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Angel's holiday
“ef - a fairy tale of the two.”Pleasurable Box.
……。
色々なことが毎日変わってゆく。
俺のように、机に向かうだけの日々を送っている人間でも変わらずにいられない。
たとえば──
「やっほーっ!」
Chapter 1 After Story. ずっと、ここにいる
feat. Miyako Miyamura.
こんな感じに、いきなりドアが開いても動じなくなった。
以前はそりゃ驚いたもんだったけど、今ではスルーして、精密な線を引き続ける作業だってできるくらいだ。
なんの自慢にもならないけどな。
「ヒロヒローっ!」
もちろん、俺の部屋に入ってきたのは宮村みやこだった。
ノックもせずに飛び込んでくるのは、こいつ以外にいない。
「ヒロヒローっ、ヒロヒローっ、ヒーロヒロぉっ!」
「人の名前をそんなに連呼すんな。朝っぱらからどんなテンションだよ」
俺は持っていた鉛筆を机に投げ出して、ため息をつく。
時間は午前7時。
みやこは起きてまだ何時間も経ってないだろうに、なんでこんなに元気なんだ?
「つーか、みやこ。おまえ、今日も学校じゃないのか?」
今はまだ冬休み中だが、みやこは学園の冬期講習を受けているはずだ。
「そうだけどね。ま、登校する前にちょっと寄り道してみたんだよ」
「そうか」
俺は頭の後ろで手を組んで、椅子の背もたれに体重を預ける。
「受験までもう時間ないんだから、俺にはかまわなくていいって言ってるのに」
「ん-、受験のことを心配してくれるのは嬉しいんだけど」
「うん?」
「あまり長いこと放ったらかして、浮気でもされたら、刃物を持ち出すしかなくなるし」
「なんでいきなり猟奇的展開になるんだよ!?」
「ほら、ヤンデレっていうのが流行ってるんでしょ? とりあえず流行に乗っておこうかと」
「なんだそれ、聞いたこともねぇよ……」
みやこは最近、インターネットで怪しげな言葉を拾ってくるので、俺にはついていけない。
「あれ、知らないんだ? 漫画家さんなんだから、世間の流れは知っておいたほうがいいんじゃないの?」
「なにをどう間違っても、俺の漫画に刃物使うキャラが出てくることはないっつーの」
俺はため息をついて、コピー用紙に描いていたコンテを机の端に寄せる。
「お、それなになに? 今月分の原稿じゃないの?」
「ん? ああ、別の仕事だよ」
「…………」
突然、みやこが眉をしかめて厳しい表情を作る。
「絃くん……」
「な、なんだよ」
「もー、学園中退して時間作っても、お仕事増やしてたら意味ないじゃん」
「えっ」
「時間は無限じゃないんだよ。もっと考えてスケジュール組まないと。絃くんの性格だと、人から仕事を頼まれて、断れないのはわかるけど。でも、原稿落としたりしたら、仕事を断るよりずっと大きな迷惑を掛けることになるんだよ?」
「なんか、言葉だけ聞いてると、普通に編集者に怒られてるみたいだ……」
いや、大村さんが言うならこんな生やさしい言い方じゃないが。
「あ、そっか。あたし、編集者になってみようかな。面白そうだし、そしたら絃くんの手伝いもできるし。ん-と、普通に出版社に就職すればいいのかな。学歴とかやっぱ必要?」
「ちょ、ちょっと待て! おまえが仕事のときまで張りついてたら俺の心が折れる!」
「そう簡単に折れる子に育てた覚えはない!」
「姉貴みたいなこと言うな!」
姉貴は仕方ないとしても、景もみやこも、なんで俺の保護者みたいな顔をするんだ。
まあ……俺に問題があるんだろうけどさ。
「つーか、これは頼まれた仕事じゃねえよ。ちょっとした息抜きみたいなもんだ」
「ふーん……まあ、それならいいけど。で、その漫画、なに? 見せて見せて」
みやこは嬉しそうに笑って、身体を寄せてくる。
「いや、これは……」
俺は慌てて、その辺にあった封筒をコンテの上に載せる。
「むー、隠すことないじゃん」
「いいだろ、描きかけは見られたくねえんだよ」
「なーんか、怪しいなあ。もしかして、あたしに変なことするエロ漫画でも描いてるの? 願望充足漫画?」
「そんなわけあるか!」
「ちょっと痛いくらいのことなら、我慢できないこともないけど……」
「別におかしな趣味とかは持ってねぇよ!」
わざとらしく、恥ずかしそうにすんな。
「えー、ホントに?」
「あのな……」
いや待て、みやこのペースに乗せられて余計な話はしちゃダメだな。
「おっと、それより腹減ったなあ。夜食も食わずに、徹夜で仕事してたから」
「あっ、そうなんだ。それは大事だね!」
みやこは真面目な表情になって、ぽんと手を打ち合わせる。
どうやら、上手くごまかせたようだ。
みやこにとって、俺を空腹にさせておくのは、この世のなによりも許せないことらしいからな。
「じゃ、朝ご飯作るよ。和食でいいよね?」
「ああ、頼む」
「ご飯に大根のおみそ汁、納豆に目玉焼きとスクランブルエッグにチーズオムレツでいいかな」
「おい、待った。なんで卵尽くしなんだよ」
「だって、ほら。この前、景ちゃんが持ってきた卵が山ほどあるんだもん。早く食べないとひよこになっちゃうよ」
「千尋がひよこ好きだったな……いや、腐らせるのはもったいねぇし、ひよこにはならないけど……」
「心配しないで。このあたしの腕をもってすれば、飽きさせない卵尽くしを作るくらい、たやすいことだから」
「……それもそうか。んじゃ、よろしく」
「あいよー」
みやこはにっこり笑って、台所のほうへ歩いていく。
飯ができるまで、少し仕事を進めておくか。
……。
「はい、お待たせー」
「ああ、いつも悪いな」
「ふふふ、絃くんも素直にお礼が言えるようになったね。うんうん、ひねくれ者は好きだけど、時と場合によるもんね」
「さっさと食え。おまえは、登校しなきゃいけないんだろ」
「はーい」
みやこは、テーブルに置いたトレイから箸を取り上げる。
「んじゃ、いただきます」
俺も箸を手に取って、料理に口をつける。
「うん……」
やっぱり、いつ食ってもみやこの料理は大したものだ。
飽きるどころか、最近は俺好みの味付けを覚えてくれて、どんどん美味くなってきてる。
「どうしたの、絃くん? 口に合わない?」
「いや、なんでもない」
感心していたとは言えず、俺は慌てて料理をかきこみ始める。
「そんなに急いで食べなくても。残念ながら、朝食のデザートはあたしじゃないのに」
「そんなことを期待して早食いしてるんじゃねぇー!」
これで、料理人の性格に問題がなければ最高なんだがな。
……。
「ふー……」
俺は食事を終えて箸を置き、小さく息をついた。
すると、すかさず俺の前に湯飲みが置かれる。
「はい、食後のお茶だよ。熱いから気をつけて」
「ああ、サンキュー。至れり尽くせりだな。俺ももう少し、自分で家のことができるようになりたいんだけど……」
思わず苦笑いしながら、熱いお茶をゆっくりと飲む。
「こんなにみやこの世話になってちゃ、家事の腕なんて上がらねぇよな」
「でも絃くん、最低限のことはできるじゃん」
「一人暮らしを始める前に、姉貴がレクチャーしてくれたからな。一通りのことを覚えないと、家から出さないって」
その頃、姉貴は既に海外留学中だったのだが、わざわざ一時帰国して教えてくれたもんだ。
正直鬱陶しかったけど、そのとき身に着けたスキルは役立っているので、今はありがたく思ってる。
あれで、もう少しまっとうな性格だったら、いい姉貴なのになあ。
「ん……?」
「おっ?」
「ん、あれ……? なんだ、これ……?」
おかしいぞ、いきなりとんでもない眠気が……。
確かにここんとこ、まともに寝てないけど、急にこんな状態になるはずが……。
「おや、即効性じゃないはずなんだけど……もうおねむ?」
「ちょ、ちょっと待て……頭がぐらんぐらんするぞ」
「タネを明かすと、実はそのお茶に睡眠薬仕込んだんだけど……」
「睡眠、薬……?」
「また、最近ろくに寝ずにお仕事してるでしょ。だから、ちょっと荒っぽい手段を使って君を寝かせることにしました」
「お、おまえなあ……」
「でも、おっかしいなあ。こんなにすぐに眠くなるなんて」
みやこは、どこからか錠剤の入った瓶を取り出してきて、ラベルをじろじろと眺め始める。
「もしかして、入れる量間違えたかな……? でも、ここの注意書きに5錠って……あ、違う。"5錠飲むと死にます"って書いてあった」
「おーい!」
「大丈夫、実は致死量じゃないって……あたし信じてる」
「お、おまえの……思い込み……の問題じゃねぇ……。ぐー……」
…………。
……。
「うーむ、さすが絃くん。あんな状態でもツッコミを忘れないとは。成長したね、うんうん」
あたしは、薬瓶を軽く振って、テーブルの上に置く。
「もちろん、単なる即効性だよ。安心しておやすみ~。あたしが寝てって言っても、限界まで頑張っちゃうからね、絃くんは」
