・・。


その記憶は、思い出の奥深くで・・・。


雪が降り積もるように、見えなくなると思っていた・・・。


「それなら、明日もここで会おうよ。 昔みたいに」
「よし。 じゃあ、放課後に駅前のベンチで集合だな」
「うんっ」

 

真っ赤になった瞳で、無邪気に頷く少女と再会するまでは・・・。


・・・。

 


1月25日 月曜日

 

・・・。


6時間目終了を知らせるチャイムの音が、校舎の中に響いていた。


「よし、放課後だ」
「・・・全然、よしじゃないわよ」
「邪魔するのか、香里?」
「相沢君、今週は掃除当番よ」
「いや、俺は転校してきたばっかりだから、何のことだか・・・」
「・・・前の学校にだって、掃除当番くらいはあったでしょ?」


はい、とほうきを手渡される。


「・・・何で、香里が取り仕切ってるんだ?」
「あたし、学級委員だから」


ちりとり持って、そんなことを言う。


「・・・全然知らなかった」
「とにかく、帰るんだったら、掃除してからね」


逃げよう・・・。

一瞬そんな考えが脳裏をよぎったが、後が怖そうなのでやめておく。


「掃除っ、掃除っ」


謎の歌を口ずさみながら、黒板消しを叩いている名雪は楽しそうだった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

結局、掃除が終わって校舎を出ることには、すっかり辺りの風景は様変わりしていた。

雲は赤く染まり、見慣れたはずの校舎の雰囲気も、いつもとはどこかが違っていた。


「・・・きっと、怒ってるな」


あゆの拗ねた表情を思い浮かべながら、俺は夕暮れの街を走る。


・・・。


「・・・・・・」


夕焼けの赤に包まれて、ひとりの少女がベンチに座っていた。


「よお」
「・・・あ」


少女が、俺の姿に気づいて顔を上げる。

 

 

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うぐぅ・・・遅いよ・・・」
「悪い。 掃除当番だったんだ」
「そうなんだ・・・」


拗ねた顔のあゆが、ゆっくりと表情を和らげる。


「だったら、仕方ないね」


立ち上がって、ぽんぽんとコートについた粉雪を払い落とす。


「掃除はちゃんとしないとね」
「今日は、これからどうする?」
「もちろん、いつもの場所だよ」


いつもの場所・・・。


「・・・あれ? あはは、いつもの場所ってどこだろうね」


困ったように笑う。

自分で言っていて、分からなかったらしい。


「商店街のことなんじゃないか?」
「そっか。 だったら、商店街っ」
「よし。 じゃあ、手でも繋いで行こうか」
「嫌だよ」
「どうして?」
「恥ずかしいもん」
「こんな人通りの多い場所でキスする方が恥ずかしいと思うけど・・・」
「わっ、あれは・・・その・・・」


真っ赤になって下を向いてしまう。

そんな仕草も、どこか可愛く思えた。


「ほら、早く行かないと置いていくぞ」
「え・・・? わっ、待って!」


背中の羽を揺らしながら、慌ててあゆが走りよってくる。

また少し陽が傾いて、ふたりの影も、長く石畳に落ちる。


「・・・ボク・・・いいよ、手繋いでも・・・」


赤くなった顔で、俺の手を掴む。


「・・・これで、ちょっとは暖かいよね・・・?」


ポケットの中で、あゆの小さな手が触れる。

手を繋ぐのは冗談だったのだが、これはこれで悪くないような気がした。


・・・。


「そうだ・・・ひとつだけ訊いていいか?」
「うん。 ボクで答えられることなら、いいよ」


あゆの手をポケットにしまったまま、夕焼けの道を歩く。


「前々から気になってたんだけど・・・どうして、いつも『ボク』なんだ?」
「どうしてって言われても・・・ボクは、ずっと昔からボクだよ」
「でも、女の子なんだから、もっと違う一人称があるだろ?」
うぐぅ・・・いちにんしょうって、なに?」
「自分で自分のことを言うときの呼び方のことだ」
「よびかた・・・?」
「俺は、『俺』。 あゆは、『ボク』。 名雪は、『わたし』」
「そっか・・・」


