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天使の日曜日 Angel's holiday “ef - a fairy tale of the two.” Pleasurable Box.【3】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
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「おはようござい……寒い……」


寝起きの挨拶を言い終える間もなく、起きるのが嫌になる寒さに布団に戻ってしまう。


「な、なんでこんなに寒いんだ?」


身体を丸めて頭まで布団に潜りこみながら、眉をしかめてしまう。

今は1月で、それなら暑いはずなのだが……。


「あ、北半球だからか」

 

Chapter 3 AFter Story. 素敵な試験
 feat. Chihiro Shindou.

 


寝ぼけていた頭が、ようやく現状を理解する。

千尋と一緒にいたいがために日本の音羽学園に転入しようと、つい先日、仮ではあるが越してきたのだ。


「うう……やっぱり寒暖の差が大きいときつい。千尋の感覚ってこれなんだろうな」


夏に記憶障害を負った彼女が、冬に起きると季節の変化に戸惑うと言っていたが、まさに今の僕の状態なのだろう。

 



できれば温かい布団の中で二度寝してしまいたい。

しかし、今日は大事な編入テストの当日なので起きなくては。


「……仕方ない!」


気合いを入れて布団を離れ、寒さを感じる前に制服に着替えてしまう。

衣服の布地の冷たさに震えが走るが、1度着てしまえば気持ちは楽になる。


「あ、ネクタイはまだいいか」


絞めようと思っていたネクタイをほどき、代わりにエプロンを身につける。


「朝ごはんと、お昼のお弁当を作らなきゃ」


ちなみに、編入テストに合格するまでは日本で暮らせる保証がないので、久瀬さんに同じホテルに泊まらないかと誘われたが、普通のアパートを借りていた。


「やっぱり台所がないと不便だもんな」


それに、千尋の隣にいるためには、絶対に合格しなければならないのだ。

背水の陣。


「まあ、がんばろう」


自分でも気合が入っているのかどうか判断できなかったが。

ここしばらくは勉強に集中していたし、なんとかなるだろう。

なにはともあれ、千尋の好きなものをたくさん作ろうと、買い置きの食材を調べることにした。


…………。

 

……。

 


午前9時。

僕のテストの応援に行きますという千尋と、ついでにミズキと待ち合わせしている街中の路地に辿りつく。

 



「おはよう、千尋、ミズキ」


あくびをかみころして挨拶しながら、久しぶりに目にした千尋の制服姿に、思わず頬がゆるんでしまった。


「おはようございます」

「おはよー」

「日本は寒いね」

「向こうは夏だったもんね」

「え?」

「しばらく南半球で暮らしていたから、どうも1月が寒いって感覚が鈍くて」


不思議そうな顔をする千尋にもわかるように、具体的に口にする。


「ああ、なるほど。とりあえず、蓮治くんが寝坊とかでなくてよかったです」


そういえば5分ほど遅刻していたか。


「眠いのは事実だけど」

「昨日はちゃんと早く寝たの?」


遅刻を謝罪する前に、ミズキが肩を寄せてこちらに詰問してくる。


「いや、緊張で目が冴えちゃって、結局午前2時くらいまで勉強してた」

「あのねえ……」

「大丈夫ですか?」

「うーん、編入テストで落ちることはないと思うけど」


不安そうな千尋に、苦笑いを返してしまう。

実際のところ、緊張の原因の8割ほどは、テストではなくてもう1つの重大な懸案のほうにあった。

今日は、千尋のお姉さんである景さんに挨拶をしようと思っているのだ。

僕のテストと、景さんの所属しているバスケ部の練習試合の日程が重なり、それならばと心に決めたことだが──

景さんのことは伝聞ではよく耳にしていたし、電話で話したことはあるものの、その武勇伝が僕の身に降りかからなければと願っている……。


「とりあえず行こうか」


なるようにしかならないだろうと覚悟しているので、気楽に歩き出そうとして。

ふいに、ミズキに質問しようと思っていたことを思い出した。


「ところでミズキ、久瀬さんはどうしてる?」

「ああ」


久瀬さんは勘当された実家に顔を出すため、僕より前に音羽に戻ったはずだが、その後のことは聞いていなかった。


「身体の調子はいいみたいだよ。お昼過ぎまで寝てるんじゃないかな。基本的に夜型の人だし」

「そう。元気にしてるならいいんだ」

「久瀬さんは、確か火村さんのお友達の方ですよね?」

「うん。親友だね」

「わ、火村さんに親友なんているんですね」


何気に酷い発言だと思ったが、驚くのも無理はないだろう。


「火村さんが久瀬さんと親友だなんて聞いたら、むきになって怒りそうだけど」

「照れ隠しだよね」

「喧嘩するほど仲が良いと言いますし」


3人して言いたい放題だった。

 

「う~ん、それにしても、なんか日本で蓮治と話してると変な感じ」

「そう?」

「蓮治=海外、みたいな印象があるから」

「ああ、それはありますね」

千尋も?」

「蓮治くんの思い出は、全部南半球でのものでしたから」

「これからは、こっちでの思い出も作れると思うけどね」

「あ、ええ」

「言うなぁ」

「なにが?」

「いいのいいの。そろそろ行こ」

「そうだね」


まだテストの開始時間まで余裕はあったが、出来る限りの見直しをしておきたかった。


…………。

 

……。

 


「あー、ちょっと緊張してきた」


校門の前まで来たところで、ようやくテストを受けるのだという実感が湧いてきた。

 



と、何事かと僕を見つめる2人に、笑みを返す。

「転校が多かったから編入テストはよく受けてたけど、何度やっても慣れないなあ」

「なに言ってるのよ。千尋先輩とのウハウハな学園生活を懸けた戦いでしょうが」

「ウハウハってね……」

「あの、申し訳ないですが、私は通っていないので学園生活は無理かと」

「あ、そっか。まあ、音羽で暮らせるかどうかの瀬戸際ですし。もしわたしが蓮治と同じ立場なら、100点満点のテストで120点とってみせますよ!」

「物理的に出来ないから、それ」

「そのくらいの気合いでってことよ」

「無理はしないでくださいね」

「あ、ううん。120点はともかく、今回は絶対に受からないとね」


ミズキのせいで空回りしかけたが、緊張感は維持しておくほうがいいはずだ。


「ところで蓮治、お昼はどうするの?」


ああ、千尋に言っておかなければいけないことだったと、そのフォローは助かった。


「食事のことなら、お弁当を用意してきたよ。ちゃんと千尋の分もあるからね」

「あ、蓮治くんのご飯は美味しいって日記に書いてあったので、楽しみです」

「ちゃんとグリンピース抜きでね」

「え?」

「あれ? 嫌いだよね、グリンピース?」

「ええ……いえ、どうして知ってるのかなって」


そういうことか。


「前に千尋から聞いたんだよ」

「なるほど。ちょっとびっくりしてしまいました」


千尋の微笑みを目にしただけで、お弁当を作った甲斐があったと思えてしまう。

 


「ま、お弁当があるならお昼の心配はしなくていいね」

「ミズキはいらないんだよね?」


待ち合わせの約束をしていたときに、そんな話をしていたはずだが。


「うん、わたしはパス。お昼頃にはバスケの試合が終わるし、ちょっと用事があるから」

「用事?」

「ちょっとした」


なにか裏がありそうだが、追求したところで答えてはくれないだろう。

まあ、ミズキのことだから大したことでもないだろうし。


「あ、そろそろ時間だから行くね。遅刻で減点されたらもったいないし」

「こっちはずっと体育館にいるから」

それじゃあ、待ち合わせはお昼に体育館で」

「はい。がんばってください」

「うん」


妹のような2人の女の子にうなずき、深呼吸してから校舎へと向かう。


……。

 



「えーと、ここか」


2階にある指定されていた教室のプレートを見上げる。

 