こうやって、強引な手段でも使って寝かしつけないと、いつか疲労がたまって倒れちゃうよね。
「さってと、あたしは後片付けしてガッコ行こっと」
おっと、その前に──
絃くんをベッドに寝かさないとね。
…………。
……。
「うう~ん……」
カツカツと響いている板書の音を聞きながら、あたしは首を傾げる。
「学園辞めて余裕ができても、結局は仕事につぎこんでるもんなあ……。ホントに困った男だぜ、絃くんは」
シャーペンでとんとんとノートを叩く。
受験に集中しろって言われても、だった世話を掛けさせないでほしいよね。
「おい、なにぶつぶつ言ってるんだ、宮村」
「ん?」
声がした方を見ると、我が下僕・つっつんが身を乗り出してきていた。
「広野がどうかしたのか? 仕事しすぎでぶっ倒れでもしたとか?」
「そうならないように気をつけてるよ。今日は睡眠薬飲ませて、寝かしつけてきたもん」
「……どうでもいいけど、もうちょっと手段選べよ」
「漫画家なんて、非常識な存在なんだから、まともな手段じゃ対応できないよ」
「そういう問題発言もやめておくように……」
「とにかく、あたしは今、広野絃救済計画を企んでいるところなんだよ」
「救済ねぇ……。どう考えても、ろくでもないことになりそうな。やめといたほうが、広野も平穏に──」
「せんせー、堤くんがあたしにワイセツ行為を働きましたー」
「は!?」
あたしが手を挙げると、クラスメイトたちがざわざわと騒ぎ、先生が振り返ってつっつんを睨んだ。
「ちょっ、待て! 汚いぞ、宮村!」
「つーん」
あたしは、ぷいっとそっぽを向いた。
悪いけど、今はつっつんに構ってる暇はないもんね。
…………。
……。
──「絃。おい、絃」
「ん……?」
俺は身じろぎして、自分がベッドに寝ていることに気づく。
あれ、確かみやこと朝飯を食ってて……それから……。
「絃。こら、起きろ。もう11時過ぎてるぞ。いつまで寝てるんだ」
「あ、姉貴……?」
「せっかく可愛い姉が訪ねてきたのに、横になったままというのはどういう了見だ」
「姉に『可愛い』はないだろ……。つーか、別に俺が呼んだんじゃねぇし……」
「……ん? 絃、君はそんなに寝起きが悪かったか?」
「みやこに一服盛られて、眠いんだよ……」
そうだ、思い出した。
どうやら死なずに済んだらしいけど、頭がぼけーっとする……。
「よくわからんが、またみやちゃんにしてやられたのか。まったく、負けっ放しだな、君は」
「いいだろ……ほっといてくれ……」
俺はごろりと寝返りを打ち、姉貴から顔を背ける。
「姉貴、いったいなにしに来たんだよ。なんか用か?」
「絃の顔だけでも見たくなって」
「……あんた、いったいいくつになったんだ?」
ガキの頃から異様なくらいに俺を可愛がる姉だったけど、いつになったら弟離れするんだろう。
「ここ数年、留学してたせいで君の顔をろくに見られなかったんだぞ。これまでの分、たっぷり見たいじゃないか」
「まあ、見たいなら好きなだけ見てくれ。騒がなけりゃ、俺も文句はねぇよ……」
「あっ、本当に寝直す気だな。この姉を放ったらかしにして」
「…………」
受け答えするから、話し掛けてくるんだよな。
このまま黙殺しよう……。
「しょうがないな……」
姉貴のつぶやきが聞こえ、ぎしりとベッドが軋んだ。
「…………?」
「よいしょ……」
「…………」
「おい、姉貴! なにをベッドに入ってきてるんだよ!」
姉貴はかまわずにベッドに入って、俺に身体を寄せてくる。
「今さら言うのもなんだが、できれば子供の頃のように『お姉ちゃん』と呼んでくれると嬉しい」
「本当に今さらだな……いや、そんなことはどうでもいい」
「うるさいな……寝るんだから、そんなに騒ぐな」
「なんであんたまでここで寝るんだよ!?」
「ふぁ……あ……」
俺の追求など知ったことじゃないのか、姉貴はのんきにあくびする。
「実は僕、まだ時差ボケが治ってなくて……」
「あんた、帰ってきたの夏だろ!? もう1月だぞ! いつまでボケてるんだ!?」
「睡眠が不規則だからな……おやすみ、絃……。くー……」
「本当に寝やがった……」
……そういえば、俺が小さい頃はこうして一緒に寝てもらってたな。
俺にとっては姉というより、母親みたいなもんだし。
「たまにはいいか……」
……。
「って、そんなわけあるか!」
この歳になって、姉だろうと母親だろうと一緒に眠れるわけない。
つーか、こっちはすっかり目が覚めちまったよ。
「しょうがない……」
俺はちらりと、時計のほうに目を向ける。
「もうすぐ昼か……」
飯の支度をして、姉貴を起こすのも悪い気がするしな。
たまには外に出て、飯を食ってくるか。
…………。
……。
「じゃあね、佐々木ちゃん。おっさきにー」
お昼になって講習が終わり、あたしは友達に手を振って教室を出た。
結局、考え事ばかりしていて今日の講習は全然聞いてなかった。
まあいいや、受験の準備なんてもうほとんど終わってるようなもんだし。
「それより、絃くんをどうするかだね。仕方ないから、つっつんにも相談してやろうと思ってたのに……」
どういうわけか、つっつんはいつの間にか姿を消していた。
「まったく、しょうがない下僕だぜ……」
あたしはぶつぶつ言いながら、廊下を歩いていく。
このまま帰ってもいいけど、その前に誰か捕まえて相談してみようかなあ……。
「あ、そういえば」
確か、今日は女子バスケ部の練習試合があるって景ちゃんが言ってたっけ。
そろそろ終わってる時間だけど……景ちゃんはまだ残ってるだろう。
「よーし、行き先決定。体育館へゴー!」
……。
体育館に入ると、すぐに見知った顔を見つけた。
あたしはその人に小走りに駆け寄りながら、手を振る。
「おーいっ、ミズキちゃん。やっほー」
「あ、みやこ先輩。ちわっす!」
さすが体育会系だけあって、ミズキちゃんが元気よく挨拶してくる。
「やっぱりミズキちゃんも来てたんだ。試合、どうだったの?」
「もちろん、音羽が勝ったに決まってるじゃないですか。なんてったって、景先輩がいらっしゃるんですから」
「やるなあ、景ちゃん」
あたしは頷いてから、周りを見回す。
「でも景ちゃん、いないね。もう帰っちゃったの?」
「いえ、いますよ。今はちょっと、悪さをした堤先輩を物陰に引きずり込んで、お説教してるだけです」
「説教、ね……」
つっつんがなにをしたか知らないけど、きっと無惨なことになってるんだろうね。
別にいいけど。
「ところで、そっちの子は?」
「あ、えーと……私ですか?」
眼帯をつけたラブリーな女の子がびっくりした顔でこっちを見る。
「みやこ先輩は初対面でしたね。えーと、こちらは──」
「景ちゃんの妹さんの千尋ちゃんだね。はじめまして」
「あーっ、人がせっかく紹介しようとしてたのに」
「でも景ちゃんにそっくりだし。見ればわかるよ」
ミズキちゃんがしゃべってるうちに気づいたんだけどさ。
「じゃあ訊かないでくださいよ。まあ、みやこ先輩のおっしゃるとおり、わたしのラブリーな千尋先輩です。わたしの」
「あの……私、どうしたら……」
「千尋先輩はそのままの天然素材でいいんです! もちろん、もっとオロオロしてくれたりしますと、ご飯3杯食べられるくらい萌えますけど!」
「確か、ミズキちゃんも彼氏ができたって聞いたけど、あんまし前と変わんないね……」
「それはそれ、これはこれ、別腹ですから」
「あのさ、ミズキ。揚げ足を取るようだけど、千尋に『これ』は酷いんじゃない?」
「はっ、そう言われれば! ごめんなさい、千尋先輩! そんな無礼を働いたわたしを罵ってください!」
「この卑しいイヌめ!」
「うきゃー、本当に罵られた!」
「え? や、やっちゃいけなかったんですか?」
「……千尋。どこでそんな言葉覚えたの?」
「えーと、どこでしょう。ここ13時間で覚えたわけじゃない……と思いますが」
「こっちに来てから、千尋の意外な面を垣間見続けてる気がするな」
「……ところで、ミズキちゃん。もう一つ質問なんだけど、こっちの子はなんじゃらほい?」
「こっち? ああ、こいつですか。これはわたしの従兄で、自称"千尋先輩の恋人"とか夢見ちゃってる麻生蓮治です」
「ちょっと! 自称って、それじゃあ危ない人みたいだよ!」
「まあ、本当のところは人畜無害だよね。毒にも薬にもならないことは確かだし」
「人畜無害って……」
「うん、ミズキちゃんのイトコにしては普通っぽいね」
「なんか引っかかりますけど。確かに、ちょっとキャラが弱いですね、こやつは」
「ミズキと比べられてもなあ」
「男装に憧れる女の子なんて、いくらでもいるからね。それだけじゃ、イマイチかなあ」
「え? あの、なにか誤解があるような……」
「でも、千尋ちゃんと付き合ってるっていうのは、けっこう面白いなあ。凝った設定だね」
「……もうなんでもいいです」
蓮治という子はすべてをあきらめたような顔をして、肩を落とした。
キャラは弱いけど、この子もちょっと変わってるかな。
