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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【19】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
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Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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16.ゆらぎ
 Flicker.

 

期末試験の答案が返却され、学年ごとの順位が廊下に張り出された。

俺はいつもどおりにトップを取り、優子と凪はそろって中の下といったくらいの成績だった。


……。

 



終業式まであと10日。

通常の授業はなく、大多数の生徒は試験休みを謳歌している。

3年生などはまず登校してこないし、1年2年も補習・追試組か部活や委員会がある連中だけが出てくる。

俺はそのどれにもあてはまらないが、寒い中を普通に登校していた。

 



もちろん勉強するためだ。

家でやってもいいのだが、どうしてもだらけてしまうので、学園に出てくるのが一番いい。

午後からは、凪と美術室でデッサン。

夕方にはバイトに入って、夜中に家に帰ったら空間構成や建築の勉強。

結局のところ、進路を絞ってもやることは今までとあまり変わらない。

いつもとなんら変わらない忙しさだが──

優子は納得していない。


「あのバカはまだふてくされてるか……」


思えば、本格的なケンカなんて初めてかもしれない。

苦々しい気持ちとともに、今朝のことを思い出す……。


…………。

 

……。

 



これから登校すると告げると、優子は呆けたような表情をした。


「学校……? 行くんですか?」
「ああ、勉強しに行ってくる」


俺は制服に袖を通しながら答える。

特にまずいことをしているという自覚は一切なかった。

 



「わざわざ学校に行く必要はないんじゃないですか?」


遠慮がちに、だが非難するように優子は言った。


「必要はあるさ」
「勉強なんて家でできるでしょう」
「家じゃだらけちまうし、学校の図書室には最新の参考書だってそろってる。わからないことがあれば先生に質問にも行けるしな。冬期講習に通う金もない身としては、学校が一番なんだよ」

 



「試験も終わって、やっと一緒にいられるのに……」
「仕方ねえだろ」


一つ屋根の下に住んでいても、俺たちが一緒にいられる時間はわずかだった。

優子が長期の休みをどれだけ楽しみにしていたか。

俺にだってそれくらいはわかる。

わかるけれど……。


「わたしを描くのだってまだ途中じゃないですか」
「ちゃんとそれも描くよ。でも、優先しなきゃいけないことがあるんだよ」
「……納得できません」
「聞き分けろよ」
「…………」


ついにだんまりに入ってしまう。

あまりないことだが、優子はどうやら今朝は機嫌が悪いらしい。

俺はなにかやらかしただろうか?

考えてみても、まったく身に覚えがない。

 



「もう行くぞ、俺は」
「……お弁当なんて作ってませんよ、わたし」
「いらねえよ、夏までは毎日昼メシ抜きだったんだ」
「わたしは余計なことをしてたってことですか?」
「誰もそんなこと言ってねえよ!」
「…………っ」


しまった、と思ったときにはもう遅かった。

優子の顔には怒りとも悲しみともつかない表情が浮かんでいる。


「行くからな」


取り繕うこともできず、俺は優子に背中を向けた。


「バカ……」

 



かすれた声にも俺は振り向かず、部屋を出る。

頭を冷やすまではこれ以上なにも言うべきじゃない。


……。

 

キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン。

 



始業のベルが鳴った。

授業が無くても普段どおりに鳴るものらしい。


「やってられるか……」


小声でつぶやく。

まったくやってられない。

優子があんなわからず屋だとは知らなかった。

俺が目指すべき目標のために協力してくれると思ってたのに。

同じ部屋で寝起きしても、何度唇を重ねても、完全に誰かを理解することなんて無理なんだろう。

それが当たり前のことなのだ。


…………。

 

……。

 



「夕くんのバカ」


朝のことを思い出してる内に、自然と独り言が出た。

慌ててあたりを見回し、誰にも聞かれてなかったことを確認する。


「はぁ……」


こんな往来で独り言をいうなんて危ない人みたいだ。


──「こんなところで独り言いってると危ない人みたいだぞ」


「わぁあっ!」


いきなり背後から聞こえた声に飛び上がりそうになる。

 



「そこまで驚かなくてもいいだろ」
「驚きますよ!」
「まあ、驚かそうとしたんだがな」
「でしょうね……」


この人は本当になにをやらかすかわからない。

久瀬先輩が凪さんを苦手としてたのも頷ける気がする。


「それで、ゆこちゃんは買い物か?」
「ええ、お昼と晩の材料の買い出しに」


わたしはびくびくしながら答える。

凪さんとの会話は、時々とんでもない変化球が飛んでくるので油断できないからだ。


「まるで新妻みたいだな」


凪さんはわたしたちが同居してることを知っている。


「まあ、似たようなものです」
「まだ新婚なのに、ずいぶん深刻なケンカをしたみたいだな」
「……え?」


飛んできたのは直球だった。

なんで凪さんがそのことを……。


「もしかして夕くんに会ったんですか?」
「今日は午後からデッサンに付き合う予定だ」


つまり、今日はまだ会ってないということだろう。


「なら、どうして?」
「顔が曲がってる」
「正面からそこまでひどいこと言われたのは、生まれて初めてです」
「あ、そうか。言い方が悪かったな。ごめん、ごめん。そういうことじゃなくて、こう眉間にしわが寄ってるというか。いつもと顔が違う」
「そんなにはっきり出てますか?」
「僕の並はずれた観察力をもって、初めてわかるくらいだろうな」


多少なりとも感情が顔に出ていたことは確かなようだ。

そうか。

わたしも感情を殺さずに、自然に表に出せるようになってきたのか……。


「ゆこちゃん、夕になにをされたんだ?」
「あの、いきなり夕くんが悪いことになってますね」
「違うのか?」
「どちらかといえば元凶は夕くんですけど」
「合ってるんじゃないか。まあ、奴は強気で意地っ張りに見えるがあれで案外甘いからな。どうせすぐに謝ってくるだろうよ」
「凪さんは……」
「ん?」
「凪さんは夕くんのこと、よくわかってるんですね」
「そんなことはないけど、付き合いだけはそこそこ長いからな」


凪さんは笑って、わたしの肩をぽんぽんと叩いた。

この人はわけのわからない人だけど。


本当に優しいと思う。


「ま、歩きながらでも詳しいことを聞こうか」
「人が聞けば大したことじゃないし、面白い話でもないと思いますよ」
「どうせ午後までは暇なんだ。どうやって時間を潰そうか考えてたところだからちょうどいい。いや、そうだな。まだ時間はちょっと早いが昼食にしようか。外で食べても問題ないだろう?」
「問題はないですけど、わたし……」


手持ちは多少あるけど、それを使うとお買い物が……。


「年上の人間と一緒にいるときは余計な心配をしなくていいんだよ」


あっさりと凪さんはそう言って、わたしの手を掴んだ。


…………。

 

……。

 

 



