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-ノベルゲーム・タイピング-

世界でいちばんNGな恋【20】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
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Twitter─ @Zippydle_s
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--------------------

 

 

 

……


「どうぞ、芳村様。大丈夫ですか?」

「ええ、本当に申し訳ありませんでした。車まで出していただいて」

「芳村って呼ばれたのにどうしてあなたが答えるのよ?」

「大丈夫? 理くん。ちゃんと降りられる?」

「こっちよ理。さ、つかまって」

「………」



 

 

「ほほう…」

「こりゃまた…」

「見事にやっちゃったねぇ」


「ど、どうもみなさん…ご心配おかけしまして」


日曜の午後。

あの、激動の土曜から一夜明け、僕は久々に、テラスハウス陽の坂の地面を踏んだ。

…右足はギプス越しだけど。


………

 

 

 

結論から言えば、あの家事は、廊下の住人が一年ぶりに押入れから出したガスストーブが原因だった。

ホースとの接続を間違えたか、部品が劣化していたか、現在警察が調査してるけど、とにかく部屋の住人には怪我一つなかった。

他の部屋の住人も、爆発音を聞きつけ、外に出たところ、燃え広がる火を見て一斉に避難したので、これまた無傷だった。


………

 

 

 

 

「理くん。お布団敷いてきたよ。さ、こっち掴まって」

「いいえ結構ですから。さ、理、左の靴脱がすからちょっとだけ我慢してね」

 

 

 

「………」

 

肝心の麻実は…

今、皆の目の前で、全身で無事を証明している。

なんでも、茶漉しが壊れているのに気づき、慌てて百円ショップへと走っている最中だったとか。

…別にお茶が出せないからって、そこまで気を遣わなくてもいいんじゃないかと思ったけど、そのおかげで無事だったのだから結果オーライだった。


「はい、こっちに体預けて。松葉杖、持てる?」

「あ、ありがとう…」

「すいません、通りますのでそこどいてください」

「………っ」


というわけで、あれだけの家事だったにも拘わらず、死者はゼロ、怪我人もたった独りで済んだのは、心の底から不幸中の幸いだった。

…たった一人の怪我人が僕でなければ、今ごろそう呟きつつ胸をなでおろしていたことだろう。


「ゆっくり、ゆっくりね。痛かったらわたしに掴まって」

「大丈夫だって。松葉杖にも慣れないと。…しばらくは付き合わないといけないんだし」

「そう? 無理しなくてもいいのに…」

 



姫緒・夏夜・美都子
「………」

 


芳村理、全治一か月。

燃え落ちるアパートの二階から飛び降りた際に、着地に『見事成功して』右足を単純骨折。

いや、煙に巻かれたり大きな火傷を負わなかっただけでも、実はかなり不幸中の幸いなんだけど。


「さ、入って。すぐに横になりましょう」



 

「大丈夫? 理くん? ホント、痛くない?」

「あ、ああ…今は麻酔がまだ効いてるから。ごめんよトコ、心配かけて」

「あ、あたしは………」



 



「夜中に電話があった後、大騒ぎだったんだから。大家さん、真っ青になって、がたがた震えて……」

「それでも着替え用意してすぐ病院に飛んでったんだからね? トコちゃんに百回謝って千回感謝しなさいよ」

「面目ない…」

「い、いいよ……そんなふうに言わなくても。当たり前のことしただけだもん」

「本当に意味のない無茶をして…また職を失っても知らないわよ?」

「当然姫様が庇ってくれるんだよね? あんたの部下なんだからさ?」

「そ、それはそうだけど…なんだか釈然としない……」


「あの、皆さん…昨日今日と、理がお世話になりました」

 

 



「先生…」

「だ、だからあなたに感謝されるいわれは!」

「本当にありがとうございました。それでは、失礼します」


──バタン。



 

「え?」

「あれ?」

「あ…」

 

「さ、理…ゆっくり休んで。何かあったら声かけてね。ううん遠慮しないで…だって、わたしのせいだもの」


──ドン、ドン……!


「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ! どさくさに紛れてわたしたちを締め出したわね!?」


「すいません、もう少し静かにしていただけませんか? これじゃ理がゆっくり休めないじゃないですか」

「なっ…なにそれぇ!?」

「何がセンセのせいだって? 勝手に理くんの行動を自分のためって決めないでよ…」

「………先生」

 

 


「え~家事と修羅場は東萩守の華なんて申しまして…」

「こうなりゃ面白いとは思ってたけど、まさか本当にこうなるとは…」

「出火原因は焼けぼっくいの残り火かな…」

「八っつぁんに一枚やっとくれ」


──ドン、ドン……!


「あ、開けなさいよ…開けて~! なんだかとっても納得いかな~い!」

 

………

 


……

 

 

 

 

 



 

第11話 『辛く切ない嫁姑戦争』

 

……

 

 

 

 

「え~、というわけで、幸運なことにわたしには怪我一つありませんでした。みんなにも心配かけちゃってごめんなさい。でも、しばらくは色々と忙しくなるから、学校に顔を出せないことも多くなると思います。…みんなもうすぐ受験なのに、本当にごめんね」


女子生徒1「そんなのいいって~。大変なのは先生の方なんだから、ねぇ?」

男子生徒1「そうそう、困ったときはお互い様じゃん」


「色々と忙しくなる………か」

「先生、気の毒だね~。いくら怪我がなかったって言っても、ついてないよね」

「そのはずなんだけど…全然落ち込んでないように見えるのは気のせい?」

「そんなことないって。そういう気持ちをおくびにも見せないところが、教育のプロなんだと思うな~」

「………」



 

「一応、授業の方でわたしが出られないときは、なるべく鈴村先生に代理をお願いしています。あと、ホームルームは副担任の菊池先生の指示に従って…」


男子生徒1「って、なんだよ自習じゃないのかよ!?」

女子生徒2「篠原、あんた不謹慎」

女子生徒3「先生、家も家具もみんな焼けちゃって大変なんだよ? あんたには想像力ってものがないの?」


「ああ、そのことなら大丈夫よ。一応、家財道具も保険に入ってたから。当座がしのければなんとかなると思うわ」


女子生徒1「でも住むところは全焼しちゃったんでしょう?」


「そっちも心配ないから。知人のところに世話になって…?」


「………」



 

「え、ええと! それじゃ出席を取るわね!」


「………」

「ト、トコちゃん…どうしたの? そんな怖い顔して」

「先生の家に続いて、今度はトコが炎上してる…」

 

………

 

……

 

 

 

「はい、背中おしまい。じゃ今度は前やるわね」
「あ、ああ…」



 

熱く濡れたタオルで強めにこすられた背中が、今度は冷たい空気にさらされて、心持ち気持ちいい。

麻実は、洗面器いっぱいのお湯でタオルをゆすぐと、今度は僕の前に周り、肩口からごしごし行く。



 

「本当に足以外は大丈夫だった? 左手ちゃんと動く?」
「昨日からずっと動かしてるじゃないか、ほら」


どうして右手の心配はしないんだろう?

そして、今の会話で気づいたんだけど、そもそも両手とも平気なのに、どうして前まで拭いてもらってるんだろう、僕は。


「右手上げて」
「…はい」


言われるままに腕を上げると、腕の内側、脇腹、それに脇の下まで、丹念に、そして強く。

とにかく清潔を第一に目指して。


「次、左」
「…あい」


それ以外にも、僕と同じ部屋で平気で着替えたり、隣に布団を敷いたり、平気で寝顔を見せたり。

こういう遠慮のない態度を見ると、嫌でも実感してしまう事実がある。

…この女性と、一度は夫婦になったことがあるんだなって。


「どうしてあんな無茶したのよ…」
「え…」
「あんなに燃えてた部屋の中に飛び込むなんて…。こうして生きてるのが不思議なくらいなのよ?」
「あ、いや、それは…」
「ねぇ、どうして…?」


そんな期待と不安に満ちた微妙な表情で怒られても…

 

 

 

「わたしのこと、恨んでたんじゃないの? 心の底では、疎ましく思ってたんじゃないの?」


そんなあからさまに、僕に否定して欲しそうに煽られても…


「そんなこと思うわけないだろ…」
「どうして? ねぇ、どうして思うわけないの?」


そんな強引に、僕の心の中を聞きたがられても…


「当たり前のこと聞くなよ…。だって僕らは、一度は結婚した仲じゃないか」
「理…」


僕は、どうすればいいかわからないじゃないか。


「ねぇ理…。あなたって、本当に愚かね?」
「だから三行半を叩きつけられました」



 

「…っ」
「あ、いや、ごめん違った! 『リストラされました』の間違い!」


どうすればいいかわからないから、感謝と嫌味と軽口と本音とが、同時に口をついて出てしまうじゃないか。


「ううん、間違いじゃないし。わたしがあなたに、一生消えない酷い仕打ちをしたのは…」
「そんなことより! 麻実の部屋の方どうなんだよ? 僕なんかに構ってる場合じゃないだろ?」


強引すぎる話題展開と取られても仕方ないけど、まるっきり正論しか言ってないので開き直れる。

どう考えても今大変なのは、住むところと財産を失った麻実の方であるのは間違いないから。

 

 

「大丈夫よ、保険会社の人が全部やってくれるわ。ちょっと時間はかかるけど、ほぼ全額戻ると思う」
「先のことはともかく、今どうする気だよ? 不動産屋が代わりの住居を用意してくれたりとかないのか?」
「どうなのかしら? まだ話してないからわからないわ」
「ちゃんと話した方がいい。泣き寝入りはよくないって。…ただでさえ麻実はそういうの強く言わないんだから」



 

「あなただっていい勝負じゃない。そういえば、二人して断れずに、新聞5つも取ってたわよね…」
「いや、そんな昔の話は…」


懐かしくて泣きそうになるからやめようよ…


「まぁ、あなたのギプスが取れるまであと一月あるし、その間にゆっくりと考えるわ」


しまった…


『いつまでも僕の面倒なんか見てないで』って台詞を言ったもん勝ち理論で封じ込められてしまった…

これはもう、覆そうにないな。

麻実の、言い負かされそうになってからの粘り腰は何しろ強烈だからなぁ…


「そ、そういえば、焼け残った荷物は…?」
「それがね…夕方、現場に行ってみたけど、ものの見事に全部消し炭だったわ」
「え…」
「いいのよ、もともと古いものばかりだし。それに安物ばかりだったから」
「麻実…」


燃え落ちる直前の数秒間だけ目にした、麻実の部屋の中。


「ま、ちょっとばかり辛かったけどね。…なにしろ、古くて安いものばかりだったから」


オーク材の食器棚。

白い丸テーブル。

片方の取っ手が取れたままのクローゼット。

本棚に収められたお馴染みの背表紙たち。

27インチの、やたらと場所を取るブラウン管テレビ。


「なぁ、麻実」
「…なぁに?」


食器棚からこぼれ落ちているのは、二人で選んだ…ご祝儀返し。



 

「…いや、なんでもない」
「そう…」


なんでもない。

あの、一人暮らしにしてはちょっと大きめの家具たち。

どれも結構使い込まれてて、しかも、新入社員の給料でも買えるくらいの安物たち。

『物持ちがいい』だけで片づけられない。

『もったいない』だけで持ち続けられない。


どれもこれも…

二人が暮らしたあの部屋にあったものたち。


「確かに一つ一つのモノたちに、思い出は宿ってたけど…」
「え…?」
「でも、一つ一つの思い出を宿らせた"モノ"が無事だったんだもの…だから、どうでもいい」
「麻実…」


それって…つまり…



 

「さてと、上半身終わり。じゃ、ズボンとパンツ脱いで」
「そこはやらなくていいから! そもそも自分で拭けるから!」

 

その瞬間、僕は恐ろしいことに気がついてしまった。

トイレのとき…中までついてくるんじゃないだろうな?