「なんか本人がへこんでますが、一応、説明の続きで。蓮治は帰国子女で、音羽学園に編入するための試験を受けに来てるんですよ。千尋先輩はその付き添いですね」
「へえ、そうだったんだ」
「ミズキちゃん、できれば私たちにも、こちらのお姉さんを紹介してくれませんか?」
「あ、そうですね。こちらは、宮村みやこ先輩です。音羽の3年生で、驚くべきことにヒロ先輩の彼女さんです」
「わ、絃お兄さんの彼女さんですか」
「あー、前にミズキが言ってた、色んな意味で凄い人っていう」
「……ミズキっちゃん?」
ぽん、とあたしは優しくミズキちゃんの肩に手を置く。
「ひうっ!?」
「あたしのことを人にどんな風に話してるのかな? お姉さん、ちょっと気になってきたよ」
「い、いえ、わたしはただ、ありのままのみやこ先輩の姿をですね……」
「ありのままに伝えたら、引かれちゃうじゃん!」
「ああ、自覚あったんですね……」
「あ、ぜんぜん関係ないけど。ミズキ、なんか用事があるって言ってなかった?」
「あ、そうだった。みやこ先輩。すみませんが、千尋先輩と蓮治のことをお願いしてもいいですか?」
「あいよ。どーんと任せておいて」
景ちゃんの妹さんには前から興味があったし、ゆっくり話してみたい。
それに、どうせ今すぐ帰るわけじゃないしね。
「それでは、お名残惜しいですが、これにて失礼~」
ミズキちゃんはひらひらと手を振って、スカートの裾を揺らしながら走り去って行った。
「さて……と。景ちゃんは、まだ戻ってこないね」
「お姉ちゃんのお説教は長いですから」
千尋ちゃんが、少し困ったように笑う。
「説教だけで終わらないだろうしねー。なんか、あたしはお腹すいちゃったよ」
「あ、今日はお弁当を作ってきてるので、よかったら宮村さんもどうですか?」
「蓮治くんのお弁当は美味しいので、是非」
「あたしもお弁当作ってきてるよ。ちょっと多めだからみんなで分けられるんじゃないかな」
「それなら、僕のと宮村さんのお弁当を3人で分けましょう」
「勝負だね」
「……え、勝負?」
「あたしのお弁当が美味しいか、蓮ちゃんのお弁当が美味しいか! 戦いのときは来た!」
「れ、蓮ちゃんって……」
「では、僭越ながら私が審査員を」
「よろしく~」
「え? ええ!?」
……。
「うーっ、さすがにこの時期は寒いなあ。でも、久しぶりの屋上は悪くないね。気持ちいいー」
千尋ちゃんが、ちょうど景ちゃんから鍵を預かっていたというので、あたしたちはここへやって来た。
どうせなら、いい景色を見ながら食べたいもんね。
「こっちの屋上も、向こうの音羽と変わりませんね。遠くの景色は違いますけど」
「うわ~、高いですね」
「千尋、あんまり端っこに行くと危ないよ」
「大丈夫ですよ」
千尋ちゃんが屋上のふちから下を覗きこんだり、風をうけるように両手を広げたりしている。
「うーん……」
「どうかしましたか?」
「んにゃ、話には聞いてたけど、景ちゃんとは全然違うんだなあと思って」
あんなに素直でふわふわした子だったなんてね。
ミズキちゃんじゃないけど、思わず抱きしめたくなってきちゃうよ。
「なんの話ですか?」
戻って来た千尋ちゃん本人が訊ねてくる。
「千尋とお姉さんが全然違うんだな~って」
「どうでしょう。違うって言われることも多いですが、ちょっとしたことでそっくりだって言われることもあります」
「ふーん……もしかすると似てるところもあるのかもね」
可愛さでは、景ちゃんに負けず劣らずだしね。
「それじゃあ、お弁当を食べましょうか。温かいお茶と予備のコップもありますから、宮村さんもどうぞ」
「おー、蓮ちゃんって気が利くんだね。きっと、いいお嫁さんになれるよ」
「もちろんです」
「あの、お嫁さんって……。いや、いまだに反応しちゃう僕がいけないんだな」
蓮ちゃんはぶつぶつ言いながら、きちんと用意していたレジャーシートを広げ、お弁当を置く。
あたしもお弁当をシートの上に置いて、ふたを開ける。
「それじゃ、これがあたしのお弁当ね。遠慮せずに食べてくれていいから」
「わあっ、美味しそうです」
「これは確かに。盛りつけもきれいですね」
「ちなみに、あたしのお弁当って当たり外れがあるから」
「はい?」
「わ、おみくじみたいですね。当たるとなにかもらえるんですか?」
「当たったら美味しい料理が食べられるだけ。外れると……まあ……ねえ……くすくすくす」
「なっ、なんでそこで笑うんですか!?」
「ううん、こういうのは話さないのが粋ってもんだよ」
もちろん、外れはつっつんにでも食べさせるつもりだったけど、今日は面白いことになってきた。
「やばい……この人、うちの母親とか久瀬さんと同じタイプだ……」
なにやらぶつぶつ言ってるけど、放っておこう。
「どーれどれ。あたしは蓮ちゃんのお弁当をいただいてみますからね。いただきます」
お箸を手に取って、鶏のソテーを一つつまんでみる。
「もぐもぐもぐ……」
「どうでしょう?」
「なんだか、私までどきどきしますね」
「んん……。こ、これは……っ!? よほどじっくり下ごしらえしたのか、とろけるような肉の柔らかさ……っ! 噛めば噛むほど染み出してくる、鳥の滋養……っ! 辛めに味付けされたソースが、あっさりしたお肉と、絶妙なハーモニーを奏でている!!」
「れっ、蓮ちゃん! どこでこんな料理を覚えたの!?」
「ど、どこでって、普通にうちの母親から習っただけですけど」
「蓮治くんのお母さんは、料理教室の先生をやってるんですよね」
「プロの技を継ぐ者だったか……いかにも冴えない外見だから、大したことないかと思ってたよ!」
「あのー、なんか僕に恨みでもあります?」
「たった今、君に憎しみを抱きつつあるところだよ」
「なんでですか!?」
「蓮治くんなんて、死んじゃえばいいのに」
「ええっ!?」
「──っていう顔をされてますね、宮村さん」
「千尋……今の、わざとじゃないよね?」
「なにがですか?」
「いや、いいんだ……もう……」
「よくわかりませんが、次は宮村さんのお弁当をいただきますね」
見事に蓮ちゃんの涙をスルーして、千尋ちゃんがあたしのお弁当を覗きこむ。
「そうだ、勝負だったんだ。さあ、どんどん食べちゃって」
「はい、じゃあ卵焼きにしましょう」
千尋ちゃんは嬉しそうにお箸で卵焼きをつまんで、口に入れる。
「もぐもぐ……。あっ、これ……」
「どうかな?」
「凄く美味しいです。甘いのにさっぱりしてて。この卵焼き、なにか普通とは違うものが入ってますね」
「切り干し大根と桜エビがポイントなんだよ」
「ああ、甘さも引き立ちますし、食感を変えるのもいい手ですね」
「なるほど。これは、クセになりますね」
千尋ちゃんが卵焼きを口にしながら、こくこくと頷く。
「なんだか、もう一人の姉としてお慕いしたくなってきました」
「あっ、千尋が餌付けされてる」
「ところで、ちぃちゃん」
「そっちはまたニックネーム付けてるし」
「凪お姉さんみたいですね。お姉さんは"ちろちゃん"、って呼びますけど」
「ちぃちゃんの主観的な判断でかまわないんだけど、あたしと蓮ちゃん、どっちのお弁当のほうが美味しいかな?」
「その、どちらも凄く美味しかったのですが……」
「いや、勝負だからさ、どちらかといえばで」
「宮村さん。本人を目の前にして、そういう評価を無理に下さなくても」
「蓮治くんです」
蓮ちゃんの言葉を遮るようにして、ちぃちゃんはきっぱりと言い切った。
「…………」
「ん-と……え?」
「本当に申し訳ないのですが、私には蓮治くんのお弁当のほうが美味しいです」
「うぅむ……。そっか。よし、よく言ったよ、ちぃちゃん!」
「あの、宮村さん?」
「ほい、どうしたの?」
「怒ってないんですか? その、この勝負、あなたの負けってことになりますけど」
「ふはは、あたしも愛の力に勝てると思うほど傲慢ではないよ」
「え、傲慢じゃないんですか?」
「うふふふふ。やっぱり、景ちゃんの妹だね。言うことは言うんだ」
「お姉ちゃんにも、『言いたいことははっきり言いなさい』って教え込まれてますから」
「ああ、怖い……天然でストッパーの効いてない会話が怖い……」
「いいねぇ、蓮ちゃん。こんな可愛い子に愛されてて」
「あ、愛ってそんな……」
「そ、そそ、そうですよ」
「2人ともびっくりするくらいコテコテな反応だね」
「あはは……あ、いや……そうだ! 僕も宮村さんのお弁当をいただきますね!!」
照れ隠しのつもりなのか蓮ちゃんがシューマイを口に放りこむ。
「もぐもぐ……ん? なんか、あんまり味が……あれ……?」
「─────っ!?」
蓮ちゃんは、ばたっと地面に倒れたかと思うと──
「あううっ、うううっ、うううううっ!」
「れ、蓮治くんが生きたままフライにされたエビのように跳ねてます!」
「おおお?」
悪魔にでも取り憑かれたかのように、背筋を使ってジャンプを繰り返している。
蓮ちゃんってば、凡人のように見えて、意外と面白い芸を持ってるね。
「……も、もしかしてアレが外れだったんですか?
