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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【15】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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07.震える手
 Shaky hand.

 

いつかの光景を思い出す。

炎の中に飲み込まれて消えてしまった音羽の街。

かつての面影などかけらもなく、もう二度と戻ってこないものがあまりにも多すぎた。

それでも、街は新たに生まれ変わろうとしていた。

ゆっくりと、少しずつよみがえっていく街が好きだった。

 

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「お兄ちゃん……」


一人でじっくりと街をスケッチしたいのに、いつも後をついてくるこいつが、俺は気に入らない。


「その呼び方はやめろって言っただろ」


俺をそう呼べるのはたった一人だけだ。

他の誰にもその呼び方は許さない。


「もう帰らないと先生に怒られるよ」
「だったらおまえだけ帰れ」
「でも……」

 

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ぐいっと手を引っ張られる。

無視しても、優子はかたく手を繋いだまま。


「……離せ」
「帰ろうよ」
「離せって言って──」


その瞬間、意識が硬直する。

炭のように真っ黒になった腕と、その細い腕が握りしめていた時計──

 

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「お兄ちゃん?」
「……なんでもない」

 

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そう言って、強引に優子の手を振りほどく。


「あっ……」


優子は不満げな表情で俺の手をじっと見つめてくる。

その顔は見なかったことにして、俺はズボンのポケットに手を入れた。


「……お兄ちゃん」
「もう帰れ。俺もすぐに戻るから」
「うん……」


頷いたくせに、優子はその場から動こうとしない。


「なんだ、言いたいことでもあるのか」


優子はまたこくりと頷いた。


「わたしね……」
「なんだよ?」
「もうすぐおわかれしなくちゃいけないの……」


……。

 

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「…………」


今度は優子の夢か。

思わず笑いそうになってしまう。

結局のところ──

俺は今でも遠い過去に心を残したままなのだ。

どれだけ時が経とうが、消えない記憶。

過去という得たいのしれないモノに操られる人形のようだ。

くだらない。

ひどくくだらないことだ。


…………。

 

……。

 

 

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教室に入り、まっすぐに自分の席に向かう。

 

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「お、火村おはよう」
「ああ」


ちらりと視線を向けるだけで椅子に座る。

 

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「なんか、またもや死神みたいなツラだね」
「俺が死神だったら、真っ先におまえを地獄に送ってるだろうな」
「俺は太く長く生きるつもりだから、それは勘弁だな」


こいつが長生きしたら、それだけで世のため人のためにならない。


「おお、そうだ」
「あん?」

 

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「素直じゃない火村くんにプレゼントがあるんだよ」

 

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「なんだこりゃ」


久瀬から渡された紙切れを眺める。


「天才ヴァイオリニスト・久瀬修一くんお別れ会の巻……?」


紙の最上段にバカでかい字でそう書かれ、さらに下には場所と日時が記されている。


「別れってなんのことだよ?」


"の巻"には突っ込まないでおく。


「もしかして俺が留学するって忘れてませんか、火村くん?」
「…………ああ、そういえば」
「本気で忘れてただろ、おまえ」


ここんところ、ゴタゴタしてたんで久瀬のことなど完全に忘却の彼方だった。


「どうでもいいが、これおまえの字に似てないか?」
「当たり前だろ、俺が書いたんだから」
「まさか、お別れ会って自分で企画してるのかよ」
「いやいや、これには事情があってね」


久瀬はにやにやと笑っている。


「前に付き合った女の子たちが何人か俺んところに来たんだよ」
「とうとう被害者の会でも設立されたのか」
「はは、ご冗談を」


あり得ない事態ではないだろうが。


「彼女たちがどうしても盛大にお別れパーティーをやりたいっていうもんで、俺も一枚噛ませてもらおうかと」
「おまえが関わらないほうがまともな催しになると思うぞ」
「まあ、騙されたと思って来てくれよ」
「……時間があったらな」


日時は来週の期末試験最終日の午後になっている。

バイトは入っていただろうか。


「あ、そうだ。優子ちゃんにも来てもらおう。そうだそうだ、それがいい」
「…………」


……。

 

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1時間目が終わるとすぐに、俺と久瀬は教室を出た。


「優子だって暇じゃないだろうから、来るかどうかはわからないぞ」
「俺のお別れ会だって言えば、なにを置いても来てくれるさ~」
「ほとんど話したこともないだろうが!」
「愛に時間は関係ないよ」


こいつはどこまでバカなんだろうな。

 

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「まあ、真面目な話」
「おまえが真面目な話だと……?」
「優子ちゃんには来てもらいたいんだよ」
「そんなに気に入ったのか、あいつが」
「俺のカンがさ、あの子は我が親友の恋人にふさわしいと言ってるんだよ」
「……おまえな、寝言もたいがいにしておけよ」


なにが恋人だ。

色恋沙汰のことしか考えてないんだよな、久瀬は。


……。

 

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「……ん?」
「あれ」


1年B組の教室の前に来たところで、俺と久瀬は同時に声を上げた。

休み時間だというのに、妙に静まりかえってるというか……。

俺は足を止めてしまう。


「なにかあったのかな」


ちょっと嫌な予感がするな……。


「ちょっと見てこよう」


そう言って、久瀬はためらいもなくB組の教室に入って行った。

何事か起こったことは疑いようもない。

俺も教室に乗り込んでいくべきか……。

 

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「火村」


悩む暇もなく、久瀬が教室から顔を出した。

あまり見たことのない、真剣な表情だ。


「どうやら、ちょっとまずそうだ」
「なんだ、いったい?」
「優子ちゃんが……」

 

………………

 


…………

 


……

 

 

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美術室の扉を開けると、いつかとまったく同じ場所に雨宮がいた。

どこか疲れた顔をして、所在なさげに煙草をふかしている。


「雨宮先生」
「ああ、火村くん」


雨宮は煙草をくわえたまま笑いかけてくる。

 

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「とうとう美術部に入ってくれる気になったのかな?」
「今は冗談に付き合う気分じゃないんです」


雨宮の様子はいつもとまったく変わらない。

そのことが、俺には腹立たしい。


「優子のことですよ」
「優子のこと?」


雨宮は煙を吐き出す。


「ああ、なかなか派手にやったらしいね」
「のんきな言いぐさですね。先生はなんとも思わないんですか」
「取り立てて騒ぐようなことじゃないよ。学校ではよくあることだろう」
「あんたは、自分の妹が暴力沙汰を起こして、それでも騒ぐようなことじゃないって言うんですか」
「そうは言っても、女の子同士のケンカじゃないか」


