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-ノベルゲーム・タイピング-

世界でいちばんNGな恋【22】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
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Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。

 

 

 


--------------------

 

 

 

 


……

 

 

 

 

「ん…」
「は、ぁ…」


僕の唇が触れるくらいにまで近づくと、麻実は当然のように目を閉じ、だらりと全身の力を抜く。

僕らの唇は、お互いの凹凸を埋めるようにはまり合い、お互いの冷たさを補い合い、お互いの乾きを潤していく。

二年ぶりに味わうその蕩(とろ)けるような快感に、僕はためらいなく溺れていく。

だって僕らは、彼女が別れを切り出す前日まで、普段どおりにキスをしていたから。

ずっと僕への鬱屈した感情を抱えていたはずなのに、身体だけは情熱的に応えていてくれたから。


「ん……っ」
「あ…」


ずっと息継ぎを忘れて貪りあっていた僕らは、とうとうお互い酸素が足りなくなり、唇を離す。

激しい息が白く煙り、お互いの顔にかかる。

麻実の熱さと匂いが、また僕に降りかかる。


「はぁ、はぁ、はぁぁ………ね、理」
「っ…は、はぁ…なに?」
「…落ち着いた?」
「あ…」


あんなに激しい行為をしておきながら、麻実が口にした言葉は『興奮した?』の真逆だった。

でも、それは間違いなく彼女が僕を気遣ってくれた証であり…


「これで、ぐっすり眠れそう? 明日から仕事なのよね? ちゃんと朝、起きられるかしら?」


彼女が僕を、まだ深く理解してくれている証でもある。


「麻実…」


だって僕は、麻実に触れていると落ち着くから。

麻実を抱きしめていると癒されるから。

麻実とキスをすると…心が安らいでいくから。

 

「もう、大丈夫? 理は、平気?」


"今夜は眠れそうにない"


「………」
「理…?」
「…ない」
「お、理…?」
「今夜は眠れそうにない…!」
「…きゃっ」
「麻実…麻実、麻実…」


何度も大きく呼吸をして、麻実の匂いを手の先、足の先までも巡らせる。

少しの汗と女性の甘い香りが混じっている…

紛れもない、麻実の匂い。


「麻実…麻実…」
「おさ…む…」


絶え間なく体内へ取り込まれる麻実の匂いに、嫌なことの全てを忘れてしまいそうになるけど、それではだめなんだと心のどこかが軋む…


「麻実、麻実、麻実、麻実…!!」


声も心拍数も呼吸も腕の力も、強くなってしまう。


「痛いっ…」
「あっ、麻実…ごめん」


慌てて、僕は麻実を抱いていた腕を離す。

 

 

 

「ううん、わたしこそ…」


どうして麻実まで謝るんだろう。

自分だけの欲望と不安を押し付けているのは、僕だというのに。

痛みのせいか、麻実は無意識に自分の腕をさすり、目尻にはうっすらと水分が覗いている。


「…平気じゃ、なかったみたいね。キスして、全て吐き出して、あなたを癒してあげられると思ったんだけど…」


そんなことはない。麻実に触れて、キスをして、過去の安らぎを思い出させてくれた。

だけど、深く胸を突いた刺は、簡単に消えてくれない。


「久しぶりだからかしら? 二年間のブランクは、思っているほど小さくないのね」
「…麻実は、本気で僕のことを…?」


なんて意地悪な質問なんだろう。

さっきまであんなことをしていて、自分からではなく、相手に答えを口にさせようとするなんて。


「あなたが必要だと思うなら…いつでも、わたしは理のそばにいるわ」


安心して寄りかかれる場所があるなんて、なんて幸せなことだろう。

失敗しても、泣きそうになっても、それを受け止めてくれる人がいるんだから。


「麻実…」


たった十センチちょっと先にある麻実の手を取ろうとするけど、腕が動かない。

冬の夜の冷たさだけじゃなくて、まだ、甘えていいのか戸惑いがあるから。



 

 

「ねぇ、理。ここは人通りが多いから、場所を変えましょう?」
「うん…」


麻実は僕の表情を見ただけで、その奥にある感情も読みとってくれる。

それは、僕へだけ使える能力。

二年間のブランクは小さくないと言っていたけど、そんなことはない。

十分すぎるほど、僕のことを覚えていた。


………

 

 

 

 

「今日は一段と冷えるわね。雪でも降るんじゃないかしら」
「降っている最中は楽しいかもしれないけど、雪解け時のぬかるみは好きじゃないな」



 

「楽しみの代償だと思えばいいじゃない。タダで手に入るものほど、この世の中に危険なものはないわ」
「そうだね…」


麻実の温もりを感じながらやってきた公園には、時間のせいもあって、見渡せる範囲には誰もいない。

ここまで来るまでの道程は時間感覚なんてなくて、どれくらいかかったのか知らないけど、頭の中を整理できた。


「あなたは、雪が好き?」
「好きでも嫌いでもない。綺麗なのは認めるけど」



 

「わたしは好きよ。触れると冷たくて、儚く解けてしまうのに、どこか心に灯火がたかれたように温かくなるんだもの」
「そうなんだ…」


麻実の理由は、とても素敵なのかもしれない。

でも、今の僕にとっては、温かくなる前に、自分の心が雪のように解けてなくなりそうで…。

感じている温もりにすがるように、麻実の手を強く握る。



 

「何か、嫌なことでもあったの?」
「うん…」


なんて言えばいいんだろう。

ただ、少しずつ嫌なことが重なり、不安が渦巻いている。

トコのことも、麻実のことも…

会社のことも、アパートのことも。

そして、僕自身のことも含めて全部。


「今のあなたを見たら、いつもの理らしくないって、誰でも気付くわよ」
「…いつもの僕じゃなかったら、麻実は嫌いになる?」


不安の代わりに出てきたのは、若干ひねくれた言葉。


「そんなことないわ」


だけど、麻実は真摯に受け止めて、自分の言葉で返してくれる。

 

 

 


「今のあなたも、さっきのあなたも、一緒に過ごした一か月のあなたも、結婚生活をしたあなたも…どれも偽りのない本当の理なんだから」
「麻実…」

 

 

 

