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──どうして泣いてるんです?
──私は優子、って言います。
──泣いてない!
──誰……?
Chapter 4 After Story. 天使の日曜日
feat.Mizuki Hayama.
新年が明けたばかりの1月。
寒空の下、わたしは健気に、愛する人がやってくるのを待っていた。
「な~んて言い方をすると、ちょっとかっこいいね」
自分のおかれた状況にニヤニヤとしてしまう。
ま、寒い寒いとふとももをこすりあわせながらでは、かっこよさとは縁遠いだろうが。
「さてと」
待ち合わせの9時まで、後5分くらいだろうか。
几帳面なメンバーなのでそろそろ来るかな──と思っていると、予想通りに見知った顔が横の路地からあらわれた。
「おはようございます、ミズキちゃん」
「いやーん、マイ愛する千尋先輩、おはようございます♪」
「あ、朝からテンション高いですね」
「今年から景先輩と千尋先輩がダブルでわたしの側にいますからね。自然と顔がにやけてしまって」
「はあ。よくわかりませんが、ミズキちゃんが嬉しいならよかったです」
無垢な笑みを浮かべる千尋先輩に抱きつきたくなるが、それは自重しよう。
「それにしても、制服で来たんですね」
「お休み中なので私服でもいいのでしょうが、どうせなので。このほうが目立たないでしょうし」
「その恥じらいがグーです! それに引き換え、今日の主役の蓮治のほうが千尋先輩より後になりましたか」
ちょっと怒ったように言ってみる。
今日は蓮治の音羽学園への編入テストがあり、その応援をしたいという千尋先輩を含めた3人で待ち合わせをしていたのだ。
「本人が一番最後ってのは、やる気ないですね」
「お寝坊とかしてなければいいのですが」
「まあ、わたしの真の目的は景先輩のバスケの試合のほうなので、この際、蓮治はいなくてもいいのですが」
むしろ、千尋先輩と2人きりのほうが素晴らしい。
「蓮治くんが音羽に入れないと私が困ってしまうのですが……」
「そうですよね。千尋先輩が困るのはいけません」
5秒前のことはなかったものとして、当然のことだと頷く。
「なんなら、わたしがひとっ走りして首に縄を巻いて──」
「あ」
千尋先輩が顔をあげて、小さな声を漏らした。
どこか嬉しそうな感情を滲ませた、聞いているだけで微笑ましくなる声だった。
「おはよう、千尋、ミズキ」
眠そうな雰囲気を漂わせながらやってきた蓮治が、千尋先輩を目にして笑みを浮かべる。
「おはようございます」
「おはよー」
「日本は寒いね」
肩を震わせながら蓮治が苦笑いをこぼす。
「向こうは夏だったもんね」
「え?」
「しばらく南半球で暮らしていたから、どうも1月が寒いって感覚が鈍くて」
「ああ、なるほど」
ワンテンポ遅れて千尋先輩も事情を察したようだ。
「とりあえず、蓮治くんが寝坊とかでなくてよかったです」
「眠いのは事実だけど」
「昨日はちゃんと早く寝たの?」
「いや、緊張で目が冴えちゃって、結局午前2時くらいまで勉強してた」
「あのねえ……」
浮かれて忘れていたけど、おばさまから「面倒を見てあげてね」と頼まれているんだった。
これで蓮治になにかあると、わたしが困るのだが。
「大丈夫ですか?」
「うーん、編入テストで落ちることはないと思うけど」
相変わらず、自信があるのかないのかわからない様子だ。
なんとな~く、蓮治は鈍いから、もうちょっと時間が経ってから緊張しだすような気がする。
「とりあえず行こうか」
そう言って歩き出そうとしたところで、ふいに蓮治がわたしの顔を見つめる。
「ところでミズキ、久瀬さんはどうしてる?」
「ああ」
一応、心配してくれているらしい。
久瀬さんは勘当された実家に顔を出すため、蓮治よりちょっと前に音羽に戻ってきたあと、蓮治や千尋先輩とはあまり顔をあわせていない。
「身体の調子はいいみたいだよ」
それを最初に断ってから──
「お昼過ぎまで寝てるんじゃないかな。基本的に夜型の人だし」
…………。
……。
「ま、実は起きてるんだけどね」
商店街にある喫茶店で茶(コーヒー)をすすりながら、俺はにやりと笑ってみる。
「いちいち隠すことでもないだろうに」
「なに言ってるんだ。俺が火村とイチャイチャしてるのを知ったら、ミズキちゃんに嫉妬されるだろ?」
「そもそも、なんでお前は音羽に戻ってきてるのにホテル暮らしなんだ? 去年のクリスマスのあと、俺や凪と話をして、勘当された実家に顔を出すことになっただろうが」
火村が相変わらずの仏頂面で言う。
「いや……まだちょっと覚悟が決まらなくて」
「音羽を中退して海外に飛び出したあげく、大病を患ってればきりがないな」
「ついでに“彼女”つきでね」
「訳ありすぎるな……」
「そこで今日は相談なんだが──」
「断る」
「まだなにも言ってないぞ」
「実家に顔を出すならひとりで行け。俺を巻きこむな」
予想通りの反応に、思わず口元がゆるんでしまう。
「そんなこと言うなって。火村がいると15%くらいは矛先がズレてくれるんだよ」
「人にものを頼む態度じゃないぞ」
「土下座したら行ってくれるのか?」
「……ここで土下座するつもりか、お前は」
「はは。無駄なプライドなんて犬に食わせておけばいいものだし、やったらやったで面白いからな」
「俺の嫌がる反応が面白いから、だな」
「当然」
「断られるのをわかってて言うんじゃない」
ぴしゃり──この話題は終わりだと宣言するように火村が言う。
「それより、羽山ミズキは最近どうなんだ?」
「おや、火村がそんなことを気にするのは珍しい」
「お前がなにを考えてるかなんぞ知らんが……。俺は単に、彼女の様子に変わりがないかを確認してるだけだ」
「ふ~ん」
考え事をするために、コーヒーをすすって間をおく。
南の音羽にいるとき、俺のいないところで火村とミズキちゃんが接触していたようだが、どういう“ご関係”なのだろう。
もともと火村は、蓮治や千尋ちゃんのような子供に甘いというのがデフォルトだが──
それでも、ミズキちゃんが相手のときは毛色が異なる気がした。
ミズキちゃんを喜ばせるために嫉妬してあげてもよいのだが……2人の性格上、そういう“ご関係”ではないだろう。
「ま、いいか」
「なにをひとりで納得してるんだ、おまえは……」
「いやなに、ミズキちゃんは相変わらずだね。日本に戻ってきて、むしろ活き活きしてると思うよ」
「そうか」
「ところで、火村くんの今日のご予定は?」
「ああ、ちょっと学園に顔を出そうと思ってる」
「学園に? なんで?」
「絵のことで美術室に用があるんだよ」
「なるほど。学校ね。俺も行ってみようかな」
「お前は実家に顔を出せ」
「そこで相談なんだが、火村も一緒に行ってくれ」
「無意味に会話をループさせようとするな」
何度目かのため息をついたかと思うと、しかし、火村は口元を皮肉気に歪めた。
あ、嫌な予感。
「まあ、おまえがひとりで行きたくないと駄々をこねるのは予想していたがな」
「……予想していて、なんだよ」
「そんな久瀬のために、スペシャルゲストのご登場だ」
「ん?」
俺が問いただす前に、すっと現れた人影が俺たちのテーブルに腰かけた。
──「待たせたな」
「げぇ! 凪!?」
「“げぇ”とはなんだ、“げぇ”とは。相変わらず失礼なやつだな」
「やあ、おはよう凪」
「なるほど、きちんと挨拶されるほうが気持ち悪いな」
「どうしろってんだよ!? というか気持ち悪いとか地味に傷つくだろうが!」
「朝から騒がしいなあ」
「他人事のように言うなよ、火村……なんでここで凪が出てくるんだ?」
「なに。音羽に戻ってきてるのにこの3人で顔をあわせてなかったからな。ちょうど久瀬が俺を朝食に誘ってきたから、ついでに凪も呼んでおいたんだ」
「おまえ、わざとらしくため息ついたり怒鳴ったりしながら、内心でニヤニヤしてやがったな……。嘘つきめ」
「嘘つきに関しては、近くに良い教師がいるからな」
「むぅ……」
あとで覚えてろよ、という負け台詞は意識して飲みこむ。
「ああ、凪。久瀬は案の定な様子だから、実家まで引きずっていってくれ」
「……仕方ないなあ」
「なんだその、子供を歯医者に連れて行こうとする母親みたいな目は」
「ほとんどそんなノリじゃないか」
「……そうだな」
自分でもそう思う。
相変わらず火村のやつ、俺のことをよくわかってやがる。
凪にこういう態度をとられると──楽しくて、つい自主的に実家に顔を出したくなるじゃないか。
「僕だって久瀬の実家になんか行きたくないんだぞ。今日は可愛い弟のところに行こうと思ってるから、余計な時間を使いたくないんだ」
