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-ノベルゲーム・タイピング-

天使の日曜日 Angel's holiday “ef - a fairy tale of the two.” Pleasurable Box.【5】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
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Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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Intermission. 夢路の魔女
 The magical conductor.

 



整然と並ぶ会衆席、燭台、祭壇、厳かな空気──そこまででワンセット。

見事なまでに普通の教会だ。

 



「いや。観光用に造られた建物を普通だと感じるということは、逆説的には見事な出来なんだな。わたしが教会をどうのこうのと語るのはお門違いだろうけど」


建物の中心点で足を止める。

お門違いどころか、魔女(わたし)と教会は敵対関係なのだが──それも古い話だ。

見た目は洋風でも、ここは日本、東西ちゃんぽんの法治国家

敬虔(けいけん)なクリスチャンも諸外国に比べれば少ないらしく、多くの人が訪れているような気配もない。

ようするに、だーれもいないのだ。


「あー、コタツが恋しい」


寒々しい空気に思わずぼやきが漏れてしまう。


「とっとと用件を片付けますか」


大雑把に見渡すだけでは、目的のものは見つからない。

会衆席の左右1列ずつ、柱の影、祭壇の裏側と、隅々まで調べあげる。

念のために会衆席の蓋もあけてみたが、聖書がしまわれているだけで人が隠れているようなこともなかった。


「……ふーむ。やっぱり、一足遅かったか」


それほど期待していなかったが、残念だ。

せっかく出向いてきたのだから、“羽”の1枚くらい見つかってくれてもいいのに。


「天使はもういない、か」

 



この場所には、もう過去を思い出させるものはなにもない。

もしなにかを探しだそうとするならば、場所ではなく、人の心の中から探さなくてはならないだろう。

ピン、と帽子のつばを指で弾いて、今後の予定を立て直す。


「仕方ない。プレンBでいくか」


……。

 

──それが、1時間前の話。


──それから1時間後。

 

 

 

 



「うはー、なんとか乗り切った……」


ヴァイオリンのケースを手にした久瀬さんの姿が消えたところで、がっくりと肩を落としてしまう。

怪しまれたり、心配されたりはしたものの、なんとか誤魔化しきることができたようだ。

音羽学園の屋上で優子さんの話を聞かされてから、“いつも通りでいること”にパワーを消費してしまった。


「久瀬さん、他人のことになると鋭いんだもんなぁ」


あれで、もうちょっと自分のことにも鋭くなれば、完璧なのだろうが。


「……いや、そんな久瀬さんは見たくないな」


ぶっちゃけ、気持ち悪い。

そうやって自分の心を冗談めかして、気持ちを切り替える。

南の音羽で火村さんから「赦す」と言われたあと、妙に心が軽くなったのだが──

それでも、思い出が消えたわけではない。

その喜びも、痛みも、どちらも大切なものだから消したくない。


「……うん」


ぱんぱんと頬を叩いて、にっこりと笑ってみる。


「平気へっちゃらだね」


無理をせず、ちゃんと笑える。

大丈夫。

私も歩きだす。

ふいに、風の悪戯か、海辺にあるお墓のほうからヴァイオリンの響きが届いた。

それは天使に捧げられた、きれいな、音。


…………。


……。

 

──そうやって、冬休みのとある1日が終わろうとしていた。

しかし、家のそばの堤防の上に妙なものを見つけた。

いや、ものではなく、人なのだが。


「なんだ……あれ?」

 



……魔女?

そうは思いたくないのだが、ローブも帽子も防寒具以上の存在感を発揮しているし、それ以外のものには見えない。

あやしい姿だが、あそこまで突き抜けていると逆に清々しくもある。


「劇の練習とかお店の宣伝かな?」


魔女っ子さんはぼんやりと海を見つめながら、足をブラブラと揺らしている。

気になって、つい視線を送ってしまう。

顔を判別できるところまで近づいて、それまで以上に驚いた。

 



銀色の髪に赤い瞳──魔女さんは日本人ではなかった。


「う~む、どうするか」

「あ、でも日本語だ」

「え?」

「う」


お互いの独り言が聞こえあい、目があってしまう。



「う~ん……あれ? もしかして、わたしのことが見えてる?」
「え? はい、ばっちり見えてますけど」


質問されたので素直に答えるが、この姿で注目されないなんてことがないだろう。


「あら、それは失礼しました。神代アリスです。座ったままですみませんが、以後良しなに」
「あ、羽山ミズキです。ミズキは全部カタカナです」
「わたしとおそろいね」


にっこりと──カタカナ繋がりを一瞬で切り返してきたことで、頭の回転が早い人だなと感心してしまう。


「……それにしても、見えないはずのわたしが見えるのか。……今日は無駄足を踏んだと思ってたけど、これは掘り出し物かも」
「……んん!?」


ぞわわ、と背筋に妙な悪寒が走る。

な、なんだ?


「これもなにかの縁でしょうし、よろしかったらお姉さんと少しお話しません?」
「いいんですか?」
「もちろん、いいですとも」


ぺんぺんと、魔女のアリスさんが自分の隣を叩く。

口調はお姉さんっぽいのに、仕草は子供のようで──そのアンバランスさが、なんだか可笑しい。


「お邪魔します」


わたしは素直に腰かけた。

まだ夕飯まで時間があったし、この人自身に興味津々だった。

 



景先輩や千尋先輩、みやこ先輩ともまた違う、洋風アンティークな魅力がたまらない。

抱きついていつもとは違う電圧で充電を……いや、浮気をするつもりはないんだけど。


「あ、さて」


アリスさんはつぶやいたあとに、ちょっとだけ困ったような笑みを浮かべた。


「質問されるでしょうから、先にこの服装のことを答えておきましょうか」
「あー、当然それですね」
「わたしはね、掛け値なし、混じりっけなし、看板に偽りなしの魔女なの」
「ええ、もちろんそうですよね」


この姿で「実は魔女じゃない」と言われたら、そっちのほうが驚きである。


「嘘じゃないわよ」
「はい。大丈夫です。ついに音羽にもコスプレ喫茶が進出してきたんですね! お姉さん美人だから、わたし、絶対にご指名します! むしろ一緒に働きます!」
「それはそれで楽しそうだけど、そういうことじゃなくて」
「宣伝じゃないんですか? それなら劇のほう?」
「そういう反応が健全な証拠ね」
「え、冗談抜きで?」

 



「みんなには内緒よ」


アリスさんが唇の前に指を立てて、ウインクする(日本人ではないだけでサマになる仕草だ)。


「へー、魔女なんて本当にいるんですね」
「今度は信じたみたいだけど、あんまり驚かないわね」
「いや、驚いてはいますけど、少女漫画とかアニメでそういうのありますし」


奇妙な話だとは思うが──もしアリスさんが本当の本当に本物だとしても、びっくり仰天というほどではない。


「……今時の子って反応が淡泊よね。やりやすいけど、やりにくいわ」


ちょっとつまらない、という感じでアリスさんがぼやく。

その言いぐさに、なるほど、この人はどこか久瀬さんに似ているのだと今さら気づく。

爽やかそうに見えつつ、子供っぽかったり、うさんくさいところとか──失礼だから口にはしないけど。


「ちなみに、魔女はお好き?」


「好きな食べ物は?」みたいな気軽なノリの質問だった。


「どうかと言われれば好きですね。お話に出てくるのも愛嬌があって可愛い子が多いですし」
「ああ、日曜朝の変身魔法少女モノとか、いいわよね」


にっこりと。

この人、妙に日本に精通しているな。


「参考までに聞いておきたいんだけど、魔女が出てくるお話で好きなものは?」
「う~ん……。やっぱり宅急便ですかね」
「なるほど。知名度的にはやっぱりそれか。シンデレラとか白雪姫とかラプンツェルとか、フェアリーテイル以外にもオズの魔法使いとかあるだろうけど──今はそうね」
「ああ、そういう話の中でですか」


いわゆる童話やおとぎ話といったものでなら──

悪い魔女は論外として、ラプンツェルという話は知識にない。


「それなら、ハッピーエンドにしてくれたシンデレラですかね~」
「握手握手♪」


満面の笑みで、手を握られる。


「ま、対価なき魔女の手助けはわたしの好みとは異なるが、人としてその主義はよーし!」
「はあ」


急に体育会系のようなことを言われて、呆気にとられてしまう。

みやこ先輩ほどではない──と思うのだが、かなり人格そのものが不安定な人でもあるらしい。


「そうだ。それこそ、魔女っていうと、ほうきで空を飛んだり出来るんですよね?」
「練習すればね」
「あ、飛べないんですか」

 



「……れ、練習すれば飛べる、けど」


弱みをつかれたかのように、アリスさんが微妙に目線を逸らす。


「ほら、今のご時世、魔女がほうきで空なんか飛んでたら色々と面倒なことがあるのよ。散歩中に某国の警戒レーダーに捕捉されて大変な目に遭ったり。……あのときは、さすがに死ぬかと思ったわ」
「……妙に生々しい話ですね」
「サンタクロースもレーダーで追跡される時代ですからね。ま、夢を大切にしたいなら、お話を変えるほうがいいでしょう」


もうちょっとファンタジーな世界が広がっているかと思ったが、魔女の世界も世知辛いようだ。

学校とか労働組合みたいなものもあるのかな?


「夢は大切にしたいので、そのあたりは触れないことにします」
「感謝します」
「いえいえ」
「それにしても、この街はきれいね」

 



話を逸らすというより、ずっと口にしたかったことのようにアリスさんが言う。

自分の住んでいる場所を褒められると、ちょっと嬉しくなる。


「アリスさんは、やっぱりヨーロッパのほうから来てるんですか?」
「ええ。ああ、でも、今は日本に住んでます」
「旅行ではなく?」
「事情があって引っ越してきたのよ」


自分の暮らす場所を思い起こすように、アリスさんが語る。


「いいところっぽいですね」
「機会があったら遊びにいらっしゃい。大歓迎しちゃうから。賑やかで面白い子も多いし」
「あ、あの、可愛い女の子も多いんですか?」
「さもありなん。選り取りみどりの、てんこ盛りよ♪」
「おおお……」


なんという楽園。


「アンジェはちょっとキツイけど、ゆっきーは誰とでも仲良くなれるだろうし」
「アンジェに、ゆっきー?」


アンジェとは、確かフランス語で“天使”の意味だったろうか。


「あだ名ですか?」
「そう。わたしの愛しい友人たち。ま、わたしがゆっきーで“出会う”のは春になってからだから、遊びに来るならその後にすることをお勧めします」
「ん? ゆっきーさんとはまだ会ってないんですか?」
「ええ。やっぱり、出会いは桜の季節がいいと思うの」


不思議な言い回しだ。

魔女らしいといえば、らしいけれど。


「ところで、アリスさんは、どうしてこんなところで暇そうにしてたんですか?」
「プランBの最中でね」
「プランB?」
「当初の予定がなくなったから、観光巡りをして美味しいものでも食べてから帰ろうかなって」
「……要するに、プランA以外の目的はなかったと。ちなみにプランAとは?」
「この街に天使がいるって風の噂で聞いて、ちょっと遊びに来たんだけど、一足違いだったみたい」
「天使って、あの神様の天使ですか?」
「そう。天使が長期的に地上にいるのはレアだから、会いたかったのよね」
「一目見たかったと」
「いや、捕獲しようと思って」
「はい?」


今、さりげなく危ない発言が聞こえたような?


「まあ、わたしの話なんてたいしたものじゃないわ」


はみでるほど滅茶苦茶な内容を一蹴されてしまう。


「それより、今度はミズキちゃんの話をしましょ」
「あー」


もっと色々とツッコミたかったが、確かに、こちらからの質問だけではフェアではない。

それに、まだ知り合って間もないわたしを計りかねて、アリスさんも本来の姿で話してくれてはいないだろう。

それは、非常にもったいない。


「って言っても、わたしは普通の学生ですし、これということはないですけど。なんなら、ご飯が美味しいお店でも紹介しましょうか?」
「うふふ。それもいいけど、あなたがわたしに教えられることはあるはずよ」
「え?」
「だって、今のわたしはこんな姿だから、普通の人間には見えないようにしていたのに──どうして、あなたの瞳にだけは見えてしまっているのかしら?」
「うぇ!?」

 



顎に指を添えられて上向きにされたかと思うと、びっくりするくらいに顔を寄せられる。

吐息が肌に届く、瞳の表面の揺らぎが見てとれる──キスをするときの近さだった。

なにか妙なことを言われているということはわかるが、顔の近さに焦ってしまい、頭のなかがワタワタとしてしまう。


「ところで、お名前はハヤマミズキでいいのよね?」
「え? あ、はい!」
「ミズキはカタカナとして、苗字のほうはどう書くの?」
「鳥の羽に、お山の山です」
羽山ミズキ、ね。ミズキちゃん、1ついいことを教えてあげる」
「な、なな、なんです? まだ歯磨きとか心の準備が──」
「そうじゃなくて。魔女に迂闊に名前を教えないほうがいいわよ」
「え?」
「ねえ、あなたの記憶をわたしに見せて、《羽山ミズキ》ちゃん」
「…………」
「…………」
「ほえ?」
「……あら?」


お互いにきょとんとした顔で見つめ合ってしまう。

理性が飛んで、あやうくマジでキスしそうになった。


「なんともないの?」
「な、なんともなくないです!?」
「おかしい……名前を捕捉した時点で…………まさか偽名?」
「あ、ああ」


遅れて状況を把握した。


「そういえば、ファンタジーな話だと、名前を知られると操られちゃう~みたいな設定がありますね」
「…………すっとぼけたフリをしてる同業者?」
「あ、いえいえ、そんなことは一切ありません!」


