ゲームを読む。

-ノベルゲーム・タイピング-

天使の日曜日 Angel's holiday “ef - a fairy tale of the two.” Pleasurable Box.【6】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


--------------------

 

 



美術室には、独特の空気が漂っている。

絵の具や使い込まれた木製机、何年も前から置きっぱなしの油絵やスケッチブックの匂いのせいだと思う。

久瀬なんかはあまりこの匂いが好きじゃないらしいが、俺はそこそこ気に入っている。

だからかもしれない。

放課後になれば毎日ここに足を運び、いつまでも絵を描き続けてしまうのは。

 



「ふむ……」


一息ついて、デッサンしていた石膏像から目を離す。

アグリッパの顔はどうも神経質そうに見えて、長時間向き合っていると気が滅入ってくる。

石膏像としては描きやすい部類らしいが、俺には難しいしな……。


「やれやれ、まだまだだな」


苦笑いしたそのときに──


──「お、夕。ちゃんとやってるな、感心だ」

 



Another Story 2. ふたりで描く明日
 feat. Nagi Hirono.

 



がらりと美術室の扉が開いて、広野凪が入ってきた。

いつも表情に乏しい顔に、珍しく笑みが浮かんでいる。


「毎日毎日きちんと描いて、血反吐をはいたその先に絵描きへの道が開かれてるんだからな」
「血塗られた道にもほどがあるな」
「それがいいんじゃないか。僕は赤が好きだしな」
「そんな問題でもないと思うが……」

 



「さて、と……」


俺のツッコミはさらりと流して、凪はカバンを無造作に床に放り出す。

そして、制服のリボンに手を掛けた。


「……って、待て、凪! おもむろに脱ごうとするな」
「どういう感じで脱げば、夕は満足するんだ?」
「脱ぎ方の問題じゃない! 脱ぐなと言ってるんだ!」
「僕が脱ぐからって、そんなに興奮しなくても」
「おまえ、俺の話を聞いてないだろ!」
「うん、夕に限らず、人の話を聞いてないとよく言われる。でもちゃんと聞いてるんだぞ。僕は聞いた言葉を絵に変換する作業をしてるから、反応が遅れるだけで」
「言葉は人類最大の発明だ。有効に使え」


もしかして有史以前の思考形態を持っているのか、こいつは。

というか、話をまともに聞いてないことに変わりはなさそうなんだが。


「とにかく、だ……。自分の裸をデッサンするのは百歩譲って許そう。でも、そういうことは家でやれ、家で」

 



「つまり、僕の家に来たいというわけか」
「……中途半端に話を聞かれるのも困るな」


芸術家なんて自分勝手で、人間の言葉が通じない奴らばかりだ。


──人様に対してそういう偏見を持ってはいけない、と妹に教育してきたのに。

凪の近くにいると、俺のほうが認識を改めてしまいそうだ。


「まあ、いずれ家には来てもらうとして。今日のところは……」
「そうだな、石膏デッサンの続きをやろう。悪いが、凪。ちょっと見ていてくれないか」
「うん、いいぞ。未熟な人間に指導も、勉強になるからな」
「……助かるよ」


なんと言われようと、隣で裸になられるよりはいくらかマシだ。

それに──

 



「うーん、やっぱりまだカタチが取れないんだな。構図がマシになってきたと思ったら、今度はこっちか」
「一つ直したら別のところがおかしくなる感じだな」
「最初はそんなものだ。少しずつやっていこう。まずは、ここを──」
「ああ」


凪は、自分の裸をデッサンしたり、おかしな行動を取ることを置いておけば、絵の師匠としては最高だ。

有名画家の娘で、小さい頃から絵の教育を受け、数々のコンクールで賞を総なめにしてきた天才少女。

考えるまでもなく、とんでもない幸運なんだよな。

デザイナーを目指す俺の近くに、凪がいてくれることは──


…………。


……。

 

 

 

 



「うーんっ、今日も面白かったな」
「俺は、ちょっと腕が……」


凪にせっつかれて描きまくったせいで、腕がひどく痛む。

これでも少しは鍛えてるのに、絵を描くっていうのは大変なもんだな……。


「なあ、夕。今夜はなにが食べたい?」
「待て。まるで、俺がナチュラルにおまえの家で飯を食ってるみたいに訊くな」


凪から夕食に誘われたことは一度や二度じゃないが、今まで受けたことはない。


「なんだ。まさかとは思うが、今日も食べに来ないつもりか」
「今日まで断り続けてきて、なんで唐突にOKするんだよ」
「突然、芽生える気持ちだってあるだろ」
「少なくとも、俺には芽生えてないな」


別に、凪と飯を食うのが嫌なわけではない。

ただ、よその家庭の団らんに割り込むのもどうかと思うし、おまけに凪の家には広野画伯がいるので、気を遣いそうだからだ。


「そうか……残念だ。毎日、夕の分も作って、テーブルにそっと並べているのに」
「なんか怖いぞ、それ!」


隠膳(かげぜん)じゃあるまいし、演技でもない。


「心配するな、父の夜食に回したり、翌日のお弁当に詰めたりしてる。食べ物を粗末にする僕ではない」
「それはいい心がけだが、そういう問題でもない……」
「ところで、夕。言い忘れてた話があるんだ」
「いきなり話を変えるな。まあ、いいが」


延々と、夕食の話をされるよりはいくらかマシだろう。


「えーと、なんだったかな」
「今、言おうとしたところだろう。いきなり忘れるなよ」

 



「ちょっと待ってくれ。確か、この辺りに……」


凪はおもむろにカバンを開けて、ごそごそといじり始めた。

カバンの中には教科書や、なんだかわからない紙がぎっしり詰め込まれていて、ぱんぱんに膨れている。


「おまえ、もう少し整理しろよ。いらないものは捨てて、必要ない教科書は家に置いてこい」
「夕は細かいな……いいんだ、なにも捨てなければ、大事な物を無くしたりしなくて済む」
「いいことを言ってるつもりかもしれないが、大ざっぱなだけに見えるぞ」
「お、あった。ほら、ちゃんとあるだろ。僕のやることに間違いはない」
「なんで偉そうなんだ……」


俺は文句を言いつつ、凪が差し出してきたチラシらしきものを受け取る。

 



「なんだこれは?」
「見てのとおりの物だ。よく読んでおくようにな」
「絵画コンクール……?」


チラシには、でかでかと『あなたの街を描こう!』と適当なコピーが踊っていて、バックには音羽の街並みの絵も描かれている。

「そう、音羽市が主催の水彩画コンクールだ。参加資格は、音羽市に住んでいることだけ」
「ふうん……」


要するに、すっかり観光都市と化した音羽が、珍しい街並みをさらにアピールする活動の一環ってわけか。


「参加資格が緩いということは、その辺のカルチャースクールで描いてるようなド素人たちもたくさん参加するということだ。適当に蹴散らして、自信をつけるにはちょうどいい機会だろう」
「おまえ、意外と黒いこと考えるんだな……」
「心に黒さを秘めていない絵描きが存在するものか」


そんなにきっぱりと言われても困るな……。

というか、絵描き自身が偏見を助長するようなことを言ってもいいのか。


「夕は、子供の頃から何百枚と、この街を描いてきたんだろう? だったら、いいところまでいけるかもしれない」
「いいのか、それで?」
「なにがだ?」


凪はきょとんとして、首を傾げる。


「俺は、本格的に絵を描き始めてまだ1年と少しだぞ。コンクールで入賞なんかして、天狗にでもなったら困るだろう?」
「その発想はなかったな……」


今度は、しばらく考え込んでいたかと思うと──


「まあ、いい。思いつかなかったことは、どうでもいいことだ」
「おまえ、本当に人の話を聞かないな」
「大事なことなら自分で気づく。それより、夕にとってもコンクールに出るのはいいことだぞ」
「俺は、こういうのには出たことないんだが……」
「ずっと石膏像ばかり描いていて、さすがに飽きてきたところだろう。壁にもぶつかってるんじゃないか?」
「まあ、な」


基本をおろそかにするつもりはないから、デッサンの勉強はしっかりやると決めている。

だが、少々うんざりしてきているのも事実だ。


「気分転換にもなっていいだろう。ついでに勝てれば、さらにいい気分になれる」
「さすがは、俺の師匠だ」


俺は笑って、チラシに目を向ける。

このコンクールにはお祭り騒ぎ的なところもあるようだし、プロや凪のようなセミプロはほとんど参加しないだろう。

入賞は難しいにしても、上位に入れたら──


「入賞できなかったら、なにをしてもらおうかな……」
「おい。なにを普通に罰ゲームを考えてるんだ」
「ペナルティがあったほうが燃えるだろう?」
「普通にやらせろ、普通に!」

 



「や、やるってなにをだ……?」
「なんでそこで照れるんだ、どんな誤解をしてるんだ! 話の流れを考えればわかるだろうが。わざとやってるんじゃないのか、凪」
「僕は嘘もつけないし、人を陥れるようなことはしないぞ」


……そう、広野凪はまったく悪気のない人間だ。

それがわかっているから、頭が痛くなるような会話にも付き合ってるんだしな。


「まあ、実はそれ、なぜか僕のスケッチブックに挟んであったんだよな」
「は?」
「もちろん、僕がどこからか入手して、忘れたわけじゃない。誰かが間違って挟んだのかな」
「…………」


考えてみれば、コンクールなどに興味のない凪がチラシを持っていたのも変な話だ。

もしかして、どこぞのヴァイオリン弾きの小細工かな……。


「それで、どうする? 夕は出るのか?」
「そうだな……」


考えるまでもなく、答えは決まり切っている。

凪とあいつの気遣いを無駄にするほど、薄情な人間にもなりきれないし……。

なにより、コンクールというのは面白そうだ。


…………。


……。

 



「ただいま」


……。

 



部屋に誰もいないのはわかっているが、一応声を掛けてから入る。

変に礼儀正しくなってしまうのは、施設でしっかりしつけをされてきたからだろうか。


「ま、悪いことじゃないだろう」


ただでさえ、「顔が殺し屋みたいだ」とか言われてるくらいだ。

態度で普通の人間であることを示さないと。

そんなことを考えつつ、カバンを畳の上に置き、ポストから持ってきた郵便物の束を一つ一つ確認する。


「今日はけっこう来てるな」


電気代の請求書に、くだらんダイレクトメールが3通も……。


「これはいらない。これも……なんで俺がマンションなんか買うんだ。相手を考えてから出せって……お、茜から手紙か」

 