「もしかすると、別れたからこそ、気付けたのかもしれないけれど」


たとえ、どんな自分になったとしても、麻実は受け入れてくれる。

リストラされたって、露頭を彷徨ったって、優しくできなくったって、微笑みながら受け入れてくれる。


「だけど、離れて初めて気付く感情があるのは本当ね。頭ではわかっていても、実体験しなくちゃ、身に染みないわ」
「麻実は…恨んだりしてない?」
「わたしから離婚を切り出したのよ。恨まれることはあっても、恨みはしないわ」
「そっか」
「…ふふふっ」
「いきなり、笑い出したりして、どうしたんだよ」
「この前とは逆ね」
「あっ…」


骨を折って、お風呂に入れないからと、丁寧に体を洗ってくれたときの会話。

あの時は、麻実が恨んでいるんじゃないかと聞いてきて、僕はそんなこと思うわけないと答えた。



 

「間違いじゃ、なかったのね」
「離婚に正しいも間違いもないって。きっと、それがあの頃の僕らが出した答えなだけだよ」
「そうね。今さら、ああすれば良かったとか、別の選択をしていれば良かったとか、考え出しても意味がないものね」
「うん、そうだよ…」


思い出を美化することはできても、過去の出来事を塗り替えられはしない。

しかし、今や将来を変化させるのは、自分次第であって…

このまま、麻実を頼って、寄りかかって、甘えてしまっていいんだろうか。



 

「わたし達って、不器用ね」
「もっと素直になれたらってこと?」



 

「ええ。衝突した原因も、その後の仲直りも、ちょっとの隠れた心があったような気がするから…」
「………」


麻実は気付いていたんだ。

いや、こんなに僕のことを理解してくれているのに気付かないはずがない。

いつも僕は自分のことばかりで、麻実のことを考えているようで考えてなくて…

居心地が良かったのは、無条件で受け入れようとしてくれたからなんだろう。

だから、今も、ここで一線を越えてしまったなら、蜜の味を知ってしまったなら、後戻りはできなくなってしまうのは間違いない。



 

 

「だけどね、理を好きな気持ちは本物だった」


どうして、過去形で言うんだろう。



 

「けんかもしたけど、本当に好きだった…」


もう終わってしまった関係みたいで、胸が痛くなる。

実際に、夫婦の終わりは迎えたけれど…。


「今、振り替えってみれば、長かったのか短かったのか、それすらも分からない二年間だったわ」
「僕には、あっという間で、気がついたら離れていたって感じだけど」



 

「でも、別れてからは、とても長く感じたわ」
「どうして?」
「だって、あなたと再会してからの日々が、早すぎるんだもの」


はにかむ麻実は、今までの後悔をすべて受け入れ乗り越えてきたかという様子で、僕には眩しすぎる。



 

「あなたがいなかった二年間、忘れることなんてできなかった。いいえ、忘れる行為なんて忘れていた」
「僕も、麻実のことは、どこかで考えていたよ。生活に苦労はしていないかとか、恋人は作っているのかとか…」
「理でも、心配してくれたんだ」
「当たり前だろ。嫌いになって、判を押したわけじゃないんだから」


あの日の光景は、いつでも鮮明に思い出せる場所に記憶として残っている。



 

「それで…好きな人や恋人は作らなかったの?」
「そんなに知りたいの?」
「結婚するほどまでの相手じゃなくても、気になりはするさ」
「元夫婦だから?」
「ま、まあ、そんなところかな」


卑しいかもしれないけど、どんな性格が麻実の好みだと知りたいから。

 

 

 

「普通、そんなプライベートなところまで入ってこないわよ」
「仕方ないじゃないか。気になるものは、気になるんだから」
「そうね…。わたしも、理の恋愛歴を知りたいって気持ちもあるから、お互い様かしら」
「あはは、そうだね」


麻実は、近くにあった鉄棒に寄りかかるようにして腰を落ち着けた。

同じ棒では高さが合わないから、僕は隣の一番高い鉄棒に寄りかかる。


「わたしは、教師を全うにするだけで一杯だったわ。もちろん、その中で気が合う人やいいなと思う人はいたけど、それ以上はなかった」
「そう感じているのは麻実だけで、言い寄られたりしたんじゃない?」
「あったけど…そういう人に限って、タイプじゃないのよ。運がなかったのかしらね」


スタイルがいいから、外見で声を掛けてくる人間が多いのかもしれない。


「はい、わたしのことはお終い。次は、理の番よ」


パン、と手を叩いて、麻実は明るい雰囲気を作って振ってくる。


「僕は…」


そこまで口にして思い出す。

あの人のことを…

今の生活を運んできた、あの人のことを。


「言いにくいなら、無理に言わなくてもいいのよ。わたしは、理になら話してもいいから、勝手に話しただけなんだから」
「ありがとう…」


たった一呼吸だけで、僕の気持ちを察してくれる麻実。

一緒にいる時間が長ければ長いほど、甘えたくなってしまいそうになる。

だけど、それはフェアじゃないし、話せるところまでは話しておきたい。



 

「…二年間で、本気に好きになった人は、一人だけいた」
「それは、結婚を考えるくらい?」
「うん、プロポーズもしようとしたくらい。結局はできなかったけどね」
「そう…。少し、妬けてしまいそうね」
「だけど、その人がいたから、僕は麻実と再会することができた」
「それなら、訂正して、感謝しなくちゃいけないわね」
「麻実は、僕と再会できて良かったと思ってるんだ」
「ええ。仕事に没頭しすぎて、そこら辺で倒れてるんじゃないかって、心配になる日もあったんだから」
「いくらなんでも、大げさすぎ」

 

 

「でも…今はもう、心配はないわ。会おうと思えば、いつでも会えるし、しばらくは消息不明なんてことはなさそうだしね」


トコがいるんだから、と、麻実は言葉にせずに伝えてくる。


僕にとって大切で、必要な…娘がいるから…。


「………」
「………」


ふと、会話が止んでしまい、無言のままで時間が過ぎていく。

麻実は足元や空を見ながら、僕は空を見ているフリをして、時々横目で麻実を見ながら…。



 

「もし…もし、わたし達が出会った頃にまで戻れたら、理はどうする?」


やっと話題を見つけたように、空を見上げたまま麻実は口を開く。


「あまり、変わらない道を選んでいると思う。未来を知っていても、楽しく感じるのは変わらないだろうし」
「わたしも、そう思うわ。大学に入って、理と出会って…付き合って、結婚して…」
「離婚する?」

「ふふ、どうでしょうね。幸せになれる方を選ぶわ」
「じゃあ、別れ話を切り出したのは、お互いの幸せのためだったんだ」



 

「少し…違うわ」
「えっ…?」


麻実は、一歩前に出て背中を見せる。

そのせいで、顔から思いを察することができなくなってしまう。


「理のためになると思ったから、別れたのよ」
「そんな…嘘だろ…」


麻実に優しくできない、家庭を顧みることのできない僕に、愛想をつかせたわけじゃないのか?


