ゲームを読む。

-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【2】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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麻生蓮治さんは、私よりも1つ年下の学生。

 

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だから、この時間は学校にいるのだろうと、私は午前10時を示す時計を見ながら考える。

つまり姉も同じように勉強していることだろう。

私だけがぼんやりと部屋に立ち尽くしている。

どれだけ辛くても、どれだけ楽しくても、時間は平等に私たちの隣をすれ違っていく。


「…………」

 

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なんとなく、秒針が1周するのを待って、時計から視線を逸らした。

私の部屋だ。

かつては"私たち"の部屋だったはずだが、今、姉はいない。

空気は寒々としているくせに、よどんでいる。

少し気だるい。

お腹を押さえて、今月のものが来たのかなと憂鬱になった。

 

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そうやって部屋を見渡した後、私は自分の身体を見下ろした。

手足。

肩。

胸。

腰。

頬。

耳。

髪。

何度も何度も。

それは、確認というより点検という言葉がしっくり来る作業だった。

 

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最後に手首の裏側に目をやる。

自分でも白すぎると思う肌に、青い血管が透けていた。


「……ちょっと重いな」


声が虚ろに響く。

私自身が知っている身体よりも、幾分か成長している。

そうやって記憶と現実の配線を1つずつ結び付けていく。

ショートしないように慎重に──なにか不安なものを覚えたら手帳を読んで気を落ち着かせる。

 

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日課として、毎朝2時間以上をかけて読み返す手帳。

ここしばらくは麻生蓮治さんが関わった記述が多かった。

とりわけ、一昨日の日記は自分で読んでいても恥ずかしいほど文字が躍っていた。

たかが再会を果たしただけで泣いてしまうだなんて……。

しかし、昨日に別れ際の約束を喜んでいる、今日の私がいることも事実だった。


「また明日」


その言葉が指し示しているのは未来だ。

私が失ったものは、お姉ちゃんや絃お兄さんと一緒にいる時間。

みんなと学校に行ったりする楽しさ。

当たり前のことができる幸せ。

そんな傷を埋め合わせるために、私は蓮治くんを求めているのだろうか……。

 

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「どうなのかな……お姉ちゃん」

 

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私はパソコンの前に座り、メールソフトを立ち上げた。

昨日の夜、離れて暮らしている姉に送ったメールへの返信が届いていた。


千尋へ 元気にしていますか? ……って、毎日聞いてるから最近元気なのは知ってるけど、今日になって元気じゃないかも知れないからね。千尋は身体があんまり丈夫じゃないんだし、無理はしないように。まあ、わたしのほうは相変わらずってところね。今はバスケも出来ないし、のんびりしてるわ。それで、千尋のメールに書いてあったことだけど。麻生蓮治さんって人に自分のことを話してもいいかどうか──迷ってるみたいね』


お互いの近況を伝えるやりとりの中で、私は姉にも、どうすればいいか意見を求めていた。

そして、次の言葉を目にしたとき、かすかな寂しさを覚えた。

いや……私はその言葉がほしくて、姉に問いかけをしたのかもしれない。


『正直に言うとね、わたしは反対。千尋のメールに書いてあった麻生さんって人は、悪い人じゃないと思う。それでも、どういう結果になっても、最後には千尋が傷つくことになると思うから。千尋が悲しい想いをするのは、わたしは嫌だから……』


だけど……


『だけどね』


いつもならそれで終わるはずの姉の言葉に、今日は続きがあった。


『反対する気持ちとは逆に、それじゃあいけないって想いもあるの。ずっと立ち止まっていれば、確かに、傷つくことはないかも知れない。でも、それじゃあ、本当の意味での喜びや達成感に近づくことも出来ないんじゃないかって。なんの保証もない考えだけど、そうも思うの』


わたしは少し驚いていた。

ここ最近、どこか沈んだ雰囲気で口数の少なかった姉のメールが、今日は躍っていた。


『こういう考えって、無意味に前向きな先輩につきまとわれてる影響かも知れないわね。そうそう、その人に誘われて、なんと、わたしが主演の映画を撮ることになったのよ。まあ、主演って言っても、登場人物はわたしだけだし、ストーリーもないっていう考えられないものなんだけどね。これが……前に進んでいるってことなのかはわからない。でも、そういう変化が楽しいって感じてる。だから、わたしにはなにが正しいかわからないし、偉そうなことも言えないけど。これだけは心の底から言えるわ。わたしは、千尋には幸せになってほしい。最後に選ぶのは千尋だから、後悔だけはしないように。それじゃあ、またね』

 

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「……千尋には幸せになってほしい」


その返信の中の一文を二度読み返す。

文字で想いを伝えることなんて得意じゃないはずの姉が、不器用に送ってくれたやさしさ。

しかし。

私の幸せ。

私の夢。

それがなんなのか、私自身、上手く思い浮かべることができない。


「でも……いいな」


そのメールが教えてくれた変化──可能性という言葉は輝いて見えた。

いいなぁ。


…………。

 


……。

 

 

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昼休みになった。

 

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ざわざわと賑わいだす教室の中で、僕は鞄からお弁当を取り出して、手をあわせた。


「いただきます」


いつものように朝食の残りと、冷蔵庫の余り物から自分で作った一、二品をくわえたお弁当。

夏場と違い、冬は痛みを気にせず好き勝手に作れて嬉しい。

今日は重たいものを避けようと、冷めても美味しい野菜の炒め物や卵料理を中心としたレシピだった。

悪くない。

自分の料理に舌鼓を打ちつつ、黙々と昼食を済ませる。

 

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「…………はぁ」


喧騒の中で思わずため息をついてしまう。


「……駄目か」

目を閉じて、机の上に上半身を投げ出す。

できる限り普段の生活を心がけてみたが、やはり無理だった。

油断するとすぐに、脳内を焦りとも不安ともつかない赤いモノが占領する。


「逃げる──なんて普通の状態じゃ使わないよなぁ」

 

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死神みたいな火村さんの言葉と姿が、まぶたの裏側に浮かぶ。

いかん、あの人、ああいうのが似合いすぎだ。


「…………」


そんな冗談を思い浮かべても、5秒ほどしか間はもたない。


「小説か」


本当に僕はそれが書きたいのだろうか。

ただ、現実にありもしないものを追い求めている、滑稽(こっけい)なだけの存在じゃないのだろうか。

手を握って、また開く。

進路。

夢。

目標。

この手に掴むべきカタチそのものが、僕にはなかった。


……。

 

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苦痛なだけの5、6時間目の授業と帰りのHRが終わると僕はすぐに駅へと向かった。