俺は他の手紙をすべて投げ出して、茜からの手紙の封を切る。


「…………」


年頃の女の子らしい、丸みを帯びた、ちょっと見づらい字。

最初に俺が字を教えたときのことを思うと、なんとなく感慨深くなってくる。


「いや、読まないとな。えーと……」


妹も俺と同じく礼儀作法を教え込まれているからか、最初は兄への手紙とは思えないほど丁寧な挨拶が並んでいた。


「やれやれ、堅苦しいもんだ……えーと……『こちらの学園にも慣れ、寮でも良いルームメイトに恵まれ、楽しく暮らしています。憧れの女子高生活は、想像とは違った部分も多いですけど、なにもかもが新鮮です。でも、おにいちゃんがいない毎日は、ほんの少しだけ寂しいです。ごめんなさい、ちょっと弱音を吐いてしまいました。茜は大丈夫です。友達もたくさんできたので、すぐにお兄ちゃんのことなんて忘れちゃうかも。なんてね』……。まったく……手紙の中で落ち込んだり、立ち直ったりするなよ」


これは、早めに返事を書いてやったほうがいいな。

そろそろ自分も独り立ちしたい──なんて偉そうに言って、全寮制の女子校に入ったくせに、困った奴だよ。


「茜の奴は、寂しがり屋なんだよな……」

 



でも、それも仕方ないことだろう。

 



うちは、あの震災でなんとか家族全員助かったけれど、家を失い、両親は仕事まで無くしてしまった。

その後、俺と茜は施設に預けられて育ち、両親は遠くの町で働き口を見つけ、今もそこにいる。

 



震災から数年経って、俺たち兄妹も進学を機に施設を出ることになった。

 



俺は音羽学園に通いつつ一人暮らし、茜は学校の寮に入り──要するに、家族はバラバラになっている状態だ。


「なかなか、家族みんなと直接会える機会はないからな……」


茜が寂しがるのも無理はない。

親は忙しいようだし、俺がフォローしてやらないと。

俺はカバンから筆記用具を取り出し、手紙の文面を考え始める。


「そうだな──コンクールのことを、あいつにも教えてやるか」


俺は、ちゃぶ台の上に置いた便箋にペンを走らせる。


茜へ

元気でやっているか?

こちらも色々あるけど、それなりに上手くやっている──


…………。


……。

 

「ふあ……」


登校する学生たちに混じって歩きながら、俺はあくびを嚙み殺す。

昨夜は手紙を書くのに手こずったせいで、なかなか眠れなかったからな……。

 



「よー、火村。おっはよう。おまえを寝かせてくれなかった、いけない子猫ちゃんはどこのどなたかな?」
「…………」


これでも俺は学費免除の特待生なのだから、遅刻なんてするわけにはいかない。

まだまだ大丈夫な時間だが、一応急いでおこう。


「って、おい! 無視するなよ!」
「無視してるんじゃない。俺の中では、おまえは感動的にこの世を去ったことにしてるんだ」
「余計ひどいだろ! ちなみに、俺の死にどんなドラマがあったんだ!?」
「結婚式の日に教会の鐘が転がり落ちてきて、下敷きになり死亡だな」
「幸せの絶頂に壮絶な死に様じゃないか、ちくしょー!」


久瀬は拳を握りしめて、大げさに悔しがる。


「朝から騒がしいな、おまえは……」
「おまえの下手くそなジョークを聞かされりゃ、騒ぎたくもなるだろう」
「そりゃ悪かったな。俺は真面目なんだよ」


付き合ってられないので、さっさと行こう。


「待て待て。せっかく会ったんだし、一緒に登校しよう」
「まあ、別にかまわないが」
「一緒に登校できる機会なんて、もう何回もないだろうしね」
「そういえば、1学期いっぱいだったか?」


俺はカバンを持ち直しながら尋ねる。


「ああ、もうすぐだ。まだまだ先だと思ってたけど、気づけばあっという間だな」
「ちゃんと準備はしてるんだろうな?」
「重たい荷物なんていらないさ。ヴァイオリン一つあれば充分だ」
「……それもそうだな」


この男、久瀬修一は凪と同じく、1年のときからの付き合いで──

そして、間もなく久瀬は音楽留学のためにドイツへと旅立つ。

バカなやり取りができるのも、後少しだけってことだな。


「ところで、久瀬」
「あいよ」
音羽で今度、絵画コンクールがあるんだが」
「へーえ。ああいうコンクールっていうのも、なにかで儲けが出たりするもんなのかねえ」
「……知らん」


このすっとぼけた口調……。

だが、かすかに見える不自然な態度……。


「おまえも、いらん世話を焼いてないで自分のことだけ考えてろ」
「だいたい、俺はいつもそんな感じだけどね」


この男は独自の情報網を持っているから、どこかでコンクールのことを聞きつけたんだろう。

そして、俺の絵画修行が決して順調じゃないことも知っているからな……。


「いやあ、それにしても暑い暑い。朝からこれじゃ、たまらんね」
「そうだな」


この男も、なにを考えてるのかわからん」

ろくでもない奴だが、バカじゃないから手に負えない。


「お? 火村、なんで笑ってるの?」
「いいや、笑ってない」


俺は首を振って、さっさと歩いていく。

おまけに変に鋭いから、やりにくくてかなわないな……。


…………。


……。

 



「凪の奴、まだ来てないみたいだな」
「いつものことだろう。まあ、適当なところで出てくるんじゃないか?」
「そやね。あいつ、サボリは多いけど、サボるつもりは微塵もないって言ってたし」
「本人曰く、『学校のことをすっぱり忘れてしまう』らしいな」
「信じられない話だけど、凪の場合だと信じちゃいそうだな。まったく、絵描きって変人ばっかなのかね」


──「音楽家だって、まともな人間なんか数えるほどだろうが」

 



「おや、凪さん。おはよう」


久瀬はなんでもない態度で、さわやかに挨拶する。


「悪口を並べてた相手が目の前に現れても、顔色一つ変えずか。大したツラの皮の厚さだな」

「分厚い皮で、ガラスのハートを包み込んでいるのさ」

「何度フラれても砕けないところを見ると、そのガラスも相当分厚そうだ」

「待て、凪! それは違うぞ! 俺はフラれたことなんてない。そしてフるときも紳士的に優しく、後腐れのないように!」

「それは、君の都合じゃないか。女に恨まれたくないだけだろう」

「うっ……」


凪に睨まれ、久瀬はびくりと肩を震わせる。

久瀬は自他共に認める女たらしだが、凪だけは苦手としているらしい。


「ああ、そうだ、夕」

「ん?」

「例のコンクールのことだけど」

「ああ、どうかしたのか?」

「実は締め切りまであまり時間がないからな。今日から毎日がっつりやるように」

「本気だな、凪……」

「ご存じのとおり、僕はいつでも本気だ。授業が終わったら、まずは美術室に来い。道具を揃えないとな。顧問にも話したけど、邪魔だから僕らで勝手にやると言ってある。集中して描けるぞ」

「顧問っていうのは、こういうときに指導するのが仕事じゃないのか……?」

「夕の師匠は雨宮先生じゃなくて、僕だ。最初から最後まで、全部僕が教えてやるから、安心しろ」

「まあ、それはありがたい……」


一応、俺も凪も美術部所属だが……。

考えてみれば、顧問に指導を受けた記憶なんてほとんどない。


「火村、今後も苦労が絶えそうにないねえ」

「せっかく、苦労のタネが一つ消えてくれるのにな」


俺は久瀬に鋭い視線を向けてみる。


「俺の心は、いつでも火村のそばにいるよ?」

「……教会でお祓いでもしてもらうか」

「悪霊扱いかよ!?」

「さあ、席に着こう。すぐに先生が来るからな」

「僕も今日は真面目に授業を受けよう」


凪はどうせすぐに飽きて、ノートに落書きを始めるに決まってるが。

座っていれば、とりあえず出席になるからな。


…………。


……。

 

 

 

 

放課後──


蒸し暑い廊下を美術室に向かって歩いていると、唐突に甲高い声が響いた。


──「おーい、ひっむらくーん!」

 



「……雨宮先生」


ばたばたと階段を駆け上がってきたのは、音楽教師の雨宮明里先生だった。


「ふー……はぁ……」


彼女は俺の前で立ち止まり、ゆっくりと息を整える。


「別に慌てて来なくても逃げたりしませんよ」

 



「まあ、確かに君は逃げるより押しのけるタイプだけどね」
「人聞きの悪いことを……」


俺は、雨宮先生を睨みつける。

まったく、この人は俺を誤解しているというか、悪者にしたがるというか。


「相変わらず、白衣姿なんですね」
「まあね」


雨宮先生が音楽教師だと言われて、すぐに信じる人は少ないだろう。

この人は、校内では基本的に白衣を着てうろうろしている。


「しょうがないよ。兄貴が『お揃いがいい』とか泣きながら頼んできたから。おかしいよね、我が兄ながら」
「その要望を受け入れる先生もだいぶ変わってますよ」
「教師の仕事って、けっこう服が汚れたりするからね。慣れれば、悪くないのよ。それよりも……雨宮先生って呼び方はやめなさいって言ったでしょ。それだと、うちの兄貴と区別がつかないよ」
「別にどちらも雨宮先生、でかまわないでしょう」
「もー、照れずに『あかりん先生』って呼んでもいいのになあ」
「それで、どうしたんですか? なにか俺に用でも?」

 



「ああっ、火村君の……そのどうでもいい物を見る目つきが好きなの……」


うっとりとした顔で、熱い視線をこちらに向けてくる。

実に鬱陶しいので、俺はその視線からすっと目を逸らす。


「……教師が軽々しく、生徒に好きとか言わないほうがいいですよ」
「私はそういうことが許される、奔放なキャラだから」


偉そうに胸を張って、雨宮先生はきっぱりと言い切った。

やれやれ……。


「芸人じゃないんですから、キャラとか作らないでください、明里先生」
「お、さりげに妥協して呼び方を変えてくれてるね」
「呼び方のことくらいで、いちいち注意されたくないですから。それより……本当に用はないんですか?」
「用がないと話し掛けちゃいけないような態度は、先生好きじゃないな」
「俺、部活があるんですよ」
「ああ、美術部? 火村くんって、確かデザイナー目指してるんだっけ」
「先生方にはあまり良く思われてないみたいですけどね」
「うん……?」


しまった、つい皮肉な口調になってしまったかもしれない。

ただ、今言ったことはまぎれもない事実だ。

一応、入学から学園首席を維持してきた俺が芸術系の進路を選んだことは、教師陣にはあまり面白くないらしい。


「ふむふむ。だいぶ、気にしてるみたいね」
「いいえ。どう思われたって知ったことじゃないですよ。俺の進路なんですから」
「おーおー、かわいげのないこと」


明里先生はニヤっと笑って、俺の肩をぽんぽんと叩いてくる。


「私は知ってるよ。火村くんは、ツラの皮が厚そうに見えて、意外と気を遣うタイプだからね。だから、先生方の期待を裏切っちゃうのも、それはそれで後ろめたいんでしょ」
「…………」