──久瀬が集めてきた情報によると。


1時間目と2時間目の間の休み時間に、雨宮優子はクラスメイトを殴ったらしい。

1時間目の体育から戻ってきた優子は、なにがあったのかクラスの女の子と口論になり……。

突然、優子は相手をひっぱたいてしまったそうだ。


「先に手を出したのは間違いなく優子らしいですよ」
「ああ、聞いてるよ。それで相手も火が点いちゃったらしいね」


そして、取っ組み合いになった──というより、優子が一方的にやられたらしい。

ほとんどが伝聞なのは、まだまったく事実確認ができてないからだ。


「優子はどうなったんです?」
「今日は帰らせたよ。突き飛ばされて背中を打ったくらいで、大きなケガはなかったけど、教室に戻らせるのもなんだしね」
「ケガは……ないんですね」


それなら一安心だが。


「なにか処分とかは……」
「ビンタを一発くらわせただけだから、謹慎とか停学とかはないと思うよ。せいぜい反省文を書かされるぐらいで済むと思うよ」
「そうですか……」


そちらも心配ないか。

だったら、残るは──これが最重要問題だ。


「雨宮先生は優子がいじめられてたことを知ってるんですか?」

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「いじめ……?」


雨宮は小さく首を振った。


「ああ、なるほど。つまり、優子が殴ったのはいじめの犯人なのかな」


俺は頷いた。

その可能性はかなり高いと思う。


「これでもう疑問はなにもないね」
「疑問はないけど、放っておくのはまずいでしょう。優子は間違っても暴力を振るうような子じゃありませんよ」


子供の頃の優子。

今の優子。

どちらとも接した時間は短いけれど、それくらいのことはわかる。

つまり、あり得ない行動を取るほど優子は追いつめられてるってことじゃないのか。


「このままなにもしなかったら、またなにか起こるかもしれない。手を打たないと……」
「火村くん、これは些細なことなんだよ」
「……え?」
「放っておけばいい。これは些細なことだし、優子自身の問題でしかない」
「ずいぶんと冷静ですね」


思わず、言葉に皮肉がこもってしまう。


「たとえ血が繋がってなくても、先生の妹でしょう」
「妹だから、だよ。この程度のことで人の手を借りるような──そんな弱い子になってもらいたくないな」
「それはなにもしない言い訳じゃないんですか」
「そうかもしれない。だけど、1つだけ確かなことがある」
「なんですか」
「君が怒るようなことではない、ということだ」


…………。

 

……。

 

 

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放課後。

HRが終わってから、久瀬はすぐに教室を出て行った。

例のお別れ会の打ち合わせがあるそうだ。

いったいなにを打ち合わせるんだか。

 

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「夕、帰らないのか」


凪がなにやら神妙な顔をして話しかけてきた。


「バイトまでまだ時間があるからな」


こういうときは図書室で勉強に打ち込むところだが、今日は気分が乗ってくれない。

もっとも、期末試験も近いのでのんびりはしていられないな。


「いや……やっぱり図書室に行くか」
「では僕も付き合っていいかな……?」
「凪、なんか悪いものでも食べたのか?」


凪がわざわざ俺に断りを入れるなんて。

昨日も家に来てわけのわからんことを言ってたが、最近の凪はどうも挙動不審だ。


「悪いものを食べたくらいで、僕の個性は揺るがない」
「そりゃもっともだな」


ということは、凪の挙動不審には他に理由があるということだ。

いや、理由なんてないのかも。


「そういう君もあまり元気がないな」
「俺はいつもこんなもんだろ」
「無駄なエネルギーの消耗を抑えてるのかな」
「別にそんなことは考えてないけど、そうかもしれねえな」
「だけど、ゆこちゃんのことでは怒ってる。エネルギーを使いまくってる」


まるで俺を責めるような口調だった。


「最近の夕はおかしい。全然夕らしくない」
「俺もそう思うよ」


優子のこととなると、心がざわついてしまう。

時々、自分を抑えられなくなるほどだ。

小さな頃もそうだった。

俺を見上げるあの瞳を見てると、どうしても──

 

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「やっぱり僕はやめておこう。部活に出ることにするよ」
「ご自由に」
「そういう言い方はちょっと傷つく」
「なんでだよ」

 

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「ふん」


不機嫌な様子を隠そうともせずにそう言うと、凪は教室を出て行ってしまった。

なにもかもがおかしくなっている気がしてならない。

変わっていっていると言い換えてもいい。

俺の心はなんのために変わろうとしているんだろう。

誰のために?


……。

 

 

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6時になったところで図書室を出る。

集中力が続かず、いまいち勉強ははかどらなかった。

期末試験も近いのだから、調子を上げていかないといけないのに……。


「ま、なんとかなるだろ……」


今までだって、なんとでもしてきたんだ。

きっとこれからも。


……。

 

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靴を履いて外に出た。

かすかに、グラウンドのほうから威勢のいい掛け声が聞こえてくる。

夕暮れの学校。

夏。

どちらも嫌いじゃない。

胸が痛くなるような──不思議な感覚に襲われるけれど、それも心地良くて。

いつまでも夏が続けばいいのにと、バカげた願望まで浮かんでしまう。

 

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「…………?」

 

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今、なにか見えた。

確かに、なにかが動いた。

あの場所に行ける人間は、俺の知る限り一人しかいない。


「……あのバカは」


俺は1つ舌打ちして、校舎へと踵を返した。


……。

 

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屋上の扉の先、柵もフェンスもない開かれた場所に彼女は立っている。

突然現れた俺に、驚くこともなく穏やかな笑みを浮かべて。

 

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「優子」
「はい、優子ですよ」


何事もなかったかのような、おどけた仕草。


「おまえ、帰ったんじゃなかったのか」
「帰ったと見せかけて、実は屋上に潜んでいたのです。なかなかやるでしょう」
「誰にフェイントかけてるんだよ」
「敵を欺くにはまず味方から、というじゃないですか」
「誰が敵で、誰が味方なんだ」
「少なくとも、火村先輩はわたしの味方でしょう?」
「どうかな」
「優しいくせに」
「適当なこと言ってんじゃねえよ」


気まずくて顔を逸らす。

俺がもしも本当に優しければ。

事情がわかっていて、優子を放っておきはしなかっただろう。

本人がなんと言おうと、多少荒っぽいことをしてでも、いじめを止めるべきだった……。

 

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「それにしても、夕方だっていうのに蒸しますね」
「そんな恰好してるからだろ」

 

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「なるほど、鋭いご意見ですね。どうせ先輩しかいないし、脱いじゃいましょう。上も下もぱーっと」
「待て待て!」


本当に制服に手をかけた優子を慌てて制する。


「ダメなんですか?」
「あったりまえだろうが」


このガキ、本当になにをしでかすかわからない。


「こんなところにずっといたなら、そりゃ暑いだろう」
「でもわたし、暑いのは好きなんですよね」
「そんなに好きならずっとここにいろ」
「あら、愛のないお言葉ですね」
「そんなもんあるか」
「先輩は、どうです? 夏は好きですか?」
「……どうでもいいんじゃなかったのか」
「はい? なんの話です?」


