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「ふー……」
授業が終わり、俺は背もたれに身体を預ける。
油断するとコンクールの絵をどう直せばもっとよくなったかなんて考えてしまっている。
成績を落として、特待生資格を失いでもしたらシャレにならない。
そういう意味でも、いつまでもこだわっていられないな。
──「あらあら、夕くん。そんな不機嫌そうな顔してたら、ますます殺し屋に見えますよ」
「……お前は2年の教室でなにやってるんだ」
「わたしは2年だろうが3年だろうが、物怖じしませんよ。別に怒られませんしね。美少女は得です」
「俺がもっと、しっかりしつけておくべきだったか……」
「あらら、また疲れた顔になっちゃって。そんなあなたに朗報です」
「ん?」
訝しむ俺に、優子はにっこり笑って封筒を差し出してくる。
なんの変哲もない、ごく普通の白い封筒だ。
「なんだ、それは?」
「招待状です。後で、ちょっとお時間をください」
「後で……?」
「はい、後で。凪先輩、夕くんを少しお借りしていいですか?」
「うん、ゆこちゃんならかまわない」
いつの間にか凪がすぐ近くにいて、偉そうな態度で頷いた。
「でも夕は僕のだから、取っちゃダメだぞ」
「…………っ」
思わず椅子から転げ落ちそうになってしまう。
こいつは、教室でなんてことを……!
「あはは、そこは心配無用ですよ、凪先輩。夕くんは、施設でわたしのお兄ちゃんになってくれましたから。あくまで妹ですよ、雨宮優子は」
「一応、雨宮先生も兄なんじゃないのか?」
「あれはあれ。これはこれ、です」
「なるほど」
なるほど、じゃない。
あれとかこれとか……兄と呼ぶなら、少しは尊敬してほしいものだ。
「詳しい日時などはそこに書いてありますから。よろしくお願いしますね、夕くん」
「……一応、わかった」
去って行く優子の背中を見ながら、俺は封筒を開ける。
「で、いつだって?」
「えーと、今夜の8時……?」
優子がこんな時間に俺を呼び出すとは……。
場所も、書き間違いじゃないかと疑いたくなるようなところだな。
「8時か。それなら、部活には出られるな」
「……問題はないな」
「ちゃんと出てくるんだぞ。デッサンもやらないといけないしな」
「わかってる」
今回のことで、基礎がまだまだ固まっていないことも理解した。
俺はもっともっと、手を動かさなければならないんだ。
…………。
……。
久しぶりに対面したアグリッパは、やはりこちらの気が滅入るような顔をしていた。
雨宮先生に言わせると、「精悍(せいかん)な顔つき」らしいので、俺の感性はズレているのかもしれない。
「ん……」
「手が止まってるぞ、夕」
「あ、ああ」
隣で同じデッサンしていたはずの凪が、こちらを鋭い目つきで睨んでいる。
このザマじゃ、師匠が怒るのも無理はない。
「それになんだ、そのデッサンは。まるで始めたばかりの初心者じゃないか」
「どうも、今日は上手くカタチが取れないんだ」
「考えすぎだ。元から、そんなに上手くできてなかった」
「……はっきり言ってくれるじゃないか」
「悪いところは悪いと言わないと、いつまで経っても上達しないだろう」
「そのとおりだな……」
普段から言いたい放題の凪だが、特に絵のことになると容赦がない。
前にも本人が言ってたとおり、彼女自信がそうやって教えられてきたからだろう。
「何度でも言うが、デザインだろうと油絵だろうと、デッサンは必須だからな。これが上手くならないことには、どうにもならない。苦手意識は、早めに消すんだ」
「ああ……」
それは充分にわかっているんだが……。
どうしても、鉛筆が動いてくれない。
この前まで、自分がどうやって描いていたのか──そんなことを考えてしまう。
「気が散って集中できてないようだな。考えすぎてたら、なにも描けないぞ」
「言われなくてもわかってる。それくらいは……」
「わかっていても、ダメか。じゃあ、今日はもういい」
「え?」
「これ以上やっても、たぶん無駄だ。描き続けても、得られるものはなにもない」
「……わかった」
この酷い絵が、余計に酷くなるだけだろう。
凪に言われる前に自分で理解して、止めるべきだった。
「もう帰っていいぞ。僕はもう少し続けるが」
「だったら、俺だけが先に帰るわけにはいかないだろ」
「そうか。まあ、そこにいても僕は気にしない」
淡々とした調子でそう言って、凪はおもむろに制服に手を掛けた。
「待て!なにをする気だ、凪!」
「ん? 決まってるだろう。久しぶりに裸婦デッサンをやろうと思って」
