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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【16】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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09.光の調べ、黒い真実
 Note of the light and the black truth.
 
 
 
遠い日の夢を見た。
 
初めて好きになった人とお別れした日。
 
なにも約束せず、お別れの言葉すらわたしは言えなくて。
 
必死に涙をこらえていたわたしの前に、その人は現れた。
 
 

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『さあ、行こうか』
『誰……?』
 
 
その人はにっこりと微笑んでわたしの手を握った。

 

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『あ、そうか。言い忘れていたね。俺が今日から君の兄になる──雨宮明良だ』
『あに……? お兄ちゃん?』


ずっと住んでたお部屋が燃えて。

お母さんがどこかに行って。

もう二度と戻ってこないってわかって。

 

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それから、わたしは施設でひとりの男の子と出会った。

わたしにはずっとほしいものがあった。

わたしをひとりにしない、強くて優しいお兄ちゃん。

その男の子を、お兄ちゃんって呼びたかったけれど。


『……お兄ちゃんって呼んでもいいの?』


わたしはおそるおそるそう尋ねた。

男の子は、お兄ちゃんって呼んだらいつも怒ったから。


『もちろん、それでいいんだよ』


目の前に立っているのは大人のひとで、お兄ちゃんと思うには歳が離れすぎていたけど。

わたしは、その日から雨宮明良の妹になった。


……。

 

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頭がゆっくりと覚醒していく。

ぼやけていた焦点が結ばれる。


「…………っ」

 

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小さく息を吐き、わたしはベッドの上で身体を起こした。

頭を何度か振って、眠気を追い払う。

今日もあまり寝ていないので、なかなか思うようには頭が目覚めてくれない。

学校に着くまでに少しはマシになってくれることを祈ろう。


「ん」


拳を握ったり開いたりして、自分の身体がちゃんと動くことを確認する。


「よし」


大丈夫。

 

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確認、わたしは今日も生きている。

1日の始まりの儀式は終えた。

 

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ベッドから降りる。

まずはなによりも先に着替えだ。

 

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「わたしは本気なのかもしれない」


あのとき。

海であの人に投げた言葉は、嘘でも冗談でもなかった。

見せてもかまわないって本心からそう思う。


「ううん……」


そうじゃない、見てもらいたかったんだ。

他の誰でもなく、火村夕先輩に……。


…………。

 

 

……。

 

 

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小さな地震が街を襲った日から数日が過ぎた。

今日は期末試験の最終日。

科目はあまり得意とは言えない現代文だったが、調子はそこそこと言ったところ。

20分の時間を残して、俺は答案用紙を裏向きにした。

もう見直しも3回やって、これ以上やることはなにもない。


「ふう」


小さくため息をつく。

これで試験は終わり。

もう授業らしい授業はなく、ほとんど夏休みのようなものだ。

……夏休みか。

夏期講習は申し込んでないが、今からでも後期なら間に合うかもしれない。

どうせ来年は通うのだから、今年のうちに少しでも慣れていたほうがいいだろうか……。

からん。

と、乾いた音がした。


「あ」


音がしたほうを見やると、凪がぽかんと口を開けて落っこちた鉛筆を眺めている。

さっさと拾えよ。


「まあいいか」


小声だったが、確かに聞こえた。

凪は筆記用具を鉛筆1本しか持っていないのか、ただじっと机の隅を見つめ始めた。

なにを考えてやがるのか、あいつは。

俺よりもはるかに現代文を苦手としている凪のことだ。

絶対にまだ問題を解き終えていないだろう。


「ちっ」


小さく舌打ちして消しゴムを取り上げる。

なんとかあいつの注意を引いて、鉛筆を拾わせよう。


「……ほっとけば?」


こちらは解答を終えたのか、久瀬はぼーっと黒板のほうを見ている。

そういうわけにもいかないだろ。

内心でそう答えてから、凪のほうに顔を向けると。


「気分が悪いので美術室に行く」


と、凪は試験官の許可を持つこともなくさっさと教室を出て行った。


「…………」


凪の奇行にも慣れたけど、なんで美術室なんだよ……。


……。

 

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クラスメイトたちが騒ぐ声を背に教室を出た。

むろん、向こう先は美術室だ。

本当にいた。

気分が悪いから美術室という発想は意味不明だが、凪ならそういうこともあるのかもしれない。

 

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「凪」
「夕か」


普段と変わらぬ調子で凪は言った。

凪は、試験が終わったあとも教室には戻ってこなかった。

今日は試験さえ終わればHRがあるだけなので問題はないが……。


「実は、ちょっと思いついたことがあるんだ」
「思いついたこと?」
「ああ。君と僕の名前を合わせれば"夕凪"になるなって」
「いきなりなに言ってるんだ、おまえは」
「夕凪っていうのは、海岸で夕方になって風が止むことだ」
「それくらい知ってる。というか、試験の途中で抜け出して考えるようなことじゃねえよ」
「他にすることがなかったんだ」
「おまえはどこまでも頭悪いな」


俺は深いため息をつく。


「……凪、スランプは治ったのか?」
「スランプ?」
「絵が描けねえとかぬかしてただろう」


それともあれはデタラメだったのか。


「ああ、そうか。忘れてた。僕は絵が描けなくなってたんだな」
「まるで他人事だな」
「原因はだいたいわかってるからな……」
「だったらさっさと解決しろよ。おまえの場合、絵が描ける以外に取り柄もやることもないんだから」
「それだけが青春では寂しすぎるな」
「青春なんて言葉、使うなよ……」


凪はそっと首を振った。


「そう、きっと寂しかったんだな僕は。久瀬はいなくなるし、夕も僕から離れていく。きついな。きつい……」
「久瀬はともかく、俺は別にどこにも行かねえよ」
「わかってたことだが、君はド鈍いな」
「はあ?」


"ド鈍い"とはなんて言いぐさだ。


「まあ僕も人のことは言えない。自分の心さえ知らずにいたんだからな。物事の外側だけなぞるだけじゃ、見栄えの良さは出せても本当の姿を描くことはできないんだよ。今頃気づくなんて、僕は愚か者だ」
「確かに愚か者だと思うが……いまいちおまえが言ってる意味がわからん」
「君はなにしに来たんだ?」

 