 

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千尋はベンチに座っていた。

手帳に目を落としながら不思議な表情をしている。

悩んでる──のは前にも見たが、今回はなんだか可愛い悩み方だ。

あえて表現するなら。

 

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『う~ん……え~と……ど~しよ~……』


「…………」


千尋がそんな口調で喋ることはあり得ないが……まぁ、そういう雰囲気。

馬鹿な妄想を振り払って彼女のそばに寄るが、よほど集中してるのか気づいてもらえない。


「やっほ」

 

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「──っ!?」


普通に声をかけただけなのに、千尋が慌ててベンチから立ち上がって身を退いた。

じっ、と僕のことを値踏みするように見つめる。

寝ているところを急に起こされた猫みたいだ。


「……あ、蓮治くんですか?」
「そうだね」


苦笑いしながら答える。

このパターンにも慣れた。


「こんにちは」
「こんにちは」


ふたりともぺこりと頭を下げる。


「すごく集中してたけど、じっとしてると寒くない?」
「……言われると寒くなります」
「どこか暖房の効いたお店にでも行く?」


口元の笑みを手で隠しながら言う。


「いえ、ここでいいです」

 

スカートを払って千尋が辺りを見渡した。

僕もその視線を追ったが、毎日このなにもない駅にいる必要があるのだろうか。


「外が怖い?」


自分でもなんでそんなことを口にしたのかと思ったが、彼女は僕の視線を受けて目を伏せてしまう。


「……はい」
「あ、ごめん」
「いいんです。外というか、人がいっぱいいるところが苦手で」


千尋が自然な笑みを浮かべた。

笑えてしまうことが寂しいなと思いつつ、かける言葉が見つからない。


「今日はどうしようか?」


暗い考えが顔にでないように、無意味に手を振りながら訊ねる。

今まではお互いのプライベートには踏み込まない会話をしてきたが、そろそろ打ち止めの感が強かった。


「あの」


ぽつりと。

いつにも増して、小さな声で千尋がつぶやいた。


「人の少ないところなら……その……いいです」
「え?」

 

改まった物言いに、僕が首を傾げてしまう。

人の少ないところならいいです──を色々と頭の片隅で考えたが、彼女の雰囲気はそういう本気にしたい冗談の類ではなさそうだ。

つまり駅以外の場所に行くのもOKということか。


「えーと、じゃあ海にでも行く?」
「いいですね、海」


さっぱり良くは聞こえない千尋の声。


「そう、かな……死ぬほど寒いだろうけどね……」

愛想笑いを返して歩きだす。

今日はなんなのだろうと思考の裏路地に寄り道しつつ、まぁいいか、という結論に達する。

彼女と遊びに出かけられれば、どこでも嬉しいのだ。

いまいち会話の糸口を見つけられず、無言のまま商店街を海の方角へと歩く。

気がつくと、視界から千尋が消えていたり、とてとてと追いかけてくる気配に足を止めることになる。

駅でばかり話していて気づかなかったが、千尋の歩幅は狭かった。

昨日、商店街を一緒に歩いている時は会話に集中していて、僕の歩みも遅かったのだろう。

時折、学校での出来事や読んだ本のネタを振ってもみたが、反応は芳しくない。

しかし──

 

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「なにか?」


僕の視線を受けて千尋が小首を傾げる。


「ううん。なんでもない」
「そうですか」


なんだかわからない、この違和感。

彼女が僕のことを窺っているような気がした。


……。

 

海辺についた頃には、ちょうど夕暮れのきれいな時間が訪れていた。


「今日は調子が悪いのかな?」


砂浜におりる道を探しながら、僕はまた適当な話題を投げてみた。

 

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「いえ、特には」
「そう」
「なにか変でしょうか?」
「いや、気のせいだったみたい」
「……心配ですか?」
「なにが?」
「私が」
「いや、まぁ、ね」


会話の字面だけ並べれば色っぽいのだろうが、あまりにも冷静なやりとりに笑ってしまう。


「寒いね」


間を繋ぐために当たり前のことをつぶやく。

どうして千尋が駅の外に出ることを望んだのか──なんとなく気づいた。

その時が来たのだろう。

彼女は自分のことを話すつもりだ……。


……。

 

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潮風は肌に突き刺さるように冷たかったが、その分、空気が澄んでいて海も街並みも映えていた。

 

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「寒かったら言ってね」
「すごく寒いです」
「そう」
「………それだけですか?」
「いや、耐えられなかったらねってこと」


彼女の風除けになるように半歩ほど場所を移す。

海岸のきめ細かい砂の感触を靴の底に覚える。


「寒いけどきれいです」
「そうだね。燃えてるみたいだ」


自分でも意識せずつぶやきが漏れた。

本当に燃えているようだ。


「…………」


赤い海を眺めながら、僕は彼女の言葉を待った。

それほど長くはかからなかっただろう。

 

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「麻生蓮治さん」


眼帯をした少女は、なにかを決意したように口元をひきしめていた。

ピン、と張られた弓のような印象を覚える。

一瞬にして人形と人間の装いを行き来するコントロールは本当に凄いなと、場違いに感心した。


「私はあなたの友達なのでしょうか?」
「どうだろう」


予想外の攻撃に、頬をかくことしかできない。


「改めて聞かれると……特別そう意識したことはないのかも知れない」
「では、麻生さんにとっての私はなんなのでしょう?」


僕の呼び方が以前のものに戻っていたが、口にはしない。

真摯な問いかけを茶化したくなかった。


「…………なんだろうね」


風に揺れる千尋の前髪と眼帯の紐を見つめながら、つぶやく。

言葉の通り、よくわからなかった。

彼女に対する態度を、ずっと保留していたような気がする。

だから正直に、最初から素直に、自分でも考えてみることにした。


「……最初は興味だったかな」


何も変わらない日常の中に突然あらわれた不思議な女の子。

眼帯のことや、学校に通っていないという謎めいた雰囲気。


「そのうち放っておけないというか……そう……心配ってことじゃなくて会いたくなって。本当になんだろうね」


以前に好きだとは思ったけれど、それが恋愛ということになると、自分でもまだ答え切れなかった。


「妹のようなものでしょうか?」
千尋のほうが年上だよ」
「…………」


なぜか答えが返ってこない。

千尋の息遣いが少し震えている。


「……妹、みたいな感じもしたかな」


だから僕は、誤魔化した1つ前の質問に答えた。


「あの……」


今までの詰問口調ではなく、弱さを滲ませる声が波音に混じって聞こえた。


「私も、お兄さんがいたら麻生さんみたいな人だろうなって……思いました……優しくて……」
「そう」
「はい」


千尋が目を伏せながらつぶやく。


「それで……私は……」
千尋


辛そうな様子に思わず声をかけてしまう。


「……はい」
「そういうときは深呼吸するといいよ」


僕は笑う。


「……ぁ、はい」


目を閉じて、胸に手を当てながら千尋が肩の力を抜いた。

 

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「すみません。少しだけ麻生さんのこと試してました」
「え?」
「これを話してもいい相手かどうか、私には感情では理解できないので。でも、わかりました。今までも、今も、麻生さんは変わっていないのですね」


何度か聞いたことのある、おかしな言い回しだった。

そこで感じたのはやはり違和感だ。

目の前にいるのは千尋なんだろうけど、本人ではなく、その家族に値踏みされているような……。


「あの、まさか、お姉さんが入れ替わってるとか言わないよね?」


かなり怖い想像を口にしてみる。

双子だと言うからには、できないこともないのではないか?


