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……
──あれは、いつものようにゲンさんが持ってきてくれたクールキャットプレスを読んでいた時だった。
「今回は結構な冊数をまとめて持ってきてくれたから、チェックが大変だな」
同じクールキャットプレスでも、号によって情報の価値は大きく異なる。なので中身を読み込んで確認する必要がある。
「さて、次の号はと……」
雑誌の表紙に描かれた特集記事のタイトルや、グラビアアイドルの名前を見れば、大体の内容は推測できる。
「うーん、あまり期待できないな。今さらこのアイドルの水着とか出されても……。まあ、ひとまずは目を通そう」
もちろん、僕がクールキャットプレスを読むのは大衆の興味レベルの把握が主目的であって、記事の内容自体には興味はない。
もちろん、グラビアページなどはパラ見で飛ばす。情報量ゼロだからだ。
「……ん、グラビアページか……思ったより、いい、な。このアイドルではもう旬を逃がしていると思ったが、僕の読み違いか……? さすがクールキャットプレス、侮れない。……………ふう。……この号は、保存対象にしよう。さて、他のページは……」
……たまに例外はある。
とはいえ、思春期の少年少女の性的好奇心を刺激することだけが目的の特集記事などは本当にどうでもいい。
そういう記事は基本的にタイトルしか見ない。目を通す価値すらないからだ。
「…………『身近な女友達を、自分好みのエロ彼女に変えてしまう方法』だと? 身近な女友達……? これは……!」
──!
「……」
一瞬、不埒な考えが脳裏をよぎった気がしなくもなくないが、気のせいだ。
「…………う、うん。これは目を通しておいた方がいいかもしれないな。こ、これはあくまで、大衆の興味レベルの把握が目的だ。ぼ、僕自身が、なにか不埒な考えを持っているわけじゃないぞ」
自分自身に言い訳をしながら、内容を読んでいく。
記事事態は特に驚くような事実やテクニックが書いてあるわけではなかった。
単純に女の子をタイプ別に分類して、それぞれの女の子をどう『自分好み』に変えたいかが羅列してあるだけだ。
例えば、『普段真面目な委員長系女の子だったら、実は放課後は制服のままメイクとピアスをしてライブ会場に行ってて欲しい』とか。
……ただの願望じゃないか。
もっとも重要な『自分好みに変えるためにどうすればいいのか』という部分に触れていない。
「これでは単に記者の萌えポイントを読まされているだけじゃないか……。ああ、拍子抜けだ」
まあ、じゃあどういう記事を期待していたのかと言われると困るが。
ただ、一個だけ気になるページがあった。
「……『君の女友達を自分好みに変えてみよう』、か」
特集記事の最後のページは、記事で分類したタイプ別に、女の子の情報を書き込めるようになっていた。
ここに実際の女友達の特徴を書き込み、更にどう『自分好み』にしたいかを書いていくわけだ。
こんなどうでもいいことに貴重な紙面を使っているのを見るに、どうやらこの特集記事は編集部としても苦肉の策だったようだ。
「はあ。くだらない」
僕はすぐに雑誌を閉じようとして──
「…………………ふむ。……くだらない、が……。『タイプ1:強気なお姉さん系』……これは来栖だな。来栖はちょっとツンデレが過ぎるからな。もう少し年上のお姉さん的な余裕のあるエロさを醸し出せるといいんだが。『タイプ2:天然元気少女系』……尾上かなあ。あいつはそもそもそういう知識がなくて、そのせいか男子を相手にしてる時のガードがゆるいんだよな。逆に、そのガードのゆるさにあわせていけば、いつの間にかそういう展開に持ち込むことも可能か……。『タイプ3:好奇心旺盛な後輩系』……まあ、有村だな。有村はそっち方向にオープンすぎるんだよな。わざとああいう態度を取ることで、逆にガードを固めているようにも思えるが。ただ、きっと本人だって多少興味があるんだろうから、その場の勢いで持ち込めるかも……。『タイプ4:無口不思議系』……うーん……これは、香月かな? 香月は、誰ともコミュニケーション取ろうとしないが、みんな気付いてないだけで、かわいいし、スタイルもいい。なによりあのおっぱいの大きさは暴力的とすら言える。もしあいつが、そういう方面な積極的な肉食系男子だったら、きっと篭絡される男子は沢山いるだろう。僕だって、もしそんな香月に迫られたら、理性を保っていられるかはわからないな。…………よし、できた!」
うーんと体を伸ばして、天井を見上げる。
長文を書いた後特有の、心地良い達成感が体を包む。
大きく深呼吸してから体勢を戻し、雑誌を手にした。
「ちょっと、読み直してみるか」
シャーペンを横に置き、この数十分間の成果を見直す。
白紙だったページは、びっちりと文字で埋まっていた。
「………………キモい。我ながら、どん引きだ」
急に冷静になってしまい、達成感がかき消されていった。むしろ罪悪感が募っていく。
「僕はなんでこんなどうしようもないことに時間を費やしてしまったんだ」
先ほどまでは作業成果の証だった、びっちりと書かれた文字も、既に目にするのも恥ずかしい物になりつつある。
たとえ自分的評価A+のグラビアページがあるとしても、このページをもう一度目にするのはつらい。
ましてや、なにかしらの事故が起きて、このページを新聞部員の誰かに見られた日には、僕はおしまいだ!
