ゲームを読む。

-ノベルゲーム・タイピング-

ef - the latter tale.【21】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


--------------------

 

 

はじまりは、なんだったのだろう……。

徐々に薄らいでいた記憶が目覚めてゆく。

確かそう、こんな何気ない一言。

 



『どうかしたんですか?』


わたしは施設に預けられてからそれまで、人とまともに口を利いたことがなかった。

うるさいんだ。

みんなうるさい。

うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……。

 



「どうして泣いてるんです?」


でも、その人の声だけは違った。

言葉そのものはありふれていて、むしろ一番嫌いなものだったのに。

胸の奥の寂しい気持ちにひっかかる、きれいな声だった。

だから。


「ないてない」


その人の前で泣いてはいけないのだと無意識に理解した。

もうとっくに終わっていたのに、

 



わたしは思わず顔を上げてしまったのだ。

 



それが、わたしと雨宮優子さんとの出会いだった。


ねえ、もっときれいな声を聞かせて。

 



「変なところで会いますね。今日は遊びに来たんですか?」
「きょうかいのまえで」
「教会の前?」
「きょうかいのまえをウロウロしちゃダメだって、せんせいが。くるまもとおるからあぶないって。あそぶなら、こうえんであそびなさいって」
「それはそうですね」


ふと、優子さんが小首をかしげる


「どうして未来ちゃんは教会の前なんかに?」
「そんなの……そんなのわたしのかってだよ」
「もしかして……。わたしを待っててくれたんですか?」
「ちがう! ちがう……もん」


寂しかったの。

 



ひとりは嫌だったの。

 



「そうだ、あなたに……プレゼントがあったのに……。どこにいったのかしら……」
「そんなのいいから!」
「後で探しにいきましょう……」
「そんなの……いいから……」
「未来。いけませんよ、そんな顔してちゃ……。女の子はいつもにこにこ笑ってるのが一番です……」

 



わかりました。

約束します。

だから、いなくならないでください……

優子さん……。

 

…………。

 

……。

 

 



「花がすぐにしおれてしまいそうですね」


わたしは教会のすぐ前の道路を見渡した。


「ここがなに? 死んだ両親とか以前の羽山水姫に持って来たんじゃないのか?」
「違います。これは雨宮優子さんにです」
「…………?」
「本当は、本当の場所に手向けたかったんですけどね」
「おまえは……」
「え」

「おまえは誰だ?」


そこに、まるであの日の久瀬さんのような──もっともっと暗い目をした火村さんが立っていた。

命が謳歌する夏の日差しの中、そこだけが光を拒むように黒く存在している。

無意識に足が下がりそうになった。

 



「あの……」
「懺悔したいことってなんだ」


質問というより詰問の口調で。

思わず喉を鳴らしてしまう。


「あの……わたしは、この教会に引き取られて……」


言葉が詰まってしまう。

火村さんは真剣な目でわたしを逃がさない。

なにか、この人にとっても大切なことなのだ。

だから、わたしは大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせた。

 



「……わたしは人間が怖くなっていたんです」


誰かがわたしに触れようとするたびに。

手が伸びてきて。

わたしの首を絞めて。

海に引きずり込むようで。


「あの頃は……」


思い出すと辛くなるけど。

今でも、あの時代に抱いた恐怖は頭の片隅にこびりついている。

わたしの欠片。


「学校にも行けなくて、そもそも施設にいた親代わりの人も怖くて……。実の両親に殺されそうになって……他人なんてもっと信用できなかった。半年間……挨拶ひとつできなかった……。食事もひとりじゃないと胃が受け付けなかったんです。誰かがいると吐いてしまって、動けなくなって……」

 



「そんなだから引き取り手もなくて、ずっと教会に閉じこもっていました」


季節は夏から冬へ。


「そんな時、あの人に出会いました……」

 



『どうかしたんですか?』

 



「わたしが今、こうして笑っていられるのは、全てあの人のおかげなんです」


そんな人が。

 



「そんな人が……わたしをかばって死にました」


わたしの代わりに。

釣り合う価値なんてない子供を助けて。


「……でも」


でも。


「だからこそ、わたしは震えるわけにはいかないんです」


頭を下げるわけにはいかない。

 



「自分に価値や意味がなくても……。あんなにきれいな人の代わりだなんて無理だろうけど……」

 



「それでも、あの人に追いつくために、わたしは頑張りたいから。わたしはこの世界で最後まで戦おうと決めたんです!」


最後まで笑っていようと決めたのだ。

 



「それに優子さんだけじゃありません。わたしには目標にしている先輩方もいます」

 



「ある人は、夢を叶え続けるために──大切なものを守るために、困難な道を選びとる大切さを教えてくれました」

 



「ある人は、傷ついても再び立ち上がる勇気を教えてくれました」

 



「あいつも、どうしようもないと誰もが諦めるような状況から、一筋の希望を掴みとったんです」

 



「……わたしの中にも、その想いひとつひとつが生きています。もちろん、そこに完全な答えはありませんでした。自分の幸せのために誰かを泣かせてしまうこともあるし、人を思い遣るからこそ傷つけてしまうこともありました……。でも、そんな不完全さも、やっぱりひとつの欠片なんです。そういうものからも、わたしは目を逸らしちゃいけないんだと思いました。正しさと愚かさ、強さと弱さ、夢と現実──そういうのは多分、羽のようなものなんです。1枚だけじゃダメなんです。2枚が揃うことで、本当に羽ばたくことが出来るんだと思います。人が……ひとりの力で出来ることには限りがあります。でも、わたしはそれでよかったと思います。この不完全な世界に生まれてきてよかったって、心の底から。だって、ひとりじゃ寂しいからこそ、人は誰かを求めることが出来るんです」


多分、優子さんもそうだったのだろう。

天使のように美しかったあの人にも、わたしの知らない人間の姿があったはずなのだ。

そして、おそらく久瀬さんも。


……そうか。


わたしはそこで、ようやく気づいた。

久瀬さんは……あの人こそが、優子さんに似ていたんだ。


「だから……だから……。えーと……」


あれ?

ふと、最初の質問を忘れてしまっていた。

そもそも火村さんは、わたしになにを訊ねていたんだっけ?


…………。


「と、とにかく、わたしも優子さんみたいに人の役に立ちたいんです! 以上!」


最後が間抜けだと思ったが、それがわたしの心にあるもの全てだった。


「…………」


火村さんは厳しい目のままで。

わたしに手を伸ばして。

首を……。

 



「…………はぁ~」
「はへ?」


腕を下ろして盛大なため息をつく火村さんに、今度はわたしが呆けた顔をしてしまう。

 



「あ~、くそっ、ちくしょう! もう割り切ったと思ってたのに……」


前髪をかきわけて彼は青空を見上げる。


「あの男の気持ちが今ごろになってわかるってわけかよ。不発弾みたいだなこれは。どっちにしようか迷っちまうなんて甘いな俺も。おまえがそれを望んだんなら。もう、いいよな」
「えーと」
「赦す」


ぽん、と軽い感じで火村さんがわたしの肩元をノックした。

唐突なことに理解が及ばなかった。


「懺悔だったんだろ」
「え? あ、はい」
「それなら俺の役目は赦すことだ。人間の罪は人間が赦すものだからな」


どこか悲し気に笑って。


「もうそれも背負うな。ここに花束と一緒に置いていけ」
「は、はあ」


なんで火村さんにそこまで言われなくてはいけないのか、わからなかったが。

でも、どこか安心した。

この人にそう言ってもらえるなら……。

なぜか全身から力が抜ける。


「……ほぇ~」
「あと1つだけ、訂正というか補足をしておく」


いつもの仏頂面に戻って彼は視線を逸らした。


「誰かを幸せにしたかったら、まず自分が幸せになれ。それが一番大切なことだ」
「あ、ラジャー。なんとか頑張ります」

 