さすがに、この人には見抜かれてしまうか。

ある意味では、俺と明里先生は普通の教師と生徒の関係じゃないからな……。


「でもね、火村くんよ」
「なんですか」
「明里先生は、なにも問題ないと思うわよー。君が適当に進路を選ぶ人間じゃないことくらい、よーく知ってるから。だから気にせず、我が道を突き進むのよ。私みたいに」
「先生を見習うのは、気が進みませんね」
「教師にそこまで言える君は、とっくに私以上よ」
「……そうですかね」


俺は相手に合わせて態度を変えることくらいはできるが、明里先生は誰に対してもデフォルトのままだと思う。

この差は大きいのではないだろうか……。


「ああ、それにしても惜しい。惜しいわー」
「なにがですか?」
「君ほどの逸材を美術部に取られたことよ!」
「そう言われても……」


ちなみに、明里先生はブラスバンド部の顧問をつとめていて、熱心に指導しているそうだ。


「汚いわよね。火村君と広野さんっていう、2年生でも屈指の面白キャラを美術部で独占してるんだから」
「…………」


この先生は、生徒になにを求めているのだろう……。


「結局、久瀬君はブラバンに入ってくれなかったし、おまけにもうすぐ留学しちゃうし……。あー、私ってついてないわ。きっと、不幸な星の下に生まれたのね」


明里先生は、祈るように手を組んで、窓から空を見上げる。

どう見ても人生を楽しんでるこの人に、不幸の影は微塵も見当たらない。


「明里先生」
「うぃ」
「そろそろ、真面目な話をしましょう」
「私たちの将来について?」
「それはまた次の機会に。今日は別の用があるんでしょう?」


ずいぶん長いこと脱線していたが、どうでもいい話をするためだけに俺を呼び止めたわけではないだろう。


「そうそう、そうだった。実は、火村くんにお願いがあるのです」
「…………」


まずいな、敬語が出たか。

割と本気の頼み事をするときの、この人のクセだ。


「明里先生はですね、ちょっと困ったことになっていまして。引っ越すことになったんですよ。それで、火村くんにお手伝いをしてほしいんです」
「引っ越し?」
「うん、職員室から4階の音楽準備室まで。席を移すことになったんですよ」
「席を移動? なんでまた?」
「もちろん、私も職員室に自分の席があるんだけど」
「そりゃそうでしょう」
「ただ、仕事中に……」


明里先生は困ったように笑って、頭をかく。


「無意識に歌っちゃってるらしいのですよ。それも鼻歌というより、普通に歌ってるみたいな?」
「みたいな、じゃないでしょ……」


この人は音楽教師だけあって、歌も上手いし、なにより好きらしいが……。

職員室で歌われちゃ、他の先生たちもたまらないだろうな。


「それで、教頭先生がうるさいから音楽準備室で仕事しろって……」
島流しですね」
「そんなことをきっぱり言える君が大好きよ!」
「だから、あんたは教師の自覚を持て!」


──「あ、あのー……」


「……ん?」

 



振り返ると、ちょうど一人の女生徒が階段を上ってきたところだった。

というか、雨宮優子だった。

俺より一つ下の幼なじみで、色々あって現在は雨宮家の養子になっている。

つまり、明里先生にとっては義妹と言うことになる。

優子を通して、俺は明里先生と学園の外でもちょっとした付き合いがあるのだ。


「は、はぁはぁ……ね、姉さん……」

「お、優子。すっかり、虫の息じゃないの」

「なんだ、優子。なにを死にかけてるんだ、おまえは」

「や、優しくない……この人たちは優しくないです……」


優子は疲れた顔をして、俺と先生を睨んでくる。


「姉さん、わたしには引っ越しのお手伝いは無理です……。なんとか、ダンボール箱を一つ、階段の下まで運んできたんですけど……わたしはもうダメかもしれません……」

「限界が来るのが早いな」


優子は子供の頃から体力がなかったけれど、それは今でも変わらない。

どうやら、引っ越しの手伝いをさせられていたようだが……。

誇張じゃなくて、箸より重い物を持たせられない奴だ。


「優子。本当にもうダメ?」

「ね、姉さんがどうしてもとおっしゃるなら……もう少し頑張ります……」

「うんうん、ケナゲな子ねえ。じゃあ、もうちょっと頑張ってみようか」

「きゃーっ! 鬼です、鬼が出ました! そこは『もういいよ』、とか気遣いを見せるシーンでしょう!」

「ふふ、せっかくできた妹だもの。色々遊ばせてもらいたいのよ……」

「あ、あうあう……」

「身内に対してはサディスティックになるのはやめましょうよ……。わかりました、俺が手伝います」

「さっすが、火村くん。冷たいくせに本当はやっさしいんだから」

「職員室から音楽準備室まで、先生の私物を運ぶだけでしょう。それくらい、なんでもないですから」


山ほど私物をため込んでいたりしなければいいけどな。


「優子、おまえは休んでろ。俺がさっさと済ませてくる」

「ゆ、夕くん……」


──「いや、待ってくれ、火村くん!」

 



「あれ、雨宮先生」

「兄さん」

「なんでこんなところにいるんですか、兄さん」


ふらりと現れた白衣姿の美術教師、雨宮明良に俺たちはそろって無感動な目を向ける。


「そりゃ、俺もここの教師なんだからさ。いても不思議なないだろ。とにかく、話は聞かせてもらったぞ」


俺たちの視線にも動じず、雨宮先生はにっこりと嬉しそうに笑った。


「明里、おまえの引っ越しは俺が引き受けた」

「は?」

「煙草もきっぱりやめて、体調もばっちりだしな。今の俺なら、重い荷物も軽々だ」

「そういえば、前は美術室でもたまに吸ってたのに、いつの間にか完全にやめていますね」


あまりこの先生に関心がないから、今の今まで気づかなかった。


「この前、知り合いから副流煙の恐ろしさをたっぷりと聞かされたんだ。明里と優子の前で煙草を吸うなんて、もう無理だな」

「この人の世界は、明里先生と優子を中心に回ってるのか」

「だいたい、そんな感じですね」


優子は苦笑を浮かべて、首を振る。


「うーん……。兄さんが手伝ってくれるんですか……」

「なんだ、なにか問題があるのか?」

「兄さんに頼むと……張り切りすぎて、鬱陶しそうだから」

「ちゃんと、鬱陶しくないようにやるよ。任せてくれ」

「妹に全面降伏だな、この人……」


鬱陶しいとまで言われて、まったくめげないところが恐ろしい。


「まあ、火村くん一人に任せるのもなんだし……仕方ない、手伝ってくれてもいいわよ」

「ありがとう、明里。さあ、それではさっそく運ぼうか。なんなら、美術準備室に席を用意してもいいが」

「音楽準備室に運ぶように」

「……残念だな。だが、わかった。俺にすべてを任せてくれ」


落ち込むことなく頷いて、雨宮先生は階段を下りていく。


「わ、わたしはちょっと保健室へ……。腕と腰が逝っちゃってるので、湿布でももらってきます……」


続いて、優子が保健室のほうへよろよろと去っていってしまう。

本当に鍛え方が足りないな、優子は……。


「じゃ、私たちも行きますかね、火村くん」
「はい」


一応、雨宮先生はあれでもうちの部の顧問だからな。

一人で張り切りすぎて、ケガでもされては困る。


「いやー、うちの兄妹が世話をかけるね」
「他人事みたいに言わないでください」


苦笑いして、俺はゆっくりと階段を下り始める。

まあ、雨宮兄妹に振り回されるのは日課のようなものだ。

さっさと済ませて美術室に行こう。

あまり遅くなると、あいつが怒るからな──


…………。


……。

 

「いいか、凪。入るぞ」


美術室のドアをノックし、中の気配を充分に確かめる。

中で鉛筆を走らせている音がしないか確認してから、俺はドアを開けた。

 



「よう」
「お、夕。遅かったじゃないか」


モチーフでも探していたのか、美術室内をきょろきょろ見回していた凪が、俺を見てにこりと笑う。

とりあえず、裸になっていなくてよかった……。

 



「ちょっと、明里先生に捕まってたんでな」
「明里先生に? ああ、あの人はいい人だな。僕も好きだぞ」
「あー、ちょっと待て。今の凪の発言には二つほどツッコミどころがある」
「ん? なんのことだ?」
「やっぱり冗談を言ってるわけじゃないだな……」


一つ、明里先生が『いい人』かどうかは、大いに疑問があるということ。

いや、悪い人ではないけれど、『変人』という印象のほうがはるかに強い。


「まあ、一つ目はいい。それより『僕も』っていうのは、なんだ?」
「だって、夕も明里先生のことが好きだろう?」
「いや、確定事項のように言われても困るんだが」
「うん? 好きじゃない……となると。愛してる?」
「ああ、そのとおりだ。よくわかったな」
「えっ……」
「確かに俺は、明里先生を愛してる。付き合いも長いから、こうなっても不思議じゃないだろう。さすが凪だな。絵描きの観察力は恐ろしいものだ」

 



「ゆ、夕……ううううう…………」
「えっ、おい、凪」


凪は大きな目いっぱいに涙をため、肩をぶるぶると震わせ始めている。

しまった、まさか地雷を踏んだのか。


「君が、知らないところで僕を裏切っていたなんて……そんなの、ちっとも気づかなかった」
「待て、裏切ったとかそういうのはおかしいだろう。いや、なにもかもがおかしいぞ」
「明里先生と二人で、僕のことを笑っていたんだな……」
「ストップだ、凪。そろそろ俺もついていけなくなりそうだ」


俺はこめかみを押さえ、首を振りながら、凪を制する。

これ以上話が進む前に止めないと。


「言っておくが、冗談だからな」
「なんだ、冗談だったのか」


もう立ち直った。


「まったく、驚かせてくれるじゃないか。驚きのあまり、傷心旅行の行き先まで考えちゃってたぞ」
「それは先走りすぎだろう」


もし仮に、なにかの間違いで俺と明里先生が妙な関係だったとしても、凪が傷心旅行に行く必要はないだろうし。


「あのな、夕」
「ん?」


凪は、じろりと俺を睨みつけてくる。


「僕のほうからも言っておくぞ。夕は冗談が下手だ」
「ああ、今まさに俺もそう思ってるよ……」


俺は冗談が下手だし、凪は冗談を真に受ける性格だ。

これは、最悪の組み合わせだな。


「そういえば、凪。おまえって、二文字以上の名前は覚えられないんじゃなかったか?」


俺や久瀬は二文字で普通に名前で呼べるから問題ないが、優子などは『ゆこ』と、おかしなあだ名で呼ばれている。


「さっきから、明里先生の名前は普通に呼んでるよな」
「うん……。仕方ないんだ。大人の名前を省略して呼ぶのは、失礼かもしれないからな。普通に呼べるように頑張ってるんだ」
「頑張らないと、できないことなのか……?」
「僕は常に努力を欠かさない。なんなら、褒めてくれてもいいぞ」
「何様だ、おまえは」