設計図が同じだからだろう──南半球の学校と同じ造りになっているので、道に迷うということもなかった。

 



中に入ると、すでに男性教師がひとり待っていた。

おはようございます、と声をかけようと思ったのだが、どことなく重い雰囲気で会釈されたので、同じ仕草を返すに留める。

まあ、重いと言っても火村さんほどではない。

適当な机に座り、筆記用具を揃えながら、黒板に書かれている今日の予定に目を通す。

 



午前2教科、現代国語と数学。午後2教科、物理と世界史。

各45分、小休憩15分──終了時刻は15時05分か。

テスト自体は本来なら5教科なのだが、英語がネイティブなので満点扱いの免除となり、1時間ほど開始がゆったりとしているのだ。


「……数学と物理が、午前と午後にわかれてくれててよかった」


数式や方程式などの記号に弱いので、思わずつぶやいてしまう。

あとの時間は、黙々と教科書やノートを見直して過ごす。

と、黙っていた教師に急に声をかけられた。


「それじゃあ、始めようか」
「あ、はい」


慌てなくてもいいのだが、バタバタと鞄に教科書やノートをしまう。

ぺらりと──その重い内容のわりには軽い音で、テスト用紙が裏返しに机に置かれた。


「……はー」


目を閉じて、息をゆっくり吸いこむ。

編入試験に慣れているとはいえ、この緊張には生涯慣れることはなさそうだ。

千尋のためにもがんばろう。


「始め」

 



テスト開始の声にあわせて用紙を表に返した。


………………


…………

 

……

 

 

 

そして、溜めこんでいた息を大きく吐きだす。


「……ふー」


息がつまる教室を出て、背伸びをする。

最初の現代国語のテストが終了したが、想像以上によく出来た感触があり、ちょっとした余裕が生まれた。

まあ、帰国子女ということで、国語は手加減されたのかもしれない。


「どうしようかな」


本当なら、休憩中に数学のポイントの見直しをしたほうがいいのだろうが、やはり千尋のことが気にかかる。

ギリギリまで粘ってもよいのだが──

 

「ここまで来て悪あがきしても仕方ないか」


気分転換しよう。


……。

 



「あれ、蓮治くん?」

「やあ」


体育館にいた千尋が、僕の顔を見て驚いた。


「テストはどうしたんですか?」

「休憩時間だから、ちょっとだけ顔を出したんだ」

「そうですか。おつかれさまです」


千尋があたたかい微笑みで出迎えてくれる。

それだけで、来てよかったなと、思わず笑みがこぼれた。

始めて彼女が制服を着ていたときにも思ったが、周囲に同じ服の女性がいるからこそ、千尋の可愛さが引き立つ。


「顔がデレっデレなんだけど……」

「そ、そんなことないよ!?」

「そこまで説得力のない言い訳も、ある意味で凄いよね」

「それより、千尋のお姉さんの試合のほうはどう?」


挨拶は試合後がいいと考えていたが、試合の行方次第で機嫌が変わりそうで、ちょっと気になっていた。


「もっちろん、わたしの景先輩がいるんだから勝ってるに決まってるでしょ」


ミズキの“所有物(もの)”が世の中に多すぎる気がする。

さておき、コートに視線を向けて噂の“景先輩”を探り当てようとしたが、その必要はなかった。

 

 

千尋とそっくりであること以上に、景さんの鋭い動きは試合に参加している誰よりも目立っていた。

バスケどころか運動全般に詳しくない僕でもわかる。

彼女は本物だ。

速いとか凄いということ以上に、“きれい”という言葉が最初に浮かんできたのだ。


「きゃーっ、景先輩ーっ! そこです! えぐりこむように切り込んじゃってくださいーっ!」


ミズキが黄色い声をあげている。

観客のほとんどが、景さんを中心に試合を見ている。

常々、「景先輩が」「景先輩が」と耳にしていたが、確かにかっこいい人だ。


「……でも、なんだろう」


わずかな違和感があった。

千尋と同じ顔をしている女性の運動神経がよいことが、違和感の元だろうか?

膝の故障から復帰したばかりという話もあったので、そのせいで、なにかがぎこちないのだろうか?

だが、違った。


「ああ、目のせいか」


千尋にはない、その左目にひっかかっていたのだ。

 



「なにか言いました?」

「あ、ううん。なんでもない」


悪気もなく、嫌味でもなかったが、わざわざ千尋に聞かせることはないだろうと首を振る。


「すごいねー、千尋のお姉さん」

「はい。わたしの自慢のお姉ちゃんです」

 

 

誇らしげに千尋が言う。

そこで、審判の笛が鳴った。

どちらかのチームがタイムアウトを申告したらしい。

 

 

「お、ちょうどいいじゃん。羽山、その人たちを紹介してくれ」


すぐ背後からの声に、千尋と一緒に顔を向ける。


「なんて手間のかかる先輩ですか。というか、このお顔を見て気づかないんですか!」

「なんで怒られてんの、俺」

「……………」


男性がきょとんとする千尋を見て、ふいに目を見開いた。


「……えっ、新藤!?」

「気づくの遅いですよ! 一発で気づくべきでしょ、あなたは!」

「いやー、そう言われても。おっと、挨拶しないといけないね。こんにちは。俺は、堤京介って者です」


話しかけているのが僕ではなさそうなので、一応、まだ口を挟まずに様子を窺う。

堤京介──どこかで聞いた名前だ。


「……えっと」

「怖がらなくても、なにもしないから安心して。君、新藤千尋ちゃんだろ?」

「はい、新藤千尋ですが……」

「びっくりしたなぁ、まさかこんなところで会えるなんて」


ああ、誰かわかった。

ミズキが「景先輩」と叫ぶときに、時折、彼女の恋人の名前をあげることがあった。

それが堤京介さん──当の本人だ。


千尋先輩、用事があって学校に来たんですけど、ちょうど景先輩の試合があったのでお連れしたんです」

「僕の編入試験の付き添いってだけなんですけどね」


ミズキのフォローとあわせて、千尋を安心させるように説明する。


「とっても大事なことじゃないですか」

「なるほどねー」

「あの、あなたは?」

「新藤から話を聞いてないかな」

「あ、そうか。わかりました!」


千尋も気づいたのか、確認のために手帳をめくりだす。


「夏頃、お姉ちゃんに付きまとっていたストーカーの人ですね!」

 

「…………」

「ち、千尋。そんなこと言ったら失礼だよ」


千尋の率直な物言いに、僕のほうが慌ててしまう。


「え? でも、ストーキングなんて犯罪に手を染めた人には手加減無用だって、お姉ちゃんが……」

「目の前で言っちゃダメなんだよ。本当に犯罪者だったら危険じゃないか」

「なるほど。一つ勉強になりました。手帳に書いておきましょう」

「……なあ、羽山。これ、なんのいじめ?」

「いいじゃないですか。千尋先輩にいじめられるなんて珍しいですよ、羨ましすぎて代わってもらいたいくらいですよ」

「あいにく、俺にはそういう趣味はなくてね……」

「……あれ?」


手帳を見下ろして、彼女が小首をかしげる


「お姉ちゃんを追っかけまわした後、映画を撮ることになって、お姉ちゃんと……」

「あ、そうか。ま、そういうことだよ。俺は今、君のお姉さんとお付き合いしてるんだ」

「…………」

 

「……何様なんですか、あなたは」


うわ。


「え、いや、だから新藤の彼氏なんだって」

 

「は? なんですって?」

「わ、こんなに挑戦的な千尋は初めて見たな」


思わず、驚くというより感心してしまう。

 

「別に、挑戦してるわけじゃないです。ただ……。そこのお兄さんがどうやったらこの世からいなくなるか、考えているだけです」

「自分のことは割とどうでもいいのに、お姉さんのことになると執着するんだな~……」


普段の誇らしげな様子の裏返しと考えれば納得はいくか。

ある意味、僕も気をつけておくべきことなのだろう。


…………。

 