優子は不思議そうな顔をする。


「クラスメイトをひっぱたいたんだろ」

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「あー、やっぱり先輩にも知られちゃいましたか」
「おまえ、まったく反省してねえな」
「うーん……」


まずいことをやったという自覚なんてまったくなさそうだ。

相手がいじめの犯人だとしたら、優子が一方的に悪いというわけでもないが……。


「実を言うと……」
「なに?」
「わたし、人を叩いたのって生まれて初めてなんですよ」
「…………」

 

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優子は自分の小さなてのひらをじっと見つめる。


「まだじんじん痺れてるみたい……」


俺に向けたものではない、かすかな声。

彼女の手は震えているようにも見える。


「けっこう痛いものなんですね」
「それがわかったなら、もう殴らないだろう?」
「さあ、どうでしょうか」
「なにがあったんだよ」


自分でも信じられないような優しい声で、俺は尋ねた。


「体育から戻ってきたら……わたしのカバンを探ってる人がいたんですよ。そしたら、なんか急に頭に血が昇っちゃって」


意外な思いがした。

優子が手を出すくらいだから、よほどのことをされたと思っていたんだが。


「まあ、最近寝不足だったんで、ちょっとイライラしてたのかもしれませんね」


そう言って、優子はにっこりと笑った。

 

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「ごめんなさい、先輩」
「俺に謝ってどうする」
「謝るに決まってるじゃないですか」


すっと音もなく優子は俺のそばに歩み寄ってくる。

 

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「好きな人に心配をかけちゃったんですから」


拒絶されることなど、微塵も恐れていない瞳がまっすぐに見据えてくる。


「なんでだ?」
「はい?」
「俺にはおまえがわからない。再会してからまだほとんど日も経ってない。ガキの頃、俺が優しくしたとも思えない。なのに、どうしておまえはそういうことが言えるんだ?」
「ずっと想像してたんです」


優子はすっと俺の手を握る。

手袋越しに体温が伝わってくる。


「あの火村夕くんは今頃、どんな男の人になってるんだろうなって」
「……期待外れだっただろう?」


いつまでも過去を悔やみ続け、昔のように絵を描くこともなく、勉強と日々の生活に追われている。

余裕のない、つまらない人間になったものだ。

あるいは、子供の頃からそうだったのかもしれないな。

 

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「いいえ、あなたは……。わたしが思ってたとおりの人です」
「どういう奴になってると思ってたんだ」
「それはナイショです」
「てめえ……」
「いいじゃないですか。わたしは今でも火村先輩のことが好き。大切なのは、そこだけですよ」


……。

 

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ずっと思っていたと、あいつは言った。

だから優子は、俺と距離を置くこともせず、素直に言葉をぶつけられるのだろうか。

 

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「……ちっ」

 

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「お、遅かったな」
「うわっ!」


いきなり校門の陰から聞こえた声に驚く。


「とっくに図書室は閉まっただろうに、なにしてたんだよ?」
「いきなり声をかけるなよ、おまえは」
「この後バイトがある割にはのんびりだったな」
「いいだろ、別に」


芸のない受け答えをしてから、俺は早足で歩き出す。


……。

 

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「火村」
「…………」
「火村ってば」
「……なんだよ」


かなりの早足で歩いているが、久瀬はしっかりとついてきている。


「俺はこれでも、なかなかカンがいいんだよね」
「前置きはいいから、本題を言え。こっちは急いでるんだ」
「まあそうあせらずに、俺の話を聞け」


ぽんと俺の肩に手を置いて、久瀬はにやっと笑う。


「なんだよ、俺はバイトが──」
「火村、おまえはなにを考えてる?」
「いまいち質問の意味がわからねえ」
「正直なところを言おうか。俺はけっこう驚いてるんだよ。他人のことを気にする火村夕っていうのがちょっと信じられない」
「おまえはよっぽど俺のことを浮世離れしてると思ってんだな。俺だって普通に生きてる普通の学生なんだよ」
「だったら、凪のことだってもうちょっと考えてやればいいのに」
「凪? なんで凪が出てくるんだ?」

 

久瀬は黙って首をすくめた。


「思わせぶりなことをぬかすなよ」
「じゃ、1つ質問。火村は優子ちゃんをどうする気だ?」
「俺が言えることは……」


慎重に言葉を探す。


「そうだな……。俺はもう失いたくないんだ」
「失いたくない……?」
「守れなかった後悔は、1つきりでたくさんなんだよ」

 

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赤い腕時計。

 

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すべてが炎の中に消えたクリスマス。

 

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俺はたった一人の妹すら守ってやれなかった。

その償いというわけではないし、償いになどならなくても。


「放っておけないんだよ、あいつを」
「……そうか。そりゃあいい」


久瀬は満足そうに頷いて、ばんばんと俺の背中を叩く。


「痛ぇよ、馴れ馴れしくすんな」
「いいじゃん、馴れ合えるのもあとちょっとなんだから」
「そういう問題じゃねえ」

 

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結局、久瀬はバイト先までついてきて、道中どうでもいい話を延々と続けた。

まったくもって、うっとうしい。


…………。

 

……。

 

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今もまだ、手に痺れるような痛みが残っている。

わたしはずっと知らずにきた。

この世界には、こんな痛みも存在するということを。


「火村先輩、すごい顔してたな……」


わたしの行動がそんなに予想外だったんだろうか。

案外、あの人の中ではわたしはまだ小さな女の子のままなのかもしれない。


夕くんの後ろをついて歩くだけの、おとなしい子のまま。


「あはは……」


思わず笑ってしまう。


──とんとん。


「はい」


ノックの音に、わたしは返事する。


「優子、ちょっといいかな」
「おかえりなさい、兄さん」

 

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「ただいま」


兄はにっこりと微笑んで、わたしのそばまで来る。


「優子、一応訊いておくけど、今日のことは……」
「わたしのカバンを探ってたんですよ」


わたしは、通学に使っているカバンを引き寄せる。


「あれが入ってますからね。見られるのはかまわないですけど、触られるのはちょっと」
「……なるほどね。なら、今回のことは不問にしておこうか。だけど、あまり目立つことはしないでくれよ。俺にも一応、立場というものがあるから。妹があまりおかしなことをやらかすとね」
「あなたがそんなことを気にするんですか?」


兄は黙って肩をすくめた。

たぶん、この人はわたしが学園でなにをやっても気にも留めないだろう。

断言してもいいが、兄は教師としての立場にまったく執着していない。


「優子、なにを考えてた?」
「……さあ」
「火村夕。やっぱり彼は違うようだね」
「幼なじみですから」
「その腕を彼にも見せたのか?」


年中、長袖と手袋に包まれている腕に目を向ける。


「いいえ」


そして、小さく首を振った。


「断言してもいいが。彼が一番恐れていることは、君を見捨てることだと思うよ」
「……死んだ人に対して、償いなんてできないのに」
「そう、とても愚かなことだ。彼は建前なんて考えずに、自分を救うことだけ考えるべきなんだよ」
「火村先輩には無理でしょうね」
「火村くんにできることと言えば、自分を責め続け、必要のない偽善を続けることだけだろう。