………

 

 


──ドン……!

 

 

 

「だからそういうこと言ってるんじゃないのよ!」

──「…っとぉ」


「本当にすいません。色々とご迷惑をおかけしてしまって」


「…(ずず)」



 

「あなた、住んでたアパートが焼けたのよ? 自分が一番大変なのよ?」

「は、はぁ…」

「全財産が灰になっちゃったってのに、どうしてそんなに呑気なのよ?」

「あ、幸いなことに現金やカード類は無傷でした。わたし、バッグの中にほとんど全財産持ち歩いてて」


「それはそれで…引ったくりに遭っただけで全財産失うわよ…」


「大体ねぇ…あなた、今の理さんとは何の関係もないでしょ?」


「言ったよ…」


「それはそうですけど…でも今のままだと、理の生活に支障がありますし」


「聞いてないよ…」


「彼の面倒を見てくれる人なら他にも沢山いるじゃない。アパートの住人もいるし、ヘルパーを雇ってもいいし、なんなら、その………わ、私だって」

「いえ、ですからこれ以上皆さんにご迷惑をおかけするわけには…」


「あたしなら、汝の隣人をたっぷり愛してあげるんだけどなぁ」

 

 

 

「あなた味方しないなら黙ってなさいよ」


「なんだろこの三すくみ…」


「それに理さんだって…別れた奥さんにいつまでも身の回りの世話されてたら、色々といたたまれないに決まってるでしょう?」

「ええ、理にも悪いと思ってます。でも怪我したのはわたしの責任ですから」


「なんて都合のいい解釈…」


「理の怪我が完治したら出て行きます。だから今は色々とご面倒おかけするかもしれませんが、今後ともよろしくお願いしますね?」


──!


「話しにならないわよ!」


──「あちっ」


「…というかセンセ、あなた話し合う気ないでしょ?」



 

「え、ええと…ごめんなさい?」

「………」

「…はぁ」

 

 

 

 

「話、終わった? 理くんのごはん、できたんだけど…」

「ごめんね美都子ちゃん。食事まで用意してもらっちゃって」

「いいよ、ついでだもん…。じゃ、あたし運んでくるね」


──バタン……。

 

「というわけで、すいません。理の食事の時間なので、この辺で」



 

 

 

「はぁ…」
「…お疲れ~」


「あ…それで、澤嶋さん。実は一つ、大変厚かましいお願いがあるんですが…」


「…なによ?」


「お宅のお風呂、貸していただけないかしら? 理、しばらく銭湯通いは無理だから」



 

「な、な、な…なななななっ!?」


「あ、すいません、やっぱり無理ですよね。せめて洗髪してあげたかったんだけど…」


「しかも一緒に入る気満々!?」


「それは仕方ないです。怪我したのはわたしの責任ですから」


「なんて好都合な真実…」

「あ、あ、あ…あなたねぇ…っ」


「…駄目でしょうか? 体拭くだけだとどうしても限界があるので」


「少しは退きなさいよっ!」



 

「負け負け。あたしらの負け。せめて水着着用とかそっちで妥協しなさい」

「う、う~、ううううう~」


「考えてみてくれませんか? もちろん水道代やガス代は負担しますので」


「それ以上言わなくていいからっ! 勝手に使いなさいよっ!」


「あ、ありがとうございます。良かった、理も喜ぶと思います」



 

「は~、はぁ~、はぁぁぁぁ~…だ、駄目、限界…」


「それじゃ、一度部屋に戻ります。また8時頃伺いますので」



 

「ね、センセ。ちょっと聞きたいんだけどさ…」


「はい?」


「あなたがそうやって、なりふり構わず理くんの面倒を見るのはなんでかな?」


「だからそれは、わたしのせいで…」


「元妻っていう義務感? 怪我の責任を感じて? 捨てた男への罪滅ぼし?」


「え…」


「それとも…それ以外の何か?」


「………」


「ちょ、ちょっと…?」

「答えらんない?」


「そうですね…」


「………」


「全部乗せで…お願いしようかしら?」


──バタン……。

 

 

 

 

「な…」

「…ふぅ」

「なんなのよ、あれ…」

「やるねぇ…センセ。あんな肝の据わった人だと思わなかった…」

 

………

 

 

……

 

 

 

 

「はい、両手を挙げて…」
「あ、ああ…」


素直に従って両手を挙げると、麻実は僕の服を脱がせてくる。

いきなり、麻実に部屋から連れ出されて、姫緒さんの家の脱衣所にやってきたんだけど…。


「ね、ねぇ…麻実。これって、どういうこと?」
「毎日、体は拭いてるけど、頭はご無沙汰でしょ?」


説明をしながらも、麻実は僕の服を一枚一枚脱がしていく。


「だから、澤嶋さんにお願いしたら、快く貸してくれたのよ」
「そ、そうなんだ」


『快く』と言ったが、麻実の押しに負けて渋々貸すと口にした姫緒さんの顔が容易に想像できる。

これは、姫緒さんにお礼を言っておかないと、後で何を言われるか分からないな。


「って、下はいいから! そこは、自分で脱ぐから!」


若干の痛みを伴うかもしれないけど、麻実にズボン、ましてや下着まで脱がされたとしたら、それこそ心に痛みを感じてしまう。


「そのままだと、ギプスが濡れてしまうから、ラップで巻かなくちゃいけないのよ?」
「そ、それも平気! なにせ、生まれてこの方、何度も骨折は経験済みだからね! はははははっ!!」
「ちょ、ちょっと、そんな話、一度も聞いたことないわよ。理~」


どうして、こうなってしまったのか分からないけど、久しぶりに頭を洗いたいし、ここは場所を提供してくれた姫緒さんに感謝しつつ、入ることにしよう。


……


「はぁ~、生き返る~」


バスチェアーに座り、シャワーを頭から浴びる。

一定の強さで絶え間なく流れてくる水は、程よく頭と体に温かさと刺激を与えてくる。


「こうしてお湯を浴びるだけで幸せを感じるのは、日本人だからかな…」


本当は湯船に浸かりたいけど、それはギプスが外れるまではお預けだ。


「どう? 久しぶりにお湯を浴びる気分は」


曇りガラスの扉を一枚隔てて、麻実が訊ねてくる。

シャワーが流れる音を聞いて、麻実は再び脱衣所に入ってきたんだろう。


「いい気持ちだよ」

「そう…」

「あ、麻実!? 何してるんだ?」


ガラス越しのシルエットに見えるのは、脱衣をしている麻実の姿。

なんだか、いけないものを覗いているような気がして、そこから顔を背ける。


「わたしも入るのよ。もともと、あなたの頭を洗おうと思って、一緒に来たんだから」

「だ、だからって、恋人や夫婦ならともかく、一緒に風呂なんて…」


「じゃぁ、お邪魔するわね」

「あっ、ちょ、ちょっと。麻実…!」


僕が止める間もなく、麻実は語尾に音符かハートがつきそうな声で、浴室に入ってきた。



 

「ふふっ…少し、恥ずかしいわね」


目の前にあるのは、少し小さめのバスタオルだけを身に纏った麻実。

胸元から太股だけをかろうじて隠しているようで、裸体よりも別な魅力というか、見ているだけで気恥ずかしい感じになってしまう。

「やだ…そんなに、まじまじと見ないでよ」
「ご、ごめん…」


怪我をしていようと、僕は男という生き物。

裸に近い女性がいたら、そっちを見てしまうのはしょうがない…。

言い訳をしているわけではなくて、ええと…

そういう魅力が麻実にはあるということで…。

って、僕は何を考えているんだ。

うん、そう、頭を洗わないと。清潔第一。煩悩退散。


「じゃあ、頭から洗うわね」
「いいって。両手は使えるんだし、頭くらい洗えるよ」
「人にこんな格好させておいて、理はわたしに出て行けって言うの?」
「僕は何も頼んでいないんだけど…」
「もし、このままでいて風邪でも引いたら、どうしよう。きっと悪化して、倒れて、病院に運ばれて…。あっ、でも、その場合は理が看病してくれるわよね」
「まだ濡れてもいないんだし、すぐに服を着れば…」
「理は優しいから、ご飯を『あーん』って食べさせてくれて、温かいタオルで全身を拭いてくれて、それからトイ…」
「あ、ああ、そうだ! 今日は、麻実に頭を洗ってもらおうかな」


これ以上、引き延ばしていたら、麻実はとんでもないことを口にしてしまいそうで、僕はそれを防いだ。

結局、こうなってしまうと、麻実には勝てないんだよな。


「始めから素直に、そう言えばいいのよ…。はい、それじゃあ洗うわね。……ふふふんふふ~ん♪ ふんふふふふ~ん♪」


髪全体、毛根の隙間までしっかりと濡らすように、麻実はシャワーを当てつつワシャワシャと指の腹で頭を撫でてくる。

挙句、鼻唄までうたい始めたりして、そんなに僕の世話をするのが楽しいのか?


「シャンプー、泡立てるから、目に入らないように気をつけてね」
「はい…」


気をつけるのは麻実だろ、というツッコミは放棄して。

僕は素直に頷いて目を瞑る。


「う~ん…。やっぱり、何日も洗ってないと、泡立ちが悪いわね…。ふんふんふ~ん♪ ふふんふふ~ん♪」


鼻唄をさっきのフレーズから続けて、楽しそうに頭を洗ってくれる麻実。

短い期間ではあるけど、頭皮に溜まった汚れを隅々まで取り除くように、丁寧にゴシゴシとゴシゴシと。

力加減がなんとも言えず、その心地良さに身を委ねてしまう。


「どう? 気持ちいい?」
「うん。これなら、教師じゃなくても、美容院とかでも働けるんじゃないのか」


まぁ、美容院になんて行ったことはないけど。


「それは…どうかしら」
「えっ…?」



「…理だから、こんなに一生懸命になれるのよ」

 


麻実は小声で何か言ったものの、頭をこする音が邪魔して、ちゃんと聞き取れなかった。


「ごめん。何?」
「なんでもないわ。ほら、流すから、口も目も閉じて」


有無を言わせず、急にシャワーを流し始めるものだから、僕は黙るしかできない。

泡を全て流し終わると、乾いたタオルで頭を拭いてくれる。

清涼感を覚え、ついでに眠気もやってくるが、ここで寝てしまうわけにはいかない。


「よしっ、頭は終わり。痒かったりする部分はない?」
「ああ、平気だよ。ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、次は背中を洗うからね」
「…お願いします」


やっぱり体全部を洗う気だったか…

麻実は、垢すりタオルを手に取ると、ボディーソープをつけて泡立てる。


「ふふんふ~ん♪ ふふんふんふ~ん♪」


ゴシゴシと、いかにも背中を洗っている効果音と共に、麻実の鼻唄が響く。

これもまた、頭と同じように力加減が良くて、身を委ねたくなってしまう気持ち良さ。


「ふふぅ~ん♪ う、ふん…ふふぅ~ん…♪」


気のせいだろうか。

鼻唄の中に怪しい声が混じってないか?



