このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。
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……。
「よお、大丈夫か?」
「…………」
「生きてるよな」
かなり容赦ない力で火村が頬を叩く。
非常に痛い。
黙っていると何度もはたかれることになりそうだったので、ため息をもらす。
「……寝起きにおまえの顔を見ると、地獄のほうがましに思えるな」
「救急車呼ぶか?」
「……いや、いい」
動機は速かったが、人間としての許容範囲だ。
それに、次に倒れたら有無を言わさず入院だと告げられていたし……。
……なにより、彼女に気づかれたくなかった。
そして。
また。
「……死にぞこなったか」
本当に……あんなことをして……死んでしまっても良かったのに。
口元を拭おうとするが、いまだに手が震えていて、いうことをきかない。
「……はぁ」
「立てるか」
「無理」
「危なかった?」
「いや、そうでもない……前よりは軽い」
表面上はなにごともなかったかのように火村の相手をする。
今回の発作は起こるであろうと予想もしていた。
会話をしながらこちらの様子を観察していた火村は、問題ないと判断したのか、俺の上からどいて、どこかへ消えた。
そのまま天井を見上げる。
ああ、空ばかり見ている。
膝枕がないと頭が痛いな。
「とりあえず上だけでも着替えろ。汚れてるし風邪ひくぞ」
ぼさっ、と顔に乗るように火村が上着を投げてきた。
そう言われれば、シャツはびっしょりと汗で濡れていて、クーラーの風に吹かれて寒さを覚える。
俺はなんとか身体を起こして、ボタンがいくつかなくなっているシャツを脱ぎ捨て、新しい肌触りのよい服に袖を通した。
あたたかい。
火村はその間、クーラーの設定温度を高くして、床に散らばった錠剤を拾い集めて瓶にしまっていた。
手持ち無沙汰なのか律儀なのか。
「……はぁ」
ようやく落ち着いた。
「顔も洗って来い」
「……おまえは俺の母親か?」
頬に手を当てて呻く。
乾いていたが、唾液と鼻水と涙の跡で、肌がざらついていた。
バスルームまで行くのが億劫で、俺はキッチンの流しで顔を洗う。
こんなことばかりしている。
「……助かったよ」
「ああ」
火村はそれだけつぶやいて、なにも言わない。
日毎、時間があれば俺の様子を見に来るようになったのは、3度目の発作以来か。
「すまない」
「うぬぼれるなよ。単に、この街で死なれると目覚めが悪いだけだ」
ニヤリと笑った後、火村は、俺が真剣に謝っていることを察したようで表情を変えた。
「なにがあったんだ?」
「ちょっと……辛い……」
「…………」
「なに驚いてんの?」
「いや、初めて聞いたな」
「え?」
なんのことだがわからなかった。
「おまえがそういう泣き言を口にするのは。前の彼女と別れたときも、それはなかっただろう」
「……そう、だっけ?」
ひげでも確認するように顔をさすりながら、倒れる前のことを思い出す。
別に発作のことじゃなくて。
酷いやつだ。
滅茶苦茶だ。
絶対に後悔するなとか、ミズキちゃんの涙を目にしても冷淡に振舞えるかとか。
そんな心配がすべて杞憂に終わってしまった。
すべて予想通りに。
上手くいってしまった。
「ああ、もう……」
「……まさかおまえ」
「うん……前の彼女の時と同じことをした」
「……馬鹿が」
呆れたように、そして微かな怒りをほの暗く見せながら、火村が吐き捨てるように言う。
「本当に馬鹿だ」
「自分でもそう思うよ」
無理やり作り笑いを浮かべた。
たぶん、ものすごく失敗している。
「あの子は……俺の代わりに泣いてくれたんだ……。どうしたら……もっと上手く……彼女たちを幸せにしてやれたんだろうな」
いつも自問している。
結局、なんだったのだろう。
なにが間違っているのだろう。
もっとやさしくしてやりたいのに。
笑っていてほしいのに。
ずっとずっと。
上手くいかない。
最後まで。
「ちくしょう……」
「おまえが100%間違ってるわけじゃないし、彼女たちが100%正しいわけじゃない」
火村が軽い口調で言った。
「そういうのは、足し算や引き算で二極化するものでもないし」
「青春しないの?」
「もうそんな年でもないだろう」
どこか遠いところを見つめてつぶやく。
「それに、あえて殴ってやらないほうが痛いときもある」
「なるほど」
確かに。
殴って……そうやって、それが罰だなんて誤魔化しを許さない火村は容赦がない。
「それに、まあ俺はおまえの……」
火村は照れたように、不愛想な顔に戻って視線を逸らす。
「……なんでもない」
「そうだな」
俺はまた狂いそうな胸に手をあてる。
「火村、頼みがある」
真剣に。
「最後の頼みだ。俺の代わりに、彼女をこの街から見送ってやってくれ……」
…………。
……。
「……はぁ」
堤防に寄りかかって、わたしは何度目かのため息をつく。
浜辺へは、あまり降りたくない。
海は怖いから。
それでも……どうしても自分は海に惹かれる。
「……っ」
ふいに、胸の内側に痛みが走った。
手で触れられない場所なので、仕方なく風に身を任せて我慢する。
それでも流されないしこりが、全身に残っていた。
無遠慮に他人に触れられると、ああも違和感を覚えるとは思わなかった。
「……はぁ」
また、ため息。
そうやってたら、何度か男の人が話しかけて来たけれど。
なにを言ってるかわからなくて無視した。
海に遊びに来ている人たち。
みんな、笑っているね。
男の人が今はちょっと怖かった。
思い出すと泣きそうになる。
まさか自分が襲われるだなんて……そんなこと夢にも思わなかった。
「……なにが間違っていたんだろう」
ぼんやりと青い空を見上げる。
どうしたら。
みんな幸せになれるんだろうね。
…………。
……。
翌日、わたしは千尋先輩に会おうと駅を訪れた。
おば様が一緒に遊ぼうかと言ったけど、それは断った。
勘が鋭いから。
気づかれたくないし、顔をあわせていられなかった。
蓮治は……。
なにやってるんだあいつ?
