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-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【20】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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20.優しい世界
 The sweet world.

 

終業式の朝。

俺たちは学園への道を並んで歩いていた。

 



「うー……」
「震えてるな。そんなに寒いか?」
「ええ、ちょっと……」
「だからもっと厚着しろって言ったんだ。どっかで使い捨てカイロでも買ってくか」
「無駄遣いはできませんよ。平気、学校に着くまでの我慢です。夕くんこそ、手は大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
「本当ですか? やさ我慢とかしちゃダメですよ」
「ちょっとうずくくらいだな。終業式が終わったら病院に行くよ」
「絶対ですよ。それこそもったいないなんて言わないでくださいね」
「わかってるって」


俺が笑いかけると、優子はなんとも言えない複雑な顔をしていた。


「……ごめんなさい」
「いいんだよ」


あのナイフは今朝、川に捨ててきた。

なんだか殺人の凶器を処理するみたいだが、ゴミとして出すのもはばかられたのでそうするしかなかった。

永遠に発見されないことを願おう。


「なんにしたって、厚手の服は何着か買っておかないと。他にも色々いるよな。やっぱりちゃんと勉強しておこう。出産の手引き書みたいなもんって売ってるよな?」
「山ほど売ってますけど、もったいないから図書館で借りてきて勉強します。もう学校の勉強はしなくていいし、暇になりますからね」


そう──

優子は既に学園を去る決意を固めていた。

まずは雨宮のおじさんに話をしてから、その後で退学届けを出すという。


「やっぱり休学ってことにしておいたほうがいいんじゃないか? 確か、2年間休学できたはず……」



「2年後なんて、まだまだ赤ちゃんじゃないですか。この子に寂しい思いはさせたくありません。だからいいんですよ。わたしは夕くんと違って勉強なんて大嫌いですし、元から進学するつもりもなかったですから、別にいいんです。って、これ言うの何度目ですか?


優子はおかしそうに言った。

だが、俺としてはそう簡単に納得できることではないのだ。

学園をやめてしまえば、ゆうこのこれからの人生が大きく変わってしまうのだから。


「ついでですから、もういっぺん言っておきましょう。夕くんはやめちゃダメです。ちゃんと音羽を卒業して、進学するんですよ」
「わかってるよ」


それも何度言われたことか。

俺だけが学園に通い続けるというのは後ろめたいが、彼女自身がそう望んでいる……。


「だけどまあ課題は山積みだな……」
「1つずつ片付けていきましょう。しばらくは今までとかわらない生活ができますから、その間に考えればいいですよ」
「なんかおまえ、のんきというか開き直ってるというか」
「どちらも違いますね。母は強し、ですよ」
「なるほどな……」

彼女は状況を受け入れ、これからどうするべきか前向きに考え始めている。

俺もしっかりしなければならないのに、まだもたついている。

それに……優子にまだ肝心なことを言っていない。

必ずしも必要なことではないが、言わなければならないことが……。


「夕くん」
「え?」
「夕くんが心配してるのはお金のことですよね?」
「あ、ああ。現実問題として、一番の壁はそこだろうな。情けねぇけど」
「あら? 他にもなにか?」
「いや、最初に考えなきゃならねえのはそれだ」


優子はすぐにでもバイトをやめるので収入は大きく減る。

当面は俺が積み立ててきた学資を流用すればいいが、一時しのぎにしかならない。


「そのことなんですけど……どうにかなるかもしれません」
「待った、雨宮の家に援助を頼むつもりじゃないだろうな?」
「違いますよ。でも、まだ確実な話じゃないのでやっぱり話すのは後にします」
「なにかやばい話とかじゃねえだろうな?」
「人を裏社会の人間みたいに。違いますよ、変な話じゃありません」
「それならいいけど、話せるときがきたらちゃんと言えよ」
「わかってますよ♪」


……。

 

校門に人影はまるで見当たらなかった。

どうやら少しばかり早く着きすぎてしまったらしい。

 



「あら、もっとゆっくり来ればよかったですね」
「ま、早い分には問題ねえだろ」
「うーん……」
「なんだ?」
「ちょっと屋上に行ってみませんか?」
「またかよ、このクソ寒いのに。身体にもよくないだろ」
「少しだけ。少しだけならいいでしょう?」


そういう風にお願いされたら、俺は断れなくなってしまう。

たぶん優子はそのことをわかっている。


……。

 



「この景色も見納めですね」
「…………」


俺は複雑な気持ちになる。

この間は「来年も再来年もある」などと無責任に言ってしまったからだ。


「ここで天文部の先輩たちと一緒に星を眺めて、部が潰れて、夕くんと会って……なんだかもう遠い昔のことみたい。すぐにもっと遠くなってしまうんでしょうね」
「ここに来るだけならいつでもできるだろ。制服さえ着てればコソコソしなくてもいい」
「いいえ」


優子は首を振って、スカートのポケットから鍵を取り出した。

そして、それを俺に渡す。


「これ、夕くんに預けておきます」
「俺に?」
「上手く言えないけど……ここはわたしがひとりになるための場所でした。泣いてしまっても誰にも見られないで済む場所」


俺と再会するまで彼女はこの場所でなにを思っていたのだろう。

それを考えると切りつけられたような痛みが走る……。


「でも、もうわたしはひとりじゃないし、泣いたりもしない。大切な人とも出会えました……」


俺の目をじっと覗き込んで優子は笑う。


「だから、いらないんです。誰か必要としてる人にあげたいけど、心当たりがないからあなたに預けておきます」
「わかった。預かっておく」


俺は頷いて、鍵をしっかりと握る。

ここは悪くない場所だ。

いつまでも俺たちが独占するのも良くないだろう。

俺たちは場所なんてどうでもよくて、ふたりでいるだけで満足できるのだから。


「ねえ、夕くん」
「ん?」
「この鍵が人から人へと伝わっていって……ずっと先にこの子が受け取ったりしたら面白いと思いません?」


優子はお腹を押さえながらにこにこ笑っている。


「となると、音羽に入れる程度の学力は身につけさせなきゃいけねえな」
「夕くんって厳しいお父さんになりそう……」
「賢く育つに越したことはねえだろ」


優子は苦笑いする。

彼女は子供をのびのびと育ててやりたいのだろう。

まあ、教育方針を考えるのもずっと先のことだ。


「よかった」
「え?」
「あなたとここで再会して、恋をして、結ばれて──色々なことがあったけれど」


俺は黙って続きを持つ。

しかし、彼女はいつまで経っても口を開かなかった。


キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン。



「あら、予鈴ですね」
「って、なんだったんだよ」
「あは、わたしでも言えないことってあるものです」
「……いいけどよ」


どうせ、俺がリアクションに困るようなことを言おうとしてたのだろう。

それなら胸に秘めておいてくれて正解かも。

悪いが、俺は甘ったるい会話に耐えられる性格ではないのだ。


「いきましょう、夕くん」


差し出された優子の手を握る。

この手を守っていかなければならない。

決して離さずに、ずっといつまでも。


…………。

 

