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妄想科学ADV Chaos;child らぶCHU☆CHU!!
……
──2015年 11月
……あの日、あの時。
僕は、このくそったれなゲームを……。
……クリアした。
……
──2016年 3月
──そして、2016年、春。
……
渋谷全域を包み込んでいた大規模な"妄想シンクロ"、および、"カオスチャイルド症候群"という異常な事態はほぼ収束した。
症候群の患者たちはといえば、みな正気を取り戻し、元の平穏な日常に戻りつつある。
また、情報過多なこの時代──アレがいかに衝撃的な事件であったにせよ、わずか数か月で人々の記憶は化石となり、いつしか風化していこうとしていた。
そしてそれは、やがて誰の口の端にものぼらなくなり……人々は、新たな刺激を求めて情報の海をひたすら泳ぎ回る。
まるで飢えた魚のように。
だから、そう──私が今から語ろうとしている物語は、たぶん、忘れさられていく無意味な物語のひとつでしかなく……私たちにとってさえ、ただの蛇足なのだろうと、そう思う。
………
……
「ん……んん……」
──コン、コン……。
「先生~? 久野里せんせぇ?」
「んあ~。ん~?」
「ウソー? もしかして、まだ寝てるのー? もう4時なんだけど?」
「失敬だな、オマエは。私のような勤勉な科学者が、こんな時間まで寝ているわけがなかろう?」
「ものすごいあくびが聞こえたけど、今」
「気のせいだ。あと、『先生』というのはやめろと、あれほど言ったハズだが──」
「だって先生は先生だもん。今日は算数の勉強見てくれる日でしょう? 忘れちゃってるの?」
「ええ? 確か、昨日、見てやったばかりじゃないか」
「もう3日も前だよ。あーあ、やっぱり寝ぼけてる」
久野里澪は、面倒くさそうに布団の上でモゾモゾと身を起こすと、壁のカレンダーを見上げた。
「ふーむ……」
確かに、前回、結人が来てからもう三日が経っていた。
澪の体感時間では昨日か、せいぜいおとといだとばかり思っていたのだが。
(やはり大人と子供では脳のカウントクロックが違うな。一度、研究してみる価値はありそうだが……)
そんなことを思いながら、澪は未練がましく布団から離れると、あたりをぐるりと見回した。
(うむ、汚い)
三日前、勉強を教える報酬のかわりに、結人が室内をキレイに掃除していってくれたはずだ。
それが、たった三日でなぜこんなにも汚れているのか。
シンクには食べ散らかしたまま洗っていない食器だのカップだのが散乱し、もしこれが夏の盛りだったら、間違いなく小バエの一匹や二匹は飛び回っていそうだ。
部屋のあちこちには研究資料や書物のたぐいが雑然と積み上げられ、少しでも触れようものなら、間違いなく雪崩(なだれ)を起こすだろう。
この状況を見られたら、間違いなく結人のお小言が始まるに違いない。
(結人のやつめ……小学生のくせに、なぜあんなに小うるさいんだ? あいつの姉どものせいか?)
小学生に説教されながらあれこれいいわけしている自分の姿を想像し、澪はうんざりしながら、頭をかいた。
──ガチャガチャ……!