やっと、理解したらしい。


「でも、ボクはボクだったらダメなの?」
「ダメってわけじゃないけど、もっと女の子らしい言い方もあるだろ?」
「うーん・・・」


頭を捻って、しきりに考えている。


「・・・でも、やっぱりボクはボクだよ」
「そんな保守的なことでどうする」
うぐぅ・・・」
「試しに、別の一人称にしてみろ」
「別のって言われても、ボク分からないよ・・・」


困ったように、俺の方を見上げる。

背中についている羽が、風に運ばれて犬のしっぽのようにぱたぱたと揺れていた。


「例えばだな・・・『オレ』とか」
「嫌だよ。 ボク女の子だもん」
「ボクもオレも一緒だろ」
「ぜんっぜん、違うもん」
「一度でいいから、試しに使ってみたらどうだ?」
「・・・祐一君、もしかして楽しんでる?」
「全然そんなことはないぞ。 俺はただ、純粋にあゆのためを思って提案しただけだ」
「祐一君って、動揺すると口調が大げさになるよね・・・」
「1回でいいから、な?」
「・・・うぐぅ・・・本当に1回だけだよ?」
「ああ」
「えっと・・・オレ、あゆ・・・」
「わははっ」
「ひ、ひどいよっ」
「いや、あまりにも可笑しかったから」
「・・・うぐぅ・・・祐一君がやれって言ったから恥ずかしいの我慢したのに・・・」
「いや、ここまで違和感があるとは思わなかった」
うぐぅ・・・祐一君のいじわる・・・」


涙ぐみながら、ふいっと横を向く。


「わ、悪かった。 あとで、たい焼きおごってやるから・・・」
「・・・うぐぅ・・・ほんと・・・?」
「ああ、約束するから」
「・・・うん」


涙目で頷く。

さすがに、ちょっとからかいすぎたかもしれない。


・・・。

 

商店街も赤く染まっている。

すぐ隣には、あゆの姿があった。

片方の手でたい焼きの袋を大事そうに抱えて、もう片方の手は、俺のポケットの中にあった。


「たい焼き・・・」


もう一度袋に顔を近づけて、心底嬉しそうに目を細める。

 

 

「あとで一緒に食べようね」
「そう言えば、探し物ってどうなったんだ?」
「・・・まだ、見つからないよ」
「そうか・・・」
「でも、もしかしたら、見つからない方がいいのかも・・・」


あゆが、俯きながら独り言のように囁く。


「見つからない方がいいって・・・でも、大切な物なんだろ?」
「・・・うん。 大切な物」
「だったら、どうして諦めるんだ?」
「分からないけど・・・。 でも、これだけは言えるんだ。 ボク、すっごく幸せだよ。 祐一君と会えたこと・・・。 こうして、祐一君とお話できることが・・・すごく嬉しいんだよ。 ボク、祐一君のこと好きだよ。 本当に、大好きだよ」


一度、気恥ずかしそうに横を向いて、そして言葉を続ける。


「きっと、ボクが探している物は、幸せだと必要ない物なんだよ。 だから、今は、なくても構わない」
「・・・そうか」
「いつか、必要になることがあったら・・・。 その時、また探すよ」


ポケットの中の小さな手が、ぎゅっと俺の手を握る。


「冷めないうちに食べるか・・・たい焼き」
「うんっ」


待ちに待っていたというふうに、あゆが紙の袋を開ける。


「わっ。 おいしそうだよ」


雪の街に、白い湯気が立ち上る。


「わっ。 いっぱいあるよ」
「いっぱい買ったからな」
「ボク、たくさん食べていい?」
「食べられるだけ食べてもいいぞ」
「うんっ」


早速ひとつを取り出して、そのまま、はぐっとかぶりつく。

 