「いや、どうぞどうぞ弟くんのところに行ってくれ」
「ようやく踏ん切りがついたか」
俺の様子に火村がつぶやく。
「凪と一緒に行ったら余計に面倒なことになりそうだしな」
「そもそも、久瀬は実家のなにを嫌がってるんだ? 勘当されたくらいで怖気づくような可愛い性格じゃないと思うんだが」
心のえぐられっぷりで、凪と会話してるんだなという実感が沸く。
「勘当とか抜きに父親が苦手なんだよ……」
「僕の弟と同じようなことを言ってるな。久瀬のお父上はどんな人なんだ?」
「俺がこういう性格になった反面教師って言えばわかるか?」
「素晴らしい人格者じゃないか」
「固すぎて扱いづらいんだよ」
「仮にも親に対して言う台詞じゃないな」
「まあいいや。考えが変わらないうちに行くか」
俺は机の上に伏せられていた伝票に手を出す。
「ん。自分のぶんは出すぞ」
「別にいいよ。次になにか奢ってくれ」
「そうか」
「凪もまたな」
「あ、ちょっと待った、久瀬」
席を立とうとした瞬間、凪が真剣な顔で呼び止めてくる。
「どうした?」
「奢りなら、どうせだから僕が注文するまで待っててくれ」
……。
「あー、ちょっと緊張してきた」
校門までやってきたところで、蓮治が今更な独り言をもらす。
「転校が多かったから編入テストはよく受けてたけど、何度やっても慣れないなあ」
「なに言ってるのよ。千尋先輩とのウハウハな学園生活を懸けた戦いでしょうが」
「ウハウハってね……」
「あの、申し訳ないですが、私は通っていないので学園生活は無理かと」
「あ、そっか。まあ、音羽で暮らせるかどうかの瀬戸際ですし。もしわたしが蓮治と同じ立場なら、100点満点のテストで120点とってみせますよ!」
「物理的に出来ないから、それ」
「そのくらいの気合でってことよ」
「無理はしないでくださいね」
「あ、ううん。120点はともかく、今回は絶対に受からないとね」
蓮治が真剣な顔で頷くが、ちと肩に力が入りすぎかもしれない。
気合をいれたほうがいいと思ったのだが、気負わせすぎては意味がない。
「ところで蓮治、お昼はどうするの?」
わたしはフォローのつもりで、話を家庭的に脱線させてみた。
「食事のことなら、お弁当を用意してきたよ。ちゃんと千尋の分もあるからね」
「あ、蓮治くんのご飯は美味しいって日記に書いてあったので、楽しみです」
何度か食べたことがあるはずだが、やはり味そのものは覚えていないらしい。
「ちゃんとグリンピース抜きでね」
「え?」
「あれ? 嫌いだよね、グリンピース?」
「ええ……いや、どうして知ってるのかなって」
「前に千尋から聞いたんだよ」
「なるほど。ちょっとびっくりしてしまいました」
2人が顔を見合わせて、はにかむように笑う。
こうやって記憶障害のことを普通に話せるようになったことは、とても微笑ましい。
「ま、お弁当があるならお昼の心配はしなくていいね」
「ミズキはいらないんだよね?」
「うん、わたしはパス。お昼頃にはバスケの試合が終わるし、ちょっと用事があるから」
「用事?」
「ちょっとした」
わたしは曖昧な答えを返す。
実は用事などなく、お昼には起きているだろう久瀬さんと合流して、一緒にご飯を食べようと思っているだけだ。
蓮治と千尋先輩のピクニックの邪魔をしては悪いだろうというのが一番の理由だが。
「あ、そろそろ時間だから行くね。遅刻で減点されたらもったいないし」
「こっちはずっと体育館にいるから」
「それじゃあ、待ち合わせはお昼に体育館で」
「はい。がんばってください」
「うん」
屈託なく頷くと、蓮治がひとつ深呼吸をしてから校舎に入っていく。
気負いが消えて悪くない感じになったかな。
「あとは蓮治次第ですし、わたしたちは景先輩のところへ行きましょう」
千尋先輩に向き直ると、彼女は急にぺこりと頭をさげた。
「あの、ありがとうございます、ミズキちゃん」
「え!? 一体、何事ですか?」
「私だけでは、蓮治くんをどう励ましていいかわからなかったので」
「そんな。千尋先輩が『がんばって』って言えば、蓮治は必死にやりますよ」
蓮治でなくとも、千尋先輩に応援されたら誰でもがんばるはずだ。
「そう……みたいなんですけど。やっぱり確証がなくて。蓮治くんと自分が付き合ってるのは知ってますし、とても優しくて、今日の私も大好きです。でも、どうして喜んでくれたり、悩みの相談にのれるかがわからなくて……」
「そのあたりは仕方ないんじゃないですか」
蓮治だって千尋先輩の障害のことは承知しているはずだ。
「そうなんですけど……」
そこまで言って。
千尋先輩は、とても可愛い笑顔を見せてくれた。
「それでも、私が蓮治くんのために出来ることを見つけていきたいんです。ひとつずつでもいいから」
「なるほど……」
納得したが──
「ああもう……蓮治ばっかり贔屓(ひいき)されてて、妬ましい!」
「あ、あの。ごめんなさい、体育館に行こうって言ってたのに、つい話しこんでしまいました」
「いえいえ、いいんですよ」
景先輩の試合がなく、蓮治のテストだけだったら、このまま千尋先輩と一緒にデートに行きたいくらいだ。
「それではどうぞ、こちらです」
…………。
……。
「あら、千尋にミズキじゃない」
体育館に入ってすぐに、お目当てだった景先輩のほうが近づいてきた。
「本当に見に来たのね」
「あれ? お2人とも朝は一緒だったんですよね。応援に来ますよって話、してなかったんですか?」
「ちゃんと言ったよ」
景先輩の前では、いつもより幼い雰囲気を見せる千尋先輩であり。
「蓮治くんのついでに、でしょ」
こちらも、いつもよりお姉さんな景先輩である。
「そ、そんなことないよ」
「いいのよ。練習試合だからって負けるつもりはこれっぽっちもないけど、蓮治くんのほうは、失敗できない一発勝負の試験なんだし」
「ああ、お2人が仲良くされているのを目にするだけで眼福です」
「ミズキも、千尋と一緒に来てくれてありがとう」
「いえいえ、お2人のお役に立てるなら、不肖羽山ミズキ、この身を削ってお仕えいたします」
「そこだけはどうやっても変わらないわよね、あんたは……」
「ちなみに、お着替えはまだですか?」
「すぐに着替えてウォームアップだけど。今は相手チームが着替えてるから」
そこまで言って、ふいに景先輩が足元にあったバスケットボールを持ち上げる。
「てい」
「おうふ!?」
すくいあげるようにして景先輩が投げたボールが、わたしの頭を直撃した。
「あ」
「イタタ……なんですか景先輩!? 愛の鞭ですか!? それならもっとやってください!」
「わたしが言うのもなんだけど、本能だけで喋るの止めたら。まあ、ごめんごめん。まさかキャッチできないとは思わなかったから」
「そりゃ、いきなりボールが飛んできたら無理ですよ~」
「それにしたって、ちょっと、なまりすぎじゃない?」
「う……」
図星をつかれて唸ってしまう。
付属のバスケ部を引退してから、南の音羽に行っている間──日本に戻ってきてからもボールに触っていないのは事実だった。
「前から思ってたんだけど、ミズキって持久力がモノをいうスポーツのほうが向いてるんじゃない」
転がっていったボールを目で追いながら、景先輩が普段通りの口調でつぶやく。
「陸上の長距離走とかですか?」
「そう。別にバスケをやめろってことじゃないけど、そっちのほうが記録を残せると思うのよ」
「結果にこだわればそうなんでしょうけど。わたしはやっぱり、みんなでワイワイやってるのが好きなんですよ」
「みやこさんとは逆ね。ああ、本当にただの雑談だから気にしなくていいわよ」
「わかってます」
「あの」
静かにこちらの会話を聞いていた千尋先輩が、小首をかしげている。
「みやこさんって誰ですか?」
「宮村みやこっていう、3年生の先輩のことよ」
「堤京介っていう先輩とは別の人?」
「別の人」
「みやこ先輩を知らなくて、堤先輩のほうを知ってるのは珍しいですね」
「わたしの彼氏って情報のほうが、千尋にとっては身近なせいでしょ」
「うん」
「なるほど」
「まあ、京介先輩とみやこさんも冬期講習を受けに学校に来てるはずだから、後で会えるかもしれないわよ」
「へ~、みやこさんかぁ。どんな人なんだろう」
「そうね……悪い人じゃないわよ」
歯切れが悪いが……そういう表現しかできないのも事実だろう。
──と。
そんな話をしていたら、練習試合の後に、本当にみやこ先輩がやってきたのだ。
──「おーいっ、ミズキちゃん。やっほー」
「あ、みやこ先輩。ちわっす!」
「やっぱりミズキちゃんも来てたんだ。試合、どうだったの?」
