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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【18】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
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Winter, In the distant past. Yu Himura
  Promise at Christmas eve. ef - the latter tale.
 
 
 
 ……。
 
 
 
「夕くん、朝ですよ」


遠慮がちに肩を揺すられる。


「起きてくださいよー」
「んん……」
「もう、困った人ですね。遅くまで勉強するのもいいですけど、朝起きられなかったら意味がないでしょうに……。夕くん」


柔らかく響く声と、肩に置かれた手のあたたかさ。

布団の中で俺はわずかに身体をよじる。


「夕くん……」


小さなため息が聞こえた。


「すぐに起きないと、すごいことしますよ」
「…………っ!」

 



13.ある冬の日
 Day of a certain winter.
 


 



目を開き、勢いよく身体を起こす。

視界に、驚きで目を見開いた優子の顔が


「びっくりさせないでくださいよ。夕くんって、寝起きがいいんだか悪いんだかわかりませんね」
「自分の起こし方に問題があるとは思わねえのか……?」
「女の子に起こしてもらえるだけで、最高に幸せでしょう? あまり高望みするとバチが当たりますよ」
「バチ? おまえって、変にババくさいこと言うよな……」

 



「じゃ、夕くん。朝ごはんは生米でもかじっててくださいね」


にっこりと、満面の笑顔で優子は恐ろしいことを告げた。

ババくさいというのが、怒りに触れてしまったらしい。


「悪かった。前言撤回する」


朝っぱらから生米なんて食ってられるか。

いいや、昼でも夜でも遠慮したいが。


「ま、許してあげましょう。早く起きて準備してください。もう朝食できてますからね」
「わかった」

 



立ち上がりかけたそのとき、味噌汁の香りが鼻をくすぐった。

もういいかげん慣れてもよさそうなものだが……。

未だに、朝起きたらメシが用意されてるという状況に戸惑ってしまう。

 



「夕くん、もたもたしないでください。お味噌汁が冷めちゃいます」
「わかってるって。まったく……」


俺はわざとぶっきらぼうに言って、頭をかいた。


………………

 

…………

 

……

 

 



朝メシは、ごはんとわかめの味噌汁。

それに卵焼きと、夕べのかぼちゃの煮物の残りというメニューだった。


「どうですか?」
「うん」


俺は卵焼きを箸で持ち上げ、口に運ぶ。


「やっと焦がさずに作れるようになったか。ずいぶん時間かかったなあ」
「あのですね、言い訳するわけじゃないですけど、人には得手不得手というものが」
「夏からこっち、ずっとやってきて、ようやくこれだからな。苦手なんてレベルを超えてるぞ」
「夕くんの教え方に問題があったんですよ」


優子は不満そうにつぶやいて、味噌汁をすすった。


「違うな、教わるほうに甘えがあったんだよ」
「できなくても仕方ない、なんて考えてたらいつまで経ってもなにもできねえぞ」

 



「夕くんこそ、いっつも説教ばかりでおじさんくさいですよ」
「説教じゃない、教育だ」
「ああ言えばこう言うんですから……」
「まあ、味はなかなか悪くないけどな」
「え?」
「なんでもねえよ」
「嘘です、もう一回言ってください」
「男に二言はない」
「いえ、それは同じことを二度言わないって意味じゃないと思います」
「なんだ、知ってたのか」
「もしかして夕くんって、わたしをバカだと思ってません?」


俺は味噌汁をすする。

最初はダシを入れることも思いつかなかった奴が作ったにしては、そこそこの味だ。


「その質問には、来週に控えてる期末試験の結果を見てから答えてやる」
「うっ……」


優子の箸の動きがぴたりと止まってしまう。

どうやら痛いところをついたようだ。

 



「夕くん、なんだか意地悪に磨きがかかってますよ……」
「成長するのはいいことだろうが」
「場合によりけりだと思いますけど」


中身のない、くだらない会話。

だけど、そのくだらなさを楽しんでいる自分がいる。

これは成長なのか、堕落なのか。

1つはっきりしているのは。

俺はなにも後悔してないということだ。


……。

 



「はーっ、ホントに寒いですね」
「もう12月だからな」


朝食を終えると、俺たちは連れ立って家を出た。

並んで登校するのにも最初は抵抗があったが、慣れてみればさほどのこともない。

一番からかってきそうな奴が学園からいなくなったしな……。


「本当、時間が流れるのは早いですねー」


優子は白い息を吐き、首をすくめた。

夏が過ぎ、秋は瞬く間に終わってしまい、季節は冬になっている。


「冬は食べ物が長持ちするのはいいけど、お水が冷たいのと、この寒さはたまりませんね……」


雨宮の家とはさんざんもめたものの、なんとか優子は俺の部屋で暮らす許可を得た。

定期的に連絡を入れること、学校にはきちんと通うこと、盆と正月は家族で過ごすこと。

向こうからはもろもろの条件が出され、優子はそのすべてをのんだのだ。

さらに、仕送りを受け取ることも条件の1つだったが、優子はその金を毎月半分だけ使っている。

どうやら、いつか機会を見計らって返却するつもりらしいが……。


「夕くん、わたしの話聞いてます?」
「いや、聞いてねえ」
「そこは嘘でも聞いてたって言いましょうよ」


実際、俺のバイト代だけで二人分の生活費を捻出することはほぼ不可能だし、優子の学費だって払えない。

雨宮の家に助けられながら生活しているのが俺たちの現状だ。

自分の甲斐性のなさには怒りさえ覚えるけれど、援助を受けなければ食っていくこともできない……。


「夕くん、なにを考え込んでるんです?」
「おまえと違って、俺は頭を使って生きてるんでな」
「こんな往来で頭使ってると車にはねられますよ」
「バカか、俺はそこまで鈍くねえよ」


優子と生活を始めてから、すべてが順調というわけではなかった。


「ようやくおまえも使えるようになってきたかな、って考えてたんだよ」
「また失礼な言い方を……」


バイトを増やして忙しくなった俺の代わりに、家事を優子に負担してもらおうとしたところ、彼女はかなりの役立たずだった。


「料理も洗濯も掃除も、なにひとつできなかったじゃねえか」
「嫌な過去をほじくり返さないでくださいよ。今は一通りできるじゃないですか」
「俺が1から仕込んでやったんじゃないか」
「なんかその言い方、いやらしいですね」
「おまえの脳みそが腐ってるんだよ」
「むう……。そうやって偉そうにしてられるのも今の内ですよ。すぐに、夕くんより美味しいごはんを作れるようになってみせますから」
「そうだな、夢は大きいほうがいいよな」
「まったく期待されてないのがひしひしと伝わってきますよ……」


優子は唇を尖らせる。

だいぶ表情がくだけてきたな、と思う。

季節に見合った服装が、より一層彼女を自然に見せてくれる。

少しずつ、物事はいい方向に向かっている。

そう信じたい。

信じさせてくれ。


……。

 



冷え込む廊下を抜けて、教室に入ると行き返るような思いがした。


クラスメイトたちに適当に挨拶しながら席に向かう。

 



「おはよう、夕」
「ああ、おはよ……って、おい」


挨拶を返した瞬間、ぎょっとしてしまう。

凪の机の上はびっしりと落書きで埋まっていて、今もなにやら描いている真っ最中だった。


「凪」
「なんだ、その変てこな顔は」
「おまえさ、なんでもかんでもキャンバスにするのはやめろよ」
「それは呼吸するなと言ってるのと同じだな」
「もしかして、自分の部屋の壁にも落書きしまくってたりしねえだろうな」
「してるが、どこかおかしいか?」