……。

 


そうやって、なんだか色々なことがあったのだが──


気がつくと、体育館に残っているのはわたしとミズキちゃんだけになっていた。

蓮治くんがテストに戻り、試合の終わったお姉ちゃんは堤さんを連れてどこかへ行ってしまい、かなりの時間が過ぎていた。

 



「みなさん、ぜんぜん帰ってきませんね」
「みんなというか、蓮治くんはテストですが」
「あ、そうですね。じゃあ景先輩待ちか」
「堤さんもですよね?」


堤さんが冗談で私を「可愛い」と言っていたのを、お姉ちゃんが引きずっていってしまったのだが……。


「そちらは、生きて帰ってくるといいんですけど」
「……あの、お姉ちゃんと堤さんって、恋人なんですよね?」


思わず、おそるおそる訊ねてしまう。


「愛の形には色々とありますから」
「確かに、お姉ちゃんの愛情はたまに過激ですね」
「ほう、千尋先輩でもそう思うんですね。例えばどんな感じなんですか?」
「特に変な言動をとった覚えがないのに、『千尋可愛い~』って抱きついてきたり」
「うわ……うらやましぃ」
「うらやましい?」


予想外の反応に首をかしげてしまう。


「景先輩の抱きつきですよ! しかも、ビジュアル的に双子! なんか2人とも顔がにやにやしてるの想像できるじゃないですか!」
「よくわかりませんが、全力で抱きつかれると苦しいんですよ……」


子供のころの記憶だが──というか、子供のころの記憶なので、はっきりと覚えている。

それにしても……、

憂鬱だ。


「はぁ……」
「待ちくたびれましたか?」


こっそりため息をついたつもりだったが、ミズキちゃんに気づかれてしまったらしい。


「い、いいえ、そういうことではないのですが」
「ですが?」


暇だからか、ミズキちゃんが追求してくる。


「……そういえば学校って、いっぱい女の人がいるんですね」
「ん? ええ、まあ、半分は女子ですね」
「そうなんですよね……」


もう1つ、ため息がこぼれてしまう。


「幸せが逃げまくってますね。なにか気になることでも?」
「女の子が、いっぱいいるということは、その……」
「ああ。蓮治のことですね」
「はう」


核心をつかれてしまい、自分でもわかるくらいに頬が熱くなってしまう。


「蓮治くんが音羽に通うようになったら、たくさんの女の子と出会うことになるんですよね……それで、えーと……」
「心配ということですね。恋愛的な意味で」
「……わたしなんかが、そう思うのはいけないことだと思うのですが」


自分の障害のこともあるし、蓮治くんを信じていないということになってしまうのは申し訳ないのだが。

それでも、確信というものを抱くことのできない私は、心配になってしまう。


「大丈夫ですよ」


怒られても仕方ないと思ったが、ミズキちゃんは笑顔のままで言ってくれた。


「蓮治は浮気するようなやつじゃないですし、世界が崩壊しようとも、千尋先輩以外を好きになることなんてありませんから。それに、千尋先輩が不安に思うのも間違ってません。それは女の子の必須課題です」
「そう、なんですかね?」


ミズキちゃんと話していると、大変な問題も、自分が考えすぎのような気がしてきてしまう」


悪い意味ではなく、羽が生えたように身が軽くなる感じだ。


「そうですよ。むしろ、もっと乙女モードでわがままでもいいくらいだと思います」
「乙女モード?」

 



──「なんの話?」


「きゃ!?」


急に話題にしていた当の蓮治くんが現れ、びっくりしてしまう。


「もう2時間目のテスト終わったの?」

「うん。だから、お昼ごはんにしようと思って」

「あ……そ、そうですか」


かなりの時間が過ぎたと自分でも考えていたが、お姉ちゃんや堤さんよりも、蓮治くんの2つ目のテストのほうが早かったらしい。


「で、なんの話をしてたの?」

「それはねえ──」

 



「わ! わわ! だ、だめですよ! 言っちゃダメです!」


慌てて、蓮治くんの耳をふさぐために飛びついてしまう。


「え!?」
「ふぁう!?」


背伸びをしながら両耳をふさごうとして──当然ながら、正面から抱きつくような、キスをするような体勢になってしまった。

ミズキちゃんの口をふさいだほうがよかったと気づいたが、今さら離れられない。


千尋先輩がー、蓮治が音羽に入れちゃうとー、女の子と仲良くなって──」

「わーわー!」

「な、なに?」

「ミズキちゃん、酷いですよー」

「いいじゃないですか、このくらい聞かせてあげれば」

「ダメです! 恥ずかしすぎます!」

「ち、千尋? なんだかわからないんだけど、胸が……」

「蓮治くんもそういうこと言っちゃダメぇ!」


聞こえていないのは承知していながら、恥ずかしくて叫んでしまう。

でも、それ以上に抱きつけて嬉しいという、妙な気分を抱いてしまった。


「あはは、わかりました。わたしももう言いませんから」

「うぅ……」

「……ミズキがいなければなぁ」


ふいに、蓮治くんがつぶやく。

耳をふさがれているせいで私たちの会話は聞こえていないから、それは蓮治くんだけの独り言だったのだろう。


「……? ん?」


ミズキちゃんがいなければ、なんなのだろう。

無意識に、蓮治くんに向かって小首をかしげてしまう。

 



「…………」

「……あ」

「……あ」

「あの、2人だけの世界を広げてるところ申し訳ないのですが──いや、野暮ですね」

「あ、そういうことじゃ……」


もう大丈夫かと、蓮治くんの耳から手を離す。

 



「ふう……」

「あ、あはは」


こちらに問いかけてこようとはせず、蓮治くんが優しく笑ってくれる。

ただ、この場合、その優しさが心に痛いというか……。


「えーと……ごめんなさい」

「いや、僕こそ、なんか無遠慮な質問しちゃってごめん」

「いえいえ」


なんだか妙な遠慮をお互いにしていると、大きな声が体育館にこだました。


──「おーいっ、ミズキちゃん。やっほー」


「あ、みやこ先輩。ちわっす!」


ミズキちゃんが入り口のほうに向かい、きれいな女性と楽しそうに話しはじめる。

つい1時間ほど前にも、同じような光景を目にした気がするが──予想通り、ある程度のところで女性がこちらに向き直る。

 



「ところで、そっちの子は?」

「あ、えーと……私ですか?」


呼ばれる覚悟をしていたとはいえ、ストレートな物言いに焦ってしまう。


「みやこ先輩は初対面でしたね。えーと、こちらは──」

景ちゃんの妹さんの千尋ちゃんだね。はじめまして」

「あーっ、人がせっかく紹介しようとしてたのに」

「でも景ちゃんにそっくりだし。見ればわかるよ」

「じゃあ訊かないでくださいよ。まあ、みやこ先輩のおっしゃるとおり、わたしのラブリーな千尋先輩です。わたしの」

「あの……私、どうしたら……」


ミズキちゃんもみやこさんという方も、会話のテンポが早いので口を挟むことができなかった。

あ、“みやこ”さんって、この人こそが、何度も話に出てきた“宮村みやこ”さんか。


千尋先輩はそのままの天然素材でいいんです!」

「もちろん、もっとオロオロしてくれたりしますと、ご飯3杯食べられるくらい萌えますけど!」

「確か、ミズキちゃんも彼氏ができたって聞いたけど、あんまり前と変わんないね……」

「それはそれ、これはこれ、別腹ですから」

「あのさ、ミズキ。揚げ足を取るようだけど、千尋に『これ』は酷いんじゃない?」

「はっ、そう言われれば! ごめんなさい、千尋先輩! そんな無礼を働いたわたしを罵ってください!」


え、えーと。

 



「この卑しいイヌめ!」

「うきゃー、本当に罵られた!」

「え? や、やっちゃいけなかったんですか?」


流されるまま無意識に口に出た罵りの言葉だったのだが、いけないことなのだろうか。

どうでしょうと蓮治くんを見上げると、

 



