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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【10】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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「…………」


わたしは窓辺に立ってぼんやりとしていた。

夜も更けてきたが眠くならない。

ずっと物憂げに……。

明日から"ドウシテクレヨウカ"と考えていた。


「ミズキちゃんがダースベイダーみたいに黒いオーラを放ってるけど、どうしたの?」


おば様のささやく声。

わたしではなく蓮治に訊いているのだろう。


「……いや、気にしなくていいから」

「ふ~ん。そっか。じゃあ私は明日も早いし、お風呂入って寝よ。蓮治も一緒に入るかな?」

「パス」

「パスってことはお風呂だね」

「拒否」

「ちぇ……入りたくなったら途中からでもいいからね」

「なんの途中だよ!?」

 

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「いや~、お姉さんだって、たまにはHな気分になっちゃうし」

「……っぐ」

「じゃあね~♪」


ほのぼのとした親子劇場が幕を閉じる。


「…………」

「……はぁ」


蓮治のため息。

そんな冗談のポーズを解いて、彼は真剣な表情で顔をあげた。

 

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「でも、ミズキ、本当になに考えてるんだ?」
「久瀬さんの家に行こうかな」
「今は止めたほうがいい」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「なにをどうすればいいと思う?」
「それは……」


言葉がつまる。

その問いに答えられない。


「久瀬さんに会って、病気のことを知ったって言うだけ?」
「蓮治は、久瀬さんになにもするなって言うの……?」
「そうじゃないよ。それを勘違いしてたのか」


なぜか笑いながら、蓮治が首を振る。


「久瀬さんになにかをしてやりたいのは僕も一緒だよ。ただ、僕には千尋がいるからね。残念だけど、そこまでは抱えきれない」
「それってひどくない?」

 

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「ひどいことかも知れないけど、そんな中途半端なままじゃ、久瀬さんも傷つくかも知れないから」


わたしの横に立って、蓮治が頭をなでてくれる。

子供扱いは嫌いだけど、でも、そうされることが自然に受け入れられた。


「そっか……」


蓮治が本当に触れたいのは千尋先輩だ。

それができなくて悔しいはずなのに……。


「ごめんなさい……千尋先輩にも謝らなきゃ」
「なにを?」
「ふたりとも、なにもするなって言ってるのかと思ってた」


しょんぼり。

 

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「あはは。口にしなきゃバレなかったのに」
「でも、ちゃんと」
「うん」

 

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「……うわ、髪をやさしく撫でてるよ。千尋ちゃんに言っちゃおうかな?」

「いきなり出てくるなよ!!」

「うふふふふ♪」


ばっ、と蓮治が振り向くが、おば様は笑い声を残して再び姿を消していた。

さすがだ。


「まったく」
「おば様も気を遣ってるんだと思うよ?」


わたしもニヒヒと笑って蓮治を見上げた。


「あの人がなにを考えてるかなんて──」


そこで電話が鳴った。


「こんな時間に誰だろう?」


つぶやきながら、蓮治が電話に向かって歩いていった。

 

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わたしは時計を見る。

もうすぐ23時──世間的には非常識かどうか、どっちつかずな時間だ。


「……あ、どうも」


蓮治が驚いている。

久瀬さんからかと一瞬考えたけど、お隣に住んでいて電話もなにもないだろう。


「はい……え? いますけど……」


なんだろう。

顔を向けたわたしと、蓮治の視線がぶつかった。

彼は保留ボタンを押して受話器をおくと、肩をすくめて手を広げた。


「うちのお母さんから?」
「いや、火村さんがミズキに話があるって」
「火村さん?」


あまりにも意外な相手に、わたしも驚く。

ぺたぺたと電話の側に立って受話器を持ち上げた。

 

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「こ、こんばんは」
『こんばんは。夜遅くにすまないね』
「いえ、構いませんけど。わたしに用事ってなんでしょうか」
『突然だけど、久瀬のヴァイオリンを聴いてみたいかい?』
「はい?」


本当に突然な話題だった。


『もし聴きたいなら、今から海へ行くといいよ』
「海?」


「海?」


わたしの声を漏れ聞いた蓮治が重ねる。


「あ、あの、なんですかそれ」


蓮治には聞こえないように小声で返す。


『詳しい話はできないが、最後のチャンスかも知れなくて。君にだけは伝えたほうがいいだろうと思ってさ』
「わたしにだけ?」
『賭けだよ。本当は干渉しないのが俺の主義なんだけどね


電話越しだけど、火村さんが子供っぽく笑っているのがわかった。


『行くかどうかは任せる……おやすみ』
「…………」


返事も待たず電話は切れてしまった。

わたしは受話器をおいて、もう一度時計を見た。


「ミズキ、火村さんはなんて言ってた?」
「…………」


海?

久瀬さんのヴァイオリンを覗きに海に行く?


「ミズキ」

 

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「なに?」


何気なく蓮治に笑いかける。


「海ってなんのことだよ」
「ああ、火村さんが是非わたしの水着姿を見たいから、一緒に海に遊びに行かないかって♪」


とっさに嘘が口をついて出た。

今から海に行くだなんて言ったら、絶対に止められるから。


「嘘だ」
「う、嘘じゃないもん!」
「おまえ……あの火村さんが、あの顔で、そんなこと言うところ想像してみろよ」
「…………」

 

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『君の水着姿が見たいから、一緒に海に出かけよう』



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「むきゃ~!!」


ざわわわと鳥肌がたつ。

ついた嘘の人選を間違えた。


「いったいなにする気なんだミズキ?」
「あ~、それが~……」


どうしよう。

絶対にどうにもならないというか……マークを固くしてしまった気もする。


「……仕方ない、奥の手だ」
「奥の手?」


わたしは大きく息を吸って、家の奥に向かって声を上げた。


「おば様~、蓮治が一緒にお風呂入りたいって~」
「うわ、おまえそんな──!?」

 

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「え、ホント!?」


ズザーーっと居間におば様が滑り込んできた。

というか、まだお風呂に入っていなかったことが気にはなるんですけど。


「ちょ、ちょっと……!」


慌てて逃げようとした蓮治だが、珍獣よろしく捕獲された。

 

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「うふふ。大丈夫、最初は怖いかも知れないけど慣れれば平気だから~♪」

「慣れるってなにが!? ミズキ、おまえ──!」

「達者でな~♪」


ズルズルと引きずられていく蓮治を、笑顔で見送ってあげた。


「……さて」


気合をいれる。

今度こそ本気で怒られるだろうけど、それでも行かなくてはならない。


「いざ、海へ!」


…………。

 


……。

 

 