「それと久瀬をどうにかしろ」
「え?」
「俺はあいつと青春する気はないからな」


どうしてしまったのだろう。

火村さんはニヤニヤと──なんだか彼のほうが憑き物が落ちたみたいに格好を崩していた。


「花をくれないか?」
「え? ああ、どうぞどうぞ」


ざっと見渡して、活きの良さそうな花を火村さんにさしだす。

それを受け取って彼は苦笑しながら言う。


「もう1本いいかな。小さいのでいいんだけど」
「あ、はい」

 



「ありがとう」


2本であることに意味があるのか。

火村さんはクルクルとそれを回して鼻に寄せる。


「……いい匂いだ」
「うわ」
「どうしたの?」
「……いえいえ、めっそうもない」


あまりにもかっこよすぎて鼻血が出るかと思った。

人を寄せ付けないような雰囲気があるのに、その分、ちょっと感情をだすだけでこの人はとてもかっこよくなる。


「でも、どうして急に花なんて。毎年持って来てたとか?」
「いえ、ただ……」


千尋先輩の手帳のことを思い出す。

そんなことはあり得ないと知りつつ。


音羽の教会に雨宮優子さんがいるって話があって」
「…………」
「そんなことあるはずないのに……でも、みんなが出会ってるんです。雨宮優子さんに」

 



わたしは熱せられた石畳に手をあてて、少しでも冷ましてから、そこに花束を手向けた。

花はもうしおれかけていた。

祈りを捧げるために目を閉じる。


「……ずっと、誰かを待っているんだって」


…………。

 


……。

 

 



遠くで鐘が鳴った。

12時だ。

公園のベンチに座ってぼんやりとしていた。

子供がふたり、目の前を走り過ぎていった。

仲がよさそう。

遅れて、お母さんらしい人が苦笑いしながら後を追い、その背を見守っていた。


「…………」


吹き抜ける風が心地よい。

お日様もきれいで。

この街を訪れた日のことを思い出した。

川の音がきれいだった。

ヴァイオリンの音色も。

昨日の火村さんとのやりとりを思い出す。


「うん、そうだね」


わたしは、わたしが出来る限りのことをすればいい。

ただ精一杯。

生きるということは、人の存在価値は、そういうことだ。

女の子がひとり歩いてきた。

彼女がわたしの前に立って、顔を覗き込んでくる。

 



『ゆうこはなにしてるの?』


ちょっと臆病な声。

昨日より、さらに記憶がはっきりとしてくる。

あの人はなんて答えたのか……。


「……ちょっとお出かけしてたんですよ。でもちょっと疲れちゃったので、一休みです」


空を見上げてのんびり微笑む。

一休みしてるだけです。

すぐに、歩き出します。

 



『ゆうこ、わらってるのにこわい……』


「……えーと。感情は……感情は必ずしも顔に出るものではないんです。覚えておきましょうね」


笑っていながら怒っていたり。

悲しみながら笑っていたり。


『……よくわかんない……』


「そのうち……」

 



『そのうちわかる日が来ますよ』


わたしの言葉に続けて、彼女がベンチから立ち上がった。

冷たい冬の日にも凛と背筋を伸ばして。

白い息をつきながら。

 



『ぬくもりに触れて、それを無くしてしまうのが怖いの?』


わたしではないワタシを抱きしめて、彼女は語りかける。


『わたしは未来を抱きしめたい。あなたはあたたかいもの』


人のぬくもりはあたたかくて。

抱きしめるのも抱きしめられるのも大好きで。


『泣かないで。泣かないでいいのよ』


「……いっちゃうんですか?」

 



わたしは泣きながら問う。


『未来、あなたはひとりじゃありません。ひとりになんかなりません。わたしだけじゃない。心を開けば……応えてくれる人はきっといますから』
『ゆうこは……いなくならない?』
『いなくなったりしませんよ。だってわたし──』


子供の頭を撫でて、笑いかける。


『わたしには──守らなきゃいけないものがありますから』


ああ、でも……。

わたしは目を閉じる。

今でも思い出せる、あの日の光景だけは、忘れられることもなく。

人のぬくもりのあたたかさを知った冬。

あなたは……。

 



『大丈夫?』


雨宮優子さんがわたしに微笑んでくれる。

それが都合のいい夢だと知りつつも。

でも、伸ばしかけた手を止める。


「……ええ、もう大丈夫です」


大人になったわたしが答える。

彼女との約束を守り、とびっきりの笑顔を浮かべて。


「わたしはもう大丈夫です」


だから、あなたも……あなたを想う人のところへ。

だから、わたしも……わたしが想う人のところへ行きます。

 



『……そう』

 



優子さんは天使のように微笑んだ。


そして夢は海のように深まる。

わたしは少し寂しくなる。

それは2度目のお別れだった。


「…………」

 

──「どうしてないてるの?」

 



目を覚ますと、女の子がわたしの顔を覗き込んでいた。

さっき通り過ぎて行った子のひとりだ。

日本人だったのか。


「……泣いてないよ」


そう答えて。

首を振る。


「嘘です……泣いてました……でも、もう大丈夫です」
「…………」


吸い込まれそうなほどに大きな瞳が、じっとわたしを見ている。

その子を安心させるように笑顔を浮かべる。

人間は寂しくても笑えるよ。

悲しみからは逃げられないから。

だから、立ち向かい、乗り越えなくちゃいけない。


「わたしはミズキっていいます」
「ミズキちゃん」
「ええ、ミズキちゃんです。あなたのお名前も教えてくれますか?」
「わたしは……」


………………

 

…………

 

……

 

 

 



そしてフィナーレ。

決着の時だ。


…………。

 

……。

 

 

静かな世界。

穏やかな世界。

そういうものに憧れていた。

ほしいものがたくさんあったけれど。

手に入れてしまえば壊してしまうから。

すべてを清算して。

もう、この世界で俺の出番はないと思っていたのに。


──そいつは悪魔のように凄惨にやってきた。

 



「…………」


火村夕が合鍵を使って家に入ってきた。

何度か誰かが──彼女だったのかも知れないが──やってきて扉に阻まれていたけれど。

こいつだけはどこにでも現れる。

 



「どうした?」


なにも言わないので俺から口を開く。

火村は軽く目を細める。

なにがあったのだろう。

ちょっとした違和感を覚えた。

ヒヤリとする感触。

夏ではなく冬の世界のように。


羽山ミズキが海に向かった」
「え?」


出し抜けの言葉がどうしてそれなのか。

火村は俺の反応など、どうでもいいようにつぶやく。


「おまえのヴァイオリンを持って、おまえに否定された傷を負って、あの子らしくない顔で海に向かって歩いていたよ」
「…………」


そんなの関係ない。

そう思いつつ時計に目をやる。

23時……あのヴァイオリンを燃やそうとした日と同じような時刻なのだろうか。


「……それで?」
「それだけだよ」


こちらと同じように、どうでもいいように言い放つ。

俺は心音を確かめる。

少しだけ速い。


「……世の中、そう都合よくおまえの思った通りにいくかな」


火村が唇を歪める。

 

「本当に清算出来たのか? 本当にやり残したことはないのか? なにか、実は"やり過ぎてしまったこと"はないのか?」
「…………」
「それだけだよ」


そう言って火村は部屋を出て行った。

現れたときと同じように、気が付くと消えている。

俺は少しの間だけぼんやりとする。

今のが現実に起こったことなのか、夢だったのか、区別がつかないような静寂に満ちている。

羽山ミズキが海に向かった。

海から来たモノは、海へ還るべきだ。

かつて俺はそう考えた。

舞台としてはそこが相応しいと。


「…………」


俺は致命的なことに──

迷ってしまった。

他でもない火村夕の言葉が、波音のように残響している。


「…………」


俺は薬を飲んで家の外に出た。

 



生ぬるい地獄の底。

星がきれいな夜。

そこは夏の世界だった。


…………。

 

……。

 

 


月の光だけを頼りに海岸を見渡す。

そこで彼女を見つけられなければいいと思いつつ。

そこで彼女を見つけられなかった時、自分がどうすればいいのかわからず。

呼吸が荒くなる。


「…………」


いた。

 