「……千尋。どこでそんな言葉覚えたの?」


蓮治くんもちょっと驚いていた。


「えーと、どこでしょう。ここ13時間で覚えたわけじゃない……と思いますが」


おそらく、なにかの本に載っていたのだと思う。

そんなこんなで。

蓮治くんと宮村さんの楽しい挨拶が済んだところで、蓮治くんがミズキちゃんに向き直る。


「あ、ぜんぜん関係ないけど。ミズキ、なんか用事があるって言ってなかった?」

「あ、そうだった。みやこ先輩。すみませんが、千尋先輩と蓮治のことをお願いしてもいいですか?」

 

「あいよ。どーんと任せておいて」

「それでは、お名残惜しいですが、これにて失礼~」


ミズキちゃんは手を振って、あっさりと帰ってしまう。


「さて……と。景ちゃんは、まだ戻ってこないね」

「お姉ちゃんのお説教は長いですから」


ミズキちゃんとも話していたが、そういえば“まだ”のようだ。


「説教だけで終わらないだろうしねー。なんか、あたしはお腹すいちゃったよ」

「あ、今日はお弁当を作ってきてるので、よかったら宮村さんもどうですか?」

「蓮治くんのお弁当は美味しいので、是非」

「あたしもお弁当作ってきてるよ。ちょっと多めだからみんなで分けられるんじゃないかな」

「それなら、僕のと宮村さんのお弁当を3人で分けましょう」

「勝負だね」

「……え、勝負?」

 



「あたしのお弁当が美味しいか、蓮ちゃんのお弁当が美味しいか! 戦いのときは来た!」

「れ、蓮ちゃんって……」

「では、僭越ながら私が審査員を」


お料理で勝負しようということは、宮村さんのお弁当も美味しいのだろう。

楽しみだ。


「よろしく~」

「え? ええ!?」


…………。

 

……。

 



なんだか妙な成り行きになってしまったが、宮村先輩と千尋とともに、屋上へと昇ることになった。

いや、僕が音羽に入学していない以上、まだ“先輩”ではないのだろう。

どうでもいいことだが。


……。

 



「こっちの屋上も、向こうの音羽と変わりませんね。遠くの景色は違いますけど」


僕は周囲を見渡しながら感心する。

千尋がお姉さんから鍵を預かっていたので屋上に出てみたのだが、噂通りにそっくりな造りになっていた。

 


「うわ~、高いですね」


“今日の千尋”が知っているかわからないけれど──いつかのデートの光景を思い出し、寂しさと懐かしさを同時に覚えてしまう。


千尋、あんまり端っこに行くと危ないよ」

「大丈夫ですよ」

「うーん……」

 



「どうかしましたか?」

「んにゃ、話には聞いてたけど、景ちゃんとは全然違うんだなあと思って」

「なんの話ですか?」


僕が返事をする前に、とことこと戻ってきた千尋が首をかしげる


千尋とお姉さんが全然違うんだな~って」

 



「どうでしょう。違うって言われることも多いですが、ちょっとしたことでそっくりだって言われることもあります」

「ふーん……もしかすると似てるところもあるのかもね」

「それじゃあ、お弁当を食べましょうか。温かいお茶と予備のコップもありますから、宮村さんもどうぞ」

「おー、蓮ちゃんって気が利くんだね。きっと、いいお嫁さんになれるよ」

「もちろんです」

「あの、お嫁さんって……。いや、いまだに反応しちゃう僕がいけないんだな」


こういうところが男らしくないのかもしれない。

あえて反論せず、お弁当と一緒に用意していたレジャーシートを広げる。

 

「それじゃ、これがあたしのお弁当ね。遠慮せずに食べてくれていいから」

「わあっ、美味しそうです」

 

「これは確かに。盛りつけもきれいですね」


宮村さんの性格からして、もうちょっと大雑把な内容になっているかと思ったが、彩まで含めてきれいに盛りつけられている。


「ちなみに、あたしのお弁当って当たり外れがあるから」

「はい?」

「わ、おみくじみたいですね。当たるとなにかもらえるんですか?」


そこは喜ぶところかとツッコミを入れたくなったが、千尋相手なので声に詰まってしまう。


「当たったら美味しい料理が食べられるだけ。外れると……まあ……ねえ……。くすくすくす」

「なっ、なんでそこで笑うんですか!?」

「ううん、こういうのは話さないのが粋ってもんだよ!」

「やばい……この人、うちの母親とか久瀬さんと同じタイプだ……」


このタイプの人に遠慮しても仕方ないと愚痴るが、当然のように無視された。

 

「どーれどれ。あたしは蓮ちゃんのお弁当をいただいてみますかね。いただきます」


宮村さんが鶏のソテーを口に運ぶ。


「もぐもぐもぐ……」

「どうでしょう?」


相手が誰であれ、この感想を持つ間は緊張する。


「なんだか、私までどきどきしますね」

「んん……こっ、これは!? よほどじっくり下ごしらえしたのか、とろけるような肉の柔らかさ! 噛めば噛むほどしみ出してくる鶏の滋養! 辛めに味付けされたソースが、あっさりしたお肉と絶妙なハーモニーを奏でている!」


料理漫画の審査員みたいな表現だな~、と冗談めかしたことを考えつつ。

同時に、味付けや料理法を一口で封じられる宮村さんの舌に、すごいなと感心する。

 


「れっ、蓮ちゃん! どこでこんな料理を覚えたの!?」

「ど、どこでって、普通にうちの母親から習っただけですけど」

「蓮治くんのお母さんは、料理教室の先生をやってるんですよね」

「プロの技を継ぐ者だったか……いかにも冴えない外見だかr、大したことないかと思ってたよ!」

「あのー、なんか僕に恨みでもあります?」

「たった今、君に憎しみを抱きつつあるところだよ」

「なんでですか!?」

「蓮治くんなんて、死んじゃえばいいのに」

「ええっ!?」

「──っていう顔をされてますね、宮村さん」

千尋……今の、わざとじゃないよね?」


宮村さんのボケは計算だろうが、千尋は天然の可能性が高い。


「なにがですか?」

「いや、いいんだ……もう……」


ただ平和に食事ができればと思っただけなのに……。

どうして、こうなってしまったのだろう。


「よくわかりませんが、次は宮村さんのお弁当をいただきますね」


僕のぼやきは聞こえなかったらしく、千尋が宮村さんのお弁当を覗きこむ。


「そうだ、勝負だったんだ。さあ、どんどん食べちゃって」

「はい、じゃあ卵焼きにしましょう」


勝負の前に“当たり外れ”がどうこうという話もあったが、千尋は躊躇(ちゅうちょ)なく箸を伸ばす。

 