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「…………」


今は夏だ。

海辺に立つと痛感する。

ぼんやりと10分ほど海を眺めてしまった。


「……湿気があると響きがよくないんだけどね」


こだわりだとは思ったが、まぁ、そこは仕方がない。

舞台としてはここが相応しい。

海からきたモノは、海へ還るべきだ。

俺は手にしていたケースからヴァイオリンを取り出して構えた。


「さようなら」


Aの音を出して調弦を確かめる。

問題ない。

2度深呼吸する。

頭の中で回路を切り替える。

それで、もう、言葉はいらなくなった。

自分のためのリサイタルだ。

まず初心者が習う練習曲を選んだ。

俺が生まれて初めて弾いた曲を。

メトロノームが一緒に歌ってくれたことを思い出す。

遠い過去だ。

遠すぎる過去の童話だ。

続けて、穏やかな名曲を、長く深く、本来なら雑音になるであろう波音とあわせるように楽しむ。

指と感覚が慣れてきた。

勢いをつけるために、超絶技巧曲を呼び動作なしに弾き始める。

発情と呼ぶに相応しい熱が身のうちに宿り、五指が自分の知覚を超えて弦に走った。


『つまり、クラシックって猥談なんですね』


その通りだと笑みがこぼれた。

その後も、記憶にある限りの曲を演奏し続けた。

時代も作曲家も作風も好みも関係なかった。

楽譜がなくて全ては弾けないものでも、指の覚えている限りに弾き語った。

オーケストラや伴奏が必要なものも即興で楽しむ。

クラシックだけでは足りない。

仲間と遊びで、そして本気で演奏したことのあるジャズを数曲。

蓮治にせがまれて弾いた日本古謡や歌謡曲、アニメのアレンジ。

そのうち世界がオセロのように反転する。

名前を知らない──いや、そもそもそれが曲であるかもわからない。

そんな、別の世界の音楽を、俺は確かに弾いていた。

いや……もう考えるのも面倒だ……。

 

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いっそ、このまま……。


…………。

 

……。

 

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…………。

 

……。

 

 

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ふと、唐突に意識を取り戻す。

俺の身体の中心で、壊れたメトロノームが再起動した。


チッチッチッチッ……。

なにが起こったのかわからない。

俺が再び本物になった。

燃え尽きる寸前の輝き。

自分でも呆れるほど陳腐な表現だが、そんなものかなと、頭の片隅が考える。

でも違った。

それは弾いている曲のせいだった。


この曲か。

ニヤリと口元が歪む。

その時、俺は確かに世界を越えていた。

時代を越えていた。

あの日に戻ったのだ。

俺が久瀬修一であった時間に。

遠い昔──あの夏の教室で、火村と彼女に捧げた曲を、弾いた瞬間に。

ああ、そうだな。

この曲だけは、俺の意志として弾くべきだ。


…………。

 

……。

 

 

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「…………」


わたしは離れた位置から、久瀬さんの演奏を耳にしていた。

薄っすらと月が浮かぶ空。

その月にひかれて寄せ合う波。

 

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かろうじて久瀬さんらしい人間の姿が見えている。

でも、視覚はぼんやりと意味を失っていた。


「…………」


久瀬さんの演奏は延々と続いている。

ずっとずっと。

まるでマジシャンが虚空からカードを取り出すように、驚くべきペースで、次々と新しい曲が現れる。

時間の感覚が麻痺していた。

こんなに長時間、ここにいることになるとは思わなかった。

足が痛んだが、自分の衣擦れすら雑音としか思えず、動くことが許されない。

海にいるという事実すら忘れて聴き惚れた。

耳を傾けざるを得なかった。


──偽物の街にいる本物の魔術師。


「…………」


しかし、残された時間が少ないことは、久瀬さんもわかっているはずだ。

 

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水平線の先が、微かに明るくなってきている。

 

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夜明けが近い。

 

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そして──

 

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突然、演奏が止まった。


「……ぁ」


…………。

 

……。

 

 

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別に演奏を止めるつもりではなかったのだ。

ただ、弓を持つ手が動かなかった。

頭に血が上る。

脳の奥が熱をもったように疼(うず)く。

自分の身体のくせに。


何度か腕を動かそうとするが、意思に反して、弓も弦も肩からぶらりと零れ落ちた。

 

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「……当たり前だ」


深呼吸して身体の内側から空冷する。

どのみち、いつかは終わりにしなければならなかったのだ。

一瞬の休みもなく、いったい何時間ぶっ続けで演奏していたのだろう。

腕が震えている。

肘が強張っている。

どうなっていようと興味はないが──痛みを訴える指先も、腫れているか、内出血しているのだろう。

以前ならこんなことはなかったのに……力みすぎだ。


「……無様だな」


演奏を止めると、波音と、自分の荒い息遣いが耳についた。

体力が限界に近い。

 

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鼓動が早鐘のように鳴っていて、鈍痛が頭蓋骨を内側からノックしていた。

このまま倒れて、そのまま死んでもよかったけれど。

まだ、やることがあった。

俺は呼吸が整うのを待って、震える腕でヴァイオリンをケースにしまった。

用意しておいたペットボトルを手にする。


「重いな」


中に入れてある無色の液体が、飲料水とは異なる比重なのだ。

奇妙な感慨を覚えながらキャップを開けた。

ツン、と揮発したガソリンの匂いが立ち込める。

 

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どちらにかけようか少し迷う。

 

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俺はそれを、ヴァイオリンのケースにかけた。

何度もイメージはしていたが、意外にもよどみなく、それらの工程を片付けることができた。

 

 

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吐き気のする臭いの中に立ち尽くす。

ズボンのポケットに手をつっこむ。

煙草とライターをとりだす。

 

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煙草を口にくわえる。

汗と潮風で湿気っていた。


火を点けて、一口吸って、大きな白い息を吐きだす。


「……相変わらず不味いな」


意味のないことをつぶやいてみる。

そして、

ヴァイオリンのケースの上に煙草を落とした。

 

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火が燃え上がった。

 

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かつて音羽の街を灰にした炎を再現している。

そこで、結末を見ているのも億劫になった。

俺は一度海を見る。

 

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まだ暗い。

意味がない。

終わったという安堵もなく、汗と潮風がべたつく服と、粘りつく疲労が身体にはりついている。

帰ろうと思った。

もう帰ろう。

 

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海岸を去ろうと炎に背を向けたとき──

 

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足音が闇夜を抜けてきた。

 

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砂を散らして、俺の脇を駆け抜ける。

驚いて振り返る。


「わわわわわ!」


場にそぐわない間の抜けた声を上げて──なぜか、羽山ミズキがヴァイオリンに駆け寄る。

手を出した。


「あ──……」


その先が声にならない。

 

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「うきゃ!? あっつーーーーい!!」


当たり前のことだが、火中に手をつっこもうとして、ミズキちゃんが叫ぶ。

腕を押さえて彼女が1歩下がる。

もう無理だ。

そう思った。

しかし、ミズキちゃんは予想外の行動に出る。

さらに2歩下がる。

そして、助走をつけてヴァイオリンのケースを蹴飛ばした。


「は!?」


自分の頭をガツンと蹴られたような気がした。

なんだそりゃ!?

