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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【12】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
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Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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……。


「よお、大丈夫か?」

 



「…………」

「生きてるよな」

 

かなり容赦ない力で火村が頬を叩く。

非常に痛い。

黙っていると何度もはたかれることになりそうだったので、ため息をもらす。


「……寝起きにおまえの顔を見ると、地獄のほうがましに思えるな」
「救急車呼ぶか?」
「……いや、いい」


動機は速かったが、人間としての許容範囲だ。

それに、次に倒れたら有無を言わさず入院だと告げられていたし……。


……なにより、彼女に気づかれたくなかった。

そして。

また。


「……死にぞこなったか」


本当に……あんなことをして……死んでしまっても良かったのに。

口元を拭おうとするが、いまだに手が震えていて、いうことをきかない。


「……はぁ」
「立てるか」
「無理」
「危なかった?」
「いや、そうでもない……前よりは軽い」


表面上はなにごともなかったかのように火村の相手をする。

今回の発作は起こるであろうと予想もしていた。

会話をしながらこちらの様子を観察していた火村は、問題ないと判断したのか、俺の上からどいて、どこかへ消えた。

 



そのまま天井を見上げる。

ああ、空ばかり見ている。

膝枕がないと頭が痛いな。


「とりあえず上だけでも着替えろ。汚れてるし風邪ひくぞ」


ぼさっ、と顔に乗るように火村が上着を投げてきた。

そう言われれば、シャツはびっしょりと汗で濡れていて、クーラーの風に吹かれて寒さを覚える。

俺はなんとか身体を起こして、ボタンがいくつかなくなっているシャツを脱ぎ捨て、新しい肌触りのよい服に袖を通した。

あたたかい。

火村はその間、クーラーの設定温度を高くして、床に散らばった錠剤を拾い集めて瓶にしまっていた。

手持ち無沙汰なのか律儀なのか。


「……はぁ」


ようやく落ち着いた。

 



「顔も洗って来い」
「……おまえは俺の母親か?」


頬に手を当てて呻く。

乾いていたが、唾液と鼻水と涙の跡で、肌がざらついていた。

バスルームまで行くのが億劫で、俺はキッチンの流しで顔を洗う。

こんなことばかりしている。


「……助かったよ」
「ああ」


火村はそれだけつぶやいて、なにも言わない。

日毎、時間があれば俺の様子を見に来るようになったのは、3度目の発作以来か。


「すまない」
「うぬぼれるなよ。単に、この街で死なれると目覚めが悪いだけだ」


ニヤリと笑った後、火村は、俺が真剣に謝っていることを察したようで表情を変えた。


「なにがあったんだ?」
「ちょっと……辛い……」

 



「…………」
「なに驚いてんの?」
「いや、初めて聞いたな」
「え?」


なんのことだがわからなかった。


「おまえがそういう泣き言を口にするのは。前の彼女と別れたときも、それはなかっただろう」
「……そう、だっけ?」


ひげでも確認するように顔をさすりながら、倒れる前のことを思い出す。

別に発作のことじゃなくて。

酷いやつだ。

滅茶苦茶だ。

絶対に後悔するなとか、ミズキちゃんの涙を目にしても冷淡に振舞えるかとか。

そんな心配がすべて杞憂に終わってしまった。

すべて予想通りに。

上手くいってしまった。


「ああ、もう……」
「……まさかおまえ」
「うん……前の彼女の時と同じことをした」
「……馬鹿が」


呆れたように、そして微かな怒りをほの暗く見せながら、火村が吐き捨てるように言う。


「本当に馬鹿だ」
「自分でもそう思うよ」


無理やり作り笑いを浮かべた。

たぶん、ものすごく失敗している。


「あの子は……俺の代わりに泣いてくれたんだ……。どうしたら……もっと上手く……彼女たちを幸せにしてやれたんだろうな」


いつも自問している。

結局、なんだったのだろう。

なにが間違っているのだろう。

もっとやさしくしてやりたいのに。

笑っていてほしいのに。

ずっとずっと。

上手くいかない。

最後まで。


「ちくしょう……」
「おまえが100%間違ってるわけじゃないし、彼女たちが100%正しいわけじゃない」


火村が軽い口調で言った。


「そういうのは、足し算や引き算で二極化するものでもないし」
「青春しないの?」
「もうそんな年でもないだろう」


どこか遠いところを見つめてつぶやく。


「それに、あえて殴ってやらないほうが痛いときもある」
「なるほど」


確かに。

殴って……そうやって、それが罰だなんて誤魔化しを許さない火村は容赦がない。


「それに、まあ俺はおまえの……」


火村は照れたように、不愛想な顔に戻って視線を逸らす。


「……なんでもない」
「そうだな」


俺はまた狂いそうな胸に手をあてる。


「火村、頼みがある」


真剣に。


「最後の頼みだ。俺の代わりに、彼女をこの街から見送ってやってくれ……」


…………。

 


……。

 

 



「……はぁ」


堤防に寄りかかって、わたしは何度目かのため息をつく。

浜辺へは、あまり降りたくない。

海は怖いから。

それでも……どうしても自分は海に惹かれる。


「……っ」


ふいに、胸の内側に痛みが走った。

手で触れられない場所なので、仕方なく風に身を任せて我慢する。

それでも流されないしこりが、全身に残っていた。

無遠慮に他人に触れられると、ああも違和感を覚えるとは思わなかった。


「……はぁ」


また、ため息。

そうやってたら、何度か男の人が話しかけて来たけれど。

なにを言ってるかわからなくて無視した。

海に遊びに来ている人たち。

みんな、笑っているね。

男の人が今はちょっと怖かった。

思い出すと泣きそうになる。

まさか自分が襲われるだなんて……そんなこと夢にも思わなかった。


「……なにが間違っていたんだろう」


ぼんやりと青い空を見上げる。

どうしたら。

みんな幸せになれるんだろうね。


…………。

 

……。

 

翌日、わたしは千尋先輩に会おうと駅を訪れた。

おば様が一緒に遊ぼうかと言ったけど、それは断った。

勘が鋭いから。

気づかれたくないし、顔をあわせていられなかった。

 



蓮治は……。

なにやってるんだあいつ?