「もぐもぐ……。あっ、これ……」

「どうかな?」

「凄く美味しいです。甘いのにさっぱりしてて。この卵焼き、なにか普通とは違うものが入ってますね」

「切り干し大根と桜エビがポイントなんだよ」

「ああ、甘さも引き立ちますし、食感を変えるのもいい手ですね」

「なるほど。これは、クセになりますね。なんだか、もう一人の姉としてお慕いしたくなってきました」

「あっ、千尋が餌付けされてる」


ちょっとだけショックだ。


「ところで、ちぃちゃん」

「そっちはまたニックネーム付けてるし」

「凪お姉さんみたいですね。お姉さんは“ちろちゃん”、って呼びますけど」

「ちぃちゃんの主観的な判断でかまわないんだけど、あたしと蓮ちゃん、どっちのお弁当のほうが美味しいかな?」

「その、どちらも凄く美味しかったのですが……」

「いや、勝負だからさ、どちらかといえばで」

「宮村さん。本人を目の前にして、そういう評価を無理に下さなくても」


僕自身、勝ち負けには特にこだわっていないし、千尋はどちらにせよ波風を立てないだろうと思った。

しかし──


「蓮治くんです」


千尋は素直に言い切った。


「…………」

「んーと……え?」


僕も宮村先輩も、千尋のあまりにもはっきりとした物言いに、逆に混乱してしまう。

即断は千尋らしくないように思えるし、一直線な考え方しかできないのが千尋らしいとも言えるのか。

千尋の意外な一面に感慨を覚える一方、やはり頑張って作ったお弁当が選ばれたことが嬉しかった。


「本当に申し訳ないのですが、私には蓮治くんのお弁当のほうが美味しいです」

「うぅむ……。そっか。よし、よく言ったよ、ちぃちゃん!」

「あの、宮村さん?」

「ほい、どうしたの?」

「怒ってないんですか? その、この勝負、あなたの負けってことになりますけど」


僕に勝負のこだわりなどないが、出会って間もないながらも、宮村さんの性格からして気にしそうなものだが。


「ふはは、あたしも愛の力に勝てると思うほど傲慢ではないよ」

「え、傲慢じゃないんですか?」

「うふふふふ。やっぱり、景ちゃんの妹だね。言うことは言うんだ」

 

 

「お姉ちゃんにも『言いたいことははっきり言いなさい』って教え込まれてますから」

「ああ、怖い……天然でストッパーの効いてない会話が怖い……」


まったく違う部品同士が嚙み合ってしまっている。


「いいねえ、蓮ちゃん。こんな可愛い子に愛されてて」

「あ、愛ってそんな……」

「そ、そそ、そうですよ」

「2人ともびっくりするくらいコテコテは反応だね」

「あはは……あ、いや……そうだ! 僕も宮村さんのお弁当をいただきますね!!」


照れ隠しのように、とにかく目についたシューマイを口に放り込む。


「もぐもぐ……ん? なんか、あんまり味が……あれ……?」


じわりと、熱のようなものが舌に──

 

 


「──────っ!?」


『バチン』と。

フラッシュを焚いたように視界が白く染まった。

辛みを通り越し、痛みとしか形容できない猛烈な刺激が口の中で破裂した。

破裂して、その衝撃が、頭の芯まで尽き抜けた。


……正直、それから数分間のことは記憶が定かではない。

後から聞いた話では、僕は激辛のカラシ入りシューマイを口にし、屋上のアスファルトの上でエビのように跳ね回っていたということだが……。


…………。

 

……。

 

 

「……覚えがない」


意識が戻ったときには、昼食を終えて校内に戻っていた。

意識にないものの、いまだに口の中がヒリヒリするこの感覚が、あれが夢でなかったという証拠だろう。

歯医者で麻酔をかけられたように、正しく自分が発音出来ているのかもわからなかった。


「……それでは、僕は午後のテストがあるので」


食べた気のしない昼食や、僕の体調はさておき、テストの時間が迫っていた。

ついでに、その後には千尋のお姉さんに挨拶する予定もあった。

僕には似つかわしくないほど、午後はイベント目白押しである。


千尋、また後でね」

「はい、応援してますので頑張ってくださいね」

「うん、ありがとう」

「はー、和むなあ、このほのぼのカップルは」


千尋の笑みに癒されたところで、ぶつくさ言っている宮村さんに向けて目を細める。


「それで……」

「うお? なんで睨んでるの?」

「僕は行かなきゃいけないんですけど……千尋に変なことしないでくださいね」

「あはは、心配性だね」

「あなたの性格を知れば、心配もしますよ!」

「平気だよ。だって、ちぃちゃんには怖いお姉さんがついてるもん」

「あ~、それは確かに説得力がありますね」


「あはは……」


そうか。僕と違って、後ろ盾がついている千尋の心配は必要なかったのか。

と、馬鹿なことをしていても仕方ない。


「今度こそ行きますね。それでは」

「はい、行ってらっしゃい」

「ばいばーい」


笑顔の女性2人に見送られて、僕はテストを受けている教室へと戻ることにした。


…………。

 

……。

 


「…………」


それからは特に何事もなく。

黙々とシャーペンを答案用紙に走らせる時間が続いた。

宮村さんと一緒で千尋は大丈夫だろうかと心配したが、テストは難しく、余計なことはすぐに思考の外側へと消えていった。

まあ、あのカラシ入りシューマイのおかげで眠気が吹っ飛んだことだけは、テストに限れば悪いことではないのだろう。

 



「さて」


最後の世界史のテストは、免除された英語に続いて楽なものだった。

これまでの転校のおかげで、世界史のだいたいの地域の歴史に詳しくなっていたからだ。

それでも油断しないように──


「ん?」


ふと、廊下に人の気配を感じて顔をあげる。

 



ガラス越しに久瀬さんが教室の中を覗き込んでいた。

楽しそうに、 親指を立ててグーと。


「……?」


『がんばれ』ということだろうか?

 



意味を判読しかねていると、久瀬さんの隣に姿を見せたミズキが、ブイサインを送ってくる。


「ああ……」


思わず、生温かい笑みがこぼれてしまった。

あの2人も、なにも考えていないんだ……。

宮村さんと同じタイプだもんな……。

妙に納得してしまう。

案の定、2人ともそれで用が済んだとばかりに、どこかへ行ってしまった。


「……テストが終わるまで待っててくれもしないんだよな」


まあ、仕方がない。

誰もこんなテストが楽しいわけではないし。

あとちょっと頑張って、千尋のところに行こう。癒されよう。


…………。

 

……。

 

「さて。テストは終わったけど、緊張感がさっぱり抜けてないな」


予想通り、数学と物理のテストに手こずったものの、編入試験としての手応えは十二分にあった。

しかし──あまりにも問題がなさすぎて、逆に警戒心が首をもたげている。


「……だいたい、こうやって僕が油断してるところでなにかあるんだもんな。…………ああ、いかんいかん」


ここ1年の経験のせいで、被害妄想が身に染みてしまったらしい。

よくないことなので反省しよう。


「やっぱり久瀬さんもミズキもいないか」


久瀬さんに挨拶したいと思っていたが、すれ違ってしまったか。

とにもかくにも、千尋と合流しなくてはならない。

携帯電話に一報を入れてもいいのだが、おそらく彼女がいるのはあそこだろう。


……。


「あっ、いたいた」


図書室に入ってすぐに、千尋とお姉さん、堤さんの3人が集まっている輪を見つけた。


千尋、やっぱりここにいたんだね」

 



「あっ、蓮治くん」

「試験が終わったから捜してたんだよ。まあ、ここにいると思ったけど」

「よかった、やっと私の味方が来てくれました」

「み、味方? 千尋、どうかしたの?」

「一生のトラウマになりそうな最大のピンチを迎えているところでした」

「なんのこと……?」


嬉しそうな様子から一転、千尋が浮かべる真剣な表情に驚いてしまう。


「ええ、来てくれてよかったわ。わたしみお、あんたに話があったのよ」

「僕ですか?」

「ええ、あんたで間違いないわ。ちょっと、来てもらえる?」


千尋もお姉さんも、ある意味で人の都合など関係ないという部分はよく似ているかもしれない。


「あの、行くってどちらへ……?」

「みんな大好きな校舎裏よ」

「な、なんか物凄く不吉な予感がするんですけど!?」


挨拶をしようと勢い込んでいたが、まさか先に捕まることになるとは思いもしなかった。


「ああ、京介先輩。携帯を貸してあげるから、読みたかったら読んで。テキストは、メモリーカードに入れてあるわ」


景さんが携帯電話を堤さんに投げて渡す。

まあ、僕の発言が無視されるのは、なんか今日1日で慣れてしまったな。


千尋

「は、はい」

「京介先輩って、シナリオもたくさん読んできてるから。面白い感想を言ってくれるかもしれないわよ」


このあたりで、だいたいの事情を察する。

千尋の書いた小説を堤さんが読みたいと言い出し、たまたまお姉さんの携帯にテキストデータが入っていた──

当然、千尋は恥ずかしくて嫌がったということか。


「……でも」

「それにね、自慢の妹が書き上げた小説だもの。色んな人に読んでもらいたいじゃない」

「わ」

僕もお姉さんの意見に賛成だったので、あえて口を挟まず。


「それじゃあね。この子、ちょっと借りていくわ」

「やっぱり行くんですね……」


でもまあ、僕も話がしたかったので、大人しくついて行くことにした。


……。

 