ま、いいけど。
「そんなわけで、こんにちはです千尋先輩!」
元気に手を振る。
「こんにちは」
「今日も夏っぽく、あっつい日ですね」
「はい、そうですね」
ネジで動いていそうな端的な口調。
「今日はどうされたのですか?」
「いえ、特に用事があったわけではないのですが。なんとなく先輩エネルギーが不足してるんだろうなって」
「はあ」
「気にしないでください」
頭をかいて照れ笑いを浮かべる。
気にされてしまうと困るから。
「そういえば」
言って、千尋先輩は手帳を取り出して、何かを数えた。
「えーと……4日前は急にお邪魔してしまって失礼しました」
「あ、いえいえこちらこそ。ばたばたしてしまって」
千尋先輩の相手もせずに、久瀬さんのところに行ってしまったし……。
……あ、また落ち込みそう。
がっくり。
話題を変えよう。
「とりあえず蓮治が来たら帰りますから」
「なんでですか?」
「えーと……色々と都合の悪いことが」
「喧嘩されてるとか?」
「そうじゃないんですけど……。まあ、顔をあわせたくない時期っていうのがあるかもなので、ハズレてもいないっす」
「……そうですか」
なんだか真剣な顔でつぶやいて。
千尋先輩は線路を見てから、わたしに向き直る。
「私は、ミズキちゃんと蓮治くんはお似合いだと思うのですが」
「お似合いって、なにがですか?」
「恋人として」
「はあ!?」
あまりの不意打ちに、とんでもない声を上げてしまう。
もう一度、脳内で言葉の意味を考えてみよう。
わたしと、蓮治が、恋人としてお似合い。
「ギャグですか!?」
「いいえ、真面目なお話ですが」
それこそギャクの通じない受け答えをされてしまう。
わたしは千尋先輩を見つめた。
「あの日の夜、そういう会話をしていたんですよね?」
「あ、泊まっていった日……そうですね」
「それで今日、思ったんです」
ほんのわずかに空を見上げて、千尋先輩が息をついた。
白い喉が艶めかしく動く。
「たぶん、なにかが違ったら──むしろ、そのほうが良かっただろうなという、可能性があったんだなって」
「可能性って?」
「ミズキちゃんと蓮治くんが仲良くなって、私が久瀬さんと出会う世界」
「え」
呆けてしまう。
よくわからなかった。
千尋先輩は苦笑しながら小首を傾げる。
「そこでは、蓮治くんとミズキちゃんは、ただ自然と仲良く笑っていて。そして、久瀬さんが病気で死ぬことがあろうとも……そんな悲しみを私は忘れてしまえるから、穏やかに生きていて。そういう世界」
「…………」
驚いた。
そう言われてしまえば、つい考えてしまい。
それが──きれいに完結した世界であるように思えてしまった。
どこで反転したのか。
今が間違った世界であるように思えてしまう。
「たぶん、お姉ちゃんのことを考えていたら思いついてしまったんでしょう」
「景先輩のこと?」
「はい。お姉ちゃんが、紘お兄さんと結ばれていた可能性もあったんだろうなって」
「…………」
物語を紡ぐ彼女だからこそ、そういう可能性に目を向けるのだろうか。
鏡の向こうにある幸せ。
「……でも」
「はい、もちろん、そういうこともあっただろうなという話です」
穏やかに千尋先輩は微笑む。
「私は私でしかありません」
「…………」
そこでわたしは、
あり得ないと思いつつ、
気づいてしまった。
「千尋先輩……もしかして蓮治とのこと……」
「はい。覚えています」
彼女は変わらぬ微笑みを浮かべたまま、あっさりと肯定した。
「あ、本当は覚えているではなく、知っている──ですが」
「どうしてですかっ!?」
思わず詰め寄ってしまう。
千尋先輩は居心地悪そうに困った顔をして。
「お姉ちゃんとのメールや手紙のやりとりが残ってて……手帳をなくせばそれで終わると思い込んでて……すっかり忘れてました」
「景先輩が……」
「余計なことだって返事をだしたら、電話がかかってきて、物凄く叱られてしまいました。妹の幸せを願ってなにが悪いのよ。心配するに決まってるでしょ! って。半年前、私が記憶をなくしたとき、実はもう家に戻そうかって話もあったんです。でも、お姉ちゃんが反対したんだそうです。あの子には、まだやることが残ってるからって」
らしい。
「うん……景先輩らしいや」
なんだか可笑しくなった。
「あはははは」
「自慢のお姉ちゃんです」
千尋先輩も小さくだが笑った。
わたしは久しぶりに大きな声で笑った。
「自分の記憶には残らないけど、誰かの記憶には残るんですね」
「……はい。なにがあったのか、細かいところまではわかりません……。あくまでも断片的に、蓮治くんと私が恋人だった時間があったんだなって……それを知っているだけなんです」
そこで笑みを消して。
そう……覚えていたのに、千尋先輩は蓮治に気のない演技をしていて。
「……それでもダメなんですか?」
「わかりません」
肯定も否定もせず、千尋先輩は首を振る。
「その時の自分の気持ちが……。本当にそれでいいのか……今の私にはわからないんです。でも、もし蓮治くんと恋人だった自分がいたと思うと、胸が痛くなります。そんな幸せそうな時間を過ごした自分に、嫉妬してしまいます」
彼女が眼帯を示す。
「この目と一緒です」
「そうですか」
