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……。
ひたすら、丁寧に丁寧に色を塗っていく。
まだまだ初心者である俺には、慎重であることがなによりも大切だ。
「うん……確かに、ここだと描きやすいな」
コンクールの絵もだいぶ進んだので、今日からは美術室で描くように凪から指示されたのだ。
下絵までは良かったが、細かい塗りの作業は外ではどうにも落ち着かなかったので、正直助かった。
──「ふふ、ふふふふふふふ」
「…………」
今日は機嫌がいいのか、凪は笑いながら描いている。
すぐそばで、一人で笑っていられるとちょっと怖いぞ。
「ふっふっふ、ふふふふふっ」
怖い、かなり怖いが……やはり、凪の絵はとんでもなく凄い。
俺とは違って、ほとんど「無造作」と言っていい手つきで塗っているのに……。
緻密さといい、配色といい、濃淡の鮮やかな表現といい、非の打ちどころがなさすぎる……。
「ふふふふふふ……。ふぅー」
「……戻ってきたか?」
「ん? 夕、こっちを見てないで、しっかり描かないとダメじゃないか」
「隣でそんな神がかった絵を描かれちゃな……見るなというほうが無理だ」
「仕方ないなあ、夕は」
凪は偉そうに言って、偉そうに肩をすくめた。
くそ、どんな態度を取られても、あの絵を前にしては文句も言えない。
「どれどれ、そっちは……うーん、あまり進んでないな」
「別に、ずっと凪のほうを見てたわけじゃないぞ。ただ、俺の作業が遅いだけだ」
「言い訳として、それはどうだろう……」
「確かに……」
作業が遅いのは、偉そうに言うことじゃないな……。
「慎重なのはいいことだ。でも、あまり丁寧にやりすぎても、絵が小さくまとまってしまうぞ」
「はぁ……そういうものか」
「両手に筆を持って塗ってみたらどうだ? 一気にスピードが二倍になる」
「そんな器用なこと、できるわけないだろ!」
「僕はできるぞ?」
「えっ、本当か?」
凪は頷いて、二刀流のように筆を両手に持ち──
「ほら、見てみろ」
さっきの絵の続きを二本の筆でさらさらと塗り始めた。
それぞれの腕が、まるで別の生き物のように動いている……。
「凪、おまえ利き腕はどっちだ……?」
「一応、右だけど、左手でも描いたり塗ったりしてたら、普通に使えるようになった」
「……あっさり言ってくれるな」
本人の言うとおり、左手の塗りも右手と比べて遜色ない。
これなら、本当に二倍のスピードで塗れるのかも……。。
「ずいぶん驚いてるな、夕」
「これで驚かなかったら、どうかしてる」
「うちの父が言ってたが、両手で描ける人間は珍しくないそうだぞ」
「凪ならともかく、広野画伯がおっしゃるなら事実なんだろうな……」
「君、今さりげなく僕をバカにしなかったか?」
「信じられん……絵のことを知れば知るほど、落ち込んでいく……」
「しかも聞いてない……」
広野凪は、間違いなく天才だ。
でも、広野画伯にはまだまだ及ばないらしい。
その広野画伯も世界的な画家ではあるが、本人はまだまだ上がいることを認めていると聞いた。
「う、ううう……」
「ん? どうした、夕? まさか、お腹痛いのか? お薬飲むか?」
「ああっ、くそっ! いちいち落ち込んでいられるか!」
「うわっ!?」
「俺はまだまだ素人なんだんからな! これから、ぶつかる壁には困らないだろ! 一枚ずつ、ぶち破っていけばいいんだ。そうだろ、凪!」
「あ、ああ。そうだな……」
凪は怯えたように、少し後ずさる。
「そ、それにしても……夕は、そんなに熱いタイプだったか?」
「っと、いかん。俺としたことが」
俺だけは、常に冷静沈着でいなければ。
なんせ、周りにはツッコミ甲斐のある、どうかした人材が揃っているから……。
「落ち込んでないで、まずは目の前の絵を仕上げよう」
「うんうん、その意気だ。もう締め切りまで時間がないしな」
「わかってる」
ちなみに、凪はとっくに仕上げまで終わっている。
今日描いていたのも、コンクールとは全然関係のない、練習用の絵だ。
──「あっはっは。いやあ、君たち二人は楽しそうでいいねえ」
「いたんですか、先生」
「部活が始まったときからいたよ!? 君、ちょっと俺の扱いがぞんざいすぎないか!?」
「……雨宮先生は、両手で絵を描けますか?」
「まだ気にしてるんじゃないか」
「あー、俺も若い頃はそんなことしてたかなあ。時間制限があるときとか、大きい絵を描くときは、両手を使ってたね」
「……雨宮先生でさえ、できるのか」
俺は頭を抱えて、目の前の絵を眺める。
たぶん、先生から見ても俺なんてまだまだなんだろうな……。
「あのね、火村くん? 自分で言うのもなんだけど、俺だって昔は『神童』なんて呼ばれてたんだよ?」
「まだまだ、時間ぎりぎりまで粘って、少しでもいい絵に仕上げないと」
「おーい、聞いてるかーい? そりゃ、今はしがない美術教師だけどさ」
「夕も人のこと言えないな。夢中になると、話を聞かなくなるじゃないか」
二人がなにか言っているようだが、今は気にしていられない。
音羽の街の姿をもっと鮮やかに美しく──
俺が好きな街を、俺の絵筆で描き出すんだ。
「ふー。火村くんと広野くんが変わったと聞いたけど、妙な方向に行ってるんじゃないか?」
「まあ……絵描きとしてはいい方向に向かってると思う」
「ふむ……なるほどね。うーむ……」
…………。
……。
「ただいま」
カバンを置いて、ポストから取ってきた郵便物を一つずつ確認する。
「おっ、母さんからか。久しぶりだな」
うちの両親はかなり忙しいらしく、生活費は毎月きちんと振り込んでくれるが、連絡はあまり来ない。
頼りがないのは元気な証拠と言うし、別にかまわないんだが。
「あれ、茜からも来てる。こっちは、ずいぶん筆まめだな。まあ、ちょうどよかった」
茜が優子と結んでいる妙な協定について、一言いってやりたかったところだ。
「返事のついでに、文句をつけるとしよう」
──「なんて書くのかにゃ~?」
「優子におかしな頼み事をしないように。それと、こっちは心配ないからしっかり勉強しろ、くらいですね」
「なーるほど。火村くんは、しっかりお兄ちゃんしてるんだね。うちの兄貴に見習わせたいよ」
「雨宮先生が、俺を見習うっていうのもぞっとしますけどね」
俺は母親と茜の手紙と、その他のどうでもいい郵便物を分けてテーブルの上に置く。
晩飯を食ってから、返事を書くとしよう。
「ああ、お茶は出しませんから適当なところで帰ってくださいね」
「えーっ! なんでいるのかとか、どこから入ったのかとか、ツッコミはナシ!?」
「手紙の確認に気がいっていて、鍵を掛け忘れたんですね。たまにあるんですよ」
金目の物なんてほとんど置いてないとはいえ、戸締りには気をつけないと。
「うう、若くて美しい女教師が訪ねてきてくれるなんて、学生生活最高のイベントなのに……」
「自分で美しいとかいう人に来られても、疲れるだけですから」
「でも、火村くんのそのクールさが、私の心をかき乱すのよね……」
「ダメだ……この人は俺がどう反応しても喜ぶんだった……」
ただツッコミを入れるだけではダメージを与えられないと思ったが、まだまだ甘かったようだ。
「それで、どうしたんですか?」
「ゆうゆう……!」
「目を輝かせながら、変なニックネームを付けないでください。それと、とっとと質問に答えるように」
「やっと訊いてもらえたと思ったら、嬉しくなっちゃって。えーと、実はね。今夜、泊めてほしいんです……」