「うん、カラシたっぷりの炎のシューマイ。でも、ちょっとオーバーリアクションすぎるなあ。若手芸人さんでもあそこまでやんないよね」
「あ……あれが演技だったら、若手でもすぐに天下を取れますよ」
「だよねえ……となると。あー、そうか、そうか。しまった」
「どうされたんですか?」
「絃くんは激辛とか苦いのとかに慣れちゃって、美味しく食べちゃうからさ。最近は、かなりキツめに辛くしてるんだよ」
「なるほど、それで蓮治くんが見るも無惨な有様に……」
「うああああああああああ!」
「ああ、蓮治くん……」
「今のあたしたちには、見守ることしかできないね……」
あたしとちぃちゃんは、今にも点に召されそうな蓮ちゃんに優しい視線を注ぐ。
「そっ、そうじゃなくて! 水! 水をっ、くださいっ!」
「あ、その手があったか」
「意外な盲点でしたね」
「早くーーーっ!」
……。
「……それでは、僕は午後のテストがあるので」
まだ口の中がバカになったままなのか、蓮ちゃんの歯切れは悪い。
「千尋、また後でね」
「はい、応援してますので頑張ってくださいね」
「うん、ありがとう」
蓮ちゃんとちぃちゃんは、揃ってふんわりとした笑顔を浮かべる。
「はー、和むなあ、このほのぼのカップルは」
「それで……」
「うお? なんで睨んでるの?」
「僕は行かなきゃいけないんですけど……千尋に変なことしないでくださいね」
「あはは、心配性だね」
「あなたの性格を知れば、心配もしますよ!」
「平気だよ。だって、ちぃちゃんには怖いお姉さんがついてるもん」
「あ~、それは確かに説得力がありますね」
「あはは……」
「今度こそ行きますね。それでは」
「はい、行ってらっしゃい」
「ばいばーい」
手を振るあたしたちに見送られて、蓮ちゃんは廊下の向こうへ去って行った。
「さぁてと。ちぃちゃん、それじゃあ体育館に戻ろうか。景ちゃんの折檻──じゃなかった、お説教もさすがに終わってるだろうし」
「はい」
……。
「千尋ー。もう、どこ行ってたのよ」
体育館に入ると、景ちゃんが戻ってきていた。
「お姉ちゃん。蓮治くんと宮村さんと一緒に、屋上でお弁当を食べてたんです」
「そう。みやこさんが千尋を連れてきてくれたんですか」
「まあね。ミズキちゃんは用事があるって帰っちゃったし、蓮ちゃんは試験に行っちゃったからさ」
「へえ……」
なぜか、景ちゃんはなにやら考え込んだかと思うと。
「千尋……みやこさんに変なことされなかった?」
「え……」
「言うようになったじゃん、景ちゃん……。つーか、ミズキちゃんじゃあるまいし、あたしは両刀じゃないってば」
「そういう心配をしてるわけじゃないですけど。あなたは面白ければなんでもいい人じゃないですか。うちの妹は、からかい甲斐がある子であることは否定できません」
「そうなんですか……。ちょっと傷つきました……」
「あっ、ごめん。つい、本音が」
「うう~……」
「えーっと、そうそう、景ちゃん。試合、勝ったんだってね。おめでと」
「あ、ど、どうもありがとうございます」
あたしと景ちゃんは、連携して話題を逸らす。
「そうだ、私もまだおめでとうを言ってませんでした。おめでとう、お姉ちゃん」
「あ、あはは。千尋もありがとう」
ほっ……。
どうやら、ちぃちゃんのマジ泣きは回避できたようだね……。
「やっぱ凄いよね、景ちゃんは。ブランクもなんのその、だね」
「そ、それほどでもないですよ。勝ったって言っても、ただの練習試合ですから。これくらいじゃ、威張れません」
「相変わらずツンデレだね。で、それはそれとして……。さっきから気になってたんだけど、そこに転がってるボロ布みたいなのなに?」
「これですか。ただの京介先輩です」
景ちゃんは、足下に転がっている我が下僕をつんつんとつま先で蹴る。
「う、ううう……」
「ちょっとしつけをしてあげただけですよ。先輩のくせに、なかなか言うことをきかなくて困ります」
「こちらのカップルは和まないなあ……。まあ、そんなことどうでもいいか。それより、景ちゃんに訊きたいことがあるんだけど」
「はい? なんですか?」
「ちょっと待てーっ! さらっと流すなよ、さらっと! クラスメイトがボコボコにされてるんだから!」
「それがつっつんの役回りでしょ」
「とんだミスキャストだな……」
「ま、これはさらっと流したままにしておくとして」
「おーい……」
「ええ、どうぞ話を続けてください」
「彼女にまで裏切られた……」。
つっつんが再び崩れ落ちる。
「訊きたいことっつーか、相談なんだけどさ」
泣きむせぶつっつんをスルーして、あたしは手短に絃くんの現状を伝える。
退学して使える時間は増えたけど、結局は仕事ばかりになっていること。
本人は元気そうにしてるけど、たぶん疲労がかなりたまっていること。
なにかリフレッシュさせないと、心配でしょうがないこと──
「ふうん……みやこさんも意外と真面目に考えてるんですね」
「新藤姉妹、揃ってなかなか辛口だね……」
「でも、対策があればとっくにわたしがやってますよ」
「言われてみれば、そうか……」
あたしと出会う前は、絃くんにかまうのは景ちゃんの役目だったんだもんね。
「今は、みやこさんが食事を作ってくれる分、生活がマシになったじゃないですか」
「でも毎日じゃないしさ。毎日行くと、絃くんも勉強しろってうるさいし」
「うーん、わたしもお兄ちゃんの生活は気になりますけど、お兄ちゃんは加減できない性格ですからね」
「おいおい、二人とも、さっきからなに言ってるんだ」
「あれ、つっつん。いつからいたの?」
「さっき、ボロボロにされてたのを確認しただろ! あっという間に忘却するなよ!」
「割とどうでもいい存在だからね」
「おまえが一番辛口だよ……」
「それで、なんなの?」
「言いたいことがあるならさっさと言いなさいよ。もったいぶっても時間の無駄よ」
「俺も救われたい……」
「で、なにが言いたいの?」
「そうだった。あのな、そんなに深刻に悩むことじゃないだろ」
つっつんは偉そうに言って胸を張る。
「そんなもん、宮村がエロいコスプレでもしてサービスすれば、一発で元気になるって!」
──ッ!!