「もちろん、音羽が勝ったに決まってるじゃないですか。なんてったって、景先輩がいらっしゃるんですから」
千尋先輩が見ていたせいか、今日の景先輩の動きはいつも以上に鋭く、安心して見ていることが出来た。
「やるなあ、景ちゃん」
みやこ先輩は納得したというように笑ってから、周りを見回した。
「でも景ちゃん、いないね。もう帰っちゃったの?」
「いえ、いますよ。今はちょっと、悪さをした堤先輩を物陰に引きずり込んで、お説教してるだけです」
「説教、ね……」
呆れたように、みやこ先輩がつぶやく。
「ところで、そっちの子は?」
「あ、えーと……私ですか?」
「みやこ先輩は初対面でしたね。えーと、こちらは──」
「景ちゃんの妹さんの千尋ちゃんだね。はじめまして」
「あーっ、人がせっかく紹介しようとしてたのに」
「でも景ちゃんにそっくりだし。見ればわかるよ」
「じゃあ訊かないでくださいよ」
ぶすっとしてしまうが、景先輩にそっくりという言葉で、つい顔がにやけてしまう。
「まあ、みやこ先輩のおっしゃるとおり、わたしのラブリーな千尋先輩です。わたしの」
「あの……私、どうしたら……」
「千尋先輩はそのままの天然素材でいいんです! もちろん、もっとオロオロしてくれたりしますと、ご飯3杯食べられるくらい萌えますけど!」
「確か、ミズキちゃんも彼氏ができたって聞いたけど、あんまし前と変わんないね……」
「それはそれ、これはこれ、別腹ですから」
久瀬さんは好きだが、『かっこいい』と『可愛い』は次元が違うのだ。
「あのさ、ミズキ。揚げ足を取るようだけど、千尋に『これ』は酷いんじゃない?」
「はっ、そう言われれば! ごめんなさい、千尋先輩! そんな無礼を働いたわたしを罵ってください!」
「この卑しいイヌめ!」
「うきゃー、本当に罵られた!」
「え? や、やっちゃいけなかったんですか?」
「……千尋。どこでそんな言葉覚えたの?」
「えーと、どこでしょう。ここ13時間で覚えたわけじゃない……と思いますが」
「こっちに来てから、千尋の意外な面を垣間見続けてる気がするな」
「……ところで、ミズキちゃん。もう一つ質問なんだけど、こっちの子はなんじゃらほい?」
「こっち? ああ、こいつですか」
みやこ先輩の視線の先に、蓮治がいた。
そういえば、千尋先輩を紹介することだけしか頭になかった。
「これはわたしの従兄で、自称“千尋先輩の恋人”とか夢見ちゃってる麻生蓮治です」
「ちょっと! 自称って、それじゃあ危ない人みたいだよ!」
「まあ、本当のところは人畜無害だよね。毒にも薬にもならないことは確かだし」
「人畜無害って……」
「うん、ミズキちゃんのイトコにしては普通っぽいね」
「なんか引っかかりますけど。確かに、ちょっとキャラが弱いですね、こやつは」
「ミズキと比べられてもなあ」
「男装に憧れる女の子なんて、いくらでもいるからね。それだけじゃ、イマイチかなあ」
一瞬、なんのことかと思ったが、すぐに”納得”する。
「え? あの、なんか誤解があるような……」
「でも、千尋ちゃんと付き合ってるっていうのは、けっこう面白いなあ。凝った設定だね」
「……もうなんでもいいです」
「なんか本人がへこんでますが、一応、説明の続きで。蓮治は帰国子女で、音羽学園に編入するための試験を受けに来てるんですよ。千尋先輩はその付き添いですね」
「へえ、そうだったんだ」
「ミズキちゃん、できれば私たちにも、こちらのお姉さんを紹介してくれませんか?」
「あ、そうですね。こちらは、宮村みやこ先輩です。音羽の3年生で、驚くべきことにヒロ先輩の彼女さんです」
「わ、絃お兄さんの彼女さんですか」
「あー、前にミズキが言ってた、色んな意味で凄い人っていう」
「……ミズキっちゃん?」
「ひうっ!?」
「あたしのことを人にどんな風に話してるのかな? お姉さん、ちょっと気になってきたよ」
「い、いえ、わたしはただ、ありのままのみやこ先輩の姿をですね……」
「ありのままに伝えたら、引かれちゃうじゃん!」
「ああ、自覚あったんですね……」
「あ、ぜんぜん関係ないけど。ミズキ、なんか用事があるって言ってなかった?」
「あ、そうだった」
景先輩の試合の最後のほうから、堤先輩、みやこ先輩と連続で話をしていて、すっかり忘れていた。
このまま、ずるずると雑談していても仕方ない。
それに──わたしがいないほうが、蓮治がみやこ先輩と話す機会が増えるので、いい人生経験になるかもしれない。
「みやこ先輩。すみませんが、千尋先輩と蓮治のことをお願いしてもいいですか?」
「あいよ。どーんと任せておいて」
まったく信用ならない言い方だったが……。
「それでは、お名残惜しいですが、これにて失礼~」
…………。
……。
「さて」
あえて声を出して、自分のするべきことを考える。
みんなの仲の良さを見せつけられたようで、おかしなストレスが溜まっている気がした。
「それに引き換え、うちの久瀬さんときたら……」
久瀬さんと付き合うようになってから、これからの時間帯が1日の本番という感じになっていた。
わたし自身は朝型の人間で、久瀬さんは夜型だから──自然と夕方に顔をあわせることになるのだ。
「冬休みはまだいいけど、音羽の本校にあがったら、もっと会いづらくなるんだけどなあ……」
ぶつぶつと。
まあ、こんなことを考えてるうちは幸せなんだよね、と思いながら携帯を取り出す。
「ぴっぽっぱっ、と」
『もしもし!』
「うわ!?」
登録されていた番号を呼びだしたら、いきなり通話状態になって、びっくりしてしまう。
「なんですか一体。というか、声の感じからして起きてたんですね」
『ああ、うん、ちょっとね。いいタイミングだった』
「ん、なんかシリアスな声ですね。どこでなにしてるんです? 仕事モードですか?」
『いや……実家で父親と話しててね』
「おお、勘当されたという噂の
『うん。なにか急ぎの用事?』
「いいえ。単に一緒にお昼ごはんはどうですかと、お誘いしようと思っていただけです。親子水入らずの邪魔をしてはいけませんし、後でかけなおしますね」
『あ、ちょっと待ってて』
「はーい」
保留のメロディが流れて、1分ほどで通話が戻った。
『いやー、ごめんごめん、休憩タイムにしてもらって外に出てきたよ』
「ああ、声がいつも通りになりましたね」
『というか、もう会社が始まってるはずなのに、なんで平日の昼間に父親が家にいるんだ?』
へたれて座り込んでいる久瀬さんの姿が、容易に想像できた。
久瀬さんは大きな会社の跡取りで──みたいな話を聞いていたから、お父さんは社長さんかなにかなのだろう。
「久瀬さんを待ってたからでしょう?」
『今日行くなんて、連絡してなかったんだけどさ……』
「おや、それは不思議ですね」
『母親にだけ顔を見せて、まず外堀を埋めようと思ったんだが……火村か凪が根回ししてやがったんだな。確認しなかったけど、これは凪かな』
「意外ですね。凪お姉さんはそういう細かいことには興味ないと思ってましたけど」
『凪自身はそうだけど、父親同士は上流階級のお付き合いがあるわけよ』
「あ、納得」
会社の社長さんと有名な画家という組み合わせは、どことなくアヤシくて楽しそうだ。
「とにかく、お昼ごはんは無理そうですね」
『ちょっと逃げられそうにないな』
「いや、逃げちゃダメですってば。ご家族とは仲良くしてください」
口にしてから、わたしが“家族”と言うと重たく聞こえてしまうかもと気づく。
『う~ん……そうだね。まあ、なんとか穏便に収まるよう頑張るよ』
予想通り、こちらを気にかけるような優しい声音が返ってきてしまった。
『っと。そろそろ電話休憩にあけてもらった時間も終わりだな』
「それじゃあ、今日は会えないですかね」
『いや、お昼は無理だけど、あとで音羽学園に一緒に行かない?』
「いいですよ」
時間がないということなので、今は“どうして音羽学園へ?”とは問い返さないことにした。
空気が読めるミズキちゃんである。
『こっちが落ち着いたら電話するから』
「らじゃー」
『愛してるよ』
電話を切る間際の余計な一言。
ツーツーと鳴る携帯を耳に当てたまま、3秒ほど動けなくなってしまう。
「ふう」
携帯をしまって、ため息をひとつ。
「……これで喜んでるんだから、安いな、わたし」
…………。
……。
「さーて、なにを食べようかな」
久瀬さんと会う前に、なにか適当にお腹にいれておかないといけない。
「今月は余裕ないし、ハンバーガーにしておくか」
──「成長期なんだから、ちゃんとしたものを食べることをお勧めするが」
「おや、火村さん」
ふらりと登場した人の名を、笑顔で呼んでみる。
「やあ」
