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「素直じゃないって自覚はしてるんだよな」
翌朝、昼よりはかなり早めに──ミズキちゃんが洗濯をしているという時間に合わせて家を出た。
外気に触れた途端、頭がふらついて、思わず壁に手をついてしまった。
「……予想通りではあるんだけどね」
壁に背を預けて、ふぅ、と息をつく。
徹夜にこの暑さは堪える。
ここ3日間、普段なら寝ているはずの──日差しの強い時間帯に外をうろついているツケがたまっていた。
コンディションは最悪に近い。
まるで吸血鬼のようだと自嘲してしまう。
体調が悪いと、ミズキちゃんの誘いを断ってもよかったのだが……。
「……すみれさんの洗濯物が俺を待っているからな」
軽口を叩いて口元を歪めた。
そうでも言っていないと、意識が根こそぎ飛んでしまいそうだった。
「まったく、自分の体調にすら素直になれないとは滑稽だな」
でも、どうせ使い道のない時間だ。
無理をするくらいがちょうど良い。
俺は30秒かけてリズムを整えると、蓮治の家の戸を叩いた。
……。
「わたしの家じゃないですけど、ようこそ~♪」
「……おはよう」
俺とは正反対に、元気が余り過ぎて耳からだだ漏れていそうな子に、そっと手のひらを向ける。
それは挨拶であって、決して、頼むからもうちょっと静かにしてくれという意味ではない。
そういうことにしておく。
「洗濯ってもう終わっちゃった?」
「これからですよ」
ミズキちゃんが胸を張ったところで、ひょこりと別の人間が居間に顔をだした。
「ああ、誰かと思ったら久瀬さんか。こんにちは」
「あれ、なんで蓮治がいるの?」
「なんでって、今日は土曜日ですよ。千尋みたいなこと言わないで下さい」
「そっか……って、蓮治がいるなら土日は俺がいる必要ないじゃん」
「それはねぇ、蓮治がダメダメなんだよねぇ」
ミズキちゃんが可笑しそうに言う。
「僕はそろそろ期末テストなんです。やばいんです。洒落になりません」
蓮治は眠そうに目をこする。
そして時計を見て、電源の入っていないテレビを見て、なにもせずに再びため息をついた。
「蓮治も徹夜なんだ」
「……久瀬さん家庭教師できます?」
「ミズキちゃんのほうが先約だからね。それに普通の学校の勉強なんて、ほとんど覚えてないよ」
「そっか……自分でやるしかないか」
「そうそう」
「おまえは他人事だと思って」
「わたしも半年前に必死でしたもんね~」
蓮治に睨みつけられたミズキちゃんだが、彼女はべー、と舌をだして俺の背中に隠れてしまう。
従兄妹って仲がいいなぁ。
「それより、こっちは洗濯するんだから、蓮治も洗濯物だしなさいよ」
「僕のは自分で洗うからいいって」
「どうせなんだから出しなさい!」
「いいって言ってるだろうが。あぁ……とりあえず、ゆっくりしていってください久瀬さん」
「うん」
俺の返答に頷いて、蓮治はよろめきながら自室へと戻っていった。
「まったく。今さら恥ずかしがることないのに。ぷんぷん」
ミズキちゃんが俺の背中から出てきて頬をふくらませる。
「微妙なお年頃なんだよ」
「微妙なお年頃?」
「むっつりとも言う」
「それ冗談ですか?」
「うん」
「……なにかありましたか久瀬さん?」
「え? いや、ちょっと眠くて頭が回ってないだけ」
あくびをかみ殺して肩を叩く。
正確に言えば、ストッパーの機能が緩んでいるのだろう。
「それじゃあ洗濯かな」
「色落ちするものを選別して、洗濯機のスイッチを入れるだけですけどね」
そこは楽しくないとでも言うように、ミズキちゃんが気のないつぶやきをもらした。
……。
言葉の通り、本当にすることがなかった。
いまや全自動の時代。
ミズキちゃんが洗濯機のスタートボタンを押してきた後は、時間つぶしにコーヒーを飲んでいるだけだった。
自宅よりも落ち着いてしまう麻生家の居間だ。
広い室内には自然の涼が広がっている。
すみれさんがクーラーはギリギリまでは使わない主義とか言っていたか。
かすかに汗が滲むくらいの熱と湿気が籠っているが、それが逆に、吹き込む風によって心地よい感触を生む。
確かに、ここは、閉鎖している俺の部屋とは違うのだろう。
住人の意識を現出させるように、どこまでも開放されているのだ。
そういう意味では建築という観点はなかなか面白いものだった。
「まったり」
幸せそうなつぶやき。
目線をあげた俺に、彼女はにっこりと微笑みを返してくれた。
「夏の午前中は涼しくて気持ちいいですね」
俺はぼんやりとしていて返事をしなかった。
思考が色々な方向に飛んでいる。
「……本当に眠そうですね」
「かなり。ミズキちゃんは何時に起きてるの」
「6時ですけど」
「……悪夢だ」
頭の痛くなりそうな宣言に呻いてしまう。
「なにそれ、ラジオ体操でもやってるの?」
「わたし、バスケ部なんですよ。だから普段から朝練とかあって、そのくらいの時間は平気へっちゃらっす。それに、朝は空気も澄んでいて気持ち良いですよ♪」
「……俺はクーラーの効いた部屋で寝てるほうがいいや」
体育会系のノリに、文系はついていけないようだ。
これだけは笑われたって構わない。
「そういえば久瀬さんは、どうしてヴァイオリンを弾いているんですか?」
ミズキちゃんが上目遣いになって唇に指をあてる。
また"お話"が始まったようだ。
「仕事だけど」
「そうじゃなくて始めた理由ですよ。ほら、音楽家とか画家の人とか、どうしてその道を目指したのかなって気になるじゃないですか」
「そこに山があったから」
「それは登山家です」
「ミズキちゃんはなにか楽器を習ったことある?」
唐突に質問してみた。
「えと……家にピアノがあったので、ちょっとだけ試したことはありますけど」
「なんで止めたの」
「男の子がサッカーや野球の選手にならないのと一緒だと思います」
「ああ、なるほどね」
答えが面白くて笑いそうになってしまった。
「……そうそう、今日からはレベル2だった」
「え?」
「なんでもない」
俺はかぶりを振って目を細めた。
なぜ音楽を始めたか、ってのは仕事でもよくインタビューされる内容だ。