「や、やっぱりそうか」
「僕はデッサンも得意だが、練習しないと腕が落ちる」
「わ、わかった! わかったが、俺の前で脱がないでくれ!」
裸婦デッサンはいい勉強になるらしいが、凪の場合は自分の裸を姿見に映して描くという荒技を使うからな……。
「なにを慌ててるんだ。前にも、僕が裸婦デッサンしていたところは見てるだろ?」
「そういう問題じゃない……」
前に見てしまったときは、少なくとも凪は友達でしかなかった。
だけど、今は──
今、凪の裸をそういう形で見たくないし、見てしまったら自分がどうなるか。
「悪い、やっぱり帰るよ」
「別に止めはしない。好きにしてくれ」
「ああ」
「でも、夕」
「ん……?」
凪は真剣な表情を浮かべ、目は俺にまっすぐ向けてきている。
まるでこちらの心を見透かすような、強い輝きを放つ瞳に、俺は少し怯んでしまう。
「君は、よくない方向にむかおうとしてる。だけど、それを正せるなら。その方法が思いついたなら。僕にできることなら、なんでも協力する。絶対に遠慮はするな。僕は……夕が好きなんだ。だから、なんでもできる。なんでも……」
「少しだけ、時間をくれ」
そう答えるのが精一杯だった。
凪は、こんな俺に対してもまっすぐに向き合おうとしている。
彼女の優しさに応え、いつもの自分に戻るにはどうしたらいいのだろう……。
…………。
……。
「こんばんは、夕くん」
夏とはいえ、これだけ高い場所だと風も強く、冷たい。
そんな中でも優子は、にっこりと微笑みを浮かべていた。
「なにを考えてるんだ、優子」
「はい? なにがです?」
「もう下校時刻も過ぎてるのに、こんな時間に学校の屋上に呼び出しなんて、まずいだろう。だいたい……」
俺は、周りを眺めてため息をつく。
「なんで屋上に入れるんだ。というか、俺は屋上の存在を忘れてたぞ」
「ああ、普通の生徒はここには入れませんからね」
「まあ、おまえは普通じゃないが……」
「ひどいですねー。そうじゃなくて、わたしは天文部なんですよ」
「天文部……?」
言われてみれば、優子が天文部員だという話を聞いた記憶はある。
だが、特になにか活動しているようにも見えないので、忘れていた。
「天文部は、下校時刻を守ってたら星なんて見られないですからね。許可をもらって残ってるんです。もちろん、屋上の鍵もちゃんと正式に借りてきてるんですよ」
「なるほどな……」
俺なんて、わざわざ教室に隠れてこの時間になるのを待っていたというのに。
「ん? 他の部員の姿が見えないぞ」
「ええ、部員はわたし一人なんですよ。3年の部員がいらっしゃったんですが、最近引退しちゃいまして。2年生はいなかったし、新入部員はわたしだけだったので。こうして一人寂しく星を見てるわけですよ。よよよよ……」
「泣き真似はいい。しかし、部員が一人でよく廃部にならないな」
「そこは、姉さんが学校に掛け合ってくれまして。来年の春まで待ってもらえました。来年、1年生部員をゲットすればそれでオーケーらしいです」
「明里先生も強引だな……」
賭けてもいいが、雨宮先生も裏で暗躍したに違いない。
過保護だな、あの二人は。
「話はわかったが、なんで俺が天文部の部活に参加しないといけないんだ?」
「えー、兄さんと姉さんから夕くんがへこんでるという話を聞きまして。星を見ると元気が出るんですよ。だからこうして、お誘いした次第です」
「おまえも、ずいぶんはっきりと言うな……」
「気を遣い合うような間柄でもないでしょう?」
優子はまたにっこり笑って、近くに置いてある望遠鏡を軽く叩く。
「さあ、星を見ましょう。夕くんは、いつも石膏像とか街とか眺めてますけど。たまには、夜空を見上げるのもいいものですよ」
「夜空か……」
俺は、空を見上げながら、ゆっくりと歩いていく。
確かに、意識して星を見ることなんてここ数年なかったな……。
「あっ、夕くん。歩き回ると危ないですよ」
「危ないって、なにが……」
そこまで言って、俺は気づいた。
この屋上には、当然あるべき柵がなく、縁のところが少し高くなっているだけだ。
「基本的に立ち入り禁止ですからね。わざわざ柵で囲ってないんです」
「危ないな……」
「気をつけてくださいね。ここから落ちたら、夕くんでも死んじゃうかもしれません」
「かもしれない、じゃなくて間違いなく死ぬだろ」
月明りで、ある程度は周りが見えるが、これは本当に気をつけたほうがよさそうだ。
「おとなしく、望遠鏡を見ていましょう。ほら、夕くん、どうぞ」
「…………」
俺は優子のそばに歩み寄って、望遠鏡を覗き込んでみる。