じっ、と海を見つめる少女を見つけた。

足元にヴァイオリンが置いてある。

安堵して、そうして、どうすればいいのかやはり迷った。

立ち去ってしまえばいいのか。

見ていないところでならば、なにがあってもいいのか……。


「…………」


俺は近くにあった階段から海岸へと降りた。


……。

 

今は夏だ。

海辺に立つと痛感する。

靴底に覚える砂浜独特の感覚。

思えば、羽山ミズキと海にいるのはいつも夜だ。

俺は彼女に歩み寄る。

月下。

再び。

対峙する。

 



「こんばんは」


そう言って彼女は振り返る。

一度折れたはずなのに。

満面の笑みを浮かべて。

どうして笑えるのか。

頭がいかれているとしか思えない。

まだ……足りないのか……。


「いい夜ですね」
「…………」


なにを告げればいいのかと考えたが。

なにも告げることがなかった。


「これは久瀬さんそのものです」

 

ミズキちゃんが足元にあったヴァイオリンのケースを掴み上げる。

 



そのまま走りだして。

 



海に向かって投げた。

軌跡がきれいな放物線を描いて。

落ちていく。

一瞬、追いかけたくなった。

手を伸ばしかけた。

そんな錯覚を覚えた。

実際の俺は微動だにせずに、その光景を眺めていた。

 



鈍い音をたててヴァイオリンが海面に落ちる。

 



月の光に輝く海面で、それは玩具の船のように揺れて。

遠ざかって。

やがて沈んだ。


「……はぁ」


ミズキちゃんが息をつく。

 



「それでいいよ」


俺は彼女の隣に歩み寄る。

決着だ。

それで、終わりだった。

本当になにもかもが終わった気がした。


「久瀬さんの……」


ミズキちゃんがつぶやく。

なにごとかと目を向けると、その肩が泣いているように震えていて。

彼女は勢いよく振り返って──


「馬鹿愚か~~~!!」


──ッ!!


瞬間、顎にものすごい衝撃を受けて頭が揺れた。

なにをされたのかは見えていたのだが、あまりのことに避ける気にもなれなかった。

彼女は身体の回転をそのままに、大きく振りかぶって俺を殴ったのだ……しかも底掌で。

世界が揺れる。

ピンポイントに顎を叩かれて脳震盪を起こしていた。

足元がふらついているところで、襟首を掴まれる。


そのままヴァイオリンと同じように海に向かって投げられた。


「……え?」


冗談ではなく、踏ん張ることもできずに転がった。

盛大に海につっこむ。

俺は慌てて海面から顔を上げた。

鼻や口から流れ込んできた海の水は塩辛くて、手をついた指の間を砂がくすぐる。

 



「ふふん♪ これであなたは一度死んだわ。ヴァイオリンも死んで、あなたも死んで、海に落ちて、これで綺麗さっぱりしましたね」


満面の笑みで。

いつかの立場を逆転させて。

彼女は歌うように言った。


「…………」


あまりにも呆気にとられる出来事に、心臓が狂うことも忘れて、彼女を見上げてしまう。

なんだこれは?


「口で言ってもわからないようですし、身体に言い聞かせてみようと思ったのですが、どうでしょう。馬鹿は死んでも治らないと言いますが、一発死んでみた気分はいかがですか? はじめまして、生まれ変わった久瀬修一さん」


お姉さんぶるようにミズキちゃんは俺を見下ろす。

まるで。

気分が悪いと言ったら、もう一度殴りつけてやると脅迫するように。

 



「…………」


俺は海水に浸かっていた腕を持ち上げて見つめた。

こんなおかしな形だけれど……夏の海のあたたかさは久しぶりだった。

海水はこんなに塩辛いものだったのか。


「久瀬さんは嘘つきです……ものすご~い嘘つきです。だから信念をもって、その嘘を突き通してください。最後の最後の最後まで、わたしを騙し続けてください」

 



拳を握り締めて演歌のように言って。

彼女はにっこり笑う。


「そうしたら、わたしもずっと本当のことだけを言います。わたしは、酷いことをするあなたが嫌いで。大好きです」
「…………」


どこまでわかっているのだろう。

全部わかっているのか。

わかっているのならどうして……。

それでもまだ俺を……。


「久瀬さん」


彼女が一歩、海の中へ歩み寄ってくる。


「夢を叶えるためには、まず、夢そのものがないといけないんですよ」
「……え?」


今度は頭ではなく、心に衝撃をうけた。

その言葉には覚えがあった。


「こうなりたい、ああしたい、あれがほしい──自分のために、誰かのために。そういう意志、想いを抱くことが、なによりも大切なんだそうです」
「……それは」
「それは、とても単純なことですが、一番難しいことです。そして、その想いを諦めずに、ずっと想い続ける。それが夢を叶える第一歩になるんだそうです」


ミズキちゃんが夢のような笑みを浮かべる。


「この言葉が、わたしをここまで導いたんです。いい言葉です」
「……それは」


それは俺の言葉だった。

かつて、俺が蓮治に答えたものだった。


「久瀬さん」


声のトーンを少し落とし、彼女は優しくつぶやく。


「どんなに大事にしていても、人も物も、いつか必ずなくなります。それも絶対に絶対です。絆も、想いも、記憶も、心も、命も。この世になくならないものはありません。壊れないものはないです。幸せなんて作り物で、絵空事で、偽物です」


だから。


「だから」


いらない。


「大切にしましょう」


彼女はそれを言葉にして。

俺はそれを言葉にできなかった。


「いつか訪れる別れを後悔しながら迎えないように……壊れてしまうから大事に、大事にしていきましょう」


羽山ミズキの言葉は、あたたかい海に手向けられた祈りにも似ていて、深く心に響いてくる。


「……俺は死ぬよ」
「はい」
「……すぐに惨めで醜い姿になって」
「はい」
「……君を幸せにはできない」
「いいえ」


彼女は否定する。

嘘つきだという俺の言葉を、肯定して否定する。


「わたしは幸せになります。そして、あなたが死ぬときに幸せだったと思わせてみせます。ギブ&テイクです。ぶっちゃけ、わたしに惚れられたのが運の尽きなので、大人しく幸せになってください」
「…………」
「ひとりでは無理かも知れないけれど。ふたりでならきっと見つかるよ。それこそ絶対に絶対っ!」


羽山ミズキが手を差し伸べる。

 



「だから一緒にいきませんか?」


俺は。


ああ、笑うしかなくて。

 



彼女の手をとって。

しっかりと指を重ねた。

そのまま、抱き寄せるように引っ張って。

大嫌いで大好きな彼女を──

海に突き落とした。


「へ?」


間抜けな声を上げて、ミズキちゃんが海面に頭から突っ込んだ。


「わははははははは!」

 



よっこらせと立ち上がって、空を見上げた。


「はぁ……あ~あ」


いい天気だ。

明日も晴れるだろう。

きっと。

ざぶりと水を滴らせながら、少女が海から立ち上がった。


「な、な、なァ──!?」
「いい女になったね」


そう言ってニヤリと笑いながら。

俺は彼女と繋いだ手を離してはいなかった。


…………。

 

……。

 

 

 

 



部屋に戻ると、どちらからともなく相手を抱きしめ、キスをした。

深く。

何度も何度も、人工呼吸のように。


「ん……」


1つ唇を重ねるたびに、自分の不器用さを痛感する。

もっと彼女に話さなくてはならないことがあるはずなのに。

あの日に傷つけてしまったことや、

この数日間の空白と、

その間に俺が想っていたことがたくさんあるのに……。

溢れるくらい。

でも、それ以上に俺は羽山ミズキを欲していた。


「っ……ん……ふぁ」


今日はキスに応えてくれる。

唇を離すと、彼女は胸に手をやって瞳をぼんやりと潤ませた。


「ドキドキする……」
「うん」

 

