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-ノベルゲーム・タイピング-

天使の日曜日 Angel's holiday “ef - a fairy tale of the two.” Pleasurable Box.【9】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。


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金曜日の放課後は、いつにも増して気が楽だ。

2日間の連休が控えていることはもちろん──夏休みが1週間後に追っていれば、学園中が浮かれていると言っても過言ではないだろう。

かくいう僕も、その1人である。


「さて、どうしようかな」


足取り軽く考える。

とりあえず家に帰って、シャワーを浴びて、アイスコーヒーを飲みながら本を読むところから始めよう。

──そんな風に、週末の予定を考えながら帰宅の途についていた日のこと。

 



「あ」
「あれ、水姫(みずき)?」


校門を出たところで声に振り返ると、1つ年下の従妹、羽山水姫(はやま みずき)と出くわした。

 



Another Story 3. プリンセス・サマー
 feat. Mizuki Hayama.


「付属も今、終わったところなんだ」
「う、うん」
「どうせだし一緒に帰る?」
「ダメって言っても道が同じじゃない」


どことなく、そわそわしながら水姫が頷く。

僕らは歳が近い親戚で、子供の頃から仲がよかったが──彼女が付属に上がってからは、ちょっと避けられ始めた気がしないでもない。

寂しくはあるが、男女の感覚が芽生えたことによる当然の結果だろう。

 



「恥ずかしいなら無理しなくてもいいよ。友達に見られたくないなら、僕は時間を潰してからでもいいし」
「わたしは平気だけど。その……レンちゃんこそ、女の子と歩いてても平気なの?」
「僕のほうは見られて困る相手がいないというか」


口元をひきつらせながら頬をかいてしまう。

知り合いには何度か水姫と一緒にいるところを目撃されているので、親戚であることは周知の事実である。

水姫が心配しているのは“彼女”が出来たかということだろうが、そんな夢のような話はフラグすら立っていなかった。

 



「そう。もうすぐ夏休みなのに、レンちゃんはまだ独り身なのね」


他人行儀さが急になくなり、彼女は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。


「別に恋愛だけが青春じゃないからね」
「もう、相変わらず屁理屈ばっかり」


彼女の呆れたような物言いに、僕は苦笑してしまう。


「屁理屈じゃないよ。友人とか恋人っていうのは、無理に作るものじゃないと思うんだ」
「だからって、運命的な出会いを期待してるだけじゃダメでしょう?」
「そこまで高望みしてるわけじゃないけど……」
「そういう受身っぽいところっていうのか、自信のなさそうな、なよなよした態度がダメなのよ」
「あ~……いや……」
「レンちゃんは優柔不断だけど優しいし、いろんな国の言葉を喋れて料理だって出来るんだし、しゃきっとしてれば実はスペック高いんだから」
「あの、水姫……褒めてくれるのはありがたいんだけど……」
「なによ。さっきから、はっきりしないわね!」


ずいっ、と水姫が顔を近づけてくる。


「そうじゃなくて、なんで僕はこんなところで責められてるの?」

 



「…………ああ。ごめんなさい。どうもレンちゃんを見てると、こう、お説教したくなっちゃうの」
「……それはそれで、どうかと思う評価だね」


思わずため息をついてしまう。

確かに僕は、幼少の頃に海外を転々としていた生い立ちゆえか、友達づきあいが苦手である。

それでも、日本の音羽に腰を落ち着けられるようになってからは、少しは改善されているのだ。


「……そういう意味では、水姫のお節介で助かってるんだろうな」


……。

 

 

 

 



数年前のこと。

父親の仕事の都合でオーストラリア行きの話が持ち上がったとき、彼女が泣いて僕を引き止めたのだ。

結局、父親だけが単身赴任で現地に向かうことになり、僕は初めて定住の地を得た。


「……でも、アレが今はコレだもんな」
「なにぶつくさ言ってるの?」
「なんでもない」


素直に感謝すれば反発されるだろうなと、僕は愛想で笑いながら首を振った。


「立ち話もなんだし、そろそろ行こうか」
「そうね。今日も憎らしいくらい暑いし」


水姫が熱っぽくつぶやく。

確かに、今日もいい天気だった。


…………。


……。

 



「……はぁはぁ」
「大丈夫?」


通学路の坂道を下りながら、荒い息をついている少女を心配してしまう。


「平気、よ……」
「無理はしないようにね。途中で休んでもいいから」
「……うん」


余力があまりないのか、彼女は素直に頷いた。

強気な言動のわりには身体が弱く、それ以上に、暑さに弱い水姫である。


「ああ、早く夏休みにならないかしら」
「来週までの辛抱だよ」
「そうね。期末試験も終わったし、もうちょっとの辛抱よね」


顎の下の汗をぬぐいながら、水姫がうめくように言う。


「……ああ、海に行きたいわ」
「海は泳げないから危ないよ」
「いいの。浮き輪でプカプカしてるだけで楽しいから」


語調は尖っているが、プカプカという表現は可愛かった。

 



「それに、そうよ。なにかあっても、またレンちゃんが助けてくれるでしょ?」
「ああいうのを何度も期待されても困るけどね」


幼少時代に彼女が海で溺れかかったことがあり、たまたま僕が気づいて事なきを得たのだが──そんな奇跡こそ、2度続くものではないだろう。


「まあ、なにもかも夏休みになってからよね」
「僕は補習がなければいいんだけど……水姫はテストどうだった?」
「……聞かないで。もう過ぎたことよ」
「……僕より危なそうだね」
「テストの当日に体調崩しちゃって」
「相変わらず本番に弱い」
「う、う~ん……」


自覚があるのか、珍しく言い返すこともなく眉をしかめている。

学力や運動神経が悪いわけではないのだが、どうも彼女は、本番で力を発揮しきれない状況に陥りやすい。

一番悪いのは運なのだろうか。


「そうね……もしわたしが補習を受けることになったら、レンちゃんの補習のあるなしに関わらず、夏休みも一緒に登下校してもらうわ」
「……理不尽な」
「死なばもろともよ」
「共同戦線を張ってるわけじゃないのに」
「従兄なら、受験に向けての家庭教師くらいしてくれてもいいじゃない?」


口にしてから、彼女は自分の言葉に驚いたように目を丸くした。


「そうね。それは、いいアイデアだわ」
「まあ、付属の勉強くらいなら、なんとかなると思うけど」

 

「え? 本当に見てくれるの?」
「夏休みの、余裕があるときだけでいいなら」


従兄として見捨ててはおけないというか、なにかあったとき、最終的に両方の親から責められることになるのは僕なのだ。


「しょ、しょうがないわね。レンちゃんがどうしてもって言うなら勉強してあげるわ」
「あ~、嫌なら別にいいよ。僕なんかより、塾とかに行くほうがよっぽど有意義だと思うし」
「だから、やるって言ってるでしょ! この、とーへんぼく!」
「え!? いや、なんで僕はまた怒られてるの?」
「知らないわよ!!」
「自分で言ったことじゃ──」


──「わほほ~い」


僕が抗議の声をあげたのと同時に、なにかが勢いよく真横を駆け抜けていった。


「……なんだ?」

「……な、なに?」


「っとと」


こちらの声が届いたのか、そのまま走り去ろうとしていた影が、急ブレーキをかけて目の前まで戻ってきた。

 