重い音を立てて空を飛んだヴァイオリンのケースが海に落ちた。


「よし!」


決勝点を決めたサッカー選手のようにガッツポーズをとり、彼女は海に向かってさらに駆ける。

 

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ジャバジャバと波をかきわける音。


「ミズキちゃん!」


自分でも驚くほど大きな声で、少女の名前を呼んでいた。

 

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ガソリンが染み込んでいるからか、海面に浮かんでも小さく青い炎を放つケースから、ミズキちゃんはヴァイオリンをとりだした。

ぱっと見、ヴァイオリン本体に損傷は見られない。

ミズキちゃんよりも先に、そんなことを観察して……安心しかけた自分が嫌になる。


「……はぁはぁ」


俺が波打ち際に駆け寄ると、同じ場所にヨロヨロと彼女が帰ってきた。

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「あはははは」


まだ彼の届く場所でへたり込んで、ミズキちゃんが大きな声で笑った。

下半身がずぶ濡れになっている。


「やりましたよ久瀬さん!」
「そうじゃなくて手を見せて!」


心臓が驚くほど早く鳴っている。

ミズキちゃんは笑ったままヴァイオリンを胸に抱いて手を出さない。

テンションがおかしい……ハイになっているのかもしれない。


「手をだせ!」


叫ぶ!

彼女は首を横に振る。

 

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「やりましたよ、わたし……久瀬さん……よかった……」


俺の見下ろす場所で。

ミズキちゃんは顔を伏せて肩を震わせた。

 

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「ごめんなさい久瀬さん……わたし、バカだから……」
「…………」


なんで泣いているのか。

いや、俺の病気のことを彼女はどこかで知ったのだろう。


「ごめん……なさい……ごめんなさい……」


嗚咽をあげて小さな女の子が泣いている。


「怖いのはわかります……わかるんです……そんなのどうしようもないけど。でも、怒るならわたしだけにしてください……。ヴァイオリンだけは、止めて下さい……。これは久瀬さんそのものなんですよ……ダメですよ……!」


ヴァイオリンを必死にかばって、彼女は泣いていた。


「…………」


胸が痛んだ。

痛い。

あり得ない痛みだ。

発作が起きるかと思った。

でも……。

胸が軋むのに、驚くほどの静寂が身体に満ちている。

胸の痛みは肉体的なものではなかった。


「…………」
「……ぅく……っうう……」


波音と泣き声。

それ以外には音がしない。

頭が芯から覚めていた。


「大丈夫」


俺は静かに、ゆっくりと彼女に声をかけた。


「……もう大丈夫だから」

 

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──そして夜が明けた。


…………。

 

……。

 

 

 

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早朝の街を歩き、ふたりで俺の家に戻った。

ミズキちゃんはそのまま家に送ったほうが良かったのだろうが……でも、迷惑をかけた身としてはそれもはばかられた。


「まいったね」


いつものようにソファに腰掛けて頬杖をつく。

彼女は今、シャワーを浴びている。

服は歩いているうちにだいたい乾いたが、それでも、足も髪も砂にまみれていたから。

別になにをする気もないのだが、この状況がドツボだという自覚はあった。

 

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「あの~」


ひょっこりと奥の廊下からミズキちゃんが顔をだす。

シャワーを浴びて落ち着いたのか、表情にもいつもの余裕を取り戻していた。

たぶん、お互いにだろうが。


「どうしたの」
「申し訳ないのですが、袋を1枚いただければと」
「袋?」


いったいなにに使うのか。

 

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首を傾げながら、袋をしまっている戸棚に歩み寄る。


「大きさとか色とか、なんでもいいの?」
「中身が透けないやつだと嬉しいのですが」
「……ああ、なるほどね」


ズボンや上着は乾いたが、下着がまだ濡れているのだろう。

微妙に彼女の腰元に視線を送ってしまう。

つまり、はいてないのか。

ちょっといいかも──とか思ってしまう。

 

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「ありがとうございます」


俺から袋を受け取ると、頬を赤くして、ミズキちゃんはまた洗面所に戻っていった。

なんだか落ち着かない。

つい一昨日までは、「兄妹みたいだ」とか冗談まじりに接していたっていうのに。

ぱたぱた、とすぐに特徴のある足音が折り返してくる。

 

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「それではでは、羽山ミズキは怒られてきます!」
「あ、また無断で抜け出して来たのか」
「それもあるし、そうじゃなくて……色々ありまして」
「え?」
「わたしの事情なんで気にしないでください」
「……なんにせよ俺のせいだとは思うんだけどさ」


頭をかいてため息をつく。

今度こそは、俺も真面目に、すみれさんに謝りに行かねばなるまい。


「久瀬さんは困った顔が可愛いですね♪」
「困らせるほうが得意なんだけどね」
「あはは。それではまた」
「また、ね……今日はふたりとも寝なきゃいけないだろうし、明日かな」
「はい」


ミズキちゃんが笑って頭を下げる。

そして扉のほうに歩き出そうとして──しかし足を止めて、彼女は再び俺のことを見上げた。


黙って胸の前に手をあてている。

 

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「どうしたの?」
「……ご褒美ください」


なにを──なんて鈍感さを振舞うこともできたのだろうけど。

俺は彼女の頬に手をあてる。

シャワーを浴びてしっとりとした肌が熱をもっている。


「……目を閉じて」

 

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「…………」


ミズキちゃんが素直にまぶたを閉じる。


夢見るように。


そっと口付ける……。

 

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額に。

 

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「って、おでこってなんですか! おでこって!?」
「わはは」


くわっ、と抱きついてこようとする彼女から逃れて笑う。


「おでこなんて言ってるうちは、ご褒美はキャンディだね」

 

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「うぅ~! 子供扱いしないでください!」


額をさすりながらミズキちゃんがそっぽを向く。

拗ねているのに真っ赤な顔が可愛くて。

俺は上半身を屈めて彼女の首筋に顔を寄せた。

 

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「ひぅ……!?」


ビリビリと肩を震わせてミズキちゃんがおかしな声を上げた。


「いい匂いだね」
「う~……あ~……」


怒ろうとしているのか、笑おうとしているのか、照れているのか。

どうするか迷っている姿が本当に愛らしい。

俺はゆっくりと微笑んで。

心の底から──真剣に頭を下げた。

 

