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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【17】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
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10.帰るべきところ
 The place in which it should return.
 
 
 

 

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開け放したままの窓から、蝉時雨が聞こえてくる。

残念ながら、今日は風がないせいで、室内には熱気がこもったままだ。


「そろそろ昼か……」


俺はつぶやく。

試験が終わり、あとは答案の返却日と終業式があるが、基本的にはもう夏休みと考えてもいい。

今が稼ぎ時だというのに、バイトに行く気にはなれなかった。

昨日無断欠勤した上に、さらに図々しいことを申し出た俺にマスターはただ一言「わかった」と言ってくれた。


「甘えてるな、俺は……」


ふと、施設の仲間や先生たちの顔が浮かぶ。

誰に対しても無愛想に接することしかできなかったけれど、あそこは確かに俺の居場所だった……。


「そういえば、優子が好きだったって奴もいたな」


まだ施設にいるはずのあいつは、今頃なにをしてるだろう。


「考えてもわかることじゃないか」


小さくため息をつき、床の上に目を移す。

 

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赤い腕時計──その残骸。

 

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凪にもらったスケッチブック。

 

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そして、白い紙飛行機。

 

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俺は選ばなきゃならない。

流されるのが嫌なら。

自分の望む生き方を、意志を貫き通していきたいのなら──

選んで、前に進むんだ。


「前に、進め」


口に出してみる。

もちろん、それだけではなにも動き出さない。


「わかってるんだ」


とんとん。


「…………」


ドアがノックされた。

ここを訪ねてくる人間といえば、大家である新藤の爺さんか。

あるいは──


「夕、いるんだろ。邪魔するぞ」


こいつしかいない。

家を知られたのは失敗だったかも。

 

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「なんだ、ひどい顔をしてるな」
「……前からこんな顔だ」
「そういう意味で言ったんじゃない」


凪は遠慮なく部屋に上がって、俺の正面に座った。

小さな袋のようなものを手に持っている。

 

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「あ、これか。実はこれはな──」
「凪、なんでおまえ俺が家にいるのがわかったんだ?」
「君のバイト先を訪ねたんだ。そうしたら、店の人が今日は休んでると教えてくれた」
「俺になにか用があるのか」
「用がなければ会いに来てはいけないのか?」
「そんなことはないけど、職場に押しかけるなよ」
「僕はあまり人の都合は考えないことにしている。ダメだったらダメでそれでいいし」
「……素晴らしい考え方だな」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。それより、これだ」


凪はぽんと俺に袋を手渡した。

 

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「おにぎりとおかずが入ってる。どうせ、今日も昼食抜きなんだろう?」
「ああ、ありがとう」
「うわあぁっ!」
「な、なんだよ」


凪は目をまんまるにして、俺をまじまじと観察している。



「いや、いつもみたいに施しは受けないとかなんとか言って、断ると思ってたから」
「そう思うんならなんで持ってきたんだよ」

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「いや、無理にでも口に押し込もうかと」
「おまえに力づくでどうこうされるほど、落ちぶれちゃいねえよ」


俺は袋の口をほどいて、おにぎりと小さなタッパを取り出す。


「おにぎりはサケと梅とおかかだ。おかずは弟に作った弁当の残りだから、ちょっと少ないかも」
「俺は胃が小さいから、これで充分なくらいだ。んじゃ、いただくよ」
「しかし、どういう心境の変化なんだ?」


俺は1つ目のおにぎりをぱくつく。


「ただ腹が減ってるだけだ」
「ふうん……? とにかく、ちゃんと食事するのはいいことだな。久瀬も前から心配してたしな」
「凪、久瀬は……」
「知ってる。今朝、電話がかかってきた。寝てるところを起こされたから、かなりムカついたが」
「久瀬がおまえに電話?」


あいつは、他の誰よりも凪を苦手としていたはずだが。


「どんな話をしたんだ?」
「久瀬は僕のことが好きだったらしい」
「ぶっ!」
「わっ、汚いな。なにしてるんだ。それに作った本人の前で吐き出すなんて、いくらなんでも失礼だろ」
「おまえが……いきなり、変なことを……」


俺はむせながら抗議する。


「冗談に決まってるだろう。夕、反応が過剰すぎるんじゃないのか?」
「人を非難する前に謝れよ……」
「久瀬は僕を好きになったりはしないよ。あいつは、手に入らないとわかってるものに手を出したりはしない」
「手に入らないとは限らないだろう」
「あいつは知っていたんだ。僕よりも先に、僕の気持ちに気づいてたんだと思う」
「おまえの気持ち?」
「僕が夕を好きだってことだよ」
「…………なに?」


ごくり、と口に入れた卵焼きをそのまま飲み込んでしまう。

凪は今、なんて言った?

 

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「二度も言わせるなよ。こんなこと言うのは、僕のキャラクターじゃないんだ」
「凪、ちょっと待て。俺は……」
「言うな。頼むから言わないでくれ……」


凪は少し怒ったように言った。


「いいんだ、僕だって夕の答えくらいわかってる。結果がわかってるから言ったんだ。夕がどう答えるかわからなかったから、たぶん口に出せなかったと思う。答えがわからない、というのは怖いことなんだ。もしかすると、自分の望まない答えが返ってくることよりも。臆病だね、僕は」
「臆病なのは……おまえだけじゃないさ」


俺はおかずを食べ終え、最後のおにぎりを掴む。


「忘れてくれ。忘れてくれると嬉しい」
「わかった……」


今は忘れよう。

凪が忘れてもいいと言ってくれてるのだから。


「本当にひどい顔をしてるな。もしかして、寝てないのか?」
「ああ」


実は一睡もできていない。

昨日、教会から直接家に戻って、それ以来なにも食わずなにもせず、睡眠すら取らなかった。


「ん? 夕、これ見せてくれ」
「え、おい。ちょっと待て」

 

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凪は俺の制止もきかずに、床に置かれていたスケッチブックを手に取った。


「…………ん」
「……なんだよ、その変な反応は」


そのスケッチブックは、ここ数日で描いた風景画でぎっしりと埋められている。


「いや、風景だけだったら僕より上かもしれないぞ」
「それはすごいことなのか?」
「自慢じゃないが、僕は学生向けのコンクールなら、どこに出しても賞を獲れる自信がある」
「なるほど、すごそうだな……」


こいつの自信も相当なものだが。


「だけど本気で絵をやるんなら、独学では辛いぞ」
「絵をやるつもりなんて……。いや、デザインってどうなんだろうな?」
「デザイン? 油絵でも日本画でもなくてか?」
「ああ、ちょっとな……」


デザインが向いてるんじゃないか──

あいつはそんなことを言っていた。

ただの思いつきだったのかもしれないけれど。


「デザインと一口に言ってもいくつかあるからな。というか、デザインが一番複雑に枝分かれしてるかも。グラフィックデザイン、工業デザイン、環境デザイン……。僕は油絵だから、そっちは正直うといな。ああ、雨宮先生ならデザイン方面も詳し──」


──自分を制御する暇などなかった。


あの名前が聞こえた瞬間、俺は激しく床を殴りつけていた。


「夕……?」
「俺の前でその名前を出すな」
「……なにがあったんだ?」
「なんでもねえよ」

 

