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それから数日。
試験期間を挟んだこともあって、決して平穏無事な日々というわけではなかったが、特に事件なども起こらなかった。
俺は毎日を勉強に費やし、たまに息抜きで映画を観たり本を読んだり、ごく平凡な時間を過ごした。
変わったことといえば、一度廊下で映研部長様とすれ違い、彼女に蹴っ飛ばされたことくらい。
ちっとも痛くなかったけど、抗議の目を向けると、彼女は意地悪そうに微笑み、なにも言わずに去っていった。
出来事といえば本当にそれくらいで。
つまり、ひどく退屈で。
つまらない日々が早く終わることを祈りながら、試験最終日を迎えた……。
……。
キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン。
音羽学園、1学期期末試験の終了を知らせる鐘が鳴り響いた。
そして、深いため息と歓声が教室に広がっていく。
「うーむ……」
どちらかというと、俺はため息派だな。
終わったのはいいが、結果にいまいち納得できん……。
「前回3位のヒトー。どうだった?」
「えーと、君は今回も1位を取るつもりですか?」
「つもり? つもりじゃなくて、たぶんトップだよ」
「………」
いつか俺に娘ができても、こういうのにならないように気をつけよう。
「だってさ。人気急上昇中の漫画家の彼女なんだよ、あたしは。可愛いだけじゃ釣り合わないよ」
「立派なような、決してそうじゃないような理由だな」
またもやため息が漏れる。
「俺はまぁ、いつもとあまり変わらないよ。おまえに勝てるかどうかはかなり微妙だな」
「じゃ、下僕ちゃん決定だね」
勝手なことをほざいて、宮村は自分の席に戻って行った。
どっちにしたって、俺にはどうでもいいことだ。
とりあえず、試験のことは置いておこう。
"中断"は試験に集中するため、という理由だった。
だったら。
「おっ」
教室の扉のところに──
新藤景の姿があった。
「いいタイミングだな」
行動の速さも評価できる。
やっぱり新藤はいいな、と改めて思う。
俺は席を立って、彼女のところに近づいていく。
「よっ」
「うん」
無表情で、新藤は頷いた。
「みやこさんは?」
「みやこさん?」
「うっ……」
新藤はなぜか頬を紅潮させて口ごもる。
「なんで照れてるの?」
「い、いちいち細かいところにつっこまないでよ」
「いや、俺も別に責めてるわけじゃ……」
「もう……だったら黙っててほしいわ」
会っていなかったこの数日の間に、宮村とはずいぶん打ち解けたらしい。
「で、宮村を呼べばいいのかな」
「試験終わったし、勉強教えてくれたお礼を言いたいの」
「なるほどね。んじゃ、ちょっと呼んでくるから──うわっ」
「どこにいるの?」
宮村の席のあたりは、人だかりができていて本人の姿は見えない。
勉強熱心なクラスメイトの皆さんが、宮村と答え合わせでもしてるんだろう。
「邪魔だな……よし、強行突破を」
「待って、そこまでしなくてもいいわよ」
「君の格闘能力なら、あの程度の人数はどうとでもなるだろ? ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」
「わたしが突破するのかよ!」
「ボクは野蛮なことは苦手だし」
「まずはあんたからちぎってやりましょうか」
目が完全にマジだ。
「れ、礼なんて後でもいいだろ。それくらいでヘソ曲げるような奴でもないしさ」
「そうね。今度ミズキと一緒に改めてお礼すればいいか……」
「そんじゃ、さっそく始めようか」
俺はにやりと笑って、ビデオカメラを取り出す。
「だからそれ、どこに持ってたのよ?」
………。
「試験はどうだったの?」
「たぶん、今までで一番よくできた……と思う」
久しぶりの撮影でこっちの心は高揚してるが、新藤はいまいちテンションが低い。
「その割には暗いね」
「疲れてるのよ。昨日もほとんど徹夜だったんだから」
「試験前に徹夜はあんまりよくないと思うよ」
「いまさら言っても、やっちゃったものは仕方ないでしょ」
「ごもっとも。考えるべきはこれからのことだね。もっと言うなら、これからの俺たちのこと──」
「……なんか、話の流れが変な方向に行ってない?」
じろり、と新藤が睨みつけてくる。
「やだなあ、深読みのしすぎだよ。それで、これからどこ行く? 徹夜明けじゃあ、あまり歩き回るのもよくないかな」
「どこでもいいわ」
それだけ言って、新藤はすたすたと歩いていく。
体調は悪くなさそうだから、好きにさせておくか……。
新藤景はなにも言わずに歩く。
撮影を始めた頃よりも、心なしか彼女の歩調は軽い。
あの頃の、足をかばいながらの歩き方じゃない。
新藤はゆっくりとだけど──自分の歩き方を思い出してきてるんだろう。
「今日も暑いわね」
「ああ、暑いな………ん?」
「なに?」
「新藤、あれはなんだと思う?」
「行き倒れ……? この暑さだし、無理もないかも。夏の風物詩みたいなもんでしょ」
意外と冷淡だな、景ちゃん。
カメラだけは新藤に向けたまま、俺は改めて目の前の光景を眺めた。
往来のど真ん中に男が一人倒れている。
そのそばには、半ばスクラップと化した自転車が。
「こりゃ、行き倒れじゃなくて事故かもな」
「カバンでもぶつけられたのかしら」
「物騒な街だねえ」
ははは、と俺は軽く笑い飛ばす。
「でもまあ、放っておくわけにもいかないわね……。え? ちょっと待ってよ」
「待つってなにを?」
なぜか新藤は目を白黒させている。
彼女は倒れてる男をまじまじと見つめてから、突然駆け出した。
「新藤?」
やむなく、俺もその後を追う。
「あ~、いってぇ~」
駆け寄る俺たちの前で、そいつはおもむろに身体を起こした。
ひょっとして、あれは……。
「お兄ちゃん!」
「広野?」
久しぶりに会ったと思ったら、なにをしてるんだ。
広野は立ち上がったかと思うと、見るも無残な姿の自転車に目を向ける。
「ああ、俺の二号機が……」
「なに言ってるのよ!」
「ん?」
広野はゆっくりと顔を上げた。
「あれ、景じゃんか。それに京介も」
「あれ、じゃないでしょ。なにしてるのよ!?」
「考え事しながらチャリに乗ってたらコケた」
「…………」
「おまえ、いったいなにやってるんだ……」
「ほっとけよ。ちくしょー。小遣いをやりくりして買ったばっかなのに……またスクラップかよ」
「小遣い?」
独立して、自力で生計立ててる広野がなぜに小遣い?
「ああ。最近、俺の口座はみやこが管理してるから。生活費と、俺が自由に使える金はあいつを通して受け取ってるんだよ」
「お、お兄ちゃん……」
「………」
もしやと思うが、少女漫画家・新堂凪先生は完全に尻に敷かれてるのか?
