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-ノベルゲーム・タイピング-

世界でいちばんNGな恋【3】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
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Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。

 

 

 


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……



 

 

第3話 『部屋においでん』

 

 

 

 

……

 

 

 



「それにしても驚いたよね…」

「いや、確かになぁ」

「俺…俺、リストラって童貞だと思ってたのにさ」

「そっちかよ…」

「おいおい失礼なこと言っちゃぁいけないよ。『立てば青竹、座ればススキ、歩く姿は柳の木』ってぇくらいに惚れ惚れするくらいの色男じゃないか」

「すまんご隠居。それ、どこがモテるのかよくわからん」

「しっかし…大家ちゃんの担任の先生が、リストラの元奥さんって…ありえなくない? なんか漫画みたいな展開だよね?」

「いや、その言い方は漫画以外の創作物に失礼だ」

「あ? そうなの?」

「いいか? ラノベ、アニメ、ゲーム…世の中にはこういったご都合主義の物語が無数に存在する。今回みたいな腐った展開を、漫画独自の文化と決めつけ、他の媒体を認めないのは思考停止だ」

「言ってる意味がわかんない上に、そもそも俺はそういうの見ないってばさ」

「お前も年中暇な大学生なら、そのぐらいのオタク趣味は身につけとけ。いつか役に立つときが来るぞ」

「その言い方は俺以外のごく一部の大学生に失礼なんじゃないかなぁ」

「例えば、世間では、今お前が言った『漫画』の部分を、『とあるレーティングのパソコンゲーム』に置き換える動きも散見されていてだなぁ」

「ああ、それなら俺も聞いたことある。確か、"それなんて"……」

「ご都合主義なんてのは人情噺でも付き物だよ。熊さんの言ってることは専門的すぎて訳わかんないよまったく」

「ところで今何時?」

「ええと…7時だな」

「8文、9文、10文…」

「ふあぁ…もうそんな時間か。じゃ、そろそろ寝よっか」


………

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ…」

 

 

 

 

「………」


僕の出勤時間と、美都子ちゃんが新聞配達から帰ってくる時間は、結構、ぶつかる確率が高い。



 

「や、やぁ、おはよう…」
「………」


以前は、どちらからともなく合わせてたような気もするけれど、今日は………ひたすら偶然だろうな。



 

「あ、あのさ…美都子ちゃん」
「………」


何しろ、昨日の"アレ"以来、口をきいてもらってないし。

帰宅してから、美都子ちゃんの部屋を何度かノックしたけど、そのたびに、枕がドアにぶつかる音だけが聞こえてきたし。



 

「そ、その、昨日のことは…」
「何よバツイチ」
「ええええぇぇぇぇ!?」


あだ名が変わってる~!?

しかも、とうとう『さん』まで外されてしまった…

まぁ、そりゃ仕方ないかもしれない、けど。



 

「ふぅ…」
「あ、あのさ、美都子ちゃん。その、ちょっとだけ、話できないかな? 5分、いや3分でいいから!」


誤解と解かないと…

いや、あまり誤解じゃないから解けないかもしれないけど、とにかく、何とか機嫌だけでも直してもらわないと。

 

「ええと、今回の件に関しましては、誠に遺憾に存じますって言っちゃうと間違いなく全然誠意がこもってないから言い直すと…ええと…」


でないと僕は、ここにいる目的を失ってしまう。

辛うじて繋ぎ止めていた自分の存在価値を、ふたたび見失ってしまうから。


「別にさぁ…」


けれど…



 

「そんなにビビらなくてもいいよ。感情的になって、ここを出てけとか言ったりしないから」
「あ…」


美都子ちゃんの度量は、僕の度胸に比べても、感動的なほど広かった。


バツイチにも、色々あったんだろうし、事情も聞かずに一方的に責めるのは、違うって思うし」
「み、美都子ちゃん…」


だから僕は、その、身体は小さいけれど、心のとても大きな、僕よりもかなり年下の頼れる女の子のことを…


「ただ、嫌悪感があるだけ」
「………ぇ?」
「あんな綺麗な奥さん捨てて、ママのことストーキングして、自分はそんなちゃらんぽらんなくせに。あたしのこと守るとか、そういうの最低だなって、思ってるだけだから」
「ええええぇぇぇぇ!?」



 

「それじゃ、行ってらっしゃい。バツイチが帰ってくる頃は、あたしも寝てるから、昨夜みたいにノックとかしないでね、じゃ」


──!

 


「あ…」

 

「ああっ、また壊れた~!? も~、なんなのよ~!」

 

………

 

……

 

 

 

 

 

「またまた…やってしまった」


嫌われるのは、当たり前だ。

多感な年頃である美都子ちゃんにとって僕の経歴は、激しい嫌悪感を抱かせるに十分過ぎるほど、許しがたいものに違いないから…

だから今まで、隠してきたんだから…

大人って、汚いな…

いや、僕限定なのかもしれないけど。


「はぁ…」


うまく行かないもんだなぁ。

本当なら昨日、僕は美都子ちゃんの『かりそめの保護者』として、彼女の願いを叶える手助けができるはずだった。

それが蓋を開けたら全ては裏目

きっと美都子ちゃんの『担任』は、彼女をあの場所に、このまま置いておくのを認めはしないだろう。

そのくらいは、わかる。

何しろ二年間、一緒に暮らして…


──!


「あ…」



 

「この前よりも10分遅いわね。急がないと遅刻するのではなくて?」


「…え?」

 

 

 

………

 

 


「居辛くなったのではないかしら? あんな秘密が発覚した今となっては」

「な、なんで…そのことを?」

「簡単なこと…陽坂美都子に、あなたの過去を教えたのは、他ならぬこの私だから」

「な…っ!?」


おかしいとは思っていた。

僕が、彼女…麻美と再会したすぐ後に、美都子ちゃんが、過去の僕たちの関係を的確に掴んで、僕に鉄槌を下すことのできた理由。

そこに、豊富な情報量を持った第三者が介在するのは、火を見るよりも明らかだった。

あまりにも色々あったせいで、今までそのことに頭が回らなかったけど。


「色々と困ったことになったわね…陽坂家の事情はとうとう学園側に発覚。きっと、早急に然るべき対応を取って来るでしょう」

「う…」

「おまけにそこに住む住人は、教育上、非常によろしくない過去をお持ちのようで…。とても一人暮らしのトコちゃ…女子学生と一つ屋根の下で生活なんて、世間的に許されるとは…」


あまりの正論に、反論なんかできずに俯いてしまう。

今は、何を言っても僕の言いがかりに聞こえてしまうだろう。


「さて…そこで前回の提案が生きてくると思うのだけど?」

「提案…って」


『出て行っていただけないかしら? そうね、一週間以内に』


確かに…テラスハウス陽の坂の危機も露見し、大家さんの信頼も失った今の僕にとっては、とても現実味を帯びた提案と言えるだろう。


「ああ、私はそちらの足元を見て、支度金を値切ったりしないわ。それどころか…そうね、明日にでも出ていけば2倍支払いましょう。悪くない提案だと思うのだけど、いかがかしら?」


悪くないどころか、世間的に考えれば魅力的すぎる話に決まってる。

だからこそ、気になることは、膨らんでいく。


「一つだけ、質問してもいいですか?」

「何かしら?」

「あなたの目的が何なのか、どうしてもわかりません」

「あら」


僕の目の前でお嬢様然としている彼女は、ほんの少しだけ、眉を動かした。

その表情は、僕の言っていることが意外で驚いたとも、的はずれで呆れたとも取れる微妙な線で。


「あなたのお父さんの会社、噂は色々聞いています。その、あれだけ大きな企業にしては、ちょっと過激なものも…」

「ふぅん?」

「で、それらの噂をひっくるめて考えると、あなたのしている交渉は、澤嶋不動産としては甘すぎると思うんです」


そう、そこが最大の違和感。

言い方は悪いけど、血も涙もない悪徳不動産の手口としては、甘すぎるにも程がある。


「正直、条件が良すぎます。だって僕らは、言っちゃなんだけど不良住人です。追い出す口実なんて、いくらでもあるはずなんです」


住人への保障、世帯主へのケア、そして今回のネタばらし。

冷徹な口調とは裏腹に、次から次へと出てくる甘い汁の数々。

何か巧妙な罠が仕掛けられていて、うっかり乗ってしまうと、タダ同然で土地を吸い上げられるとか。

無一文で放り出されてしまうとか、そういう気配がまるで感じられない。

…何しろ住人たちは、僕含め、皆無一文だし。

それに…


「もう一つ…どうして美都子ちゃんには、そこまで優しいんですか?」

「………」


この人は、独りぼっちで心細い美都子ちゃんのもとに現れ、表向きだけとしても、事実、彼女の支えになっている。

それに、あれだけ勘の鋭い、頭のいい子が、裏の心を隠して近寄る大人に不穏なものを感じないはずがない。

…ような気がする。

他の住人に対する『甘さ』と、美都子ちゃんに対する『優しさ』は、本質的に内容が違っている。

僕たちには、惜しげもなくお金をちらつかせるのに対して、彼女には、お金をかけずに手間をかけてる。

何度も会話して信頼を得て、危機を知ると飛んできて、高価ではないけど、楽しませるお土産を持ってきて。

騙すために、そこまでやるとしたら…

その人は一流の不動産屋ではなくて、一流の詐欺師だ。


「僕には、あなたがただ土地のためだけに動いているとはどうしても思えないんです。何か、もっと別の…」

「悪いけど…」

「え…?」


途中から、僕の話を聞き流すように、窓を開け、外の空気を吸っていた彼女は…


「ここで降りてくれるかしら? 後は電車を使って頂戴。佐々木」

「はい、承知いたしました」

「………」


最後まで表情も態度も変えることなく、僕との話を打ち切った。


……

 

 

 



「悪いわね、会社まで送れずに」

「いえ、駅までで十分です。ありがとうございました」

 


街頭募金
交通遺児を支援するための、募金活動にご協力お願いしまーす! ありがとうございましたー! 現在、交通事故によって家族を失い、進学したくても出来ない児童が、全国に何万人もいます! 私たちは、その子達の勉強したいという願いを叶えるために、皆さんの力をほんの少し分けていただきたいと考えています! よろしくおねがいしまーす!」


……

 

 


僕のどの言葉が気に障ったのだろうか。

澤嶋姫緒さんは、もう僕とこれ以上議論する気はなさそうだった。



 

「最後に、もう一度だけ忠告させていただくわ」

「澤嶋さん…?」

 

 

 

「つまらないことに首を突っ込まないように。…そろそろ、覚えたかしら?」

「………」

「ちゃんと理解できたかしら? それとも、岐阜の言葉で言わないと意味がわからない?」

「そんなに変わらないじゃないですか名古屋弁と…」



 

「…なんで名古屋がここに出てくるのよ?」

「大体、パウコができたのは、名古屋よりこっちが先なんですから…」



 

「そっちのパウコはもう撤退してるじゃない!」


いくら否定しようにも…

僕らには、ご当地の血が流れていることは疑いようがない。

 

………


……

 

 


街頭募金
「あ、あれ、ちょっと、ちょっと誰か、誰か来て! ど、どうしようこれ…!」
「え、えぇー!! こんなにたくさん!? 誰、こんな……!」
「わ、わからないの、気がついたら、募金箱の中に、いつの間にか入ってたの……!」

 

……

 

 

 



「さてと…」


色々ありすぎたけど、今日でめでたく…もなく、今週も終わり。

今からが、僕の本当の勝負…

美都子ちゃんに嫌われないため、あの場所を追い出されないため。

そして…彼女に、僕は立ち直ったって、言えるようになるために。

…立ち直ったら、どうだって言うんだろう?