と、しびれをきらしたのか、結人がドアノブをガチャガチャ回しながら言う。
「早くしてよ、久野里先生。5分以内」
「ふっ。オマエは子供で、しかも男だから分からないと思うがな。女にとって5分は短すぎる。せめて15分待て」
「どうせ、三日前から部屋の掃除をしてないだけでしょう? 僕がやるから」
「バ、バカを言うな。掃除など自分で出来る。完璧にな」
「それ、この前も同じこと言ってたよ?」
「うむぅ……」
どこの誰が相手だろうと、決して言い負けたことのない澪であったが、どうも橘結人にだけは分が悪いらしい。
澪は口を尖らせて黙り込んだ。
「僕、勉強を教えてもらっても、その……月謝とかお礼のお金とか、なんにも払えないから、その代わりというか……遠慮しなくていいから」
……
橘結人、山添うき、そして南沢泉理(来栖乃々)の三人は、オーナーの代わった青葉寮になんとか今でも住むことが出来ていた。
自治体やNGOなどの助けを借りながらであるが、少なくとも高校卒業までは居られることになっている。
さらに泉理は、少しずつでも貯金をし、さらに、自分が高校を卒業したら働いて、結人だけでも大学に行かせてやりたいと考えていた。
そういう状況なので、当然、三人の生活はいつも節約が基本。
塾に使うお金などもなく、結人は図書館などで独習するしかなかったのだが……。
それを見かねたのが、久野里 澪だった。
彼女は、なんだかんだと理屈をこねつつ、いつしか算数と理科の家庭教師をしてくれるようになった。
ちなみに、それと前後して国語と社会の勉強を泉理が教え始めたのだが……有村雛絵や香月華は、結人がやたらと澪になついていることへの対抗心に違いないと密かに邪推して、ニヤニヤしていた。
「とにかくお部屋の片づけとか、僕にやらせて、ね、先生?」
「ったく……つまらないことに気を回すヤツだな。子供のくせに」
そう言いながらも、澪は結局、適当な着替えと、あと、目立つゴミだけをまとめて袋に放り込むと、5分で結人を部屋に招き入れた。
……
「こんにちは、失礼しまーす。……って、うわ~!?」
「だから15分待てと言ったんだ」
「これを15分でなんとか出来ると思ったの!? っていうか、どうやったら、三日でこんなふうに汚れちゃうんだろう?」
「オマエも、いずれ科学者になれば分かる」
「僕は弁護士になるんだってばっ」
──「っていうか、今のセリフ、全世界の科学者に謝った方がいいんじゃないすかねー」
「………」
「って、うひゃ~、確かにこれはひどいな~。ふすまを開けると、洗濯してない"お宝パンツ"とか"ブラ"とか崩れ落ちてきそう。あ、でも、案外そういうのもニーズあるって言うし…神成さんとかムッツリっぽいから、喜ぶかも知れない」
「………。なぁ、知ってるか? ロープで縛った人間を浴槽に放り込んで濃硫酸をぶっかける映画があるんだ。骨まで溶けて、完全犯罪が可能らしいんだが……ちょっと試してみるか」
「うわーっ!? この人マジだーっ! なんかマジで言ってるーっ!」
「お前がすでに能力を持っていないとしても……この目を見れば分かるはずだな? 私が本気なのかどうか?」
「すすす、すいませんっ。こんなバカなわたくしめが、くだらないジョークをとばしてしまいましてーっ」
有村雛絵は思わず、澪の足元にエクストリーム土下座をした。
そんな二人を、結人が困ったようにキョロキョロと見ている。
「というか、そもそも、お前など呼んでいないぞ。なにを勝手に上がりこんでるんだ」
「いやー、なんていいますか……ちょっと気になって、ユウに付いて来ちゃいました」
「……?」
「だってほら、久野里先輩が、わざわざ誰かのために『家庭教師』をするなんて。そんなイメージ、全然、ないじゃないですかー」
「これは、その……部屋の掃除と等価交換だ。別におかしくはあるまい」
「じゃあ、たとえば私がですよ、『掃除する代わりに勉強教えて下さい』ってお願いしたら、OKしてくれますー?」
「断固断る」
「ほらー。やっぱり、あやしー」
「……?」
「久野里先輩って、どうもユウにだけ甘いんすよね~。もしかしたら、ユウに対して何かあるのかな~とか」
「……? 何かとはなんだ?」
「おおっと、そこまで言わせます? 言わせちゃいますぅ? むふふ……それはズバリ、歳の離れた禁断の恋──」
──ッ!!