頭も要領も悪い広野が銭勘定なんかできるはずないし、別にいいとは思うが。
「つーかさぁ。おまえらこそなにしてんだよ?」
……。
鉄クズ同然になった自転車を邪魔にならないところに無断駐輪して、俺たちは歩き出した。
広野は用事があるらしいが、少し寄り道をする時間くらいはあるらしい。
──ずっと閉じこもってたから広い場所を見てみたい。
なんだか哀れを誘う広野の発言を受けて、俺たちは海に来た。
この辺りは海水浴場ではないはずだが、人の姿もちらほら見える。
「お兄ちゃん大丈夫なの?」
「なにが?」
「その、転んだときに頭とか打ってないの?」
「なんともねぇよ。俺は右腕さえ無事ならそれでいいんだし」
「おっそろしい考え方だな。そういやなんだっけ? 腱鞘炎とかいうのはどうした?」
広野が学園を去る直前くらいに、病院に通ってると聞いた覚えがある。
「全然治ってねぇよ、んなもん」
ぽんぽんと自らの右腕を叩きながら、広野はこともなげに言う。
「漫画屋としてやってくんだからな。どうしたって腕を痛めつける商売だ。完治が無理なら、痛みと上手く付き合っていくようにするしかねぇんだよ」
「上手くって、具体的にどうするの?」
「知らん!」
「全然ダメじゃねぇか!」
「広野なら、こんなもんだろ……」
姿勢は前向きでも、まるっきり頭が回転しちゃいない。
「うるせーよ。それより、おまえら映画の撮影とかやってるんじゃなかったのか? こんなとこにいていいのかよ」
「いや、さっきからカメラは回ってる」
「なにやってんだか……」
「おまえのほうこそいいの? どっか行くところだったんだろ?」
そう言うと、広野はなぜか凄い形相を浮かべた。
「お兄ちゃん?」
「ウチの姉貴が帰ってくるから、空港まで迎えに行くところなんだよ」
「えっ、凪お姉さんが戻ってくるの」
「へぇ」
広野に屋上の鍵を渡したっていう、あの姉ちゃんか。
「あー、会いたくねぇー。あいつだけ死ぬように、うまいこと飛行機落ちてくれねぇかな……」
「そんなむちゃくちゃな」
アクロバット飛行の達人でもそれは不可能だ。
「お兄ちゃん、凪お姉さんが帰ってくるのがそんなに嫌なの……?」
「うん、めっちゃイヤ」
こんなに落ち込んでる広野も珍しいな。
「なあ、新藤」
俺は小声で新藤に話しかける。
「なに?」
「広野の姉ちゃんってそんなにヤバい人なの?」
「そんなわけないでしょ。確かにちょっと……ううん、かなり変わってるけど優しい人よ。お兄ちゃんだって、本気で嫌ってるわけじゃないと思う」
「そうかなあ。広野、マジで凹んでるみたいだけど」
「嫌ってたら、自分のペンネームにお姉さんの名前使ったりしないわよ」
「なるほど、それもそうか」
「お兄ちゃんが音羽学園に入ったのだって、たぶん凪お姉さんの影響よ。お姉さん、音羽の卒業生だから」
「ふーん……」
あまり頭の良くない広野がなんで音羽に入ったのか、不思議には思ってたけど。
「広野は屈折してるからなあ」
こんな態度を取っているが、実際はかなり姉を尊敬しているのかもしれない。
「戦力になるっていうのが余計に厄介だよな……」
壊れかけの漫画家さんは、なにやらブツブツつぶやいてる。
「早く行ったほうがいいんじゃないの、お兄ちゃん。逃げるわけにもいかないんだし、遅刻なんてしたら、それこそシャレにならないでしょ?」
新藤はからかうような口調でそう言って、ほんの少しだけ笑った。
確かに……笑っている。
「……だな。しゃーねぇ、観念するか」
広野は砂を一蹴りしてから、新藤のすぐそばに立った。
そして、彼女の目をじっと見つめる。
「え、なに?」
「景、ヒザはどうなんだ?」
ひねくれ者らしく、顔も声も優しくはなかったが──それでも本心から彼女を心配する響きが含まれていた。
「そ、そんなの……とっくに治ってるわよ。今頃なに言ってるのよ」
彼女もまるで素直じゃなかった。
耳まで赤くして──
本当は心配されて嬉しいんだろうに、怒ったような顔をしてる。
「そうか、とっくにか」
唐突に、広野の目つきが鋭くなる。
「だったらそう言いに来い。俺のほうは引きこもりを余儀なくされてんだから」
「……だって」
「いつでもいいから、たまには顔見せに来いよ。妹の顔を見れりゃ、兄貴はいつだって嬉しいもんなんだよ」
ぽん、と新藤の頭に手を載せて広野はにっこりと笑ってみせた。
「それが可愛い妹ならなおさらな」
「お兄ちゃん……」
抑揚のない声でそうつぶやくのが、新藤の精一杯だった。
「じゃあ、またな。あ、そうそう。京介、おまえは来んなよ」
「一言多いんだよ」
去っていく広野ではなく、新藤に向き直りながら言った。
海面が光を反射して、複雑な光を放っている。
穏やかで美しい海を背景に立つ新藤の姿に──俺はこれ以上撮影する気を無くしてしまった。
今の新藤の姿を、カメラではなく自分の目でしっかりと見つめたい。
それが、好きになるということだから。
「新藤……」
こんな寂しそうな顔をする彼女に、なにを言うべきなのか。
「先輩」
「え?」
ぎゅっと。
彼女が手を握ってきた。
小さいけれど──あたたかくて柔らかな手。
「……連れてって」
「新藤?」
「どこか人のいないところへ……連れていって」
消え入りそうな声で、新藤はつぶやいた。
俺は言葉の意味を考えることもできず、彼女の声だけがこだまのように繰り返し響いている。
…………。
……。
できれば二度とここには来たくなかった。
だけど、人がいない場所といえばここくらいしかおもいつかなかったので仕方ない。
「なんか、この辺って涼しい……」
「涼しいっつーか、背筋が寒くなるというか」
「意外と恐がりなのね」
「ナイーブなんだよ」
「あつかましい」
けっこう元気じゃないか。
新藤はくすりと笑った。
この場所は相変わらず時が止まったように静かだけど、新藤がそばにいるせいか、以前ほど不気味さは感じない。
まだ握ったままの手の感触が俺を安心させているのかもしれない……。
「先輩」
「ん?」
「千尋と──妹とメールのやり取りしてるって言ったわよね」
俺は無言で頷いた。
「最近は書くことがたくさんありすぎて困ってるのよ」
「へえ、なにを書いてるの?」
「雨宮優子の悪口なんかをずらずらと」
「……妹さんは雨宮のこと知らないだろ?」
「知らないけど、それはあまり関係ないのよ。せいぜい面白おかしく書けばいいの」