「俺がヴァイオリンを弾く……と言うか音楽に興味を持ったきっかけはね、ヨハン・メルツェンの娘と出会ったからなんだ」
「ヨハン・メル……ツ……? なんか肩こりに効きそうな名前ですね」
「ヨハン・メルツェル。ドイツ人だよ」
舌足らずな彼女から目線を逸らして、しばし過去のことを思い出す。
「出会いは子供のころの音楽の授業だった。音楽室の目立たない場所に、彼女はひっそりと立っていてね。でも、一瞬にして心を奪われたんだ。彼女はスレンダーな外見に相応しく、性格も地味でくそ真面目で──しかし機能的で誰に対しても平等だった。初恋だった」
「…………」
ミズキちゃんの様子を窺うと、彼女は頬を赤くして目線を逸らした。
ウブい反応に俺は唇の端を持ち上げる。
「それからは音楽室に通いつめだ。彼女はいつも孤高な雰囲気を漂わせながら、俺をやさしく迎えてくれたよ。色々なことを教わった……秩序や正義、時に世の厳しさとか。やがて彼女が1815年生まれだということも知った」
「はい?」
ミズキちゃんが予想通りに呆けた表情を浮かべた。
「1815年って何歳ですか!? 音楽の先生とかじゃなかったんですか?」
「俺にとっては今でも先生だよ。彼女の名前は"メトロノーム"って言うんだ」
チッチッチッ、と指を振る。
「俺の部屋にもあるけど、音楽室でも見たことあるでしょ。三角形で針に錘(はかり)をつけてテンポを計ってるやつ」
「ああ……。ああ、もう!」
「怒ってる?」
「怒ってほしいですか?」
「ソフトクリームのバニラとチョコのミックスで手を打つのはどうかな?」
「…………。わたしはそんなに安い女ではないのですが、ちょっと大人げなかったですね」
「本当に大人げないね」
「なにか言いましたか、久瀬修一さん?」
「……なんでもない」
紐なしバンジーとかしたくないし。
そこで「ピー」と家の奥からブザーの音がした。
「洗濯機が止まりましたね」
「このタイミングの良さは俺の人徳だな」
「単にタイマーです」
「ミズキちゃんは、ちょいと不思議なくらいのほうが可愛いね」
「ぅえ?」
「それじゃあ干しに行きますか」
これ以上、音楽の話は続けたくはなかったので、立ち上がる。
急に視界が傾いた。
「…………!?」
背筋がぞっとする。
その視界のひしゃげ方に、あの震災の瞬間を思い出したからだ。
しかし違った。
自分の膝が崩れかけていた。
体勢を立て直そうとしたが、足に力が入っているかどうかもわからない。
貧血なのか、めまいを起こしていることに気づいた。
「久瀬さん!?」
ミズキちゃんが叫んだ。
遠くからの声のように聞こえた。
彼女には似つかわしくない声だ。
せっかく、きれいなんだから、そんな濁った音を立ててはいけない。
でも、心配させてるのは俺だ。
「大丈夫」と口にしようとしたところで、鈍い音とともに頬が冷たい床に触れた。
世界が暗転した。
…………。
……。
次に目を覚ましたときも、まだ暗闇の中にいた。
しかし、足はきちんと地についている。
手に心地よい質感を覚える。
あるべき場所に、あるべきものがある安心感。
物体や信念の重さが、浮ついた人間の足を地につける役割を果たしていることを思い知る。
手にしているのはヴァイオリン──。
そして、気がつけばそこはステージの上だった。
暗いのは客席で、自分のいる場所は光に照らされて眩しい。
ただ白い舞台。
ステージの上には演奏直前の緊張感が漂っている。
心臓が心地よいリズムを奏でている。
俺は細く長く息をつく。
大丈夫。
これが正しい現実だ。
俺が久瀬修一であるという現実以外に、必要なものは1つもない。
そんな様子を、観客席から眺めている。
白い舞台の上で薄く笑っている"俺"を黒い客席から冷ややかに見つめている。
これが夢だと、夢の中で冷めている自分が滑稽でならない。
指揮者が舞台袖から現れた。
拍手。
衣擦れや椅子がかすかに軋む音。
楽器を構える音。
神に祈るささやき。
しわぶき──混迷であり整然とした音がする。
そして沈黙。
指揮棒が持ち上がる。
奏者と観客全てが、限界だと思われていた緊張感のレベルを、さらに1つ上げる。
この瞬間のために生きている──そう舞台上の"俺"は思っている。
あれは俺だからわかる。
ゆらりと右手を持ち上げた。
親指を立て、人差し指を伸ばして、拳銃の形を模して舞台の"俺"を狙う。
指揮棒が神の鉄槌のように振り下ろされる。
俺は引き金をひく。
ヴァイオリニストがひとり、胸を押さえて倒れた。
ひどい雑音を奏でながら。
「…………」
そこで再び目が覚めた。
しかし、まぶたを開けるよりも先に、左手を開閉させてヴァイオリンの有無を確かめる。
なかった。
安堵と落胆を同時に感じる──その2つの想いは矛盾しないらしい。
結果と過程の優先度だ。
過程のために死ねる生命。
人間が高等と言われる由縁。
許容の思考。
床に仰向けに寝ているらしく、背中に触れるフローリングが冷たくて気持ちよい。
しかし、後頭部にだけは、なにか柔らかい感触を覚えた。
あたたかくていい匂いもする。
ゆっくりと目を開いた。
「…………」
女ん子の顔が間近にあった。
10秒ほどの間、彼女はなにも言わずに俺を見下ろしていた。
きれいな目だ。
薄っすらと潤んでいる。
ようやく、膝枕をされていることに気付いた。
「大丈夫?」
「……天使が笑ってくれれば」
「大丈夫そうですね」
くすくすと──そこで、女の子がミズキちゃんだと気付いた。
起き上がろうとした俺に、彼女は小さく首を振って、そのままでいるようにと手をかざした。
世界が粘着のある水中のように、ゆっくり動いていた。
「まだ起きないほうがいいですよ」
「死ぬほど眠かっただけなんだ……」
「ですよね。最初は病気かと思って慌てましたけど、なんだか気持ち良さそうだったので」
「…………」
穏やかな涼風が彼女の髪も揺らす。
お互いに視線を逸らさずに見つめ合っている。
音が、遠い。
甘い匂いがする。
夏の女の子の匂いだ。
もうしばらく、このままでいようかなと思ってしまう。
無様にも。
「……これも夢かな?」
俺の言葉に、ミズキちゃんは顔をほころばせた。
「ええ、そうよ」
彼女は俺の頬に手をあてた。
ひんやりと冷たい。
俺は笑おうとした。