これ以上の勘違いをされると、なにをされるかわからなかったので、慌てて否定する。


「あの、ただのもらわれっ子でして、多分、そういう意味で生まれたときの名前ではないというか」
「ああ……」


よろめくようにしてアリスさんが身を離す。


「……やっちゃった。そうね。そういう家庭環境も、今時だからこそ普通にあるわね」
「あのー、なにがどうなってるんでしょうか……?」


なんだか大失敗をしたというように落ち込んでいるアリスさんに、恐る恐る確認する。


「ミズキちゃん、なにか願い事はある?」
「え?」
「聞き出したいことだけ聞き出して、わたしと会った記憶を丸ごと消しておこうと思ってんだけど──こうなると、行為と代償の帳尻があわなくて。要するに、魔女としてのマナー違反だ」
「ん? え? どういうことです?」
「あー……わかりやすく言えば、単に、あなたに貸しが出来てしまったってこと」
「な、なるほど」


わたし自身は、びっくりしているうちに勝手に話が進んでいただけなのだが。

でも、もしも──いまだに判断はつかないが、この人が本物の魔女だったとしたら。


「……願い事って、“魔法”で叶えるんですよね?」
「そう。お金や恋人が欲しいとか。それこそシンデレラみたいにドレスと馬車を用意しろとか」
「そうか……」


普通ならダメなことでも、もしかしたら叶うのかもしれない。

叶って“しまう”のかもしれない……。

わたしにとっての願いとはなんだろうか。

久瀬さんの病気が治ること。

千尋先輩の障害が治ること。

死んでしまった人との再会──

産みの両親、

水姫さん、

優子さん……。


「あはは」


ふいに、笑いがこぼれてしまう。


「どうしたの?」
「いや、やっぱりそういうのは反則だな~と」


こんなチャンスは2度とないのかもしれないが、それでも、やっぱりなにかが間違っている気がした。


「不肖羽山ミズキ、そういう願いごとは、きちんと自分で叶えてみせます!」
「なるほど。魔法なんて必要ないという心の持ち主だからこそ、わたしのことが見えてしまうわけか」


アリスさんが困ったような──それでいて嬉しそうな笑みを浮かべる。


「まあ、今回の場合は対価も小さいし、世界征服をさせろとか、死んだ人間を生き返らせろって願いは無理だけどね」
「ああ、やっぱりそうですか」
「それなら、こうしましょう」


思いついたというようにアリスさんが指を立てる。


「“夢”を見る気はある?」
「夢?」
「現実には大それたことはできなくても、ミズキちゃんの願いが叶った“夢”を見せることならできる。こうなりたい、ああしたい、あれがほしい──そういうものが叶った夢」
「……それは」


それは久瀬さんの言葉にあったフレーズに近かった。


「そういう娯楽的なものまで含めて、魔法や奇跡はお嫌い?」
「あ、いえ、それはないですけど──」


そこまで潔癖でもないし、そこまで完全でもない。


「ただ、漠然としていて、よくわからなくて」
「論より証拠ではあるけどね。でも、安心していいわ。多分、あなたのような子が見る夢は、とてもきれいで、幸せな夢よ」


ふいに、アリスさんの手が伸びてきて、わたしの目を覆った。

あたたかい手だった。

今、目の前にいるこの人は、夢じゃないってわかるあたたかさ。

人のぬくもりは心地よくて──

そう、とっても遅かったけれど、自分の間違いに気づいてしまった。

この人は、久瀬さんよりも、雨宮優子さんに似ていたのだ。

わたしはもう1度、この手をどけて、彼女の姿を見たかった。

けれど、それを告げる前に、わたしの意識は遠のいてしまった……。


…………。


……。

 

──おやすみなさい……。


…………。

 

……。

 

太陽が、真上の空でまぶしく輝いている。

かすかに吹く風が、初夏の生ぬるい空気をゆっくりと払っていく。


「優子、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですよ。たまにこうして外をのんびり歩くのもいいですね」
「そうか。でも、暑いから無理はしないようにな」

 



「はい」


優子は笑顔で頷き、前の墓標を見つめる。

そこには、俺がずっと忘れていた、初めて会った頃の優子の苗字と。

初めて知った、優子の母親の名前が刻まれている。

 



「お母さん、どうもお久しぶりです。ずっとお墓参りに来なくてごめんなさい」
「俺は……初めまして、ですね。火村夕と言います」


俺も墓に視線を向け、挨拶する。

優子の母親は研究者で、震災の日に研究室で亡くなったんだったな。

仕事ばかりの人だったらしいし、父親は誰かわからない──雨宮はそう言っていた。

今まで、優子から母親の話を聞いた覚えがないが……。


「で、お母さん。唐突ですけど、早くもあなたはお祖母さんになることになりました。ほら、ここにいるのが孫です。

優子は大きくなったお腹を撫でながら、からかうように言った。


「この子、お年玉をくれるお祖父ちゃんお祖母ちゃんがいないのがちょっと可哀想ですよね」
「それは問題なのか?」
「子供にはきっと大問題です」


そうかもしれないが、久しぶりに墓前に立って話題にすることでもない気がする。


「優子、そんなことを話すためにここに来たんじゃないだろう」
「まあ、お母さんには悪いんですけど、ぼーっとしてたら急にここのことを思い出したんですよね」
「…………」
「わたしは、妊娠してすぐの頃はちょっとキツかったですけど、そんなに体調がひどくなることもないです。でも、それでもやっぱり大変なこともあって。お母さんもこんな思いをしたのかなーと思いまして」
「母親っていうのは……みんな、大変なものだろ」
「ええ、わたしもようやくそれが実感できました。だから、お礼を言わないといけませんよね。お母さん、わたしを産んでくれてありがとう」


優子は、母親の墓ににっこりと微笑みかける。


「あなたが産んでくれたから、わたしは夕くんと出会えました。この子を授かることもできました。ミズキや凪さん、みんなと出会えたのもお母さんのおかげです。本当に……ありがとうございました」
「……ありがとうございました」


そう、俺もこの人に感謝しなくてはいけない。

優子に出会えたことが、俺の人生で一番の幸せなのだから。


「子供が生まれたら、また会いに来ます。子供が大きくなったら、覚えてる限りのあなたのことをお話ししてあげます。だから、安心して眠っていてください。あなたの娘もお母さんになります。夕くんと一緒に幸せに生きていきます」
「ええ、優子と子供は俺が守っていきます。必ず、守ります」
「という感じの、頼りになる旦那様もいますので。なにも心配はいりませんよ」


それから、優子は少しの間だけ黙って──

小さく息を吸い込んでから、口を開いた。


「ええ、本当に大丈夫です。クリスマスにわたしを呼んだのはこの子だけじゃなくて……わたしが一瞬聞いた声はお母さんだったんですね。心配してくれたんですよね」
「なんのことだ?」
「いえ、まあなんと言いますか──夢のようなお話です」


優子はそう言って、くすりと微笑んだ。

なにか、俺の内緒の話らしい。


「ちょっと短いですけど、あまり無理をすると叱られるので。今日はこの辺で帰りますね」
「もういいのか?」
「はい、言いたいことは言いましたから。では、さようなら、お母さん」
「…………」

 



俺は小さく頭を下げ、優子のそばに寄り添うようにして歩き出す。

ずっと、こうして彼女を守っていく。

優子が母親から命を受け継ぎ、今度は彼女が新しい命を育んでいる。

こうして、命は繋がっていくのだ。

そのついでに、幸せも繋いでいけたらなにも言うことはない。

俺は、優子と子供のために──そして、幸せを繋ぐために生きていこう。

もう間もなく、俺たちの子供は生まれてくる。

本当に、もうすぐだ。


「もうすぐですね、夕くん」
「……ああ、そうだな」


偶然、同じことを考えていたのか。

少し苦笑しながら、俺は優子に頷いてみせる。


「わたしももうすぐお母さんになって、赤ちゃんを抱いてあげるんですよね」
「楽しみだな」
「だから……その前に、一つやっておくことがあります」
「……やっておくこと?」
「きちんと、この手で抱いてあげたいですから……もうおしまいにします」


彼女はそう言ってにっこりと微笑むと──

春が過ぎて、夏になろうとしている今になっても外さなかった手袋を──



 

 

Another Story 1. 君といる未来
 feat. Yuko Amamiya.

 



6 months ago...
 in Otowa City.


……。

 

クリスマスの朝。

だけど、いつもとなにも変わらない当たり前の朝。

彼女に起こされ、あたたかい朝食をふたりでゆっくり食べる。

 



ごちそうさん
「はい、おそまつさまでした」


優子はさっそく俺の食器を引き寄せ、盆の上に置き始める。


「後かたづけくらい俺がやるよ」
「病人扱いしないでくださいよ」

かすかに苦笑いして、優子は俺を制する。


「それに、今日は調子がいいんです」
「最初のうちはおとなしくしてたほうがいいんじゃなかったか?」
「皿洗いくらいなんの問題もないですよ。いいから、お任せください」
「……調子の悪いときはちゃんと言えよ」
「ええ、わたしだって無理はしたくないですから」


にっこりと優子は笑う。

そうだな……しっかりと見ておいて、無理をするようなら止めればいい。


「夕くんのほうこそいいんですか?」
「俺?」
「今日は早めに入って仕込みから手伝うんでしょう? のんびりしてていいんですか?」
「あっ」


時計を見ると、思っていた以上に時間が過ぎていた。


「ちょっとやばいかも」
「ほらほら、急ぎましょう。後は全部わたしがやっておきますからご心配なく」
「悪いっ」


俺は言って上着に袖を通す。

立ち上がりかけて──


「今日の待ち合わせ、わかってるよな?」
「ええ」
「ちゃんと時間どおりに上がるつもりだけど、もしかしたら……」


優子はこくりと頷く。


「クリスマスですからね。お客さんも多いでしょう。マスターさんは帰らせてくれるでしょうけど、忙しいようなら仕方ないです。多少の遅刻は目をつぶりますよ」
「本当に悪い。どっちにしてもちゃんと教会の中で待ってろよ。あそこも寒いけど、外よりはマシだ」
「はいはい、わかってますよ」


すっと顔を近づけてくる。

 



「待ってますから」
「長くは待たせないからな」
「はい……」


俺は少し屈んで、優子に口づけする。

ちょっと冷たいけれど、柔らかな唇。

いつまでもこうしていたいと思う。


「……んっ」


だけどそうはいかない。

生きていくために働かなければならないのだ。


「優子」
「はい」


いつもと変わらない朝。


「今日の朝メシは……美味かった」


だけど、クリスマスだから……少しだけでもいつもと違う朝にしてみたくなった。


「あら。あらららら?」
「うるせーよ」


やっぱり言うんじゃなかった。

こいつももう少し可愛げのある反応をしてくれればいいのに。


「もう行くぞ、俺は」
「ちょっと待ってください、夕くん」


優子は優しく言って、俺の手を掴んだ。

その手をみずからの下腹部に導く。


「ほら、パパに言いなさい。いってらっしゃい……って」


まだ宿ったばかりの小さな命。

触れてみたってなんにもわからないはずだ。

なのに、なにかを感じる。

そこには──確かに新しい生命が脈打っていると。


「いってくる」
「はい、いってらっしゃい」

手を振った優子の顔はいつもと違っていた。

あまりにも深い優しさに満ちたその微笑み。

そうか、彼女はもうとっくに──

母親になっているのだ。


…………。


……。

 

朝食の片づけと洗濯を済ませると手持ちぶさたになってしまった。

掃除は夕くんが早起きして済ませてしまっている。

それくらい、わたしに任せてくれればいいのに。


「こんなにのんびりしてたら太っちゃいそう……」


産婦人科で少し話したおばさんは、出産後はなかなか体型が元通りにならなくて困ったそうだ。

わたしもそうなるんだろうか。

なんて恐ろしい話だ。


「はーっ……」

 



すぐそばに、夕くんが図書館で借りてきた出産のマニュアルが積まれている。

実を言うとあまり読む気がしない。

わたしが考えなければならないのは、雨宮の養父母をどう説得するかであり──

説得できたところで、その後どうやって生活していくかだ。


「仕方ないですよね……」


わたしはつぶやいて、勝手に使わせてもらっている棚を開け、衣類をどけると小さな封筒が現れた。

封筒の口を開け、中身を取り出す。

わたし名義の預金通帳とハンコ。

あの人とともに焼け落ちてしまった雨宮の家。

その焼け跡から出てきた金庫の中から見つかったものだ。


「兄さん……」


わたしはこの通帳の存在を知らなかったけれど、おじさんは“これは優子のものだ”と言った。

口座には、決して少ないとは言えない額が入っている。

思えば、あの人には特に趣味らしい趣味もなく、毎日煙草をふかしているだけだった。

生活費以外にほとんどお金を使わず、わたしの口座にお金を振り込み続けていた……。

おそらく、わたしの将来のために。


「なんなんでしょうね……」


なにを考えていたのだろう、あの人は。

今でも赦す気持ちはまったくない。

だけど、わたしを憎んでいただけではないと──やっぱりそうも思えてしまう。

このお金のことを夕くんに話したらどうなるだろう?

たぶん夕くんは使おうとしない。

これを使えば楽になるとわかっていても。

 



「……うん」


わたしはお腹をそっと撫でる。

この子は夕くんとわたしの子供だ。

だから、わたしたちの力で育てるんだ。

それが大人になるということ。

人の親になるということ。

夕くんとわたし、生まれてくる子供の3人で支え合うんだ。

わたしたちは──

家族になるのだから。


…………。


……。

 

 

 

怒涛のような忙しさだった。

店は常に混みあっていて、やむをえず相席をお願いすることもしばしば。

普段はウェイターと皿洗い、それに簡単な飲み物を作るだけだが、そうもいかなかった。

パスタやサンドウィッチを作り、店内を駆け回る。

辛いとは思わない。

これが終われば優子とゆっくり時間を過ごせるのだ。

彼女と一緒にクリスマスを──


…………。


……。

 

 

 

 

買い物を済ませ、わたしはクリスマスの街を歩く。

あちこちから音楽が聞こえ、道行く人々はみな楽しそうだ。

街は活気に満ち、今にも雪が降りそうな寒さを誰も気にしていないかのよう。


「ふう……」


思わずため息が出た。

さっきの買い物で先月分のアルバイト料はほとんど使い切ってしまった。

クリスマスだから。

とりあえずそれで自分を納得させる。

年に一度だけのことなのだから、あまり気に病むのはやめよう。


……。



 

「いない……」


公園にいるのはカップルばかりで、未来の姿はどこにもない。

また教会のあたりをうろうろしているんだろう。


「子供って人の話聞きませんからね……」


叱られた直後は言うことを聞いてもすぐに忘れてしまう。

だから大人が見守ってあげないと。


「────っ!?」

 

 

ふと、なにかがすごいスピードで頭をよぎっていった。

いまのは……なんだろう?