俺も頷く。

自分でも驚くほど照れていた。

ミズキちゃんと触れ合っていると、どうすればいいのかわからなくて困ることがある。

とても幼くて、きれいで、壊してしまいそうで、大人びていて、汚したくなる。

そういう感情がごちゃまぜになる。

でも、それらは全て、好きだという1つの感情に繋がっていた。

遠い時代に感じた、あの心のしめつけが蘇る。

俺達は奥の寝室に移動して、ベッドに座ろうとするが、なぜか彼女は座ろうとしない。


「……俺が怖い?」
「そうじゃなくて」


ミズキちゃんは困った顔で俯く。


「このままだとベッドが汚れちゃいます」
「我慢できない。今すぐ抱きしめたい」
「……もう」


小さな微笑。

俺は笑っているが、それでも、彼女の身体は緊張に震えている。

それは俺がつけてしまった傷なのかも知れない。


ベッドに先に座り、ミズキちゃんを足の間に座らせて背中から抱きしめた。

 



「わ」
「ごめんね」


彼女の髪に顔を寄せながら謝る。

こうやって抱きついて驚かせたことだけじゃなくて、他にも色々。


「…………謝らないでください。嬉しくて泣きたくなります」
「……泣かせるようなことしたから」
「赦します」


やさしい声で、彼女がぽんぽん、と俺の腕をたたいた。


「そこまで怒っていたわけでもないんですけど……じゃあ1つだけ。……もうちょっとだけこのまま、ぎゅ~って抱きしめていてください。好きなんです……抱きしめられるの……」
「うん」
「…………」


ミズキちゃんの笑みが、ぴったりとくっついた身体から伝わる。

俺はなにもせず、ただずっと、彼女を抱きしめていた。

海の匂いがする。

砂時計の砂がこぼれるように。

部屋は静かで。

眠るように穏やかな息遣い。

やさしい鼓動。

彼女の身体は小さくて、こうやって包み込むように抱きしめるにはちょうど良かった。

こんな愛し方をするのはいつ以来だろう。


「……あったかいな」


知らず漏れたつぶやきを耳にする。


「久瀬さん」
「なに」
「きっと、こういうのを、幸せって言うんです」
「……そうだね」


俺はそっと、ミズキちゃんのうなじに唇を当てる。


「……っ!?」


震えが直に伝わってきた。


「なんてことするんですかぁ!」
「なんてこと」
「……そうですよね」


顔を真っ赤にしてミズキちゃんがつぶやく。


「大丈夫?」
「いえ……これ、は、はずいですね」
「はは」


思わず笑みがこぼれてしまった。


「でも、急にされるとびっくりしますよ」
「うん。びっくりさせたかった」
「どうしてですか……?」
「ミズキちゃんが、可愛いから」
「あはは♪ ちょっと……ううん、すごく嬉しい」


素直に言うと、ミズキちゃんが笑った。

ぴったりと重なりあう身体から、その感情が伝わってくる。

それが嬉しくて仕方がなくて、今度はキスではなくミズキちゃんを更にぎゅっ、と強く抱きしめた。


「久瀬さん……?」
「うん?」
「どうしたんですか? わたしは、逃げませんよ?」


知ってる。

拒絶しても、不幸になると知っても、逃げ出さなかったんだから。


「違うよ、ミズキちゃんの身体をしっかり感じてるんだ」
「うぅ、すいません……」


冗談めかして言うと、ミズキちゃんは恥ずかしがるのではなく、申し訳なさそうに言った。


「どうして謝るの?」
「……ほら、わたし、色々と発展途上だから」
「うん、その辺も可愛いよね」
「あの、それは否定してくださいよ……」
「よしよし」


俺は否定の代わりに、ミズキちゃんをあやすように身体を揺する。


「なんだか子供になったみたい」
「娘になってくれるの?」
「……う~ん」


すぐにツッコミが入るかと思ったのに、ミズキちゃんは思案顔になる。


「娘になるのは無理ですけど……娘を抱かせることはできますよ」


一瞬、意味が分からなかった。


「……え?」


それは……なんてことを言うのだろう。

発作が起きなかっただけでも僥倖(ぎょうこう)だと思う。


「ねぇ、久瀬さん」


俺を見つめながら、甘えるような、鼻のかかった音声でミズキちゃんがつぶやく。

頬を真っ赤に染めて。

俺の手に、自分の手を重ねて。


「……なに」
「……わたし、久瀬さんの赤ちゃんがほしい」
「…………え? もう1回言って」
「……うん。あ、赤ちゃんがほしいんですけど」
「…………。いや……いやいやいやいや! ダメだよ!」


肯定したい気持ちを必死に我慢して首を振る。

ぎゅっと、繋がった指を強く絡めて、ミズキちゃんが真摯な眼差しを向けてきた。

俺は死ぬんだ。

今、こうやっている間は忘れているように錯覚するけれど。

そんなものは残せない。

ミズキちゃんが泣きそうな笑みを浮かべる。

 



「……ずっと考えてたの。無茶で、これは本当にわたしの我がままで……自分勝手だけど。前に久瀬さんに、なにになりたいかって言われて……わたし……。お嫁さんとお母さんの両方になりたいなって、願ってしまいました」
「…………」
「……だめ、ですか?」
「…………」


じわりと目の奥が熱くなる。

なんで俺、こんなときに泣きそうになってるんだ。

かっこわりぃ。

なんでこのタイミングなんだ。

無理で無茶で、そんなものは願ってはいけないことだろうに……。

それでも、その未来が、なんて幸せなんだと思ってしまった愚かな男がここにいた。


「叶えるよ」
「…………」


たった一言。

今すぐは無理かもしれないけど、そういう関係になれたらいいと思う。

邪な気持ちを抜きにして、純粋に誰かと寄り添って果てて行けたら、なんて幸せなんだろう。

そんなことを考えながら、改めてミズキちゃんをしっかりと抱きしめる。


「……でも、やっぱりもう少し育たないと母親になるのは難しいかも」


溜息混じりに呟いてみる。


「うわっ……」
「あはは」
「あ、遊んでますね!? わたしで遊んでるでしょ久瀬さん!?」
「違うよ」


誠意を込めてニヤリと笑う。


「嘘だ……絶対嘘だ……ううぅ……恥ずかしかったのに……」
「好きだから」


ぎゅっと抱きしめる。

誤魔化してしまった大人のずるさを謝罪するように。


「ん……」


とたんに大人しくなった。

満面の笑みで。


「……ずるいなぁ」


……………

 

…………

 

 

……

 

 



ミズキちゃんの寝顔を見つめて、髪をなでながら、静かな夜に船をこぎだしていた時。

扉の開く音がした。

そういえば、また鍵をかけていなかった。

彼女が寝ているのを確認して、俺はひとり、ベッドから降りて居間に戻った。

予想していた通りの人間がいた。


「あ」
「…………」


奥の寝室の様子を見て火村が驚くが──そりゃ驚くだろうが──、静かにするよう口に人差し指を当てる。

 



「俺が出るよ。着替えるから外で待っててくれ」
「……ごゆっくり」


肩をすくめて、火村が呆れたように手を振って出て行く。


「ちょっと出かけてくるよ」


眠り姫の頬にキスをして、汗でベタついたシャツを着替えてから火村の後を追った。


……。

 



「お待たせ」


間の悪い男に向かって手を振る。


「……いいけどよ」
「なに?」
「こういう時こそ鍵をかけておけよ」
「すっかり忘れてたんだ」


非常にどうでもよかったので、非常にどうでもよく答える。

火村も慣れたように眉を寄せるだけだ。


「どこに行く?」
「海はさすがに遠いし、教会かな」


言うだけ言って、同意も得ずに火村は歩き出した。


…………。

 

……。

 


「なにか用事? 様子を見に来ただけ?」


いつもの場所に収まって俺は訊ねる。

 



「どっちもってところか」
「用事って珍しいな」
「……すっかり復活しやがって」


目線を逸らしてぶつぶつと。


「どうでもいいことなんだが……」
「なに?」
「いや……やっぱりいい」


珍しく躊躇って口をつむぐ。


「いつもは俺が勝手に話してるんだ。どうぞって、おまえなら言うんだろ」
「……おまえとミズキちゃんって犯罪くさいな」
「うるさい黙れ」
「おまえが黙れ下半身直結型」