わたしは肯定も否定もせず、カバンの中に手を入れた。

 

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取り出したのは鈍く光る1本のナイフ。


「毎日持ち歩いてるとは知らなかったよ」
「お守りだって言ったのは兄さんでしょう」


元々は、昔兄さんが趣味で木彫りの彫刻を作るのに使っていたもの。


「……これからどうするつもりだ、優子?」
「きっかけは作れたと思います。これからはどうするか──ではなく、どうなるかを見つめるだけ」
「そうやって、人は間違っていくんだよ」
「わたしは、もうとっくに間違えてしまってます。これから先も、ずっと間違ったまま……」
「そうか。そうだね」

 

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兄は心底楽しそうに笑って、ナイフを握るわたしの手にそっと触れてきた。

手袋を通しているとはいえ、兄の手からはほとんど体温を感じない。

火村先輩の手は温かかったな……。


…………。

 


……。

 

 

 

 

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08.どこにもいない神様
 God who not is anywhere.

 

 

時々思うことがある。

この街は、かつてどんな姿をしていただろうか。

唯一記憶に残っているのは、自分が住んでいたぼろ家の姿だけ。

暗くなるまで走り回った公園や路地裏、妹の小さな手を引いて歩いた商店街のこともまるで思い出せない。


「…………」

 

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澄み切った朝の空気の向こうには、鮮やかな赤に彩られた美しい街並が広がっている。

毎日目にするこの景色が、震災前の記憶を洗い流してしまったのか……。


「へえ……。やっぱり上手じゃないですか」

 

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「見るな」


俺は手元のスケッチブックを素早く閉じる。


「あ、ケチですね。見せたって減るものじゃないでしょうに」
「見せるとおまえの口数が増えるだろう」

 

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「先輩はわたしと会話するのが嫌なんですか?」


わざとらしく顔をしかめて優子は言った。


「そうやって愛想がないから、ずっと彼女ができなかったんですよ」
「大きなお世話だ」
「まあ、今はわたしがいますしね」
「…………」
「いたっ」


スケッチブックで軽く優子の頭をはたいた。

 

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「もー、なにするんですか」


言葉とは裏腹に、なぜか優子は嬉しそうだ。


「いいから、おまえは黙って紙飛行機でも折ってろ」
「黙る前に1つだけ質問がございます」
「……言えよ」
「どうしていきなり絵を描き始めたんです?」


優子は興味深そうに、まじまじとスケッチブックを眺めている。


「変じゃないですか。火村先輩は元からかなりおかしいですけど」
「どこが変なのか訊いてみたいところだが……」
「別にいいだろ、俺がなにをしたって」
「他の人ならいいですけど、先輩のことだから気になるんですよね……」


優子が身体を寄せてくる。

こいつの、この無防備なところはまったく変わらない。

ほのかに漂ってくる甘い香りに、気持ちが動揺しそうになってしまう。


──落ち着け。


優子を"そういう目"で見てはいけない。


「言っておくが、美術部に入ろうってわけじゃない。勉強だけの毎日じゃ、かえって効率が悪いから息抜きをしてるだけだ」
「ちゃんと理由をつけるんですね。さすが優等生はアドリブも上手です」
「前から疑ってたけど、おまえは俺をバカにしてないか?」

 

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「いいえ、大好きです」
「毎度のことながら、おまえの言葉は軽いんだよ」
「先輩が最初から本気にしてないんですよ」


ああ言えばこう言う。

子供の頃と比べて優子が一番変わったのは、この口数の多さだろう。


「ねえ、火村先輩」
「なんだよ」
「絵を描くの、楽しいですか?」
「息抜きだって言ってるだろ。面白くなかったら余計に息が詰まるだろうが」
「じゃあ、もっと楽しくしましょうよ」


満面の笑みで畳みかけてくる。


「わたしをモデルに描いてみませんか?」
「断る」
「わあ」


なにが"わあ"だ。

 

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「断られたことより、返答の早さに傷つきました……」
「傷つかずに生きていきたきゃ、一生家にこもってろ」
「……うーん」
「なにを悩んでるんだ、おまえは」


本気で家にこもろうかと検討でもしてるのか。


「いえいえ、先輩の意地悪と面相のあくどさは日々磨きがかかってくるなーと思いまして。そのうち、地球征服とかに乗り出しそうですね」
「できるか、そんなもん!」


どういう発想の飛躍だ、まったく。


「俺は昔から人間描くのには興味ないんだよ。建物とか──基本的に風景しか描けない」


優子がモデルとしてダメというわけではない。

単純に得手不得手の問題なのだ。


「そういうことだから、俺の息抜きの邪魔をしないようにな」
「はーい……」


不承不承といった様子で、優子は頷いた。


「でもわたし、することがないです……」
「別になにもしなくていいだろ」
「チャイムが鳴るまでまだ20分くらいありますよね」
「ん? ああ、まだだいぶ時間はあるな」
「わたし、ちょっと眠っていいですか?」
「また寝不足なのかよ。おまえ、夜更かしもいい加減にしておいたほうがいいぞ」
「あは」
「笑い事じゃねえよ。もう試験も近いけど、ちゃんと勉強してるのか?」
「おやすみなさい」
「おまえなあ……」

 

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俺にもたれかかり、あっさりと優子は眠りに落ちてしまう。

本当に毎日ろくに寝ていないようだ……。

まったく、こいつは普段どんな暮らしをしてるんだろう。


……。

 

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始業寸前で、教室はざわついている。

俺は教室に入り、まっすぐに自分の席に向かう。


「お、火村」


教卓の辺りで女の子数人と話していた久瀬が、めざとく俺を見つけて寄ってきた。

 

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「おはよう、近頃はなんか遅刻ぎりぎりで来るな」
「そういうおまえは最近、早めに来てるみたいじゃないか」
「ま、残り少ない学園生活を惜しむことにしたのだよ」
「あーそうかよ。せいぜい楽しんでくれ」
「放課後、何人かでカラオケ行くんだけど、火村も来ないか?」
「期末試験前だっていうのに、なに考えてんだおまえは?」


もっとも、久瀬の場合は試験がオール赤点だろうと知ったことじゃないわけだ。

というか、この男は普段ヴァイオリンの練習をしてるんだろうか。

どこから見ても努力しているとは思えない。


「残念だけど、火村が付き合い悪いのは今に始まったことじゃないか」
「おまえが遊び回りすぎなんだよ」
「そうそう、遊び人の僕が火村くんに女の子との遊び方を伝授してさしあげよう」
「教わっても意味ねえだろうが」
「あれ?」
「なんだよ」
「火村って、優子ちゃんと付き合ってるんじゃないの?」
「そんなわけねえだろうが!」
「最近、毎朝屋上でデートしてるんだろ」
「待て。なんでおまえがそんなことを……」