「奇遇ですね。火村さんもお食事ですか?」
「ああ。奇遇というほど広い街でもないがな」
ぶっきらぼうな物言いは相変わらず。
仲良くなってきたような気はするのだが──おそらく久瀬さんと話しているときの感じからして、これが火村さんのフレンドリーな態度なのだろう。
……不器用な人だ。
「どうせですし、一緒に食べませんか? 久瀬さんが忙しくてひとりなんですよ」
「それは別に構わないが、2人きりというのは避けたいところだな」
そう言いながら、火村さんの視線は別の方向を向いていた。
なんだろうと彼の視線を追うと──
「凪の弟くんだな」
「あ、ヒロ先輩だ」
──「あん?」
ぼーっと横を通り過ぎようとしていたヒロ先輩が顔をあげる。
「羽山か」
「なんですか、みんなして集まっちゃって」
「集まってってなんだよ。朝飯、つーか、昼飯を食いに来ただけだ」
そこで、ヒロ先輩も火村さんの存在に気付いたようだ。
「あ、火村さん」
「やあ」
ちょっと意外な感じもするが、火村さんは凪お姉さんとの繋がりでヒロ先輩を知っていたり、千尋先輩を預かった関係で景先輩とも知り合いなのだ。
「ヒロ先輩も一緒にご飯食べませんか?」
「この3人で? すごい面子だな」
「嫌なら別にいいんだが」
「いや、ひとりだと適当に食って終わりにするだけなんで、いいですよ」
「う~ん」
わたしはちょっとしたことを思いついて、考えてみる。
このメンバーは確かに珍しい。
もしかしたら、これっきりの3人かもしれない。
だから、普通に食事をするだけというのは、もったいない。
「やっぱりそうですよね」
「なにを、ひとりで納得してるんだ」
「羽山が自己完結してるのなんて、いつも通りですけどね」
失礼なことを言われている気がしたが、あえてスルーしよう。
「お2人とも、こんな機会は滅多にないですし、記念に可愛い女の子の手料理などいかがですか?」
「可愛い?」
「ツッコミありがとうございます」
「君が作るのか?」
「そうですよ。作れるのは簡単なものだけですけど。ヒロ先輩、おうちの台所貸してください」
「別にかまわねえけどさ」
「俺も外食よりは自炊のほうが好みだが」
「それじゃあ、適当に材料を買っていきましょう♪」
「いや、冷蔵庫にみやこが買い込んでるものがあるから、買う必要はないと思うぞ」
「使っちゃっていいんですか?」
「みやこが忙しいときとか、俺も料理するし──あ、そうだ」
急にヒロ先輩が声をあげる。
「うちはダメだ。今、姉貴がいるんだ」
「知ってる。午前中に久瀬と3人でいたからな」
「でも、寝てるから起こすことになりますよ?」
「む」
火村さんはちょっと考え込んでから──
「いや、問題ないだろう」
「いいんですか?」
「凪の性格だと、こういうときは逆に、なぜみんなでご飯を食べるときに起こさなかったんだって拗ねそうだからな」
「……確かに」
なにやら2人とも、凪お姉さんに思うところがあるようだが。
わたしはお腹がすいているのだ。
「それではヒロ先輩の家で、突撃お昼ご飯を♪」
…………。
……。
「あれ? 姉貴のやつ、いなくなってる」
部屋に入ってベッドを確認しながら、ヒロ先輩がつぶやく。
「起きたときに誰もいなかったから、帰ったんじゃないですか?」
「多分」
「電話で呼んだほうがいいかな?」
「いや……元からいるならともかく、わざわざ呼ばなくてもいいです」
「んじゃ、わたしはお台所をお借りしま~す」
「俺も手伝うか」
「え?」
わたしについてこようとする火村さんに、びっくりしてしまう。
「火村さんも料理するんですか?」
「別にかまわないだろ」
「ええ、まあ、いいですけど」
なんというか、この人を厨房に立たせるというのは……なんか凄いことだ。
「俺も手伝おうか?」
「いや、3人だとスペース的にきついので遠慮してください」
「家主なんだからゆっくりしてればいい」
「はあ……」
物理的に無理なことを理解しているが、自分以外の人間が働いているのに手持ち無沙汰なのは、感情的に微妙なのだろう。
さて──
「しかし、凄い絵面だな……」
料理中のわたしたちを見ているのだろう。
背後からヒロ先輩の感嘆の声が聞こえてくる。
「というか、火村さんすごく料理慣れてますね」
彼の手
元を覗きこみながら言う。
ぶっちゃけ、レベルが違いすぎたので、わたしは下ごしらえ以外になにもしていない。
蓮治やおばさま、みやこ先輩ほどではないが、きちんと料理を作れる人らしい。
「ずっと一人身だったし、若い頃は金がなくて自炊しかしていなかったからな」
「最近の男は家事もできますよね。料理だけじゃなくて、掃除に洗濯も」
そう言うヒロ先輩は──
「ちょっと面白い構図だから描いてもいいですか?」
と、わたしや火村さんの後姿をデッサンしていた。
普段は考えないようにしているが、自分の好きな作家さんが、自分の絵を描いているというのは意外とくすぐったい。
「それにしても火村さん、絶望的にエプロン似合ってませんね」
「ほっといてくれ」
火村さんがぶすっとしながら言う。
ちなみに、メニューは冷蔵庫にぶりの切り身があったので、照り焼きにすることにした。
「ところで、久瀬とはどうだい?」
「ほえ? どう、とは?」
「いや、あいつがまた暴走してなきゃいいんだが」
「どうしたところであの性格ですからね。暴走も計算づくですよ」
「だからタチが悪いだろうに……」
「久瀬さんの話は、俺も興味ありますけどね」
スケッチブックに筆を走らせながらヒロ先輩がつぶやく。
わたしは振り返ってそれを確認する。
しかし、火村さんもいヒロ先輩もお互いを見ることなく話している──男の人って、どうしてこういうことができるんだろう?
ちょっと不思議。
「あんな演奏をする人がどんなものか、気になるじゃないですか」
「馬鹿だぞ」
「ドSでコスプレ好きですよ」
「いや、そういう冗談半分の評価はよく聞きますけど、具体的なところは知らないんで」
「具体的にもなにも──妙な説明になるが、変ではあるがごく常識的な範囲で普通だな」
「堤先輩が近いかもですね」
「ふむ」
「ああ、似てると言えば、なんとなくヒロ先輩と火村さんも似てますよね」
「ん?」
「全然違うだろう」
「いや、ちょっとシニカルっぽいというか、人懐っこくないように見えて人懐っこいところとか」
「……俺はそう思われてるのか」
「……つーか、反論しようと思ったが、思い当たる節があってへこむな。去年まで俺が学校に通ってたのはまさにそれが理由だったか」
「それ?」
「なんだこうだ言っても、みんなと馬鹿やってる楽しさってやつを大事にしたかったんだ」
「ああ、へー、そうだったんですね」
「これで2人目だな。凪の弟くんに似てると言われたのは」
ぽつりと、独り言だったのだろう声を火村さんがもらす。
「え? そうなんですか?」
「へー」
ヒロ先輩とわたしにとっては意外な発言だった。
「火村さんとヒロ先輩の両方を知ってる人って、そんなに多くないですよね。景先輩とか千尋先輩とか、凪さんですか?」
「ん……ちょっとな」
明らかに言葉を濁しているので追及しづらい。
「そういえば、火村さんとこうやって姉貴抜きで話すのって珍しいですね」
ヒロ先輩が話題を変えた。
「ああ。君が小さい頃は、いつも凪が一緒だったな」
「本当にいつも一緒だったから、たまったもんじゃなかったですけど……」
「お2人って、どの程度の知り合いなんですか?」
凪お姉さんを挟みすぎていて、わたしからすると距離感が掴みにくいのだ。
「本当に子供の頃だけですよね、会ってたのは」
「俺が音羽の学生だった頃、凪に絵のことを教わっていたときが中心だな」
「びっくりするくらい昔の話ですね」
「よく凪に、君より絵が下手だって叱られていたよ」
「姉貴のやつ、なんつーことを……」
「いや、事実は事実だ。俺は建築のほうが中心だったから人物画が苦手でね」
「ほうほう。ヒロ先輩ってそんなに絵が上手いんですね」
「おまえ、俺のファンだって言ってなかったか?」
「少女漫画以外のヒロ先輩の絵って知らないですもん」
「今度見せてもらうといい」
「余計なことは言わなくていいですよ」
「ん?」
ふと、マナーモードにしていた携帯が震えていることに気づく。
「電話か?」
「そうみたいですね。多分、久瀬さんだと思いますけど」
「出てもいいぞ。料理のほうは米が炊ければ完成だ」
「それじゃあちょっと」
一言断って、お外に出ることにした。
……。
「もしもーし」
『ようやく自由の身だ!』
「ものすごく嬉しそうな声ですね……」
思わず呆れた笑いを返してしまう。
『今何時だ……1時過ぎか。3時間以上もぶっ通しで人格をこきおろされれば、誰でもこうなると思うが。しかも、1時間ごとに5分の休憩まで計画的に挟んでだぞ?』