望遠鏡で星を見たのは初めてだが、意外なほどにくっきりと見える。
もっとも……。
「星は綺麗だが、どの星がなんなのか、さっぱりわからん」
「あーそれはわたしもよくわかりません」
「天文部なんだろ!」
「だって……ちゃんと教わる前に、先輩方が引退しちゃったんですもん」
「……独学でいいから、勉強しておけ」
唯一の部員がこんなに適当なのがバレたら、春を待たずに廃部になりかねない。
「むー、一人でお勉強するのって大変なんですよ」
「俺も星のことまでは教えられないしな」
「夕くんはいいですよね。部活で、ちゃんと教えてくれる人がそばにいるんですから」
「…………」
「しかも、誰もが認める天才、凪先輩ですし。夕くんはラッキーですよ」
「それは、充分すぎるくらいわかってるさ」
何度となく実感してきたことでもある。
自分が上達していると感じることはあっても、凪に追いつけると考えたことは一度もない。
きっと俺は──凪にずっと劣等感を覚えていた。
今、彼女との距離が近づいたところで、また力の差をはっきりと示されたから、俺は──
「あらら、またなにか考え込んでる顔ですね。夕くんは、生真面目すぎるんですよ」
「そういう性分なんだ。知ってるだろう」
「天才で、しかも美人の凪先輩に、毎日手取り足取り教えてもらえてラッキー♪ その上、俺の女にしちまったぜ! もう笑いが止まらないな! ──って感じに考えていいんじゃないですか?」
「久瀬じゃあるまいし、そこまで軽く考えられるわけないだろ……」
優子のこの思考も、明里先生の影響だろうな……。
「好きなんでしょう、凪先輩も絵も」
「……いきなりなんだ」
「わたしは、こうして星を見るのが好きです。屋上を独り占めして、ぼんやりと夜空を眺めるのは最高ですよ」
「今日は、俺がいるけどな」
「夕くんは特別です。わたしが好きな人ですからね」
「…………」
優子は夜空を見上げて、嬉しそうに微笑む。
「凪先輩も久瀬先輩も、姉さんも……ついでに兄さんも、みんなみんな大好きです。好きっていうのは、凄いエネルギーを生み出しますよね。だから、わたしは毎日楽しいし、笑っていられます。夕くんも、好きなものをもう一度見つめ直してみたらどうでしょう? きっと、なにかが見つかりますよ」
「……ずいぶん、偉そうなことを言うじゃないか」
苦笑してしまいそうになるのをこらえつつ、俺は優子の顔をじっと見つめる。
いつの間にか──この子もすっかり立派になってしまった。
「茜ちゃんと、手紙でよくこんな話をするんですよ。どっちがより幸せか、みたいな感じで」
「なにをしてるんだ、おまえたちは」
今度こそ、俺は笑ってしまう。
優子といい、茜といい、どこまでも前向きなんだな。
好きなもの、か──
「でも、大事なことだな。好きってことは」
「おお、夕くんからそんな台詞が飛び出すなんて意外です」
「半分、おまえが言わせたようなものだろうが」
俺は、ぽんと優子の頭に手を置いた。
「ありがとうな。なんとなく、わかったような気がするよ。俺がなぜ迷ってたのか、これからどうすればいいのか」
「いえいえ、どういたしまして。もし、夕くんの力になれたのなら──わたしだけじゃなくて、茜ちゃんにも感謝してあげてください」
「また手紙を書くよ」
「はい。茜ちゃん、きっと喜びます」
「ああ」
俺には大事にしたいものがいくつもある。
そして、好きな人と追いかけたい夢がある。
今は迷ってしまっているけど、もう一度見つめ直してみよう。
きっと、そこからまた始まるはずだ。
…………。
……。
「凪」
「んん……?」
翌日の放課後。
一人で教室を出て行こうとしていた凪を呼び止めた。
「どうかしたのか、夕。一緒に買い物にでも行くか?」
「いや、そうじゃない」
凪の口調は淡々としているが、普段と変わりない。
昨日、俺がまったく描けずに逃げるようにして美術室から飛び出したというのに。
本当に、いつもどおりの広野凪だ。
「部活に行こう。今日も美術室は使えるだろ?」
「部員は僕ら二人だけみたいなものじゃないか。あそこでなにをしたって、誰も文句は言わない」
「そうでもないが」
以前、1年の女子が凪が裸で裸婦デッサンをしているところを目撃して、逃げ出したことがあったそうだ。
雨宮先生のところに抗議が来たらしいが、凪には伝わってないのか。
「まあ、それはいい。美術室に行こう」
「うん」
…………。
……。
やはりというか、美術室には誰もいなかった。
もしかして、俺と凪が怖い顔で絵を描いてるから、人が近づかなかったりするんだろうか?