その瞬間、雛絵の頭上を、澪が研究用に作った"疑似ディソード"がすさまじい勢いで通り過ぎた。
雛絵のツインテールの髪が、風圧に思い切り舞った。
「のわーッ!? あぶねあぶねあぶねーッ!」
「本当にあぶなかったな。あやうく本気でぶった斬るところだったぞ」
「本気でしたよね、今っ!? 間違いなく!」
「まさか」
澪は、情け容赦なく振り回したそれを、部屋の隅に無造作に立てかけた。
ゴトリと大きな音がした所を見ると、かなりの重量があるようだが、それを片手で振り回すのだから、澪の腕力もなかなかのものである。
「もうやめてってば、二人とも。それより久野里先生? 今度雛絵お姉ちゃんにも、勉強、教えてあげてよ」
「だから、断固断ると──」
「雛絵お姉ちゃんね、次のテストでいい点取らないと、落第しちゃうかもしれないんだって……」
「ああ?」
「こらこらこらー! なんでユウがそんな国家機密を知ってるんだ!?」
「あ。えと……華お姉ちゃんが心配してて……」
「あんの巨乳メガネ~! ユウたちには言うなとあれほど!」
雛絵はポケットからスマホを取り出すと、さっそく香月華の番号をプッシュして、文句を並べ立てはじめた。
しかし、華は華で、ちょうどネトゲの重要なクエストの真っ最中だったらしく、それを邪魔されて超不機嫌モードに突入した。
二人は、スマホごしになにやら不毛な言い争いのようなものを始める。
「さて、机のまわりを片付けて、今日の授業を始めるとしよう。確か方程式の続きからだったな」「……雛絵お姉ちゃんたちは、あのままでいいの?」
「いつものことだ。放っておけ」
………
……
「あ、そっか。もしかして、この式をこっちに持ってくればいいのかな? そうすれば、イコールになるよね?」
「ふむ、それでOKだ。前から思っていたが、お前の応用力はたいしたものだな。そこから先は、一人で解を導けるだろう?」
「うん。ええと、ここがこうなるから……この式をあてはめて……」
「これが答え」
「よし。上出来だ」
「えへへ」
──「はぁはぁはぁ、もういい分かった。華とは絶交! いい、絶交よ!? 二度と口もきかないから! 謝るなら今のうちだからね!?」
「………。って、あいつら、まだやってたのか」
「大丈夫かなあ」
「まぁ、ケンカするほど仲がいいとは言うが」
「そうなの? だったらいいんだけど……」
──ぐぅぅ……。
「あ、へへへ……おなか鳴っちゃった」
「もうこんな時間か。じゃあ、今日はここまでにしよう。ピザでも頼むとするか?」
澪は、キッチンのゴミ箱に捨てられているデリバリーピザの空き箱を指しながら言った。
あれは確か2日ほど前、やはり結人が勉強をしに来た時に頼んだものだ。
久野里澪といえば、結人たち青葉寮組に匹敵するほど常に金欠であり、また研究以外には無駄遣いなど一切しない堅物(かたぶつ)であるが、なぜか結人が来た時だけそういったデリバリーを注文することがある。
その事もまた、まわりの人たちにとっては『彼女って、やっぱりユウにだけ甘いんじゃないの? 疑惑』の根拠になっていた。
「ピザ頼むなら、私、エビマヨがいいっす! ──え!? ああ、こっちの話よ! それより、もう一緒にお昼も食べてあげないからね!? いいの!? 明日から、ひとり寂しく便所メシよ!?」
「ったく。さんざん邪魔しておいて、ピザだけは食べるつもりか、あいつは……」
「あ、あんえ、センセー?