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「今日はありがとう」
「んにゅ? えへへへへ」


見ているほうが恥ずかしくなる笑みだ。


「それじゃあ久瀬さん、シーユー♪」


ぱたぱたと独特の足音を響かせて、ドカンと扉を閉じて、彼女は去っていった。

嵐のように。


「…………」


ひとり残された部屋に、立ち尽くす。

海から家に帰ってくるまでの道のりには、朝日が溢れていた。

いい天気だった。

さて。

 

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ヴァイオリンを予備のケースにしまう……根本的に壊れてはいないだろうが、後で修理に出さないといけないだろう。


俺は部屋を見渡す。

まず、コンポから抜いていたアダプタを電源に差し込む。

冷蔵庫からビールをとりだして缶のまま口をつける。

冷えた金属の感触と苦い喉越しは、彼女の味とは正反対で。

そうやって、禁欲していたものを1つずつ、元に戻してみる。


「……ふむ」


世界はなにも変わっていなかった。

音楽ともおさらばして、それでこの部屋にはなにも残らないはずだったのに。

ヴァイオリンと女の子の匂いが残っている。


「いやはや」


そこでようやく笑みがこぼれた。

堪えきれず大笑いしてしまった。

生き残ってしまったな。

幸か不幸かわからないが。


「とりあえず、第二楽章のはじまりだ」


…………。

 

……。

 

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家に戻るとおば様が居間のソファに座っていた。

思わず足がすくむ。

自分がどんな顔をしているのか、よくわからない。

ちゃんと笑えているだろうか。

それとも、怒られることを気にして、オドオドしていればいいのだろうか。

久瀬さんの家を出るときにはもう、緊張感を維持できなくなっていた。

迷っているうちに、おば様が立ち上がって近づいてくる。

 

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「おはよう」


穏やかな笑みを向けられる。

おば様は怒らない……なんとなく、そんな気はしていた。


「……ごめんなさい」
「2日連続だったけど、まあ、いいかな。久瀬さんと一緒だったんでしょ?」


たぶん、勘違いされているのだろう。

よかった。

わたしは苦笑いを浮かべて頷く。


「はい、ずっとヴァイオリンを聴かせてもらってたんです」
「あらあら」
「あの、ごめんなさい……別に変なことしてたんじゃないけど、徹夜でもう眠くて……」
「お風呂かご飯は?」
「いえ、とりあえず寝ます」
「……ミズキちゃん?」


初めておば様が緊張した声を漏らした。

わたしは笑顔を崩さない。


「なんですか」
「なにか……大丈夫?」
「眠くてヘトヘトなんです」


わたしは同じ言葉を繰り返した。


「おやすみなさい」


なにかを訊かれる前に、部屋に向かった。


……。

 

 

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ドアを後ろ手に閉めて、息をつく。

下着をはいてなくて気持ちが悪い。

わたしは服を全て脱ぎ捨てて、布団にもぐりこんだ。

頭まですっぽりとシーツをかぶって、身体を丸める。

ぐっ、とまぶたを閉じる。


「……これでよかったんだ」


知らずつぶやきが漏れた。

 

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久瀬さんの演奏はきれいだった。



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ヴァイオリンを失うことがなくてよかった。

 

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キスも……唇じゃなかったけど……はじめてだった。


嬉しいことがいっぱいあった。


「…………」



だけど、わたしの心には波が立ち始めていた……。


小さなさざ波だったけれど、海底で白い花が揺れるには十分な波だった。

 

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海の匂いが肌にこびりついている気がする。


耳の奥で潮騒が残響している。


閉じた瞳の裏側で、壊れた記憶が上映される。


カタカタカタと音がする。

 

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無理なんてしてない。


あたたかい……。


あたたかい夏の海。


最後の泡が消えていく。

 

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ひらひらゆらゆらきらきらと。


海の水は涙よりも塩辛くて。


冬の教会にはなんの温もりもなく。

 

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天使のような女性と。

 

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断片的に姿をあらわず、カラスのように黒い男性の影。


はじめて触れた人のぬくもり。

 

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人間に流れる、錆びた鉄のぬくもり……。


祈り。

 

 

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再び海。

 

 

わたしの知らない女の子が笑っている。

 

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口付けの感触も知らず、海の底で咲いている。

花のように、無垢で、無邪気で、可哀想に……。

 

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『みんな死んでしまう』

 

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心のどこかのワタシが、歌うように赤くささやいた。

 

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『あなたが好きな人は、みんな死んでしまう。あなたを好きな人は、みんな不幸になるの』

 

…………。


……気持ち悪い。

 

……。

 

 

「こんにちは」
「あれ?」


午後になってもミズキちゃんが来ないので、自分から麻生家に顔をだすと、出迎えてくれたのは蓮治だった。


「どうして蓮治がいるの。今日は何曜日だっけ?」
「今日は驚いていいですよ。平日ですから」


蓮治が軽口を叩いてから、苦笑いを浮かべる。


「実は、ミズキが風邪をひいたもので自主休講です」
「ああ、お目付け役2号」
「上がりますか、1号さん?」


……。


居間のテーブルの上には教科書やノートが散乱していた。

それは、懐かしい光景を思い起こさせる。

冬の日の出来事だったが、火村や彼女たちと……4人で賑やかに勉強会をしていたこともあったか。

遠い、と感じてしまう。

今はもう取り戻せない。

大切な思い出だ。

 

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「勉強してたんだ」
「明後日からテストなんです。自主的な休みって、意外と勉強がはかどりますね」
プラシーボ効果
「……嫌なこと言わないでくださいよ」
「そういえばこれ、お土産」


手にぶら下げていた箱を渡す。


「ミズキちゃんが好きかなと思ったんだけど、お見舞いの品ということで皆で食べて」
「ソフトクリームですかね。ちょうどいいかな」


箱越しにドライアイスで冷えた感触を確かめて、蓮治はそれを冷凍庫にしまう。


「ミズキちゃんの風邪ってひどいの?」
「いえ、熱があるのと気持ち悪いってだけで後は特に。今は薬を飲んで寝てます」
「見に行っても大丈夫? 蓮治の部屋だよね」
「別にいいですけど。5分前に見たときも寝てましたよ」
「そう」


頷きながらも歩き出す。

別に信じていないわけではなかったが、自分の目で確かめたかった。


……。

 

音を立てないように扉を開く。

 