「なに言ってるんですか」
「いや、なんかさ……」
「でも……そうですね。そうやって違う人だって言われても仕方ないかと思います」


冬の夕日の中で千尋が笑う。


「私は記憶障害を抱えているんです」
「…………」


まったく前置きのない、なんでもない口調に、僕の頭がついていけなかった。

記憶障害?


「4年前に事故にあって、頭部を強く打ったからだそうです。左目もその時に。今の私は、13時間しか記憶を維持できません。忘れるということじゃなくて、時間が過ぎるとすっぽりとなくなっちゃうんです。思い出せないんじゃなくて、消えるんです。0です。つまり、昨日の私と今日の私は、そういう意味では別人です。別人というか4年前のままなんです。ずっと。これからも」
「……これからも?」


理性的に機能していない口が、おうむ返しに単語をつぐ。


「目も障害も、両方とも治らないそうです」


そこで千尋は言葉を止めた。

僕の理解を待っているのだろう。

記憶障害。


「……そうか」


思い出す。

 

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『あの、もしかして……麻生さんんでしょうか?』


一昨日の泣いていた日だけじゃない。

 

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『以前、私と会った方ですか? そうですか……ごめんなさい。会ったんですよねやっぱり……』


その前から、千尋は会ったときに僕が誰であるかを確認していた。

あれは名前を聞いているんじゃなかったんだ……。


「……僕が麻生蓮治だって、確認しないと分からなかったのか」
「はい」


千尋がいつもと変わらぬ様子で頷く。

しかし、すぐには理解が及ばなかった。

頭の中で消化しきれない。

13時間で記憶が消える?

それはどういうものなのだろう。


「本当の話?」


ようやくできた質問は、そんなつまらないものだった。


「はい」
「……そう」


自分の思考にイライラした。

回転そのものは速くなっているのに、明らかに空回っている。


「麻生さん、ゆっくりでいいです」
「なにが──」


こんなときまで穏やかな千尋の声に、初めてトゲのある返事をしてしまった。

しかし、彼女は微笑みを浮かべながら、いつもと変わらず小首を傾げていた。


「やっぱり麻生さんも驚きました。何度でもちゃんと説明します。だから、ゆっくりと私のことを知ってください」

 

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微笑みながら、ふと、千尋の身体が震えていることに気づいた。


瞳も揺れている。

ただ、気丈に振る舞っているだけで……。


「…………」


全身の力を抜いて深く息を吸い込む。

深呼吸する。

海の匂いを覚える。

冷え切った身体の中で、頭だけがふらつくほど熱かったが、心は落ち着いていた。


「……ごめん」
「大丈夫です。みなさんそういう反応をするそうなので。それと麻生さん……あ、蓮治くんでした」
「なに?」

 

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「寒いのが限界です」


彼女は赤みを失った唇でギブアップを宣言した。


…………。

 


……。

 

 

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「ここならどうかな?」


閑散とした教会の中で、千尋に確認をとる。


「はい、大丈夫です」


人の少ない、風をしのげる静かな場所として、真っ先にココが浮かんだのだ。

隙間風の吹き込む古めかしい建物だと思っていたが、屋内というだけで、こんなにもあたたかくなるんだなと感心する。


「さて……」


途切れてしまった話を元に戻そうと、僕は千尋と向き合った。

彼女も頷いて一度目を閉じる。

 

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「この記憶障害は特殊なものなので、具体的に私の生活にあわせて話したほうがいいですね。6時には帰らないといけないのですが……ゆっくり時間をかけましょう」


それはつまり、今日だけでは語りきれない話なのだろう。

気になってしまうだろうが、僕はなにも言わずに頷く。

おそらく千尋が、僕に自分のことを告げると決めた時から、ずっと考えていた手順だろうから。


「私は起床してからまず2時間ほど、自分がしなくてはならないことを書いた手帳を読むんです」


言って彼女は、いつも眺めていた手帳を僕に手渡した。


「最初のページです。なにか気になったら聞いてください」


僕は黙ったまま革張りの表紙を開く。

 

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『──昨日の私から、今日の私へ』


そんな女の子っぽい丸い文字がまず目に映った。

千尋の顔を窺ってしまう。

彼女はなにも言わずに頷いた。

僕はまた手帳に視線を落す。


『──昨日の私から、今日の私へ まず最初に、今のあなたは13時間で記憶を失います。その瞬間の記憶はないでしょうが、4年前に遭った交通事故の影響です。事故そのものはなんでもないものです。残念ながら左目も失いました。そういったことがあったという事実だけを受け止めてください。ここからが本題で、ここにあなたが生きていく上で必要なことを書いておきます。』


ここまでが前書きのようなもので、その次からの文章は箇条書きになっていた。

それは彼女が生きる上でのルールだった。


『1この手帳を毎朝必ず読み返してください この手帳は日記ですが、これがあなたにとっての記録であり記憶です。あなたの全てがここにあるはずです。読むべき部分はこの説明と、1日の行動予定表、そして今のあなたのいる日付から最低1週間分の日記を読み返してください。状況が変化して各ルールが守れない場合は、問題のないように修正をくわえてください。2:日記を必ず残してください 私の記憶はこの手帳の記録そのものです。その日の行動範囲、会話、食事、医療記録などはできる限り正確に残しておいてください。あなたの明日の私のために。 3:人との接触は極力避けてください 両親や姉、事故以前に出会っている一部の人はわかるでしょうが、今のあなたが新しく出会った人間は13時間で記憶から消えます。つまり、この障害を利用されてひどい目にあう可能性。もしくは相手に迷惑をかける可能性があるからです。もしも誰かと継続して会う必要が生じた場合は、その人の特徴や会話、その人物を特定できる情報を日記に残しておいてください。』