「んん?」
結人は少しだけモジモジした後、背中の後ろに隠すように置いてあった、少し大きめの手提げ袋を膝の上に乗せた。
「先生ね、いつもカップ麺とかコンビニのお弁当とかそういうものばっかりでしょう? 毎日それだと、あんまり身体によくないんじゃないかなって思って…」
「ふむ。まぁ確かに……ほめられた食生活ではないな」
澪は、キッチンに転がっているゴミ袋の中を再び横目で見た。
ピザの空箱の他には、コンビニのおにぎりや惣菜やパン、それに、即席めんの空容器といったものだけが詰め込まれている。
「……生意気言って、ごめんなさい」
「いや、結人の言う通りだ。謝ることはない」
「それでね……その……僕、最近、うき姉ちゃんと一緒に、泉理姉ちゃんからお料理を習ってるんだ。青葉寮で、泉理姉ちゃんばっかりご飯を作る係だと大変だから」
「ほう。それはいい心がけだな」
それを聞いた澪は、いつも不愛想な彼女にしては珍しく、笑顔になった。
「お前たちだけで寮に残ると聞いた時は心配したが。うまくやっているようでなによりだ」
「うん。でねでね……ええっと……」
結人はどうしようかちょっと迷っているようだったが、やがて、えいやっとばかりに、手元の手提げ袋に手を突っ込んだ。
そして、タッパーを三つほど引っ張り出して、テーブルの上に置いた。
「ま、まだあんまり上手じゃないんだけど……お弁当を作って来たんだ」
「え?」
澪は、これまた彼女にしては珍しいくらい素直に目を丸くした。
「あ、もちろん学校から一度家に帰って、新しく作って来たお弁当だよ。まだちょっとあったかいけど……レンジであっためるね」
「あ、ああ……悪いな」
まだ意表をつかれたような顔で結人を見上げている澪を置いて、結人はキッチンへ行くと、レンジであたため直し始めた。
「あ、でも困ったなぁ。雛絵お姉ちゃんが来るとは思ってなかったから、二人分しか作ってこなかったよ」
「それなら大丈夫。今から華の所へ行って、決着つけることになったからっ」
「仲直りするの?」
「違うっ、決着をつけるんだっ。──それじゃあ、ユウ! あんまり遅くなる前に帰りなよっ」
それだけ言うと、憤懣(ふんまん)やるかたない表情のまま、雛絵はバタバタと久野里のアパートを飛び出していった。
まぁ、おそらく数時間後には雛絵も華も、なんで喧嘩をしていたのかすら思い出せないくらい仲の良い関係に戻っているのだろうが……。
………
「はい、おまたせ。ええと……実は、まだあんまり自信がないんだ。おいしくなかったら、ごめんなさい」
レンジであたため直したタッパーの中身を、四つほどの手ごろなお皿に盛りつけ、結人はそれをテーブルの上に広げた。
同じくタッパーに詰めてきたご飯を、適当なお茶碗ふたつに分ける。
室内に、ちょっとだけ焦げたような、でもとてもあたたかな香りが広がった。
「えっとね、まだ作れるレパートリーが少なくて……これがきのこハンバーグでしょ。こっちは刻んだベーコン入りの卵焼き。あと、鶏肉とモヤシのキャベツの炒めモノ。モヤシを多くすると、鶏肉が少なくても、たくさんに見えるんだよ。えへへ。で、最後に、余ったキャベツをお豆腐と一緒にサラダにしてきましたー」
「すごいな、結人。もう立派なシェフじゃないか」
「ううん、それがねー! うき姉ちゃんにどうしても勝てないんだよー。ほら、あちこち焦げちゃってるし……」
確かに、ハンバーグや野菜のあちこちに、いささか火を通し過ぎた痕跡が見える。
少し焦げ臭いのも、そのせいだろう。
でも、澪にとって、そんなことはどうでもよかった。
こんなごちそう、たぶん彼女は、今までに一度も食べたことなどなかったと思う。
「わ!? あの、あの!? どうしたの!? 何か嫌いなモノとか入ってた!?」
「……え?」
自分でも意外すぎて、澪は慌てて、手の甲で両の眼をぬぐった。
それでも、瞳から静かにあふれてくるものが止まらない。
自分だけ、こんな幸せを受け入れてしまっていいのだろうか?