なにも言えない。
たぶん、なにも言う必要がないんだって。
わたしよりも、みんな自分でわかっていて頑張っている。
「…………」
久瀬さんも嘘つきで。
なんでもない顔で。
つらいとか苦しいとか言わず……。
でも、あれも本当なんだろうか……。
わからないよ……。
「蓮治くんが来ました」
駅の入口を見ながら、千尋先輩が右目だけに憧憬を浮かべた。
…………。
……。
そうやって、誰もがなにかを抱える中で、上辺だけは穏やかな時間が過ぎていった。
ふと気がつくと、街がどこか華やかな空気を帯びているのを感じた。
ああ、お祭りが近いんだって思い出した。
そろそろなんだ……。
お祭。
綿菓子のような空気。
「……ふわふわ」
「あのお店、美味しかった?」
ぼんやりしていたら、隣を歩くおば様が突然声をかけてきた。
「あ、はい」
さっきランチを食べてきたお店のことだろう。
わたしは正直に頷いた。
さすがに舌が肥えているだけあって、おば様や蓮治のそういう目利きは信頼していた。
たまに新しい食への探求心からなのか、ショッキングな味に出会わされることもあるけど。
「他にも色々と紹介したいけど。ケーキとか甘いの……でも、胃に入らないことにはどうしようもないか」
「あはは、さすがにもう入りません」
ランチと食後のお茶を別の店でという、少々、お腹にとっての強行軍である。
自然と歩幅もゆっくりだった。
「太るのも困るし?」
「まあ……それが一番ですが」
「うふふ」
今日は──思えば初めて、おば様と一緒にこの街を歩いていた。
千尋先輩との会話で、ちょっと楽になったから。
それに、もうすぐ、わたしがこの街にいられる時間も終わってしまうから……。
「…………」
ふと、とあるお店が目についた。
久瀬さんがヴァイオリンを修理にだすために使ったお店。
『壊れちゃっててね。今は弾けないんだ』
出会ったときに告げられた言葉。
あの壊れたというのは、自分に対しての言葉だったのだろう。
「……本当に嘘ばっかり」
「なに?」
「いいえ、なんでもありません」
首を振って真っすぐ顔を上げる。
人ごみの中でなにかが目に付いた。
なんだろうと思って目を凝らすと、学生服の後ろ姿──蓮治が遠くに見えた。
わたし達はゆっくりとショーウインドウを覗き込みながら歩いていたので、すぐに彼の姿は消えてしまう。
おば様に目をやると、彼女は蓮治に気づいていないようだった。
そうだね。
わたしは微笑む。
ここは、蓮治が毎日通っている道。
晴れの日も、雨の日も、雪の日も……世界の終点へと続く道。
「おば様は、蓮治が千尋先輩と付き合うことに反対しますか?」
自分でも残酷な質問かと思ったが。
それでも訊きたかった。
おば様はわたしを一瞥して、曖昧な笑みを浮かべた。
「……大人になったのかな」
「え?」
返答が理解できなかった。
「蝉が脱皮するのを見たことある?」
まったく違う方向から手が伸びてくる。
「あります」
それは理科の観察実験だったろうか……いや、家の軒先にいた幼虫を見つけて、一晩中ずっと懐中電灯を当てて見ていたのだったか。
『ほら、見てごらん』
誰かが指差した。
お母さんだったろうか……お父さんだったっけ。
そう、夜更かしできる夏だからこそ、それを目にする。
羽まで透けた純白の、
柔らかそうな、
羽化。
そして抜け殻が残る。
「蝉よりは、さなぎから蝶になるって言ったほうがきれいかな。女の子って急に変わるのね」
「わたしのことですか?」
「ええ。今までのミズキちゃんは、そういう質問を口にしなかったから」
「そう、でしたっけ?」
「そうよ」
暑い日差しがショーウインドウに反射してきらめく。
赤い街が揺らぐ。
「蓮治がどうするかは、私がなにか言うつもりはないかな」
「いいんですか?」
もう千尋ちゃんの障害も知りえているだろうに。
「だって、あの子の人生でしょ」
それ以上でも以下でもないという風に、軽い口調で──どこか火村さんに似た言い方でおば様は笑った。
「子供の頃、親がああしろこうしろってうるさくて嫌で……自分が嫌になったら絶対にそういうこと言わないって決めてたし。なりたいものに、なればいいわ。これって親馬鹿だと思う?」
「あ、いえいえ」
わたしは慌てて首を振る。
たぶん、わたしのお母さんもそう思っているのだろう。
この人たちは姉妹だから。
どこか景先輩と千尋先輩の関係にも近い気がした。
「でも、蓮治はこれから本当に、痛い目にあうでしょうね。きっと。必ず」
まるで、そうなってほしいという口調で。
「我が子ながら信じられないくらい馬鹿だから。再確認しまくってるし」
「あ、あはは……」
自分でも蓮治のことをボコボコに言っている気がしたけど、やはり実の親には勝てないと思った。
…………。
……。
夕飯の支度があるからと、おば様は先に家路についた。
わたしは足を伸ばして、また海へと向かう。
今日は腕を振るうと言われてから、夕飯が楽しみで、少しお腹をすかせておこうと思った。
……。
一昨日と同じように海岸沿いの道を歩いていると、わたしの指定席に見知った顔を見つけた。
嬌声が聞こえる海辺には似合わない制服姿で。
蓮治が堤防に座って、シャボン玉を吹いていた。
なんでシャボン玉?