「タクシー代あげますから、すぐさま帰宅してください」
俺は財布からお札を二枚出して、明里先生の前に叩きつける。
「ぬおーっ。いつもお金ないって言ってるのに、ためらいなくお札を出した!」
「貧しくても、金を出すタイミングだけは間違えないように心がけてるんです」
「火村くん、残念なくらい大人だよね……」
「これだけツッコミ甲斐のある人たちが周りに充実していれば、嫌でもそうなります」
「くう、ある意味私たちが火村くんを育てたようなもんか……」
反面教師としてなら、間違いなくそのとおりだろう。
「しょうがない……事情くらいは聞いてあげますよ」
「グーレイトッ! その優しさが私の愛を加速するぅっ!」
やっぱり、帰らせたほうがよかったかな。
「おっと、愛に震えてる場合じゃなかった。説明だよね」
「はい、説明をお願いします」
「兄さんとケンカしたのよ」
「兄妹ゲンカで家出するような歳じゃないでしょ」
「それは普通のっ、一般家庭のお話っ。うちは違うの!」
「きっぱり言われても……」
雨宮家の人々が、優子も含めて普通じゃないことは知ってるが。
「とにかくっ、私は怒っているの。兄さんと一つ屋根の下にいるのが耐えられないくらいに!」
「……なにがあったんです?」
「えーと、それはとてもプライベートなことだから……口に出すのはちょっと」
明里先生は顔を赤らめて、口をもごもごさせている。
この人が照れるというのは、かなり珍しい……けれど。
「怪しいですね」
「なっ、なにが!?」
「ケンカして、雨宮先生が追い出されるならわかります」
「でも、明里先生が飛び出すようなことを、あのシスコンの雨宮先生がするでしょうか?」
「そっ、それは……。そうだ、この子は特待生資格をとっちゃうくらい賢いんだった……」
なにかぶつぶつ言ってるが、やはりデタラメだったのか……。
ただ、俺の家に泊まろうとする理由はさっぱりわからないが。
「でもね、でもね、火村くん」
「なんです」
「私を、今夜は帰さないで」
「わかりました、寝言を言いたいなら寝ていっていいです」
「私の要望を受け入れてくれてるけど、なんか納得できなーい!」
もう、なにもかも面倒くさくなってきた。
ただでさえ、明里先生の相手をするのは大変なのに、交渉なんてやってられない。
「俺の布団を使っていいですから。シーツの替えもありますし」
「それは不要! 火村くんの匂いに包まれて眠ると決めてきた!」
「台所で寝てもらうか。布団は新聞紙で充分だよな」
「虐待だ! 待遇改善を要求するーっ!」
「いじめられて喜ぶ人の台詞とは思えませんね……」
この人、どの程度のいじめなら快楽に変えられるんだろう?
一度、確認しておかないとな……いつか、逆襲に転じるときのために。
「ま、新聞紙は冗談です。俺の布団を使ってください。泊まるなら、それが条件です」
「ふわー……火村くんは、どうにもなんともだねぇ」
「なにを言ってるのか、わかりませんよ」
具体性に欠ける発言は、避けてほしいな。
ただでさえ、この人はややこしい人格の持ち主なんだから。
「いやあ、ぶっちゃけ優しすぎるんじゃないかなーって」
「優しければ、雨宮先生に話をつけに行ってますよ。泊めてあげるのが、一番面倒が少ないと思っただけです」
「あーん、もうこの照れ屋さんめ。仕方ないから、そういうことにしといてあげるよ」
そう言ってから、明里先生は唐突に台所のほうへ歩いていく。
「明里先生、なにをする気です?」
「だって、お世話になるんだし。ご飯くらいは私が作らないと」
「あ、いえ、それは……」
明里先生の料理か……。
このびっくり箱みたいな人だと、なにを作るかわかったものじゃない。
「あ、バカにしてるね。これでも、雨宮家では私が料理担当なんだから。優子なんて、おみそ汁にダシを入れることだって知らないくらいなんだよ」
「雨宮先生は?」
「男のくせに、私より上手い。それが許せないから、作らせないの」
「な、なんてわがままな……」
雨宮先生も、あれで苦労してるのか……。
「あのねえ、光栄に思いなさいよ。学校でファンクラブができちゃうような美人教師の手料理よ?」
「ああ、そのファンクラブってもう解散しましたよ」
「ええっ、それは初耳だ! 最近、会報の写真を撮りに来ないと思ってたけど!」
「あんた、活動に協力してたんですか。とにかく、先生の厄介な本性がバレて、一人また一人と脱会したらしいです」
これも久瀬からの情報なので、確かなことだろう。
「もっとも、濃いファンは地下に潜って活動を続けてるそうですが」
「そ、そいつはちょこっと怖いね……」
「まあ、そいつらも先生の本性を知ってるわけですから、妙なことはしないでしょう」
「火村くんだけじゃなくて、みんなが私を誤解している……!」
むしろ、ファンクラブに入ってた奴らが明里先生を誤解してたんだろう。
それと、ファンがついていると言ってもストーカーじみたことはしないだろう。
なんと言っても、明里先生には過保護な兄貴がついているのだから……。
「よし、わかったわ! 誤解を解くために、まずは私が意外と家庭的なところをお見せしましょう」
「自分で『意外と』とか言いますか」
「ここに来た真の目的とか、もうどうでもよくなってきた! まずは火村くんに本当の私の姿を見てもらうからね!」
「あー、ええ、わかりました。じゃあ、晩飯はお願いします」
「任しといて! 冷蔵庫の物、使わせてもらうわよ!」
「はい。大したものはないですが、好きに使ってください」
明里先生は、駆け出すようにして冷蔵庫のところまで行き、中身を漁り始める。
「…………」
真の目的、とか思いっきり口を滑らせていたな。
やはり家出には他の理由がありそうだが……今夜は、油断しないように気をつけるとしよう。
…………。
……。
「噂になると、恥ずかしいから……私、先に学校行くね」
「…………」
「ありゃ? あまり受けてないっぽいね? おっかしいなあ、私の時代はこういう奥ゆかしさが受けたもんなのに」
受けるかどうかは、キャラの問題だと思う。
明里先生が言っても、裏がありそうだからな……。
いや、そんなことよりも。
「ま、いっか。時代は変わるもんだからね。火村くんの美味しい朝ご飯もいただいたことだし、今日はパワー全開で行ってくるよ!」
「普段は、全開じゃなかったんですか……」
「大人の女は、本気を出す場面を選ぶんだよ。そんじゃ、行ってきます」
「……はい、行ってらっしゃい」
ばたん、と音を立てて部屋のドアが閉められる。
部屋に一人残された俺は、冷たいお茶を一口含んだ。
「おかしい……」
昨夜は飯を食ってから、何事もなかった。
俺は手紙を書いてから風呂に入り、台所に毛布を敷いて眠った。
夜の間、明里先生が起き出して怪しげな行動に出ることもなく、平和に朝が来て──
「明里先生らしくない……。いくらあの人でも、本当に俺を襲ったりはしないだろうが……なんの悪戯もしないのはあり得ない」
なにか、俺の想像が及ばない壮大な悪戯を考えているのだろうか……。
ただの家出、というよりはよっぽど可能性が高い。
「……悩んでないで、俺も登校する準備するか」
明里先生がなにか仕掛けてきても、俺が油断してなければいい。
さあ、今日も早めに登校しよう。
…………。
……。
「おおっ、火村。珍しいじゃないか、朝から予習なんて」
「…………」
俺は、動かしていたシャーペンをぴたりと止める。
「いつもは、家で完璧に済ませてくるくせにおかしいな。もしかして、女の子が突然やって来て『今夜泊めてください』って言われちゃったとか!」