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「夕」


凪が顔を寄せてくる。


「どうしてそんな険しい顔をしてる?」
「生まれつきだって言っただろう」
「僕は、君にそんな顔をしてもらいたくない」
「俺がどんな顔をしようと、俺の自由だ」
「君の怒りを呼んだものはなんだ? それを知りたいと願うのも僕の自由だ」
「怒るくらいしかできねえんだよ、俺には……!」
「夕……」

 

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「頼むからこれ以上訊かないでくれ……」


優子は悲しんでさえいなかった。

笑っていた。

あいつの顔に浮かんでいたのは、壊れきった笑み。

俺は床の上の紙飛行機を取り上げた。

折りたたまれていた翼を広げる。

あいつは、翼を広げてどこかへ飛んでいきたかったのかもしれない……。


「それは……」
「知らないのか、紙飛行機だ」
「それくらい知ってる。そうじゃなくて、なにか書いてあるな」
「なにか?」
「そう、ここのところ」


凪は俺の手から紙飛行機を取って、丁寧に広げていく。

紙飛行機の内側に、赤い小さな文字が書かれているのが見えた。

そこに書かれていた言葉は──

 

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「たすけて……?」
「…………!」


優子は──決してその言葉を口にはしなかった。

だが、ずっと叫んでいたのだ。

心の中で、壊れた笑みの裏側で。

泣いていたのかもしれない。

必死に手を伸ばそうとしていたのかもしれない。

何度も、何度も。

言葉にならない悲痛な声を上げ、助けを求めて──

それに応えられるのは、きっと……。


「凪」

 

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「…………」


凪は黙って俺の目を見つめる。


「俺はずっと強くなろうと思ってきた。でも全然ダメなんだ、今でも。逃げ出さないのが精一杯で、自分の過去さえ振り切れない」
「君はまだこれからだろう。僕らはまだ、弱くて当たり前だ。当たり前なんだよ」
「そうじゃない」


俺は恐ろしかった。

雨宮がではない。

優子が抱える深い闇に、俺まで飲み込まれてしまいそうなことが。

自分が受けた数々の傷を笑顔で語る、あの子が恐ろしかったのだ。

今も、理性は優子に関わるべきじゃないと警告を発している。

だが──


「守るべきものがあるなら、強くなるしかない。震災のときにそれを思い知ったはずなのに……」
「夕、君は……。なにを背負い込もうとしているんだ」
「今度は守れ──と叫んでるんだよ」
「誰が……?」


凪はきょとんとした顔で問いかけてくる。

叫びを上げているのは他の誰でもない。


「なにも守れなかった頃の俺が、だ」


…………。

 


……。

 

 

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こつこつと、地面を叩く靴音が耳に響く。

他のどの音よりも、自分の足音がはっきりと聞こえる。

一歩進むごとに、今ならまだ引き返せると、誰かがささやく。


結局──弱い自分を消すことはできないんだな。



『強いだけの人なんていないんだね。どんなに強く見える人だって、どこかに弱さを持ってるんだよ』

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俺は……どうなんだろうな。

ズボンのポケットに手をつっこんだ。

布にくるまれたままの、あの赤い腕時計の感触が伝わってくる。

 

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『それをこれから知るんだよ』


そうだな……。


『ねえ、おにいちゃん』

 

…………。


『お兄ちゃんは、あの人のことが好きなんだよね』


それはもう知ってる。


『茜だけのおにいちゃんじゃなくなっちゃうんだね』


俺の妹はおまえだけだよ。


『しょせんは妹かあ……仕方ないね』


大事なものは一つだけじゃないさ。


「夕」

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「ん?」


凪の声に、現実に引き戻される。


「夕、さっきからなにをぼーっとしてるんだ」
「ああ、すまん。なんの話をしてたんだっけ?」
「なにも話さないから話しかけたんだ」


思い切り不機嫌そうに言って、凪は顔をしかめた。


「弟に絵を教える約束をしてるから、もう帰らないといけないんだけど……夕、大丈夫なのか?」
「そういえば、おまえはなにをしにウチに来たんだ?」
「それ、さっきも訊いただろう。用がなくても会いに来るよ。友達なんだからな」
「そうだな……」


友達。

久瀬だけじゃない、こいつも俺にとっては大事な友達だ。


『いい友達ができてよかったね、おにいちゃん』


ああ、本当によかったと思う。


「僕らは友達で、なにがあっても君の味方だ。それを忘れないでくれ」
「ああ、わかってる。ありがとうな、凪」


俺たちは挨拶を交わして、別れた。

優しい友人の背中を見送ってから、俺は小さく息を吐く。

 

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『これからどこへいくの?』


相手は理屈など通じない相手だ。

だったら、こっちも遠慮はしない。

 

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『本気なの?』


優子は助けを求めているんだ。

 

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「あのときのおまえみたいに。俺は応えなくちゃいけない」

 

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『だけど……また同じことが繰り返されるだけかもしれないよ』



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「決めたんだ、もう俺は逃げない」

 

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「どんなに激しい炎が立ちはだかっても、その先に手を伸ばしてみせる」

 

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『伸ばした手の先にあるものが、今のおにいちゃんに一番大切なものなんだね』

 

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「ああ、そうだ。今度こそ、必ず救い出すんだ」

 

……。


怖くないと言ったら嘘になる。

だが、今逃げ出してしまうことのほうがよっぽど怖い。

まっとうな理由だ。

これ以上ないほどのまっとうな理由で、俺は自分を納得させる。


……。

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ノックもせずに、いきなり扉を勢いよく開いた。


そして、そのまま一気に室内に躍り込む。

 

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「きゃああっ!!」
「驚いてる場合じゃねえ」

 

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「ひ、火村先輩……? どうしたんですか?」


珍しく気が動転しているらしい優子に詰め寄る。


「俺がここに来ちゃおかしい理由でもあるか?」

 

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「わたしの家はどうして知ってるんです? というか、玄関の鍵は閉まってるはずですけど……」
「ここの住所は凪の親父さんから教えてもらった。玄関じゃなくて、下の部屋の窓を破って入ってきた。まだ他に質問あるか?」
「……じゃあ、最後にもう一つだけ」
「ああ」


優子はすっと表情を引き締めた。

 

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「まさか、正義の味方を気取ってるんですか?」
「正義なんて知ったことじゃねえよ。俺は俺のやりたいようにやってるだけだ」
「……バカな人ですね、あなたは」


俺は黙って頷いた。

自分のためだけに生きることを賢いというのなら、俺はバカでかまわない。

大切な者を守るためなら、俺はなんにだってなってやろう。


「器物破損に、不法侵入。先輩、これって立派な犯罪ですよ」
「確かに犯罪だ。だけど、いったい、誰が訴えるっていうんだ? おまえか?」
「だいぶ開き直ってますね」
「話は後にしよう。行くぞ」
「ダメですよ」


優子は困ったように笑って、首を振った。


「わたし、これから学校に行かなくちゃいけないんです」
「学校?」


今気づいたが、なぜか優子は制服姿だ。

部活もないこいつが登校する理由はなにもないはずだが。


「兄さんがね。兄さんが、書類を家に忘れたから届けてくれって。ごやっかいになってる身としては、断るわけにもいきませんよね」

 