「あまり食べなかったな」


凪さんは上品な仕草で、食後のコーヒーをすする。


「割と小食なんですよ」


とは言ったものの、食欲があまりなかったのも事実だった。

いきさつを話しながらの食事というのもよくなかったのかも。


「そんなに落ち込むことはないよ。さっきも言ったけど、たぶんすぐに元通りになる」
「そう……そうですよね」


たぶん、凪さんの言葉にそれほど根拠はないだろうけど、なんとなく納得してしまう。


「ただ、君にも悪いところはあるよ」
「え?」
「ゆこちゃんの気持ちを考えてない夕が悪い。だけど、あいつはあいつなりに必死なんだろう」
「……それはわかってます」


夕くんが間違ったことをしてるとは思わない。

というより、彼の理屈は正しい。


「それでもわたしは一緒にいたいんですよ……」


だって、初めてだから。

誰かと一緒にいて安心できるなんて──


「君は僕が嫌いか?」
「は?」


変化球が来た。

 

「僕もゆこちゃんから夕と一緒にいる時間を奪ってる。今日だってこれからあいつと会うわけだし」
「そんなわけないじゃないですか!」


思わず大声を出してしまう。


「凪さんは、夕くんを助けてくれてる人です」
「恨むところを間違えちゃいけないってことを、わたしはよく知ってます。知っているつもりです」


生きていれば、誰もなにも恨まない──なんてわけにはいかない。

だけど、間違えてはいけない。

あの人のように、あの人と同じ間違いだけは……。


「もしも」


凪さんはコーヒーカップの緑を指でぴんと弾いた。


「僕が夕に絵の手ほどきをしてる。そこに下心があるとしたら?」
「そのときはあなたを恨むでしょうね。ううん、ただ恨むだけじゃ済まさないかもしれません」


わたしはにっこりと微笑む。

凪さんの気持ちくらい、知っているけれど。

この人はその気持ちを抑え込んでいる。

抑えている限りは、わたしも凪さんを好きでいられる。


「君は素直だな」
「素直かもしれませんが、わたしは悪い子ですよ」


わたしにつられたように凪さんも笑う。


「知ってたよ。君は悪い子だ。悪い子だけど、ゆこちゃんは女の子なんだな。君は……恋をしてる女の子だ」


…………。

 

……。

 

買い物を済ませ、冷たい風が吹く中を歩いて教会にやってきた。

凪さんに会う前は、さっさと帰ってふて寝しようと思ってたけれど。

悪い子だけど、恋をしている女の子。

そう言われて、気持ちが軽くなった気がする。

わたしは──夕くんを困らせるとわかっていてもわがままを言ってしまう。

それはよくないことだけど、わたしの正直な気持ちだから。


──「ゆうこ」


「あら?」

 



気づかないうちに、未来が現れていた。


「こんにちは、未来ちゃん」
「…………うん」


ひょっとして今ので挨拶を返したつもりなんだろうか。


「また来たの?」
「なんか、来ちゃいけないみたいですね」
「ひまそうって思っただけ」
「……まあ、暇といえば暇なんですけどね」


試験は終わったし、バイトは週2日しかないし、家事にもだいぶ慣れてきた。

誰が見たって忙しいといえる状態じゃない。


「未来ちゃんはどうなの?」
「……ゆうこにはかんけーない」
「施設の子たちと一緒に遊ばないの?」
「…………」


未来はなにも答えず、わたしを睨む。

 



「そんな怖い顔しちゃダメですよ。せっかく可愛い顔してるのに」
「うるさい」
「あら、困った子ですね……」


この子も悪い子だ。

こうも強気で意地っ張りだと、なかなか他の子にも受け入れてもらえないのかも。


「あいつら、きらい。だってうるさいんだもの」
「一緒に遊んでみたら楽しいかもしれませんよ」
「楽しくなかったら、ゆうこがせきにんとってくれるの?」
「責任って、そんな言葉をどこで……」


もうどうしたらいいのかわからない。

夕くんの言ったとおり、あまり関わらないほうがいいんだろうか。

今まで子供と接したことなんてないし……。


「ま、まあ、気が向いたら遊んでみるといいですよ。わたしは中に用があるので……」
「……ん」


未来が頷くのを確かめてから、わたしは教会の扉に向かった。


……。

 



「……って」

 



振り向くと、当たり前みたいな顔をして未来がついてきている。


「未来ちゃん、わたしになにか用があるんですか?」


できる限り優しく、猫なで声で言ってみる。

というか、どうしてわたしはこの子に優しくしようとしてるんだろう。


「ゆうこがドロボーしないかみはってるの」
「なんでもいいですけど、せめてお姉ちゃんとか呼んでもらえないでしょうか」
「……イヤ」


この子、もしかして本気でわたしを嫌ってるんだろうか?

なんか頭に血が昇ってきた……。

 



わたしは無言で未来から視線を外す。

こんな小さい子相手に本気で怒りたくない。


「ゆうこ」
「ちょっとだけ静かにしててね」

 



わたしは祭壇を見つめ、深く息を吸い込む。

神様に祈るわけじゃない。

わたしはずっと神様に、運命に見離されてると信じてきたから。

だけど、ここの静謐な空気は不思議なくらい心を鎮めてくれる。

この傷だらけで汚れた身体を清めてくれるような気さえする。

もちろん、そんなのは都合のいい思いこみでしかなくて──


「……あら?」

 



突然、視界がぼやけた。

わたしは慌てて目をこすろうとして──


膝から力が抜けてしまう。

立っていられない。

頭が真っ白になって、自分の心臓の音が不気味なくらい大きく聞こえる。

 



「ちょっと……待って……」


誰に言ってるんだろう。

倒れそうになったことは何度もあるけど、これは──今までとは違う。

フラッシュバックでもない。

心臓の鼓動が速い。

顔が熱くて、猛烈な吐き気がこみあげてくる。


「なに、これ……」


風邪だろうか。

熱っぽいし、頭痛と吐き気。

もう冬だというのに夜風に当たったりしてたし……。

休みになって気が抜けたのかもしれない。


「しんじゃうの?」
「…………」

 



「ゆうこ、しんじゃうの?」


吸い込まれそうなほどに大きな瞳が、じっとわたしを見ている。

そこに宿ってる感情はなんなのか。

濁ってしまっている目では見通せない。


「お姉ちゃん、って言ったでしょう……」


力を振り絞って笑い、精一杯の明るい声を出す。


「死にませんよ。こんな若い身空で死んじゃたまりません」
「ホントに?」
「ええ」


頷いて、未来の頭に手を伸ばす。

 



「あっ」


小さな悲鳴を発すると、未来はわたしの手をかわした。


「ああ、そうでした。触っちゃいけないんでしたね」
「うん……」


なぜか未来は申し訳なさそうな顔をする。


「ごめんなさい。それに、わたしは大丈夫です。お姉ちゃん、ちょっとふらついただけですから」


膝に力を入れて立ち上がる。


「うん、大丈夫です」
「バカみたい」
「えっ?」
「笑ってるのに……泣いてる」


そう言うと、未来は駆けだして教会から出て行ってしまう。

 



止める暇も、そんな余裕もなかった。


「あはは、子供の前でかっこわるいところを見せちゃいました……」


わたしも帰ろう。

わたしの家に帰って、ゆっくり眠ろう。


…………。

 