 

「んんっ…はぁ、はぁ…んんっ…」
「あ、麻実…?」
「んっ? な、なあに…? ふ、んっ…」


何と言われても、こっちが何と聞きたくなってしまう。

一生懸命洗ってくれるのは嬉しいけど、途中から声色が明らかに変わってしまっている。


「ねぇ…お、理…? もしかして…んっ…力が強かった?」
「い、いや、そんなことないよ。気持ち良いくらい」
「そう…はぁ、はぁ…なら、良かったわ…」


どこも良くない。

男には男の事情というものが…

だけど、麻実は別に下心があるわけではなくて、僕のために一生懸命なんだから、やめて欲しいなんて言えない。


「こうして…一緒に、んっ…お風呂に入るなんて、初めて、ね…」
「あ、ああ、そうだね…」
「これでも…何度か…あっ…入ろうとしたのよ?」
「そ、そうだったんだ…」
「でも…んっ…いざとなると、勇気、が、持てなくて…はぁ、はぁ…あなたも、お風呂に入る時は、結構あっさりしてたから…んんっ」
「そ、そうだったっけ?」
「そう、よ…もう少し、強引になれば…んっ…良かったかしら…」
「う、うん…」


別れたとしても、麻実が魅力的な女性であることに変わりはない。

そんな女性とこんな状況になってしまったのなら、生返事しかできないのは当然のこと。


「もし…はぁ…わたしがお願い、したら…一緒に、入ってくれた…?」
「き、きっとね」


一緒に入ってもおかしくない関係だったんだから。

でも、麻実は、こんなに積極的だっただろうか。

こういうことについては、自分から積極的になるタイプじゃなかったような気がする。

これも『二年』という、長いようで短い間に、麻実の中で何かが変わったからだろうか…?

いや、今回は責任感が勝ってしまっただけなのかもしれない。きっと、そうだ。


「はぁ…はぁ…はぁ…どう? 気持ちいい?」
「そ、それ、さっきも聞いた」
「そう…だっけ? ふぅんっ!」


先程よりも妖しくなってきた声に、全身に熱が回り始めてしまう。

これは、お風呂に入っているからだけではない。

もちろん、それだけならいいんだけど…。


「はぁ、はぁ、ふぅ、はぁ…」


息が切れるのなら、どうして手を止めて深呼吸をしないんだろうか。

なんて質問が浮かんでくるわけでもなく、気を沈めることだけに集中する。


「…木曽川、宮川、揖斐川長良川矢作川土岐川…」


故郷を思い出すのは、素数だと途中からわからなくなるし、答えが合っているのか定かではないから。

しかし、これならば間違いなど出てくるはずもなく、いくらでも思い出せる。


「…恵耶山、伊吹山、養老山、笠ヶ岳槍ヶ岳…」


これで、なんとも言いがたい状況から開放される。

と、思ったんだけど…



 

「それじゃあ、次は前を洗うわよ。タオル、邪魔だから取ってしまって」

二度あることは三度ある。

性懲りもなく、麻実は僕の前へと手を伸ばす。


「さ、さすがに、こっち側は自分でやるから!」
「だめよ。これまでは気にしないでいたけど、ちゃんと拭いていたのか見てないし、汚れているんじゃないの?」


これまでは勘弁してくれてたものの、今回は食い下がってくる。


「そんなことないって。僕だって、いくらなんでも非衛生的なものは好まないから」
「あなたって、たまに嘘をついたりするから怪しいのよ。足の付け根なんだから、綺麗にしておかないと、足が腐ってしまうかもしれないわよ」


僕の背中から身を乗り出して、子供のじゃれあいのようにタオルに手を掛ける麻実。

そんなことをしてしまうと、たった一枚しかない布越しに、麻実の体重や感触が背に伝ってくる。


「こ、この程度のことで、そんな大袈裟になるはずがないから!」
「人生、何があるかわからないものよ。わたし達が再会したみたいに」
「それとこれとは、話が全然違うって」
「いいえ、同じことよ」


麻実がタオルをとろうと動くほど、僕はそうさせまいと身をよじるほど、柔らかな体を強く感じてしまう。

もう、これ以上は耐えられない。

おかしな方向へ進む前に、なんとか逃げないと。


「さぁ、早くそのタオルを取って、綺麗にするわよ」
「だ、だから、ここだけはダメだって!!」


ヒラリと面積の小さなタオルが取られそうになってしまい、思わず勢いよく背中を起こしてしまう。


「きゃっ」


すると、当然のことながら、麻実はバランスを崩してしまい…


「麻実!!」


麻実の安全を確認しようと振り返ると、タイミングよく、ハラリと麻実の体を覆っていた布が落ちてしまった。



 

「…っ!!」


本当は、ギュっと目を瞑ったつもりだった。

だけど体は素直で、麻実の体を凝視してしまっていた。


「みず、ぎ…?」



 

「はぁ~あ。バレちゃった。最後まで楽しめると思ったんだけどな」
「…もしかして、僕の反応を見て楽しんでた?」
「楽しんでたわけじゃないけど、ひたすらこっちを見ないように頑張ってる理を見てるのは、面白かったわよ」
「楽しいも面白いも変わらないって…」


麻実がバスタオル以外に肌を隠す布を着ていてホッと一安心。

しかし、どこか胸の片隅で残念だという気持ちがあるということは否めない。


「水着を着てるんなら、せめてそれを教えてくれれば良かったじゃないか」

 

 

 

「わたしは別にバスタオル一枚で良かったんだけど、他の人達が、せめて水着でもいいから身に着けなさいって言うから…」


他の人達というのは、きっと夏夜さんや姫緒さんのことだろう。

僕と一緒に風呂に入るなどと、麻実がトコに言うはずがないし…。

得に夏夜さんなんて、普段ならからかって、もっと別のことを仕掛けてきそうではあるけど、今回については素直に感謝したい。



 

「もしかして…期待、してた?」
「バ、バカなこというなよっ!」


からかわれたことに怒っているわけではないけど、居た堪れなくなった僕は、浴室から出ようと起立した。


──!!

 


「~~~~~~~~~~~~~っ!!!!!!」

 


しかし、それが間違いで、思い切り右足をついてしまい、電撃のような激痛が足だけでなく全身を駆ける。

 

 

 

「ちょっと、理! 大丈夫!?」

「~~~~~~~~~っ!!!!」

「もう、何やってるのよ…。もっと足を大切にしなくちゃダメでしょ」


原因は明らかに麻実にある、と言いたいけれど、足の痛みで声を出せない。


「これで悪化なんてしたら、お風呂禁止になっちゃうし、怒られるわよ」

「~~~~っ!!」

「まぁ、でも、ギプスが取れる時期が延びれば、それだけお世話ができるってことだし…。それも、悪くはないのかしら」


人が不幸に見舞われているのを我慢しながら、ゆっくりと腰を下している間に、麻実は一人で会話を進めている。


「あっ、思ったより綺麗だけど、しっかりと洗わなくちゃいけないわよね。これくらいで、いいかしら…。理、シャワー掛けるわよ」
「あ、ああ…」


渾身の力を振り絞って返事をすると、肩からお湯が体に沿って落ちていく。

体が冷えていたのか、とても温かくて、痛みを和らげてくれるみたいだ。


「これで、全身綺麗になったわね」
「ありがとう、あさ…っ!!」


どうして気がつかなかったんだろう。

痛みに悶絶している間に、体の全面を洗われていることに。


「どうしたの?」
「………」


羞恥心のあまり、顔を合わせるどころか、声も出せない。

今度は、右足に細心の注意を払いながら立ち上がる。


「ちょ、ちょっと、理…!?」


──ガラ、ガラ……。


中越しに麻実の声が聞こえるけど、僕は気にせずに浴室から出ることにした。


「少し、からかいすぎちゃったかしら…? でも、うぶな理が見られたのは、ちょっとラッキーかも…ふふっ」


………

 


……

 

 

──バタン……。



 

 

「あ…」


「美都子ちゃん…本当にごめんね、毎日」
「だから、ついでだって」
「本当はわたしが作れればいいんだけど…」
「仕方ないって。みんな言ってんじゃん。今、本当に大変なのは先生なんだからさぁ」
「せめて材料費だけでも出させてもらえないかな? このままじゃ申し訳なくて」
「いらない。理くんはあたしの保護者だから。あたしが負担するのが正しいから」
「え…」



 

「先生の分も置いてあるから。冷めないうちにどうぞ」
「美都子ちゃん…?」
「あたしも食べてくるから。じゃね」
「あ…ありがとう。それじゃ、いただくわね?」



 

「うん…ごゆっくり」


………

 

 

 

 

「………ごめん」

 

………

 

 

……

 

 

 

 

 

 

「…あれ?」
「人の家の台所をジロジロ覗かないの。さもしいわね」
「大家さん…さっきご飯作ってたよね?」
「それが?」
「何も残ってない…」

 

 

 

「えええっ!? わたしの夕食はぁ!?」
「さもしいよ姫様…。あんたは早く家に帰れ」


………

 

 

 

「っ……もうやだ…おなか、痛い…」

 

………

 


……

 

 



 

「長谷川さん」


「は~い」


「陽坂さん…は体調不良で欠席だそうです。本田さん」


「あ、はい! …どうしたのかなトコちゃん? 昨日までは普通だったのに」

「こっちはまだ何もしてないのに」

「…は?」


「………なぁ長谷川。俺、早退するから先生に言っといてくんない?」

「今すぐ自分で言え。目の前にいるでしょ」


………

 

 

……

 



 

 

「まだ痛む?」
「ん…」

 

 

布団の中のトコの顔はまだ少し青く、額には脂汗が、何度拭いてもにじみ出てきている。

 


「…ごめん、トコ」
「何、がぁ?」
「いや、その…」
「あたしが勝手にお腹壊したのに、理くんに謝られる筋合いはないなぁ」


今朝、麻実が出勤する時間になっても、トコが起き出してこなかった。

何度かノックをしても返事もなくて、仕方なく扉を開けてみたところ、お腹を押さえ、固く目を閉じうずくまっていたらしい。


「えっと、だから…最近、自分のことばっかりで、トコの体調が悪いの、気がつかなくて」
「気づかなくて当たり前だよ。今朝になって急に痛くなったんだもん」


自分の部屋でその状況を聞いた僕は、松葉杖なしでいきなり立ち上がり、アルプスにまで響きそうな悲鳴を上げてしまった。


「それにさ…トコがこうして苦しんでるのに、全然役に立たなくて、さ」
「そんなこと、ないって。側に誰かいるだけでも安心するんだから、さぁ」
「…そう言ってくれると、少しは嬉しいかな」
「ううん、嬉しいのはあたしだから。ありがとうね、理くん」
「感謝されてもなぁ…どうせ長期休暇中だから」
「そういえばそうだったね…理くん、今戦力外だったもんね」
「自虐は自分で言うからネタになるのであって、人にしみじみ言われると泣くから本気で」
「あはは…ごめぇん。せっかく再就職したのに残念だったねぇ」
「まだ解雇されてないよぅ!」
「あははは………ぁぅっ!」
「ご、ごめん! 痛む? どこ?」


というわけで今、トコの側にいるのは、おかゆも作れない、病院にも連れて行けない、役立たずにもほどがある保護者が一人だけ。

まぁ、いざとなったら一号室から三号室の住人がいるけど、彼らに頼るのは、本当にいざとなった時だけと決めている。


「だ、大丈夫…お腹だから。盲腸じゃないから…多分」
「だからって大丈夫なわけないだろ!」


何しろ、少なくとも僕が大丈夫じゃない。

ほら、胃が痛くなってきたし。


「っ、っ…っ、い、痛くない、痛くない、からぁ」
「喋らないでお願いだから…」


うずくまって固く目を閉じるトコの、汗を浮かべた額や髪に触れ、情けなくもオロオロするしかない。

行動範囲も限られ、そもそも看病慣れしてなくて、トコの痛みを自分で引き受けることもできなくて。


「何か、僕にできることないかな?」
「何か…って?」
「何でも言って。…何もできないけど」


トコの苦しみを、全部僕の右足に集約できればとか、そんな益体もないことを考えるけど…

そう考えると、僕の右足も望みどおりキリキリと痛んでくるからやめよう。


「それじゃあさ…あのね…さすって」
「え…?」
「あたしがお腹壊したとき、ママがね、してくれてたの」
「な、何を?」
「だからぁ…お腹をさすって、あっためてさぁ…」
「さ、さするって…手で?」
「足は嫌だなぁ…」
「そういう意味じゃなくて…僕の?」
「自分でやっても駄目なんだよねぇ。なんでだろって思うんだけどさぁ」


それは多分に精神的な問題で。

そもそも、今の腹痛そのものも、もしかしたら精神的なものかもしれない現状では、確かに『気休め』という行為は有効かもしれなくて。

でもそれは…

要するに、僕の手が、トコのお腹に…?