「はぐうっ!」
景ちゃんが目にも留まらぬ動きで肘打ちを繰り出し、つっつんの身体が見事にくの字に折れる。
「し、身長差を利用しての下から突き上げるような肘打ちか……見事、見事だぜ、景ちゃん……」
「つっつーん!」
がっくりと倒れたつっつんを、あたしは足でつつく。
「学園生活ももう少し残ってるんだから、今死なれると困るよ!」
「卒業まで下僕として使い続けるつもりか……」
「え? 卒業まで?」
「その先があるかのように言うなっ!」
「あんたもバカなことを言うんじゃなーい! そういう意見を求められてるんじゃないでしょ!」
「そうだよ! コスプレサービスの準備くらい、とっくにぬかりなく済ませてるよ! 後はお披露目するタイミングだけだよ!」
「とんでもないことを、勢いで言うんじゃねぇ!」
「え、あたし変なこと言った……?」
コスプレの準備くらい、別に彼女として当然のつとめだと思うんだけど。
というか、景ちゃんの男言葉を久しぶりに聞いたなあ。
「ああ、もう……真面目な話をするんじゃなかったの? コスプレはともかく……みやこさんに思いつかないとなると、わたしたちには難しいですね」
──「あ、でも」
ずっと黙っていたちぃちゃんが、おずおずと口を開く。
「一度倒れてみれば、絃お兄さんも自分の愚かさに気づくかもしれませんね?」
「そうね、漫画家って入退院を繰り返すものでしょうしね。一度倒れれば、ハクがつくんじゃないかしら?」
「うーん、新藤姉妹ってさ……」
「表面的には似てなくても、内面的にはほぼ同一と言っていいような気もしてきたよ……」
「そうですか?」
「そうでしょうか?」
「うん、似てるよ。俺も二人とも好きだし」
「よし、よくわかったわ。ねえ、京介先輩、もう一回校舎裏に行ってみましょうか」
「ぎゃーっ! やだーっ、もう校舎裏は嫌だあああ!」
「ふーむ」
引きずられていくつっつんの絶叫を聞きながら、あたしは腕組みをする。
新藤姉妹の言うことは極端としても、甘やかしすぎるのもよろしくないか……。
いや、でも……。
ううむ、相談したのに悩みが増えちゃったよ……。
……。
とは言っても、いつまでも学校でうだうだと悩んでいるわけにもいかない。
もう相談する相手も、校内にはいないみたいだし。
それに考えすぎるのは、あたしのキャラじゃないしね。
……。
とにかく、動いてなにか打開策を見つけないと──
──「あっ、みやこ先輩。再びこんちわっす!」
「お?」
ミズキちゃんが、ぶんぶんと元気よく手を振りながら駆け寄ってくる。
「なに、ミズキっちゃん。また戻ってきてたの?」
「はいっ、今度は久瀬さんの付き添いで」
「久瀬さん?」
「そうか、みやこ先輩は初対面なんでしたね。どうぞ、久瀬さん、ご挨拶!」
「どうもどうも」
ミズキちゃんに促されて、ひょろりとした体格の男の人があたしの前に立つ。
「はじめまして。OBの久瀬修一です」
「こちらは、宮村みやこ先輩です。ほら、前に話したじゃないですか。ヒロ先輩の彼女さんです」
「ああ、凪の弟くんの。おやおや、よく見るとずいぶん綺麗なお嬢さんだね」
「そうでしょう、そうでしょう。景先輩より先にお会いしてたら、わたしもフォーリンラブしてたかもしれません」
「景先輩って子は前に写真で見たけど、宮村さんとはずいぶんタイプが違わなくない?」
「わたしの愛は、八方向どころか十六方向くらいに広がるんですよ!」
「じゃあ、俺もその十六の中に含まれてたわけやね」
「あー、まあそれは、なんと言いますか」
珍しく、ミズキちゃんがもじもじと恥ずかしそうにする。
「あーっ、そうか! 景ちゃんから聞いてるよ!」
あたしはぽん、と手を打ち合わせて男の人の顔をじっと見る。
「この人があの有名な──ミズキちゃんをゲットした、ちょこっと危ない趣味の彼氏さんだね!」
「……俺も違う意味で有名になったもんだ」
あ、遠い目。
「わたしが言うのもなんですけど、あながち否定しきれないところが……」
こっちも目が死んでるね……。
「いや、そんなことより! えーっと、えとえと……久瀬さんって確か……。危ない人だけど、プロのヴァイオリニストなんだよね!?」
「俺のハートをえぐる余計な一言は気にしないでおくが。まあ、"元"プロだよ」
「よっしゃ。もう1コ確認。ミズキちゃん、絃くんがファンだって言ってたのはこの人だよね?」
「ええ、それは間違いないかと」
「そっか……」
あたしは、こくりと一つ頷く。
この人が"あの"久瀬修一というなら、これは願ってもないチャンスだ。
絃くんを元気にさせる特効薬がこんなところに──
「久瀬様」
あたしは床にひざまずく。
「いきなり様付けになったね」
「お願い申し上げたいことがございまして……」
「おおお……たとえ相手が神だろうと、生意気でわがままを貫きそうなみやこ先輩が! 敬語を使ってる!」
「いや、普通に言ってくれていいから。なに、お願いって?」
「では、言わせてもらいます──」
あたしは立ち上がって、まっすぐに久瀬さんの目を見据える。
「久瀬さん。1曲でいいんです。うちの絃くんのために、あなたのヴァイオリンを演奏してくれませんか?」
「ごめん、無理だわ」
「即答だ!」
「すみません、割ときっぱり言う人で……」
ミズキちゃんが申し訳なさそうに、何度も小さく頭を下げる。
「さらにはっきり言ってしまえば、一人のファンのために演奏はできないってことだよ。なにより、俺はもう引退した身だからね」
「…………」
嘘や冗談を言っているようには見えない。
ふざけているようだけど、ちゃんと本心で話してくれていることは、あたしにもわかる。
「もう、絶対にヴァイオリンを弾くことはないんですか?」
「いや、この前のクリスマスには教会で弾かせてもらったし、事情によるって感じかな。ただ、そういう意味でも今回の場合はね──冷たい言い方だけど、俺は君の彼氏さんに演奏してあげる恩も義理もない。だから、ごめんね」
「……ん」
「しょうがないね。悪かったよ、久瀬さん。確かに、あなたの言うとおりだと思う」
「あの、久瀬さん。わたしからのお願いでも──」
「いいんだよ、ミズキちゃん。無理にお願いしてもしょうがないしね。でも、ミズキちゃんの気持ちは嬉しいよ。ありがとう」
「みやこ先輩……。なにを企んでるんですか?」
「なんでそうなるの!?」
あたしだって、誰にでもわがままを通すわけじゃないのに!
引き下がったフリして、計略を巡らしているわけでもないのに!