……。

 



バイトを終えて、家に戻ってきた。

しかし、部屋のノブを掴もうとしたところで動きが止まる。

凪にしごかれ、バイトをこなす内にケンカしたことをすっかり忘れてた。

まさか、帰らないわけにもいかない。

俺は覚悟を決めてドアを開けた。


……。


「あ、お帰りなさい夕くん」
「…………」

 



「寒かったでしょう。すぐにごはんにしますから、座っていてください」


何事もなかったかのような、いつもの優子だった。


「どうしました? あ、もしかしておかえりのキスとか期待してます?」
「バカか」


俺はカバンを置いた。


「ちょっと残念。いつでも要求してくれてかまいませんからね。それではごはんの支度を……」
「しなくていいから寝ろ」
「寝る……? まだ10時ですよ」
「知ってる」
「寝るってもしかして違う意味ですか? 嫌ですね、そんなにがっつかなくてもごはんを食べてから……」
「風邪か?」


ぴたっと優子の口が閉じられる。

どうやら図星らしい。


「……あら、鋭いですね」
「その顔を見てりゃわかる。喋り方もちょっとおかしい」


優子は、いつもどおりの自分を演じようとしていただけだ。


「おまえの演技を見抜くことに関しちゃ、ちょっと自信があるよ俺は」
「そんなことのスペシャリストになられても困りますね」


にこりと弱々しい笑みを浮かべる。

 



「もういいから横になれ、おまえもメシはまだだよな?」
「はあ、実のところはあまり食欲が」
おかゆを作ってやるから、横になって待ってろ」
「あ、わたしの仕事を取ろうとしてますね」


俺は優子の言葉を無視して、台所に向かう。

 



「あの、夕くん」
「なんだよ」
「怒ってます?」
「病気になったのは仕方ないだろ。ちゃんと寝てなかったのは頭に来るけどな」
「今朝のことですよ」


……とぼけるのは無理か。


このままうやむやにしてしまうのが一番だと思ったんだが。


「それは俺が訊きたいことだよ。まだ怒ってんのか?」
「凪さんからなにか聞いてないんですか?」
「凪? なんで凪が出てくるんだよ」
「いえ……。いえ、なんでもありません」
「よくわかんねえけど、今朝は俺の言い方も悪かった」


振り向き、軽く頭を下げる。

 



「それにおまえにも相談しておくべきだったな。悪い」
「……あなたは」


優子は困ったように笑った。


「あなたはどんどん優しくなっていきますね……。わたしはわがままになるばかりなのに」
「言いたいことを言えばいい。俺が気づいてやれないこともあるんだから、そうしてくれないと困るんだよ。今朝のことは俺が悪かった。学校行くのも毎日ってのはやめる。それで終わりにしていいか?」
「……はい」


優子は微笑んで頷いてくれる。

しょせんはくだらないケンカだ。

意地を張っていたって、疲れてしまうだけだ。

彼女の調子が悪いなら、なおさらこんな状態は続けられない。


「夕くん」
「なんだ」
「あなたは、いつでもわたしを許してくれるんですね……」
「許すとか許さないとかじゃねえだろ。おまえはなにも間違ってないんだから」


…………。

 

……。

 

 



17.ひとかけらの勇気
 A piece of courage.

 

 



午前中の美術室。

静まりかえった室内に、木炭を走らせる音だけが聞こえる。

凪も俺もお互いになにも話さず、石膏像を睨みながら手を動かしている。


ジリリリリリ……。


「っと」


突然のベルの音に、凪がぴたっと手を止めた。

集中していると時間など忘れてしまうので、凪が目覚まし時計をセットしてあったのだ。

 



「ここまでだな」
「ああ」


手を止めると、どっと力が抜けてしまう。

 



「ふーっ」
「さて、と我が弟子のできばえは……」


いつから俺は凪の弟子になったのだろう。


「…………うーん」
「怖いから"うーん"とか言葉を選ばないでもらえるか」
「じゃあはっきり言おう。今日も全然ダメだな」
「ああ、そうだろうとも」


まだこちらは初心者だ。

お褒めの言葉をちょうだいできるとは思ってないが、毎度毎度けなされるのも頭に来る。


「いきなり構図がズレてるし、形も全然取れてない。質感の表現もまるっきりダメだ。そもそも手が遅すぎる。3時間かけてこれくらいしか描けないようじゃ、話にならないな」
「なにひとつ、いいところはないってわけだな……」


俺はちらりと凪のイーゼルに目を向ける。

同時に描きだしたはずなのに、確かに進行状況も出来もまるっきり違う。

わかっていたこととはいえ、このあまりにも広すぎる差は……。


「仮にもデザインをやろうっていうなら、立体を把握できてなくちゃ話にならないからな」
「わかってるよ」


凪はふーっと息を吐く。


「まあ、ある日突然伸びることもあるからな。そんなに焦ることもない」
「おまえがフォローするとは珍しいな」
「あまり絶望的になられてもやりにくいからだ。だけど、夕のことだから少々叩かれたってへこまないか」
「俺だって人並みにへこむことくらいはあるんだが……」


特に凪は容赦ないし、こっちは学校の勉強では常に褒められてきたもんだから、けなされることに耐性が無い。

意外とこれでダメージ受けてるんだ。


「それじゃ、夕をへこませるのはこれくらいにして、行こうか」
「そうだな」


時計を見ると、時刻は11時30分。

昼には一旦家に戻ると優子には言ってあるので、そろそろ学校を出ないと。


「ゆこちゃん、まだ良くならないのか?」
「ちょっと長引いてるな。ここ2日くらいずっと調子悪そうだ」
「医者には診せたのか?」
「いや、あいつが病院は嫌だって言い張るもんだから……」
「そこは甘やかすところじゃないぞ。そういうときは首に縄をつけてでも引っ張っていくもんだ」


凪はそこまで言って、はっとする。


「縄……」
「なにか気になるのか?」
「夕たちは縄とか使ってるのか?」
「なんの話だ!」


なんて質問をしやがる。

 

「ああ、すまなかった。つい、乙女の好奇心というやつがうずいて」
「乙女とやらの質問とは思えねえぞ、今のは」


まったく、とんでもねえバカだ。

たまにはこういうバカな話もしないと、受験勉強なんてやってられないけれど。


…………。

 

……。

 

 



「お帰りなさい」


部屋では満面の笑みを浮かべた優子が持っていた。


「ああ、ただいま」
「優子、起きてて大丈夫なのか?」
「2日も寝っぱなしでしたからね。良くなってくれないと困ります」
「少し治ったからって油断するな。おまえは元々体力無いんだし、横になってたほうがいい」
「平気ですよ。これから凪さんとお買い物に行くんですよね?」
「凪にはおまえの様子を見てからって言ってある。本当に、大丈夫なのか?」
「心配性ですね。いいから行ってきてください。凪さんにはお世話になってるんですし、できるときに恩返しをしておかないと」