よく意味がわからないが……新藤のことだから、雨宮のことをさぞ辛辣(しんらつ)に罵ってるんだろう。
そのメール、ちょっと興味あるな。
「あの女は、待ってる人がいるらしいわ」
「そんなこと言ってるな」
「一人の人をひたすらにずっと。バカじゃないの」
ふっ、と新藤は遠い目をする。
「バカだけど、すごいわよね」
「すごい?」
「たった一人の誰かを想い続けるなんて……できることじゃないわ」
「それは、君だって」
新藤は小さく首を振った。
「違うの」
「違う?」
「わたしはね、先輩……。わたしは、あなたが思ってるような強い人間じゃないのよ」
振動の手にぐっと力が入る。
彼女は息がかかりそうなほど近づいてくると、両手で俺の手を包み込むようにしてきた。
間近で見た新藤の目にはかすかに涙がにじんでいる……。
「新藤……?」
「わたしは、全然強くなんてないの。ううん、たぶん誰よりも弱いんだと思う。だからこうして誰かに触れていないと安心できないの。昔からそうだった。生まれたときから千尋がそばにいたから……ずっと寂しさなんて知らなかったの。性格は全然似てないけど、お互いに無いものを持っていたから、わたしたち姉妹は強く結びついてたと思う。たまにケンカもしたけど……一緒に遊んで、同じ布団で眠って、いつも楽しくて。それから──お兄ちゃんに会って、すぐに好きになって。お兄ちゃんと千尋とわたし。三人でいられたときが一番楽しかった。わたしにとって、かけがえのない大切な思い出……。いいことばかりは続かなかったけど……。千尋……千尋がどうして、あんなことに……」
「新藤……」
この子はいったいどれほどの悲しみを知っているんだろう。
この華奢な身体になにを背負ってしまったのか……。
「だけど、あのときはまだ、お兄ちゃんがそばにいてくれたからなんとか耐えられたの。思えば、わたしはずっと依存してた。お兄ちゃんだけじゃない、千尋にだって甘えてた。お姉ちゃんなのに、情けないわよね……。だからひとりになっちゃったら……とたんに、寂しくて苦しくてどうしようもなくなったのよ。傷ついて、色んなものを無くして、心がからっぽになっちゃったみたいで…・・・。いつの間にか代わりになるものを求めてたわ。痛みをまぎらわしてくれるなにかを。自分でもわかるわ。無邪気に寄ってくるミズキに優しくしたのは……たぶん、あの子を千尋の代わりにしようとしてたんだわ。手に入らないものをいつまでも求め続けることなんてできなくて、他のものでごまかそうとしてたのよ。でも、ミズキだけじゃ足りなかった。わたしの心は止まったまま……。そんなときに、京介先輩がわたしの前に現れた」
がたん、と鈍い音が聞こえた。
廃屋のどこかが崩れたのかもしれない。
「あなたが向けてくるまっすぐな目に──圧倒されていたんだと思う。そんな目ができる、それだけの強い想いを持っている先輩が羨ましかったわ。この人なら、前に突き進んでるこの人なら止まってしまったわたしの心も一緒に連れて行ってくれるかもしれない。そんな風に考えていたのよ、きっと。どこまでも──人に頼り切っていたのよ。わたしにもう少し強さがあれば、本当に欲しいものを追いかけてたか──あきらめることだってできたと思う。強ければあきらめられるのよ。弱いから──いつまでも引きずってしまうの」
今度は木製のなにかがへし折れるような音がした。
なにも動くものがない廃墟で、過去が壊れていく。
「だから心を満たしてくれるものが欲しくて、誰かにそばにいてもらいたくて──なんだってかまわなかったのよ。自分ではなにもしないくせに、勝手すぎるわよね……。酷いことよね。絶対にやっちゃいけないことだった。謝らなきゃ……」
もう聞いていられなかった。
だから、俺は──迷い無く一歩踏み込んだ。
「君を恨んでる人間なんて一人もいないのに、誰に謝るんだよ?」
肩を落とす新藤に近づく。
悲しみに翳(かげ)る新藤の整った顔をまっすぐに見据えた。
「君が誰かを心から求めて、その人が応えてくれたらそれでいいだろ?」
「わたしの気持ちは偽物ってことよ」
「たとえばだけど……君の妹と羽山は別人だ。だから、君が羽山を愛しいと思うのなら、その気持ちは羽山にとっては本物だよ」
「……ややこしい。わたしはバカだから、わかりやすく言ってくれないとわからないわ」
俺は深々とため息をついた。
「きっかけとか理由はなんでもいいんだ。ただ、好きだという気持ちがあるのならそれで」
「だったら、この気持ちも?」
新藤は俺の胸にそっと手を当てた。
「わたしが京介先輩に向けてるこの気持ちが──ただの寂しさの埋め合わせだとしても。もうこれ以上報われない気持ちを引きずりたくないから──先輩にすがりつこうとしているとしたら。あなたはそれでもいいの」
「新藤が寂しいのなら、俺はそれを消してやりたい」
「……っ」
「それに、誰でもいいわけじゃないだろう? 俺が君の気持ちを変えられる人間だと思ってくれたんだろう? 嬉しいよ、それは君が俺を選んだってことなんだから。形はどうであれ、新藤の気持ちはこっちに向いてるんだろ?」
「……うん」
新藤は小さく頷く。
「だって……京介先輩はここにいるもの。わたしのそばに、いるんだもの……」
「わかるような、わからないような……新藤は面白いこと言うよな」
「バカっ、こんなときに茶化すな!」
「てっ」
女の子離れした力で胸をどつかれる。
「……痛いけど、やっぱり新藤は怒ってるほうがいいよ」
「だ、だから人をからかうな」
「君には悲しい顔をしてほしくないんだ」
「…………」
体育館で会ったとき、俺は新藤景の悲しみに耐えるその姿に惹かれた。
でも、もうそんな彼女は見たくない。
「わたし……。わたしは今でもお兄ちゃんの顔を見るだけで……気持ちが揺れるの。どうしてもお兄ちゃんへの想いを全部消しちゃうことはできない。だって、わたしの気持ちは本物だったんだもの」
「いいよ、今はそれでも」
本当はよくなんてない。
だけど、彼女の心をすぐに変えるなんて無理な話であることもわかってる。
だけど今は、今だからこそきっかけがほしいんだ。
「変わるきっかけを……俺は君にあげたいんだ。君は変われるよ。だって、もう歩き出してるんだから。そうだろ?」
「わたしも……変わりたい。雨宮優子と会って、話して……また走ろうって決めたときに……。京介先輩と一緒に走りたいと思った。他の誰でもなくて、先輩と……。うつむいてるだけじゃなにも始まらないって教えてくれた人だから……」