(どうしよう。捨てるか? いやダメだ。別の誰かに拾われるリスクはしょいたくない。部屋の奥にしまっておこう。永久封印だ)
普段クールキャットプレスを隠している納戸よりも更に奥、手が届きにくいので普段は使わない引き出しがある。
「この引き出しを抜いて、っと……」
引き出しを抜いて現れた空間に、雑誌を置き、引き出しを戻す。
引き出しの底と雑誌がこすれて抵抗があったが、無理矢理押し込んだ。
「誰にも見つかりませんように……。そして僕自身がこの雑誌の存在を早く忘れてしまいますように……………よし、寝よう」
こうして、僕はこの雑誌のことを忘れたのだった。
………
……
──長い人生の中で、封印していた黒歴史が唐突に脳裏に蘇り、叫ぶ他になにもできなくなってしまう事はないだろうか。
今の僕がまさにその状態だった。
「うああああああっ!?」
「きゃっ!?」
「拓留!? 突然どうしたのよ?」
突然叫んだ僕を尾上や来栖が驚いて見つめている。
「ななななななんでもない。まったくもってなんらかわらず寸分違わずいつも通りの僕だ」
「あからさまにおかしいですね……」
「……香月、ちょっと二人だけで話がある。廊下に来てくれ」
「そうこなくっちゃ!」
……
外に出るなり僕は香月に向かって叫んだ。
と言っても、部室の中にいる彼らに聞こえないように小声で。
「どうしてこの雑誌が写ってるんだ!?」
「この雑誌って? なんのこと?」
「だから、これだよ!」
エロ自撮り写真をピンチで拡大し、ベッドに置かれたクールキャットプレスを大写しにする。
「このクールキャットプレス!」
「これがどうかしたの?」
「……え?」
その途端、僕の中で別の可能性が芽生えた。
これは、香月が偶然持っていたクールキャットプレスで、僕が引き出しの下に隠した物とは無関係という可能性だ。
冷静に考えればそんな都合の良い偶然があるわけないのだけれど、僕は一縷の望みにかけた。
「え、ええとだな、ここここ、この雑誌は、おおおお、お前が持ってきた物なんだな? そうだと言ってくれるな? そうだと言ってくれ!」
「『香月のおっぱいの大きさは暴力的であり、もし彼女がエロ方面に積極性のある肉食系女子だったら──』
「ああああああああああ!!!!!!! じゃじゃじゃじゃ、じゃあ、この雑誌は……!!!???」
「はい。引き出しの下の隙間から見つけました」
「やっぱり……!」
「華は、単にお疲れ様会に興味がないから、部活動が終わった時点で家に帰ったんです。けれど、家に帰ってから、キャンピングカーにスマホを忘れたことに気付いて、夕飯を済ませてから取りに戻ったんです。着いた頃には伊藤先輩も宮代先輩も寝ちゃってたんですけど、鍵は開いてたから勝手に入りました」
「スマホはすぐに見つかったんですけど、充電が切れてて。ちょっとだけ電源を借りて充電させてもらってたんです。で、華はせっかく男の子の部屋に来たんだから、なんか面白い物ないかなと思って──適当に引き出し開けてたらたまたま見つけたのがあの雑誌だったというわけです」