屋上は立ち入り禁止なのだから、上がるときはかなり注意を払っている。

雨宮以外の教師に見つかればどうなるかわからないのだ。


「なんでって、優子ちゃんが教えてくれたから」
「あのガキ……」


裏で久瀬となにを話してるんだ。

しかも、どさくさにまぎれて"デート"とかぬかしてるのか。


「適当なことばっかり言いやがって。あのバカがまたなにかやらかさないように、毎朝釘を刺してるだけだ。あいつの"反撃"にびびって、いじめは止まったらしいが、いつなにが起こるかわからないからな」


優子は俺にこう言ったのだ。


『火村先輩の顔が見られれば、毎日頑張っていける気がするんです』


……優子のそんな言葉を真に受けたわけでもないけれど。

放置してバカなことをやらかされるよりは、出来るだけ様子を見ておいたほうがいい。


「ま、硬派な火村くんとしては女の子と会うには口実が必要だよな」
「…………」
「なあ、火村よ」


久瀬は偉そうに言って、ぽんと俺の肩を叩いた。


「男のほうがいつまでも態度をはっきりさせない──なんてのは最悪だぞ。もっと思いやりを持つようにな」


思いやりか……。

そんなもの、誰かに向けたことがあっただろうか。

 

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少なくとも、あのクリスマス以来は一度もなかっただろう……。


キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン。


始業のチャイムが鳴った。


「話は変わるけど」
「あ?」
「ここ2、3日、凪が来てないな」
「そういえば……」


凪のサボリはいつものことだが、試験も近いこの時期に来ないのは珍しい。

あいつもいったいなにを考えているのか。

 

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教科書やノートをカバンの中から取りだし、机の上に置く。


「…………?」


本当、なにを考えてるんだろうな。


……。

 

考えてみれば、このところ一人で昼休みを過ごしてない気がする。

それどころか、家以外ではいつも近くに誰かがいるような。

施設にいたときでさえこうではなかった。

俺が意識的に周りの人たちを遠ざけていただけか……。

苦笑いして、俺はゆっくりと扉を開いた。

 

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「よう」
「夕?」


まるでからくり人形のようなぎこちない動きで凪はこちらを見た。


「今日はちゃんと服を着ていてくれてよかったよ」
「一度注意されたからな。僕もそこまでバカじゃない」
「いや、普通は注意される前にバカやってるって気づくと思う。それと、呼び出しかけるのはいいけど、机にペンで書くのはやめろよ」
「それもダメなのか。けっこう夕は口うるさいな」
「おまえが非常識すぎるんだよ」


しかも本人にまったく自覚が無いのがタチが悪い。

今後のためにも、矯正してやるべきだろうか。


「そういえば、夕の顔を見たの久しぶりな気がする」
「おまえが学校来ないからだろ」
「なるほど、そのとおりだ」


なんだろうな、この意味のない会話は。


「実はな……」
「あん?」
「絵が描けなくなったんだ」
「……は?」
「描けないんだ、全然。それどころか、筆を持っただけで気持ち悪くて吐きそうになるんだ」


特に困っているようでもなく、いつもと変わらぬ口調だった。

どうやらそれが言いたくて、俺を呼び出したらしい。

でも、そんな話を聞かされてもな。


「それは……いわゆるスランプってやつじゃないのか?」
「そんなありきたりな言葉で定義できる現象じゃない」
「なんでそんなことがわかるんだよ」
「そう言ってるんだ」
「誰が?」
「絵描きとしての僕が──このままでは一生絵が描けないかもしれないと言っている。何度も何度も繰り返し、警告してくるんだ」
「それを聞いてるのは誰なんだよ」


いつの間にか二重人格にでもなったのか。


「そうだな……。女としての僕、かな」


……。

 

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女としての──か。


「面白いですね……」

 

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わたしは物音を立てないように気をつけて、美術室の扉から離れる。

 

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「あれ、優子ちゃん」

 

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「はい、優子ちゃんです」

 

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久瀬先輩はいつもの穏やかな笑みを浮かべて、わたしのそばまで来た。


「火村に会いに行ったんじゃないの? あいつ、美術室にいなかった?」
「ええ、気が変わって引き返してきたんですよ。あまりべたべたすると怒りますからね、火村先輩は」
「素直じゃないからね」
「誰かに触れられることに慣れてないのかもしれません」
「へえ……」


感心したように久瀬先輩は唸った。

別に感心されることじゃない。

火村先輩はあれでなかなかわかりやすい人だから。


「久瀬先輩」
「はいはい、なんでしょう?」
「凪さんと火村先輩って……」
「凪と火村……がどうかしたの? ああ、そうか」


久瀬先輩は心得た、という顔をする。


「凪はさ、ずっと絵のことだけ。火村は勉強と生活のことだけ考えて今日まで来たんだ。君が考えてるようなことは──無いよ」
「それを聞いて安心しました。先輩、ありがとうございました」


わたしはにっこりと微笑む。


「ま、とは言ってもわからないけどね。男と女だから」
「……余計なことを付け足してくれますね」
「君なら言われるまでもなくわかってるんじゃないかな?」
「さあ、わたしには恋愛のことなんてわかりませんよ。久瀬先輩みたいに経験豊富な方とは違いますから」
「はは、君も余計なことを言ってるよ」

 

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わたしたちは笑顔を向け合う。

久瀬先輩もかなり不思議な人だと思う。

なにもかもわかってるような。

なにもわかってないような。

どこかつかみ切れない、不思議な感じ。


「あのー、久瀬先輩。ものは相談なんですが」
「はいよ、次はなにかな」
「援護射撃をお願いできます?」


理解できなくてもかまわない。

この人は、少なくともわたしの敵ではないようだから。


……。

 

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味方はいらない。

だけど、誰かを敵に回すこともしない。

俺は自分にそう言い聞かせてきた。


「…………」


無駄なトラブルを避けるためにそうしてきたのに。

 

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「火村先輩、冴えない顔ですね」

 