……。



1日は穏やかに過ぎていく。

2学期最後のHRが終了し、教室は喧噪に満ちていた。

凪は、担任から受け取った成績表を一瞥(いちべつ)して、

 



「僕は生涯を芸術に捧げよう」


と、遠い目をしていた。

俺はといえば、1学期と成績はまったく変わらず、オール10。

 



「ちょっと勉強できるからっていい気になるなよ……」


恨めしい目をされた。


「おいコラ、俺はいい気になんてなってねえよ」

 



「そうそう、夕くんはいい成績取って当たり前と思ってるんですよね」


なぜか優子は1年のくせに普通に俺たちの教室にいる。


「それをいい気になってるっていうんじゃないのか?」

「なるほど、鋭いですね。ですけど、凪さんは夕くんと違って絵の才能はとんでもないんでしょう?」

「うん、はっきり言って、世界をねらえる器だな」

「自分で言うか……?」

「そうだよな、僕の絵は世界をねらえるけど、夕がどれだけ頭よくてもノーベル賞とれるわけじゃないものな」

ノーベル賞なんてものを持ち出してきやがるか」

「最後に笑うのは僕だからな。覚えておけよ」

「むきになるなよ……たかが学校の成績ごときで」

「そういうこと言うのが嫌味なんだよ」

「まあ、夕くんには悪気はないんだと思いますが」

「なお悪いだろう、それは。だいたい音羽はレベル高すぎるんだ」

「それくらいわかってて入ってきたんだろ。そんなこと言うくらいなら、なんでこの学園選んだんだよ」

「制服が可愛いから」

「…………」

「…………」

「おまえらしからぬ普通な理由だな……」

「なんて失礼な」

「あはははっ。やっぱり、先輩方は仲がよろしいですね」

「どこが──」


と、つっこみかけて、俺はあることに気づいた。


「ん? ちょっと待てよ」

「どうかしたのか?」

「なんか俺と凪のことばかり言ってるけど、優子は成績どうだったんだ?」

「それでは優子はお友達と約束がありますので……」

「待てっつってるだろ」


逃げ出そうとした優子の襟首を掴む。


「きゃーっ」

「逃げられると思うなよ」


学園をやめるにしても、それはそれ。

勉強を教えてやった身としては、優子の成績は気になる。


「お、ゆこちゃんは僕の仲間か」

「嬉しそうな顔しないでくださいよ。特別良かった科目はないですけど、ボロボロだった科目もないですよ、わたしは」

「自慢になるか、そんなもん」


俺に教師としての力がないのか、それとも優子が学習能力ゼロなのか。

かなり時間の無駄遣いをしてしまったようだ……。


「けどまあ、いいか。優子、約束があるんだよな?」

「ええ、ちょこっと」

「だったら行ってこい。ちょこっとじゃなくて、たっぷり遊んでくればいい」

「あら」

「ただし、無理はしないようにな」

「ゆこちゃん、夕はなにか悪い物でも食べたのか?」

「わたしと同じ物を食べてるはずなんですけどね……」


失礼な女がそこに二人いる。


「それでは、夕くんの頭は心配ですけど、わたしはこの辺で。凪さん、夕くんのことよろしくお願いしますね」

「ああ、任せてくれ」


……なにを任されたんだよ。


「では♪」


ぺこりと一礼して、優子は教室を出て行った。

 



まあいいか。

成績のことも失礼な態度も水に流してやろう。

ゆっくり友達と遊ぶ機会もこれからは減っていくだろうから、今のうちに楽しんでくればいい。

 



「ふうん」

椅子に座りなおして凪が俺を見上げる。


「なんだよ、ふうんって」
「いや……」


凪は微笑んで、俺の背中をぽんぽんと叩く。


「夕はやっぱりいい男だな」
「……なに言ってんだ、バカ」
「本当のことを言っただけだ、バカ」

 

…………。

 


……。

 



本日は昼からバイトが入っているため、凪とのデッサン修行は断り、商店街に向かう。


……。

 



年の瀬が近づくにつれて、客足は増える一方だ。

 

……。

 



休憩など一切なしで閉店時間まで馬車馬のように働き──

 



片づけと掃除が終わった頃には、くたくたで動けなくなってしまう。


「くたばってる場合じゃねえよな……」


……。

 



気合いを入れ直し、マスターに挨拶して店を出た。


…………。

 


……。

 

 



「もうそろそろ休んだらどうですか?」


ぺたんと隣に座って、優子は言った。

 



「あれ、おまえまだ起きてたのか」


俺はノートから目を上げて答える。

時計を見ると、もう日付が変わっていた。


「本当に集中力すごいですね……。ここまで周りが見えなくなっちゃうなんて」
「この集中力がデッサンのときにも発揮できればな……」
「そっちはまだ始めたばかりじゃないですか。これから、これから」
「そういうことにしとくか」


優子ののんきさに苦笑いして、ノートを閉じる。

今日はバイトがきつかったし、ほどほどでやめるのもいいだろう。


「お茶でも淹れましょうか?」
「ああ、そうだな。……いや、もう寝るか。俺が起きてるとおまえ、寝そうにないし」
「あら、バレました?」
「わかるに決まってんだろ。余計なとこで無理をするなよ」
「いやー、夕くんの真剣なお顔につい見とれちゃってまして」
「おまえな……なんでそうリアクションに困るようなことを言うんだ?」
「うーんと。困らせようとしてるからでしょうね♪」
「あー、そうかよ」


まったく、いい性格してるよな。

 



「さ、それではお布団敷いちゃいましょうか」

 



優子が自分の布団に入るのを確認してから、俺も横になった。

布団の中は少し冷たいけれど心地よく、一気に力が抜けていく。

自分で思っていたよりも疲れていたらしい。


「…………」


目を閉じるだけでこのまま眠りに落ちていけそうだ……。


「夕くん」
「…………ん?」
「あのー……」
「なんだよ」
「実はお願いがありまして……」
「ああ、どうした?」
「えーと……。そっちへ行ってもいいですか?」
「…………は?」


思わず耳を疑ってしまう。

だが、聞き間違いとは思えない。


「いやあ……別にいいけどさ」


おれはちょっと焦りながら答える。


「俺もよく知らねえけど、特に今のうちはそういうことは避けたほうがいいんじゃないのか?。それに俺も疲れてるし……」
「夕くん、なにか勘違いしてません?」


闇の向こうから呆れたような声がした。


「わたし、ただ夕くんのお布団に入りたいって言ってるだけなんですけど?」
「…………まぎらわしいことを言うな」
「勝手に勘違いして怒らないでくださいよー」
「怒ってねえよ」


自分が赤面してるのを感じながら、俺は優子に背中を向ける。


「夕くんってばエッチなんですよねー」
「いいから黙って寝ろよ」
「えっ、わたしのお願いは?」
「勝手にしろよ」


背中を向けたままで言い放つ。

くそ、我ながらとんでもないミスだった。


「じゃ、失礼しまーす」


ごそごそと音がして、布団がめくりあげられた。

そして、優子が潜り込んでくる。

 