冴え渡るボケツッコミ。

なんとなく。

これでようやく復活した気がした。


「……マゾじゃないんだけどね」
「おまえはサドだ。100%サドだ」
「98%くらいだよ」
「残りの2%はなんだ」
「自分を虐める分だよ。そういう余裕って必要じゃない?」
「はぁ」


また、ため息。


「どったの」
「いや……今、一瞬でもおまえとこうやっていて楽しいなどと感じてしまって、非常に鬱になった」
「それはご愁傷様」


98%の心意気で合唱してやる。

火村は俺を恨みがましく見上げて、首を振った。


「もう大丈夫か?」
「ああ……」


俺はぼんやりと頷く。


「どうなるかわからないけど、なんとかなると思うよ。この世界は想像以上に最悪で──思ったよりは最高だ」
「そうか……」

 



火村は十字架を見上げる。


「もう大丈夫だな。俺がここにいなくても」
「たぶん」


麻生蓮治や新藤千尋羽山ミズキ……なんとかなりそうにないメンバーではあるが。


「すぐに大人になるだろう」
「そうだな」

 



俺も十字架を見上げた。

1年後の彼女は、とてもきれいになっているだろう。

その1年後にはさらに。

俺はどこまでその姿を見ていられるのか。


「おまえのほうが片付いて、俺に心残りができちまったな」
「…………」


横目で見つめられる。


「1つだけいいか」
「今日は珍しいな」
「どうせだしな。ずっと分からなかったことがあるんだが。どうして人一倍怖がりなくせに、そこまで強がってるんだよ、おまえ」
「…………なんでだろうね」


俺は笑って、火村はいつものように仏頂面だった。

そんなこと恥ずかしくて言えないよ。

かつての震災で、別れや後悔の時間すら与えられず消えていった者たちに比べれば、わずかに生きていられる時間でも幸福すぎて……。

それに──


いまだに苦しみ続けている親友に、余計な重荷を背負わせたくはなかった。

それが、久瀬修一が死んでも口にすることのない、最後の真実。


「2%の愛嬌じゃないかな」


俺は朗らかに笑いかけた。


「まあいい。それより全然、優子とミズキちゃんは違うじゃないか」
「俺は同じだと思うよ」


くるくると指を回す。


「危なっかしくて目が離せない」
「……嘘つきが」


火村は息をついて。

ゆっくりと教会を見渡して。


「どうやら、本当に俺の仕事は終わったみたいだ」


どこか遠い目をした。


「久瀬、しばらくお別れだ」
「お別れ?」
「明日のうちに俺はこの街を出て、本物の音羽に戻るよ」


俺は驚いて、穏やかな声をあげた男の顔を眺めてしまう。

あまりにも急な話だ。


「そうか」


俺は頷く。

火村の中でも、なにかの区切りがついたのだろう。

それで良かったのだろう。

これで良かったのだろう。


「あん? ちょっと待て、千尋ちゃんはどうするんだ?」
「近いうちに彼女も一度帰ることになるだろうけど。それまではいい泊まり先があったから頼んでおいたよ」
「頼んで……ああ」


蓮治の家か。

納得しかけて、おかしなことに気づいた。

こいつが──火村夕が、代理であろうとも請け負った仕事を途中で放り投げるものか。


音羽でなにかあったのか?」
「わからない」


火村が真剣な顔で首を振る。


「だから確かめてくるよ。花束でも持って」
「向こうは寒いからちゃんと冬服を持っていけよ」


火村はニヤリと笑って。

慇懃(いんぎん)に礼をする。


「さらば友よ」


…………。

 

……。

 

 

 

 

「火村さん!」


教会を出てきた黒い男の人に、わたしは大きく手を振った。

彼はいつもの無愛想な顔で待っていてくれる。


駆け寄って、少し呼吸を整える。

 



「はぁ……この街を出て行くって本当ですか?」
「ああ、ちょうど今」
「そっか。ふあ~、間に合ってよかった~」
「別に見送りなんていらなかったのに」


火村さんが、唇の端を曲げるだけの独特な笑みを浮かべる。

もう、この顔ともしばらくお別れなのか。


「荷物とかないんですか?」
「先に空港に送った」
「なるほど」
「久瀬は?」
「もう昨日のうちに見送りは済んだって。家でぴーひゃら寝てます」
「ぴー……いや、そうか」

 



火村さんが教会を見上げた。

わたしも視線を追う。

ちょうどタイミングを計ったように、正午を告げる鐘が鳴り響いた。

 



「バスの時間があるから歩きながらでいいかな」
「はい」


……。

 



火村さんと一緒に商店街を歩く。

色々と話すべきことや訊くことがあるのかも知れないけれど。

感慨深げに街を見渡して歩く火村さんに、声をかけづらかった。

彼は石畳や植え込み1つ1つを楽しそうに観察している。

呆けた顔や、驚いた顔や、どこか影のある顔は見てきたけれど。

こんな無邪気な様子は初めてだった。

どことなく気恥ずかしくて、わたしは仕方なく自分と縁のある店に目を向けた。

ソフトクリームを買った店。

おば様と食事をしたレストラン。

久瀬さんがヴァイオリンを出した宅配屋さん。


「ちょっと寄り道していくよ」


唐突につぶやいて、火村さんは街を出るためのバスが来る場所ではなく、真っ直ぐ駅へと向かった。

電車の来ない世界の終点に。


……。

 



そこには千尋先輩がいた。

いつものように。

しかし、彼女は最初からわたし達のことを右目だけで見つめていた。

「火村さん」


蓮治とはまた違う、信頼した様子で。

火村さんの表情も他の人間には浮かべない穏やかなものだった。


「急な話で済まなかったね」
「いえ、いいんです」


ふるふると。


「私のほうこそ、本当に、今までお世話になりました」
「まいったな……こちらで暮らすかどうかはともかく、また戻ってくるんだけど」


皆が同じような別れの挨拶を口にしているのか。

わたしも他人のことは言えないけれど、なぜか見送りという言葉がしっくり来てしまうのだ。

本当にもう一度会えるのだろうか。

この人と。

そういう不安がどこかにある。


「とりあえず蓮治と仲良く。あいつは、俺と違っていいやつだ」

 



「はい」


少し潤んだ瞳だけど、千尋先輩は頭を下げてからにっこりと微笑む。


「でも、火村さんもいい人です」
「そう振舞っているだけさ」


火村さんは照れ隠しのように彼女に笑いかけて、振り向いた。

 



「さて、行こうか」

「はい」


千尋先輩はついてこないのかなと思ったが、どうやらここで見送るようだ。

わたしは彼女に手を振って。

彼女もわたしに手を振って。

また家で会うことになるんだけどね。

そして、駅を出ようと思ったら、そこに火村さんの姿がなかった。


「あれ? 火村さん?」

「こっち」

 



駅の端っこに立って、彼が手招きしている。

慌てて後を追う。


「行かないんですか?」
「最後に街の全景を見たいんだ」


そう言って火村さんは線路に降り立った。

彼の手を借りてわたしもホームから降りる。

わたしたちは線路の上を歩いて──歩いて歩いて。

 



とにかく振り向かず歩き続けて。

街の外に出て。

やがて線路が途切れたところで立ち止まった。

 



風の向こうにはなにもない。

ただ一面の草原。

地平線が見てとれる。

地球が丸いことを思いだす。


「……すごい」
「うん」
「火村さんって……何者なんですか?」


ずっと気になっていた質問を投げかけた。

今まで誰にも教えてもらえなかった彼の秘密も、今なら聞けるんじゃないかと思った。

火村さんはわたしを横目で見て、いつもよりも少し大きく唇を曲げて。

 



「建築家だよ」


そう言って振り返る。

わたしも風に髪をおさえて振り返った。

地平線と水平線の真ん中に、ぽつん、と赤い街並みが広がっていた。


「…………」
「…………」


線路が真っ直ぐ続いているけれど。

あまりのスケールに遠近感が狂う。

 