「そうだ、昨日描いた裸婦デッサンがあるけど、見てみるか?」
「いや、遠慮しとく。あと、それは人に見られないようにしておけよ……」
「前にもその注意をされたな。一応、準備室の鍵のかかる棚に入れておいたが」
「それでいい。完成したら、ちゃんと家に持って帰れよ」
「うん、わかった」
凪が素直な性格で助かった。
彼女のデッサンは正確すぎて、身体つきを見事に表現してしまっているのだ。
はっきり言って、ヌード写真となにも変わらないので、他人に見られないほうがいい。
「ところで、僕のデッサンを見るんじゃないなら、なにしに来たんだ?」
「実は、凪に頼みたいことがあるんだ」
「頼み……?」
凪はきょとんとして、首を傾げる。
俺が頼み事をするのは珍しいだろうから、驚いているのかもしれない。
「それは、夕のスランプのことと関係があるのか?」
「そのこととも関係ある。だけど、それだけじゃない」
「全部だ。すべてを解決するために、俺にはやらないといけないことがある。凪にも協力してほしい」
「……よくわからないが」
凪は戸惑った表情をしながらも、俺に近づいてくる。
「夕の頼みを僕が断るわけがない。どんな願いでも叶えてやろう」
「おまえ、女の子がそういうことを言わないほうがいいと思う」
凪はあまり色気のあるタイプではないが、無造作にこういうことを言うから困る。
「……そうだな、まず最初に頼み事の内容を話ししておこう。凪の絵を描かせてほしい」
「えっ。ゆ、夕のほうから言ってくるとは意外だな」
「そこまで動揺されるのも、少し意外だ」
凪はモデルになるのも慣れているのかと思っていた。
父親や弟のモデルを何度もやっていると聞いた記憶もあるしな。
「うん……そっちから脱げと言われるとちょっと……」
「誰も脱げとは言ってない! 服を着たままでいいんだ!」
「あ、そ、そうなのか。夕も成長したなと思ってしまった」
「俺が成長しても、凪にヌードモデルになれとは言わない……」
歳の割に落ち着いてると言われてる俺でも、同級生の女の子の裸を冷静に描ける自信はない。
彼女であろうと、そこは同じだ。
「でも、美術系に進むのならいつか必ず、裸婦デッサンをやることになるからな。僕で慣れるのもいいんじゃないか?」
「凪でテストをするつもりもない。そうじゃなくてだな」
まさかと思うが、こいつは俺に真面目な話をさせないつもりなのか。
とにかく、話を進めてしまうしかなさそうだ。
「正直、俺は落ち込んでいた。それなりに自信のあった絵が、あっさり落選したんだからな。もちろん、俺だって凪と同じ気持ちだ。こんなことで、おまえとぎくしゃくしたくない」
「うん……」
「おまえがトップで、俺は落選。あらためて、凪を凄いと思う。同時に、やっぱり悔しいし、自分が情けない」
「誰だって、最初から上手くできるわけじゃない。みんな、その悔しさを乗り越えていくんだぞ」
「そうだ、俺も乗り越えなきゃいけない」
俺は、ぐっと拳を握りしめる。
たぶん、落選したことはきっかけだった。
俺が無意識に抱えていた凪への劣等感を、浮き彫りにしてしまった。
やっと──彼女への気持ちを確認したところだったのに。
「俺は凪を絵描きとして尊敬していて、それでもおまえの上手さを妬ましくも思ってる。だけど、今は──今は、それだけじゃない。俺は、尊敬も嫉妬も越える感情を持っている」
「……それは?」
「それがなんなのか、凪の絵を描けば表現できると思う。凪にも、わかってもらえるような気がする」
「ん……」
凪は、ほんのかすかに頷いた。
「そう言えば、まだ夕に描いてもらったことはなかったな」
「昔、茜や優子を遊びで描いたことがあるだけだ。そもそも、人物をちゃんと描いたことがない。初めて描くなら、凪がいい。いや、凪じゃなければ意味がないんだ」
とんでもなく恥ずかしいことを言ってる。
しかし今は、恥ずかしがっていないで、真実を伝えなければならない。
「……僕の絵を描ければ、君が今忘れそうになっているものも取り戻せる。そういうことか」
「保証はないけどな。でも、やってみなくちゃなにも始まらない」
「少しずつ、元の夕に戻ってきてるみたいだな。うん、わかった。僕なんかでよければ、いくらでも描け。ここなら、誰にも邪魔されない」
「ああ」
俺も頷いてみせると、凪は手近な椅子を引き寄せて、そこに座った。
「ポーズはこんな感じでいいか? それとも、立ってたほうがいいか?」
「どれくらい時間がかかるかわからん。座っていてくれ。ああ、本とか読んでいたほうがいいかもな。たぶん、退屈だぞ」
「その必要はない。夕を見てる」
「…………」
「ずっと見てるから」
「……わかった」
あまり見られていると描きにくそうだが、絵に没頭していれば気にならないだろう。
それに、こっちにまっすぐ視線を向けてくれている凪を描いてみたい。
「それじゃあ、さっそく始めるぞ」
「うん」
…………。
……。
ゆっくりと、慎重に鉛筆を走らせていく。
いつもどおり、とにかく丁寧に──と心がけているのに、段々と動きが早くなってくる。
頭の中が異様なくらいにクリアで、どこに線を置けばいいのか、考える必要もなく理解できてしまう。
「…………」
凪は座ったままのポーズで、まったく身動きしない。
こちらへ視線を固定したまま、柔らかい表情を浮かべている。
「凪」
「ん……?」
「俺は、街を作りたいと思ってるんだ」
「知ってる」
「あの震災で一度、この街は死んだ。だが、以前よりもずっと綺麗な姿でよみがえった」
「夕は、音羽が好きなんだな」