ま、いいけど。

 



「そんなわけで、こんにちはです千尋先輩!」


元気に手を振る。


「こんにちは」
「今日も夏っぽく、あっつい日ですね」
「はい、そうですね」


ネジで動いていそうな端的な口調。

 

「今日はどうされたのですか?」
「いえ、特に用事があったわけではないのですが。なんとなく先輩エネルギーが不足してるんだろうなって」
「はあ」
「気にしないでください」


頭をかいて照れ笑いを浮かべる。

気にされてしまうと困るから。


「そういえば」

 



言って、千尋先輩は手帳を取り出して、何かを数えた。


「えーと……4日前は急にお邪魔してしまって失礼しました」
「あ、いえいえこちらこそ。ばたばたしてしまって」


千尋先輩の相手もせずに、久瀬さんのところに行ってしまったし……。


……あ、また落ち込みそう。

がっくり。

話題を変えよう。


「とりあえず蓮治が来たら帰りますから」
「なんでですか?」
「えーと……色々と都合の悪いことが」
「喧嘩されてるとか?」
「そうじゃないんですけど……。まあ、顔をあわせたくない時期っていうのがあるかもなので、ハズレてもいないっす」
「……そうですか」


なんだか真剣な顔でつぶやいて。


千尋先輩は線路を見てから、わたしに向き直る。


「私は、ミズキちゃんと蓮治くんはお似合いだと思うのですが」
「お似合いって、なにがですか?」
「恋人として」
「はあ!?」


あまりの不意打ちに、とんでもない声を上げてしまう。

もう一度、脳内で言葉の意味を考えてみよう。

わたしと、蓮治が、恋人としてお似合い。


「ギャグですか!?」
「いいえ、真面目なお話ですが」


それこそギャクの通じない受け答えをされてしまう。

わたしは千尋先輩を見つめた。


「あの日の夜、そういう会話をしていたんですよね?」
「あ、泊まっていった日……そうですね」
「それで今日、思ったんです」


ほんのわずかに空を見上げて、千尋先輩が息をついた。

白い喉が艶めかしく動く。


「たぶん、なにかが違ったら──むしろ、そのほうが良かっただろうなという、可能性があったんだなって」
「可能性って?」
「ミズキちゃんと蓮治くんが仲良くなって、私が久瀬さんと出会う世界」
「え」


呆けてしまう。

よくわからなかった。

千尋先輩は苦笑しながら小首を傾げる。


「そこでは、蓮治くんとミズキちゃんは、ただ自然と仲良く笑っていて。そして、久瀬さんが病気で死ぬことがあろうとも……そんな悲しみを私は忘れてしまえるから、穏やかに生きていて。そういう世界」
「…………」


驚いた。

そう言われてしまえば、つい考えてしまい。

それが──きれいに完結した世界であるように思えてしまった。

どこで反転したのか。

今が間違った世界であるように思えてしまう。


「たぶん、お姉ちゃんのことを考えていたら思いついてしまったんでしょう」
「景先輩のこと?」
「はい。お姉ちゃんが、紘お兄さんと結ばれていた可能性もあったんだろうなって」
「…………」


物語を紡ぐ彼女だからこそ、そういう可能性に目を向けるのだろうか。

鏡の向こうにある幸せ。


「……でも」
「はい、もちろん、そういうこともあっただろうなという話です」


穏やかに千尋先輩は微笑む。


「私は私でしかありません」
「…………」


そこでわたしは、

あり得ないと思いつつ、

気づいてしまった。


千尋先輩……もしかして蓮治とのこと……」
「はい。覚えています」


彼女は変わらぬ微笑みを浮かべたまま、あっさりと肯定した。


「あ、本当は覚えているではなく、知っている──ですが」
「どうしてですかっ!?」


思わず詰め寄ってしまう。

千尋先輩は居心地悪そうに困った顔をして。


「お姉ちゃんとのメールや手紙のやりとりが残ってて……手帳をなくせばそれで終わると思い込んでて……すっかり忘れてました」
「景先輩が……」
「余計なことだって返事をだしたら、電話がかかってきて、物凄く叱られてしまいました。妹の幸せを願ってなにが悪いのよ。心配するに決まってるでしょ! って。半年前、私が記憶をなくしたとき、実はもう家に戻そうかって話もあったんです。でも、お姉ちゃんが反対したんだそうです。あの子には、まだやることが残ってるからって」


らしい。


「うん……景先輩らしいや」


なんだか可笑しくなった。

 



「あはははは」
「自慢のお姉ちゃんです」


千尋先輩も小さくだが笑った。

わたしは久しぶりに大きな声で笑った。


「自分の記憶には残らないけど、誰かの記憶には残るんですね」
「……はい。なにがあったのか、細かいところまではわかりません……。あくまでも断片的に、蓮治くんと私が恋人だった時間があったんだなって……それを知っているだけなんです」


そこで笑みを消して。

そう……覚えていたのに、千尋先輩は蓮治に気のない演技をしていて。


「……それでもダメなんですか?」
「わかりません」


肯定も否定もせず、千尋先輩は首を振る。


「その時の自分の気持ちが……。本当にそれでいいのか……今の私にはわからないんです。でも、もし蓮治くんと恋人だった自分がいたと思うと、胸が痛くなります。そんな幸せそうな時間を過ごした自分に、嫉妬してしまいます」


彼女が眼帯を示す。


「この目と一緒です」
「そうですか」


なにも言えない。

たぶん、なにも言う必要がないんだって。

わたしよりも、みんな自分でわかっていて頑張っている。


「…………」


久瀬さんも嘘つきで。

なんでもない顔で。

つらいとか苦しいとか言わず……。

でも、あれも本当なんだろうか……。

わからないよ……。

 