「そそそそ、それで、その雑誌は今どこに? 僕が目が覚めた時、ベッドの上にはなにもなかったぞ」
「もちろん、持って帰りました」
「なっ!!??」
「一応本人の名誉のために言っておくと、持ち帰ったのは華じゃなくて、『華』の方です。宮代先輩的には運が無かっただけです。たまたま丁度良いタイミングであたしが具現化されちゃっただけ。こんな面白い物があるなら利用しなくちゃもったいないと思って、持って帰っちゃいました」
「嘘……だろ…………いや待ってくれ」
「なんでしょう?」
「『利用しなくちゃ』って言ったな? 今──どういう、意味だ?」
僕は聞いても無駄な事を、敢えて聞いた。
「宮代先輩、頭いいんだから、聞かなくても分かってると思うんですけど。まあいいです」
香月の身体の中にいる『華』は、唇に指をあてて、色っぽく僕にウィンクした。
「交渉材料、です♪」
………
「お待たせー!」
完全に弱みを握られてしまった僕は、『華』に引きずられるようにして部室に戻った。
「華ちゃん、なにを話してたの?」
「えっとね、宮代先輩が、どうしても華とキスするのは嫌なんだって」
そんな話をした覚えはまったくないが、廊下で受けたショックが続いていた僕はなにも言えなかった。
「あたしは全然構わないんだけど、華にとっての大事なファーストキスを奪うのは拒否するって。宮代先輩、なかなかかっこいい事言うよね」
「それホントに宮代先輩が言ったの? ちょっと信じられねーな」
「そっかな? タクは割とそういうの大事にするタイプだよ」
「単に勇気がなくて奥手なだけよ。頭の中はエッチなことで埋まってる筈」
口には出さないがお前ら言いたい放題だな! 思わずショックから立ち直りかけたぞ!
「そこでですね、別の条件を考えました」
乃々達の方を見ていた『華』は、くるりとこちらに身体を向けた。
「宮代先輩」
「……なんだ?」
「これからあたしとデートしてください」
「………………ごめん、よく聞こえなかったんだが。なにをするって?」
「あたしとデートしてください」
「………………ごめん、良く聞こえ──」
「んなわけないでしょうが宮代先輩! デートですよデート!」
「あーわかった。宮代にとってもっとも縁遠い言葉だから、脳が受け付けないんだな」
「確かに、タクとデートって、繋がらないもんね~」
「ううう、我が弟ながらそこまでコミュニケーション能力が低いとは……」
「さっきから言いたい放題だな!?」
「で、で、で、……デート、だって?」
「そうです。デート。まあ、渋谷の街をぶらぶらするだけですよ。ただ、その間、あたしは宮代先輩がキスしたくなるようにめいっぱい誘惑します」
「なっ!?」
「キスしてくれたらあたしは消えます。してくれなくても、今日が終わったら消えます。ただしそれは、宮代先輩がデートをしてくれたらの話です」
「な、なんで僕がそんなちゃらちゃらした事をしなくちゃならないんだ!」
「あれえ? 断るんですか? 宮代先輩? 別に構いませんけどー……。なら、"あれ"、どうしよっかなー」
──!