「ああ、街がよみがえる過程も全部見てきたからな。人間の想像力と実行力の凄さを思い知ったよ」
茜と優子、施設のみんなと眺めてきた景色。
瓦礫の上に、新しく生まれ変わっていく街。
あの光景との出会いが、俺に夢を見させた。
いつか自分も、涙が出るほど綺麗な景色を作り出してみたいと。
「俺は、夢をあきらめたくない。この街を好きな気持ちを、忘れたくない」
「君は忘れたりしないさ。夕は、まっすぐな奴だからな」
「時々迷ってしまうがな。今は、凪がいるから夢を見失わずに済んだ」
「…………」
凪の顔が、かすかに赤く染まっているように見える。
動じていても、身体を動かさないのはモデル慣れしているからか。
「好きな事をして行きたいなら、挫折くらい乗り越えないとな。甘えてなんか、いられない」
「前に、父さんも同じようなことを言ってた……」
「そうか……」
広野画伯も、若い頃はかなり苦労したと聞いたことがある。
あの人もいくつもの挫折を乗り越えて、今のような高名な画家になったんだろうな。
「好きなことをやるために、何度でも立ち直る。夕ならきっとできるだろう」
「ああ。それと──今はもう一つ、好きなものがある」
自分でも驚くほど鉛筆が走る。
少し勢い任せが過ぎて、構図が悪いかもしれない。
凪の姿を正確に描いてるとは言えず、かなり俺の主観が入っていると思う。
でも、これでいい。
これでいいのだと──そう思える。
「……できた」
「早いな……」
「2時間以上は経ってるけどな。ありがとう、凪」
「いいから、僕にも見せてくれ」
「ああ、もちろん」
凪はゆっくりした動作で立ち上がり、俺のところへ歩いてくる。
そして、俺の背中にくっつくようにして画用紙に描かれた絵を覗き込んだ。
「…………」
「……どうだ」
「構図のバランスが悪いな。もっと、濃淡もくっきりさせたほうがいい。この太ももの辺りとかも、量感が足りないな。カタチを取ればいいものじゃない、と何度も教えただろう。石膏デッサンと人物デッサンは、違いもけっこうある。でも、基本は同じだからな」
「……ダメか?」
「ダメだと思うのか?」
凪の声は真剣そのものだ。
冗談を言っているのでも、俺を責めているわけでもない。
「いいや、全然そうは思わない。これが今の俺の全力で──しかも、自分の力以上の絵が描けたと思う」
技術的には多くのものが不足しているだろう。
デッサンの試験に提出したら、笑い飛ばされるかもしれない──けれど。
「ここには、俺の目から見た、広野凪の姿が描いてある」
「夕から見た僕の姿か……。美人だな」
「…………っ」
またもや、椅子から転げ落ちそうになる。
まあ、確かに……この絵に描かれた凪は美人だが、本人に言われると……。
「ふうん……なるほど……。というか、この絵は……」
「今度はなんだ?」
眉をしかめているところを見ると、また悪いところが見つかったのか。
「な、なんだか見てると恥ずかしくなってくるな。夕、気持ちをこめて描きすぎじゃないか……」
「…………」
「これなら、裸を描かれるほうがまだ恥ずかしくない……。うう……」
凪の顔がみるみる真っ赤に染まってくる。
彼女の照れた顔を見るのもこれで何度目だろう。
感情表現に乏しい女の子だという認識があったが、今はもうそんなことは思わない。
俺が描いた絵の中の凪も、無表情に見えていくつもの表情が見え隠れしている。
「ダメだろ、夕! こんな恥ずかしい絵を描いたら!」
「ダメなのか!?」
「あ、いや……ダメじゃないが……僕だダメになりそうだ……」
なにを言ってるんだ、こいつは……。
「と、とにかく。もうなにも言う必要はない。この絵を見れば全部わかった……。この絵はちゃんと描けてる。もちろん技術は足りないけど、そうだな……。あえて言葉にするなら、『いい絵』だ、これは」
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。僕はただ、素直に感想を言っただけだ」
「ああ」
凪の絵を描けたというだけで、まだスランプから脱出したというわけではない。
それでも、俺はまた描けるようになるという確信がある。
そして、自分の気持ちを込めた絵を描けたというだけで、充分に満足だ。
なにより、凪に絵で気持ちを伝えられたことが素直に嬉しい。
「うわぁ、もう本当にダメだ。こんな絵を見せられたら……!」
「…………っ、おい」
また、凪が俺の胸に飛び込んでくる。
前に抱きつかれたときよりも勢いよく、まるで体当たりのような勢いで。
「な、凪……」
「ごめん。どうしようもなくなったら、こうすればいいのかと思って」
「間違いじゃないが……俺以外の奴には、こんなことするなよ」
「わ、わかってる。僕がそんなことするわけないだろう」
「…………」
俺は笑って、今度はしっかりと彼女の身体を抱きしめる。
凪の身体は俺そうなほどに細くて、柔らかい。
「ゆ、夕」
「こうしてると落ち着くな……しばらく、このままでいいか?」
「……いいけど、よくない」
「どっちなんだ……?」
凪は俺の胸の中で、小さく首を振った。
それから、頬を紅潮させて、おずおずとこっちに視線を向けてくる。
「その……僕はけっこう気まぐれだし、それに……意外と恥ずかしがり屋だと思う」
「まあ、そうだな」
「だ、だからなかなか今みたいな気持ちになることはない。夕の絵で僕はたぶん興奮してるんだ……」
「それは嬉しいが……」
結局、なにを言いたいのかわからない。
今みたいな気持ち、というのは具体的にどんな気持ちなんだ?