見たところ、今朝よりは調子が良さそうなのは間違いない。

だが、凪に言われたとおり病院に連れて行ったほうがいいとも思う。


「恩返しは今日じゃなくてもできる。でも、おまえは病気なんだからな」
「愛しいわたしと離れたくないのはわかりますけど、そんなに心配しなくてもー」
「俺にいてほしいってすねてたのは誰だよ」
「まあ」


まあ、じゃねえよ。

 



「蒸し返さないでくださいよ。ちょっとあのときはどうかしてただけです」


優子はにこっと笑う。

 

「それにあまり近くにいると風邪がうつるかもしれません。ですから、いいんですよ」
「……わかった。でも昼メシだけは一緒に食うぞ」
「あら」
「見張ってないと食わないだろ、おまえは。それくらいお見通しなんだからな。食欲が無くても食うもん食わなきゃ治らねえよ。食わなかったら、無理矢理にでも口につっこむぞ」
「やだ、無理矢理口になんて……。夕くんったら、いやらしすぎますよ」
「おまえの脳がどうかしてるんだよ!」


………………

 

…………

 


……

 



ちゃんと寝ろ、としつこく言い残して夕くんは再び出かけていった。

凪さんとお出かけというのは正直、ちょっと思うところがあるけれど、わたしは夕くんを信じることにする。


「疑ったりしたらバチが当たりますよね」


夕くんは食事の支度だけでなく、後かたづけまでしてくれた。

嬉しいような、仕事を取られて悔しいような、複雑な気持ち。

まあ、今はまだ夕くんのほうが料理は上手だし、なにをやっても手際の良さではかなわないけど──


「────っ!?」


不意に、なにかが来た。

未来の前で膝をついたときよりもさらに強烈なめまい。

 



ぐるりと視界が一回転する。


「なに、これ……」


まずい、この前とは比べものにならない。

全身から血の気が引いたような寒気が襲いかかってくる。

視覚も聴覚も、すべての感覚が急速に遮断されていく……。

これは──本当にまずい。


夕くんを引き留めなかったことを後悔しながら、意識が薄れていった。


…………。

 


……。

 

 

 



待ち合わせの時間ギリギリに駅前に到着した。

ここに来る間、優子のことが気になって仕方がなかった。

回復しつつあるとはいっても、誰でも病気のときはひとりになりたくないものだ。

早めに買い物を済ませて、バイトが収まる前に一度家に戻ろう。

そう決めて、俺は凪の姿を探す。


「あれ……。いないな?」


あいつは割と目立つ容姿なのに。

おかしいな……。

 



「夕」
「…………」


いきなり目の前に現れたのはひとりの少女。

俺は首を傾げる。


「……誰だ?」
「僕だ」
「おまえか」
「そうだ」
「……ちょっと待ってくれ。なんでおまえが私服で現れるんだ?」
「僕だって私服の1着や2着持ってる。なにか文句でもあるのか?」


文句はない。

だが、1年半以上の付き合いで、初めて私服姿を見れば驚くのも当然だろう。

 



「どういう心境の変化なんだ?」
「可愛いか?」
「その質問もまるでおまえらしくねぇ……」


もしかしてこの凪は偽物なんじゃないだろうか。


「冗談に決まってるだろう。夕に可愛いなんて言われてもリアクションに困る。いくら事実とはいえ」
「…………。えーと、まずは画材買いにいくんだったな」


俺はくるりと凪に背中を向ける。

この話題はこれ以上引っ張らないほうがいいと、俺のカンがささやいている。


「ちっ」


その舌打ちの意味も考えないようにしよう。

 

…………。

 


……。

 



「また今日もえらく買ったな」
「最近は夕もめったに付き合ってくれなくなったからな。こういうチャンスは無駄にできない」


凪は絵の具や木炭紙、それになにに使うのかマーカーも多量に買い込み、にこにこ笑っている。

確かに、夏に優子と再会してからは、凪と出かける機会は絶えて久しかった。


「そういや、1年の頃なんかは月に2、3回は付き合わされてたな」
「君も付き合いのいい男だったな。いや、暇というべきか?」
「バカぬかせ、1年のときから死にそうなくらい忙しかったよ! おまえが無理矢理付き合わせてたんじゃねえか!」
「毎回付き合ってくれたのは、無理矢理というのが好みだからか?」
「…………」


なんだ、俺のあげ足を取るのが音羽の女子の間で流行ってるのか?


「ところで、夕は油絵をやってみるつもりはないか?」
「油絵?」
「色彩センスを磨くのも重要なことだしな。油絵じゃなくて水彩画でもいいし。水彩なら美術の授業でやったこと
あるだろう?」
「そりゃあるけど……デッサンでいっぱいいっぱいなのに」


唐突に思い出した。

描きかけのままの優子の絵。

ろくに形も決めないまま放置してあったアレを仕上げて、色をつけてみるのもいいかもしれない。


「なにか思いついた顔だな」
「大したことじゃない。でも、水彩か……」
「道具なら僕のを貸そう。もうほとんど水彩は使わなくなったからな」


油絵は敷居が高そうだが、水彩ならなんとかなるかもしれない。

上手くはいかないだろうが、それでも優子は文句は言わないだろう。


「描けたら僕にも見せてくれ」
「断る」
「その迷いのない口調は嫌いじゃない」
「なんだそりゃ」

 

凪は笑って、足取りも軽やかに歩く。

いつものことながら引き下がるのも早い。


音羽は絵を学ぶにはいい環境だと思う」
「なんだ、それ?」
「この街には絵になる場所がいくらでもあるからな。この街そのものが絵になると言ってもいい」
「まだ崩れたままになってる場所だってあるぞ」
音羽の復興計画は色々と複雑らしいからな……。まだ手が回ってないところもあるんだろう」
「しばらく計画は終了しないってことか」
「だろうな。夕が都市デザインをやるつもりなら、音羽の復興計画に関われるかもしれないぞ」
「……まさか」


それができれば最高だが。

いくらなんでも、そこまで上手くいくとは思えない。


「いいや、ありえないことじゃない。僕が絵描きになろうと決めた頃、父親の技術は神がかって見えた。正直、一生追いつけないと思ったものだ」


凪は微笑み、首を振った。


「ところが、今じゃ父の影に触れられそうな距離まで近づいてる。無理だと思ったことでも、じたばたもがいてる内に意外となんとかなったりするものだ」


凪は子供のように輝く目で俺を見る。


「夕だってわかってるだろ?」
「そうだな……」


震災のことも、茜や両親のことも……。

忘れられなくても、心の整理をつけることはできた。

人は案外、なんでもできるのかもしれない。

目指すものがあって、なんのためにそれを成し遂げようとしてるのか忘れなければ……。


…………。

 

……。

 

 



足下がふらついてきたので、わたしは一休みするために公園に入った。


「寒い……」


北から吹いてくる風が容赦なく体温を奪っていく。

一刻も早く家に戻るべきだけど、途中で倒れたくない。

少し休むのが正解だろう。

 



「ふーっ」


ベンチに座ったまま動けなくなる。

無理を押して出かけて、帰れなくなるなんて。

我ながらなんて情けない……。

 



「あ……」

「あら?」


とことことわたしの前に現れたのは、未来だった。

 



「未来ちゃん、こんにちは」
「……こんにちは」
「あらら」
「なに」
「いいえ、なんでも」


わたしは笑顔を作る。

ささやくような声だったけど、未来がちゃんと挨拶を返してくれるとは思わなかった。

少しは心を開いてくれるようになったのだろうか。


「変なところで会いますね。今日は遊びに来たんですか?」
「きょうかいの前で」
「教会の前?」
「きょうかいの前をウロウロしちゃダメだって、先生が。車も通るからあぶないって。遊ぶなら、こうえんで遊びなさいって」
「それはそうですね」


……ん?