一度、裏切ってしまった相手に。


「とにかく今は仕事仕事!」


今日は、いつもの猫背に対する注意はなかったけれど、自発的に、背筋をぴんと伸ばし、改札へと向かう。


……


…にしても、今日は朝から駅前が妙に騒がしいな。


………

 

……

 

 

 

 

「ねぇ倫子ちゃん…」
「なに? 真鶴」
「今日、朝から妙に騒がしくない?」
「ああ、それはね…」

 



「え、ええと…であるからしてぇ…その、ここの角度を求めるのに一番簡単な方法は…」


女子生徒1「う、うそぉ…美都子がぁ?」

女子生徒2「教室でいきなり先生のダンナひっぱたいてさぁ。そのまま、ものも言わずに帰っちゃったんだって」

女子生徒3「ちょっ、ちょっと待って? 話が見えない。陽坂と香野のダンナとの間に一体どういう関係があるのよ?」

女子生徒1「ふ、不倫? 修羅場? 果物ナイフ!?」

女子生徒4「いや、あたしが聞いた話だとさぁ、美都子の義理の父親にセンセが手出しちゃってぇ、そのせいで母親が出て行っちゃったとかなんとか」

女子生徒1「どっちにしても修羅場? 出刃!?」


「だから、その…補助線がね…2本くらいね…どこを繋ぐかがわかると、もうできたも同然なんだけど…」


男子生徒1「意外だなぁ…あの、クラス委員長よりも委員長らしい陽坂の相手が、どう見てもハタチ超えてるリーマン風だなんてなぁ」

男子生徒2「人は見かけによらないっつ~か…受験勉強とかでストレスが溜まってたんかなぁ? で、ついつい年上男のテクニックに骨抜きに…?」

男子生徒1「おいおいどうすんだよ剛志? お前、激しく先越されてないか?」

男子生徒2「…って、寝てるし」


「真鶴……。あんたが妙な噂を教室中にばらまいたからだと思う」
「え~? 倫子ちゃんだって止めなかったじゃな~い」


「そ、それじゃ、この問題を誰か…えっと…」


「それにしても…今朝、あんたの話を聞いたときは、いつものガセかと思ったんだけど…」
「い、いつもって何よ~!」
「でも、あの香野の様子見てると、確かにただ事じゃない雰囲気が…」
「今度のは間違いないんだから。ちょうどバスケ部が教室の目の前走ってたらしくてさぁ」


「…先生」

「は、はぅっ!? な、何かしら? ひ、ひ…陽坂さん」

「周りがうるさくて先生の声が聞こえません。静かにするよう注意するか、いつもみたいに、もう少し大きな声でハッキリ喋ってください」

「え? あ、ああ………ごめんなさい。以後、気をつけます」

「…ふぅ」

 

……

 

「…トコちゃんの方は普通だね?」
「…そっかなぁ?」
「うん、だっていつもこれくらいの注意はするじゃない」
「あたしには、いつにも増して、深く静かに怒りが潜行してるようにも見えるんだけど」


「じゃ、ここを…今日は12日だから、女子の出席番号12番…ひの………今日は趣向を変えて13番にしましょう。本田さん」


「え~! わたしですかぁ!?」


「………」


「すっごくわかりやすい因果応報の実例を見た気がする…」

 

………

 


……

 

 

「…はぁ」



 

 

「陽坂」

 


「…今度はあんたなの? もう、勘弁してよ、帰るんだから」



 

 

「俺は信じてるぜ。お前は、みんなが思ってるような女じゃないってな」
「信じてるならわざわざ言いに来ない。自分の胸の中で信念に燃えてなさい」
「それじゃ意中のコに気づいてもらえないだろ? 男は黙って、なんてのは古いんだよ。これからは成果はどんどんアピールしてかないとな」
「そういうのって度を越すと鬱陶しがられるわよ。世界の警察官みたいに」
「じゃ、控えめな男の方が好きなわけ? 陽坂は。何も言えずにウジウジ悩むようなのがさ?」
「…大っ嫌いね、今のとこ」
「だろ!? やっぱ気が合うよな、俺たち。ところでさ、明日の日曜日なんだけど、偶然にもここに映画のチケットが2枚…」
「…尾関」
「お、おう?」
「さよなら。また『来週の月曜日』」


……



 

「あ…」

「いつもいつも無駄足ご苦労さん」

「長谷川・・」



「あ、あの、剛志君…」

 


「なぁ、あの話本当なのか? 陽坂が、その…」

「信じてるんじゃなかったの?」



「その、残念だったね。映画のチケット、せっかく用意したのにね」

 


「陽坂は信じてるけど、訳わからん男の方は信用できねえからな」

「うわ、詭弁」



「あ、でも、使わないの、もったいないよね? それに一人で行っても、一枚余っちゃうもんね?」

 


「なんでもいいだろ? なぁ、教えろよ?」

「いやぁ…実はあたしもまだそこまではね…」



「それで、それでね、ちょっとした提案なんだけど…」

 


「なんだよ頼りねぇなぁ。お前、陽坂の一番の親友なんだろ?」

「で、さぁ…ま、明日にでも親友の絆を再確認しに行こうかと考えてるわけなんだけどね?」



 

「…東萩守公園で待ち合わせってことでいいか?」

「え…?」

「一応10時のつもりだけどさ、女の子は色々準備があるから」

「わかった、来るまで待ってるって」

「ほ、ほんと? あ、でもわたし遅刻なんかしないよ? うん、絶対、先に来て、待ってるから…」

「あ! やべ、今から練習試合で遠征なんだった! じゃ、また明日な~!」

「ん~、頑張りなよ」

「う、うんっ! 明日、約束だよっ!」


……



 

 

「………」
「…(はぁっ)」
「…真鶴」
「え? なに、なに、倫子ちゃん?」
「個人的には、かなり馬鹿馬鹿しいんだけど…あんたに一つ、気の毒な事実を伝えなくちゃならないの」
「え? え? どうゆこと!?」


………

 

……

 

 

 


……

 

 

 

 

「ただいま戻りました…」
「ん…お疲れ」
「疲れました…ふぅ~」



 

「………」
「あ~…まずいなこの靴。穴開いちゃったかなぁ?」
「………」
「どうしよう…これ以上は限度額………? どうしました? 天城さん?」
「え? あ、ああ…そだね。新人さんの顔、見てただけ」
「見てただけって…」


確かに、ただぼうっと、僕の顔を覗き込んでた。

一週間顔つき合わせて、もうさすがに慣れてくれたと思ったんだけどなぁ。



 

「…今日の外回りはどうだった? 少しは成果上がった?」
「え? ああ、ま、あんまりですね。とりあえず、メーカーからやっと納品のあったところが2社。納期延長で手を打ってくれたところが8社…」



 

「あの状態でそこまで持っていけば凄いって。だって、もうほとんどライン止まっ…いや、なんでもないけど」
「………そう言っていただけると救われます」


だから、気にしないんだって。



 

「じゃ、閉めようか? はい、お疲れ…」
「あ、僕はまだやることが残ってるんで、お先にどうぞ」
「…土曜日だよ? 今日」
「あ…もしかして、土曜は半日でしたか? だったらすいません、付き合わせてしまって」
「いや…本当は、土日は休み」
「ええっ…あ、も、もしかして…僕が今日出るって言ったから、天城さんも…?」



 

「ん~………ま、ね」
「す、すいませんっ!」


昨日の途中離業のこともあり、今日は遅くまで残務を片づけるつもりだったけど、まさか、そんなところで人に迷惑をかけてたとは…。

そういえば、外回り先でも、誰もいなかったり、担当じゃない人が一人だけ出勤してたりとか、なかなか話が進まない状況も結構あったっけ。


「僕、いや私、どうにも周りが見えてないことが多くて。それでよく怒られるんですけど、やっぱり駄目で…」
「いいよいいよ。何か、思った以上を通り超えて働いてるみたいだしさぁ。な~んでそんな一生懸命なのかはわかんないけど」
「あ、いや、それは…本当の、社会復帰のための第一歩ですから…」
「社会復帰…ねぇ? 最初から立派に社会人だったと思うけど? 落ち着いて…はいないけど、堂々と…もしてないけど」
「…まさにその通りで」
「あ~、でも、謝るの得意だよね? まさに職人技。その長身でよくあそこまで低姿勢取れるよね?」
「いや、それは…すいません」

 

 

「そっか、またサービス残業か。…飲みにでも誘おうかと思ってたんだけどな」
「鍵…保管場所だけ教えてくれませんか? お疲れさまでした、天城さん」
「ん、んん…お疲れ」
「それと、今後は僕のこと、待ってなくていいですから。今まで迷惑かけて、すいませんでした」

 

 

 

「………」

 

……

 



 

「…さてと、それじゃあ一踏ん張り!」


残るは、納品書が5件と、発注書が13件、お詫びメールが22件に、提案資料を新規であと…


「…朝までに帰れるかなぁ?」


ま、一つ一つ片づけていくしかない訳で。


………

 

……

 

 

 

 

「よ~しできたできた~! さ、テーブルの上片づけて~」

 

 

「は~い!」

 

 

 

 

「ほら、どうかな…? 味はともかく、見た目は美味しそうでしょ?」
「食べる前から味を放棄しないでよ~」



 

「あはは…それじゃ、いただきましょうか?」
「うん、ありがとうね姫緒さん。なんか、色々ワガママ言っちゃって」
「いいのよ。トコちゃん昔からウチでは居心地悪そうだったもんね。無理に誘っちゃって、こっちこそ悪かった」
「でも、代わりに姫緒さんがウチでご飯作るって言ったときは驚いたなぁ…料理したことあるなんて思ってなかったもん」
「やっだなぁ…私だって人並みに家庭科の単位くらい取ってますよ~だ」
「…それだけ?」
「じゃ、いっただきま~す!」
「え? あ、いただきますっ…だ、だけど、え? 大丈夫なの…?」
「………うん! これ美味しい!」
「それ、ご飯」
「炊き方が絶妙!」
「全自動炊飯器…」
「洗い方も完璧!」
「おかず食べようよぅ。姫緒さんが作ったレバニラ」
「というわけでさぁどうぞ、トコちゃん!」
「え、え~と……いただきますっ!」

 

………

 

……

 

 

 

 