「たまりませんね」
まったく想像のつかない空間だったので、どうでもよく同意だけしてあげる。
『とにかく、合流しようと思ってるんだけど、今、どこ?』
「えーと、知り合いの家でご飯を食べようとしてるところです。火村さんも一緒に」
『火村も? どこだそれ──まあいいや、それなら俺も適当にどこかで昼飯にしてこよう』
「それじゃあ、なんか音羽の学校に用があると言ってましたし、ご飯が済んだら校門のところで待ち合わせしましょう」
『了解。ああ、そうだ。火村も絵のことで音羽に用があるって言ってたから、一緒に来るといい』
「火村さんも?」
…………。
……。
というわけで、お昼を済ませたあと、仕事がるというヒロ先輩を放って学校へとやってきたのですが。
久瀬さんの言うとおり火村さんもついてきた。
「絵のことでって、それのことですよね?」
校門で久瀬さんを待ちながら、近くの壁に立てかけてある、布で覆われた絵を示す。
「預かってもらおうと思ってね」
「なんの絵なんですか?」
「古い知り合いを……描いた絵なんだが」
「苦手だって言ってた人物画ですね」
「ああ。身近できれいに保管したいと思うと、環境が限られてて」
「へー、絵って描くだけじゃなくて色々とあるんですね」
面白そうだから、今度調べてみてもいいかもしれない。
そんなことをしていると、すぐに久瀬さんがやってきた。
「やあ」
「やあ」
真似をして──自然と笑みがこぼれてしまった。
「生きて帰ってきたぜ」
「いい加減にくどいから、もうつっこまないぞ」
「つれないなあ」
そう言いながら、久瀬さんはなぜかわたしの前に座り込んでスカートをめくろうとする。
「うわぁ!? な、なんですか!?」
「ああ……照れまくったその初々しい反応がいい。心が癒される。和む。落ち着く」
「……実家でいじめられ続けて、鬱憤がたまってたらしいな」
「ど、どど、どんな鬱憤晴ら
しですか!」
必死にスカートを押さえながら叫ぶ。
「目にも優しい」
「ちょうどいい高さだ。自慢の顔を蹴ってやれ」
反射的に足が上がりそうになったが、真面目に死んでしまうかもしれないと自重する。
「俺は行くぞ」
「美術室だっけ?」
「ついてくるなよ」
「了解」
「いいから、わたしのスカートをつかんだまま話をするのを止めましょうよ!?」
火村さんがいなくなるのを見送りながら──
「あいつも苦労性だねえ」
唐突に雰囲気を変え、火村さんの後ろ姿に向かって久瀬さんが冷ややかにつぶやく。
「いや、だから、シリアスになるなら手を離してください」
「そうやってツッコミを入れてもらうために、あえてシリアスに言ってみたんだよ」
「わかってますって」
こちらが手を離すと、久瀬さんも何事もなかったかのように立ち上がった。
さすがに、お互い慣れたものだ。
火村さんの前で久瀬さんが馬鹿っぽく振る舞うのは、なぜなんだろう。
それに──
「火村さん、こっちに来て再会してから、なんか変ですよね?」
「ん、まあね」
「でも、悪い意味じゃなくて……なんかこう、今までの人を避ける雰囲気が薄くなって、自分でもぎくしゃくしてるみたいな?」
「相変わらず、おっそろしい観察眼だな」
「はい?」
「火村は背負っていたものが軽くなって──急に地に足がつかなくなって、自分でも戸惑ってるんだろうよ」
「またまた男の友情ですか。勝手に納得されても、その説明ではわたしにはさっぱりですよ」
「そうだね。そろそろ話してもいいのかな」
「え、本当に?」
「ま、寒いから中に入ろう」
「そういえば久瀬さんこそ、学校になんの用なんですか?」
「ちょっと確かめたいことがあってね。その前に、蓮治の陣中見舞いかな」
「ああ」
蓮治のことをすっかり忘れていた。
そろそろ最後のテストの時間だろうか。
…………。
……。
と──
久瀬さんと校舎を歩いていたら、みやこ先輩とまた顔をあわせることになり、ヴァイオリンの演奏をお願いされたのだが。
「ちょっと可哀想な気もしますね」
わたしは、別れたばかりのみやこ先輩を目で追うように階段の下方を見やる。
あの我儘なみやこ先輩が、冗談でも膝をついてお願いごとをするとは思わなかった。
「冷たいと思う?」
「いいえ。それはありません」
わたしは素直に首を振る。
久瀬さんには本当のことしか言わないと約束したから、だから、嘘はつかない。
「どちらの言うことにも間違いはなかったと思います……けど」
「もちろん、ミズキちゃんにはタダで聴かせてあげるけどね」
「いじわるですねえ」
「さて、蓮治がテストを受けてる教室はどこかな?」
「職員室とか玄関に近い、この2階のどこかの教室だと思いますが。わざわざ3階とか4階を使うこともないでしょうし」
「だろうね」
てくてくと歩いていると、ほどなくひとつの教室で、テストを受けている蓮治を見つけた。
「テスト中か」
扉の窓からこっそりと中の様子を確認して、久瀬さんが小さな声で言う。
監督をしている教師がいるので、挨拶することもできない。
「応援するには遅かったですね。これが最後のテストのはずですから」
「まあ、俺が応援したところで、なにがどうなるわけでもないけど」
しばらく待っていると、蓮治が扉の外にいるわたしたちに気付いた。
久瀬さんは親指を立ててグーの合図を。
わたしは「いえーい」とブイサインを送っておく。
当然、中の蓮治は眉をしかめるだけだった。
「さて、当初の目的は済ませたし、あとの時間はミズキちゃんのために使おう」
「さっきの、火村さんとの男の友情の件ですね」
「ミズキちゃん、例の音羽の屋上の鍵、持ってる?」
「持ってますけど?」
「じゃあ、屋上に行こうか」
「え? いや、この鍵は南の音羽学園のやつですよ?」
「うん」
軽く頷いて、久瀬さんが階段のほうに向かおうとする。
「俺が確認したいことってのはね、その鍵で、こっちの音羽の屋上に入れるんじゃないかってことなんだ」
……。
そして──扉が開いた。
「うわー、本当にそっくりなんですね」
ミズキちゃんが辺りを見渡しながら、ふわふわと足を進めている。
南の音羽学園で見た景色が、そっくりそのまま目の前に広がっていた。
「柵がないところまで一緒なんだ」
「こっちのほうがオリジナルだろうが……執念だな」
出てきた扉を確認していた俺は、ほとんど独り言のようにつぶやく。
俺のことを散々健全ではないと言っていた火村だが、あいつのほうがよほど不健全だったのではないか。
もうちょっと前に気付けていれば、いじってやれたものを。
「……惜しかったな」
「なにがですか?」
俺の独り言を聞きつけて、ミズキちゃんが戻ってくる。
「なんでもない。今日は俺の学生時代のことを話しておこうと思うんだ」
「火村さんや凪お姉さんのことですね」
「それもあるけど……まあ、あれだ、知っておいて欲しいわけじゃないけど、知っておくほうがミズキちゃんが後悔しないで済むだろうからね」
見晴らしのよい場所に立ちながら笑う。
この笑顔が素のものか演技なのか──自分でもわからないというのが、俺が重症たる由縁だろう。
肯定も否定もせず、ミズキちゃんも静かに耳を傾けてくれた。
「留学してからのことを話してもいいんだけど、順番としては学園(ここ)が始まりだからね」
「もっと子供の頃のことも知りたいですが」
「おぼっちゃん育ちで恥ずかしいことばかりなんだ。イメージを大切にしたいから、そのへんのことは死ぬまで秘密にしておくよ」
「冗談じゃないですね」
「冗談じゃないからね」
「ま、そうですけど」
こうやって軽く同意してくれるのが、この子の素質だろう。
「ヴァイオリニストを本格的に目指しだしたのも音羽に通いだしてからだし、火村や凪に会ったのもそうだね」
「今でも仲がよいメンバーですね」
「残念ながら生涯の友になってしまったらしい。3人とも孤高だった。馴れあわないことで釣り合ってたのさ」
「自分で言わなければかっこいい台詞ですね」
「本当に」
代わりに話してくれる人がいないから、仕方ないのだが。
「……うーん、思い返してみると、その2人との話以外は微妙だな。今とあんまり変わってないや」
「女性に甘くて、外向きは馬鹿ばっかりしてたんですね……前者は改善して欲しいところですが」
「いやいや、あの頃から俺は火村一筋だったよ」
「それはいいですけど、お2人との思い出はどんなものがあるんですか?」
「そうだね。個人的にではなく、俺が生まれて初めて演奏会を開いた話なんかがある」
「初めての?」
「そう。ドイツに留学する前にね、みんなと自分に思い出を残してあげようと思って企画したんだ。最後だったけど、あれが一番印象に残ってる」