「どうして未来ちゃんは教会の前なんかに?」
「そんなの……そんなのわたしのかってだよ」
「もしかして……。わたしを待っててくれたんですか?」
「ちがう! ちがう……もん」


本気で否定してるのか照れ隠しなのか。

どっちでもよかった。


いつも素っ気なかった未来が感情をむき出しにしているのが嬉しい。


「ゆうこはなにしてるの?」
「ちょっとお出かけしてたんですよ。でもちょっと疲れちゃったので、一休みです」
「おばちゃんみたい……」

 



「なんですって?」
「あうっ……」


氷の微笑を向けてやると、未来は敏感に反応した。

シメるときはシメるのが教育というもの。


「ゆうこ、笑ってるのにこわい……」
「感情は必ずしも顔に出るものではないんです。覚えておきましょうね」
「よくわかんない……」

 



「そのうちわかる日が来ますよ」


わたしはそう言って立ち上がる。


「帰るの?」
「ごめんね、未来ちゃんと遊んであげたいけど、今日はちょっと……」


それほど気分も悪くない。

今なら家までたどり着けるだろう。


「べつに遊んでほしくなんかない」
「わたしは未来ちゃんと遊びたいですよ」
「…………」


未来に微笑みかけて、その場を去ろうとして──

やっぱりダメだった。

 



「う…………」


ヒザに力が入らない。

どうやら、思った以上に体力を消耗しているようだ。

ちょっと休んだくらいじゃダメか……。


「ゆうこ?」
「大丈夫です、死んだりしませんよ」
「しんじゃうよ」
「大丈夫、大丈夫……」
「むりだよ、だって……」
「優しい子ですね、あなたは……。おいで、未来」
「えっ──」

 

わたしは未来の小さな身体を抱き寄せる。

 



「や、やだぁっ……」


暴れる未来をわたしは残された力でしっかりと抱きしめる。


「やだ……」
「なにが嫌なの?」


この子はなにか理由があって家族を引き離されている。


「ぬくもりに触れて、それを無くしてしまうのが怖いの?」


大事な人は、ぬくもりをくれた人はいなくなってしまう。

だったら最初からなにもいらない──未来はそんな風に考えてしまっているのではないだろうか。


「はな……して、ゆうこ……」
「怖がらないで。わたしは未来を抱きしめたい。だって、あなたはあたたかいもの」
「……うっ」
「泣かないで。泣かないでいいのよ」
「あの、ね……」
「はい」
「パパも……ママもいなくなった……。ずっといっしょだって……いったのに……。いなくなっちゃった……もうどこにも……もう会えないの……。ひとりはいや……、ひとりぼっちに……しないで……パパ……。ママぁ……どうしてわたし、置いていったの……」
「つらかったね……」


さらにぎゅっと力を込める。

こんな小さな身体にも張り裂けそうなほどの悲しみが詰まっている。

あの震災のあとの夕くんやわたしのように……。


「未来、あなたはひとりじゃありません。ひとりになんかなりません」


悲しみからは逃げられないから。

立ち向かい、乗り越えなくちゃいけない。


「わたしだけじゃない。心を開けば……応えてくれる人はきっといますから」
「ゆうこは……いなくならない」
「いなくなったりしませんよ。だってわたし──」


わたしは未来の頭を撫でて、笑いかける。


「わたしには──守らなきゃいけないものがありますから」


…………。

 


……。

 

 

 



18.最後の約束
 The last promise.

 


デートしませんか──

終業式を間近に控えたある日の朝、彼女は目覚めた俺にそう言った。

勉強もバイトも放り出して、わたしのためだけに時間をください。

いくらなんでも俺はそこまで甘くない。

のんきに遊んでいられる身じゃないんだ。

そう言おうとしたけれど、穏やかな表情を浮かべる優子を見ているとなにも言えなくなった。

俺は無言で頷き、優子は微笑んだ。

あるいは──

このとき、既に予感があったのかもしれない。

 

……。

 

 



今日も寒さは厳しく、風の冷たさは頬が痛くなるほどだった。

隣を歩く優子が心配になる。

病み上がりで、まだ本調子じゃない彼女を連れ回していいものか……。


「このところこもりがちでしたから、風が気持ちいいですねー」


そう思っても、顔を輝かせている優子を見てると"やっぱり帰ろう"とは言い出しにくい。


「夕くん、浮かない顔ですね。凪さんとお勉強してるほうが良かったですか?」


意地悪そうに笑って問いかけてくる。


「そんなんじゃねえよ。毎日ボロクソにこき下ろされてるんだ。たまには骨休めもいいさ」
「じゃあ、バイトを休んだのが後ろめたいとか?」
「マスターは"たまには羽を伸ばさないと飛べなくなる"とか言って笑ってた」
「ふふ、マスターさんはよっぽど夕くんを休ませたかったみたいですね」
「みたいだな。若いうちはもっと遊べって口うるさいし……」
「マスターさんって、もしかしてなにか事情があって若い事は遊ぶ暇もなかったのかもしれませんね」
「ああ、なるほど。それは思いつかなかったな」


そういう可能性もあるかもしれない。

マスターだって生まれたときからオッサンだったわけじゃなく、俺と同じ歳だった頃があるんだ。


「わたしならなんの問題もないですよ」


優子は唐突に、独り言のようにいった。


「ほら、ちゃんと歩いてるじゃないですか。ちょっと足は萎えてますけどね。疲れて歩けなくなったら夕くんがおぶってくれますし」
「待て、勝手に決めるんじゃねえよ」
「あはっ」


どうやらペースが戻り始めてるようだ。

変に心配せず、したいようにさせてやったほうがいいか。


「どこに行く? たまには映画でも観るか?」


今日は少しくらい金を使うのもいいだろう。

優子は最近ほとんど外に出てなかったし、なによりこれは──

デートなのだから。


「映画なんて観たくないですよ。せっかくのデートなんですから、スクリーンじゃなくてあなたの顔を見ていたいです」
「なっ……!」
「あはははは」


絶句する俺に優子は微笑みかけてくる。

 



「夕くん、赤くなってますよ」
「おまえなあ……。そんなふざけた言い回し、どこで拾ってきたんだ」
「オリジナルに決まってるじゃないですか。自慢じゃないですけど、わたしは本とか読みませんし」
「それは確かに自慢じゃねえな」
「一緒にいられればそれでいいんですよ。もう風邪をうつす心配もありませんしね」