「も、もう。あまりはっきり言わせないでくれ。僕は今……夕と離れたくない。ううん、もっと夕と近づきたいとか……そんなことを思ってるんだ!」
「…………凪」
「言わせるなと言ってるだろ……。そんな優しい目をしても、これ以上は話さないぞ。あ、でも。一つだけ言っておくけど……今度、僕がいつこんな気持ちになるかわからないからな。さっきの絵より、もっともっと凄いものを見せてもらわないと、無理かも」
「それは難しい注文だな……」
「夕が作る街を見せてくれないと、ダメかもしれない」
「そこまでハードルが高いのか……」
いったい、何年先の話になってしまうのやら。
もちろん、凪の言いたいことはわかるけれども。
「夕、僕のことを凄く面倒くさい女だと思ってるだろう?」
「あ、いや。そこまでは、さすがに」
「いいや、僕は面倒くさい女だ!」
「力強く言い切らなくてもいいだろう。本当に俺は面倒だなんて思ってない」
「夕は優しいからそう言ってるだけだ。だから……い、今がチャンスだぞ」
「……チャンス?」
「えっと……僕が夕の気持ちに応えるには……こんな絵を見せられて、僕ができることは……。夕の気持ちを受け入れて……ううん、君の全部を受け入れることだと……思うんだ……」
「…………」
もしやとは思っていたが、そういうことなのか。
凪は……俺にすべてを許すと、そう言ってるんだろう。
照れ屋の彼女が自分から言い出すなんて思わなかったが……。
「いいんだな、凪」
「う、うん……僕だって……女の子なんだぞ。好きな人となら、そういうことを……してみたい」
「…………」
もう、これ以上なにも確認することもない。
凪が覚悟しているのなら、俺は彼女を求めたい。
この腕の中にいる、細い身体をもっと強く抱いて──すべてを、奪ってしまいたくなる。
「凪」
「ん……」
凪は、すっと目を閉じた。
俺は彼女を強く抱きしめ、少しずつ顔を近づけていく。
「ふ……」
凪の唇から吐息が漏れると同時に、俺たちは唇を重ね合った。
俺は凪の身体をしっかりと抱き、しつこいほど唇を重ねていく。
前の触れるだけのキスとはまるで違う。
強く押しつけるようにキスして、自分の唇で挟むようにして彼女の柔らかな唇を何度も味わう。
俺たちはお互いを求め合った……。
…………。
……。
「……もう下校時刻か」
「あれ……いつの間にそんな時間に」
俺と凪は、同時に窓の外を見る。
まだ陽は沈んでいないが、俺たちがぼんやりしていた間に、ずいぶん時間が経っていたようだ。
「帰らないと……いけないな」
「そうだな……」
いくら誰も来ないと言っても、裸でいるわけにもいかないので、凪はちゃんと制服を着ている。
本音を言えば、今日はずっと凪と裸で抱き合っていたい気分だった。
「もう少し、ここにいたかったのにな……」
「仕方ない。そのうち、雨宮先生も様子を見に来るだろう。その前に帰ったほうがいいかもしれない」
「ん……」
凪は呆然としたまま、肯定も否定もしなかった。
彼女の様子は明らかにおかしいので、雨宮先生に見つかると、勘ぐられる恐れがある。
「帰ろう、凪。今日も家まで送るから」
「ありがとう……けど、その前に」
「ん?」
「夕のデッサン、もらっていいか? 家でじっくり眺めてみたいんだ」
「別に俺はかまわないが、飾られたりすると、照れくさい」
「時々取り出して、眺めるだけだ。僕以外の人には見せたくないしな」
凪は嬉しそうな表情になって、俺のデッサンを手に取る。
こうして見ても、本当にいい出来だと思う。
「そうだ。今度は、僕が夕の絵を描いてやる。どれだけ僕が君を想っているかを知って、恥ずかしがるといい。いや、そうなると僕も恥ずかしいが」
「なにがしたいんだ……まあ、モデルくらいならいつでもやるけどな」
「モデルは、慣れない人間にはけっこう辛いぞ。というか、わざわざ本物を見る必要はない」
凪はそう言って、俺の顔をじっと覗き込んでくる。
「これまでずっと、夕だけを見てきたんだ。なにも見なくたって、描ける」
「…………」
これはまた、ずいぶんと恥ずかしいことを言うな。
さっきの行為の最中にも、ここまで恥ずかしくならなかったぞ……。
「じゃあ、それはまた明日だ。帰ろう、凪」
「うん」
凪は頷いて、こっちに近づいてくる。
「えっと……それで、夕」
「ん?」
「できれば、手を繋いで帰りたいんだ……。夕は照れ屋さんだから、ダメか……?」
「……ダメなわけないだろ」
俺は微笑んで、こちらから彼女の手を取る。
しっかりと彼女の手を握る──決して離れないように。
「ちょっと照れくさいな」
「おまえが繋ぎたいって言ったんだろ。ほら、行こう」