かつてアメリカで行ってしまった愚かな行為。
そして、今、この瞬間も冷たい獄中で孤独に耐えている"彼"。
彼ら彼女らの追憶が、なぜか目の前の少年と重なっていた。
「いや、驚かせてすまない。こんなに豪華な食事、いったい何か月ぶりだろう、と感動したんだ」
「ええ? そんな、たいしたものじゃないよ~?」
「食べても、いいか?」
「うん。それでね、もっとこうした方がいいとか言ってね。僕、うき姉ちゃんに絶対、勝つんだから」
「ああ、分かった。──いただきます」
いつもの澪の食事といえば、とにかくカロリーさえ摂取できればいいとばかりに、ラーメンなどをろくに噛みもせずに飲み込んでいくだけだった。
でも今夜の澪は、結人が作ってくれたものを一口ずつゆっくりと食べていった。
「……ど、どう?」
澪と一緒に自分の料理に箸をつけつつ、ドキドキしながら上目遣いに聞いてくる結人。
何度も、何度も。
そのたびに澪は、もしここに雛絵や神成がいたら『この久野里澪は、絶対にニセモノだ!』と言い出しかねないほど優しい笑みを浮かべる。
「うん。美味しいよ、結人」
確かにちょっと焼き過ぎていたり、逆に半生だったり、味付けのバランスが悪かったりするのも多かったが……それでも、こんなに美味しい食事は初めてだったのだ。
やがて澪は、ひとつも残すことなこう結人の料理を食べ終えると、『ごちそうさま』と言って、もう一度ニッコリ微笑んだ。
「これならいずれ、山添だけでなく、南沢泉理だって追い越せるだろう」
「えー? それは無理だよー」
「そんなことはないさ。最初から無理だと決めつけていてはダメだ」
「そう……かなあ」
「この私が保証してやる。オマエならあっという間に上達する」
「本当!? じゃあ、頑張ってみようかな。でも、泉理姉ちゃんたちには内緒だよ?」
「内緒? あー、それは、その……無理だと思ったほうがいいかもな」
「ええ? なんで?」
と、突然、
──コン、コン……。
「ん?」
「鍵は開いてる。勝手に入っていいぞ」
その声にドアが開く。
と、そこには、とてもよく見慣れた姿が立っていた。
「こんばんは、久野里さん」
「わぁっ?」
……
「悪いな、少し、弟を借りてるぞ」
「結人ってば、学校から帰るなり、なんだか張り切ってお弁当を作ってるから、何事かと思ってたんですよ。訊いても何も教えてくれないし。ね、結人?」
「う、ウチに帰ったら言うつもりだったんだよぉ」
「うん、いい匂い。もうちょっと早く来れば、一緒に食べられたかなぁ? ね、結人? 今度は、お姉ちゃんにもごちそうしてね?」
「も、もちろんだよ! これは、ほら、実験っていうか! 泉理姉ちゃんに食べてもらう前の試食っていうか!」
「ほほう、私は実験台で試食係だったんだな。よーく分かった」
「ええっ!? あ、ち、ちち違うよ!試食とか実験とかウソ! ちょっと言ってみただけだから! それだけだから!」
「さぁ、困ったわね、結人?」
「ここに山添までいたら、さらに大変だったな」
「………。いますが、何か?」
「うわぁぁ~~!?」
「山添。お前は少し影が薄すぎる。もう少し濃くしろ」
「すみません。以後、気をつけます」
「っていうか、うき姉ちゃんまで、何しに来たんだよ~?」
「帰りが少し遅いから、心配して迎えに来たの。……遅くなるなら、連絡くらいして欲しい」
「あっ、そっか。ゴメンなさい。つい──」
「待ってくれ。それは、うっかりしていた私が悪い。結人を叱らないでやってくれ」
「ええ? 久野里さんでも、うっかりすることなんてあるんですね。ユウのお弁当に感激して……とか?」
「えっ!? い、いや、そんなことはないぞ、うむ」
「うふふ、冗談です。ちょっといじわるでしたね。今度は私の料理も食べて、感想を聞かせてください」
「あ、ああ、もちろん」
と……。
──プルルルル……。
「ん?」
その時、部屋の隅で、澪のスマホの着信音が響いた。
澪は、スマホを手に取ると画面を見たが──誰からの着信か分かったとたん、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「先生?」