楽しげに言って、優子は腕を絡めてきた。

柔らかな感触が肘に当たる。


「ちょっとくっつきすぎじゃねぇか?」
「照れないでくださいよ。誰に見られたってかまわないでしょ?」
「おまえ、今日はちょっとテンション高すぎだぞ」


とは言うものの、俺も悪い気分ではなかった。

同じ部屋で暮らし始めてから、微妙に距離が開いたような気がしていたから。

その距離が今は埋まっている。

どこにも溝なんてない。

優子のぬくもりがそう信じさせてくれる。

 

「あら」
「どうした?」
「ほら、耳をすませてみてください」
「耳?」


言われて、俺は気づいた。

どこかの店で流れている有線放送か、それともどこかにスピーカーでも設置されてるのか。


「なんだっけ……曲名忘れたけど、クリスマスソングだな」
「ええ。クリスマスソングってどれもメロディが綺麗ですよね。久瀬先輩に弾いてもらいたいな」
「そうだな、ドイツから呼びつけるか。あいつにも、たまには役に立ってもらわねえと」
「そんな無茶な」
「冗談に決まってるだろ」


せっかく旅立ってくれたんだから、放っておくのが一番だ。

帰ってきたりされたら、うるさくてかなわない。


「しかし、クリスマスか。そういえば、もうそんな時期なんだな」
「クリスマスそのものを忘れてたんですか。いくらなんでも浮世離れしすぎじゃありません?」
「あまり気にしないようにしてたからな……」


数年前のクリスマスのことを思い出さないように。

できないとわかっていても、自分にそう言い聞かせていた。


「そうですよね、クリスマスだからって浮かれる気にはなりませんよね……」


優子の顔が曇ってしまう。

ダメだ、なによりも優先しなければならないのは今であり、優子だ。

そのことを俺は知ったはずじゃないか。


「派手なことはできねえけど」
「え?」
「クリスマスにはふたりで美味いもんでも食おう。年に1回のことだ、少しくらい贅沢したっていいだろう」
「……いいんですか?」
「その後しばらくは貧しさに磨きがかかるぞ。優子がそれでもいいのなら」
「そんなの……。いいに決まってるじゃないですか!」


……。

 

 



商店街で昼食をとり、公園で一休みしてから、俺たちは教会にやって来た。


「あら、ここにもいませんね」


優子は首を傾げる。

いないというのは、彼女が会っているという子供のことだろう。


「ガキなんだから、その辺で遊び回ってるんだろ」
「そういう子じゃないんですよ。公園にもいなかったし、施設のほうかな」
「言っておくが、俺は向こうには行かねえぞ」
「それはわたしだって──」


と優子が言ったとき、教会の扉が開いて小さな人影が現れた。

 



「あっ」

「あ、いたんですね未来」


優子が話しかけると、未来という女の子はみるみるうちに真っ赤になった。


「ゆうこ……」

「あら、どうしました?」

「……なんでもない!」


未来はそう言い放つと、俺の横をすり抜け、脇目もふらずに道路を渡って姿を消してしまう。


「ずいぶん嫌われてるんだな、優子」
「そうでもないはずなんですが……たぶん照れてるんでしょうね。この間泣いちゃったから。わたしと顔を合わせるのが恥ずかしいんだと思います」
「可愛いですね」
「というか、おまえ、ガキを泣かしたのか」
「子供は泣くものですよ」


泣かせたということは否定してない。

まあ、さっきの様子を見る限りでは照れてるというのも本当のようだ。


「でも、せっかく夕くんを紹介しようと思ったのに」
「紹介されてもコメントに困る。俺はガキは苦手なんだよ」
「女の子も苦手ですよね」


くすくすと優子は笑う。

もうすっかり元通りといった感じだ。

寝込んでたときのしおらしさはもうどこへやらだ。

優子はくいっと俺の袖を引いた。


「夕くん、わたし行きたい場所があります」
「付き合うさ」


デートなのだから、どこにだって連れて行く。

彼女とふたりなら、どこにでも行ける。

胸があたたかくなるような安堵感とともに、そんな確信が心に生まれていた。

 

…………。

 

 

……。

 

 



扉を開くと、凍りつきそうな風が俺たちを迎えてくれた。

 



「わっ、寒いっ」
「これは……さすがにキツくねえか?」


俺は顔をしかめる。

12月の屋上など、正気の人間が来る場所とも思えない。


「限界時間まであまり間がなさそうですね」
「いや、限界に挑戦したくねえよ」
「来たかったんですよ。わたしたちが再会した場所に」


優子は透き通った笑みを浮かべる。

怖いくらいになんの不純物も混じってない笑顔だった。

俺も優子も私服だったので、見つからないように学校に侵入、こそ泥のようなまねをしながら屋上まで来た。

だが、苦労した甲斐はあったかもしれない。

優子のこの笑顔を見られただけで、報われたような気持ちになれる……。

 



「ここからの風景、好きなんですけどね。こう寒いとのんびり眺めてられませんね」
「あたたかくなるのを待てばいいだろ。おまえはまだ1年なんだから、来年も再来年もある」
「そうですね……」


優子は頷いて、手に息を吐きかける。


「本当に寒いなあ。たぶんクリスマスも寒くなりそう」
「だろうな」
「夕くんは……クリスマスが嫌いなんですよね?」
「別にクリスマスそのものにはなんの恨みもねえよ。ただ……。ただ、そうだな。あれが起こったクリスマスも寒くて凍えそうだった。それだけのことだ」
「そうでしたね。あの日は本当に寒かった……」


ふう、と優子は小さく息を吐く。

白い息が風に乗って流れていった。


「わたし、ずっと前になにかで見たことがあるんです」
「なにを?」
「サンタクロースが海でサーフィンしてる写真です。なんかおかしくて今でも覚えてるんですよ」
「ああ、俺もどっかで見たことあるな」


英語の教科書かなにかに載ってた気がする。

 



優子はすっと身体を寄せて、手を重ねてくる。


「夏に迎えるクリスマスもいいですね」
「夏のクリスマスか……。そうだな、悪くない。夏は嫌いじゃないからな。いつかそういうクリスマスを過ごしてみるのもいいな」
「うん」

 



優子は満足そうに頷いて、街並みに視線を向ける。


「夕くん」
「ん?」
「わたし、あの子にクリスマスプレゼントをあげたいんです」


さっきのチビか……。

優子が思い入れを持っているのなら、俺に反対する権利もないし……。

俺にとっても施設の後輩だしな。


「それもいいな。俺はちょっとああいうガキが喜びそうなものって思いつかないけど」
「それはわたしが見繕いますよ。でも、一緒にあの子に渡しましょうね」
「ああ」


俺は空を見上げる。

クリスマスの日は優子と美味いものを食う。

それは確定で、あのクソ生意気そうなガキのために少しくらい時間を使うのもいい。


「クリスマスの日はバイト抜けられないけど、夕方までに上がれるようにする」
「はい」
「教会で待ち合わせよう。教会で会って、あのガキにプレゼント渡して、それから……」
「茜さんやご両親のお墓参りもしましょう。あそこの墓地に眠ってるんですよね?」
「そうだな。みんなの命日だもんな……」
「わたしもお母さんのお墓参りをします。ずっと言ってませんでしたから、そろそろ顔を見せてあげないと」
「全部終わらせたら、後はずっと優子と一緒に過ごすよ。ずっと優子と」
「はいっ……」