これでも俺の師匠だから、強いことは言えないけどな。


「まあいい。今日は、ちょっと顔を出しに来ただけだしな」
「ん? どういうことだ?」
「決まってるだろ。えーと、水彩画用紙と画板と絵の具と──」
「水彩画? なんでまた、そんなものを?」
「おまえ、記憶力ないのか」


俺は呆れて、首を振る。


「凪がコンクールに出ろと言ったんだろうが。もう忘れたのか」
「おお、そうだった」


本気で忘れていたらしく、凪は感心したように、ぱんと手を打ち合わせる。


「今日からさっそく始めるんだな。さすがは僕の弟子、いい心がけだ」
「ついでに言えば、今日からがっつりやれと言ったのも凪だ」
「夕の記憶力は凄いな……」
「師弟関係を、ちょっと考え直したくなったよ。ま、それはともかく。俺はしばらく、部活には出ないからな。道具を取りに、美術室には顔を出すが」
「そうか……そうなってしまうんだよな」
「なにを考え込んでいるんだ?」


コンクールには街の絵を出すわけだから、美術室に閉じこもって描くわけにはいかない。

凪も当然、それくらいわかっているはず──なんだが。


「ふむ、考えてみれば夕が外へ描きに行ってしまったら、僕はひとりぼっちになってしまうな」
「顧問もたまには顔を出すだろう」
「雨宮先生が来ても、僕は特に嬉しくない」
「それは是非、本人に聞かせてやってほしいな」
「あの人は、明里先生とゆこちゃん以外になにを言われても反応無しだ。面白くない」
「教師としてそれはどうなんだろうな……」


凪だって、雨宮先生の教え子であることに変わりはないのに。

まあ、凪もそれほど先生を敬ってるようには見えないから、お互い様か。


「ふーむ、このままでは放課後一人の部活で泣きそうだ」
「泣くのか」


雨宮先生が美術室に近寄らなくなりそうだ。


「ううーん…………」
「というか、無理して部活に出なくてもいいだろう。凪の家は、アトリエがあるんじゃなかったか?」
「よし、決めた」


凪は俺の言葉をさらりと聞き流して、大きく頷いた。

なんだか、とても嫌な予感がする。


「僕もコンクールに出展しよう」
「待て、凪!」
「水彩画は久しぶりだが、なんとかなるだろう。僕も道具を揃えるから、ちょっと待っててくれ」
「待つのはそっちだ!」


本当に道具を探し始めた凪を、慌てて制する。


「なんだ、早くしないと日が暮れてしまうだろ。夏だから日は長いとはいえ、油断すると時間なんてすぐに過ぎるぞ」
「それはわかってるが……」
「僕も外で描くのはけっこう久しぶりだな。前のアレがあったからか」
「前のアレ?」


あまり訊きたくないが、一応確認したほうがいいな。


「以前、ある綺麗な湖に出かけて、風景画を描いていたときに……。気づいたら、捜索願を出されてたことがあったな」
「おまえ、何日描き続けてたんだ!?」
「さあ……寝袋と缶詰でずっとアウトドア生活をしてた。家に帰ったとき、弟が泣きながら出迎えてくれたぞ。ああ、あのときの絃は可愛かったなぁ……」
「おまえの弟も、小さいくせに苦労が多そうだな……」


凪は弟が可愛くて仕方ないらしいが、弟のほうから見ればけっこう迷惑な姉だろう。


「騒動になってしまったから、風景画を描くのを自粛してたんだ。でも、そろそろいいだろう」
「そりゃ、いつまでも描かないわけにもいかないだろうが……」
「おっと、話し込んでる場合じゃないな。さあ、行くぞ、夕」
「本当にコンクールに出す気だな」
「もちろんだ」


こうなったら、凪を止められないことはわかっている。

少なくともこれで、俺の1位入賞は確実に無くなったな……。


…………。


……。

 

 

 

 



「よし、ここだ。ここにしよう」
「…………」


街を少しうろうろしてから、俺たちは駅前までやって来た。

音羽でも、この辺りは観光客も多くて人通りが激しい。


「ここなら、どこを描いても絵になりそうだからな。いいポイントだろう」
「ああ、よく見ると他にも描いてる人たちがいるな」


全員がコンクールの参加者とは限らないが、間違いなく何人かはライバルだろう。


「どうやら、ここは激戦区らしいな。まあ、音羽でもここ以上に見栄えのいいところも、それほどないか」
「広いから座り込んでいても邪魔にならないしな。えーと、そうだな……僕は、この辺で描くぞ」
「そうか。じゃあ、俺はどこにするかな……」
「待て、夕。どこに行く気だ」
「ん? どこにって、決まってるだろ」


俺は、踏み出しかけた足を止めて答える。


「ここで並んで描いてもしょうがない。俺は、よそで描く」
「なぜ、そんな寂しいことを言う……」


凪は憮然とした顔をして、俺を睨んでくる。


「寂しいもなにもないだろう。二人で同じ景色を描く必要がどこにあるんだ。それに、俺たち以外にも参加者らしき連中がいるんだぞ。なんとなく、同じところで描きたくない」


凪はそんなこと気にも留めないだろうが、俺はライバルが周りにいる状況では落ち着いて描けそうにない。

それになにより──

同じ景色を描くと、凪との差がはっきりとわかってしまうのが悔しい。

もちろん、そんなことは口に出さないが。

 



「絵は心情に左右されやすいだろう。もっと他の落ち着けるところで描かないと」
「うん、それはわかる。でも、僕が寂しいから夕もここで描け」
「そんな理由で場所を選べっていうのか!?」


ただでさえ、分が悪い勝負なのに。


「こんなところで、一人にされても困る。意外と僕は繊細なんだ」
「繊細な奴が、寝袋で何日も寝泊りできると思えないがな……」
「そんな昔のことを持ち出すな。前にできたことが、今もできるとは限らないんだ」
「それは、わかる話だけどな」


まさか、凪に一般論を持ち出されて、諭されるとは思わなかった。


「そういうわけだから、ここで描いてくれ。モチーフとしてはこの広場以上のところは、なかなかないぞ?」
「そう言われてもな……。やはり、自分で選んだ風景じゃないと、上位なんて狙えそうにない」
「入賞なんて二の次でかまわない。いや、順位なんてどうでもいいだろう」
「素人を蹴散らして自信をつけろとか言ってなかったか!?」
「過去に言ったことより、今言ったことのほうが正しいんだ」
「だろうな……」


1年ちょっとの付き合いで、だいぶ凪にも慣れたつもりだったが、段々頭が痛くなってきた。

まだ描き始めてもいないのに、この疲労感は……。


「まあいい。わかった。移動するのも面倒になってきたし、ここで描こう」
「さすが夕だ。ものわかりのいいところが、君の美点だぞ」
「そりゃどうも」


俺は適当に返事して、辺りを眺める。

さっきも凪が言っていたとおり、ここからの眺めなら、どこを描いても絵になりそうだ。

他のライバルたちのことはなんとか忘れて、凪とは違う構図で描けばいいだろう。

とりあえず、俺たちは手早く準備を済ませる。

 



「しかし、考えてみれば俺も風景画を描くのは久しぶりだな」
「ずっとデッサンばかりだったからな。たまには、違うものを描くのもいい勉強になるだろう」
「いや、凪がデッサン以外はやるなって言ったんじゃないか」
「ん、そうだったか?」


凪はまるで記憶にないという感じで、首を傾げている。


「まあ、デッサンは基本だし、美術系に進学するなら必須だからな。腕が壊れるほど描きまくっておいて、損はない」
「本当に、おまえ厳しいよな。普段は飄々(ひょうひょう)としてるくせに」
「別に、僕も夕が憎くて厳しくしてるわけじゃないぞ。才能がなければ、地獄の訓練には耐えられないからな」
「地獄だったのか……。それも仕方ないが。俺は、絵を始めたのが遅かったからな」


俺が絵を描き始めたのは、音羽学園に入学してからだ。

凪みたいな本格的にやってる連中は、ガキの頃からろくに勉強もせずに描き続けてきただろうからな。


「そんなことは気にしなくていい。だいたい、絵を始めるのに遅すぎるということはない。ゴーギャンを知ってるだろう?」
「ああ、知ってる。確か、ゴッホと同居してたっていう画家だろう」
「そう。彼が絵を描き始めたのは23歳くらいらしいぞ。それでも、彼の名前は教科書にだって載っている」
「でも、それは特殊な例じゃないか?」
「自分が特別だとでも思っていなければ、絵なんて描けない」


きっぱり言い切れるところが凄いな……。

もっとも、凪の場合は自信過剰なわけじゃなくて、実力に裏打ちされた発言だ。


「ところで、わかっているのか? 夕、君だって充分に特別なんだぞ?」
「は? なにを言ってるんだ、凪?」


凪がわけのわからないことを言うのはいつものことだが、今の発言は特に意味不明だ。

絵ばかり描いてるから人との意思の疎通が難しくなるんだよな……。

やはり、もう少し人との付き合い方を教えるべきか。


「なにかろくでもないことを考えてる顔だな……」
「あ、いや。そんなことはないが」
「怪しいものだな……まあいい。今言ったことを説明してやる。ちょっと、絵を見せてみろ」
「お、おい……」

 



「ふうん……」


凪が身を乗り出してきて、俺の背中越しに水彩画用紙を覗き込んでくる。

ハタから見ると、抱きつかれているように見える……というより、そうとしか見えないのでは。


「まだ描き始めたばかりで、しかもずっと喋ってたのにな。もう構図が取れてるじゃないか。フリーハンドできっちりパースも取れてる」
「まだ下書きの下書きだし、これでいけるかどうかもわからないぞ」


それなりに自信があっても、後であらためて見ると、とんでもない駄作に見えたりもする。

絵を描いていると、よくあることだ。


「いや、これでいけると思うぞ。パースが正確である必要もないんだが、夕にはこういうきっちりした絵が向いてるようだな」


凪はさらによく絵を見るために、身体をぐっと密着させてくる。

 



「な、凪」
「なんだ、もぞもぞするな。いいから、おとなしくしてろ」
「そんなにくっつかなくていいだろ。絵が見たいなら、俺がどくから」
「別にいいだろ。僕は気にしない」


俺は気にするんだ。

凪はスレンダーなんだが、出るところは意外に出てるからな……。

さっきから肩にむにゅむにゅと柔らかい感触が──


「夕は元から風景画は上手かったからな。デッサンばかりだったが、基本的な画力が上がったというのもあるんだろう」
「つまり、凪に教えてもらったおかげってことじゃないのか」


少なくとも、独学でやっていたらなかなか上達しなかっただろう。


「君は特別だと言ってるだろう。僕だって、誰にでも教えるわけじゃないぞ。夕だから、教えてるんだ。君は、そのことをわかっていないようだけど」
「いや……ありがたいと思ってるよ」