「ちっす、姫ちゃん、久しぶり!」

「30分前に教室で別れたばかりよ、未来(みき)」

「あはは~」

「あ、水姫のクラスメイトの──」

「はい、未来と書いてミキって言います。姫ちゃんの従兄さんは普通にお久しぶりです♪」


屈託のない笑顔で少女が挨拶してくれる。

未来という子は、水姫と名前の響きが似ているからと、出会ったその日から意気投合した親友だと紹介されたことがあった。


「それより未来、なにをそんなに慌てて走ってたの。危ないわよ」

「いやー、掃除が長引いちゃって待ち合わせの時間に遅れそうだったから」

「ああ、今日は月イチのあれね」

「そうそう、あれあれ」

「なんの話?」

「未来は月に1回、家族で外食する日があるのよね」

 



「うん。今日は火村さんのお給料日なんだよ!」

「なるほど」


父親を名前で呼ぶのは日本人にしては珍しい習慣だが、そういうこともあるのだろう。

そして、家族揃って外食とは羨ましいイベントだ。


「それなら、足を止めさせちゃって悪かったかな?」


「そうね」と水姫も肩をすくめた。


「いやいや。校舎からここまでで5分くらい稼ぎましたから、もう大丈夫ですよ」


5分で取り戻せるような急ぎ方ではなかったが──つまり、この後も待ち合わせ場所まで全力疾走するつもりなのだろう。


「文系には信じられない体力だ」

「体育会系にしても、この子が規格外なだけだからね」

「嬉しいときのエネルギーは無尽蔵っす!」


本当にその通りであろう元気さだった。


「ところで、姫ちゃんこそ30分も前に帰ったはずなのに、なんでまだこんなところにいるの?」

 



「う、ぇ!?」

「ん? ああ、それは変か」


水姫はつい先ほど学園が終わったと言ったが、掃除当番でなかったとすれば、未来ちゃんの話と食い違いが出てしまう。

どこかで30分の時間を潰していなければ、校門の前で偶然会うことはないのだ。

 



「あ、いや、それは……」


なぜか顔を赤くして、水姫がしどろもどろに口ごもる。


「もしかして」

「な、なに!?」

「帰りがけに図書室にでも寄ってたの?」

 



「え!? あ、そうそうそうそう、そんな感じだったわ!」

「へ~、姫ちゃん図書室なんて行くんだ。すご~い」

「なんか文句あるの!?」

「うえ!? 感心してただけなのに、なんでわたしは怒られてるの?」

「知らないわよ、余計なことばっかり!!」

「あ~……えー?」


水姫の性格は基本的に不安定だが、今日はいつにも増しておかしい。


「とりあえずお姫様の機嫌が悪いみたいだし、避難したほうがいいんじゃないかな」

「そうっすね」


2人で耳打ちしあうと、未来ちゃんはにっこりと笑みを浮かべて1歩下がった。


「それではでは、わたしはこのへんで。あとは若いお2人にお任せします」

「未来ッ!」

「あはは、ばいば~い♪」


別れの挨拶もそこそこ、彼女は姿を見せたときと同じような猛スピードで坂道を駆け下りていった。


「もう」
「明るくていい子だね」

 



「……レンちゃん、ああいうのが好みなの?」


なぜか険のある目つきで睨まれてしまう。


「そういう意味で言ったわけじゃないけど」
「じゃあ、そういう意味だったら、どういう子が好みなのよ?」
「あ~……それは……」


──「蓮ちゃんは大人しい子が好みだよね。2年にいる図書委員の千尋ちゃんとか」


「え? うわ!?」


突然、降ってわいた声とともに、バシンと背中を叩かれた。

 



「やっほ~」

「宮村先輩」

「……そのきれいな人、誰?」


まったく回復の兆候がない水姫の視線。


「いや、3年の宮村先輩で、改めて誰と言われると困るんだけど……。誰なんですかね?」

「あたしと蓮ちゃんはライバルなんだよ!」


自己紹介のつもりなのか宮村先輩が力説しだす。

 



「そう、あれはちょうど1年前のこと……。料理が得意なあたしこと宮村みやこ大先輩は、同じようなスキルを持った1年男子の噂を聞きつけたのです」

「……急に教室にやってきてお弁当箱を強奪していったから、なにごとかと思いましたよ」

「あたしが演出過剰気味に解説しようと思ってたのに、あっさり補足したね」

「長くする必要もないでしょう」


その容姿と学力、それ以上のエキセントリックな性格で、宮村先輩が音羽学園の有名人だと知ったのは後のことである。


「なるほど。それでレンちゃんと料理のライバルに」

「そうそう。まさか同年代に、あたしと互角の腕を持った料理人がいるとは思わなかったよ」


ものすごい言い草だが、確かに、独学とは思えないほど宮村先輩の料理は美味しかった(無理やり食べさせられたのだ)。

僕のほうが技巧を重視した調理だとすれば、先輩の味はあたたかみのある、人に食べてもらうための料理だろう。

正直、ライバル視されるようなレベルではないのだが、変なところで単独1位でないと落ち着かない性格のようだ。


「でも……おかしいなあ」


ふいに、ため息が漏れてしまう。


「今日は早く帰ろうと思ったのに、なんでこんなに知り合いに見つかって声をかけられるんだろう?」

「1本しかない通学路のど真ん中で立ち話をしてれば、嫌でも目立つと思うよ」

「なるほど」


もっともな意見だった。


「で、そっちの子が蓮ちゃんの従妹の水姫ちゃんね」

「あ、はい。こんにちは」

「こんにちは」

「……いつから聞いてたんですか?」


これまでの会話の流れを踏まえたような物言いに、ひっかかりを覚える。


「最初からだよ」

「最初からって?」

「ふっふっふ。水姫ちゃんが校門に立ってて、3回くらい男子に声をかけられて困ってたところからに決まってるじゃん」

「──ッ!?」

「え?」


よろっと後ろに下がった水姫と入れ替わるように、宮村先輩が僕の横にやってくる。

 



「いやー、すたこらさっさと帰ろうと思ったら、校門で誰かを待っている可憐な美少女を見かけちゃってさ。なんか面白そうなイベントが怒りそうで、かぶりつきで──じゃなかった、悪い虫がつかないか心配で見守ってたんだよ」


明らかに言い直すタイミングが手遅れだったが、宮村先輩が事の顛末(てんまつ)を知っていたことに関しては理解できた。


「ま、そしたら女の子が待っていたのが蓮ちゃんだったわけ」

「……そこで声をかけないのが、ものすごく宮村先輩らしいですよね」


要するに、この人はずっと後をつけていたのか。

それよりも──

 



「…………」


水姫は真っ赤な顔で固まったままだった。

さすがに鈍い僕でも気づいたが、彼女はずっと僕のことを待っていたらしい。

それはつまるところ……まさか、もしかしなくても、そうなのだろう。


「ま、後は若いお2人に任せて、あたしは恋人を実験台にして料理の腕でも磨いてきま~す」


場をかき回すだけかき回して、宮村先輩は後腐れなく立ち去ってしまった。


「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「あ、あの」

 

 



「……好き」
「え?」
「私、レンちゃんのこと……。今でもずっと……好きなの」


……。


夏休みの1週間前のこと。


あまりにも唐突で、


行き当たりばったりで、


彼女らしく運の悪かった“本番”での出来事。


それが──僕と水姫の物語のはじまりだった。


…………。


……。


なにか夢を見ていたような気がする。

だけど、なにも思い出せなかった。


「……もう寝れないか」


ベッドから降りて時刻を確認する。

 