優子はまぶしいくらいの笑顔を浮かべて頷き──

 



突然。

なんの前触れもなく。

ゆっくりとその場に崩れ落ちた。

 



「優子!?」


倒れ伏した彼女のそばに駆け寄る。

 



「優子っ!」


優子の顔は血の気が引いて真っ青になっている。


「夕くん、声が大きいですよ……そうだ、保健室に──」「ちょっと疲れただけですから……保健室もお医者さんもいりません。少し休めば平気」
「のんびりかまえてる場合じゃねえだろ!」
「病気じゃないんです。病気じゃないから、心配しないで。ちょっとだけ休ませて……」
「優子!」


これはただごとじゃない──

単なる風邪なんかではなく、もっと他の異変が優子の身体で起こっている。

回復していないどころか、悪化しているんじゃないのか。

くそ、やはり外に連れ出すべきじゃなかった……!


「優子! 優子っ!」


自分の鈍感さに激しい憎しみを覚えながら、俺は何度も優子の名前を呼び続けた。


…………。

 


……。

 

 



19.いつか君と出逢うために
 To meet you someday.

 


夜半を過ぎて振り出した雨は朝になっても上がることなく、今も窓を叩いている。

 



優子の顔に表情はない。

澄み切った目をして虚空を見つめている。


「雨、止みませんね……。なんだか、いつまでも降り続きそう」
「クリスマスには晴れるさ」
「そうですね、年に一度のクリスマスくらい晴れてほしいですよね。あ、雪に変わってくれたらロマンチックでいいかも」
「そこまで都合よくはいかねぇよ」


俺は筆を動かしながら答える。

本当に久しぶりの水彩画だけど、調子は悪くない。

というより、自分でも怖いくらいに筆はスムーズに進んでいる。

上手く描こうとか、そういう欲を捨てたからか。

それとも、穏やかな優子の様子があまりにも絵になっているからかもしれない。


「リアリストですよね、夕くんは」
「なんせ苦労がしみついてるもんでな。その辺は仕方ないと思ってあきらめてくれ」
「いいですよ。そういうところも含めて夕くんですから」
「バカにされてるような気がするな」
「いやですね、わたしはつねづね火村先輩を尊敬しておりますよ」
「うさんくせぇ」
「本当ですよ」


ここで初めて優子は笑った。

今日──いや、昨日屋上で倒れて以来の笑顔だった。

俺は絵の中の彼女の瞳に筆を入れる。


「優子」
「はい」
「妊娠してるんだな?」

「……はい」


優子は小さく頷く。


──やっぱりそうか。


病気ではないという優子の言葉を信じるのなら、残された可能性はそう多くない。

それに加え、ここ数日の優子の様子を思い出してみれば他になにが考えられる?


「ずっと気づいてやれなくて……すまなかったな」


俺は筆を置き、頭を下げる。

自分のことばかりで、彼女のことをちっとも気遣ってやれなかった。

もう少し俺がしっかりしていれば、優子をこんなに苦しめることもなかっただろうに……。

 



「本当に……すまない」
「自分でもちょっと調子が悪いだけだと思ってたくらいです。仕方ないですよ」


そう言ってもらえると気が楽になる。

だが、楽になってる場合じゃない。


「身体のほうは?」
「ん-、今のところは少しだるいくらい。なんか波があるみたいですからね」
「それにしたって無理しやがって。デートなんかしてる場合じゃねえだろ」
「本気で大丈夫だと思ったんですよ。激しい運動はするなって言われましたけど、ただデートするだけですからね。まあ、わたしが人並み外れて身体が弱いのが誤算でした」


隠していたことを悪びれもしない。

もちろん俺も責めたりしない。

彼女を責める資格なんて俺にはないからだ。



「医者には行ったんだよな?」
「夕くんが学校に行ってる間にこっそりと。覚悟決めて行ったのに、やっぱり恥ずかしいですね、ああいうところは」


優子は自分の下腹部を軽く撫でた。

そこに……新しい命が宿っているのか。


「2ヶ月だそうです」
「となると、生まれるのは……来年の夏くらいか」
「産むとしたら、の話ですね」


あまりにもさりげない口調で優子は言った。


「優子、おまえまさか……」
「いえ、ちゃんとここにいます。すぐにどうにかできるものじゃないんですよ」


俺は安堵の息を漏らす。

早まったことをしないでくれたか……。


「夕くん、どうして安心してるんです?」
「どうしてって……当たり前だろうが」


優子は不思議そうに首を傾げる。

まるで、得体の知れない生き物でも見るような目。

なぜそんな目をするのだろう。

 



「わたし……。わたし、産みませんよ」


あまりにもはっきりと──

ひとかけらの迷いもなく、確かな決意とともに彼女は告げた。


「産まない……だと?」
「やだな、常識的に考えてそうでしょう? わたしたちはまだ学生です。ふたりで暮らしてるって言っても、自分たちの力だけで生きてるわけじゃありません。赤ちゃん抱えてやっていけると思いますか?」
「それは……」
「だいたい、夕くんの反応はおかしいですよ。もしかして産めって言うつもりだったんですか?」


とてもじゃないが、即答なんてできなかった。

頭の中をぐるぐる思考が巡る。

子供。

俺と優子の。

これは俺が招いた事態であり、彼女を苦しめたのは他でもない自分自身だ……。

 



「ダメですよ、あなたのいけないクセが出てます」
「え?」
「なんでも自分のせいにしてしまう……そうじゃないでしょう。あなたが無理矢理したわけじゃない。わたしだって納得していたことなんです」
「俺の責任だ」
「わたしを無視しないで。あなたのぬくもりを求めた気持ちをなかったことにしないでください」
「…………」


俺はまだ持ったままだった筆を置いた。


「夕くんがなにもかもしょいこまなくていいんです。もしも赤ちゃんができたことを誰かが責めるのなら、わたしも一緒に責められるべきなんです。ただ、考えなきゃいけないのはそんなことじゃなくて、現実的な解決方法ですよね……」


どんどん優子は話を進めていく。

もう今後のことは全部考えてある──と言わんばかりの多弁ぶりだった。


「お金なら少しはあります。堕胎は保険きかないから高いですけど、安いところを探せば……。手続きだってなんとかなるでしょう」
「待て」
「はい?」
「待てって言ってるんだよ!」


俺は優子の肩を掴む。

気持ちが高ぶるのを抑えられなかった。

たぶん、なにかが切れてしまったのだろう。


「わかってるのか、俺とおまえの子供なんだぞ!」
「わたしが一番よく知ってますよ」
「だったら、なんでだよ! なんで……殺さなくちゃいけねえんだよ!」
「生きていくためです、わたしたちが」
「だからって、だからって……殺していいわけねえだろう! どういうことかわかってんのか!?」

 



「わかってないのはあなたよ!」
「…………っ!」
「デザイナーになるんでしょう? 街を作りたいんでしょう? 勉強しなくちゃいけないことはいくらでもあるでしょう!?」
「もうそれどころじゃねえだろうが!」
「あなたのことだけじゃない、わたしの気持ちだって考えてよ!」
「おまえは……」


優子の気持ち。

俺と同じ気持ちでいてほしいと、そう望むのは間違っているのか。

都合のいい思い込みでしかないのか……?