「えっとね…これは当然のことなんだけど、ニラはみんな同じ長さに合わせるの」
「ふむふむ」
「あと、レバーは血抜きをして、下味をつけて…」
「下味って、なに?」
「…今度詳しく説明する。で、片栗粉まぶして、最初にある程度炒めておいてから…」
「めんどくさいわね結構。たかがレバニラのくせに生意気な」
「姫緒さ~ん」
「あ~、でもほら、ご飯と一緒に食べれば結構ごまかせるわよ? うんうん、美味しいってこれ」
「もう…」
「う~ん、後付けでお醤油と塩こしょうを………あ、ほら、随分マシになったから、ほうら」
「うん、食べれるね十分。あはは…」
「どうだ~? 私だってやるときはやるんだぞ?」
「そういうことにしとこうか…うんうん、これが姫緒さんの味ってことで」
「…あ~、でもやっぱり日本のお米は美味しいなぁ。こっち帰ってきてからちょっと太っちゃったのよねぇ」
「………」
「向こうだと味付けの濃い料理ばっかりでね。住み始めて一週間でお米が恋しくなっちゃったわよ」
「そうだね…美味しいよね、ご飯」
「? どうしたの? 実はそんなにお口に合わなかった?」
「う、ううん、そういうわけじゃない。そういうわけじゃ、ないけど…」
「トコちゃん…?」
「たださ…こんな美味しいもの、全然食べられない人もいるんだなぁって。そう考えると、なんか可哀想でさ」
「それって…」
「押しつけかもしれないんだけどね。それこそ、こっちの一方的な正義感みたいなもので」
「………」
「そういえば、今朝、なんか酷いこと言ったような気がするなぁ。また、やっちゃったなぁ…」
「それは仕方ないわよ…あの人は、トコちゃんに嘘をついてまで、このアパートに潜り込んだんだから」
「ううん、嘘はついてなかった。ただ、言わなかっただけだよ。それも…きっと、言えなかったんだと思う」
「必要なことを言わないのも立派な嘘よ。そうやって、免罪符を持ってるように見える分、余計にタチの悪い嘘…」
「そうは言っても、ああいう性格だもんね。きっと、本人の中では色々悩んでたんだと思う」
「………っ」
「あ、ごめんね。姫緒さん、リストラさんのことよく知らないのに、変な噂話ばっかりで」



「…知ってるわよ。生い立ち、学歴、性格、趣味、特技…全45ページ分の情報ならね」

 


「え?」
「何でもない。さ、食べよ食べよ。冷めちゃったらますますまずくなること請け合いだから」
「う…急いで食べよっと」

 


「やっぱりあの男は排除した方が良さそうね…」

 


「え?」
「うっわ~、やっぱり血なまぐさ~い!」


……

 

 

 

「………2時、か」


納品書と発注書を終えて、お詫びメールをあと2件くらいにまで減らしたところで、久しぶりに時計を見る。

提案資料は下書きだけは済ませてあるから、あとはワープロでの清書…

となると、あと2時間くらいかなぁ。


「ふあぁぁ…」


さすがに、ブランクのせいで結構無理が利かなくなってる。

…決して年のせいじゃない、はず、だと思いたい、けど。

でも明日は、再就職して初めての休日。

あと一踏ん張りで、心おきなく朝寝坊できるんだ…


「さてと、送信送信…で、残るは…」


──!


「え…?」

 

 

──「…本気でまだいるし」

 

 

「天城…さん? どうしてっ!?」

 

 

 

ついさっき確認した時計の針が、実はフェイクだったのではと思えるくらい当たり前のように、目の前に、6時間前に帰宅した人がいた。



 

「差し入れ~」
「あ…」


机の上に無造作に置かれたコンビニ袋。

中から散らかるのは、お茶のペットボトルと、とりあえず適当に放り込んだ的な食べ物の数々。

 

 

 

「おにぎり、サンドウィッチ、カレーパン、いなり寿司…どれにする?」
「サンドウィッチとカレーパンでお願いします」



 

「…やっぱ、ご飯嫌いなんだ」
「嫌いというか…まぁ、駄目です」


遠慮なくサンドウィッチの封を開け、ペットボトルの紅茶のキャップを外す。

たった一週間だけど、この人に対しては結構遠慮がなくなったなと我ながら思う。

まぁ、毎日、半日以上二人きりだし、もともと遠慮はしない、させないって感じで、さばさばしてるし。



 

「…なに?」
「いただきます」
「ん…」


こっちが遠慮しないことを、さも当然のように、余ったおにぎりを剥いて、遠慮無くかぶりつく。

僕が苦手意識を感じない、結構貴重な女性だ。


「どこまで進んだ?」
「あ、えっと…あとは客先への提案資料作りだけです。それも下書きは済んでますから、もう少しですよ」
「提案資料…かぁ」


と、天城さんは少し苦めの表情を作る。

…しぐれの中に石でも入ってたかな?


「今までのカタログもいいんですけどね。でも、もうちょっと工夫があった方が…売れ線とか、わかりにくかったですし」
「………」
「それにしても、営業って、やっぱり大変ですねぇ。今までは気づかなかったですけど」


今までの仕事だと、自社の営業の人から散々愚痴とかお叱りを受ける立場だった。

で、こうして自分がこっちに回ってみると、まぁ、あの人たちの苦悩も、少しは汲み取ってあげた方がよかったかな、と。

とは言え向こうは『お前らはソロバン相手で気楽でいいねぇ』と、やっぱり経理とかを軽視してる傾向があったし。

結局、お互いさまといえばお互いさまなんだけど。


「ご馳走様でした! さぁて、それじゃあ…」



 

 

「もう、いいよ」

「え…?」
「新人さん…って、もうそう呼ぶのも失礼かな? 今日は、帰ろう?」
「いえ、僕なんかまだまだ新人で…それに、もう少しですし」
「今までの契約分の残務だったらともかく、新規取るための仕事なんてもう意味ないよ、多分…」
「え…」


気にしないって、約束…



 

「日付変わったから。最初の一週間終わったから。…ちょっと、イタくて見てられないから」
「あ、いや…」


気にしない、気にしない…


「とりあえず、社長から聞いてることだけ、客観的に」
「だから…」


気にしない、気にしない、気にしないんだってば…


「実はさぁ、仕入れ先メーカーのうち、最大手の…」
「スト~ップ!!!」
「っ!?」

 

 

 

あ、いけない…

思いっきり声が裏返ってしまった。


「ご、ごめんなさい、すいません…そこから先、やっぱりまだいいです。というか今はまだ土曜の26時ですから勤務体系的には!」


案の定、天城さんも呆気にとられて僕を眺めている。


「新人さん…」
「だから気にしないんです。たとえ他の社員がいなくても、社長が戻ってこなくても、かかってくる電話が全部苦情でも、気にしないんです」


思えば最初から、天城さんには、かなり思わせぶりな言葉をいただいていた。

あれは要するに、うっかり口から零れた訳じゃなく、本当は、僕に『然るべき手』を打つよう薦めてたんだと思う。


「…可能性、あるんですよね?」
「え…?」


その親切心からの忠告を、僕はただ『今のまま社会人でありたい』という自分勝手な願望のため、わざと気づかないふりをしてた訳だ。


「まだ、大丈夫って言える…僕が、少なくともあと数か月は給料もらえる可能性、まだあるんですよね?」
「………うん。かなり絶望的だけど、あるにはあるみたい」
「なら、それで十分です」


『うん』と答えるまでのタイムラグとか、その後に続く言葉の内容とか、ツッコミどころには事欠かない、肯定の返事。

けれど今は、それにすがるしかない。


「お願いです…もう少しだけ、夢を見させてください」


みんなと一緒に、笑ってて。

心から、笑ってて。

借金なくて、食事は…やっぱりイタリアンで。

美都子ちゃんは、僕への嫌悪感を少しだけ和らげてくれて、謎のお隣さんは、よくわからない願望を諦めてくれて……

そしてもう一人は………今のところノーコメントで。

そんな日が、もう少し…

いや、できる限りたくさん続く夢を…


「なら…」
「え?」



 

 

「手伝うよ。下書き、貸して」
「あ、でもこれはあと清書だけで…」
「だからこそ、こっちの得意分野。きっと新人さんの倍の速さで仕上げるよ?」
「でも女性がこんな時間に…」
「送ってくれんでしょ?」
「え…」
「なに? どうせ今帰るのだって、危険だと思わない?」
「天城さん…」
「なに?」
「すいません、お願いします」
「うん…お願い、された」


このひととも、長いこと笑い合えてると、いいな。

 

………

 

……

 

 

 

 

 

「で…なんなの、これ?」

 

 

 

 

「わ、わたしが聞きたいよぅ」

「陣中見舞い~」

「約束しただろ? 陽坂の手料理お呼ばれに来るって」

「そ、その…家庭訪問に…」


「………」


「ち、違うの陽坂さん! わたしは一人で来るはずだったんだけど、何故だか途中でこの子たちが…」

「ほんっと偶然~。これも運命の思し召しかなぁ」


……



 

 

「な、そんなことより上がってもいいか? 俺、散らかってても気にしないし」

「あああ上がるの? 剛志君が? トコちゃんのお部屋に!?」

「その一。悪意を運命に置き換えないの。その二。誰が上げるか。その三。誰が上げるか」


「ほ、本当にごめんなさい…あなたの事情を考えたら、ここはみんなに帰ってもらうべきだったのに」

「先生…」

「…そうね、やっぱり日を改めた方がいいみたい。ね、みんな、今日のところは…」

「いいよ、もう…みんな、入って。…どうせ、隠し通せるはずもないから、ね」

「陽坂さん…」

「トコごめん! でも、本当はこうなる前に、一言相談欲しかったってのも本音」

「よ~っし、晴れてご両親にご挨拶っと! おっじゃましま~す!」

「や、やっぱり上げるんだ剛志君…っ。上げないって、約束したばかりなのに」


……



 

 

「…はぁ」
「あ、それで陽坂さん、これ…皆さんでどうぞ」
「………パスタ?」
「『壁の漆喰』の乾麺とミートソースの缶詰。ちょうど駅前の成蹊今井(せいけいいまい)で見つけたから…」
「………」
「え、えっと…陽坂、さん?」
「…なんでもない。まずは四号室に案内するね。………ヨシムネさんの、部屋」
「え…芳村の部屋じゃないの?」
「あ~…そんな名字だったっけ」

 

………

 

……

 


 

 

 

 

 

『あなた、あなた…』
『………ん』
『ねぇあなた、起きて。もう、お寝坊さんね。いくら日曜日だからって、目が溶けちゃうわよ?』
『ん、んん…』
『ほぉ~ら、目を覚ましなさい。もう、お・き・な・さ~い』
『あ…おはよう』
『もう、相変わらず呑気ね。ほぅら、朝起きて、一番にやることがあるでしょう? …わたしの愛する旦那様の義務』
『うん…おいで、あさ…』

 


……

 

 

 

 

「っ!」

 

 

 

 

「あ…」

 


なんか、夢を見てたらしい。

もう、かなり薄れてるけど、ぼうっと、人の姿が脳裏に浮かぶ。

でも、その姿はとてもおぼろげで、僕はその時、誰と会い、どんな話をしていたかなんて、今となってはわかるはずもなく。

ただ、なんだか目尻に滲むしずくが、もしかしたら、何か悲しい思い出だったのかもって、そんなヒントだけを残してて。


「ええと…何時だぁ?」


「10時25分」


「うあ、寝過ぎ…って、日曜だったっけ。今日は、もう起きなくてもいいや」


昨日までの、六日間連続稼働。

それも、初出勤日からのトップギア全力疾走は、僕から、気力と体力を根こそぎ奪っていた。


「そうも行かないよ。お客さん、来てるんだから」


もちろん、仕事関係だけじゃなく、特に昨日の、あの衝撃の出来事が…


「おやすみ…」


次に目が覚めるときは、なるべくなら、笑顔の貼り付いた寝顔だったことがわかるくらい、頬が疲れてると嬉しいな…


………

 

 


──!