「……………………」
こいつ、バカのくせにたまに鋭いことを言いやがる……。
まあ、ただ単に思いつきを言ってるだけだろうが。
「最近は、コンクールの絵に追われてるからな。なかなか予習に手が回らないだけだ」
「ふうーん、そうか。一応、火村はまだ絵は初心者みたいなもんだしな。両立は難しいか」
「そういうことだ」
頷いて、俺はノートと教科書を閉じてしまう。
「あれ、もう終わり?」
「ああ。ざっとやっておけば、授業でわからなくなることはないだろう」
「火村が『わかりません……』って顔を赤くしながら言ってくれたら、俺は日本に残ってもいいよ?」
「おまえは、すべてを捨ててドイツへ行ってしまえ」
「ひでぇ! 留学を間近に控えてナイーブになってる美少年に向かって!」
「なにが美少年だ。だいたい、なんで俺がそんなことで顔を赤く──」
──「…………」
不意に、見慣れた姿が視界に入り──次の瞬間、ぎょっとした。
凪が、まるで魂でも抜き取られたかのような生気の乏しい顔をして歩いてくる。
「なんだ……? どうしちゃったんだ、あいつ」
「なんだろうな……?」
ふらふらした足取りで歩いてきたかと思うと、凪はそのまま俺たちの横を通り過ぎてしまう。
「って、ちょい待ち!」
「きゃっ!?」
久瀬が慌てて凪の手首を掴み、彼女の口から細い悲鳴が上がった。
「きゃっ、とか変な悲鳴あげるなよ……。ていうか、時々女になるなよ……」
なにげなく酷いこと言ってるが、俺もちょっと久瀬に同意したい気分だ……。
「べ、別にいいだろう。急に久瀬が腕を掴んだりするからだ。だいたい、僕は女だ。女になるもならないもない」
「そうだけどさあ……らしくないだろ、凪。俺だけならともかく、火村にも挨拶せずにスルーとかさ」
「いや、挨拶はなくてもいいが、どこか具合でも悪いのか?」
「そ、そんなことはないぞ。僕はいつもどおり元気だ。今から久瀬のデスマスクだって作れるぞ」
「俺を殺すところから始めるんかい」
「凪らしからぬ、ブラックなジョークだな……」
元気さとデスマスクの関連性もさっぱりわからない。
「凪、おまえ徹夜で絵を描いたりしたんじゃないのか? 眠いなら保健室で寝かせてもらったほうが」
「…………っ!」
「絵……?」
今、俺が近づいたら凪が後ずさったような……。
心なしか、顔も引きつっているように見える。
「凪、おまえ本当にどうかしたのか?」
「……夕、君のほうこそ僕になにか」
「ん……?」
突然、テープが切れたみたいに凪の言葉が途中で途切れ、彼女は俺を見つめたまま固まってしまう。
「……うう。なんでもない、気にしないでくれ! 僕はおかしな奴なんだ!」
「そのとおりだが、自分で認めるなんて本当にどうかしてるぞ!」
「僕のことは放っておいてくれーっ! また明日ーっ!」
捨て台詞を残して、凪は走り出し、教室を出て行ってしまう。
彼女の足音が聞こえなくなると──周りがやけに静まりかえっていることに気づいた。
俺たちだけじゃなくて、クラスメイトたちも呆然としている。
「凪の奴……帰っちゃったのか?」
「まだ朝のHRもやってないっていうのに……」
ずいぶん大胆な早退じゃないか、おい。
「ああ、くそっ。しょうがないな」
「待った、ゆうゆう」
「……俺、実は陰でそのあだ名で呼ばれてるのか?」
「ん? なんのこっちゃ。今思いついただけだよ」
「そうか……それならいいんだが。いや、よくないが」
「そんなことはどうでもいいさね。おまえ、凪を追いかけるつもりだろ?」
「あんなおかしな状態の凪を放っておくわけにはいかないだろう。俺にとっては、あれでも師匠だ」
「師匠ね……師弟関係になっちゃったのも、よくなかったのかもなあ」
久瀬は苦笑を浮かべて、小さく首を振っている。
「ん……なんの話だ?」
「いやいや、こっちの話さ。とにかく、今は凪を放っておいてやれ。たぶん、火村が行くとかえってややこしくなる」
「…………」
さっきもそうだったが、久瀬はこれでなかなか鋭いところがある。
特に女のことに関しては、俺とは比べものにならない。
「わかってくれた顔だな。それじゃ、ちょっと調べてくるよ」
「あ、ああ。なにかわかったら教えてくれ」
「もちろんだ。任せとけ」
久瀬は鬱陶しいほどさわやかな笑顔を浮かべ、ぐっと親指を立ててみせてから、教室の扉へ向かう。
この男をこんなに頼もしく思ったのは初めてだ。
「……ん? 待てよ。おいっ、久瀬。おまえもサボるつもりか!?」
気づいたときには既に遅かった。
久瀬は既にやる気満々で教室を出て行ってしまい、俺の声はむなしく響くだけだった……。
…………。
……。
ああもう、失敗だ失敗だ失敗だ。
この僕としたことが、あんな無様な姿を見せてしまうなんて。
絶対に、夕に変に思われた!
ただでさえ、変だと思われてるのに、自分からトドメを刺してどうするんだ!
──「凪。おいっ、凪」
「なんだ、うるさいな! 今の僕は解き放たれた猛獣だぞ!」
「嘘つけ、おまえは運動神経ないじゃないか」
「…………」
久瀬は、いつものへらへらした笑みを浮かべながら近づいてくる。
くっ、なんで夕じゃなくて久瀬が追いかけてくるんだ……。
もっとも、夕が追いかけてきたら、大泣きしてでも追い払うつもりだったけれど。
「そんな怖い顔すんな。せっかく可愛いのに、台無しだぞ」
「……久瀬が正面から僕の顔を褒めたのは初めてだ」
「ん-、そうだったっけ?」
久瀬は、あちこちの女の子に可愛い可愛いと言って回っているが、僕にはなにも言ってこなかった。
実はそれがちょっと引っかかっていたけれど……。
「ま、凪は俺の恋愛対象じゃないからね。外見を褒めるのは、彼女にしたい子だけさ」
「……久瀬は、僕が嫌いなのか」
「嫌いじゃないから、友達でいることにしたんだよ。火村も俺の友達だからね──って、ちょこっと喋りすぎかな」
「久瀬、僕は君がなにを言ってるのかさっぱりわからない」
「うん、わからなくてちょうどいいんだけどね。それはさておき。で、なにがあったんだよ、凪」
「……僕にだって言いたくないことくらい、ある」
僕は、思わず視線を逸らしてしまう。
いつから僕は、こんな弱々しい女になってしまったんだ。
「なあ、凪」
「言いたくないって言ってるだろう」
「俺はさ、もうすぐドイツへ留学するんだ」
「……ん。わかってる」
僕は、かすかな違和感を覚える。
久瀬は、いつもどおりのへらへらした表情を浮かべているけど、どこか違う……。
この男も、こんな深みのある顔ができたのか……。
「もうすべての準備は済ませた。部屋は片付けたし、手続きのたぐいも全部終わらせたよ」
「女関係も清算したらしいな」
「それは最優先で……」
ろくでもないというか、清算しただけマシだと思うべきか。
「とにかく、だ。なにもかも終わらせたつもりだけど、実は一つ心残りがある」
「心残り……?」
「そう、心残りだ。凪。おまえのことだよ」
「なっ、なにっ!? ちょっと待て!」
僕は焦って、激しく手を振る。
「ぼ、僕に告白とかされても困る! 僕には──」
「おまえこそ待て! べ、別に告白とは言ってないだろ! そういう話じゃない!」
「あ、そうなのか……すまない、早とちりした。でも、ずいぶん久瀬も焦ってたな。どうしてだ?」
「気にするな。というか、どこまで話が逸れていくんだよ……」
「うん、久瀬の未練の話だったな。それが解消できないと、成仏できないのか」
「いや、俺まだ生きてるから。そうじゃなくてね」
久瀬は、なにもかもあきらめたような顔をして、首を振る。