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ベッドに小さな膨らみが1つ。


「…………」

顔が壁のほうを向いていて表情は見えなかったが、思ったよりも穏やかな寝息に安心した。

いくら夏とはいえ、一晩中潮風にあたっていたのが身体によくなかったのだろう。

原因である自分に心底腹が立つ。

しかし、この場でそんな気配を見せたくなかったので、胸に手を当てて冷静でいるように心がけた。

取り乱すほど子供でもなくなってしまった。

握り締めた指が痛んだ。


「今日はゆっくりと休んで」


触れてしまうと起こしてしまいそうで、つぶやきにとどめる。


「元気になったら、またソフトクリームを奢ってあげるから」


俺はそっと彼女の側を離れた。


「……けて」


「ん?」


微かに耳に届いた音に、振り返る。

ミズキちゃんが起きた様子はない。

気のせい……寝言だったのだろうか。

熱で眠りが浅いのかも知れない。

俺は入ってきた時よりも注意して、扉を閉めた。

 

………………

 

…………

 


……

 


「……たすけて」

 

 

……。

 

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「大丈夫そうだね」
「大丈夫でしょうね」


勉強を小休止している蓮治が気軽に応えた。

そう、普通の風邪なんだから、そこまで気に病む必要はないのだろう。

これは俺だけの苛立ち。

自覚的ではない感情の発露は久しぶりだった。


「そういえば、蓮治がミズキちゃんに俺のこと話したの?」
「あ、すみません……」
「隠してるわけじゃないから別にいいんだけど」


左手をゆったりと広げて、唇の端を持ち上げる。

酒と煙草、偏食や過度の運動を避けつつ、よくて数年と言われているが。

果たしてこの心臓はどこまでもつことやら。

そのうち、こうやって出歩くことすらできなくなるのだろう。

 

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ふと窓の外に目をやる。

世界は美しい。

だから、時々、やりきれなくなる。


「僕も訊きたかったんですけど、昨日はなにをしてたんです?」
「なにをって……」


一言で説明しづらくて、一度言葉を切る。


「今のうちにヴァイオリンを燃やそうとしてさ」
「え……ああ」


思わずというつぶやきだったが、蓮治はすぐに首を振って先を促した。


「最後だからって一晩中演奏して、それでいざ火をつけた時に、ミズキちゃんが走りこんで来て蹴っ飛ばしたんだよ」
「は? なにを?」


抜けた表情で蓮治が頭を上げた。

たぶん、昨夜の俺もこんな顔をしていたんだろう。

シリアスな話ではあるのだが、俺はつい吹き出してしまった。


「ヴァイオリン。ケースに入ってるやつをだけど」
「滅茶苦茶だ……壊れませんでした?」
「わかんない。どっちみち一度は火を点けちゃったし修理だよ」
「直すんですね」


俺の心変わりは察してくれたようだ。

ここ半年、蓮治のこういうところは大人になったなと思う。


「でも、なんでミズキは蹴ったんです?」
「火が点きっぱなしだったから、熱くて手が出せなかったんだ。仕方なく海に蹴りこんだんだよ」
「そんな海の近くにいたんですか?」
「そうだけど」


あまりにも真剣な声に驚く。

蓮治は俺の不審に気づいていないのか、目を細めて視線を逸らしていた。


「……別に今のミズキには関係ないんだろうけど」
「そういえば、すみれさんからも海に行っちゃ駄目って言われてたな」


他人の家の都合だと、あまり深く考えないようにはしていたが。

おかしな約束だ。


「あ、ええ」


慌てて──いつもの雰囲気に戻って蓮治が頷いた。


「行っちゃ駄目というか、色々ありまして……ミズキの伯母さんがそれだけは駄目だって決まり事にしてるらしいんです」
「泳げない……とかじゃ、別に行くなとまでは言わないよね」
「まあ……」
「無理して聞きたいわけじゃないから」


歯切れの悪い様子に苦笑してしまう。

しかし蓮治は、俺と目をあわせたまま、手を閉じたり開いたりしていた。

彼がなにか考え事をしているときの癖だ。

やがてその手が、閉じるほうで止まった。


「久瀬さんと一緒なんですよ。ミズキも隠してるわけじゃないんですけど、色々ありまして」
「聞いていい話?」
「たぶん……聞いておくほうがいいんじゃないかな。そんな気がする」


少し遠い目をして、蓮治が言った。


「ミズキは養子なんですよ」
「養子?」


予想もしてなかった話に思わず聞き返してしまった。


「そうあり得ない話じゃないと思うんですけどね。僕はそれが普通で育ったからかも知れませんが」
「驚きはするけど、まあね」


最近のご時世を考えれば、「驚愕の真実!」と言うほどでもない。

元々、音羽が大火に見舞われた過去もあって、家族を失ったとか親戚が寄り集まったって話も身近ではあった。

火村や彼女、何人かの旧友の顔が浮かんだ。

驚くことなんてなにもないだろう。


「えーと、ミズキちゃん本人も、自分が養子だって知ってるの?」
「ええ。もちろん本人から進んで言いふらしたりはしてないみたいだから、知ってる人もいないでしょうけど」
「そりゃね」


そこまで聞いて、はて、と疑問が生じる。


「それと海の話がどう繋がるの?」
「ミズキ自身には繋がらないんですけど……いや、ミズキの話ではあるんですが……」
「なぞなぞ?」
「違いますよ」


苦笑しながら蓮治が頬をかいた。

 

──「わたしも聞いていい?」

 

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突然の声に、俺も蓮治も慌てて首を回した。


「……ミズキ」

「…………」

「おはようございます」


扉の前にミズキちゃんが立っていた。

大丈夫かと声をかけようと思ったが、一目で顔色がよくないことを知る。

わざと気配を消していたのではないようだ。

いつもの存在感が発揮されていないだけで、実際に目の前にいても、どこか影の薄さを覚える。


「寝てないと駄目だよ」

「水を飲みに来ただけなんですけど……気になって、これじゃあ寝れないですよ」


弱々しく笑って、彼女は台所へと歩き出した。


「…………」


その背になにか言おうと思ったが、確かに、どうしようもない。

蓮治も同じことを考えたのか口を挟まなかった。

すぐにミズキちゃんが戻ってくる。

やはり存在そのものが遠い。

俺が知っている普段の彼女とは、まったく違う印象を受けた。

熱があるのか地に足がついていない。

上気した肌と、潤んだ瞳が、子供っぽさと大人っぽさの中間にあるような気がした。


「大丈夫ですよ。わたしが一番詳しく知ってる話ですから。ただ、蓮治がどこまで聞いているのか気になるの」


どういう心境か、彼女は俺にむかって小さく微笑み、壁際に立った。

ソファに座るよう言おうか迷ったが、そうなると必然的に場の中心になるので、あえて黙っていることにした。


「……あんまり重くしたくないから、軽く話すよ」


覚悟を決めたように蓮治が告げる。

俺たちにというより、自分に言い聞かせるように。

語り部となる彼に目をやると、必然的にミズキちゃんは視界に入らなくなる。


「羽山家が養子をひきとった理由は、子供ができなかったとかじゃなくて、子供が死んだからなんです。彼女は大人しくてきれいな子でした。ちょっと美化してるかも知れないけど……僕の初恋の相手でした」