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「優子」


俺は優子の肩を掴んで引き寄せる。


「なんで……おまえがあいつの言うことに従わなきゃいけないんだ?」
「今日お休みなのは生徒だけで、先生方は皆さん出勤してるんですよね」
「そんなことはわかってる!」
「兄さんは仕事があるんだから、わざわざ家に戻れないんですよ。だから、わたしが届けに行くんです。あ、お駄賃くらいはもらえますから、わたしにもメリットはあるんですよ」
「どうして、あいつなんかのために……!」
「ただのお使いですよ。ちょっと行って、戻ってきたら改めて先輩のお話を聞きますから」
「ダメだ。行かせねぇよ」
「なんてわがままな」
「笑うな!」
「笑うなって……先輩がおかしなこと言うからですよ」


なぜ俺はもっと早くに──


気づいてやれなかったんだ。

この子はこんなにも暗い影を背負ってしまっている……。


「雨宮のところになんて行かせない。あいつのいない場所へ、おまえが傷つかないで済む場所に俺が連れていってやる」
「先輩……。どうしよう、困りましたね」


優子は俺の手から逃れ、一歩距離を取る。

いつもは、肩が触れあいそうなほど近くに身体を寄せてくるのに。

 

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「この部屋って、兄さんの本当の妹さんの部屋を再現してるんですよ」
「再現……?」
「あの震災で雨宮の家も燃えちゃいましたけど、兄さんは亡くなった妹さんの部屋と、広さも同じ、家具もほぼ同じものを揃えたんです」


俺は室内を見渡す。

 

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雨宮明良。

 

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この部屋はあの男の妹への想い──いや、執念が具現化したものなのか。

 

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違う。



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これは──

 

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「狂気だ……」

 

「ちなみに、わたしが初めて暴力を受けたのもこのお部屋ですよ」
「おまえも……狂ってる」
「なにをわかりきったことを言ってるんです。わたしがまともだったら、世の中に異常な人間なんていないってことですよ」
「優子……どうやったらおまえを……」
「そうですね、書類は放っておきましょうか。お駄賃がもらえないのは痛いですけど、忘れた兄が悪いんですよね」


優子は明るい笑顔を見せた。


「それでは予定変更。今日はお天気もいいですし、海にでも行きましょうか」


とてもじゃないが、海に行くような気分じゃない。

だけど、ここにはいたくない。

この部屋には優子の──

壊れてしまう前の優子の悲痛な叫びがこびりついているような気がするから。


…………。

 

……。

 

 

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「やっぱり夏といえば海ですよね」
「ああ、そうだな……」


俺は力無く答えた。

自分の声があまりにも弱々しい。

この辺りは遊泳禁止なのか、人影はまばらで、海に入ってる人はほとんどいない。


「ここでわたしが水着になったら、色んな意味で注目集めそうですね」
「あの傷跡……。いや、なんでもねえ」
「あははっ、言いたいことはわかりますよ。もしかすると、お金と時間をかければ少しは消えるかもしれませんね。でも、どうやっても完全に消し去ることはできませんよ。人間の身体はそこまで便利にはできてません」
「……そうだよな」


なにが"そうだよな"だ。

どうしてそんなことしか言えない?

 

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「火村先輩」
「なんだ」
「わたし、時々ですけど先輩のこと思い出してました。先輩はどんな男の子になって、どんな生活してるのかなって」
「それは前にも聞いた」
「その続きを、ちょっと話させてください」


優子は自分のこめかみを軽くつついた。

 

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「火村先輩、あなたは思ったとおりの人でした。まっすぐで、ぶっきらぼうなくせに優しくて、強くて、自分の目標を見つけて誰よりも努力してる。すごいですよ、先輩は。本当に」
「違う。なにもできない男だ、俺は……」
「いいえ、火村先輩はわたしの想像なんか超えて、どこまでも昇っていくでしょう……。わたしなんかじゃ手の届かないところへ……」


俺は上を目指そうと願った。

他に──なんの願いも持てなかった。


「だからわたしは思ったんです」


たたずむ少女の口元に──毒々しい笑みが形作られる。


「先輩がどこかに行ってしまう前に、わたしの近くにいる間に、少しでもいいからあなたを傷つけてやろうって」
「俺を……?」
「だって、あなたは能力があって、努力もちゃんと報われて、優しい友達がいて、満たされていたから」


俺が満たされている?

優子が言ったことに、なんら間違いはない。

だが、彼女と俺の認識には……確かなズレがある。

 

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「満たされているのに、あなたは……。自分が世界一不幸みたいな顔して、遠い過去をいつまでも噛みしめてる!」
「…………っ!」
「なにがそんなに不満なんですか? あなたには満たされた今も、希望を持てる未来もある。わたしはあなたがうらやましくて──同じくらい、憎いんです。憎まずにはいられなかった……っ」


かすかな波音と、人々の声。

ここは普通の場所だ。

だけど、彼女の言葉は地獄の底から響いてきたかのように重い。

 

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「わたしを好きになってほしかった。ううん、好きじゃなくてもいい。関心を持ってくれるだけでいい。あのイジメなんかは、なかなかいいタイミングで始まってくれましたね。ま、裸足であなたの前に現れたり、ちょこっと自分で靴をズタズタにしてみたりで多少演出は加えましたけど。あれがあったから、あなたがわたしに近づくのも早まった。火村先輩は優しいから、哀れなわたしに目を向けてくれました。少しでもわたしに心を許してくれればそれで充分。そのとき、わたしの真実を見せつければあなたは深く、深く傷つく。ええ、ねらい通りでした」


優子はくすくすと笑った。


「あなたの──今のあなたみたいな顔を見られて本当に嬉しい。先輩はいつだって、期待を裏切りませんね」
「……それが、それだけがおまえの目的だったのか」
「なにもないんですよ。わたしには過去も未来もない。求めたって手に入らないんだから、いらない。地獄のような今が延々と続いていくだけ」


そうだ、彼女がいるところはまぎれもない地獄だ。

優子は一瞬だけでもいいから、俺にもその地獄を見せたかったのだ。

だけど、彼女は……。


「そんなことにはならない。続けさせない」
「え?」


優子が俺を傷つけて、得られたものなどあるはずがない。

それで彼女のなにかが変わるわけじゃないのだから。


「俺はなにもわかっちゃいなかった。おまえの言うとおりだ。被害者ヅラして自分に酔ってるだけのバカ野郎だったよ。でも、おまえは助けてくれって言った」
「言ってませんよ、そんなこと」
「本当の気持ちを隠すことなんてないんだ。少なくとも俺は──受け入れるから」


俺は折りたたまれた紙を取り出す。


「あ……」


優子の顔に驚きが満ちる。


「まだ、持ってたんですか……」
「捨てるなって言ったのはおまえだろう」


紙を折り直して飛行機を作り、そっと風に乗せた。


「優子、無理に笑わなくていい」

 

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小さな紙飛行機はふわふわと潮風に運ばれ、飛んでいく。


「もう誰にもおまえを傷つけさせないし、おまえが誰かを傷つける必要もない」

 

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そして、ゆっくりと音もなく砂浜に降りたのを確認すると、俺はまっすぐに優子を見つめた。