「ふふふふふ……」
「なんだ、その変な笑い声は」


優子は俺の背にぴったりと身体を寄せてきた。

柔らかい胸の感触が伝わってくる……。


「…………」
「ごめんなさい」
「どうして謝ってるんだよ」
「そういうのは……もうちょっと我慢してください。今は控えたほうがいいみたいなんで」
「……わかったよ」


少し高ぶっていた心が落ち着いていく。

彼女のためなら、欲望だって抑え込んでみせる。


「優子」


俺は寝返りを打って、優子と向き合い、彼女の身体を抱きしめる。

 



「あ……」
「あたたかくしたほうがいいんだろ?」
「はいっ」


優子の嬉しそうな声。


「体勢、苦しくないか?」
「ええ、平気です。やっぱり無理してお布団もう一組買わなくてもよかったかもしれませんね」


彼女がさらに身体を寄せてくる。


「ほら、ふたりで一つの布団のほうがいいじゃないですか」
「毎晩はキツいだろ。狭いし」


というのが、布団を買うときの建前だった。

実のところは、一緒に暮らすとはいえ、布団が一つだけ──というのは、どうも落ち着かない気がしたのだ。


同じ布団で寝ていれば、欲望も抑えられなくなる。

毎晩そんな状態では、俺も優子も参ってしまう。


「たまにはいいけどな」
「わたしはいつもこうしていたいです。夕くんと──ずっと一緒がいいです。こうしていれば──夢の中でも一緒にいられそう」
「おまえはまたそういう恥ずかしいことを……」
「……わたしだって恥ずかしいんですよ」
「じゃ、言うなよ」
「だって」

 



優子は軽く唇を合わせてきた。

 

「だって、本当のことですから」
「……バカだな」


今度は俺のほうから口づけて、しっかりと優子を抱きしめる。

そうだ、これからは毎晩一緒に眠ろう。

身体を寄せ合い、しっかりと手を握って。

朝が来るまで、決して離れることなく。


…………。

 

……。

 

 



21.天使の階段
 Angel'stairs.

 

俺はたぶん多くのものを望んでいた。

失ったものが多すぎて、それを埋めようと必死だったのかもしれない。

埋められると思っていた。

どんなときも、なにがあっても乗り越えてきたのだから、これからも大丈夫なのだと。

そう信じきっていた……。

 

……。

 

 



クリスマスの朝。

だけど、いつもとなにも変わらない当たり前の朝。

彼女に起こされ、あたたかい朝食をふたりでゆっくり食べる。


ごちそうさん

 



「はい、おそまつさまでした」


優子はさっそく俺の食器を引き寄せ、盆の上に置き始める。


「後かたづけくらい俺がやるよ」
「病人扱いしないでくださいよ」


かすかに苦笑いして、優子は俺を制する。


「それに、今日は調子がいいんです」
「最初のうちはおとなしくしてたほうがいいんじゃなかったか?」
「皿洗いくらいなんの問題もないですよ。いいから、お任せください」
「……調子の悪いときはちゃんと言えよ」
「ええ、わたしだって無理はしたくないですから」


にっこりと優子は笑う。

そうだな……しっかりと見ておいて、無理をするようなら止めればいい。


「夕くんのほうこそいいんですか?」
「俺?」
「今日は早めに入って仕込みから手伝うんでしょう? のんびりしてていいんですか?」
「あっ」


時計を見ると、思っていた以上に時間が過ぎていた。


「ちょっとやばいかも」
「ほらほら、急ぎましょう。後は全部わたしがやっておきますからご心配なく」
「悪いっ」


俺は言って上着に袖を通す。

立ち上がりかけて──


「今日の待ち合わせ、わかってるよな?」
「ええ」
「ちゃんと時間どおりに上がるつもりだけど、もしかしたら……」


優子はこくりと頷く。


「クリスマスですからね。お客さんも多いでしょう。マスターさんは帰らせてくれるでしょうけど、忙しいようなら仕方ないです。多少の遅刻は目をつぶりますよ」
「本当に悪い。どっちにしてもちゃんと教会の中で待ってろよ。あそこも悪いけど、外よりはマシだ」
「はいはい、わかってますよ」


すっと顔を近づけてくる。

 



「待ってますから」
「長くは待たせないからな」
「はい……」


俺は少し屈んで、優子に口づけする。

ちょっと冷たいけれど、柔らかな唇。

いつまでもこうしていたいと思う。


「……んっ」


だけどそうはいかない。

生きていくために働かなければならないのだ。


「優子」
「はい」


いつもと変わらない朝。


「今日の朝メシは……美味かった」


だけど、クリスマスだから……少しだけでもいつもと違う朝にしてみたくなった。

 



「あら。あらららら?」
「うるせーよ」


やっぱり言うんじゃなかった。

こいつももう少し可愛げのある反応をしてくれればいいのに。

 



「もう行くぞ、俺は」
「ちょっと待ってください、夕くん」


優子はやさしく言って、俺の手を掴んだ。


その手をみずからの下腹部に導く。

 



「ほら、パパに言いなさい。いってらっしゃい……って」


まだ宿ったばかりの小さな命。

触れてみたってなんにもわからないはずだ。

なのに、なにかを感じる。

そこには──確かに新しい生命が脈打っていると。


「いってくる」
「はい、いってらっしゃい」


手を振った優子の顔はいつもと違っていた。

あまりにも深い優しさに満ちたその微笑み。

そうか、彼女はもうとっくに──

母親になっているのだ。

 

…………。

 


……。

 

 



朝食の片づけと洗濯を済ませると手持ちぶさたになってしまった。

掃除は夕くんが早起きして済ませてしまっている。

それくらい、わたしに任せてくれればいいのに。


「こんなにのんびりしてたら太っちゃいそう……」


産婦人科で少し話したおばさんは、出産後はなかなか体型が元通りにならなくて困ったそうだ。

わたしもそうなるんだろうか。

なんて恐ろしい話だ。


「はーっ……」

 



すぐそばに、夕くんが図書館で借りてきた出産のマニュアルが積まれている。

実を言うとあまり読む気がしない。

わたしが考えなければならないのは、雨宮の養父母をどう説得するかであり──

説得できたところで、その後どうやって生活していくかだ。


「仕方ないですよね……」

 



わたしはつぶやいて、勝手に使わせてもらっている棚を開け、衣類をどけると小さな封筒が現れた。

封筒の口を開け、中身を取り出す。

わたし名義の預金通帳とハンコ。

あの人とともに焼け落ちてしまった雨宮の家。

その焼け跡から出てきた金庫の中から見つかったものだ。


「兄さん……」


わたしはこの通帳の存在を知らなかったけれど、おじさんは"これは優子のものだ"と言った。

口座には、決して少ないとは言えない額が入っている。

思えば、あの人は特に趣味らしい趣味もなく、毎日煙草をふかしているだけだった。

生活費以外にほとんどお金を使わず、わたしの口座にお金を振り込み続けていた……。

おそらく、わたしの将来のために。


「なんなんでしょうね……」

 



なにを考えていたのだろう、あの人は。

今でも許す気持ちはまったくない。

だけど、わたしを憎んでいただけではないと──やっぱりそうも思えてしまう。

このお金のことを夕くんに話したらどうなるんだろう?