午前11時。

記念すべき夏休みの1日目──昼過ぎまで寝ていても文句を言われないだろうに、結局午前中に起きることになってしまった。


「先週から睡眠時間が滅茶苦茶になってるなあ」


頭をかきながら、思わずぼやいてしまう。

突然告白をされたあの日、僕が答えを返す前に、水姫は「なにも言わないで」と言い放って逃げてしまった。

それから1週間、お互いに顔をあわせることも連絡をとりあうこともなかった。


「……こういうときって、僕からアプローチするべきなのかな?」


誰かに相談して解決するような話ではなく、そもそも相談する相手もいないので、まごついてしまう。

年上で理解のある相談相手がいればいいのだが……。


「そ~っと……って。あらあら、もう起きてるわ」


扉の影から部屋を覗きこんでいた母が、意外そうに声を発する。

 



「おはよう」
「おはよう」
「どうしたの?」
「珍しいお客さんが来てるから、起きてるなら着替えて居間のほうにいらっしゃい」
「お客さん?」
「来ればわかるわ」


もったいつけた笑みを浮かべて、母は部屋を出て行ってしまう。

僕は首をひねりながら、パジャマから私服に着替えて部屋を出ることにした。


……。

 



「おはよう」
「あ? お、おはよう?」


母の態度から心の準備をしていたのに、まさかの相手に驚いてしまう。

水姫とはどこかで顔をあわせねばと思っていたが、自宅で会うことになるとは予想もしていなかった。


「もうすぐお昼だから、お早くはないけどね」

「どうしたの水姫、夏休みなのに制服なんか着て?」

「その質問が嫌味じゃないのはわかってるから怒らないけど……補習よ」

「あー……あれ、本当に参加することになったんだ」


僕の呆れた声に、午前中の涼しさで元気をたもっている水姫が、耳元の髪をかきあげる。


「内申は悪くないのにテストの点でひっかかっただけだから、1回顔を出して義理も果たしたし、もう来なくていいって先生に言われたけど」

 



「水姫ちゃん成績はいいから、補習に居られると先生も扱いづらいでしょうね」

「よく水姫の成績なんて知ってるね」

「そりゃ、奥様同士のネットワークっていうか、水姫ちゃんの母親は私の妹なんだから当然じゃない」

「……厄介だな」

「……お互いの情報が親に筒抜けってのは困るわよね」


子供2人で頷きあってしまう。


「それにしても、水姫ちゃんがうちに遊びに来るなんて何年ぶりかしら。きれいになってて私もびっくりしたわ」

「あ、いえ、そんなことありません……」

「やっぱり女の子は華やかでいいわねー♪」

「それより、水姫、今日はどうして僕の家に来たの?」


なによりも先週のことを話したかったが、母がいる手前、今は無難な話題しか振れない。


「勉強を見てくれるって約束したでしょ?」

「ああ、あの話も本気だったんだ」

 



「補習が1回で免除になっても、テストの点が悪かったのは成績に響いてるのよ。それに、その……今年は本校にあがるための試験もあるし、失敗できないし。…………やっぱり邪魔だった?」


こちらの顔色を窺うように水姫がぶっきらぼうにつぶやく。

生意気盛りなのに、こういうときの年下らしい仕草には、ついつい微笑ましさを覚えてしまう。


「いや、邪魔じゃないよ」

「ちょうどいいじゃない。蓮治も夏休みの宿題をやっちゃったら?

「そうだね」


いつもなら夏休みの後半まで手をつけない宿題だが、こういう機会に進めておけば楽なのだろう。


「それじゃあ、僕の部屋に行こうか」

「うん」


……。


黙々と2人で勉強を続ける。

いや、集中しているのは水姫だけだ。

僕は手持ち無沙汰に、頬杖をついて彼女の様子を眺めてしまう。

彼女はシャーペンの後ろのほうで唇を叩きながら、目を細めて教科書をめくっていた。

勉強を見てくれと言っていたが、本番でもない今日に至っては、彼女には僕の助言など必要なかった。

こうなると、英語のときくらいしか役に立ちそうもない。

 



「……いや、そもそも勉強が本題じゃないんだろうな」
「え?」


僕の独り言を耳にして水姫が顔をあげる。


「ううん、なんでもない」
「そう」


表情も口調も素っ気無い。

そろそろ例の告白騒ぎの話をしたいところだが……。

あまりにも水姫が僕に対して無関心なので、声をかけづらい空気が漂っている。

もしかすると今日の来訪は、先週のことを忘れて欲しいというアピールなのかもしれない。


「そういえば、レンちゃんって何カ国語いけるの?」


どこか上の空な調子で水姫が訊ねてくる。


「え、そうだな」


ここまで雑談もなく、どこか気詰まりしていたので、内心でほっとしながら答える。


「読み書きも含めてドイツ語と英語と日本語は問題ないよ。日常生活に支障のない範囲で喋るだけならフランス語とかスペイン語も大丈夫。あと、中途半端な覚え方をしちゃってるのが、いくつかあるけど」
「羨ましいわね。海外旅行で便利だし、地球上のどこに行っても生きていけそう」
「逆に、ここが自分の国だって実感がどこにいてもないんだけどね」
「そうなの?」
「お互いに、ないものねだりなんじゃないかな」
「そう……まあ、そんなものなのかもね」


こくりと傾けた水姫の首筋や、腕のラインを、つい見つめてしまう。

夏だというのに白くて、か細い。

きれいだけれど、食生活を改善すれば、もう少し健康的な感じになるだろうか?


「あのね、わたし、先週のことをずっと考えてたの」
「……え?」

 



「レンちゃんも気になってたでしょ、いきなり好きだなんて言われて?」
「あ、うん」


突然のことになんの話か把握しそこねたが、それこそが本題だった。


「いきなりだったからね」
「そうよね」

 



耳元の髪をかきあげながら水姫が立ち上がる。

なぜ立ち上がったのだろう──と考えている僕の前に、彼女はやってくる。

顔の高さにふとももとスカートの裾があって、気恥ずかしさに目を逸らしてしまう。


「えーと、水姫、どうし──うわっ!?」


いきなりなにかが覆いかぶさってきて、背後に倒れこんでしまった。


「な、なな、なに!?」


身体を起こそうとするが、腰に重いものがのっているのと、腕も押さえつけられていて動けなかった。

 



「み、水姫!?」


頭はパニックになったままだったが、水姫に押し倒されたということは理解した。


「あの後、ずっと考えてたんだけど……。レンちゃん相手に待ったり遠慮するのは無駄だって、ようやく気づいたのよね」
「遠慮って、なにが? ぅえ!?」
「鈍い、って言いたいところだけど、さすがに、こんなことになるなんて思わないわよね。ふふっ」


水姫は可笑しそうに目を細めたあと、ほうと熱っぽいため息をつく。

ここでようやく──間の悪いことに、お互いの汗ばんでいる肌が触れ合っている感触に気づいてしまう。

そのまま死んでしまうのではと思うほど、心臓がドキドキしていた。

血がのぼってしまったのか頭がくらくらとして、手足は痛いくらいに強張っていた。

いくら僕が非力とはいえ、本気を出して押しのければ水姫の細い腕を押し返すことは容易だろう。

けれども……。

期待していないと言えば嘘になり、動けなかった。


「…………」

 