「おまえは、俺を強いとも言ったな」
「……はい」


優子はわずかに顎を傾けた。

 

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「だったら、その強さでおまえを守る。おまえを守ために、すべての力を使う。今度は優子の手を振り払ったりしない。だから、もう一度だけ──俺にその手を」
「だって、わたしは……。わかってないんですか。わたしはあなたを裏切るために、傷つけるためにそばにいたんですよ」


細い肩が震えている。

この華奢な身体で、おまえはずっと辛い日々に耐えてきたんだな……。


「わかってる」
「わかってるならどうして。どういうつもりで、そんなことを……」
「それでいいわけがない。おまえが地獄にいるっていうのなら、そのままになんかしておけるかよ」
「わたしはあなたに少しでも傷を負わせることができた。先輩はその傷を抱えて、いつもの日常に戻るんです。なにもかもそれで終わりじゃないですか」
「違う。確かにおまえは俺を苦しめようとしたのかもしれない。でも──」

 

 

 

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「どんなに傷つけられても壊れないものがある。消えない想いだってあるんだよ」
「消えない、想い……」

 


なにも終わったりしない。

終わりにしたくない。


「優子、俺と一緒にいろ。地獄なんかじゃない、俺のそばがおまえの居場所だ」
「わたしを……選ぶっていうんですか」
「誰の代わりでもない。俺には、優子が必要なんだ」
「どうして、あなたは……」
「おまえは満足してるのか?」
「え?」
「俺を傷つけて、それだけでおまえは満足できたのか?」
「それ以上のことを求めたって……叶いません」
「決めつけるなよ、そんなこと」
「先輩……?」


俺は優子の身体を抱きしめる。

優しく、包み込むように。

彼女が壊れてしまわないように。


「俺が憎いのなら憎んでもいい。傷つけたいなら、なにをしたってかまわない。俺は……全部許すから」


優子のあたたかさが伝わってくる。

彼女の目的がなんだったとしても、俺は優子を求める気持ちを抑えきれなくなっている。

俺がずっとほしかったのは、このぬくもりなのだから。


「帰ってこい、優子」
「帰る……?」
「悲しみのない世界なんてどこにもないけど、それでも当たり前の、普通の世界におまえは戻るべきなんだ」
「普通の……世界。わたし、そんなもの知らない……」
「これから知ればいいんだよ。そこがおまえの本当の居場所なんだ。優子、今はどんな気持ちだ?」
「わたしの、気持ち……」


呆然とした顔で優子はつぶやく。


「そうだ、おまえは今ここにいる。俺のそばにいる。ここから初めて、希望を見つけよう。俺も一緒に探すから……」

「わたし……。わたしは……っ。誰にも、誰にも受け入れてもらえないって……ずっと、思ってた。だって、わたし、汚れてて、ずるくて……あなたに……っ」


泣きじゃくる少女の熱い息を感じる。

心の中からあふれてくるなにかを、彼女は止められないでいる。

 

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「ずっと、ずっとなんにもいいことなんて無くて……辛いことばかりで……。でも、先輩と一緒にいると楽しくて……いつまでも幸せな時間が続いてほしかった……。わたしの想いも消えなかった。何度もあなたに手を振り払われて、それでもわたし……。いつも心の中にあなたがいました。あなたしかいなかった……」


それが偽りのない、優子の本当の気持ち。

心からの彼女の声だ──

 

 

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「もうなにも気にしなくてもいい」
「わたし、ここにいてもいいの……?」
「俺は優子と一緒にいたい。優子の傷を癒してやりたいって、望んでる」
「ごめんなさい……。ごめんなさい、先輩……っ」

 

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優子はそれから何度も謝り続け、ずっとずっと泣いていた。

泣きやまなくてもいい。

彼女はやっと、ため込んでいたものを吐き出せたんだ。

だから、気の済むまで泣かせてやろうと。

優子を抱きしめながら、彼女が背負ってしまった重荷が少しでも軽くなることを──俺は切に願った。


…………。

 

……。

 

 

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小さく軋む音を立てて、教会の扉が閉じられた。

 

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「行きましたよね?」
「ああ」


俺たちは小声で言葉を交わす。


「今のが最後の見回りだろう」
「ですよね」


優子は安心したように言って、椅子の影から顔を出した。

俺もそれにならう。


「これで、朝まで誰も来ないんですよね」
「ああ、そのはずだ」
「さすが、1年ちょっと前までここに住んでただけのことはありますね」
「礼拝堂に住んでたわけじゃねえぞ」
「あはは、それはそうですね」


優子は、家には帰れないと言った。

言われるまでもなく、俺も帰すつもりなどない。

だが、俺の家は雨宮が乗り込んでくる可能性も捨てきれない。

今だけは、優子にあの男のことを忘れさせてやりたい。

宿に泊まる金もないが、ふたりきりになるために優子が選んだのはよりによってこの教会だった。


「まあ、雨風はしのげるけどな」
「そうそう、野宿よりは全然マシですよ。見つかっても、怒られるだけで済むでしょうしね」
「おまえ、意外と計算高いな」
「行き当たりばったりですよ。この先どうするかなんて、考えてませんからね」
「実は俺もだ」
「あはは──」


笑いかけて、優子の表情が固まった。

憂いを含んだ目で、俺を見つめてくる。


「……わたし、これからどうしたらいいんでしょうね」
「はっきりしてることが1つだけある」


床に座ったまま見つめ合い。

俺は優子を抱き寄せる。

 

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「俺はおまえのそばにいるってことだ」
「……うん」


先のことは、今は考えたくない。

優子がここにいて、俺に心を預けてくれる。

それだけで充分だ。

 

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さらに引き寄せて、瞳を見つめる。


「先輩……」


優子は呆然とした顔をしている。


「優子」
「先輩は……わたしと、その……」
「なんだ?」
「こんなこと、えと……わ、わたしは……いいです、よ……。で、でも先輩が嫌じゃなかったら、の話ですけど……」


ためらいがちにそう言った優子に、俺は微笑みを向ける。

 

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そしてそのまま、ためらうことなく唇を重ねる。


「……ん! 先輩……」


優子は呆然とした顔をしている。


「優子」


もう一度そっと抱きしめて口づけようとする。


「んっ……」


びくりと身体を固くして、優子は反射的に俺の手から逃れようとする。


「優子、大丈夫か……?」
「あ、ごめんなさい……。平気だから、続けてください」
「本当にいいのか?」
「優しく触れられるのに、慣れてないから……戸惑っただけです。ごめんなさい」


その言葉に、嫌な想像が頭に浮かぶ。

だけど、もう過去に何があったとしても関係ない。

今、腕の中にいる彼女を大切にしよう。


「……優子」


口付けをする瞬間、瞳を閉じたまま優子が呟く。


「わたし、本当はずっと先輩にこうして欲しかった」
「…………」
「火村先輩に抱きしめてもらいたかったんです……ずっと求めていたんです。わたしの心もこの腕も全部、あなたを求めてた……いつだって、あなただけを……」

 