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うぐぅ・・・おいしいよぉ」


幸せそうに、頬を緩める。


「俺も貰っていいか?」
「うんっ。 もちろんだよ」


はいっと、紙袋を指し出す。

中から、焼きたてのたい焼きをひとつ取り出すと、夕焼けの街が白く染まった。


「ほら、口の周りにあんこつけてるぞ」
「え? ほんと?」
「とってやるから、動くな」


人差し指で、口の横についたあんこをすくい取る。


「・・・うー」
「よし、とれた」
「これくらい、ボクが自分でするよ~」
「あんこがついてることも気づかなかったくせに」
「だって、なんだか、恥ずかしいよ・・・」


赤い光の射し込む街。

そんな、どこか幻想的な風景を、あゆとふたりで歩く。

焼きたてのたい焼きを、頬張りながら・・・。


・・・・・・。

 

・・・。


あゆと別れて家に辿り着くと、すでに辺りは夜のとばりが降りていた。

夕飯を食べて、風呂に入って、宿題を片づけると、日付が変わろうかという時間だった。

今日も、楽しかった一日が終わる。


・・・。


電気を消して、ベッドに潜り込んで、やがて眠りに落ちっていった・・・。


・・・。

 

1月26日 火曜日


「・・・・・・」


朝、いつもの目覚まし時計に起こされて、時計を見る。

ちょうどいい時間だった。


カーテンを開けて、朝の光を部屋の中に招き入れる。

眩しいくらいの日差し。

そして、屋根に積もった雪に光が反射して、街全体が白く浮かび上がっていた。

俺は制服に着替えて、そして鞄を持つ。

もう一度、外の眩しい日差しに目を細めてから、部屋を後にした。


・・・・・・。


・・・。


火曜日の授業が続いていた。

最初はひたすら退屈だった授業も、内容が分かってくるにつれて、少しはましなものに思えてくる。

穏やかな昼下がり。

やがて、今日の授業も全て終了する。


・・・。

 

「祐一っ、放課後だよ」


担任が出ていくと、いとこの少女が、いつものように駆け寄ってくる。

手には、ほうきとちりとりを持っていた。


「今日も、掃除がんばろうね」
「・・・がんばりたくない」
「みんなでがんばれば、すぐに終わるよ」
「・・・そうだな、とっとと済ませてしまうか」


名雪からほうきを受け取って、机を隅に寄せる作業を手伝う。

体を動かしていると、この街の気候も、少しはありがたく思えた。


・・・。


外に出ると、そこは一面の赤い世界だった。

校舎も赤。

地面も赤。

空も赤。

雲も赤。

そして、雪も赤・・・。

時間と共に様変わりする街並み。

強い西日に目を細めながら、早足で約束の場所に向かう。


・・・。


赤く染まったベンチの上に、ひとりの少女が、ちょこんと座っていた。


「・・・あ」


羽の生えた少女が、俺の姿を見つけて顔を上げる。

 

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「よお」
「こんにちは、祐一君」
「待ったか?」
「ちょっとだけ」
「腹減ってるか?」
「ちょっとだけ」
「よし。 じゃあ、商店街で何かうまい物でも食うか」
「うんっ」
「何がいい?」
「たい焼きっ」
「よし、それでこそあゆだ」
「うんっ」


ひとりぼっちで佇んでいた少女・・・。

満面の笑みと一緒に、精一杯の元気で頷く。


「暗くなる前に行くぞ、あゆ」


くしゃっと、あゆの髪の毛を撫でる。


「くすぐったいよ・・・」


非難の声を上げるあゆと一緒に、夕焼けの駅前から、同じように真っ赤に染まった商店街へ。


・・・。


「例えば・・・。 例えば、だよ・・・?」
「ああ」


買ったばかりのたい焼きを抱えながら、すぐ隣を歩くあゆが、ふと口にした言葉。


「もし、ボクの初恋の相手が、祐一君だったとしたら・・・」
「・・・・・・」
「・・・そうしたら、祐一君はどうする?」
「すぐに取り消してもらう」
「・・・どうして?」
「初恋は、実らないって言うからな・・・」
「・・・祐一君」