「仮にあなたを嫌いになって別れたとしたら、足を折ったときに世話をしたりなんてしなかったわ」


そこが不思議でたまらない。

時間が修復して、嫌いだった気持ちが薄らいで、他愛ない話をしたり飲みに行ったりと、友達感覚でいるだけならまだしも、僕を気にしすぎだ。



 

「理のためだったら、あたしは何でもできるということよ」


それはまるでプロポーズの言葉みたいで、麻実を好きだった…愛していた日々が蘇ってきてしまう。


「理さえ望むなら、わたしは、わたしのできる限り、それを受け止めるわ」



 

出会って初めてくれた笑顔のように、麻実は振り返って笑う。

それは、僕の全てを本当に受け止めてくれるようで、愛おしさが込み上げてくる。


「麻実」
「ん? なに?」
「キス…してもいいかな?」


懐かしさと嬉しさと、何に対してなのか考えたくない、後ろめたさを抱えたまま…僕はポロリと零してしまう。

 

「そういうこと、わざわざ昔の奥さんに聞かないの」


苦笑に変わる麻実もとても魅力的で、潤いを持った唇へとキスをする。


「あっ…んんっ…」
「ん……んぅ…」


触れている面積は小さいのに、安らぎを持った熱が心の奥までも届いてくる。


「おさ…んっ…む…」
「んんんっ…んふっ…あっ…」
「んっ…んっ……んんん~~~っ…はふぅ~…」


激しいキスのあとには、燃えているように煙る白い吐息。

至近距離で見つめあいながらも、頬が火照ってしまうのは、気恥ずかしいから。


「何度もキスをしたことあるのに、どうしてこんなに恥ずかしいんだろう…」



 

「わたしに聞かないでよ…。そんなこと言われると、もっと恥ずかしくなっちゃうでしょ」
「ごめん…」
「もう、余計なことまで口にするのは、昔から変わらないわよね」
「思ったことが、素直に口から出てしまうだけだって」

 

 

 

「それは嘘よ。ムードを壊したり、相手を怒らせることしか、余計なことは言わないもの」
「もう直せない癖だから、気にしないでくれよ」
「わたしは、始めから気にしてないわよ」
「そっか…」
「ええ、そうよ…」


そして、もう一度、僕らは引力に逆らえず、唇を重ねあう。

キスは嫌な気持ちを忘れる媚薬となって、飽きることなく唇を求め合った。


………

 

……

 

 

 



 

 

「まだ、明るくなりそうにないわね」
「寒くない?」
「大丈夫。あなたの手だけで、十分温かいわ」


スズメのさえずりが聞こえてくるまで、僕らは公園で過ごしていた。

今は、とりあえずテラスハウス陽の坂に向かって、手を繋いで歩いている。


「この状況、周囲から見たらどう考えても恋人同士だよね」
「あら、わたしはそれでも構わないわよ」
「冗談でも言わないでくれよ。学園の関係者に見られたら麻実だって困るんじゃないか?」



 

「噂にはなるだろうし、根を詰めている受験生にとっては、息抜きの話題になってしまいそうね、ふふっ」
「笑ってる場合じゃないって」


こんなにも僕のためを思っている麻実が、悪い噂で傷つくようなことがあったら、どう償ったとしても償いきれない。


「見られたら見られたで、その時よ。殺人や窃盗でもなければ不倫でもないんだから、堂々としてればいいの」
「でも…」



 

「それなら、この手を離せばいいじゃない」
「仰るとおりで…」


だけど、僕は決して離さない。

これが僕の気持ちを落ち着けてくれる鎮静剤だから。



 

「そういえば、すっかり元気になったわね」
「えっ…?」
「この世の終わりとでも言うような顔をして、迫ってきたから…」


歩調に合わせて動いていた片手を、唇に当てる麻実。

奪うようにして何度も貪ったそこには、僕の味は残っているんだろうか。

 

 

「何にしても、今日から仕事なんだから、もっとシャキッとして、男らしく出勤しなくちゃダメよ」
「それは自信ないな。気をつけてはいたけど、スーツに袖を通すのは久し振りだし」



 

「ただでさえ迷惑をかけているんだから、それくらいの気構えがなくてどうするのよ」
「どうすると言われても、どうするつもりもないけど?」



 

 

「もう…面接では、第一印象が大切なんだって分かってるの?」
「面接でもなければ、初出勤でもないんだけど…」



 

「とにかく、それくらいの心持ちでいなさいってことよ」
「わかったよ…」


諭し方が子供相手のように感じるのは、麻実が教師だからで、僕の精神年齢が低いわけじゃないはず。


「そうだ。忘れてたけど、ごめん」

「なんのこと?」
「こんな時間まで付き合わせてしまって」
「全然気にしなくてもいいわよ。元夫婦なんだから」


元夫婦じゃなかったら、付き合いはしなかったということだろうか。


「でも、負担を掛けてしまっただろ?」



 

「そんなことないわ。むしろ、理の本心を見られて、ちょっと嬉しかった」
「嬉しかった…?」



 

「あっ、嬉しいって表現は、あなたに失礼よね。ごめんなさい」
「いや、そういうわけじゃないんだけど…」



 

「ただ、あなたって時々何を考えているのか分からなくなって、怖くなるから…」
「僕も、どんな自分が本当の自分なのか、分からなくなるときがある。でも、それって誰でも同じじゃないかな?」



 

「そうかもしれないわね…」


誰にでもある、何がやりたかったのか分からない自分。

麻実も、過去にそんな自分がいたんだろうか。

口をつぐんで、回顧(かいこ)しているみたい。


「話が逸れちゃったけど、とにかくごめん。僕のことを考えるよりも、この時期は生徒のことを集中して考えたいだろ?」
「そんなことないわよ」
「だけど、アルコールが入ったせいか、昨日の僕はちょっとおかしかった気がするんだ」