「…………」


わずかにでも揺れれば唇が触れるような距離で、彼女は躊躇うような表情を見せて、動きを止めてしまった。


「…………?」
「…………ふふ……キスしたい?」

 



水姫の熱っぽいと吐息が顔にかかる。

こんな状況なのに、どうしてか、彼女の目に涙が浮かんでいることに気づいた。

それがこぼれなければいいなと思ってしまった……。


「いいのよ……レンちゃんの好きにしても。だけど、わたしからはしてあげない」
「…………ぅ」


なにか言おうとして、なにを言えばいいのかわからずに、喉を詰まらせてしまう。

キスをしたいという気持ちと、してはいけないという気持ちが、ぐらぐらと揺れていた。

ダメなはずなのに──でも、なにがダメなのかがわからない。

水姫のほうからキスをしてくれれば楽になれるのに……。

そんな考えに、ざわりと鳥肌が立ち、暑さとは別の理由で汗が噴き出した。


「…………レンちゃん、わたしのこと、嫌い?」
「……ううん」


その問いには素直に答えられてしまって。

水姫のことが嫌いだなんてことは、ありえない。

あっけないほどに、彼女とキスをしてはいけないという気持ちが崩れてしまう。

目を閉じて、

そう、ほんの少し顎をもちあげるだけでいい。

お互いに嫌いではないのだから──


「──!?」


──「蓮治~、水姫ちゃ~ん」


突然のノックに、これ以上の高ぶりはないと思っていた心臓が、ドカンと鳴った。

かろうじて叫び声をあげるのをこらえ、慌てて身を起こす。

……いや、どうして身を起こせてしまったんだ?

 



「お邪魔だったかしら?」

「いえ、ちょうど休憩してたところですから」


何事もなかったかのように、水姫が元の場所に座りなおしていた。

あの状況から、一瞬で普段通りの態度をとれることにびっくりしてしまう。


「そろそろお昼ごはんを作ろうと思ったんだけど、水姫ちゃんも食べてく?」

「いえ、そろそろ帰りますから大丈夫です」

「あら、そうなの?」

「本当は、今日はレンちゃんに勉強をお願いしますって言いに来ただけなので。家でお昼の支度もしてるでしょうし」

「じゃあ、また明日とか明後日とかかな」

「ええ、レンちゃんの予定が空いていれば明日も」

「…………」

「蓮治、明日の予定はどうかって訊かれてるわよ?」

「あ? え、ああ、うん、特になにもないよ」


ぼーっとしていて反射で答えた瞬間──失言に気づいた。


「それじゃあ、レンちゃん。続きはまた明日ね」

 



水姫がにっこりと微笑みを向けてくる。

なんの“続き”かを考えると、めまいを覚えてしまう。


「水姫ちゃんをお見送りしたら、蓮治は料理のお手伝いをお願いね~」


なにも知らない母が笑顔で部屋を出て行く。


「……さすがに、今から続きってわけにもいかないか」
「……あの、水姫?」
「なに、レンちゃん」
「その……」


なにから話せばよいものか。

そんな優柔不断なことを考えていると、水姫は僕の前に立って、ぽんと肩を叩いてくる。

 



「中途半端なところで止められちゃって、がっかりした?」
「……う」


正直、健全な男子として、そういったものがなくもないのだが。


「キスだけでもしてあげましょうか?」


小首をかしげるようにして僕の顔を覗き込むと──

 



彼女はそのまま首に嚙みついてきた。


「──ひぐッ!?」


力の入っていない単なるあま噛みだったが、唇と唾液からくる生暖かい湿り気に、総毛だってしまう。

さらに、噛みつかれた部分に舌を這わせられる。


「うわあ!?」


彼女は唇を指でぬぐうと、とんでもなく無邪気に笑った。

 



「明日まで悶々としてればいいんだわ。わたしなんて、もう何年も焦らされ続けてたんだから。それじゃね」


いつもを変わらぬ雰囲気で挨拶をして、彼女は僕の脇を抜けて部屋を出て行ってしまった。


「…………………あー。ああ……」


ぱったりとベッドにうつぶせに倒れこんでしまう。

自分の情けなさと照れくささと、彼女が意図的に残していった悶々としたものに、身体がむずがゆい。


「う~」


と、枕に顔を押しつけながら呻く。


「……なんでこうなっちゃったんだ?」


…………。

 

……。

 

 

 

 

「……なんでこうなっちゃったの」
「それをわたしに言われてもなー」


電話で呼び出した親友は、わたしの相談に気のない返事をする。

 



「いや、でも凄いね。押し倒して、自分からキスしろって誘いをかけて、首に噛みついたのかー」
「いやー!」


耳をふさいで小さく叫んでしまう。

改めて並べられると、とんでもないことばかりである。


「な、なによ! 未来だって、奥手な相手には自分から積極的に行けとか言ってたくせに!」
「いや、積極的にってのは、そういう意味じゃないでしょ」
「あーうー……。どうしよう……明日も行かなきゃいけないのに……」
「そんなことより、なんか暑いし、アイスでも食べに行かない?」
「親友のピンチなのよ! もっと真剣に考えて、助けて!」
「あはは~、冗談冗談。いや、やりすぎなのはともかく、結果的には姫ちゃんの望んでいた通りになってるからOKなんじゃない」
「そ、そう?」
「本気だってのは向こうにも伝わったでしょ。はみでるくらいに」
「うん。まあ、それはね」


あそこまでやってしまえばお互いに引き返すこともできない。

十年近くの片思いに、どうであれ決着はついてしまうわけだ。


「というか、そんなに弱気な姫ちゃんが、なんで従兄さんにはそこまで強気に出れたわけ?」
「え? えーと、だって……その……。レンちゃんのオドオドした顔を見てると、なんかこう、無性にいじめたくなるんだもん」
「あー……いじめたくなるってのは妙に説得力あるね」


そもそも、予定ではキスまでいければ大成功だったのだが。

押し倒したときのレンちゃんのびっくりした顔に、つい、タガが外れてしまったのだ。


「なるほど。姫ちゃんも相当のMだけど、向こうのほうがさらにレベルが高かったか。……いや、この場合はレベルが低い?」
「そんなのはどうでもいいから、もっと具体的な話をね……」
「じゃあ、うちで少女漫画でも読んで参考にしてみる?」
「未来の具体的ってそのレベルなのね……」


普段なら悩みを愚痴ることでストレス発散ができればいいのだが、今日はなんとしてでも状況改善の手がかりを得たかった。


「ぶっちゃけ、今まで男の子と付き合ったことがない2人で相談しても、行き止まりというか──こうなると、わたしより姫ちゃんのほうが進んでることになるから、相談されても困るかも?」
「む~……」


わたしたちの差なんて、少女漫画とファッション雑誌の恋愛コーナーくらいの違いでしかないか。


「姫ちゃんがよければ、他の人にも相談してみる?」
「当てがあるの?」
「彼氏がいるってところで、みやこ先輩とか、なんならうちのお母さんとか」
「みやこ先輩って……あの人か……」


レンちゃんのライバルだと主張していたきれいな女の人が、確かそんな名前だったはずだ。


「止めとく?」
「ううん。むしろ、もう状況を知られちゃってる相手だし、ちょうどいいかも」
「それじゃあ連絡してみるけど──」


携帯を取り出しながら、未来がぼそりとつぶやく。


「自分で紹介しておいてなんだけど、あの2人に相談したら、余計にカオスになりそうだな~」
「……え?」


──そんなこんなで、運命の日となる翌日がやってきた。


……。


その日も太陽はご機嫌だった。


「……ふう」

「なにしてるの、蓮治?」


家の前の階段に座り込んでため息をついていると、母が出てきた。

 