口が裂けても、おかしくないとは言えないだろう。


「どうせいつかは僕がもらう家だ。壁ごとき、どうしようがかまわないだろ」
「おまえがもらうって……、確か弟がいたよな?」
「男はいつか家を出て、独り立ちするものだ」
「…………」


おそらく、凪の家では骨肉の争いなどは起こらないだろう。

弟のほうとは面識がないが、凪と争って勝てるとも思えない。


「おまえが姉だと大変だろうな。グレたりしねえか?」
「ひねくれててもいい。たくましく育ってくれれば」
「それがおまえの教育方針かよ」
「言っておくが、ウチの弟は可愛いぞ。なんなら、一回見に来るか?」
「悪いが、遠慮しとく」
「そうか、残念だな。本当に可愛いのに」


本当に凪の弟くんは色々苦労させられてそうだ。

まあ、俺にとってはかなりどうでもいいことだが。


「あ、そうだ。夕、今日はやるのか?」
「今日はバイトが……。でも、1時間くらいならできるかも」
「少し短いが、まあちょっとでもやっておいたほうがいいか。じゃあ、放課後に」
「わかった、頼む」


キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン。


返事をしたところで、ちょうどチャイムが鳴り始める。

 



落書きを再開した凪をちらりと見てから、俺はカバンを開けた。


…………。

 

……。

 

 



「さすがにもう屋上はキツくなってきましたね」


優子は身体を震わせながら不満を漏らした。


「今年の冬は特に冷え込みが厳しいらしいしな」
「あら、そうなんですか」


優子は2つある弁当箱のうち、大きいほうを俺に手渡す。


「寒いことは寒いですけど、今年はちょっとマシかなあと思ってました」
「そうか?」
「ふふ。いつも夕くんと一緒にいるからあったかいんでしょうね」
「……おまえ、突き落とされてえのか」
「まだちゃんと美味しいって言ってもらってないのに、死ぬわけにはいきません♪」
「さっさと食うぞ。寒いんだから」


梅干しを1つ載せたごはんに、豚肉とピーマンの炒め物。

それに卵焼き、レタスとプチトマト。

明らかにおかずの量が少ないが、一人分の食材を二人で分けてるのだから当然だ。


「もう少し量だけでも増やしたいですよね。わたしはともかく、夕くんは男の子ですし……」
「バリエーションが少ないから量で補おうとしてるんだろ」



「そういうことじゃないです! いや、実はそうですけど……本当に意地悪ですね」
「夏までは昼メシそのものを食ってなかったんだ。少々量が足りなくても食えるだけいいさ」


そもそも量が少ないのは金がないからであり、それはもちろん俺のせいだ。

優子が気に病むようなことではない。


「あれ、確か今朝も卵焼きあったな。なんだ、バーゲン品でもまとめ買いしてきたのか?」
「あ、それは大家のおじいさんからお裾分けしてもらったんですよ。お家でニワトリ飼ってるらしいです」
「……なに?」


優子を軽く睨みつける。

俺が人から物をもらうのが嫌いなのは優子も知っているはずだ。


「くれるって言ってるんだから、ありがたく頂いておけばいいんですよ。どうしても気になるなら、いつか恩を返せばいいんです。受け取らないほうがかえって失礼ですよ」


優子はすました顔をしてる。


「それに……どうしたって、誰にも頼らずに生きてくことなんてできないでしょう。夕くんだってわかってるはずです」
「…………」


俺は深々とため息をついた。


「そうだな。甘えちゃいけねえけど、意地を張りすぎるのも問題か」
「でしょ? それにね、卵持ってきたのが小さな可愛い女の子たちだったんですよ」
「ああ、あの双子か」
「本当に可愛らしいですよね、あの子たち」


大家のじいさんには、一卵性双生児の孫がいる。

俺の見たところ、一人は壊滅的に正確キツそうだが、もう一人のほうは控えめでなかなか可愛げがあると思う。


「あんな小さい子たちがせっかく持ってきたのに、受け取らずに帰らせるほど冷酷にはなれないです」
「じいさん、俺が全然受け取らないから……」


俺だってあの子たちから渡されたらさすがに追い返せないだろう。

そこまで見抜いていたに違いない。


「なかなか策士だな、あのじいさん……」
「美味しいですよね、この卵」


優子は卵焼きを口の中に放り込んで、笑顔を浮かべる。


「どうせもらうなら、卵より親鶏のほうがよかったな。たまにはチキンも悪くない」

 



「さりげなく恐ろしいこと言ってますね……」


呆れた顔をする優子の口から白い息が漏れる。

確かにそろそろ限界かもしれないな、ここでメシを食うのも。

だけど、学年の違う俺たちが一緒に過ごせるのは昼休みくらいしかない。

優子には言わないが、学園生活の数少ない楽しみなのだ。

今学期いっぱいは頑張って、3学期までにどこか人けがなくて風をしのげる場所を見つけておくか……。


…………。

 

……。

 



「さて、それでは始めようか」


凪がぱんぱんと手を打ち合わせる。


「時間が短いから集中してやるように」

 



「わかってるよ」


鉛筆、練り消し、画用紙、その他もろもろは既に準備してある。

俺は鉛筆を手に取り、石膏像を睨みつけた。


──デッサンを教えてもらいたいんだ。


凪にそう頼み込んだのは夏休みが終わった頃だっただろうか。

不思議そうにしながらも、凪は嫌がるそぶりも見せずにOKしてくれた。

元々、凪は人に教えるのが好きなタイプでもあるらしい。

そういうわけで、その日から今日まで、できる限りの時間を割いて凪の指導を受けている。


「僕も始めるか……」


凪はしばらく俺の絵を眺めてから、自分もイーゼルの前に立つ。

 



「集中しろと言っただろ。こっちを見るな」


とにかく集中することが大事なんだ。

真横に雷が落ちても気づかないくらい集中してみせろ。

このデッサン教室がスタートしたとき、凪は俺にこう告げた。

凪は、絵のこととなると別人のように厳しくなる。


「…………」


凪も一緒に描くことが多いが、本当に彼女の集中力はすさまじく、一度描き始めたら声をかけてもまったく気づかないほどだ。

俺ももっと集中しないとな……。


………………

 

…………

 


……

 



「やれやれ」


俺のデッサンを見て、凪はいきなりため息交じりにそう言った。


「なんだよ、やれやれって」
「全然下手くそだという意味だ」


まったくもって容赦がない。

だが、凪のデッサンと比べるとレベルがまるで違うのはわかっているから反論もできない。


「集中しろと何度も言ってるのに……まるでできてないじゃないか。どうも線に迷いがあるな。夕、君は深刻な悩み事でもかかえてるんじゃないのか?」
「おまえ、適当に言ってるだろ」
「うん」


あっさりと凪は頷く。


「当たってたら格好いいだろう」
「あのな……」


たまに素の凪に戻るのは愛嬌というやつだろう。


「このデッサンが全然ダメだというのは本当だぞ。これなら僕の弟のほうが上手いくらいだ」
「また弟の話かよ。というか、おまえの弟ってまだ全然ガキんちょじゃ……」
「それくらい夕のデッサンが下手だっていう話だ。思うんだが、やっぱり中途半端な状態がよくないんじゃないのか? なにをやりたいのかはっきり決めずに動き出してもあまり意味はないと思う」