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「腹が減ってるんじゃないか?」

「いや、欲求不満かもしれない。いつも澄ました顔してるくせに、実は相当たまってると見た」

「たまってるって、なにがだ?」

「わたしが察するに、なにかよくないもののようですが……」

「おまえら、無駄口叩いてないでさっさと勉強始めろ」


放課後、優子・久瀬の連合軍の奇襲を受け、あれよあれよという内に図書室に連れてこられてしまった。

なぜか凪まで加わって、お勉強会がスタート。

勉強会そのものは別にかまわないが、面子には大いに文句を言いたい。


「なにも悪いことしてねえのに、なんでこんな目に」

「火村先輩、ぶつぶつなにか言ってますよ」

「往生際が悪いんだよ、そいつは」

「だから、口じゃなくて手を動かせよおまえらは。だいたい、なんで久瀬まで来るんだ。おまえ、試験なんてまるっきり関係ないだろ」

「いやー、俺も恥ずかしくない程度の点数を取りたいしね」

「……勝手にしろ」


そう言って、俺は自分のノートを開いた。


「では、わたしは学年トップの火村先輩にご指導願いたく……」

「自分でやれよ」

「相も変らぬ冷酷さですね。そう言わずに、わたし理数系がどうもダメなんですよ」

「ならちょうどいい。ここにおわす火村夕くんは入学以来、理数系科目の試験は失点ゼロという噂だよ」

「ええっ、そ、それはちょっとすごすぎないですか」

「いくらなんでもそんなわけないだろう。人間なんだから、ミスくらいはする」


と言っても、ミスの数は片手の数で足りる程度だ。


「まあいい。わからないことがあったら教えてやる」

「……夕にしては優しいな」


ぽつりとつぶやいた凪を軽く睨みつける。


「先輩は優しい人だってわたしは信じてますよ♪」

「なんか、みるみるうちに教える気がなくなってきた……」


やはり一緒に勉強する相手を間違えているとしか思えない。

こんなことで成績落としたらシャレにならないな。

 

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「先輩、この問題なんですけど」

「ああ」


優子が差し出してきた教科書に目を向ける。


「って、なんだよ。おまえはこんな基礎的な問題も──]

 

ぱん、と教科書を叩いたそのときだった。


「静かに!」

「あん?」


静かにしないといけないのはわかっているが、久瀬に言われたくない。


「聞こえないのか、火村」

「なんのことだよ」


俺だけでなく、優子と凪も不思議そうに久瀬を見ている。


「──来るよ」

「来る?」

 

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聞き返した瞬間、激しい振動が来た。

図書室にけたたましい叫び声が溢れる。


地震……!」


俺は思わずわかりきったことを口走ってしまう。

だが、すぐに冷静さを取り戻し、頭の中で瞬時に思考をまとめあげる。

自分がなにをするべきか──


「優子!」


そう叫んだ瞬間、俺は見た。

パニック状態の図書室で。

 

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雨宮優子だけは落ち着き払っていて、顔にはまるで感情というものがうかがえない。

死人のような顔──

そう思った。


そう思ったときには──もう揺れはおさまり始めていた。


………………

 

…………

 

……

 

「けっこう長かったな。震度は4くらいか」


揺れが止まってからしばらくして、久瀬が独り言のようにいった。

まだ図書室はざわついている。


「特になにか倒れたりもしてないね。一応、ちょっと奥のほうも見てくるか」

 

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久瀬は席を立って、本棚の間に姿を消す。

もしかすると、あいつもあれで落ち着かないのかもしれない。


「びっくりしましたね」

「……なに? おまえ、めちゃくちゃ落ち着いた顔してたじゃないか」


ちょっと怖いくらいに平静だった。


「いえいえ、固まってただけで、内心はビクビクですよ。やっぱり震災経験者はそうなっちゃいますよね」

「……そうか」


どうも嘘っぽいが、ことさらに疑う理由もない。


「あ、凪。おまえは──」


凪は完全に硬直している。


「…………」


しかも一言も言葉を発さない。

 

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「凪さん、かなりショックを受けてるみたいですね」

「そのようだな……」


確か、凪も震災を経験してるはずだから、こうなるのも無理ないか。

 

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「凪、おい」


凪の細い肩をつかんで、軽く揺さぶる。

それでも凪は魂が抜けたように、反応を示さない。


「凪」

「……大丈夫」


ようやく、ただ一言、それだけを言った。


「まあ、それならいいが。もう勉強って雰囲気じゃないな」

「そうですね。残念ですけど、集中できそうにないかも」

「久瀬が戻ってきたら帰ろう。凪もそれでいいな」


こくん、と機械仕掛けのような動きで凪は頷いた。

こいつ、大丈夫なのか?

 

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「火村先輩」


優子は、騒然としたままの図書室に似合わない穏やかな笑みを浮かべる。


「ありがとうございます」

「……なに言ってんだかわかんねえよ」

 

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「真っ先にわたしの名前、呼んでくれたじゃないですか」

「…………」

「嬉しいな。本当に、嬉しいですよ。名前を呼ばれただけでこんなに嬉しいなんて……わたし、変でしょうか?」

「……知らねえよ」


俺は無言で顔を背ける。

我ながら、らしくないことをしたと思う。

だけど、俺は確かになによりも優子の身を案じていた。

地震への恐怖も、身を守ることも忘れて、ただ優子のことだけど──


……。

 

 

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優子、凪と一緒に校門を出た。

久瀬はまだ用があるとかで、学園に残っている。


「火村先輩は今日もバイトあるんですか?」

「いや、試験前だからな。休みをもらってる」

茶店のマスターは「学生の本分を忘れないように」と、試験前はシフトを入れさせてくれない。

収入が減るのは痛いが、成績落として特待生の資格を失ってもシャレにならないので、やむをえないところだ。


「なんだ、やっぱり勉強教えてほしいのか?」

「それもそうなんですけど……」


──「火村くん」


聞こえてきた声に、俺と優子はさっと振り返る。

 

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「揃ってお帰りかい?」

「兄さんこそ、早いですね」


腕時計を見ると、まだ5時にもなっていなかった。

まっとうな社会人が帰宅する時間とも思えない。


「いいや、今日はちょっと用があってね。早退だ」

「あれの関係ですか?」

「そう、それでちょっと広野先生のところへね」


雨宮はちらりと凪に視線を向ける。


「ちょうどいいから、広野さん。一緒に行こうか」

 

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「嫌だ」

「え?」

「僕はひとりで帰る。誰もついてくるな」


そう言い捨てると、凪は振り向きもせずに早足で行ってしまった。

 

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「火村くん、なにをやったの?」

「どうしていきなり俺を犯人扱いするんですか」


人をなんだと思ってるんだ、この美術教師は。


「あいつ、さっきの地震がちょっとショックだったみたいですよ」

「ふーん、あの程度の地震で広野さんがそれほど動じるとも思えないけど……。とりあえず追いかけておくか。恩師の娘さんだからね、ちょっと失敗だ」

「どうとでもしてください」

「じゃ、優子。寄り道してもいいけど夕食までには帰ってくるようにね」

「はい、わかってますよ」


優子が答えると、にやりと雨宮は不適な笑い方をした。


「休憩はいいけど、ご宿泊はダメだよ」

「兄さんっ!」

「それじゃっ」


優子の怒声に追われるようにして雨宮も去った。

 

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「……おまえも大変だな」
「ええ、そりゃあもう……」


優子は深々とため息をつく。

のほほんとした優子でも、困った義兄にはかなり苦労させられているらしい。


「ま、それでも家族になっちまった以上は仕方ないよな」
「そうなんですよねー」


俺はゆっくりと歩き出し、優子も隣に並ぶ。

また例の如く妙に距離が近いが、もう咎める気もしない。

 