たぶん夕くんは使おうとしない。

これを使えば楽になるとわかっていても。

 



「……うん」


わたしはお腹をそっと撫でる。

この子は夕くんとわたしの子供だ。

だから、わたしたちの力で育てるんだ。

それが大人になるということ。

人の親になるということ。

夕くんとわたし、生まれてくる子供の3人で支え合うんだ。

わたしたちは──

家族になるのだから。


…………。

 

……。

 

 

 

 

怒涛のような忙しさだった。

店は常に混みあっていて、やむをえず相席をお願いすることもしばしば。

普段はウェイターと皿洗い、それに簡単な飲み物を作るだけだが、そうもいかなかった。

パスタやサンドウィッチを作り、店内を駆け回る。

辛いとは思わない。

これが終われば夕子とゆっくり時間を過ごせるのだ。

彼女と一緒にクリスマスを──

 

…………。

 

……。

 



買い物を済ませ、わたしはクリスマスの街を歩く。

あちこちから音楽が聞こえ、道行く人々はみな楽しそうだ。

 



街は活気に満ち、今にも雪が降りそうな寒さを誰も気にしていないかのよう。


「ふう……」


思わずため息が出た。

さっきの買い物で先月分のアルバイト料はほとんど使い切ってしまった。

クリスマスだから。

とりあえずそれで自分を納得させる。

年に一度だけのことなのだから、あまり気に病むのはやめよう。

 

……。

 



「いない……」


公園にいるのはカップルばかりで、未来の姿はどこにもない。

また教会のあたりをうろうろしているんだろう。


「子供って人の話聞きませんからね……」


叱られた直後は言うことを聞いてもすぐに忘れてしまう。

だから大人が見守ってあげないと。

 



「────っ!?」


ふと、なにかがすごいスピードで頭をよぎっていった。

 



今のは……なんだろう?

ひどく懐かしい誰かの顔と──わたしを呼ぶ声が聞こえたような。

誰なの……?


……。

 



どうしても思い出すことができなかった。

だけど、間違いなくわたしが知っている誰かだった。

あまりにも一瞬のことだったので、顔も声も、もうわからない。


……。

 



教会の建物が見えてきた。

もうあきらめよう。

いつか思い出すこともあるかもしれないし……。


「……あら?」

 



道路の向こう側、教会の前に未来がいた。


そして、未来の隣には同い年くらいの女の子がいて、なにか話している。

 



未来ははにかみながらも、楽しそうな顔。

あの子にも友達ができたんだ……。


「よかったですね、未来……」


ちゃんと友達が作れるようになったのなら、未来はもう大丈夫。

きっと、あの子の毎日は楽しいものになる。

 



二人はしばらく楽しそうに話してから、友達のほうが手を振って、どこかに歩いていった。


「あ!」


未来がこちらに気づいた。

驚くほど明るい顔をして──


はっとしたようにうつむいてしまう。


「まったく、意地っ張りですね。なにしてるんでしょうか……」


一人になった未来は、落ち着きなく、きょろきょろと視線を動かしている。

しばらくそうしてたかと思うと。

 



やがて、思い切ったようにこちらに向かって歩き出した。

わたしを見るのが恥ずかしいのか、ちゃんと前を向いていないので、ものすごく危なっかしい。


「しょうがない子ですね……」


わたしも彼女のところへ一歩を踏み出した、その瞬間に──

 



高く響くエンジン音が聞こえた。


「ん?」

 



「…………っ!」


未来がのんびり顔を上げる。

 



そのときには既に──黒い車体が絶望的な距離まで近づいていた。

時間が止まったような気がした。

目の前の光景が──すべてが驚くほど鮮明に見える。

未来は大きな目をいっぱいに見開いて、迫り来る危機を見つめている。

凍りついてしまったかのように、彼女は動かない。

甲高い音が響いて、タイヤが激しく軋む。

 



間に合わない。

間に合うはずがない。

未来の口が小さく開かれた。

彼女はなにかをつぶやいたようだった。

だけど聞こえない。

なにも聞こえない。

いつまでも続くと思われた一瞬が終わろうとしている。


終わって……しまう……。

 

…………。

 

……。

 

 



のんきなクリスマスソングを聞き流しながら、俺は小走りに商店街を進んでいく。

さすがに今日は人手が多く、歩くのも大変だ。


──「わっ」


「あ、すみません」


と頭を下げかけて、相手が誰なのか気づいた。

 



「なんだ、凪じゃねえか」


と言いつつ、俺は右手を背中に隠す。


「……僕なら謝らなくてもいいとでも?」

 



「いや、そうだな。悪かった」
「別にいいが……君はなにしてるんだ?」
「なにって、急いでるんだ」


俺はさっさと歩き出し、なぜか凪も早足でついてくる。


「おまえこそなにしてるんだよ」
「僕はただ暇つぶししてるだけだ。今日デッサン休みたいって言ったのは、ゆこちゃんとの約束があるからじゃないのか?」
「だから急いでるんだよ」
「なるほど、納得だ」
「わかってくれてよかったよ」
「夕、ちゃんとプレゼントは買ったのか?」
「おまえに心配されるようなことじゃねえよ」


言われるまでもなく、それくらいは準備している。

結局、マスターは予定の時刻に帰らせてくれたが、プレゼントを選んでいて時間をくってしまったのだ。


「夕は変なところで気が利かないからな。なにを買ったんだ?」


さっきから凪に見えないように隠していたのだが、無駄だったらしい。


「まさか、師匠である僕に隠し事はないだろう?」
「……笑うなよ」


ここで長々と押し問答をやるのはゴメンだ。

俺はあきらめて、渋々右手を差し出す。

 



「…………ほー」
「なんだよ、その反応は」
「いいや、まさか夕が花束とはね……」


束と呼ぶにはあまりにも数が少ないが、俺が出せる精一杯の金で買ったものだ。

墓参り用の花とどちらを買うか迷ったけれど。

だけど、俺が喜ばせてやりたいのは優子なのだから。


「花束なんて、火村夕に一番似合わないアイテムだな」
「余計なお世話だ」
「でもな。優子ちゃんには似合うよ」
「え……?」
「優子ちゃんには花がよく似合う」
「本当にそう……思うか?」
「もちろんだよ」
「……まったく、どこも混みすぎなんだよ。花を選びたくても人が邪魔で全然見られねえし、レジは行列できてるし」


俺は照れ隠しに早口でまくしたてる。


「僕に言われても困るんだが」
「せっかく現れたんだから八つ当たりの相手くらいにはなれ」
「とてつもないワガママだな……」
「というか、おまえはどこまでついてくるんだ」
「君たちのデートを邪魔する気はない。ここで別れよう」


そう言って、凪は足を止めた。


「そうか。んじゃあな」


と、立ち去りかけて、ふと思った。

さすがに凪には妊娠のことを話しておくべきなんじゃないか?