「どれだけ痛くて、泣いててもさぁ、ママがさすってくれると、10分もしないうちに寝ちゃっててさぁ」

「トコ…」

「ね? だからお願い。あたしを、楽にさせてよ」
「う、う、うん」


その、トコの上目遣いの『お願い』に、ようやく僕は覚悟を決める。



 

痛そうに押さえているトコのお腹に、ゆっくりと手を差し伸べて、まずは軽く触れる。

そのままゆっくり上下に動かし、トコの痛みが散るように、心に念じる。


「って、何やってんの…」
「いや、さすって…」
「そんなの意味ないじゃん」


トコは、『布団の上から』触れた僕の手に、病人特有でないかもしれない冷たい視線を向ける。


「気休めには…」
「なんないって」
「そ、そう…?」


僕にできる精一杯の医療行為をあっさり否定され、意気消沈する僕の手を、汗ばんだトコの手が握る。


「こうしてくんないと、楽になんないよ」
「あっ、ちょっ、ちょっと! 駄目だってそれはああああ!」

 

 

 

「んしょ、と」
「ふあぁぁぁぁぁぁっ!? や、やらかっ! じゃなくてトコ!?」


右手を布団の中に引きずり込まれ…

ここからは見えないので想像で語らせてもらうけど、はだけたパジャマの中に、僕の手のひらが差し込まれる。


「ん…ふぅ」
「あ、あ…」


初めて触れた、トコのお腹(多分)は、僕の手がひんやり感じるほど冷えていたけど、その柔らかさと滑らかさは、想像の遥か上を行ってたり。


「あったか…理くんの、手」
「トコ…」


そんな、ありえない感触に呆然とする間もなく、僕は、自分でも気づかないうちに、ゆっくりと、トコのお腹をさすり始める。

とにかく今は、トコを少しでも楽にさせてあげたいという、保護者の本能が働いたのかもしれない。


「んふふ…くすぐったぁ」
「ご、ごめん…」
「ふぅぅ…はぁぁ…しばらく、そうしててね」
「…うん」


トコのお腹の体温と、僕の手のひらの体温が、ゆっくりと混ざり合い、お互いぬくるなっていく。

僕の手のひらが、マシュマロのように柔らかくて、絹のように滑らかで、多分、雪のように真っ白な、トコのお腹を行ったり来たりする。


「まだ、痛む?」
「ん…ちょっとね。でも、少し楽になったかも」
「そっか…よかった」


時おり、親指の先が、トコのおへその穴にはまり込み、これが女の子の身体なんだって思い知らされるけど、それでも精神を集中し、必死で体温を送り込む。

…そもそも、この程度のことで照れてるようじゃ、保護者失格だよな。


「ん、んふぅっ…ぁ、ぁぁ」
「ご、ごめん! 変なところ触った!?」


でも、こうして時々妙な声を出すトコだって悪…

いや、そういう責任転嫁はやめよう。


………

 

……

 

 

 

 

 

 

「へぇ…理くんも?」
「『も』なんてものじゃなかったよ。小学生の頃なんか、一週間に一度は必ず」
「そ、そんなに?」
「毎週木曜日がごはん給食でさ」
「あ~…」


今にして思えば、ここで克服しておくべきだった。


「木曜の朝は、目が覚めたら大抵パジャマは汗でびっしょり。で、必ずこの辺りがキリキリ痛んでさ」


布団の外にある左手で、自分の下腹部辺りを撫でてみせる。


「…この辺り?」
「うぁぁっ!?」


と、トコの手が、僕の右手を同じところに持っていく。

…もちろん、僕のじゃなくて、トコの。


い、今、何かパジャマとは別の布に触れたような…


「でもさぁ、それじゃ毎週休んでたの?」
「『お昼で早退』って手を覚えるまではね」
「なんじゃくもの~。…って、あたしも人のこと言えないか」
不登校にならなかっただけよかったと思うようにしてる」
「そか…」


あの頃の僕は、結構紙一重だったような気がする。

何しろ、いくら学校を休んだって、僕を叱る親も、心配する親もいなかった。

『休む』と一言いうだけで、お手伝いさんが学校に連絡し、お昼ご飯にスパゲティを用意してくれてはいたけれど…


「で、不思議なんだよね。休むって決めた途端に、急に元気になってきて」
「あ~、あるある。お昼前にはもう起き出して来ちゃってさ~」
「遊びに行くのはさすがに気が引けるけど、家の中で暇を持て余して」
「普通にテレビ見てるとママに怒られるんだよね。でも『寝なさい』って言われても、ちっとも眠くなくって」
「あはは…わかるわかる」


と言いつつ、実はちょっとだけ齟齬がある。

僕は、そこで怒られた記憶なんかない。


「いつの時代でも、子供なんてみんな似たようなものだよね」
「そういうことしみじみと言わない。年よりくさいから」
「理くんと話してるとさぁ、いつの間にかそっちの年齢に合わせちゃうんだよね~」
「だからぁ、20代の青年に向かって、そういう言い方はないんじゃないかと」
「あはは…あと半年しか使えないね、その台詞」
「大丈夫。僕の会社に、自称『29歳と56か月って人がいる」
「あははははっ、往生際悪~い」
「あと十数年経てばトコだってわかる日が来るさ…」


トコの笑い声に合わせて、お腹がぴくって揺れる。

だいぶあったかくなったその素肌を、僕の手は、ずっと同じペースで撫で続ける。

いつの間にか、その手の甲に、トコの手が重ねられていたけれど、それは、僕の『医療行為』を邪魔するものじゃなかった。


「どう? 少しは楽になった?」
「そうだね、だいぶ楽になった」
「そっか、よかった」
「うん、ありがと理くん」


二人してほっとした笑顔で見つめ合う。

けれど、僕の手に重ねられたトコの手はやっぱりそのままで、トコのお腹に触れている僕の手も、やっぱりそのままで。


……


結局、トコが寝つくまで…


「…理くん?」
「………」
「あ…」


いや、実のところ、うたた寝をした僕が寝返りを打つまで、ずうっと、トコの肌に触れたままだったらしい。


………


「ね、理くん」
「すぅ…ぅぅ…」
「あたしもう、お腹、痛くないよ?」
「ん…んぅぅ…」
「でもね…今度は胸がね、苦しいの…」


………

 

……

 



 

 

「勉強会?」
「そ。ウチで。トコの快気祝いも兼ねて」
「今日?」
「別に明日でもいいよ。今週は全部空いてるって言ってたから」
「言ってた?」
「あたしの口がね!」
「にしても、どうしたの突然? 安全圏狙うから塾にも通わないって言ってたのに」
「塾に通わない者同士、一緒に頑張ってみない? ほら、トコはみんなより一足先に本番だしさ」



 

「…倫子の口から頑張るとか努力とかいう言葉を聞くと、どうしても裏の目的を探し出すのに必死になっちゃうんだけど?」
「サバ読みいくない」
「あるってば150センチ!」
「ごめん。深読みの間違いだった」
「わかってるよその程度!」
「ま、とゆ~わけで、どう? あたしとだったら、教えるばっかりにはならないと思うけど?」
「それはそうだけど…真鶴は?」
「悪いけどあの子が来たら全てが台無しだから」
「は?」
「真鶴は塾通いだからって言ったの。あ~残念だ。必死で誘ったんだけどなぁ」
「そうなんだ…」
「よし決まり。ついでに晩ごはんも食べていきなよ。帰ってから支度するの面倒でしょ?」
「あ…」
「じゃ、行こうか。とりあえずコンビニで買い出しして…」
「晩ごはん…」
「ん? どしたの?」



 

「ごめん…やっぱ無理だ」
「な、なんでよ? 別に用事ないんじゃなかったの?」
「ないといえばないけど、あたし的には大事な用時が…」
「それって…」
「ごめん。もう帰らないと。…夕ご飯の支度あるし」
「じゃあ明日は…?」
「明日も、明後日も…ちょっと…」
「じゃあ、いつならいいのよ…?」
「えっと…あと一月くらいしたら?」
「そしたらもう冬休みじゃん」
「そか…ギプス取れるの、そんな頃なんだ」
「どうしても、駄目…? あいつ、すごく楽しみにしてたんだけどな」
「あいつ?」
「あたしがあいつで、あいつがあたしだけどね」
「本当にごめん、倫子。でもあたし…帰るね」


………

 

 

 

「トコ…」

 

………

 



 

 

「あ…」

 

 

 

男性教師「待って、待ってください香野先生!」


「すいません、わたし今日は急ぎますから」


男性教師「返事を聞かせてください…一体僕は、いつまで待てばいいんですか?」



 

「あ、あの…松本先生。その、ここは学校ですから、こういう話は…」

 

「っ!? や、やばっ!」

 

──!