「あ、いや、なんでもない。ちょっと面倒なヤツからの電話でな。こいつから連絡がある時は、ロクなことがない」
──スマホの画面には、『神成 岳志(しんじょう たけし)』という名が表示されていた。
せっかくの楽しい時間が台無しだ。
澪は、小声でそうつぶやいた。
………
……
「悪かったな、わざわざ来てもらって」
「全くだ。というか、もうアンタと会うことはないと思っていたんだが」
「相変わらず口が悪いな、キミは」
スマホにかかってきた電話は、神成という刑事からだった。
澪は彼に呼び出され、数日後、とある病院の特別病室にいた。
病室には、カーテンでおおわれているベッドがひとつ。
そこに、患者が横たわっているとおぼしき気配がある。
澪は、病室に入ってきた時から、その患者に対してどうにもイヤな予感を覚えていた。
「キミに診てほしいのは、この"少女"だ。年齢は今年で十五歳になる」
「私は医者じゃないぞ。診察ならこの病院でいくらでも出来るだろう」
「あらゆる検査も治療も行った。それでも、どう判断していいか分からないんだ。だから、専門家としてのキミの意見を聞きたい──ここまで言えば分かるだろう?」
鋭い目つきで自分を見つめてくる神成のその表情で、澪は全てを理解した。
つまり、このカーテンの奥で眠っているのは……
「そんなバカなことがあるか。カオスチャイルド症候群者は、全員、すでに治療のめどが立っている。完全に治癒した者も多い。この私も、全員の脳の断層写真まで確認しているんだ。症候群者が残っているはずが──」
「詳しくは後で話す。とにかく見てくれないか」
心情がそっとカーテンを開いた。
「これは……」
そこには、全身を拘束衣で包まれた上、さらにベッドに拘束ベルトで固定された老婆が横たわっていた。
いくつもの点滴で薬が投与されているが、そのラベルのひとつにプリントされている薬剤名は、かなり強い鎮静剤だった。
つまり、薬で眠らされているのだ。
「カオスチャイルド症候群……しかも、能力者に間違いないんだな?」
「ああ。佐久間たちのグループ──ギガロマニアックス研究を続けていた医者連中だな──そいつらを全員、逮捕したんだが、そのうちのひとりの病院に監禁されていた」
「なぜ治らない? 宮代拓留の脳から作り出した治療用イメージは?」
「それが……この子に限って、効果がないんだ」
「なに?」
「これがカルテだ。彼女を監禁していた医師のものだが……読んでみてくれ」
神成は、電子カルテをカラープリントしたらしい紙束を澪に手渡した。
「こんなに厳重に拘束する必要があるのか?」
「ああ。この子を研究していた医者も、最後は制御できなくなったらしくてな。こうやって拘束したまま、薬で安楽死させるつもりだったらしい」
「ふざけたことを……」
「カルテを読めば分かる。我々がどうすることも出来ず、キミをここへ呼んだ理由もな」
「………」
澪は義憤の表情を浮かべたまま、カルテのコピーに目を走らせ始めた。
が、すぐにその眉間にしわが寄った。
顔から血の気が引き始め、額や頬が白くなってくる。
カルテ上に並んでいる脳波や検査数値、CTの断層写真などは他の症候群者とほぼ同じだったが、医師の所見や診察記録に想像だにしないことが記されていたからだ。
澪は、知らず知らずのうちに思わずうめいていた。
「因果律を、歪曲する能力……だと?」
「カルテと一緒に、この患者に関するレポートも押収した。俺は小難しい理屈が苦手でね、ちゃんと理解できてはいないんだが……とんでもない能力者だということだけは分かる」
神成が、カルテとは別のレポートを取り出して、澪に差し出した。
澪は一度、眠り続けている老女──実際はまだ十五歳の少女──を見つめてから、差し出されたレポートの束を手にした。
そして、それに目を通そうとして──
「……!」
全身に緊張がみなぎり、思わずレポートをグシャリと握りしめていた。
「く、久野里さん? どうした?」
神成が、びっくりしたように澪の顔を見ている。
ということは、神成にはこれが"普通のレポート"に見えているのだ。
(いったい、ヤツはいつから?)