でも、上手くいかない。
だから代わりに彼女が笑う。
「子供みたい」
「……3日くらい、まともに寝てなかったから」
「え?」
「寝るのが怖いんだ」
なんでそんなことを口にしてしまったのか。
夢だからか。
「ひとりで寝ると、いつも繰り返し、嫌な夢を見るんだ……」
「…………」
「今はひとりじゃないよ」
やさしい声。
そうかも知れない。
「おやすみなさい」
そっ、と彼女の手が目を覆う。
俺は暗闇の中で再びまぶたを閉じた。
おやすみなさい。
…………。
……。
午後になっても久瀬さんは起きなかった。
ソファの上で、のんびりとお昼寝中。
洗濯も済んじゃったし、昼食も済んでしまった。
蓮治も千尋先輩に会いに出かけてしまったから、ちょっと、やることがない。
「うん」
でも、こういう雰囲気も気持ちがいい。
日曜の午後よりも、もっともっと、夏休みの午後はゆっくりと過ぎていくから。
のんびりのんびり。
わたしは顔を洗いに洗面所へ行った後、久瀬さんの顔を覗き込んだ。
普段はお茶らけながら、隙を見せない感じなのに。
無防備で柔らかそうなほっぺた。
こんな間近に、誰かの寝顔を見たことはなかった。
「ちょっと新婚さん、みたいな雰囲気かも♪」
にっこり笑って、窓の外を眺める。
涼しい風が街路樹を揺らしていた。
いい天気。
「わたしもお昼寝、しよっかな」
夏休みにお昼寝──それはとてもいいアイデアだと思った。
わたしは蓮治の部屋に行き、タオルケットと久瀬さんの演奏が収録されているCDを持って居間に戻った。
もう一度久瀬さんの顔を覗き込む。
言ったら怒られそうだけど、実は久瀬さんのCDって1枚も聴いたことがない。
そもそも、クラシックなんて大晦日にテレビでやってる『第九』くらいしか知らないのだが、それすらも最後まで聴いたことはなかった。
音楽の授業でも眠くなるし──だから、あえて聴いてみようかと思った。
「えーと、これはなんのCDだろう。…………よ、読めねぇ」
だから嫌いだクラシック。
「ま、いいや」
床にぺたりと座り込む。
ポータブルCDのイヤホンを耳にはめて、わたしは再生ボタンを押した。
…………。
……。
どこまでが夢で。
どこまでが現(うつつ)だったのか。
全部夢だったかも知れないし、全部現実に起こったことかも知れない。
「…………」
ソファの上で目を覚ました。
お腹のところにタオルケットがかけてある。
身を起こした俺は、右手を天井に突き上げながら背伸びをした。
「……ふぁぅ」
猫背に座って、だらりと膝に手をおく。
かすかに頭が痛むのと、ひどく喉が渇いていた。
勝手に冷蔵庫を開けていいものかどうか……汗もかいているようだし、どうせだから家に一度戻るか。
そんなことを考えていると足音が聞こえてきた。
ぱたん……ぎぃ……ぱたん……。
「…………は?」
まるで幽霊屋敷で聞こえてきそうな、ゆるくて重いテンポの足音だった。
誰だ?
「……はぁ」
「ミズキちゃん?」
俺は部屋に入ってきた人物を見て呆気にとられてしまった。
彼女は真っ白に燃え尽きてしまったボクサーか、千尋ちゃんのような様子で、首を傾げてこちらに目をやる。
「……あ、久瀬さん起きたんだ」
「今、何時?」
「5時過ぎじゃないですかね」
「もうそんな時間?」
はっきりと意識が覚醒した。
陽が高いので気づかなかったが、確かに時計は17時を指そうとしていた。
「うわ、午前中からずっと寝てたのか俺」
「はい、しこたまです。夜に寝れなくなりますね」
「……あ~」
口元を押さえて、しまったなと胸中でつぶやく。
油断していた。
いや、緊張感を上げていたからこそ、身体のほうが追いつかないラインまでいってしまったのだろう。
「……あのさ、俺に膝枕とかしてた?」
「え? なんでそんなことしなきゃいけないんですか?」
ミズキちゃんが唇に指をあてる。
相変わらず魂の抜けているような口調だった。
「膝枕なんて子供じゃないんですからしませんよ。するのもされるのも恥ずかしいし」
「というか、どうしたのミズキちゃん?」
「……どうしたの?」
まるで自分の様子に気づかぬように、彼女は唇に指をあてる。
「そういえば洗濯、終わっちゃいましたよ」
「あ、そうか。ごめん」
「謝ることじゃないです」
少し、いつもの雰囲気を取り戻してミズキちゃんが笑った。
「まあ……いや、やっぱり謝るよ。俺のルールでね」
再び息をついて立ち上がる。
今度は、めまいもなにも起こらない。
ミズキちゃんに断って水をもらった後、ふと、家の中にふたり分の気配しかないような気がした。
「蓮治はいる?」
「久瀬さんと同じころに寝こけてましたけど、午後になったら起きて駅に行きました。洗濯物はださずに」
「なるほど……って、蓮治にも寝顔を見られたか」
「そりゃもうバッチリ。洗濯物だしていかなかったですけど」
本当にしつこいな。
「というか、わたしひとりじゃ久瀬さんをソファに持ち上げることが出来なかったので、蓮治に手伝ってもらいました」
「持ち上げようとしたの?」
「そうそう。こう足をひきずって。頭がテーブルの角にぶつかって、ひとりじゃ無理だなって悟りました。きゃ♪」
……なんで笑ってるんだ、おまえは。
それでも起きなかった俺も俺だが。
あ、そうか」
「どうしました」
「いや、ミズキちゃん、これで今日はずっと家にいただけになっちゃうのか」
「そう言われれば、そうなりますね」
彼女は目線を天井にむける。
「あ~……本当にごめん。これはマジで」
「いいですよ。たまには、こういうのんびりした日があってもいいかなって思ってましたし」
「たまには、ね」
「夏休みですから♪」
…………。
……。
「ミズキちゃんのお守りって、俺が代わってやろうか」
「へ?」
昼に寝ていたので絶好調な夜中。
訪ねてきた火村が無愛想に──つまり、いつものようにつぶやいた。
「お守りを代わってやろうかって言ったんだ」
「おまえには千尋ちゃんがいるだろう。ずるいぞ」
「なんの話をしてるんだ……」
「なんでミズキちゃんのこと気にするわけ?」
夜食として作った、きのこのバター醤油炒めをつまみながら傾げる。
う~、酒が飲みたい。
ノンアルコールの炭酸飲料を喉に流し込む。