それは夢のような光景だった。

この街を訪れたときも胸がドキドキした。

こんなものが、この世界に存在することにめまいを起こしそうになる。


「……まるで玩具みたいですね」
「本物だよ」
「これが"本物"なんですか?」


わたしは思わず訊ねてしまう。

偽物の街。

終わりの街。

どこにも続いていない駅。

世界の終点。

季節が反転した。

日本の裏側にある。

オーストラリアにある"音羽"の街を見て訊ねてしまう。


「……なんで音羽なんですか」
「あの街だからだよ」


火村さんはそれを知っているのか。

淡々と口を開いた。


「皮肉にも音羽が、世界中見渡してもっとも新しいデザイン都市だったからだ。ただ、それだけ。ほぼ完璧な設計図が残っていて、関わった建築家も資材の入手経路もすべて把握されている。同じものを作るにしても、短期間でコストがかからない。後はその歴史と街並みが売りになるとでも思ったんだろ。看板や小物も冗談みたいにあわせてある。まだ試験段階でね、形式上はアミューズメントパークとして登録されている。そうでないと車線や法律の問題もあるから。街の資産はそのまま運営資金に回ってる」
「……お金の問題で?」
「不謹慎かも知れないけど、それ以外に選ばれた理由はないよ」


いつもと同じ──どこか無関心な口調で彼は告げる。


「そもそも、なんでこんなものを?」
「日本の少なくて高すぎる土地問題を解決する都市デザインによる1つのアプローチ……かな。今はネットもテレビ電話も普及してるし。人が世界と繋がることに距離や時間は関係ない。もうそれは意志の問題だ──だから実験がはじまった」


途切れた線路の切れ端を、火村さんが靴のかかとで叩く。

鈍い音が伝わって街に吸い込まれていく。


「オーストラリアが選ばれた理由も単純でね。日本とは逆転しているが四季があり気候が近い。先進国でかつ土地が余っている。特定の宗教色が濃すぎることもなく、対日感情も政府レベルではそこまでは悪くない。一番の理由は時差がないから──季節は逆転してるけどね。政治、宗教、経済の観点から見た妥当な結果として、ここであり、音羽なんだ」
「…………」
「そういう偽物なのに本物よりもリアルな理由で作られている」


彼は可笑しそうに目を細めた。

わたしは笑えなかった。

馬鹿みたいだ。


「それでも、あそこに住んでいる人たちは確かに本物だよ」


火村さんが街を指さす。


「今はまだ、蓮治の家みたいに建設に関わった者の家族や、テストケースで募集された人間しか住んではいないけど。そういう人たちがちゃんと暮らせるか観察するのが、俺のここ1年の仕事だったから答えられるよ。あそこに住んでいる人間も、遊びに来る人間も、全員が確かに生きている。あそこにあるものは。全部"本物"だったよ」
「…………」
「よく訊かれるけど、なんであんなものが作られたのかわかる?」
「え、それは……」


なんでだろう。

ずっと気になっていたけれど。

なんの意味もない。

こんなものを作る必要はないのだ。

理由があったとしても舞台として間違っている。

子供のような……。


「……現実的ではないですよね」
「だから作られたんだ」


疑問を、そのまま答えとして火村さんが頷いた。


「面白いから。遊び心だろうね。どっかの馬鹿が、各国にある中華街を見て思いついたって話だけど。世界には万里の長城、ピラミッド、陽子加速器、果ては貝殻でできた島とかがあって、宇宙に民間人が泊まれる衛星のホテルを作ろうってやつまでいる……これらは全部、本当の話だ。現実に目を向ければいい。くだらない夢よりも、馬鹿みたいに素晴らしい話がたくさんあるんだ」


火村さんが少年のように語る。

この人……そういう人だったんだ。

皆が勘違いしていたことを、わたしだけが知りえたのかも知れない。


「最初の最初は……なにもかもが、やっぱり夢から生まれるんだ。なにかを作るときも、なにかを為(な)すときも、始まりにはなにもない」
「ロマンチック」
「そうだね。空を飛びたい、海の底を見たい、宇宙に行きたい、いつか遠いあの星にたどり着きたい──1つずつ叶っていく」
「幸せになりたい」


わたしはつぶやく。

火村さんが肯定してくれるかと思ったけれど。

彼は風に吹かれたまま静かに立ち尽くしていた。


「……そろそろ時間だ。戻ろう」


火村さんが再び線路を辿って歩き出す。

わたしは慌てて彼の隣に並んで、その横顔を見つめた。


「火村さんはどうして、この街の計画に参加したんですか?」
「建築家の端くれだけど、音羽出身ってことで声がかかった。馬鹿らしいけどチャンスではあったし、それにあの教会だけは……他のヤツに作られたくなかった」


そこで火村さんは空を見上げた。

青い青い空。

太陽。

そこに手を大きく広げてかざした。


「夏のクリスマス」
「え?」
「夢があるだろ?」


そうやって同意を求めてくる。

馬鹿らしい。

やっぱり馬鹿らしくて、わたしはあきれ返ってしまう。


「サンタクロースって南半球でもあのかっこなんだ。知ってた?」
「……知りませんでした」


可笑しくなってきた。

レールの上を歩きながら笑う。


「…………」
「どうしました?」
「いや……」

 



火村さんの視線を追うと、気付かぬうちにわたしは彼の手をとっていた。


「っと、ごめんなさい。つい癖で」
「……繋いでなくていいのか?」
「子供じゃないんですから大丈夫ですよ」
「そうか……そうだな……」
「火村さんて」
「ん?」

 



「心配性のおとうさんみたいですね」
「…………」
「あ、おとうさんってのは年齢的に失礼ですね……。サンタクロースみたい、にしておきましょう♪」
「……サンタクロースか。それも悪くないな。そういえば、最後に名前を聞いてもいいかな」
「ミズキ。羽山ミズキですけど?」


忘れているのだろうか。


「そういうことじゃなくて」
「なんですか?」
「君の本当の名前」
「ああ」


それで理解できた。

ワタシが──わたしになる前の名前。

わたしの欠片の1つ。

それも確かに偽物じゃない。


「本当の名前は羽山ミズキですよ」


それをまず断ってから。

 



「でも、その前は、未来と書いてミキと呼ばれていました」
「……いい名前だ」


火村さんは草原の真ん中で。

無愛想な顔に少しだけ笑みを浮かべて。


「覚えておくよ。いつか、君もここを去るだろうけど。また遊びにおいで」


…………。

 

……。

 

 


そうやって、まあ、だいたいのことが終わったんだと思う。

それからは特に何事もなく。

蓮治を千尋ちゃんとの仲でからかってみたり。

すみれさんにお茶をご馳走になったり。

ミズキちゃんと色々なところでデートして、色々なことを話して、色々なことをしてみたり。

馬鹿らしく。

狂おしく。

愛おしい。

見た目だけは平和な日々というやつが訪れていた。

そして。


──12月24日、夏。



俺は駅前の広場に立っていた。

かかしのように。

暑くて頭がくらくらする。


「……やっぱり長生きしたかったら夜行性のほうがいいな」


こめかみを押さえながら、日陰でぼんやりと彼女を待つ。

さいわい、動悸はない。

 



駅を眺める。

千尋ちゃんのいるあの場所のほうが、涼しいんだろうけど。

思うだけで行かない。

なんとなく……なんとなく……嘘つきな俺からすると彼女は苦手なのだ。

やがて商店街のほうから見慣れた顔が2つやってきた。

30分遅れだ。

 