記憶が抜け落ちた部分はないけど。



 

「じゃあ、なかったことにするの?」
「…そんなわけないだろ」
「だったら謝らないで。わたしが好きでしたことなんだから」
「でも…」


いくら相手が麻実であっても、ここまで付き合わせておいて、何もしないのは気が引けてしまう。



 

「なら、買い物に付き合って」
「…そんなことでいいの?」
「女の買い物は大変なのよ? それに、年末年始に備えて、色んなものを買いたいから」
「わかった。それじゃあ、今から…って言いたいところだけど、どこの店も開いてないし、今日は仕事だから今度でいいかな」
「次の休みは空いてる? 暇だったら、そこに予約しておくわ」
「うん、平気。急な用がやってきても、その日だけは空けておくから」



 

 

「楽しみにしているわね」
「ああ、僕も…」

 

………

 


……

 

 



 


……

 

 

 


「ただいまぁ~…」


すぐそこで麻実と別れて、正面から攻める泥棒のように、忍び足でアパートに潜入する。

こんなところ、トコに見つかってしまったら、朝帰りで何をやっているのか咎められてしまう。


「どうか、見つかりませんように」


──「誰に見つからないようにしてるのかなぁ?」


「…っ! 夏夜さん!?」


後ろから急に声を掛けられたけど、大声にならない程度に叫ぶ。

しかし、振り返ってそこにいたのは、夏夜さんではなくて…

 

 

 

「残念賞。正解だったら、家賃一か月分が商品だったのにな~」
「なんだ、八須永君か…。驚かさないでくれよ」
「やぁ~、俺の方がびっくりだよ。リストラがこんな遅い時間に帰ってくるなんてな」
「まだ暗いだけで、もう朝です。八須永君は、何をしてたんですか?」



 

「劇団の連中と飲み会をやってたんだよ。ご隠居と熊ちゃんと、パーティする予定だったんだけど、盛り上がっちまって」
「そうなんですか…」
「で、だ。そういうリストラは大家ちゃんを放ったらかしにして朝帰りかい?」
「朝帰りは否定しませんけど、トコを放ったらかしにした記憶はありません」
「ふ~ん…」


様々な意味を含めた視線で、八須永君は何度も頷きながら見てくる。

まさか、麻実と一緒にいたところを見られていたとか…?



 

「な、なんですか?」
「べ~つにぃ~、特に理由はないけど~」
「それなら、そんな目で見ないでくださいよ」
「そんな~、突き放すような言い方しないでよ~。リストラだって、本当は嬉しいんだろ~?」
「嬉しくありません」



 

「そんな、ガードが固いところも、魅力的」


八須永君は、最後にハートマークがついていそうな乙女らしい声色を地声で発する。

少し近づいてきたから気付いたけど、相当量のお酒を飲んだみたいだ。

絡み方がいつもと違うにしても、テンションは変わらないから、素面なのかと思った。


「今夜、リストラの部屋に、泊まってもいい?」
「遠慮しておきます。今の八須永君は正気じゃないですから」
「ご隠居や熊ちゃん達が一緒でも…?」


身長からして当然なんだけど、わざと目を大きくして見上げてくる八須永君。

当然、そこにギャップなんて感じるわけがなく、どうしたらこの場を逃れられるかを考えてしまう。


「まぁ、それなら構いませんけど。どうせ、いつもの飲み会になるんですよね?」
「はい、許可をいただきましたので、今夜、伺わせていただきます。主催はリストラだから、経費もあんたもちね」
「えぇっ!? そんなこと一切言ってないじゃないですか!!」


拒んだとしても、会社から帰ってきたところで、この人達は部屋にいるんだろうけど。



 

「ふわぁ~あ…そんじゃ、俺は寝るから、また今夜な~」


「ちょ、ちょっと、八須永君…!!」

 

 

 

 

八須永君が部屋へと消えてしまうと、脱力感が襲ってきた。

さすが劇団に所属しているだけあって、騙されてしまったけど、どこからが演技でどこからが酔った勢いなのかが分からない。


「まぁ、いいや。仕事に出かけるまで、少しでもいいから寝ておこう…」


寝ると考えると急に睡魔が襲ってきて、早く横になりたいからと自分の部屋のドアノブに手を掛ける。


──「何がいいのかなぁ?」

 


「八須永君、これ以上僕を騙そうったって…」

 

 

 

 

「ん?」


だけど、今回の声の主は夏夜さん本人。


「彼がどうかしたの?」
「あっ、いや、なんでもないです」


いちいち説明しても意味はないので、勝手に割愛する。



 

「そう。ところでさ、理くん。その格好からすると、今帰ってきたばかりだよね?」
「ええ、そうですけど…」



 

「仕事の復帰日だというのに、こんな時間に帰ってくるなんて、何をやってたのかなぁ?」


夏夜さんは、僕が麻実と過ごしていたのを知っている。

だから、『誰といた』ではなくて、『何をやっていた』と聞いてくる。


「食事をしたり…積もり積もった話をしたりしていただけ、ですけど…」



 

「ふ~ん、そうなんだぁ…。元奥さんと、あんなことまで…」
「そこまでしてませんっ!」


勝手に妄想を膨らませていく夏夜さんに、思わず声を荒げてしまう。



 

「静かにしなくちゃダメだよ。大家さんに見つかりたくないんでしょ?」
「ごめんなさい…」


僕の行動で心情を察してくれる夏夜さんに、お礼の代わりに謝罪をしてしまう。

だけど、夏夜さんは険しい顔をしたと思ったら、手を口元まで運び、楽しそうに微笑む。



 

「でも、そっか。そこまで、ってことは、ちょっとはしたんだよね?」
「うっ…」


こういうとき、夏夜さんの洞察力や引っ掛け方が恨めしくなってくる。

もちろん、単純な僕もいけないんだろうけど。


「何があってもいいけどね。ただ、羽目の外しすぎには気をつけるんだよ」
「わかってますよ。子供じゃないんですから」



 

「そういう意味じゃないんだけどな…。まあ、あたしの所に来たくなったら、どんな理くんでも、いつでもどこでもオッケーだからね」


あえて、そこでオッケーの意味は聞きはしない。

そこに含まれているのは、麻実とは違ったものだろうから…。


「ところで、夏夜さんは、こんな時間に起きているなんて、何かしていたんですか?」
「そんなの、言わなくっても分かるでしょ?」
「分からないから聞いてるんです」
「あはは、それもそっか。でも、そういうのを女性に聞くのは野暮ってものだよ、理くん」


つまりは、失礼にあたるようなことを聞いてしまったってこと?