この病室に入った瞬間からか。
あるいはもっと前、神成から電話を受けた時にはすでに?
澪は、握りつぶしていた極めて不快な"私信"を広げ直すと、その上に、睨み付けるように目を落とした。
====================
やあ、久野里くん。またキミのような聡明な女性と関わることが出来て、うれしい限りだ。まさか、僕──和久井修一のことなど覚えていないとか、寂しいことは言ってくれるなよ?
目の前で眠っている少女はね、佐久間たちが発見した能力者の中でもかなり特殊な存在だ。とある病室の拘禁室に、たったひとり、ずっと意識のない状態で監禁されていた。
ご覧の通り、全身を拘束衣に包まれ、身動き一つできず……まるで懲罰房の囚人扱いだ。こんないたいけな少女になぜ、と僕の胸は痛んだが……。
残されていた電子カルテを見て、納得がいった。恐らくキミもそうだろう。
さて。いまさら訊くまでもないが、当然、<因果律>というものをキミは知っているね?
全ての事象には<原因>があり、それによって<結果>が生じる。
今回のカオスチャイルド症候群の事件も、もちろん因果律の輪の中にあった。
ところが、この少女の能力はね……その因果律をねじ曲げてしまえるんだ。
正確に言うなら、自分が求める<結果>になるよう、<その原因となった事象>を改変してしまう能力と言った方が正しいな。
そして、その<因果律改変>のせいで、世界は大きく変化してしまうんだ。
すごい能力だと思わないか?
とはいえ、これは同時に危険すぎる能力でもある。
佐久間たちが、この子を眠らせたままずっと拘束していた理由も分かるというものだ。
でもね、僕はこの子の素敵な使い方を思いついたよ。
ほら、キミや宮代くんのせいで僕はひどい目にあっただろう?
だからもう一度、2009年の渋谷地震の時点から因果の改変を──
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そこまで読んだ澪は、心の奥底に響く警鐘とともに顔を上げた。
自分にこのレポートを渡してきた神成の方を見る。
だが、そこにはすでに神成の姿はなかった。
その代わり、壁にもたれかかって、ニヤニヤとイヤな笑みを浮かべていたのは──
「……和久井……貴様……ッ」
和久井修一だった。
澪は悟った。自分は罠にはまったのだ。
「だからね、この世界にはもう一度、渋谷地震の後からやり直してもらおうと思うんだ。僕にとって、都合のいい結果になるようにね。そうすれば僕は、キミたちのせいで委員会に責められることもなく、平穏無事な人生を送れる。委員会の作る、新しい世界の中で──」
和久井の口から澪に届いた声は、そこまでだった。
ベッドに拘束されていた彼女の目が、いきなり見開かれた。
そして……ギロリと澪の顔を見たのだ。
その瞬間、澪のまわりの風景は消滅した。
さらに空間だけでなく、未来へと正確に刻まれていた時間も、自分が自分であるという認識すら、全てが消え去っていった……。
……