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凪はふっと笑顔を浮かべてそんなことを言った。

いきなり話題が変わったらしい。

まあ、いいか。

理解できない話をいつまでも聞かされるのはあまり面白くない。


「おまえ、試験は大丈夫なのか?」
「だいたい埋めてあったし、平均点くらいは取れる。そう思ったら、どうでもよくなったんだ」
「そうか」


心配するような事態でもないようなので、俺は頷いた。


「凪。おまえも受け取ったんだろ、久瀬のお別れ会のチラシ」
「ああ、あれか。そういえば今日だったか」
「教室で今からやるそうだ。久瀬が自腹で昼メシを用意するとか言ってた」
「考えてみれば、久瀬と一緒に食事をしたことなんて一度もないな」
「あれ、そうなのか」


俺は何度か外で一緒にメシを食ったことはある。

こちらの予算に合わせて安い物ばかりだったが。


「夕は学校で食事しないからな」
「なんで俺が出てくるんだ」
「久瀬とは夕を通した付き合いだったってことだ。それも今気づいた」
「……色々わかってよかったな。それで、どうするんだ?」


凪はふっと笑ってから、首を振った。


「今ならなにか描けるかもしれない」
「なにか?」
「そう、なにかだ。いつだってなにが描き上がるかは描いてみなければわからない」
「……要するに、不参加ってことでいいんだな?」


凪は無言で頷いた。

こいつにしてみれば、くだらない宴会より自分の絵のほうが大事だろう。


「じゃあな」


手を振って背中を向けようとしたところで──


「夕」
「ん?」
「久瀬に伝えてく。僕は本物の絵描きになる。本物の、みんなの心を震えさせるような絵を描いてみせる。だから久瀬も途中であきらめて帰って来たりするなと」
「久瀬にそのまま言えばいいのか?」

 

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「恥ずかしいから言うな」
「どっちなんだよ!」


まったく、呆れた女だ。

だが、これでこそ凪だと思う。

こういう凪だから、俺も友達になったのかもしれない。


……。


階段を昇りきったところで、ぼんやりと立ちつくしている人影に気づいた。


「雨宮……先生」

 

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「やあ、火村くん。試験はどうだった?」
「もちろんいつもどおりの出来です」
「ここのところ、優子がちょこちょこ迷惑をかけてたみたいだけど」
「それくらいで成績落としたりはしませんからご安心を」
「ほう。やはり大したものだな、君は」


雨宮は軽く笑って、なにやら胸元を探り──


「おっと、ここじゃ吸えないんだった」
「なにをしてるんですか」
「いけない、いけない。やはり寝不足だと頭が回ってくれないね」
「先生はなんかいつも眠そうですね」
「俺なんてまだまだ下っぱだからね。色々雑用があるのさ。この後も、別件の打ち合わせでお出かけしなくちゃいけないんだ。まったく、昼寝もできやしない」
「普段は昼寝してるんですか」
「たまに、こっそりと美術準備室とかでね。でも、最近は忙しくてなかなかね……」
「仕事なんだから当然でしょう」


生意気な口を利いてるとわかっているが、雨宮が相手だとなぜか歯止めがきかない。


「君たちはいいよ」
「は?」
「君たちはまだ何者でもないからね。これからの努力次第で本物にだってなんにだってなれる」


──僕は本物の絵描きになる。


「……立ち聞きしてたんですか」
「あはは、悪い悪い。美術室は俺の仕事場なんだよね、一応。ちょっと用があったんだが、君と広野さんが青春してたもんだから」


この男、まったく悪いと思っていないだろう。

教師とは思えないマネをしやがる。

いや、むしろ教師らしい行動と言うべきか?


「心配しなくても、全部聞いたわけじゃないから」
「別にいいですよ、聞かれて困るような話はしてません」
「そうだね、でも興味深い話だった」
「俺には凪がなに言ってるんだかわからなかったですけどね」
「……そうなのか」


雨宮はきょとんとした顔をする。


「やはり君は……」
「え?」
「いや、火村くんもこれからだってことさ。君は"本物"になるのかなって話」
「…………」


なるに決まっている。

そのために、血を吐くような思いをして成績を維持しているのだ。


「ま、君はどうなるかは君次第だ。けど火村くんは絵の道には進まないみたいだし、俺にはどうでもいいことかな」
「どうでもいいなら放っておいてください」


そろそろ行かなければ久瀬に文句を言われそうだ。


「それじゃ、俺は用があるので」
「ああ、そうだ。俺も美術室に寄って、それからお出かけ
だ」


雨宮はその場を去りかけて、ふと立ち止まった。


「はい? …………っ!?」


なんだ、これは?

背中を這い上がってくるこの悪寒は……。

 

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「いや、なんでもない。今度こそ失礼するよ」
「……雨宮先生?」


雨宮は踵を返して去っていく。

いったい、なんだったんだ。

一瞬感じたのは確かに……殺気にも似た気配だった。

もちろん、今までに殺気なんて感じたことはないが……。

殺気が言い過ぎなら敵意か?


「……ちっ」


いつの間にか額に浮き出ていた汗をぬぐう。

この汗は、暑さのせいじゃないよな……。

なにが起こったのかまったく理解できない。

雨宮の身体に染みついていたのか、かすかに煙草の匂いだけがこの場に残っている。


……。

 

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「火村先輩」


たたたっと、小走りに優子がやってくる。

 

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「なにしてたんです、遅いですよ。久瀬先輩もすっかりご立腹です」


どうやら、優子は先に久瀬のところに行っていたようだ。


「悪い、でも凪は来ないって」
「あら、久瀬先輩の言ったとおりですね」
「意外と通じるものがあったりするのかな、あいつら」
「さて、どうでしょう。わたしと火村先輩ほどの絆はないと断言しますけどね」
「おまえ、もう帰ってもいいぞ」
「わたしが帰ったら火村先輩は後悔しますよ」


優子は少し意地悪そうに笑って言った。


……。

 

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優子の笑みの理由はすぐにわかった。

俺たちの教室──2年D組の教室の扉を開けると、そこにいたのは久瀬修一たった一人だけだった。


「なんだ、やっぱり面子が集まらなかったのか?」

 

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「まさか。そうじゃないよ」


久瀬はにやりと笑った。


「最初っから俺が呼んだのは火村と凪、それに優子ちゃんだけだよ」
「なんでまた……」


久瀬が作ってたお別れ会のチラシはなんだったのか。


「おまえと付き合ってた女の子たちが企画したんじゃないのか?」
「彼女たちとは一人ずつお別れしてきたよ。ひとまとめ、なんて失礼だろう?」
「……俺たちはひとまとめでいいのかよ」
「好きな──好きだった女の子とはふたりっきりがいいってだけさ」