 

 

 

「それじゃあ、あたしは寝るから…」
「はい、おやすみなさい」



 

 

「もし、あたしの布団に潜り込みたかったら、来てもいいからね」
「行きませんから、安心して寝てください」
「…待ってるからね」

 

僕が行かないと知っているくせに、そんなセリフを口にして部屋に消えてしまう夏夜さん。

もう、ここにいても何もないだろうし、今度こそ寝よう。


………

 

……

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ…自分から約束したくせに、寝坊するなんて…」


今日は、麻実と買い物へ行く日だというのに、久し振りに続いた仕事で披露が蓄積し、目が覚めたのはジャスト待ち合わせ時間。


「麻実、帰ってなければいいけど…」


必ずいる確信はありつつも、つい不安になってしまう。


「あっ、あそこにいるのは…お~い、麻実ぃ~」


自分の存在をアピールするように、周囲よりも高い位置で手を振りながら走る。


「ご、ごめん、遅れて…。付き合うって言ったのは僕なのに」

 

 

 

「いいのよ。わたしも着いたのは五分くらい前だし」
「そっか…でも、ごめん」



 

「それよりも、あなたは身長で十分目立っているんだから、大きく手を振ったりしなくていいの。待ってるわたしが恥ずかしいじゃない」
「あっ、ごめん。麻実の姿が見えたから、つい…」
「だから、謝る必要はないの。遅れたって、その分を取り戻そうと、走ってきてくれたんでしょ?」


麻実はバッグからハンカチを取り出し、手を伸ばして僕の頬や首筋にあてる。

この時期には似合わない汗を掻いていたんだと、その行動で気付いた。

人には恥ずかしいと言っておきながら、億劫もなく人前でこんなことをするようでは、説得力が全く無い。



 

「少し休憩していく? それとも、もう行く?」


一通り拭いてくれたあと、何事もなかったかのようにハンカチをしまう麻実。



 

「僕は、すぐにでも構わない。それよりもハンカチ、洗って返すよ」
「いいのよ、わたしが勝手にしたことなんだから。ほら、行くわよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」


………

 

 

 

 

「ところで、今日は何を買いに来たの?」


僕らがやってきたのは、東萩守駅横にある百貨店。

年の瀬ということがあって家族連れが目立つけど、カップルや友人同士で来ている人も多く、売り上げが落ちているとは思えないほど賑やか。


「引っ越したばかりだから欲しいものはたくさんあるけど、今日は下見かしら」
「この前は、年末年始に備えて、って言ってなかった?」
「それも買うけど、他にも色々あるし、参考に理のアドバイスも欲しいわ」
「それだけでいいの?」
「もちろん、荷物持ちにもなってもらうわよ。それなら、たくさん買い物をしても困らないでしょ?」


どれくらいのものを買うのかは分からないけど、アドバイスと荷物持ちくらいであれば簡単だ。


「たしかに、麻実は自分で決められない部分があるし、一度決めたら周りの意見なんて聞かないときもあるからね」
「そんなこと……あるけど、昔ほどじゃないわよ」


麻実は、強く否定をしようとしたけど、十分に心当たりがあるらしく、声が小さくなりながらも認める。


「教師にはズバッと決めなくちゃいけないこともあるし、特に生徒のことなら、見せ掛けでもそうしなくちゃならない時もあるから…」
「教師って、大変なんだな」
「大変じゃない職業なんてないわよ。むしろ、わたしは生徒と触れ合うのが好きだし、その大変さも好き」


照れが混じりながらも、誇りを持っているからか、ハッキリと口にする麻実。


「あっ、理。そこのお店を見て行ってもいい?」
「麻実の買い物なんだから、いちいち聞かなくてもいいよ」
「そう? だったら、全部のお店を回っちゃうんだから」


覚悟して、とでもいうように、麻実は僕の手を固く握る。


「いくらなんでも、時間が足りなくて回りきれないと思うけど……」
「意気込みよ、意気込み。休んでいる暇なんて、作らないわよ」
「好きにするといいよ。僕はついていくだけだから」



 

「それはダメ。理も楽しんでくれなきゃ、意味ないもの」
「…精進します」
「ええ。じゃ、行くわよ」


最初は端から端まで見ていたけど、途中から気になった店や場所にしか入らなくなった。

それでも、服や装飾品を見たり買ったり、特設されていた入場無料の美術展に入ったり、飽きないどころか、僕も楽しんでいた。


……



 

 

「さっきの服、結構気に入ってたみたいだけど、買わなくてよかったのか?」
「少し値段が高すぎるわ。でも、今の理の好みが知れたから、それでいいの」


次から次へと色やデザインの違う腹を持ってきては二択で選ばせ、最終的に残ったものを、麻実は試着した。

目立ちはしないけど所々にフリルがあしらわれたクリーム色のブラウスに、ピンク色のカシミアのストール。

それから、チョコレートのような色をしたフレアスカートに茶色のロングブーツ。

普段は綺麗が当てはまる麻実だけど、可愛らしくて見惚れてしまうほど。


「プレゼントできれば、してるんだけどな…」
「その気持ちで十分よ。ありがとう」


どうしてできないのかなんて、僕らの間ではわかりきってることだから、サラッと流す。


「あら、このお店…」


他よりも面積をとっているのは、雑貨から家具まで置いてあるオシャレな店。


「欲しい家具でもあった?」
「安くて使えそうで良いものがあれば、かしら」
「誰もが求める理由だね」
「わざわざ、高級で使いにくくてもインテリアとして重厚なもの、なんて言うのは、お金持ちだけが言うことよ」
「それもそうだね。あっ、この食器棚は良さそうだな…」