「千尋先輩はどうしたの?」
わたしは屋根より高く飛んでいく泡を見上げながら訊ねた。
「駅で小説を読んでるよ」
「商店街にいたよね」
「ああ、やっぱりあれは母さんとミズキだったのか」
「気づいて声をかけなかったのね、あんたは……」
「まあ」
彼は誤魔化すように勢いよくシャボン玉を吹いた。
油膜がきらきらと虹色に輝く。
「それ、どうしたの」
「商店街で見つけたんだ。懐かしくてつい買っちゃった。千尋にも1つあげたけど、ミズキもいる?」
「いらない……なんで千尋先輩を置いてこんなところにいるの?」
「僕の書いた小説を読んでもらってるんだ」
蓮治が育ちのよい笑みを浮かべる。
「内容がちょっとあれで、一緒にいないほうがいいかなって。昨日ようやく新しいのが書きあがってさ。25日までに間に合ってよかったよ」
「小説って、いつの間に書いてたの?」
「いつって……ずっと書いてたけど、なんで?」
「テスト勉強はどうしたのよ?」
「それもしてたから大変だったんじゃないか」
「うわ!」
こいつ……そんなことしてて、わたしの相手をしてくれなかったのか。
本当に不器用。
でも、彼に好かれる人は幸せなのかも知れない。
それはあなたです。
千尋先輩。
「……ねえ、蓮治ってさ」
「うん」
「千尋先輩のことを考えながら、したことある?」
「なにを?」
「えーと」
言いにくいな。
した? いたした? なんて言えばいいんだ……。
「……察して」
「え? ……あ」
わかりやすく頬を赤らめる。
「なにそれ? ねえ、いじめ? いじめなの?」
「けっこう真剣だったりなかったり」
「どっち?」
「真剣」
「そうか」
シャボン玉を吹いて、蓮治は考えあぐねるように間をおく。
ああ、やっぱりあるんだ。
「……な、なくはないというか」
「そ、そっか」
「恥ずかしいならするなよ……そんな質問……」
赤くなってお互いに視線を逸らしてしまう。
蓮治は海を。
わたしは街を。
「……あの日、大人になりたいと思った」
視線をそのままに、蓮治が遠い目をしてつぶやいた。
「心の底から、背筋を伸ばした大人になりたいって思ったよ。そうしたら、大人ってなんだろうって疑問にぶつかって──誰かになにかを与えられる人。こういう大人になりたいなって、そう、誰かに思ってもらえる強さを持っている人。それが大人だろうって思った」
「…………」
不思議と首の裏側が熱くなった。
「……そろそろ読み終わるころかな」
「どんな小説を書いたの?」
「半年前のことを書いた」
「え……なんで!?」
「ずっと考えてたから」
蓮治はわたしの顔を見て頬をかくと、ふーっ、と3つのシャボン玉を高く飛ばした。
「千尋が忘れてしまうなら、僕がそれを形にすればいいんだって。1ヶ月分の内容だけど、2時間くらいで読めると思う……。そうやって、彼女にとって大切なことを、僕が残してやればいいんだ。それしかないなって」
空に消えていくシャボン玉の行方を追いながら、蓮治が頷く。
「父さんと母さんにも、千尋のことを説明した。自分の力だけでなんとかしようなんて、うぬぼれる必要はないからね。一番に考えなきゃいけないのは彼女を大切にすることで、それにはきちんとしないといけないから──もちろん、全部、彼女が応えてくれるならの話だけど……あの小説を読んで、半年前、雪のように消えてしまった千尋(あの子)を、今の千尋が幸せにしてやりたいって──そう思ってくれるといいな。やっぱり好きだからね」
「…………」
「心配しなくていいよ。覚悟はしてる」
蓮治がわたしを気遣ってやさしく言う。
笑いながら手を握ったり開いたりしていた。
緊張してる。
「できる限りのことは書いた。自分でもよくできたと思う。嘘もついてない。それでもダメなら……」
「……諦めるの?」
「…………。また書くしかないよね」
彼はぐっと拳を握り締めて、何気ないように続ける。
「努力はしたけど、それが見合わないなら力が足りないか、頑張る方向が間違ってるんだろうね。ゆっくりとでいいよ。もう、焦らない。僕は天才じゃないし、不器用だから。でも、人の心を打つ作品って、そうやって真剣に向き合ってこそ生まれるんだろうなって……。……色々と考えたんだけど、どうかな?」
自信なさげなところがなければいいのに。
私は笑ってしまった。
「それ……誰の言葉? なんの本に書いてあったの?」
「どこにも書いてないよ」
「え?」
「僕の言葉だよ」
……。
そして、ふたりで駅へと向かう。
街は夕暮れ。
門限をとっくに過ぎている気もしたが、わたしも結末を見届けたかった。
「…………」
蓮治はさすがに緊張を隠せる状態ではないらしく、ずっと黙っている。
千尋先輩はあの時のことを知っている──それを伝えようかと思ったが、言っちゃダメだねと、わたしも口を閉じて歩いていた。
「どうする、わたしも中に入っていいの?」
「え? あ、そうだな、どうしようか?」
蓮治がおどおどと考え込む。
海での言葉や仕草がかっこよかったから、てっきり即答されると思ったのに。
思わずジト目になってしまう。
「あんた、なに躊躇ってるのよ」
「いや……あ~……なんか緊張してきちゃって」
もじもじと。
「面白くないとか、いきなりで嫌がられたら最悪だよな。あ、まだ読み終わってなかったらどうしようか? 最後の場面読んでるときに顔を出しちゃうとまずよね? なんか僕って、そういう間の悪さとかありそうじゃない?」
「…………」
あかん。
思わず脳内大阪弁で呻いてしまう。
こいつ……やっぱり麻生蓮治なんだ。
「大丈夫、なる時にはなるようにしかならないから」
「それってダメなんじゃ……」
泣きそうな顔で蓮治がつぶやく。
不思議そうに、通りすがりの方々がこちらを注目していた。
「……ついていってあげるから」
ため息をついて、わたしは子供を歯医者に連れて行くような気分で、駅に入った。