「ちなみに、遅くなりましたけど、面と向かっては初めまして」
「ああ、そうね。初めまして」


社交辞令にすらなりきれていない挨拶だった。


……。

 

そのまま階段を目指して歩いていると、その階段の上からミズキと久瀬さんが下りてきた。

 



それ自体は普通のことだが、久瀬さんがミズキを支えるようにしている。


「あれ、2人ともどうしたんですか?」

「ミズキ、どうしたの?」

 



「あ、はい、大丈夫です」


僕らを心配させないようにか、ミズキが自分の足で立って笑う。


「貧血で立ちくらみを起こしちゃったみたいで」

「ミズキが貧血? そんなの初めてね」

「あはは……面目ない」


元気のない姿も、それはそれでいつも通りに思えたが、なにかがおかしい気もする。

だが、僕ら以上に心配している人がすぐそばにいた。


「無理はしてない?」


久瀬さんのあまりの真剣な声に、目を丸くしてしまう。

いつも冗談ばかりなのに、彼は本当にミズキを愛しているのだと。


「久瀬さんも、ごめんなさい」

「よく貧血になるの?」

「いえ……。だから、自分でもびっくりしちゃって」

「こんなときまで無理をしているようなら、怒るよ」

「本当に平気です。そんな顔しないでください」

「顔?」

「久瀬さんのほうが泣きそうな顔してますよ」

「あ……」


久瀬さんが言い込められる姿に、思わず景さんと目配せしてしまう。

ミズキは照れ隠しのような苦笑いを、僕らに対して浮かべた。


「蓮治はテスト終わったんだ」

「う、うん」

「こんなところで、景先輩となにしてるの?」

「ちょっとこの子に話があってね。千尋から借りてきたの」

「借りてきた……まあ、蓮治は千尋先輩のものですしね」

「その言い方はどうかな……」


いつも通りのミズキの言い草に呆れてしまうが──イコール、調子がよさそうでなによりだった。

ちょこちょこと雑談を交えたあと、今朝から気にしていた久瀬さんと話す機会をもてた。


「蓮治こそ、調子はどう?」

「日本の雰囲気にまだ慣れないですね。便利すぎて、だらけちゃいそうです」

「ああ、コンビニだけで生活できちゃうからなぁ」

「気をつけます」

「それじゃあ、久瀬さん、行きましょうか」

「ん? うん」

「こっちも行きましょうか」

「あの……お姉さん、どこに向かおうとしてるのでしょうか?」

「屋上よ」

「う……あの柵のない……」


ミズキたちが下りてきたのを目にして、屋上が使えることに気づいたのだろう。

校舎裏よりも危険度が増した気がする。


「なんなら、今、この場で景先輩と蓮治には会わなかったことにしましょうか?」

「なに、その目撃証言を偽証しようとするような話は!?」

「冗談だよ」

「……冗談で済めばいいんだけど」

「それではまた」


無理やりな打ち切り方で、景さんが僕を連れて階段をのぼる。


……。

 

上の階にのぼったところで、景さんが、ふいに足を止めた。

 



「あの2人って不思議よね」
「ですね」


先ほどの目配せの答え合わせをするように、景さんと頷きあう。


「久瀬さんがミズキの面倒を見ていると見せかけて、実際はミズキが久瀬さんのお守をしてるって思ってたんですけど」
「さっきのは、さらにその逆って感じ」
「多分、どっちも、どちらでもいいんでしょうね」


とても強い人たちだから。

守られる必要がないからこそ、遊びとしてわざと弱みを作っている。

あの2人だからこその関係か。


「女としては、ミズキのそういう気持ちはわかるけど」
「…………」


ふうん、という感嘆は口にせずにいた。

千尋やミズキから話を聞いた限り、千尋のお姉さんは、もうちょっとストレートな人だと思ったのだが。

意外と冷静な印象。

外見に反して宮村さんより大人びている気がした。


「むしろ、千尋と同じ外見だからそう感じるのかな」
「どうしたの?」
「いえ、それより、校舎裏じゃなくて屋上まで出るんですか?」
「よく考えたら校舎裏よりも屋上のほうが人目がないからね。寒いのは苦手?」
「好きじゃないですけど……でも、寒いのにも慣れないといけないんですよね」
「よくわからないいけど、下よりは上のほうがいいわね」


それこそ意味のわからないことを口にして、景さんはさらに上へと階段をあがっていった。


……。


「屋上は今日2回目か」


昼食のときの記憶が蘇りそうになるが、頭を振って思い出さないようにする。

 



「先に用事があるならいいわよ」
「いえ、僕のほうはご挨拶できれば、それだけでよかったんですけど」
「まあ、千尋の彼氏ですもんね」
「え、ええ」


もうちょっと胸を張りたいところだが、このシチュエーションで緊張するなというほうが無理だった。


「その千尋のことだけど……」


きつい言葉が続くと予想していたのだが、そこで言葉が止まってしまった。

景さんは空を見上げてから、まったく予想とは違うことを口にした。

 



「実は話すことはないのよね」
「え?」
「だって、千尋の周囲であの子のことを本当に理解してるのって、わたしみたいな家族以外はあんただけでしょ」
「そう、なんですかね?」


思わぬ展開に首をかしげてしまう。


「火村さんとか久瀬さんとか、大人の人はどう接すればいいかわかってますし。ミズキだって普通に話してますよ」
「そのメンバーは確かにそうなんだけど……。ああもう、うまい言葉が出てこないわね!」


自分に苛立つように、景さんが強くつぶやく。

僕は彼女の邪魔にならないように黙っていた。


「……そう。その人たちじゃ足りないのよ。友達以上に、あの子と真剣に向き合おうとしたら、普通に話せるとか、そういうことだけじゃダメでしょ?」
「ああ、なるほど」
「それこそお互いに今更だろうけど」

 



それは、僕が半年前に経験した後悔の話であり、景さんと千尋が離れて暮らすことになった“きっかけ”なのだろう。

確かに、そういう意味でなら火村さんや久瀬さんでは足りない。

 



「きれいごとだけじゃ済みませんからね」


「あの子とはまともに喧嘩もできない。だけど、ずっと一緒にいるつもりなら、衝突なんて普通にあるのよね。愚痴じゃないのよ。言いたいことがまとまらないというか、順番に話さないといけないだけでね──。千尋とか麻生くんは、ちゃんと言葉にするのが得意なんでしょ」
「いや、僕はそうでもないというか」


さりげなく、呼び方が“麻生くん”になったなと思いつつ。


「人生そのものが不器用、という評価以外を受けたことがないので……」
「それは見ててわかるけど」


肯定されてしまった。

ちょっと傷ついた。


「まあ、だから、正直上手くやってると思うのよ。100点を超えてるくらいに。でも、やっぱり、むかつくかどうかは別問題なのよね」

「そこはすみませんとしか言えないのですが……」


やっぱり怖い人というのは当たっているようだ。

それでも、僕はきちんと言葉にして伝えないといけない。

精一杯の気持ちを示すように、焦らず、深呼吸する。


「それでも、僕と千尋の仲を認めてもらえればと思うのですが」
「まあ……そういう話よね」


千尋にとって双子のお姉さんがとても大事であるならば、誰よりも先に、景さんに認めてもらいたかった。


「別に反対はしないんだけど……」


どうしても語尾が濁されてしまう。


「お願いします。添い遂げる覚悟もあります」
「ソイトゲル……? それ、何語? あんた、そういえばドイツ語も話せるんだっけ?」
「あ、いえ。日本語です。えーと、『一生一緒にいる』という意味ですね」