この数十秒で、老け込んだように見えるな。
「まあいいや。もう、さっさと話を済ませちゃおう」
「最初からそうしろ」
「偉そうだなぁ……まず、凪になにがあったのか話してくれ。俺の話はそれからだ」
「君の心残りのために、か」
「こんなこと言うのは卑怯かもしれないがね。俺はたぶん、この国には戻ってこない。誰も俺えを知らないドイツで、一からヴァイオリンを勉強し直して。マシな演奏ができるようになったら、世界を回って俺の演奏を聴かせにいくつもりだよ」
「……冗談を言ってる顔じゃないな」
それに、根拠のない妄想でもないだろう。
僕はまだ、久瀬の演奏を直接聴いたことはないが、これでも天才少年と呼ばれているらしい。
「でも、僕だって天才少女と呼ばれてるんだぞ」
「なんの話だよ」
「お、悪い。つい、脳内の話を口に出してしまった。続けてくれ」
「要するに……俺は、もう充分に学園生活を楽しんだ。だけど、おまえと火村のことだけが気になってる」
「ぼ、僕と夕のこと……?」
あああ、たぶん顔が赤くなっている。
僕はこんなにも自分の感情を隠せないタイプだったか。
「火村も基本的には鋭い奴なんだけどな。この手のことには慣れてないせいか、鈍い。そこで、俺の出番なわけだ。日本を去る前に、お節介をしたいんだよ。俺は、おまえと火村のために手を貸してやりたい。これは、久瀬修一の最後のお願いだと思ってくれ」
「最後のお願い……か」
僕は少しだけ迷ってから、小さく頷いた。
「……今朝」
「ん?」
僕は、ぐっと拳を握りしめる。
「今朝、夕の家へ行ったんだ……」
「え? でも、火村、今日も一人で登校してきたぞ」
「昨日の夜、夕が描いてる絵で直せばよくなるところを思いついて。それを教えてやろうと思っただけで。早く教えたくて。それで、夕のアパートへ行ったんだ。そしたら、夕の部屋から……部屋から……」
うう、思い出しただけで……なんだか泣きそうだ。
忘れてしまいたい光景なのに、鮮明に絵にできるくらいしっかり記憶に焼きついてしまっている。
「明里先生が出てきたんだ!」
「あちゃあ……」
「あちゃあ、じゃない! 僕にはそんなリアクションで済ませられることじゃないんだぞ!」
「わ、わかってるよ」
くうっ、八つ当たりなのはわかってるけど、久瀬の苦笑いが異様に腹が立つ。
なんとなく、僕は取り返しのつかないことをいくつか認めてしまっているようだけど、気にしていられない。
「のんびりしていたのは、やっぱり失敗だった……明里先生、あの人があんな行動に出るなんて」
「いやぁ……でも、まだなにが起きたか確かめたわけじゃないだろ」
「いくら僕でも、なにがあったかくらい、想像がつく!」
夕は茜(アネ)ちゃんが寮に入ってから、一人暮らしだ。
強引にでも、うちに居候させておくべきだった……。
「イロジカケ……」
「は?」
「イロジカケだ! こうなったらイロジカケしかない!」
「待て待て! 色仕掛けって、なんなのかわかってるのか!?」
「それは……うなじとか下着とかをチラっと見せればいいんだろう?」
「わかってるようで、わかってない感じだな。とりあえず、落ち着け。話は理解したから、今度は俺の話を聞いてくれ」
「んん……?」
「俺がいいことを教えてやる。悪ふざけじゃない、これは真剣な話だ」
目の前がわずかにかすんで見えるのは、涙が浮かんできているせいだろうか。
落ち着けと言われても、無理だろうけど。
今は久瀬でも誰でもいいから……助けてほしい。
僕を、助けてほしい。
…………。
……。
なぜか、チャイムの音がいつもより長く鳴っているような気がする。
もちろん、普段となにもかわらないのだろうが──
礼を済ませ、教師が教室から出て行った。
「……あいつら」
凪も久瀬も結局、放課後になるまで戻ってこなかった。
なにを考えてやがるんだ……。
帰り支度をして、教室を出る。
久瀬はともかく、凪のことは気になるが、絵を仕上げないといけない。
案外、凪は美術室にいるかもしれないしな。
──「おーっ、火村くん」
「……どうも」
「コンクールの絵はどうだい? そろそろ出さないとまずい頃だよ」
「昨日はかなり進んだので。すぐに仕上げに入ります。調整さえ済めば、上がりですね」
「そうか。そいつはなにより。でもまあ、コンクールって言ってもお祭りみたいなもんだからね。あまり結果を気にせず、楽しんでやればいいと思うよ」
「わかってます。凪にも、あまり気負わないように言われてますし」
……ああ、そうだ、一応雨宮先生にも訊いておくか。
「先生、凪を見ませんでしたか?」
「広野さん? いいや、今日は見てないな。美術の授業もなかったしね。広野さん、どうかしたのかい?」
「今朝、学校には来たんですけど……急に帰っちゃって」
「別にそれくらい、珍しくないんじゃないかな?」
「それもそうなんですが……」
凪は描きたいものを思いつくと、授業中でも帰ってしまうような奴だから……。
「見かけたら、火村くんが捜してたって伝えておくよ」
「はい、お願いします。それと……」
「ん? なんだい?」
「……いえ、なんでもありません」
明里先生のことを言ったほうがいいのだろうけど。
だが、家出の理由はデタラメかもしれないが、明里先生の自分の居場所を雨宮先生に知られたくないかも。
一応、黙っておいてやろう。
「そういえば、雨宮先生のほうは、なにか俺に用事でもあったんですか?」
「え? あ、いや、そんなことはないよ。火村くんは最近どうなのかと思っただけさ。はっはっは」
「…………」
なんだろう、どこか先生の態度が怪しげだ。
元から全体的に怪しげな人ではあるが、この態度はおかしい。
「雨宮先生。あなたが、明里先生をけしかけたんですか?」
「なっ、なんでそれを!?」
「言ってみるものですね。ほとんどカンだったんですけど」
ついさっき、明里先生のことは黙っておこうと決めたばかりだが、こうなれば話は別だ。
「い、いや。正確には違うよ。俺が明里をけしかけたわけじゃなくて。火村くんと広野くんが微妙な関係になってるって話をしたら、明里が君のところへ行くって言い出して」
「……俺と凪の関係はともかく。なんで、それで明里先生がうちに来るなんて展開になるんです?」
「ふっ……明里の考えてることなんてわかるはずないだろう」
「果てしなく頼りにならない兄……いえ、教師ですね」
「俺は教師としても若いほうだよ。まだまだ未熟だねえ」
生徒の前で悟られても困る。
「妹のことくらいはわかりたいんだけどね。確か、明里の奴……。家を出て行くときに、『誰かがかき回してやらないと、あの二人はずっとあのまま』とかなんとか言ってたかな」
「それは確かに意味不明ですね……」
行動も言ってることもめちゃくちゃだ、明里先生は。
「まあ、明里先生のことはいいです。とにかく、あの人が自宅に戻るように全力を尽くしてください」
「説得できる保証はまったくないけどね」
「本当にダメだ、この人は……」
「おお、そうだ。火村くんはこれから部活だよね。邪魔して悪かった。それじゃ、頑張ってね」
雨宮先生は、軽く言ってくるり身を翻す。
おい、顧問……少しは部活に出てくる気くらいは見せてくれ。
「しかし……なんだろう、このもやもやは」
色んなことが起きて、それが一つも解決していない。
俺にできることは……やはり、絵を仕上げることくらいか。
…………。
……。
最後の一瞬まで──
最後の一筆を描き終わるまで、絶対に油断してはいけない。
一つの間違いが、すべてを台無しにすることもあるのだ。