「初恋」

「初恋」

「……そういうところにだけ反応するの止めてください」


場違いなうめき声を上げ、蓮治はため息をついてから姿勢を正した。


「ずっと昔、僕とミズキの家族で、海水浴に行ったんですよ」

「わたしのことじゃない」


補足するように、ミズキちゃんが感情のない声でつぶやいた。


「ああ、えと……つまり名前が同じなんです。死んでしまったあの子は」

「水の姫と書いて、水姫(みずき)って言うんです」


つまり、羽山ミズキと羽山水姫──響きだけ聞けば同じ名前の人間がいたことになるのだ。

思うところは多々あったが、まずは話を聞くことにする。


「名前負けして泳げなかったくせに、水姫は浮き輪に腰掛けてぷかぷかと浮いているだけで喜んでました。お昼に海の家でラーメンを食べて、麺が伸びていたし、スープも煮詰まってて……。でも、あんなに美味しいラーメンを食べたのは初めてだった。水姫ってコーンを箸で上手く食べられなかったんですよね。……なんでこんなこと覚えてるんだろう」


自分の記憶を、蓮治は不思議そうにつぶやく。

俺は腕を組んで黙っていた。


「それから、また同じように海で遊んでいました。僕は泳ぎ疲れて浜辺で休んでいて。ジュースを買ってもらってのんびりしていました。そこで気づいたんです」


なにかを探すように、蓮治の視線がさまよう。


「なにもなかった。ただ海に浮き輪が1つ漂っていて、平和な光景だったけど、なにかが足りなくて」


彼は意図的に感情をシャットアウトしている。


「そこに水姫の姿がないってこと、僕が最初に気づいたのに、すぐには意味がわからなかったんです」

「……溺死したのか」


思わず呻いてしまった。

死んだと聞いて、病気や交通事故を想像していたのだが。


「だから叔母さんは、海にミズキを行かせたくはなかった……あってる?」


蓮治が少女に語りかけた。


「……うん。大丈夫だよ」


その声で、場の緊張が解けた。

 

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ミズキちゃんがそこで、壁から離れて俺の前に立った。


「本当に大丈夫?」

「天使が笑ってくれれば」

「ああ」


やっぱりあの時の膝枕は夢じゃなかったのか。

思わず苦笑いを返してしまう。


「天使?」

「秘密」


唇に指を当てて、ミズキちゃんが艶っぽく笑う。

その動作も言葉も、昨日のご褒美のことを、ほのめかしている気がした。


「一応、蓮治の説明であってるんですけど、勘違いはしないでくださいね」


彼女は俺だけに視線を送っている。


「その話は水姫ちゃんの話であって、わたしのことじゃないんです。ちゃんとお母さんからこの話を聞いたの。名前は確かに一緒だけど、それは身代わりとかじゃなくて、自分の子供と同じように愛する決意だって。その分、ちょっと厳しいわけですが」


場を和ませるように冗談っぽく笑って。


「わたしの自慢のお母さんなんです」

「うん」


ミズキちゃんの言葉に、蓮治が小さな笑みを浮かべて頷いた。

正直、家庭環境に対する感情は理解しきれるものではなかったが。

ふたりの言葉に嘘はないと思った。

でも、なにかがひっかかっている……。


「わたしはこれで」


0時が近づいたことを知ったシンデレラのように、ミズキちゃんが俺の側を離れる。


「あ、ミズキ、ちょっとだけ待ってて。部屋に数学の参考書を取りに行きたいんだ」

「なにそれ。わたしが寝てても気にしなくていいのに」

「ちょうどいいだけだよ」


蓮治が笑って去ってゆく。

それを待っていたかのように、俺の頬にひんやりとした感触が触れた。

 

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ミズキちゃんの手が首筋──ちょうど頸動脈のあたりから頬までを撫でる。


「…………」


2秒ほど見つめ合う。

熱っぽく瞳が揺れている。

キスの前の、この空白の時間は、いつも不思議な感覚を覚える。

 

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ミズキちゃんのほうから身をのりだしてきて、唇が重なった。


「……ん」


生暖かい吐息。

こすれ合うくらいまで離れて。

もう一度、少しだけ深く。

甘い香りが鼻につく。

キスをするにしても、自分のほうが奪われるとは思わず。

それでも子供のようなキスだった。

 

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「……蓮治に見つかるよ」
「……これは人工呼吸だからいいの」


ミズキちゃんがささやいた。


「ロマンチックじゃないよ、それ」


自分の冗談に笑って──ミズキちゃんの目を見て、すぐに表情を殺された。


「本気で言ってるの……?」
「いくらわたしだって、冗談でキスなんてしません」


彼女は目を薄く閉じて。

ぞくっ──と背筋に震えが走るような、艶のある笑みを浮かべた。


「嘘です……昨日のはご褒美で、今日のは人工呼吸です」
「人工呼吸って」

 

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「息ができなくて苦しいから……」


どこか泣き出しそうな笑みを浮かべて、彼女がぎゅっと抱きついてくる。

力のない小さな身体で、それでも必死にしがみついているような。

いつもは冷たい彼女の身体が、熱を帯びている。


「…………」
「…………」


そこで気づいた。

蓮治の疑問と回答はズレている。


「前の水姫ちゃんとは関係なく育ててもらってるなら……それこそ、どうして君が海に行っちゃいけないんだ?」
「…………」


疑問を問いただそうとしたところで足音がした。

 

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ミズキちゃんが、ゆっくりと俺から離れる。


「今のは内緒ですよ」


一瞬にしていつもの無邪気な雰囲気で笑った。


「どうしたの?」


居間に戻ってきた蓮治が首を傾げる。


「おやすみなさいって挨拶してただけ」

「そう」

「久瀬さん、今日はごめんなさいです」

「いや……」


なぜか言葉を失ってしまう。


「明日には元気になってますから。今まで通り、わたしと遊んでやってくださいね」


ミズキちゃんは上目遣いに俺の顔を覗き込み、無邪気に微笑むと、部屋に帰っていった。


「…………」


もしかして俺、勘違いしてないか?