 

 

 

「? 気が変わった?」
「今出ちゃ駄目っ!」
「トコ…?」


……

 

 

 

男性教師「でしたら、今から食事に行きませんか?」


「食事…?」


男性教師「ええ、二人きりでゆっくり話したいこともありますし。学校を離れれば、『こういう話』してもいいんですよね?」


「………」


男性教師「じゃ、僕、車取ってきますから。香野先生は、通用門のところに…」


「ごめんなさい…やっぱり無理です」


男性教師「ど、どうしてですか? さっき、今日は夕食の買い物をして帰るだけって…」


「それはそうなんですが…わたし的には、すぐに帰るという大切な用事が…」


男性教師「それって…」



 

「ごめんなさい。もう帰らないと。あ…いいえ、別に用事はないんだけど。…ただ早く帰りたいだけで、ホントよ?」


男性教師「じゃあ、明日は?」


「明日も、明後日も…本当に用事はないんだけど…」


男性教師「い、いつならいいんですか…?」


「ええと…あと一月くらいしたら?」


男性教師「そ、それって…! もしかして…クリスマス、ですか?」


「そうか…ギプス取れるの、そんな頃なんだ」


男性教師「そ、そ、それじゃあ! 期待していいってことですか!?」


「………何が?」


………

 

 

 

 

「………」
「…なんなのあの噛み合わない会話は? 先生の上の空っぷり、酷いね」
「夕食の買い物…」
「にしても、珍しく真鶴の噂話が本当だったとは…松本が香野先生にプロ…と、いけないっ!」
「そっか…そこまでやってくれるつもりなんだ」
「な、なんだろねぇあの二人? なんかすっごく怪しい雰囲気じゃない?」
「じゃ、もういいか…あたし、もう、いっかぁ…」
「…あんたの上の空っぷりもなかなかだね」



 

「っ! えっ! な、なに?」
「何でもないことにしとく」
「…そ」
「そう」
「…ねぇ、倫子」
「ん?」



 

「やっぱ、お邪魔してもいいかなぁ?」
「うん、歓迎する。…あんたは、そっちの方がいいんだよ」


………

 


……

 

 

 

 

「あれ…?」
「どしたのトコ? あ、こっち右ね」
「あたしの記憶違いかなぁ?」
「何が?」
「倫子、もしかして引っ越した?」
「ううん、子供の頃からずっと同じ。萩守1丁目56番地。両親と弟の四人家族」
「と言いつつここ西萩守じゃん」
「…別に嘘はついてないからね」
「どういう意味?」
「それはね…」


──ピンポーン……。


「よ、よう…遅かったな。もう準備できてんぞ」

 

 

 

「へ…?」

「あたしは『自分の家』だなんて、一言も言ってなかったよねってこと」


………

 


……

 

 

「ん?」



 

「…(じぃ~)」

「う~ん…」



 

「…(はらはら)」

「これ…」



 

「…(ぎゅっ)」


「…あのさ」



 

「ど、どうしたのっ!? もしかして、口に合わない?」

「いや、そうじゃなくて…」



 

「ご、ごめんなさい! 今まで黙ってたけど、実は今日のご飯…」

「麻実が作ったんだろ?」

「ふぇぇぇっ!?」

「やっぱりなぁ…だからって、そんなにじっと見られると食べにくいって」

「ごめん! 実は美都子ちゃんが勉強会だって言うから代わりに。あ、勉強会って長谷川さんの家だって言うからまぁいいかなって。長谷川さんって会ったことあるわよね? 美都子ちゃんの親友で」

「いや、だから…」



 

「理に黙ってたのはなんとなくと言うか、わたしが作るって言ったら食欲なくしちゃうかなとか、レパートリー少なかったし美都子ちゃんに比べて腕落ちるし」
「そういうことじゃなくて…」
「…どうして気づいた、の?」
「懐かしい味…だから。僕にとってはね」
「あ…」


チーズハンバーグにプレーンオムレツにパスタサラダ。野菜スティック。バターロールとクロワッサン。


見ただけでわかった。


「だから、口に合わないことなんかない。…というか、どれも美味しいって」
「理…」


本当は、トコの作る食事の方が、世間的なおふくろの味に近い。

栄養のバランスも、手間のかけ方も、技術だって、どっちが秀でてるって聞かれれば、圧倒的にトコ。

けれど僕は、スパゲティとパンで育ち、ごはんを排除して大きくなってしまった子供だったから。



 

「理が怪我をして、わたしがここに来て、最初に打ちのめされたのが、食事だったの…」
「トコは特別だって…」


僕が言うのもなんだけど、トコの料理は、あの年齢にしてはというのを抜きにしても、見た目も味も十分すぎて、いつお嫁に行っても大丈夫。

…その姿は想像したくないけど。


「それもあるけどね…一番ショックだったのは、理が和食を食べてたこと。ご飯を…おかわりしてたこと」

 

……



 

『美都子の特製ドリア…名付けて[美都子んドリア]! …って、何かセンスないかも』


……

 

 

 

 

「食べられるようになったのは、結構最近だよ。えっと…年齢が上がって、嗜好が変わってきたのかも」
「ううん…彼女の力よ。まぁ、理が一番よくわかってるんでしょうけどね」
「………」


もちろん、僕が一番わかってるに決まってる。

最初は、米の味も食感もしない『米を使った洋食』から。

少しずつ、粒を潰さず、味を白飯に近づけて、ゆっくり、確実に、矯正していった。

地道で、そして情熱がなければできない作業。

僕のこと、本当に心配して、一生懸命心配して…



 

「わたしは、理のこと、変えられなかった。あなたが嫌な思いをしない食事を作るので精一杯だった。…今日みたいに」
「だって、それが麻実だろ? 一緒にいると、いつも心地良かったよ」


僕らは、いつもお互いを心地良く思ってた。

相手のやることを嫌だと思うことはなかったし、自分が相手に不快感を与えてるなんて、ないって思ってた。

いて欲しいときに側にいて、一人になりたいときにはいつの間にかいなくて。

触れあいたいときに手を伸ばしてくれて、キスをしたいと感じたときに、目を閉じてくれた。



 

「だから二人とも成長しなかった。ずっと、ぬるま湯に浸かって、そこから出たくなくて、何も変わらないことが一番だって、そう思ってた」
「それは、いけないこと…だったのかな?」


麻実といると、いつも心地良かった。

だからあのとき、僕は十分満足してた。


「それは、今の理に聞いてみたら? あの子に励まされて、あの子のために、どん底から必死で這い上がってきたあなたに、ね」
「………」


トコといると、辛かったり、苦しかったり、あと、痛かったり照れくさかったり恥ずかしかったりしたけれど。

だからこそ、今の僕は、こんなに、頑張って生きたいって思ってる。

この、動かない右足を早く治して、一刻も早く社会で頑張りたいって思ってる。


「昔のわたしは、今の彼女に、完璧に負けてた。あなたを変えていく力も、自信もなかった」
「僕だって、未だに勝ててない。トコは、すごいよ」


今なら、麻実が僕に突きつけた別れを理解できる。

あの頃の僕らは、一緒にいたら成長できなかった。

いきなりどん底に落ちたりはしなかったけれど、蟻地獄のように、緩慢に、沈んでいったのかもしれない。

だけど、今の麻実なら…



 

「次に作るときは、白いご飯に合うおかずに挑戦してみるわね。…美都子ちゃんほど、美味しくできないと思うけど」
「それは仕方ないって。トコだって、長年の修練の上に培った腕なんだから」



 

「そこであっさりと肯定されても悔しいんだけど」

 

………

 


……

 



 

「さすがに寒くなってきたな~」
「もう師走だもんね。…ウチでも一人走り回ってるし」
「…お前やっぱ、ちょっと年寄りくさいな」
「悪かったわねぇ、どうせ古典得意よ。あんたが一時間かけた問題だって1分で解くわよ」
「いや、悪い。陽坂にとっては時間の無駄だったな」



 

「べっつにいいんだけどね~。騙し討ちさえしなければさ~」
「重ね重ねすまん…あれ、俺が長谷川に頼んだんだ」
「あんた、スポーツ推薦決まってたんじゃないの? なんで今さら必死に勉強する必要があんのよ?」
「勉強が目的じゃないことは重々承知の上で言ってるだろ?」
「そういうこと、必死で教えてあげた人間に対して言う?」
「うん、勉強になった。ありがとう。言っておくが、このありがとうは滅多にないという意味だからな?」
「いけしゃあしゃあと…」
「時間の無駄だったってんならハッキリ言ってくれればいい。…次回までに改善しとく」
「同じ手は通用しないよ?」
「大丈夫。今度は正々堂々と誘う。…嫌じゃなかったらでいいから、また来てくれよな」
「………」
「ま、勉強と言うにはちょっと賑やかだったけどな。…ウチの母親も含めて」
「尾関のお母さん、楽しい人だね」
「あれがな、俺が女の子連れてきたからハイテンションだったと思ったら大間違いだぞ。普段からああなんだよ…」



 

「あはは、賑やかでいいじゃん」
「時々勘弁してくれとか思うときもある…俺の恥ずかしい話をところ構わずバラしやがって」
「本当にねぇ…まさかあんたが小学校高学年の頃まで…」
「そこから先は言うなぁぁぁ! 個人情報保護法に触れる危険性があるぞ!」
「じゃあ注釈をつけるね。あたしはあんたの個人情報を、あんたをからかうためにのみ使用します」
「う…」
「…人には言わないよ。倫子はどうだか知らないけどね」
「頼むぜ陽坂…こっちだって推薦を控えてデリケートな時期なんだから」
「別に小学校高学年まで親と一緒に寝てたからって、推薦取り消しにする学校なんてないって」
「言うなって言ったのにぃぃぃっ!?」
「目的通りの用法を守っておりますので~。あはは、あははははっ」
「………」
「あはははは…どしたの尾関?」
「そいや、最近見てなかったなって」
「何を?」
「辛そうにしてない陽坂」



 

「え…」
「先月のデートのときから、ずっと引っかかってた」
「尾関…?」
「あの時、俺はすっげー嬉しくて滅茶苦茶楽しかったけど、陽坂は、なんか微妙に笑ってばっかりでさ」
「そんな、こと…」
「あの日から今まで、ずっとその変な笑顔が貼りついてた。長谷川はすぐ気づいたらしい。俺は…ちょっとかかったけどな」
「倫子が…」
「だからまぁ…今日は久しぶりにそういうのとは違う顔見れたから、とりあえず母さんには感謝しとく」
「………」
「あのさ、陽坂…」
「な、なに?」
「お前、今の自分、好きか? 本当に楽しくやってるか?」
「それは………ある程度仕方ないよ」
「そっか…やっぱな」
「だってさ…もうすぐ受験だってのに。人生の最初の試練だってのにさ、あんたみたいに能天気に生きれないよ」
「受験か? 特待試験か? 本当に、それか?」
「………」
「…着いたな」
「あ…」

 

 

 

「さて、帰りは走ってくかな。引退してから運動不足気味だし」
「あ、あの、尾関…今の話…」
「陽坂!」
「う、うん…」
「また来いよ! 俺がいない時だっていい。母さんに会いに来るだけでもいいから、遠慮すんなよ!」
「え…?」
「ウチの母さんさ…正直、いい奴だから。陽坂とは仲良くなれると思うから。…甘えたって構わないぞ」
「お母、さん…」
「父さんだって、普通のサラリーマンだけど、多分、陽坂と会うとかなり照れると思うけど、胸を張って、いい親だって言えるぞ」
「………」
「じゃあ、また明日…は土曜か。また来週な! 今日より、ちょっとだけでいいから元気になれよ!」
「っ…」
「さいなら~! さぁ~て、行きますか~!」


……



 

「お…尾関!」


「お~!」


「あ…ありがとう! ちょっとだけ、元気出た!」


「惚れたか~!?」



 

「なわけないでしょ馬鹿! そんな簡単に人を好きになってたまるか~!」

 

………

 

 

……

 

 

 

 

「あはは…あははははっ! やだ、やだもう、わたしってば若~い!」


それは自慢なのか自虐なのか…


「今だって…若いよ」
「ありがと、理。でも無理しなくてもいいわよ。わたし、あなたのたった二つ下なのよ?」
「それって遠回しに僕の若さについて言及してないか?」


僕のところに残っていた、たった一枚の写真。

 

 

 