「…………ふう……」
慎重に、絵から筆を離して、一息つく。
「うん……」
音羽の駅前を描いた、なんでもない風景画。
瓦礫の下から蘇った街を、それぞれの表情を浮かべた人々が歩いていく景色。
シンプルだが、確かに街と人の姿がそこに存在している。
「悪くはない……な」
ずっとデッサンばかりやっていたせいか、色を塗った絵を完成させたというだけで、妙な達成感を覚えてしまっている。
もちろん、こうして見ているだけでおかしなところも見つかってしまう。
だが……。
──「うん、確かに悪くない」
「……こっそり近づくのはよせ」
「普通に入ってきたぞ。夕がちっとも気づいてくれなかっただけだ」
「ちゃんと気づいてほしいな」
「……すまん」
そうだな、俺が気づいてやらないと。
凪はすぐに、周りが見えなくなってしまう奴だしな。
「こっちも悪かった。師匠とか言ってるのに、ちゃんと見てやれなかった」
「いや……充分見てくれたよ。俺一人じゃ、描き上げることだってできなかったかもしれない」
「夕は真面目だからな。一人でも、最後までやっただろう」
そう言って、凪は俺の絵をじっと見つめる。
彼女のその目は──無心に絵を描いているときのそれと同じだ。
「ん……これが、本当の夕の絵なんだな。勉強のためとか、人に言われて描いたものじゃなくて。いい絵だ」
「…………」
ああ、そうか。
飾り気のない誉め言葉が、一番嬉しいものなんだな。
「ありがとうな、凪」
「別に、僕は感想を言っただけだ。お礼を言うのはおかしい」
「俺はやっぱり、この絵が描き上ったのは、凪のおかげだと思う。凪が絵を教えてくれて、一緒に描いてくれたからだ。感謝してもしきれない」
「……夕は色んなことを気にしすぎだ。自分の力で描き上げたと思っていいのに」
「もちろん、自分の努力も否定はしないさ」
俺は、凪に笑いかける。
こう言ったほうが、凪も納得してくれるだろう。
「そうそう、これは本当にいい絵だからな。夕だからこそ、描けたんだ。っと、見とれていてはいけないか。乾くまで誰も触らないように、準備室に運び込もう」
「準備室に置いといていいのか?」
「雨宮先生に言っておけば大丈夫だ。準備室は鍵がかかるし、安心だ」
そういえば、凪の絵もまだ提出せずに、準備室に置いてあるんだった。
明日にでも、さっそくコンクールの事務所に提出しに行こう。
「これで絵のほうは片づいたな。後は……」
「ん」
俺がなにを言いたいのか察したらしく、凪は頷いた。
「今朝は驚かせて悪かったな、夕」
「別に謝らなくてもいいんだが……」
「ただ、僕は……いいや、そうじゃない。僕が今しなければいけないのは、説明じゃないな」
「ん……?」
凪が、ぎゅっと拳を握りしめてなにか考え込むような顔をする。
どことなく、顔も赤くなっているように見える。
「夕……ちょっとだけ変なことをするけど、許してくれるか?」
「今さら、凪が変なことをしても気にしない」
「少し傷ついた……」
「あ、そんなつもりじゃないんだ。つい……」
「……夕のバカ」
ぽつりと、そんなつぶやきが聞こえたかと思うと。
「…………っ」
「…………!」
軽い衝撃とともに、凪の身体が俺の胸に飛び込んできていた。
彼女の柔らかさと、髪の甘い匂いに──ふと、意識を奪われる。
「凪……?」
「まだ、なにも言うな。少しだけこのままで……」
「…………」
本当は、わかっていた。
違う──少し、違う。
俺はわかっていたのに、気づかないふりをしていたんだ。
できるだけ正直であろうとしているのに、その気になればいくらでも嘘がつける。
自分すら、簡単に騙せてしまう。
「なにを考えてる、夕」
「……なにも言っちゃいけないんじゃないのか」
「意地悪だな、夕は……」
「俺の意地が悪いことくらい、ずっと前から知ってただろう」
「そうだな……」
凪が、ぐっと身体を押しつけてくる。
「夕が意地悪だから、僕がこんなことをしなくちゃいけなくなった」
「俺のせいか」
「うん、君のせいだ。君は……君のような男は、女がこうして行動してみせないと、わかってくれないんだろう……?」
どうやらまた、久瀬になにか吹き込まれたようだ……。
まったく、あの男は……とんでもないお節介をしてくれる。
だが、凪の言っていることに間違いはない。
俺は、今になってようやく──自分への嘘に気づけたのだから。
「凪、俺は……」
「待て。待ってくれ。もしも、答えが決まっていないなら──答えが見つかるまでなにも言わないでくれ」
「いや」
俺は小さく首を振ってから。
「あ……」
そっと、凪を抱き寄せる。
「答えは、もう見つかってる。というより、今だからこそ、見つかったのかな」
「ど、どういうことだ?」
「二人で描いた絵ができて、凪がはっきりと気持ちを示してくれた。これだけのお膳立てがあって、自分の気持ちにも気づかないようじゃ、救いようがない」
俺は、凪を抱き寄せる腕に力を込める。
「凪は行動ではっきり示してくれた。だから、俺は言葉で示すよ」
「夕……?」
たぶん、俺は二つのことに気づいてしまったのだ。
凪が抱えていた気持ち、俺に向けていた気持ち。
そして、俺が抱えていた気持ち、ずっと凪と一緒に居続けた理由。
俺たちを結びつけたものは、絵だった。
俺は凪の絵にどうしようもなく惹かれ、彼女は俺の能力を育ててくれた。
この美術室で過ごしてきた時間──そこには、ただ絵を教わっているというだけじゃない、大事なものが含まれていたと思う。
「俺たちが見ていたのは、夢だけじゃない。遠い未来だけじゃない。俺はずっと、おまえを見ていた」
最初に出会った日、キャンバスに向かう彼女を見たときからずっと。
「凪。俺は、おまえが好きなんだと思う」
「…………っ」
凪は小さな声を漏らし、俺にもはっきりとわかるくらい身体を硬直させた。
「どうした、凪。できれば、もう少しわかりやすい反応をしてほしいんだが」
「あ……す、すまない。意外に、ストレートに言われたものだから……ちょっと動揺してしまった」
「ちょっとどころじゃなさそうだぞ」
落ち着きなく身体を小刻みに動かしているし、相当に動揺しているようだ。
せっかく冷静に言えたのに、こちらまで心臓が早鐘のように……。
「おかしい、期待してた答えをもらえたのに、どうして僕はこんなに変になってるんだ」
「まあ……気持ちはわからないでもない」
凪に抱きつかれた瞬間の俺だって、かなりおかしくなっていた。
やむをえないことだろう。
「えーと……それで?」
「それでって、なんだ?」
「ぼ、僕はどうしたらいいんだろう。わかりやすい反応と言われてもどうしたらいいか、見当も付かないというか、僕は夕に答えを強制するようなマネをしてしまったんじゃないかと心配に」
「いや、なにも心配することはない」
俺はなんとか自分を落ち着けて、凪から身体を離して笑顔を向ける。
「答えはもう俺の中にあったんだ。凪がきっかけを作ってくれてありがたいと思ってる。むしろ、俺のほうこそ凪に無理をさせたんじゃないか?」
抱きついてくるなんて、凪の行動としてもっともあり得ないことだからな……。
「それはない、それはないぞ。ただ、ちょっと混乱してるというか……頭がどうにかなりそうというか」
「そこまでか……」
恋愛沙汰に弱いのはお互い様だが、凪は少し常軌を逸している気がする。
これまで、絵のことばかり考えてきたからか……。
「ああ、あああ……ごめん、本当にごめん。みっともないところを見せてしまって……」
「そんなことは……ないさ」