つまり、簡単に言うと──


俺は騙されたってことか。


「火村、それ食べていいぞ」
「…………」

 

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俺の机の上に、購買部で買ってきたと思われるパンやさんやサンドウィッチが転がっている。


「すいません、ちょっとお腹すいてたのでわたしは先に食べてしまいました」


優子が申し訳なさそうな顔をする。

 

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「もちろん俺も一緒。優子ちゃんと差し向かいでメシが食えるなんて、長生きはするもんだ」

「ジジイか、てめえは」


俺はじろりと久瀬を睨みつける。


「……いらねえよ。昼メシは食わないって知ってるだろうが」

「食えよ。演奏中に腹でも鳴らされるとあまりいい気分じゃないからな」

 

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「演奏って──」


と言いかけて、久瀬の机の上に見慣れない物が置かれていることに気づいた。

 

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「ヴァイオリン?」

「実をいうと、今から始まるのはお別れ会というより、久瀬修一の演奏会だったりするんだよ」

「なにを考えてやがるんだ、おまえは」

「まだ火村には一度も聞かせてなかったろ? 置きみやげに披露してやろうっていうんだから、ありがたく聴いとけ」

「あら、火村先輩のためだけに弾くみたいな言い方ですね」

「おっと、ごめんごめん。今日は我が親愛なる友人たちのために」


久瀬はキザな仕草で礼をする。


「この国で最後の、そして最高の演奏を贈ろう。思い出が詰まったこの場所でね」

「おまえ、意外と感傷的なとこあるんだな……」

「そうかもしれないね。火村、ホントにメシいらないの?」


俺は無言で頷く。


「優子ちゃん」

「ええ」


優子もこくんと頷いた。

 

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「それじゃ、そろそろ始めようか」


ヴァイオリンに触れた瞬間、久瀬の顔が一瞬にして引き締まる。

 

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それは俺が今までに一度も見たことのない顔──

ヴィアオリニスト、久瀬修一の顔だった。


「…………」


久瀬が弦に弓を当てると、驚くほど澄んだ音が鳴った。

どうやら、調弦というやつらしかった。


「久瀬先輩、いつもと全然違う……」


優子が呆然とした顔でつぶやく。

確かに優子の言うとおり、ほとんど別人としか思えないような変貌ぶりだった。

本物だ。

目の前にいるこの男は紛れもない本物だ。


「…………」

 

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久瀬は調弦を終えると、すうっと大きく深呼吸した。


──そして、奇跡のような時間が始まった。


呼吸の音がうるさい。

心臓なんて鳴らなければいい。

そう思ったのは最初のうちだけだった。

ヴァイオリンの音色のノイズになっていた音のひとつひとつは、溶けるようにして、意識の外に消えていった。

4本の弦から放たれる旋律が、全身にしみこんでくる。

これまで音楽とは無縁だったから、久瀬が演奏している曲も、クラシックであるということ意外はなにもわからない。

だが、なにもわからなくてもいいのだ。

なにも考えず、この美しく、優しく、時には激しい演奏に心をゆだねていれば──


「…………」


不意に手を握られた。

確認するまでもなく、それは優子の手で──

 

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「先輩……」



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優子は涙を流していた。

大きな瞳からぼろぼろと涙が溢れ出し、まるで止まる気配がなかった。

久瀬の演奏は途切れることなく続いている。

俺はそっと優子の手を握りかえした。

彼女の涙の理由は俺にもわかる。


──この世界を綺麗にしてほしいと優子は言った。


綺麗なものはここにある、と俺は心の中でつぶやく。

こんなにも綺麗なものが、心を優しく揺さぶる旋律がこの世界には存在している。

捨てたものじゃない、と俺のような人間でもそう思えた。

 

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優子もたぶん……。

今、優子の瞳からこぼれ落ちていく涙が彼女の気持ちをなによりも語っている。

見慣れた教室の景色が、まるで淡い光を放っているように感じる。

久瀬のヴァイオリンから流れる輝くような旋律が、世界を満たしていく……。

 

かたん。


「…………っ」


小さく舌打ちする。

扉が開いて、何人かの女子生徒が入ってきた。

どうやら演奏の音に引かれてやってきたらしい。

仕方ないか。

こんな音が流れていれば、誰だって近くで聴きたくなる。

天照大神だって、岩戸を開けるだろう。

久瀬の演奏は人が入ってきても一切乱れることはなく、左手の指も弓もなめらかに動いている。

 

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「……ごめんなさい、先輩。わたしちょっと」

「?」


いきなり優子が立ち上がった。


「すぐに戻ってきますから……」


そしてそのまま、口を手で覆って教室から出て行ってしまう。


「……優子?」


そのとき、ぴたりと音が止まった。

恐ろしいほどの静寂が降りてくる。


「ふっ……」


久瀬が小さく息を吐いた。

それと同時に、耳が痛くなるような拍手が巻き起こった。

俺も拍手を送る。

本当に美しいものがあると教えてくれた奏者への、惜しみない賞賛の拍手を。

 

………………

 

…………

 

……

 

 

「いやー、はっは。参ったね本当に」


久瀬の演奏に引かれて集まった人数は廊下で様子をうかがっていた者も合わせると、50人近かったのではないだろうか。

部活の途中で抜け出してやってきた生徒も多かったようだ。

彼らが去った後、教室は俺と久瀬の二人きりになった。

 

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「もういつもどおりだな、おまえ」
「ヴァイオリニストモードは著しくエネルギーを消耗するからなあ。あまり長持ちしないんだよ」


通常モードがろくでもないせいで、ギャップを感じてるんだろうな。


「ま、これが俺にできる唯一のことだ。前から一度、火村に聴かせたいとは思ってたからね」
「なら、なんで今まで聴かせようとしなかった? 機会はいくらでもあっただろう?」
「俺はおまえをすごいと思ってるんだよ」
「なに?」