「ね、本当に借りていいの? これ」
「構わないけど…そんなの欲しいの…?」
「わたしが持ってたのは、ついこの間、全部焼けちゃったから」
「………」


そんなわけで、これが僕らの間に残った、二人が夫婦であった時代の、唯一の証明になってしまった。


「明日には焼き増ししてすぐ返す。ありがとう」


麻実は、本当に嬉しそうに、そんな恥ずかしくて痛い写真を、まじまじと見つめる。


「懐かしいなぁ…この頃、まだ"芳村先輩"だっけ?」
「とっくに呼び捨てだよ。結婚したの、つきあい始めて3年も経った後じゃないか」


ついでに言えば、一緒に住み始めてから1年後。


「そうか…積極的だったなぁ、この頃のわたし。告白したのも、はじめて部屋に泊まったのも、それに…」
「積極的というか、物好きだったよな…おかげでサークルの皆から、どれだけ恨まれたことか」
「あら? わたしだって恨まれたわよ? 理、自分が気づいてないだけで、モテてたんだから。背は高いし、カッコいいし、優し"そうに見える"し」
「どうせただの意気地なしですよ…」
「さすがに今はちゃんと自覚してるのね」
「ぐ…」


告白したのも、はじめて部屋に泊まったのも、一緒に住むようになったのも、プロポーズしたのも…

普段は引っ込み思案と言ってもいいくらいの麻実の、覚悟を決めた『居直り』が、僕らの関係を進展させてきた。


「そういえば、合コンで初めて話した内容、覚えてる?」
「覚えてるわけないだろ、そんな昔の話」


『へぇ、芳村先輩、理って言うんですか? わたし麻実だから…なんとなく似てますね』


「姓名判断に凝ってるとかなんとか言って…なんか男の人がホステスさん口説くみたいな、ベタベタなアプローチよね?」
「アプローチだったのか…?」
「そしたら理でしょ? OSAMUとASAMIって、子音同じですよねって、そこから一気に話が弾んで…」
「くだらないなぁ…」


そんな昔のことを覚えてる麻実も、覚えてるくせにそらとぼける僕も…


「ホント、今から考えるとこじつけもいいとこよね。でもあの時のわたしは必死だったなぁ…あなたの気を引こうと」
「だから物好きだって言うんだよ…」
「あなたは何でも断れない性格だったから、一度仲良くなってしまえば、後は簡単だったのよね…」
「…好きでもない女の子に迫られて断れないほど意志薄弱でもなかったけどね」
「あらぁ?」


からかうように、僕の横顔を見上げる麻実。

僕の発言の裏の意味を正確に理解して、僕の、洗いたての髪に触れてくる。

両手は使えるのに、なぜか麻実が洗ってくれた髪に。


「な~んだ、やっぱりモテてたんじゃない。こんな『ただの意気地なし』のどこが良いんだか」
「おい…」


そして、僕の発言の裏の意味を正確に理解しているのに、わざとピントの外れたツッコミでごまかす。


「ふふふ…何もかも、懐かしいわね。わたしたちが夫婦でも、元夫婦でもなかった時代かぁ…」
「麻実…」


そんな気遣いと、適度な距離感が、やっぱり僕の心と…絶望的に合ってしまう。

二人で見上げる天井。

尽きない思い出話。

いつまでも共有したくなる時間。


「でもね、いつからなのかな…。あなたの寂しさとか、脆さとか、危うさとか、だんだん見えてきて」


捨てられた、はずなのに…

まるで僕が捨てたみたいな罪悪感。


「あなたのことが、気になって、気になって…ただ好きでいるだけじゃ駄目だって」
「…僕が大学を卒業した頃くらいかな。なんだか、麻実が今までより強くなった気がした」


僕に対して、少し増えた干渉。

意見が食い違ったときも、最後の最後で引かない意志の強さ。

慣れない、初めての仕事で疲れ果てて帰った僕を、優しく癒し、けれど叱咤激励もする真面目さ。


「ずっと一緒にいなくちゃ心配だったから、結婚するしかないって思ったのよね…」


今までとは少し違ったけれど、それでも彼女の与えてくれる空気の心地良さは、一つも変わっていなかった。


「家庭を持って、子供を産んで、育てて…。そうしたら、理は普通に子供好きの、わたしが望むお父さんになれるかなって」
「………」


麻実は、普通に子供が好きだった。

本当にそんな普通の理由で、教育学部を卒業して教員免許を取っていた。


「けど…先に音を上げたのはわたしの方だった。…酷いものよね。裏切りもいいとこ」


結果として、彼女のそんな素朴な頑張りが、こうして僕と別れた今、実を結んでいるのも何かの皮肉か。


「なぁ、麻実…」
「ん?」


でも僕は、聞かずにはいられない。


「子供が生まれてれば…。僕が父親になっていれば…」


それは、二人が出逢って、なんとなく恋に落ちて、彼女の望み通り結婚して、そして彼女の望み通り離婚して、再開して、仲直りした今でなければ聞けない質問…


「僕らの関係は…変わってたのかな?」


だったんだけど…


「それは、意味のない仮定よ」
「………」


結局、そんな僕の勇気を振り絞った問いかけは、十分に麻実の想定内だったらしかった。


「そろそろ寝るわね。おやすみ…」
「あ、ああ…」


……



 

 

麻実は、僕に、人が人を育てる現実を与えたかったんだろう。

なぜなら僕は、自分が育つ過程で、そういうものを見てこなかったから。

人の痛みを知らない人間が暴力を振るうように、命の大切さを知らない人間が自分の命を断つように。

僕が、歪であることに気がついて、お節介にも、なんとか矯正し、僕を幸せにしてやろうだなんて、思ってたんだろう。

でもそんな高すぎた志は、自分の重さに耐えきれず、そして一度折れた心は、二度とは力を取り戻せなかった。


………


と、まぁ、それはともかく…



 

 

「麻実、おい、麻実…」
「ん、んぅ…」


そのまま眠ってしまった麻実の頭が、僕の胸の上で呼吸困難を与えてくれている。


「起きろよ、おい、ちょっと…少しでいいから目を覚まして…」
「ごめんなさぁい…もうダメ、疲れちゃった。続きは明日にして……」
「元気だったらいいのかっ! 明日だったらいいのかよっ!?」


………

 

……

 

 

 

 

『お、お、おい、麻実…どうしよ、どうしよ? 泣きやまないぞ!?』
『だ~か~らぁ、あなたが泣きそうになってどうするのよ?』
『け、けど…どこか痛いのかも…やっぱり医者に診てもらった方が』
『この程度のことでみんな病院に行ってたら、小児科は十時間待ちね』
『こ、こんなに辛そうなのに?』
『ほら、たて抱っこして。うん、そう。で、背中ぽんぽん』
『く、首、大丈夫かなぁ?』
『もう据わってるわよ。ほんっと、あなたって臆病なんだから』
『だ、だって、だってさ…こんな小さくて、すぐに壊れそうじゃないか。何かあったらって思うと…怖いよ』
『赤ちゃんなんだから当然でしょう。この子はね、わたしたちがいないと生きていけないの』
『僕、たちが…』
『だから、一生懸命育てていかないとね。これからは理、あなたにも頑張ってもらうからね?』
『…僕は一生懸命働いてお金を入れる係ってのはどうかなぁ?』
『駄目よ! お風呂とお散歩はパパの係。ちゃんと毎日やってもらいますからね』
『お、溺れたらどうするんだよ…そんなの、自信ないって』
『頑張って、パパ。一つずつ、克服していきましょう?』
『そ、そんな………あ』
『あら…いつの間にか寝てるわね』
『あ、あ、ああ…』
『ふふ…ほうら、パパがお気に入りみたいよ、この子。わたしだと結構むずがるんだから』
『あ…あは…』


………

 

……

 

 

 


そんな未来が…


あるって想像して、萎縮して、恐怖して…

そして、それでも心待ちにしてた頃が、僕にもあったっけ。


『ごめん…違ってた。できてなかった』
『え………あ、そ、そう…なんだ』
『………』

 

……

 


──ガチャ……バタン……。

 

……

 

 

「お~き~ろ~! 理くんも、先生も~!」


──カンカンカンカンッ……!

 

 

 

「うわぁっ!?」

「え? …え? え?」



 

「もう8時だよ~! いくら日曜だからって、いつまでも寝てないの~!」


「な、な、な…」


夜中に何度か息苦しくて目が覚めた僕は、窓から入り込んでくる柔らかな冬の朝日にすら、目が潰されそうな光の強さを感じてしまう。

さっきまで見ていたはずの夢は、完全に吹き飛ばされ、過去の記憶とただの夢と、そして現実が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。


「み、美都子ちゃん…? な、なに、どうして…」


けれど、そんなことよりも、今、僕らに大きな驚きを与えたのは…

 

 

 

「布団干すから散歩にでも行って来なさい! 戻ってきたら朝ご飯ね」

「トコ…」


元気いっぱいな、トコの怒鳴り声、だったわけで。



 

「ほら、先生、理くん連れてって。少しくらい運動させとかないと、ギプス取れてからが大変だよ?」

「え、で、でも…いいの?」

「お布団干すくらいやってあげるよ。大家なんだからさ」

「ええと、そういう意味じゃなくて…」

「トコ…もう、大丈夫なのか?」

「何が?」


だって、ここ最近、トコの元気な声を聞いたことがなかった。


「いや、その…この間休んだばかりだし」


僕が、トコを怒らせなくなった訳じゃない。

だって、この怪我だって、十分に逆鱗に決まってる。

麻実のことだって、何発ひっぱたかれてもおかしくない。


「あんなの大したことないもん。きっと前の晩食べ過ぎたんだよ」

「そうなの…?」



 

それなのに最近のトコは、少し顔を歪めるだけで、後は曖昧に微笑んで、僕の知っているトコじゃないみたいな表情を見せていた。

トコが望まない方向に大人になってしまったみたいで、寂しさとやるせなさを感じていた。


「ほうら、人の心配よりもまず自分の心配! 筋肉なくなってガリガリになるのも、動かず食べてばっかでデブデブになるのも御免だからね~」

「わ、わかった、わかったから…着替えさせて」

「怪我人なんだからパジャマで十分。はい、出てった出てった」

「そんなご無体な~!」


「あ、あの…わたしの方がはさすがに着替えさせてね?」


………

 

『いいよあたし…もう、理くんの娘でいいよ…』


そして、そんなトコの変化は、もしかしたら僕のせいでもあったかもしれないって、考えたくない可能性まで、頭に浮かんでいたんだけど…


………

 

 

 

「行ってらっしゃ~い! 30分はたっぷり歩いておいで~。先生と二人三脚でさ~」

「っ!?」

「トコっ!」



 

「あっはっは~。いい天気だね~」


……

 

「杞憂、だったのかな?」
「…何が?」
「なんだか半年前のトコみたいだなぁって」
「半年前…? あなたがこの街にやって来た頃?」
「仕事もなくて、自信もなくて…そんな僕の尻をいつもひっぱたいて、元気づけてくれた頃、さ」
「そう…」


杞憂だったなら、こんなに嬉しいことはない。

明るく、元気で、いつも一生懸命で…

そんなトコが、僕は一番好きだから。


「さ、それじゃ行きましょうか、理。寒くない?」
「ああ、大丈夫。それより、麻実の方こそ大丈夫か?」
「ん? 何が?」
「…いや、なんでもないよ」
「そう…」


誰が見てるかもわからない往来で、ごく自然に、僕の腕を肩に回し、背中を支えてくれる。

だから僕も、これ以上照れずに、今の状況を嬉々として受け入れよう。

 

………



 

「世話が焼けるなぁ………あの、二人もさ」


………

 

……

 

 


──キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン……。

 

 

 

 

「え?」
「だからお願い。今日の理くんの晩ごはん、また頼めないかな?」



 