その言葉を全て受け止めるようにキスをした。

俺は彼女の気持ちに応えてやらず、自分のことばかり考えていた。

後悔は意味がない。

俺に出来るのは、今の優子をしっかりと抱きしめてあげることだけだ。


「やっと……受け止めてもらえたんですね……」


また優子がつぶやいた。

潤んだ瞳で俺を見つめ、彼女は微笑した。

ああ、そうか。

これが本当の優子の笑顔なんだ──

俺は、この笑顔をずっと見ていたくて、何度も何度もキスをした。

 

………………

 

…………

 

……

 

 

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どれほど時間が経ったのか。

優子の身体から、男に触れられることへの怯えが消えてから、何を話すでもなく、ただこうしていた。

こうしていることで、ようやく優子を受け止めることができたのだと実感する。

俺はその余韻に浸りながら、ぼぅっと天井を見上げていた。

 

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「火村先輩」


優子の声に、視線を下ろす。


「…………」
「ん?」


優子が腕を離れ、非難するような目で俺を見る。

 

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「……何を考えていたんですか?」
「いや、別に……」
「……まさか、わたしを腕に抱きながら別の女のことを考えていたんじゃ」
「そ、そんなわけないだろ」


俺は、不意打ちのような慣れない質問にしどろもどろになってしまう。


「冗談ですよ♪」
「おまえなあ……」
「火村先輩は面白いですね。ストイックに見えるけど、意外と女の子に緩かったりしますよね」
「うるせえよ」


さっきまで俺の腕の中で大人しくしていたと思ったのに。

俺は優子を睨みながら確信した。

このふざけたキャラクターがこいつの素なんだ……。

 

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「先輩」
「今度はなんだ」
「わたし、あなたが好きです」
「…………」
「そばにいてもいいんですよね?」
「そばにいろ」
「あなたに甘えてもいいんですよね?」
「甘えるのはいいが、俺が甘やかすとは限らないぞ」
「あ、それはオッケーです。むやみやたらに先輩が優しかったらなんか裏がありそうですし」
「てめえ、いったい人をなんだと……」
「あは」


あは、じゃねえよ。

俺はポケットに手を突っ込んで、再び優子を睨む。


「あなたは、わたしの大事な人ですよ。火村先輩、ありがとう」
「言っただろう、俺は俺のやりたいようにやっただけだ」
「いいえ。先輩はわたしを暗くて冷たい場所から連れ出してくれた。救ってくれた……。だから、ありがとう」


──なにかが。


俺の心に詰まっていたなにかが緩やかに溶けていった。

俺は俺のやりたいようにやっただけ。

それは事実だ。

だけど、もしかすると──

俺はこの言葉を、彼女の口から聞きたかったのかもしれない。


「ん……?」


不意にポケットの中に入れた手に、違和感を覚えた。


「はい?」
「いや……」

 

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俺はポケットの中から小さな布包みを取り出す。

そして、それをゆっくり開いた。


「なんですか、それ?」
「……灰だ」
「それくらい、見ればわかりますよ。灰をコレクションする趣味があるんですか?」


俺は無言で首を振る。

赤い腕時計。

俺が、たった1つ妹に贈ったプレゼントであり──

茜を見殺しにした罪の象徴だと思っていた。

俺は……許されたのだろうか。

布の中には、なんの形も留めていない真っ黒な灰だけがある。


『よかったね、おにいちゃん』


「…………っ!」


どこからか聞こえてきた声に、俺はびくりと反応してしまう。


「火村先輩……? どうしたんです?」
「いや……。なんでもない」


わかっている。

これはただの幻聴──

あるいは、俺自身の心の声だ。

 

「先輩、泣いてるんですか……?」
「バカ、泣くわけないだろ」


そうだ、俺は泣いたりしない。

守らなきゃならない女の前で、涙なんて見せられるか。

それでいいだろ、茜?

優子が心配そうに俺の目を覗き込んでいる。

どこからも答えは返ってこない。

それでいいのだと思う。

救われたのは──優子だけじゃない。

だから、今度こそ本当のさよならだ。

 

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おまえのことを忘れたりはしないけど、俺は優子と一緒に生きていくよ。

 

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さよなら、茜……。

 

…………。

 

……。

 

 

 

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11.涙
 Tear.

 


いつも夜が来るのが怖かった。

ひとりで部屋にいるわたしの耳に、ドアがノックされる音が不吉に響く。

軋みながら開く扉。

止まることなく近づいてくる足音。

灯りを落とした暗い部屋で始まる、悪夢のような時間。

兄さんが満足するまで──永遠にも感じられる地獄が続いた。

心を殺さなければ、痛みに耐えられない。

暴行されている間、自分を人形だと信じ込むことにした。

闇の中では、わたしは人形。

人形だから傷つけられても痛みを感じない。

涙も、流さない。

 

…………。

 


……。

 

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「優子」


教会の前でぼーっと立ちつくしている優子に声をかける。

 

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「あ、先輩」
「あ、じゃねえよ。なにをボケっとしてるんだ? まだ眠いのか?」


教会の椅子は固かったので、よく眠れなかったとしても無理はないが。

 

「いえ、ちゃんと眠れましたよ。こんなに眠ったのって何年ぶりかなってくらい」


しまった。

自分の迂闊さに怒りがこみ上げてくる。

優子はずっとまともに眠ることすらできなかったんだ。


「あ、変に気を遣わないでくださいね。火村先輩は鈍感なところが面白いんですから」
「言うに事欠いて、面白いってのはなんだ……」
「あら、先輩。手に泥がついてますね。……いったいなにしてきたんですか?」


俺はぱんぱんと手を打ち合わせて、ついた泥を落とす。


「ちょっとな……」
「この裏手って墓地がありますよね。もしかして、あそこに?」
「ああ」
「先輩……」


優子の大きな目にじっと見つめられる。


「泥がついてるってことは……まさか、お墓を掘り返したりとか? まさか変な趣味に目覚めたんじゃ……」
「違う!」


なんて誤解をしやがるんだ、こいつは!

 

「ちょっと……墓場の隅を借りてあの灰を埋めてきただけだ。それくらいなら、罰は当たらねえだろ」


朝露に濡れた土を掘り、あの真っ黒な灰を"埋葬"したのだ。


「あの灰は……大事なものだったんですね」
「"大事だったもの"さ」


俺はポケットに手を入れようとして──

首を振った。


「行くぞ、優子」
「はい……」


……。

 

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手を繋いで、俺たちは歩き出す。

もう俺たちは孤独じゃない……。

これからは、ふたりで歩いていくんだ。


「先輩、わたしね……。夜が嫌いだったんです」
「もう嫌わなくていい。これからはな」
「朝はもっと嫌いだったんです。自分の姿がはっきり見えてしまうから。わたしは人形なんかじゃなくて人間。傷つけば痛みを感じるただの人なんだって。夜が隠してくれる真実が見えてしまうから、朝は嫌いでした」


優子の手に力が込められる。


「でも、今は朝が好きです。光がいっぱいで、空気が澄んでて──わたしはここにいてもいいんだって思えるから」
「おまえはここにいなきゃいけないんだ」

 

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俺は手を握り返し、笑いかける。


「真っ暗な闇じゃなくて、太陽が差す空の下にな」
「はい……っ」


……。

 