すごいのは間違いなく久瀬のほうだろう。

技術のことなどはわからなくても、あれほどの音楽を生み出せる久瀬の非凡さは恐ろしくなるほどだ。


「冗談で言ってるんじゃない。おまえはさ、なんか上手く言えないが……。強い……そう、よくわからんけど強い力を持ってる気がする」
「めちゃくちゃ曖昧な表現だな」


生きる力が強い──


優子がそう言っていたことを思い出す。

いったい、俺のどこを見て優子や久瀬はそう感じたのだろうか。


「万が一にも、おまえの前で無様な演奏はしたくなかったんだ」
「……無様なんかじゃなかったさ」


本当に、心の底からそう思っている。

これだけの演奏ができて、既に人から充分すぎるほど認められているというのに……。

もっとさらなる高みを目指して、冷たい風が吹く場所へ向かおうというのだ。

悔しい気もするが──認めよう。

久瀬修一の友人であることを俺は誇りに思う。


「そう言ってもらえてほっとしてるよ、正直なところ」
「今日はバカに謙虚じゃないか」
「これで最後だからな」
「最後……?」


今の久瀬の言葉に、不思議な重みを感じた。


「俺は明日、ドイツへ旅立つ。今日がこの国で過ごす最後の日だ」
「はあ? 出発は終業式の後じゃなかったのか?」
「それは嘘だ」
「てめえ、今日のことといい嘘ばっかりじゃねえか!」
「ふふふ、騙されるほうが悪いのさ」
「というかな、俺を騙してなんのメリットがあるんだよ!」
「メリット? そりゃ楽しいからだよ。火村のそういう顔を見たかったんだ。俺が予定を20日近くも繰り上げて出発するって言ったら、さすがに火村も驚くだろ?」
「あのな……」


そりゃ驚く、驚くに決まっているが……。


「わざわざ労力使って、くだらねえこと企んでるんじゃねえよ」
「世の中、くだらないことのほうが楽しいもんなんだよ。おまえは、それを知らなすぎだな。火村の事情は知ってるけどさ、少しはくだらないこととか無駄なこととかやったっていいだろ。一度だけの学園生活だ。楽しまなきゃ損だよ」
「偉そうなことを言いやがるな……」
「俺と遊んだり、凪と買い物に行ったりして、少しは楽しかったろ? そういうことを、嫌がらずにやってみろよ」
「別に……嫌がってたわけじゃねえよ」
「少なくとも積極的じゃなかっただろ」


それはそうだ。

だが、俺には時間もなければ金もないんだ。


「優子ちゃんのこともそうだよ」
「優子?」
「あの子もおまえと同じだ。まるで、なにも楽しんじゃいない」
「優子は……笑ってるじゃないか」


そうだ、あいつはどこに行ったのだろうか。

すぐに戻ってくると言っていたのに。


「そうかな? 俺は色んな女の子と付き合ってきたけど、優子ちゃんくらい辛そうにしてる子を見たことがないよ」
「そういえば、おまえ、前に優子は手に負えないとか言ってたな」
「おまえも感じてるかもしれないが……あの子は嘘っぽい」
「嘘っぽい?」
「言葉も態度もどこか芝居がかったところがある。きっと、俺なんか目じゃない嘘つきだよ」
「あいつが……?」
「嘘をつくなとは言わない。だけど、人生をもっと楽しめよ。俺もおまえも──この街の人間ならみんな知っているだろ。人生ってのは、いつ終わるかわからないってことを」
「…………」

 

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クリスマスの夜に起きた震災。

 

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すべてを飲み込んだ紅蓮の炎。

 

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あの夜は、この世界の残酷さを知らされた夜でもあった。

 

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「楽しいことをたくさんやれ。友達と遊べ。好きな女の子を大事にしろ。夢を見つけて、必ず叶えろ。火村、おまえにならきっとできるさ」
「……意外と説教くさかったんだなおまえ」
「おお、いかんいかん。いい若者が説教なんてしちゃいけないね」


久瀬はぽかぽかと自分の頭を叩く。

この男はバカだ。

バカだが──大切なことを知っている。


「さて、俺は行くわ。明日の準備もしなくちゃいけないし」

「ああ、行ってこい」


握手もさよならの言葉もいらない。

俺と久瀬の別れは、それでいい。


「でもさ、おまえとはどこかでまたひょっこり再会しそうな予感もするんだよな」
「最後の最後に、そんな不吉な予言を残すな」
「はははっ」


久瀬は笑って、ヴァイオリンケースを手に取ろうとして──


表情を一変させ、真剣な目を向けてきた。


「火村」
「まだなにかあるのか」
「これは言わずにおこうかと思ったけど──やっぱり黙っておくのは寝覚めが悪いな」
「だから、なんだよ?」
「優子ちゃんのことだよ」
「優子の?」
「ああ、ちょっと──いや、かなり気になることがあるんだ」


……。

 


2つのカバンを手に、誰もいなくなった教室を出る。

 

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『あ、そうそう。俺、これからはたぶん世界を舞台に生きるから。もしかしたら、もうこの国に戻ってこないかも』

 

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とんでもないことをさらりと言い残して、久瀬修一は音羽学園を去っていった。

たぶん、あいつは本当に二度と戻ってこないだろう。

この国では得られないものを求めて、新天地へと旅立つのだから。


……。

 

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今日は夕方からバイトが入っている。

試験前、試験期間中と休んだ分を取り戻すべく、馬車馬のように働かなければ。

休んで迷惑をかけたのだし、早めに行ってマスターの手伝いをしなくてはならない。

それなのに……。

今は、バイトに行く気など完全に失せてしまっている。

なぜなら──


久瀬は──


「わっ!!」

 

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「…………」


扉を開けた瞬間、大きな声が聞こえた。

 

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「……あれ? どうして驚かないんです?」
「おまえの期待どおりの反応するのはしゃくだからな」
「鋼鉄のような精神力ですね……」


優子はひどく残念そうだ。


「先輩がお迎えに来てくれるかな~と思って、せっかくお待ちしてたのに」
「だったら余計なことしないで、普通に待ってろよ」


俺が来なかったらどうするつもりだったんだろうな。

扉のそばに張りついたまま、日が暮れるまでそうしてるつもりだったのか?