「ありがとう、新藤」
俺は踏み込んで、新藤の細い身体を強く抱きしめた。
「わたしを変えて……京介先輩」
「ああ……」
ひびの入った過去なんて、全部崩れ去ってしまえばいい。
すべてが崩れたその後にこそ──新しいなにかが創られるのだから。
…………。
……。
低い音を立てて、ゆっくりとドアが開いた。
シャワーを浴びてきたはずなのに、彼女が制服姿であることに多少の落胆を覚える。
「シャワーを浴びたい」
そう言われた時は不覚にもドキッとしたけど、新藤の性格を考えるとそうそう都合のいい展開になるわけはない。
「こういうときは、バスタオル一枚で出て来るのが淑女のたしなみだよ」
それでも、冗談半分で一応言ってみる。
「死ね」
半分の優しさもない言葉で切り捨てられた。
軽いやりとりをしてみたものの、俺はベッドに腰掛けたまま動けない。
彼女は俺と抱き合った時に、自分が汗臭いと言う理由でシャワーを浴びたいと言いだしただけである。
新藤に限って言えば、深く考えてのことじゃないと思う。
だけど、シャワーを浴びる女の子を待つという行為で、俺がこれほど緊張するとは思わなかった。
「だいたい、淑女は身だしなみをきちんとするものじゃない」
「いい女ってのは、状況に応じて大胆になるもんさ」
「いい女じゃなくて悪かったわね」
会話がうまく弾まない。
女の子とこうなるのは初めてじゃないし、あのまま雰囲気に任せてしまえば問題はなかったと思う。
仕切りなおしてしまったのがまずかったのか、シャワーなんて浴びさせてしまったのがまずかったのかは分らない。
ただ、俺の部屋にシャワー上がりの新藤がいる、という事実が緊張に拍車をかける。
「新藤は、いい女だよ」
とりあえずフォローは入れておく。
「先輩……なんだか緊張してる?」
「うっ……」
気づかれたくはなかった。
「いや、ほら明るい場所でそういうことするのって、ちょっと慣れてないから」
「だから、外じゃなくて先輩の部屋に来たんでしょう?」
我ながら言い訳がましかったか。
「それとも、やめる……?」
「いや、まさか。それはない」
そんなもったいないことできるか。
「じゃあ、わたし、どうすればいいの?」
あまりに即答したものだから、新藤が照れたように言い放つ。
「とりあえず……こっち来て」
とにかく始めてしまえばどうにでもなるだろう。
こういうときは、グズグズしてるのが一番よくない。
「新藤、もっとこっちに」
新藤は無言で近づいてくる。
こうして近くで向き合ってるとよくわかる。
「新藤、やっぱり小さいよな」
「う、うるさいわ──」
「──ん」
屈み込んで、彼女と唇を重ねる。
「んっ……んん」
ただ触れるだけの口づけ。
強く強く唇を押しつける。
「………はぁ」
「新藤」
彼女の細い肩をつかんで、優しくベッドに押し倒した。
「きゃ……」
「意外と可愛い声出すんだな」
「そ、そういうこと言わないでよ……」
新藤は、もう湯気が出てしまいそうなほどに赤面してる。
ダメだ、マジで可愛すぎる。
「それに、先輩なんだか手慣れてる……」
「そうかな?」
新藤はすねてるようだった。
確かにこの部屋に女の子を呼んだのは初めてじゃないし、こうなったのも一度や二度じゃない。そこがお気に召さないらしい。
「なんか、気に入らないわ」
「これからは新藤だけだから。それで許してくれないかな」
「……何回もそんなこと言ってきたんじゃないの?」
「バカだな」
「んっ……!」
すっと唇を離す。
顔も身体つきも子供みたいなのに、こうして唇に触れると敏感に反応する。
新藤景は誰よりも可愛い女の子だ。
「新藤の唇は、柔らかいな」
「唇なんて……誰のだって同じでしょ」
「そんなことはないよ」
「……誰かと比べてるの?」
「君のことしか考えてないよ」
「真顔でよく言えるわね……」
「真顔で言わなきゃ嘘っぽいだろ? 俺は冗談ばっかりの人だから」
「根に持たないでよ……」
「今のは冗談だけどね」
そういって、目の前の少女に笑いかける。
「冗談って、どこまでが冗談なのよ」
「さあ?」
首を振ってから、軽く口づけた。
「でも、冗談でこんなことはしないよ」
俺は完全に余裕を取り戻して、更に深く、新藤の唇を感じようと彼女を抱きしめた。
「あ……」
「新藤……」
俺の身体が、新藤に重なる。
「ダメぇっ!!」
部屋中に声を響かせ、新藤は転げるようにしてベッドから逃げ出していた。
「新藤……?」
「イヤ! 来ないで!」
「来ないでって……」
新藤は背中を俺に向けたまま、なにも言ってくれない。
その肩が小刻みに揺れている……。
「自分で自分がイヤになるわ……」
ぽつりと、小さな声で確かに彼女はそう言った。
「どうして、わたし……」
ずっとこちらを見ずに、新藤は乱れた制服を整える。
「悪い、急ぎすぎたかな……?」
キス自体初めてだったのだろうし、俺も少し焦りすぎたのかもしれない。
「そうじゃないの。そういうことじゃなくて、わたしが……」
彼女の伏せた瞳から、涙が一筋こぼれた。
「わたしが、お兄ちゃんの匂いをまだ忘れられてないの。全然、まだ……ダメなの。ダメなのよ……。ごめん……ごめんなさい」
涙が溢れ、小さな嗚咽が漏れる。
「最低ね、わたし……」
言葉だけが部屋に残り、彼女は行ってしまった。
いや、まだ残っている。
この手で確かに触れた彼女の細い肩も、ほのかに香る甘い香りも、熱い吐息も夢ではなかった。
まだ彼女に触れた感触は消えていない。
……。
近所の定食屋で晩メシを済ませ、コンビニで雑誌を買い込んで家に戻ってきた。
やれやれ、試験が終わった日だっていうのにシケてるな。
たぶん、あちこちで試験の打ち上げをやってるだろうし、どこかのグループに混ぜてもらってもよかったが。
「気分じゃないな……」
ため息まじりにそうつぶやく。
試験は終わっても受験勉強から解放されるわけじゃない。
もう実質的には夏休みみたいなものとはいえ、のんびりもしてられない。
「夏休みねぇ」
なんだか遠い世界の言葉に聞こえてしまう。
それよりも、彼女の言葉がいつまでも耳にこびりついて離れてくれない。
──広野の匂い、か。
広野の匂い?
「なんだよ、それは!」
一気に怒りが燃え上がる。
こんなに頭にきたことは、かつて一度もなかった。
女の子に拒まれたのは初めてだからか?