ざっと目を通しながら、なるほど、と思う部分が多い。


千尋は僕のことをどう覚えてたの?」


手帳から顔を上げて訊ねる。


「3時くらいに駅に来る年上の……いえ、年下で小柄な、学生服の男性だと思ってました。でも、私は曜日の感覚が薄くて。麻生さんが土日には私服になったり、午後3時よりも前に来ることを、あの頃は忘れていました」
「なるほどね」
「それと……」


彼女は照れたような──そうやって困ったような表情をうかべる。


「気づいてないかもですが、蓮治くんは年下なんですけど、お兄さんなんです」
「そういえばそれ、さっきも言ってたけどなんで?」
「4年前に私の時間は止まってますから」
「え? ……ああ、そうか」


実年齢で僕が1つ年下であっても、外見と中身が4年分食い違っている千尋から見れば、差し引きで僕のほうが3歳年上に見えるわけだ。


「そうか」


感心して繰り返す。

人と触れ合わないよう冷静に振舞う千尋に、だから僕は子供っぽさも見ていたのだ。

ジグソーパズルのピースが1つずつ組みあがっていくような感覚だった、

疑問が解消されたところで残りの項目に目を落す。


『4:食事の栄養の偏りには気をつけること 飽きるということがないので、同じ系統の食事が続かないように気をつけてください。 5:定期的、もしくは体調に異常を感じたときは必ず医者に行くこと。一時的なものであっても、後になって手遅れになる可能性もあるので気をつけてください。6:……』


残りの項目はただの諸注意だった。

生活する上での当たり前のことしか書いていなくて、前3つの項目と比べるとなんでもない。

しかし、こうやって形にしておかないと彼女は理解できないのだろう。

僕はもう一度、ゆっくりとすべての項目を読み返す。


「……ちょっとだけ待ってね」


手帳を返して口元に手を当てる。


「ゆっくりでいいですよ」


千尋が静かにつぶやいた。

落ち着いて考えてみる──消化してみる。

13時間で記憶がリセットされる状況を、最近の自分の生活に照らしてみよう。

 

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朝7時に起きた時から障害が始まったとする。

 

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学校に行き、千尋と会話をして、家に帰るのは18時前後──この時点では、まだ1日のすべてを覚えていることになる。

 

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最初に症状が現れるのは20時。

部屋でくつろいでいるか、お風呂に入っているあたりで朝の記憶が消える。

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何時に起きたとか、朝食の内容、朝の母親との会話が消えるわけだ──まだ大きな問題はない気がした。

 

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0時に就寝すると、その辺りで学校の2時間目までの授業の内容が消えている。

 

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翌日の7時に目覚める──逆算して、僕の記憶は前日の18時が一番最後のものになる。

前日の授業の内容と、千尋との会話のすべてが消えていることになった。

 

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登校して午前中の授業が終わる頃には、前日の記憶がすべて消えた……。


「……そうか」


実感はなかったが、ぼんやりと理解する。

3日前の食事の内容を忘れるとか、そんなレベルではない。

なにも残らないのだ。

もし日記などの記録が存在しなければ、僕はどうしたらいいかわからなくなるだろう。

千尋のことも覚えてない。

いや……そもそも自分がどうしてなにも覚えてないのかも、忘れてしまうのか。


「それが私です」


感情のない声が、がらんと、低く鳴る鐘のように教会内に響いた。

 

 

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「そろそろ帰りましょう」


彼女はまったくいつもと変わらずに告げる。

 

 

 

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「また明日……ゆっくりと」


そう、なにかの呪文のように繰り返した。


…………。


……。

 

 

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──また明日、ゆっくりと。


そんな昨日の今日。

僕は机に頬杖をつきながら、ただただ黒板に板書された数式をノートに移植する作業を繰り返していた。

しかし、その程度の動作にすら集中できない。

自分が書いているものと、黒板の文字が同じものなのか判断がつかないのだ。

あっているはずなのに何度も何度も確認してしまう──外出してから電気や窓の施錠、ガスの元栓が気になるのと同じような焦り。

焦り。

苛立ち、のほうが近いのか。


「はぁ」

 

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目立たないようにため息をついて、ペンを転がした。

降参だ。

千尋のことを考えないでいることは不可能なようだ。

拡散させていた意識に集合の合図をかけるため、僕はノートの余白に『記憶障害』と文字を書いた。

 

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数学のノートに『記憶障害』だ。

大雑把な解説をしてもらったが、やはり腑に落ちないものがある。

そもそも、千尋の話自体が冗談ではないのかと感じることもあるが──、

それは逃避で、もちろん、理性的には真実であることを承知していた。

しかし、いっぺんに記憶がなくなるのではなく、継続的に消え続けていくというのはわかりづらいものだ。

 

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「……あれ?」


なにかがおかしい。

 

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僕はエンジンの温まってきた頭で考える。

 

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千尋の記憶は13時間で消える──そうすると、僕と別れるのがだいたい18時だから、翌日の7時には僕のことを完全に忘れているはずだ。

 

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しかし千尋は、顔が判別つかないことはあっても、意外としっかりと僕を僕だと認識しているように思えた。

 

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たとえ日記をつけていようとも、それはいくらなんでも……。


「あれ?」


そこまで考えて、さらに疑問が増えた。

そもそも、13時間で記憶が消えていくのだとしたら、千尋は自分が記憶障害だということも忘れてしまうのではないか?

よく考えれば、4年前になにもかもが止まってしまっているはずなのに、どうやって彼女はあんなに普通でいられるのだろう。

あの手帳があってもそこまでは……。

なんだか混乱してきてしまう。

やっぱりおかしい。


「…………?」


数学の証明問題よりもクエスチョンマークが飛び回った。


……。

 

 

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「単純に考えればそうですが、やっぱり理解しづらいですよね。ちょっと待ってください」

 

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駅について早々の僕の疑問に、千尋は手帳の空いたページを開いてグラフを作り出した。

 

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「つまりこういうことです……。まず、私は蓮治くんと18時まで過ごして家に帰ります」

 

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「そうなると翌日の7時が、蓮治くんと遊んでいた記憶が消える時間ということになりますが──」

 

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下段に翌日の分のグラフがひかれ、翌日の7時にいれたチェックと、前日の18時のチェックが線で結ばれた。

うんうん、と頷く。

そこまでは僕が昨日トレースしていたものと一致している。


「でも、私は蓮治くんと遊んだという記憶や、蓮治くん自身のことを、寝る時間の……21時くらいまでは覚えていられるんです。わかりますか?」
「あ、そうか」

 