「蓮治くんが来ました」


駅の入口を見ながら、千尋先輩が右目だけに憧憬を浮かべた。


…………。

 

……。

 

 

 



そうやって、誰もがなにかを抱える中で、上辺だけは穏やかな時間が過ぎていった。

ふと気がつくと、街がどこか華やかな空気を帯びているのを感じた。

ああ、お祭りが近いんだって思い出した。

そろそろなんだ……。

お祭。

綿菓子のような空気。


「……ふわふわ」

 



「あのお店、美味しかった?」


ぼんやりしていたら、隣を歩くおば様が突然声をかけてきた。


「あ、はい」


さっきランチを食べてきたお店のことだろう。

わたしは正直に頷いた。

さすがに舌が肥えているだけあって、おば様や蓮治のそういう目利きは信頼していた。

たまに新しい食への探求心からなのか、ショッキングな味に出会わされることもあるけど。


「他にも色々と紹介したいけど。ケーキとか甘いの……でも、胃に入らないことにはどうしようもないか」
「あはは、さすがにもう入りません」


ランチと食後のお茶を別の店でという、少々、お腹にとっての強行軍である。

自然と歩幅もゆっくりだった。


「太るのも困るし?」
「まあ……それが一番ですが」
「うふふ」


今日は──思えば初めて、おば様と一緒にこの街を歩いていた。

千尋先輩との会話で、ちょっと楽になったから。

それに、もうすぐ、わたしがこの街にいられる時間も終わってしまうから……。


「…………」


ふと、とあるお店が目についた。

久瀬さんがヴァイオリンを修理にだすために使ったお店。


『壊れちゃっててね。今は弾けないんだ』


出会ったときに告げられた言葉。

あの壊れたというのは、自分に対しての言葉だったのだろう。


「……本当に嘘ばっかり」
「なに?」
「いいえ、なんでもありません」

 

首を振って真っすぐ顔を上げる。

人ごみの中でなにかが目に付いた。

なんだろうと思って目を凝らすと、学生服の後ろ姿──蓮治が遠くに見えた。

わたし達はゆっくりとショーウインドウを覗き込みながら歩いていたので、すぐに彼の姿は消えてしまう。

おば様に目をやると、彼女は蓮治に気づいていないようだった。

そうだね。

わたしは微笑む。

ここは、蓮治が毎日通っている道。

晴れの日も、雨の日も、雪の日も……世界の終点へと続く道。


「おば様は、蓮治が千尋先輩と付き合うことに反対しますか?」


自分でも残酷な質問かと思ったが。

それでも訊きたかった。

おば様はわたしを一瞥して、曖昧な笑みを浮かべた。


「……大人になったのかな」
「え?」


返答が理解できなかった。


「蝉が脱皮するのを見たことある?」


まったく違う方向から手が伸びてくる。


「あります」

 



それは理科の観察実験だったろうか……いや、家の軒先にいた幼虫を見つけて、一晩中ずっと懐中電灯を当てて見ていたのだったか。

 



『ほら、見てごらん』


誰かが指差した。

お母さんだったろうか……お父さんだったっけ。

そう、夜更かしできる夏だからこそ、それを目にする。

羽まで透けた純白の、

柔らかそうな、

羽化。

 



そして抜け殻が残る。


「蝉よりは、さなぎから蝶になるって言ったほうがきれいかな。女の子って急に変わるのね」
「わたしのことですか?」
「ええ。今までのミズキちゃんは、そういう質問を口にしなかったから」
「そう、でしたっけ?」
「そうよ」


暑い日差しがショーウインドウに反射してきらめく。

赤い街が揺らぐ。


「蓮治がどうするかは、私がなにか言うつもりはないかな」
「いいんですか?」


もう千尋ちゃんの障害も知りえているだろうに。


「だって、あの子の人生でしょ」


それ以上でも以下でもないという風に、軽い口調で──どこか火村さんに似た言い方でおば様は笑った。


「子供の頃、親がああしろこうしろってうるさくて嫌で……自分が嫌になったら絶対にそういうこと言わないって決めてたし。なりたいものに、なればいいわ。これって親馬鹿だと思う?」
「あ、いえいえ」


わたしは慌てて首を振る。

たぶん、わたしのお母さんもそう思っているのだろう。

この人たちは姉妹だから。

どこか景先輩と千尋先輩の関係にも近い気がした。


「でも、蓮治はこれから本当に、痛い目にあうでしょうね。きっと。必ず」


まるで、そうなってほしいという口調で。


「我が子ながら信じられないくらい馬鹿だから。再確認しまくってるし」
「あ、あはは……」


自分でも蓮治のことをボコボコに言っている気がしたけど、やはり実の親には勝てないと思った。


…………。

 

……。

 



夕飯の支度があるからと、おば様は先に家路についた。

わたしは足を伸ばして、また海へと向かう。

今日は腕を振るうと言われてから、夕飯が楽しみで、少しお腹をすかせておこうと思った。


……。

 



一昨日と同じように海岸沿いの道を歩いていると、わたしの指定席に見知った顔を見つけた。

嬌声が聞こえる海辺には似合わない制服姿で。

蓮治が堤防に座って、シャボン玉を吹いていた。

 



なんでシャボン玉?