…………。
……。
「ん……?」
俺は、かすかに聞こえてきた足音に、机から顔を上げる。
「ふぁ~……」
そして、音も立てずにドアが開いたかと思うと、みやこが幽鬼のような顔をして部屋に入ってきた。
「ただいまー……」
「おまえんちかよ、ここは」
「半分住んでるようなもんじゃん。だいたい、受験終わったら一緒に暮らすんだし……」
「そんなこと、今初めて聞いたぞ!」
「おまえ、そういう重要なことをさらっと決めるなよ、さらっと!」
「それはもう決定事項だから、つっこむようなことじゃないんだよ……。今はそれどころじゃないの……」
ますます、みやこは負のオーラを漂わせて、がっくりと肩を落とす。
「なんだ、学校でなんかあったのか?」
「まあ、ちょっとね……」
「おまえ……今度はいったい、なにをやらかしたんだ?」
「ちがーう! みんな、あたしを誤解してるよ! あたしはすっかり更正したのに、大人も友達もわかってくれない!」
「なんの青春ドラマだよ」
ていうか更正って、以前はグレてたみたいな言い方だな。
まともに登校しない問題児ではあったけれど。
「まあ、真面目に聞いてやるよ。どうしたんだ?」
「ん-、なんていうかね……。プロって、引退しても染みついたプロ根性は消えないんだなあって……」
「いつも以上に、なにを言ってるのかわからねぇよ」
「はは、いいんだよ。愚かなあたしを笑ってくれ……」
みやこは力無く笑って、小さく手を振った。
なんだかわからんけど、重症のようだな……。
「あのな、みやこ。よく聞け」
「……んん?」
「なにを企んでるのか知らんけど、もう年も明けたんだし、受験に集中しろよ。みやこのほうこそ、いくつも抱え込んでられない時期だろ。大げさじゃなくて、おまえの将来がかかってるんだぞ」
「…………」
なぜか、みやこはキラキラした目で俺を見つめている。
「な、なんだよ」
可愛いとは思いつつも、こいつが普段と違う目をすると、嫌な予感がするんだよな……。
「絃くんが優しい……」
「べ、別にそういうわけじゃ……ただ、当たり前のことを言ってるだけだっつーの!」
「しかもツンデレ……攻略したくなってきたよ」
「また、わけのわからんことを……」
「その優しさに報いるために、あたしは再び走り出すよ!」
「待て!」
宣言どおり、本当に走り出そうとしたみやこの腕をとっさに掴む。
「行くって、どこへだよ!」
「もっかい行ってくるんだよ! 久瀬修一! 久瀬修一を探せ!」
「久瀬さん……?」
意外な名前が出てきたな。
みやこは、あんまりヴァイオリンとかには興味なさそうだったのに。
「うちの姉貴から紹介でもされたのか?」
「ううん、そうじゃないけど。そう言えば、凪さんのお友達なんだっけ」
「友達って言うと、二人とも微妙な顔するけどな。それより……」
俺は、机の上に積んだコピー用紙の束にちらりと目を向ける。
今、久瀬さんの名前が出てきたのは、ちょうどいいと言えばちょうどいい。
「俺も久瀬さんに用があるんだよ。探しに行くなら、俺も行くぞ」
「へ? 用ってなに?」
「そいつは、歩きながら教えてやるよ。みやこも、なにがあったのか、説明してくれ。ていうか、久瀬さんがどこにいるのか当てはあんのか?」
久瀬さんはこの街の出身らしいけど、何年も向こうの音羽に住んでたわけだしな。
姉貴がうちの実家に泊めようとして、逃げられたとか聞いた気もするけど……。
「う、うーん……。さっきは学園で会ったんだけど、もうだいぶ時間も経っちゃってるしなあ」
「どこかのホテルにでも泊まってんのかな。いや、そろそろ晩飯とか──」
「んー……。あ、そうだ、ミズキちゃんに電話すればわかるんじゃない?」
「なるほど、その手があったな」
携帯を取り出し、羽山の番号を呼び出す。
たまには、羽山にも後輩として役立ってもらおう。
……。
"教会"という建物の名前を聞くと、少し胸が痛くなるのはなぜだろう。
──「ヒロくーん、ヒロくん。ヒロくんってばー!」
あのクリスマスの夜に出会ったあいつを思い出すからだろうか。
去年の夏までは、呼ばれもしないのに姿を見せていた黒ずくめのエセシスターは、どこに行ってしまったのか。
みやこや景、それに京介もまったく会っていないらしい……。
「……絃くん?」
「え? ああ、なんだ?」
「さっきから話し掛けてるのに。絃くんってば、どうも最近あたしの扱いが軽いよね」
「えっ、そうか……?」
別に態度を変えたつもりはないけどな。
「こんな可愛い彼女がいることが、どれだけ幸せなことかわかってないよ、もう。普通の男の子なら、あたしの言葉を一つ残らず聞いて、寝る前にすべて日記に書き留めておくだろうに」
「そんな奴、気持ち悪いだろ……」
「それもそっか。ソッコーで別れるね」
「まったく、おまえは……おっと、いらっしゃった」
「絃くんが敬語使ってる」
「い、いいだろ、別に。俺だって敬語を使う相手くらいいるんだよ」
「久瀬さん、お待たせしました」
「やあ、広野くん」
ちゃんと羽山が話を通してくれていたらしく、俺たちを見ても驚いた様子はない。
久瀬さんの足下にはヴァイオリンケースが置かれてるけど、ひとまず気にしないことにしよう。
「おや、さっきの……宮村みやこちゃんだったね。お揃いとは、微笑ましい限り」
久瀬さんはにっこり笑って、うんうんと頷いた。
「いいねえ、若いっていうのは。俺も君たちくらいのときは、毎日が楽しくて仕方なかったよ」
「今も充分、楽しそうに見えますよ」
「まあね。そう言われるために言ったのさ。そもそも、楽しいことってのは歳によって変わってくるんだよ。昔は楽しかったことが、今はつまらなかったり。その逆もまた然り。楽しいことだけじゃないね。怖いことや悲しいことも、なんでもだな」
「なるほど……深いですね、久瀬さん。さすが、芸術をやる人間は違いますね」
「あ、芸術で思い出した……。若い頃の怖いことの8割くらいは、君のお姉さんが原因だったな……」
「えぇっ!?」
「ああ、広野凪……あんな災厄が学園にいるとわかっていれば……。いや、美人だからって最初にあいつに近づかなければ……」
「おおっ、久瀬さんのテンションがみるみるダウンしていく!」
「す、すみません。うちのバカ姉がいったいなにを……」
「その記憶はもう封印したから、できれば掘り返さないでくれ……」
久瀬さんは、力無く笑って首を振る。
姉貴め……世界的ヴァイオリニストにトラウマを植え付けるとは、今も昔もろくでもねぇ。
「えーと、それでなんの用かな。ミズキちゃんは会ってくれって話だけで、なにも言ってなかったんだけど」
立ち直ったらしく、久瀬さんがにこやかな笑みを浮かべて言った。
ちなみに、久瀬さんが教会にいることを教えてくれた羽山は、現在別行動中らしい。
「すみません。手早く済ませたほうがいいですよね」
「別にゆっくりでかまわないよ。でも、ちょっと寒いから、礼拝堂に入らせてもらおうか」
「賛成ーっ。久瀬っち、気が利くね!」
「みやこ! 失礼な呼び方すんなよ! この方をどなたと心得てるんだ!」
「お、おお……こんなに絃くんに怒られたのは、初めてかもしれないよ」
「君らも変わったカップルだねえ。俺は気にしないから、さっさと入ろう」
「は、はい」
「うぃーっす」
苦笑しながら礼拝堂に歩いていく久瀬さんに、俺とみやこも続いていく。
しかし……。
これからやることを考えると、ちょっと緊張してきたな……。
……。
「実は、見ていただきたいものがあるんです!」
「なにかな?」
俺は持っていたカバンからコピー用紙の束を取り出して、久瀬さんに差し出す。
「なに、これ?」
久瀬さんは首を傾げながらも受け取ってくれて、ぺらぺらと一枚ずつめくっていく。
「俺が描いた漫画です」
「そうだったね、君は漫画家──少女漫画家なんだったっけ」
「はい。それは、まだ鉛筆描き……っていうか、丁寧に描いたコンテってレベルですけど」
「俺がこれを読めばいいわけ?」
「はい、お願いします」
「ふうん」
久瀬さんは小さく唸って、一枚目に戻り、じっくりと読み始める。
「…………」
「……絃くん、大丈夫?」
みやこが俺の袖を引っ張って、小声で耳打ちしてくる。
俺は無言で一つ頷いて、応えた。
「ふむ、ふむ」
少しずつ読み進めていく久瀬さんに、なにか話し掛けたくなるのを必死にこらえる。
プロの漫画家になって数年、編集者に目の前で原稿を読まれることも何度もあった。
そのたびにドキドキして、掌に汗をかいてしまうくらいで、今でもそれはあまり変わらないけど。
こうして、憧れだった人に読まれるのはまた全然違うな……。
「……なるほどね」
たぶん、長かったとしてもせいぜい10分くらいだっただろう。
久瀬さんに読んでもらうことを考えて、いつもより丁寧に描いたコンテは、ほんの短い時間で読み終えられた。
「なあ、広野くん」
「はい」
「なんだか懐かしい感じがするなと思ったけど、そうか。あいつの絵に似てるんだな。いや、似てるなんて言われたら、いい気はしないか」