やはりそうか……。

そう簡単に技術が上がるわけもないが、それが大きな原因になってることも確かだろう。


「夕の頭なら弁護士だろうが医者だろうがなんにだってなれそうだ。そっちを選んだほうが可能性も高いし、将来のためにもいい。だから夕は迷ってる。デザインをやりたいって言い出したのは君自身のくせに、ふらふらしてる。どっちつかずのままこれ以上続けるなら、僕も付き合ってられないぞ」
「ああ……わかってる。すまん」


凪が容赦なく辛辣な言葉を投げつけてくるのは、本心から俺を心配してくれているからだ。

彼女だって、やるべきことがあるのにわざわざ俺に付き合ってくれている。

凪の時間を借りておいて、それに見合うだけの結果をいつになったら出せるのか……。


…………。

 

……。

 

 



「それじゃ、お先に失礼します」


マスターに一礼して、俺は店を出た。



「あ、夕くん」
「なんだ、来てたのか」


店を出て少し歩いたところで、優子が姿を見せた。

 



「そろそろバイト終わる頃かなって思って、お迎えに。いいタイミングでしたね」
「家で待ってろよ。こんな夜遅くに外をうろうろするな」
「あら、心配してくれてるんですね」


優子は嬉しそうに笑って、歩き出した。

喉のところまで上ってきた文句を飲み込んで、俺もその横に並ぶ。

 



「夕くん」
「ん?」
「やっぱり、わたしもバイト増やしたほうがいいんじゃないでしょうか」
「またその話かよ」

優子は週に2回だけ、商店街の花屋でバイトしている。

だが、俺としてはそのバイトもあまりやってほしくないのだ。


「何度も言ってるだろ。おまえは家事をしっかりやってくれればいい。それで俺の負担もずいぶん軽くなるんだから」


正直、優子はあまり体力があるほうではない。

1日学校で授業を受けた後の労働は、優子の身体には相当厳しいはずだ。

家事ならば俺が代わることができても、バイトはそうはいかないのだから、無理は極力避けるべきだ。


「ですけど、夕くんはそろそろ本腰を入れて勉強しなくちゃいけないでしょ? 今と同じだけバイトをこなしてたら、勉強進みませんよ」
「そんなこと、どうにでもなるさ。忘れるなよ、俺はこれでも学園トップの男だぞ」
「デザインの勉強は進んでないでしょう?」
「えっ?」


思わぬ不意打ちについ驚いてしまう。

なぜ優子がそのことを……。


「やっぱりそうなんですね。毎日顔を合わせてるんだからわかりますよ」
「……凪によると、俺が迷ってるのが原因らしい」
「前から訊いてみたかったんですけど、どうして急にデザインやるとか言い出したんです?」
「夏頃から、ちょこちょこ絵を描いてきただろ」
「ええ」


優子と再会して少し経った頃、凪からもらったスケッチブックに絵を描き始めた。

あの頃の俺は、まだ優子に妹を重ねていた。

同時に、まだ妹がいた頃の自分の気持ち──絵が好きだった気持ちを思い出したんじゃないかと思う。


「毎日、街の絵を描いてて思ったんだよ」
「思った?」
「この街は──この街を再建した人たちはすげえなって」


一度はすべてが灰となったこの街を、以前よりも美しい姿に造り直した人間たちがいる。


「全部が崩れちまった街を表面だけ綺麗にしただけだと思ってた。あの悲惨な光景も、死んだ人たちのことも地面の下に押しやって蓋をしただけじゃねえかって」
「夕くん……」
「でも必要なことだったんだよな。過去を吹っ切るためにも、同じ悲劇を繰り返さないためにも。地震だろうが火事だろうが誰も死なないですむ街を──みんなが生きていく街を作らなきゃならなかったんだ」


あの夏は、そのことを気づかせてくれた。

過去を吹っ切り、今を強く生き、未来を守らなければ──


「そう思ったのにな、まだ迷ってやがる」
「誰だって先の見えない道を歩くときは怖いですよ。そうでしょう?」


優子が遠慮がちに手を繋いできた。


「でも大丈夫。夕くんが迷ってもこうして手を繋いでるから、わたしは離れません。道に迷っても、ふたりなら心細さも消えてくれますよ」
「おまえ……。おまえも段々説教くさくなってきてないか」
「少女は大人になりました」
「アホ」


俺は笑って優子の手を引っ張る。


「今夜のおかずは鶏肉のソテーですよ」


手を引かれるままに、軽い足取りで優子は歩く。


「優子、まさか大家のじいさんトコのニワトリを絞め殺して……」
「違いますよ! ちゃんと買ってきたんです!」
「冗談に決まってるだろうが」
「夕くんが言うと本気っぽいんですよ」
「そりゃ悪かった。しかし、鶏肉なんて本当に久しぶりだな」
「素材は食べ物としての限界ギリギリな安物ですけど、愛情でカバーしてます」
「愛情よりも確かな技術がほしいが……それを食ったら勉強みてやるよ」
「きゃー」
「きゃー、じゃねえよ。おまえは俺が預かってるんだから、間違っても変な成績は取らせねえからな」
「えーっ。なんですか、その理屈は」


不満たらたらの声を出し、優子は頬をふくらませる。


「そんな顔してもダメだ。今夜はすぐに寝られると思うなよ」


…………。

 

……。

 

 

「すー……すー……」


寝やがった……。

勉強を始めて数分で優子は船をこぎ始め、やがて寝入ってしまった。

よくもまあ座ったまま眠れるものだ。


「布団に寝かせたほうがいいか……?」


でも、下手に触ると起こしてしまうかもしれない。

我ながら甘いと思うが、眠たいのなら寝かせておいてやりたいと思う。

 



「まあ、しばらく放っておくか」


目を覚ませばそれでよし。

30分くらい起きないようなら着替えさせて、布団で寝かそう。

 



そう決めて、俺は参考書に向かう。

どんな進路を選ぶにしても、勉強しておいて損はあるまい。

時間はもう少しだけ残されている。

急がなければならないが、今すぐすべてを決める必要もない。

優子のこともあるしな……。


「…………すー……すー…………っ」

「ん?」

 



「あ……」


突然、優子が目を開けた。


「優子?」


どこか焦点が合っていない目だ。

寝ぼけているのか……。

 



「あ……あ……」


まさか。

 



「あっ、あっ、ああああああっ! あああああああああーーーーーっ!」
「優子!」


やばい、始まった!


「あっ、あああっ、ド、ドアが……開い……っ! や、やめ……っ、ああっ、ああああああ!」
「優子、落ち着け!」

 



「いや、いや……いやあああああぁっ! 来ないで……っ! 来ないでえぇっ……!」
「しっかりしろ、優子! 俺だ!」
「いや、いや……いやーーーーーっ! やめて、やめてぇえええっ!」

 



優子の肩をつかんで、狂乱する彼女の目を見据える。

だが、彼女は俺の手を死にものぐるいで振り払おうとする。

くそ、この細い腕のどこにこんな力が……。


「やだぁああああ、いやあっ……!」
「優子っ! ここは俺たちの家だ! なにも怖いものなんて来ない!」

 



「あーっ、あーっ、あああーーーーっ! うわああああっ、あっ、あっ、あああああああっ!! いやああぁっ! いや、いやあっ、ああああああああああああっ、ああっ、あああーっ、ああああっ!」

 