 

 


「…え?」

 

 

 

 

 

「………え?」

 

………

 

……

 

 

 

 

 

 

「………」

「………」

「………」

「………」

 


会話が続かないどころか、始まらない…

 


「………」

「………」

 


でもそれは、僕たちの今までを考えれば、ある意味、当たり前のことで。

 

 



「久しぶり…」

「うん…」

「その、元気にしてた?」

「う、うん、まぁね…」

「………」

「………」

 

彼女…今ではもう芳村という姓ではないひとは、さっきから、ちら、ちらと僕の方を何度か盗み見る。

けれどきっと、そろそろ限界が…


「………」

「………」



 

 

 

「………ぷ」

「………」

 

 

 

「あは、あはは…あははははっ! な、なに理、一体どうしてこんなとこにいるのよ? もう、こんなのってあり~!?」

「…はぁ」


やっぱり、3分ももたなかったか。


「ご、ごめ、ごめん、あははははっ…だって、だってぇ…おっどろいたぁ~! やだもう、これも運命? 理ってほんっとついてないわね~」

「…身に染みてます」



 

 

「あっははははは、ごめん、ごめんね? 怒ってるよね? 顔も見たくないでしょう? 嫌な神様もいるものよねぇ。もう何度でも謝っちゃう! ほらこの通り!」


などと言いながら、笑いつつ、畳にこすりつけるように頭を下げる僕の元奥さん。


「いや…まぁ、元気そうで良かったよ」

「………」

「君は生き生きとしてるね、麻実。仕事は、楽しいかい?」

「………」

「…麻実」

「まあね、毎日忙しいけど凄く充実してるし」


で、ふたたび頭を上げたときには、ちょっと懐かしそうに、鼻をすすった。

ちょっとくらいは、本気も混ざってたのかもしれない。


「理は…少し、痩せたかな?」
「まぁ、ね。あれから色々あったし」


久々の再会は、きっと、僕たち以外の人が見たら異様な、そして僕たちにとっては『きっと再会したらこうだろうなぁ』な…

ある意味予想通りの和気あいあいな雰囲気で始まった。


「それでも、相変わらず素敵よ。わたしが言うんだから間違いない…」
「…ありがとう」


僕がこういう性格をしている以上、喧嘩になんか、なりようがないってわかってたから。

だって、二年前…


『教師になりたい』という、子供の頃からの夢をふたたび追い求めるために、彼女は、僕を、捨てたのだから。


……

 

 

 

 

「ま、とりあえず、今話せるのはこんなとこかな?」


「………」


「隠してて、ゴメン。でも、実は昨日まで学校にも隠してたんだ。だから、さすがに話せなかった」

「………」

「だから、勝手なお願いなんだけど、できれば今後も、学校でこの話は…」


「ご、ごめんっ、ごめんなさいトコちゃん!」

「え…? なんで真鶴が謝るの?」

「だ、だってだって…わ、わたしっ…トコちゃんがそんな大変なことになってるときにっ、映画とか待ち合わせとか抜け駆けとか自分のことばっかりっ!」

「…言ってる意味よくわかんないけど、ありがと真鶴。でもね、本当に必要なとき以外に謝っちゃ駄目だよ? でないと、情けない大人に育っちゃうからね?」

「う、うん、うんっ…ふえぇ…ごめん、ごめんねぇ…」

「だからぁ…」

「でもさぁ、トコ…やっぱ、あたし悔しいよぉ」

「倫子…」

「告げ口すると思った? 親友って、自称だと思った? あたしのこと、そんなに信じられなかった?」

「ううん、親友ってのは疑ってない。でも、学校に言うかもってのは、ちょっと疑った」

「トコぉ!」


「だってさ、あたし正しいことしてないもん。よくて賛否両論。本気で親友のためを思って、学校に相談するって選択肢、自分でもありだと思うもん」

「………」

「だからさ…やっぱり、言えないよ。ごめんね、倫子」


「…本当に必要なとき以外に謝るなよぉ。でないと、情けない大人に育っちゃうぞ?」

「…ごめん」

「よし決めた! 俺、プロになる!」

「剛志君?」

「とりあえずJリーグで名前売っといて、海外の金持ちクラブに移籍しまくって、陽坂を100億の豪邸に住まわせてやるからな!」

「…相変わらず何を言ってんだかこの単細胞は。県大会にすら出られないくせに」

「ま、気持ちだけはありがたく受け取っておくから。とりあえず、励ましてくれてありがとね、尾関」

「おおお、俺の気持ちを受け入れてくれるんだなぁ!? うっわ~どうしよ俺。陽坂の彼氏になったって決まった瞬間からもの凄い勢いで緊張してきた~」

「その緊張をほぐしてあげる目的で訂正するけど…」

「いやもう何も聞きたくない! いや聞こえない! 今から俺の聴覚はお前の愛の言葉以外には反応しないから!」

「何でこいつがモテるんだろ? ウチの学校で訳わかんない」

「トコちゃん…やっぱり恨んでいい?」

「そりゃまぁ…こういうのが沢山いるからじゃない?」


………

 


……

 



 

 

「それじゃあ、陽坂さんのお母さんは…」
「うん…もう二か月近く、連絡がない」
「そんな…」


一通りの言葉を交わすと、僕たちは、二人の関係を今の状態に置き換えた。

すなわち、美都子ちゃんの担任教師と、大家さんの境遇を心配するアパートのいち住人に。


「懇談会の話を嫌がるから、ちょっとおかしいなとは思ってたけど、でも、普段とそんなに変わってなかった…。少なくとも、わたしにはそう見えてたのに」
「強いよ…あの子は」


麻実は、重要な自分の仕事を後回しにするような人じゃないし、僕は、麻実に自分の話をするには、もう少し準備が必要だったから。


「教師失格ね。教え子のサインが、まだ全然見抜けない。情けないなぁ」
「それで、どうする?」
「え?」
「美都子ちゃんの担任の先生としては、あの子をこれからどう扱おうと思ってるのか教えて欲しい」


そして僕だって、逃げるためだけにこの話題に踏み込んだ訳じゃない。

美都子ちゃんの担任が麻実だったのは、ある意味僥倖だ。

少なくとも、教え子の将来について真面目に悩んでくれる、ちゃんとした教育者になっているであろうことは、僕が保証できるから。



 

「…難しい決断を迫るのね」
「…こればっかりは。僕にも、いくばくかの責任があると思ってる」


美都子ちゃんのお母さんの件は、確かに僕には無関係だったのかもしれない。

けれど、彼女が、一人でこのアパートを守っていこうと決断したその背景には、僕の存在がほんの少しは関わってるって自負している。


「まさか東萩守地区の学校でこういうケースがあるなんて、思ってもみなかった」


確かに、この地域の生活水準の高さを考えれば、普通はそんなに起こりえないケースだろう。


「普通に考えれば、まずは陽坂さんの親戚を探して預かってもらうのが…」
「美都子ちゃんはここに残りたがってる」
「でも保護者がいないんじゃ…」
「僕が美都子ちゃんの保護者だ」
「え…?」
「だから、保護者懇談会にだって顔を出した。…結局、話にならなかったけどね」



 

「ちょっと待ってよ理、それは…」
「…やっぱり、無理かな?」
「無理とか無茶とか無謀とか無策とか無思慮とか言う前に、あなた、それ本気で言ってるの?」
「………少なくとも、冗談のつもりはないよ」


『本気で言ってたらそこまで罵る気なんだ…』


という言葉を喉の奥に飲み込み、僕は、自分なりに強い瞳で麻実を見つめる。


「でも、陽坂さんは、あなたの行動に全然納得行ってなかったみたいだけど?」

 



 

──ッ!!

 

 

 

……

 

 


「あれは僕が頼りないとか情けないとかだらしないとかみっともないとか保護者として見込みがないとか以前の問題が多分に含まれていたことも否定できない可能性もなきにしもなかったりしまして」
「なきにしもなかったって…日本語の使い方間違ってるわよ」
「え…そうなんだ。昔、ゲームか何かで見た記憶があったものだから」


そこが一番気になるところなのかという点においては、その方が都合がいいのでスルーの方向でお願いしたく。


「どうして?」
「いや、去年一年暇だったから…無職だったし」
「そうじゃなくて…って、ええっ、無職!? あ~、そっちも後で色々聞きたいけど今はそっちじゃなくて」


…なんだか色々と話が飛んでせわしないな。

まぁ、それもこれも、僕の最近の生活がバラエティに富みすぎてるせいなんだろうけど。



 

「本当は最初に聞くべきだったんだけど…あなたと陽坂さんって…どういう関係なの?」
「…やっぱり、そこが気になる?」
「元身内としてはとても気になるし、陽坂さんの担任としては見過ごせないし、一般人の視点から見ても興味津々ね」
「…それはまた注目度満点で気恥ずかしいな」


………

 


……

 

 

 

 

 

 

「………」

「そろそろ一時間か…長いな」

「四号室だっけ…今、あの二人、どんな話してるのかなぁ?」

「怒鳴り声とか泣き声とか聞こえてこないし、そんなに悪い雰囲気じゃなさそうだけどね」

「………」

「トコ?」

「………」

「トコってば」

「え? あ、ごめん。お茶、おかわり? …お茶菓子はもう打ち止めだけど」

「いや、あたしはいらないけど」

「あ、俺おかわり。このお茶、すっげー美味い」

「半年前の特売の日にまとめ買いしてきたお徳用パックなんだけど…」



 

「てことは陽坂が淹れてくれたからってことだな。やっぱお前いい奥さんになるって。俺が保証するついでに確認もしてやるから」


「はいどうぞ」

「照れるか喜ぶか泣くかしてくれとまでは言わないけど、せめて怒るぐらいは…」

「難儀な性格だねぇ」

「つ、次はわたしが淹れるから!」

「………」


「それにしても先生たち、長話だね」

「やっぱり気になるなぁ…ね、みんなも気になるよね?」

「別に全然」

「そ、そうなんだ」



「だったらこっち向いて話せっての」

 


「………」

「でもビックリしたぁ。香野先生が結婚してただけじゃなくて、離婚までしてたなんて…」


「ま、先生たちってそういうことあんまり言わないからね。PTAに知られたら、みんな大喜びだろうし」

「他の先生は知ってたのかなぁ? 職員室でも人気あったみたいなんだけどなぁ」

「どうなんだろね…学園長や教頭とかは知ってると思うけど」

「でも、やっぱりちょっとショックかなぁ。担任が香野先生って決まったときには嬉しかったんだけど…」

「先生だって一人の人間だもん。あたしは別に、何とも思わないな。それに今じゃバツイチって、逆にカッコいいイメージあるし」

「先生は何も悪くない。そんなのは、男の方が悪いに決まってる」

「へぇ、あんたも香野の味方なんだ?」

「って言うか、男の方が許せないだけだ。一度は好きになった女をボロ雑巾みたいに捨てるとか何だよそれ。俺は絶対に捨てたりしないからな、陽坂」

「捨てるんじゃなくて捨てられた場合はどうするの?」

「俺は一度好きになってくれた女に見捨てられるような見掛け倒しの男じゃないの~」

「どっちなんだろうね。別れ話を切り出したのって」

「結局はそこに行き着くわけか…」

「………」

「やっぱり、気になるよ~」

「あんたもしつこいわねぇ」

 

 