「こんにちは」

「こんにちは~」

「やあ」


血の繋がりはないはずなのに、どこか似た雰囲気のふたりに挨拶する。


「蓮治はともかく、なんでミズキちゃんまで制服なの?」


気分なのかなんなのか、彼女が制服を選ぶ基準はわかりづらい。

しかし、今日は理由があったようだ。


「ちょっと蓮治に協力してもらって図書室で調べ物をしてきたの」

「図書室? 制服が違うんじゃないの?」

「堂々としれば大丈夫ですよ」

「……僕が友達にからかわれましたけどね」

「蓮治にも友達が出来てて、お姉さん、安心したよっ。きらりん♪」

「はぁ」


蓮治の様子から大丈夫だったというのも怪しかったが、目的は達成したらしい。

ミズキちゃんはニヤニヤと──隠し事をしている笑みを浮かべていた。


「ご機嫌だけど、どうしたの?」


鈍感を装って訊ねてあげる。

こういう、お互いに承知している儀式めいたやり取りが増えていた。

すみれさん辺りは俺たちの関係に薄々感づいているようだったが、直接的な攻撃は受けていない。


「ふふん、知りたい知りたい?」

「本当はあんまり知りたくないけど」

「そんなに知りたいんだ」


彼女の握り拳が俺のわき腹に触れる。


「あ、なんか無性に知りたくなってきた」

「えへへ、それじゃあ教えてあげましょう」


拳を唇に寄せてニッコリと。

あの日から少し砕けた口調は──なぜかお姉さんっぽくて。

 



「まず英語を本気で勉強しようと思ったんです。久瀬さんとか蓮治とか付き添いがなくても、この街で生活できるように。それと、音楽のことを少し勉強してたの」
「音楽?」
「そう。ベートーベンの名言にいい言葉があったよ。『休止符もまた音楽なり』だって」

「……それはそれは」


あの音楽室で目に画鋲を刺される筆頭株主は、どんな時にそんなことを言ったのだろう。


「ぴったりだと思わない?」

「そろそろ行こうかな」


ふいに蓮治が駅を眺める。

ちょうど俺たちとは正反対の方向を向く。

 



ミズキちゃんが、俺に寄り添ってかかとをあげた。

小鳥のように唇をついばむ。

それは一瞬の出来事だったけれど、俺は彼女の耳元で囁かずにはいられなかった。


「見つかるよ」
「そうなってほしいのかも」


「どうしたの?」


蓮治が視線を戻す。

きわどいタイミングで元の位置に戻ったミズキちゃんが舌を出す。


「なんでもないよ~、さっさと千尋先輩のところに行きなさいよ」

「なんだそれ」


むすっ、と蓮治が唇を尖らせる。

ミズキちゃんはその様子に、俺だけにわかるアイコンタクトを送ってきた。

俺は複雑な気持ちで肩をすくめる。

ミズキちゃんの持っているものは天性か民宿のスリッパのように、いつの間にかさり気なく用意されたもので。

確かに、今は彼女のほうが蓮治より聡い気はする。

しかし蓮治は凡庸なりに──そういうものを自覚して、コツコツと山の高い場所にいる人間だと思う。

油断してるとそのうち痛い目にあうだろうが、彼女にはそういう経験が足りないと思い、あえて忠告しないことにしていた。


「それじゃあ僕はこれで」


蓮治も千尋ちゃんのところに向かうきっかけがほしかったのだろう。


「また後でね。千尋先輩にも宜しく」

「うん」

 



「また後で?」
「パーティーがあるんですよ。もちろん久瀬さんは強制参加です」
「そうなんだ」
「お母さんとかお父さんも呼べたらよかったんだけどな」


ぽつりと彼女がつぶやく。


「ミズキちゃんの家族は仲がいいんだね」
「えへへへへ」


でれっとミズキちゃんが相好(そうごう)を崩す。


「ところでお母さんも武闘派だったりするの?」
「も、ってなんですか。も、って……」
「深い意味はない。単にどんな人かなって」


ミズキちゃんをここまで真っ直ぐ導いてきた女性に、興味があっただけなのだ。

やさしくて、強くて、厳しいのだろう。


「そうですね、わたしのお母さんは……。赤、白、黄色です」
「なんだそりゃ」
「まあ、実際に見て驚いてください」
「年が明けたら帰っちゃうんだっけ?」
「残念ながら」
「そっか」


そうなったらどうするか。

いっそ俺も、飛び出してきた実家に顔をだしてみるか。

そんな思いつきに自分で驚いた。

そして可笑しくなった。


『父さん母さん、ただいま戻りました。突然ですが報告があります。どうも俺って病気で死んじゃうみたいなんですけど、それはどうでもよくて、これが新しい彼女です』

 



蓮治を見送っている少女を見下ろす。


「うわ……犯罪くさいなぁ」
「なにがですか?」
「いや、なんでもない」


ふと目を向ければ、彼女はどこかの鍵を手のひらにのせて見つめていた。


「それは?」

 



「蓮治からもらった秘密の鍵です」
「秘密ってどこの?」
「だから秘密です。女の子は秘密をもってるほうが可愛いんです。今度、ご案内しますから」
「あ、そ……」


そのうち、また俺を驚かすために使う気なのだろう。

それまでは先読みしないでいてあげよう。


「とりあえずご飯に行こうか」
「デート、です」
「デートに行こう──で、なに食べたい?」
「ソフトクリーム」
「げ、また?」


思わず胃を押さえてしまう。

お腹はすいていたけれど、最近、その単語を聞くだけで口の中が甘ったるくなり胃まで重くなる。


「普通の食事にしない?」
「美味しいじゃないですか」


ミズキちゃんの笑みには一点の曇りもない。

俺はため息混じりに提案してみる。


「じゃんけんしようか?」
「いいですけど、わたし、チョキしか出しませんからね」

 



彼女の満面の笑みに。

さて、与えるか奪うかと考えた。


……。

 



そして手にはソフトクリーム。


「う~ん……」
「う~ん、やっぱり今日はイチゴ味で正解~♪」


両極端な声を上げてふたりで商店街を散歩する。


「甘くて美味しいですよね」
「砂糖と牛乳の味がする」
「それだけではありません。ソフトクリームには隠し味がいっぱいです♪」


なんでそんなにソフトクリームが好きなのか知らないが、どうせ大した理由ではないのだろう。


「そういえばさ」
「はい」
「君にその暴力を教え込んだ師匠も見てみたいかも」
「……師匠ってなんですか」


ミズキちゃんが呻く。


「う~ん。久瀬さんは止めておいたほうがいいかも」
「惚れられちゃうから?」
「すっごく叩かれやすい気がします。なんていうのか、そういう雰囲気がひしひしと」
「絶対に会わないことにしよう」
「でも紹介しますね♪」
「俺みたいなのがダメなら、蓮治はどうかな?」


何気なく話題を逸らす。

こんな平凡な会話をしている自分が信じられないなと、頭の片隅で驚きつつ。


「蓮治は……なんか……どうなんだろう……?」


ミズキちゃんが真剣に考えこんでしまう。


「やっぱり嫌われそうだけど、むしろあそこまで天然だと景先輩のほうが苦手になっちゃうのかな。千尋先輩のこともあるし」
「それじゃあ俺はシード選手で」
「あははは」
「うん」

 



『だから一緒にいきませんか?』


ふたりで笑いあいながら、ゆっくりと歩き、ゆっくりと生きている。

あの日、手を差し伸べてくれた君が好きだ。


「あ~」
「なんですか?」
「大好きだよ」

 



「な、なんですかいったい!?」
「はは」


今日もいい天気だ。

休みの人間も多いのだろう、商店街は午後の始まりにしてはそれなりに賑わっていた。

 



カモメか鳩か、白い鳥が1羽、ゆっくりと空を旋回している。


「恋人っぽく見えますかねー?」
「どうだろうねー」


見渡せば、俺たちふたりよりもよほど恋人や夫婦らしい人間が溢れている。

彼等はそれらしい雰囲気を醸し出しているが。

俺たちが醸し出しているのはソフトクリームの乳くさい匂いだ。


「兄妹とか、仲の良いおじさんと姪だと思われてるんじゃない?」
「うわ、最悪……」


眉をひそめるものの、否定しきれないのかミズキちゃんは黙ってしまう。

しかし、すぐに落ち着きをなくして相好を崩した。


「いいこと思いつきました。久瀬さん、そっちのアイスください」

 