「がはっ!」
「んふふ」
「……………………わかっ、た」
「え、タク、デートするの!? タクが!? 女の子と!?」
「まさか宮代先輩にそんな勇気があったなんて! 見直しました!」
「拓留……、立派になったのね……。嬉しい……」
「お前たち、いい加減にしないと僕だって傷つくぞ!」
「宮代、悪かった。お前にまだそんな自尊心が残っていたって、気付いてやれなくて」
「黙れ伊藤! 勝負は受ける。だが、僕は、ハニートラップに負けてキキキキキキ、キスしてしまうなんて意志の弱い人間じゃないからな!」
「なあ、宮代がどれくらい持つと思う?」
「デート開始から5分くらいじゃないですかね。華が目を閉じてアゴをちょっと上げれば、すぐ吸い付きますよ」
「ひなちゃんそれは言い過ぎだよー。いくらタクでもそんな簡単にはキスしないと思うなー」
「じゃあせりはどれくらい持つと思う?」
「うーん、30分くらいかな? 華ちゃんが腕組んであげてー、一緒に歩いてー、おっぱい押しつけられたりしてー。いつの間にか身体が熱くなってきたりしてー、流れでしちゃうんじゃないかな、キス」
「悔しいけど、私も世莉架に同意見よ。拓留、あれで興奮すると見境なくすタイプだから」
「お前たちは僕の味方なのか!? 敵なのか!? はっきりしてくれ!!」
「ままま、皆さんのご期待に見事応えてあげようじゃないですか。あ、でも、皆さんは付いて来ちゃダメですよ? これも条件の内です。さあ、宮代先輩。行きましょうか」
香月、いや違う。目の前にいるのは、香月ではないもう一人の人格、『華』だ。
『華』は、まるで目の前に美味しい食べ物でも並んでいるかのように舌なめずりをして、僕に言った。
「楽しいデートの始まりです!」
………
……
──午後4時5分。
「………………………………遅い! 約束から5分過ぎてるぞ! いつになったら来るんだ!」
ハチ公像の傍で、僕は香月が来るのを待っていた。
新聞部のメンバーに見送られて下校した僕と香月は、しかし、そのままデートを始めたわけではなかった。
『家に帰って服を着替えてから、4時にハチ公前で待ち合わせしましょう。制服デートもいいですけど、ちょっと目立っちゃうかもだから。じゃあまた後で。ちゃんと着替えてきてくださいよ!』
面倒だと文句を言うより先に香月が走り去ってしまったので、仕方なく僕は一度キャンピングカーに戻り、私服に着替えて来た。
(こっちは約束の時間の10分前には到着してるんだぞ……。しかも、どうしてハチ公前なんだよ……)
恐らく渋谷の待ち合わせ場所としてもっとも有名であろうハチ公像の周囲は、いつもの如くみっちりと人が集まっていた。
こんなに人がいると移動するのさえ一苦労で、更に待ち合わせ相手を探さなければならず、効率が悪いことこの上ない。
情報強者であるこの僕に限らず、渋谷で暮らしている人間だったら、こんな面倒な場所を待ち合わせに使ったりはしない。
(…………それに……どう考えても、場違いだ)
ハチ公周辺で待ち合わせをしている人たちに大体共通している事がある。
それは、『みんな幸せそう』ということだ。
きっと、これから彼氏彼女と合流して、食事だかショッピングだかカラオケだかクラブだかに行くのだろう。
それらへの期待が顔から滲み出ているのだ。
いわゆる『リア充オーラ』だ。
見ているだけで消え入りたくなる。
このまま土に還ってしまえないかと本気で考え始めたその時、
突然、視界が真っ暗になった。
「なななな、なんだっ!?」
どうやら、誰かが後ろから僕の目を塞いでいるようだ。
ぷにっとした二の腕が両耳に触れ、汗の混じった女の子特有の匂いが鼻をくすぐる。
「んふ」
すぐ近くで誰かが笑った。
そして、耳元に暖かい息がかかる。
「だーれだ?」
「ひぃぃっ!」
──!