ひどく懐かしい誰かの顔と──わたしを呼ぶ声が聞こえたような。

誰なの……?


…………。


……。

 

どうしても思い出すことができなかった。

だけど、間違いなくわたしが知っている誰かだった。

あまりにも一瞬のことだったので、顔も声ももうわからない。

教会の建物が見えてきた。

もうあきらめよう。

いつか思い出すこともあるかもしれないし……。


どくん──


不意に、なにかが動いた。

驚いて、わたしは立ち止まる。

そんなはず──そんなはずはない。

 



わたしは視線を下げて、自分のお腹をじっと見つめる。


「まさか……ですよね」


診断ではまだ2ヶ月目だし、胎動を確認できるのは早くても4ヶ月目からだったはず……。

いくら、わたしと夕くんの子供でも、そこまで常識外れではないと思う。


「錯覚に決まってますけど……」


でも、それで済ませてはいけないような気がする。

本当にバカみたいな話だけど、お腹の中の赤ちゃんがなにかを言いたそうにしているような……。


「あのー……。どうかしたんですか? なにか言いたいことがあるの?」


もちろん、答えは返ってこない。

自覚はないけど、妊娠でわたしも案外ナイーブになっているのかも……。


「ちょっと、気をつけないといけませんね」


身体は大事にしないといけないし、周りにも注意しないと危ない。

転んだり、人にぶつかったり、ましてや──

 


──ッ!!

 

 

「あ……わっ……!」


わたしは短い悲鳴を漏らして、後ろに一歩飛び下がる。

同時に、手で触れられそうなくらいのところを車が猛スピードで通りすぎていく。

遅れて風が巻き起こり、わたしはとっさに髪を押させる。


「あ、危ないですね……」

 



もう車はずっと遠くまで行ってしまっている。

街中の道をあんなスピードで走るなんて……。

この辺りでは未来が遊んでいることもあるだろうから、一応注意しておいたほうがいいかもしれない。


「未来は、わけもなくうろうろしていますからね」


──「べつに、うろうろしてるわけじゃない……」

 



「あら?」


いつの間にか未来がすぐそばにいて、わたしを睨んでいた。


「全然気づきませんでしたよ。いつ、ここへ来たんです?」
「教会にいた。そしたら、ゆうこがびっくりしてる声が聞こえたから」
「あ、ああ。さっきの悲鳴が聞こえちゃったんですね」


そんなに大声を出したつもりもなかったけど、けっこう驚いてしまっていたらしい。


「ごめんなさい、未来。心配させちゃいましたね」
「心配なんか……してない」


ぷいっと、未来は視線を逸らしてしまう。

まだまだ素直になってくれませんね、この子は。

まあ、そういうところも可愛いんですけど。


「ゆうこ、なんで笑ってるの……?」
「いえいえ、なんでもありませんよ。それより、未来はなにをしてたんですか?」
「んと……おともだちと遊んでたの……」
「えっ、お友達?」


いつも一人で遊んでいたこの子に、友達ができた……?


「ゆうこ、今度はびっくりしてる……そんなに変なこと……?」
「あはは、そんなことないですよ。喜んでるんです。そうですか、お友達ができたんですか。いいですね、同じ施設の子ですか?」
「うん、さゆりちゃん……おなじおへやなの」
「なるほど、同じ部屋の子と仲良くするのはいいことですね。お友達はいいものです。実は、わたしは最近までお友達がいなかったんですけど」
「さみしいじんせい……」

 



「うふふ、なんですって?」
「……………っ」


まぁ、びっくり。

未来が、まるでお化けでも見たみたいにがくがく震えていますね。


「未来、たとえ本当のことでも言葉には気をつけないとダメですよ。せっかくできたお友達をなくさないようにね……うふふふふ」
「わ、わかった。うん、わかった……」


未来は、こくこくと何度も頷いている。

ようやく物わかりがよくなってくれたようですね。


「わたしは待ち合わせがあるんですが……実は、未来にも用があるんですよ」
「用……?」
「ええ、それをお話する前に、教会に入らせてもらいましょうか。ここは寒いですからね」
「ん……」


未来が、今度は一回だけ頷いた。

相変わらずの無表情だけど、この子は笑顔になってくれるだろうか。

わたしは、教会へ歩きながらプレゼントの包みを軽く握る。


よかったね──


「えっ……!?」

「ゆうこ……?」


また──まただ。

一瞬、お腹で違和感が──

それに、今度は言葉まで聞こえたような気がする。

男が女かすらわからなかったけれど、どこか舌足らずで。

でも、とても愛しい声──

 



「ゆうこ、どうしたの? またどこか痛いの?」
「……いえ、大丈夫です。ちょっとだけ。ええ、ちょっとだけ不思議な気分になったんです……」
「不思議?」
「はい」


わたしは、未来に笑顔を向ける。


「優しい誰かに守られてるような……そんな気がしたんです」


…………。


……。

 

のんきなクリスマスソングを聞き流しながら、俺は小走りに商店街を進んでいく。

さすがに今日は人出が多く、歩くのも大変だ。


──「わっ」


「あ、すみません」

 



と頭を下げかけて、相手が誰なのか気づいた。


「なんだ、凪じゃねえか」


と言いつつ、俺は右手を背中に隠す。


「……僕なら謝らなくてもいいとでも?」
「いや、そうだな。悪かった」
「別にいいが……君はなにしてるんだ?」
「なにって、急いでるんだ」


俺はさっさと歩き出し、なぜか凪も早足でついてくる。


「おまえこそなにしてるんだよ」
「僕はただ暇つぶししてるだけだ。今日デッサン休みたいって言ったのは、ゆっこちゃんとの約束があるからじゃないのか?」
「だから急いでるんだよ」
「なるほど、納得だ」
「わかってくれてよかったよ」
「夕、ちゃんとプレゼントは買ったのか?」
「おまえに心配されるようなことじゃねえよ」


言われるまでもなく、それくらい準備している。

結局、マスターは予定の時刻に帰らせてくれたが、プレゼントを選んでいて時間をくってしまったのだ。


「夕は変なところで気が利かないからな。なにを買ったんだ?」


さっきから凪に見えないように隠していたのだが、無駄だったらしい。


「まさか、師匠である僕に隠し事はないだろう?」
「……笑うなよ」


ここで長々と押し問答をやるのはゴメンだ。

俺はあきらめて、渋々右手を差し出す。


「…………ほー」
「なんだよ、その反応は」
「いいや、まさか夕が花束とはね……」


束と呼ぶにはあまりにも数が少ないが、俺が出せる精一杯の金で買ったものだ。

墓参り用の花とどちらを買うか迷ったけれど。

だけど、俺が喜ばせてやりたいのは優子なのだから。


「花束なんて、火村夕に一番似合わないアイテムだな」
「余計なお世話だ」
「でも。優子ちゃんには似合うよ」
「え……?」
「優子ちゃんには花がよく似合う」
「本当にそう……思うか?」
「もちろんだよ」
「……まったく、どこも混みすぎなんだよ。花を選びたくても人が邪魔で全然見られねえし、レジは行列できてるし」


俺は照れ隠しに早口でまくしたてる。


「僕に言われてもこまるんだが」
「せっかく現れたんだから八つ当たりの相手くらいにはなれ」
「とてつもないワガママだな……」
「というか、おまえはどこまでついてくるんだ」
「君たちのデートを邪魔する気はない。ここで別れよう」


そう言って、凪は足を止めた。


「そうか。んじゃあな」


と、立ち去りかけて、ふと思った。

さすがに凪には妊娠のことを話しておくべきなんじゃないか?


「どうかしたか?」
「……いや、なんでもねえ」


今日は急いでいることだし、また今度でもいいだろう。

慌てて伝える必要があるわけでもなし。

 



「気にしないでくれ、俺は行くから──」
「うん、ゆこちゃんによろしくな」
「ああ」


俺は手を振って、凪と別れる。

歩きながら、ふと空を見上げた。

 



さっきまで雲があったはずだが、いつの間にか風で流れて行ったようだ。

いい夕焼けだな……。


「おっと、空なんか見てる場合じゃなかったな」


俺は、花束を落とさないように気をつけつつ、走り出す。

優子が教会で待っているんだから──


…………。


……。

 



「……………」


危うく、花束を取り落としそうになった。

目の前の光景が信じられなくて、俺は凍りついたように立ちつくしてしまう。


「あはは、あはははは」

「…………」


確か、未来とかいう名前だったか……。

優子が手懐けている、施設の女の子。

前にちらっと見たときにはずいぶんと愛想が悪かったが、今日は別人のように笑ってる。


「……優子はいないようだな」


ちょっと話し掛けるのもためらわれるが……あの子に訊いてみるか。


「おい……おい、ちょっと」

 



「あははは……は?」


女の子は、ぴたりと凍りついたように固まる。

手に持っているのは、女の子向けのお人形のようだ。

どうやら、あれを見ながら笑っていたらしい。


「邪魔をして悪いな。訊きたいことがあるんだ」
「……ひっ」


おや、なぜか女の子の目に恐怖の色が浮かんだような。


「待て。別に怖がることはない。優子のことは知ってるだろ?」
「んっ、うん……」
「俺は優子の知り合いだ。あいつがどこにいるか知ってるかと思ってな」
「ゆっ、ゆうこの……」
「そうだ、優子だ」

 



「ゆうこの……い、いのちをねらいにきたの?」
「…………」


あー、これはどう解釈すべきなのか。

もしかしなくても、俺を殺し屋とでも思っているんだろうか?


「ま、前にえーがでみた。はなたばにてっぽうかくしてるの!」
「…………」


この子の親は、子供になにを観せてるんだ……。

しかし、花束にショットガン仕込んだ殺し屋とはまたベタだな。


「大丈夫だ。ほら、鉄砲なんか入ってないだろ?」


俺は無理に笑顔を作りながら、花束を未来に見せる。


「わ、わ……」
「ん?」
「わああああああぁーーーっ!」


「おーい!?」


未来は人形を大事そうに抱えて、一目散に教会の裏手──施設の建物があるほうへと走って行ってしまう。


「……撃たれるとでも思ったのか?」


目つきの悪さについて、少し考えたほうがいいのかもしれない。

あの女の子も、なかなか思い込みが激しそうだが。


「とりあえず……」


気を取り直して、優子に会いに行こう。

未来が持っていたあの人形は、ずいぶんと真新しかった。

たぶん、誰かにもらったばかりなんだろう。

そうなると、人形をプレゼントした本人もすぐ近くにいるはずだ。


……。

 

教会の扉を開けて、足を踏み入れる。

中の空気もひどく冷たいが、外よりはずいぶんとマシだ。

いや──もう寒さのことなんてどうでもいい。


「あ……」
「……待たせたか?」
「いいえ、少しも……」

 



「少しも待っていません」


彼女は笑顔で首を振った。


──別に、感動するようなことではない。


待ち合わせをして、そこに約束した相手がいた。

それは当たり前のことで、優子も俺も約束を破るわけがない。

でも、なんなのだろう。

このこみ上げてくる喜びは──

 



「夕くん? どうかしたんですか?」
「ん、ああ。なんでもない」
「えー、なんでもないって顔ではないですよ。夕くん、なんだか嬉しそうな顔をしてます」
「……そうか? さっきは、子供に逃げられたような顔なんだがな」
「あはは、それは災難でしたね。でも実は──」


優子は明るい笑顔を浮かべて、まっすぐな視線を向けてくる。


「わたしも嬉しいんです。夕くんの顔を見られるのが、嬉しくてたまらないんです。どうしてでしょうね、本当に不思議です」
「……そうだな、不思議だとは思うが」


俺は小さく首を振って、優子に笑いかける。


「クリスマスだからな。なんでもないことが、嬉しくなるんだろう」
「ええ、クリスマスですからね……」

 



俺たちは向き合って、なにかを確認するように頷く。

ささいなことなのに、二人ともここで会えたことがまるで奇跡のように感じているのだ。

バカみたいな話だ。

バカみたいな話だが……。


「今日は、なんでもありにしよう。俺が変なことをしても笑うなよ」
「笑うわけありませんよ。念願のクリスマスデートですからね」
「夏のクリスマスなら、もっとよかったんだがな」
「それは予約にしておきましょう。いつか、連れて行ってください」
「約束するよ。いつか、必ず夏のクリスマスを一緒に過ごそう」
「はい、楽しみにしてます」


今はまだ、優子を夏の楽園に連れて行けるだけの力はない。

だけど、焦ることもないだろう。

俺たちには、これからいくらでも時間があるのだから。


「約束──ですね。それでは、これはその証にもなりますね」


優子は微笑みながらそう言って、近くの席に置いてあった紙袋を取り上げた。

そして、紙袋の中からゆっくりと取り出したそれを──


「夕くん、メリークリスマス」
「優子……」

 



首に巻いてもらったマフラーに、俺はそっと触れてみる。

あたたかい──

どうして、ただのマフラーがこんなにもあたたかいのだろう。


「手作りじゃなくてごめんなさい。わたし、不器用ですから」
「それは知ってる」
「……もう、こんなときまで意地悪ですね」


拗ねたような口調とは裏腹に、優子は笑顔のままだ。

ああ、この笑顔があるからあたたかいんだな──


「ありがとう、優子」
「いいえ、わたしにはこれくらいしか贈れるものがありませんから」
「……俺からも」
「え?」
「俺からも、あるんだ」


今、俺にできる精一杯のこと──

隠していた花束を、そっと優子に差し出した。


「あ……」

 