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僕の理解に千尋は微笑んで、新しく翌日の10時にチェックをいれて前日の21時と繋げた。

 

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「なるほどね」


人間は過去を反芻する機能を持っている。

たとえ千尋のそれが壊れていても、13時間以内のことであれば思い出すことができるわけだ。


「こうやって、目立った出来事であれば2日ほどなら"あった"という事実だけは覚えていられるんです」
「それで自分が記憶障害だってことは承知していられるんだ」
「はい。この障害が睡眠時間よりも短い30分とか2時間だと、本当に大変なのでしょうが……幸いにも私は13時間という長さがあるので。ただし、翌日の7時には蓮治くんと接した具体的な中身が消えるのは確かです。ただ、そういうことがあったという事実を覚えているだけです」
「あった、という事実だけ?」
「そうですね……例えば、3日前の夕食になにを食べたのか覚えていますか?」

 

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「え、ちょっと待って」


急に振られた質問に、僕はノートから顔をあげて腕を組んだ。

3日前の夕食……なんだっけ。


「ああ、牛肉のロール煮だ」
「美味しかったですか?」
「うん」


さすがに料理に限っては母親の腕が物を言う。


「そこまでは覚えていますか。それでは10日前の食事はどうでしょう?」
「10日前!?」


その数字を聞いた瞬間に、思い出すことを放棄した。

そんな僕の様子に、千尋がクスクスと微笑む。


「覚えてないですよね。それでも、10日前にもなにかを食べて空腹を満たしたはずなんです。事実だけを知っていて記憶がないというのはそういうことです。今日生きているということは、意識してなくても記憶になくても、死んでいないという事実が過去にあるんです」
「え……ああ、なるほどね」


最後に生死が引き合いにだされて驚いたが、まぁ、そうか。

覚えてなくたって呼吸をして、食事をして、寝ているはずなのだ。

例えば、かつて受けたテストに苦しんでいた時期のことも、終わって数年も経った今は、実感としてすっかり忘れている。

それが忘却だ。


「……難しいなぁ」


疑問は解消されたが、それでも難しい。

13時間という明確なリミットがあっても、記憶や思考というデリケートな要素が絡んでくるので、やはり理解の範疇を超えている感じだった。

これは確かに、ゆっくり学ぶしかないだろう。


「そうですね……難しいです」
「ああ、ごめん」
「いえ、謝るのはむしろ私のほうですから」


ふるふると、千尋が首を振る。

仕草が幼くて……それが逆に、あまりにも……。

残酷だ。


「今日はうさぎの話をしましょう」
「……うさぎ?」
「うさぎです。お嫌いですか?」
「いや、可愛いと思うけど」
「そうですか。よかった」


千尋は胸にてをあてて、にっこりと微笑んだ。

 

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「昨日の夜、蓮治くんに私の症状をどうやって説明しようかと、昔の日記を読んでいた時に見つけた話です。……ちょっと長いのですが」


僕の顔を窺う千尋に、もちろん聞くよ、と頷く。


「昔、私は……私とお姉ちゃんでうさぎを飼っていたそうなんです。学校の飼育委員会がうさぎの赤ちゃんの引き取り手を探していて、記憶を維持できなくなった私が珍しくこねた駄々に、両親も認めてくれたのだと思います。可愛かったそうです」


──そうです。


彼女は覚えていないであろうことを、なんとか自分のことのように語る。


「そしてうさぎが家に来ました。薄い灰色の毛並みで、手のひらに乗るくらい小さくて丸くて。ふわふわっとした毛玉みたいな。じっと見つめていると、つぶらな瞳で向こうも私の顔をのぞきこんで。ちょこちょこ飛び跳ねて、でも、つるつるのフローリングの廊下においたらすべって歩けなくて。すごく可愛かったのか、その頃の私はうさぎのことばかり書いていました」
千尋みたいだね」
「え?」


彼女は話に意識を向けていて聞こえなかったか。


「なんでもない。それで」


もう腰は折らないと、続きを促す。


「はい。うさぎには名前をつけました。ビット。ラビットのラを抜いただけ、まんまです」


くすくす、と千尋が笑う。

僕の口元も自然とゆるんだ。


「本当に、本当に可愛かったようです。そして夏が来ました。ビットは大きくなったけど、まだ小さくて。相変わらず廊下ですべっていて、それがまだ可笑しくて──子供の頃の、無邪気な私がそこにいました。ある日、ビットが食べ物を吐いたそうです」
「…………」


絶句する僕に、千尋がこくりと首を傾げて微笑む。

 

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「でも、私はなにもできなかった。慌てていて、動物病院とかそんなこと思いつきもしないようで。ずっと看病を……いえ、ただ見ていただけです。なにもできなくて、ただ、見ていただけ。毎日毎日、日記に苦しそうだとか、身体を震わせているとか、そんなどうでもいいことばかり書き記していて……馬鹿な子供。それは残酷な観察日記です。それはもう、死にいくモノを観察しているだけの死の記録です。そして…………そして……」


千尋が初めて言葉につまった。

苦しそうにあえぎながら、それでも語ろうとする。

結末なんて聞かなくてもわかったけれど……でも、止められない。

彼女は聞いてほしいのだ。


「ある日──ビットが死んだそうです」


泣くかと思っていたけれど、千尋は泣かなかった。


「朝起きると全身を伸ばして冷たく……かちかちに固まっていて。伸びてしまった手足をたたんでやることもできず。泣いたそうです。私もお姉ちゃんも泣き続けて。タオルにくるんで、庭に埋めて、木の棒に名前を書いてお墓にしました。ごめんなさいと謝りました。……そして……日が経って……私は……私はビットのことを忘れていました。姉が悲しんでいるさなか、それがなんでかもわからず。庭の片隅の棒切れを見ても、ああ、そういうことがあったのだとしか思えず。ビットと名づけたうさぎとの生活は楽しかったはずです。楽しかったはずなんです……。そんなことも……覚えて……ない……」
「……それは千尋のせいじゃないよ」


かろうじて声を出せた。

千尋がぼんやりと僕を見る。


「違うんです、麻生さん」
「違う?」


呼び方が戻っていたが、そんなことはもうどうでもよかった。

また千尋が笑みを浮かべている。


「悲しくなんてないんです。わからないんです。全然わからないんです。うさぎが死んでしまったことが悲しいのではなく……日記を読み返しても悲しくなくて……わからないんです……」
「……ああ」