「いや、水姫を待ってるだけだけど」
「なんで家の前で待ってるの、ってこと。暑いでしょうに」
「暑いんだけど……こう……なんていうか……じっとしてても落ち着かなくて……」


午前中も外にいたし、昼食の後もずっとここで待ちぼうけである。

何時に来るかという話をしていなかったので、朝から気が気ではなかった。


「なに言ってるの?」
「……いや、いいんだ」
「先週あたりから様子がおかしいわよね。もしかして水姫ちゃんに告白でもされた?」
「え、なんで──!?」
「あら」
「あ」


冗談に素で反応してしまったことに気づき、両手で顔をおおってしまう。

やってしまった。

昨日から自爆が続きすぎている。


「あらあら。あらあらあら。あらあらあらあらあら。あらあらあらあらあらあらあらあらあらあらあらあら」
「……もういいよ」


ばれてしまっては仕方ないと、諦めて顔をあげる。

そもそも、僕という存在が、いつまでも秘密を隠しておけるほど器用ではなかったのだろう。


「ま、2人が仲良しなのは子供の頃からだったし、こういう話に発展するのも遅かったくらいね」
「そうなの?」
「いるになるか妹と賭けて──いやいや、話してたくらいだし」
「……親同士のネットワークって本当に困るよね」


笑っているところを見ると、どうも賭けには勝ったらしい。


「それはともかく、なんで付き合うことになったのに浮かない顔してるの? マリッジブルーには早すぎない?」
「いや、告白はされたけど、まだOKしたわけじゃなくて……」
「え、なんで? なにか問題があるの?」
「いや……ないんだけど……」


昨日の件はさておき、自分でも不思議ではあるのだ。

水姫を嫌いではないし、むしろ可愛くて好きなのだが、どうして僕は告白を素直に受け入れることができないのだろう?

あとほんのちょっと、なにかが欠けている気がするのだ。

小説に登場するようなお姫様と騎士──そんな運命的な関係であることを、僕は期待しすぎているのだろうか?


「……う~ん」
「……まったく面倒くさいわね。誰に似たのかしら」
「なにが?」
「なんでもないわ。そんなところも好きなんだから、惚れた側の弱みよね」
「ん?」
「とりあえず外にいる理由はわかったけど、やっぱり中で待ってたほうがいいんじゃない。すでに茹っちゃってるのに、これ以上、頭を加熱することもないでしょ」
「……そのほうがいいかもね」


水姫が来る前に、頭を冷やしておいたほうがよいかもしれない。

そうやって玄関へ向かおうとして──声をかけられた。


──「あの」


「あ、はい」


身を起こすと、目の前に夏休みらしくめかしこんだ少女が立っていた。

 



「こんにちは」
「こんにちは」
「…………」
「…………あれ、もしかして水姫?」
「な、なによ!? いいじゃないの、夏休みなんだし私服くらい着てくるわよ!」
「怒ってないもん! いつもと同じじゃない!」
「まあ、そうだね。いつもの水姫だ」


呆れつつも、中身がいつもの通りで安心してしまう。


「あらあらまあまあ」


家に入りかけていた母も戻ってきた。

 



「水姫ちゃん、今日は一段と可愛い格好で」

「こんにちは、おばさま」

「気合入ってるわね」

「え? あ、その──はい」

「すごいな。服が違うだけでこんなに印象が変わるんだ」


子供の頃から水姫の私服を見てきたが、ここまで派手なものは初めて目にした。

露出している肩を見て──なんとなく、彼女も大人になったのだなという実感が湧いてしまう。


「別に、これくらい普通よ」

「そうなんだ。女の子は大変だね。今日なんて勉強するだけなのに」

「…………」

「水姫ちゃん。私が許可するから、コレ、殴っていいわよ」

「え、なんで!?」

「ありがたいお言葉ですが、そこまではちょっと」

「一体、なにがどうなってるの?」


場合によっては本当に叩かれていたことを知り、びっくりしてしまう。


「あのね、レンちゃん。こんな天気のい日に勉強なんてもったいないでしょ。だから、デートしよ」

「…………? ………………!?」

「なに面白い顔してるのよ、蓮治」

「デート?」

「日本語で言えば逢引き」


“ひき肉”という単語が頭に浮かんでしまったが、もちろんそういう意味ではないだろう。


「デートって僕と?」

「レンちゃん以外の誰と、わたしをデートさせたいのよ」

「いや、急な話でびっくりしたからさ」


生まれてこのかた、まさか自分にデートなどというイベントが降りかかるとは思っていなかった。

 



「と、とにかく。なにはともあれデートなのよ」

「まだ僕は同意したわけじゃないけど」

「煮え切らないわね。デートしたいの? したくないの?」

「……したくないとは言わないけど、誘ってるのか脅迫されてるのか微妙な言い方だね」


そもそも、音羽に通うようになってから疎遠になったとはいえ、水姫と一緒に遊びに出かけたことは何度もあるのだ。

あれとこれとはまた別物だろうが──


心が落ち着いてくると、以前から感じている妙なズレのようなものが再び湧きあがってくる。


「でも……うん。デートも悪くないかもね」


これは、どうして水姫の告白を素直に受け取れないのかを考える、良いきっかけになるかもしれない。

お試し期間というやつだ。


「その前に一応だけど、勉強はいいの?」

「なんのためにこんな服を着てきたと思ってるの。勉強なんてまったくやる気ないわ」
「威張れることじゃないけどさ。それじゃあ、ちょっと出かける準備をするから5分くらい待ってて」
「うん」
「暑いから家の中で待ってる?」
「ううん、ここでいい。ありがとう」
「そ、そう」

見た目のわりに素直なところはいつも通りだが、服装が違うだけでまるで可愛さが違う。


「それじゃあ、ちょっと待っててね」

「あのー」


ふいにあがった声に、水姫が目を丸くする。

そういえばずっとそばにいた母親が、なんともいえない笑みを浮かべていた。

 



「よくもまあ、わたしがいるのに2人だけの世界を作ってくれやがりましたね」

「い、いえ、そういうわけじゃ」

「そ、そうだよ」


すっかり忘れていたが、母親の目の前でデートの約束をとりつけていたのか。


「あの……まさか、おばさまはデートに反対とか?」

「それこそまさか。放任主義が麻生家のモットーだし、蓮治にはその手の経験が足りてないって常々思ってたし」

「じゃあなに?」

「母親らしいことをひとつはさせなさいよってこと」


こほん、とわざとらしい咳払いをしてから、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべた。

 



「夕飯までには帰ってくるのよ」


…………。


……。

 