いや、そうじゃない。
他の誰でもない、新藤に拒まれたことがどうしようもなく俺を憤らせる。
どうしたって新藤の心をつかみきれないのか、俺は。
彼女の過去の想いなど全部ぶっ壊してやるつもりだったのに。
彼女の心を解き放つことなんてできないのか。
「違う……!」
いや──知ったことじゃない。
なにを言われたって、あきらめられるものか。
まだケリは──ついていない。
……。
「来ちゃった♪」
「………」
バタン。
「おいこら、待て。こんな夜ふけに訪ねてきた親友をむげに追い返すか!?」
何度も扉を叩くと、あからさまに渋々といった様子で家の主が再度現れる。
「親友なら仕事の邪魔しにくるんじゃねぇよ。まったく……」
ここには、広野が学園を辞めた直後に一度だけ遊びに来たことがあった。
「全然変わってないな。男一匹のしょっぱい一人暮らしの部屋だな」
「わざわざ夜中に俺の部屋の批評しにきたのか、おまえは?」
「そこまで暇じゃな──っと」
思わず踏んづけてしまったぺらぺらの紙を拾い上げる。
「花火大会のチラシ……?」
毎年この街でやってるアレか。
「おまえこそ、のんきに花火なんて眺めてられる身分なのか?」
「みやこがどっかで貰ってきたやつだよ。あいつはそういうの好きだから」
「ふーん」
一緒に見に行きたいってことだろうに、広野はわかってないらしい。
俺が忠告することでもないので、ほっとこう。
「あ、これ差し入れな」
「……ありがとよ」
俺が差し出した袋を受け取りながら、広野は座った。
こちらも適当なところに腰を下ろす。
「なんだ、こりゃ?」
「栄養ドリンク。どれがいいのかわからんから、適当に何本か買ってきた。ぬるくならない内に全部飲み干せ」
「こんなに飲んだら脳みそぶっ飛んじまうよ!」
人の行為を無駄にする気だな、この男。
「そういや、宮村は来てないんだな」
「ああ。おまえら、今日で試験終わりだったんだろ。みやこは、徹夜で打ち上げやるんだとさ」
「いいのか?」
「なにが?」
「打ち上げって、面子には男も絶対いるぞ。夜通し遊ばせておいていいのか?」
「くだらねぇ」
広野は栄養ドリンクの1本を開封して、口をつけた。
「きっついな、これ」
「そんなことより」
「……みやこだってたまには遊びたいだろうさ。知ってるか。あいつ、中間ではトップ取ったんだぞ」
「そりゃ知ってるけど」
「あれでも死に物狂いで勉強してんだよ、みやこは。あいつは元からエネルギーあふれてるし、最近はいつもどんなときも全力投球って感じだな」
空になったドリンクの瓶を小さく振って、広野は笑った。
「その分、エネルギー補給もえらいことになってるけどな」
「エネルギー補給か。なるほどね」
宮村のあの食欲もそれなりに理由があったのか。
てっきり、単なるやせの大食いだと思ってたが。
「みやこはさ、まだやりたいことを見つけられてない」
自分のやりたいことをやるために、学校までやめた男の声は──優しかった。
「だから、今の自分にやれることを精一杯やってるんだ。その上、俺の世話を焼いたり、最近は景や羽山にまで勉強教えてたらしいじゃんか」
景、か──
「たまには遊んで気晴らししなきゃ、あいつだって参っちまうよ」
「おまえと遊びに行くとかいう計画は?」
「夏休みに入ってからだ。それに、俺だけじゃなくて、他の奴らと遊ぶことも大事だよ。あいつは、ずっと友達いなかったからな……」
「おまえってけっこう女にハマりこむタイプだったんだな」
「うるせーっ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る広野の姿は、やっぱり新藤とどこか似てる気がした。
あの子は広野だけを見て、広野のことだけ考えてきたんだなと思う。
「あー、なんか身体熱くなってきた。この栄養ドリンク、ソッコーで効果出過ぎじゃねぇのか」
照れ隠しが下手なところもそっくりだ。
「ちょっと外行って風に当たってくる」
「おつきあいしましょう」
………。
俺と広野はぶらぶらと歩き、公園までやって来た。
野郎二人で夜の公園なんて、ぞっとするシチュエーションだが、ここで引き返すのもなんだし。
「そういや、広野。あの自転車はどうなった?」
「粗大ゴミだな」
「おまえの姉ちゃんは?」
「粗大ゴミだな。……じゃなくて、今は実家でのんびりしてるよ。俺の手伝いに入ってくるのは、もうちょっと先かな……はぁ」
広野はあからさまに落ち込んだ顔をする。
本格的に見てみたくなったな、その姉ちゃん。
「これまで平和に暮らしてきたのになあ」
「えっ、そうなのか?」
俺はちょっと驚く。
宮村と付き合ってる時点で、"平和"からは縁遠いと思ってた。
「いや、マジで平和だって。そりゃ、色んなことがあるけどさ、最近はなにもかもがいい方向に流れてる気がするんだよ」
「まさかとは思うが、"俺には幸運の女神がついてる"とか言い出さないだろうな?」
「アホか! みやこは女神じゃなくて、どこにでもいる女だよ」
あんなのがどこにでもいたら、この星が滅びてしまいそうな予感。
「女神とかじゃなくて、そうだな──って、バカバカしい。どうでもいいや」
広野は自己完結して、小さくため息をついた。
「それで……。景となにがあったんだ?」
「俺、なんにも言ってないよ」
「言ったも同じだろ。仕事の邪魔になんのわかってて俺んとこへ来たくらいだから、よっぽどのことだろ?」
なにも疑ってない、確信に満ちた口調だった。
「さすが漫画家……洞察力に優れてるってことか?」
「漫画家は関係ないな。景とおまえのことだからだよ」
「………」
また腹が立ってきた。
自分の映画を真っ向から否定されたって、こんな気持ちになりはしない。
この怒りはどんな理由で湧き上がってくるのだろう。
「なにがあったのかまではわかんねーけどさ」
俺は骨が折れそうなほど、ぎゅっと拳を握りしめる。
「……無理やり新藤を襲ったら、抵抗されて逃げられた」
「なんだと?」
「すばしっこいし、小さい割に力もあるんだな、あの子は」
「……てめえ」
広野の形相が一変する。
「言っていい冗談と悪い冗談の区別もつかないのか?」
「おまえこそ、冗談と決めつけるなよ」
「京介、ふざけてんじゃねぇぞ!」
「ふざけたくもなる。おまえが、おまえが……!」
くそ、言葉がうまく出てこない。
「違う、そんなことが言いたいんじゃないんだ」
「なんなんだよ、いったい。おまえがなにを言いたいのかなんてわかんねぇよ」
なにを言いたいのか、だって?