「ちょ、ちょっと大丈夫!? 驚きすぎー!」
「か、香月!?」
突然僕の視界を奪った犯人、『華』が僕を見下ろしていた。
「い、いきなりビックリするじゃないか!」
「ごめんなさーい、そんなに驚くとは思わなくって!」
おでこにこつんと拳を当てて謝っている。反省している素振りを示すつもりもないようだ。
普段の香月とあまりに違うので、もはやどう驚いて良いのかもわからない。
ズボンを払って周りを見ると、何人かがこっちを見て笑っている。
急に恥ずかしくなった僕は、ぶっきらぼうに言って人混みの中を強引に歩き始めた。
「行くぞ!」
「え、ちょっと待ってよ!」
「おかげで変な注目を集めちゃったじゃないか! なんで僕が下等なリア充共に嘲笑されなきゃならないんだ! だいたいはんでハチ公前なんだよ! もっと人通りが少ない待ち合わせ場所、いくらでもあるだろ!?」
「えええ、でもやっぱ待ち合わせはあそこじゃなきゃダメだよ」
「どうして!?」
「だってさ」
「だって、なんだよ」
すると、『華』はすっと僕の横に並び、僕の左腕に両手を絡めた。
「だって、デートだもん。記念すべき、宮代先輩と、華の、初デート」
「なっ!?」
「んふ」
『華』は微笑んで、絡めている僕の腕を自分の方にぎゅっと引き寄せた。
横から見ると更に強調されて見える香月の大きな胸が、ごく自然にむちっと胸に押しつけられる。
「ぬあっ!?」
「どう? こんなに可愛くてえっちな身体してる後輩と渋谷デートできるんだよ? 宮代先輩は、今、渋谷にいる誰よりも、リア充だと思うな」
『華』はそう言ってにっこり笑った。女の子の笑顔をここまでの至近距離で見たのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
その笑顔の持つ引力に視線が吸い込まれていると、『華』はにまっと瞳を細めた。
「あ、今、可愛いって思ったでしょ? どう? キスしていいんだよ? そしたら先輩を解放してあげる」
『華』はすっと目を閉じて、くいっとアゴを上げた。
「ね……、キスして……」
ぷるんとした唇が、無防備にそこにあった。
(……ごくっ)
「い、いや、しない! 夜までお前につき合って、それで終わりだ!」
ブラックホールのように引力を発し続けるその唇から無理矢理顔を引きはがし、僕はまっすぐ前を見た。
「あら残念。有村先輩の予想は外れましたね」
「当たり前だ! さあ、どこへ行くんだ? 言っておくが、僕は渋谷のデートスポットなんか知らないからな!」
「威張って言うことですかそれ? まあ、知ってますけど。大丈夫ですよ。行き先は決まってます。こっちこっち!」
………
……
「……」
「とうちゃーく! さ、宮代先輩、入りましょう!」
「……」
「先輩? どうかしましたか?」
「……香月」
「もー、他人行儀だなー。デートなんですから、華って呼んでくださいよー」
「もしかして、なんだが──目的地は、ここなのか?」
「そうです! 107! 渋谷のオシャレ聖地!」
「すまん、帰る」
僕は瞬時に180度回転し、来た道を戻ろうとした。『華』が慌てて僕の腕を引っ張る。
「どうしたんですか突然!?」
「今お前が言っただろ! あそこは渋谷のオシャレ聖地だ! リア充どもの巣窟だ! ハチ公前ですら自分の存在にいたたまれなくなるのに、あんな所に僕が入れるわけないだろ! 充満しているリア充オーラで窒息死してしまうに決まっている! あるいは、リア充どもが僕に向けてくる『なんであのオタクここにいるの?』って視線で溶かされてしまうに違いない!」
「……自分で言ってて情けなくなりませんか?」
「あそこに行って受けるであろう辱めに比べればマシだ」
「大丈夫ですって。さっきも言ったじゃないですか。今日の宮代先輩は非モテの男子高校生じゃないんです。こんな可愛い女の子とデート中なんですよ。誰も先輩にそんな視線向けたりしませんから。逆にラブラブオーラであっちを窒息させちゃいましょう!」
『華』はそう言って僕の腕を引っ張り、107へとずんずんと歩き始めた。
「か、香月! ま、待て!」
「だーかーらー、華って呼んでって言ってるじゃないですかー。さ、行きましょ、た・く・る・さ・ん♪」
「まだ心の準備が! まって! まってください香月さん! いや華さん! うあああああ!」
………
……
……一度入ってしまえば、107はそこまで恐怖に怯えるような空間ではなかった。まあ、当たり前なんだけど。