「夕くん、なにもわかってない。わたしは……。母親なんかになりたくありません。わたしには……無理ですから……。だって……わたし……ダメ……」


優子の瞳からぼろぼろと涙が溢れる。

 



「なんで、今子供なんてできるの……? こんな傷だらけで醜くて……何もできないわたしに……」
「優子、もう傷のことはいい、考えるな」
「夕くんの邪魔になんてなりたくないのに、これ以上負担なんて……!」
「負担なんかじゃない!」
「だって、ずっと背負っていくんですよ!? もう跡が残って消えない傷もあるんです、兄さんがいなくなっても、消えない傷がここに! そんな身体の女だけでも大変なのに、その上子供まで……。あなたはどんどん前に進んでいく。いつもまぶしいくらいに輝いていて……。誰にだってわかります。あなたには未来がある。明るい未来がずっと先まで続いている……。邪魔なんてできない。なにもできないわたしが、こんなところで夕くんをつまづかせられない……。わたしには子供なんかより……夕くんのほうが大事。夕くんの未来を、わたしは守りたいんです……」
「違う……」


考えなんてまとまらない。

ただ否定したかった。


「違うっ!」


そうじゃない、と俺のすべてが優子の言葉を否定している。


「俺は……ずっと自分のためだけに生きてきた。辛いことを忘れたくて、上を目指して、俺みたいな孤児でも家族が揃ってるお幸せな奴らに勝てるんだって証明してやりたかった。だけど、もういい。優子を傷つけてまでほしいものなんてなにもない」
「夕くん……」
「もし子供を堕ろしたら、またおまえは傷ついてしまう。産めばその子が希望になるかもしれない。でも……殺したらそれで全部終わりだろ」
「いつかあなたはわたしを恨むわ。この女と子供さえいなければもっと違った人生があったって……きっとわたしをうとましく思う日が来る……。そんなの……耐えられない」

 



「そうじゃねえ。そんなことありえねぇよ」


俺は優子を抱き寄せる。

彼女の身体は細く、力が抜けていた。


「自分のために生きるのはやめる。これからは……おまえと子供のために生きる。でもそれは未来をあきらめることとイコールじゃない」
「え……?」
「俺はおまえも子供も守る。でも夢も叶えてみせる。少し遠回りするかもしれないけど、守るものがあるなら俺はもっと強くなれる。きっと……なれる。なってみせる」
「無理よ……」


優子は激しく首を振る。


「あなたは怖がってるんです。子供を殺してしまうのが。怖くて、まともに考えることができなくなってるんですよ。冷静になってください」
「冷静になんてなれるかよ。冷静じゃなくても、間違ったことは言ってねえよ」
「このわからず屋……!」

 



そのとき、信じられないものが見えた。


「おまえ、それ……」


優子が手にしているのは──いつか彼女があの男に向けたナイフだ。

 



「さっさと捨ててしまおうと思って、でもなぜか捨てられずにいたんです……。捨てなくて正解でしたね」
「危ないからこっちによこせ」
「手術なんてまだるっこしい……ここで始末をつけてしまいましょう」


待ってくれ。

まさか……。

そのナイフで……。


「バカ言え、できるわけねえだろ!」
「うまくいけば、邪魔者がふたりいっぺんにいなくなりますよ」
「誰が邪魔者なんて言った!」
「邪魔になってるのは事実よ! 望まずに生まれてくる子供なんて……可哀想です」

 



「────!」


くるりと手首を返して、優子がナイフを逆手に握る。


「優子っ!」


考える前に身体が飛び出していた。


「…………うぁっ!」


すさまじい音とともに、優子と床を転がる。

 



目の前で火花が散ったような気がした。


「ゆ、夕くん……」
「大丈夫か、優子……」

 



「手、手から……血が……それにすごい音が……」
「俺はなんでもない。どこも痛くなんかねえよ……」
「嘘、嘘よ……。早く手を離して!」


俺は左手でしっかりとナイフの刃を握りしめていた。

ぽたぽたと血が床に一滴ずつ落ちていく。


「まずは……おまえが離してくれねえとな」

 



「え? あ、ああっ」


優子はぱっとナイフから手を離す。

それだけで刃が少し動き、鋭い痛みが走った。


「…………っ!」
「夕くん……っ!」


優子は慌ててハンカチを取り出し、傷口にあてる。

 



「大丈夫だ、ちょっと皮が切れただけだ」
「嘘っ。だって、そんなに血が出てるのに……」
「血くらい出るさ。生きてんだから」


俺は無理に笑って、傷口を叩く。

嫌な汗が背中に滲んでくる。


「なあ、優子……」


しっかりと巻き付けられたハンカチがみるみる真っ赤に染まっていく。


「俺たちは色んなもんを無くしてきた。これ以上はなにも無くしたくねえし……。自分たちの手で大切なものを、希望を潰しちまうなんて無しだ。そうだろう?」
「大切な……もの……」
「奪われてばかりじゃない。自分たちで作り出すことができたんだ。すげえことじゃないか」
「わたしはなんにもできないのに。いつまでも痛みに怯えることしかできないのに……」
「おまえも強くなるんだ。母親になって……子供を守れる強さを手に入れろ。俺たちは昔、ひとりになっちまった」


あの震災が、一夜にしてすべてを奪っていってしまった。

だけど、今はもう住む家がある。

愛しい人がいる。

視線の先には確かな未来だって存在している。


「俺の親、おまえの母親、それに茜……。みんな生きたかっただろう。死にたくなんてなかっただろう。俺たちの子供だって──きっと生きたいって──そう思ってる!」
「夕……くん……っ」


優子はぼろぼろと涙を流し──


「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。わたし……わたし……っ!」
「生きていくんだ、俺たちは。誰も傷つけず、大事なものを守って──」

 



「夕くん……っ!」


俺は、すがりついてきた彼女のあたたかい身体を抱きしめる。

いや、優子と彼女の身体に宿る小さな命を──

ずっとこうして包んでいこう。

誰も彼女たちを傷つけないように。

 



「優子、あたたかいな……」
「夕くんも……あったかい」


気がつけば、もう雨の音はしない。

やがて雲が晴れて日が差してくるだろう。

このぬくもりを生まれてくる子供にも伝えたい。

人はぬくもりに触れて、初めてひとりではなくなるのだ。

ひとりではないという幸せを──俺たちの子供に教えたい。


……。