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「さて、言い方はともかく、兄さんの許可も出たので寄り道していきませんか?」
「俺は遊ぶためにバイト休んでるんじゃねえんだよ」
「遊びじゃなくて真剣な話ならいいですか?」
「余計にダメだな。真面目な話して、無駄に頭を使いたくない」
「でも、付き合ってくれるんでしょう?」

 

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優子はなんの疑いも持たない眼差しで俺を見て、ぎゅっと俺の手を握ってくる。


「…………」


もちろん、握りかえしたりはしない。

俺はまだ答えを返すつもりはないからだ……。


……。

 

 

 

教会は静謐(せいひつ)な空気に満ちている。

ここにいると、不思議と気持ちが落ち着くような気さえする。

だからどうということはないが。

 

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「しかし、いつも人がいないなここは」
「ふたりきりになるにはいい場所ですよ」
「祈りを捧げる場所で罰当たりなことだな」
「先輩は神様を信じてるんですか?」
「バカバカしい。神様なんてものが本当にいたら、とっくに殺されてるさ。世界は、運命を憎む人間で溢れかえってるんだからな」


そこまで言って、自分が意味のない話をしてることに気づく。


「これがおまえが言うところの真面目な話か?」
「テーマはなかなか深いと思いますよ。でも、そんなに面白くないですね」
「話を振ったのはおまえだった気がするんだがな」

 

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優子はくすくすと笑う。

無邪気な笑顔だ。

無邪気すぎて、どこか作り物のように見えるような──


「おまえの言うことは、いつもどこまで本当なのかわからねえな」
「そんなのわたしに限ったことじゃないですよ。誰だって、いくつも顔を持ってるんですから」
「顔、か」


確かにそのとおりではある。

優子も俺も、久瀬のような男ですら誰にも見せない表情を持っているに違いない。


「凪さんは」
「凪?」


ああ、そういえばあいつもか。

あいつこそ、俺が知る限りでは一番単純な人格に思えていたが……。


「凪さん、大丈夫でしょうか」
「どこかおかしかったのは確かだな。雨宮は動じるとは思えないとか言ってたけど、実際に動揺してるんだからな」


いくら震災を経験してるといっても、凪の反応は俺にとっても意外なことではあった。


「凪さんはね、女の人なんですよ」
「別に女でなくても地震は怖いだろう」
「そういうことじゃありません」


優子はわずかに苦笑いした。


「凪さんって綺麗ですよね」
「綺麗……?」
「火村先輩もまさか否定はしないでしょう?」
「そう言われてもな」


凪に女を意識したことなど、ほとんど無い。

せいぜい美術室全裸事件のときくらいか。


「目鼻は整ってるし、スタイルいいし、肌もすっごく綺麗で。性格もいかにも女の子って感じですからね」
「待てよ、最後のはちょっと違う気がするぞ」


俺が凪に女らしさを感じないのは、あの性格ゆえだと認識している。


「いいえ、凪さんは女性らしい人ですよ。ちょっと憧れちゃうくらい」
「あいつに憧れるのはどうかと思うぞ」


優子はちょっと困ったような顔をして。

足を止め、俺を正面から見据えてくる。

 

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「先輩、どうして凪さんがショックを受けてたかわからないんですか?」
「だから、地震が怖かったんだろ?」
「違いますよ、たぶん」
「他に動揺するようなことは起きなかったじゃねえか」


優子は小さくため息をついた。


「わたしにとって嬉しいことが、凪さんには逆にショックなことだったんですよ」
「なにを言ってるんだかさっぱりわかんねえよ」
「火村先輩は本当に困った人ですね」


にっこりと笑って、優子は言った。


「変なところで鈍いというか。勉強のことにばかり頭を使ってるせいでしょうか」
「おまえ、俺にケンカ売ってるのか?」


優子は笑顔のままで、そっと首を振った。

 

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「火村先輩、わたしはね。凪さんには負けたくないんです」
「なんの勝負をするんだよ、あいつと」

 

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「先輩、本当になんにもわからないんですね。わかってもらいたいと思う。だけど、思うだけじゃダメなんですよ、きっと。だから、わたしは……」

 

 

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すっと、優子は一歩近づいてくる。


「わたしは火村先輩になら見せられる。いいえ、あなたに見てもらいたいって思うんです」
「なにをだよ」
「本当のわたしを……です」



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冷たい唇だった。

かすかに潤んでいて柔らかく──

なぜか甘い味がした。


「優子……?」

 

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「あら、そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」


俺は自分の唇をゆっくりとなぞる。

間違いなく、俺と優子の唇がわずかに触れあった。


「おまえ、なにを考えてるんだ?」
「意外と落ち着いてますね。先輩、いつもわたしが近づいただけでびっくりしてたから、もっと驚くって思ってました」
「……俺を驚かせるためにしたのかよ」


キスなんて、取り立てて騒ぐようなことじゃない。

ただ、身体の一部が接触しただけのことだ。

だから取り乱すことなどない。


「火村先輩は信じていなかったじゃないですか」
「なにをだ」
「わたしは先輩のこと好きなんですよ。言葉でも態度でも示してきたつもりなんですけど、先輩は……」


それはわかっている。

極端なくらいにはっきりと優子は自分の気持ちを表してきた。

だけど、俺は──

 

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茜。


あの子のことが思い出されてしまう。

どこか妹を思い出させる優子に、どんな気持ちを向ければいいのだろう。


「先輩」


優子は少し怒ったような顔になった。


「……よく安っぽいドラマとかであるじゃないですか。誰かが死んでも、生きてる人の心の中で生きていくとかって」


なんの話なのだろう。

 

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「先輩もそうですね。死んだ人を自分の中で生かそうとしてる。そんなことしたって、死んじゃった人はもう生き返らないのに」

 

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優子はつぶやくように言って、唇を噛んだ。

 

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言われるまでもない。

もう二度と茜が戻ってこないことも、妹と優子を重ねてもなんの意味もないことも。

それでも意味がないことに囚われてしまうのが人間であり、俺なんだ──

今になって、俺はそのことに気づかされた。


……。

 

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教会を出た後、俺たちはなんとなく並んで歩いた。

家に帰ってもよかった──いや、そうするべきだったのだろうがなぜか俺は優子と一緒にいることを選んだ。


「やっぱりあれですね。受験のときに無理せずに、学力に見合った学校に行かないと痛い目に遭いますね」
「ずっと無理をし続ければそのうち実力もつくさ」
「無理無理。わたしには無理ですよー」