思わず目に留めて言ってしまったのは、オーク材の食器棚。


「これって…」
「材木もいいし、見栄えもいいし」
「…昔、使っていたのに似ているわね」
「あっ…」


理由なんてなかったのに、その言葉で火事でなくなってしまった家具を思い出してしまう。


ほんの少しだけ見た、結婚生活で使っていた、二人の思い出が詰まった家具を…。


「懐かしいね…」
「ええ…」


つい、この前まで使っていただろうに、本当に懐かしそうにするのは、隠していたいからだろうか。


「そういえば、あのとき使っていた家具はどうしたの? 全部、麻実に任せちゃったけどさ」


白々し過ぎる聞き方だったかもしれない。

でも、どうしてもあの頃の家具を最近まで使っていたのか、気になってしまう。


「どうしたって言われても、業者に頼んで処理したわよ」
「本当に? あれだけあったんだから、一つくらいは使ってたんじゃないの?」
「もちろん、いくつかは、そのまま引き取って使ってたけど…捨てるのも、勿体無いからよ」
「麻実なら、勿体無いだけじゃ使わないんじゃないか?」
「どういうこと?」
「いや、特に意味はないけど…」
「じゃあ、逆に聞くけど、理は、置くスペースがあったり、利便性があったりしても、捨ててしまうの?」
「どうだろうな…。思い出の品って、残しておきたいような、未練がましいから残しておきたくないような…」
「ふ~ん…」


物言いたげに、麻実はジト目で見てくる。

やっぱり、無理がありすぎた。

聞くにしても、もっと別の切り口から滑らかにすべきだ。


「な、なんか顔についてる?」
「別に何も。ただ、理がいつもよりも執拗だなって」
「あは、あははは…そんなことないよ」


まさか、僕が家具を見ていたなんて、麻実は思っていないはず。

麻実が僕に内緒にしておきたいみたいだから、それを尊重すべきだ。


「んっ? これなんて、麻実に合うんじゃないかなぁ?」
「…その白い丸テーブルも、わたし達の生活にあったわよね?」
「そ、そうだっけ? それじゃあ、これはどうかな?」
「そのクローゼットも、片方の取っ手が取れていれば、似ているけど? わざと言っているのかしら?」
「ち、違うって! 今回は本当にいいと思ったから!」
「今回は? なら、さっきのは違うってことよね?」
「言葉の綾だって。人間、誰でも間違ってしまうこともあるだろ?」
「………」
「だ、黙らないでくれよ」
「もう、しょうがないわね。あなたがそう言うのなら、信じてあげるわ」
「…お願いします」


さっきと立場が逆転してしまったけど、なんとか誤魔化せた。

これからは、もっと計画的かつ慎重に聞くようにしよう。

……機会があればだけど。

 

………

 


……

 

 

 

 

 

「今日は、せっかくの休みなのに、付き合ってくれてありがとう」
「これで、この前の分は返せたかな」
「わたしは、最初から負担になってなんかないって言ったはずよ」
「そうだったね…」


程よい温度調整がされていた百貨店を出たばかりでも、冬の夜の寒さは芯まで届いてくる。


「本当に家まで送っていかなくて大丈夫?」
「平気よ。いつもは一人で帰ってるんだから」


実際の買い物は控えめで、小さな紙袋が一つだけ。

だから、荷物を口実に送ることはできない。


「でも、今日は一人じゃないだろ」

 

 

 

「そうだけど、あなたに悪いわ」
「しっかりと、最後まで見送ることも男の役目だと思うけど?」



 

「こういうときに、性別の問題は持ってこないの。急に女性扱いするなんて卑怯よ」
「僕は、いつも麻実を女性だと意識してる」
「口には出さないだけで?」
「ま、まあ…うん」


相手を女性らしく扱うなんて、そんな高等技術は持ち合わせていなくて、だから、家に送るとか、単純な提案しかできない。

だけど、そんな僕に対して、麻実は不満など言わない。



 

「それなら、家まで送ってもらおうかしら」
「ああ、任せて──」
「と、言いたいけど、やっぱり止めておくわ」
「どうして?」



 

「そうね…あなたと一緒にいたら、また、この前みたいに朝まで一緒にいたくなるから、かしら」


あの時は、ただ僕の心が沈んでいて、不安で、落ちぶれていて…

何も言っていないのに、麻実はそばにいてくれただけ。

それなら、麻実には言い難いような不安があるんだろうか。



 

「理、今、わたしに悩みとか不安があるんじゃないかって思ったでしょ」
「…よく分かったね」
「これでも、元夫婦だからね」


『元夫婦』をやや強調しながらも、屈託のない笑みの麻実。


「理に相談できるようなことはないわよ」
「…役に立てなくて、ごめん」
「どうしてそうやって卑屈に受け止めるのよ」
「そういう意味じゃなかったの?」
「理といるだけで、わたしは些細な悩みなんて吹き飛んでしまうわ。だから、感謝してる」
「僕は何もしてない。麻実が、勝手にそう感じてるだけだろ?」



 

「でも、約束をちゃんと守って、最後まで付き合ってくれるでしょ?」
「それは、当然のことだよ」
「だから、それだけで満足なの」
「よくわからない理屈だな…」
「無理に理解しなくてもいいのよ。それに、ここで別れたほうが、デートっぽいでしょ?」


麻実の言葉で初めて意識したけど、今日の買い物は立派なデートに分類されるんだ。

僕はただのお礼としてしか考えてなかったけど。


「理は、今日楽しかった? 行きたい店とかあったんじゃないの?」
「何度も言ったけど、今日は麻実の買い物に付き合うのが目的なんだから」
「そうだけど、理は楽しかったか聞きたいの」


楽しかったか、なんて聞かれたら、答えは一つしかない。


「楽しかったよ。僕だけじゃ、絶対行かない店にも入ったし…。でも、服を選ぶのだけはもう遠慮したい」
「いいじゃない。悩む理も面白かったわよ」
「僕は、脳ミソを一年分働かせた気分だけどね」


お互いに向き合うことはせずに、ビルの壁に寄りかかるようにして肩を並べる僕らは、目当てもなく行き交う人に視線を向ける。

別れ話をしていたのにこうしているのは、今日はもう会わないから、隣にいる人の存在を忘れないため。



 

「それじゃあ…そろそろ帰りましょうか」
「そうだね」
「またね、理」
「うん、気をつけて」


小さく手を振って、麻実は家があるだろう方向へ歩いていく。

立ち止まっては振り返って手を振り、

立ち止まっては振り返って手を振り…

それを五度繰り返す頃、ようやく麻実の姿は見えなくなった。

 

………

 

……

 

 

 

 

 

 