……。
舞台は再び駅へと戻った。
彼と彼女の出会いの場へと。
「…………」
両手で顔を覆いながら、千尋先輩はベンチに座っていた。
飛び立ちそこねた鳥のようだと、蓮治がいつか形容していたことを思い出す。
いつも彼女は空を見上げていて。
世界の終点にひとり。
「…………」
街の喧騒が遠のく。
蓮治とわたしの足音が響いて、千尋先輩が顔をあげた。
「…………」
泣きはらしていたのか。
真っ赤な瞳でわたしを──いや、蓮治を見て。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「……ぁ」
一瞬の躊躇い。
どっちだ。
「…………!」
千尋先輩が首を振る。
蓮治が立ち止まった。
なんて中途半端な距離なのだろう……。
もっと近づいてあげればいいのに。
「れん──……」
強く耳打ちしようとして、その顔を見上げて、わたしは声を失った。
蓮治が夕暮れの中で笑っている。
わたしは思わず後ずさってしまった。
鼓動が速い。
男の子の──男の人の、あまりにも真っ直ぐな笑み。
その厳しさが嬉しくて……。
馬鹿だけど……それが自分に一欠片も向いていないことが寂しくて。
千尋先輩は手を伸ばしかけて、それを折りたたんで胸に当てる。
飛べない鳥に。
たった一言でいいから。
祈りを。
力を。
どうか。
お与えください。
「好きだよ」
「…………」
「…………」
「……ぁ」
2枚の羽が舞う。
ゆっくりと腕は伸ばされ。
千尋先輩がよろめきながら足を踏み出した。
ふたりが抱き合う。
もう二度と、お互いを離さないように。
きれいな、
とても、きれいな……、
わたしの視界は滲んで、
そんなきれいな光景を見ていられなくて、
足音を立てないように、ゆっくりと駅を出た。
…………。
……。
街はすっかり夜に沈んだ。
「ご、ごめんなさい……お待たせしてしまって」
真っ赤になりながら千尋先輩がわたしに頭を下げる。
蓮治はささやかな抵抗なのか、なにも言わない。
ねえ、この人たち、どうして1時間も駅から出てこなかったの……。
とか冗談はともかく。
「いいんですよ」
いっそ帰ってしまったほうがいいかと思ったが。
なんとなく帰りそびれてしまっただけだから。
「おめでとうございます」
「……あ、ありがとうございます」
ものすごく小さな声で千尋先輩が俯く。
それが答え。
手ぐらい握り合っていてもいいのに。
ふたりとも、お互いの距離感がうまくつかめないように立っている。
「とりあえず帰ろう」
蓮治がぶっきらぼうに言う。
わたしは頭を抱えたくなった。
「送っていきなさいってば」
耳元でささやく。
「え……ああ、そっか。そうだね」
「あの、無理して頂かなくても」
思いっきり聞こえていたようで、千尋先輩が遠慮したように声を上げた。
「いや、送ってくよ」
「はい」
「……わたしは帰ろ」
なんだか当てられてきた。
もういいや。
と、1つだけ思い出したことがあって、蓮治を指でちょいちょいと呼ぶ。
「ねえ蓮治、その小説って読ませてもらえないかな?」
「やだよ」
「ぶ~ぶ~」
「あの……」
おずおずと声が上がる。
なんだろうと蓮治と一緒に目をむけると、千尋先輩が真面目な顔でポケットから手帳をさしだした。
「代わりじゃないですけど……これを……」
「これ……って、千尋先輩の日記じゃないんですか?」
「そうですけど、今のものではありません」
それは、良く見れば新しいものではなかった。
どこか擦り切れて、何度も繰り返し読まれ、折り目と手垢がついた古い手帳だった。
蓮治が驚いた顔をする。
「もしかして、半年前の手帳ですか……?」
「はい。さっき蓮治くんに返してもらったものです」
「いいの?」
蓮直が気遣うように千尋先輩に問う。
「はい」
千尋先輩が、はにかんだ表情で答えた。
「私はもう大丈夫です。私は……もっと大切なものをもらいましたから」
「わかりました」
断るほうが悪いと思い、素直に受け取る。
手帳はなんでもない小さなものだったが、なぜか重みがある気がした。
「……これ、読んでもいいんですか?」
「いいですよ。お礼ですし」
「お礼?」
「可能性の話を昨日しましたけど。ミズキちゃんがいなかったら、今の私と蓮治くんはいなかったわけですから」
「へ?」
「なにが?」
従兄妹ふたりで、共に首を傾げてしまう。
「蓮治くんとミズキちゃんが話していた、電話のことです」
「ああ、あれか」
自分で書いておいて納得するやつ。
そんなこともあったが──告げた言葉そのものを、わたしは覚えていない。
でも、それもこの手帳の中にあるんだ。
「ミズキちゃん」
千尋先輩が優しい声でわたしを呼ぶ。
「好きな人に好きだと言えることは、本当に、びっくりするくらい幸せなことでした」
「え?」
一瞬、のろけかとも思ったが、違った。
「ああ。あのお泊りに来た夜の話ですね」
「はい。半年前も、今も、私はミズキちゃんに助けてもらったり、励まされてばかりです。だから、私からもミズキちゃんに贈り物をさせてください」
「え、いえ、そんなのいいですよ」
「遠慮はいりません……渡すと言っても、形があるものではないですから」
千尋先輩が苦笑いを浮かべる。
「私にできる唯一の──言葉を伝えたいんです」
「言葉、ですか?」
「はい」
それを贈り物と呼ぶのは不思議な感じだ。
けれども、千尋先輩から受けとるものとしては、一番相応しい気もした。
「多分、ほんの少しですが、これからのミズキちゃんの役に立つかもしれない言葉です」
千尋先輩はひとつ頷き、静かに、しかし力強く告げた。
「夢を叶えるためには、まず、夢そのものがないといけない。こうなりたい、ああしたい、あれがほしい──自分のために、誰かのために。そういう意志、想いを抱くことが、なによりも大切なんだそうです」