「い、いいの!?」
「…あたしが頼んでるんだけどなぁ」
「で、でも…台所権はどこの家でもデリケートだし」
「あたしを『芳村のお母さん』みたいに言わないでよ鬼嫁」
「鬼じゃないでしょ鬼じゃ!」
「嫁の方は否定しないんだ」
「そうやって大人をからかうんじゃありません」
「よく言うよ居候が」
「おかわりなんてしてないじゃないの…」



 

「あははははっ…先生ってホント、ノリがいいよね。生徒相手にマジになっちゃってどうするのって」
「美都子ちゃん…?」
「で、話は戻るけどさぁ…理くんの晩ごはん」
「あなたがいいって言うなら、台所、貸してもらえるかな?」
「うん、任せた。今の理くん、好き嫌いないからさ、遠慮なく納豆とクサヤと鮒鮨で攻めてもいいよ?」
「それわたしが無理だから。特に最後の」



 

「あは、それじゃあね。今日はちょっと遅くなりま~す!」



 

「ちょ、ちょっと! そんな大声で危ないこと…」


……

 

 

 

 

「本当に、マジにならなくていいの? あなたは…マジじゃないの?」

 

………



 

「さ、お待たせ! ちゃちゃっとやっちゃおうか~」

「ちゃ、ちゃちゃっと…?」

「何人よあんた…」

「あ、あれ…? なんだっけこれ? 姫緒さん? それとも理くん?」

「それはともかく…これで真鶴にもバレたわよ?」

「何が?」

「先生、家事の後、どこに住んでるのかなって思ったけど…そっかぁ、旦那さんのところだったんだね」

「…あんたたち本当にちゃんと掃除してた?」

「そっかぁ…松本先生がプロポーズしたのに、あれから進展がなさそうなのはそういう訳かぁ」

 

 

 

「っ!? ちょっと真鶴! それ誰にも秘密って!」

「…あんた本当にこの間は上の空だったのね。あたしならとっくに知ってるわよそんなこと」

「…そういえば倫子。さっき『真鶴にも』って…?」

「あたしの情報収集能力と情報操作と裏工作を甘く見ないことね」

「最後のは最近とみに実感させられてるけど」

「え? え? 二人の話、頭良すぎてよくわかんないよ~」



 

美都子&倫子
「真鶴にわかられたら困るから」


「え? え? え?」


「それはともかくさぁ…みんなは、どっちに乗る?」

「え…」

「どっちって………ああ、松本先生と旦那さん?」

「若さで松本、過去の因縁で旦那さん…。先生にとっては、どっちが幸せだと思う?」

「り、倫子…」

「胴元はマズいよ倫子ちゃん…」

「あんたがあたしを普段どういう目で見てるかわかった」

「少なくともわたしに優しくないよね。なんとなくだけど」

「あっちゃぁぁ……気づかれてるし」

「その話は後でゆっくり決着つけるとして、あたしが言ってるのはどっちを応援しようかってこと。それも実行を伴った、ね」

「実行って…」

「あんたまさか…」



 

「あたしは、先生×旦那のカップリングに乗る。みんなはどう?」

「ええっ? 先生の方が先なの?」

「前後の違いに何か問題があるんだっけ?」

「知らない。あたし何も知らない」

「? まぁいいや。で、あんたらはどうする?」

「の、乗るもなにも…倫子ちゃん。そういうのって、当人同士の問題じゃ……」

「だからよ。当人の気持ちが明らかに向いてる方に乗るって言ってるの」

「そ、それって要するに…香野先生、まだ旦那さんのこと…」

「いくら相手が怪我したからって…いくら自分の住むところがなくなったからって…普通、別れた相手の部屋に転がり込む?」

「………」

テラスハウス陽の坂の部屋って六畳一間だよね? そこに二人で住んでるってもう同棲だよそれ。言い訳のしようがないって」

「そ、それは…そう考えると先生って大胆だね…」

「うん。周りが見えてないレベルのことしちゃってる。もし学校にバレたら問題になるかもしれない」



 

「そ、それはさぁ…理くん、まだ歩けないし。それに先生だって本当に住むとこないんだし」

「そんなハンデを持つ二人が一つ部屋にいて、何も起こってないとは思えないって言ってんのあたしは」

「う…」

「だったらどうすればいいか…。要するに、あの二人が一緒に住んでても問題ない間柄にしてしまえばいい」

「そっかぁ…もう一度旦那さんとくっついちゃえば、同棲でも不倫でも、なんでもないもんね」

「ビンゴ。松本先生には、変にキレて怪文書とかストーキングとか立てこもりとかしないうちに、穏便に退場してもらいましょう」

「倫子ちゃん、松本先生に何か恨みでもあるの?」

「…別にないんだけど、つい最近古いドラマの再放送を見て」

「あ~! 『学園教師』でしょ? 佐田宏幸主演で、学園生との禁断の恋がテーマのやつ!」

「あ、そうそうそれ! 京元政史が表はさわやかなのに裏ではもの凄い変態教師でさ。どうにもあのイメージがこびりついちゃって…」

「松本先生が聞いたら泣くよそれ…」

「壮絶なお話だったよねぇ。ヒロインが父親と関係しちゃってて、主人公が父親刺すわ、家は燃えるわ、最後は電車で逃げて、結局心中だもんね~」



 

「………っ!?」

「あ~、いや、それは…」

「どしたの、トコちゃん? いきなり真っ青になって?」

 

──「あ~いたいた陽坂! 探したんだぞ~!」



 

「っ!?」

「あ」

「剛志君?」

「お前、今日アレだからな~! ちゃんと覚えてたか~?」

「あ…アレ? アレってなに?」

「あ、あ~、後で説明する、後で説明するから。…卒業式の後で」

「………」

「って、聞いてんのかよ陽坂? おい長谷川、こいつちゃんと連れて来いよ?」

「倫子ちゃんっ!?」

「あ、あ~…本件に関しましては緊急対策チームを設けることも視野に入れ、誠心誠意対応するよう善処することを努力いたしまして…」

「それ対応するって言ってない! というか何もしないって言ってるよぅ!?」

「本質突かないでよ真鶴のくせに」

「………」


「んじゃ、先に帰って準備してるからな。お前ら二人とも遅れ…どした陽坂?」


「………あんたねぇ。アレより先にコレがあるでしょ…?」

「…コレ?」

「その小指年寄りくさいわよ! …じゃなくて掃除当番でしょ掃除当番!」

「やっぱ通じるんだな陽坂…」

「くだらないこと言ってる暇があったら、こっち来て手伝いなさいっ!」

「いやほら俺ちょっと時代遅れというか、亭主関白入っててさぁ。だから家事の得意な女の子なんか超ストライクゾーンな訳で~」

「い・い・わ・け・は・い・い・か・ら~!」

「と・い・う・わ・け・で…さいなら~!」



 

「こらぁぁぁぁぁっ! 廊下走るな~! 罪を重ねるんじゃな~い!」


「細かいっ! いちいち細かいっ! でもそういうところもストライクゾーン~!」


「訳わかんないこと言ってないで戻ってこ~い!」


「またなぁぁぁ~! 30分後~!」


「だから待ちなさぁぁぁい! ………ったくぅ、なんなのよあいつぅ」


「………」

「………」

「……なんなのよあんたら」

「トコちゃん…トコちゃぁん…これは一体…ねぇ、どうなってるの?」

「掃除サボる奴を怒って何が悪いのよ?」

「あれじゃまるで噂の二人だよぅ」

「あたしってさぁ…時々、自分の策略が恐ろしくなるときがあるのよね」

 

 

 

「………」

「説明、あるんだよね?」

「今のはあたしも聞きたい。ちょっとばかり予想を超えるスピードで接近してない?」

「あ、あんたたちもくだらないこと言ってないの! さ、早く机つっちゃうよ!」

「机を…なに?」

「トコが…関東圏にいながら中部圏に染められていく…」


………

 


……

 

 



 

「センセと飲むのも久しぶりよね。ささ、ぐっといってぐっと」

「あの…それじゃそろそろ帰らせてもらいます」

「まだ注いだだけじゃないのよ」

「で、でも、理が…せっかく治りかけなのに今何かあったら…」

「あ~、そいや来週にはギプス外れるんだって?」

「ええ、思ったより治りが早くて。来週からリハビリ始めて、年内には普通に歩けるようになるみたい」

「そう…じゃ、あなたも今のうちに住むところ探さないとね。…いつまでも居候というわけにもいかないし」

「む…」

「…まぁ、姫様の言うことが正しいと言えば正しいね。もともと住み込みは看病のため"だけ"って宣言してたし~」

「…(んぐんぐんぐ)」

「ん~、いい飲みっぷり~。今日は楽しめそう。なにしろ姫様相手だと張り合いがないとかいうレベルじゃないからねぇ」

「ウーロン茶と同じ濃さのロックをウーロン茶と同じピッチで呷られる身にもなって欲しいわよ」

「うわばみと下戸は永遠にわかり合えないのね…」


………

 

 

 

「いや何だね、若旦那と飲むのも久しぶりだねぇ。ささ、ぐいっとやっとくんな…とっとっとっと…」

「…どうして僕のお猪口だけは扇子で注ぐんですか?」

「だってさぁ、怪我人に酒飲ませるなって思いっきり睨まれてんだもんな~」

「ホント、やりにくいことこの上ないぜ。大体、俺たちだけで騒ぐときだって一番遠い一号室(ごいんきょのへや)でしか許してくれないんだぞ」

「ええと、それは…申し訳ない」


どうやら僕の部屋の同居人は、一番の新参者にもかかわらず、住人たちに強権を発動しているらしい。



 

「だから三号室(おれのへや)に集まるときは誰も喋れないんだよ。盛り上がらないことこの上ないったら…」

「本当にあらゆる意味で盛り上がってませんねぇ、今のところ」

「重ね重ね申し訳…って、ちょっと待ってください。三号室(となりのへや)で耳澄ませて何してるんですって?」

「別に恥ずかしがることないだろう。あんだけプラトニックを貫いてれば」

「せめてそらとぼけてくださいよぅ!?」


なんて長屋の機微を理解してくれない人たちだ。

そんなんで熊さん八っつぁんご隠居などとおこがましい。

というか熊さんと八っつぁんとしては正しいか。

…ご隠居などとおこがましい。


「姫様が一度覗いたらしいんだけどさ、リストラの風呂の世話のときだって──」

「姫緒さんっ!?」


就業時間外のセクシャルパワーハラスメントはどこの相談窓口に訴えればいいんだろうか…


「まぁ若旦那ですから、ある程度予想はしてましたがね、それにしても奥方にすら手を出さないとはねぇ」

「教えてあげましょうか? それはね、奥方ではないからです」

「一体誰に操を立ててるんだ? 熊ちゃん怒らないから言うてみ?」

「そもそも怒られる筋合いがありませんが全然」

「夏夜ちゃん? 最近ご無沙汰だしなぁ」

「ご無沙汰じゃなかった時期を知りません」


一緒に住んでた一週間を含め…

ええ情けなかろうがそれが真実です。

 