優子は元から無口ではないが、今は特に饒舌になっている。

さっきからまったく口が止まらない。


「人には向き不向きがあるって言いますけど、勉強もスポーツもダメ、芸術なんか絶望的。そういう人って間違いなくたくさんいますよね。あ、考えてみればわたしの周りって芸術系の人ばっかりですね。凪さんに久瀬先輩に火村先輩」
「……俺は芸術とは無縁だ。それに、雨宮だってそっち系だろ」
「あ、そうかそうか。肝心な人を忘れてました」


優子は苦笑いして、自分の頭をぺしぺしと叩いた。

なにをごまかそうとしているのだろう。

本当の彼女。

口づけの意味。

それらすべてを意味のない言葉の奔流の中に押しやってしまおうとしてる。

そんな気がした。

 

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「そういえば優子」
「はい?」
「雨宮に言ってた、"例のあれ"ってなんだ?」
「え? ああ、大したことじゃないんですけど。兄さん、今年度いっぱいで音羽をやめるかもしれないって」
「ん? それでなんで凪の家に行くんだ?」
「兄さんに音羽を紹介してくれたのは凪さんのお父さん──広野先生なんですよ」
「なるほどな」


それならやめるとなれば挨拶くらいはするだろう。


「あいつ、別の学校に転任するのか?」
「いえ、よくは知りませんけど、えーと……」


優子は黙り込んで、記憶を探っている。


「教師そのものをやめて、街の復興計画の一環に関わるとかなんとか」
「そりゃまたえらく大ざっぱな話だな……」


街の復興計画がいまだ進行中なのはもちろん知っている。

まるごと1つ街を作り直そうという計画だ、10数年くらいかかってもおかしくないが……。


「雨宮がいったいなんの仕事をするんだ?」
「さあ、わたしはそこまでは。兄さんは、学生時代にデザインの仕事をやってたことがあるとか聞きましたけどね」
「デザインか……」


美大を出て、デザイン系の仕事に就く人間は多いと前に凪に聞いた記憶がある。


「火村先輩は向いてるかもしれませんね。デザインとか街づくりとか」
「あ? なんでだよ」
「だって、街の絵を描くのが好きじゃないですか」
「全然関係ねえだろ……」
「それになんか、デザイナーって格好いいじゃないですか」
「横文字の職業に憧れる子供か、おまえは」


"格好いいから"なんて浮ついた理由で進路を決められるような、そんな余裕はない。

絵を描くのは今も昔もただの趣味でしかない。

それを仕事にしようと考えたことなど一度だってなかったし、この先もないだろう。


「向いてると思いますよ、本当に。わたしのカンですけど」
「カンで人の進路に口を挟むなよ」


進路を確定させてるわけじゃないが、優子に決められる筋合いはない。


「自分のことは自分で決めるさ」
「自分のことは……そうですね」


優子は微笑んだ。


「先輩、もう1箇所だけ付き合ってもらえません?」


緩んだ優子の口元に目を向ける。

ふと、思った。

優子は、もう恋の1つや2つは経験していてもおかしくない年頃だということを。

離れていた間の優子のことを知りたいと──

俺は唐突に思った。


……。

 

 

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低い波が緩やかなリズムを刻んでいる。

夕陽に映える海面が、ゆらゆらと揺れ、まばゆさに目を細めた。

 

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「海に来たのなんて何年ぶりかなあ……」


優子はずいぶんと感慨深げだ。


「施設にいた頃、先生に連れられて来たことがありましたよね」
「言われてみると、確かにあったが……そりゃ、相当な昔だぞ」


しかも特別なイベントというわけでもなく、ただ先生の気まぐれで遊びに来ただけだったはず。

よくそんな些細なことを記憶していたものだ。

 

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「先輩は海水浴とかは?」
「興味ねえな。去年の夏は久瀬に無理矢理連れてこられたけどさ」


そういえば、そろそろ海水浴のシーズンか。

今年は久瀬に拉致される心配もないので安心だな。


「いいな、わたしも遊びたい……」
「遊べばいいじゃないか。試験終わったら改めて来てもいいだろう」
「それもいいですね。でもわたしは、ね……」

 

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優子はちらりと自分の腕を見た。

日が暮れていくらか熱気がゆるんだとはいえ、まだ暑苦しい空気の中できっちりと長袖を着込んだ姿……。


「悪い」
「……あら、火村先輩が謝ってる」
「人が真面目に謝罪してるときは茶化すな」

 

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「あはは、ごめんなさい」


おまえが謝ってどうするんだ。

今のは、いくらなんでも俺にデリカシーが無さすぎた。


「本当にすまない」
「先輩、見たくありませんか?」
「またかよ……。今度はなんだよ?」
「もちろん、わたしの秘密ですよ……」


優子は軽く服の袖を撫でた。

握った拳の内側に汗がにじんでいる。

これは暑さのせいだ、と自分に言い聞かせる。


「人の隠し事を暴き立てる趣味はねえよ」
「やっぱりわざわざ醜いものを見たくないですか」
「誰もそんなことは言ってねえだろ。別に……おまえが無理をする必要なんてないんだよ」


くすりと優子は笑った。

なんだか少し残念がってるように見えるのは錯覚だろうか。

俺は波打ち際に目を向け、優子も同じようにした。

潮風が絶えず吹いているこの場所は、少し涼しい。


「わたしも先輩に同意しますよ」
「同意?」
「神様なんて……どこにもいないって」


優子の長い髪が風に揺れている。


「神様がいないから、悲しいことや辛いことがたくさんある。もしも神様がいるのなら、この世界をもっと綺麗にしてほしい。辛いことなんてなにもなくて、みんなが優しくて、誰も独りぼっちにならなくて……」
「そこまで都合のいい世界なんて、どこにもねえよ」
「ええ、そうですね。そういう世界がほしいって話ですから」
「……そうか」

 

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辛いことがなくて、みんなが優しくて、誰も独りぼっちじゃない世界。

俺だって、そんなものがあればほしいと思う。

そうだ。

昔、俺は望んでいた。

毎日美味いものが食べられて、優しい人たちに囲まれて、いつだって笑っていられる。

妹には、そういう幸せな人生を歩いてほしかった。

妹のために、道を作るつもりだった。

きっと、あの震災と火事さえなければ俺はそのためだけに生きたことだろう……。


「優子」
「はい?」
「俺はおまえに……」


なにをしてやれるだろう?

そう言いかけて、喉で言葉が詰まってしまった。

彼女はきっとなにかを抱え込んでいる。

重く、いつかは優子自身をつぶしてしまいそうなほどのなにかだ。

でなければ、新しい世界を求めたりするわけがない。

だが、俺は──神様じゃない。


「いや、なんでもない」


やはり、俺は優子を茜の代わりにしようとしているのかもしれない。

そして、優子は身代わりになることを望まないだろう。


「変な人ですね」
「おまえほどじゃない」


俺はごく平凡な人間だ。

身近な人間だけでも守ってやりたい。

当たり前のことを願わずにはいられない、どこにでもいる人間なんだ。


……。