「……想い」
「はい。とても単純なことですが、一番難しいことです。そして、その想いを諦めずに、ずっと想い続ける。それが夢を叶える第一歩になるんだそうです」
「…………。それは、誰の言葉なんですか?」
千尋先輩の言い回しに、わたしは問いかける。
その言葉は、まさに蓮治が実践してきたことであり。
そういう前向きな気持ちを生みだす人を──痛みを覚えながら、心に思い浮かべた。
「私にとっては蓮治くんがくれた言葉で、消えない記録としてここにあります」
彼女は新しい記録となった小説を胸に抱きしめて、花開くような笑みを浮かべた。
「そして──それはかつて、久瀬修一さんが蓮治くんに贈った希望の欠片です」
…………。
……。
ふたりを見送ったわたしは、大慌てで蓮治の家へと戻ってきた。
「すみません、またまた遅くなりました!」
「うあ~……」
案の定、とんでもなく暗い声がして、おば様がキッチンから出てきた。
「せっかくの料理が全部冷めた~……お腹空いた~……」
「ご、ごめんなさい」
時計を見ると8時を思いっきり過ぎていた。
「蓮治も帰ってこないし~、集団ボイコット? 大人帝国への逆襲? 七日間戦争ですか?」
「あ、あはは……蓮治や千尋先輩に会って、みんなで話し込んでいたらつい」
わたしは両手を掲げて、降参のポーズをとる。
冗談だとはわかっているが、もしかしたら本気かもしれないので、迂闊なことを口にできなかった。
蓮治のことも、本人から言わせるほうがいいと思った。
「よよよ」
おば様が泣き崩れる。
どうしよう。
思わず視線を逸らしたところで、ふと、居間の壁際におかれていた大きな箱が目についた。
「なんですかあれ?」
「ああ、なにかミズキちゃんに大きな荷物た届いてたけど」
すっかり元に戻って、おば様が頬に手を当てる。
「わたし宛てに? お母さんからかな」
「気の早いクリスマスプレゼントかしらね♪」
「え?」
おば様の言葉に荷札を見る。
英語ですらないアルファベットの中で、2つの名前だけが、ローマ字表記で見て取れた。
"kuze shuichi"と"Hayama Mizuki"。
「…………」
それがなにか、わかったような気がする。
わたしは厳重に梱包されていた包みをとき──予想通りのものを目にした。
「…………」
「それってヴァイオリン?」
いつか見たヴァイオリン。
それがわたしのもとへ……。
メッセージカードが1枚、ケースの上に載っていた。
読めない。
わたしはそれをおば様に渡す。
彼女はざっとそれを眺めて、訝しげに目を細めた。
「支障なし。ただし日々の扱いがよくないようなので注意されたし。モノがモノだけに早めに送り返しておくが、送り返す先が君でないことの意味を訊ねてもよいのか……後は私信。ドイツ語ね。工房の人かしら」
「…………」
「住所間違いで届いたわけじゃないんだ」
どうしてなのかと、おば様は言外に問う。
わたしは答えず、ケースを開けた。
何百年も大切にされてきたヴァイオリンの上に、もう1枚のカードが添えられていた。
思わず目頭が熱くなった。
それは日本語で。
たった一言……
世界で一番きれいな一言だった。
……。
その後、蓮治が帰ってきて、大賑わいで拍手喝采で、お祭り騒ぎな後のこと。
日付が変わって。
まだ笑い声の余韻が残っている空気と──
それが消えていくことへの寂しさを覚えながら、わたしはベッドに寝転んで、千尋先輩の手帳を眺めていた。
いつかの蓮治のように月明かりだけの部屋で。
目が悪くなるかと思ったけど、でも、そうやって読んでいたかった。
始まりのページにはこう書いてある。
きれいなきれいな丸い字で。
それはなんでもない日常から始まって、
蓮治と出会い。
笑って。
泣いて。
また笑って。
また泣いて……。
ひとりでいることの寂しさと。
ふたりでいることの怖れが綴られていた。
1つ1つの欠片だ。
忘れていようとも、絶対、どこかにそれは残っている。
心に。
身体に。
誰かの想いに。
この世界に。
傷のように。
愛しく。
「…………」
途中、千尋先輩と久瀬さんが一緒に歩いている場面があった。
彼はやさしくて。
嫌でもあの日のことを思い出してしまう。
そこで気づいてしまう。
わたしは泣きそうになっていた。
鼻がつんとるす。
どうしてか、あの日から、わたしは涙もろくなっている。
部屋の隅に置いたヴァイオリンに目をやる。
久瀬さんは今、穏やかに眠れているのだろうか……。
「……そう、か」
わかったかも知れない。
そうなのかも知れない。
どうすればいいのか。
そうやって夜が更けていく。
──はずだった。
「…………?」
最初、それがなにを意味するのか理解できなかった。
それは物語の本筋とはまったく関係のない記述。
あくまでも、日記であるために記されていた余計な描写。
千尋先輩と景先輩とのメールのやりとりの中にあった、1つの名前。
「…………」
驚きが声にならない。
わたしは目を疑った。
何度も読み返す。
"彼女"に関する説明書きは少ない。
当たり前だ……。だって、それは、千尋先輩とは関係のない名前で。
あるはずのない名前だから。
同姓同名の別人かと考える。
でも、違う……。
それはわたしの知っている"彼女"とそっくりで。
教会にいて。
誰かを待っていて。
やさしく。
時に厳しく。
神様じゃなくて。
人に祈りを捧げている。
「……雨宮優子さん」
……。
赤い世界──。
わたしはぼんやりと知覚を覚醒させる。
自分の身体が世界に溶けて混ざっている。
手であろう箇所を見ようとするが、そもそも知覚となるべき眼球の位置も定まらなかった。
これは──夢か。
でも、いつもの青い海の夢ではない。
では、これはなんだろうと考える。
遠くから子供の泣き声がした。
震えている。
寒い日だった。
寒い?