魔法の呪文を唱える。
デコレーション。
イミテーション。
「違う。おまえが大変だろうから代わってやろうかって言ってるんだよ」
「だから、千尋ちゃんがいるだろうが」
今度は真面目な意味で言う。
「千尋は手がかからないからいいんだよ。それに、だからこそ、ひとりでもふたりでも変わらないし」
今日は俺にあわせて炭酸飲料の赤い缶を傾けながら、火村が笑った。
「あ、そかそか」
なにかと思ったら、蓮治と千尋ちゃんを経由して、俺が寝こけたことを聞いたわけだこいつは。
「おまえは忙しいだろ。俺に構ってる暇なんてあるのかよ」
「この街での仕事も今年で終わりなんだ」
「……へぇ」
あっさりとした口調だったが、火村としては思い残したことが多すぎるだろうに。
俺のことや、千尋ちゃんのことや、彼女のことや……。
それが歪(いびつ)な愛情であろうともだ。
「引継ぎをするだけで、今はこれといってやることがないんだ」
「ダメ。ミズキちゃんは俺のだ」
「俺のって……」
肴に手をだそうとした火村が呆けた表情を浮かべた。
「まさか、惚れたのか?」
「それこそまさか──そういう意味じゃなくて、妹とか子供みたいな感じかな。どちらかといえば子犬だけれども」
ケラケラと俺は笑う。
火村は笑わない。
「でも一緒にいると楽しい。だから、火村にはやらない」
「そういうこと、あの子に言ってあるのか?」
「……言えるわけないだろ」
俺は口元に軽薄な笑みを浮かべたまま、少しだけ、目を細めた。
「俺とおまえにそんな資格はないよ」
…………。
……。
日付が変わって2時間が経っていた。
昼間に寝ていたせいか、眠気はまったくない。
俺はソファに深く背を預けたまま、なにも考えないように、なにかを考えていた。
火村はすでにいなくなっている。
ひとりだ。
だから笑う必要がない。
クーラーの駆動音だけが耳につく。
立ち上がって、部屋の片隅におかれたメトロノームを手にとる。
ミズキちゃんに利かせた昔話は嘘じゃなかった。
あの年、クリスマスに頼んでいたゲームを取り消して、サンタクロースにメトロノームがほしいとお願いしたことを思い出す。
楽しかった。
そう、面白かったのではなく、楽しかった。
クリスマスの翌日から大晦日を過ぎるまで、ずっとメトロノームの単調な動きを眺めていた気がする。
「…………」
胸に手を当て、自分の心音と拍をあわせてメトロノームを動かした。
チッ、チッ、チッ、チッ……。
ゆっくりと。
正しいリズムを身に刻む。
生きてることも装飾であり、人間の感情のほとんどは錯覚でしかない。
それでも、形ある本物がそもそも存在しない以上、それは悪い意味ではなく、むしろ良いものだと言えるだろう。
装飾、虚飾、デコレーション。
メトロノームのようなものだ。
自然界には存在しない、この揺るがないリズムが正常だと思える精神が異常であり、人間性なわけだ。
「…………」
気がつくと心音とメトロノームの間隔がずれていた。
舌打ちをこらえて、自分の意志で止められるほうだけを止めて、俺は部屋にあるクローゼットを開いた。
そこに置かれていたヴァイオリンのケースを手にとる。
久しぶりの重さだ。
「文字通り、夢にまで見たね」
そこで、ここ3日ほど意識下で殺していた感情にも手をだした。
あの子にあわせていたから……。
狂っていないだろうか。
調律しないと。
「……久瀬さん?」
今、ここにあるべきではない声が聞こえた。
一瞬にして意識を表層まで持ち上げられる。
「どうしたの?」
ミズキちゃんがこっそりと──童話の一幕のような様子で、顔を覗かせていた。
火村が帰ったときに鍵を閉め忘れていたのだろう。
いや、元より鍵をかける習慣などないか。
俺はヴァイオリンケースの蓋を閉めて、振り返った。
「なんだか眠れなくて、涼みに外に出てたら、窓から明かりが漏れてたので。……もう寝ますか?」
彼女は居心地悪そうな──そんなくすぐったい感覚を楽しむような表情を浮かべている。
はじめて俺の家を訪ねて来たときのようだ。
「いや、まだ寝ないよ」
「すみまsん。蓮治は起きてたんですけど勉強中で邪魔できなくて」
「いや、いいんじゃない。夏休みだし」
「そうですね。夏休みですし……実は夜更かしって、けっこう久しぶりで楽しいです」
ミズキちゃんは安堵の息をついて笑った。
「ま、適当にどうぞ」
俺は冷蔵庫から缶ジュースと、酒のつまみだったナッツの缶をとりだして机に並べる。
「わ~い、宴会だ~♪」
「あんまり寝る前に食べると太るけどね」
「太りません! レディに失礼ですね、久瀬さんは!」
そう言いながらも、彼女は未練たっぷりに缶を眺めるだけで手を出さなかった。
おあずけ。
「久瀬さん、あれは」
彼女は部屋の奥を示す。
そこに置かれていたのはヴァイオリンだった。
「ちょっと調律しようと思って」
「えっ、じゃあヴァイオリンが修理から戻ってきたんだ!」
「修理? ああ」
3日前に壊れたと誤魔化したことを、そのまま信じているのだろう。
俺はケースの表面をノックした。
「まだ駄目なんだ……もしかしたら、もう駄目なのかも知れない」
「あ~う~、そっかぁ……。がっくし」
言葉にあわせてミズキちゃんが大げさに肩を落とす。
俺は、その姿と視線から目を背けるように、ヴァイオリンをクローゼットに戻した。
「じゃあ、代わりにこれを」
そして、ごまかすように自分のCDの中から適当な物を、ラベルも見ずにプレイヤーにかけて流す。
「あ♪」
ヴァイオリニスト・久瀬修一のヴァイオリンに少しだけミズキちゃんの機嫌が直った。
俺は少しだけ複雑な気分になる。
「朝が早いって言ってたけど、ミズキちゃん眠くないの?」
「平気っす!」
こういうところが体育会系。
「それじゃあ何か話をしましょう。なにがいいかな。夏っぽいことがいいですよね」
「怪談とか猥談とか」
「わいだんってなんです?」
ミズキちゃんが缶ジュースに口をつけてから、小首を傾げた。
「ミカン畑のことですかね?」
「その繋がりがどういう思考で出てきたか知らないけど……カマトトだよね」
「かまとと……食べ物の話」
「それって寝言?」
「なんか、もう、失礼もそこまで突き抜けると尊敬しちゃいそうですよね」