千尋先輩はどうしたの?」


わたしは屋根より高く飛んでいく泡を見上げながら訊ねた。


「駅で小説を読んでるよ」
「商店街にいたよね」
「ああ、やっぱりあれは母さんとミズキだったのか」
「気づいて声をかけなかったのね、あんたは……」
「まあ」


彼は誤魔化すように勢いよくシャボン玉を吹いた。

油膜がきらきらと虹色に輝く。

 



「それ、どうしたの」
「商店街で見つけたんだ。懐かしくてつい買っちゃった。千尋にも1つあげたけど、ミズキもいる?」
「いらない……なんで千尋先輩を置いてこんなところにいるの?」
「僕の書いた小説を読んでもらってるんだ」


蓮治が育ちのよい笑みを浮かべる。

 

「内容がちょっとあれで、一緒にいないほうがいいかなって。昨日ようやく新しいのが書きあがってさ。25日までに間に合ってよかったよ」
「小説って、いつの間に書いてたの?」
「いつって……ずっと書いてたけど、なんで?」
「テスト勉強はどうしたのよ?」
「それもしてたから大変だったんじゃないか」
「うわ!」


こいつ……そんなことしてて、わたしの相手をしてくれなかったのか。

本当に不器用。

でも、彼に好かれる人は幸せなのかも知れない。

 



それはあなたです。

千尋先輩。

 



「……ねえ、蓮治ってさ」
「うん」
千尋先輩のことを考えながら、したことある?」
「なにを?」
「えーと」


言いにくいな。

した? いたした? なんて言えばいいんだ……。


「……察して」
「え? ……あ」


わかりやすく頬を赤らめる。

 



「なにそれ? ねえ、いじめ? いじめなの?」
「けっこう真剣だったりなかったり」
「どっち?」
「真剣」
「そうか」


シャボン玉を吹いて、蓮治は考えあぐねるように間をおく。

ああ、やっぱりあるんだ。

 



「……な、なくはないというか」
「そ、そっか」
「恥ずかしいならするなよ……そんな質問……」


赤くなってお互いに視線を逸らしてしまう。

蓮治は海を。

わたしは街を。


「……あの日、大人になりたいと思った」


視線をそのままに、蓮治が遠い目をしてつぶやいた。


「心の底から、背筋を伸ばした大人になりたいって思ったよ。そうしたら、大人ってなんだろうって疑問にぶつかって──誰かになにかを与えられる人。こういう大人になりたいなって、そう、誰かに思ってもらえる強さを持っている人。それが大人だろうって思った」
「…………」


不思議と首の裏側が熱くなった。


「……そろそろ読み終わるころかな」
「どんな小説を書いたの?」
「半年前のことを書いた」
「え……なんで!?」
「ずっと考えてたから」


蓮治はわたしの顔を見て頬をかくと、ふーっ、と3つのシャボン玉を高く飛ばした。


千尋が忘れてしまうなら、僕がそれを形にすればいいんだって。1ヶ月分の内容だけど、2時間くらいで読めると思う……。そうやって、彼女にとって大切なことを、僕が残してやればいいんだ。それしかないなって」


空に消えていくシャボン玉の行方を追いながら、蓮治が頷く。


「父さんと母さんにも、千尋のことを説明した。自分の力だけでなんとかしようなんて、うぬぼれる必要はないからね。一番に考えなきゃいけないのは彼女を大切にすることで、それにはきちんとしないといけないから──もちろん、全部、彼女が応えてくれるならの話だけど……あの小説を読んで、半年前、雪のように消えてしまった千尋(あの子)を、今の千尋が幸せにしてやりたいって──そう思ってくれるといいな。やっぱり好きだからね」
「…………」
「心配しなくていいよ。覚悟はしてる」


蓮治がわたしを気遣ってやさしく言う。

笑いながら手を握ったり開いたりしていた。

緊張してる。


「できる限りのことは書いた。自分でもよくできたと思う。嘘もついてない。それでもダメなら……」
「……諦めるの?」
「…………。また書くしかないよね」


彼はぐっと拳を握り締めて、何気ないように続ける。


「努力はしたけど、それが見合わないなら力が足りないか、頑張る方向が間違ってるんだろうね。ゆっくりとでいいよ。もう、焦らない。僕は天才じゃないし、不器用だから。でも、人の心を打つ作品って、そうやって真剣に向き合ってこそ生まれるんだろうなって……。……色々と考えたんだけど、どうかな?」


自信なさげなところがなければいいのに。

私は笑ってしまった。


「それ……誰の言葉? なんの本に書いてあったの?」
「どこにも書いてないよ」
「え?」
「僕の言葉だよ」


……。

 



そして、ふたりで駅へと向かう。

街は夕暮れ。

門限をとっくに過ぎている気もしたが、わたしも結末を見届けたかった。


「…………」


蓮治はさすがに緊張を隠せる状態ではないらしく、ずっと黙っている。

千尋先輩はあの時のことを知っている──それを伝えようかと思ったが、言っちゃダメだねと、わたしも口を閉じて歩いていた。

 



「どうする、わたしも中に入っていいの?」
「え? あ、そうだな、どうしようか?」


蓮治がおどおどと考え込む。

海での言葉や仕草がかっこよかったから、てっきり即答されると思ったのに。

思わずジト目になってしまう。


「あんた、なに躊躇ってるのよ」
「いや……あ~……なんか緊張してきちゃって」


もじもじと。


「面白くないとか、いきなりで嫌がられたら最悪だよな。あ、まだ読み終わってなかったらどうしようか? 最後の場面読んでるときに顔を出しちゃうとまずよね? なんか僕って、そういう間の悪さとかありそうじゃない?」
「…………」


あかん。

思わず脳内大阪弁で呻いてしまう。

こいつ……やっぱり麻生蓮治なんだ。

 

「大丈夫、なる時にはなるようにしかならないから」
「それってダメなんじゃ……」


泣きそうな顔で蓮治がつぶやく。

不思議そうに、通りすがりの方々がこちらを注目していた。


「……ついていってあげるから」


ため息をついて、わたしは子供を歯医者に連れて行くような気分で、駅に入った。


……。

 



舞台は再び駅へと戻った。

彼と彼女の出会いの場へと。


「…………」


両手で顔を覆いながら、千尋先輩はベンチに座っていた。

飛び立ちそこねた鳥のようだと、蓮治がいつか形容していたことを思い出す。

いつも彼女は空を見上げていて。

世界の終点にひとり。


「…………」


街の喧騒が遠のく。

蓮治とわたしの足音が響いて、千尋先輩が顔をあげた。


「…………」


泣きはらしていたのか。

真っ赤な瞳でわたしを──いや、蓮治を見て。

 