「どうかしたか?」
「……いや、なんでもねえ」


今日は急いでいることだし、また今度でもいいだろう。

慌てて伝える必要があるわけでもなし。


「気にしないでくれ、俺は行くから──」
「…………」
「?」


凪の目はこっちを向いてなかった。

 



空を見上げ、ぽかんと口を開いている。


「なんかあるのか?」


俺は凪の視線の先を見る。

そこには──

 



「あれは……?」


遠い空の分厚い雲の切れ間から幾筋もの光が差し込んできている。

どこか現実離れした──幻想的な光景だった。


「天使の階段……だな」
「天使の階段?」
ヤコブのはしごとか、天使のはしごとも言うかな。あの光の中を天使が上り下りしてるんじゃないかって考えた人がいたんだろ」
「天使か……。凪、よくそんなこと知ってるな」
「さらにレンブラント光線とも言うんだ」
レンブラント? あの画家のか?」
「他にいないだろ。彼の独特な光線の使い方に似ているからそう呼ばれることもあるらしい。僕も画家を目指す人間の端くれだからな、それくらいは知っている。だけど、僕は天使の階段という呼び方が一番好きだな。ほら、どことなくロマンチックな響きがあるだろ」


天使の階段……。

言われてみれば確かにそう見えないこともない。


「そうだな、それが一番この光景にふさわしそうだ」
「だろう? というか、僕が言うのもなんだが」
「あん?」
「夕、君は急いでるんじゃなかったのか?」
「あっ!」
「さっさと行ってやれ。余計なことを言ってすまなかったな」
「いや、珍しいものが見られたしな。気にしなくていい。それじゃあな」

 



俺は走り出す。

とはいうものの、こんなところで空なんぞに見とれてる場合ではなかった。

優子が教会で待っているんだ。

 

…………。

 

……。

 


誰かが泣いている。

悲しい──泣き声だ。

やめて、お願いだから泣かないで。

 



「…………ん」


目を開けると視界がぼやけていた。

頬に冷たい地面の感触がする。

どうやら地面に倒れてしまっているようだ。

手が動いてくれない。

目をこすりたくても、まるで身体が言うことをきかない。

 



「おねえちゃん!」
「み……き?」
「おねえちゃん、おねえちゃん!」
「よかった……やっと呼び捨て……やめて……くれましたね……」


この子にだけは無様な姿を見せたくない。

 



わたしは力を振り絞って立ち上がる。


「……くっ」


崩れそうになる膝に力を入れる。


「ダメ、おねえちゃん寝てなくちゃダメだよ!」
「道路で……寝たりしちゃいけないんですよ……」


未来の頭に手を置いて、髪を撫でてあげた。


「お、おねえちゃん……だって……車に……」


そうか──


少しずつ記憶が戻ってくる。

未来を思いっきり突き飛ばして……それから……。


「車……に、にげちゃって……」
「未来、ケガはないの……?」
「へ、へいき。でも、おねえちゃん……」
「未来が無事ならいいんですよ……。ほら、わたしだって」


あの車の運転手は、わたしたちが死んだと思ったのかもしれない。

だったら仕方ないことだ。

人を殺すのは恐ろしい。

だから、わたしもずっとあの人に刃を向けることができなかった。


「あ、きゅうきゅうしゃ! きゅうきゅうしゃを……」
「大丈夫……。あわてないで。わたし、こう見えてもけっこう丈夫なんです……。痛いのなんて全然平気ですよ……」
「ほんとう……?」
「未来に嘘はつきません」


さっきから肩に鈍い痛みが走っている。

たぶん、肩が外れているか……もっとひどいことになっているかも。

 



「でもちょっと……ここは寒すぎますね。中に入りましょう……」
「おねえちゃん……っ」


…………。

 

……。

 

 



夏に迎えるクリスマスもいいですね──

歩きながら、俺はふと彼女の言葉を思い出した。

振り返ってみれば、優子からあの震災の話を聞いた記憶がほとんどない。

ひとりで母親の帰りを待っていた──


あの男はそう言っていた。

寒かっただろう。

寂しかっただろう。

だから彼女は夏のクリスマスに憧れているのか。

いつか一緒に過ごしたい。

彼女と、夏のクリスマスを──

 



もうすぐ教会だ。

もう一度ちゃんと約束しよう。

何年先になるかわからないけど、夏のクリスマスが過ごせる場所に彼女を連れて行くと。

喜んでくれるだろうか。

 



教会が見えた。

待たせてしまったことを、まずは謝らないとな。

それからプレゼントと花束を渡して──

どうしようもなく照れくさいけれど、言わなくては。

彼女に、あの言葉を。


…………。

 

……。

 



いつも悲しいことばかりだった。

寂しくて寂しくて、ひとりぼっちで、泣いてばかりいた。

でも今は違う。

凪さん。

久瀬先輩。

クラスのみんな。


「おねえちゃん……」


未来もいる。

そして──

 



夕くん。

夕くんとわたしの赤ちゃん。

わたしには大切にしたいものがたくさんある。

もう寂しくなんかない。


「ああ、そういえば……未来……あなた、お友達ができたんですね」
「え? あ、うん……」
「お友達は……大切にしなきゃいけませんよ……」
「うん……うんっ」


未来は必死に頷いている。

 



「そうだ、あなたに……プレゼントがあったのに……。どこにいったのかしら……」
「そんなのいいから!」
「後で探しにいきましょう……」
「そんなの……いいから……」

 



「未来。いけませんよ、そんな顔してちゃ……。女の子はいつもにこにこ笑ってるのが一番です……」


わたしは未来の頭を軽く撫でてあげる。


「未来、ちょっとだけ待っててね」
「……え?」

 



身体がうまく動いてくれない……。

違う、身体の感覚がまるでなくなっているのか。

もう肩の痛みも消えてしまった。

足ってどうやって動かしていたっけ……?

 



そんなことを考えながら、少しずつ進んでいく。


「あら……?」


足下が……赤い。

これは……。


「血……?」


言うことをきかない手をなんとか動かして、頭に触れてみる。

触っても痛くもなんともない。

なんともないのに……。


「あは……」

 



手のひらは血で真っ赤に染まっていた。

血の量そのものは大したことないと思う。

 



だけど……。

わたしの中からなにかが確実に失われつつあるのを感じる。


「おかしいな……」


だけど、疑問もすぐにどこかへ飛んでいってしまう。

なにも考えられなくなっている。

祭壇の前。

よかった、たどり着けた……。

 



「……っ」


目がかすむ。

もうほとんどなにもわからない。

何度も意識が途切れそうになる。

だけど──


「わたし、やっぱりあなたなんか信じていません……。でも、もし……。もしも、あなたが本当にいるのなら」
「おねえちゃん、やだよっ!」


そう、未来とも約束した。

いなくならないって約束した。

 



「わたしは……。わたしは死にたくない……っ。話したいことが……まだまだたくさんあるんです。もっともっとわたしのことを……知ってもらいたいんです。わたしの想いを……伝えたいんです……っ」


両手を組み合わせ、祭壇を見上げる。

 



「この子と一緒に待ってるって……約束したんですよ……。なんでもします……だから……だから……。もう一度、わたしたちを夕くんに合わせて……!」


視界が白く染まった。

一面がひたすらに真っ白な世界。

わたしは……どこにいるの?