「まあいい。ほら」
「あら、ありがとうございます」


優子が教室に置きっぱなしにしていったカバンを手渡す。


「久瀬先輩は?」
「もう帰ったよ」
「そうですか……まだお礼も言ってなかったのに」
「礼なんかする必要はないさ。久瀬が俺たちに演奏を聴かせたかっただけなんだから」
「言いたいんですよ、それでも」
「だったら、そのうち手紙でも書いてやればいい」
「手紙?」


俺は手早く、久瀬が明日出発することを説明する。

今日は忙しいだろうから、直接礼を言いたいなら後日に回したほうがいいということも。


「そう、ですか……。久瀬先輩らしいといえば、らしいですね……」
「最後まで人に迷惑かける男だよ、あの野郎は」
「なにもかも許せちゃいますよ。あの演奏を聴かされたら」
「能力と人格はまた別物だけどな」
「わたしはそうは思いません。あんな音色を出せる人なら──きっと心もまっすぐで、純粋なんだろうなって思いますよ」
「純粋?」


それは久瀬から何万光年も離れている言葉のように思えるが……。

あのヴァイオリンを聴かされた後では否定しづらい。


「本当に綺麗な──歪みがなくて、澄みきった音でしたね。たぶん、久瀬先輩は周りの人たちに好かれて育ったんでしょうね。だから、あんな音が出せるんじゃないでしょうか」
「だったら最後まで聴いてやればよかったじゃねえか」
「いえいえ、先輩に泣き顔を見られるのが恥ずかしくて」
「嘘だろう?」
「嘘です」


屋上には夏の光が降り注ぎ、かすかに湿気を含んだ風が通りすぎていく。

優子はため息を漏らし、少し困ったように笑った。


「あまりにも綺麗すぎて──わたしには聴いていられなかった。もしかすると、この世界にも価値があるのかもしれない。そんなことを考えてる自分が信じられなくて……」
「信じれば……いいだろ」
「え?」
「自分が感じたことをそのまま受け取ればいい。もっと素直になっていいんだ……」


俺は一歩踏み出して、優子の肩をつかみ──

 

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「先輩……?」


唇を重ねた。

 

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「んっ…………!? …………っ!」

 

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信じられないような強い力で突き飛ばされ、俺はよろめいてしまう。

それでもなんとかバランスを取って踏みとどまる。

 

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「せ、先輩……」

 

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「悪い」
「いえ、責めてるんじゃなくて……」


優子は顔を真っ赤に染め、ひどく弱々しい声でつぶやいた。

今の不意打ちは……予想外に効いてるらしい。


「そうですね、この間はわたしがしたんだから……。これでおあいこですよね」
「おあいことか、そんなことはどうでもいい」


俺は腹を決めなくてはいけない。

いつまでも半端は続けられない。

茜を思い出させるこいつを徹底的に避けるのか。

それとも、優子を受け入れ、関わっていくのか……。


「優子、おまえはなにを抱えこんでる?」
「……別になにも」
「それも嘘だろう」
「もしかして、先輩はわたしの言葉がなにもかも嘘だと思ってるんじゃないですか?」


おかしそうに優子は言った。

だけど、こちらは全然おかしくもなんともない。


「言いたいことを言わない。訊きたいことを訊かない。なにかを問われてもそれに対する答えはない。沈黙か、もしくは意味のない言葉でごまかすだけ」

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「それ、全部わたしのことですか?」
「人前で独り言をいう趣味はねえよ」
「先輩、おかしいですよ。いきなりキスしたり、わけのわからないこと言ったり……」


そんなこと、当の本人が一番よくわかっている。

わかっていても、どうにもならない。

どうにかするつもりも、もう無い。


「もう一度訊く」

 

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優子は徹底的に肌を見せない。

 

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身体が弱いという理由で体育はすべて見学し、身体測定のときも欠席したという。

 

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衣替えの後も長袖を着ているが、クラスで浮いている理由はそんなことではないようだ。


以前、いじめの件で優子のことを久瀬に調べてもらったことがあった。

久瀬の知り合いで、優子と同じクラスの女の子はこう言ったそうだ。


──時々、雨宮さんの目を見てるとぞっとする。


それほど深く考えずに言ったことだったかもしれない。

だが、久瀬にはその言葉が真実としか思えなかったそうだ。


「優子、おまえはいったいなにを抱えこんでるんだ?」
「なにを、ですか……」
「繰り返すな、俺がほしいのは答えだ」
「傲慢ですね、先輩」


優子は、クラスに友達がいない。

学校内では俺と久瀬、それに凪を除けば誰かと会話を交わすこともない。

 

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『優子ちゃんが友達も作らず、分厚い冬服の向こうに心を隠している理由を──おまえは知ってやるべきだ』


久瀬修一はそう言った。


「俺は知りたいと思う。おまえのことを」

 

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再会から今日までの優子の様子。

 

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人を惑わすような発言。

 

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陰険ないじめにもまるで動じない心。

 

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神様の不在の確信。

綺麗な世界へのあこがれ。

どこかズレてしまっている。

雨宮優子という存在は、どこかが確かに。


……。


「本当に知りたいですか」
「ああ」
「やっと……言ってくれた」


優子はそうつぶやいて、微笑を浮かべた。

その曇りのない笑みになぜか心がざわつくのを感じる。

なんだ、これは……。


「あなたにそう言わせたかった。わたしのことを知りたいって。あなたに、わたしを求めてほしかったんです」
「優子」
「先輩の質問に答える前に1つだけ、わたしのほうから訊かせてください」
「……ああ」


俺は頷く。

 

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「施設にいたとき、ずっとわたしはあなたを追いかけてました。いつもあなたを見ていました。なのに!」


涙が溢れ、すうっと頬を伝った。

 

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「どうして、わたしのお兄ちゃんになってくれなかったの?」
「それは……」


俺にとって妹は茜だけだからだ。

それははっきりしている。

だが──泣いている優子を目の前にして、どうしても言葉が出てくれなかった。


「あなたがお兄ちゃんになってくれていたら」


そして、優子はゆっくりと。

 

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制服に手をかけた。


「優子……」


止める暇などなかった。

いや、俺には止めることができなかった。


「わたしは綺麗なままでいられたかもしれない」


握りしめた手のひらに汗がにじむ。

制服が大きく捲くられ、優子の肌があらわになった。

 

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「この醜くて汚い身体を……厚ぼったい冬服で隠す必要だって、きっとなかった」
「…………」


袖を捲った優子の両腕に刻まれている傷跡は、あの震災の夜のものとはとうてい思えない。

もっと新しくて──そう、どこかで見たことのある煙草を押しつけた痕に似ている。


「誰にも見せたくなかった。こんな汚いものを見せたら、みんな離れていくから。結局は同じことですけどね。わたしはいつもひとり……。どんなときも、どこにいても」


それに、腹部には無数の痛々しいあざがあった。

よほどの力が加わらなければ、あれほどはっきりした痕がつくはずがない……。


「見せたら離れていく。見せたくないから、誰かに触れられるのが怖くて孤独を選ぶ。結果は同じなんですよね、あはは」


まだ頬の涙も乾いていないというのに、優子は明るい笑い声を出した。

 