「そ、それなら最初からそう言いなさい。まぎらわしい言い方するんじゃないの!」
「す、すみません」


失礼だけど、確かにお姉さんのほうは言葉が苦手なのかもしれない。


「ま、まあいいわ。今のことは忘れなさい」
「はい、そうします。あ、いや、忘れてもらっちゃ困ります!」


せっかくの宣言なのに、言葉遊びで無効にされるわけにはいかなかった。


「ふふ。あんたもなんかズレてるわね。そういうところ、千尋と似てるから気があうのかもね」
「はあ」


よくわからない評価だったので、自分でも判断のつかない相槌しか出てこない。


「そうか……なるほど。そう考えれば麻生くんって弟みたいなものなのよね。そもそも後輩なんだし」


なにを納得しているのかわからないが、見るからに機嫌はよくなっているので、ほっとする。

なるほど、どうするか決めてしまえば、景さんは後腐れを作らない気持ちのいい人なのだろう。


「今すぐに認めて欲しいという話ではないので」
「まあそうね。ゆっくりやっていきましょうか。千尋に幸せになって欲しいっていうのは、お互いに同じなんだし」
「はい。不束者ですが、よろしくお願いします」


…………。

 

……。

 



お姉ちゃんと蓮治くんが戻ってきて、堤さんを含めた4人で帰宅することになった。

冬の昼間は短く、音羽の街が赤く染まっている。

 



「今日は楽しかった、千尋?」

「うん。学校に来れたし、屋上もきれいだったし、お姉ちゃんの試合も見れたし」


素直にうなずいてから、冗談めかして怒っているんだよと頬をふくらませる。


「でも、最後の図書室で小説を見せちゃったのは酷いよぉ」

「あはは、ごめんごめん。でも、京介先輩には見せてあげたかったのよ」


ちらりと、お姉ちゃんが背後を歩いている堤さんと蓮治くんを気にする。

ちょっと距離が離れているので、お互いの声は届いてはいない。


「堤京介さんって、お姉ちゃんの彼氏さんなんだよね?」
「う、うん」


あ、お姉ちゃんのこういう照れ方は珍しい。

恋愛の話はくすぐったいけれど、嫌いではない。


「うーん……それなら、仕方ないのかな」
「わたしが言うのもなんだけど、千尋もわたしに甘いわよね」
「そうかな」


くすくすと笑みがこぼれてしまう。

お姉ちゃんが幸せそうだと、私もつられて嬉しくなるのだ。


「そういえば、結局、蓮治くんとなんの話をしてたの?」
「ああ、ちゃんと千尋と付き合う気があるのかって、そういうことの確認かな」
「わ」


予想はしていたが、実際にそう告げられると困惑してしまう。


「お姉ちゃん、本当にそういうのやってたんだ……」
「そりゃ、大切な妹のことだし」
「うぅ……恥ずかしい……」
「でも千尋、麻生くんと結婚まで考えてるんでしょ」
「け、結婚!?」


自分でもびっくりしてしまうような、すっとんきょうな声が出てしまう。


「そうよ、結婚」


お姉ちゃんはごく普通に返してくる。


「そ、そそ、そんなこと急に言われても」
「いや、遊びで付き合ってるわけじゃないんでしょ」
「う、うん」


ものすごく心臓がドキドキしてる。

頭に血がのぼってしまったのか、ちょっとくらくらする。


「だけど、心の準備が……」
「麻生くんが学生のうちに、なんてのはわたしも許さないから、今すぐって話じゃないわよ」
「そ、そうだよね」
「でも、将来的にはする気でしょ」
「したい、のかもしれないけど……わからない……。結婚しても、私は蓮治くんの足を引っ張るだけだし……」
「以前と同じ問題で悩むな、って千尋に言っても仕方ないんでしょうけど。外に出て働くとかが無理なら、割り切って、きっちり掃除とか洗濯とかの家事をやるって決めておけばいいのよ」
「そういうふうに決めても料理は出来ないけどね」
「あはは、やっぱりわたしたち姉妹は遺伝的に料理がダメなのね」
「うん、遺伝って怖いね」
「ま、ともかく、麻生くんは悪いヤツじゃないってのが確認できたから」
「うん」


それだけは、私も信じている。

私は人の悪意にとても弱い存在だと──それを意識するように、ずっと“私”から言われ続けているから。

そうやってしばらく歩き、街中に辿りつくと、蓮治くんだけがこちらに追いついてきた。



千尋、一緒に帰ろうか」
「あ、はい。あれ、私だけですか?」


反射的に頷いてしまったが、堤さんやお姉ちゃんは含まれていないのだろうか?

蓮治くんが私に声をかけてきたからか、お姉ちゃんは入れ替わりに堤さんの横にいた。


「堤さんの家がこのへんらしいんだけど。千尋のお姉さんともうちょっと一緒にいたいみたいだから、気を利かせたほうがよさそうなんだ」
「ああ、なるほど。だから私たちだけで」
「うん。『千尋に用事があるから僕らは別行動します』って。そんな約束してないけど、つい言ってきちゃったんだ」
「わかりました」


堤さんには思うところがあるが、お姉ちゃんもそれを望むなら、素直に協力するべきだろう。

それに、今日は蓮治くんと2人きりの時間がなかったので、私としても悪くない話だった。


「それじゃあ行こうか」
「はい」

 



「あの、お姉ちゃん、私たち先に行くね」

「あ、うん」


向こうでも蓮治くんの話した内容を説明していたのだろう。


「気をつけて帰るのよ」

「大丈夫。蓮治くんも一緒だから」

「うん。麻生くんも千尋のことをよろしくね」

「はい」


それぞれ言葉を交わして別れることになる。

私の隣を離れて、お姉ちゃんは堤さんと共に、違う道を歩いていってしまった。

内面を移すようなその軽い足取りに──自分よりも堤さんが優先されたことに、少しだけ心がうずいてしまう。


「それじゃあ、家まで送るよ」
「はい」


……。


「今日は楽しかった?」
「はい。色々あったので、日記を書くのが大変です」


蓮治くんと2人だけになると、昼間の賑やかな雰囲気から一転して、穏やかな空気が流れる。

それが私には心地よい。

けれど──

お姉ちゃんと堤さん、宮村さん、ミズキちゃん……

みんなが好きな人に対して素直でいられるのがうらやましかった。

私と蓮治くんは恋人だからこそ、1つだけ気になっていることがあり、それは、その……。


「うぅ……」
「どうしたの、千尋?」
「い、いえ、なんでもありません」


ふるふると首を振る。

心の中で言い淀んでも仕方がない。

素直に言って、私と蓮治くんは、恋人だというのにエッチなことをまったくしていないのだ。

2人きりになると、それがどうしても気になってしまう。

私が日記に嘘を書いたり、意図的に伏せているのでなければ、彼と結ばれたのは半年前の1度だけ。

蓮治くんの書いた小説には、屋上で結ばれたという記述はあったが、当然、そこに詳細な描写はなく。

男の人はエッチなことをしたい、という話をよく聞くのだが、我慢できるものなのだろうか?