ちょっとしたハプニングもあったし。
「へー、火村さんと凪お姉さんに聴かせたのが最初なんですね」
「それと、彼女に」
「彼女?」
「彼女は彼女でも、火村の彼女だよ」
「……火村さんの彼女って、人類かつ女性ってことですよね?」
ミズキちゃんが目を丸くする。
まあ、驚く気持ちは笑えるほどわかるが。
「雨宮優子ちゃんって言うんだ」
「…………え?」
「彼女だった、と言うべきかな。音羽に住んでるなら、優子ちゃんの名前を知ってる人は多いだろうね。10年前のクリスマスに子供を助けて新聞にも──ミズキちゃん?」
ふと、ミズキちゃんの様子がおかしなことに気づく。
彼女は胸を押さえて震えていた。
貧血を起こしているのか顔色が悪く、なによりも、いつもは輝いている目から光が失われていた。
「ど、どうしたの?」
「っ……ちょっと、気分、が……」
「ああ、ごめん。調子にのって屋上なんかで話すんじゃなかった」
「いえ……でも、ここは、わたし……わたし、わたし……」
「とりあえず中に戻ろう」
返事を待たずにミズキちゃんの手を引いて、校内に戻る。
タクシーを呼んで病院に行くべきかと考えたが、学園なら保健室があることを思い出す。
冬休みで養護教員がいるかどうかわからないが、最悪でもベッドは使えるだろう。
それにしても自分に腹が立つ。
彼女の異常に気づけていなかっただなんて、まさに一生の不覚だ。
…………。
……。
「あれ、2人ともどうしたんですか?」
ミズキちゃんを支えて階段を降りていると、途中で蓮治と出くわした。
ミズキちゃんを支えて階段を降りていると、途中で蓮治と出くわした。
彼の横にはもう1人、千尋ちゃんとよく似ている──話に聞いていた“景先輩”らしき子がいた。
「ミズキ、どうしたの?」
「あ、はい、大丈夫です」
まだふらふらしているが、ミズキちゃんが俺の腕から離れてひとりで立つ。
「貧血で立ちくらみを起こしちゃったみたいで」
「ミズキが貧血? そんなの初めてね」
「あはは……面目ない」
まだ本調子という感じはしないが、先ほどに比べれば、充分にしっかりとした言動だった。
安心しながらも、油断しないように彼女の目を覗きこむ。
「無理はしてない?」
「久瀬さんも、ごめんなさい」
「よく貧血になるの?」
「いえ……。だから、自分でもびっくりしちゃって」
「こんなときまで無理をしているなら、怒るよ」
「本当に平気です。そんな顔しないでください」
「顔?」
「久瀬さんのほうが泣きそうな顔してますよ」
「あ……」
いかん、ちと素になりすぎたか。
彼女は困ったような苦笑いを浮かべると、蓮治と景ちゃんにもその顔を向けた。
「蓮治はテスト終わったんだ」
「う、うん」
「こんなところで、景先輩となにしてるの?」
「ちょっとこの子に話があってね、千尋から借りてきたの」
「借りてきた……まあ、蓮治は千尋先輩のものですしね」
「その言い方はどうかな……」
「あの、久瀬さん、ですよね?」
「あ、ええ」
急に声をかけられて驚いた。
「君は千尋ちゃんのお姉さん、であってる?」
「はい。はじめまして。新藤景です」
千尋ちゃんとは似ても似つかない、きびきびとした物言いだ。
「どうも、久瀬修一です」
「妹がお世話になったみたいで、ありがとうございました」
「え? なんの話?」
一瞬、親分が敵討ちに来たような物言いだと思ってしまったが、この“お世話”は文字通りの意味か。
「オーストラリアにいた頃の千尋のメールで、何度か名前が挙がっていたので。帰り道に送ってくれたりしたんですよね」
「ああ」
大したことではないので本気で忘れていた。
「気にしなくていい。むしろ、俺は千尋ちゃんを避けていた人間だから、感謝しないほうがいいよ」
「あの子には、そういう距離感の人も必要ですから」
礼儀正しいというか、体育会系というのは本当らしい。
こういう子を見るとからかいたくなってしまうのだが、今は自重しよう。
「まあ、久瀬さんが千尋先輩と蓮治の仲をとりもつ一役を買ったのは事実じゃないですか」
「ふむ」
正直、ミズキちゃんの様子が気になって話半分だったが。
「は~」と安堵の息をついてしまう。
「ミズキも大丈夫そうね」
気を揉んでいた俺と同じように、ミズキちゃんを気にしていた景ちゃんが言う。
「景先輩に会えたから元気が充電されました!」
「はいはい。でも、無理はしちゃダメよ」
「景先輩が言うと説得力がありますね」
「ほぅ……あんたも偉くなったわね。今年の春からまた同じ学校の下級生になるのに」
「ああ、嘘です! 冗談です! だからいじめないでください!!」
「騒がしい……」
「蓮治こそ、調子はどう?」
女の子2人を横目に声をかける。
「日本の雰囲気にまだ慣れないですね。便利すぎて、だらけちゃいそうです」
「ああ、コンビニだけで生活できちゃうからなぁ」
「気をつけます」
「それじゃあ、久瀬さん、行きましょうか」
「ん? うん」
「こっちも行きましょうか」
「あの……お姉さん、どこに向かおうとしてるのでしょうか?」
「屋上よ」
「う……あの柵のない……」
「なんなら、今、この場で景先輩と蓮治に会わなかったことにしましょうか?」
「なに、その目撃証言を偽証しようとするような話は!?」
「冗談だよ」
「……冗談で済めばいいんだけど」
「それではまた」
景ちゃんはイキイキと、蓮治はトボトボと階段を上っていく。
「あれが噂の景先輩、ね。思ったより普通かな?」
「さっきのは久瀬さんと初対面で借りてきた猫みたいでしたから。そのうち、もっとかっこいい景先輩らしい姿が見れますよ。それに、大人しかったのは久瀬さんも一緒じゃないですか」
「そう言われればそうか」
第1ラウンドはお互いに様子見といったところだろう。
「ところで、昔の話が途中になっちゃったけど……もういいか」
「いえ、聞かせてください。久瀬さんのこと、この音羽学園でのこと、もっと聞きたいです」
「……そう?」
妙な含みを感じたが、捉えきれなかった。
「それなら話すけど、せっかくだから場所を変えよう」
「喫茶店かファミレスにでも行くんですか?」
「いや。さっきの話をしていて、1つ思い出したことがあるんだ。実は、例の留学前の演奏会のとき、途中で優子ちゃんには逃げられちゃったんだよね」
「逃げられた?」
ミズキちゃんが首をかしげる──それも当然の反応だろう。
「原因は追究しなかったから、俺も理由は知らない。俺の演奏が美しすぎて我慢できなかったせいだろう、多分」
「はいはい」
「信じてないな」
「自分が信じてないときほど、久瀬さんは自身満々ですからね」
「なるほど」
嘘をつくときの参考になる意見だ。
「そんなわけで、ちょっとリベンジをしたくなってきた」
「演奏、するんですか?」
肩をすくめて、肯定の意志を示す。
「ああ、今なら逃げられないしね」
…………。
……。
学園を出て、俺が宿泊しているホテルに寄り道してヴァイオリンを回収したあと、墓地を備えた教会へと向かった。
道中、俺は昔話の続きをミズキちゃんに聞かせた。
なんでもない話だ。
多少の差はあれど、学生時代の思い出というのは誰にとっても、まぶしい日常の一幕でしかない。
ミズキちゃんは何気なく──しかし、細部を聞き逃さないように真剣な様子で耳を傾けていた。
底の見えないミズキちゃんだが、いい加減、俺の話のなにかが彼女にとって重要な意味をもっていることに気づいた。
その証拠に、俺の話が終わって2分ほど経っているにも関わらず、彼女は黙り込んだまま自分の中にあるなにかを確認していた。
「……………」
「ミズキちゃん、大丈夫?」
「あ? え?」
急に声をかけられ、彼女が慌てて顔をあげる。
「なんですか?」
「学園の屋上で俺が昔話をしてから、なんか上の空じゃない?」
「あー、いや、そんなことないっすよ。って言っても信じてはもらえないですよね。あはは……」
「そんな態度じゃね」
「久瀬さんの学生時代の話を聞いて、わたしも、ちょっと懐かしいことを思い出しまして」
「体調が悪いとかじゃないんだね?」
「ええ。ついでに、悪い思い出でもありません」
「それならいいんだけど」
「ほんと、損な性格をしてますよね、久瀬さんって」
「ミズキちゃんほどではないと思うよ」
「わたしは自由に生きてますし」
「フリーダムこそ俺の代名詞だ」
「ああ、まあ、そうですね」
そこで1つ、間をおき、彼女が声音を変える。
「あの……なんでぼんやりしてたか、気になりますよね?」
「うん。それもまあ、当然」
「ですよね~」
「あー、でも、別に話したくないなら話さなくてもいいよ」
「え?」
驚かれてしまったが、そこは最後の一線にしたかった。