そうだ。

千尋は昔話をしていたのではない。

最初に言ったではないか。

僕に自分の記憶障害の説明をする、と。

彼女は、そんなうさぎのことを、まったく覚えていなかったのだ。


「私はそんな人間なんです。ただ身体が大きくなっただけで、その頃となにも変わっていないんです」
「………‥」
「これが、うさぎの話でした」


まるで絵本を閉じるように千尋がつぶやく。

やさしく。


「ごめんなさい……でも、わかりやすいと思ったんです」
「……うん」


反応しなければという、ただそれだけの反射で頷く。

区切れをつけるための呼吸。

しばし、駅を沈黙が襲う。

寒い。


「そんな風に、最初の頃は大変だったみたいですけど、今は落ち着いた生活をしていますよ」


千尋がいつもの雰囲気に戻って口を開いた。


「学校も行ってないですし、友達と呼べる人もいなくなって……本当になにもしてません。毎日が夏休みみたいな感じです。誰にも会わず、なにもせず。この駅でぼんやりしていれば覚えておくことなんてない。全部手放してしまえばとても楽なんです。あ、蓮治くんは別ですが」
「…………」


僕はなにも言えなかった。

なにか……言う必要があるかどうかもわからない。

知れば知るほど、とても笑っていられる状況だとは思えないのに、どうして彼女は笑えるのだろう。

それは、僕なんかとは比べ物にならないほど起伏のない生活だろう。

本当に"なにもない"のだ。

しかも彼女は、それを望んで手に入れて──


「あ」
「え?」
「……いや、なんでもない」


口に手を当てて呻いてしまう。

まずい。

嫌な汗を覚える。

今、考えてはいけないことを考えてしまった。

そんな状態で生きていることに意味があるのか……と。

彼女自身を嫌ったとかそういうことではなく、本当に、ただ思わず考えてしまったことなのだ。


「生きてる価値がないですよね」
「…………」


のろのろと顔を上げる。

考えを読まれたことよりも、彼女の声に胸を打たれた。

彼女はそれでも笑っていた。


「いいんです。私もよく考えていることなので」


よく──それは彼女にとっては13時間おきではないのか。


「私にはなにもないので。だから、できるだけ人に迷惑をかけないように生きることが目標なんです。でも、それも難しいです。生きてるだけで誰かに迷惑をかけます。そして、薄情にも、そんな迷惑をかけたことすらも忘れてしまうんですよね」


千尋が照れたように笑う。

その自然な仕草にぞっ、とした。

なんで笑えるかとかじゃなくて、それはもう、自然過ぎてなにかが狂っているとしか思えなかった。

彼女は笑ってるんじゃなくて。

それは、そういう顔なのだ。


「あ、すみません。最後のは……あの……ただの愚痴なので忘れてください」


忘れたくても僕には忘れられない。


「あのさ」


どうにも止められず、僕は1つだけ質問をすることにした。


「それじゃあ、千尋はいったいなにをしてるの?」


いったい僕に会うことになんの意味があるのか。

この疑問だけは彼女に訊くしかなかった。


「…………これから私、冗談を言いますね」


千尋が表情を消した。

その宣言は本当のことを言うという証でしかないだろうに。

それでも断らずにはいられないのか。

不器用な子供……。


「…………」


僕は、僕の想像を絶する世界からの言葉を待った。

彼女はきれいな空を見上げて、うん、と一度頷く。


「毎日毎日、どうやったら誰にも迷惑をかけずに消えてなくなれるかを考えています」
「…………」
「でも、思いとどまってしまいます。自分が消えることは怖くないんです。怖いなんて感情も消えるだけ。ただ、私が本当に怖いのは、自分の記憶が消えることではなく、みんなの記憶から忘れられることなんです」
「…………」
「そうか……意外と臆病なんですね、私って」


彼女は自分のことを、まるで他人事のようにつぶやいた。


……。

 

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『でも、やっぱり忘れられるのは怖いよね』


女の子の声がした。


そこは果てのない閉鎖した世界。


草原や雑木林を貫いて線路が走っているが……それはもう廃線となっていて、朽ちた枕木が並んでいるに過ぎない。


空が、高すぎる。


『臆病じゃなくても、やっぱりそれは、すごくすごく怖いことだよね。だってそれは完全な無意味だから。意味がないんじゃなくて、意味そのものがないんだから。孤独ですらないんだから』


そうだね、と僕は答えるが女の子の顔を見ることはなかった。


またここに来てしまった。


久しく訪れていなかった場所なのに。


千尋の言葉から想起してしまったのだろう。


『わたしのこと、覚えてる?』

「うん」

 

目を背けたままつぶやく。


その傷は今でも残っている。


『よかった』

 

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女の子の嬉しそうな声。


彼女が無邪気に、朽ちた枕木を飛び跳ねる音がする。


乾いた音。


カラン、コロン……。


木琴のような。


赤ん坊をあやすガラガラのような。


乾ききった朽木(くちき)の音。


『あそぼ』

「うん」


頷くけれど動けない。


怖かった。


こんなにも穏やかでなにもない世界なのに。


これは夢なのに。


だから……。


僕は彼女の顔を覚えているかどうか……怖くて顔を上げることができない……。

 

女の子が飛び跳ねるのを止めたのか、音が消えた。


近づいてくる。

 

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僕を覗き込む。

 

とても小さい女の子なのに、それに見下される。


『わたしね、蓮治くんのこと好きだよ』

「大丈夫だよ。僕は    を忘れてないから……」

 

僕は    の騎士だから。

 


ずっとずっと。


子供のままでいるから。

 

そうやって……嘘をついて……。

 

 

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僕は線路を辿って帰ろうと思った……。


あの駅へと帰ろうと。


…………。

 


……。

 

 

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時計が鳴るよりも早く目が覚めた。

睡眠と起床の境界がない。

ただ一度の、まばたきのように。


「…………」


僕は上半身を布団から起こすと、手の平を見つめながら、まず自分が昨日のことを覚えているか考えた。

覚えている。

記憶はすべてそのまま脳の中にあった。


「……はぁ」

 

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あれは夢だったのだろうか。

そんなことはないだろう。

夢は別に見たから。

それも覚えている。

本当に久しぶりに彼女の夢を見た。


「……夢、ね」


僕は夢のことは忘れて、現実のことを考えた。

いなくなってしまった    のことではなく、千尋のことを考えた。

記憶が維持できない人間がいるわけない。

そんなものがあるという実感が湧かない。

途切れなく、自分がどう消えようかなんて、そんなことを本気で考えてる人間なんているわけがない……。


「……そんなのまるで小説じゃないか」


たった2、3日前までは、そんな絵空事めいた出来事を望んでいたはずなのに。

冗談みたいだ。


……。

 