身体を離してくれたら、もっとありがたいんだけどな。


「そう言ってくれると、こちらも嬉しい。それに、僕にだってメリットがあるしな」
「メリット?」
「夕の絵は、今が一番伸びる時期だ。明日になれば、全然違う絵を描いているかもしれない。人が成長していく姿を見るっていうのは、楽しいものなんだよ。夕、僕は──君の成長を一番近くで見ていきたいんだ」
「………………邪魔をしなければな」
「あ、そういう言い方をするのか!」


凪は俺の背中にくっついたまま、思いっきり体重を掛けてくる。

俺を攻撃しているつもりなんだろうが、凪は軽いのでまったく重くない。

むしろ、胸の感触がさらに凄いことになっているというか。

「まったく、夕は本当に意地悪だな。僕じゃなかったら、こんなに仲良くしてもらえないぞ」
「……そうかもな」


凪がそばにいてくれることは、幸運だ。

それに、彼女がここまで俺を買っていてくれるのだから──こっちもその期待に応えないといけない。


…………。


……。

 



「ん-、ちょっと疲れたな」
「俺は思ったほど進まなかったしな。これで、締め切りに間に合うんだろうか」


学校の話題の締め切りとはわけが違う。

少しでも締め切りに遅れたら、それで完全にアウトなんだよな。


「初日だし、焦るにはまだ早い。仕事じゃないんだから、締め切りよりいい物を上げることを考えろ」
「ま、師匠が言うならそうするか……」
「どうも君は、時々僕をバカにしてないか?」
「まさか。凪は師匠だけど、友達でもあるだろう。たまには気安く接してみたいだけだ」
「気安くするのは大いにけっこうなんだが……」


俺の言葉を信じ切れないらしく、凪は不満げだ。

下手にフォローするとややこしくなりそうなので、放っておこう。


「とりあえず、明日からが本番だ。今日はまだ練習みたいなものだったからな」
「夕、あのな……」
「どうした?」


珍しく、凪がなにやら迷った様子を見せている。


「明日は、休みだろう。夕はその……なにか、予定があるのか?」
「いや、特には。休みにはまとめて家事をやってるが、無理にすることでもない。毎日、少しずつやってもいいしな」
「そうか、それなら問題ない」


凪は嬉しそうに一つ頷いた。


「悪いんだが、買い物に付き合ってくれ。画材がまた足りなくなってきたんだ」
「おまえ、いつになったら一人で買い物ができるようになるんだ?」
「できないことはできない。絵以外のことでは、僕はあきらめが早い」
「そのようだな……」


凪は、どういうわけか一人で店に入って買い物ができない。

普段の日常的な買い物には弟が付き添い、画材などの買い出しには俺が付き合うのが常だ。


「でも、凪。絵の具なら、たっぷりあったみたいじゃないか」
「あ、あれは水彩だ。家では油絵もやってるから、そっちの画材が足りないんだよ」
「おまえ、家で別の絵を描いてるのか」
「ん……まぁな」
「よく同時に二枚の絵を進められるな。俺なら、混乱しそうだ」
「その混乱もまた芸術だ……」


なんか、遠い目をしてるな……。


「と、とにかく、話はわかった。凪は進みも早いし、絵の具がないと作業が止まってしまうな。わかった、明日は買い物に付き合おう」


開始2日目でいきなり休みというのもなんだが、凪には世話になっている。

買い物くらい付き合っても、罰は当たらないだろう。


「そうか、ありがとう。もちろん、買い物が終わったら今日の続きを描こう。
「そうしてもらえると、俺も助かるな」
「ああ。明日の10時、駅前で待ち合わせでいいな?」
「待ち合わせ? なんなら、凪の家まで迎えに行ってもいいぞ」
「待ち合わせだ!」
「そ、そうか……わかった」


なぜか突然ムキになった凪に圧倒されつつ、俺は頷く。


「わかってくれればそれでいい。じゃあ、今日はこれで」
「ああ、また明日な」


俺が手を振ると、なぜか凪は早足で行ってしまう。


「…………」


凪が普通じゃないのは、いつものことだ。

だが、さっきのあいつはいつも以上に挙動不審だった。


「いったいなんなんだ……」


でもまあ、考えるだけ無駄だろうから、俺もとっとと帰ろう。

茜への手紙もまだ書き上ってないしな。


…………。


……。

 

翌日──

空は綺麗に晴れ渡り、朝から気温は上がり続けている。

額に浮かんだ汗をぬぐいながら、駅前に到着すると──

 



「おはよう、夕。ちゃんと遅れずに来たな。偉いぞ」
「俺は子供か……」
「夕は時々、無駄に意地悪だからな。待ちぼうけてる僕を見て、にやにや笑ってたりするかもしれない」
「どんだけ性格悪いんだよ……」
「雨宮先生と明里先生から悪影響は受けてないか?」
「ああ、それを心配されてたのか……」


あの二人もそこまで悪どいことはやらないだろうが、影響を受けたらろくなことがなさそうだ。


「俺は相手が久瀬でない限り、約束したことは必ず守る主義だ」
「奇遇だな。僕もまったく同じ主義だ」


別に、俺たち二人の久瀬に対する扱いが軽いわけではない。


『久瀬くんは軽く扱われたほうがキャラクターとして美味しい!』。

以前に、そんなことを明里先生が言っていて、俺たちはその言葉を強く信じている。


「それじゃあ、わかってもらえたってことでいいか? まったく、いきなりこんなくだらない話を──」
「ん? どうしたんだ、夕?」
「いや、今ふっと物凄い違和感が……」
「残念ながら、君がなにを言っているのか僕にはわからないな」

 



そう言いながら、なぜか凪は横を向いたり後ろを向いたり、しまいにはくるりと一回転した。

 



なにをやってるんだ、こいつは……。


「……って、ああそうか。どうもおかしいと思ったら」
「おかしい……?」
「そういえば初めてだな。凪の私服姿を見るのは」

 



「そ、そうだったか? そんなことはないだろう」


どういうわけか、凪はあからさまに挙動不審だ。

まあ変なのはいつものことなので、気にしないとしても。


「いや、間違いなく初めて見るぞ。休みの日に会っても、おまえいつも制服で来てたじゃないか。家に帰っても、面倒だから着替えないとか言ってたよな」
「ちょっと違う。夏は制服を脱ぎ捨てて下着姿でいることにしている」
「そんな情報知りたくねぇよ……」


ただでさえ、凪は美術室で裸になったりで、俺は何度もとんでもないのを見せられてるのに。

一応俺も男なので、これ以上の刺激は控えてほしいもんだ……。


「そういえば、父さんは気にしないけど、弟は最近あからさまに目を逸らすことが多いんだ。僕になにか悪いところがあるんだろうか」
「……俺の口から明言するのは、はばかられるな。一度、鏡でも見てみるといい」
「そうか……絃に嫌われたら生きていけないからな。今度、見てみよう」
「そうしてくれ」


俺は苦笑してから──

凪の姿をあらためて眺める。

初めて見る私服は、彼女の性格がそのまま出たかのように、シンプルだ。

似合っているんだが、なんというか……。

半袖にホットパンツで、腕や太ももがむき出しになってるのがどうにも気になって仕方ない……。


「裸は見たことあるのに、露出度の高い服装を見るのはこれが初めてっていうのも変な話だ……。そもそも、露出度だって制服とさほど変わらないのにな……」
「なにをぶつぶつ言ってるんだ? ちゃんと僕と話してくれないと寂しいじゃないか」
「あ、ああ。悪かった、なんでもない」
「なんでもないのか……」
「……どうして残念そうなんだ?」
「いいや……それこそ、なんでもない。気にしなくていい」
「…………」


もしかすると、俺の視線に気づいたのかもしれないな。

凪は師匠で友達なのだから、妙な目で見るのは控えないと。


「それじゃあ、そろそろ行くか。いつもの画材屋でいいんだな?」
「ダメだ」
「は?」
「まずは映画に行こう」
「映画……? 画材の買い出しなんだろ?」
「画材しか買っちゃいけないのか? 映画を観るのはいけないことなのか? 僕だってたまには映画くらい観てもいいだろ!」
「別にいいが……早口でまくしたてなくても」


せっかくの休日なんだし、買い出しだけで終わるっていうのも確かに味気ない。

ここはむしろ、俺が気を利かせるべきだったかも。


「わかった。凪は、なにか観たい映画はあるのか?」
「ううん」
「ないのか……」


なんだか、今の首の振り方が可愛かったのも気になるが。


「だったら、映画館まで行って決めればいいか。一つくらい面白そうなのがやってるだろう」
「うん、夕に任せる」


俺が歩き出すと、凪は嬉しそうに頷いて横に並んだ。

肩がくっつきそうなくらい、やけに距離が近いのが気になる……。

 



「どうしたんだ? 早く行かないと、いい席に座れないぞ」
「……そうだな。行こう」


凪は楽しそうなんだから、余計なこと言わないほうがいいか。

いつも勉強と絵の練習ばかりなんだし、たまには楽しもう。


…………。


……。

 

「んっ……」


俺は歩きながら、小さく身体を動かす。


「んー……」


横を見ると、凪も似たような動作で身体をほぐしていた。


「2時間近くもじっとしてると、身体がおかしくなってしまうな。クライマックスの辺りになると、もうなんでもいいから動きたくて仕方なかった」
「絵を描いてるときは何時間でも平気なのにな」
「それは別だ。描いてるときは集中してるから、自分の身体のことなんてまったく意識しない。たぶん、服を脱がされて身体をまさぐられても気づかないだろうな」
「おまえ、その話は誰にも言わないようにな……」
「ん? よくわからないが、夕が言うならそうしよう」


凪のエキセントリックな性格は、学校の連中にもよく知られているが……。

それでも、これだけの美人でスタイルもいい凪を狙っている男子は多いらしい。

久瀬からの情報だから確実だろうし、そんな連中に今の事実を知られたら──


「もしかして、夕は既に僕の身体をまさぐったことがあるのか?」
「あるかっ! まさぐるとか言うな!」
「いや、てっきり誰にも言うなというから……夕は僕の身体を独り占めしたいのかと」
「どんな誤解だ……。いや、この会話はおかしいだろ。今まさに映画を観てきたところなんだから、映画の話をするべきだ」
「面白くもつまらなくもなくて、普通だった」
「一番、会話を続けにくい感想だな」


俺が無難な映画を選んでしまった、というのもあるけれど。

観たのはタイトルからしてB級アクションという感じの映画で、大外れではないと思ったんだが……。


「あまり最近の映画は観てなかったけど、あんなもんなんだな」
「特別ひどくはなかっただろう。金はたっぷりかかってるようだったし」
「あ、でも、爆発シーンとかは良かったな。ああいう映像を観てると、アニメーターみたいに映画を描いてみたくなる」
「……なるほど」