「それじゃあ、改めてどこに行こうか」


商店街まで出たところで水姫に訊ねる。

ここなら映画館、ゲームセンター、本屋と見て回れる場所が多く──女の子なら買い物だけでも楽しいのかもしれない。


「ちょっと定番すぎるかなって思わなくもないけど、映画はどう?」
「うん。いいよ」


考えが似通っているのは、ちょっと嬉しい。


「急な話で準備もしてないし。定番ってことは、それだけ良いアイデアってことでしょ」


僕は笑いながら映画館のほうに向かおうとする。

しかし、目的地が決まったというのに、水姫はきょろきょろと辺りを見渡している。


「どうしたの。なにか忘れ物でもした?」
「そ、そうじゃなくて」


なぜか顔を赤らめて水姫が首をふる。


「その……て、て……」
「てて?」
「手、繋がない?」
「ぅ」


彼女がなにを恥ずかしがっていたのか理解して、僕の頬も熱くなってしまう。

先ほど辺りを見渡していたのは、道行くカップルに目を留めていたかららしい。


「なんで、わざわざ人のいる場所に来てから言うかな」
「いいじゃない! ここに来るまですっかり忘れてたんだもん! デートなんだし、いいでしょレンちゃん?」
「し、仕方ないなぁ」


おそるおそる水姫の手をとると、彼女は空いたほうの手で僕の頬をつっついてきた。


「ふふ。赤くなってるわ」
「照れ隠しに僕を攻撃するのは止めようよ」
「レンちゃんの困った顔を見るとドキドキするのよね」
「その感覚もどうかと思うけど」
「あら。あんまり空気の読めない態度ばっかりとってると、昨日の続きをしてあげないわよ」
「っ!?」


頬に当てられていた指で首筋を撫でられ、炎天下だというのにゾクリと首筋が震えてしまう。

しかも、今度は手を繋いでいるので逃げることもできない。


「あ、あのさ、女の子なんだから冗談でもそういうこと言わないほうがいいよ!?」
「冗談じゃないのに。まあ、いいわ。今はこれくらいで勘弁してあげる」
「はぁ……」


こっそりと、ため息をついてしまう。

さすがに人の目がある場でなら、水姫も自重してくれるらしい。

ありがたい反面──どうにも、欲求不満な感じになってしまうのは男の悲しい性か。

しばらくはこのネタでいじられることになってしまいそうだ。


「でもね、手を繋ごうって言ったのには、ちゃんと理由があるのよ」


にっこりと、ようやく普段の笑みを浮かべて彼女は言った。


「こうして恋人ぽくしておけば映画をカップル割引で観れるでしょ。飲み物とポップコーンもついてくるし」
「ああ、なるほど」


そういうシステムを知識としては知っていたが、まさか自分が当事者になるとは思わなかった。


「それじゃあ、今度こそ改めて。レンちゃんはなにか観たいものはある?」
「特にないけど、水姫は候補があるって顔をしてるね」
「さっすがレンちゃん。あのね、最近話題になってる恋愛映画があるでしょ。やっぱりデートなんだし、あれがいいと思うの」
「あ、ごめん。それはもう観ちゃった」

 



「え?」
「いや、公開日に」
「あ……あれを男ひとりで観に行ったの!?」


妙なポイントについて驚かれたが、確かに話題の恋愛映画ということで、周りはカップルばかりだったか。


「母が観たいっていうから連れて行かれただけなんだけどね」
「…………」


水姫は絶句したままである。

嘘をつくよりはマシかと思ったが、ドツボな返答だという自覚はあった。

というか、地味に繋いでいる手の握力が増しているのが怖い。


「ねえ、レンちゃん」
「はい」
「やっぱり、さっきチャラにしてた殴る権利を行使してもいい?」
「嫌だよ!」
「ああもう、なんてこと! これは相談しているときにも思いつかなかった事態だわ!」


繋いでいた手をあっさりと離して、水姫が苦悩しだしてしまう。

相変わらず本番に弱いというか、間が悪いというか、運が悪い。

しかし、“相談”ってなんだろう?

 



「映画……どうしよう……」
「いや、他の映画を見てもいいし、なんなら僕は2回目でもいいよ。面白かったから」
「レンちゃん……それはそれ、これはこれで、ネタバレしたら本当に叩くからね……」
「……はい」


どうやら個人的にも楽しみにしていたものらしい。


「……切なそうな恋愛映画で雰囲気盛り上げて……。それからお茶して、夕方に見晴らしの良いところで……」


なにやらブツブツと小声でつぶやいているが、今は大人しくしているほうが身のためだろうと黙っておく。


「電話して……いえ、ダメよ。あの人たちに連絡して今日がデートだって知れたら、きっと面白がって見に来るに決まってるわ。………………映画はやめましょう」
「あ、やめるんだ」
「レンちゃんがいいって言っても、さすがに2度目に付き合わせるのは気がひけるし。わたしが映画に集中できないもの」


ポケットからのぞかせた携帯をチラリと確認して、水姫がなにかに納得するように頷いた。


「それでは、気を取り直して予定を前倒しします」
「予定があったんだね」
「う……」
「いや、別に悪いことじゃないよ。僕は遊び下手だから、デートでどこに行くかとか全然思いつかないし。あー……言っててちょっと情けないけど、正直、予定があったほうが助かるから」
「そ、そう言ってくれるならいいけど。はあ……フォローありがとう」


フォローのつもりではなく、自分のことを正直に謝っただけなのだが。


「それじゃあ、映画をやめてどこに行くの?」
「いつまでも、こんな道の真ん中でグダグダしててもしょうがないし、もっと広い場所に行きましょ」
「広い場所?」
「この地球で一番おっきくて、わたしが一番好きな場所よ」


………………


…………


……

 



「なるほど、確かに地球で一番大きな場所だ」


どこへ行くかを教えてもらえなかったが、海についてすぐに納得した。

海水浴客もチラホラと見受けられるが、音羽は街の建物こそが観光の中心であり、隣の七浜という町にきちんとした海水浴場があるので人数は少ない。

 



「でも、泳げないのに海?」
「昨日も言ったでしょ。泳げないことと海が好きなのは別のことだって」
「水着すら用意してないのに、ってことだけど」
「なにも泳ぐだけが海の楽しみ方じゃないわ」


水姫が胸を張って言う。


「喫茶店とかでダラダラしてるより、こっちのほうがデートっぽいし」
「それは確かに」


インドア派の筆頭である僕としても、久しぶりの海は感慨深い。

寄せては返す波音や、足の裏に覚える砂浜の感触は、僕の頬を自然とゆるませていた。

 



「うーん……風が気持ちいいわね。本当は映画を観た後、夕方になってから来たかったんだけど」
「その時間帯が一番きれいだもんね」
「予定がなくても、もうちょっと後に来るべきだったかな」
「……なんかやけっぱちになってない?」


口にしていることとまったく正反対の水姫の表情に、僕は首をかしげてしまう。

 



「別にいいじゃない。なんかこう、海を見たらどうでもよくなってきたの」
「ああ、そういう感じのほうが水姫らしいね」
「嫌味のつもり?」
「褒めてるんだよ」
「そういう褒められかたをされても嬉しくもなんともないけど……」


憮然とした物言いに、思わず苦笑してしまう。


「冗談じゃなくて。さっきまでの水姫の押しの強さは、なんかぎこちなかったから」
「……うーん、実は友達とか知ってる人に、レンちゃんとのことを相談してたんだけど。やっぱり、わたしらしくなかったかあ」
「言うほどの差じゃないけどね」
「どう普段と違ったの、わたし?」
「え? こう、なんだろう。今日のデートの誘い方は、普通の人には強引に見えるだろうけど、水姫にしてはスマートだったっていうか。普段なら、もっと無理やり押しきろうとして逆ギレみたいになるというか」
「あの……やっぱりそれ以上は説明しなくていいわ。怒るよりも前に、へこみそうだから」
「そ、そうだね」
「……あー」