どこからか──

どこからか、子守歌が聞こえる。

柔らかく響く、儚げな歌。

穏やかで、すべてを包み込むような……。

歌っているのは誰?

歌っているのは……

わたしだ。

わたしが知らないわたしが──いる。

 



日だまりの中で、小さな命を抱きかかえているわたしが。

泣いている赤ちゃん。

赤ちゃんをあやす歌声。

メロディは静かに流れていく。

まだ赤ちゃんは泣いている。

小さな手足をばたつかせている。

それでもわたしは微笑みを浮かべて──

ふっと顔を上げる。

 



あの人がそばにいた。

 

「笑ってるな」
「え?」
「ほら、こんなに嬉しそうにしてるじゃないか」
「あら、本当ですね。さっきまで泣いてたのに」
「お母さんの歌が好きなんだろう」
「いい子ですね」
「ああ、いい子だ」


ささやかだけど、満たされた毎日。

長く長く、いつまでも続いていく、あたたかな時間。


「ずっと一緒ですよね。この子と、わたしとあなたで……」
「そうだ、一緒だ。ずっとな」
「はい……」


伝わってくるぬくもりに、涙がこぼれそうになる。

もうひとりぼっちじゃない。

わたしたちは家族になって……。

そして……。

すぐそばにある。

狂おしいほどに愛しい未来がすぐそばに。

夕くん、早く来て……。

あなたの声を聞かせて……。

ここは寒すぎるから。

あなたの腕に抱かれたい。

ちゃんと待ってますから。

約束どおりに、ここで……待ってますから……。

 

…………。

 

……。

 

 



最初に目に映ったものは。

散乱したゴミのようなもの。

よく見れば、それが人形の部品だということがわかった。


「なんだ……これは」


そして、地面にしみのような痣が残っている。

これは……血の痕じゃないのか?

破れた紙袋を見つける。

 



拾い上げて中を見てみると。

ずたずたになったマフラーが入っていた。


「誰の、落とし物だ……?」


どくんと心臓が跳ねた。

ひたひたと胸に満ちてくる予感を、必死にはねのけようとしてる自分がいる。

 



血の痕は教会の中に続いている。

俺は一歩一歩近づいていく。

あの扉の向こうになにがあるのかを──確かめるために。

きっと、優子は首を長くして待っている。

身体を冷やしてなければいいが。

扉を開ければそこに優子がいて、


──遅いですよ、夕くん──


にっこり笑ってそう言うに決まっている。

そうに決まってるじゃないか……。


これ以上待たせられない。

優子は寂しがり屋だから、早く行ってやらないと……。


震える手を伸ばし、教会の扉を開いた──

 

ひとりの女の子がいた。

彼女には悲しいことがたくさんあって。

いつも泣いていたんだと思う。

泣いて泣いて、それでも彼女は優しさを失わなかった。

優しくて、可愛くて──どこにでもいる普通の女の子だった。


「なのに……」


笑顔で毎日を過ごしていけるはずだったのに。

 



「どうして、おまえが……」


声が震えてしまう。


「どうして……」

 



華奢な身体を抱きかかえ、問いかける。

彼女の頬は柔らかくてあたたかい。

こんなにもあたたかいのに、なぜ──

なぜ、目を開けてくれないのだろう。


「おねえ……ちゃんは……?」


呆然と立ちつくしていた少女がつぶやく。


「車が……おねえちゃん、わたしを……たすけて……おねえちゃんが……」
「悪いけど……」


そんなことどうでもいい。

そんなことが聞きたいんじゃない。


「救急車、呼んできてもらえないか。施設のほうに……誰か大人がいるよな」


優子の顔を見つめたまま、少女に語りかける。

いや、自分でも声を出せたのかわからない。


「…………っ」


どうやら聞こえたらしく、少女は慌てて駆けていく。

ふたりきりになった。

教会の中は時間が止まったかのように静かだ……。

 



「優子……」


もうわかっている。

ただ眠っているように見える、穏やかな顔。

俺が聞きたいのは彼女の声。

だけど。

優子は──ここにはいない。

どこにもいない……。

どこにも……。

 



「ゆう……こ。どこに行っちまったんだよ……っ! 待ってるって……言ったじゃねえかよ……! 約束……しただろ……っ!」


彼女の身体を強く抱きしめる。


「これから3人で……家族に……。家族に……っ!」


言葉は喉に詰まって、行き場を無くしてしまう。

どれだけ言葉を尽くしても彼女には──彼女たちには聞こえないのだ。


優子──


俺を……ひとりにしないでくれ。

俺を置いて……どこに行くんだよ……。

なあ、優子。

もう一度。

声を聞かせてくれ。

もう一度──笑ってくれよ。


…………。

 

……。

 

 



22.祈り
 Pray.

 

 



年が明け、新学期が始まった。

 



いつもの通学路にいつもの顔が溢れている。

風の冷たさに眉をしかめ、身体を丸めるようにして学園への道を行く。

あと3ヶ月で俺も3年生になるのか。

突然、そんなことを思った。

そして、それはどうでもいいことだった。


……。

 

教室に入り、適当に挨拶しながら席に着いた。

 



「おはよう」
「おはよう。珍しいな、凪が終業式に出てくるなんて」
「たまにはな」


見ると、いつも落書きだらけだった凪の机がずいぶんさっぱりしてしまっている。


「凪、それ……」
「ん?」
「落書き、全部消したのか?」
「まあな、少しは真面目になろうと思って」
「それは無理だろ」
「前々から思ってたが、君は僕に対して多大な誤解があるようだな」
「付き合いが長くても、なかなかわかりあえないもんだな」
「そうだな、悲しいことだけどそのとおりだ」
「悲しくはねえよ。それが当たり前のことだ」
「僕はわかりあいたいと思うよ。そう思うからこそ、人と人の繋がりも生まれるんだ」
「……そうかもしれないな」


…………。

 


……。

 

 



バイトを終えて家に戻ると、手紙が届いていた。

差出人は雨宮さんだった。

几帳面な文字で書かれた文面をゆっくりと目で追っていく。

丁寧な言い回しで俺への礼が延々と並んでいる。

手紙の終わりに、あの預金通帳は確かにこちらで預からせてもらうが、必要になったらいつでも言ってほしい。

それから、絵は大切に飾らせてもらっている。

本当にありがとう──と、綴られていた。


「なんで俺に礼なんて言うんだろう……」


彼女の養父は、結局一言も俺を責めなかった。

ただ、この部屋を見に来たときに俺が描いた水彩画をほしがった。

言われるままに、彼女を描いたあの絵を雨宮さんに渡した。

 



俺には絵なんて必要なかったから。

 



部屋には驚くほど彼女の物がたくさんあった。

ほんの数ヶ月暮らしただけなのに、生々しいほど彼女の生活の痕が残されていた。

ふとした瞬間に、彼女の匂いを感じることもある。

彼女の匂いが残っているうちに──忘れないうちに彼女のところへ──

そんなことすら考えてしまう自分が恐ろしかった。

 

…………。

 

……。

 