まさかとは思ったが、どうやら本当にわかっていないらしい。
冗談だったのに。
どうしようかな、と頬をかいて唇をゆがめる。
「猥談ってのは、大雑把にいうと恋愛話みたいなものかな」
「ああ……恋の話ですか。……それは、確かに夏の夜更かしにはぴったりですね」
「……ミズキちゃん?」
「はい?」
お嬢様っぽい雰囲気が可愛いなとか……そういうことではなく、なにか違和感があった。
彼女の喋り方が妙にふわふわしているように感じる。
そういえば、CDをかけてから、なんとなく瞼が重くなっているようにも見えた。
「眠いの?」
「いいえ全然。ばっちりぱっちり目が冴えてますけど」
俺の質問に、彼女は半ば強引に大きくまたたきする。
その反応はあからさまに怪しい。
「恋かぁ。いいですよね~、好きな人がいる──そういう人ってきれいで憧れます」
言葉だけなら上品だが、気がつけば、ダイエットのことは忘れたのか彼女はナッツをかじっていた。
まだ出会って数日の男の家だってのに安心しすぎだろう。
「2人きりだね」
「わぉ、その台詞はロマンチックでかっこいい♪」
雰囲気も警戒心もない様子に思わず苦笑いしてしまう。
遠まわしの警告だってのに。
確かに、今更という感じだが、ここまで安心されていると、それはそれでお兄さんは悲しい。
「それで、久瀬さんの恋愛はどうなんですか?」
「ほら、俺は火村一筋だから」
「ああ、なるほど。久瀬さんが火村さんを好きな気持ちもわかります……わたしも景先輩や千尋先輩のためなら……!」
握りこぶし。
俺と火村の話は冗談なのだが……彼女は本物かも知れない。
「そういうミズキちゃんには恋人とかいないの?」
社交辞令に近い気がしたが、組んだ手を顎の下にあてて微笑んだ。
少し、そういう雰囲気で話をするのも面白いと思った。
どちらかといえば、こちらのほうが地でもあったし。
「あはは、いませんよ~。わたしは先輩方と比べれば可愛くないし、騒がしいし、そういう話は似合いません」
「そうかな?」
彼女の容姿や性格を考えれば、むしろ下手に大人しい子よりも人気がありそうなものだが。
たまたま機会がないのか、珍獣扱いなのだろうか。
「告白されたりもしない?」
「う~ん……。えへへ、実は2回ほどありました」
「ほら」
「でも付き合ったことはないんですよ。やっぱり」
「好みじゃなかったとか?」
彼女はゆっくりと首を振る。
「わかりません。人を好きになるって難しいです……。久瀬さん、隣に座ってもいいですか?」
「2人きりだね」
「ええ。いい夜ですわ」
俺の冗談にあわせて、彼女は可憐に微笑んだ。
この切り返しの早さが驚異的だ。
ジュースを口にしながら、さて、隣に座らせていいものかどうかと考える。
ミズキちゃんの頬はほんのり赤みを帯びているし、瞼もいつ落ちてもおかしくはないと思う。
こんな状態で隣に座って、肩でも貸そうものなら、その結果は火を見るより明らかだ。
「やばい……」
思わず呻いてしまった。
人様から預かった、お嬢さんを、こっそり部屋に泊めた──そんな事態は"やばい"としか形容できない。
眠気覚ましのコーヒーでも淹れようかと悩む。
「ねぇ、久瀬さん。あのヴァイオリンを弾いてもいいですか?」
「弾けるの!?」
俺は驚きに顔をあげた。
ミズキちゃんは唇にきれいな三日月を浮かべる。
「いいえ。触ったことどころか、テレビでしか見たことないですよ。思ったより実物って小さそうですね」
「ああ、じゃあ止めたほうがいいよ」
「どうしてですか?」
「ピアノとか鍵盤楽器と比べると面倒でね。1、2回触っただけじゃ、まず音階をきちんと鳴らすこともできないから」
「なるほど……ドとかレとか、押しただけじゃ出ないのか」
「そう。もし本当に興味があるなら、ちゃんとしたところで教えてもらったほうがいい。中途半端に触ると最初で飽きちゃうこともあるから」
「そうしましょう」
なぜか満足気にミズキちゃんが頷く。
「でも~、なんだか、ほんわかしてて気持ちいいですね。久瀬さんの部屋はまったり空間です。これが大人の魅力?」
「……いや、たぶんBGMと眠気のせい」
彼女には聞こえないようにつぶやいて、甘ったるいジュースを一口飲む。
アルコールの摂取は止めようと、備蓄していたアルコールは火村に消費させていた。
ただ、ウーロン茶までアルコールと割る為に消費されていたのは盲点だった。
と、急にミズキちゃんが立ち上がる。
なんだろうと思っていると、彼女はぼんやりと部屋を見回りだした。
言葉はしっかりしていたが、足元はおぼつかない感じで怖い。
そのままぐるりと反時計回りに部屋を回って、彼女はちょこんと、俺の隣に寄りかかった。
「えへへへ。席替えです」
「ああ、そんなに隣に座りたかったのね……」
すっかり話が逸れたと思っていたのだが。
「あんまり感心しない距離じゃないかな、これは」
「久瀬さんは、節度と理解と漂白なお兄ちゃんですから」
「それって予防線?」
「ふわっ……」
答える前に、かわいらしいあくびをしてミズキちゃんが目をこすった。
そういう仕草は年相応な雰囲気で微笑ましい。
「そろそろ眠いかな」
時刻はそろそろ午前3時になろうとしていた。
「む~……ついさっきまでは眠くなかったのにぃ……なんでぇ?」
「無理しないでそろそろ帰ったほうがいいよ」
「ここで寝ていってもいいですか?」
「げ」
冗談めかして呻くが、内心でも困った状態だなとは思う。
そこまで眠いのか、素なのか、さっぱり見分けがつかない。
誘っている気配だけは絶対にない。
お姫様だっこでもして家に送るか、起きているという蓮治を呼んできて引き取ってもらったほうがいいだろうか。
「とにかくさ、泊まるのは色々な要因からして止めたほうがいいと思う。例えば大いなる誤解とか、古典的な既成事実とかあるし」
電話に目を遣りながらつぶやく。
「久瀬さん、突然なんですが」
「なに」
「わたし、久瀬さんに恋しちゃったみたいです」
「──ぶはっ!?」
「うわ、汚っ!」
ジュースを吹き出した俺から離れて、ミズキちゃんが服をはたく。
「なんですか一体!?」
「うぇ……言うかね、それを君が。なに今の殺人的な発言……?」
「もうちょっと真面目に聞いてくださいよ」