水姫が空を眺めてぼんやりとした声をあげる。


「……海は気持ちいいけど、夕方より前に来ちゃうと暑すぎるのが計算外ね」


確かに、日陰のない浜辺は熱に弱い彼女にとって厳しい場所だろう。

空からの日差しだけではなく、ジリジリと焼かれた砂のせいで足元からも熱気が立ち上がってくる。


「ねえ、水姫、この後、またどこかに行く?」
「特に予定はないけど……ここにいてもつまらない?」


僕の質問意図を勘違いしたのか、水姫が不安そうな顔をする。


「そうじゃなくて、しばらくここにいるかどうか確認したかっただけ。ちょっと待ってて」


断りをいれてから海の家に向かい、用事を済ませてすぐに水姫のもとに戻る。

 



「なにそれ?」
「レンタルのビーチパラソル。しばらく海にいるなら日除けがいるかと思って」


パラソルを広げて雨傘のように担いでいると、水姫がくすくすと微笑みをもらした。


「ありがとう、でも──レンちゃんが持ってると、なんかコロボックルみたいね」
「……笑うことないのに」


喜ばれると思っていたのに、正反対の反応とは。

がっくりとしつつ、一緒に借りてきたビニールシートを広げ、パラソルを地面に刺しこむ。

 



「あー、暑いけど涼しいわ」


水姫が靴を脱いでシートの上に座り、足をぱたぱたとさせる。


「レンちゃんも座ろうよ」
「うん」


隣に座ると、ぽんと地面に置いた手を重ねられる。

 



「うふふ。思ったよりいいかも、これ。冷房の効いてる喫茶店で話してるより健康的ね」
「健康的じゃない喫茶店で本を読んだりするのが、僕の好みではあるんだけど」
「そんなことばっかりしてると、本当に“もやし”になっちゃうよ。やっぱりレンちゃんは、将来は小説家になりたいの?」
「どうしたの急に?」
「急にじゃないわよ。わたしも受験があるし、そろそろそういうことも考えないといけない時期でしょ? レンちゃんだって考えてないわけじゃないんだろうし」
「1学期に進路希望調査はあったけど……

「なんて答えたの?」
「無難に進学」
「本当に無難ね」
「まあ、本に関係してる仕事に就きたいとは思ってるけど、具体的に書くほうにするかはまだ決めてないよ」
「え? お話は書かなくなっちゃったの?」
「元々、書かなくなったってほど書いてたわけじゃないから」


まだ小説を書いていると──そう思われていたことのほうが驚きだった。

子供の頃、読書好きが高じて自分で物語を作ったとき、それを聞いてくれたのが水姫だった。

いや、正確には逆だ。

あの頃は、水姫に読んでもらうために物語を作っていたのだろう。

 



「そっか、もう書いてないんだ。わたし、レンちゃんの作るお話が好きだったのになぁ」
「細かい内容は僕も覚えてないけど、あの当時の僕の話って、展開とか設定とか滅茶苦茶だったと思うよ」
「そうだった、かな?」
「多分」


その当時に触れていたファンタジー小説や童話のツギハギのようなものだったはずだ。


「でも、雪だるまの話はちゃんとしてたでしょ。あれはちゃんと覚えてる」
「ああ。あれだけは、そうなるしかないって終わり方だったからね」


雪だるまの話というのは、冬の世界である北極で暮らしている雪だるまが、夏がどんなものか知りたくて南へ向かって旅をしていくというものだ。

道中は1回のお話ごとに、ゲストとなるキャラと出会い、触れ合っていく。

やがて赤道が近付いてくるのだが、当然、あたたかい場所に向かうほど雪だるまの身体は溶けていって……。


「……あれは最後、溶けて消えちゃうしかないよなあ」
「…………」


水姫は黙ったまま肯定も否定もしなかった。

水姫がハッピーエンドを好んでいることは知っていたが、この雪だるまの話だけは主人公が消えることが前提だったのだ。

僕としては、悪い終わり方だとは思っていないのだが──


「…………」


水姫はちょっと小首をかしげたまま、僕をじっと見つめていた。


「ねえ、レンちゃん。海に遊びに来ることって多い?」
「え? ううん、全然。泳ぐのはそんなに好きじゃないし」
「いつから来てない?」
「いつって……それは……」


いつからかは覚えていたが、一瞬、口ごもってしまう。


「……水姫が溺れた、あのとき以来だけど」
「やっぱり」
「別に隠してたわけじゃないし、あれが気になって海に来なくなったわけじゃないよ!?」
「うん、そうなんだけど……」


水姫は膝を抱きかかえて、ひとつ頷いた。


「ありがとね、レンちゃん」
「僕はなにもしてないよ」


あのとき──僕と水姫の家族で海に遊びに来た日、彼女が溺れていることに気づいたのは、本当に偶然だったのだ。


「泳ぎ疲れてこんなふうに浜辺で休んでいるとき、浮き輪から落ちそうになってる水姫に気づいただけなんだ」
「今なら笑い話で済むけど、あのときレンちゃんが気づいてくれなかったら、本当に死んじゃってたと思う。だからね、わたしは、レンちゃんのものなのよ」


他の人間が言えば冗談にしかならない台詞だが、水姫は心の底からそれを口にしている。

それが純粋な行為から発せられているために、逆に素直に受け取れ──


「…………ん?」

 

唐突になにかがひっかかった。

おぼろげな形にすらなっていないけれど、大切なものが浮かびあがろうとしている気がする。

キラキラと輝く海面を見つめる。

水姫ほどではないが、夏は暑くて苦手だ。

風鈴、西瓜、うちわ、夕涼みと、日本らしい情緒に溢れていて好きな季節だが、頭がぼーっとして考えがうまくまとまらない。

 



「ねえ……どうしたの?」


僕が急に黙りこんでしまったから、水姫がおっかなびっくりに顔を覗きこんでくる。


「あ、うん。ちょっとね。……そういうことだったんだなって」
「なにが?」


彼女が訝(いぶか)しむのも無理はないだろう。

自分でも鈍いと思っていたが、まさかこれほどだったとは。

どうして僕が水姫の行為を受け入れられないか──答えはとても単純なことだったのだ。


……。

 



『レンちゃん大好き。わたし、レンちゃんのお嫁さんになるの』


それは、彼女が子供の頃からずっと口にしていたことだった。

僕がどう答えていたのかは覚えていなかったけれど、多分、拒否はしていない。

でも、約束は決して人を縛るものではないのだ。


「ねえ、水姫。僕は水姫の命を救ったのかもしれないけど、だからといって僕を好きだなんて言わなくてもいいんだよ」


お姫様を助けたことで彼女を手に入れる──結果と目的が逆転しているような、そんな傲慢な物語は認められなかった。

僕がなりたい騎士はそんなものじゃない。

騎士は、お姫様が好きだからこそ助けに行くべきなのだ。


「…………」
「だから、ごめんね」
「……ああ」


顔を伏せて水姫が小さな声をもらす。

夏だというのに彼女の肩が微かに震えている。

 



「ああ、レンちゃん、レンちゃん……。なんて可愛いの」
「か……可愛い?」
「っ、あははははは」


顔をあげたと思ったら、水姫は泣いているどころか、涙を浮かべるくらいに大笑いしていた。


「ふふふ、っ……ふふ……お、お腹痛ぃ……っ……。ああ、可笑しい。もしかしてずっとそんなこと気にしてたの、レンちゃん?」
「いや、そうだけど……」


呆気にとられながらも、反射的に頷いてしまう。


「改めて言われると、だからなんだって思うかもしれないけど、ずっと胸にひっかかってたんだ」
「もう、最高にハッピーな気分だわ! 惚れ直しちゃう! 助けられたかどうかなんて関係ないわ。わたしが好きなのは、そういうレンちゃんだからこそだもん!」