そんなものは……。
「俺は……。俺はただ新藤が好きなだけなんだよ!」
「だったら、さっさと景のところへ行け! 俺んとこ来たってなにも変わらねぇだろうが! バカかおまえは!」
「……っ!」
「景を苦しめたのは俺だ。でも、あいつを救うことは俺にはできねぇ。だけど、おまえなら……おまえが本気なら……!」
広野はそこまで言ってから、小さく舌打ちした。
こいつだって、もちろん新藤を救えるものなら救いたいんだろう。
だけど、広野が新藤に優しくしたって、彼女を余計に惑わすだけだ。
「俺は仕事に戻る」
「ああ……」
ため息が出た。
広野の言うとおり、新藤に会わないことには話にならない。
まだ俺は、ちゃんと現実が見えていないのか……。
「京介」
「なんだよ」
戻るんじゃなかったのか。
「妹を泣かせるのは兄貴の特権だ」
「なんだ、そりゃ」
「おまえは……あいつを泣かすな」
「………」
できることなら泣かしたくなんかないよ。
だけど、もう手遅れだ。
「おまえだって人のことは言えないぞ。宮村、前に泣いてた」
「……そうか」
「それだけか」
「いいんだよ。泣かせた分だけ、後で優しくして、許してもらうんだから」
優しくする、か。
広野と宮村ならそれでいいかもしれない。
でも、優しさだけじゃ新藤には届かない。
届かない……?
届かない、じゃないだろ。
俺は、俺のすべてを彼女に伝えなければ。
それが、本当に好きになった女の子のためにできる、たった1つのことなんだから。
…………。
……。
や、やっと終わった……。
顔を上げて、差し込んでくる朝の光に目を細める。
一晩中パソコンのモニタを見つめ続けた目には、ちょっと刺激が強かった。
なんだか、頭がくらくらする。
しかし、ぶっ倒れてる場合じゃない。
ギリギリだったが、テープへのダビングも終わった。
今日はテストの返却日。
自分のテストの結果なんかどうでもいいが、なにがなんでも登校しなければ。
学園には──彼女がいるのだ。
……。
「先輩……?」
教室から出てきた新藤は、扉のところでそうつぶやいて固まってしまった。
「そこにいると、皆さんが出てこられないよ」
「え、あ、ああ。ご、ごめんね」
後ろにいたクラスメイトに頭を下げて、新藤は廊下に出てきた。
「さて、試験の結果はどうだったのかな?」
「いきなり現れて、なに言ってるの……」
呆れるよりも戸惑っている口調。
あんなことがあったのだから、そういう態度にもなるだろう。
「ここで話すのもなんだし、行こうか」
だけど、俺は知ったこっちゃない。
「………」
新藤は俺の意図がわからないのか、しばらく沈黙していたが……。
やがてこくりと頷いた。
……。
なにも遮るものがなく、夏の太陽に晒されているせいか、屋上はひどく暑かった。
それでも新藤は文句ひとつ言わない。
なにを言えばいいのか、図りかねてる顔だ。
「新藤」
「え?」
手に持っていた鍵を彼女に向かって放り投げる。
「これ……?」
「そう、ここの鍵。宮村から預かってたものだけど、あいつはもういらないだろうから」
もし泣きたくなっても、宮村は広野の前で泣くべきだ。
宮村の涙をぬぐえるのは、他にいないのだから。
「みやこさんに?」
「君が受け取るなら、宮村は文句は言わないよ」
「貰っても……使い道がないわ」
「持っててくれるだけでいい」
「………」
「ここはさ、孤独にひたるか──ふたりきりになるための場所だ」
だから、宮村には必要ない。
あいつはやっとできた友達と一緒にいるべきだし、ふたりきりになる相手はこの学園にはいないからだ。
「俺とふたりきりになりたくなったら、その鍵を持って会いに来てくれ」
「え……」
「それと、これ」
カバンから1本のビデオテープを取り出す。
「またビデオ……?」
「前に君に見せたあれは、ただの映画バカが作った作品ってだけだ」
「……これは違うの?」
「君のことが一番好きな映画バカが作った作品だよ」
「……っ!」
「短い間だったけど、それでも新藤景だけを追いかけ続けて撮影した映画だ──でも未完成なんだ」
俺が差し出したテープを、新藤は見つめるだけで受け取ろうとしない。
「完成させるためには、まだ新藤の協力がどうしても必要なんだよ」
「……なんで怒らないのよ?」
ようやく出てきたのは、絞り出すような声。
「俺が怒る必要がどこにある?」
「わたしは先輩に酷いことしたのよ! あんなことして……わたし、先輩に合わせる顔なんて……!」
「ショックだったよ。ショックだったけど……」
俺は首を振った。
「俺、全然怒ってないよ。新藤に避けられるほうがよっぽど辛い」
「どうして……先輩は……」
「新藤が広野のことを好きでもかまわないんだ」
「えっ……」
新藤の肩がびくりと震える。
「広野のこと好きなのは当たり前だよ。あいつは優しいし、優しいだけじゃなくて強い。学校やめて、誰もが通っていくレールから外れて、それでも自分の意志を通そうとしてる。とんでもないよな。俺だって、あいつのことは好きだ」
だからこそ──俺もあいつとは本当の友達でいられたんだと思う。
「……そう」
「広野だけじゃない。宮村だって、羽山だって、雨宮優子だって好きだよ」
「なにが言いたいの?」
さすがに新藤は訝(いぶか)しげな目をした。
「俺はみんなが好きだよ。好きになった。だけど──俺にとって、特別なのは新藤だけだ」
「特別……」
「たった一人の特別な女の子だよ」
「どうして、そこまで……?」
「その答えは、ここにあるかもしれない」
俺は手に持ったテープを、軽く振った。
羽みたいに軽いテープだけど、この中身には伝えたいことがたくさん詰まっている。
「受け取ってもらえないか?」
「………受け取れない」
ほとんどわからないくらい小さな声だった。
返事をするまでの一瞬の間、彼女はなにを思ったのだろう。
細い肩が震え、今にも壊れてしまいそうなくらい悲痛な表情を浮かべている。
彼女は短い時間でなにを思い、結論を下したのか……。
無理に笑顔を作り、彼女に再び問いかける。
「どうしても?」
「……そこに答えがるっていうのなら、なおさらよ。それを受け取る資格は……わたしなんかにはないわ」
「逆だよ。受け取る資格を持ってるのは君しかいない」
「それはあんたの勝手な思いこみよ……! それともなに? そんなにこだわるのは、わたしが今までの女みたいに自分になびかなかったから? そんなに悔しかった?」
「あー、そうきたか」
「とぼけないで! 他に理由が思いつかないわよ!」
「そりゃあ悔しかったかって言われればそうだけど。本当に好きだから」
「……っ!」
かぁっと一気に新藤の顔が朱に染まる。