 

「ね、ね、もしかしたらさぁ、逆にいい雰囲気になってたりして!」

「一度別れたのにかぁ?」

「お互い再婚してる訳じゃないし。焼けぼっくいに火がつく可能性もなきにしもあらず、かな?」

「その場合、トコちゃんが二人を巡り合わせたキューピッドってことになるのかなぁ?」

「………」

「俺なら許さないけどな。そんな情けない男はこっちから願い下げだ」

「だから何であんたはさっきから、女の視点でばっかり物を言うのよ?」

「だってどう考えても旦那の方が悪いだろ? 俺、そういうウジウジした奴、我慢できね~」

「会ったこともないくせに…」

「『ゴールハンターウルフ』と恐れられたこの俺が、一発キツいのをお見舞いしてやるぜ!」

「とても狙ってるのがゴールだけどは思えないニックネームね…」

「あ、危ないよ~剛志君! 相手の人、一度だけ見たんだけど、大人だし、すっごく背が高いし」

「確かに背は高かったね。…トコに対してはえらく腰が低そうだったけど…」

「やめときなって。勝負にならないから」

「そ、そんなに強いの? もしかして、空手とかボクシングとかやってたりする?」

「ふん、相手にとって不足はない」

「ううん、不足してるから。主にカルシウムとか」

「…キレやすいのか?」

「どちらかと言うと、折れやすいと思う。ちょっと力を込めたらポッキリいきそう」

「あ…いや、それってさ…」

「そういえばさぁ…今日、ほんとに静かだね。去年来たときは、アパートの人たちが次から次へと顔出してきたのに」

「………?」

「あ~、覚えてる覚えてる。なんか色んなゲーム持って来てくれたよね~。あと、おじいさんがいきなり落語始めたり」

「いい天気の日曜日だし、出かけてんだろ。引きこもりじゃあるまいし」

「………っ!? わ、忘れてたぁ~!」


「…トコ?」


………

 

……

 

 



 

「…それでこんなところに流れ着いてきたんだ」
「流れ着いてって…まぁ、そうだけどさ」


結局、美都子ちゃんの処遇については、たった数時間で結論の出るはずもなく。

麻実は『まずは学園に持ち帰って検討する』としか、答えをくれなかった。

後は、学園側の寛大な処置を期待するしかない。


「そっかぁ…理の方はそんなことに…」


で、一通り、自分たち以外の話が盛り上がった後、やっと、自分たちの話でも盛り上がれる雰囲気ができあがった。

そうなれば、後はトントン拍子。

どんなに酷い別れ方をしたところで、やっぱりお互い、懐かしさを誤魔化せるものじゃない。

僕は麻実の事情を、麻実は僕の事情を知りたがり、まずはお互いの不幸自慢から始まった。

とはいえ、麻実の口から零れ出てくるのは、教師という仕事の厳しさや難しさから来る前向きな愚痴ばかり。

僕のような、誰がどう見ても立派な不幸と比べると、なんとも輝いて見える苦労だった。

そして今は、僕の番。

脚色なんかしなくても、ほとんどの人を震え上がらせることのできる、本気の不幸話。



 

「一体どうしちゃったのよ理…。わたしと暮らしてたときは、忙しいながらも、充実した人生送ってたと思ったんだけどなぁ」


そういえば、そんな『いくらお金を稼いでも使う暇がない』みたいなくだらない多忙自慢をしていた時期もあったなぁ。


…まるで、今の彼女のように。


「もしかしたら、幸運の女神が逃げたせいかも…」

 

 

 

「あらぁ? そういうこと言えるようになったんだ~。進歩したわねぇ。ちょっと言動が見た目に追いついてきたかな?」
「はは…」


今の言葉が口説き文句じゃないくらいに、離婚後の運勢が最悪だっただけなんだけど…


「そっかそっか。まぁ、不幸の連続はともかく、少しだけホっとした」
「そ、そう…?」


『今の話を聞いてどこに安心する余地があるんだか』と、個人的には思わないでもないんだけど。



 

「理も、ちゃんと次の恋をしてるんだなって、ホっとしたの」
「あ…」


半分だけ、空っぽになった部屋。

全部が空になるよりも、虚無が広がっていた部屋。

そりゃ、確かに思ったさ。

『もう、女性なんか好きにならない』って。

でも、傷は塞がると、痛みが薄れていく。

胃を全摘出したって、いつかお腹は空くんだ。


「あれから、2年なのね…」
「うん…」
「そっか、2年か…」


そうだ、2年経ったんだ。

その時間の経過は、僕にだけじゃなく、目の前の麻実にも、平等に訪れていることは間違いなくて。

外見は、僕を惹きつけてやまなかった結婚当時と比べても、より綺麗になった以外はほとんど変わらないけれど。

それでも彼女にも、僕とまるっきり関係のない2年間の歴史は、きっちりと刻み込まれてるわけで。


「そ、それで、麻実の方は…今は、どうしてる?」
「ん? なにが?」
「えっと、その………例えば、再婚とか」


我ながら良く言ったなぁと思えるくらい、クリティカルな質問が口から飛び出たことに驚く。



 

「…香野を名乗ってる以上、その確率は相当低いと思わない?」
「でも最近は職場では旧姓を名乗るケースも多いし」
「今は、公私共々香野よ。それ以上でも、それ以下でもない。…これで安心?」
「う、うん…そうか、良かっ…っ!」
「………よかった?」
「い、いや、それは…」


良かった、のか?



 

「ふぅん…」
「………」


自分を捨てた女性が、まだ他の相手を見つけていないことが、本当に良かったって言えることなのかな?



 

「ね、理、あのね…」

 

──『八須永君! ご隠居! 熊崎さん! 隠れてないで出て来なさ~い!』

 

 

 

「っ!?」
「ひぃっ!?」

 

 

『こらぁ、出てこ~い! 三号室で息を潜めて盗み聞きしてるのはわかってるんだからね~!』

 

「な、な…」
「………ああっ!?」

 

『盗み聞きとは穏やかじゃぁないね若大家さん。あたしゃ熊さんと一局指してただけですよ?』

『…八っつぁんの部屋にいる必然性とか野暮な事は聞きっこなしだ』

『自分の部屋で寝てて何が悪いのよ~』

『お前は寝るときに壁にコップを伏せる癖があるのか?』

『ああっ!? 裏切りもの~!』

 

 

 

「………」
「は、はは、は…」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 



「…おはよ」
「あ、おはようございます」


いつもと同じ時間、それこそ毎日誤差1分以内で、彼女…天城夏夜さんは、このオフィスの扉を開ける。


「あ~たるい」
「…お疲れさまです」


しかし、そろそろ机を並べて三週間になるけど、この人のテンションの高いときを見たことがないな。

なんと言うか、24時間ずっと低血圧みたいな状態の人だ。

 

 

 

「相変わらず早いね~新人さん。今日は何時に来たわけ?」
「ほんの十数分早く来ただけですよ」


そう、ほんの十と百分くらい。


「で、昨夜は何時までやってたわけ?」
「そこそこの時間で切り上げましたよ」
「ふぅん…」


と、天城さんは、明らかに信用してない目で、僕の顔をじろじろと覗き込む。


「…そこまで近づかなくても」


…机越し、目の前の10センチまで顔を寄せてきて。

最初からあまり遠慮のない人だったけど、最近は更に遠慮がなくなりつつあるなぁ。



 

「目が赤い。ついでに腫れぼったい。髭の剃り残しが目立つ」
「…だから何だって言うんです?」
「…うそつき」
「っ!? …み、耳に息を吹きかけないでくださいっ」



 

「敏感なんだ」
「そ、そういう問題でなく」
「あたしの見立てだと、昨夜は午前2時ってとこかな」
「…そんなに残ってませんよ」


少しうたた寝してしまった時間をさっぴいたら…


「いい加減にしないと体壊すよ?」
「大丈夫ですよ。昔から見た目よりは丈夫ですから」
「そうは言ってもさぁ、先週は土日も出てたよね?」
「それは別の理由もそこそこ…」


最近、アパートに居づらいし…


「それに、少しずつですけど、仕事にも慣れてきましたし」
「…誰にも教わってないのにね」
「いやぁ、取引先の人たちに教えてもらいましたから」


最初は色々と呆れられたけど、『こいつはこういう人間なんだ』と認識してくれればしめたもの。

昔の事例とか、現在の愚痴とか色々と情報を聞き出して、競争よりも協調優先でいい仕事に結びつけるやり方は、なんとなく体が覚えていた。

…私生活でも、このくらいしたたかに生きられればとも思わないでもないけど。

 



「本当に、よくやるわねぇ」
「いやぁ…だって、いよいよ今週末じゃないですか」
「………何が?」
「わかっててとぼけてますね?」
「ちょっと間が空きすぎた?」
「あはは…」


いよいよ、今週末の25日。

僕が、ほぼ15か月ぶりに、バイト代じゃない『月給』をもらえる日。



 

「この分なら、なんとかなりそうかな…今月は。良かったね新人さん」
「…よ~し、それじゃ今日も頑張っていきましょう!」


気にしない約束、を5回リピート…

何度も不吉なことを言われつつも、ここまで毎日会社に来れば天城さんは顔出してるし、社長も電話で連絡をくれるし、先行きはそこそこ明るい。

最近は苦情の電話も少しずつ減ってきてるし、もしかしたら今週末は普通に休めるかも。

 

 

 

「それじゃ僕、また取引先を回ってきます」
「なるべく早く帰ってきてよ~。一人しかいないオフィスの虚しいこと。毎日休日出勤してるみたいでさ」
「あはは…善処します。それじゃ、行ってきま…」


──!


「…やぁ、久しぶり」

「あ…」

「社長…」


………

 

……

 

 

 

 



「申し訳ない。この通りだ」

「………」

「………」

「この半月、なんとか続けていくことはできないかと、色々なツテを当たってみたんだが…」

「………」

「やはり、極東機器からの入金が途絶えたのが痛かった。あそこはウチの商品の6割を占めていて…」



 