「メリークリスマス」
「は、はい……」


優子は驚きとも喜びともつかない表情を浮かべて、花束を受け取る。

まるで宝物をもらったように慎重な手つきだった。

 



「ありがとう……ございます」
「これくらいしかできなくて、悪いな」
「そんなこと……本当に嬉しい。嬉しいです」


優子の言葉には、少しの嘘もない。

まっすぐな目を見ていれば、彼女の気持ちは、胸にしみるように伝わってくる──

俺にも、伝えなければならない気持ちがある。

はっきりと、言葉にして語らなければいけない気持ちが──


「……夕くん?」
「…………」
「どうかしたんですか? もしかして、寒いですか?」


一転して不安そうな表情になり、優子が俺の顔を覗き込んでくる。

そう、言わなければならないのに──


「いや、このマフラーのおかげだ。全然寒くない。そうじゃなくて、ただちょっと……ちょっと、この後どうするか考えていただけだ」
「あ、そうですね。ここで待ち合わせ、までしか決めてませんでした。どうしましょうか……」


優子は首を傾げて考え込み始めた。

ああ、しまった……。

もうこれで、完全に言うタイミングを無くしてしまったな……。


「そんなにお金もありませんしね。なかなか難しいところです」
「そうだな」


仕方ないか……。

焦って言うようなことでもないし、優子には少し待ってもらおう。


「とにかく、外に出てみるか。今日の街はにぎやかだし、歩いているだけでも楽しいだろう」
「はい、そうしましょう」


優子は笑顔で頷き、俺の横に並んで歩き始める。

後は、なにも考えずにクリスマスを二人で楽しもう。

クリスマスを、優子と二人で──


…………。


……。

 



「わ、ちょっと寒いですね」
「俺を風よけにしていいぞ。少しは違うだろう」
「それもいいですけど……こんなのは、どうでしょう?」
「お、おい……」


優子はいたずらっぽく笑い、俺に身体をくっつけて腕を組んできた。


「大丈夫ですよ、クリスマスですから。少しくらいイチャついても、目立ちませんよ」
「……そうだな。今日くらいは、かまわないか」


マフラーと、優子の身体から伝わってくるぬくもり。

冬の寒さも、もうまったく気にならない。


「そういえば、未来はいませんね。プレゼントを渡したら、真っ赤になって教会から出て行っちゃったんですけど」
「ああ、あの子なら見たぞ。人形を見ながらにこにこ笑ってたな」
「え、本当ですか。よかったー。お礼は言ってくれたんですが、あまり嬉しそうじゃなかったんですよね」
「あの子は照れ屋なだけだな。いや、素直じゃないと言うべきか」


一人で、あんなに嬉しそうに笑っていたくせに。

あの笑顔を見れば、優子もどんなに喜んだだろうか。


「しょうがないですね、未来は。笑えば可愛いのに、困ったものです。女の子は、いつもにこにこしていたほうがいいって、今度教えておきましょう」
「優子は、なかなか教育熱心だな」
「ええ、教えることはきっちり教えますよ。子の子にもね」


優子は、そっとお腹を撫でる。

まだ見ぬ我が子は、厳しく育てられるかもしれないな。

まあ、苦労はあるかもしれないが、まっすぐな子に育ってくれればいい。


「その子には悪いが、今日は二人だけの時間にさせてもらおう」
「きっとこの子も許してくれますよ」
「ああ、そうだろうな」


さあ、どこに行こうか。

いや、たぶんどこでもいいんだろう。

ここから二人で歩いていくことが、大事なのだから。

きっと、今日のことは一生忘れられない思い出になる。

いつか、俺たちの子供が大きくなったら話してやるのもいいだろう。

特になにかが起きるわけでもない──ただのクリスマス。

でも、二人でいるだけでそれは特別な一日になる。


「夕くん、あったかいですね」
「ああ」

 



教会の前の道を、俺たちは身体を寄せ合って歩いていく。

クリスマスでにぎわる街へと向かって──


…………。


……。

 



「夕くん、お待たせしました」
「ああ」


俺は寄りかかっていた壁から離れて、優子のほうへ歩いていく。


「どうだった、ちゃんと手続きは終わったのか」
「はい、つつがなく」


優子は頷きながら、にっこりと笑った。

その様子にはいつもと違ったところはなく、学級日誌でも渡してきただけのような感じだ。


「でも、意外と簡単なんですね。退学手続きって」
「……入学と違って、試験はないからな」
「あっ、なるほど。入試に比べれば、書類の四枚や五枚なんて軽いですよね」


優子は、くすくすとおかしそうに笑ってくれる。

こんなときに、気の利いたことも言えない自分が恨めしい。


「雨宮さんたちは?」
「ええと、先生たちとまだお話があるから、わたしは先に帰っていいと言われたので」
「話?」
「わたしのこともあるんでしょうけど、兄さんのことも話したいらしいです」
「……そうか」


優子の養父母──雨宮さんたちにとっては、音羽学園は息子の職場でもある。

夏にこの世を去った息子の話を、他の先生方から聞きたいのも無理はない。


「そういうわけですから、帰りましょう。待っていると長くなりそうですしね」
「ああ、そうするか」


優子は、なにも気にした様子もなく「兄さん」と口にした。

だが、それでも──雨宮のことを話しているところに混ざる必要もないだろう。


……。


年が明けて数日、学園では既に新学期が始まっている。

優子の体調がここしばらくよかったので、放課後になるのを待って、退学届けを出しにきたというわけだ。

当然、雨宮さんたちにも既に事情は話してある。


「……一発や二発、殴られることも覚悟してたんだけどな」
「え? うちのお父さんのことですか?」
「ああ。あっさり許されたからな。まだ、信じられない気分だよ」
「そういうものですよ。世の中、厳しいこともたくさんありますけど……。上手くいくときは、意外とあっさり上手くいくものです」
「……ああ、そうだよな」


だけど、俺は思う。

ただ、雨宮さんが寛大だったからではない。

妊娠についての話は、優子が自分ですべてを養父母に語った。

あのときの優子の目を見たら──決して引き返さない覚悟を目の当たりにしてしまったら。

いったい、誰が反対できるだろう?

もちろん、俺も優子と俺たちの子供を守るために言葉を尽くして、雨宮さんたちを説得した。

俺たちが長く長く語ってから──


「まあ、お父さんが『わかった』の一言で許してくれるとはさすがに思ってませんでしたけど」
「俺は、あの言葉が一番驚いたよ」


雨宮さんはその一言以外はしばらくなにも言わず、その奥さん──優子の義母は一つ頷いただけだった。

それから、細かい話が続いた。

出産となれば、言うまでもなくいくつも障害がある。

まずは言うまでもなく、経済的な問題が立ちはだかってくるが、これについては雨宮さんの援助を受けることに決まった。

というより、強引に押し切られた。


「お父さんたちにとっては、孫になるんですからね。驚いたでしょうけど、楽しみでもあるんでしょう」
「それも初孫か……」


以前に、同棲を認めてもらったときにも感じたことだが、雨宮さんたちは優子を実の娘以上に大事に思っている。

だから、雨宮さんたちも、俺と同じ気持ちでいてくれているようだ。

つまり──優子と、彼女のお腹にいる命を守るためなら、どんなことでもすると。


「援助のことは、夕くんは納得できないかもしれませんけど……お父さんたちの望みでもありますからね」
「それは、充分すぎるくらいわかったさ」


俺は、思わず苦笑いを浮かべた。

雨宮さんの説得は本当に凄かったからな……。

援助をさせてくれないなら、優子も孫も雨宮の家に連れて行く──と言いかねない勢いだった。


「実際、他に道はないわけですしね。自分たちだけでは限界がありますよ」
「あっさりしてるな、おまえは」
「夕くんは夢を見ていていいんです。代わりに、わたしが現実を見ますから」
「おかしいな、俺のほうがしっかりしているはずなんだが……」
「女は、母になると変わるんですよ」


優子は偉そうに言って、にっこり笑う。

まあでも、なりふりかまっていられる状況でもなしいな……。

俺は、このまま学校に通って進学する。

優子は、子供を産んで育てる。

この二つを両立させるには、今の俺たちだけではどうにもならない。

やはり、雨宮さんの経済援助を受けるというのが一番現実的な線だろう。


「……あれ?」

 



「おっ」

「あら、凪さん。こんにちは」

「ああ、こんにちは。二人ともなにをして──そうか、退学の手続きだな。この前、聞いたんだった」


突然現れた凪は、自分で納得してうんうんと頷いている。

ちなみに、凪にも優子の妊娠のことと今後のことは説明済みだ。


「ところで、夕、ゆこちゃん」

「ん?」

「なんですか?」

「君たちの話を聞いたときは、さすがの僕も動揺して、なにも考えられなくなってしまったんだが」

「そりゃそうだろうな」

「これは君たちの友達として、夕の師匠としての意見として聞いてほしいんだ。二人とも、よかったら僕の家に住まないか?」

「は? おまえは、またなにを……」


どう見ても冗談を言っている顔ではないので、余計に戸惑ってしまう。


「うちは部屋はいくつも余っているし、アトリエもあるから絵の勉強にももってこいだ。環境としては悪くないだろう?」

「悪くはないだろうが、いくらなんでも同級生の家に居候するわけにはいかないだろ」

「なぜだ? 心配しなくても、僕は家ではちゃんと服を着ておくぞ」

「そんな心配はしてない!」

「ん? むしろ脱いでいてほしいのか?」

「わー、夕くんったらいやらしいー」

「おまえらな……」


この扱いに困る女が二人揃うと、俺にはもう太刀打ちしようがない……。


「でも、真面目な話をすると。ゆこちゃんは、安静にしておくことが一番だろう? うちにいれば、僕が家事をやれるし。父は一日中家にいるから、僕らが学校に行っている間も安心だ」

「確かに、その辺の心配はあるが……」


優子も今はまだ家のこともできているとはいえ、お腹が大きくなればそれも難しいだろう。


「それに、赤ちゃんが生まれた後のこともある。行っておくが、僕は子育ての経験者なんだぞ」

「そういえば、弟さんは歳が離れてるんですよね」

「うん、僕が母親代わりだったからな。赤ちゃんの扱いにも慣れてる。必ず、立派な絵描きに育て上げるから安心していいぞ」

「絵描きにするなんて言ってないだろ!」

「あ、そうだった。すまない、ついクセで」

「おまえは、子供を見ると絵描きにせずにはいられないのか……」

「凪さんらしいお話ですけどね……」


たまに妙な話が飛び出てきても、凪が本気で俺たちを案じているのは間違いないだろう。

ただ……。


「凪、おまえの気持ちはありがたい。でも、居候っていうのはさすがに気が引ける」

「変に遠慮をしていられる状況じゃないぞ」

「それもわかってる。たぶん、いつか凪に頼ることもあると思う。もしかしたら、居候をお願いするかもしれない。でも、今は……もう少し待ってくれ」

「やれるところまで、自分たちで頑張ってみたいということか。うん、わかった。だけど、限界まで頑張るんじゃないぞ。本当に困ってからでは、面倒になるかもしれないからな」

「ああ、わかってる。ありがとうな、凪」

「…………」

「…………」

「なんだ、おまえたち。二人揃って、目を丸くして」

「あ、いえ……」

「夕が僕に素直に礼を言ったから……なにか裏があるのかと考え込んでしまった」

「やはり、一度おまえたち二人とはじっくり話し合う必要がありそうだな」


俺が睨みつけると、二人は軽く肩をすくめた。

もし凪の家に世話になったら、ずっとこの二人を同時に相手にしないといけないのか……。


「それはそれとして。凪さん、わたしからもお礼を言わせてください。心配してくれてありがとうございます」

「気にしなくていいぞ。僕も、二人の赤ちゃんは楽しみだからな」

 



凪は珍しいくらいにこにこ笑っていて、機嫌がよさそうだ。

凪も雨宮さんも、出産を止めるどころか祝福してくれるんだからな……。

こんなにありがたいことは、ない。


「ところで、凪さんはなにをしてたんです?」

「大したことじゃない。急に風景画を描きたくなったから、校内でいい構図を取れそうなところを探してたんだ。でも校内だと難しいな。やっぱり、外で探さないとダメか」

「……それなら、いいところがありますよ」

「いいところ?」

「はい、とってもいいところです」


優子は満面の笑みを浮かべて頷いた。

たぶん、あの場所のことだろうな──


…………。


……。

 

「へえ……確かにいいところだ」


凪はきょろきょろと周りを見ながら、ゆっくりと歩いている。

 



「僕、屋上なんて入るのは初めてだ」

「俺なんて、優子に会うまでは屋上の存在すら忘れてた」

音羽の街も見慣れたと思ってたけど、高いところからだと、また雰囲気が違うな……」


凪は俺の言葉など聞いていないようで、落ち着きなく歩き回っている。

柵がないのだから、縁に近づくようだったら止めよう。


「喜んでいただけましたか、凪さん」

「うん、最高だ。ここはいいな。ドアを溶接して、誰も入ってこられないようにしたいくらいだ」


そうしたら、おまえはどうやって出るんだ?