凪は骨の髄まで絵描きというか、絵ならなんでもいいというか。

年頃の女の子が映画を観て、「動画を描いてみたい」っていう感想も相当珍しいだろう。


「そうだ、もう一つ」
「まだあるのか。実は意外と気に入ったのか?」
「そういうわけでもない。ただ、ほら。名前は忘れたけど、あのヒロイン」
「ああ」


役名も役者名も覚えてないけど、そこそこの美人で、拳銃を持って大暴れしていた。


「あの女優、ブラ着けてなかったな」
「女のおまえがそこに反応するのか!?」
「僕は前々から思ってたんだ。なんで女だけ、あんな窮屈なものを着けなくてはいけないのかと」


うむうむと、凪は感心したように頷いている。


「別に着けなくていいんだな。あの女優は、ノーブラであれだけ暴れても怒られてなかったし」
「映画と現実の区別をつけろ!」
「そうは言うが、外国の女性はブラを着けない人もけっこういると聞いたことがある」
「おまえ、常識をあまり知らないくせに、余計なことは知ってるんだな……」
「久瀬が教えてくれたんだ」
「久瀬は今度殺しておく」
「それは別に止めない。でも、僕だってブラを着けなくても問題ないんじゃないか?」
「待て! 手を背中に回してなにをする気だ!?」
「そうか、ここで外すのはよくないな。夕、僕をその辺の路地に連れ込んでくれ」
「その言い回しもおかしい……なにもかもおかしい……」


俺は頭を押さえて、首を振る。

段々暑くなってきた上にこの会話では、倒れてしまうんじゃないだろうか。


「映画は普通だった。それでいいな」
「強引にまとめたな」
「それより、もう昼も過ぎたし、腹が減ってきた。どこかで飯を食おう」
「そうだな。適当にその辺りで──」


──「うおーっす! 火村くんに広野さん!」


突然の大声に驚いて、俺も凪も同時に正面に目を向ける。

手を振りながら近づいてくるのは、確認するまでもなくどこぞの音楽教師だった。

 



「お休みの日にデートですか! 熱いね、若いね! 駆けめぐる青春だね!」

「あんたがなにを言ってるのか、さっぱりわからねぇよ」

「ああっ、火村くんがチンピラみたいな口調に! ただでさえ目つきが悪いのに!」

「でも、目つきほど性格は悪くないぞ」

「それはフォローなのか?」

「ふふーん、二人ともなかなか楽しそうじゃーん。なにを話してたんだい?」

「僕がブラを外そうとしたら、夕に止められたんだ」

「えっ……」

「…………」

「おおーい、火村くんよー」

「……なんです?」

「君が意外と純情なのは知ってるよ。でも、女の子に恥をかかせちゃいけないなー」

「一応言っておきますけど、あなたは誤解してますからね」

「普通に考えたら、誤解のしようがないと思うけどなあ」

「凪は普通じゃありません」

「なるほど、ごもっともだー」


あまり嬉しくないけれど、明里先生と心が通じ合ったらしい。


「もしかして、二人揃って僕をバカにしてるのか?」

「まっ、まっさかぁ。これでも私は教師だもん。生徒をバカにするなんて、とんでもない」


明里先生があからさまなごまかし笑いを浮かべる。

この人、演技は苦手なようだな……。


「それならいい」

「いいのか」


いや、せっかく納得してくれたんだから話を変えておこう。


「ところで、先生はなにしてるんです。どこかへお出かけですか?」

「大丈夫、デートじゃないから安心して。私は今でも、火村くんのあかりんだよ」

「俺の所有物にそんな名前のものはありません」

「そういうきっぱりした君が好きさ!」

「…………」


この人を採用した学園長に、どういう基準で教員を選んでいるのか一度聞いてみたくなってきた。


「ちょこっとお買い物ってきただけだよ。あと、ついでに教会行こうと思ってるけど」

「ああ、なるほど」

「教会? なんだ、銃撃戦でもしに行くのか?」

「凪は、そういう映画を観てたのか……」


さっきの映画もそうだが、凪とアクション映画はあまり相性がよくないと思っていたが。

芸術家である凪は、トリュフォーとかゴダールとか観ているほうがしっくりくるけど、たぶん偏見だろう。


「あのねえ、広野さん。そんなわけないでしょ。もう、銃撃戦みたいなヤンチャができる歳でもないからね、私も」

「歳の問題なんですか」

「先生、今いくつなんだ?」

「同性とはいえ、歳をストレートに訊かれたのはけっこう久しぶりだわー」

「そうか、女性はあるい程度歳を取ると、年齢を明かしたくなくなるものだったっけ。ごめん、明里先生。今のは僕が悪かった」

「マジで謝られると凹むわ……」


普段は鬱陶しい人だけど、こうも落ち込まれると哀れになってくる。


「でも、こんな風にいじめられるのも新鮮で悪くないかも……」


前言は撤回しよう……。


「えーと、話が逸れてたな。とても信じられないだろうけど、この明里先生は神を信じてる人なんだ」

「へえ、なんのために」

「なんのためって……あのね、信仰っていうのはそういうものじゃないの。損得とかじゃないの」

「ふうん……」


やはり、凪もあまり理解できないらしい。

この国の、特に若い人間は信心深い奴なんてほとんどいないし……。

明里先生と宗教というのが、どうしたって結びつかない。


「ま、私もそんなに偉そうなことは言えないけどね。でも、あまり熱心じゃないとはいえ、一応信者だから。たまにはお祈りくらいしないと」

「意外と適当でいいんですね」

「信仰は強制されるものじゃないからさ。ところで」


明里先生は、意味ありげに俺たち二人に視線を向ける。


「広野さんは……信心深いほうではなさそうね」

「特に信じてはいないな。ま、概念としては嫌いではないが」

「火村くんは神様を信じるどころか、自分が神様だと思っていそうよね」

「そういう思い違いは好きではないですけど」

「はっ、違った!?」


人をなんだと思ってるんだ、この先生は。


「失敗したなあ。生徒を見る目はあるつもりだったのに」


先生は、にこにこわらっていて、まったく反省しているようには見えない。

これで、この人は音羽学園の教師では1、2を争う人気者だというから、世の中は不思議だ。


「おーっと。あまり長いこと若い二人の邪魔をしちゃいけなかったね」

「それは別にいいですけど……」

「じゃ、明里たんはちょっと祈ってくるから。縁があったらまた会おう、ボーイ&ガール!」


元気よく手を振って、明里先生は教会のほうへと、なぜか走って行ってしまった。


「なんだったんだろうな……」
「どんな人生を生きてきたら、あんなハイテンションな生き物に育つんだろう?」
「雨宮先生への反発とか、色々あったんじゃないか? それより、飯に行こう」
「ああ、そうだった。なんだかすっかりお腹が空いてしまった」
「まったくだ」


明里先生の相手をしていると、疲労が激しい。

しっかり食べて、調子を取り戻すとしよう。


…………。


……。

 



「さーあ、キリキリ描くんだ。あ、こら、その端の辺り、雑になってるぞ。気を抜くんじゃない!」
「…………」


昼食と買い物を終えた俺たちは、駅前まで戻ってきた。

時間がないので昨日の続きを始めたわけだが──


「本当、絵のことになると鬼だよな」
「僕もこうやって、父さんに絵を教えられたんだ。他にやり方を知らない」
「凪の弟も、こんなに厳しく教えられてるのか。まだ小さいのに、ちょっと可哀想だな」
「いや。弟には優しく、褒めて伸ばす方法で教えている」
「他のやり方も知ってるんじゃないか!」


別に優しく教えてほしいわけじゃないが、なんとなく納得いかないぞ。


「そんなこと言われても、絃は可愛いからな。叱るのは気が進まない」
「言ってることがおかしすぎるぞ……」
「夕は可愛いというタイプではないからな。そうだ、リボンでも付けてみようか?」
「芸術家がセンスを問われるような発言はやめておいたほうがいい」


俺がリボンなんか付けて歩いてたら、間違いなく不審者として警察にしょっぴかれる。


「そうか、ダメか……。まあ、僕もリボンなんて持ってないしな」
「言われてみれば、凪はあまり髪とかいじらないな。1年のときからずっと同じ髪型か?」
「短くしてるからな。あまり変えようがない」


凪はどうでもよさそうに言って、自分の髪を軽く撫でつける。

こいつは、確かに自分の外見なんてほとんど気にしないタイプだ。

そういうさっぱりした性格だからこそ、付き合いやすいわけだが。


「その……夕は、気にするか?」
「ん? なにをだ?」
「だから、髪型。たとえば、ゆこちゃんみたいに長いほうが好きとか……」
「ん……。あまり、気にしたことはないな。優子は優子で、長い髪が似合ってるし──凪は、その髪型が一番似合ってる」
「ど、どどど……」
「ど?」


凪は、あからさまに動揺した顔で、口をぱくぱくさせている。

ついさっき見たような表情だ……。

 



「どうしたんだ、夕! らしくないことを言ってるぞ!」
「そうか……?」


いつも冷静沈着な凪が動揺しているのだから、確かにそうなのかもしれない。

本当に、特別なことを言っている自覚はないんだがな。


「むう……てっきり、厳しくされた仕返しかと思ったぞ」
「そんなわけないだろう。こっちが頼んで教えてもらってるんだから」
「言われてみれば、そうだ……。夕は人殺しみたいな目をしてるけど、礼儀正しいものな……」
「…………」
「うん、この髪でいいんだな。いや、自分が好きなようにしていれば、夕は笑ったりしないな」


なにやら、凪は一人でつぶやいている。

もしかして、俺は余計なことを言ったりしてるんだろうか……?