「大丈夫だ、優子! 大丈夫だから! 優子!」
「あっ、あああああ……ああっ、う……ううぅ……」
「大丈夫だ……」


震える彼女の身体をしっかりと抱きしめ、耳元でささやく。

どうやら落ち着いてきたようだ。


「なにも心配いらない、安心していい……」


──フラッシュバックというやつらしい。


過去に受けた恐怖や苦痛がなにかの拍子によみがえってくることがある。

それはあまりにもリアルな感覚を伴い、実際に痛みを感じることすらあるという。

優子の場合は睡眠中に起こることが多く、恐怖のあまりに絶叫してしまい、誰の声も届かなくなってしまう。

最近は怒ってなかったから、すっかり油断していた……。


「大丈夫……大丈夫だ」

 



「ああ……うっ」

 

………………

 

…………

 

……

 


しばらくすると優子は身体を離し、少し距離を取って座った。

 



「優子」
「はい、大丈夫です……」
「お茶でも淹れるか?」
「ありがとうございます。でも、今は飲みたくないです……」


優子は申し訳なさそうに頭を下げた。

目には理性の光が戻っているが、表情に生気が感じられない。


「ごめんなさい、わたしはまた……」
「気にするな、おまえが悪いんじゃない」


優子にはなんの罪もない。

ただ、問題はいくらでもある。

アパートの他の住人からは再三文句を言われているし、中には俺が優子を虐待してるんじゃないかと疑っている人もいるようだ。

いや、そんなことはどうでもいい。

傷口を何度も何度もえぐられて、優子がどれだけの苦しみを味わっているか──


「優子、やっぱりカウンセリングに行ってみないか?」
「……それは……イヤです……」


予想通りの返答に俺は小さくため息をつく。

カウンセリングに行けば、見知らぬ人間に自分の傷を話さなければならないのだ。

二の足を踏んでしまうのも無理はない。

だが、俺が独学で心理学をかじったところで、なにか有効な手が打てるとも思えない。

むしろ、素人が下手なことをしないほうがいいだろう。


「ごめんなさい。わたし、ちゃんと自分でなんとかしますから……」


優子は弱々しい笑みを浮かべた。


「情けないですね。夕くんに、昔のことに振り回されるなとか言ったくせに……一番振り回されてるのがわたしなんですからね。あははっ、弱いですね、わたしは」


手が届きそうで届かない。

そんな微妙な距離。

一緒に暮らすようになって、むしろ彼女との距離が開いたような気さえする。


「弱くなんかない。おまえは弱くなんかねえよ。俺は弱いだけの女を選んだりしない」
「…………」


優子が過ごしてきた地獄のような──いや、地獄そのものの日々。

あれは過去と呼ぶには近すぎる。

彼女にはまだ生々しい記憶が残っているのだろう……。


「優子」
「はい?」
「次の日曜、ふたりでどこかに出かけるか」
「えっ」


優子は目を丸くする。


「次の日曜って試験の直前ですよ」
「だからいいんだよ。普段からしっかり勉強しておいて、試験直前はおさらいだけ。それが理想的だ」
「そんなに上手くいくでしょうか……」
「俺が先生役なんだ。上手くいくにきまってるだろうが」
「なんだか、スパルタの予感がします」
「ついでだから、おまえも学年トップまで引き上げてやろうか」
「とんでもない、わたしはつつましく生きたいと思います」


俺たちは笑顔を向け合う。


優子の笑みは、やはり翳りを感じさせるものだったけれど。

彼女の傷を癒すために俺はなにができるだろう。

ただ、こうして穏やかな日々を送らせることしかできないのか。

彼女を守ると俺は誓った。

その誓いを実現するためにも、俺は自分のゆくべき道を決めなくてはならない。


…………。

 

……。

 

 



14.笑わない少女
 The girl who doesn't smile.



日曜日、正午近く。

俺はひとりで駅前までやってきた。

辺りを見回すと、すぐにこちらに向かって手を振っている少女を見つける。


「夕くん」
「おう」


俺も手を振って彼女に応えてやった。

 



「いい天気になってよかったですね」


優子はずいぶんと機嫌が良さそうだ。

いつもの見慣れた服装で、特にめかしこんではいない。

雨宮の家が全焼したときに優子の服もほぼ燃えてしまって、今はほとんど服を持っていないので当然か。


「あら、どうかしました? もしかしてわたしに見とれてたりします?」
「そこまでヤキは回ってねえよ」


服を買う金くらいはなんとかしてやりたいが、生活するだけで精一杯なのが俺たちの現状だ。


「昼間っからバカやってるなと思ったんだよ。一緒に暮らしてるのに、わざわざ待ち合わせなんぞしてるバカが二人」
「それがお約束というものですよ」
「なにがお約束だよ……」
「では行きましょうか。どこかで適当にお弁当にしましょう」
「ああ」


デートと言っても、遠出するでもなく。

ただ街を歩き、弁当を食べ、また歩く。

ただそれだけ。

それだけのことでも彼女は笑ってくれるから、俺は少し胸が痛くなる。


……。

 



どうでもいいような会話が延々と続く。

彼女の口から出てくるのは、ほとんどが友達との学園生活のことだ。


「しかし、類は友を呼ぶというか……おまえの友達もいい根性してる子ばかりみたいだな」
「いやですね、そんなことないですよ。みんなちょっと腹黒いだけの普通の女の子ですよ」
「腹黒いのが普通なのかよ」


2学期になってすぐに催された学園祭。

優子はクラスの模擬店の作業中に何人か友達を作ったのだ。

その友人の中には以前、優子がビンタをくらわせたいじめっ子も含まれているという。

優子曰く──話してみたら割と面白い人だった。

そういうことらしい。


「まあ、腹黒だろうとなんだろうと、気が合うのが一番だけどな」


なんにしても、優子に友達ができたことは、俺にとっても喜ばしい出来事だった。


「夕くんと久瀬先輩や凪さんみたいな堅い絆には遠いんですけどね」
「あいつらとはうわべだけの付き合いだ。目が濁ってるな、優子」
「そういえば久瀬先輩から手紙が届いてましたよね」
「一度だけな」
「なんて書いてあったんです?」
「ゲルマン娘は最高だそうだ」
「はあ……。さすがは久瀬先輩……」


優子は半ば本気で感心してるようだ。


「あのバカは本当になにしに行ったんだかわかんねえ」
「頑張って勉強してます──なんて照れくさくて書けなかったんですよ、たぶん」
「いや、あいつはマジで向こうの女を口説きまくってるに決まってる。ろくにドイツ語も喋れなくても、あいつならやる」
「よくわかってるんですね、やっぱり硬い絆が……」
「なんか言ったか」
「いいえっ」


久瀬はどこに行ったって適当に生きていくだろうから、なにも心配することはない。


「おまえは友達を大事にしろよ」
「もちろんですよ」


いじめは自然に消滅し、友達もいる。

俺が卒業しても、優子の学園生活はたぶん大丈夫だろう。

友達と一緒なら、たいていのことは楽しくなるものだから。


……。

 



「ところで夕くん」
「なんだ」
「ここはなんなんでしょう?」


優子は首を傾げ、疑問を投げかけてくる。


「知らん」

 



俺は目の前の景色を見つめながら答えた。

冷たい風が吹き抜ける街を歩き、たどり着いたのは廃墟と化した異様な空間。


「こういう場所もまだどこかにあるとは思ってたが」
「復興計画ってまだまだ途中なんですね」


あたりは破壊された姿のまま放置され、もう人々に忘れられてしまったかのようだ。

人の気配はまるで無く、周囲は不気味に静まりかえっている。


「夕くん、少し歩いてみません?」
「いいけど、なにも面白いもんはないと思うぞ」
「いいんです、それでも」


珍しく真剣な口調で言って、優子は廃墟を見つめた。

なにが気に入ったのだろう。


「足下に気をつけろよ。なにが落ちてるかわかんねえからな」
「その思いやりが身にしみますね」
「バカ」


あたりを見回しながら、俺たちはゆっくりと歩いていく。

人間だけでなく、動物の姿すら見かけない。

どうやらこの辺一帯は完全なゴーストタウンのようだ。

まさか永遠にこのままではないだろうが、工事が始まる予定などもなさそうだ。


「しかし……。なんだか嫌な感じがする場所だな……」


具体的になにがどうこうというわけではない。

震災の数年後まで、こういう景色は街のあちこちに見られた。

俺にとっては見慣れた場所と言ってもいいくらいなのに。

こうも不安に囚われてしまうのはなぜだろう……?