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「なにを……笑ってる」
「あれ、おかしくなりません?」
「笑うんじゃねえよ」
「本当におかしくないみたいですね。まあ、いいか。面白い話はまだまだありますから」
「いったい、なんでそんなことに……」
「あ、その説明の前にちょっとお待ちを。さすがにこのままではちょっと恥ずかしいですね。一応、わたしもお年頃なので」


楽しそうな口調。

優子はこの状況を──確実に楽しんでいる。

 

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なにが彼女に愉悦をもたらしているのか。

今、俺の頭は奇妙なくらい醒めている。

 

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優子の告白にも、彼女の傷跡にもなんら動じていない自分がいる。

優子の告白にも、彼女の傷跡にもなんら動じていない自分がいる。

いつもどおり、あるいはそれ以上に機能している頭をもってしても、優子が笑っている理由がつかめない。


……。

 

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「すいませんでした、先輩がバイトあるってことをすっかり忘れてて。まあ、歩きながらでも話はできますよね」


優子は軽快な足取りで歩いていく。

泣いたことも、傷を見せたことも忘れたかのように。

あれが夢だったかのように。


「優子」
「はい」
「雨宮なのか」
「他に該当者がいませんね」


即答してから、優子はちょっと考え込む。


「雨宮のおじさんは単身赴任中ですし、おばさんはずっと寝たきりで、しかもこの間入院してしまいました。わたしは友達も彼氏もいませんから──自動的に一人しか残りません。ちょっと調べればわかることですから、隠しても仕方ないですね。最初から隠すつもりもありませんでしたけど」
「……そうか」


俺はぎゅっと拳を握りしめる。

爪が肉に食い込んで鋭い痛みが走ったが、こんな痛みがなんだというんだ。


「言っておきますけど、兄さんはもう校内にはいないと思いますよ。午後から出張だって言ってましたから」


そういえば……さっき、雨宮と会っときにそんなことを言ってた気がする。


「雨宮の行き先、わかるか?」
「それを訊いてどうするんです?」
「あいつの顔を見てから決める」
「慌てないでくださいよ。最後までわたしの話を聞いてからでもいいでしょう?」
「…………」
「それとも、これ以上聞くのが怖いんですか?」
「なんだと?」


優子のすまし顔を睨みつける。

それでも、彼女はまったく動じることもなく、表情を崩さない。


「いいだろう、最後まで聞くが──その後は俺の自由にさせてもらう」
「ええ、もちろん」

 

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呆れるほどの無邪気な笑顔を見せて、優子はこくりと頷いた。


……。

 

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「今日もいい天気ですね」


日差しに目を細めて、優子は嬉しそうにしている。


「これからどんどん暑くなっていくんでしょうね」
「……夏だからな」
「先輩は夏は好きなんでしたっけ?」
「嫌いじゃない」
「先輩らしい答えですね」


くすくすと優子は笑った。

子供の頃に戻ったかのように──本当に陰りのない笑顔。


「やっと話せると思うと……なんだか嬉しくなってきます」
「やっと?」
「秘密なんていつまでも抱えていられるものじゃないんですね。ずっと抱えていたら──いつか重さに耐えられなくなって、心が壊れてしまう。それとも──もう壊れてるから話せるのかもしれません」


音羽の制服を着た少女たちが談笑しながら俺たちを追い抜いていった。

涼しげな夏服。

彼女があれを着ることは、これから先も決してないのだろう……。


「なにから話せばいいかな……話すことがありすぎて困っちゃいます。でも先輩、あまり時間はないんですよね?」
「教会に行くか」

 

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「え?」
「あそこなら少しは暑さもしのげるだろうしな」


俺はきょとんとしている優子の手を取る。

バイトなんてどうでもいい。

他のことなんてどうでもいいから──

聞きたくなくとも、優子の話を最後まで聞かなければならない。


……。

 


礼拝堂の中は、明らかに空気が違っている。

わずかに涼気さえ感じるくらいだ。

ここまで歩いてくるうちにかいた汗が、急速に乾いていくのを感じた。

 

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「ここに来ると、なんだか落ち着きますね」


優子は俺の手を離す。


「そういうふうに感じるように作られてるんだ、ここは」
「なるほど、神聖な場所ですからね」

 

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優子はとんとんと軽やかな足音を立てながら、礼拝堂の中を進んでいく。

中ほどまで進んだところで、優子は立ち止まり、にっこりと俺に微笑みかけてきた。

 

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「火村先輩、わたしは思うんですよ」
「なにを?」
「わたしは、なにを間違えたのかな……って。どこで間違えたんでしょうね。実はずーっと考えてるんですけど、未だにそれがわからない」
「たぶん、おまえが間違えたわけじゃないんだろう」


優子自身になんらかの罪があるとは思えない。

彼女は昔から、ごく普通の女の子だったはずだ……。


「だったら、間違ってるのはこの世界そのものでしょうか。わたしには、わかりません。痛いとか苦しいとか……そういうことすらわからなくなってますから」


背筋が凍るような笑顔だった。

子供っぽさを残した顔には不釣り合いで、いったいなにを見てきたらこんな表情ができるのだろうか……。


「さて、それでは最初から話しましょうか。長くなりますけど、本当にいいんですか?」


俺は黙って頷く。

最初から最後まで聞かなければ意味はない……。


「雨宮の家に引き取られて、何年かは何事もなくわたしは暮らしてきました」


優子も小さく頷いてから、ゆっくりと話し始めた。


「おじさんは単身赴任で家を空けていて、おばさんは病気でいつも辛そうにしてて、兄さんはずっとお仕事。でもひとりぼっちじゃなかった。兄さんは……毎日ちゃんと家に帰ってきてくれましたから。嬉しかった。おかえりなさいって言えることが」


物心ついた頃から父はおらず、母も毎日仕事ばかり。

まだ名字が雨宮でなかった頃、優子はそんな暮らしをしていたんだったな……。


「兄さんはね、優しかったんです。いえ、少しずつ優しくなっていったっていうのが正しいかな。たまにしかない休みに遊びに連れて行ってくれたり、勉強を見てくれたりもしました。まるで本当の兄妹みたいに。そうやって、わたしとの時間を少しずつ積み重ねていくうちに気づいたんでしょうね……」
「……なにに気づいたっていうんだ」

 

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「わたしが、兄さんの妹とは違うってことに。兄さんは、わたしを震災で死んでしまった妹さんの代わりにしようとしてたんですね。妹さんと面影が似ていたのかもしれない。いえ、似ていなくても、あの人はわたしを妹だと思いたかったんでしょう」