彼女はゆっくりと立ち上がった。


「……ぁ」


一瞬の躊躇い。

どっちだ。

 



「…………!」


千尋先輩が首を振る。

蓮治が立ち止まった。

なんて中途半端な距離なのだろう……。

もっと近づいてあげればいいのに。


「れん──……」


強く耳打ちしようとして、その顔を見上げて、わたしは声を失った。

蓮治が夕暮れの中で笑っている。

わたしは思わず後ずさってしまった。

鼓動が速い。

男の子の──男の人の、あまりにも真っ直ぐな笑み。

その厳しさが嬉しくて……。

馬鹿だけど……それが自分に一欠片も向いていないことが寂しくて。

千尋先輩は手を伸ばしかけて、それを折りたたんで胸に当てる。

飛べない鳥に。

たった一言でいいから。

祈りを。

力を。

どうか。

お与えください。

 



「好きだよ」

 



「…………」

 



「…………」

 



「……ぁ」

 



2枚の羽が舞う。

ゆっくりと腕は伸ばされ。

千尋先輩がよろめきながら足を踏み出した。

ふたりが抱き合う。

 



もう二度と、お互いを離さないように。

きれいな、

とても、きれいな……、

 



わたしの視界は滲んで、

 



そんなきれいな光景を見ていられなくて、

 



足音を立てないように、ゆっくりと駅を出た。


…………。

 

……。

 

 



街はすっかり夜に沈んだ。

 



「ご、ごめんなさい……お待たせしてしまって」


真っ赤になりながら千尋先輩がわたしに頭を下げる。

 



蓮治はささやかな抵抗なのか、なにも言わない。

ねえ、この人たち、どうして1時間も駅から出てこなかったの……。

とか冗談はともかく。


「いいんですよ」


いっそ帰ってしまったほうがいいかと思ったが。

なんとなく帰りそびれてしまっただけだから。


「おめでとうございます」

「……あ、ありがとうございます」


ものすごく小さな声で千尋先輩が俯く。

それが答え。

手ぐらい握り合っていてもいいのに。

ふたりとも、お互いの距離感がうまくつかめないように立っている。

 



「とりあえず帰ろう」


蓮治がぶっきらぼうに言う。

わたしは頭を抱えたくなった。


「送っていきなさいってば」


耳元でささやく。


「え……ああ、そっか。そうだね」

「あの、無理して頂かなくても」


思いっきり聞こえていたようで、千尋先輩が遠慮したように声を上げた。


「いや、送ってくよ」

「はい」

「……わたしは帰ろ」


なんだか当てられてきた。

もういいや。

と、1つだけ思い出したことがあって、蓮治を指でちょいちょいと呼ぶ。

 



「ねえ蓮治、その小説って読ませてもらえないかな?」

「やだよ」

「ぶ~ぶ~」

 



「あの……」


おずおずと声が上がる。

なんだろうと蓮治と一緒に目をむけると、千尋先輩が真面目な顔でポケットから手帳をさしだした。

 



「代わりじゃないですけど……これを……」

「これ……って、千尋先輩の日記じゃないんですか?」

「そうですけど、今のものではありません」


それは、良く見れば新しいものではなかった。

どこか擦り切れて、何度も繰り返し読まれ、折り目と手垢がついた古い手帳だった。

蓮治が驚いた顔をする。


「もしかして、半年前の手帳ですか……?」

「はい。さっき蓮治くんに返してもらったものです」

「いいの?」


蓮直が気遣うように千尋先輩に問う。


「はい」


千尋先輩が、はにかんだ表情で答えた。


「私はもう大丈夫です。私は……もっと大切なものをもらいましたから」

「わかりました」


断るほうが悪いと思い、素直に受け取る。

手帳はなんでもない小さなものだったが、なぜか重みがある気がした。

 



「……これ、読んでもいいんですか?」

「いいですよ。お礼ですし」

「お礼?」

「可能性の話を昨日しましたけど。ミズキちゃんがいなかったら、今の私と蓮治くんはいなかったわけですから」

「へ?」

「なにが?」


従兄妹ふたりで、共に首を傾げてしまう。


「蓮治くんとミズキちゃんが話していた、電話のことです」

「ああ、あれか」


自分で書いておいて納得するやつ。

そんなこともあったが──告げた言葉そのものを、わたしは覚えていない。

 



でも、それもこの手帳の中にあるんだ。


「ミズキちゃん」


千尋先輩が優しい声でわたしを呼ぶ。


「好きな人に好きだと言えることは、本当に、びっくりするくらい幸せなことでした」

「え?」


一瞬、のろけかとも思ったが、違った。


「ああ。あのお泊りに来た夜の話ですね」

「はい。半年前も、今も、私はミズキちゃんに助けてもらったり、励まされてばかりです。だから、私からもミズキちゃんに贈り物をさせてください」

「え、いえ、そんなのいいですよ」

「遠慮はいりません……渡すと言っても、形があるものではないですから」


千尋先輩が苦笑いを浮かべる。


「私にできる唯一の──言葉を伝えたいんです」

「言葉、ですか?」

「はい」


それを贈り物と呼ぶのは不思議な感じだ。

けれども、千尋先輩から受けとるものとしては、一番相応しい気もした。


「多分、ほんの少しですが、これからのミズキちゃんの役に立つかもしれない言葉です」


千尋先輩はひとつ頷き、静かに、しかし力強く告げた。

 



「夢を叶えるためには、まず、夢そのものがないといけない。こうなりたい、ああしたい、あれがほしい──自分のために、誰かのために。そういう意志、想いを抱くことが、なによりも大切なんだそうです」