各階が恐ろしく狭いのと、どこを見ても女の子向けファッションの店しかないことを除けば普通のデパートと一緒だ。
『華』は、なにを買うわけでも手に取るわけでもなく、狭いビルの中で僕を引き回し、目に付いた物を次から次へと僕に指さした。
「あ! あのスカート可愛くないですか!?」
「ちょっと短すぎるんじゃないか?」
「えー!? 男の子はふともも沢山出てる方が嬉しいでしょ?」
「露出度が多ければいいってもんじゃない」
「そうかなぁ。あ、じゃああっちのTシャツは!?」
「あれは子供用じゃないのか? あんな小さいTシャツ着れないだろ」
「チビTって言うんですよ。小っちゃいから、身体のラインがぴたって出るんです。華はおっぱい大きいし、腰が細いから、肌出さなくてもエロくなると思うな」
「なんでエロくなんなきゃいけないんだ!」
「えー!? じゃああっちの白のワンピースは?」
「あ、ああ。あれならいいんじゃないかな? 清楚で知的な感じがする」
「言うと思った。宮代先輩女の子に幻想持ちすぎですよ! ああいうのは、先輩みたいな単純な男を堕とす為に存在するんです」
「そうなの!?」
「それに、巨乳な子に似合うワンピはあんまりないんですよねー。胸がひっかかって、太って見えちゃうんですよ」
「か、香月、お前さっきから巨乳とかおっぱいとか往来で口にしすぎだろ……」
「あ! あそこの靴かわいー! ちょっと見ていきましょう!」
「聞けよ!」
このままウィンドウショッピングで終わるのかと思っていたら、ある店の前で急に『華』が立ち止まった。
「ここ、は……?」
「写真屋さんです。好きな格好に仮想して、写真を撮って貰えるんです」
「……まさか」
「はい♪ ここが目的地です。今からここで記念写真を撮ります」
「嘘、だろ?」
「昨日のうちに衣装も予約済みです。さ、入りましょう。たくるさん♪」
「引っ張るな! おい!」
なし崩しに店に入ると、『華』は流れるように手続きを済ませ、僕たちは店の奥にある更衣室に連れて行かれた。
……
カーテンで仕切れる小さな空間が二つあり、店員は僕と『華』をそれぞれの空間に放り込み、衣装を床に置いてカーテンを閉めた。
「まて、僕はまだやると言ってないぞ!」
すると、仕切りの向こうから『華』の声が返って来た。
「ここまで来たんだから楽しみましょうよう! 滅多に着れる物じゃないですよ」
「滅多に着れる物じゃない……?」
僕は、足下に置かれた衣装の塊を持ち上げ、両手で広げた。
「……なっ!? 嘘だろ!?」
……
──パシャ……!
カメラマン「はーい、こっち向いて笑ってくださーい。そっちの彼女、いい笑顔だね! 衣装も凄い似合ってる!」
「んふ。ありがとうございます♪」
──パシャ……!
カメラマン「ん-、彼氏の方は表情堅いなー。もっとリラックスして行こうよ!」
「ほら先輩、もっと笑ってくださいよ」
「………む、り」
カメラマン「ほら彼氏さん、笑って笑って! 折角の二人の新しい門出だよ! あ、もっと雰囲気出した方が気分乗るかな? そっちで行ってみようか。幸せそうな笑顔をください! "新郎新婦のお二人さん"!」
『華』が選んだのは、よりにもよって結婚式の新郎新婦の衣装だった。
『華』は純白のウェディングドレスに包まれ、ベールごしに満面の笑みをカメラマンに向けている。
カメラマン「いやあ、彼女さんは花嫁衣裳が似合うねえ! とても16歳には見えない大人の色気を醸し出してるよ!」
「んふ! そうですかあ? ですって、宮代先輩!」
確かに、肩や胸元が開いているウェディングドレスは、香月のスタイルの良さを引き出していて、いつもより『女』が強調されて見えた。
顔も、少しだけメイクしてもらったらしく、頬が少しだけピンクに染まっている。
正直、見つめていると鼓動が早くなる気がして、あまり長く正視できなかった。
カメラマン「うーん、逆に、彼氏さんの方は、正直あんまり似合ってないね。アッハッハ!」
(悪かったな!)
僕も白のモーニングを着ていたが、自分でもわかるほど似合っていなかった。
猫背のせいか、どのサイズの物でも腕や腰回りのどこかしらが足りなかったり余ったりして、ちぐはぐになってしまう。
鏡に映る姿を見たメイクの人が『七五三みたいですね』と言った時、僕も同じ事を思っていたくらいだ。
「ほら先輩! もっと笑って!」
──パシャ……!