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いつもの通学路に、ほとんど人影はない。

部活に入ってる生徒と、追試を受ける生徒以外は登校する必要がないから当然だ。

静けさに満ちた道を、優子とふたりで並んで歩く。


「やっぱり学園だろうな」
「出張だっていう話は聞いてませんから間違いないと思います」
「昨日はあいつ、なにもしなかったんだろうか……」


俺は一度家に寄って、制服に着替えてきた。

優子を本気で捜そうとするなら、俺の家に見当をつけてもおかしくないところだが、特に変わった様子はなかった。


「もしかして、捜索願とか出されてるのかな」
「たぶん、それもないと思います。あの人は、わたしが外でなにをしてもあまり気にしませんでしたから。天文部に入ってもなにも言いませんでしたしね……」


奇妙な話だ。

あいつは、優子に執着しているのかしていないのか。

行動が矛盾だらけで読みにくい。

なにを考えているのかわからない男だ。


「優子」
「はい」
「道は1つだけじゃない。おまえを連れてどこか遠くに行くことだってできる」
「それもいいかもしれませんね……でも」


優子は首を左右に振る。


「でも、やっぱりそれは無しなんです。いくつ道があっても、先に進めなければ意味がありませんよ。わたしの足にはまだ枷がついたままなんです」


針で刺されたような痛みが走る。

やはりそうなんだ。

優子の心を闇から救い出すにはまだほど遠い……。


「この枷を外さないと、あなたと一緒に行くこともできません……」


だが、優子の瞳に心が見える。

それは決意と言ってもいい。

引き返さないということを──彼女はもう決めているのだ。


「わかった、行こう」


……。

 

うるさいほどの蝉の声が聞こえる廊下を抜けて、美術室の扉を開いた。

 

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雨宮明良は、窓際で煙草を吹かしていた。

穏やかな顔で、なにをするでもなく、ただ煙草を味わっている。

その姿を目の当たりにした刹那──

心が爆ぜた。

身体を焼き尽くしてしまいそうなほどの、猛火のような怒りがわき上がってくる。

狂って弾けそうな頭の中で、ただ1つ明確なものは眼前の男への抑えきれない殺意。

だが──


「……雨宮」

呼びかけると同時に、怒りを瞬時に抑え込む。

今、ここで俺がキレるわけにはいかない。

優子は──

話をしたいと言ったのだ。

 

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「よう、優子に火村くん。今日はどうかしたの? まさか追試じゃないだろう?」

「あんたに話がある」

「俺に? ああ、そうか。なるほどね」


雨宮は煙草を空き缶の中に捨てる。

じゅっ、と火が消えるかすかな音がした。

 

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「真実を話したんだね、優子」


まるで悪びれることもなく、世間話でもするかのように──雨宮は言った。

 

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「はい、なにもかも……全部話しました」

 

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「ははっ。そうか。割と時間がかかったね。別に俺が口止めしてたわけじゃないんだから、さっさと話せばよかったのに」

「待てよ」

「え?」

「なにを普通に話してるんだよ。雨宮、あんたは自分がやったことがわかってないのか?」

「火村くん、君は大したものだな」

「訊かれたことに答えろよ」

「さっき俺を見たとき、凄まじい形相をしてたよ。だけど一瞬で冷静さを取り戻した。よくそこまで自分を制御できるものだと思うよ。どんな人生を送ってきたら、その歳でそこまで──」

「俺の人生のことなんて、今は関係ない」

「じゃあ最初の質問を繰り返そうか。今日はどうかしたの?」

「俺は……俺たちは……」


俺は優子の手を握る。


「言いにくいことかい」


雨宮は心底おかしそうに笑い、


「ひょっとして、君たちは俺を殺しに来たのかな?」


あっけらかんとした口調で言った。

 

……。

 



「ふーん、初めて来たけど悪くないね」

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雨宮の提案で、俺たちは屋上に来た。

こちらとしても、誰が来るかわからない美術室よりはこちらのほうが好都合だ。


音羽の街がよく見える。こうして見ると、やっぱりこの街は美しいって思えるね。そうか、優子の話をするんだったね」


その優子は、さっきからほとんど口をきかない。

仲のいい兄妹の仮面は既に剥がれ落ちた。

だから優子は無理に雨宮と会話を交わす必要はない。


「あんたはいったい、なにを考えてる?」


なぜ優子が傷つけられなくてはならなかったのか。

なぜ、血は繋がっていなくても、兄であるこの男に虐待を受けなくてはならなかったのか。

すべてが俺の理解を超越している。

 

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「なにを考えている、か。なかなか難しい質問だけど、そうだなあ……。俺はね、ごく普通の家に生まれて、ごく普通に育った。少し絵が上手いだけの、どこにでもいる人間だったんだよ。そして、みんなと同じように大切なものがあった」


雨宮は小さく息をつき、ゆっくりと空を見上げた。

そこには太陽がまぶしく輝いている。


「俺は子供の頃から手先が器用だったから、妹のために絵を描いたり、可愛らしい動物の彫刻を作ったりとかね。最初はただ、妹を喜ばせたかったんだ。まあ、それがきっかけで美術の世界に入って、今もその端くれにいるわけだ。火村くん、君にも妹がいたんだろ?」

「……ああ」


俺はちらりと優子に視線を向けた。

彼女はすまなそうに俺を見ている。

茜のことを雨宮に話したことがあったのか。

それとも、無理矢理喋らされたのか。


「だったら、わかるだろう。妹を大切に思う気持ちが。他のなににも代えがたい、守るべきものだってことが」

「あんたと一緒にされるのは不愉快だけどな」


雨宮はくすりと笑って──

瞬時に表情を引き締める。


「だが、あれが起こった。クリスマスの夜、すべてを壊し、燃やし尽くしたあの震災が……」


一夜にして、あまりにも多くのものが失われたあの災害。

あれが──すべての始まりなんだ。


「生まれ育った家が潰れ、炎上し──そして、あの子が炎の中でその命を散らした。父も母も俺も助かったのに、あの子だけが。あの子は──妹だけは生きなければならなかったのに」


言葉が途切れた。

雨宮はじっと空を見つめている。


「死んでいい人間なんていねえよ……」

「でも人は死ぬ。君や俺の妹のように。どれだけの絶望を抱いて死んでいったんだろうか。苦しかっただろう、辛かっただろう。炎の中でなにを思いながら、あの子は逝ったのか……」


たすけて、と茜は叫んでいた。

地獄のような光景の中、迫り来る炎に怯えながら俺の姿を探し求め、悲痛な声を上げていた。

この男も、その声を聞いてしまったのか。

だが──


「妹には明るく希望に満ちた未来が待っているはずだった。きっと、本来あるべきだった未来が長ければ長いほど、それが摘み取られたときの絶望は暗く──深くなるんだ」

「おまえの妹は苦しんだだろうさ。それは俺にだってよくわかる。でもな……。おまえは、死んだ人間のことをそこまで想えるのに──どうして、生きてる人間の苦しみがわからないんだ!」


優子だって何度も何度も助けを請うただろう。

その声が、聞こえなかったとは言わせない。


「わかるさ。誰よりもわかる。俺には──絶望しかないのだから。生きていくということは、絶望とともに歩むということだから」

「兄さん……」


優子の顔が悲しみにゆがむ。


「兄さん、あなたはわたしを憎んでいたんですよね……?」

「憎いから傷つけたんだ。それ以外に、理由なんてないよ。そう、憎かった。だから傷つけてやりたくなった。ぼろぼろになるまで汚して、優子を苦しめて苦しめて絶望の底に堕としてやろうと思った……」

「なんでだよ!? なんで、優子がおまえに憎まれなきゃいけないんだよ!? 優子がおまえになにをした!?」

 

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「簡単なことだよ。優子は俺の妹じゃないからだ。妹は死んだのに、なぜ優子は生きてるんだ?」

「────!」


いったいどこで──この男の歯車は狂ってしまったのか。

雨宮は俺と同じような経験をして、今はここまで狂気に冒されている。

俺との違いといえば、雨宮には優子がずっとそばにいたこと……?