「……想い」

「はい。とても単純なことですが、一番難しいことです。そして、その想いを諦めずに、ずっと想い続ける。それが夢を叶える第一歩になるんだそうです」

「…………。それは、誰の言葉なんですか?」


千尋先輩の言い回しに、わたしは問いかける。

その言葉は、まさに蓮治が実践してきたことであり。

そういう前向きな気持ちを生みだす人を──痛みを覚えながら、心に思い浮かべた。

 



「私にとっては蓮治くんがくれた言葉で、消えない記録としてここにあります」


彼女は新しい記録となった小説を胸に抱きしめて、花開くような笑みを浮かべた。

 



「そして──それはかつて、久瀬修一さんが蓮治くんに贈った希望の欠片です」

 

…………。

 

……。

 

 



ふたりを見送ったわたしは、大慌てで蓮治の家へと戻ってきた。


「すみません、またまた遅くなりました!」

 



「うあ~……」


案の定、とんでもなく暗い声がして、おば様がキッチンから出てきた。


「せっかくの料理が全部冷めた~……お腹空いた~……」
「ご、ごめんなさい」


時計を見ると8時を思いっきり過ぎていた。


「蓮治も帰ってこないし~、集団ボイコット? 大人帝国への逆襲? 七日間戦争ですか?」
「あ、あはは……蓮治や千尋先輩に会って、みんなで話し込んでいたらつい」


わたしは両手を掲げて、降参のポーズをとる。

冗談だとはわかっているが、もしかしたら本気かもしれないので、迂闊なことを口にできなかった。

蓮治のことも、本人から言わせるほうがいいと思った。


「よよよ」


おば様が泣き崩れる。

どうしよう。

思わず視線を逸らしたところで、ふと、居間の壁際におかれていた大きな箱が目についた。

 



「なんですかあれ?」
「ああ、なにかミズキちゃんに大きな荷物た届いてたけど」


すっかり元に戻って、おば様が頬に手を当てる。


「わたし宛てに? お母さんからかな」
「気の早いクリスマスプレゼントかしらね♪」
「え?」


おば様の言葉に荷札を見る。

英語ですらないアルファベットの中で、2つの名前だけが、ローマ字表記で見て取れた。


"kuze shuichi"と"Hayama Mizuki"。


「…………」


それがなにか、わかったような気がする。

わたしは厳重に梱包されていた包みをとき──予想通りのものを目にした。


「…………」
「それってヴァイオリン?」


いつか見たヴァイオリン。

それがわたしのもとへ……。

メッセージカードが1枚、ケースの上に載っていた。

読めない。

わたしはそれをおば様に渡す。

彼女はざっとそれを眺めて、訝しげに目を細めた。


「支障なし。ただし日々の扱いがよくないようなので注意されたし。モノがモノだけに早めに送り返しておくが、送り返す先が君でないことの意味を訊ねてもよいのか……後は私信。ドイツ語ね。工房の人かしら」
「…………」
「住所間違いで届いたわけじゃないんだ」


どうしてなのかと、おば様は言外に問う。

わたしは答えず、ケースを開けた。

何百年も大切にされてきたヴァイオリンの上に、もう1枚のカードが添えられていた。

思わず目頭が熱くなった。

それは日本語で。

たった一言……

 


世界で一番きれいな一言だった。


……。

 

 

 

その後、蓮治が帰ってきて、大賑わいで拍手喝采で、お祭り騒ぎな後のこと。

日付が変わって。

まだ笑い声の余韻が残っている空気と──

それが消えていくことへの寂しさを覚えながら、わたしはベッドに寝転んで、千尋先輩の手帳を眺めていた。

いつかの蓮治のように月明かりだけの部屋で。

目が悪くなるかと思ったけど、でも、そうやって読んでいたかった。

始まりのページにはこう書いてある。

きれいなきれいな丸い字で。

 

 

それはなんでもない日常から始まって、

蓮治と出会い。

笑って。

泣いて。

また笑って。

また泣いて……。

ひとりでいることの寂しさと。

ふたりでいることの怖れが綴られていた。

1つ1つの欠片だ。

忘れていようとも、絶対、どこかにそれは残っている。

心に。

身体に。

誰かの想いに。

この世界に。

傷のように。

愛しく。


「…………」


途中、千尋先輩と久瀬さんが一緒に歩いている場面があった。

彼はやさしくて。

嫌でもあの日のことを思い出してしまう。

そこで気づいてしまう。

わたしは泣きそうになっていた。

鼻がつんとるす。

どうしてか、あの日から、わたしは涙もろくなっている。

部屋の隅に置いたヴァイオリンに目をやる。

久瀬さんは今、穏やかに眠れているのだろうか……。


「……そう、か」


わかったかも知れない。

そうなのかも知れない。

どうすればいいのか。

そうやって夜が更けていく。


──はずだった。


「…………?」


最初、それがなにを意味するのか理解できなかった。

それは物語の本筋とはまったく関係のない記述。

あくまでも、日記であるために記されていた余計な描写。

千尋先輩と景先輩とのメールのやりとりの中にあった、1つの名前。


「…………」


驚きが声にならない。

わたしは目を疑った。

何度も読み返す。

"彼女"に関する説明書きは少ない。

当たり前だ……。だって、それは、千尋先輩とは関係のない名前で。

あるはずのない名前だから。

同姓同名の別人かと考える。

でも、違う……。

それはわたしの知っている"彼女"とそっくりで。

教会にいて。

誰かを待っていて。

やさしく。

時に厳しく。

神様じゃなくて。

人に祈りを捧げている。


「……雨宮優子さん」


……。

 



赤い世界──。

 



わたしはぼんやりと知覚を覚醒させる。

 



自分の身体が世界に溶けて混ざっている。

 



手であろう箇所を見ようとするが、そもそも知覚となるべき眼球の位置も定まらなかった。

これは──夢か。

でも、いつもの青い海の夢ではない。

では、これはなんだろうと考える。

 



遠くから子供の泣き声がした。

 



震えている。

寒い日だった。

寒い?