正直、ここまで慌てふためく凪は面白いし、妙に可愛い。
凪は美人だと思っていたが、こういう可愛さも持っていたんだな……。
「凪」
「え?」
「嫌だったら、そう言ってくれ。ちゃんと止めるから」
「え、え?」
俺は、戸惑う凪の肩に手を置いて、再びそっと引き寄せる。
凪を強く、強く愛しく感じている。
今でなければ、こんなことをできる自信がない。
だから──
「凪……」
「ゆ、夕……」
真っ赤に染まったな凪の顔に、ゆっくりと近づいていく。
その小さな唇はわずかに震えていて、かすかに吐息が漏れだしている。
俺は、彼女の肩を抱いたまま──
「ん……」
優しく、唇を重ねた。
ほんの少し、軽く触れ合わせるだけのキス。
それでも、広野凪の唇の柔らかさと、吐息の熱さがこちらに伝わってくる。
「ん、んん……」
きっちりと10秒。
凪と唇を重ね合わせていたのは、たったそれだけの時間だった。
俺は彼女から唇を離し、小さく息を吐き出す。
「…………」
「はぁ……ゆ、夕……いきなり……なにを……」
「嫌だったら言えって断っただろう」
「な、なにをするかまでは言わなかったぞ。僕にだって心の準備が必要だったんだ」
凪は、さらに動揺が激しくなったようで、意味もなく手をわたわたと振っている。
「あのな。準備の時間を与えるような余裕なんて、あるわけないだろう。一応言っておくが……俺だって緊張したんだぞ」
「夕って緊張するのか……?」
「おまえ、俺をなんだと……」
これでも人間なのだから、緊張するに決まってる。
「初めてこんなことをしたんだからな。普通にできるわけないだろう」
「は、初めて? 夕も初めてだったのか」
「……まあな」
余計なことを言ってしまったが、もう遅い。
「うーん……ゆこちゃんとも明里先生とも茜(アネ)ちゃんともしてなかったのか」
「一人、絶対にキスなんてできない相手が混ざってるぞ」
実の妹の唇を奪うような外道だと思われては困る。
「だいたい、優子も明里先生も茜と変わらない。身内みたいなものなんだから、キスなんてするわけがない」
「ん……そうだよな。夕は、なんとなく経験豊富に見えてたから」
「ご期待に添えなくて悪いな」
音羽に入るまでは茜の面倒をみたり、雨宮家の連中に振り回されたりだった。
入学した後は、特待生として成績の維持と、絵の勉強で精一杯だったんだ。
恋愛などしている暇はなかったし──
「たぶん、俺は初めて会ったときから、凪が好きだった。だから……他の奴と付き合ったこともないよ」
「そ、そうか! 実は僕も誰とも付き合ったことはない! 弟以外の男と手を繋いだこともないくらいだ!」
「それはわかってる」
「きっぱり言われるのも、少しショックだな……」
嬉しそうに熱弁したかと思うと、いきなり落ち込んだ。
忙しい奴だな、まったく。
「まあ、慌てることはなにもない。落ち着こう、凪」
「無茶を言う……あんなことされて、落ち着けるはずがないだろう……」
「じゃあ、やはりしばらくここにいるしかないな。そんな真っ赤な顔で歩いてたら、通行人に何事かと思われる」
「え? そこまで赤くなってるのか、僕……」
凪は、ぶんぶんと首を振っているが、もちろんそんなことをしても赤くなった顔は元に戻らない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。少し時間をくれたら落ち着くから」
「ああ、いくらでも待つよ」
絵も描き上がったのだし、なにも急ぐことはない。
しばらく、いつもと違う凪の姿を眺めさせてもらおう。
「今日はこのまま、ここで下校時刻までのんびり過ごそう。ああでも、凪がなにかしたいことがあるなら……」
「な、なにもない。夕が一緒ならそれでいい……」
「……じゃあ、そうするか」
さりげなく、とんでもないことを言ってくれるな……。
「帰る頃には暗くなってるだろうから、家まで送ろう。それでいいな?」
「う、うん……でも、一つだけ」
「うん?」
「ひ、一つだけお願いがあるんだ」
「……なんだ?」
「しばらく、手を握っていてほしい。そうしたら、落ち着けるような気がするんだ……」
凪は、困ったように視線をさ迷わせている。
そういえば、まだ手すら握ってなかったか……。
順番がおかしいな、と俺は苦笑してから。
「わっ……」
「おまえが握ってくれって言ったんだろう」
「うん……」
俺にぎゅっと手を握られて、凪は顔を赤くする。
なんだか段々、こっちも顔が熱くなってきた……。
この程度のことで照れていて、恋人付き合いができるのか少し不安だ。
だが、これでいいんだろう。
もう既に、俺と凪の新しい関係は始まっている。
不安はあるけれど──凪の手のぬくもりがそれを忘れさせてくれる。
だからきっと、大丈夫だ。
…………。
……。
蝉がうるさいほどに鳴いている。
朝だというのに、既に日差しがきつくて、歩いているだけで汗が滲んでくる。
ああ、もうすっかり夏だな。
──「夕」
「ん?」
ぼんやりした顔で隣を歩いていた凪が、突然こちらを向いた。
「昨日、一つ思いついたことがあるんだ」
「なんだ?」
「夏休みになったら、二人で旅行にいこう。もちろん、泊まりがけで」
「…………っ」
俺は思わず、なにもないところでつまづきそうになってしまう。
ただでさえ、一緒に登校するようになって目立ってるのに、変なマネをするわけにはいかない。
「夕、なにを遊んでるんだ?」
「遊んでるんじゃない。おまえは、朝からなにを言ってるんだ」
「昼になってから言えばよかったのか?」
「そういう問題じゃない……。いきなり、とんでもないことを言い出すな」
「ん? 僕はおかしなことを言ったか?」
「言ったよ。思いっきり言った。二人で旅行って言われてもな……」
唐突に大胆な話を切り出されても、困惑するしかない。
いくらなんでも、二人きりで旅行というのはハードルが高いのではないだろうか。
「別に変な話じゃないだろう。どこか景色の綺麗なところに行って……要するにスケッチ旅行だな」
「あ、ああ……そういうことか」
「やはり君は風景画のほうが向いてるみたいだしな。それにデザイナーを目指すなら、色んな景色を見ておいて損はない」
「まあ、そうだろうな……」
ただ、それでも二人だけで旅行に行くという点に変わりはない。
その場合……。
「広野画伯は許してくれるのか?」
「は? 父さんがなんで出てくるんだ?」
「そりゃ、父親の許可は必要だろ。娘が……男と二人で旅行に行くとなれば。ああ、いや。さすがに、俺と行くとは言わないか」
「普通に言うぞ。というか、父さんは特になにも気にしないだろう。うちの父が怒るとしたら、僕が下手な絵を描いたときだけだ」
「さすが芸術家一家だ……」
どうやら、俺の常識は広野家には通じないらしい。
全力で芸術家への偏見を助長する一家だな……。
「それで、まだ返事をもらってないんだが、どんなものだろう?」
「あ、ああ。なんとか行けるだろう。予算は、多少限りがあるが」
「うん、僕も外国とか無茶は言わない。卒業したら、外国なんていくらでも行けるしな」
「外国は勘弁だな……。でも、なんで急にそんなことを思いついたんだ?」
「それは……」
凪はかすかに頬を染めて、視線を逸らす。
「だ、だって……付き合い始めたのに、これまでと変わらないじゃないか。一緒に登下校するくらいじゃ、ちょっと……」
「…………」
「無理に変えなくていいと言っても、変わらなすぎじゃないか……?」
言われてみれば、確かにそのとおりだ。
凪と付き合い始めて以来、俺たちの行動パターンにはほとんど変化がない。