「そう、ですか……。わたしが生きてること。そのことがあなたには間違いのように思えているんですね」

「優子、おまえ……?」

 

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どこに隠し持っていたのか。



いつの間にか優子が1本のナイフを握っていた。

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小刻みに震える手に握られたナイフは陽光を反射し、不気味な輝きを放っている。


「先輩、これはね。兄さんがわたしに初めて暴力を振るった翌朝にくれたものなんです」

「俺が憎ければ殺してもいい」

「そう、あなたはあのとき確かにそう言いました」

「でも、君は一度もその刃を俺に向けなかった。チャンスはいくらでもあっただろうに。なぜ?」

「あなたは妄想の世界に生きているんですよ」


吐き捨てるように言って、優子が怒りを露わにする。

 

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「兄さん、あなたはわたしを死んでしまった妹さんの代わりにしようとした。でも、あなたが抱く"妹"へのイメージとわたしは重ならなかったんでしょう。当たり前です、わたしはあなたの妹なんかじゃない。自分の妄想を勝手にわたしに押しつけて、それが叶わなかったからって……! だからって、どうしてわたしがあんな目に遭わなきゃいけなかったの! どうして、わたしが! わたしがっ!」

「君にだってもうわかっているはずだろ?」


まるで幼子をあやすような優しい口調だった。

いや、妹に対する優しい兄のようなと言うべきか。


「復讐だよ。俺から妹を奪い去った世界に対する復讐なんだ。すべてが許せなくなって、だけどなにを憎めばいいのかわからなくなっていた俺の前に──優子、おまえが現れたんだ」

「そんな……。そんな理由で……わたしを……っ!」

「君の憎しみを受ける覚悟はとっくにできてたさ」

「なにが覚悟よ! 口でならなんとでも言えるわよ! わたしがどれだけ苦しかったか、あなたにわかる!? にくいなんて言葉だけじゃ足りない、わたしの絶望があなたにわかるはずがない! なぜ……なぜ、わたしがあなたの復讐なんかに巻き込まれなくてはいけなかったの!」

 

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「もうよせ、優子」


俺はナイフを持った優子の手を押さえつける。


「離して!」

「それを向けることは、おまえもあいつと同じになるってことだ」

「でも!」

「おまえは、間違うな。いや、俺が間違えさせない。これから俺たちが進む未来に、こんなものは必要ない。そうだろう?」

「先輩……。先輩、わたし……」


優子の顔から、少しずつ怒りが消えていき──

悲しみが溢れ出す。

優子が味わってきた痛みと苦しみ、そして抑え込んできた憎しみはどれほどのものだっただろう。


「もういい、優子。おまえまでが……復讐なんかに取り憑かれることはないんだ……」

「先輩、火村先輩……っ」


からん、と音を立ててナイフが地面に落ちた。

これでいい。

心を捨て、復讐に走った者に救いは訪れないのだから。


「そうだな、こういう結末も悪くはないか……」

「終わるのはおまえだけだ。俺たちには、まだ未来がある。おまえには……もうなにもねえよ」

「それがなんだと言うんだ? 俺が失うことを恐れたのは妹だけだよ。なにもないのなら、それでもいい。いや、俺はもうとっくになにもかも失っていた。からっぽになった心を埋めてくれるものは、この世界には存在していなかった……。思い出も優しくなくて、ただ傷を深くしていくだけ。あの子が死んだあの夜に──もしかしたら、俺も死んでいたのかもな」


独白するようにそう言うと、雨宮はこちらに近づいてきた。


俺は転がっていたナイフを蹴り飛ばし、優子を背中にかばう。

 

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「近づくな。おまえは、もう優子に近づくんじゃない」

「せん、ぱい……」


背中に優子がぴったりとくっつくのを感じる。

伝わってくるぬくもりに安心すると同時に、心が固く尖っていく。

彼女を脅かすものに対しては一切容赦するものか。

もう絶対に、優子を傷つけさせたりしない。


「…………」


雨宮は俺の前で立ち止まり、観察でもしているような目を向けてくる──


その雨宮の表情が、突然緩んだ。


「…………っ?」

「警戒しなくてもいい。俺は火村くんにはなにもできやしないよ。そうする理由がどこにもない。ああ、そうだ。忘れない内に言っておこう。火村くんの絵の才能は本当にずば抜けてると思う。眠らせておくのはもったいないよ」

「そんなことは俺が自分で決める。おまえには言われたくない」

 

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「生徒の才能を引き出すのが教師の仕事さ」

雨宮はそう言って、楽しそうに笑った。

狂気などかけらも感じない──澄み切った笑顔に見えた。


「……あんたに1つだけ訊いておきたい」
「ん? なにかな?」
「あんたは、俺の前では優子のことを本気で案じてるように見えた。あれは演技だったのか?」

「さあ、どうかな」


雨宮は穏和な表情のまま首を横に振った。


「なにが本当のことかなんて俺にはわからない。もう──なにもわからないな」

 

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「あの子を失った夜から、もうなにも……」


一度失ったものを取り返そうとして、この男は失敗した。

自分を見失い、取り返しのつかない罪を犯してしまった。

背負い込んだ罪はあまりにも重く、果てしなく深い場所へと沈んで行こうとしている。

だが、思うのは──

1つ間違えば、俺もまた、雨宮のようになっていたかもしれないということだ。

あり得たかもしれない俺の姿……。

 

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「ずっと、さ。ずっと妹の絵を描こうと思ってたんだ。いつも笑顔でいてくれたあの子の姿をキャンバスに描きたかったけど……。どうしても描けないんだ」


雨宮は穏やかな目で優子を見てから、煙草に火をつけた。


「…………」

 

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「なぜだろうな、妹の顔がうまく思い出せないんだ。思い出そうとすると、あの子の姿はいつも遠くにあって……俺の手は届かない」


風が吹き始めた。

風は、言葉も想いもすべて押し流し、遠くへと運んでいく。

俺は振り返り、優子をそっと抱きしめた。


「火村、先輩……」

「終わったんだよ、優子」


肩を震わせる彼女の身体を優しく抱いて、髪を撫でてやった。

 

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「火村先輩……っ!」


優子も俺の背中に手を回し、しがみついてくる。

互いになにも言わず、ただ抱き合うだけ。

気がつけば、俺たちはふたりきりになっていた。

他に誰もいない屋上で俺たちはいつまでも抱き合い、時折彼女が漏らす嗚咽だけが静寂を乱した……。

 