『華』が組んでいる腕をぎゅっと抱きしめる。シルクごしに二の腕や胸の感触が伝わってきて、余計に緊張してしまう。
カメラマン「お、いいねいいね! 彼女さん、そうやってどんどん彼氏さんを誘惑しちゃって!」
「任せてください!」
「任せてくださいじゃない!」
「一世一代の舞台なんですから、ここは大胆に行きましょうよ!」
──パシャ……!
──パシャ……!
『華』は僕の周囲をグルグル周り、僕の腕を引っ張ったり腰に抱きついたりして、そのたびにカメラマンがフラッシュを光らせた。
僕はどうしていいのか分からず、人形みたいに『華』に操られるしかなかった。
カメラマン「よーし、じゃあ次はアレ行っちゃおうか!」
「ア、アレって?」
「アレですよ、ア・レ」
カメラマン「アレだよアレ。誓いのキッス!」
「はあっ!?」
「花嫁と花婿の写真を撮るんですもん。当然でしょ?」
そう言って『華』は、顔に懸かっていたベールをめくり、アゴを少しだけ上げて、静かに瞳を閉じた。
「なっ! えっ!? はあっ!!??」
カメラマン「おお! 彼女さんは積極的でいいねえ!」
「どもども♪」
カメラマン「ほら彼氏さん! バッチリ撮るから、一気にいっちゃえ!」
「そ、そんなこと言われても!?」
目の前に、少しだけ顔を上げ、目を閉じている香月の顔があった。
ほんのりピンクがかったぷるぷるの唇は、ただ、僕の到着を待っていた。
「……先輩」
目を閉じたまま『華』が呟く。
「あたしの初めて、もらってください」
急速に、周りの風景が色あせ、僕の視界から遠ざかって行った。
香月の顔だけが、僕に見える全てだった。
その顔に向かって、僕の唇が勝手に近づいて行く。
まるで、地球からのコントロールで自動的に操縦される月着陸船のようだ。
「か……づき……」
「せん、ぱい……」
──!
-NEGATIVE TRIGGER ON-
「ん…………んは……」
自分がなにをしたのかを脳が理解するより前に、香月の顔が離れていった。
「……」
「か、香月……」
「んふ。幸せにしてくださいね。宮代先輩。ほら、みんな祝福してくれてますよ♪」
「……え? み、みんな?」
と、その時。
──!
「「「「おめでとー!」」」」
「お、お前たち!? いいいい、いつからそこに!?」
「いつって、結婚式の最初から」
「け、結婚式!?」
気がつくと、あたりの風景が一変していた。
「こ、ここは!? 教会なのか!?」
目の前には気の長椅子が2列に並んでいた。
僕と香月は一段高い所に立っていて、壁際には巨大な十字架が掲げられている。
どこからどう見ても教会だった。
「教会ですよ。結婚式なんだから当たり前じゃないですか」
「結婚式って、誰と、誰のだよ!!」
「タクと華ちゃんに決まってるじゃん」
「いや、ちょっと待ってくれ!」
「華ちゃん、よかったねえ」
「ありがとうございます。あたし、拓留さんと幸せになります!」
僕の混乱を無視して話が続いていく。
有村が、まるでマイクを差し出すみたいに、『華』に向けて拳を伸ばした。
『香月華さん! 結婚を決断された理由を聞かせてください!』」
「えへへえ。じつはー」
『華』はとろけるような笑顔を浮かべながら、レースの手袋をはめた左手をお腹にあてる。
そして、そのお腹を愛おしそうにゆっくりとなでた。
「あたしと、拓留さんの、愛の結晶に導かれたから、かな?」
「『愛の結晶! 一体それはどういう意味ですか!』」
「えー。恥ずかしいよお」
「『そこを是非!』」
「えっとお」
『華』はゆっくりと視線をお腹に向けた。
『華』のお腹はぷっくりと膨らんでいた。
「赤ちゃんが出来たんです」
「……な」
「来月生まれるんです」
「なんだって!?」
「つまり、出来ちゃった婚って奴か。さすがはむっつりスケベ」