時間は流れていく。

それだけはどうやっても止めることができない。


……。

 



時々、俺は歩いていて不意に手をさまよわせることがある。


「…………」


そんなときは苦笑いしてしまう。


……。

 



この手は何を求めているのか。

肩を並べ、手を繋いで歩きたい相手がもういないことを──俺は頭のどこかで否定しているのだ。


…………。

 

……。

 

 



「もうイヤだ……」


凪は唐突に木炭を床に投げつけてそう言った。

イーゼルを並べて、俺は鉛筆デッサン、凪が木炭デッサンをいているときだった。


「凪?」
「もうイヤだ!」


キッと俺を睨みつけてくるその瞳には涙がたまっていた。

 



「いつまでもそんな顔をしてる夕は大嫌いだ! 気づいてるか? 君は今にも死んでしまいそうな顔をしてるぞ! 君がそんな……いつまでも沈んでいたら……あの子だって……あの子だって!」
「……すまん」
「謝るな! 僕に謝って……どうする」
「おまえを泣かせてるのは……俺だ」
「泣いてなんかいるものか……」


凪はごしごしと涙をぬぐう。

彼女が何度も何度も泣いていたことを知っている。

授業中、昼休み、放課後──時も場所も選ばずに不意に凪が涙をこぼすことがよくあった。

俺はそんな凪の姿を、見て見ぬふりをしてきた……。


「泣かなきゃいけないのは夕だろう……どうして君は泣かないんだ……」


俺は首を振った。


「わからねえよ」


凪はしばらく無言で嗚咽を漏らしていた。

肩を小刻みに震わせ、こみ上げてくる悲しみを必死に押しとどめようとしている。


「すまない……」
「なにがだよ」
「一番悲しいのは……夕なのに」
「悲しかったら鳴けばいいんだ……。一番だろうが二番だろうが関係ねえよ」
「君の前で……無くべきじゃないよな」
「どこで泣くのもおまえの勝手さ」


そうだ──


俺はイーゼルの前から離れ、カバンを探る。

あった。

 



「これ、おまえにやるよ」
「鍵……?」
「そう、立ち入り禁止の屋上の鍵だ。そこなら誰も来ねえよ」
「屋上……」
「泣いても人に見られないし、あそこからの景色は綺麗だから、おまえなら気に入ると思う」
「どうして夕が、鍵なんて持ってるんだ?」
「俺が悪い奴だからだ」
「そう、か……。ありがとう、夕」


受け取る相手が凪だったら、あいつも文句は言わないだろう。

むしろ、言えるものなら言ってくれ。

文句でもなんでもいいから……。

もう一度俺の前に現れてくれれば……。


「夕」
「なんだ」
「ひとつだけはっきりさせておきたいことがあるんだ」
「あきらめねえよ」
「あ……」


凪は目を見開いて、俺を見つめる。

そして、ゆっくりと彼女の口元に笑みが広がった。


「……そうか」
「夢まであきらめたら、俺には本当になんにも無くなっちまう」
「だから俺は足を止めない」


ここで足を止めてしまったら……二度と歩き出せないだろうから。


…………。

 

……。

 



どうして泣けないのか。

わかるはずがない。

別にわからなくてもいい。

泣こうがわめこうが彼女は戻ってこないのだ。

どうでもいいのだ、そんなことは。


「……教会に行ってみるか」


声に出してつぶやいてみる。

彼女を送ったあの日以来、一度も足を運んでいない。

それではあまりにも薄情というものか……。

彼女は、実の母の隣に葬られた。

彼女の母の墓碑を見たとき、俺は記憶の中から1つの名前を見つけ出した。

 



そう、遠い昔──

幼い頃に施設で出会った少女の名前を、俺はようやく思い出せた。

彼女が雨宮の家に引き取られる前の名前──

 



『お兄ちゃん……』


いつも俺にまとわりついてくるうっとうしい存在。

何度言っても呼び方を変えようとしないバカ。

 



『だって……そう呼びたいんだもん』


なぜそのくらいのことを許してやれなかったのか。

 



『お兄ちゃん、お絵かき上手だね!』


味気ない街の絵を手放しで喜んでくれたあの子。

 



『勝手におでかけしちゃいけないんだよ』


いつもそばにいてくれた。

 



『でも、お兄ちゃんと一緒に行きたい……』


あの子の存在がどれだけ救いになっただろう。

必死になって俺の後ろをついてきてくれたことが……。

振り返ればあの子がいたことが……。

どれだけ……。

 



『もうすぐおわかれしなくちゃいけないの……』


あの小さな女の子は成長して再び俺の前に現れ、恋をして、そして──


今はもういない。


──「おにいちゃん」

 



「────っ!?」


振り向くと、一人の女の子が俺を見上げていた。

この子は確か……。


「おにいちゃん、おねえちゃんのおともだち……だよね?」
「ああ」


俺は動揺を打ち消して頷く。


「あのときは……ありがとう」
「え?」
「救急車、呼んでくれただろ?」
「あ、それは……」
「ん?」
「さゆりちゃんが……あ、ともだちがよんでくれてたの……」
「そうか」
「わたし、なにもできなかった……」
「いや……。いいんだ」


俺は首を振る。

救いの手は間に合わなかった。

それだけが事実なのだから。


「うーんと……」
「なんだ?」
「うーんとね、わたし、しせつを出るの」
「施設を出る? ああ、どこかに引き取られるのか」
「うん」
「そうか、よかったな」
「うん」

 



未来はにっこりと笑う。


その笑顔に──


突然、激しい怒りが湧き上がってくるのを感じた。

 

あいつは死んだんだ。

 

おまえをかばって。

 

頭を打って、血を流して──苦しみながら死んでいったんだ!

 

どんなに痛かっただろう。

 

どれほど苦しかっただろう。

 

なんであいつが死ななきゃならなかったんだ!

 

死んではいけなかった。

 

この世界の誰よりも生きなければならなかった女の子だ。

 

あいつだけじゃない、俺たちの子供だって……!

 

生まれてくることすらできずに、消えてしまった……。

 

なのにおまえはどうして笑ってるんだ。

 

どうしておまえだけが……っ!