それは俺も同じだ。

優子にあかねの面影を重ねていた──


「でも、わたしは別の人間なんですよ。妹さんはどこにもいなくて、そばにいるのはただの他人。そのことに──兄さんが気づいたときに。あの人は、わたしを激しく憎んだ」
「なぜ……。なぜおまえが憎まれるんだよ……」
「そうですね、他に憎む相手がいなかったからでしょうか」
「そんなの、ただの八つ当たりじゃねえか」
「八つ当たりですよ。あの人の心の中には激しい怒りがずっと渦巻いていましたから。妹さんを失った夜からずっと。探していたんですよ、憎しみを向ける相手を。そこにわたしが現れた……」
「わからねえよ。なんで、あいつの身勝手な理由でおまえが憎まれなきゃいけなかったんだ」

 

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「あははははっ」


唐突に、優子の甲高い笑い声が反響する。

まるで、四方から声が聞こえてくるような──


「それは兄さんに訊いてくださいよ。深い理由なんて、たぶん無いんでしょうけど」


優子は服の上から自分の腕をそっとなぞった。

彼女は、愛しいものでも見るような目つきをしている。

どうしてそんな目をするんだ……?


「最初はね、頬を叩かれたり、物を投げつけられたりするくらいでした。それだけじゃなくて、兄さんは手当てさえしてくれたんです。ごめんなって、何度も謝りながら。自分でやっておいて──って変な話ですけどね。そのときはまだ、わたしは兄さんを信じようとしてたのかもしれません。だから、逃げようなんて思わなかった」


優子の口調には、後悔も自嘲も一切なかった。

ただ、事実を淡々と語っている。


「2年前のクリスマス。亡くなった妹さんと同じ歳になったわたしを──あの人は階段から突き飛ばしたんです」
「なっ…………」

 

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常軌を逸している。

あきらかに暴力のレベルを超えている。

打ち所が悪ければ死んでもおかしくない。


「幸いというか、なんというか、背中から滑るように落ちたので頭を打たずに済んだんですけど。それでも、あの時は死ぬかと思いました。あの日の暴力はいつもよりひどかったなあ……。夜、兄さんがわたしの部屋に突然入ってきて、わたし、いつもより可愛い服装をしてたんですよ。だって、クリスマスですからおしゃれくらいしたいですよね」


優子は制服のスカートの裾をつまんで、少し上げてみせた。

 

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「まだ希望を持ってたのかもしれません。可愛い恰好をして、兄さんに褒めてもらいたかったのかな。だけどいつもみたいに殴られて、転んで……服も破かれて、抵抗したらまた殴られて、泣いてもやめてくれなくて──」


もうやめろ。

優子はもう自分を止められなくなっている。

俺が無理にでも止めてやらなければ──


「部屋から逃げ出して階段を下りようとした時に、後ろから、トンって。その時がもしかしたら、兄さんに一番優しく触れてもらった時かもしれません」


優子は、自分で自分の腕に優しく触れる。

そうして誰かに触れて欲しかったというように。

だが、俺には優子に触れる勇気がでない。

今の優子に触れればすべてが壊れてしまいそうな気がする。

優子も、俺も。


「苦痛で起き上がれないわたしを、上から冷たい目で見下ろす兄さんと目が合って、頭が真っ白になりました。『ああ、今兄さんは、わたしを殺そうとしたんだ』って。その日だけで身体中に痣ができて、すっかりお嫁に行けない身体になっちゃいました。それを見て、何かタガが外れちゃったんでしょうね。暴力のほうもどんどんエスカレートしていって、殴って、蹴って、髪を引っ張って、また殴って。煙草の火を押しつけられて、ぐりぐりってされるのがまた効くんですよね。殴った後で一服して、その火をわたしの身体で消すんですよ。まるで灰皿を消すみたいに、無造作に。当たり前のことみたいに」


ずきん、ずきんと身体中に苦痛が走る。

優子が負った傷の痛みが俺にまで伝わってくるような……。


「でもやっぱり突き飛ばされたのが一番キツかったですね。本当に殺されてしまうって思いましたから。あれ以来、そこまでのことはされませんでしたけど、でも一度だけでいいんですよね。躾をするには」


くすくすと優子は笑う。


「最初のうちは色んなことを考えましたよ。殴られたり蹴られてる間、他にやることもなかったですからね」


遠くを見るような目をして、優子はまた笑った。


「どうして殴られなきゃいけないんだろう。痛くて、熱くて、悲しくて──わたしはなにか悪いことしたんだろうか。こんなことされなきゃいけないほどのなにかを。考えても考えてもわからなくて……そのうち、全部どうでもよくなってしまいました。抗うことすらできなくなって、わたしは流されるまま。流されるまま、壊れて消えてしまう日を待つだけになりました……」


張りつめた空気の中を、言葉の残響が漂う。

俺の頭の中には、優子が体験してきたことのすべてが映し出されている。

見たくないのに、次から次へと映像が流れていく。

それらはひどく鮮明で、彼女の悲鳴さえ聞こえてきそうだった……。


「……それで全部か?」
「いえいえ、話のネタはいくらでもありますよ。なんせ毎日やられてますから。昨夜だって、その前だって毎晩毎晩。痛みでほとんど眠ることもできなくて。弄ばれて、兄さんの怒りのはけ口にされて──なんかわたしって道具みたいですね。ただ殴られて、壊されるためだけの道具」
「おまえは……」


もう、限界を越えた──


「おまえは道具なんかじゃないっ!」


教会内に声が響き渡る。


だが、優子の表情は変わらず、叫びはむなしく消えていった。


「火村先輩がなんと言おうと事実は変わりません。わたしは道具です。死んだ人の身代わりにもなれなかった──役立たずで、頑丈なことだけが取り柄のお人形。それが、あなたが知らなかった本当のわたしですよ」


そして、優子はまぶしいほどの笑みを作った。

久瀬の言葉が、今ならわかる。

こいつが見せてきた笑顔も、言葉も、ほとんどが作り物でしかなかった。

これまでずっと気づかなかったなんて……。


「そろそろ先輩のお顔が怖くなってきたので、これくらいにしておきましょうか。あ、やっぱりバイトは行ったほうがいいですよ。一度休むとクセになっちゃうんじゃないですか?」
「なぜ逃げなかった」
「はい?」
「なんで逃げなかったんだって訊いてるんだよ!」
「……逃げたに決まってるじゃないですか」