…………。

 

……。

 

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空は晴れ渡り、目が痛くなるくらい太陽がまぶしくきらめいている。

まだ午前中だというのに暑さは耐えがたいほどで、蝉たちも耳を塞ぎたくなるくらい元気に鳴いている。

まあ、こうでなければ夏じゃないが。


「火村先輩」
「おっ」


教会の前でぼんやりとしていた俺の前に、いつの間にか優子の姿があった。

 

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「すいません、お待たせしました」
「いや、意外と早かったな」
「ええまあ、先輩を待たせたりすると後が怖いですからね」
「おまえ、その減らず口を叩くクセはどうにかしろよ」
「無理ですね♪」
「ああ、そうかよ」


まったく、久瀬の言うとおりだ。

こいつはあらゆる意味で手に負えない女だな。

これからのことを考えると、少し頭が痛くなってくる……。


……。

 

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「明日がもう終業式ですか……早いですね」
「そうだな」
「夏休みか……。でも先輩はバイトと勉強でいっぱいいっぱいなんですよね」
「2年生の夏だぞ。まだ本腰を入れるってほどでもないが、のんびり構えてもいられねえよ」


勉強だけでなく、来年には多少バイトを減らしても大丈夫なようにある程度貯め込んでおかなくては。


「わたしもバイトしようかな……。先輩と同じところで」
「それはやめろ。マジで」
「えーっ」


こいつが同じ職場にいたら、落ち着く暇がなくなりそうだ。

ただでさえ死にそうなくらいの重労働なのに、これ以上の苦悩を背負えるか。


「……ところで、おまえのおじさんはなんて言ってるんだ? さっき話してきたんだろ?」
「あ、そうか。それを言わなくちゃですね。おじさんは、やっぱりすぐには音羽に戻ってこられないそうです」
「単身赴任してるんだよな」
「おばさんは今度退院して、しばらくは実家に戻るらしいですけど、わたしはこっちで暮らしていいそうです。でも、今のところ家を建て直すつもりはないって……」
「それも無理ないか……」


わずか数年で二度も家が全焼すれば、すぐに再建する気にはなれないだろうし、経済的にも厳しいだろう。


「ん……」


優子は小さな声を漏らし、不意に立ち止まる。

 

 

「どうかしたのか?」
「タバコの不注意……って本当でしょうか」
「…………。警察がそう判断したんだろ?」
「はい……」
「だったらそのとおりなんだろう。気にしたって、もう真相は誰にもわからねえ」
「そう、ですよね……」


警察の話では、出火元は優子の部屋だったそうだ。

そのことで優子は少なからず不快な質問を受けることになってしまった。

だからもう忘れてしまえばいい。

すべてはもう、燃え尽きてしまったのだから。


「先輩」
「ん?」
「おじさん、はっきりとは言いませんけどなにか感づいてるみたいなんですよね……」
「……どこまでだ」
「家が焼けたとき、わたしがいなかったのは家出してたからじゃないかって。それも男の人のところに……」
「カンのいいおじさんだな……。それで、どうするんだ。俺の家を出て、どこかに部屋を借りるのか?」
「いいえ。はっきり言いましたから。わたしはもう住むところは見つけてあるって」


優子は、にっこりと微笑む。


「おじさんはそれで納得したのかよ」
「するわけないじゃないですか。仮にも保護者なんですよ」
「全然ダメじゃねえか!」
「これから時間をかけて説得しますよ。おじさんはまだしばらく音羽に滞在するそうですから」


ふっと、突然優子の表情が曇る。


「お葬式が終わっても、まだまだすることはたくさんあるんですよ……」
「そうだな……」


とにかく手続きの多い世の中だ。

一人の人間がこの世を去れば、やらなければならない作業はいくらでもあるのだろう。


「火村先輩、わたし……」
「ん?」
「わたし、先輩のところにいてもいいんですよね?」


どこか怯えたような表情。

すがるような口調。

まるで──迷子になった子供のような。


「バカかおまえは」


だけど、俺は優子の不安を笑い飛ばす。


「いちいちそんなこと確認するな。狭い部屋だけど、おまえを置いておくスペースくらいあるさ」
「……わたし、置物じゃないんですけど」


優子は不満そうにつぶやいてから──

俺の手を固く握りしめた。

 

 

 

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「火村先輩」
「なんだ、真面目なツラして」
「実は1つだけ話していないことがあったんです」
「言いたくないことなら無理に話さなくていい。1つや2つ、しまい込んでおきたいことだってあるだろうさ」
「いえ……でも、言っておきたいんです。今だからこそ言いたいんです」
「……わかった。聞くよ」


俺は優しく優子の手を振り返す。

優子は一度深呼吸してから、口を開いた。


「あの人は──あの人は、ただわたしを憎んでいただけじゃない。時々、そう感じることがあったんです。わたしを見るときのあの人の目には、もっと深くて複雑ななにかがあったような……そんな気がしてならないんです」
「…………」
「それに、わたしも……」


申し訳なさそうに目を逸らし、優子は小さく息をついた。


「そうか……」


あるいは、優子の言うとおりなのかもしれない。

互いに憎み合っていただけなら、とっくに取り返しのつかない破局が訪れていてもおかしくなかった。

優子とあの男が離れることなく、時を重ねてこられたのはもしかすると──


「いや……。それも今更、だな。いくら考えても答えが出ることじゃねえよ」
「そう、そうですね……」


優子は顔を上げて、真剣なまなざしを向けてくる。


「わたしにはもう……火村先輩しかいません。だから、だから、離さないでください」
「ああ、頼まれたって離さねえよ」
「あら」
「あん?」
「火村先輩、昼間から堂々と恥ずかしい台詞を言いますね」
「お、おまえな……」
「あははは、冗談ですよ。ホントはすごく嬉しいんですから」
「まったく、こいつだけは……」


俺はため息をついてから、優子に笑顔を向ける。

 

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まだまだ優子は不安を抱えたままだろうし、無理をしているのもわかる。

時間をかけて、少しずつ傷を癒していくしかないんだ。

だから俺は優子のそばにいようと思う。

でもそれだけじゃない。

ひとりになるのが怖いのは俺だって同じなんだ。

そして、他の誰も優子の代わりにはなれない。

俺がそばにいてほしいと望むのは優子だけ。

 

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この手だけは絶対に──

 

 

「行くぞ」
「はいっ」


彼女を愛しく思う気持ちを、この先決して失うことはないだろう。

確かな予感を胸に抱き、俺は優子の手を引いて歩き出した。


…………。

 

……。

 

 

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12.太陽はまた昇る
 The sun rises again.
 
 


……。


──夏に迎えるクリスマスもいいですね。


彼女はそう言って、にっこり笑った。

いつもの冗談であろうその言葉が、なぜか俺の心を激しく揺さぶってくる。

彼女の笑顔。

他愛のない会話。

やわらかな手。

分厚いコートを通して伝わってくる、温もり。

なにもかもが心地よく、胸はあたたかさで満ちていた。

だけど、俺はきっと知っていたのだろう。

かすかな痛みとともに、心のどこかで理解していたと思う。

永遠に続くものなんて、どこにもないということを……。

 

……。