「ゆっくり歩くぞ。できるだけ長く一緒にいたいからな」
「また、おまえはそんな恥ずかしいことをストレートに……」
呆れてしまうが、こういうことを言ってしまうのが広野凪で。
俺は、彼女のことが好きなのだ。
「いいだろ、素直に思ったことを言っただけだ」
「ああ。凪はそれでいい」
手を繋いだまま、美術室の扉へと歩き始める。
俺たちは本当の意味で今日──恋人同士になったのだと思う。
…………。
……。
「おはよう、夕。さっそく、デッサンを持ってきたぞ」
翌日の朝──
いきなりの訪問者は笑顔でそんなことを言いながら、一枚のデッサンを押しつけてきた。
「……おまえは、加減を知らないのか」
「加減? なんのことだ?」
昨日の今日で、しかも朝っぱらから持ってこなくてもいいだろうに。
「いや、なんでもない」
だが、俺のために描いてきて、早く見せたいから持ってきただけなんだろう。
あまり嫌がっては可哀想だ。
「そうか。とにかく、見てくれ」
「…………」
俺はとりあえず頷いて、凪からデッサンを受け取る。
やはり、凪の腕前はとんでもない……。
モデルも無しで描いたと思えないほど、俺の姿を正確に描いている。
そして、ただ写実的なだけではなく、人物が紙から飛び出してきそうなほど、描写がいきいきとしている。
「……さすがに凄いな」
「だろう? デッサンは何百何千枚と描いてきたけど、これは最高傑作かもしれないぞ」
実力を知っていても、圧倒されてしまう。
だが、もう彼女を妬んだりはしない。
俺には俺の、自分だけが描ける絵があって。
描きたい絵を描くために、頑張っていくと決めたのだから。
「そうそう、筆が乗ったから、油絵も描いてみた」
「どれだけ手が早いんだ、おまえは」
「ほら、見てくれ」
「うっ……」
サイズは小さいが、こちらも凄まじい迫力に満ちた絵だ。
俺がキャンバスに向かっている姿を描いただけの、なんということのないモチーフなのに……。
「うわっ、凄っ。広野さん、さすがね。これ、お金取れるんじゃないの?」
「……まだいたんですか」
「いたわよ。知ってるくせに、なに言ってるの」
いや、凪の絵に気を取られて存在を忘れてしまっていた。
「ああ、おはよう、明里先生。もう学校行っていいぞ」
「あー、わかりやすく人を邪魔者扱いするねえ」
「これから、夕とこの絵について語り合いたいんだ。先生は、絵はわからないだろ?」
「そうでもないよ。これでも、小さい頃から兄貴を見てきたからね」
「そういえばそうだった」
雨宮先生も、子供の頃から絵描きを目指してたんだしな。
明里先生自信も、実は絵の心得があったりするのかもしれない。
「よかったら、俺が評価を下そうか?」
「わたしにも、わたしにも見せてください」
「…………」
なんかまた、二人ほど上がり込んできたぞ……。
なんで平日の朝っぱらから千客万来なんだ……。
「これでも一応、美術教師だからね。絵のキャリアだって、君たちよりはそこそこ長いし」
「いえ、……あの、なんでいるんですか? 優子まで」
「朝からすみません、夕くん」
優子が苦笑いしながら、ぺこりと頭を下げる。
「いえ、兄さんがそろそろ限界だと言うので」
「限界?」
「なあ、明里。そろそろうちに帰ってこないか? 優子も寂しがってるよ」
「わたしは別に……」
「兄さん、末っ子はこう言ってるけど」
「むしろ、姉さんがいなくてわたしの心労が半分になったというか」
「末っ子のくせに言ってくれるじゃない」
「わあ、優しい笑顔がこわーい」
「僕の絵の話がどこか行ってる……」
なんか……カオスだな。
人の家でなにしてくれてるんだ、この連中は。
「雨宮先生。どうせすぐに学校で会うんですから、わざわざうちに来なくてもよかったでしょう」
「いやあ、本当にもう我慢できなくなっちゃってね。明里のいない生活に限界を感じて」
「お迎えに行く、というのでわたしは付き添いで。邪魔なら、連れて帰りますよ」
「そうしてくれ」
「火村くん、ひどい! うちの妹を家に連れ込んでおいて、その態度はないだろう!」
「俺が連れ込んだんじゃありません!」
というか、明里先生がうちに来た原因の一端は、雨宮先生にあるんじゃなかったか?
「ここ、快適なのよね。疲れてるときは、座ってたらご飯が出てくるし、美味しいし」
「いいですねえ、夕くんの手料理。わたしも食べてみたいです」
「今はそういう話をしてるんじゃないからな、優子」
雨宮兄妹、もうちょっと遠くに引っ越したりしないだろうか。
簡単に来られてしまう距離なのがよくないのかもな。
「……よし、決めた」
「決めた? なにをだ?」
黙ってたと思ったら、なにを言い出す気だろう?