ぽつりとつぶやくように言って、優子はかすかに笑う。


「階段から突き落とされた翌朝に、怖くて怖くてたまらなくなって、気がついたら家を飛び出していました。行き先も確かめずに電車に乗って……でも、こんなことしても意味ないんだってすぐにわかっちゃいました」
「意味がないだと?」
「ありませんよ。だって、わたし……」


びくん、と優子は身体を強張らせる。

 

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「だって……行くところなんて……。どこにも……」


言葉を詰まらせたかと思うと、優子は自分の身体をぎゅっと抱いて、顔をうつむかせてしまう。


「優子……」
「行くところなんてなかった……わたしの居場所なんて……どこにもない……」


小さく震える彼女の指先が二の腕に深く深く食い込んでいる。

あふれ出しそうな気持ちを、必死に彼女は抑え込んでいるのかもしれない。

 

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「逃げ出したって、その先には……なにもない。ないんですよ」
「……だから戻ったのか、雨宮の家に」


優子はしばらく口をつぐみ──

やがてこくりと頷いた。


「もう、ひとりぼっちにはなりたくなかった」


孤独への恐れがここまで強く優子を縛りつけているなんて……。

喉の奥から苦い物がこみ上げてくる。

優子をひとりきりにしてきたのは彼女の母親であり──

俺なんだ。


「何度も何度も逃げ出しました。でも、そのたびに現実に打ちのめされて、戻るしかありませんでした。わたしみたいなのがひとりで生きていけるほど、世の中って甘くないんです。苦しみのない場所なんて存在しない。だったら──どこにも行きたくない」
「…………!」


優子だってバカじゃない。

様々な可能性を試してみて、その上でどうにもならないと悟ったのだろう。

それはわかる。

わかるけれども。


「学校とか警察とか──相談できるところはいくらでもあるだろうが」

 

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「学校? 警察? なんですか、それは。なんの関係もない人たちじゃないですか。そんな人たちを信用しろって言うんですか? 学校では兄さんの方が信頼がありますし、問題が発覚すれば学校にも累が及ぶでしょう。それを知っていてもなお追及する、そこまで真面目な教師なんてうちにはいませんよ」
「でも、それなら直接警察にいけば……」
「世間の信用って大事なんですね」


一瞬、話を逸らされたのかと思った。


「わたしだって、それくらい考えなかったわけじゃないですよ。でも、勇気を振り絞って呼んだ警察に、兄さんはなんて言ったと思います?」


答えを聞いておきながら、俺の言葉なんて聞こえないかのように優子は続ける。

 

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「『兄妹げんかです』って


なんだって……? そんな単純な、明白な嘘が通用する訳がない。


「……それで、警察は?」
「呆れたように『今後注意してください』って言って、帰っちゃいました」


声が出なかった。

警察の態度にではない。

動揺もせずに警察すらもそんな単純な嘘で騙してしまうあいつの度胸に、だ。


「兄さんは、人当たりがいいですし、なにより教師であるという社会的ステータスが大きかったみたいです」
「で、でも傷を見せれば……」

 

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「名前も知らない人に、服を脱いでこの醜い身体を見せろって? 先輩にだから見せられたんですよ。残酷なことを言わないでください」
「それなら、俺が──」
「あははっ」


すっと、優子が顔を寄せてくる。

その瞳はがらんどうで、まるで光を映していないかのよう。

 

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「先輩、あなたは自由にさせてもらうって言ってましたよね。具体的にどうしてくれるんです?」
「それは……」
「あの人を──兄さんを殺してくれますか?」
「…………!」


思考が凍りつく。

殺す……?

俺が、雨宮を?

 

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「あはははっ」


優子は子供のような甲高い笑い声を上げて、俺の横をすり抜けた。

 

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「先輩」


俺に背中を向け、優子は小さく言った。


「言っておきますけど、兄さんのところに乗り込んだりしてはダメですよ。聞いてのとおり、あの人はイカれてますから。あ、そうだ。わたしがどうして警察に傷を見せられなかったか、どうして逃げられなかったか、お教えしておきましょうか」
「……なんだよ」
「わたし、何度も殴られたり蹴られたりしましたけど……一度だって顔を傷つけられたことないんですよ」
「…………」
「どうやっても顔の傷だけは隠せませんからね。あの人もそれくらいわかってたんですよ。他にも、目立つ傷は目立つ場所に残らないように考えてたみたいです」
「……つまり、あいつはそこまで計算してたっていうのかよ」

 

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「なにかに駆り立てられるみたいにわたしを傷つけて、それでも頭のどこかは覚めてたんでしょうね。ただイカれてるだけじゃないんですよ。あの人の底の知れない冷酷さを知ったら、身動きすらできなくなりました。わたしはこの人からは逃げられない。逃げたらもっとひどいことになるって──心の底から思ったんですよ」


あいつは、雨宮はここまで優子を縛りつけてしまっているのか。

 

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優子のすべてが、あの男に根こそぎ奪い去られてしまっているのか……!


「もし、下手なことをしたら……先輩は殺されるかもしれませんよ」
「あいつは……なんなんだ」
「さあ? はっきりしているのは、兄さんはあなたを殺せますけど、あなたに兄さんは殺せないってことです。だって、先輩は優しいから」


鋭くとがった刃が心臓を貫いていった。

俺は優しい。

優しいだけの、役立たずだと──そういうことなのだ。


「だから、行ってはいけません。先輩は上を目指すんでしょう? 凪さんや、他にも友達を作って楽しい学園生活を送って。茜さんの分まで生きなくちゃですよ」
「優子、俺は!」
「兄さんを殺すことも、わたしを受け入れることも火村先輩にはできません。あなたは強い人だけど……できないことだってありますよ」

 

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優子は振り返り、また作り物の笑顔をたたえる。


「大丈夫、殺されたりはしませんよ。そのつもりがあったら、とっくにやってるでしょう。生きていくことだけは──なんとかできますから、ご心配なく。ありがとうございました」


優子はぺこりと頭を下げた。


「では、わたしは帰ります。寝不足で頭痛いんですよ」


待て。

待ってくれ。


「サヨナラ」

 

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ぞっとするような冷たい目で俺を見て──

 

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優子は教会を出て行った。

その背中には確かな拒絶があって。

追いかけたくても、足が動いてくれなくて──

 

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その場に立ちつくすことしかできなかった。


……。