「それでは、さっそく描くとしよう。あ、ゆこちゃんはもう帰ったほうがいいぞ。ここは冷えるだろう」

「はい、すみませんけど、そうさせてもらいます。夕くんも連れて行っていいですか?」

「今日はしょうがないな。夕、明日からちゃんとデッサンをやるんだぞ」

「わかってるさ。家でもやれることはやっておく」

「それでこそ、僕の教え子だ。あ、そうなるとここの鍵はどうしようか?」

「そうだな、どうするか……」

 



俺は、ちらりと優子の顔を見る。

今は俺が鍵を預かっているが、これは元々優子が持っていた物だ。


「凪さんに預かっていてもらいましょう」

「僕としては、そのほうが助かるけど……いいのか?」

「はい、そのまま凪さんが持っていてください。どうせ、夕くんもここには来ないでしょう?」

「たぶんな」


屋上は、優子と二人で時間を過ごすための場所だった。

彼女が学園を去る以上、もうここに来る理由もない。


「そういうことなら、鍵は僕が預からせてもらう。大事にするから、安心してくれ」

「はい、凪さんなら安心です。それでですね」

「ん?」

「凪さんが鍵を必要としなくなって、他に大事にしてくれそうな人がいたら……その人にあげちゃってください」

「うーん、それはもちろんかまわないが……」

「なにか問題でもあるのか?」

「なにせ、僕は友達が少ないからな。あげられる相手が出てくるかどうか」

「…………」


ああ、そういえばそうだった……。

凪のところで死蔵されかねないな……。


「鍵を渡せそうな相手となると……絃くらいしかいないかも」

「まだ子供だろ、おまえの弟は! 何年待つつもりだ!?」

「というか、弟さんが音羽に入学しないと意味がないような……」

「絃はきっと、ここに入学するだろう。大好きなお姉ちゃんと同じ学校に通いたくなるに決まってる」

「自身たっぷりだな……」

「まあ実際、弟さんも凪さんのことを好きだとは思いますけど」


鍵を大事にしてくれるなら、何年後だろうがかまわないか……。


「じゃ、とりあえずそういうことでいいな。そろそろ、描き始めたいんだけど、いいか?」


「あ、ごめんなさい。どうぞ、ごゆっくり」

「おまえも適当に切り上げろよ。長いこといたら、風邪を引くからな」

「んー……」


どうやら、もう聞いていないようだ。

凪は屋上からの景色を見ながら、構図を考え始めている。


「なにを言っても無駄だな。邪魔になるから、行こう」

「はい、鍵も一番いいところに収まりましたしね」


優子は、心から嬉しそうだ。

これで本当に、優子はなんの心残りもなくなった──だろうか。

そうだったらいい、と俺は思う。


…………。


……。

 

「あ、未来じゃないですか。未来ー」

 



「わっ、ゆうこ……」


手を振りながら近づいてきた優子に、なぜか未来は怯えたような表情を浮かべた。


「未来? どうかしたんですか?」

「う、ううん。なんかゆうこが笑ってたから、怖くなって……」

「いったい、わたしはどんな人ですか……」

「まあ、おまえの笑顔が怖いというのは、鋭い意見かもしれないぞ」

「夕くんまで……うふふっ、わたしちょっと考えたいことができましたよ」

「はっ!?」

「うっ……」


俺と未来は二人揃って、後ずさってしまう。


「こ、ころされるの、わたしたち……?」

「待て、落ち着け。慌てなくても、ここなら人ごみに紛れて逃げられる」

「う、うん。れいせいなはんだんだね、おにいちゃん」

「任せておけ。俺は、人生経験が違う」

「おにいちゃん、かっこいいかも……」

「あのー……。お二人が話してることにも色々言いたいんですが、それよりも、未来」

「な、なに……?」

「あなた、どうして夕くんには『おにいちゃん』で、わたしは呼び捨てなんですか?」

「どうしてって……えーと、えーと……」


未来は困ったように、こちらに視線を向けてきた。

それは、優子と未来の問題だから、あまり関わりたくないな。


「あっ、おにいちゃん向こうむいた!」

「さすが夕くん、危険回避に長けてますね……」

「俺も、人生色々あったもんでな」


これからも色々ありそうなので、経験を生かさないと。

人間は成長してこそ、生きてることに意味がある。


「んーと、んーと……」

「ところで、未来はここでなにをしてるんだ? 買い物か?」

「あ、ううん」


「あー、夕くんが未来をフォローしてます……。甘いですね、夕くんは」

「まあ、呼び方なんて好きにすればいいだろう。まだ子供なんだしな」

「そうですけど……」


優子はまだ不満があるらしいが、黙殺しよう。

おばさん、とか呼ばれていたら嫌がるのも無理はないが、呼び捨てくらい可愛いもんだろう。


「で、買い物じゃないならなんだ? もしかして、迷子なのか?」

「ううん、違うよ。あたらしいお母さんが、どっかに行っちゃったの」

「ああ、新しいお母さんが……」

「新しいお母さん!? なんですか、それは!?」

「えっ? なにって……あたらしいお母さん」


繰り返してるだけだな……。


「ちょっと待って、未来。あなた、もしかして誰かに引き取られるんですか?」

「あ、うん。わたし、こんどしせつを出るの」

「そ、そういうことは早く言ってください。いえ、ちゃんと話してください」

「ん-と……」


また、未来は困ったように落ち着きなく視線を動かす。


「先生がわたしを呼んで、あたらしいお父さんとお母さんがいて……。何回か会ってから、先生にきかれたの」

「なにを?」

「この人たちの家族になるかって……だからわたし、『うん』って答えたの」

「そう……ですか」


優子は、少しだけ困ったように笑ってから。


「よかったですね、未来」

 



「わっ」


おもむろに屈み込んで、未来の小さな身体をぎゅっと抱きしめた。

未来は戸惑った表情を浮かべ、なにもできずにわたわたしている。


「あなたが選んだのなら、きっと新しいお父さんもお母さんもいい人たちなんでしょう。幸せになるんですよ、未来……」

「う、うん……」


優子は、未来を抱きしめたまま動こうとしない。

周りの人たちが不思議そうに見ているが、誰も声を掛けたりはしてこない。

いや、誰も今の優子に声を掛けることなんてできないだろう──もちろん、俺にさえも。


「あの、ゆうこ……ちょっと、くるしい……」

「あ、ごめんなさい」


優子は、ぱっと未来を離して立ち上がる。

なにげなくその顔をのぞいてみたが、彼女は涙を流していなかった。


「優子、おまえ大丈夫なのか?」

「え? もちろん、わたしはなんともないですよ」

「そうか……」


未来がどこかの家に引き取られてしまう。

それは、間違いなく優子にとっては寂しいことだろう。

施設での生活は、実際に経験した俺に言わせれば、特に悪いものではない。

だが、やはり──子供はあたたかい家庭で育つのが一番いい。

だから優子も俺も、未来が引き取られたことを喜ぶべきなんだろう。


「あ、未来。確かあなた、迷子なんでしたね」

「ちがうよ。あたらしいお母さんがどこかに行ったの」

「そういうのを迷子というんですよ。仕方ないですね、一緒に捜してあげますよ」

「いい」

「え?」

「ひとりでもどれるもん」

「もうー、変なところで意地っ張りなんですから。いいから行きますよ。ほら、夕くんも」

「ああ」


歩き出した優子と未来の後ろを、俺はゆっくりとついていく。


「それで、未来。あなたのお母さんの特徴は?」

「おんなのひとだよ」

「そういうことじゃなくてですね……着ている服の色とかは?」

「あかしろきいろ」

「なかなか奇抜なセンスだな……捜しやすそうだが」

「まあ、わたしたちにはありがたいですね」

「ん…?」


未来は苦笑する優子を見て、首を傾げながら──


「あ……」


そっと、優子と手を繋いだ。

それが当たり前のことであるかのように。

 

「なに、ゆうこ?」

「いいえ、なんでも。あっちを捜してみましょう」

「うん」


優子と未来が、手を繋いで歩いていく。

ただそれだけのことなのに──

なぜ俺は、こんな感動にも似た気持ちを覚えているんだろう。

どうも、クリスマス辺りから変なことで感動しているな、俺は。


「そうそう、未来」

「ん-?」

「ついでだから、今のうちに話しておきましょう。前々から言おうと思っていたことなんですが」

「なに……?」

「女の子としての心構えについて、です」

「ココロガマエ……?」

「はい、心構えです」


早くも母親みたいな顔をしているな、優子は。

未来も一度に二人も母親ができて、今後は大変そうだ。

まだ、未来の家族がどんな人たちかはわからない。

でも、優子はこれからも未来をずっと見守っていくんだろう。

だったら、きっと──

優子が諭すまでもなく、未来はいつも笑顔でいられるに違いない。


未来も、優子も、生まれてくる子供も、みんな──

笑顔でいてほしいと、俺は心からそう思う。


…………。


……。

 

 

 

 



「ただいま」

「あ、おかえりなさい、夕くん」


優子は嬉しそうに言って、にっこり笑った。

その顔を見て、俺は安心する。

顔色もいいし、今日は体調も悪くなさそうだな。

 



「すぐにご飯にしますか? あたためれば、すぐにできますよ」
「あ、いや、ちょっと休ませてくれ。今日はなんだか疲れた」
「凪さんの絵画教室ですね。段々厳しくなってません?」
「しょうがない。受験まで、もうあと一年だからな」


ただでさえ俺はスタートが遅かったのだから、必死にやらないと。

雨宮さんの援助を受けられると言っても、受験失敗は許されない。


「優子のほうはどうだった? なにか変わったことはなかったか?」
「お昼から、景ちゃんと千尋ちゃんが遊びに来てましたよ。晩ご飯の準備も手伝ってくれました」
「あんな小さい子たちが手伝いなんてできたのか?」
「うーん、小さいとか大きいとかいうよりも……どうもあの子たちは、お料理との相性がDNAレベルで悪いような」
「……そこまで壊滅的なのか」


まだ小さいのに、料理に関しては将来性に期待すらできないとは。

まあでも、女だからって料理をしなければいけない時代でもないしな……。


「ん? それはなんだ?」
「あ、これですか。靴下ですよ」


優子はテーブルに載っていた布きれを持ち上げる。


「靴下……もしかして、手編みか?」
「ええ、まあ。暇つぶしと練習も兼ねて始めてみたんです。これなら体力も使いませんからね」
「おまえ、手先はあまり起用なほうじゃないだろう?」
「ずばり言いますね……だから、材料を無駄にしないために小さい物で練習してるんですよ」
「なるほどな」


今は一円でも節約したいところだが、靴下編みくらいなら問題ないだろう。

優子も一日家に引きこもっているだけじゃ、退屈だろうしな。


「靴下なら、慣れれば一日で編めるそうですよ」
「優子は何日かかってる?」
「意地悪な質問にはお答えできません」


優子は口を尖らせて言ってから、靴下を編み始める。


「けっこう難しいんですよ、これ。もっと練習しないとダメですね」
「ついでだから俺も一緒に練習してみるか。手編みで服を作れたら節約になりそうだ」
「いけません」
「え?」
「夕くんが始めたら、わたしをあっさり追い抜くに決まってるじゃないですか。これでもわたしにもプライドというものが」
「プライドね……」


ここは一応、優子の顔を立ててやるとするか。

俺は手先は不器用じゃないが、ちまちました作業は絵を描くときだけで充分だしな。


「しかし、今から靴下を編むのは早すぎるんじゃないか? それ、赤ん坊用だろう?」
「あ、違いますよ。これは景ちゃんと千尋ちゃんの分です」
「双子の?」


優子はこくりと頷いて、微笑む。


「今日、あの子たちからお願いされたんです。作ってほしいって」
「まあ、よその子の分で練習してから、うちの子の分を作るというのもいいよ」
「そういうわけでは……夕くんは、本当にわたしをなんだと思って……」


今度は、ちょっと嫌そうな顔をして俺を睨んでくる。

もちろん冗談だが、通じなかったか。


「でも、うちの子の分を編むなら、色を考えないといけませんね。男の子か女の子か、わかりませんから」
「そうだな……」


優子が通っている産婦人科では、男か女かは教えてくれなかった。

まあ、優子は後のお楽しみとか言って喜んでいたけれど。


「男か……女か……」
「名前を二通り考えないといけませんね。頑張ってください、夕くん」
「え!? 待て、俺が決めるのか!?」
「慌てるようなことじゃないでしょう。お父さんが名前を決めるのは、普通じゃないですか」
「そ、それはそうかもしれないが……」
「わたしは靴下を編む人、あなたは名前を決める人です」
「ずいぶん仕事内容に差があるな……」
「わたしには、靴下を編むのは大変な作業ですよ」


優子はくすくすと、心からおかしそうに笑ってる。

名前のことを考えてなかった俺が、どうかしていたのか……。


「勝負ですね」
「勝負?」
「はい、わたしが靴下を上手に編めるようになるのが先か、夕くんが名前を決めるのが先か。楽しみですね」
「……頑張ってみるよ」・


子供が一生使っていく名前なのだから、慎重に考えないとな。

生まれるのは何か月も先だが、ゆっくり時間をかけよう。


「そうだ、優子。名前で思い出した」
「はい?」
「この前は聞きそびれたが、未来はどこのなんていう家に引き取られたんだ?」
「わたしは聞きましたよ。えーと、新しいお家はここからそんなに遠くないです。音羽ですから、いつでも会えますよ」
「そうか、それはよかったな」
「はい、いつか景ちゃんや千尋ちゃんとも会わせてあげたいですね」
「ああ、それもいいな」


あの双子とはそれほど歳も違わないだろうし、変わった子供同士で話も合うかもしれない。


「それと、名前でしたね。えーと、確か──」


…………。


……。

 



「羽山──ミズキ?」

「うん、それがわたしのお名前だって」


二月も半ばにさしかかったある日──

俺と優子は、公園で未来と顔をあわせたのだが。


「ああ、苗字だけじゃなくて下の名前も変わったんですね」


そういえば、養子をもらった場合、子供の名前を変えることもあるらしい。


羽山ミズキ、ミズキ……うん、いいお名前じゃないですか。わたしは好きですよ」

「ん……わたしも、けっこう好きかも……」


この子がこういう言い方をするということは、かなり気に入っているということだろう。

優子もわかっているのか、しきりに頷いている。


「では、これからはミズキ──って呼んでいいんですね?」

「うん、それでいい。わたしも早く、あたらしい名前に慣れないといけないから」

「ミズキ」

「え、なに?」

「いいえ、呼んでみただけです」

「…………むー」


未来──いや、ミズキに睨まれて、優子はかすかに笑う。

まあ、これはこれで仲良くやっているようだし、いいことだ。


「そういえば、今日はなんなんだ? ミズキは俺になにか用があったのか?」

「あ、うん……」

「ほら、ミズキ。恥ずかしがってちゃダメですよ。せっかく作ったんですから渡しましょう」

「なんの話だ?」

「夕くんは、おとなしく待っていてくださいね。ミズキのほうから話しますから」

「そ、そうか……」


今でもたまに、優子が怖くなるな……。


「ミズキ、前に教えたことも忘れずにね」

「う、うん。えっと……お、おにいちゃん!」

「なんだ?」


なにが始まろうとしているんだ。

戸惑う俺の前で、ミズキは一度大きく息を吸い込んだかと思うと。


「あのね」


俺を見上げて、にっこりと微笑んだ。

 



「これ、あげる」

「…………」


ミズキが差し出してきた包みよりも、その笑顔のほうに気を取られてしまう。

俺は数秒の間、その笑顔を見つめてから──


「おまえは、誰だ」

羽山ミズキ! さっき言った!」

「あ、ああ、すまない。いきなり見たことない子が現れたのかと思った」


考えてみれば、クリスマスのときを除いて、この子の笑顔を見た記憶がない。

急にいつもと違う表情を見せられると、可愛いと思うより先に戸惑ってしまうな。


「それで……なんなんだ、それは」

「いいから受け取ってあげてください。すぐにわかりますよ」

「ああ、それじゃあ……ありがとう」

「う、うん……ここで開けてもいいよ……」

「つまり開けろってことだな。うん? これはもしかして……」

「バ、バレンタインのチョコレート……で、でもギリだから! 勘違いしたらダメ!」

「義理ってどういう意味か知ってるか?」

「え? んーと、ん-と……ニンジョーとハカリにかけたりとかなんとか……」

「なんでそんな妙なことを知ってるんだ……」

「いいから! ちゃんと食べて!」

「あ、ああ。もちろん、ありがたくいただくよ」


なぜ今日のミズキは、やけに気迫に満ちているのだろう?