座りなおしてミズキちゃんが口をすぼめる。
真面目に聞いてたから吹き出しちゃったんだけど。
「昼間ですね、久瀬さんが寝てるときにもCDを聴いたのですよ」
なぜか目を据わらせてミズキちゃんが語る。
……なにか気に入らなかったのだろうか。
「クラシックなんて眠たくなるだけかと思ったのに、すごかったです。びっくり桃の木です」
「はぁ」
「静かな曲はやっぱり眠くなりますけど、それは気持ちいいから眠くなるわけでして、いいものだと気づきました」
眠たそうなミズキちゃんが、言い訳をするように付け加える。
「それに、いきなりドカーンってなる曲もあるんですよね。かっこよくて、背中が震えてチリチリしました」
「ドカーン?」
「ジャカジャカすごいやつ」
「……ジャカジャカ?」
なんだそれは……。
ロックかレゲエか工事現場の生録でも聴いたのか。
とにかく、彼女の感情表現の語彙(ごい)が不自由なことはよくわかった。
「でも一番びっくりしたのは、クラシックが色っぽかったことなんですよね」
「…………」
唐突にミズキちゃんがいつもの微笑みを浮かべた。
変調。
なぜか頬が熱くなる。
このジュースはアルコールでも入っていただろうか、それとも俺にも焼きが回ったのか。
「普通の曲みたいに歌詞とかついてないはずなのに、誰かに耳元でささやかれていると言いますか。あなたのことが好きです──そんな風に言われているみたいでドキドキしたんですよ」
「まあ、恋愛してるときか失恋してるときに名曲が生まれることが多いみたいだけど」
「やっぱり♪」
「でも、実はやつら年中色ボケしてるだけで──」
「そうなんです。やっぱり恋をしてる人はきれいなんですよ」
人の話を聞いていない……。
「そんなこと考えてたら……そんなことを考えさせる演奏をしてる久瀬さんが気になって。これって恋?」
「は、はぁ……」
どうしよう。
なんて言えばいいんだこれは。
「君の知ってる久瀬修一は死んだ」とニヒルに誤魔化すか。
「南極にかき氷を食べに行け」「エアーズロックの麓(ふもと)に穴を掘って叫んで来い」とか、正直に言ってあげたほうがいいのだろうか。
「つまり、クラシックって猥談なんですね」
ぐは!
とどめを刺された。
「えーと……わかった……1つずつ誤解を訂正していこう」
久しぶりに本気で覚悟を決めた。
全世界の演奏家のためにも、俺は今ここで、この魔王は倒さなくてはいけないようだ。
「……ぅん」
「あれ、ミズキちゃん?」
「…………」
「まさか」
「……っ……ぅ……」
気持ち良さそうな寝息と共に、ミズキちゃんの頭がコツンと俺の肩に寄り添った。
困った。
なんというか予想通り。
ああ、こういうの、よくあるね。
「電車の中とかで」
…………。
……。
そのあたたかさを、女の子は覚えていた。
いつかの出来事。
女の子の隣に、大きな男の人がいたことがあった。
それは、ずっとずっと昔の話。
楽しいお話。
悲しいお話。
おぼろげな記憶の、向こう岸にある風景。
「もしかして、おまえ迷子なのか? 仕方ねぇな、一緒に探してやるよ」
男の人が言った。
息が白く染まる。
寒い日だった。
とても寒い日だった。
だから、女の子は無意識に彼の手をとった。
それは自分のためではなく、むしろ、男の人のほうが寂しそうで……迷子のようだと思ったから……。
「離さなくていい。 頼むから、そのまま……」
力が強くてちょっと痛かった。
でも、あたたかい。
女の子が彼を見上げる。
そして気が付く。
『おにいちゃん、ないてるの……?』
「え?」
男の人が泣いていた。
なんでもない顔で。
自分でも気付かぬ涙を流していた。
だから女の子は意志を引き継いだ。
この大人の人を、この世界から守ってあげなくちゃ──と。
深海から、気泡のように海面へと浮かび上がる。
儀式のような目覚めだ。
……。
なにか違和感を覚えたが、そもそも、いつもとは違う目覚めの風景だった。
久瀬さんの部屋だ。
「あ、あれ? どうしてこんなところで寝てるんだろう?」
クーラーが効き過ぎていて、少し寒い。
二の腕をさすろうとして、ようやく、久瀬さんに寄りかかって寝ていたことに気付く。
「……記憶にございませんね」
冗談めかして言いながら、これではまるで政治家や千尋先輩のようだと思う。
昨日は夜中にここへ来て、宴会をして……そこから先の記憶がない。
時計を見ると5時。一瞬、それが午後か午前か判断がつかなかった。
窓の外が暗い。
まだ夜明け前だ。
「…………」
あまりにも静かすぎる世界。
この静けさが久瀬さんの世界なのだろうか。
彼はソファに座ったまま目を閉じている。
わたしは昨日と同じように顔を近づけて、彼の口元に手をかざした。
小さくて穏やかで、あたたかい吐息が触れる。
「……よかった」
安心する。
ひとりじゃ眠れないって言っていたから、遊びに来てよかった。
「本当につらいことはね、元気に伝えるべきなんだよ」
彼の前髪のひと房に指をあてながら微笑む。
本当に子供っぽい人。
でも、大人の人。
「……子供か」
隣に座って再びよりかかる。
ここは寒いから、もう少しだけこうやって眠っていよう。
寒いという感覚と、寂しいという感情は似ているから。
わたしは、まだ子供だから。
「…………う~む……むつかしい女心だな」
…………。
……。
「あらあら」
緊張感のない声がする。
「まあまあ」
俺は目を開く。
すみれさんが頬に手をあてて微笑んでいた。
天国のような目覚めだ。
昨日から寝てばかりな気はするが、久しぶりに迎えた"朝"はとても清々しい。
「おはようございます」
「おはようございます」
「……どうしたんですか?」
ソファに座ったままで失礼かとも思ったが、寝起きの弛緩した身体を、無理に起こす気にもなれなかった。
不法侵入されている時点でどっちもどっちだと割り切る。
「いえ、ちょっと」
楽しそうすみれさんは笑っている。
なにがそんなに可笑しい──
「…………」
俺はそこで、左腕が痺れていることに気づいた。
隣を見る。
ミズキちゃんが俺の腕に抱きついたまま、口を半開きにしてだらしなく寝こけていた。
あまりにも密着していて、逆に違和感として認識するのが遅れた。