「…新人さん」

「え…?」

「…ごめん、ぬか喜びさせちゃって。タイミング悪かったね」

「………はは」

「もう少し他のメーカーの取り扱いを増やしておけば…本当に、申し訳ないことをした」


社長の言葉が、頭の中をすり抜けていく。

まぁ、要するに、しごく簡単に経緯を説明すると…


『連鎖倒産』


と、一言で片づけてしまってもアレなので、という感じで、長い釈明は今でも続いている。


………


ここ邦永商会は、オフィス用の什器類を主に販売する小さな代理店だった訳だけど。

販売会社というからには製造会社というものが別にあるわけで、要するにそこは取引先となるわけで。

で、この邦永商会が、その取引先としてことさら付き合いの深かったのが極東機器というメーカーで。

でもって、この極東機器というのが最近売り上げが落ち込んでて、まぁ、社長も色々とヤバい噂は聞いていたんだけど……

いよいよこれはどうしようもなくなってきたのが、5月の始め頃。

そう、5月の始め頃。

…ちょうど僕が入社した時期と一致する。

ついてない。

本当に、疫病神だな、僕は。


「夏夜ちゃん、本当にすまない。最後まで残ってくれたのに、結局こんなことに…」

「叔父さん…」


社長のもたらした話は、四人いた社員の間に、激しい動揺をまき散らした。

けれど温情篤い社長は、彼らを簡単に見捨てたりしなかった。

自らの会社の人材が失われるのも厭(いと)わず、親戚筋や取引先のつてを頼り、彼らの再就職を保証し、退職金を渡して、彼らの将来を守り抜いた。


「でも心配しなくていいから。夏夜ちゃんの再就職先も、もう見つけてある。森島会計事務所は覚えてるかな?」


最後に残ったのは、どうやら社長の姪でもあったらしい事務員…天城夏夜さんただ一人。

そうか…だから他の社員が離れていく中、たった一人、残ってたんだ。

確かに、ドライな見た目に反して、結構優しい、というか甘い人だったな。


「あそこの事務員がちょうど先月寿退社したそうでね。渡りに船と言ってしまうのもなんだが、森島先生、たいへん困ってらっしゃってね」


まぁ、天城さん個人のことはともかく、それらの顛末が、今回の小さな悲劇の、すべて…

社長の五人の社員がいた小さな会社の、解散。


「わずかだけど、退職金と今月の給料も支払うよ。大丈夫、社員への報酬は優先されるからね」

「………」

「芳村君、だったね。君にも済まないことをした。私にもう少し力があれば」

「いえ、今一番大変なのは社長さんですし。何の役にも立てず、本当にすいませんでした」

「………」


そこに、一人の試用期間中の準社員の事情なんて、考慮される方がおかしいに決まってるわけで。


「いや、よく頑張ってくれた。夏夜ちゃんからも聞いてるよ。君があと一年早く来てくれればなぁ。我が社の運命も変わっていたんじゃないかと思うよ」

「それでも…いえ、お疲れさまでした」


謝罪は、し過ぎてもよくないんだったな。

今が、本当に頭を下げるべきところなのか、もう、頭が混乱して、よくわかっていないけど。


「それじゃあ、私は今から弁護士と会う約束があるので。夏夜ちゃん。退職金は今日中に用意しておくから、夜にでもウチに取りに来てくれ。じゃ二人とも…」

「ええ…社長さんも、お元気で」


それでもやっぱり…

お別れの挨拶は、きっちりと頭を下げないと。

………と、僕の目の前で、社長さんがその扉を閉じようとしたとき。


「新人さんのお給料は?」

「え…?」

「え…?」


社長さんの『え?』より、僕の『え?』の方が、ほんの少しだけ早かった…


「半月以上、土日も通い詰めて、自分のせいでもないのに謝って、一人でなんとかしようって、靴がすり切れるくらい外回りして。ほとんど寝ないで頑張った、新人さんのお給料は?」

「い、いや、それは…」

「ちょ…ちょっと、やめてください。そんな個人的なワガママは。今一番辛いのは社長じゃないですか」


突然、傷心の社長さんに詰め寄りかけたのは、退職金も、今月の給料も貰えるはずの、社長の姪でもある、天城さんだった。


「そ、その、彼は…就業期間が一か月に満たないし、準社員だし、研修中のようなもので…」

「そうですとも。まだまだ勉強中だった訳ですし」

「何でそんなに諦めがいいのよ? 大体、社長がなんで新人さんを採用したのかわかってる?」

「か、夏夜ちゃん、それは…」

「この人はね、あなたのことを、体のいい…」

「天城さん!」



 

「っ!?」

「いいんです。もう、いいんですよ。…お疲れさまでした社長さん。どうぞ、お元気で」


………

 


……

 

 

 

 

 

「………ふぅぅぅぅ」

 

 

 

 


「…何でよ」

 


「何が、ですか?」

 


社長が出て行き、オフィスには、結局、いつものメンバーだけが残る。

今では、このメンバー構成が、仕事中、一番リラックスできるようになってしまってたりする。

 



「もう気づいてるわよね? 叔父さん…社長が、この時期に新人さんを採用した理由」
「さぁ…わかんないです。それに、もう、いいじゃないですか」
「………」

 


届かない商品。

約束の時間に現れない社員。

電話をしてもなかなか繋がらない会社。

辞めていった社員の再就職先が決まるまで。

そして、今月の入金で、彼らの退職金を捻出するまで…

邦永商会としては、もう少しだけ、会社が存続している『ふり』をする必要があった訳だ。


「天城さん…」
「何よ?」


だから、逆に僕は問いかける。


「僕は、少しはこの会社のお役に立てたでしょうか?」
「あなた、さぁ…」
「何です?」

 

 

 

「…馬鹿じゃないの?」
「あらら…」


心底呆れたような目で、彼女は僕を見下ろす。


「あ~いや、ごめん。もうちょっと他に言い方があるわよね。間抜け、じゃなくて、でくのぼう、でもなくて」
「いや…もういいです」
「………そうね。もう、いいか」


結局、フォローする言葉を探すのも諦めたらしい天城さんは、ゆっくりと背伸びすると、ついさっき置いたバッグを手に取る。



 

「じゃ、行こっか」
「あ…もう行っちゃいます?」
「そりゃ…もう、ここにいても」


そのまま扉の前に立ち、電気のスイッチに手をかける。

本日の勤務時間…30分。

時給ですら換算できないな、これじゃ。

けど僕には…


「すいません、だったら最後にもう一つだけ教えて欲しいんですが」
「なに?」
「この近くで、邦永商会のライバル…と言いますか、同業他社、いくつかご存知ないですか?」
「………はぁ?」


まだ、やり残したことがある。

もう、この会社のためですらないけれど。


………

 


……

 

 

 

 

 

店員「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

 

 

「え? え?」

 


店員「あ、ご、ごめんなさい間違えました! いらっしゃいませ。一名様ですか?」

 


「あ、いえ、待ち合わせで…ああ、いたわ、ありがとう」


………

 

 

 

 

 

「陽坂さん」
「…(ず)」
「ごめんなさい。呼び出しておいたのに待たせちゃって」
「………」
「どうしたの? 何か先生の格好、変かな?」
「…別に」
「? 座っていいかしら?」
「呼び出しておいたのはそっちなんだから、どうぞご自由に」
「え、ええ…それじゃ、失礼するわね」


店員「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」


「ああ、それじゃ、アイスカプチーノと…」

「………」

「? なに?」

「…別にぃ」

「そ、そう…あ、陽坂さんも、おかわりは?」

「じゃ、同じもの」


店員「アイスカプチーノと、アイス緑茶ですね。かしこまりました」


「ふぅ。外歩くと、ちょっと汗ばむくらいになってきたわね」
「………」
「あの、陽坂さん?」
「………」
「どうしたの? 何か、学校で嫌なことでもあった?」
「ないよ」
「それならいいんだけど…」
「………(ぷい)」
「?」

 

………

 

 

 

 

「…と、いうわけで、実はまだ学園には報告していないから安心して」
「そう、ですか」
「ま、だからこんなところに呼び出したんだけど。…こんな話、学園じゃできる訳ないしね」
「それは、えっと、ご配慮ありがとうございます」
「でも、ずっとこのままの状態がいいなんて思ってないからね。近いうちに、何とかしなくちゃと思ってる」
「………」
「その方法を、陽坂さんと一緒に考えていきたいの」
「別に…あたし困ってませんから。できればこのまま放っておいてくださると嬉しいです」
「そういう訳にもいかないわ。陽坂さん、今のあなたは単に一人暮らしというだけじゃない。アパートの管理や、それ以外のアルバイトまで…」
「今までだってずっと同じことしてました。去年までと、何も変わってません」
「いえ、全然違うわ。今までは最後には責任を取ってくれる保護者の方がいらした。でも今は…」
「………」
「陽坂さん。あなただけで何でもできるなんて考えてたら大きな間違いよ?」
「別にそんなこと思ってません」
「だったらどうして今のままでいいなんて言えるの? 今のあなたの生活は、どこかで必ず行き詰まる。その時支えてくれる大人がどうしても必要なの」
「…だから、なんですか?」
「わたしはね…そんな、肝心なときにあなたの力になってあげられる、大人の一人でありたいの」
「ありがとうございます。先生が担任である間は、頼らせてもらうこともあるかと思います。その際は、よろしくお願いします」
「陽坂さん…」
「話はそれだけですか? あたし、そろそろアルバイトに行かないと。…先生は反対なさってるみたいですけど」
「………な~んかさっきから他人行儀だなぁ」
「別に、いつもと変わりません」
「そんなことないわよぉ。いつもはもっと素直でいい娘なのに、今日はどうしてこんなに距離を置くの?」
「置いてません」
「そりゃ、お小言ばかりになっちゃってるから仕方ないかもしれないけどさ、もうちょっと、ざっくばらんに話して欲しいなぁ」
「話すことがないだけです」
「わたし、もっとあなたと仲良くなりたい。本当にあなたのためになる解決方法を見つけたいの」
「………」
「だから遠慮なく何でも言って欲しい。もっと、本気でぶつかり合いたいの」
「先生…」
「ね? お願い。陽坂さん…ううん、美都子ちゃん?」
「………そこまで言うなら、遠慮無く言わせてもらいますけどね」
「うん、大歓迎。本当に何でもいいの。思ったことを話してちょうだい」
「リストラさん捨てたの、先生の方なんだって?」
「………え?」

 

………

 

「教師になりたいって言い出して、一方的に出ていったんだって?」
「…お隣さんから聞いたの? わたしたちの話してたこと」
「だからなに?」
「あなた、盗み聞きはよくないって怒って…」
「それはそれ。これはウチの住人の問題。大家として放っておくわけにはいかないの」
「…普通の大家さんは住人の私生活にそこまで干渉しないと思うけど」
「『テラスハウス陽の坂』はアットホームなアパートを目指してますから!」
「それってアパートというより長屋みたいな…」
「先生が出て行ってから、リストラさんは不運続き。奥さんも、職も、住むところも、お金も、希望もみんな失って、そのままのたれ死んでもおかしくなかったって、知ってる?」
「あ、ある程度は聞いてたけど。…そこまで酷いことになってたの?」
「やっぱ詳しくは話してないんだリストラさん。どうしてそんなところで押さえ込んじゃうかなぁ」
「それにしても…そのリストラさんってのは何? 何かもの凄いあだ名じゃない?」
「じゃあ、理ってのは何? 捨てた相手を相変わらず呼び捨て?」
「…しかも全然方向違いの反論だし」
「先生が話を逸らそうとするからじゃん!」
「だ、だとしても、それは…今回の件とはまるっきり関係が…」
「大家として、住人にどう接すればいいかに影響します。…というか、影響しました」
「………あ~」
「この話が本当ならあたし、リストラさんに悪いことした。謝らないといけないって、思ってる」
「それは大丈夫よ。理はそんなことくらいで人を嫌いになったりしないから」
「そんなことあたしだって十分知ってるもん! あたしの気が済まないって言ってるだけ!」
「…どうしてそこで怒るの?」
「………(は~)」
「………」
「…帰る」
「え? ちょっ、ちょっと陽坂さん? わたしの話はまだ…」
「本当に、タイムリミット。夕刊配達の時間」
「あ…」
「あ、それはそうと…」
「こ、今度は何?」
「この前ウチに来たときも思ったんだけどさ…先生、いつもヒール高いね」
「え…」
「話すとき、いっつも見上げることになってさ。正直、話しにくかった。でも、そういうことだったんだ…」
「そういう…って…」
「お土産のパスタも、このカプチーノもさぁ。なんか、なんかねぇ…」
「それって…」
「はい、あたしの分。あ、おつりはいらないから」
「あ、いいわよ。今日は先生が呼び出したんだし…」


──!