「じゃあ、わたしはもう帰る。あたらしいお父さんとレンジにもあげないといけないから」

「忘れないでくださいね、ミズキ。笑顔、笑顔が大切なんですよ」

「女の子はいつもにこにこしてなくちゃダメ──ちゃんと、わかってる」

「はい、よくできました。おうちまで送りましょうか?」

「ううん、一人で帰れる。ばいばい、おにいちゃん。それと……おねえちゃんも、ばいばい」


「……あら」


優子が首を傾げるのと同時に、ミズキは脱兎の如く駆け出してしまう。

俺も優子もあえて追いかけはせず、彼女の小さな背中を見送った。


「やっと、呼び捨てからお姉ちゃんに昇格ですね」
「嬉しそうだな、優子」
「あの子、このところ凄く明るくなってきたんですよ。新しいお家が気に入ってるみたいです。蓮治くんっていう、歳の近い従兄もいるらしいですしね」
「この前、友達も一緒だったな。いい家族と友達がいるなら、あの生意気な性格も治るかもな」
「それは……どうでしょう……。子供の頃から生意気で、何年経っても変わらないどころか、顔の怖さにどんどん磨きがかかってる人もいますから……」
「誰のことなのか、訊いていいか?」
「いけません♪」
「…………」
「あ、そうそう。忘れないうちに、わたしも渡しておきますね」


優子はなにげない動作で、さっと小さな箱を差し出してくる。


「手作りじゃなくてごめんなさい。ただ、チョコは作ったことないですからね。失敗はしたくなかったんです」
「いや、充分だ。ありがとうな」
「ふふふ、夕くんも素直にお礼を言えるようになりましたね。そこは、子供の頃とは違いますね」
「やっぱり、さっきのは俺のことじゃないか」
「はっ、しまった。うっかり口を滑らせました」


なんてわざとらしい失敗だ……。

優子のほうは、どんどんいい性格になってきているようだな……。


「実は、凪さんと一緒に買いに行ったんです。今日、凪さんもくれたでしょう?」
「ああ、そういえば」


凪は去年はチョコレートをくれなかった──というより、バレンタインなんてまったく興味なさそうに見えたんだが。

「今年はなんの迷いもなく義理チョコをあげられる」とか言っていた。


「わたしはいいですけど、凪さんとミズキにはちゃんとお返ししないといけませんよ」
「わかってるよ」


以前の俺なら面倒に思っただろうが、今は違う。

ミズキは優子が可愛がっている子だし、凪には絵のことでずっと世話になっている。

多少の金と手間をかけてお返ししなければ、罰が当たるというものだ。


「とぼけてますけど、わたしにもちゃんと渡そうとか考えてるでしょう?」
「優子にだけお返ししないわけにはいかないだろう」
「これから、わたしにはいろいろとお金がかかりますから。お返しなんて考えてたら、破産しますよ」
「破産するほどのものをやる気はなかったが」


ホワイトデーには、なにか金のかからない特別サービスでもしてやるか……。


「まあいい。今日はもう帰ろう。まだまだ冷えるからな」
「はい。そうしましょう」


自分一人の身体ではなくなってから、優子はずいぶんと素直になった。

少し、らしくないとは思うが、今はおとなしくしていてもらわないとな。


「優子、寒くないか?」
「全然大丈夫です。今日は、夕くんを風よけにしますから」
「……それはよかった」


どうやら、ちゃっかりしているところは今後も変わりそうにない。


「そういう夕くんは大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。優子にもらったマフラーがあるしな」
「うふふ」
「なんだ、いきなり笑い出して」
「いえ、そう言ってもらおうと思って質問したんですよ」
「ご期待に添えたようで、なによりだ」


苦笑しながら、俺は軽くマフラーを巻き直す。

こういう、なんでもない会話がずいぶんと楽しく感じるようになった。

優子の体調も落ち着いてきたし、俺にも余裕が出てきたんだろうか。

 



「ねえ、夕くん」
「ん?」
「まだ寒いですけど……冬はもうすぐ終わりますね」
「…………」


優子は、どこか遠くを見るような目をしている。

優子と再会し、多くのことが起こった去年の夏。

それに、未来──ミズキと出会い、新しい命を授かった冬。

時間は流れ、また新しい季節がやってこようとしている。

きっと、穏やかに過ごすことができるだろう。

いや、──優子が穏やかに過ごせるように、俺は彼女を守らなければならない。


「ああ、もうあと少しだな」
「はい、もう少しです。もうすぐ春が来ますよ、夕くん」


……。


別に、優子が待っていたからではないだろうが──

 



「ふわぁ、もうすっかり満開ですね」
「ああ」


今年の春の訪れは、例年よりも少しだけ早かった。

三月も下旬に入った頃には、すっかりあたたかくなり、桜のつぼみがほころび始め──

あっという間に、満開になった。


「こうして桜を見てると、この街も日本なんだなって思いますね」
「確かにな」


いや、外国にも桜はあるが、日本らしくないこの街で見ていると軽い違和感がある。


「は~、桜は綺麗ですし、ぽかぽかとあたたかいですし、最高ですね」
「すっかりくつろいでるな」
「最近、うごくのがだるいですからね。こうしてごろごろするのは最高です」
「だるそうな割に、花見をしたいって言い出したのは優子のほうだったよな?」
「花見は年に一回しかできないんですよ。チャンスを逃す手はありません」


優子はきっぱりと言い切って、嬉しそうに桜を眺める。

まあ、優子は学校も行ってないし、家事を軽くやる程度だから、ストレスもたまってるんだろう。

花見が気晴らしになれば、俺としても嬉しい。


「ところで、なにか食べるか? ちゃんと弁当も用意してきたんだろう?」
「あっ、それはちょっと待ちましょう。まだみんな来てませんし」
「みんな……ね。ちょっと、不安になるような面子だけどな」


本音を言えば、連中が来る前に鑑賞も食事も済ませて撤収したいくらいなんだが。


「噂をすれば、来ましたよ。ほら、あそこです」
「まずは、細かい奴らが来たか……」


ぱたぱたと、小さい子が三人、まっすぐこっちに駆け寄ってくる。

やけに急いでいるが、俺が逃げたがっているのがわかっているんじゃないよな?

 



「お兄さん、お姉さん、こんにちは!」

「こんにちは、おねえちゃん。あ、おにいちゃんもあいかわらず怖い」

「けっこうなご挨拶じゃないか、ミズキ……」

「はうっ!?」

「ちょっと、お兄さん。ミズキをいじめるなら景が相手になる!」

「景ちゃんは、もうすっかりミズキのいいお姉さんですねえ」


少し前に、優子を通してミズキと新藤姉妹は出会ったのだが、驚くほどあっさりと馴染んでしまった。

三人ともけっこう性格は違っているけれど、なにか通じるものがあったらしい。

 



「お、お姉ちゃん、ミズキちゃん、速すぎるよ……」


息も絶え絶えといった様子で、最後に千尋がやって来た。

この子は元気の塊のような景やミズキと比べると、多少スタミナに欠けるようだ。


「お兄さん、お姉さん、こんにち……は……」

「おい、千尋。無理をしなくていいぞ。ミズキと景についてくるのは大変だろう」

「おにいちゃんって、ちひろさんに甘い……」

千尋は可愛いけど、ちょっと納得いかないわよね……」

「あはは、しょうがないですよ。夕くんはおしとやかな女の子が好きですから。ほら、わたしみたいな」

「…………」

「…………」

「ちょっと、そこの子供二人。死んだ目でわたしを見ないように」

「子供の前で変な冗談を言うものじゃないな」

「冗談を言ったつもりもなかったんですけどね……しくしく」

「そんなことより、おねえちゃん。おなかに触っていい?」

「あ、景も触りたい」

「わ、わたしも……」

「いいですよ。三人まとめていらっしゃい」


優子が頷くと、三人が屈み込んで彼女のお腹に手を差し出す。

 



「そこに赤ちゃんがいるの?」

「そうですよ。まだ、ミズキよりずっとずっと小さいですけどね」

「赤ちゃん、いつ出てくるの?」

「わたしも早く赤ちゃん見たいです」

「もうちょっと先ですね。夏くらいになると思いますよ」

「うーん、早くわたしの妹に会いたい」

「妹? ミズキって、お姉さんとお兄さんの子供だったの?」

「いやいや、そんなわけないだろう」


いくらなんでも、こんなでかい子供がいるはずがない。

そもそも、まだ赤ん坊の性別もわかっていないのに。


「でも、ミズキは生まれてくる子のお姉さんになってくれるんですよね」

「うん、わたしがおねえちゃん。赤ちゃんは、わたしの子分にするの」

「…………」


うちの子は、生まれる前から使われる立場になることが決まっているのか……。


「すごく楽しみ。早く出てきて」


ミズキはにっこり笑って、優子のお腹を優しく撫でている。

まあ、子分になるかどうかはともかく──

ミズキたちは、生まれてくる子の優しいお姉さんになってくれるだろう。

きっとそれは、素晴らしいことに違いない。


「あっ、あそこにいるの、凪さんと弟さんじゃないですか?」

「なんか、弟が凪に引きずられてるように見えるが……姉が強引だと大変そうだな」

「うちの子は、いいお姉さんが何人もいますよ。絃くんはお兄さんになってくれるでしょうし。嬉しいですねー」

「まあ、いい子たちだとは思うが」


ただ、女の子たちは三人とも他人を振り回すタイプだからな……。

誰にも負けない強い子に育ってくれることを祈ろう。


「というか、おまえたち。いつまで優子のお腹に触ってるんだ」

「ん-、もうちょっと」

「なんだか安心しますね……」

「あのね、わたしが親分だから、逆らっちゃダメだよ?」

「最後の一人、なにを吹き込んでるんだ、なにを」

「あはは、いいじゃないですか。いっぱい話し掛けてあげてくださいね」

「まあ、いいか……」


凪と弟がこっちに向かって歩いてくる。

そのうち、優子の友達も何人か来るらしい。

本格的に騒がしくなる前に、桜を眺めておくか。


「…………」

 



今年の桜は、やけに綺麗だ。

そして、なにか急いでいるかのようにどんどん散っていく。

春が早く来たように、案外夏になるのもあっという間なのかもしれない。

夏か……。

また、夏が来る。

去年の夏は優子との再会があった。

そして、今年の夏には──新しい出会いが待っている。


…………。


……。

 

太陽が、真上の空でまぶしく輝いている。

かすかに吹く風が、初夏の生ぬるい空気をゆっくりと払っていく。


「優子、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですよ。たまにこうして外をのんびり歩くのもいいですね」
「そうか。でも、暑いから無理はしないようにな」
「はい」


優子は笑顔で頷き、前の墓標を見つめる。

そこには、俺がずっと忘れていた、初めて会った頃の優子の苗字と。

初めて知った、優子の母親の名前が刻まれている。

 

「お母さん、どうもお久しぶりです。ずっとお墓参りに来なくてごめんなさい」
「俺は……初めまして、ですね。火村夕と言います」


俺も墓に視線を向け、挨拶する。

優子の母親は研究者で、震災の日に研究室で亡くなったんだったな。

仕事ばかりの人だったらしいし、父親は誰かわからない──雨宮はそう言っていた。

今まで、優子から母親の話を聞いた覚えがないが……。


「で、お母さん。唐突ですけど、早くもあなたはお祖母さんになることになりました。ほら、ここにいるのが孫です」


優子は大きくなったお腹を撫でながら、からかうように言った。


「この子、お年玉をくれるお祖父ちゃんお祖母ちゃんがいないのがちょっと可哀想ですよね」
「それは問題なのか?」
「子供にはきっと大問題です」


そうかもしれないが、久しぶりに墓前に立って話題にすることでもない気がする。


「優子、そんなことを話すためにここに来たんじゃないだろう」
「まあ、お母さんには悪いんですけど、ぼーっとしてたら急にここのことを思い出したんですよね」
「…………」
「わたしは、妊娠してすぐの頃はちょっとキツかったですけど、そんなに体調がひどくなることもないです。でも、それでもやっぱり大変なこともあって。お母さんもこんな思いをしたのかなーと思いまして」
「母親っていうのは……みんな、大変なものだろ」
「ええ、わたしもようやくそれが実感できてきました。だから、お礼を言わないといけませんよね。お母さん、わたしを産んでくれてありがとう」