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いつもより早く家を出た。

通学路にいる生徒の数も少ない。

夏に寝つけず、早朝の空気を楽しむのならいいが、冬の朝は厳しいだけだ。

部活や委員会の用事でもない限りは、こんな時間に望んで登校する生徒もいるまい。

僕以外に。

 

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授業。

勉強がはかどった。

教師の言葉を逐一漏らさないように耳を傾け、数式や英単語や暗記するべき事項を頭に叩きこんでいく。

得意な教科は授業よりも先行して新しい発見をし、不得意だった教科は以前のページに戻って復習した。

なぜか学校にいられることが嬉しかった。

山積みにした書類にただ判子を押していくように。

余計なことを考えたくなかった。

 

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昼休みも終わり、その日の最後の授業がはじまる。

午後に入ると憂鬱になった。

なぜか、千尋と会うことが躊躇われた。

どんな顔をして、どんな会話をすればいいのかわからなかった。

 

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「……ふぅ」


いつもなら早足で通り抜ける通学路を、とぼとぼと歩く。

帰り支度も緩慢にこなしていたせいか、普段なら駅につく時間になっていた。

どうしよう……。

このまま駅に行って、また千尋の説明を聞けばいいのだろうか?

13時間で記憶が消えるなんて珍しい話に、興味がないわけなかった。

千尋だって可愛い。

この作り物の街も美しく異質だ。

当たり前をくつがえす──まるで小説のような要素がすべて整っている。

それなのに、役者である僕が、なんだかわからないモヤモヤを身の内に抱えこんでいた。


「今日はいいか……」


ここ数日、ずっと駅にばかり通いつめていたし。

たまには家でゆっくりしながら、状況を整理するのも悪くないだろう。

ベッドに寝転んで、適当なお菓子を見繕って本を読もう……。

僕は数日前までは当たり前だった帰宅の道をたどることにした。


……。

 

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「そうなんだ~」


家に帰ると、母が楽しそうに電話をしていた。

日が暮れる前に帰宅したのは久しぶりだなと、そんなことに驚く。


「あ」


居間の入り口に突っ立っていた僕に、母が気づいた。

電話中なので、手だけを振って帰ってきたことをアピールする。


「ちょっと待ってて……蓮治、蓮治♪」


僕の気配りを知らず、自分の子供を、子供よりも幼い口調で呼ぶ母親とはこれいかに。


「なに?」
「うふふふふ。電話出てみ。子機のほうでいいから」


手を上下に振る仕草はしっかりとおばさんくさかったが……そう口にすると泣くのでよそう。

ああいう笑い方の時はロクなことがないような、と思いつつ子機を手にする。


「誰?」
「出ればわかるわ……うん、そう、蓮治が帰ってきたから代わるね」
「ふむ」


久しぶりに父親からかなと、母が保留する合図を待って子機の通話ボタンを押した。

 

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「もしもし?」
『…………』
「……あれ? Hello?」


言葉が通じなかったのかと英語で問いかける。

 

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『あはははは、はろ~♪』


「…………」
「あれ、蓮治ぃ? もしもしもしもし? あれ、お~い」


限りなく『わははは』に近い笑い声に、僕は受話器を耳から離して母親を半眼で見据えた。

こんちくしょう。


「ミズキちゃん」
「……切ってもいいかな?」
「挨拶くらいしてあげなさいよ」


僕があいつのことを苦手と知りつつも、母はしょうがないじゃん、と肩をすくめた。

今朝、あの夢を見たばかりだというのに……。

ため息をついてから受話器を耳に戻した。


『ちょっと、なんとか言いなさいよ! この、子供の頃のあだ名が電子レン──!』
「げ」
『……なにそれ?』
「いや、僕の心境」


相変わらず想像しいやつめ、とも思っている。


『失礼しちゃうな~。で、どうそっちは?』
「寒いよ」
『あはははは、寒いんだ~』


なにが楽しいのか、電話越しのはた迷惑製造機のテンションは高かった。


「……えーと、とりあえず僕になにか言いたいことがあるの?」
『むぅ。可愛い従妹からの久しぶりのラヴ・コールなんだから、もっと嬉しそうにしようよ~♪』
「誠意努力するから、もうちょっと従兄を敬ってくれ」
『1コしか違わないじゃん?』
「1歳違うわけさね」


まったく昔から変わらぬ様子に、通話口から手で押さえて再びため息をつく。

うちの母親の姉──つまり伯母さんの子供となるミズキだが、あの物静かな人の子が、どうしてこんななのだろう。

こちらの母親に目をやると、彼女は悪戯が成功したことを大いに笑っていた。

……もしかして僕とミズキは、それぞれ育ててもらうべき母親を間違えたのではないか?


『あ、電話代かかるし冗談ともかくね』
「冗談はおまえの存在だけに──」
『もしかしたら今度そっちに行くから、その時は宜しく』

 

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「え、うちに来るの? ミズキが?」
『うん。受験が推薦で通ったらだけどね。そしたら冬休みは勉強しなくていいから』
「おまえの成績ってどのくらいだっけ?」
『優秀な先輩方に勉強見てもらってるし、元からけっこう良いよ』


言い切りやがった……。


「……そうか」


顔も知らぬミズキの教師たちに、人格面で推薦は無しにしてくれと願ってしまう。


『とりあえずそんな感じで』
「わかったよ」


せかせかした様子は、本当に電話代を気にしているらしい。


『えーと、それだけが用事だったんだけど、蓮治のほうでなにかある?』
「こっちか? まぁ、あると言えばあるけどミズキは関係ないしな……」
『なんのこと?』
「だからこっちの話。ミズキは悩みがなさそうでいいなぁ」

 

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『あ、失礼しちゃいますね。わたしだって悩みはいっぱいあるもん。ぷんぷん』
「へぇ……」


この電話は、いったいいつ切れるのだろうかと考えながらつぶやく。


『なにせ愛しの景先輩に変な虫が──』
「待て」
『え、なによ?』
「ちょっと待て、話が長くなるかも知れないからこっちからかけ直す」
『え?』


ミズキが返答する前に通話を切った。

 

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「どうしたの?」

会話の端々を聞いていた母が、不思議そうにつぶやく。


「……ちょっとね」


僕はミズキの家の電話番号を親機の横のメモで確認すると、その番号を子機に打ち込みながら部屋に向かった。


……。

 

『もしもし、羽山ですが』


待機音もほとんどなくミズキの家に繋がる。

 