久瀬さんが苦笑気味に唇を歪める。
「まあ、なんだかんだ言って……姉貴も俺の師匠ですからね。姉貴に性格が似てるって言われたら、そりゃ落ち込みますが」
「あー、そりゃ酷いね。凪みたいなのが2人いたら大変だ」
「凪さんがいないと思って、言いたい放題だなー、この人たち」
「当たり前だよ! あいつの前で言ったら、なにが起こるかわからないじゃないか!」
「凪さん、いい人じゃん。あたしに絃くんの好みの味付け教えてくれたりで、めっちゃ優しいし。わたし、ああいうお姉ちゃん、ほしかったなー」
「みやこちゃん……」
「はい?」
「君はまだ凪のことをわかっていない!」
「まったくです!」
「な、なに……?」
みやこが、珍しく怯えた声を出すが、この思い違いは正しておかないと。
「凪の奴は学生時代、教室で昼寝してた俺の顔に石膏を塗りたくって、ライフマスクを勝手に作りやがったんだ! しかも、『美しくない』とか言ってソッコーで壊すという仕打ちだよ! どう思う!?」
「な、なんだってー!!」
「いや、久瀬さんの苦労は俺にもわかります! まったく、どこの世界に、自分をモデルにして弟にヌードデッサンをさせる姉がいるんだよ! いくら相手が肉親でも、毎日女の裸を見てたら、女性観がおかしくなるっつーの!」
「お、おおう……二人とも苦労してるんだね……」
「おっと、話が逸れたな」
こほん、と久瀬さんが咳払いする。
「この漫画のことだったね。主役の青年はヴァイオリニスト──というか、モデルは俺かな?」
「はい、インタビューとかで知っていた久瀬さんの情報を参考に主人公を作りました。勝手に作って、失礼かとも思ったんですが……」
「いや、それは全然かまわないよ。自分で言うのもなんだけど、有名税って奴だろうし、自覚のある模倣は練習の範囲だ。それで、肝心の内容だけど……」
久瀬さんは手の甲で、ポンとコピー用紙を叩く。
「終盤、主人公が挫折して、また楽器を手にするまでの流れがやや駆け足かな。心理描写が多すぎてくどいのも辛いね。漫画は娯楽なんだから、もっとわかりやすく楽しめたほうがいいと思うよ。あと、小さいコマが多すぎて、ちまちましてるのもよくないね。時には大胆に大ゴマを使って、インパクトを出さないと──」
「あの、そういう編集者的なアドバイスを求めてるのではなくて……」
「えっ、そうなの?」
「そうだよ、絃くんの担当はあたしがやるんだから!」
「おまえ、それ本気だったのか!?」
「あったり前じゃん! 編集者になって絃くんの漫画を大ヒットさせて、日曜夕方6時からのアニメにするんだから!」
「野望がでかいな~」
「つーか、俺の漫画は家族揃ってお茶の間で見るようなもんでもねぇよ」
「それをどうにかするのが、編集者の腕じゃないの?」
「まあ、そうだけど……って、話ズレてんだろ」
「そうだね。じゃ、さっそく始めようか」
「……え?」
「な、なにを? やる気なら、絃くんに代わって受けて立つけど」
「おまえこそ、なにをする気だ」
「あはは」
久瀬さんは楽しそうに笑いながらケースを持ち上げ、中からヴァイオリンと弓を取り出す。
「久瀬さん……?」
「いや、今度は冗談じゃなくてさ。若いっていいなと思ったわけだよ」
調弦の音色が、礼拝堂に響く。
「あの、もしかして演奏を聴かせてもらえるんですか……?」
「ま、ちょうど相棒も持ってることだし、1曲弾いた後で指もほぐれてるからね」
できれば、聴かせてもらいたいとは思っていたけど。
でも、みやこは断られたらしいし、その理由ももっともなものだった。
だから──まさか、ここでこんな幸運が訪れるとは。
「なあ、広野くん」
「あ、はい」
「荒削りだけど、君には確かに光るものがあるね。俺が音羽学園にいた頃、二人の友人に見たのと同じ光だ。才能ってやつは磨いてやらないとね。俺の演奏で、少しでも光るようになるなら、いくらでも捧げよう。今は、そんな気分なんだ」
「キザだなぁ……」
「キザなくらいのほうが音楽家らしく見えるだろ。それにちょいと、演奏の描き方が上手くないからね。参考に見せてあげたくなったのさ。見た目もそうだけど、CDと生演奏じゃ響きが違うからね──その響きを絵として描けるかどうかは君次第だ」
「あ、ありがとうございます」
「礼を言いたいのはこっちのほうだ。またもう一つ、時間を欲しがる理由ができたからね」
「時間を……」
久瀬さんはそれには答えず、片目をつぶっただけだった。
「さて、なにを弾こうかな。いや、今ならなんでも弾けそうだ。まずは1曲目──俺が好きなこの曲を贈ろう」
そして、久瀬修一の指がなめらかに動き、透き通るような美しい旋律が流れ始める。
彼の演奏は、CDで聴くのとはまったく違う──
スピーカーから流れた彼の演奏は、いつも俺の心を震わせてくれてたけど。
今、この礼拝堂に流れる旋律は、世界すらも震わせてしまうかのようだ。
これが、久瀬修一の──本物になった人のヴァイオリンか。
久瀬さんはやっぱり、まだ俺が届かない境地に達している人なんだな……。
…………。
……。
まだ耳の中で、久瀬修一のヴァイオリンが鳴っているような感覚。
興奮が続いているのか、身体が小さく震えて、油断すると口元に笑みが浮かんでしまう。
やっぱ凄かったなあ、久瀬修一……。
CDもいいけど、ライブの迫力は圧倒的すぎた……。
しばらく感動に浸っていたいところだけど、とりあえず晩飯を食ってからコンテを描き直そう。
あの演奏を聴いてしまえば、演奏シーンは丸々描き直さざるをえない。
どんな描き方にしようか、今から楽しみだな。
「ね、絃くん」
「ん?」
なぜか神妙な顔で隣を歩いていたみやこが、足を止める。
「久瀬さんってさ、もしかして……」
「え?」
「さっきの演奏、確かに凄かった。凄かったけど……」
「なんだ、もしかしてみやこの好みに合わなかったのか? まあ、音楽も絵と同じでそれぞれの好みがあるもんな」
「そういうことじゃなくてさ。凄すぎるっていうか、まるで──」
そこまで言って、みやこは口をつぐんでしまう。
なんでも言いたい放題なみやこにしては、珍しいな……。
「まっ、いいや! あたしにもよくわからないし!」
「なんだ、そりゃ!?」
「そうだ、絃くん。ちょっと、コンビニ行って、電池買ってきて。単三を20本」
「……なんでそんな大量に」
「腐らないものなんだし、たっぷり買っておくんだよ。あたしは先に帰っておくから、よろしくね」
「いや、一緒にコンビニ寄ればいいんじゃねえの?」
ていうか、おまえは俺んちに帰るつもりか。
「あたしはお嬢だから、コンビニなんて行かないんだよ」
「なんつー大嘘を……」
コンビニだろうがゲーセンだろうが、一人でふらふら入るくせに。
「じゃ、おっさきにー」
「あっ、おい!」
俺が止める間もなく、みやこはさっさと夜道を駆けて行ってしまう。
あいつも勉強ばかりで運動不足だろうけど、それでも俺の足じゃ追いつけるか怪しいな……。
さて、今度はあいつ、なにを企んでやがるのか。
とてつもなく不安だけど、帰らないわけにもいかないから、腹をくくろう。
「とりあえず、コンビニか」
…………。
……。
「おかえりなさいませ、御主人様」
「帰れ」
ドアを開けた先に見えた景色は、予想どおりと言えば予想どおりなんだが……。
「うぅ……この姿を見ての第一声がそれなの!?」
「他になにを言えっつーんだよ」
よりによって、メイド服ってなんだ、メイド服って。
「……おかしいな、予想してたのと違う。このあたしの頭脳をもってしても行動を読めないとは……さすが、絃くんだ」
「つーか、どこで買ったんだよ、そんなもん」
「もう、カリカリしちゃって。カルシウム強化月間にしないとダメだね」
「そういう問題じゃなくてな……」
「ふふー。実はね、優子にプレゼントしようと思って、ネットで買っといたんだよ」
みやこはにっこり笑って、軽くスカートを持ち上げる。
「サイズが違うけど、まあ着られないほどじゃないし。ちょーっと、胸がキツいかな?」
さらに、見てくれと言わんばかりに胸を張って、意味ありげな視線を向けてくる。
反応すると、胸を使ってろくでもないことをやりそうなのでスルーするとして。
「プレゼントなのに、着ちゃっていいのか?」
「大丈夫、大丈夫。これ買った後で、もっと可愛いヒラヒラがついたメイド服を見つけて注文したんだよ。だから、こっちはあたしの物に」
「もっと可愛いヒラヒラって……嫌がらせかよ」
「いいじゃん。優子だって自分で『ご奉仕メイド』だって言ってるし」
「まあ……な」
「今度、うちに来させてご奉仕させよっと。やっぱり、メイド服を着て働いてるところを見たいもんね」
「……働かせる気かよ」
みやこは、雨宮優子が姿を消したことをどう思っているんだろう。
いつかまた、姿を現すことを疑ってすらいないみたいにも見える。
でも、あいつはたぶん……。