優子は、母親の墓ににっこりと微笑みかける。


「あなたが産んでくれたから、わたしは夕くんと出会えました。この子を授かることもできました。ミズキや凪さん、みんなと出会えたのもお母さんのおかげです。本当に……ありがとうございました」
「……ありがとうございました」


そう、俺もこの人に感謝しなくてはいけない。

優子に出会えたことが、俺の人生で一番の幸せなのだから。


「子供が生まれたら、また会いに来ます。子供が大きくなったら、覚えてる限りのあなたのことをお話ししてあげます。だから、安心して眠っていてください。あなたの娘もお母さんになります。夕くんと一緒に幸せに生きていきます」
「ええ、優子と子供は俺が守っていきます。必ず、守ります」
「という感じの、頼りになる旦那様もいますので、なにも心配はいりませんよ」


それから、優子は少しの間だけ黙って──

小さく息を吸い込んでから、口を開いた。


「ええ、本当に大丈夫です。クリスマスにわたしを呼んだのはこの子だけじゃなくて……。わたしが一瞬聞いた声はお母さんだったんですね。心配してくれたんですよね」
「なんのことだ?」
「いえ、まあなんと言いますか──夢のようなお話です」


優子はそう言って、くすりと微笑んだ。

なにか、俺に内緒の話らしい。


「ちょっと短いですけど、あまり無理をすると叱られるので。今日はこの辺で帰りますね」
「もういいのか?」
「はい、言いたいことは言いましたから。では、さようなら、お母さん」
「…………」

 

俺は小さく頭を下げ、優子のそばに寄り添うようにして歩き出す。

ずっと、こうして彼女を守っていく。

優子が母親から命を受け継ぎ、今度は彼女が新しい命を育んでいる。

こうして、命は繋がっていくのだ。

そのついでに、幸せも繋いでいけたらなにも言うことはない。

俺は、優子と子供のために──そして、幸せを繋ぐために生きていこう。

もう間もなく、俺たちの子供は生まれてくる。

本当に、もうすぐだ。


「もうすぐですね、夕くん」
「……ああ、そうだな」


偶然、同じことを考えていたのか。

少し苦笑しながら、俺は優子に頷いてみせる。


「わたしももうすぐお母さんになって、赤ちゃんを抱いてあげるんですよね」
「楽しみだな」
「だから……その前に、一つやっておくことがあります」
「……やっておくこと?」
「きちんと、この手で抱いてあげたいですから……もうおしまいにします」


優子はそう言ってにっこりと微笑むと──

 

春が過ぎて、夏になろうとしている今になっても外さなかった手袋を。


「…………っ」

 



なんのためらいもなく、ごく自然な動作で脱いでしまう。


「これ以上、隠していられません。わたしはこの手で、赤ちゃんにも夕くんにも触れたいんです。はぁ……風が気持ちいいですね。こんなにいいものなら、もっと早くに外しておけばよかったかも」
「優子……」


手袋を外した優子の手には──傷跡はほとんど見えない。

いや、よく見ればうっすらと残ってはいるのだろう。

だが──


「もう大丈夫なんだな」
「はい、これで完全にすっきりです」


優子は既に傷のことを吹っ切っているし、俺だって気にしない。

だったら、そんなかすかな傷跡なんてないのと同じだ。


「優子」
「はい」
「手を繋いでいいか?」
「ふふ、夕くんのほうからお願いされるなんて光栄ですね。もちろんいいですよ」


優子はすっと手を差し出してきて──俺はその手を優しく握る。

柔らかくてしなやかで、さらりとした感触。

あたたかさが伝わってきて、自然と笑顔になってしまう。


「手袋を外すなんて小さなことですけど……わたしは、少しずつでも進んでいきたいです」
「それでいいだろう。まだ慌てることもないさ」


そこまで言って、ふと気づいた。


「優子」
「はい?」
「おまえ、まだ靴下も上手く編めないんだったな」
「あ、それを言いましたね。だって、不器用なんだからしょうがないじゃないですか」
「だったら、俺の勝ちだな」
「え、勝ち?」
「そう、いつかおまえが言ってた勝負だよ。優子が靴下を編めるようになるのが先か、それとも──」
「あー」


すっかり忘れていたらしく、優子はようやく納得した表情を浮かべた。


「え? ということは、夕くん……?」
「ああ、決めた。男と女、どちらも決めたよ」
「ちょっと、決めたなら早く教えてくださいよ」
「まあ、慌てるな。もちろん、ちゃんと教えるさ」
「はい、楽しみですね。どんな名前なんですか?」


優子は、目を輝かせて俺の顔を覗き込んでくる。

気に入ってくれるといいんだけどな。

俺も期待を込めて──

二つの名前を口にした。


…………。


……。

 



「は~、座ると楽ですねえ。ここは天国ですか?」


普段なら教会なんて大した距離でもないが、今の優子には厳しかっただろう。


「別にそんなことないですよ。我が家が一番、というだけです」
「まあ、のんびりしてろ。今日は家のことは俺がやってやるから」
「すみませんねえ……」


素直に甘えられるようになった分、成長したというか妊婦の自覚が出たというか。

なんにしても、いいことだ。



「それで……その荷物は、いったいなんなんです?」
「うーむ」


俺は、墓参りの間にお隣さんが預かってくれていた荷物に目を向ける。

大きめの段ボール箱に貼り付けられた伝票に書かれた差出人は──


「久瀬からだからな……開けずに送り返したらダメだろうか?」
「ダメに決まってるじゃないですか。いいから開けてみてくださいよ」
「仕方ないな……」


一応、あれでも俺の友達なので、久瀬にも優子の妊娠は知らせてある。

たぶん、なにかの出産絡みの品物を送ってきたんだろうが……。


「…………」


段ボール箱を開けて、俺は一瞬固まってしまった。

 



やけに重いと思ったが、なにを送ってきてるんだ、あいつは。

優子の言うとおり、送り返すわけにもいかないので、俺は中身を取り出してセッティングする。

まったく、面倒なことをしてくれる。


「あはは、久瀬先輩らしい贈り物ですね」
「とにかく、普通のことができない奴だよ、久瀬は」

 



セッティングはこんなものか。

後は──


「夕くん、早く聞かせてくださいよ」
「わかってる。ちょっと待て」


久瀬が送ってきたのは、ミニコンポ一式。

それに、レーベルになにも描いていないCDが一枚。

手紙も付けずに、こんな物だけ送ってくるところが、いかにも久瀬らしい。


「えーと、CDをここに入れればいいのか。考えてみれば、CDなんて使ったことなかったな」


貧乏暮らしの身なのだから、音楽に金を使う余裕なんてあるはずがない。

久瀬もそれを知ってるから、コンポごと送ってきたんだろう。


「これが……再生ボタンか」


ボタンを押して、左右のスピーカーから流れ始めた音のボリュームを調整する。

ああ、当然だけれど──

流れ始めたのは、ヴァイオリンの音だった。


「久瀬先輩のヴァイオリンですね……」
「たぶん、ドイツで録音したものだろうな」


去年の夏に聞いた、恐ろしくなるほどに澄んだ旋律。

音楽を知らない俺でも、あのときよりさらに腕を上げているのがわかる。

もちろん、久瀬は上達した技術を自慢するために送ってきたわけじゃないだろう。


「やっぱり、久瀬先輩は凄いですね」
「残念ながらそのとおりだな」
「うん……この子も喜んでるみたいですよ。なんだか、はしゃいでるみたい」
「……そうか」


弾き手の性格はともかく、曲の綺麗さには文句のつけようがない。

胎教にこれを聞かせるのは悪くなさそうだ。


「ああ、最高のプレゼントですね。このままずっと、聞いていたいくらい。ね、あなたもそう思いますよね。素敵な名前と、最高の音楽。今日はいい日です……」


優子はうっとりした顔で、お腹の子に話し掛けている。

とりあえず……久瀬に感謝しておくか。

あいつの音楽には一度救われたのに、また借りができちまったな。

いや──久瀬だけじゃない。

色んな人から借りを作りながら、俺たちは生きているんだ。

もうすぐ、優子は凪の家で世話になることになっている。

やはり、学校と受験勉強に加えて一人で優子の面倒を見るのは厳しいため、凪の手を借りることにしたのだ。

優子の義母もずっとはいられないらしいが、様子を見に来てくれるらしい。


「もうなにも心配はいりませんね」
「え?」
「後は、この子が生まれてくるのを待つだけです。久瀬先輩のヴァイオリンを聞きながら、ゆっくりと待ちましょう」
「そうだな……」


俺は、そっと手を伸ばして優子の大きくなったお腹に触れる。


「もうこっちの準備はできたぞ。慌てる必要はないけど、早くおまえの顔が見たいな」
「パパの顔はちょっと怖いけど、本当は優しいから安心してくださいね」
「おまえな……」
「ふふ、なんだかちょっと眠くなってきました。少し寝ていいですか?」
「……ああ、ゆっくり寝てろ。適当な時間に起こしてやるから」
「はい、ではお言葉に甘えて……」
「音楽は消すか? それとも、もう少し音量を下げるか?」
「このままで、お願いします……」
「…………」


優子は目を閉じると、すぐに眠り込んでしまった。

久しぶりにそれなりの距離を歩いたので、やはり疲れていたんだろう。

まあ、隣近所に迷惑なほどの音量でもないのだし、このまま音楽を流しておこう。


「ふう……」

 



俺も目を閉じて、ゆったりと流れる旋律に身を任せる。

久瀬からの祝福の曲、か──

なあ、聞こえているか?

おまえはみんなに祝福されて生まれてくるんだ。

こんなに幸せなことは、他にないだろう。

世の中には大変なことも、たくさんあるけれど。

きっと、おまえは大丈夫。

優子がいて、みんながいて、俺もいる。

みんなが祝福し、守ってやるから──いつか、おまえも誰かを守れる強い人間になれ。

流れるこの曲のように、時には強く、時には優しく。

それが、俺のただ一つの願いだ──


…………。


……。

 

それから。


それからは、もう語ることはあまりない。

ただ幸せなだけではなかったけれど。

でも、俺たちは一つ一つ障害を乗り越えて。

精一杯笑顔を浮かべて、生きていく。

俺と、優子と。

そして、この子と一緒に──

 



「笑ってるな」
「え?」
「ほら、こんなに嬉しそうにしてるじゃないか」
「あら、本当ですね。さっきまで泣いてたのに」
「お母さんの歌が好きなんだろう」
「いい子ですね」
「ああ、いい子だ」


ささやかだけど、満たされた毎日。

長く長く、いつまでも続いていくあたたかな時間。


「ずっと一緒ですよね。この子と、わたしとあなたで……」
「そうだ、一緒だよ。ずっとな」
「はい……」

 



俺は、我が子の小さな顔を覗き込む。

穏やかな笑顔を浮かべて、優子を見上げている。


「可愛いもんだ。病院で何人も赤ん坊を見たけど、うちの子が一番可愛いな」
「……夕くん、意外と親バカですね」
「子供を可愛いと思うのは、悪いことじゃないだろう」
「そうですね。でも、実はわたしもそう思ってます。この子が一番可愛い」


優子はにっこり笑って、子供の背中を軽く叩きながらまた歌い始める。

ああ、本当に。

本当に、もう言葉でなにかを語る必要もない。

この陽だまりの中で過ごす、穏やかな時間があれば他になにもいらない。

俺のこれからの人生は、この時間を守るために捧げよう。


──神様を信じてはいない。


だけど、時々祈りたくなることがある。

幸せをくれたことへの感謝と。

この先の未来を守るための願いを込めて。

どうか、このささやかな祈りが──

誰よりも愛しい人たちを守ってくれますように。


…………。


……。

 



今日は、やけに空が高い。

太陽がまぶしく輝き、音羽の街を明るい光で満たしている。

ああ、今日も暑いな……。

汗を拭きながら、ぼんやりと立ちつくしていると──


──「おにーさーんっ!」


「ああ、来たか」


無闇に元気な声に苦笑しつつ、俺は小さく手を上げる。

 



「お久しぶりです、お兄さん。羽山ミズキ、参りました! お迎えご苦労さんです!」
「まったくだ。別に道がわからないってわけでもないだろう」
「うわー、相変わらず厳しいですね。いくら向こうと作りが同じでも、やっぱり一人じゃ不安ですよ」
「その程度のことで不安がるようなタイプじゃないだろうに」
「あの、お兄さん、わたしを誤解してません? これでもか弱い女の子なんですよ?」
「そういえば、音羽に入ってからバスケを始めたんだったな。調子はどうだ?」
「いやー、1年のときに景先輩の悪夢のしごきを受けたおかげで、いくらでも走れるタフな身体になっちゃいましたよ。しかも、景先輩直伝のレバーブローでちょこざいなヒロ先輩も一撃で……。って、なにを言わせるんですか、なにを!」
「まあ、おまえがか弱くないことはよくわかった」
「うう、お兄さんってば相変わらず意地悪ですよね。わたしも、小さい頃からずっといじめられてるし……」
「強くなれたのは、景のおかげだけじゃないだろう。よかったな」
「わたしの周りは鬼ばかりです……ううう」


わざとらしい泣き真似をしているミズキも相当なものだと思うがな。


「それより、行くぞ。ここでじっとしていても暑いからな」
「わ、待ってくださいよ。言葉も通じないのに、置いていかれたらホントに泣いちゃいます」
「日本人が多いから大丈夫だ。いやでも、ミズキは日本人ともあまり言葉が通じないか」
「なんてことをおっしゃいますかーっ! わたしはこう見えても、友達めちゃくちゃ多いですよ! コミュニケーションもばっちりですよ! 先輩にも可愛がられてるんですから!」
「そういえばミズキは、小さい頃から年上に懐いてるな。まあ、最初の最初はひどかったが」
「あー、あれはほら、あれですよ」
「どれだ」
「あの頃は、わたしも若かったと言いますか。突っ張りたいお年頃だったんですよ」
「そういうことにしといてやるか」
「もー、お兄さんはいつまでもわたしを子供扱いしすぎですよ。今や、立派なレディなのに」