「ん? 待て待て、凪の言うとおりだが、それは当然のことだろ」
「当然?」
「同じクラスだから、学校ではずっと一緒みたいなものだし」
「うん」
「放課後は部活で、これまた一緒だろう」
「そうだな」
「時々、買い物に行ったり遊びに行ったりもしてる」
「僕は一人で買い物できないからな」
「ずっと前から、俺たちの行動パターンはこんな感じだ。これ、ハタから見れば付き合ってるようにしか見えないぞ」
「そっ、そうだったのか!」
まあ……俺も今になって気づいた。
時々、久瀬や優子が混ざってきてたとはいえ、完全にカップル同士としか思えない。
「意外な事実だ……僕としたことがまったく気づかないなんて」
「いいや、おまえはこういうことには疎いだろ」
俺も人のことは言えないが。
「で、でも。それはそれとして、このままじゃなにも変化がないだろう」
「まあな」
「だから、旅行はいく! 別になにも障害はないんだしな!」
──「旅行かあ。いいなー」
「…………」
「明里先生……?」
なんの脈絡もなく現れた明里先生が、嫌そうな顔をしてこちらを見ていた。
俺より先に出たはずなのに、なんでまだこんなところにいるんだ。
「私なんて、夏休み中に研修とかあるんだよね。教師にも1ヶ月くらい休みをくれてもいいのに」
「そりゃ休みすぎでしょう……」
「先生って、この時間に学校に着いてなくて大丈夫なのか?」
「ああ、ちょっとコンビニで立ち読みしてたら時間を忘れて熱中しちゃって」
「それが、社会人の台詞ですか……」
雨宮先生は甘やかしていそうだし、いっそろえが教育し直したほうがいいのかもしれない。
この人の影響で、優子までわけのわからん大人になっても困るしな……。
「というわけで、私は行くね。若人たちよ、いい青春を送りたまい」
明里先生は、疲れた顔で手を振って、小走りに学校のほうへ歩いていく。
「……ところで、また話は変わるんだが」
「今度はなんだ?」
「まだ、明里先生は夕のところに居候してるのか?」
「おまえ、知ってたのか!?」
「あ、そうだった。夕にはまだ話してなかったっけ」
凪はどうでもよさそうな顔で、去っていく明里先生の背中を見ている。
どうして、こいつはこう次々と爆弾発言をするんだ。
「ま、僕は別にかまわないぞ。ある意味、明里先生の行動がきっかけになったことだし」
「きっかけ……?」
「こっちの話だ、気にするな。それに、いざとなれば明里先生くらいどうにでもできるしな」
「なんか、怖いな……」
「それも気にするな。さあ、旅行のプランでも練りながら行こう」
「凄い話題をさらりと流すんだな……」
凪が気にしないというなら、それまでだが……。
明里先生のことは、早めになんとかしておいたほうがいいのかもしれない。
…………。
……。
昼休み──
俺と凪が、昼食を済ませて芸術論を交わしていると。
「あれ?」
雨宮先生が首を傾げながら、こちらへ歩いてくるのが見えた。
「どうかしたんですか、雨宮先生。ここには、優子も明里先生もいませんよ」
「あのね、俺も年がら年中妹たちを追いかけてるわけじゃないんだよ。今は仕事中だからね」
「つまり、仕事がないときはいつも追いかけてるってことだろうか?」
「それは疑う余地がない」
「反論の余地もないね」
雨宮先生はにっこり笑って、認めてしまう。
シスコンって、この人にとっては弱点にならないのか。
「ゆこちゃんたちのことじゃないなら、他になにかあるのか?」
「いやね、このクラスにしてはずいぶん静かだと思って」
「ああ、そんなにはっきりわかりますか」
確かに、俺だけじゃなくて凪や他のクラスメイトたちも同じことを感じているらしい。
今やすっかり、この広い教室の雰囲気は変わってしまったのだ。
「あいつがもういませんからね」
「そうか、久瀬くんか」
雨宮先生が、少しだけ寂しそうな顔をする。
先生は久瀬とはほとんど付き合いはなかったはずだが、それでも思うところがあるらしい。
あいつは、色んな意味でインパクトのある男だからな……。
「もう行ってしまったんだねえ」
「ええ、突然行ってしまったんですよ。俺たちは、1学期が終わるまではいるって聞いてたんですけど」
「僕らになにも言わずに、行ったんだ。まったく、最後までふざけた男だ」
実は、俺たちが付き合い始めてすぐに、凪と二人で送別会をやってやろうかと話していたのだが。
企画を練り始めた直後に、久瀬はなにも言わずに旅立ってしまった。
もちろん凪は、送別会が潰れたことに怒っているのではない。
別れを言えなかったことが悔しくて──寂しいんだろう。
「まあ、いかにも久瀬のやりそうなことだけどな」
「うん、そうなんだが……」
俺も凪と同じ気持ちではあるけれど、永遠の別れというわけでもない。
いつかどこかでまた会うこともあるだろうから、そのときに文句をたっぷり言ってやろう。
それと──
凪の告白を後押ししてくれた礼も、一応言わないとな。
「おっと、そうだ。今はその話は置いといて。ここじゃなんだな。二人とも、ちょっと来てくれるかい?」
「はぁ」
「うん」
…………。
……。
「ま、ここでいいか。職員室まで行くのも面倒だろ?」
「職員室でしないといけない話なんですか?」
「一応、まだ他の人には内緒の話なんだよ」
雨宮先生はそう言って、白衣のポケットから折りたたまれた紙を取り出す。
「例の、街の絵のコンクールの件なんだけど」
「ああ、それですか」
「そういえば、あれは締め切りから発表まですぐだったな。もう結果が出たのか?」
「うん、そういうこと」
どくん、と一瞬心臓が跳ねたのがわかった。
常に冷静でいたいと心がけているが、さすがにこの場合は……。
「音羽特別記念賞──つまり、金賞だね。言うまでもないけど、広野さんが受賞した」
「そうか」
「無感動だな……」
凪は本気で特になにも思わないらしく、いつもどおりの無表情だ。
「広野さんは、金賞なんてうんざりするほど、とってるだろうからね」
「それでも、めでたいことですよ。おめでとう、凪」
「あ、ありがとう」
金賞をとったことじゃなくて、俺に褒められたことで動揺するのか。
本当に変わった奴だよ……。
「うん、俺たちが祝福しない理由はないね。おめでとう、広野さん。それで、次は火村くんなんだけどさ」
「……はい」
「えーと……残念ながら、受賞は逃したよ」
「…………」
──今度は、心臓は跳ねなかった。
ただ、雨宮先生の言葉がするりと胸の一番深いところに滑り込んできたような──そんな感覚を覚えた。
「そう……ですか」
「夕……」
「しかし、正直言って驚いたよ」
「え?」
「コンクールの審査員に知り合いがいるんで、ちょっと訊いてみたんだけどね、最終審査には残ったらしいよ。しかも、最後まで審査員特別賞を争ったそうだし。これは、なかなか凄いことだよ」
「でも……賞はとれなかったわけですから」
「気にすることはないんじゃないかな? お祭りみたいなコンクールだけど、本格的に美術やってる人たちがかなり出してたみたいだし。絵を始めて1年ちょっとで、ここまでやるなんてなあ」
雨宮先生は、ちらりと凪を見てため息をついた。
「むしろ、俺が自信なくしそうだ。たぶん、俺がつきっきりで火村くんに教えてもここまでのレベルにはできなかったよ。広野さんは、教えるほうにも才能があるみたいだね。まったく、二人とも驚かせてくれる」
「僕はただ、普通に教えただけだ。夕は、人の何倍も頑張ってたから」
「うん、わかってる。とにかく、そういうことだから。広野さんは終業式で表彰されることになってるんで、それまで他の人には内緒ってことでよろしく」