「でも、その前に今日はあたしがご奉仕だね」
「ていうか、メイド服の入手経緯についてはわかったけど、なんで唐突にメイドさん登場なんだよ」
「常にこれを着るチャンスを狙ってたんだよ! 今日着なくて、いつ着るって話じゃん!」
「おまえの思考回路は未だに理解できねぇよ」
「理解できないからこそ、あたしは美しく見える!」
「自分で言うな!」
俺は、ずきずきと痛み始めた頭を押さえる。
なんて1日なんだ、今日は……。
クスリで眠らされるわ、姉貴が来襲するわ、おまけにメイドが現れるとは……。
「でもさ、あたしも色々と企んでるけど」
「現在進行形かよ」
「久瀬さんの演奏を聴いて、あたしも思ったんだよ」
「なにを?」
「ふふふ」
みやこは、にやりと笑ってからくるりと一回転し、メイド服のスカートが空気をはらんで翻る。
「あたしは、今までなにもせずに来たんだしね。絃くんや、久瀬さんみたいなことはできないんだって」
「……おまえだってできることはあるだろ。なにもできないわけじゃない」
「そう、そのとおり! あたしは気楽に、明るく、可愛く、絃くんのためにできることをやろっかなって。今できることを、命を懸けて全力でね」
「……だからメイドか」
「だからメイドだよ♪」
その思考回路の飛躍っぷりには、なかなかついていけないが……。
「命っていうのは大げさすぎるけどさ……。ま、そういうのがみやこらしくていいや」
「おっ、絃くんってばまた素直に褒めてくれちゃって。嬉しいぜ、この野郎」
「……おまえ、ちょっと口悪くなってんぞ」
「そうかな? 景ちゃんもそうだから、絃くんの影響かもね」
そんなに口悪いかな、俺。
「それじゃ、どうしよっか?」
「どうしようか……って?」
「ふふん、決まってるじゃん。こういうときの常套句を言っちゃおう。ご飯にする? それとも──」
「決めた」
「あーっ、せめて最後まで言わせてよ! ここがいいところなのに!」
「アホか、おまえは」
みやこは、おかしな行動も多い──というより、おかしな行動ばかりの奴だけど。
本気で俺を思っていてくれることに、疑う余地なんてない。
それは、ちゃんとわかっているから──
「最後まで言われたら、恥ずかしくて選べないだろ」
「ん-……。じゃあ……絃くんのほうが言って」
「言うって、なにを……?」
「あたしのほうは、ちゃんと言ってほしいの。たまには、言葉で気持ちを聞かせてほしいんだよ」
「……メイドなのに、わがままだな」
「あたし、わがままメイドさんだもん。だから、わがままを聞いてくれないとご奉仕してあげないの」
なんか、新しい設定が加わってるな……。
でも……今日は俺のために頑張ってくれたらしいし、たまにはいいか。
「みやこ。好きだ。これからも……ずっと」
「わー……」
「な、なんだよ。そのリアクションは」
「ううん、破壊力凄いなあと思って。好きっていうのは、何度言われても、どーんと胸に響くよね」
「そりゃ良かったな……」
喜んでもらえたなら、恥ずかしさを飲み込んで言った甲斐はあるけど……。
どうも、みやこの場合はどこまで本気なのかわからない。
「あ、ちょっと疑ってる顔だ」
「そういうわけじゃねぇよ。まあ、気にするな」
「むう……しょうがないな」
みやこは不満そうにそんなことを言ったかと思うと──
「えいっ」
「────!?」
突然、顔が柔らかいものに包まれ、息をのんでしまう。
「み、みやこ……」
なにが起きたのか一瞬わからなかったが──みやこが唐突に、俺の頭を抱き寄せていた。
「ほら、絃くん。確かめてみて。あたしの胸、こんなにドキドキしてる」
「…………」
「絃くんの言葉を聞いたから、だよ……」
確かに、異様に速い心臓の鼓動は聞こえる。
でもその音が、みやこのものなのか、それとも俺のものなのか──
「ドキドキさせてもらったから……わがままはここまで。今なら、どんなことでもできちゃうよ」
「みやこ……」
「あたしも好きだよ、絃くん……」
みやこは優しく言って、俺をぎゅっと抱きしめてくる。
このぬくもりをもっと感じたい。
だから俺は──
俺たちはお互いを求め合った……。
…………。
……。
「ふー……」
みやこは夜風に髪をなびかせ、小さく息をつく。
「今夜の風は気持ちいいね」
「まあ、そりゃあな」
熱いシャワーを浴びてきたし、今はまだ、みやこも身体が火照っているだろうから。
「でも、あんまり長い間、外にいないほうがいいだろ。このまま、家まで送っていくぞ」
「せっかく、お散歩を楽しんでいるところなのに。無粋だなあ」
口を尖らせるみやこを、俺は睨みつける。
「この時期に風邪でもひいたらシャレにならんだろ」
「それを言ったら、絃くんもでしょ。つーか、絃くんの場合は風邪が命取りになるよね」
「それは大げさだな」
「受験にはチャンスが何回かあるけど、絃くんは一回でも原稿落としたら、あっとう間に連載打ち切りで漫画界追放でしょ。そして、学歴も資格もない絃くんは……絃くんは……ううっ」
「どんな未来が思い描かれてるんだ……。これでも、俺もそこそこ地位を固めつつあるのに……」
一回の失敗ですべてを失うことになるとは思いたくねぇ……。
いや、一回でも失敗する気はないけどさ。
「ま、大丈夫だろ。久瀬さんのおかげでいい漫画が描けそうだし。それに、一応みやこも……支えてくれるわけだしな」
「お?」
「な、なんだよ」
目を丸く見開いて、みやこは俺の顔を覗き込んでくる。
「お? おお? 絃くんが、またまた変に素直になっちゃってる。今日はいったい、どうしちゃったの。さっきのご奉仕サービスが効いたかなー?」
「うるさいよ」
「あーっ、あっという間にいつものひねくれ者モードに」
「こっちが地だ。そうそう変わるわけねーだろ」
「うん、ひねくれてる絃くんは可愛くて好きだよ」
「はいはい」
「微塵も信じてくれてない顔だよね……」
じろり、と半目で睨まれて俺は首をすくめる。
別に、みやこの気持ちを疑うつもりは少しもないのに。
方法は普通じゃなかったとはいえ、俺のためになにかしたいという気持ちは充分にわかったしな。
「…………」
「ん? なに、じっとあたしを見つめちゃって。また、したくなったとか」
「違ぇよ。そうじゃなくて……。なにかできくことはないか。俺のほうから、おまえに」
「ないよ」
「即答かよ!」
「うん、即答」
にっこり笑って、みやこは頷く。
「いいの、いいの。絃くんが元気で漫画描いて、時々あたしと遊んでくれたらそれで充分。友達も下僕もいるし、なーんも不満はないんだよ、あたしはね」
「……おまえが文句ないなら、それでいいけど。このまま、みやこに借りを作りっぱなしっていうのもな」
「うん、後が怖いか」
みやこは、どうやら深く納得してくれたらしい。
「それもそうだなー。あたしに怯えてる絃くんっていうのも面白いけど、仕事の妨げになっちゃうとアレだね」
「そういうことだな」
「じゃ、三号機」
「は?」
「だから、三号機。ほら、絃くんの自転車」
「あー……」
そういえば、二号機は夏に大破して、そのままスクラップになったんだった。
どうも自転車とは縁がないと痛感して、それ以来買い直しはしなかったんだよな。
「三号機を買おうよ。あたしんち、絃くんちからちょっと遠いけど、自転車ならすぐだもんね。これで、物理的な距離もぐぐっと縮まるよ」
そう言って、みやこは身体がくっつきそうなくらいに寄ってくる。
「心の距離は、もう1センチもないくらい近づいてるけどね」
「……もうちょい距離を置いたほうが安全な気がする」
「おやおや、つれないお言葉。でも、あたしがそう簡単に離すと思う?」
「そんな、わかりきった質問には答えられねぇな」
「あははっ、そのとおりだね。三号機があれば、息抜きに少し遠くにだって行けるしね。いいことずくめだよ。うん、そうしよう、買おう」
「さすがに自転車買う金くらいはあるしな。それも悪くないか……」
「よーし、決まり! でも、今日のところは──」
みやこは海のほうを指さして、ぴょんぴょんとその場で跳ねる。
「そこの海に行ってみようか。ちょっと浜辺で静かに過ごしてみたくなっちゃった」
「あんまり長居はしないぞ」
「わかってるよ。んじゃ、行こう」
「っと、おい」
突然に、みやこが俺の腕にしがみついてくる。
みやこの体温と、柔らかな胸の感触が腕に──
「風邪ひいちゃいけないんでしょ。こうしてたら、あったかいよ」
「ま、いいか。誰も見てないしな」
「それが残念だよね」
「見せつける気かよ!」
「あったりまえじゃん。幸せは、見せつけてやらないと」
みやこはきっぱり言って、俺を引っ張るようにして歩き始める。
やれやれ、こうやって俺はいつまでも振り回されていくんだろうな。
慣れることはないし、ため息をつき続けることになるんだろう。
でも、みやこと一緒にいるときが一番楽しい。
それは間違いないことだから──
俺はみやこと身体を寄せ合い、ずっといつまでも歩いていく。
……。