「な、なに言ってるのよ!」
別に、冗談で言ってるわけじゃないんだけどな。
「なにもかもをひっくるめて、俺には君が必要なんだよ。新藤景」
「……聞けないわ」
新藤は激しく首を振る。
俺が求めるもの、そのすべてを拒絶するかのように。
「お願いだから……もうこれ以上なにも言わないで。痛すぎるのよ、わたしには……。あなたの気持ちが強いほど、わたしを傷つけるのよ……。わかってよ……」
「君を傷つけたいわけじゃない。でも、俺は自分に嘘はつけないし、つきたくないから」
「…………」
差し出されたテープの前で、新藤は一瞬手を伸ばしかけて──
なにも言わずに踵を返した。
そして、一度も立ち止まることなく屋上を去っていった。
一気に身体から力が抜けてしまう。
どんな手法で作られようと、映画はしょせんは虚構か……。
現実を打ち砕く力などありはしない。
今まで虚構の世界ばかり見ていた俺は、そのことを今の今まで知らなかった。
報いは当然のように、俺の心をさいなむ。
……。
「試験、どうだったの?」
「あなたもいきなりそれから来ますか」
「あなたも……って?」
「いいえ、なんでもありません」
わたしは小さく首を振る。
待ち合わせ場所に先に来たのはみやこさんのほうだった。
お昼を一緒しながら、試験結果を報告する──という約束だったけど、そんなに急いで訊かなくてもいいだろうに。
とりあえず答えるのは後回しにして、ウェイトレスさんにアイスティーとベーグルサンドを注文する。
「あれ、それだけでいいの?」
そういうみやこさんの前には、パスタやピザ、サンドイッチが並んでいる。
「わたしの胃袋は人並み以下なんです」
「テストの結果は人並み以下じゃないよね?」
「……」
どうしても早く結果を知りたいらしい。
「みやこさんには感謝してます。というか、自分でもびっくりしたくらいです」
「お。ということは?」
「赤点は無し。補習も追試もひとつもありません──ついでに言うと、順位も中間のときより50番以上あがってましたよ」
「おーっ、すごい、すごいよ」
わたしは曖昧に笑う。
「あまり認めたくないですけど、本当にみやこさんのおかげですね……。すごいのはそっちですよ」
ほんの数日でわたしの学力をここまで引き上げたのだから。
「え、あたしってそんなにすごい? いやー、照れるねどうにも。どうしよ、この際だから先生めざしちゃおうかな」
「……」
この悪ノリする性格さえなければ、割と本気で好きになれそうなんだけどな……。
「とにかく、よかったよ。人生初の赤点ゼロおめでとう! 今夜は祭りだね!」
「祭りませんよ!」
ああ、わたしまでおかしな言葉遣いに。
もちろん、赤点無しも初めてじゃないし。
「ていうか、おめでとうを言われるのはみやこさんでしょ。今回も1位だったんでしょうが」
「まー、それは当然の帰結というやつだから」
キケツってなんだっけ……。
「やっぱりおめでたいのは景ちゃんのほう。実はあたしも、ちょっと不安だったからね」
「そうでしたか」
つまり、わたしの学力を信用してなかったわけだ。
「本当によかったと思うよ。なのになんで──景ちゃんはそんな曇った顔してるのかな?」
どくん、と心臓の音が聞こえたような気がした。
「……べ、別にいつもどおりですよ」
「泣いたんでしょ?」
「な、泣いてなんか」
わたしは慌ててごしごしと目元をこする。
「……あっ」
これじゃあ泣いたって認めたようなものじゃないか。
バカか、わたしは。
「景ちゃん、目がウサギみたいに真っ赤になってるもん」
「そんなこと……」
「ところで、ウサギって美味しいのかな?」
「知りませんよ!」
どこまで真面目なのか本気でわからない。
「というか、ウサギを食料扱いしないでください!」
「ウサギに関して、なんか悲しいメモリーでもあるの? だったらごめん」
「思い出させないでください……」
ダメだ、このままじゃここで泣いてしまう。
それだけは避けたいことだった。
「ほうっておいてくださいよ。なんにも、本当になんにもないんですから……」
「嘘が下手なのはいいことだね。嘘が上手くなったら、なにが本当のことなのか自分でもわからなくなっちゃうから」
「……宮村先輩の言うことは少し難しいんですけど」
「そんじゃ、言い直そっか」
コップの中の氷がからん、と音を立てた。
みやこさんはすうっと息を吸い込む。
「わかりやすく言うと……」
「言うと……?」
「なんだろうね?」
だんっ!
テーブルに頭をぶつけてしまう。
「あはははっ」
「なにがおかしいんですか!」
やっぱりこの人にはついていけそうもない。
呆れたところで、ウェイトレスさんが注文の品を置きにきた。
「それも美味しそうだね。あたしも注文しようかな」
「もう勝手にしてください……」
……。
「あー、おなかいっぱい」
「そりゃそうでしょう」
みやこさんが100人もいたら、この国の戦後さながらの食糧危機が訪れるんじゃないだろうか。
今日は、勉強を教えてくれたお礼という名目でわたしがおごったのだけど……。
これから先、お礼をする機会ができたら食事以外のなにかにしないと、財布がもたない。
「それじゃあ、わたしはこのまま帰りますけど……」
「あ、そうなの?」
「ええ、でもその前に……」
わたしは──勇気を振り絞って問いかける。
「さっき言いかけたのってなんですか?」
「……ああ」
みやこさんは、珍しくちょっと困ったような顔をした。
「うーんと、言いたいことはあるんだけど、上手く言えないんだよね。やっぱり、人に説教するようなガラじゃないしね」
「みやこさん、ずるいですね」
本当は上手く言えるに決まってる。
この人は頭が良くて、口もよく回るんだから。
「あたしは……そうだな、人を惑わすのは優子に任せておけばいいからね」
「優子?」
つい、眉がつり上がってしまう。
「あれ? 景ちゃんは優子が嫌いなの?」
「人の神経をこれでもかというくらい逆撫でしてくれるので」
特に嫌味というわけでもないのに、あの雨宮の言葉は無性に心に響く。
いや、心をえぐるというべきかも。
「……景ちゃんは、優子のこと前から知ってた?」
「知り合ったのはごく最近です」
知り合わないほうがよかったかもと思ってるところだ。
「そっか、やっぱりみんな忘れてるんだね」
「え……?」
「この街に住んでる人なら、一度は優子の名前を聞いたことがあると思うけどなあ。とか言ってるあたしも、絃くんとこで資料を読むまではすっかり忘れてたけどね」
「あの、なんの話をしてるんですか?」
お兄ちゃんのところ?
資料?
昔からお兄ちゃんが趣味で集めてた新聞とか雑誌の記事のこと?