「もしかして、檀上に上がらされるのか……あれ、嫌いなんだ」
「受賞しちゃった以上はしょうがないよ。あきらめてくれ」
雨宮先生は笑いながら凪の肩を叩き、ついでに俺の背中も叩いた。
「それじゃあ、お邪魔しました」
そして、もう一度俺たちに笑顔を向けてから、職員室へと戻っていく。
すると、急に昼休みの喧騒が耳に入ってきた。
どうやら……雨宮先生との会話によほど集中していたらしい。
俺は、呆然と雨宮先生がいなくなった空間を見つめてしまう。
「……あれ? 夕?」
「大丈夫だ、落ち込んでない」
心配そうな顔を向けてくる凪に、軽く手を上げてみせる。
雨宮先生が言ったことがおおむね正しい。
上出来すぎると言ってもいいくらいだろう。
「…………」
頭ではそれがわかっているのに……。
この、こみ上げてくる悔しさはなんだ……。
…………。
……。
「…………」
放課後になり、俺は一人であの絵を描いた場所へやって来た。
特に深い理由があって来たわけじゃない。
ただ、今日のうちにこの場所を見ておきたかったのだ。
「落選か……」
ここから見た景色を描いた絵には、それなりに自信があった。
だがそれは、単なる身の程知らずでしかなかったわけだ……。
──「夕」
「…………」
突然、後ろから聞こえた声に振り返る。
いつものように無表情な広野凪が立っていた。
いや──少し、怒っているようにも見える顔だ。
「俺、行き先を言わなかったぞ」
「僕にだって君の行きそうなところくらいわかる。あまりバカにするなよ」
「バカだなんて思ってないさ」
むしろ、バカなのは俺のほうだった。
少し上達したくらいで、コンクールで結果が出せるなんて思っていたんだからな。
「そうか……それならいいんだが。やっぱり、気にしてるんだな、夕」
「反省してるだけだ。これまで、勉強はやればやっただけ結果が出てきた。でも、絵のほうはそうそう上手くいかない。そのことを認識できただけでも、収穫があったと思うべきだろうな」
なんと言っても、俺はまだ初心者。
生まれたときから絵筆を持っていたような凪とは違うんだ。
充分にわかっていたし、明里先生にも言われていたのに。
「なにか考え込んでるな」
「反省中だと言っただろう」
「反省するのは悪いことじゃない。落ち込むのも、時には必要だ」
凪は淡々と言って、俺の目をまっすぐに睨んでくる。
「僕だって、まだ父の絵には追いつけない。そこそこ売れている画家なんだから、当然なんだが。それでも僕は悔しいし、父さんに絵をけなされれば、腹が立って、食事に毒を盛りたくなる」
「それは単なる八つ当たりじゃないか……?」
さすがに広野画伯も、娘がこんな恐ろしいことを考えているとは夢にも思っていないのでは。
「八つ当たりをしたくなるほど悔しい、ということだ。こんなのは人間として当たり前の感情だ。夕が落ち込むのも、別にかまわないと思う。だけどな……」
凪は目を細めて、ずいっと身体を近づけてくる。
「今回のことで、夕と僕がぎくしゃくするのは嫌だ。言っておくが、僕はもう片思いに戻るつもりはない。夕、落ち込むにしてもあまりうじうじするなよ。これだけが言いたかった。では僕は帰る」
「え」
戸惑う俺の前で、凪はくるりと踵を返す。
それから、振り返りもせずに歩き去ってしまった。
「……言いたいことだけ言っていったな」
だけど凪の奴、あれで俺に気を遣ってくれたんだろう。
俺から見れば才能の塊みたいな凪も、挫折を知っているような話だったし……。
毒はともかく、父親と関係がおかしくなったこともありそうだ。
「……反省はこれくらいにしておくか」
…………。
……。
「たっだいまー。ゆうゆう、お水ちょうだい、お水」
「…………」
「ああっ、その凍りつくような視線! 久しぶりにゾクゾクきたぁっ!」
この人だけは、思いっきり反省するべきだな……。
主に、自分の人生についてとか。
「飲んでるんですか、先生」
「んにゃ、一滴も。先生方とカラオケ行ってきたの。いやあ、歌った歌った。ノンストップで3時間くらい、あかりん・オン・ステージだったね」
「……シラフでそこまでハイテンションになれるのが凄いですね」
「わ、珍しい。火村くんに褒められるなんて」
今のを褒められてると解釈するのか。
酒以外のヤバイものに手を出してるんじゃないだろうな。
「火村くん、忘れてそうだけど、私は音楽教師だからね。これでも、歌はちょっとしたもんなんだよ」
「担当教科どころか、職業を忘れそうでしたよ」
「ああ、まあ私が聖職者ということを忘れたほうが、火村くんにも都合がいいか……」
「いえ、あんたが聖職者だろうと聖人だろうと手を出す気は微塵もありませんから」
「あえて手を出さずにじらす戦法か……やるね、火村くん」
「眠いならもう寝てくださいね」
というか、この人は俺と凪の関係を知ってるんじゃないのか。
「もちろん寝るけど、その前に火村くんに一つ話があるんだった」
「ようやく出て行ってくれるんですか」
「ん-、もう少し気楽な生活をエンジョイしたいね。家では上からいじめられ、下の面倒を見なきゃいけないもん」
「好き勝手やってるくせに……」
兄をいじめて、妹で遊んでる──が正しいだろう。
「そうそう、私の上の兄妹から聞いたんだけど」
「はぁ」
「例のコンクール、すぱっと落選したって?」
「すぱっと……」
明里先生にデリカシーを期待するわけじゃないが、なかなか面白い言い方をしてくれる。
「まあ、よくあることよ。芸術系に進むなら、学校の課題とコンクールに延々と苦しめられることになるんだから」
「そういえば、先生も言ってみれば芸術系なんでしたね……」
「忘れないでよ。私の歌はちょっとしたものだけど、ピアノはさらになかなかのものなの」
「俺、先生のピアノは聴いたことないですね」
「火村くん、音楽室に近づかないからね」
「そりゃあ、用もないですから」
それに、みずから虎の巣穴に近づくようなマネをするものか。
俺が選択科目で音楽を選ばなかった理由も、説明するまでもないだろう。
「震災があったよね」
「は?」
「私たちみんなが経験した、あの震災だよ。あのときの雨宮家のこと、聞いてる?」
「ええ、一応簡単には……」
以前に、優子から少し聞かされた記憶がある。
「確か、雨宮の家も燃えたんですよね。そのとき、雨宮先生が明里先生を助け出したとか」
「そう、焼け落ちていく家から兄さんに引っ張られて外に連れ出してもらったの。火の勢いが凄かったからさ、正直もうダメだと思った。でも、兄さんが命懸けで助けてくれて。安全なところに落ち着いてから、まずは兄さんに感謝したよ。もちろん、神様にもね。それから……ああ、これでまたピアノが弾けるって思ったの」
「…………」
「とまあ、これくらいピアノが好きでずっとやってた私でも、コンクールには落ちまくったし。プロのピアニストにはなれなくて、音楽教師をやってるわけよ。もちろん、今の仕事は好きだけどね」
「……先生は、幸せそうに見えますよ」
「もちろんよ」
明里先生は、笑って頷く。
本当にこの人は、たまに教師らしいことを言うから始末に負えない。
「火村くんが悔しがるのはわかるけどね。後は、この悔しさをどうやって乗り越えるか……。それは若さに期待だね」
「そこは適当なんですね……」
苦笑いしてみせたものの、困っているわけではない。
聞かせてもらった話だけで、俺には充分すぎる。
後は……俺がどうやって、気持ちに踏ん切りをつけるかだ。
……。