嘘をつかないと約束した彼女のために、俺の流儀のためにも、問いただしはしない。
「いいんですか?」
「無理やり聞くのは趣味じゃないし。いや、無理やり聞きだすのは趣味だけど」
「なんでわたし、こんな人を好きになっちゃったんだろうなあ……」
「あはは。ま、嘘とか黙秘なんてのは、俺の専売特許だからね。俺は君に、この世界で生きやすいように、嘘のつき方を教えてあげようと思っている」
「そんなの覚えたくないですよ」
「嘘という表現が嫌なら、内緒とか秘密の使い方だと思えばいい」
「どう違うんですか?」
「優しさが違う」
「……説得力ありませんね」
「反面教師として最優秀だろ?」
「あはは。それじゃあ、わたしはこれで」
「あれ? もう帰っちゃうの? これから、裏の墓地でヴァイオリンを弾こうと思ってるんだけど」
「ええ」
「俺がヴァイオリンを弾くって言ったら、ダメって言っても聴いていくと思ったのに」
「そうしたいのは山々なんですが、なんて説明すればいいんでしょうね。久瀬さんをひとりにしてあげたいときもあるというか」
「なるほど」
相変わらず鋭い。
愛すべき好敵手のような、愛すべき女の子である。
「ああ、“野暮”って言えばいいのか」
「うん。まあ、今回は俺もひとりにしてもらったほうがありがたい」
「埋め合わせに、今度、わたしのためだけに演奏してくれればいいですから」
「君もちゃっかりしてるね」
「見送ります」
「うん。またね」
お互いに軽い挨拶で別れを告げる。
ミズキちゃんに見つめられている中、後腐れを感じさせないよう、振り返らずに足を動かす。
「さて、俺も自分の仕事をしますか」
…………。
……。
「……………………うはー、なんとか乗り切った……」
久瀬さんの姿が消えたところで、がっくりと肩を落としてしまう。
怪しまれたり、心配されたりはしたものの、なんとか誤魔化しきることができたようだ。
音羽学園の屋上で優子さんの話を聞かされてから、“いつも通りでいること”にパワーを浪費してしまった。
階段で景先輩と会えなければ、危なかっただろう。
「久瀬さん、他人のことになると鋭いんだもんなぁ」
あれで、もうちょっと自分のことにも鋭くなれば、完璧なのだろうが。
ぶっちゃけ、気持ち悪い。
そうやって自分の心を冗談めかして、気持ちを切り替える。
南の音羽で火村さんから『赦す』と言われたあと、妙に心が軽くなったのだが──
それでも、思い出が消えたわけではない。
その喜びも、痛みも、どちらも大切なものだから消したくない。
「……うん」
ぱんぱんと頬を叩いて、にっこりと笑ってみる。
「平気へっちゃらだね」
無理をせず、ちゃんと笑える。
大丈夫。
わたしも歩きだす。
ふいに、風の悪戯か、海辺にあるお墓のほうからヴァイオリンの響きが届いた。
それは天使に捧げられた、きれいな、音。
………………
…………
……
俺は彼女の墓の前で演奏をしている。
音羽の海沿いは湿気った風が強く、ヴァイオリンを弾くにはむいていないのだが──
“空気”が読んでくれたのか、珍しく今は微風だ。
「ようやく聴かせることができたね」
冷たい石に語りかける。
あの時の曲の続きを。
長かったような。
短かったような……。
「悪かったとは思うけど、良いことだってあるんだ。まだ錆落としの途中だが、あの頃よりも腕は上がってるだろ?」
だから、きっと、届く。
俺の演奏はどこまでも届く。
天使を打ち落とす演奏だと言われたのは、このときのためだったのかもしれない。
「もうすぐ君に会えるチャンスはあるが……どうかな」
しぶとく生きていられるかもしれない。
死ぬには時間がかかるかもしれないと。
そんな楽観的なことを夢見てしまうくらいには、ロマンチストになってしまっているらしい。
「まあ、落ちるとすれば俺は地獄だな。それでも、伝言を頼むくらいは出来るさ」
あの頃の君になにがあったのか、それを火村は語らない。
あまりにも深すぎて理解もできない。
だけど、あいつの様子を見続けていた俺にはわかる。
よほど過酷なものだったのだろう。
それこそ生き地獄のような……。
正直、君を恨んだこともあった。
俺の親友を傷つけ、凪を泣かせ、あんなに重いものを背負わせた君を。
それでも、それ以上のものを与えたことも理解している。
「やっぱり似てるんだろうな、俺たちは」
自分がミズキちゃんに与えているものと、これから奪うものを天秤にかければ、君を非難する資格が俺にないことは明白だった。
「ああ……そうか」
ケジメをつけたことで、ようやく悟ることができた。
あの頃の俺の臆病な心は、他人に必要以上に踏みこまれることを嫌っていた。
今だって大して変わりはしないのだろうが。
初めて後悔の念を覚えた。
「なあ、優子ちゃん。俺も、君ともっと話をしたかったよ」
………………
…………
……
そうやって冬休みのとある1日が終わろうとしていたのだが。
家のそばの堤防の上に妙なものを見つけた。
いや、ものではなく、人なのだが。
「なんだ……あれ?」
……魔女?
…………。
……。
──1時間ほどで即興の演奏会は幕を閉じた。
「いや、すっかり日も暮れたね」
空気の澄んだ冬の夜空を見上げていると、まだ音の余韻が残っているような気がしてくる。
優子ちゃんの墓前からの去り際、ミズキちゃんからメールが届き、広野くんと教会で待ち合わせをしていたのだ。
俺をモチーフにした漫画を広野くんに見せられたあと、その努力に報いているため、教会で演奏を聴かせることにしたのだが──
気がつけば自分が楽しんでいた。
やはり演奏をするのは楽しい。
「参考になったかな?」
少し遅れて教会から出てきた2人に目を向けると、どこか呆けたような顔に意識が戻った。
「あ」
「ああ」
息を殺していたのか、ため息のような音をもらす。
「はい、ありがとうございます!」
「本当、久瀬さんの前だとキャラが違うなぁ……」
「ちなみに、俺をモチーフにしたあの漫画って、商業作品として発表するの?」
「あー……やっぱ、そのあたりはモデル料とかいりますか?」
「いや、逆だよ。公表しないって言われたら、もったいないから出したほうがいいよって言おうと思ってただけ。モデル料なんていらないさ」
むしろ、お釣りを払ってあげたいくらいだが──自分に損になることは冗談でも口にしないようにしよう。
「俺がモデルだって言ってたけど、あの漫画はきちんと広野くんの作品になっていた。だから、きちんと完成させて世に出して欲しい。それが俺に対する礼かな」
「ああ……今のはちょっと、キザすぎると思いましたよ」
「そのくらいのほうが漫画としてキャラが立つだろ」
「なるほど」
冗談に応えたあと、広野くんがぺこりと頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「ありがとうございます」
「気をつけて帰るんだよ」
軽く手を振って見送り、これからどうしたもんかね、と考える。
「今日はミズキちゃんとあまり話せなかったし、悪いことしたな。電話して、明日はもうちょっと早い時間に会うように──ん?」
携帯をとりだそうとしたところで、道の向こうから当のミズキちゃんが歩いて来ていることに気づいた。
「あれ、久瀬さん、こんなところでなにしてるんですか?」
「約束してた通りに広野くんと会ってたんだけど……ミズキちゃんこそ家に帰ったんじゃないの?」
「ええ、だから家に──」
彼女は急に言葉を止めた。
「あ、しまった、ここが家じゃないんだ」
「ここは神様のおうちだねえ」
「あはは、ちょっと寝ぼけてたみたいです」
「……あの、なんかもう、君が変なのが俺のせいだったら本気で謝ろうと思うんだけど」
これでおかしくない、というほうがおかしい。
「いえ、さっきも言いましたけど久瀬さんのせいではないですし、今はこう、幸せでぽわわんとしてるだけなので」
「そんな感じだけどさ。どうせだし、ちゃんと家まで送ろうか?」
「いえ。どうせですから、一緒にご飯を食べましょう」
「それはいいアイデアだが、家のほうでご飯を用意してるんじゃない?」
「連絡はします。もともと、そうなるかもしれないな~って、用意しなくてもいいって言ってありましたし」
「なるほど」
今日はサービスが足りなかったと思っていた手前、渡りに船ではある。
「それじゃあ、どうせだから俺が泊ってるホテルのレストランにでも行ってみる? 結構、評判がいいんだけど」
「わ、お酒は?」
「ダメ。そこは線引きとして許可しません」
「けちぃ」
「そのかわり、デザートでフルーツとかケーキのバイキングがあるから」
「やほーい♪」
………………