「……いや、そうか。ここはまるで……」
「お墓みたいですね」
「……おまえもそう思うか」
「他のものに見えるのなら、その人はよっぽど目が曇ってるんでしょう」


このあたりでもさぞ多くの人間が命を落としたことだろう。

死んだ人々の無念がこの見捨てられた場所によどんでたまっている──

非科学的な話だが、そんな気がしてならない。


「わたし……お母さんのことを覚えてるのかな」
「なに?」


お母さん?

優子の母親は確か……。


「なんとなく……見覚えがあるんです」
「昔のおまえの家がこの近くにあったってことか?」
「施設に入る前の記憶はほとんどないんです……けど、たぶんわたしはここを知ってます」
「調べてみるか? その気になれば、おまえが住んでた家も見つかるかもしれない」
「わたしの、家……」


優子は遠くを見るような目をする。

そして、わずかに首を振った。


「いいえ、今のわたしには帰れる家がありますから。もし見つかったところで、なにがどうなるものでもないですし……」
「そうか。おまえがそう言うのならそれでいいさ」


ぽんと優子の肩に手を置く。


「ただ……。街並みがこんなに崩れていても記憶のどこかに触れたのに、母親のことは覚えてないなんて変ですよね」
「忘れたからって、それが裏切りになるわけじゃない。母親がいたから、おまえが生まれてきた。それをわかっていればいいんじゃねえのか」
「お母さん……」


優子には思い出と呼べるものがほとんど無いのかもしれない。

あるのは辛い記憶と、傷だらけの身体だけ……。


「行こう、優子」


彼女はこんな寂しいところにいてはいけない。

もっと光に満ちていて──たくさんの人たちが笑っていて、活気が溢れる世界こそがふさわしい。

優子は俺の目をじっと覗き込むようにして──

こくんと頷いた。


…………。

 

……。

 

 

優子と別れ、俺はひとり商店街を歩いていた。

楽しい時間は終わり、夕方からはバイトが入っているのだ。

早めに外で夕食をとろうかと言ってみたところ、優子は……。

 



『わたしの料理を食べたくないっていうんですか。それが夕くんの本心ですか。飽きちゃいましたか。愛はもう終わりましたか』


などと詰め寄られ、普段どおりバイトが終わってから家で食うことになった。

最近はすっかり優子にペースをつかまれてる。

だが、それでもかまわない。

重要なのはあの子が心の底から笑い、日々を楽しく過ごしてくれることだ。

もう、過去に怯える彼女の叫びは聞きたくない……。


…………。

 

……。

 



夕くんは日ごとに優しくなっていく。

それに甘えるだけの自分になってしまう。

このままではいけないと思ってみても、優しさを突き放すことなんてできない。


「わたしはわがままだ……」


夕くんの足かせになってることがわかってるのに。

 



教会を見上げる。

ここに通い始めたのはつい最近だ。

といっても毎日来るわけではないし、祈りを捧げるわけでもない。

ただ会衆席に座って、静かな時間を過ごす。

いつもざわめいている心を落ち着けるために必要な儀式。

この儀式を初めてからは、あの悪夢もあまり見なくなった……。

決して消えてなくなってはくれないけれど……。


──「うっ、……ううぅ……」

 



「あら?」


突然の鳴き声が、わたしを現実に引き戻した。

見ると、教会の入り口のそばで小さな女の子が泣いている。

 

「どうかしたんですか?」


その子のそばに立って、声をかけてみた。

 



「……っ、くっ……」
「どうして泣いてるんです?」


女の子はぐっとこちらを睨み、大きく首を振った。

 



「泣いてない」
「泣いてない……って」


よほど意地っ張りな子なのか、本当に泣きやんでしまう。


「泣いてない」


同じことを言って、彼女はまたわたしを睨んだ。

変わった子のようにも思えるし、子供ってこんなものかもしれないとも思う。


「……だれ?」
「誰って、わたしのことですか」
「ほかにいない」
「確かにそうですね」


わたしは苦笑いする。


「わたしは優子っていいます」

 



「ゆうこ」


いきなり呼び捨てした上に、わたしを指さしてくる。


「…………」


ちょっと、かちんときた。

でも特に悪気はないだろうし、いきなりここで叱りつけるのも大人げない。


「ええ、優子です。あなたのお名前は?」
「…………」
「あらら」


なぜか黙り困れてしまう。


「お姉さん、あなたの名前知りたいなー。知りたいなー」
「……みき」
「みき……ちゃん?」
「みらい」
「え? どっちなの?」
「"みらい"って書いて"みき"って読むって……」
「ああ、そういうことですか」


未来(みき)──


この子はきっと、親に祝福されて生まれてきたんだろう。

そう思える名前だった。


「うん、いい名前ですね」
「うるさい」


かちん。

どんな育ち方をしたら、ここまで愛想の悪い性格ができあがるのだろう。


「まるで夕くんの子供版ですね……」


というより、子供の頃の夕くんに似てるような。


「あっ」


そうか、考えてみれば。

特に遊ぶ場所があるわけでもないのに、ここにいるということは、この子は……。


「わたし、この中に用があるので」
「……そう」


未来は興味なさそうに言って、顔を伏せてしまう。


……。

 

教会の空気はひんやりとしていて、足を踏み入れた瞬間に寒気がした。


「はーっ」


吐き出す息が雪のように真っ白だ。

なんだか、その白さがとても綺麗で──心が現れる思いがする。

白は好きな色だ。

でも、わたしには似合わないのがちょっと悲しい。


「仕方ないですけどね……」


──「なにが?」


「わっ」

 



慌てて振り向くと、真後ろに未来が立っていた。


「な、なにしてるんです?」
「おいのりするの?」


質問に質問で返される。

この子は愛想が悪いというより、人の話を聞かないタイプと言ったほうが正確もしれない。


「お祈りなんてしませんよ」
「じゃあ、どろぼうさん?」
「……すごい発想の飛躍ですね」


確かにわたしは貧しいけど、物取りをやらかすほどひっ迫してもいない。

……と思う。


「用もないのに来ちゃいけないんだよ」
「ここに来たかったら来た。それだけです。それくらいなら、別に誰も叱ったりしませんよ」


わたしは微笑んで、未来の頭に手を伸ばす。


「……っ!」


ぱしっと甲高い音が鳴って、未来がわたしの手を払いのけていた。

あまりにもはっきりとした拒絶に、手よりも胸がちくりと痛む。


「……未来ちゃん?」



「さわらないで……さわらないて……」


怒っているのかと思えばそうでもない。

未来はまた泣きそうな顔になって、唇を噛みしめている。

理由はわからないけど、この子は誰かに触れられることを恐れている……?