「結構!」
「っ!?」


店員「い、行ってらっしゃ…ありがとうございました~」

 

……

 

「………」

 

………

 

……

 

──!

 

店員「ひぃっ!?」

 

 

 

 

「…何も知らない子供のくせに、偉そうにわかったようなこと言ってんじゃないわよ」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

「ほ、本当ですか! あるんですね? 幅1200で、木目天板で…はい、はい!」


「ええ、次回から担当が替わりまして…児島OA販売の若林というものに…」


「それじゃ、連作先を言いますよ? XXーXXXXーXXXX…はい、はい、そうです」


「はい、大丈夫です。今までと同等のサポートは保証いたします。早速、週明けに担当の者がそちらに伺いますので」


「どうぞよろしくお願いします。このたびは、突然の申し出を快く受けてくださり、本当にありがとうございました。それでは…失礼いたします」


「今まで本当にありがとうございました。引き続き児島OA販売をよろしくお願いいたします…では」

 

……


「小南興行さんの引き取り先、決まりました!」

 

 

 

「こっちは中港(なかみなと)電器の引継ぎ完了」
「お疲れさまです! よ~し、それじゃ次行ってみよう次~!」



 

「…少し休んだら? テンションが戻ってないよ?」
「いやぁ、もうこのまま突っ走った方がいいかと思いまして」


何しろ、そろそろ63時間連続稼働中。

ちょっとでも気を抜くと、いきなり気を失うこと請け合い。


「しっかし…やってて虚しくならない? こんな仕事」
「今までお世話になった皆さんのためです。…大切な仕事ですよ」
「………」


僕の方で認識してる顧客が47社。

そのうち、現在取引進行中だった12社をAランク、残りをBランクに分けて優先度付け。

次に、天城さんから教えてもらった同業他社について、販売品目、経営情報、伝え聞く噂を総合して、こちらも別の意味での優先度付け。

まずは同業他社のランクAに当たりをつけて、担当者を訪問し、ランクAの顧客から順に『紹介』する。

基本的にAランクは上向きの代理店と上向きの顧客だから、かなりの確率で『引き継ぎ』は成功する。

後はこれを優先度Bの顧客まで繰り返すだけ。

最初においしい取引先を紹介しておいて、後で少し取引高やその他諸々の条件が落ちる顧客を引き取ってもらう、いわゆる抱き合わせ方式。


「まぁ、それでも、今まで親しくさせていただいた相手を、次から次へと切っていくのは、確かに気持ちのいいものじゃないですけどね…」


たったの2週間だったけど、それでも『本当はおたくがいいんだけどね』と言ってくれる相手も、数社いてくれた。

それでも、こちらの都合上、関係を清算していくしかなくて、やっぱり、気持ちのいい仕事じゃなかったけど。

それでも、この会社がなくなって困る人を、減らせるだけ減らしておくのは、やっぱり大切な仕事で。


「ほんと、馬鹿ね」
「最近それ好きですね天城さん」


この仕事の唯一にして最大の問題は…

どう考えても、ただの自己満足でしかないという点だけで。


「冷静に考えれば考えるほど、その評価しか出てこないんだもの。…お金ももらえずクビになった新入りが、一人残って残務整理ってさぁ」
「すいません。僕が不甲斐ないから、手伝わせてしまって」


だから天城さんの指摘は、もの凄い勢いで100点の領域にダーツが刺さっているわけで。


「これは、あなたしも比較的馬鹿だからというのが理由。新人さんには関係ない。いや、あるかな結構…?」
「…あるんじゃないですかやっぱり」
「…あるね」
「すいません」

 

 

 

「謝れば済む問題じゃないでしょ? どう責任を取るつもりか聞かせてもらおうか?」
「え…?」
「………」
「………」
「…ふふ」
「ああよかった! 冗談ですよね? あは、あはは、あはははは…」
「責任は取ってもらうけどね。別途」
「え…?」
「ね。これが全部片づいたら、打ち上げ、やんない?」
「打ち上げ…」



 

「ほら、今日は週末だし、給料日だし。きっと街は賑わってるよ?」
「…すごく面白い冗談(ブラックジョーク)ですね」


要するに街は、週末の解放感に溢れ、しかも懐の温かくなった浮かれた人たちで満ちているわけで。

そんな中、明日から毎日が週末になる、しかも補給を断たれた人間というのは、すさまじい不協和音な気が。


「いいじゃん。2日ばかり帰ってないんでしょ? だったらそれが3日に増えたところで大したことないよね?」
「そりゃ、まぁ…え?」


…今、さらっと、聞きようによっては凄いこと言わなかったっけ…?

それとも、僕の頭が麻痺してて、些細なことを大袈裟に解釈してしまってるだけかな…?


「よし、決まり。それじゃ、さっさと終わらせようか」
「あ、で、でも…何時に終わるかわかりませんよ?」
「大丈夫、朝までやってる店、知ってるから」
「いや、そういう意味でなく…」


最後の最後まで、僕の自己満足につきあってくれるつもりなんだろうか…



 

「駄目ぇ?」
「だから、僕の都合がどうというより、その、あなたの…えっと…」
「ん~?」


──プルルルルッ……。


「っ…さっきの販売店のコールバックかな。──はい、お世話になっております、邦永商会でございます」


『あ、は、はい、お世話になっております…っ』
「…え?」


電話口の相手は、こういう仕事の電話になれていない感じで、突然の丁寧な口調に対応できていないみたいだった。

と、というか…そもそもこれは…


『え、えっと…その…テラスハウス陽の坂と申しますが、そちらに、リスト………芳村さんって方は…』
「…僕、ですけど」


美都子、ちゃん…?


『ああよかった! やっぱりリストラさんだったぁ! もう~、いつもと全然喋り方違うんだもん』
「ど、どうしたの…? 何かトラブルでも?」
『どうしたのじゃないよぉ! 一体、何日部屋を空ければ気が済むのよ?』
「あ…」
『年中アパートから出ないご隠居たちに聞いても誰も見てないって言うし。ここ2日ばかり帰ってきてないよね?』
「そ、その…ごめんなさい」
『そりゃ、あたし、朝早いから、時間合わないのは仕方ないけどさぁ。でも本当は、毎日リストラさんの顔見ないと安心できないんだよ』
「え…?」


それって、つまり…


『どこかでのたれ死んでるんじゃないかとか、いつの間にか公園で寝泊まりしてるんじゃないかとか……。美人局(つつもたせ)に騙されて拉致監禁されてるんじゃないかとか』
「…だよね」
『後は、ほら、事故とか、急病とか…遭難とか…』
「…電車に乗って会社に行ってるだけなんですけど」


美都子ちゃんが、僕の不在時に感じる不安というのは、相変わらず、自分のことじゃなくて、僕のことなんだな。

嬉しく、そして寂しく感じる瞬間。

心配してくれるのはありがたいけど、それほど頼られてないのはへこむというか。


『あのさ…もしかして、最近、帰りづらかった?』
「え…それは…」
『そうだよね…あんなこと言っちゃったもんね。そりゃ、足が遠のくよね?』
「あ、いや…」
『でもあれ本気じゃないから! ほら、何て言うの? ここはあえて心を鬼にして、みたいな?』
「それじゃ…本当は、怒ってなかったの?」
『怒ってたたよぉ! 決まってるじゃん!』
「ご、ごめんなさいっ」
『…でも許すことにした。じゃないや、謝ることにした』
「え? どうして…?」
『理由はちゃんと顔を見て説明するから。今日は帰ってくるよね?』
「それは…えっと、まだ仕事が…それに、飲み会の先約も…」


「………」


ちらりと、目の前を伺うと、天城さんは見事なまでに横を向いてくれていた。

…つまり、右耳が完全にこっちの正面を向いている。


『でもなるべく早く帰ってきてね。できらば、10時前希望。…あ~、あたしの[ごめん]が聞きたかったら、だけど』
「え…?」
『ね、そうしなよ? ビールならうちで用意しとくからさ」』
「い、いや、それは…」


あらゆる意味でマズいような気が。


『そりゃ、今日、給料日だから、ハメを外したい気もわかるけどね』
「あ…」


針が、心臓に突き刺さった痛みが広がる。


『…初任給だねリストラさん。ね、もう明細とかもらった?』
「あ、ああ…昨日」
『ほんと? ね、ね、帰ってきたら見せて。少なくても絶対に笑わないからさぁ…あはは』


それは、確信できる。

たとえ、手取りの額が千円に満たなくても、美都子ちゃんはきっと心から『おめでとう』を言ってくれるだろう。


「うん…」


…本物の給与明細さえあれば。


『約束だよ?』
「わかった…約束」


肺にも針が突き刺さり、吸い込んだ息が次から次へと抜けていく感覚。


「今月の家賃も払わないとね…いきなり2月目から滞納してごめん」
『あ、それはいいよ。ほら、敷金、たくさんいただいてるし。久しぶりのお給料、まずは自分へのご褒美に使いなよ』
「っ…」


僕は、どんな顔をしてあの娘に会えばいいんだろう…


………

 

……

 

 

 

 

「………よし! きっと大丈夫。歴史的和解への道は近いぞ~。買い物行こ、買い物。…身分証の提示のいらない酒屋さんってどこだぁ? そだ、ご隠居に一緒に行ってもらお。あの人ならビール1本で買収されてくれるよね」


………

 


……

 

 

 

 

 

 

「………」
「えっと…彼女、だった?」
「え…?」
「なんだ、彼女いたんじゃん。…やだなもう。だったらこんなに仕事ばっかしてんじゃないわよ」
「い、いや、今のは彼女とかそういう類のひとじゃなくて…」


そもそも、何で嫌なんだろう…


「…そうなの?」
「………大家さんです」
「大家、さん?」
「…ええ。僕のアパートの」


正しいことしか言ってない、よな?


「…大家さん相手に、いつもあんなにほのぼのした会話してるの?」
「………面倒見のいい人、でして」
「…ふぅ~ん?」


間違いなく、嘘は言ってない、よな?


「ま、いいけど」
「あ、あの…天城さん」
「ん?」

 

『今日は帰ってくるよね?』


「急いで残り終わらせますから…それまで、待っててもらってもいいですか?」



 

「え…」
「その、今日は週末だし、給料日、ですから…」


そんな、僕の情けない先送りにも…


「………当然。じゃ、急いで片づけますか」



 

 

僕の、思い上がった予想通り、天城さんは、ほんの少し微笑んで、快諾してくれた。


………

 

……

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、乾杯しよっか」
「えっと…何に乾杯しましょう?」
「なくなってしまった我が社への哀悼の意を表して」
「………」
「今日までの新人さんの無駄な努力を称えて」
「あの…」
「無職の二人の前途を祝して」
「その音頭は、色々な意味でマズいのでは…?」
「気にしない気にしない…かんぱい」


──!