「はっ!? こんなことをしゃべってる場合じゃない!」
「なんだ、急に」

 



「絵だ、絵。僕はともかく、このままだと夕は本当に間に合わなくなるかもしれないぞ。さあ、描け。己の魂を絵筆にこめろ!」
「……ちょっとキャラ違うぞ、凪」


凪は俺のツッコミなど無視して、ばんばんと背中を叩いてくる。

まあ、凪の言うとおり、のんびりしてる暇はない。


…………。


……。

 

「む……」


きりのいいところまで描いたところで、俺は顔を上げた。

もうすっかり日も傾いて、世界はオレンジ色に染まりつつある。

この辺りで描いていたライバルたちは、撤収の準備を始めているようだ。

俺たちも、そろそろ切り上げる頃合いか……。


「凪、もう日も暮れたから──」
「…………」

 



俺は、思わず言葉に詰まってしまった。

凪の──いつもどおりの無表情な顔の奥に潜んでいる、すべてを燃やし尽くすほどの強烈な感情。

彼女が絵に集中しているときにだけ見せる、恐ろしくなるくらいの熱意。


「凪……」


凪がこうなってしまったら、誰の声も届くことはない。

彼女は、俺たちとは別の世界にいる。

いや──

今まさに、新しい世界を作っているところなのだ。

さっきの明里先生の台詞ではないけれど──

こうなったときの広野凪は、神に近い存在になっているのかもしれない。


「…………」


思い出す、あの春の日を。

俺が、本当の天才というものの存在を知った日のことを。


……。


音羽学園に入学したばかりの頃。

俺は、迷っていた。

家があまり裕福でないこともあって、親や進学を控えた妹のために、俺は特待生資格をとり、学費を免除されていた。

3年間ひたすら学業に打ち込み、特待生資格を維持し続ける。

この学園で俺がやらなければならないことは、それだけのはずだった。


「…………」


それでも──どうしても一つだけ、絶ちがたい目標があった。

将来を考えれば、決して追いかけてはいけない夢。

わかっていたはずなのに──

放課後、思い切って開いた美術室の扉。

その先にいたのは、一人の女の子だった。


「君は……」

 



揺らぎのない瞳でキャンバスを見つめ、止まることなく絵筆を走らせている。

彼女が描いていたのは単なる花の絵だったが、それはあまりにも激しく俺の心を揺さぶった。

キャンバスに向かう彼女の姿と、その絵を見ていると涙があふれそうになるほどだった。


「ん……?」


ふと、彼女の手が止まり、こちらを振り向いた。

それから数秒、俺をじっと見つめてから──

 



「君も絵を描いてみないか? きっと楽しいぞ」
「…………」


彼女は、まるで「コンビニに行こう」と誘うようななにげない口調で、そんなことを言った。

だけど、俺が決意するきっかけはその言葉だったと思う。

かつて地震で崩壊し、復興していく街の姿をスケッチブックに留めていた遠い日々。

俺の絵を褒めてくれた、妹の茜とその友達の優子。

あの頃の気持ちを思い出し──

もう一度絵を描いてみようと、俺は決めた。


あのときと同じだ。

凪は、俺の迷いを消したあのときと、同じ目をしている。

誰の声も届かないところに、彼女はいるんだ。


──「ふーむ、やっぱり大したものだね」


「…………っ」

 



かろうじて、驚きの声を上げるのをこらえた。

唐突に現れた雨宮先生が、嬉しそうな顔で凪の絵を見ている。


「この歳で、これだけの画力……恐ろしくなるほどだよ」

「先生、どこから湧いたんですか」

「雨宮家の人間は、神出鬼没なのさ」

「なんて嫌な家系ですか……」

「いやまあ、君たちが例のコンクールに出す絵を描いてるって聞いてたからね。たぶん、この辺りで描いてるんじゃないかと思ったわけだよ」


先生は説明しながら、自分の懐に手を入れようとして、なにかに気づいたような顔をする。

たぶん、禁煙したことを忘れていたんだろう。


「それで、わざわざ見に来たんですか」

「広野さんには、邪魔するなと言われたけどね。一応、俺は美術部の顧問だからさ」

「先生に指導を受けた記憶が、ほとんどないんですが」

「だって、火村くんの師匠は広野さんだろう。あまり、俺が口出しするのも問題じゃないかな?」

「確かにそうですね」


凪と雨宮先生が全然違うことを言ったら、こちらも混乱してしまう。


「それに、広野さんについていけるなら、そのほうがいい。圧倒的な才能に触れるのはいいことだよ」

「圧倒的すぎますね、あいつは……」


今、凪が描いている絵はまだ下書きだというのに、思わず身体が震えるほどの迫力だ……。

俺がこの領域までたどり着くまでどれくらい──いや、たどり着くことができるのか。

少なくとも今は、予想さえできない。


「おいおい、火村くん。なにをそんなに深刻になってるんだい」

「いえ、そういうわけでは……」


──「そうそう、まだまだ落ち込むのは早いぜぇ」

 



「……雨宮家って、本当に神出鬼没がモットーなんですね……」


兄に続いて、どこからか現れた雨宮の上の妹がにやにや笑いながらこちらを見ている。

というか、この人は教会にずっといればよかったのに。


「……はっ。もしかして、優子もどこかに?」

「残念ながら、優子は友達と遊びに行ってるからね。まあ、もしかしたら通りかかったりするかもしれないけど」

「この場に優子が加わると、兄と姉にいじめられそうですね」

「いじめじゃない! いじってるだけよ!」


その二つにどれだけの差があるんだろうか……。


「心配ないわよ。優子は、雨宮家のアイドルだからね。家族みんなでじっくり可愛がってるの」

「じっくり……」

「あれだけの美人さんに育ったんだもの。着せ替え遊びは基本よね」

「あまり遊ばないでくださいよ……。あいつ、ああ見えて怒ると手が付けられないでしょう」


俺は、震災の後の数年は優子と兄妹のように育ったのだから……。

優子の本性──というか、穏やかな笑みの向こうに隠された腹黒さはよく知っている。


「そういうところも可愛いんじゃないの。優子のあの冷たい目で見られたときの快感──ああっ、もうたまらないっ! 心臓が激しいビートを刻んでるっ、刻んでるぅっ!」

「雨宮先生。申し訳ないですけど、コレ連れて行ってください」


俺は悶絶する明里先生を指さした。


「悶えてる明里も可愛い……きっと、明里が思い浮かべている優子も可愛い……ああ、なにもかも可愛い」

「ダメだ、この人たち……」


優子は雨宮家で楽しくやってるようだが、あまり楽しすぎるのも問題かもしれない。


「はっ!? いけない、いけない。私としたことが、ついトリップしてしまったよ」

「明里先生だからこそ、こんな街中でトリップできるんでしょうが」

「いやでも、火村くん。トリップしてる明里も可愛さ5割増しだと思わないか?」

「あんたは家帰れ」


真面目くさってなにを言ってるんだ。


「こらっ、火村くん! そういう毒舌を兄さんに吐いちゃいけません!」

「あ、はぁ。そうですね」


雨宮先生は、教師である上に美術部の顧問だったな……。


「毒舌を吐くなら私! この私に吐きなさい!」

「あんたも本当、家帰って自分を見つめ直したほうがいいです」

「うーん、もう一つ毒が足りないかなあ」

「明里先生を喜ばせるために言ってるんじゃありません」


こっちが毒舌になるほど喜ぶ相手なんて、始末に負えない。


「それより、話を戻してください」

「ん? 話?」

「はて、なんだっけ?」

「あのな……」


この二人、適当に生きすぎてる……。

教育者が二人もいる家なのに、教育に悪い環境ってどんなのだ。


「そうそう、火村くんの夢についてだったよ、兄さん」

「おお、そうだったな、明里。火村くんが焦る必要はないということだった」


やっと話が戻ったか……。


「うーんとね、私は美術じゃなくて音楽のヒトだけど。いっぱい生徒たちを見てきたし、才能ってやつにも触れてきたからわかるんだよ」

「……なにをです?」

「言うまでもなく、広野さんはものが違う」


ちなみに、凪はさっきまでの兄妹漫才の間もこちらを気にすることもなく、絵を描き続けている。

身体に触られても気づかない、というのは冗談ではないんだろう。


「生まれ持った才能に加えて、お父さんが画家で、環境も整ってる」

「その上、もっとも大切なこと──努力も欠かさないとくれば、これはもう並の人間じゃ追いつけるはずがない」

「あーっ、兄さん! 私の台詞を横取りしないで! 今日はご飯抜きにするからね!」

「ちょ、ちょっと待て。休日に家族みんなで食事するのが俺の唯一の楽しみなのに」


大の大人に、そんなことで動揺されても……。


「こほん。それでは聞きなさい、火村くん」

「はぁ……」

 



「広野さんは君よりずっと先を行ってる。それは誰の目にも明らかなことよ。でもね、焦る必要はまったくないの。誰が上とか下とか考えずに、まずは楽しみなさい。火村くんは努力の大切さを知ってる。そんな君なら、いつか結果がついてくると思うよ」

「……はい」


たまに──ごくたまにだが、この人は教師らしいことを言う。

だいたいにおいて正論なので、いつもの明里先生を知っていると、少し戸惑ってしまう。


「それでは、本日のレクチャーはここまで。お姫様が我に返ったら、ちゃんと家まで送るのだよ」

「わかってますよ」

「お? 火村くんも成長したじゃん。そうそう、女の子への気遣いは大事だよ」


明里先生は嬉しそうに言って、俺の頭をぐりぐりと撫でてくる。

そりゃ、茜や優子を適当に扱ってたガキの頃とは違うんだから、それくらいは──


──「……仲良さそうだな」


「あっ」


いつの間にか「こっち」に戻ってきていた凪が、俺と明里先生を、なぜか冷めた目で見ていた。


「さすがに付き合いが長いと、遠慮がないようだな……」

「待て、凪。おまえ、なにか誤解してないか?」

「そうよ、広野さん。私と火村くんはまだ清い関係で──」

「雨宮先生、申し訳ないですけど、明里先生の口を塞いでいただけます?」

「えっ、いや、それは……兄妹なのに唇を塞ぐなんて……」

「唇で塞げ、とは言ってません」


ああくそっ、この兄妹は!


「おっと、もういい時間だ。優子も帰ってくるし、夕食の準備をしないと。今度こそ、私たちはこれで帰るね。アデュー」

「おい、明里、待ってくれ。俺の夕食はあるんだろうな?」


……。


「…………」
「…………」


俺と凪に見つめられながら、二人の教師が家のほうへと歩いていく。

せっかく見直したところだったのに、雨宮兄妹の評価は上がったような下がったような……。

 



「僕らも帰ろうか。悪かったな、夢中になってしまって」
「気にしなくていい……けど、凪、なにか怒ってるな」
「いや、大丈夫だ。少なくとも、夕に対しては怒ってない。安心しろ」


そう言って、凪は片づけの準備を始める。

凪の言うことだから、本当に俺には怒ってないんだろうが……。

じゃあ、いったいなにに対して怒っているんだ?