「ごめんなさい」


わたしは素直に頭を下げる。


「いい、べつに」


未来はぐすっと鼻をすすり、素っ気なく言った。

変な雰囲気のある子だ。

年齢は大家のおじいさんのところの双子と同じか、少し下くらいだろうか。

年齢的にはあまり変わらないのに、未来は双子たちと別の生き物のように見える。

この違和感はなんなんだろう……。


「ねえ、未来ちゃん」
「……なに」
「あなた、ここの裏にある施設の子なの?」


わたしと夕くんが出会った施設。

両親のいない子供たちが最後にやってくる場所……。


「ちがう」


未来はぶんぶんと首を振った。


「わたしのおうちはあそこじゃないもん……。あんなとこ、わたしのおうちなんかじゃない!!」


違う違うと、何度も未来は否定する。

まるで自分に言い聞かせているような──何度も否定すれば、それが真実になると信じてるかのようだった。


…………。

 

……。

 

 



「ああ、そういう奴はよくいたな」


今日の夕食はカレーだった。

一番最初に優子が覚えた料理で、日持ちするし、大失敗することもないので彼女はよくこれを作る。

肉や野菜の切り方はまだまだだが、ルーのほうは悪くない。


「よくいた……んですか」
「たぶん、おまえが会った子は新入りだろう。なんだかんだで毎年何人か施設に入ってくる。でも、そいつらはまず施設になじもうなんて考えないな」
「なぜです?」


優子はカレーを飲み込んでから、訊いてきた。


「みんな、まだ自分が両親も家もなくしたなんて思いたくないのさ。施設で待っていれば、いつか両親がそろって迎えに来てくれる。そう信じてるんだろうよ」


ちなみに、カレーに添えられてるのは福神漬けのみ。

せめてサラダくらいはほしいところだが、贅沢は敵だ


「そう信じないと生きていけない?」
「そこまで大げさじゃないだろうが……。子供に限らず、誰だって物事を都合のいいように考えるもんだろう」
「そう……ですね」
「まあ、おまえが会ったっていうガキもそのうち慣れるさ。施設の先生方は心得てるからな。これでその話は終わりだ」


施設のことなんて、蒸し返してもなんの意味もない。

もしもずっと施設にいて、雨宮の家に引き取られさえしなければ──

優子がそんな風に考えてしまうのが怖い。


「そのガキも放っておけ。ガキはガキ同士で遊ぶのが一番なんだ」
「でも……」


優子はスプーンをテーブルに置く。


「なんだよ」
「あの子、泣いてたんです」


まずいな。

なにがあったのか、優子はその子供に情が移り始めている。

子供と話すのも悪くないだろうが、あの施設に入ってる子というのが引っかかる。


「どうせ子供同士のケンカかなにかだろ。おまえが気にしたってしょうがないことだ。施設には子育てのプロがごろごろいるんだ。なにかあれば、先生たちがなんとかしてくれるさ」
「でも、わたし……」
「"でも"は無しだ。教会に行くのをやめろとは言わねえけど、神経質になってる子供に下手なことはしないほうがいい」
「…………」


優子はそれ以上は食い下がってこなかった。

彼女の行動を制限するようなまねはしたくないが、不安要素は取り除いておきたい。


「これ食ったら、勉強始めるぞ。今日は1日遊んだんだから、心おきなく勉強できるだろ」
「ああ……昼間はあんなにも楽しかったのに」
「楽あれば苦ありだ。今夜は英語を徹底的にやるぞ」
「はーい……」


優子は恨めしそうに俺を見て、残りのカレーを食べ始める。


「あ、そうだ」
「ん? なんだ?」
「あの……ですね……」
「だからなんだよ、はっきり言えばいいだろ」


時々、変なところで優子は遠慮する。

俺たちは共同生活をしてるのであって、俺が優子の世話をしてるわけじゃない。

だからなにも遠慮することなんてないのだ。


「どうした、なんでも言ってみろ」
「えーと……えーと……。今日のカレー、どうです?」
「…………」


そんなことかと拍子抜けしてしまう。

別に無理に言わせるほどのことでもなかったな。


「割と自信あるんですけど、どうでしょう?」
「まあまあだな」


……。

 



15.恋と秘密と
 Love and secret.
 
 
 



 
 2学期の期末試験、最終日。
 
 朝の冷え込む空気の中を優子と並んで登校し、階段で別れ、それぞれの教室に向かう。

チャイムの音を待って、裏返しにされていた問題用紙をひっくり返す。

ざっと全体を眺め、問題のレベルを確認してから、一問ずつ確実に答えを書き込んでいく。

シャーペンを動かす手に、迷いなど微塵もない。


……。


クラスメイトたちが俺に感謝の言葉を残して、教室を出て行く。

試験が終わったあと、何人かで集まって解答を照らし合わせ、自己採点していたのだ。

 



「……うーん」
「凪、なにをうなってるんだ」
「いや、思ってた以上に点数低くて……これはもう意表をついているというレベルだぞ」


今日の科目は日本史と英語、それに代幾だった。


「日本史と代幾はいいんだが、英語が……。学科で英語は普通に出るからな……参った」
「今からみっちりやれば充分間に合うだろ。受験まであと1年以上あるんだぞ」
「あと1年しかないんだ。僕は英語なんてやってないで、ひたすら筆を動かしたいんだよ」
「そういうわけにはいかねえだろ」


実技のほうが重要とはいえ、学科の配点だって無視できるものではないはずだ。

いくら実技の油絵やデッサンが優秀でも、学科を捨てるのは自殺行為だろう。


「ままならないものだな、世の中は」
「いや、なんとかなることだろ。あとはおまえの努力次第だよ」
「……夕、自己採点してみたんだろ。ちょっと見せてくれ」


凪は俺の返事も待たずに、俺の自己採点表を引ったくった。

そのままなにも言わず、じーっと表を食い入るように見つめている。


「おい、凪……」
「夕、1つ質問があるんだが」
「なんだよ」
「人類か?」
「人類に決まってるだろ! なんだ、おまえには俺がエラ呼吸でもしてるように見えるのか?」
「いや、すまない……。ちょっと疑ってみたくなっただけだ」
「疑いをかけるにしても、あさっての方向にいかないでくれ」
「こんなものを見れば疑いたくもなる」


凪は無造作に表を放り出した。


「いったいどうなってるんだ? また学年トップ──それもぶっちぎりなのは確実じゃないか」
「まだ自己採点だ。誤差は出るだろうよ」
「少々の誤差で君の王座は揺るがないだろう。1年のときからすごかったが、今の君は恐ろしいほどだよ」
「大げさだよ、おまえは」


俺は表を小さく折りたたんでポケットにしまう。

そう、驚くようなことじゃない。

もう俺にとっては、学園の定期試験はそれほど大した壁ではなくなっているというだけ。

そろそろ全国レベルでトップ争いをする時期にさしかかっているのだ。

つまり、これからが本番なのだが……。


「なんだ……? 急に落ち込んだ顔して」
「むなしいんだよ」
「むなしい?」
「全然うれしくねえんだよな」


仮にも名門と呼ばれる音羽学園内に敵がいない。

この後は、全国の秀才たちと戦う土俵に向かうというのに──なんの感慨も湧いてこないのだ。


「なんとなく、君の考えてることはわかる。言っておくが、デザイナーだって簡単になれるものじゃない。夕の能力を生かす道は他にいくらでもあるんだぞ」
「おまえ、俺に絵を描けって勧めてたじゃないか。スケッチブックをくれたこともあったな」