 

「………ふぅ! ん~、この一杯のために生きてるね~」
「…と、ダブルのロックを一息で煽らないでください」


大体、そんなにすぐに空けてしまうんなら、ロックじゃなくてストレートでも十分じゃないか。

…今置かれてる状況下で、もっともしょうもない疑問点ではあるけれど。


「とりあえず、チーズとナッツは大丈夫なんだよね? スパゲティとかピザとかないけど、食べられるものある?」
「大丈夫ですよ、大抵のものは問題ないですから。…洋風のお店なら」


僕らが会社を離れたとき、既に『花の金曜日』は、25時とかいう、最近できた訳のわからない時間に突入していた。

既に終電のなくなってるこの時間帯…

普通の居酒屋はさすがに結構閉まってて、開いてるのは、24時間営業のファミレスか、こういった、ちょっとお洒落めなバーくらいで。

僕は前者で十分だったんだけど、今日は天城さんの方が強硬に譲ってくれなかった。

…お金、足りるかなぁ?


「おごるから。大丈夫だから。気にせず好きなだけ頼むこと」
「そ、そうはいきませんよ!」


あまりにも僕のことを見透かした上での、多分、心からの気遣いには感謝するけれど、それを甘受ばかりしていたら、僕は駄目な人間になってしまう。

…今が駄目でないかは、この際考えない方向で。


「だいたいですね、確かに天城さんは先輩ですけど、歳は僕の方がずっと………上、ですよね?」
「あ、そういえば歳言ってなかったっけ? そっちのは聞いたのにね。今リーチだっけ?」
「…今週はまだ28です」


来週は予断を許さないけど、ね…


「そっか。あたしは33」
「ええええぇぇぇぇ!?」

 

「…の人と干支が同じ」


「…45?」


「それ、いい感じ。そういうのできるんじゃない新人さんも」
「は、はは…」


はかない抵抗があっさりスルーされたことに対する意趣返しは、思いのほか、歓迎されてしまった。


「そういえばさぁ…」
「な、何です?」
「もう新人さんじゃないし、呼び方変えてもいい?」
「今から…ですか?」


今『さ』らと言いそうになったけれど、酒が不味くなりそうだったので、意地でも明るい感情を振り絞った。

うん、大丈夫。僕の感情制御装置は、まだ動く。


「芳村理だから…えっと…『芳村さん』『芳村くん』『理さん』『理くん』のどれがいい?」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ天城さん…」
「血縁も主従関係もないから無難な呼び方ばかりだけど、まぁ、そうそう贅沢も言ってられないでしょ?」
「そういうの贅沢と取るってどんな精神構造ですか?」
「それとも『理ちゃん』が入ってないのが不満?」
「そお…んな訳ないでしょう!?」
「じゃ、四択。制限時間は…そうね、あたしが2杯目を空けるまで」


僕が0.1秒だけ素に戻っている間に、天城さんは、次から次へと話を進めていく。


バーテン「バーボンのロックお待たせしました」


「ほら、あと5秒」
「その飲み方やめてください…」
「ん、んっ……」
「じゃ、じゃあ…『芳村さん』で!」
「ん、わかった…『理くん』」
「僕の答えの対極じゃないですか!?」
「まぁ予想通りだったし」
「ならちゃんとその予想を受け入れてくださいよ…」
「おかわり」


バーテン「かしこまりました」


「ついでにその無茶飲みもやめてください」
「これが普通なんだけどね…ビールはあまり飲めないんだけど」
「…全然知りませんでした」
「ん。ゆっくり知っていくといいよ」
「いえ、ですからね…」
「あ、それで、ダブルスコアになったらペナルティだからね? 心してついてきなさい」
「え? え? え?」
「というわけで、この人にもおかわり。あ、めんどくさいからボトル入れよっか」
「いや、ちょっと待って? ちょっと待ってくださいよ!?」


………

 

……

 



 

「ね、理くん」
「…何ですか天城さん?」
「………」
「…どうしました天城さん? もしかして、気持ち悪いとか?」


追加したボトルは既に半分近く空いている。

まだ、入店して1時間ちょっとしか経ってないのに。

ちなみに僕は、さっきから限界付近をうろうろしてて、気づかれないように、ちびちびグラスの端を舐めているだけ。

そんなに弱い訳じゃないはずなんだけどなぁ…


「ん~…」
「あ、天城さん、ほんとに大丈夫ですか?」


もう、何杯飲んだか数えるのも面倒なくらい、ボトルのキャップをせわしなく開閉してた天城さん。

今になって、さすがに表情が険しくなったように見えた。


「あのさ…」
「は、はい。どうします天城さん? 出ます? それともトイレに…」
「夏夜」
「え?」
「か~やっ」
「は、はいぃ?」


やばい…本当に酔ってるし。


「そりゃねぇ…子供の頃は結構からかわれたよ? 仲間外れにされたあげくに『蚊帳の外』なんてはやし立てられたりして」
「上手…いや何でもありません」


しかも、背の高いスツールの上で無造作に足を組んだりして、それはそれで、色んな意味でこっちの血圧まで上がりそうで。


「でもあたしは自分の名前気に入ってるの。わかる?」
「わかります。自分の名前が好きな人は、自分も好きになれますし」


ちなみに僕は、当然、自分の名前なんか、嫌いだけど…


「わかるなら、よし。でさ、自分の好きな名前だから、ついでに人が呼んでくれたら、結構嬉しかったりして」
「………」
「夏夜」
「う…」
「か~やっ」
「う、うう…」
「わかってるんだよねぇ? あたしが、どういう答えを欲しがってるか」
「え、えと…か、か、か………」
「………」
「夏夜………さん」
「………ふぅ」
「あ、あ、あの…」
「ま、いっか。とりあえずは」
「と、とりあえず…?」
「だって理くん、これが限界っぽいもん」
「だ、だってですねぇ…その、名前を呼び捨てなんて、そんな、だから僕たちは、その…」
「ちっきん~」
「…す、すいません! この、ササミのジャーキー追加お願いします」


バーテン「かしこまりました。チキンですね」


「………」

 

…誤魔化し方、間違えた。


………

 

……

 

 

 

 

「………」
「………」


ボトルが空いてしまった…

たった、2時間で。


「理くんさぁ…」
「何ですか、夏夜さん?」


とりあえず、呼び方だけは、この1時間で比較的サマになってきた。

けれど、僕たちがこうして二人でいる時間は、そろそろ、残り少なくなってきている訳で。

始発まで、あと一時間くらい。

その時間を残して、お互い、なんとなく手持ち無沙汰になってしまった。


「汗くさい」
「すいません…」


水曜から、部屋に帰ってない。

会社の近くのサウナで入浴して、下着は替えたけど、ワイシャツやネクタイは、もうヨレヨレで。


「なんでこんなになるまで無理するのよ? 自分がどれだけ酷いことされたか、わかってる?」
「貴重な社会体験ということで…」


何度体験すれば気が済むんだ、と、誰かさんに言われてしまいそうだけど。


「これから…どうするの?」


来た…

今日、これだけは答えずに帰りたかった。

たった一つ…いや、かなりの数の禁句のうちの一つ。


「とりあえず、ちょっと休みます。…ほんの、ちょっとだけ」


今までの体験から、これが長い休暇になるだろうって、実は予想してる。

それでも期待は、違う未来図を描きたい。

でも今は、そういうイメージを描けないくらい、心が弱くなってるから、聞かれたくない。


「…大丈夫?」
「ええ…」
「ほんとに? 一人の部屋に戻って、耐えられる?」
「大丈夫です。なんとか、大丈夫なんです。…一人には、慣れてます」
「そう…?」


一人なら、まだ耐えられる。

去年も、一年近くそんな状態だったし、それでも僕は、なんとか暮らして来れた。

でも、今は…



 

みんなが一人にしてくれない自分の部屋に、果たして耐えられるかが、わからない。


今日は、給料日のはず、だった。

ご隠居やみんなは、きっと僕の収入目当てで、夜通しのどんちゃん騒ぎを企画してたに違いない。

そして、その輪の中には…

もしかしたら、たった一日だけ、新聞配達を休んで、ぶつくさ言いながら加わっている紅一点がいたかもしれなくて。


「だから…この話は、これくらいにしませんか?」
「………」


こんなに反動が来るなんて、予想してなかった。

あの、賑やかな部屋に帰るのが辛いなんて…

そんな日が来るなんて、思いもしなくって。


「理くん、さ」
「何ですか?」
「………」
「…何ですか、夏夜さん」
「家は、遠いんだっけ?」


名前で呼ばれたら、名前で返さないといけない。

どうやら、それが酔ったときの彼女の正義のようだった。


「東萩守です。アパートですけどね」
「歩くと、ちょっとかかるね」
「歩きませんよ。始発待ちです」


早歩きしたって、1時間の距離じゃない。

…別に、もうゆっくり帰ったって問題ないんだけど。


「理くん」
「はい、夏夜さん」
「やっぱり、汗くさい…」
「わざわざそんなに近づいて匂いを嗅ぐからです」


僕の首のところに顔を寄せると、くんくんと、まるで愛犬のように鼻をひくつかせる。

正直、ドギマギしてるけど、酔いのせいで、体の方がうまく反応してくれず、彼女の、なすがまま。


「シャワー、浴びなよ、今すぐさ」
「でも、始発まで、まだ…だからもうちょっと、飲みませんか?」


それに、たとえ始発が走り始めても、今は…そんなに早く、帰りたくない。

心の準備ができるまで…

せめて看板まで、ここにいたい。


「大丈夫」
「何がですか? 言っておきますが、僕はもうサウナに入るお金だって…」
「実はあたしの部屋、ここから歩いて10分かからない」
「………………はい?」


正直、彼女が何を言っているんだか、わからない…では、なかった。

でも、酔いのせいで…脳までも、うまく、反応してくれず…

だから僕は…


「部屋(うち)に、おいで…」

 

 


………

 

……

 


 

 

 

 

「千島ビル…ここだ」


……

 

「ええと…2階だっけ。…せっまい階段だなぁ」


……

 

「ここ、かぁ」

 

……


「あれ…? …あれぇ? 本当にここ?」


──コン、コン……。


「すいませ~ん、お~い、リストラさ~ん?」


──コン、コン……。


「すいませ~ん! どなたかいらっしゃいませんか~!?」


清掃員「どうしたのお嬢ちゃん?」


「あ、お騒がせしてます。ここって、千島ビルですよね?」


清掃員「ああ、そうだけど?」


「ええと、あたし、邦永商会って会社に用があるんですけど」


清掃員「邦永商会…」


「ここの2階って聞いてたんですけど、ドアが開かなくて…看板もないし、階数間違えたのかなぁ?」


清掃員「………」


「そうだ、おじさん知りませんか? 事務機器の販売代理店なんですけど」


清掃員「うん…知ってるよ。間違いなく、ここだった」


「あ、よかった。場所、間違ってなかったんだ。でも、どうして開かないんだろ。いるはずなのに」


清掃員「………」


「もしかして、もう帰ったかな? てことは、入れ違い?」


清掃員「………お嬢ちゃん」


「はい?」


清掃員「そっちの張り紙をごらん。私から言えるのは、それだけだ」


「張り紙…? あ、ちょっと…あの…。なんだろ…別に逃げることないのに。ええと…あ、これか。平素は格別のご高配を賜り、誠に…」


………


「株式会社邦永商会は下記日時をもちまして…」


………


「………え?」


………


「あ、あれ、あれぇ…?」


………


「ちょ…ちょっと、待って…? これ、これって、その…えっと…そ、そんな…そんなぁぁ…リ…リストラさん? リストラさんが…リストラさんがぁ…」


………


「リストラさんがリストラされちゃったよ~!?」


……