「おねえちゃんがね」
「…………」
「おねえちゃんが、女の子はいつもにこにこしてなくちゃダメだって。そういったの。だからわたしは泣かないんだよ」


怒りは──急速にしぼんでいった。

少女の笑顔が──どこか優子に似ているように思えた。

俺にはあいつの笑顔が……なによりも愛しかったことを思い出す。

思い出してしまったら、もうこの子に怒りを向けることなどできなかった。


「そうか、おまえはいい子だな」
「うん、わたしいい子になる」
「ひとつだけ俺からお願いしてもいいか?」
「うん?」
「お姉ちゃんのこと、忘れないでいてくれ。いつまでも覚えていてほしい」


未来はじっと俺の顔を眺めてから──

こくりと頷いた。


「ありがとう」
「あの……おにいちゃん!」
「ん?」
「わたし……わたし……」
「どうした?」

 

 

「ごめんなさい……」


唐突に、未来の瞳から涙がこぼれ落ちた。

なんだか──最近は泣き顔ばかり見ている気がする。

悲しいことがあったのだから、当たり前だ。

当たり前のことなんだよ……。

俺は未来の頭にぽんと手を置く。

彼女はなぜかびくっと身体をこわばらせる。


「……どうかしたか?」
「ううん、なんでもない……」


未来は何度も首を振った。


「泣かなくていい。謝らなくていい。おまえを守ってよかった──あいつだってそう思ってる」
「ほんとう……?」
「ああ、本当だ」


あいつは名前のとおり、優しい女の子だった。

だから、この子を助けたことに後悔なんてあるはずがない。


「あ、わたし……」


未来はきょろきょろとあたりを見回す。


「もしかして、おまえ迷子なのか?」
「まいごじゃないよ。あたらしいお母さん、どっかにいっちゃった」
「それを迷子っていうんだよ。仕方ねえな、一緒に探してやるよ」
「いい」
「いい?」
「ひとりでもどれるもん」
「いいからついてこい。このまま別れたらかえって気になるだろ」
「……うん」
「おまえのお母さん、特徴とかは?」
「おんなの人だよ」
「そういうことじゃなくてだな……何色の服を着てるかとか」
「あかしろきいろ」
「それはなかなか奇抜なセンスだな……。まあいい。見つけやすそうだしな」

 



俺は未来をうながして歩き出す。


「そうだ、はぐれたのってどの辺で──」


突然、なにかが手に触れた。


「…………」

 

 

未来がなにげなく俺と手を繋いでいた。

当たり前のような顔をして、ごく自然に俺の手を……。


「おにいちゃん?」
「……ああ」
「……あっ」


未来は小さく叫んで、手を離そうとする。

だが、俺はしっかりとその手を握りかえした。


「離さなくていい。頼むから、そのまま……」
「うん……」


俺たちは固く手を繋ぐ。

あたたかい……。

安心してくれ、ちゃんと連れて行くよ。

おまえが命がけで守ったこの子を……。

もう俺は差し出された手を振り払ったりはしない。


「おにいちゃん」
「ん? なんだ?」
「おにいちゃん、泣いてるの……?」
「え──」

 



言われるまで気づかなかった。

いつの間にか涙が溢れ出していて、止まってくれない。


「おにいちゃん……。おねえちゃんのこと、好きだったの……?」


涙で、未来の顔がゆがんで見えた。

胸の奥から悲しみがこみ上げてきて、呼吸が苦しくなる。

苦しい、どうしようもないほど暑苦しい……。

 



「好きだった……。本当に、誰よりも大切だった……。優子……っ。優子……優子……っ!」


しゃがみこみ、狂ったように何度も彼女の名前を呼ぶ。

涙が落ちて、地面に小さなしみを作った。


「優子……!」


悲しみは果てることなく、心を激しく揺さぶり続ける。

もう二度と彼女が優しい声で返事をしてくれることはない。

わかっているのに止められなかった。

それでも俺は叫んだ。

彼女の名前を呼び続けた。

涙がかれてしまうそのときまで、ずっと──


……。

 



『え、なんだって?』
『ですから、いつまでも"火村先輩"っていうのも堅苦しいなーと思いまして』

 

『これから一緒に暮らすわけですし』
『どうしたいんだよ』

 

『ん-と、できれば昔みたいに"夕くん"って呼びたいんですけどいかがでしょう?』
『前からたまにそう呼んでるじゃねえか』

 

『あれはほら、からかってただけですから』
『おまえな……。まあいい。好きにしろよ』

 

『はいっ、ありがとうございます』

 

『…………』

 

『夕くん』
『なんだよ』

 

『呼んでみただけです』
『バカ』

 

『あはははっ』

 

…………。

 

……。

 

 

 

さらに時は流れた。

この数年間はひたすらに勉強し、働き、無我夢中で突き進む毎日を過ごしてきた。

いつか描いた夢は段々近づいてきて、その姿は鮮明になってくる。

だけど、引き換えに失われていくものがある。

離れていこうとするものに手を伸ばしてみても、砂のようにこぼれ落ちてしまう。

もうすぐ。

もうすぐ夢が醒めてしまう……。

 



まためぐってきた冬のある日。

 

正体の見えない予感に駆り立てられるようにして、俺は彼女のところに足を運んだ。

 



あのときのように花束を抱えて。

 



「なかなか大したもんだろう?」


墓前に立ち、明るく語りかける。


「いきなりの抜擢でプロジェクトに参加できることになったんだ。たぶんメンバーの中では俺が最年少だぞ。まあ、正直不安もでかいけどなんとかなるだろ。研究室の連中や先生も期待してるし……。ああ、そうだ。俺のことばかり言ってちゃダメだな」


誰も答える者はいない。

墓地にはむなしく風だけが吹いている。


「久瀬のバカはまたどっかのコンクールで賞を取ったらしい。この間なんてあいつ、CD送ってきやがった。俺、クラシックなんて聴かねえのにな。そうそう、凪は今度アメリカに留学するらしい。俺、絵描きが留学するっていえばパリだと思ってたけど、それもあいつらしいよ」


それだけで──もう話題は途切れてしまった。

ここに来る前は、報告しないといけないことがたくさんあると思ってたのに。

言いたいことが言葉になってくれない。


「そういえば……あの子はどうしてるだろう。結局、あれ以来一度も会ってないんだよな」


だけど心配することはないと思う。

たぶん優子の教えを守って、毎日笑って明るく生きているに違いない。

きっとそうだ。


「なあ。実はしばらくこっちに戻ってこれないんだ。かなり長い仕事になると思う。でも驚くなよ。向こうにはすごいイベントがあるんだ。おまえが──いつかおまえが言ってたあれだ。おまえを連れていくことはできないけど……これを持って行くよ」

 



俺はカバンの中から紙袋を取り出す。

その中には──

 



ぼろぼろになったマフラーが入っている。


「おまえへのプレゼントもあったんだよ……」


彼女の名前が刻まれた墓石の前で、風に揺れる花びらを見つめる。


「ホントはおまえに手渡してやりたかったんだけどな……」


彼女への贈り物。

そして、告げるはずだった言葉はまだ胸の奥にある。

どこにも行き場をなくしてしまった言葉と心は、いつか消えてしまうのだろうか。


「優子……」


こめんな……。

そして、ありがとう。

おまえを忘れずにいられたから、俺は迷いながらもここまで来られたよ。

 



冷たい墓石をそっと撫でる。

ここはふたりの墓だ。

優子と、俺たちの子供の……。

 



「それじゃあ、いってくるよ……」


ふたりに告げて、俺は墓に背を向けた。

彼女たちはもうどこにもいない。

確かに存在していたのに、いなくなってしまった。

だけど俺はここにいる。

だから立ち止まれない。

彼女たちがいた場所から離れていくとしても。

忘れないから。

ずっと覚えているから。

一緒に過ごした夏と冬の記憶。

もう思い出に変わってしまったあの頃にいだいていた想いは──まだここにある。

 



俺は願う、ただひたすらに強く願う。

この胸にある想いが──

空へと駆け上っていった愛しい人たちに届きますように。

 

……。