つまり冬だ。
それならここは。
教会だ。
『 ちゃん、わたしに何か用があるんですか?』
優しい声がした。
ノイズが混じって誰への呼びかけかわからなかった。
だから、視点であるわたしも振り返る。
祭壇の前で、雨宮優子さんが小さな女の子とむかい合っていた。
いや、身長が違うから、優子さんは前かがみに。
女の子は不器用な顔をしていて……微笑ましい光景だと思ったが。
「ゆうこがドロボーしないか、みはってるの」
ぜんぜん微笑ましくなかった。
「なんでもいいですけど、せめてお姉ちゃんとか呼んでもらえないでしょうか」
「……イヤ」
とても可愛げのない子だ。
優子さんは困ったように視線を外す。
「ゆうこ」
「ちょっとだけ静かにしててね」
彼女は十字架を見上げた。
祈りというには強い眼差しで。
なにものにも抗うように。
孤高で。
きれいで。
わたしはその瞳に。
憧憬を抱いたのだ。
……。
いるような予感はしていたけど、やっぱりいた。
「こんにちは、火村さん」
「こんにち……」
手を上げかけて、彼は不思議そうにわたしの姿を見つめた。
「……今日はなんか雰囲気が違うね。また制服だし」
わたしの手元にある花束に目をやって、火村さんがつぶやく。
「俺へのプレゼント?」
「違いますよ。なにかいつもと違いますか、わたし?」
「ん……きりっとしてるような」
「いつもきりっとしてますよ~」
「なにかふっきれたのかな」
「ふっきりに来たのかも知れないですけど」
そのために教会に来たのだ。
制服を着ることに少しだけ抵抗があったけれど、これ以外に、ふさわしい服を持って来ていなかったから。
「今日は別に火村さんに用があったんじゃないんです。ただ、これを捧げたくて」
わたしは花束を持ち上げて匂いをかぐ。
洗練された香り。
「本当は25日のほうがいいんですけど、ここ、その日は埋まってそうなので」
「誰のためにって、訊いていいのかな」
「懺悔になりますけど、それでもいいんですか?」
わたしは小さく笑う。
「神父じゃないけどな。いいさ、それですっきりするなら」
「では、聞いてください。ちょっと長い話かも知れませんが……どこから話せばいいかな」
わたしは純白の花を胸に抱く。
ステンドグラスから差し込む光に、目を細める。
懐かしいな。
「わたしはかつて、この教会に住んでいたことがありました」
「ああ」
火村さんは驚きというより、納得したというつぶやきをもらす。
「いつか、養子だということは知っていると、言ってましたね」
「やっぱり今日は違うな……そっちの顔が本物か。そう、養子だって聞いたのと、この教会を眺めてるときの雰囲気で、あの施設にいた時代があったんだろうなって。久瀬は気づいてないみたいだったな」
「ええ」
気遣いのない普段の口調はありがたかった。
火村さんは本物の神父さんのように、機微に通じているようだ。
だから改めて話そうと思った。
ずっと蓋を閉じていたオルゴールを開くように。
「これは友達も先輩方も、おば様も蓮治も……お母さんも……誰も知らない昔話です。わたしは生まれつき家族がいなかったわけではないんです。おぼろげにですが、そういうものがあったことを覚えています。仲のよい家族だったと思います」
火村さんの静かな視線を受けて、わたしはゆっくりと首を振る。
「いえ、わたしがそう思いたいだけかも知れません……なにかはあったのでしょう。今思えば、家の中に笑い声があったことを覚えていないんです。わたしの家族が失われたのは震災ではありません」
彼が少しだけ反応した。
そう、音羽では勘違いされやすいけれど、そうではないのだ。
「ある夏の日、遊園地に行ったんです。その日はなぜか両親がやさしくて、笑っていて、暑くて、みんなでソフトクリームを食べて……美味しかった。えへへ……実は、食べ物のことしか覚えてないんですよね」
わたしは滑稽だと思ったが頭をかく。
ソフトクリームは家族の味。
火村さんは今度は反応せず、ただ、静かにわたしの言葉を待っていた。
「……その帰り道に、車が海に落ちて両親は死にました」
「事故で?」
「いいえ」
白い花が揺れる。
「たぶん、心中しようとしたんです」
「…………」
「わたしはその直前に、車内で母親に首を絞められました。なにがなんだかわからないまま、苦しくて──それでも母親が泣いているのが不思議で悲しかった。久しぶりに家族みんなが笑っていたのに。……結局、そこでわたしを殺すことができなくて、だから車で海に飛び込むなんて方法をとったんだと思います。開いていた窓から海の水が流れ込んできましたが、それが終わってしまうと、世界はとても静かになりました。夏の海水はあたたかいのに冷たくて。海面がきらきら揺れていて。泡がぽこぽこきれいで。……死ぬのが怖かった。でも、わたしは直前に首を絞められて意識が朦朧としていて。皮肉にも、それで海水をほとんど飲み込まず、助かりました。その後、わたしはこの教会で目を覚ましたんです」
「……そうか」
火村さんが唐突につぶやく。
どこか虚ろな影を見せて。
「そのせいなのか。それが君の傷か」
「傷?」
「そんなものを背負っているから、君はいつも笑っていて、死にかけの久瀬に惹かれたのか」
「…………なんですかそれ?」
「え?」
「だってこんなの、どこにでもあるものじゃないですか」
こんなの傷だなんて呼べない。
みんなどこかで何かを背負っているものだし。
特に音羽は、あの震災のせいで見た目の華やかさとは裏腹に、そういうものが溢れている。
だけど、火村さんは珍しく……本当に珍しく呆けきっていた。
「久瀬にこの話はしたの?」
「いいえ、わざわざ吹聴するようなことじゃないかと」
「は」
火村さんは驚いたように目を開いて、薄っすらと自嘲気味に笑った。