「ううん、たぶんどうでもいいことだから。忘れるってことと消えるってことはイコールじゃないんだよね」
「ますますわからないんですが……」
こちらの脳の処理速度の遅さは、みやこさんも充分知ってるのに。
「なにがあっても、どれだけ時間が流れても消えずに残っちゃうものはあるんだよ」
それは知っている。
わたしがいつまでも過去の想いに囚われているせいで、あの人を傷つけてしまったんだもの。
「でも大事なことは、今そこにある気持ちと過去の折り合いをつけること。前に進まなきゃね」
みやこさんは、優しい笑顔を浮かべた。
「あたしはなにもできないから……気の利いたことは言えないから。がんばれ、景ちゃん。 がんばれ!」
「…………なんでお兄ちゃんがあなたを選んだのか、少しだけわかった気がします」
「そうなの? あたしは未だによくわかんないな」
笑顔のままで、みやこさんは首を傾げる。
わたしが大好きだった人の恋人は──こういう性格なんだ。
……。
がんばれ、か。
励まされちゃったらしょうがないな。
「後はもう──自分で考えなきゃ」
誰かにああしろこうしろと言われるんじゃなくて。
──「そのとおりですね」
「………」
出てくるような気がしてたけど。
本当に、神出鬼没にもほどがある。
「このあたりは、私のテリトリーですよ。むしろ、あなたがいるほうがおかしいでしょ?」
「なによ、てりとりーって」
にこにこ笑っている雨宮優子を睨みつける。
「気にしなくていいですよ。それより、怖い顔ですね」
「なにがそのとおり、なのよ?」
「ああ、あなたが考えてることですよ」
「あんたに、わたしの頭の中がわかるの?」
「軽そうですね」
「ほっとけよ!」
ああ、もうこの暑いのに怒鳴らせないでほしい。
「まあ、そういきり立たずに。落ち着いてくださいよ。中に入りませんか?」
「いいの?」
「教会ですから、来る者は拒みません」
それだけ言うと、雨宮優子はさっさと歩き出した。
わたしは逆らわずに、その後をついていく。
ここで帰ることはできない。
自分でも今気づいたけれど……。
わたしはきっと──彼女に会いに来たんだから。
……。
教会の中は冷房が効いてるわけでもなさそうなのに、なぜか妙に空気が冷たい。
この一種異様な空間では、雨宮優子の夏らしくない服装もそれほど変には見えなかった。
「……あなたは、まだ辛そうですね」
なんの前触れもなく、彼女は言った。
「それこそ、ほっといてもらいたいわ」
「もうわかってるのに……わかったからこそ苦しいんですね」
理屈ですべてが決められるのなら──わたしはこんなに苦しまなくて済んだ。
わかってる。
なにもかもわかってる。
「お兄ちゃんとみやこさんはお似合いよ。京介先輩は本気でわたしのことを好きでいてくれてる」
この2つは──わたしみたいな鈍い人間でもわかることだ。
「そうですか」
雨宮優子は軽く頷いた。
「それだけですか?」
「……違う」
それはもうとっくにわかっていて受け入れていること。
ただ1つ受け入れていないのは──
「今のわたしはもう、京介先輩をお兄ちゃんの代わりにしようとしていない。京介先輩とお兄ちゃんは違うのよ……。違うから、違う人を好きになってる自分が──イヤになった」
あのとき、ベッドの上で──京介先輩の匂いで胸がいっぱいになった。
それはお兄ちゃんと確かに違う匂い……。
そのことが──わたしには身体を引き裂かれるくらいに苦しかった。
「過去はいつまでも変わりませんよ」
「……え?」
「過去は過去。広野さんを追いかけていたあなたの気持ちは、嘘じゃなかったんでしょう?」
「それは……」
当たり前だ。
お兄ちゃんに抱いてた気持ちが嘘だったなら、どんなに楽だろう。
「同じように、今あなたが堤さんを好きなことも本当のこと。その2つは矛盾しますか?」
「そんな風に理屈で割り切れないわよ……」
「あなたは本当にバカなんですね」
「なんだと!」
どうして誰も彼もがわたしをバカ呼ばわりするんだろう。
わたしだって、なにも考えてないわけじゃないのに。
「恋をしたら、あとはもうなにも考えちゃいけないんですよ」
「考えちゃいけない……?」
「考えてる間に、好きな人はどこかに行ってしまうかもしれないでしょう? 特に堤さんは、道に迷ってもとりあえず先に進んでしまうような人ですから」
それは……。
ものすごく的確に先輩を表現してる……。
「好きなんでしょう、堤さんのことが」
「………」
わたしの心にずけずけと入り込んできたあの人。
思えば──京介先輩の前で自分の気持ちを口にするたび、心が軽くなっていったような気がする。
先輩はいつもなにかを探し求めていた。
そのまっすぐな目の輝きに──わたしは惹かれていったんだ。
それは嘘でもごまかしでもなく、もっとも大切にしなくちゃいけない真実。
「もたもたしていたら、置いていかれますよ。大切な人と離れてしまうことの寂しさ……新藤さんも、もう充分に知っているはずでしょう?」
わたしは。
わたしはずっと色んなものを無くしてきた。
二度と取り戻せないものだって、いくつもある。
「ねえ」
「はい?」
「あんたは誰かを好きになったこと、あるの?」
「うーん……」
雨宮優子はちょっと戸惑って。
「一度だけ」
照れた顔でそう言った。
「最初で最後の……ですけど」
「最後……?」
「ええ。私の恋はね、永遠なんですよ……」
ただそう言って、彼女はうっすらと笑みを浮かべた。
そんな顔を見てしまったら、これ以上追求することもできない。
彼女もまた、苦い恋を知ってるんだろうか……。
──「景せんぱーいっ!」
荒っぽく扉が開かれ、一人の少女が飛び込んできた。
「ミズキ!?」
「景先輩……」
息を切らすミズキの顔には、なぜか不安な色が浮かんでいる。
ううん、なにか怖がってるような……。
「ホントにここにいるなんて……」
「え? あんた、ここのこと知ってたの?」
「え、まあちょっと……ほら、立派な建物ですし」
ミズキは笑いながら手を振る。
あからさまに怪しい反応だった。
「わたしのことなんてどうでもいいんです。それより景先輩。なにかあったんですか?」
「……わたしが教会にいるって、なんでわかったの?」
自分でもよくわからないうちにここに足が向かってしまったのに。
「商店街でたまたまみやこ先輩に会って……。景先輩が教会にいるから、会いに行ってあげてって。だから飛んできちゃいました」
「あの人の差し金か……」
かなわないわね。
もちろん、みやこさんに勝つ必要なんてない。
「わたしが勝たなきゃいけない相手は、過去の自分なんだもの」
「え……?」
「そうよね?」
振り返ると──
そこに雨宮優子の姿はなかった。
「あれ……?」
裏口とかあるのかしら、この教会は。
「いったいどうしたんですか?」
「いえ……」
もう話すことは話したのだから、いいのよね。
「ねえ、ミズキ」
「はい?」
「ミズキはわたしにどうしてほしい? どういうわたしでいてほしい?」
「どういうって……」
ミズキはちょっと悩んでから。
にっこりと笑った。
「かっこいい景先輩が大好きです!」
「……そう」
そういえば、いつかの千尋のメールにも似たようなことが書いてあった。
千尋もミズキも、こんなわたしを好きでいてくれるのだから、応えなくちゃいけない。
そうよね。
わたしもミズキに微笑みを返す。
「ありがとう、ミズキ。かっこいいわたし、見せてあげるわ」
……。