「懐かしいな。まだ久瀬が存命中だった頃の話だ」
「おまえの中では久瀬はもう死んでるのかよ!」
「少し前に久瀬の奴から手紙が来たんだ」
「へえ、あいつが凪に?」


凪を苦手としてたと思ってたので、意外な行動だ。


「それで、なんて?」
「ゲルマン娘の美しさは世界一! 民族大移動バンザイ!」
「……だそうだ」
「今、俺の中でもあいつは死んだ」


なにをわけのわからんことを。

あのバカは、手紙くらい真面目に書けないのか。


「……ところで、返事は書いたのか?」
「便せんいっぱいに赤い絵の具で"罰"と書いて送ってやった」
「意味はいまいちわからんが、怖いな……」


凪のことだから、冗談ではなく本当に実行したに違いない。


「話がそれたな。いや、なんかどうでもよくなってきたな。夕はバカじゃない。だから、自分の道くらい自分で選べるか」
「……おまえはどうなんだ?」
「どうって?」
「凪は画家の子供に生まれて、当たり前みたいに画家を目指してる。だけど、他の道だってあるんじゃねえのか?」

 



「あはははははっ!」
「な、なんだよ」


凪は大声で笑うなど、めったにあることじゃない。


「夕、君は勘違いしてるぞ。僕だって自分で選んだんだ。甘く見ないでもらいたい。父がそうだからって、自分も画家になる。僕はそんな主体性のない人間じゃない。好きだから絵を描いてる。他のことはなにもしたくないから、絵で食べていける道を目指す。どうだ?」
「どうだって言われてもな」


俺は頭をかく。


「おまえだってすげえと思うよ。絵の技術だけじゃなくて、精神力がな」
「当然だろ」


地震に満ちた笑顔が浮かぶ。

凪の表情も態度も常に自然で、おかしいところはない。

あのいつかの告白を、彼女をすっかり無かったものにできたのか──


「気分がよくなったところで、美術室に行くか」
「そうだな」


俺は同意する。

ここ最近は凪が試験勉強をしてたこともあって、デッサンをほとんどやっていない。


「そろそろ石こうを描くのも飽きただろう。今日は自分でモチーフを組んで描いてみるか?」
「モチーフ?」
「ブロックとか空き瓶とか、ロープとかを組み合わせて、それをデッサンするんだ」
「ああ、そういうのもあるのか」


学ばなければならないことは山ほどある。

あっちこっちをふらふらしていたら、目指すものにはなれないだろう。

特待生である以上、成績だって落とせないが……。


「凪、もう少し勉強する時間を増やしてもいいか」
「勉強っていうのは、僕の分野のほうか?」
「ああ」
「……決めたのか、夕?」


俺はこくりと頷いた。

震災で炎上し、崩れ去ったままのあの街並みを思い出す。

この世界に、優子が住むこの街にあんな寂しい場所があってはいけない。

彼女に悲しい思いをさせる光景を、この手で作り直すことができれば。

今はまだ遠い夢でも、いつかそれを叶えるために、俺は──


…………。

 

……。

 

 



「それで、どうだったんです?」
「めちゃくちゃこき下ろされた」


バイト帰りに優子と落ち合い、俺たちは商店街を歩いていた。

今日は優子もバイトだったので、少々疲れているようだ。


「石膏像以外を描くのは初めてだってことなんか考慮してくれねえからな、凪は」


自分でモチーフを組んでのデッサンはさんざんだった。

同じ無機物を描いてるというのに、まるで勝手が違う。

どんなに手を動かそうとしても、形を取ることすらままならない。


「あと1年か……」
「もう決めたんでしょう? だったら大丈夫ですよ」
「まだスタート地点に立っただけだ。肝心なのはここからさ」


進路を変えるといっても、死にものぐるいでやってきた勉強が無駄になるわけじゃない。

だが、まだ手をつけてない部分があまりに多すぎる。

本当に俺は自分が目指す場所までたどり着けるのか。


「夕くん、優子から1つ提案があります」
「提案?」


よからぬことを企んでるのではないかと、思わず身構えてしまう。


「わたしを描いてみませんか?」
「なにを言い出すかと思ったら……」


確か、以前にも同じことを言われたことがあった。


「言っただろう、俺は人物なんて描いたことねえんだよ」
「練習にはなるでしょう?」
「ならねえことはないけど……たぶん、俺が受けるところには人物デッサンは出ないし」
「それでも、いつかは凪さんも人を描いてみろって言い出すかもしれないですよ」
「まあ、その可能性は高いな」
「だったらそのときモデルになるのは凪さんでしょう」


優子はちょっと拗ねたような顔をする。


「夕くんが一番最初に描くのはわたしじゃないとイヤです……」
「…………」


手口が巧妙になってきた。


そう思わざるをえないほど、優子の言葉はピンポイントで俺の急所を貫いていった。

そういう言い方をされて断ることなんて、できるものか。


……。

 



部屋に戻って食事を終えると、優子はさっそく始めようと言ってきた。

 



「どういうポーズを取ればいいですか?」
「なんでもいい」

 



「思いっきり投げやりですね……」


わざとらしく優子は泣き真似をする。


「一応忠告しておくと、けっこう時間かかるから楽なポーズにしたほうがいいぞ」
「時間かかるって……どれくらいです?」
「さっぱりわからねえけど、1時間や2時間じゃ終わらねえぞ」
「えぇっ、そんなにかかるものなんですか」


声から察するに、少し後悔してるらしい。


「やっぱりやめとくか? 俺もいまいち気が乗らないしな」
「うーん……。夕くんは、街を作りたいんでしょう?」
「……まあな」
「だったら、そこに住む人の姿だって描けなくちゃダメですよ。人がいてこその街ですよ」


多少強引だが、言ってることは間違いではない。

人がいて、人が住む部屋があって、家があり──それらが集まって街ができる。


「だったら覚悟しろよ。途中で音をあげても知らねえからな」

 



「耐えますから、せめて綺麗に描いてくださいね」
「見たまま描くだけで精一杯だ。アレンジなんぞできるか」
「……なにげに失礼なこと言ってますよね」
「気にするな」


俺はさらりと言って、スケッチブックに鉛筆を走らせ始める。

……最初の一手でいきなりつまずきそうになる。

難しい。

これは、今日のデッサンなんて比じゃない難易度だ。


「…………」
「夕くん?」
「いや、なんでもねえ。形取るまではじっとしててくれ」

 



「はーい」


いつ形が取れるかは定かではない。

人間の身体っていうのはなんでこんな面倒くさい構造になってるんだろうな……。


「優子、なんか喋れ」
「気が散りませんか?」
「どうせ遊びみたいなもんだ。気楽にやったほうが上手くいくかもしれねえしな」
「モデルさんとしては、できれば真剣にやってほしいところですが」
「そういや、おまえ試験はどうだったんだ?」
「試験……もう今ではなにもかもが淡い夢のように思えてきます」
「遠い目をするなバカ」


ダメだったんだな。


「俺があれだけ教えてやったのに……。おまえ、実はやる気ねえだろ」
「あんまり無いですね」
「さらっと言うんじゃねえ。おまえがどんな成績取ってもいいけど、勉強に付き合った時間が無駄になるのはシャクだな」
「大丈夫です、平均点くらいはクリアしてますから!」
「力説すんな。平均点を目指すだけなんて、志が低すぎる」
「志ですか……難しいことを言いますね。ていうか、徹底的にわたしをバカにしてませんか?」
「学年で20位以内に入ったら褒めてやる」
「……うわぁ」
「うわぁ、じゃねえよ。訊いたことなかったけど、進路はどうする気なんだ?」
「進路?」


優子は首を傾げる。


「動くな。そうだよ、進路だよ、今くらいの学力じゃ、進学は少し厳しいぞ」
「いやですね、夕くん。わたしはまだ1年生です。周りにもちゃんと進路考えてるような人はいませんよ」
「ま、それもそうか……。それでも勉強はしておくに越したことはないからな」
「今後もスパルタが続く予感がします」
「予感じゃなくて確実な未来だな」
「げー」
「動くなって言ってるだろ。おとなしくしてろよ。表情も変えるな。息もするな」
「最後のは無理ですよ!」

 

………………

 

…………

 

……

 

 

──それからしばらく、くだらない話をしながらスケッチを続けた。

だが、一向に形は決まらず、スケッチブックにはぼんやりとした輪郭が描かれただけ。

いくら初めてとはいえ、これはひどすぎないだろうか……?