子供の背伸びだとばかり思っていたのに。

気がつけば、どっちがどっちと遊んでいるのかわからなくなっていた。


「どうしたんです?」
「……どうしたんだろうね」


本当に。

なにがわからないのか。

自分でもよくわからなかった。


……。

 

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「なあ、思ったんだけど」
「思うだけで口にするな」


お互いに挨拶も抜きに見つめ合う。

どうやら火村はご機嫌らしい。


「こういう時、俺がおまえを殴るのと、俺がおまえに殴られるのは、どっちが青春だと思う?」
「今さら、おまえと青春したくねぇよ」
「それもそうか」


至極まっとうな意見に賛同することにした。

確かにどっちもキモイな。


「それに、どっちにしろ俺が痛いだけだ」
「それが納得できるくらいなら、ここに来るな」
「ミズキちゃんを扇動したのはおまえだろ?」
「どうなった……って、その様子なら聞くまでもないか」
「海老で鯛が釣れたぞ」
「ん?」


さすがに予想とは違う答えだったのか、火村が興味を向けてきた。

俺は昼間の感触を思い出すように口元をさする。


羽山ミズキは雨宮優子に似てるかも知れない」
「優子に?」


火村が顔をしかめた。

以前にもその相似について考えたことはあったが、今日の出来事は決定的だった。

自分でもまさかとは思ったので、俺よりも彼女に通じている火村の反応を確かめるつもりだったのだが。


「…………」


少しだけ間が空く。

そこで、消化はできたのか、落ち着いた様子で火村がゆっくりと瞬きした。


「……そっちは考えもしなかったな」
「そっちは?」
「最初に会ったとき、優子とは別の人間のことを考えてた」
「そういえば、なにか驚いてたな」


言われてみれば、俺よりも先に、火村は彼女になにかを見ていたような気がする。


「……妹かと思ったんだ」
「ああ」


心底納得した。

死んだ子供の年齢を数えてはいけないというが、それは無理からぬことだろう。

そして、火村が妹さんのことを吹っ切ったときの"彼女"の年齢と、今のミズキちゃんの年齢は確かに近い。


「……そうか」


だからこいつは、千尋ちゃんや蓮治に構ってしまうのか。


「鯛で鮫が釣れた」
「おまえはなんつーか、歯ごたえのよすぎるイカだよな……」


ため息をついて、火村が首を振る。


「失言だ。聞き流せ」
「貸しにしていい?」
「おまえ……そもそも俺にどれだけ貸しがあると思ってるんだ?」
「唯一、それだけは清算しなくてもいいと思ってる」
「帰れ」
「妹みたいだって感じた子を、俺なんかにあてがうなよ」


唐突に1つ前の話に戻す。

真剣に目を細める。


千尋ちゃんと違って、俺は本当にどんづまりだぞ」
「……まあな」


火村が頭をかいた。


「それはわかっているんだが……いや、どうなんだろう」


珍しく歯切れが悪い。

こいつもミズキちゃんのことを読みきれていないのだろう。

彼女には、無邪気に予定調和を乱すところがある。

その乱れるベクトルが違うだけで、それはやはり雨宮優子の持っていた特性だ。


「なんとなく目が離せないよな」
「惚れた?」
「いや」


俺はミズキちゃんのことが好きだけれど。

それが恋愛感情かどうかはあやしく。

もし仮にそうだとしたら……それこそ取り返しがつかないから。


口先だけでも認めることはできなかった。


「難儀なものだな」


火村が目を細める。


「それでも明日も会うのか?」
「そう、なるんだろうね」


お目付け役はとうに首になり、約束の1週間も今日で終わりを迎えるのだとしても。


「彼女は俺のところに──あ、やべ」


かっこよく決めようとしてたのに、すっかり忘れていたことを思い出した。


「どうした?」
「明日は病院で検査の結果が出るんだった」
「そんな大事なことを忘れんなよ」
「ここ最近、寝てる時間が滅茶苦茶で日付の感覚が死んでたんだ」
「来ちゃうぞ」
「困ったな」


素直に説明すれば余計な同情を買いそうだ。

かといって、一度交わした約束を反故(ほご)にして、今さら借りを作るのも嫌だし。

どうしたものか。


「仕方ないから身代わりの術でも使うか」

 

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俺は忍術を使うために両手を縦に組んだ。


…………。

 


……。

 

 

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「にんにん」
「ほえ?」


扉を開けると意外な人物が立っていた。

控え目なノックで久瀬さんではないと思ったが、あまりにも予想外な展開だった。

 

「あ~……忍者?」
「くノ一です」


千尋先輩は意味不明なつぶやきを終えると、頭を下げた。


「先制攻撃で、今のように言えと伝言を任されまして。おはようございます」
「は、はぁ……えと、おはようございます」


なにがなんだか。

伝言って、火村さんからだろうか。


「蓮治でしたらまだ学校ですよ?」


私の体調が戻ったこともあり、蓮治は「家にいるほうが楽なのに」とか軟弱なことを言いながら学校に出かけていったが。


「はい、そうですね」


棒読み口調で千尋先輩が小首を傾げた。

そ~ですね、と輪唱したくなったが止める。


「蓮治くんのお母さんはいますか?」
「ああ、おば様に用事でしたか。そっちも思いっきり留守ですけど」
「そうですか。困りました」


全然困ったようには聞こえなかったが、千尋先輩が再び口を傾げた。

 

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「どうしたんですか?」
「ミズキちゃんでもいいのでしょうか」


先輩が視線を落とす。

ちょっと大き目の鞄が彼女の足元に置かれていた。

それはまるで、この街に来たばかりのわたしのようだった。


「急な用事で、火村さんが久瀬さんと出かけることになったそうで、1日だけ泊めて頂ければと。……そうお願いするように言われて来たんです。後で火村さんからも電話があるはずですが」
「あの、久瀬さんもいないんですか?」


予想外のさらに斜め上の情報にびっくりした。


「そう、なんでしょうね。さっきの伝言は久瀬さんからです」


あまりにも当たり前のことを、千尋先輩が肯定する。

というか、千尋先輩の用事を後回しにして確認することではなかった。


「え~と、お泊りですよね」


唇に指をあてて考える。

蓮治とおば様がどう言うかってことだから。


「ちゃんとしたお約束はできませんが、たぶん大丈夫だと思いますよ」

 

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「ご迷惑でしたら言ってください。むしろ、私なんて迷惑しかかけないような存在ですけど……」
「と、とりあえず中にどうぞ」


どこまでも卑下していかれそうで、わたしは慌てて家の中への道を開いた。


……。

 

「ちなみにですけど、ここが駄目だったら誰のところに行くつもりなんですか?」


居間に落ち着いてもらったところで訊ねる。

千尋先輩は見た目のわりに軽そうな鞄をおいて、ワンテンポ遅れて再び首を傾げた。

 

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「駅か教会で寝ようかと思ってます。屋根さえあればいいので」
「あははは……」


もの凄く本気なんだろうな。

景先輩とは違うが、こういうワイルドな割り切り方は、とても姉妹だなって思う。


「野宿は本当に止めてください……危ないですから」
「大丈夫ですよ。ジュースを買うくらいのお金しか持ってませんし」
「そうじゃなくて……」


外見的な優性をご理解いただければというか。

お金でなくても奪われるものも色々ありまして……。


「…………」

 