昨日、起こすに起こせず、そのまま自分まで寝てしまったのか。
「これは……どうしましょうかね?」
俺はニヒルに肩をすくめる。
「どっちを?」
彼女なのか……それとも俺をどうするか。
なるほど。
すみれさんの意見は、非常にもっともだと思った。
……。
「というわけで、本日付けでお守りの任を解かれてしまいましたとさ」
午後に教会へ顔をだして、暇そうな火村に笑いかけた。
「……馬鹿じゃねぇの」
彼は今日も絶好調だった。
話しかけるなという無言のオーラを放ちながら、火村は十字架を見上げている。
俺はその背中に、今日の朝の出来事を一方的に説明した。
「──以上、終わり」
その言葉を待って、火村がため息をついてから俺と向き合った。
「だからさ、喋るなよ……俺はそういうのに、もう関わりたくないんだよ」
「懺悔しに来たんだから聞けって」
「俺は神父じゃない」
「どっちかと言うと子供相談室だよな」
「……はぁ」
自覚はあるのだろう。
こめかみを押さえて、火村が再びため息をついた。
「そうだったとしても、子供じゃないだろうがおまえは」
「全部が全部、俺のせいじゃないと思うんだけど?」
「おまえの責任が8割5分ってところだな」
「……非常に的確な意見だ」
「冗談ばっかり言いやがって」
火村は俺を見つめ、どこか遠くを見て、それから唇の端をもちあげた。
「なあ、本当のことを言えよ」
「なんのことかな?」
「おまえ、自分からミズキちゃんと一緒にいるのを辞めさせてくれって頼んだんだろ」
…………。
……。
「うわ~ん! わたしがなにしたって言うのよぉ!」
「それは僕が聞きたいことだよ」
トボトボと隣を歩く蓮治が、ため息をついた。
周囲の人たちが何事かと視線を向けてくるが、そんなことは気にならないくらい、ふたりとも落ち込んでいた。
なめくじみたいに黒いオーラが駄々漏れてそう……。
「いきなりお目付け役変更ってなんだかなぁ……」
「蓮治はまだいいよ~。これでわたし、後3日は蓮治が学校から帰ってくるまで家で軟禁生活だよ?」
「自業自得……って、いったい昨日なにしてたの?」
「いや、あんまり記憶にないんだよね」
気づいたら蓮治の部屋で寝ていたのだ。
おば様は笑うだけで、詳しい説明はしてくれなかったし。
「ミズキが久瀬さんを襲ったとか?」
「いや、普通は逆だからそれ」
顔の前で、ひらひらと手を振る。
寝ているときに可愛いなって、一瞬、ほっぺにキスしてやろうかと迷ったことはあったが。
つまり、わたしのほうが、そういうことをされてしまったのだろうか?
そっと唇に指を当てる。
「…………」
「まあ、どっちのせいか知らないけど、4日ももたないって凄いよね」
「あは♪」
「褒めてねぇよ」
なめくじモードに戻って、蓮治が肩を落す。
「あ~あ……せっかくの千尋との静かな時間が……」
結局、彼の不機嫌の理由はそこなのだろう。
……。
「というわけで、不束者ですが今日からお世話になります」
「いえいえ」
ぺこりと千尋先輩も会釈してくれる。
表情こそないが、言動には心がこもっていて嬉しい。
可愛いなぁ。
持って帰りたいなぁ。
わたしのお姉さんか妹になってくれないかなぁ。
「というか千尋先輩、わたしが誰だかわかりますかね?」
「ミズキちゃんです」
鈴を転がすという言い方がしっくりくる、可憐な微笑みを先輩が浮かべる。
「髪型に特徴があるので、一番わかりやすいですよ」
「ああ、なるほど」
「とりあえずどうしようか」
「普段から、蓮治たちはなにをしてるの?」
「なにをって……」
「ここで夕方までお喋りしていたり、喫茶店に行ったり、海とか公園に散歩に行ったりですね」
手帳をめくりながら千尋先輩がつぶやく。
はっきり言って地味だ。
「一体どんな話をしてるんです?」
興味があって訊ねる。
千尋先輩はさらに手帳をめくって、目の前にある線路を指差した。
「世界には電車がいっぱい走ってますけど、その線路って血管みたいですよね」
「血管?」
あまりにも飛んだ内容に笑ってしまった。
千尋先輩は、どうしてわたしが笑ったのかわからないようで、真面目な顔をしたまま小首を傾げる。
「そうです。いろんな場所に繋がっていて、それがまるで人間の血管みたいだなって──最近した話の1つです」
わたしは蓮治を横目で眺める。
もうちょっと色気のある話をすればいいのに──そんなアイコンタクトに、彼は苦笑いしながら肩をすくめた。
「メールというかインターネットもそうだね。世界規模で見れば脳のシナプスみたいだなって」
「ああ、そう言われれば」
「携帯電話も」
「なるほど」
なるほど、ともう一度つぶやく。
「……やっぱり繋がっていたいのですかね」
「人と人が?」
「世界と」
千尋先輩の口から出ると、どんな言葉もすごい意味を持っているように思える。
世界と繋がっていたい……。
若い身空で、なんでこんなこと話しているんだろう。
「あ……そうか」
「どうかしましたか?」
「いえいえ、なんでもないっす」
わたしは首を横に振る。
そして再び蓮治を見た。
黙って耳を傾けているだけだった彼も、さりげなく頷く。
世界と繋がっていたい……それは、千尋先輩だからこその言葉なのだ。
蓮治から聞いていた、あの半年前の忘れられた物語を思い出す。
「……あれ?」
なにかが頭の片隅でひっかかった。
とても些細なものだったが、お魚の小骨が喉にひっかかっているみたいで、気持ちが悪い。
「…………」
急に自分にスイッチが入ったのを感じる。
ここ1年ほど、ヒロ先輩とか景先輩とか蓮治とか……誰かが変な質問をしてきたときに入ったスイッチ。
「…………?」
視線を動かすと、蓮治と千尋先輩がなにかを楽しそうに話している。
だけど音が遠い。
蝉の鳴き声だけが、やけに耳につく。
うわん、と夏の熱で世界がねじまがるような。
半年前とは異なるふたりの関係。
上辺だけで噛み合っていて、実は噛み合っていない。
久瀬さん。
唐突に、いつか彼が浮かべた、千尋先輩のような笑みを思い出した。
ソフトクリームにつられてすっかり忘れていた。
いや、覚えてはいたんだけど、本人が聞いてほしくなさそうだったから、忘れているフリをしていたこと。