水姫は嬉しそうに──周囲のことなど忘れたかのように声をあげる。


「レンちゃん、もっとこっちに来て。押し倒してキスしてあげる」
「い、いいよ」
「あはは。びっくりした」


びっくりしたのは僕のほうなのだが……。


「まいったな」


水姫のトラウマを心配してみれば、僕のほうがトラウマになりそうな状況だった。

ぐにゃぐにゃになった顔を見られたくなくて、ため息をつきながら立ち上がり、靴を履いて波打ち際のほうに歩いていく。


「気にしていたのは僕だけだったのか……

「ごめんごめん、レンちゃん」


水姫がパラソルを日傘のように担いでやってきた。


「嬉しすぎてちょっとテンションがおかしくて」
「ちょっと?」
「えへへ。ものすごく」
「そうだよね」

 

 



水姫のとろけたような笑みが照れくさくて空に視線を向けると、太陽が傾き始めていることに気づいた。

まだ1時間は明るいままだろうが──それでも、幸せな時間というのは早く過ぎ去ってしまう。

 

 

「あ、レンちゃん、笑ってごめんね。別に馬鹿にしてるとかそういうことじゃないから」
「それはいいけど」
「だけど、あの、もしああいうことを気にして私のことを──」
「水姫。先に僕のほうからいいかな」
「なに?」
「僕と付き合ってください」
「え?」
「いや、言った通りの意味なんだけど。今さらで本当にごめん」


こちらのボケた思考で彼女に迷惑をかけていたのは、本当に申し訳なかった。

だから、せめて、最後の告白くらいは僕からしたかった。

 



「………………うぅ」
「うわ、だからなんで泣くの!?」
「嬉しいからに決まってるでしょ!」
「よくわからないけど……返事はOKでいいのかな?」
「いいもなにも……ああ……。もう一回、言って」
「なにを?」
「さっきの言葉」
「…………」


色々な国の言葉を知っていて、色々な『あなたが好きです』という言葉が頭に浮かんだが、どれもしっくりこなかった。

だから──

本当に軽く触れあわせるだけだったが、僕は彼女にキスをした。

 



「…………」
「…………ぁ」


パラソルの柄を胸に抱いて水姫が後ろに下がろうとするのを、無意識のうちに背中に手を回して止めていた。


「……今は、これが、返事で」


自分自信、まさか白昼堂々とこんなことをするとは思わなかった。

こんなときに妙なことだが、自分に日本人のものではない血が流れていることを思い出す。

 



「…………」


唐突に、無表情だった水姫の瞳から涙がこぼれた。

僕はもう1度、今度は彼女の頬にキスをする。

彼女の涙は海の味がした。


…………。


……。

 

「ちょっと遅くなっちゃったね」


遅くならないようにと言われていたが、家に帰ってくる頃には日が暮れていた。

茶店で話し込んでいるうちに時間を忘れてしまっていたのだ。

 



「でも、付き合うからには決めておかなきゃいけないことが色々あったでしょ」
「うん」


メールはいつでもいいが、電話をしていい時間は何時までとか、夏休みが明けてからの登下校を一緒にするかどうかとか。

ぼんやりとしか決まらなかったけれど、そういうことを語り合うのはとても楽しかった。


「ま、遅いって言ってもまだ7時だし、大丈夫よ」
「そういえば、水姫は門限があるんじゃなかったっけ?」
「6時だけど、事前に遅くなるって言ってあれば平気よ。特に今日はレンちゃんのところだって言ってあるし」
「うちと違ってちゃんとしてるなあ」
「レンちゃんは部活もバイトもしてないし、放っておいても帰ってくるからでしょ?」
「まあ、ね」


そう言われてしまえば、そうなのだが。

友達が少ないと言われているようで、微妙な気分ではある。


「とりあえず、明日から門限を6時から7時まで延ばしてもらうように、交渉してみるから!」


がんばろうと意気込んでいる水姫が可愛くて、こっそりと口元をゆるめながら家路を辿った。


…………。


……。

 



「ただいま~」
「あ、なによ、本当に帰ってきちゃったの?」


居間でのんべんだらりとしていた母親が目を丸くしていた。


「……帰ってこいって言ってたのは誰だっけ?」
「バカねー。帰ってこいって言ったら、帰ってくるなってことでしょうが」
「そんな無茶な」

「おばさま、ただいま戻りました」

「はい。おかえりなさい」


僕のときとはまったく正反対の応対だった。


「でも蓮治、本当に帰ってきちゃったの? 忘れ物をとりに来たとか、手持ちのお金が足りなくなったとかじゃなくて?」

「いや、普通に帰ってきたんだよ。お腹も空いたし」

「参るわね……この馬鹿息子は……」


自分では変なことだと思っていなかったのだが、そこまで呆れられることなのだろうか?

 



「帰ってこないと思ってたから、夕飯、自分のぶんだけ作って食べちゃったわよ」

「僕が作るから大丈夫」

「ふうん……そうか、思い出作りって意味なら、初デートで手作りっていうのも悪くないのかもね」


先ほどまでの馬鹿にした雰囲気が失せて、母が納得するように頷く。


「水姫ちゃんも食べていくのよね」

「はい。今日は、夕飯はいらないって言ってあるので」

「お外で食べたかったんじゃない?」

「最初はそう思ってましたけど、レンちゃんの料理、久しぶりに食べたいなって」

「あら?」


母が水姫の笑顔を目にして、小首をかしげてしまった。

なにかを読み取った──というか、読み取られてしまったか。


「あらあら。あらあらあらあら」

「それはもういいって」

「本当にこんなんでいいの、水姫ちゃん?」

「はい」

「……2人とも、“こんなん”がなにを意味しているのか教えて欲しいな」

「自覚があるのに聞くことないでしょ」

「わたしは“これしかない”よ」


相変わらずのまっすぐな物言いの後、水姫は母に向かってぺこりと頭を下げた。


「おばさま、不束者ですがよろしくお願いします」

「ええ。うーん、ついに息子を取られちゃったって考えるより、子供が増えたと考えるほうが健全ね」


なんだか娘を嫁にやる父親のような言い方だ。


「ちゃんとレンちゃんを幸せにしますから」


こっちはこっちで、お嫁さんをもらう男性のような言い方だった。


「なんだかなあ……。まあ、いいや。つっこんだら負けな気がしてきたし。僕はご飯を作るけど、水姫はなにか食べたいものはある?」

「お魚! あ、ううん。手伝う手伝う」


台所に向かおうとすると、ぱたぱたと水姫がくっついてきた。

と、その水姫の手を、母が突然わしづかみにする。

 



「わ? な、なんですか?」

「うふふ。お料理なんて蓮治に任せて、水姫ちゃんは私と一緒にお風呂に入りましょう♪」

「え? お風呂?」

「家族水入らずってやつよ。というか、どうせだから今日はお泊りしていきなさい。家には電話しておいてあげるから」

「え?」


子供2人が呆気にとられていると、その隙をついて母が水姫を捕まえたまま部屋を出て行ってしまった。


「…………え、本当に?」


………………


…………


……