自分のソフトクリームをせかせかと食べ切って、あ~んとミズキちゃんが口を開ける。

そうやって仲の良さを見せつけたいのだろうが、そんな子供っぽい仕草では余計に恋人には見えないと思う。


「ふむ」


俺は手にしたソフトクリームに視線を落とす。

それを舐めた後、少し唇に馴染ませて、そのまま彼女にキスをした。


「……ん!?」


ミズキちゃんが驚いて身体を強張らせる。

気にせずソフトクリームでベタついた唇で彼女の唇を塞ぎ続ける。


「んんっ……!」


唇の間でお互いの唇についたソフトクリームが溶けていくのを感じる。

彼女からはイチゴの味がした。


「ん……はぁっ……!」


顔を離す。


「ふ、ふわっ……あぅぅ……」


がくがく、とミズキちゃんが頭を揺らしていた。

俺は気にせず、熱冷ましに自分のソフトクリームをもう一度口に含んで、辺りを見渡した。

様子を目にして何人かが顔を逸らし、それよりも多くの人間が笑みを浮かべていた。

 

それらに軽く手を振って応える。


「ま、ジョークジョーク」
「ど、どどど、どこがジョークですかぁ!?」


真っ赤になって叫ぶミズキちゃん。

重いっきり注目を集めまくる。


「オーストラリアン・ジョーク」


俺はソフトクリームの残りのコーンを口に放り込んでかみ締めた。


「これで嫌でも恋人に見えたでしょ?」
「……恋人というか、昼間っから物凄いことしてる変態に思われたような」
「そうかも」
「あああ……なんかどんどんダメな子に……。というか、なんか今年の夏に同じ光景を見た気がするー! 堤先輩の馬鹿ーっ!」


自分の存在意義と、誰だか知らない名前を叫びながら、ミズキちゃんが頭をかかえた。

嫌いじゃないはずなのに、何度やっても羞恥とか苦しそうな様子は変わらず……それがたまらない。

ああ、サドいな俺。


「うぅ……」


ため息をついて、彼女は唇の端に垂れたクリームを舐めとる。

 



「もぅ、べとべとだし」


呆れたような言葉に反して、そのべとべとに名残惜しさを感じているように聴こえた。


「また、キスしたい? それともその先まで?」
「……あのですね。ご自分の欲望ではなく、体力と生命力を考えて発言してくださいね」


こほん、とわざとらしい咳をしてミズキちゃんが頬を染める。


「そんな身体で、どこまでやれば気がすむんですか?」
「イけるところまで」
「しません」
「興味はあるでしょ?」
「……いいから」


急に声のトーンを落として。

 



「もうちょっと自分を大事にして……長生きしてください」
「…………。君を愛せないなら、それこそ俺は死んじゃうよ」
「……ばか」


微かに瞳を潤ませた天使がそこにいた。


…………。

 

……。

 



ぐるりと街中を散歩して、夕暮れ、ミズキちゃんは教会へと俺を誘った。

街が赤く輝いている。


「門限を過ぎちゃうけど帰らなくていいの?」
「いいんです」
「パーティーがあるんじゃなかったっけ?」
「だから教会へ行くんです」
「だから?」


ミサでも行なわれるのだろうか。

いや、それならパーティーだなんて言わないだろう。

教会はただの集合場所なのかもしれない。

俺はぼんやりと、彼女の揺れる髪を見つめていた。


……。

 



教会に着く頃には日が落ちていた。

中から大勢の人間の息遣いが聞こえてくるが、そこに火村がいないのだと思うと少し寂しくなる。

しかし、なんだか様子がおかしい。

ざわついているというのか。

教会という場所にあわない、華やかな雰囲気が戸口から漏れていた。

今日という日を考えれば、ここに人がいるのは当たり前なのだが──


「なにこれ?」


俺はミズキちゃんに訊ねてしまう。


「まあまあ」


彼女は俺の手をひいて教会の門をくぐった。


……。

 



中に入ると、どこぞの社交パーティーのような和やかで賑やかな風が吹く。

思わず足を止めてしまう。

なんだろう、この集まりは。

場違いに着飾ったご婦人までいる。


「……ミサ、じゃないのか?」
「おば様の関係者ですよ」


不思議そうに辺りを見渡す俺の隣に、ミズキちゃんが立つ。


「関係者?」
「お料理教室の人づてに聴衆を集めてもらったんですけど、思ったより集まりましたね。やっぱり奥様方は無料って言葉に弱いのでしょう」
「…………?」


なんの話かさっぱりわからない。

いや、ここでパーティー

ミズキちゃんは確かにここだと言っていた。

なにが始まるのか。

疑問を口にしようとするが、見知った人間がやってきたタイミングを逸した。

 



「メリークリスマス」

「メリークリスマスです」


ふたりの後ろにはすみれさんも見えたが、彼女は周囲のご婦人方に捕まっていて身動きがとれないようだった。

眼前の少年少女たちに目を移す。

なんだか3人とも楽しそうだった。


「ミズキちゃん、言われたもの持ってきましたよ」

「ありがとうございます千尋先輩」


彼女は嬉しそうに細長い包みを受け取り、もう片方の手で俺の手をとる。


「久瀬さんにクリスマスプレゼントがあるんですよ」

「なに?」

「ちょっとこちらへ」

 



手をひかれて祭壇の前に立たされる。

なぜか俺に視線が集まっている気がした。

なんだろう?

彼女は満面の笑みを浮かべたまま、包みを丁寧にほどいていった。

 



「じゃじゃ~ん! これ、お貸ししますんで存分に楽しんでください♪」

「…………」


めまいがした。

死ぬかと思った。

あり得ない。

それはあの日に失われたはずのヴァイオリンだった。


「……ねえ、ミズキちゃん」

「なんですか?」

「なんでこれ、ここにあるの?」

「わ、びっくりぎょうてん! 久瀬さん風に言うと、オーストラリアン・ショッキング・ピーチ・ツリー!」

「…………」


ギギギと顔を上げる。


「あの時のあれは?」

「ああ、あんなのケースだけに決まってるじゃないですか。一般市民代表のわたしが、1億円以上するものを捨てられると思います?」


やられた。


「くそっ……本当のことしか言わないって約束していたくせに」

「わたし、捨てたなんて一言も口にしてません。それに、その約束をしたのはその後のことです」

「…………」


やっぱり雨宮優子に似てるじゃないか。


「弓は安いやつですけどね。そっちが本当のプレゼント♪」


にっこり笑う少女の耳元に顔を寄せる。

 



「……嘘つき。後で覚えてろよ」

「……ずっと覚えてますよ」


艶のある視線を向けて、それも一瞬、彼女は「キャー」っと冗談みたいな声をあげて逃げていった。

蓮治の背中に隠れながら舌を出される。

千尋ちゃんが複雑な意味をこめた右目で見ていることも知らずに。

 



「やれやれ」


俺はヴァイオリンに目を落としてため息をついてしまった。

呆れるほど手にしっくり来る重さだ。

つまり、そういうわけだ。

この方々は、俺の演奏を目当てに集められたってわけだ。

聖誕祭。

観客と舞台は整えられて。

後は役者だけ。

 



顔を上げる。

多くの視線が向けられている。

期待を向けられている。

こんな俺に。

再びヴァイオリンに視線を移した。


「……まだ、こいつにも嫌われてなければいいんだけどね」

 



肩にのせてAの音を奏でる。

悪くない、かな。

調弦の音を聞きつけて教会が静まる。

演奏前の心地よい緊張感。

ミズキちゃんがなにか口を動かしている。

 



『メリークリスマス』


そして俺に右手を向ける。

人差し指を立てて銃のように──

 



『バン』


心が打ちぬかれた。


「……ま、気楽にいきますか


なにを弾くのか迷ってみよう。

この日、この場で。

終わって始まる物語のプレリュードとして。


「クリスマスだしねぇ」


モードを切り替えて、くるりと弓を回す。

目を閉じる。

今日という素晴らしき日に。

人に祈りを捧げよう。


……。

 


賛美歌109番『Stille Nacht, heilige Nacht』