「なあ、夕」
「ん?」
「音羽を卒業したら、一緒に暮らそう」
「は!?」
「僕が家を出るから、ここよりもう少し広い部屋を探そう。二人でバイトすれば、なんとかなる」
「そ、それはなんとでもなるだろうが……」
「それまでは、明里先生と一緒に住むといい。正直、夕が一人暮らししてるのは不安だったんだ。どうしても、食事が適当になったりするだろうからな。先生がいればわがまま言って、ちゃんとした食事を要求するだろう」
「否定できないわね」
「少しは否定してください……」
「それに、一人で暮らすのは寂しいだろ? すぐに一緒に暮らしたいところだが、僕だと問題があるかもしれない。明里先生なら、保護者ということでOKだろう」
「あれ、なんか話が変な方向に進んでるよ、優子」
「ん-、これはこれで有りな話かもしれませんね。あ、でも……」
「そうね、ちょっと気になるところがあるなあ」
「どこだ?」
凪は偉そうに聞き返す。
どうでもいいが、ここにいる連中、マイペースすぎる。
「あのね、私が火村くんと暮らすのは別にいいわよ。けど、私だって一応若い女なのよ?」
「わかってる」
「もし、火村くんが浮気したらどうするの?」
「夕は僕と付き合ってるんだ、だから、他の女の人を好きになったりしない」
「そこまではっきり言い切れるのも凄いわね……。火村くん、あなた幸せすぎるわよ。ここまで女の子に信頼されることって、なかなかないんじゃない?」
「ええ、そうでしょうね……」
凪め、みんながいるところでなんてことを言い出すんだ。
俺はクールな性格だったはずなのに、最近は赤面することが増えてしまった。
「よし、優子。兄さんのことはあなたに任せた」
「えーっ! わたしに押しつける気ですか!」
「あなたにはすべてを伝授してあるわ。雨宮家伝統の漬け物から、兄さんの取り扱い方まで。優子、もう私が教えることはなにもない」
「適当なこと言ってますけど、やっぱり押しつけようとしてるんじゃないですか!」
「押しつけたらいけないの?」
「今度は開き直りですか! なんて姉でしょう!」
「あ、ああ……どんどん話が進んでる……」
「嘆きたいのはこっちなんですが」
俺の意志がスルーされてる気がしてならない。
「夕は、明里先生がいるのは嫌なのか?」
「そんなことはない……けどな」
家事の手間は若干増えるが、家に他の誰かがいるというのは悪くない。
本気で嫌だったら、とっくに明里先生を追い出していただろう。
「問題なさそうだ。じゃあ、これで話は終わりだな」
「……ん? ちょっと待て。卒業したら二人で暮らすって、凪の弟はどうするんだ?」
「絃はまだ小さいからな。しばらくは、僕らで育てよう」
「卒業したら、即子育てか……」
「夕も妹の面倒をずっと見てきたんだろう? 慣れてるんじゃないか?」
「まあな……」
「おめでとうございます、お二人とも。わたしもちょくちょく遊びに行きますね」
「うん、ゆこちゃんなら歓迎だ。どうせ音羽を出ることはないし、いつでも来てくれ」
凪と優子が笑顔を向け合い、どんな部屋がいいかと話し始めている。
この話は、本当にもう決まったようだな……。
「そのうち、優子まで出て行きそうな気がする……」
「妹はいつか出て行くものよ。私は、火村くんたちが同棲始めたら、戻ってあげるから」
「おおっ、明里。ありがとう!」
「そんなに感動されると、鬱陶しいわね」
「鬱陶しがられても、明里が戻ってくるなら俺はなんでもかまわない!」
「…………」
さて、と……。
そろそろ登校する準備をしておこうか。
「夕。そのデッサンと油絵は君にあげよう。一人になったときにでも、じっくり眺めてくれ」
「ああ、ありがとう」
自分を描いた絵というのは、正直言って微妙な感じもするのだが……。
だが──この絵の素晴らしさの前では、そんな気持ちもどこかへ行ってしまう。
広野凪という天才的な絵描きが──俺への想いを込めて描いた絵だからな。
「よし、それじゃあみんなで一緒に学校に行こう」
「はいっ、楽しそうですね」
「たまには生徒と登校っていうのもいいわね」
「俺は明里と優子が一緒であれば、なんでもいいさ」
今日は、騒がしいことになりそうだ……。
なあ、茜──
俺の周りはおかしな奴ばかりで、いつもにぎやかだ。
だけど、騒々しい毎日が俺は嫌いじゃない。
なにより、広野凪がいつもそばにいてくれる。
楽しい日々は、彼女がいるだけでさらに楽しくなるんだ。
「夕、なにしてるんだ、行くぞ」
「ああ」
俺は頷き、ドアを開けて外に出た。
……。
「今日もいい天気だな」
「うん、いい一日になりそうだ」
凪は笑顔で言って、俺の横にぴったりと寄り添うように並んだ。
今までもそれなりに幸せだった日常を、凪の存在が大きく変えていく。
朝日のように輝く時間が、これからも続いていくんだろう。
それは、外れようのない未来への予感だった──
……。