…………
……
「で……どうしてこうなった」
ホテルのベッドに腰掛けて、ため息をついてしまう。
ミズキちゃんが見事に酔っ払った状態で、俺の膝を枕に眠っていた。
チョコレートケーキがいけなかったのか、フルーツポンチがいけなかったか……。
「高いデザートにはアルコールが付き物なのを忘れてたな」
1個ずつに含まれている量は少なくとも、あれだけ食べれば、という彼女自身の問題もあるが。
タクシーで送ろうかと思ったが、彼女がごねまくって、俺が泊っている部屋に上がり込んでしまったのだ。
困るというか……膝の上で吐かれなかっただけマシか。
「ほら、ミズキちゃん、起きなさいってば」
「むにゃむにゃ……もう食べられません……」
「また古典的な寝言を。歯を磨いてから寝ないと虫歯になるよ。というか、起きてるでしょ?」
「ふぁ……」
もごもごと動きはするが、目を開けるだけで身体を起こそうとはしない。
「むぅう……起きましたけど、普通に寝ちゃってましたね。今、何時ですか?」
「そろそろ8時かな。9時までには帰ったほうがいいんじゃない?」
「…………とりあえず顔を洗ってきます」
「行ってらっしゃい」
苦笑いとともに見送る。
“彼女”がホテルの部屋にいるのだから盛り上がろうものだが、ミズキちゃん相手だと、どうも調子が狂ってしまう。
ま、調子なんて狂いっぱなしだ。
こうもはっきりと、彼女に優しくしたいなどと考えてしまうくらいには。
「裏の裏は表、か。個人的な趣味なら、もう半回転くらい唸りたいところだが。それより」
ひとりで喋ってても寂しい。
顔を洗いに行っただけにしては、ミズキちゃんの戻りが遅い。
「……寝てるんじゃないだろうな」
居酒屋やバーのトイレで酔いつぶれている友人というシチュエーションには、慣れていた。
そろそろ様子を見に行こうかと考えていると、洗面所の扉が開いた。
「ふう……」
「おかえ──」
歩いてきた勢いそのまま、ミズキちゃんが俺に抱きついてくる。
彼女をしっかりと抱きとめながら目を丸くしてしまう。
「その髪型、どうしたの?」
なぜかツインテールになっている。
洗面所で時間がかかっていたのは髪を結い直していたかららしい。
可愛らしさが強調されていて、いつもよりもさらに子供っぽく見えた。
「あんまり驚いていませんね。髪型もそうですが、抱きつかれたことにも」
「そりゃまあ、慣れてるし」
「意味が2つありますが。まあ、いいです」
「それじゃあ帰ろうか」
「あの……このシチュエーションでそれを言いますか」
「普段とは逆だね」
「別にねだってるわけじゃないですけど……そ、そういう日もあるというか……」
ミズキちゃんが唇を尖らせて拗ねてしまう。
本当に子供に戻ってしまったようだ。
「甘え方がわからなくて、子供になるしかないのかな?」
「そんなんじゃありません」
「いやいや、そういう態度は火村と一緒だからね。俺にとっては馴染みのものだよ」
「ああ……微妙な……というか、Hなことする雰囲気から離れようとしてません?」
「据え膳は嫌いじゃないけど、捨て鉢なのは嫌だね」
「そう見えるのかなぁ……どうなんだろう……」
ぎゅっと抱きつく力を増しながらミズキちゃんがつぶやく。
笑っているのに泣きそうな感じがいした。
「こうやって抱きついているだけでも、あったかくて気持ちいいです」
「ミズキちゃんを早く家に帰らせないと、あとでご両親に会うときに怒られそうなんだけど」
「すでに眉はしかめてますが。お泊りの許可ももらってますし、認めていないということはないですよ」
「……そうなんだ」
今、さらりと危ない発言を聞いた気がするが。
最初からそのつもりだったのか。
「よくわからないから確認するんだけど、なんで髪型を変えたの?」
「あ、そっか。久瀬さんは知らないんですね。わたしは元々がこれで、久瀬さんの知ってる髪型はここ半年くらいのものなんです」
「なるほど。でも、急にそうしようと思った理由がわからなくて」
「……久瀬さんの昔語りじゃないですけど、わたしも懐かしい夢を見たんです」
「俺と教会で別れてから寝てたの?」
「ちょっと……不思議な人と会って」
くすくすと、ミズキちゃんが妙な笑いを漏らす。
「ふむ」
どうやら、本当に悪い意味ではないようで安心はした。
保護者気分が抜けないのは俺の悪い癖かもしれない。
「ま、昔語りは寝物語の定番か」
「ねものがたり?」
「わからないなら、意味は実際に教えてあげる」
おでこにキスをして、そのまま押しつけるようにベッドに寝かしつける。
俺たちはお互いを求め合った……。
…………。
……。
夜が更けたとはいえ、まだまだ賑やかな商店街を2人並んで歩く。
「すっかり遅くなってしまった」
あの後、落ち着くのを待って順番にシャワーを浴び、ちょっとした雑談を交わしていたら午後10時を過ぎていた。
「あの、わたし、今日は泊っていってもいいんですけど?」
「いやー、ちゃんと送りますよ」
「ぶーぶー」
ミズキちゃんが抗議するが、笑顔で受け流してあげる。
「いけません。良い子は家に帰るものです」
「う、う~ん……おうち、お父さん、お母さん。すっきりしたし、確かに帰って抱きついたかも」
「あら?」
あっさりと家族のほうに軍配があがってしまい、拍子抜けしてしまう。
「お、俺よりもやっぱり家族のほうが大事なの?」
「それはもちろん。だって久瀬さんは、まだわたしの家族じゃないもん」
「……そうきたか」
これはまた、ストレートな催促を受けてしまったものだ。
どうも、俺を触媒にして、ミズキちゃんは急成長を遂げているらしい。
スポンジが水を吸うように──という条件にプラスして、その現場が砂漠であるかのように。
若い子の急成長には焦りを覚えてしまう、などと考えると、年寄りのようなので気をつけよう。
「よっしゃ!」
「なんです?」
「どうせ今日は実家帰りで酷い目にあったし、そっちの実家にも顔を出そう!」
「うげ!?」
今度はミズキちゃんのほうが叫びをあげた。
何事かと周囲の視線が集まったが、知ったことか。
「というわけで、フォローよろしく」
「な、なんで今日なんですか!? つーか、なぜ余裕の笑顔!?」
「いや、思い立ったが吉日って言うし」
「ミズキちゃんのご両親がどうであれ、うちのよりはマシだろう。あっはっは」
「うわー……多分この人、なんにも考えてないよ」
まさに真実を言い当ててから、彼女はくんくんと自分の身体の匂いを嗅ぐ。
「……着たまましちゃったけど、匂いとか大丈夫かな?」
「買い取ろうか?」
「その台詞、冗談でも2度と口にしないでくださいね」
「了解、当然、冗談だよ」
「うさんくさい」
「俺は人の忠告は素直に聞くことにしてるよ?」
「聞くだけ、でしょう?」
「これも成長、あれも成長」
「……なんの話ですか?」
「それこそ当然です」
「おや」
すでにこの戦法も通じなくなっているか。
「それじゃあ、こんな話を知ってますか?」
お姫様が耳を貸せと言う。
俺は彼女の口元に耳を近付けてあげた。
「雨宮優子さんが助けてくれた子供って、わたしのことです」
「……………?」
一瞬、それがなにを意味しているかわからなかった。
あくまでも一瞬だ。
「…………なっ!?」
驚愕する俺の前で、彼女は小さく胸を撫で下ろしていた。
「ふぅ……。うん。やっぱり、こんなの溜めこむものじゃないですね。黙っているのは嘘じゃないと思ってたけど、やっぱり不誠実なことに変わりありません。あなたと一緒に戦うと決めたから。だから、その過去と現実を認めて、愛そうと思います」
「じゃあ……君があの……」
新聞に載っていた少女の名前は、確か……。
だから、彼女は一度、名前を変えているのか。
「えへへ。久瀬さんをそこまで驚かせたのはわたしだけでしょうね」
「…………」
「ま、これでわたしの秘密はすっからかんです。本当になんにもありません。全てあなたのミズキちゃんです」
「……そうか」
そうか。
火村とミズキちゃん。
雨宮優子ちゃん。
久瀬修一。
凪。
凪の弟くん、凪の弟くんの彼女、新藤姉妹、蓮治。
名前が繋がっていって……。
「ありがとう」
最初に浮かんだ一言がそれだった。
「ありがとう? なにが?」
「なんだろう。俺を好きになってくれて、かな」
「じゃあわたしは、ありがとうって言ってくれて、ありがとう」
「ありがとうのありがとうのありがとう」
「うん。もう大丈夫」
てっきり続けてくれると思ったのに、彼女は相変わらず自由だった。
「大丈夫って、なにが?」
俺の命のことか。
音楽家としての腕のことか。
それ以外のなにかのことか。
しかし、彼女の答えはどれでもなく。
素敵なまでに完璧だった。
……。