第13話 『二度目の恋、初めての男』

 


-香野 麻実編-

 

……

 

 

 

 

「すいませ~ん! おみくじと破魔矢と達磨と絵馬とお守りお願いします! 神様のご加護がたっぷりかかったやつ厳選して!」
「お、理くん…恥ずかしいよ、そんな大声で」
「そんなこと言ってる場合じゃないって。いいかい? おみくじは大吉が出るまで引くんだぞ。けど、いくら大吉でも学問運が悪かったら引き直し」
「しかも台詞の端々に痛さがにじみ出てるし」


──パン、パン……。



 

 

「神様仏様キリスト様お願いです。トコを何とぞ秋泉大附に!」
「ここで後半二人に頼むのは…」
「他の受験生はみんな落としていいですから。トコはそれだけのことはしてきました。モノが違うんですモノが」
「こんな人混みで余計な敵作るのはやめようよぅ」

 

 



「…もし願いを聞いてくれなかったら地獄の底まで祟ります。よろしくお願いします」
「しかも神様まで脅すし」



 

「それじゃお賽銭…ええい持ってけドロボー! 一ま……五千円!」
「貯金一円もないくせにやめなってば~!」


………

 

……

 

 

 

 

 

「あ~、恥ずかしかった。せっかくの二年参りなのに~」
「ごめん…人混みにあてられたかもしれない」


自分が何をしたか半分以上は覚えてなかったり。



 

「あれじゃあバーゲンに群がるおばさんたちだよ~。理くんの本性見た気がしたね」
「トコだって現場では彼女たちとあまり変わらないような…」



 

「こういう現実を見せられてさ、子供は親への不信感を募らせていく訳だよね。家庭崩壊の日も近いかな、これは」
「……ドメスティックバイオレンスだけはやめてね?」
「それって普通あたしが心配することじゃん」


次から次へと僕を責める言葉に事欠かないトコだけど、その右手はしっかりと僕の左手と繋がってる。

手袋もしてない二人の手は、お互い冷え切っていたけれど、時々にぎにぎしながら触れあわせていくうちに、ゆっくりと温かさを取り戻していった。



 

「理くんってさ…あたしのために頑張る行動がなんかズレてるよね」
「そ…そうなの?」

 

 

 

「そうだよ。合格祈願はいいけどさぁ、そんな物量作戦でこられてもきっと神様困るよ」


…三が日で近場の神社を制覇しようとしてた僕の立場は?


「け、けど…僕は神様に頼むしかできないから。試験を受けるのはトコな訳だし」



 

「理くんが身代わりで受けてくれたら絶対合格だよね」
「僕がトコの制服を着れればなぁ…」



 

「そういう問題じゃないから。さり気に失礼なこと言うのやめて」


代われるものなら本気で代わってあげたい。

何しろ、ここ数か月で学園入試レベルの学力は、かなりのところまで取り戻した自信がある。

今なら難学園とか、長万部(おしゃまんべ)セシールとか、超有名どころの私立でもなんとかなるかもしれない。

…どっちもここから通えないけど。


「とにかくさぁ、そんなの単なる気休めなんだからさぁ」
「それくらいはわかってるさ。半分以上は僕の自己満足なんだから、まぁ、好きにさせてくれよ」

 

 

 

「ま、そういうふうに思ってくれるのは嬉しいからいいんだけどさ。でも、あんまり無理はしないでね?」
「無理? 何が?」

 


「………馬鹿」

 


隣にいるトコが俯くと、その表情は僕の見下ろす視線からは完璧に外れ、トコが今抱えている感情を"見る"ことはできなくなる。

 

「トコ…?」

 

 

 

「ん…?」
「あ…」
「どしたの?」
「い、いや……なんでもない」
「? 変なの。理くんが呼んだくせに」
「ご、ごめん…」

 

 

 

トコに『変なの』と言われるまでもなく、最近の僕は、少しおかしいのかもしれない。

感情の読めないトコの姿を見るたびに、心の中がざわつき、いいようのない不安に襲われる。

なんだかトコが自分の手の届かないところに行ってしまいそうで…いや、その感覚そのものが傲慢この上ないんだけど。

トコは僕のものじゃない。

心は立派な一人の大人だし、僕よりよっぽどしっかりしてる。

だけど僕の大切な存在には変わりなく、僕の勝手な感情では『守るべき存在』で、ついでに言ってしまえば、世界で一番大切な…


「そ、そういえばさぁ! 統一模試はどうだった?」
「え…」


いつもの不毛な思考を振り返り、僕らの周りの空間を、無理やり日常に戻す。

だって、このスパイラルに陥ると、もう僕一人では妙な感情を制御できなくなる。


「ほら、冬休みに入ってから受けさせられたやつ。強制なのにわざわざ三千円も払わされて…」


そうなると、また…"彼女"に頼らなくちゃならなくなる。

いや、『ならなくなる』じゃなくて…

僕が、彼女に、甘えたくなる。



 

「あ、ああ………ばっちりだった」
「本番前の最後の模試だからね。ここでA判定とか取って弾みがつくとにいいな」



 

 

「………そだね」


………

 


……

 

 



 

 

「…ついちゃったね」
「うん」


まるで、僕らの家に辿り着くのが悲しいことのように、トコが、ふうっとため息をつく。

そしてまた、僕の目の届かないところに顔を向け、僕を理由もわからず不安にさせる。

だから…



 

「それじゃ…おやすみ…」
「あ、トコ…」
「ん?」
「…ちょっと星、見てこうか」
「…いい、の?」


だから僕は、無理やりにでも、トコの顔を、僕の見えるところに呼び戻す。


「僕が誘ってるんだけど…駄目かな? その、理科の勉強も兼ねて」



 

「う、うん…勉強だもんね。もうすぐ、入試だもんね」


まだ今は、離れたくない。

ほんの少しでも心を暖めてから、眠りにつきたい。


「あ、でも…寒い?」
「…ちょっと」
「ええと…入る?」



 

 

「うん…はいる」


コートのボタンを外し、片方だけ開いてみせると、トコは心得たもので、すうっと僕の体に身を寄せる。

あとは、僕の両手がコートの前を合わせると、二人、一つのコートに身を包み、元日の夜空を見上げる。

 

 

 