そう言って頬をふくらませるところを見ると、まだまだ子供っぽさが抜けない。

だが、最初に出会った頃のことを──ミズキに辛いことがあった頃のことを笑って話せるようになった。

それはきっと、いいことなのだろう。


「それに、お兄さんはまだご存じないみたいですね」
「なにをだ?」
「確かに、わたしは年上の女の人が好きです。大好きです」
「真っ昼間からそんな告白をされてもな……」
「でも、わたしだって成長したんです。今は、年下の女の子だって大好物なんですよ!」
「さ、今度こそ行くぞ。ああ、まったく暑いな」
「スルーしないでくださいよ! みやこ先輩並に人の話を聞きませんね!」


ミズキが慌てて、俺の後についてくる。

みやこ、というのはミズキが1年ほど前に知り合いになったとかいう、絃の彼女の名前だったかな。


……。

 



だいだい、慌てなくてもいいでしょう。暑いけど、かーっと照りつけるお日様が最高じゃないですか」
「冬の日本から来たからそう思うだけだ。こっちは、ずっと暑くて参ってるんだよ」
「暑さくらいでへばらないでくださいよ。お兄さんも歳取っちゃったんですねえ」


こいつは、昔とはだいぶ性格が変わったが、生意気なところは変わってないな……。


「それにですね」
「まだなにかあるのか」
「せっかく、お兄さんが作った街に来たんです。じっくり見たいじゃないですか。急ぐのはもったいないです」
「……別に俺が一人で作ったわえけじゃないさ」
「向こうの音羽とまったく同じですけど、やっぱり作るのは大変だったんですよね。わー、凄いなー」
「おまえもあまり話聞いてないじゃないか」
「飛行機に乗って、ぶーんとやって来たはずなのに同じ街があるとか、不思議な気分ですねえ。堤先輩の野郎なら、さっそくカメラを取り出すところでしょうね」


ミズキは物珍しそうに、辺りをきょろきょろと眺めている。

まあ、向こうとこちらの音羽も、まったく同じに見えて微妙に違うところもあるからな。

ほとんどの人間は気づかない違いに、意外と鋭いミズキは気づいているのかもしれない。


「ねえ、お兄さん」
「ん?」
「グッショブですよ。ついに、お兄さんの夢が叶ったんですね」
「……まだこれからさ


学生の頃に、この第2の音羽建設計画に関われたのは幸運だった。

まだまだ、ここでの仕事は続いていくが、勉強することもいくらでもある。

夢が叶ったと言えるのは、当分先になりそうだ。


「まあ、ついでだから少し遠回りしていくか。確かに急ぐ必要はないからな」
「さっすがお兄さん、話がわかりますね。実はわたし、ちゃんと調べてきたんですよ。美味しいソフトクリーム屋さんがあるんですよ」
「おまえはいったい、なにをしに来たんだ」
「やだな、そんなの決まってるじゃないですか」


羽山ミズキは、これ以上ないくらいの明るい笑顔を浮かべて。


「わたしの大事な人たちに会いに来たんですよ」


…………。


……。

 



「おーっ、ここも向こうの音羽そのまんまですね」
「……おまえ、本当に鍛えてるんだな」


ソフトクリーム屋だけでなく、あちこち連れ回してやったというのに、ミズキはまったく疲れた様子もない。

景のしごきに耐えきったというのは本当らしいな。


「でも、ここでいいのか? 先に蓮治のところに行ってもよかったんだぞ」
「ああ、アレですか。アレとおばさまのところへは、ちゃんと後で挨拶に行きますから。それより、この教会を見たかったんですよ。大好きな場所ですから。色んな思い出がありますしね」
「思い出、か……」
「実は、今でもあのときのお人形、大事に持ってるんですよ。さすがにボロくなっちゃいましたけどね」
「それはしょうがないだろう。あれから何年経ってるんだ」


立派なレディかどうかはともかく、あの小さかった未来が、こんなに手足も伸びきってるんだからな……。

いつの間にか、時間ってやつが流れてしまったな。


──「あーっ、ミズキちゃん!」


「ほえ?」

 

「ミズキちゃん、いらっしゃーい!」
「きゃーっ、聖(せい)ちゃんだ! お久しぶりーっ!」
「きゃっほーうっ!」
「…………」


教会から飛び出してきた聖とミズキが、がっちりと抱き合って再会を喜び合っている。


「もーう、聖ちゃんは可愛いなぁ! 大きくなったね!」
「うん、すぐにミズキちゃんよりおっきくなって、パパのお嫁さんになるの!」
「いやー、パパなんかどうでもいいから、わたしのところにお嫁に来て!」
「そしたらパパと浮気しちゃいそう! あたし、悪い女になっちゃうよ!」


まあ、楽しそうだから水を差したくないが……この二人、やけに似た性格に育ったな。

ミズキが年下も好物というのも、本当のようだしな……。


「あ、でも、ミズキちゃんも悪い女だね。あたしのパパとデートしてたの?」
「デートだなんて。いつも仏頂面をしてるお兄さんに、ちょっと潤いをあげただけで」
「あー、パパは目つき悪いからねー」

「放っておいてくれ」


俺は、その悪い目つきで我が娘──火村聖を睨みつける。

クリスマスにちなんだ名前をつけた、俺の一番の宝物。

彼女の日々成長していく姿を見ることが、なによりの喜び──

だったはずなのだが。


「ミズキちゃん、ありがとね。パパにいじめられなかった?」
「あー、それはもう。お兄さんは厳しいからね」


成長と同時に生意気になっていく姿には、多少の複雑さを感じないでもない。

だが、それも仕方のないことだ。

なぜなら──


──「わっ!」

 



「うわっ、お姉さん!?」

「ママ!」


突然、どこからか現れた優子が、聖とミズキをまとめて抱きしめている。

もう優子も大人だというのに、こういういたずらっ気が抜けない。


「お姉さん、お久しぶりです。相変わらず神出鬼没ですね!」

「驚かせるのがわたしの趣味ですから。ミズキ、ちょっと背が伸びましたね」

「ええ、絶賛成長中ですから。他にも色んなところが大きくなってますよ」

「ほうほう、それは興味深いですね。今日は一緒にお風呂に入りましょうか」

「ママ、あたしもあたしも一緒に入る!」

「聖は毎日一緒に入ってるじゃないですか」

「あっ、それは言っちゃダメなのに!」

「ふふ、うちの子はいつまでも甘えん坊さんで困ってるんですよ」

「ぎゃー、可愛いじゃないですか! 聖ちゃん、わたしにももっと甘えていいんだよ?」

「みんなであたしを子供みたいに!」


いや、子供だろう。

娘は、こんな感じでみんなに甘やかされている。

いい意味で言えばのびのびと、言い方を変えれば自由奔放に育ちつつある。


「あ、そうだ。ちょこっと聖ちゃんを借りていっていいですか?」

「ええ、それはかまいませんけど……」


優子がちらりとこっちを見たので、俺は頷いてみせる。

聖がまだ子供でも、住み慣れた街で一人歩きさせられないほど小さくもない。


「今思い出したんですけど、千尋さんに美味しいクレープ屋さんがあるって教えてもらったんです。聖ちゃんと二人で食べに行きたいんですよ。もちろん、わたしがおごっちゃいますよ」

「さっきソフトクリームを食べただろう」

「わたしの別腹は特別製ですから。じゃあ行こうか、聖ちゃん」

「うん。行ってきます、パパ、ママ」


そう言って、聖はにっこりと笑顔を浮かべる。

生意気だろうと奔放だろうと──

この笑顔一つですべてを許せる気になってしまうのだから、俺も相当な親バカだ。


「はい、気をつけてね、聖」

「ああ、行ってこい」


……。

 

二人を見送ってから、俺たちは教会の中に入った。

中の空気は涼しくて、汗がゆっくりと引いていく。

 



「今さら言うのもなんですけど、聖たち大丈夫でしょうか?」
「ん? 別に問題ないだろう。ミズキはともかく、聖は言葉も通じるしな」


こちらの音羽に移住して何年にもなり、聖はすぐに新しい環境にも馴染み、言葉も覚えた。

実際、優子より聖のほうがこちらの言葉を流暢に話すくらいだ。


「いえ、あの二人はちょっと元気すぎるので……なにかトラブルでも起こさないかと」
「心配性だな、優子は。確かに聖はすぐに甘えてくるけど、優子が甘やかしているからだろう」
「うーん、できれば厳しい母でありたいんですけどね」
「無理だな」
「そんなにきっぱりと!」
「もう何年子育てしてると思ってるんだ。ずっと甘やかしっぱなしじゃないか」
「そういう夕くんだって過保護でしょう。というか、久瀬先輩や蓮治くんが話し掛けただけで嫌そうな顔をしてますよね」
「いや、悪い虫は早いうちに摘み取っておかないとだな……」
「いくらなんでも、そんな心配は早すぎますよ」
「う……」


理性では、それはわかっているんだが。

どうしても、聖の周りに男がいるだけでイラっとしてしまうのだよな。


「まあ、今のわたしたちの心配事なんてそのくらいですからね。平和なものです」
「重要なことだぞ。だいたい、俺には仕事での心配事もいくらでもあるしな」
「夕くんなら、全部解決してしまいますよ。そんなことより──」
「ん?」
「今日がなんの日か、わかっているでしょう?」
「もちろんだ」


夏に迎えるクリスマスもいいですね──

もうずっと遠くなってしまった日に、優子から聞いた言葉。

俺たちは、いつか必ず一緒に過ごそうと話した、不思議なイベントが起きる街にいる。

そう、約束は果たされたんだ──


「夜には、久瀬先輩がここで演奏されるらしいですよ。聖も楽しみにしてるみたいです」
「胎教で聞かせすぎたか。ちょっと、久瀬の演奏を気に入りすぎだな」
「わたしも楽しみですよ。でも、夜までは……ミズキが二人きりにしてくれましたからね。たまには、わたしとのんびりしませんか?」
「……おまえは、いつものんびりしてるじゃないか」
「あはは、こんな日にもきっぱり言いますね」


なぜか優子は、嬉しそうに笑ってから。


「まあ、夕くんらしいですね」

 



そっと、俺の胸に手を置いてきた。


「聖もミズキも成長したが、俺は変わらなかったってことかもな」
「夕くんはそれでいいんですよ。強くて優しい夕くんのままで……」
「…………」
「聞かせてください、あの言葉を」
「……ああ」


昔は、上手く言えなかった言葉。

いつの間にか言えるようになった言葉。

年に一回だけ──この特別な日にだけ、俺は彼女にささやく。


「優子、俺はおまえを──愛してる」
「夕くん……違いますよ、それ」
「え……?」
「永遠に、が抜けています」
「……今年から、追加要求がくっついてくるのか」
「もちろんです。わたしは、どん欲に幸せを欲しがりますから」
「仕方ないな……」


俺は、小さくため息をついて、優子の顔を見つめる。


「来年言ってやる。覚えていたらな」
「……うーん、しょうがないですね。それで我慢してあげましょう」
「偉そうだな……」

 



「ふふ、わたしのほうもちゃんと言いますね。夕くん、わたしもずっとあなたを──愛してます」
「……永遠に、はどうした?」
「実は、聖の夏服が一着ほしくて……」
「おまえのほうは脅迫して言わせる気か」


自分がほしいものを要求しないだけ、まだマシだと思うべきか。

優子は、この数年ですっかりたくましくなった。

母は強し、というやつだろうか。


「それじゃあ、さっそく買いに行くか。クリスマスプレゼントなんだろう?」
「最近は、あの子もお洋服を自分で選びたがりますけどね。たまには、わたしも選んであげたいんです」
「聖の着せ替えがおまえの趣味だからな」


俺は笑って、小さく首を振った。

正直なところ、クリスマスプレゼントをどうしようか、未だに迷っていたので助かったところもある。


「行こうか」
「はい」


俺たちは教会の通路を並んで歩き──

扉をゆっくりと開いた。


「わ、まぶしい。教会の中は暗かったですからね」
「夏だしな。それに、今日はいい天気だ」
「ふふ……夏のクリスマスは、やっぱりいいものですね」
「聖なんかは、夏のクリスマスが当たり前みたいに思ってるらしいけどな」    
「あはは、来年のクリスマスは向こうの音羽で過ごしてみましょうか」
「それもいいかもな」


優子にもらったマフラーを、クリスマスに使えなくなって数年経つ。

たまには、冬のクリスマスもいいだろう。

 



「凪さんもアメリカから戻ってるらしいですしね。久しぶりにお会いしたいですよ」
「クリスマスを待たなくても、凪はこっちに遊びに来るだろ。あいつも、聖がお気に入りだからな」
「うちの娘は、すっかりみんなのアイドルですね」
「そりゃ、うちの娘だから当然だ」
「せっかく、夕くんが男の子の名前も考えてあったことですし、そろそろ二人目といきますか?」
「ま、まあそのうち……」
「照れなくてもいいじゃないですか。夫婦なんですから」
「まったく……」


聖も手がかからなくなってきたし、今度は自分たちの力だけで出産も育児もできる。

なにも問題はないし、真面目に考えてもいいかもな。


「あ、そういえば一つ大事なことを忘れてました」
「ん? なにかあったか?」
「ええ、とても大事なことです」


そう言って、優子はにっこりと笑った。


「メリークリスマス、夕くん」
「……ああ、それを忘れていたな。メリークリスマス、優子」


太陽が輝く夏の空の下で、俺たちは笑顔を向け合う。

特別な日の、なんでもない挨拶。

とてもささやかなことだけれど、俺たちにとっては大切なことだ。

 



俺と優子がずっと求めてきたものが──今、当たり前のようにここにある。

音羽の街はこんなにも綺麗で、大切な人たちがいつもそばにいてくれる。

これからも歩いていこう。

もっともっと、幸せになるために。

今日も、光があふれている──