「姫様ですかね? この間まで散々気を持たせておいて、最近とみに冷たいですからねぇ」

「彼女とは仕事上の付き合いがメインなんです。今は会社に行ってないからそう見えるだけです」


復帰したからって、また同じ態度で接することができるかは、彼女の最近の機嫌の悪さから見ると不透明だけど。


「となると残るは…」

「最初から言っておきますがそれが正解です。ただしそれは教育上の問題であって操が云々という低レベルの話ではないことをここに明言しておきます」


受験を控えた難しい年頃の女の子が一つ屋根の下にいるのに、そういう不謹慎かつ不道徳かつ不倫な行いができるはずもなく。

…いや、実は一番最後は当てはまらないけど。

お互いフリーだし。


「要するに、教育上問題のないロケーションなら手を出しても問題ないってこと?」

「そういうのを詭弁と言うんですよ詭弁と! 酒も飲ませてくれないくせにそんな話はやめてください!」

「でもお前我慢してんじゃないか? 昔は喜んで触れ合ってた相手が、半月もすぐ側にいるんだろ」

「どれだけぬかみそ臭い飽きちまった女房でもねぇ、こう、偶然寝てるうちに手と手が触れ合えば、得も言われぬときめきが胸を駆け巡りますよねぇ…」

「ご隠居…あんたっていつまで現役だったのさ?」

「酒を! 僕にアルコール飲料を!」


出来れば、我を忘れずに発言を忘れられる都合のいい飲み物を与えてください…


………

 



 

 

「やっぱり戻ります今すぐ帰ります。は、離して~!」

「たまの付き合いなんだから大目に見てあげなさい。あなたちょっと理さんを構い過ぎじゃなくて?」

「ここの女性陣に言われたくありません!」

「離しちゃ駄目よ姫様~。今日はとことん本音で語るって決めたんだから」

「で、でもっ、今の叫び声…もしかしたら、理の身に何かとんでもない不幸が…」

「まぁ、不幸に見舞われた可能性については否定しないわ。何しろ誰かさんのせいで転落人生を過ごしてきた訳だし」

「っ!(んぐんぐんぐ)」

「ちょっとからかわれてるだけだって…多分」

「ここのアパートの方々は、理をおもちゃにし過ぎです! わたしが目を光らせてないとどうなることか…」

「センセが目を光らせてないと、大家さんが光らせるだけだと思うけどなぁ」

「う…」

「それに今、理さんが責められているのは、どう考えてもあなた絡みとしか思えないんですけど?」

「それ…どういう意味です?」

「あなたがいなければ、彼は平穏無事な生活を送れるんじゃないかってことかしら?」

「………」

「………」

「あのさ…センセに一つ聞きたかったんだけど」

「な、なに?」

「理くんって……あっちの趣味なの?」

 

 

 

「~~~っ!?」

 


「な、な、な………何言ってるんですか失礼な!?」

「だってさぁ、あたしが仕掛けても反応なしだったし、センセと一緒にいてもそんな気配ないじゃない?」



 

「あ、あ、あっちって…禁断のあっち、よね?」

「そうそう。実は女じゃ反応しないってヤツ」

「そ、そんな…理さんが…」

「あ、あなたたち何なんですか一体!? こんな不謹慎なアパートにずっと住んでたって言うの? 理も、美都子ちゃんも…?」

「た、"たち"って言わないでよ"たち"って!」

「安心して。大家さんにはあんまり言わないから」

「お、理…理っ…駄目、ここは駄目…あなた、いつか食べられちゃうわっ…(んぐんぐんぐ)」

「あたしも何度もアタックしてるんだけど…そういうリアクションだし」

「堂々と言わないで頂戴そういうこと…」

「そだよね~。姫様むっつりだもんね~。正体失わないと告白もできないもんね~」

「っ!? こ、この間のボイスレコーダー、あなたの仕業ねっ!?」

「仕込んだのあたしだけど、喋ってたのは間違いなく姫様なんだよなぁ」

「…すいません。それ、もう少し詳しく聞かせていただけるかしら?」


………

 

 

 

「…何ですか? これ」

「だからさ、快気祝いの先渡し」

「その言い方って色んな意味で間違いが散見されますが」


と、僕の目の前に差し出されたのは、クリスマスディナーショーの招待券。

それも、トリトンホテルの最上階のフレンチレストランの。

…って、ついこの間姫緒さんと行ったパーティ会場じゃないか。


「いや実はな、商店街の歳末セールの福引きで、ご隠居が残りの人生の運を全て使い果たしてな」

「…するってぇと何かい? あたしの一生、もうお迎えを待つだけってことかい?」

「俺らは四等の米10キロを狙ってたのに、よりによって二等なんてなぁ。こんなんじゃあ1回分のメシ代しか浮かないじゃん」

「ですから皆さんそろそろ真面目に働いた方が…」

「かぁ~っ! さすがに今年だけで三回も就職した人間は言うことが違うねぇ」

「何度も言いますが、就職したのは三回ですが、入社したのは二社です」


だから問題ないという訳では全然ないけど。


「ま、それはともかく、二人一組、しかも12月24日限定。俺たち三人のうち、どのペアで行くか揉める状況を想像してみ?」

「………」


それは…手放したくなる気持ちもわかる。



 

「というわけで若旦那! これはあたしたちからの気持ちだよ」

「今度の入院騒ぎで、色々と世話んなった相手いるだろ? 感謝と、ねぎらいと、ありったけの愛を込めてやれって」

「俺たちはこんなことくらいしかできないけどよ、それでもお前のことを、心配してんだぜ?」

「皆さん……」


なんだか久々に、みんなの温かさを感じたような気がしないでもないような微妙な感覚がじんわりと染みいっているのかもしれないよくわからないけど。

ま、それはともかく、自分たちの幸運を、こうしていとも簡単に授けてくれるみんなは、やっぱりテラスハウス陽の坂の住人なんだなって、思う。


「で、で、誰誘う?」

「え…?」

「夏夜ちゃんなら一も二もなくOKだろうな」

「姫様も何だかんだ勿体つけつつも、結局断りゃしないと踏んでますよ?」

「先生に関しては、リストラの怪我の状態しか判断基準がないだろうし」

「………」

「………」

「………」



 

三人
「…なんか馬鹿馬鹿しくなってきた」

 


「もう少しの間、あなた方を見直したままでいさせて欲しかったんですが…」


とはいえ、確かに、誰を誘うかという問題は、このチケットを有効活用する上でも重要な問題で。

今度の怪我で、一番迷惑を掛けた…

一番恩返しがしたい相手は…?


"夏夜を誘う"
"姫緒を誘う"
"麻実を誘う"
"美都子を誘う"


って、この御に及んで四択はないだろう?

今さら何を言ってるんだ僕は?


今回の件で、直接的に僕を支えてくれたのは、確かに麻実だったけど…

その裏で、僕らの食事の面倒を見てくれたり、病院関係の手続きとか、着替えの洗濯とか、目立たないけど、黙々と世話を焼いてくれたのは…

ディナーショーなんて、トコには合わないかもしれない。『なにそれ?』って、一笑に付されてしまうかもしれない。

それでも…トコを誘ってみよう。

だって僕は、二人が保護者と被保護者の誓いをしたあの日から、どんな選択肢でも、トコを一番に持ってくるって決めたから。


「皆さん、ありがとうございます。それじゃ遠慮なくいただきます」


と、僕は二枚のチケットを手に取り…



 

「…受け取ったな?」

「受け取りましたね?」

「それじゃあ快気祝いとして3万円徴収させていただきます。まいどあり~」

「え………?」


『だからさ、快気祝いの先渡し』

『その言い方って色んな意味で間違いが散見されますが』


快気祝いとは、病気、怪我をした側"が"、見舞いをしてくれた人"に"贈り物などのお礼をすること。

しまった…彼らの言い方は、最初からちっとも間違っていなかったんだ…


………

 

 

 

「ちょ、ちょっとちょっとちょっとぉ! や、やめてやめて! それ以上言わないで~!」

「…(ごくり)」

「何よぉ…あんたたちがしつこく聞くから、仕方なく教えてあげたってのにさぁ」



 

「そ…それにしても、もう少しオブラートにくるんだ言い方ってものが」

「理がそっちの趣味なんてとんでもない。あいつのモテっぷりったら」

「いや、理くんの嗜好とモテるかどうかは別問題じゃ…」

「それに、スイッチが入ると凄かったんだから」

「スイッチ?」

「急にすっごい強気になって、俺についてこいってキャラになるのよ。いったい何人の後輩がメロメロにされてたか…」



 

「あ~! 理さんの昔なんて、知りたくな~い~!」

「それでも、絶対愛の言葉だけは口にしてくれなかったのよねぇ」

「強気な理くん…信じられないね」

「あ、一階だけあるかも。昔、遊園地に行った帰りに、疲れて電車の中で寝ちゃった理が、ボソッと」

「き、聞こえない。わたし聞こえてないから~!」

「姫様…耳塞いでる手が隙間だらけなんだけど」

「それにね…構って欲しい時とか、全部気づかれちゃうの。ああいうのを以心伝心って言うのかしらね」

「あ、そ、そう…」

「もう、わたしの前にああいう男は出てこないだろうなぁ。最初の男が合いすぎるってのも考え物なのよねぇ」

「ふえぇぇぇぇ~。誰か、誰かこの場所から私を救出してぇぇぇ~」

「…あのさ」

「何よ?」

「それって…誰かと比較しての話? 理くんと別れた後、別の男と付き合ったことある?」

「………(んくんくんく)」

「ただ、思い出を美化してるだけじゃない? 彼との生活って、あなたにとって、そんなに美しい記憶?」

「だったら、なんなのよ? 彼との結婚生活が生涯最高の思い出じゃ悪い?」

「いいわけないじゃない。全然嫌いになってない。おまけに相性も最高。なのに別れたの? 訳わかんない!」

「………」

「ちょ、ちょっと…」

「あたしだったらそんな男絶対離さない。嫌われても、ウザがられても、改めるように努力する。あたし頑張れる…一度、振り向いてさえくれれば、ね」

「あ…」

「だから悪いけど、あんたの言ってること理解できない。ただの傲慢にしか聞こえない。それで今でもまとわりついて…理くんが可哀想だよ」

「夏夜さん…」

「理解できない、か…そりゃそうよねぇ」


……


「何しろわたしだって、理解なんかしたくなかったし…」


………

 

……

 



 

「え…?」
「だからさ…クリスマスパーティ」
「いつ?」
「お前人の話聞いてるか?」
「あ~、いや、その…に、24日? 25日? それとも元旦?」
「誤魔化すにしても最後のは余計だろ…」
「ウ、ウチ仏教徒だけど? それも浄土真宗
「なら24日は宗教上の行事はないな。あとはプライベートの都合だけだ」
「そ、それは…」
「みんな呼んでワイワイやろうとも考えたけど、母さんにそこまで面倒かけるのもなんだしな。ウチの一家と、陽坂と…」
「倫子は?」



 

「あ~…長谷川は来ない"手はずになってる"。別に俺としては来ても構わなかったんだけど」
「…前から気になってたんだけど、あんたたち、何企んでんの?」
「あいつは策を弄するのが好きみたいだけどさ、俺はそういうの性に合わないんで結構衝突してる」
「………」
「というわけで、長谷川の目的は話せないけど、俺の方は最初から何も変わってないから安心してくれ。陽坂と、もっと、その…要するに付き合いたいだけで」
「いい加減粘るね~」
「気持ち変わんね~んだもんしょうがないじゃん」
「…ありがと」
「ぶっちゃけ言うと、部屋で二人きりになった時とか、送ってく帰り道とか、そのくらいは狙ってる。けど基本的には健全なホームパーティだ」
「うん…」
「クリスマス…ウチ来ないか? きっと、楽しいぞ?」



 

「………」
「な、陽坂…」
「うん…お邪魔します。楽しみにしとくよ」

 

……