ずっとずっと、すぐ側にいたのに、わたしと久瀬さんは噛み合ってなくて。
距離が離れてはじめて疑問が形になった。
「ねぇ、蓮治」
ふわふわと軽い口調で話しかける。
「どうしたの?」
「久瀬さんは……蓮治やおば様たちも、なにを隠してるの?」
「…………」
蓮治が変な顔をした。
いや、千尋先輩も微妙に視線を逸らした。
なんだろう。
「やっぱりね。今、わたしじゃなくて、あの人を独りにしちゃいけない気がしたの。久瀬さんって溺れてるように見えないかな?」
一緒にいるのならそれだけでよかったのに。
手が届く場所だったら。
でも、海の底に行ってはいけない。
あそこは、普通の人が生きていける場所じゃないから。
「久瀬さんのこと、好きなんですか?」
「え?」
わたしの代わりに蓮治が声をあげた。
千尋先輩が右の瞳だけでわたしを見つめる。
「ある人が言ってたそうです……人を好きになるってことは、どうしようもないことだって。それは、どうしようもないことですか?」
「…………」
よくわからない。
でも。
「どうしようもなくなりそうで……怖いのかな……」
今なら、なにかが、まだ間に合うような気がした。
…………。
……。
「おまえ、自分からミズキちゃんと一緒にいるのを辞めさせてくれって頼んだんじゃないのか?」
火村が同じ言葉を、まったく違う感情で、俺に向ける。
その低い声が教会に反響した。
俺はその重苦しい響きが消えるまで、さざ波を目で追った。
「さあ?」
「真面目に答えろよ」
「よくわかったな」
「やっぱりそうなのか」
驚きとも嫌悪ともとれるような表情で、火村が吐き捨てる。
「なんでそんなことを」
「おまえならわかるだろう、火村夕?」
「フルネームで呼ぶんじゃねーよ」
怒ったように火村が目を細める。
でも、こいつは否定はしない。
俺は皮肉気に肩をすくめる。
そういうポーズをとること自体が馬鹿げていることだと知りつつ。
そういうポーズをとることで、自分が愚かだということを忘れないように。
「……冗談でも好きだなんて言われちゃいけなかったんだ」
だからずっと上辺だけで相手をしていたのに。
好かれないように。
大人と子供の関係だけで、お目付け役とお姫様という関係だけで、それ以外の何者でもないように。
あえて噛み合わないように。
ヴァイオリンすら弾かず。
「そんなんだから気づかれたんだよ」
俺の心を読んだように、火村が静かにつぶやく。
その通りなのだろう。
「でも、清算してるところなんだ。全部、徹底的に、なにもかも0にしなきゃいけないから」
自分に言い聞かせるように。
あまりにも悟りすぎていて、感慨どころか笑みまで浮かべて、神に告げる。
「もうすぐ死ぬんだからな、俺は」
…………。
……。
「……死ぬ?」
あまりにも突拍子もない言葉に、わたしは反応らしい反応ができなかった。
蓮治は自分の胸を親指で示す。
「特殊な心筋症らしい。半年前にも兆候があったみたいだけど……もう、どうにもならないんだって」
「本当の話なんですか?」
千尋先輩に視線を向ける。
彼女は静かに頷いた。
わたしは……いまいち実感が湧かない。
死ぬ?
「久瀬さんはもうヴァイオリニストでもないんだ」
あえて感情をあらわさずに蓮治が続ける。
悲しそうでもなく、淡々としすぎていて、逆にそれがリアルに感じる。
こんな、冗談みたいな作り物の街の中で。
「騙し騙しでもやれると思ったらしいけど、ある日のコンサートで演奏中に発作を起こして……舞台を滅茶苦茶にしてしまった。それが致命打だった。もちろんニュースにもなったけど、クラシックの一演奏者が倒れたなんて、注目してる人間でもなければ気づかないだろうから」
そこで、冷たすぎたと思いなおしたのか、頭をかいて蓮治はため息をついた。
「……たぶん、ただの旅行で来たミズキに、教える必要はないと思ったんだ。僕や母さんもだろうけど」
「そんな状態でわたしと一緒にいてくれたの?」
こんな暑い夏の日を、笑って一緒に歩いていてくれたことを思い出す。
悪い夢を見るのだと、寂しそうな瞳でつぶやいたことを思い出す。
「さっきも言ったけど、どうしようもないんだ。だから気を遣わないでくれと、本人に言われていた。普通でいてくれと。あの人は、本当に嫌なことはしないから大丈夫だよ」
「そんなの──」
「ミズキちゃん」
静かな声がわたしの言葉を遮る。
千尋先輩は祈るように胸に手を抱いて。
「私は久瀬さんがどんな人かわからないけど……でも、その人もわかってるんだと思います。そういう精一杯もあるんです」
「…………」
わからない。
ふたりとも、わたしに納得しろと言っているのだろうか。
子供をあやす大人のように。
でも、なにを?
「…………」
なんだかむかっ腹が立ってきた。
手のひらを握り締める。
力を貸してください。
景先輩、みやこ先輩……傍若無人で唯我独尊なヒロ先輩。
「……こんちくしょう」
…………。
……。
「……今夜のうちに最後の決着をつけるよ」
去り際、火村に声をかけた。
色々と愚痴りに来たわけじゃなくて、これが伝えたかっただけなのだ。
ずっと決めていたことだから。
「だから今日は俺、夜は家にいないから。顔を見せに来なくてもいいぞ」
「本当にやるのか?」
存外に軽く火村が返答する。
「ああ、最後の未練だ」
ミズキちゃんの件があって、微妙に引き延ばされていたけれど。
人間関係もあらかた清算したし。
本当に終わるべき時がきていた。
「じゃあな」
「なあ、久瀬さんよぉ」
バタン──と、開きかけた扉を、肩越しに伸びてきた黒い手が閉じた。
驚いて振り返ると、なぜか火村が壮絶な笑みを浮かべていた。
俺を見下している。
一瞬、昔の悪ガキだったころを思い起こさせる笑い方だった。
「……世の中、そう都合よくおまえの思った通りにいくかねぇ」
「へ?」
不覚にも呆気にとられた。
火村の顔は……キスができるほどの間近で見ると整い過ぎていて、人間のようには見えない。
悪魔の王子様だ。
「……なにか企んでるのか、おまえ?」
「いやいや、俺の希望だよ」
そう言って、火村はゆっくりとした動作で扉を押さえていた手をどけた。
そして清々しく微笑む。
「Gute Rise(よい旅を),KUZE(久瀬)」
……。