つまり冬だ。

それならここは。

教会だ。


『   ちゃん、わたしに何か用があるんですか?』

 



優しい声がした。

ノイズが混じって誰への呼びかけかわからなかった。

 



だから、視点であるわたしも振り返る。

 

祭壇の前で、雨宮優子さんが小さな女の子とむかい合っていた。

いや、身長が違うから、優子さんは前かがみに。

女の子は不器用な顔をしていて……微笑ましい光景だと思ったが。


「ゆうこがドロボーしないか、みはってるの」


ぜんぜん微笑ましくなかった。


「なんでもいいですけど、せめてお姉ちゃんとか呼んでもらえないでしょうか」
「……イヤ」


とても可愛げのない子だ。

優子さんは困ったように視線を外す。


「ゆうこ」
「ちょっとだけ静かにしててね」

 

 

 

彼女は十字架を見上げた。

祈りというには強い眼差しで。

なにものにも抗うように。

孤高で。

きれいで。

わたしはその瞳に。

憧憬を抱いたのだ。


……。

 



いるような予感はしていたけど、やっぱりいた。


「こんにちは、火村さん」
「こんにち……」

 



手を上げかけて、彼は不思議そうにわたしの姿を見つめた。


「……今日はなんか雰囲気が違うね。また制服だし」


わたしの手元にある花束に目をやって、火村さんがつぶやく。


「俺へのプレゼント?」

 



「違いますよ。なにかいつもと違いますか、わたし?」
「ん……きりっとしてるような」
「いつもきりっとしてますよ~」
「なにかふっきれたのかな」
「ふっきりに来たのかも知れないですけど」


そのために教会に来たのだ。

制服を着ることに少しだけ抵抗があったけれど、これ以外に、ふさわしい服を持って来ていなかったから。

 



「今日は別に火村さんに用があったんじゃないんです。ただ、これを捧げたくて」


わたしは花束を持ち上げて匂いをかぐ。

洗練された香り。


「本当は25日のほうがいいんですけど、ここ、その日は埋まってそうなので」
「誰のためにって、訊いていいのかな」
「懺悔になりますけど、それでもいいんですか?」


わたしは小さく笑う。


「神父じゃないけどな。いいさ、それですっきりするなら」
「では、聞いてください。ちょっと長い話かも知れませんが……どこから話せばいいかな」


わたしは純白の花を胸に抱く。

 

ステンドグラスから差し込む光に、目を細める。

懐かしいな。


「わたしはかつて、この教会に住んでいたことがありました」
「ああ」


火村さんは驚きというより、納得したというつぶやきをもらす。


「いつか、養子だということは知っていると、言ってましたね」
「やっぱり今日は違うな……そっちの顔が本物か。そう、養子だって聞いたのと、この教会を眺めてるときの雰囲気で、あの施設にいた時代があったんだろうなって。久瀬は気づいてないみたいだったな」
「ええ」


気遣いのない普段の口調はありがたかった。

火村さんは本物の神父さんのように、機微に通じているようだ。

だから改めて話そうと思った。

ずっと蓋を閉じていたオルゴールを開くように。

 



「これは友達も先輩方も、おば様も蓮治も……お母さんも……誰も知らない昔話です。わたしは生まれつき家族がいなかったわけではないんです。おぼろげにですが、そういうものがあったことを覚えています。仲のよい家族だったと思います」


火村さんの静かな視線を受けて、わたしはゆっくりと首を振る。


「いえ、わたしがそう思いたいだけかも知れません……なにかはあったのでしょう。今思えば、家の中に笑い声があったことを覚えていないんです。わたしの家族が失われたのは震災ではありません」


彼が少しだけ反応した。

そう、音羽では勘違いされやすいけれど、そうではないのだ。


「ある夏の日、遊園地に行ったんです。その日はなぜか両親がやさしくて、笑っていて、暑くて、みんなでソフトクリームを食べて……美味しかった。えへへ……実は、食べ物のことしか覚えてないんですよね」


わたしは滑稽だと思ったが頭をかく。

ソフトクリームは家族の味。

火村さんは今度は反応せず、ただ、静かにわたしの言葉を待っていた。


「……その帰り道に、車が海に落ちて両親は死にました」
「事故で?」
「いいえ」


白い花が揺れる。


「たぶん、心中しようとしたんです」
「…………」
「わたしはその直前に、車内で母親に首を絞められました。なにがなんだかわからないまま、苦しくて──それでも母親が泣いているのが不思議で悲しかった。久しぶりに家族みんなが笑っていたのに。……結局、そこでわたしを殺すことができなくて、だから車で海に飛び込むなんて方法をとったんだと思います。開いていた窓から海の水が流れ込んできましたが、それが終わってしまうと、世界はとても静かになりました。夏の海水はあたたかいのに冷たくて。海面がきらきら揺れていて。泡がぽこぽこきれいで。……死ぬのが怖かった。でも、わたしは直前に首を絞められて意識が朦朧としていて。皮肉にも、それで海水をほとんど飲み込まず、助かりました。その後、わたしはこの教会で目を覚ましたんです」
「……そうか」


火村さんが唐突につぶやく。

どこか虚ろな影を見せて。


「そのせいなのか。それが君の傷か」
「傷?」
「そんなものを背負っているから、君はいつも笑っていて、死にかけの久瀬に惹かれたのか」
「…………なんですかそれ?」
「え?」
「だってこんなの、どこにでもあるものじゃないですか」