「その話をすれば、君が死ぬことの怖さをきちんと理解しているんだと、あいつが認めてくれるとは思わなかったのか?」
「ああ」
なるほど、とわたしは頷いてみせる。
「あはは……そうか、そういう手もあったんだ」
「本当に気づいて──?」
「ああ、いえ、冗談です。そういうことも考えなかったわけじゃありません」
最後の最後の奥の手だとは思っていたけど。
「でも、そんな傷の舐めあいがしたかったんじゃないんですよ。わたしは本当に久瀬さんのことが好きだったから。それって卑怯じゃないですか」
「…………」
「わたしはむしろ、逆に、可能性でありたいんです」
抱えた花に負けないように、笑顔を浮かべる。
「可能性?」
「はい。こんちくしょうめ~! ってことばっかりのこの世界で、それでも、笑顔を浮かべ続けていられる可能性。環境や才能や時代じゃないんです──そんなものは、いつでもどこでも、誰でも言い訳にできます。そんな、自分も騙せない嘘をつくべきじゃないんです。この世界に生まれて幸せになりたい。その想いだけはみんな、絶対に持っているはずなんですよ。絶対に絶対!」
わたしはつい鼻息を荒くしてしまう。
「……馬鹿みたいだな」
呆れたように火村さんが息をつく。
「そんなこと考えて、肩肘張って生きてるのか?」
「あ~……いいえ。かっこつけてみただけです。こんなことずっと考えてるわけじゃないです。もちろん、わたしが世界を変えれられるなんて思ってません」
生まれや生い立ちは複雑かも知れないけど、わたし自身はあくまでも平凡で非力で。
そういう強さを持っているのは、先輩たちだった。
「それでも、ひとりとかふたりくらいなら、わたしの小さな想いで幸せにできるかも知れません。んで、その幸せになった人が世界を変えてくれるかも知れないし、それが駄目でも、また別の人を幸せにしてくれればいいんです。そうやっていけば、いつかみんなが幸せになります。なにげないきっかけで世界は変わるかも知れません」
「……そんなの無理だよ」
火村さんが小さくつぶやいた。
いつもと変わらないように見えるが。
なにかを堪えるように。
「理想論でどうにかなるほど、この世界はきれいじゃない」
「そうですね」
それはそうだ。
きれい事なのは知っている。
だってわたしは、実の両親に生まれてきた意味を否定されて。
どんな形であれ、羽山水姫の身代わりでしかなく。
自分の存在そのものが、醜い世界の証明であるのだから……。
「……時々、この世界が夢で、目を覚ましたらあの海の中にいるんじゃないかと、息苦しくなることがあります」
「…………」
「……自分の存在する意味がどこにあるのか迷います。でも」
それでも。
価値や意味なんてなくても、わたしは生きている。
わたしはここにいる。
「辛いのも苦しいこともあるけど、良いことも面白いことも集まって、今のわたしがいるんです」
お父さんとお母さんと、友達ひとりひとりに……自分を認めてもらって。
傷ついても立ち上がる人たちを見てきた。
「だから同情じゃなくて。わたしは久瀬修一さんの強さに惹かれたんです」
わたしは死ぬことの怖さを知っているから。
その境界に立って、あんなに他人のことばかり考えた笑い方ができる人は……とても眩しくて……。
恋焦がれた。
「それは妄言だ」
「そうかも知れませんが、やっぱりみんな願っていますよ。こんなの絵本とか少女漫画にだって書いてあるんですから。大人が気づかないはずないんです」
「少女……漫画……?」
「はい。今度お薦めのものをお貸ししましょうか?」
ヒロ先輩の本が、どこか鞄の中に入っているはずだったし。
「……いや、いい。少女漫画だと?」
火村さんは顔を押さえて首を振った。
どうも笑っているらしいが、泣いているようにも見えた。
わたしはどうしたらいいのだろう。
花束を見下ろしてしまう。
「えーと……もしこれが傷なら、まあ、そう呼べなくはないのかな?」
「ああ、すまない」
落ち着いたのか、唇を曲げて火村さんが顔をあげた。
「そうかいそうかい……久瀬のやつも見誤っていたんだ」
「へ?」
「君は彼女とは似て非なる最悪だな」
なぜか楽しげに。
それと、なんだか貶(けな)されてますかわたし?
「たまたま表面的に似てるだけで、完全に逆じゃないか……」
「あの」
「君、なにしにここに来たの」
「懺悔?」
「必要ないんじゃない」
「いえ……そうですね」
懺悔の途中──と言うか、明らかに脱線していたような。
「ちょっと、いい加減にこの花、置いて来てもいいですかね」
「構わないけど」
「そこでしますから、ついて来てください」
「なにを?」
今日の火村さんは頭が回っていないのかも知れない。
どうしたのだろう。
わたしは小首を傾げて言った。
「だから、今までのは生い立ちで……これからが本当の懺悔ですよ」
……。
強い日差しが目に刺さる。
薄暗く涼しかった教会の外の世界は、今日も死ぬほど暑かった。
「裏の墓に行くのか」
遅れて出てきた火村さんが、背中から声をかけてくる。
「いえ、ここなんです」
「……ここ?」
「花がすぐにしおれてしまいそうですね……」
わたしは教会のすぐ前の道路を見渡した。
「ここがなに? 死んだ両親とか、以前の羽山水姫に持って来たんじゃないのか?」
「違います。これは雨宮優子さんにです」
「…………」
「本当は、本当の場所に手向けたかったんですけどね」
「おまえは……」
「え」
あまりにも感情のない声に、驚いて振り返る。
「おまえは誰だ?」
火村さんの声とともに、教会の鐘が鳴った。
どこまでも遠く響き渡るその音は。
世界の終わりのような。
美しく。
物悲しい。
古い記憶を呼び起こす。
──あなたは誰ですか?
…。