やっぱり私の子供っぽい体つきのせいだろうか。

宮村さんみたいな女性らしいプロポーションなら……。

 



「ああもう!」
「え!? ど、どうしたの?」
「なんでもありません」


こういうときだけは、彼の優しさがもどかしい。

自分が求められているのか、私は“実感”することが出来ないから。

乱暴なのは怖いけど……ちょっと強引なくらいでもいいのに。

「ああそうだ、色々あってすっかり忘れてた」


私の気持ちも知らず、蓮治くんがのんびりとした声をあげる。


「テストのほうだけど、想像以上に出来たと思う」
「あ、じゃあ」
「結果はまだだけど、こっちの音羽にいられると思う」
「よかったです」
「うん、よかった。これで家具とかもきっちり揃えられるよ」
「あ……」


蓮治くんの、部屋。

これはチャンスなのかもしれない。

私らしくない大胆な発想だったが、それでも──


「ん? どうしたの?」


私の変化にようやく気づいたのか、蓮治くんが顔を覗きこんでくる。

 



「あの……帰る前に、蓮治くんの部屋に寄ってもいいですか?」
「うん……あ、え?」


裏の意味を理解した彼の顔に、私は思わず微笑んでしまう。

ああ、やっぱり私は、蓮治くんのことが好きなのだ。


…………。

 

……。

 

 



「なにもないけど、どうぞ」
「お邪魔します」
「お茶かコーヒーでも飲む?」
「いえ、お構いなく」
「そう」


内心では彼女が部屋にやってきた理由にドキドキしているのだが、どういう態度でいればいいのかさっぱりわからないので、普通にしておく。

もしかしたら僕の勘違いなのかもしれないし。


「それにしても、蓮治くんの部屋にしては本がありませんね」

 



「ああ、南の部屋を基準に考えると、そうだろうね」


同じ本好きとして、真っ先に他人の本棚の中身が気になるというのは理解できた。


「どんな本を読んでいるのか興味はあったのですが」
「ファンタジーが中心だけど、歴史モノもSFも恋愛小説も読んでるよ。まあ、本は荷物として重すぎるから、日本には厳選して1箱分くらいしか持ってきてないけど」
「なるほど」


本以外にもと千尋がきょろきょろと部屋を見渡すが、特に見るものはないだろう。


「まあ、普通の一人暮らしの部屋だと思うよ」
「そうですね」
「あれ? 一人暮らしの部屋の雰囲気って、千尋はわかるの?」
「はい。おじいちゃんが不動産屋さんをやっているので、こういう造りの部屋はよく見ました。火村さんが一人暮らしをしてた頃の部屋も知ってますよ」
「え、火村さんの部屋?」
「学生の頃、火村さんはおじいちゃんの扱ってる部屋に住んでたんです」
「ああ、なるほど」
「…………」
「…………」


そこで、会話が止まってしまう。

やることもないし、見ることもなければ、当然だろう。

黙っていても仕方ないので、腹をくくって訊ねることにする。



千尋、勘違いだと悪いから確認するけど、僕の部屋に来たのは──」


そこまで口にしたところで、ぴたっと、千尋の指が僕の唇に当てられた。



「言葉はとても大事なもので、私はそれに縛られて生きている人間ですが……。でも、大丈夫です。蓮治くんが私にとても優しいのと同じように、私も蓮治くんのことが大好きだから。だから、言葉は──」


彼女の言葉こそを最後まで言わせなかった。

その細い腰を抱き寄せて、キスをする。

ずっとそうしたかったから。

まったくの無意識の行動だったが、そのキスだけは何度も練習したかのような、僕らしくないスマートさだった。

 



「ん……」


一瞬、胸を押されたが、すぐに千尋の身体全体から力が抜ける。

小説を渡してからキスだけは何度かしていたが、それでも、彼女が慣れるということはない。


「んっ……ふ……」


千尋のあたたかさと柔らかさ、そして漏れる吐息に脳が痺れる。

内気な僕ですら徹底的に攻め立てたくなるのが、千尋という純粋で弱い存在だ。

だからこそ、最初のキスだけは唇を唇で優しく甘噛みするようにして、時間をかける。


俺たちはお互いを求め合った……。


…………。

 


……。

 

 

「ねえ、千尋
「はい」
「キスが、したいよ」
「あ」


くすりと、彼女も笑って応えてくれた。


「私もです」


……。


「はぁ……」


シャワーを浴びてさっぱりしたところで部屋に戻る。

千尋を送りだす必要があったので、バスルームに入ったときと同じ制服姿だ。

まあ、着替えを用意するのが、おっくうだったとも言う。

 



「あれ、千尋、なにしてるの?」


僕の前に身支度を整えた千尋が、手帳を見つめていた。


「いえ、その……。先ほどの体験を、どう日記に書くべきか悩んでまして」
「……書くんだ」
「……書かないといけませんよね」


必要性は承知しているが、抵抗はあるのだろう。


「恥ずかしいですけど……でも、蓮治くんがどういうときに気持ちよさそうにしてたとか、今のうちじゃないと忘れちゃいますし」
「う……」


内容を悟って嫌な汗が出てきた。

実務的に記される日記の性質上、彼女がどうこうではなく、僕の反応が中心になってしまうらしい。


「せ、せめて、こういうことがあったよ、って書くだけじゃダメかな?」
「ダメです」


にっこりと。


「蓮治くんは2度目かもしれませんが、私は今日が初めてだったんですから」


天使のような笑顔を浮かべられてしまっては、それ以上は口を出せない。


「ああ……誰かに見られたらマズイよなぁ……」
「うーん……別の日記帳を用意するほうがいいでしょうか?」
「…………いや、それを用意していることを千尋が忘れると、余計に誰かに見られる可能性が高くなりそうだから止めておこう」
「あ……それに、忘れた頃にそれを目にしたら、私自身がびっくりしそうですね。いっそ、蓮治くんが自分の体験談として書くというのも──」
「本当に勘弁してください……」


なるほど、千尋と付き合うということは、こんな悩みも出てくるのか。


「まあ、今日は普通に書くとして、あとで上手いまとめ方を考えてみよう」
「そうですね。そうでなくても、今日はあのお姉ちゃんのストーカーの堤なんとかという人のことを、徹底的に書かなきゃいけないですし」
「ああ、まだ覚えてたんだ、それ……」
「13時間以内のことですから……」

 



そう言いながら手帳をしまって、彼女がちょっと身をのりだしてキスをしてくる。

本当に一瞬だけの、微笑ましい、小鳥のついばみのようなキス。


「ああ……」


千尋が幸せそうにつぶやく。

俺の頬もゆるんでしまう。


「……今日は、昨日よりもいい日だね」
「え?」
「ううん。なんでもない」


いつかの彼女の言葉をアレンジしたのだが、彼女にはわからなかったらしい。

それは当然だから、残念だとは思わない。


「今日は昨日よりもいい日……。いい言葉ですが、今日より明日のほうがいい日と言うほうが、前向きだし韻を踏めてますね」
「ま、言葉の上ではね」
「ん?」


千尋千尋であるという訂正に、僕も幸せだよと笑顔を返す。

今日の記憶も彼女から消えてしまうけれど──それでも、今の時間の大切さが失われるわけではない。

僕も彼女もそれを知っているから。

もう大丈夫。


「それじゃあ、遅くなっちゃったけど家まで送るよ」
「あ、それなのですが。今日は帰りませんって、蓮治くんがシャワーを浴びてるときに家に連絡しました」
「え?」
「大丈夫、ですよね?」
「……大丈夫、なのかな?」


千尋の家の人はどういう反応をしたのだろう。

景さんへの挨拶に続いて……そのあたりをどうにかしないといけないけれど……。

 



「でも、僕ももうちょっと一緒にいたい」
「はい」


とりあえず、彼女の話を聞きながら夕飯を作ろう。

新しい生活を祝して豪勢なものを。

グリンピース抜きで。


「あ、そうだ」
「なんですか?」


締まりが悪いと思ったが、もう1つだけ話すべきことがあった。


千尋もさ、せっかくだし新しい小説を書こうよ」
「え?」
「前の小説はちょっと寂しい感じだったから、今度は明るいのをさ」
「でも……」
「大丈夫」


あえて自信満々に。


「僕が一緒だから」
「あ、はい!」


そして──

 

 

 

僕の胸に飛び込んでくる千尋を抱きしめて。

また、新しい物語が始まった。


……。