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ふと、野宿する千尋先輩の絵を想像してしまう。

駅のベンチで鞄を枕にして眠るチャイナ服の少女。

 

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「うわ、わたしが襲いたーい!」
「なにがですか?」
「いえいえ、気にしないでください。持病の発作みたいなものなので♪」


馬鹿な考えを誤魔化すように、ちょちょいと魔法のステッキのように指を振る。


「でも、もしもの話ですが。ここが駄目だったとしても、火村さんがいないと言うだけで、家で普通に寝ていればいいと思います」

 

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「…………意外な盲点です。帰りましょう」
「ちょ、ちょっと待ってください!」


鞄を持ち上げようとする千尋先輩を、わたしは慌てて呼び止める。


「と、とりあえずなにかして遊びましょう。あ、わたしトランプ持ってるんですよ!」


わたしは急いで荷物の中からトランプをとってきた。

 

「なにしましょうか、好きなゲームとかありますか?」


カードをきりながら、彼女を真似て首を傾げてみる。


「…………」


ちょっと角度が甘いか。

千尋先輩はいまいち感情を量りかねるような沈黙の後につぶやいた。


「神経衰弱とポーカー」


つっこみどころ満載だった。


……。

 

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午後2時を過ぎたところで、蓮治を待つために駅を訪れた。

ちなみに、神経衰弱は良い勝負ができたが、ポーカーはさっぱり表情が読めずにボロ負けだった。

なるほどポーカーフェイス。


「蓮治は3時くらいに来るんでしたっけ?」


わたしは小さな声で訊ねる。

通りの賑やかさから離れ、穏やかな時間が流れる場所を、乱したくなかった。

 

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「そうですね。遅くなるときもありますが、だいたいそのくらいの時間に来るみたいです」
「なるほど」


明日にはテストだろうに。

いや、千尋先輩の障害のことを考えたら、毎日会うことが大切なんだろう。

やっぱり本気なんだ、蓮治も。

ちょっと妬ける……かな?


「ミズキちゃんはご飯が作れるのですね」


千尋先輩が落ち着いた声音で言う。


「はい、ちょっとですけどね」


昼食にわたしが作ったチャーハンのことを言っているのだろう。

冷蔵庫の余り物で作った、すご~く適当なものだったのだが。


「うらやましいです」
「そうですか?」
「はい。お弁当とか……せめて自分の分くらいは用意できればとは思うのですが」
「教えましょうか」
「覚えていられないのでいいです」
「別に覚えていられなくても、やってみれば面白いと思いますよ」
「……意味がありません」
「意味がないことはないと思います!」


わたしは思わず強い口調で言ってしまい、うっ、と呻く。


「意味がないことはというか、意味があるなしじゃなくて……なんでしょう、こう……」


にょろにょろと手を動かしてしまう。


「楽しいことは自分で見つけるものではないかと」


それはヒロ先輩やみやこ先輩、景先輩や堤先輩を見ていて気づいたことだ。

だからこそ、その気持ちを千尋先輩が否定してしまうことは──駄目なのだ。どうしても。


「ミズキちゃん……」


わたしの言葉に、彼女が右目だけで驚いた後、はにかんだ笑みを浮かべる。

 

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「ありがとう。でも、どうもうちの家系は、本人の才能とは関係なく料理との相性がよくないようなので、遠慮しておきます」
「あ~……」


そういえば景先輩も家庭科が苦手だって言ってたっけ。


「まあ、わたしに教わるよりは、蓮治とかおば様とかプロがいますからね」
「あそこまではさすがに」


ふたりしてクスクスと笑う。

そうやってしばらくすると、制服姿の蓮治がやってきた。

 

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「……ミズキだ」

「アロ~」

「なにしに来たの?」

「馬に蹴られに」

「あのね……」

千尋先輩がお泊りしたいんだって」


わたしは彼女の事情を説明する。

千尋先輩もうんうん、と隣で頷いていた。


「別にいいんじゃない」


軽い雰囲気で蓮治が即答する。

ああ、この馬鹿男。

せっかくの機会なんだから、もうちょっと色気のある話題として引っ張ればいいものを……。


「でも、空いてる部屋がないな」

「隊長、是非わたしと相部屋でいいと希望します!」

「提案と要望が滅茶苦茶混ざってるけど……居間のソファってのもなんだし、千尋がそれでもいいなら」

「ご迷惑でなければお願いします」


交渉成立。


「あ、そうだ」


急に声を上げたわたしに、視線が集まる。

蓮治を見て思い出した。


千尋先輩、この前はすみませんでした」

「この前?」

「3日前のことなんですけど」

「……3日前」


千尋先輩がポケットから手帳をとりだして、目を細める。


「海老とクルミのスパゲティ、8点」

「美味しそうですね」

「火村さんも料理はかなり上手いようですね──」

「違う違う。話が逸れてる。久瀬さんに気を遣うなって僕等が言ったことだよ」
「そんなことがあったんですか?」
「あったよ。そこまで細かいことは書いてないかな」


慣れた様子で、蓮治が千尋先輩の不足している情報を補う。


「あの、久瀬さんはどうしようもないんだって言われて──なにもするなってことと勘違いしまして、ごめんなさい」


「いいんですよ」


微笑みを浮かべながら彼女は首を振った。


「それなら、私も謝らなくてはいけないんです。ミズキちゃんと久瀬さんが初めて駅に来た日に、私は病気のことを知っていたのですが黙っていたので」

「え……あっ、トイレから帰ってきたとき」

「はい。これで、おあいこです」


精神的にはわたしより年下のはずなのに、落ち着いた物腰で千尋先輩が小首を傾げた。


「ミズキちゃんなら大丈夫ですよ」
「……ふたりとも律儀だね」


蓮治が苦笑いを浮かべていた。

自分もお節介なくせして──とは、彼女の前なので言わないでいてあげよう。


「私、ちょっとだけ久瀬さんの気持ちがわかるかも知れないんです」


千尋先輩がゆっくりとつぶやいた。

建物の雰囲気と彼女の容姿があいまって、それはまるで舞台演劇のように見えた。


「久瀬さんも、もう終わってしまったのでしょうね」

「終わってしまった?」

「そう。人間は消える前に終わることがあるんです。ぴったりじゃなくて。早いか遅いかの差はあるけど、消えたと思った瞬間と、実際に消える瞬間は重ならない……わかりますか?」

「ん……どうでしょう」


正直には、よくわからなかった。

むつかしい。


「そこは終わってしまった世界。でも大丈夫」


花のような笑顔で。



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「どう思っていても、世界は終わってないから。どこかで繋がっています」


……。