こんなの傷だなんて呼べない。

みんなどこかで何かを背負っているものだし。

特に音羽は、あの震災のせいで見た目の華やかさとは裏腹に、そういうものが溢れている。

だけど、火村さんは珍しく……本当に珍しく呆けきっていた。


「久瀬にこの話はしたの?」
「いいえ、わざわざ吹聴するようなことじゃないかと」
「は」


火村さんは驚いたように目を開いて、薄っすらと自嘲気味に笑った。


「その話をすれば、君が死ぬことの怖さをきちんと理解しているんだと、あいつが認めてくれるとは思わなかったのか?」
「ああ」


なるほど、とわたしは頷いてみせる。


「あはは……そうか、そういう手もあったんだ」
「本当に気づいて──?」
「ああ、いえ、冗談です。そういうことも考えなかったわけじゃありません」


最後の最後の奥の手だとは思っていたけど。


「でも、そんな傷の舐めあいがしたかったんじゃないんですよ。わたしは本当に久瀬さんのことが好きだったから。それって卑怯じゃないですか」
「…………」

 



「わたしはむしろ、逆に、可能性でありたいんです」


抱えた花に負けないように、笑顔を浮かべる。


「可能性?」
「はい。こんちくしょうめ~! ってことばっかりのこの世界で、それでも、笑顔を浮かべ続けていられる可能性。環境や才能や時代じゃないんです──そんなものは、いつでもどこでも、誰でも言い訳にできます。そんな、自分も騙せない嘘をつくべきじゃないんです。この世界に生まれて幸せになりたい。その想いだけはみんな、絶対に持っているはずなんですよ。絶対に絶対!」


わたしはつい鼻息を荒くしてしまう。


「……馬鹿みたいだな」


呆れたように火村さんが息をつく。


「そんなこと考えて、肩肘張って生きてるのか?」
「あ~……いいえ。かっこつけてみただけです。こんなことずっと考えてるわけじゃないです。もちろん、わたしが世界を変えれられるなんて思ってません」


生まれや生い立ちは複雑かも知れないけど、わたし自身はあくまでも平凡で非力で。

そういう強さを持っているのは、先輩たちだった。


「それでも、ひとりとかふたりくらいなら、わたしの小さな想いで幸せにできるかも知れません。んで、その幸せになった人が世界を変えてくれるかも知れないし、それが駄目でも、また別の人を幸せにしてくれればいいんです。そうやっていけば、いつかみんなが幸せになります。なにげないきっかけで世界は変わるかも知れません」
「……そんなの無理だよ」


火村さんが小さくつぶやいた。

いつもと変わらないように見えるが。

なにかを堪えるように。

 



「理想論でどうにかなるほど、この世界はきれいじゃない」
「そうですね」


それはそうだ。

きれい事なのは知っている。

だってわたしは、実の両親に生まれてきた意味を否定されて。

どんな形であれ、羽山水姫の身代わりでしかなく。

自分の存在そのものが、醜い世界の証明であるのだから……。

 



「……時々、この世界が夢で、目を覚ましたらあの海の中にいるんじゃないかと、息苦しくなることがあります」
「…………」
「……自分の存在する意味がどこにあるのか迷います。でも」


それでも。

価値や意味なんてなくても、わたしは生きている。

わたしはここにいる。

 



「辛いのも苦しいこともあるけど、良いことも面白いことも集まって、今のわたしがいるんです」


お父さんとお母さんと、友達ひとりひとりに……自分を認めてもらって。

傷ついても立ち上がる人たちを見てきた。


「だから同情じゃなくて。わたしは久瀬修一さんの強さに惹かれたんです」


わたしは死ぬことの怖さを知っているから。

その境界に立って、あんなに他人のことばかり考えた笑い方ができる人は……とても眩しくて……。

恋焦がれた。

 

「それは妄言だ」

 



「そうかも知れませんが、やっぱりみんな願っていますよ。こんなの絵本とか少女漫画にだって書いてあるんですから。大人が気づかないはずないんです」
「少女……漫画……?」
「はい。今度お薦めのものをお貸ししましょうか?」


ヒロ先輩の本が、どこか鞄の中に入っているはずだったし。


「……いや、いい。少女漫画だと?」


火村さんは顔を押さえて首を振った。

どうも笑っているらしいが、泣いているようにも見えた。

わたしはどうしたらいいのだろう。

花束を見下ろしてしまう。


「えーと……もしこれが傷なら、まあ、そう呼べなくはないのかな?」
「ああ、すまない」


落ち着いたのか、唇を曲げて火村さんが顔をあげた。


「そうかいそうかい……久瀬のやつも見誤っていたんだ」
「へ?」
「君は彼女とは似て非なる最悪だな」


なぜか楽しげに。

それと、なんだか貶(けな)されてますかわたし?


「たまたま表面的に似てるだけで、完全に逆じゃないか……」
「あの」
「君、なにしにここに来たの」
「懺悔?」
「必要ないんじゃない」
「いえ……そうですね」


懺悔の途中──と言うか、明らかに脱線していたような。


「ちょっと、いい加減にこの花、置いて来てもいいですかね」
「構わないけど」
「そこでしますから、ついて来てください」
「なにを?」


今日の火村さんは頭が回っていないのかも知れない。

どうしたのだろう。

わたしは小首を傾げて言った。


「だから、今までのは生い立ちで……これからが本当の懺悔ですよ」


……。

 



強い日差しが目に刺さる。

薄暗く涼しかった教会の外の世界は、今日も死ぬほど暑かった。

 



「裏の墓に行くのか」


遅れて出てきた火村さんが、背中から声をかけてくる。


「いえ、ここなんです」
「……ここ?」
「花がすぐにしおれてしまいそうですね……」



 

わたしは教会のすぐ前の道路を見渡した。


「ここがなに? 死んだ両親とか、以前の羽山水姫に持って来たんじゃないのか?」
「違います。これは雨宮優子さんにです」
「…………」
「本当は、本当の場所に手向けたかったんですけどね」
「おまえは……」
「え」

 



あまりにも感情のない声に、驚いて振り返る。


「おまえは誰だ?」


火村さんの声とともに、教会の鐘が鳴った。

どこまでも遠く響き渡るその音は。

 



世界の終わりのような。

 

 

美しく。

物悲しい。

古い記憶を呼び起こす。

 



──あなたは誰ですか?

 

…。