「あはは…あったか~い」
「お互いに、ね」


僕に抱きすくめられる形になったトコは、ほうっと全身の力を抜き、僕に身体を預けてくれる。

その小さくて軽い身体は、熱いくらいに火照ってて、自部は全然寒くなかったんじゃないかって思わせるくらいで。


「たくさん見えるね、星」
「そうだね…」
「ほんっと…綺麗だね」
「うん…」


そして僕らは、最初の口実を忘れてしまったかのように、星の名前や星座の名前を口にせず、ひたすら空を見上げるだけに時間を費やす。


「………」
「………」


トコの背中の体温が、僕のお腹に伝う。

僕らが並ぶと、その身長差は公称45センチ。

トコの背中は僕のお腹に。

トコの肩は僕の腕に。

そしてトコの頭は僕の胸にすっぽりと収まる。

だから、もしかしたら…

僕の胸の激しい鼓動が、トコの頭に伝わってしまっているかもしれなくて。

…本当に、なんなんだろう、これは。


「あのさ」
「うん?」
「理くんはさ…どうしてあたしのために無理するの?」
「またその話? さっき『無理してない』って結論出なかったっけ?」
「先生と二年参りに行かなかったよね? あたしが駄々こねたから、あたしを優先させたよね?」
「…最初からトコと行くつもりだったよ」


もしかして…

断りの電話、聞かれてしまったんだろうか?


「ごめんね、ごめんね…あたし、どうしても、今日の理くんは欲しかったからさぁ」
「トコの方から誘ってくれて嬉しかったよ。クリスマスのときに散々断られたからトラウマになっててさ、あはは…」
「…っ」
「あ、いや、嫌味じゃなくて……。ごめん、それっぽく聞こえるよな」
「う、ううん…そうじゃないから、全然違うから」


トコの声が不安定に揺れる。

トコも僕と同じで、なんだかよくわからない不安を抱えてるのか、こうして時々、声に泣きそうな響きがこもる。


……そしてその旋律は、ますます僕を不安にさせ、僕らの負の連鎖は止まらない。


「ま、何度も言うようだけど、今の僕は、トコの幸せが最優先だから」
「あたしの幸せ…」
「だから、そのための頑張りを『無理してる』って言われると、その、なんだ、忸怩たるものがあるというか、もっと僕を信頼してくれていいっていうか」
「理くんはさぁ…あたしの幸せって、なんだと思う?」
「え…?」


てっきり『信用できるわけないでしょリストラさん』とか、そういう"下げ"でこのお話は終わると思ってた。


「進学? 就職? 結婚? ……それとも、ママとの再会? テラスハウス陽の坂でいつまでも楽しく暮らすこと?」
「それは…えっと…」
「もちろんわかってるよね? あたしの幸せが最優先なら、わかってなきゃおかしいよね?」
「トコ…」


トコには、この話を落とすつもりはないみたいで、ただ愚直に、つまらない、正しい答えを求めてくる。


「理くんは…叶えてくれるの? あたしが求めてる幸せを、さ」
「それは…できることなら何でも」


だから僕は…

誠実に答えたいのに正解がわからない僕は、卑怯な逃げを打つことしかできない。


「言ったね? できることは、何でもしてくれるって言ったよね?」


でもトコは、そんな僕の逃げの中に正解を求め、僕に包まれながらも、僕を包囲していく。


「あたしさ…本当は、すごくワガママなんだよ?」
「なら、本当のトコでいいよ。もっとワガママになっていいんだよ…」


穂香さんと二人きりで、必死に歯を食いしばって頑張って。

たった一人きりで、必死に歯を食いしばって頑張って。


生きるために、ずっと自分を抑えてきて、それでも明るく育ってくれたトコのワガママなら、たとえ僕が許さなくても、僕が…


「違うんだよ……理くんが知ってるトコは違うんだよ」
「トコ…?」


僕の腕に抱かれた肩が、小刻みに震えてる。

僕に背中を預け…また僕から顔を背け、トコが多分、僕に見せない表情を作ってる。


「あたしはいい子のふりをしてるだけ…本当はとんでもない嘘つきで、人も自分も平気で騙して、なのに後になって、その嘘をものすごく後悔してさ…」
「後悔なんて誰だってあるさ。…少なくとも僕がした後悔の数なんて大変なことになってる」
「心の奥ではいつも人を妬んでて、独占欲が強くて、人の幸せや立場なんか何も考えられない子供で、そんな嫌な気持ちに、これっぽっちも我慢できない」
「我慢だったら、人一倍してるじゃないか…。トコは自分を追い込みすぎなんだよ」
「だって! ひとのものだろうがなんだろうがお構いなしなんだよ? 自分の都合だけで、ただそれだけで欲しくなっちゃうんだよ?」
「………」


よく、わからない。

トコが何を求めてて、それが本来誰のもので、どうして許されないのか、わからない。

何かが僕の思考回路に蓋をしてる。


「で、それを人に伝えない根暗だから救いようがないんだ。こんなコ…理くんに守ってもらう資格なんかないんだ」
「あるわけないだろ…そんなこと」


だから、今は、ただ…

この僕の激しすぎる鼓動が、トコに伝わらないように神に祈るしかなくて。


「こんなこと考えてる場合じゃないのに。今のあたしには、目の前に大きな目標があるのに…」


けど僕には、それが叶わぬ願いだとわかってしまっていて。


「なのにどうしてこんなに辛いの? 苦しいの…?」


なぜなら…

トコの身体じゅうから届く、信じられないくらい激しい鼓動が、僕の体に次々と刻まれていくから。


「あたしって、ホント馬鹿…何もこんなタイミングで目覚めることないのにさぁ」
「トコ…」


自嘲気味に呟くトコを、背中から、力一杯抱きしめる。

子を案じる親のように…?

情愛で? 親愛で? 友愛で?


「理くぅん…」


わからない…

何も、わからない。

だって、なんなんだろう、これは…?

ここ最近…

トコが、恐ろしい勢いで、

見る見る綺麗になってきてる。

もともと綺麗で可愛い子には間違いなかった。

でも今のトコは…

激しく、せつなく、儚く、

そして美しい表情をするようになってしまった。

表情だけじゃない。

声や、吐息や、匂いまでもが

……僕を惹きつけてやまない。


「ね、理くん」
「ん…?」
「あけまして…おめでとう」
「ああ…今年も、よろしく」
「………うん」


だから…何もわからない。

 


……