…………。


……。

 



「凪、どうして怒ってるんだ?」
「ストレートに訊いてくるな。さすが夕……」
「一応、これでも迷ったんだ。でも、訊くのが一番早いだろう」


駅前からここまで歩いてくるまでの、ほんの数分。

さらりと言ったが、短時間でこれだけ迷ったのは初めてかもしれない。


「夕のそういうところは嫌いじゃないな。こういうときは、ちょっと困ってしまうが……」
「言いたくないなら、無理に言わなくていい。凪のほうこそ、なんでも率直に言いすぎだからな」
「ん……」


凪は、少し困ったように笑ってから。


「僕は口下手なんだ。だから、できるだけ誠実に話そうとしてるだけで。それでも、相手を戸惑わせることも多いようだけど」
「…………」


そんなことはない、と否定できないところだな。


「でも、今回は夕が訊いてきたんだからな。困っても、僕に文句を言うなよ」
「わかってる。俺に遠慮は無用だ」
「そうだな。僕がなんでも言ってしまう人間なら、夕はなんでも受け止めてしまう人間だからな」
「なんでも、とまではいかないが。凪は、俺を困らせてもいいんだよ。そんなことも許されないほど、浅い付き合いじゃないだろ?」
「……夕は。夕は、真顔でなかなか凄いことを言うな。少なくとも、僕はそんなことを言われたのは初めてだぞ」


今度は微笑を浮かべて、凪は小さく首を振った。

どことなく呆れているように見えるが、そこまで妙なことを言っただろうか。


「ああ、話の続きだな。僕は本当に夕に怒ってるわけじゃないんだ。言ってしまえば、自分に怒っているだけというか……」
「自分に? マゾの明里先生でも、自分で自分を責めたりしないぞ」
「えーと……そういうのとは、少し違う」
「少しなのか」


軽い冗談で、真面目になりすぎてる凪の緊張を解いてやろうとしただけなのに。


「そうじゃなくて。夕を連れ出したくせに、結局は絵に夢中になって君を放り出すなんて……。ああもう、僕はどうしようもないバカだ! せっかく勇気を振り絞って夕を誘ったのに!」
「…………?」


突然、ばたばたと暴れ始めたぞ。

というか、いまいちなにを言っていたのかわからなかった……。


「しかも、目を離してた隙にまた明里先生と! 男は、なんだかんだで若いほうが好きだって聞いたのに! 久瀬の嘘つきめ!」
「おまえ、久瀬と普段どんな話をしてるんだ?」
「僕はどうしてこう、絵を描いてると我を忘れてしまうんだ。特に風景画を描きたいわけでもなかったのに! うーっ、この身体に流れる画家の血が憎い! 献血したい!」
「おい……おい、凪」
「もう家以外では絵を描かないことにするか……いや、無理だ。そんなことしたら、禁断症状が出る。僕はいったい、どうしたら……」
「凪!」
「…………っ!?」


俺は勢いよく、凪の両肩を強く掴み、身体をぐっと近づける。

凪はびくりと身体を震わせ、目を大きく見開いた。

 



「ゆ、夕……?」
「おまえがなにを言いたいのか、よくわからない。だけどな。頼むから、絵を描いている自分を否定しないでくれ」
「え、いや、否定してるというわけでは……」
「さっき、俺は思い出したんだ」


凪は少し怯えているようだが、俺はかまわず言葉を続ける。


音羽に入ってから、俺は迷ってた。街を作る仕事──街をデザインする夢をどうするか。普通に考えれば、特待生なんだから勉強だけしていればいい。でも、そんな当たり前のことを──凪。おまえと、おまえが描く絵が忘れさせた」
「僕の絵が……?」
「なんとなく照れくさくて、今まで言ったことなかったけどな」


あの日に美術室で凪の姿を見たことが、すべての始まりだったと思う。

そう、今も続く楽しい日々の始まりはあのときだった。


「おまえの絵が、俺に夢を思い出させた。それくらい凄いんだよ。だから──俺は、凪にはいつでも絵を描いていてもらいたい。まっすぐに絵と向き合ってる凪が好きなんだよ」
「えっ……す、好き……?」


凪はきょとんとして、その頬が真っ赤に染まっていく。

その様子を見て、俺はようやく口を滑らせたことがわかった。

 



「あっ、待て。そ、そういう意味じゃないぞ」
「そっ、そうだよな。びっくりするじゃないか、夕」
「す、すまない」


乾いた笑みを浮かべている凪に、俺は小さく頭を下げる。

興奮している凪につられたのか、とんでもないことを……。


「で、でも、夕の言いたいことはわかった。僕はつまり……そのままでいいんだな」
「そうだ、そういうことだ。無理に変わる必要は、ない。絵に夢中になって、俺をほったらかしても別に怒ったりはしない」
「そ、それじゃあ……。夕がそばにいて、僕が絵に夢中になっていたら……。僕が戻ってくるまで、夕は待っててくれるのか」
「待ってる」


俺は間髪入れずに答えた。


「ちゃんと凪は見守ってるから。だから、おまえはなにも気にしなくていい。思うままに描いていればいいんだ」
「ん……」


凪はちょっと迷ったように視線をさ迷わせてから。


「うん」


こくり、と笑顔とともに頷いた。


「……なんか変な話をしてしまったな」
「お互い様……だな。僕のほうこそ、変なことを言って、悪かった」
「気にするな。俺も気にしないから」
「うん、そうだな。僕らは別に……なにも変わらなくていいってことだな」
「そういうことに……なるか」


変わらない、というのは難しいだろうけれど、無理に変わろうとすることにも意味はない。

俺たちは、これまで上手くやってきたのだから。


「おっと、こんなところでいつまでも立ち話していても仕方ないな」


凪の肩から手を離し、俺は周りをさっと見回す。

 



「あっ、そうだ。早く帰らないと、絃がお腹を減らしてる!」
「ああ、それは可哀想だな。少し急ぐか」
「ん? 今日は家まで送ってくれるのか?」
「当たり前だろう。もう暗いんだし、凪を一人で帰らせるわけにはいかない」
「…………」
「ん?」


なにやら、凪が意味ありげな視線を向けてきている。


「どうした、まだ言ってなかったことでもあるのか?」
「そうじゃなくて……今日こそ、夕食を一緒にどうだ?」
「……何度もお誘いいただいているしな。たまには、ごちそうになるか」
「あ、ああ。そうだよな、今日に限ってOKしたりはしないよな……」
「凪、話を聞いてたか? 俺はOKしたつもりなんだが」
「ええっ!?」
「自分で誘っておいて、驚くことはないだろう」


まだちょっと興奮してるのか、凪の頭は混乱中らしい。

凪の弟には悪いが、まずは頭を冷やさせたほうがいいな。


「凪、ちょっとだけ遠回りしていかないか。歩きたい気分なんだ」

 



「ん……そうか、ちょっとだけなら」
「決まりだな、行こう」
「うん」


俺たちは並んで、すっかり夜の色に染まった街を歩き始める。

ふと、思った。

いつもより、少しだけ凪が近くにいる。

変わらなくていい──そう願っていても、変わることはあるだろう。

そして──

たぶん、今の俺たちは正しい方向に変わっていっている。


…………。


……。

 

昼休み──

購買でパンを買って教室に戻る途中。


──「ゆっ、夕くん!」


「なんだ、優子。そんなに慌てて」


廊下の向こうから駆けてきた優子に、俺は軽く手を上げてみせる。

体力がないのだから、走らないほうがいいだろうに。

 



「もしかして、また明里先生にいじめられてるのか?」
「いちいち、そんなことで助けを求めに来ません! 年中助けてもらうことになっちゃいます!」
「……おまえ、大丈夫なのか? 兄貴と姉貴があんまり鬱陶しいなら、俺がびしっと言ってやるぞ」
「あ、それはいいです。夕くんに叱られるのは、さすがに兄さんと姉さんが気の毒で……」
「ん……? 俺ってあの二人より恐ろしいと思われてるのか……?」
「あはははは」
「笑ってごまかすな……」
「そんなことより、ですね」
「今度は真面目なフリか。おまえ、明里先生の悪影響を受けてるんじゃないのか?」
「はい、受けてます」
「力強く頷かれても……」


優子も昔は、お兄ちゃんお兄ちゃんと俺の後ろをついてきて可愛かったんだがな……。

数年後には、明里先生みたいになってしまうのか。


「わたし、夕くんにお話しが。いえ、訊きたいことがあるんです」
「訊きたいこと?」
「ついに、凪先輩とのお付き合いを始めたんですか?」
「…………」


いったい、どこでそんな話を聞きつけたのか。

女子生徒の情報網というのは、侮れないものらしいが……。


「あのな、優子。どうして、おまえがそんなことを気にするんだ?」
「いえ、茜ちゃんとの約束がありまして」
「茜と?」

 



「夕くんに変な虫がつくようなら、潰してほしいって」
「……うちの妹、そういう過激な一面があったのか」


茜は明るくて元気だが、どちらかと言えば穏やかなほうだと思っていたのに……。


「というわけで、わたしには真実を知る権利があります」
「ねぇよ」
「実はわたし、茜ちゃんが寮に入ってる間、実妹の権利を借り受けていまして……」
「そんなもの貸し借りするな」

 



「え~、だって知りたい知りたい~」
「最終的に駄々っ子になられても困る」


茜には、さっそく今日にでも手紙で文句を書くとして。

まずは、目の前のこいつをなんとかしないと。


「別に凪と付き合ってるわけでもないし、もちろん潰す必要もない」
「凪先輩との、真剣バトルも辞さない覚悟だったんですけど……」
「悪いが、優子じゃ凪には勝てないだろう。久瀬が相手だと、手当たり次第に物を投げつけるような奴だぞ」
「いざというときには、兄という盾が」
「盾ごとやられるだけだな」
「なっ、なんて非常な……」
「兄を盾にしようとしたお前が言うことか」


この会話、いつまで続ければいいんだろうな……。

そろそろ教室に戻って、昼飯にしたいところだ……。


「いいから、優子は気にするな。おまえも、俺たちがコンクールに出す絵を描いてることは聞いてるだろ?」
「ええ、まあ」
「俺はそっちの作業で大変なんだ。今はそれ以外のことは考えてない。だから、凪とどうこうってこともあり得ない。わかるな?」
「は、はい……」


軽く戸惑っているようだが、それでも優子はこくりと頷く。

明里先生の毒に冒されながらも、まだ素直さは失っていないらしい。


「それじゃ、俺は教室に戻るぞ。おまえもうろうろしてないで戻れ」
「あの、もう一つだけ」
「なんだ?」
「コンクールの絵が大変でしょうけど、ご飯はちゃんと食べてますか? これも茜ちゃんに確認するように頼まれてるんです」
「心配性な妹だな」


俺は苦笑いして、肩をすくめた。

茜の奴は、俺が自炊できることも知ってるだろうに。


「心配いらない。ちゃんと食わないと絵なんて描けないからな。普段よりしっかり食ってるくらいだ」
「よかった……」


優子は安堵の微笑を浮かべ、うんうんと頷いた。

心配していたのは、茜だけじゃないようだな。


「今度こそ、俺は行くからな」
「はい、呼び止めてすみませんでした」

 



やれやれ、俺は意外と人に心配をかけるタイプなのかな。

これでもかなりしっかりしているほうだと思っていたんだがな……。


──「でも、なにもないというのも、それはそれで面白くないですね……」


「…………っ!?」


背後から聞こえた不穏な発言に振り向くと──


「…………」


既に、そこには幼なじみの少女の姿はなかった。

神出鬼没の雨宮兄妹──既に優子も、そのスキルを受け継いでいたか。

 

……。