 



「夕くん、休憩にしませんか?」


ついに手が止まってしまったのを見て、優子は提案してきた。


「……そうだな」


俺は鉛筆を置き、優子もポーズを崩す。

 



「やっぱり勝手が違いますか?」
「だいぶ違うな……。どこをどうしたらいいのかわからなくなってきた」
「もしかしてわたしのせいだったりします?」
「は?」
「モデルが悪いから描けないんじゃないですか?」
「そんなバカな」


俺は優子の言葉を笑い飛ばして首を振る。


「自分が下手くそなのは凪に腐るほど言われてるからわかってる。それをモデルのせいにするほど性根曲がってねえぞ俺は」
「いえ、根性は曲がり気味でしょう」
「てめっ……」
「あははっ」


まったくこいつは。

しおらしいのか辛辣なのかわからない。


「でもね──」


優子はため息交じりに言った。


「本当はね、見てみたかったんですよ」
「見てみたかった?」
「あなたの目にわたしはどう映ってるのかなって」
「変なことを気にする奴だな」
「だって……だって、わたしは──」


不自然なところで言葉が途切れた。

優子がなにかを探し求めるような目をする。


「優子、どうした?」

 



彼女の肩が小刻みに揺れ、顔からは血の気が引き、息がかすかに乱れている。

 



「優子!」
「わた……し……」
「────っ!」


ついこの間起こったばかりなのに。

またフラッシュバックか。

俺は歯噛みして優子と向き合う。


「優子、ちゃんと俺がここにいるぞ」
「だ、大丈夫……。大丈夫ですから……」


優子は苦しそうにあえぎながらも、意識ははっきりと保たれているようだ。


「いつまでも心配かけられませんからね……」
「そんなことはいいから、なにも考えずにゆっくり深呼吸しろ」
「はい……」


深呼吸し、しばらくじっとしていると優子の頬に少し血色が戻ってきた。


「もう……平気です」
「いいからおとなしくしてろ。いや、今夜はもう寝たほうがいい」
「モデルは……?」
「絵なんていつでもいいだろ。いいから横になれ」
「はい……でも、だったらもう少しこのまま」
「それはいいが、無理はするなよ?」
「なんだか、わたしから離れたいみたい。わたし、面倒くさい女ですよね」
「バカ! 何言ってんだよ。俺はお前を心配して……」
「……わかってます。変なこと言って、すいません」


優子が少し怯えたように言葉を遮る。

しまった。

優子が不安定な時に大声をあげるもんじゃない。


「いや、俺も大声出して悪かった。とにかく今日は寝て、落ち着いた方がいい」
「先輩……」


優子は困ったように微笑む。

 



「……っ!」


そして、優子を蒲団に運ぼうとしたところで、彼女はいきなり顔を寄せ、唇を重ねてきた。


「……んっ」
「優子……」
「夕くん……好きです」


またキスして、優子はすがるような目をしてくる。


「今は、やめておいたほうがいいだろ……」


俺は優子の急な態度の変化に戸惑っていた。

 



「今だから……ですよ」


確かに、一緒に住み始めたばかりの頃は毎日のように唇を重ねていた。


「それに、最近は……」


だけど、いつの間にかそういう機会は減ってしまっていた。


「もしかしてわたしに飽きたとか……?」
「バカ言え」


たぶん、勉強やバイトや雑用──毎日忙しくなる一方で、そういう気分になるタイミングがなかったせいだろう。


「だったら、ちゃんと受け入れてください。言葉とか態度だけじゃ満たされないものだって……あるんですから。時々、ぬくもりがほしくてたまらなくなるんです……」


優子は切なそうにそう言って、うつむいてしまう。

それをみて、優子がこのまま眠ることに怯えているのではないかと思い至る。

 

「優子」


今度はこちらから口づける。


「んっ……」


なにも言わなかったけれど、彼女はずっと寂しい思いをしていたのだろうか……。

さっきの発作も、そのせいかもしれない。

だとしたら、俺の落ち度だと思う。

まだ足りない。

優子を安心させるには、まだ足りないんだ。


「優子……優子……」


俺は怯えも寂しさも全部受け入れるつもりで、優子をきつく抱きしめた。


「夕くん、好き……。大好きです……」

 

………………

 


…………

 


……

 

 

窓を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。

わたしは身震いして、やっぱり窓を閉めようかと一瞬考えてから思いとどまる。

結局あのあと、夕くんはわたしを抱いたまま、ずっと傍にいてくれた。

毎日バイトと勉強に追われてるのに、わたしにも勉強を教え、凪さんとデッサンまでやっている。

疲労は溜まっているはずだ。

それなのに、ちゃんとわたしの気持ちに応えて受け入れてくれる。


「はぁ……」


男の人が怖かった。

触れられるのなんて、考えただけでも怖気がする。

あの地獄のような日々では──


「くっ……」


両手で胸を押さえ込む。

頭を振って、よみがえりそうになった光景を必死に打ち消した。

いけない、今思い出して声を上げるわけには……。

夕くんと起こすわけにはいかない。


「…………はっ……あ……」


大丈夫。

わたしは、大丈夫。

さあっと、外から風が吹き込んでくる。

あまりの冷たさにわたしは急いで窓を閉めた。

だけど、夕くんに抱きしめてもらうと安心する。

なにも考えられなくなって、そのときだけは嫌なことも思い出さずに済む。

わたしは夕くんのぬくもりを感じることで、なんとか自分を繋ぎ止められる。

なにか得体の知れないものに流れそうになる自分を──


「夕くん……」

 



小声でつぶやいてから、愛しい人の寝顔をのぞきこんで──

 



そっと唇を重ねた。


「ありがとう……」


──突然、わずかなうずきを感じる。


わたしは慌てて、唇を離す。

まだ足りていないのかな……。

わかっていたことだけど、わたしはどうかしている。

傷跡のことだけじゃない。

焦げつきそうなほどの想いで、夕くんを求めている。

痛いくらい──壊れるくらいに強く抱きしめてもらいたい。

どれほど優しく愛情を注がれても物足りない。

自分でも恐ろしくなってしまうような、凶暴な感情がいつも渦巻いている。

でも、それが本当のわたし──


「夕くんの前では普通の、可愛い女の子でいたいのに……」


その一方で……。


いつか、すべてを知ってもらいたいと思う。

一度だけこの肌も傷跡も見せたときのように、やけっぱちな気持ちじゃなくて。

心の中にあるすべての想いを解き放って、夕くんに伝えたい。

そんな日がいつか訪れてくれれば……。

伝えたい、言葉にできないこの心を……。


……。