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「気持ち悪いぞ」
『仕方ないじゃない。蓮治じゃなかったらどうするのよ!』
「それはいいから、景先輩だよ」
『景先輩がどうしたの?』
「どこかで聞いたと思ったらミズキだったんだな」

 

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鞄を机に放り投げて、ベッドに腰をおろす。

千尋の姉の名前を聞いた時、なにか引っかかりを覚えたが……これだったか。

いつもいつも、なにかにつけては「景先輩が」とミズキが口にしていて、見知らぬ人間なのに名前を覚えてしまっていたのだ。

 

『なんの話?』
「えーとさ、その景先輩って人の妹のこと知ってるか?」
『ああ……うん、ちょっとは』
「双子で千尋って名前であってる?」
『あれぇ、どうして蓮治が知ってるの?』


やっぱりあってるようだ。


「ちょっと僕のほうがその千尋と会ってさ」
『ああ、へぇ、ほぅ。びっくりぎょうてん。わたしもそんなにお話したことないのに……可愛いっしょ?』
「かわ──そんなことは良くて」


無駄話から離れようとかぶりを振り、なにを聞くべきか考える。


「彼女の家庭環境ってどうなってるか知ってるか?」
『……なんでそんなこと聞くの』


不信感を漂わせる声に、聞き方が悪かったなと苦笑する。


「悪い噂を聞かせろって言ってるんじゃないんだ。千尋のこと中心でいいから」
『う~ん……』
「病気のことも知ってる」
『あれ? そうなんだ。そっか……』


声のトーンが落ちる。

騒がしくて苦手だけど、思いやりの強いミズキにこういう話をさせるのは申し訳なかった。

だが、僕は先を促すためにわざとなにも言わなかった。


『わたしもあんまりツッこんで聞いてないけど、記憶が、なんか変なんでしょ?』
「うん」


『それでちょっと前まで学校にも行かないで家にいたんだけど、やっぱり色々と大変だったらしくてね。なんていうのかな……景先輩もちょうど時期が悪くて、誰も悪くないのにみんながギクシャクしちゃって。知り合いの人が相談にのってくれて、その人がしばらく千尋さんを預かることになったんだって』
「知り合い……」


……火村さんだ。

確証はなかったが、そう思った。

そこで今のこの状況に繋がるのか。


『う~ん、千尋さんのことはあんまり詳しくないなぁ……景先輩のことだったら何時間でも──』
「ありがとうミズキ。助かった」
『なにがなんなの?』
「色々と。じゃあ、推薦受かるように大人しくしてろよ」


返事を待たずに子機の通話を切った。


「…………」


ベッドに座ったまま頬杖をつく。

苦手な従妹からの電話だったが、なんとなく、その何気ない平凡さに心が落ち着いた。


「……今度あったらソフトクリームでも奢ってやるからさ」


ベッドの上で恨めしげに僕を見上げる子機につぶやく。

さて。

考えよう。

整理しよう。

きれいにしよう。

まず前提からだ──。

僕は千尋のことが嫌いになったのか?


「それはない」


即答できた。

では、どうして会いに行けないのだろう?

なにを焦っているのかを考える。

先走りそうになる思考を落ち着かせて、ゆっくりと。

ゆっくりと……。

そう……千尋がつぶやいていた『ゆっくり』という言葉も、僕ではなく自分に言い聞かせていたのだろう。

悩むのではなく、考えてみる。


「…………」


僕の焦りはつまり──彼女が嫌いなんじゃなくて、彼女になにをしてやればいいのかわからない自分に苛立っているのだろう。

どう接すればいいのかわからなくなって……。


「ああ……そうか」


千尋の家で起きたというギクシャクも、そういう類のものだったのだろう。

嫌いじゃない……むしろ好きだからこそ、なにもできないことが辛い。

そして、周りが辛いと千尋も辛くなってしまう。

そういう悪循環。

では、その連鎖はどこで断ち切ればいいのだろう?

鎖は一番弱い部分で切れる──ウィーケスト・リンクという概念を学んだことがある。


「……それはどこだろう」


──千尋の記憶障害が治ればいい?


確かに治ってくれるのが最善だ。

でも、それは違う。

そういう、意志でどうにもならない期待が彼女を苦しめたのだろう。


──人との関係そのものを断ち切ればいい?


彼女自身が人との接触を律すること、と明言していた。

誰とも付き合わず、なにもしない……それは記憶なんて必要のない穏やかな世界だろう。

でも、それも違う。

千尋はそれでも僕と会話することを望んだのだ。

彼女は僕より年上だけれども、まだ子供でもある。

ひとりを望んでいるが、喜んでいるわけではない。

それは、理解できなくても感じることができた。


「落ち着け……ゆっくりとだ」


焦りだしそうな自分に言い聞かせる。

緊張している。

手を握ったり開いたりしながら深呼吸する。

僕が彼女にしてやれること。

騎士がお姫様を守るためにできること。

僕にできること……。

なにか……彼女が喜ぶこと……。


……。

 

気がつくと、窓から赤い光が差し込んでいた。

 

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「……ふぅ」


顔を両手でぬぐって息をつく。

彼女が喜ぶことを考えたが、難しかった。

形の残らないものは13時間で消えてしまうし、プレゼントといっても適当な物が浮かばない。

そういったことは、彼女の親族が試したことでもあるのだろう。


「コーヒーでも淹れて一休みするか」

 

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そうやって、僕的な一休みの元になる本棚に視線を向けて……なにかがひっかかった。


「…………小説」


それはどこかで。

昨日?

違う、もうちょっと前だ。

火村さんとの進路相談は前過ぎる。


「……なんだろう?」


本棚に寄って背表紙を眺めながら、つぶやく。

本は好きだって言って──


「──そうか」


思い出した。

僕は彼女の望んでいることを聞いていた。

なんでもない場繋ぎの会話の中で、確かに聞いていたのだ。

 

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『麻生さんみたいに小説家になりたいんじゃなくて。物語が書きたいです。……なにか1つでも今の自分で作り上げたいんです』


それが叶わぬ夢のように微笑む少女を思い出す。

これだ。

起点。

悪循環を断ち切るには、千尋を幸せにしてあげればいい。

できるかどうかわからないけれど。

やるかやらないかとは別の問題だった。


……。

 

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そんな風に僕は立ち直ったわけだが、世の中にはちょっとした法則がある。

人間は良いことを思いつくと浮かれる。

そして、だいたいにおいて良い考えというのは、"自分にとって都合の良い考え"である場合が多いのだ。

それは未来の僕の経験則。


……。