嬉しそうにぴょこんと振り返る。


「・・・もしかして、すっごく恥ずかしいこと言ってる?」


横に逸らした俺の顔を追いかけるように覗き込む。


「ほっとけ」


初恋は実らない・・・。


そう、俺がそうだった・・・。


俺の初恋の相手・・・。


夕焼けの下で・・・。


涙でくしゃくしゃになった顔で・・・。


(・・・・・・)


俺の初恋の相手・・・。


それが誰だったのか・・・。

今ではどうしても思い出せない・・・。


「・・・悲しかったことだけは覚えてるのにな」
「・・・え?」


思わず声になった言葉に、あゆが首を傾げる。


「いや、ひとり言だ」
「ひとり言なんて、暗いよ」
「ほっとけ」


あゆの笑顔に送られて・・・。


「あゆ。 今、幸せか?」
「・・・うん。 幸せだよ」


そう言ったあゆの笑顔は、それでもどこか悲しげに見えた。


「こうして祐一君と一緒にいられることが、ボクにとってはかけがえのない瞬間なんだよ・・・でも、時々、不安になるんだよ・・・。 幸せなことが怖いんだよ・・・。 怖くて・・・、不安で・・・。 目の前の現実、全てが夢なんじゃないかって・・・」
「それは、考えすぎだって」
「・・・うん」
「それに、あゆがまじめな台詞言っても似合わない」
うぐぅ・・・ほっといてよ」
「・・・今は、7年前とは違うんだ」
「・・・・・・」
「俺は、ずっとここにいる。 冬が終わって、春が来て・・・。 そして、雪が溶けても・・・。 ずっと、この街にいる。 あゆのすぐ側にいる。 約束、しただろ?」
「・・・祐一君こそ、まじめな台詞似合わないよ」
「悪かったな」
「・・・でも・・・うん・・・嬉しいよ・・・」


涙混じりの声で、無理に笑おうとする。


「泣いてると、せっかくのたい焼きがしょっぱくなるぞ」
うぐぅ・・・いいもんっ・・・懐かしい味だから・・・いいもん・・・」


たい焼きを口いっぱいに頬張りながら、泣き笑いの表情で頷く。


やがて、街の風景が赤から黒に変わる・・・。


・・・。

 

風呂から上がり、とりあえず部屋の暖房をつける。


今はまだ体も温かいが、でもこの寒さだ。

風呂に浸かったくらいでは、すぐに体も冷えるだろう。

ベッドにもたれかかり、ぐぅっと背伸びをする。

2階の廊下は、俺の部屋以外からは光が漏れていなかったから、たぶん名雪はすでに寝ているのだろう。

コチコチと時を刻む目覚まし時計の文字盤を見ると、時間は10時過ぎ。

相変わらず小学生並に規則正しい名雪(ただし寝るときだけ)に苦笑しながら、これからどうやって時間を潰すか考えを巡らせる。


・・・とりあえず、近くのコンビニで夜食でも買ってくるか。

そう思い立った直後、びゅぅと風の音が響く。

ガタガタと震える窓ガラス。

こんな寒い夜に、外に買いに行こうという発想がでる自分が、何となく信じられなかった。

・・・この街に来てすぐの時は、そんなこと考えもしなかった。


――『慣れるよ、きっと』

 

そういって微笑んでいたいとこの少女。

実際、その言葉通りになっていた。


「・・・なんか、悔しいな」


どうして悔しいのかは自分でも分からなかったが、なんとなくそんな気分だった。

時々思うことがある。

もしかしたら、俺はこの街に馴染むことを拒絶しているのかもしれない・・・。


「・・・・・・」


よく分からない。

不意に、どさっと何か重いものが屋根の上から滑り落ちる音が部屋に響いた。

雪がその重みで流れ落ちたのだろう。


コンコン・・・。


今度は別の音。

ノックするような音が聞こえる。w


「・・・・・・」


ドアをノックする音じゃない。

ということは・・・。


窓? 窓の外か?


気のせいかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。

腰をあげて、俺はカーテンの閉まった窓に近づいた。


コンコン・・・。


確かにノックの音が窓の外から聞こえる。

俺はカーテンをつかんで、そのまま左右に開け放った。


うぐぅ・・・」

窓に、あゆが貼りついていた。


・・・。

 

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うぐぅ・・・寒かったよ~」


洗面所から持ってきてやったタオルで頭を拭きながら、あゆが情けない声を上げる。


「寒いし、暗いし、怖いし・・・。 それに、屋根から雪まで降ってくるし・・・。 なんだか散々だよ~」
「日頃の行いだな」
「そんなことないよっ。 ボク、いつもいい子だもん」
「いい子は食い逃げなんかしないぞ」
「後でちゃんとお金払ったよっ」
「それで、今日は泥棒か?」
うぐぅ・・・泥棒はノックなんかしないもん」

 

確かにそのとおりだ


「だったら、何やってたんだ?」
「・・・祐一君に会いに来ただけだよ」


うつむきながら、遠慮がちに言葉を紡ぐ。


「だったら、普通に玄関から入ってこい」
「・・・最初はそう思ったんだけど、でも、祐一君の部屋以外は真っ暗だったから・・・チャイムの音で起こすと嫌だから。 みんなに迷惑かけないように、一生懸命よじ登って来たんだよ」
「馬鹿だな」
うぐぅ・・・そんなはっきり言わなくても・・・」
「でも、そういうところを好きになったんだから、俺も同じ馬鹿なのかもしれないけどな」
「・・・ほんと?」
「自分でもよく分からない」


それが正直なところだ。


「しかし、何も今でなくても、明日になったらまた会えるだろ?」
「そうだけど・・・今、会いたかったんだもん・・・」
「まったく、恐がりのくせに」
「・・・うぐぅ・・・怖かったけど・・・でも、会いたかったんだもん・・・ひとりだと・・・不安だから・・・」


そう言って、涙を拭うあゆの仕草がいじらしかった。


「相変わらず、馬鹿だな」


あゆの頭にぽんと手を置いて、くしゃくしゃと髪を撫でる。


「・・・うぐぅ・・・」


首をすくめて、目を細める。


「それで、これからどうするんだ?」
「・・・どうしよう・・・」
「やっぱり馬鹿だな」
うぐぅ・・・馬鹿じゃないもん・・・」
「泊まっていくか?」
「・・・・・・」
「俺はリビングで寝るから、ここのベッド使ってもいいぞ」
「・・・本当にいいの?」
「何だったら、俺もここで寝ようか?」
「・・・嫌だよ」
「それとも、今から帰るか?」
「・・・うぐぅ・・・もっと嫌・・・」


ちなみに、外は真っ暗だった。


「・・・ごめんね、祐一君」


結局、あゆがここで寝て俺はリビングのソファーで寝ることになった。


「パジャマ、俺の使ってもいいけど?」
「ううん、いいよ。 このまま寝るから」
「じゃあ、また明日な」
「・・・うん。 お休み、祐一君」


・・・。

 

 

 

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ソファーで横になって、押し入れから引っ張り出してきた布団や毛布をかぶる。

思ったほど寝づらくはなかった。


「・・・朝、秋子さんが起きてきたらびっくりするだろうな・・・」


そんなことを考えながら、布団を目深に被って目を閉じた。


・・・・・・。

 

・・・。