「どんな子が生まれてくるのかなー。タクに似てるのかな? 華ちゃんに似てるのかな?」
「ハイブリッドかもしれません。宮代先輩、黙ってれば整った顔してますし、男の子でも女の子でも、イケメンが生まれそうです。いやあ、宮代先輩若いっすねえ! ヤる時はヤる男! しかも的中率半端無い! それとも試行回数が多かったとか!?」
「んふふふ。拓留さんってほんとそういうのが好きでー。ほぼ毎日なんです。ストレスたまってる時は特に激しくて……。でも、拓留さんの体温を感じると愛されてるって思えるから、あたしも受け入れちゃうんですよね。休み時間でも『口唇欲求が募った』とか言い出して、校舎裏に連れて行かれるんです。しょうがないから、そこで満足するまで舐めさせてあげたりして……。ほんと、子犬みたいでかわいいんです」
「はあ!? なななな、舐めさせる!? そ、それは具体的にはどういう!?」
「童貞は黙っててください」
「ハイ」
「この前なんか部活の最中にRINEでお願いされちゃって。仕方ないからみんなに見えないようにカーテンで隠して、ええと、あの……その、口で……」
「く、口で!? 口でなにをしたんだよ! おい!」
「童貞は黙っててください」
「ハイ」
「でも、その宮代先輩の変態性欲のおかげで、こうしてゴールインできたわけですから、災い転じて福となすですね」
「華ちゃん、タクがケダモノで良かったね」
「はい。あたしも気持ちいいの大好きですから♪」
「ちょっと待て! 今の話を信じるのかお前たち!」
「どこかおかしな所があったか?」
「私が想像している宮代先輩の行動そのものです」
「そうだねえ」
「お前たちは普段僕のことをそんな目で見ているのか!」
「拓留」
「ひっ! く、来栖!」
ここまで黙っていた来栖が、ツカツカと僕の前に歩いてきた。
「……拓留」
「ま、待ってくれ来栖! これはなにかの間違いで──」
「おめでとう」
「……へ?」
「拓留の計画性の無さにはちょっと思う所もあるけれど。でも、今日はそういうこと言うのやめとくね。だって、可愛い弟の門出の日なんだもの。香月を生まれてくる赤ちゃんともども、絶対に、幸せにするのよ」
「お姉さん! ありがとうございます! 拓留さんと、この子と3人で、絶対に幸せな家庭を築きますから!」
「なんて美しい光景でしょう!」
「そうだね!」
「おおおおれなんか、か、感動しちゃった……!」
来栖の涙につられてみんなが泣き出し、なんかこのまま全ての物語がハッピーに幕を下ろすノリになりつつあった。
この流れを止められるのは、僕しかいなかった。
「ちょっと待ってくれ! ぼ、僕はまだ結婚なんてしないぞ!」
「えええ!? 責任とってくれるって言ったじゃないですか! あれはその場限りの嘘だったんですか!?」
「責任もなにも、そもそも僕は、お前と子供を作った覚えもない!」
「そんな! 最初からあたしの身体だけが目的だったんですね! 自分の性欲を満たしたいがためだけに、純真な乙女の気持ちを弄んだんですね! ひどい、酷すぎます! いえ、あたしのことはどうでもいいんです」
『華』は悲しげにぷっくりと大きくなっているお腹に手を当てた。
「この、生まれてくる子供が可哀想です。こんな無責任なお父さんだったなんて……」
そう言いながら、芝居がかった仕草でよよよよ……とその場に泣き崩れた。
「あのなあ……!」
と、その時。
「……拓留」
「来栖! 聞いてくれ! 僕は無実だ!」
「まだそんな事言ってるの?」
「……え?」
「ヤることだけヤっておいて、あとは知らないフリするなんて。拓留。最っ低ね、あんた」
「はがあっ! まったく身に覚えのない話なのに、なぜか良心が痛む!」
「正直、宮代はいつかこういうことするんじゃねえかなと思ってたけどな。俺は。でも、やっぱお前最低だよ。宮代」
「ひぎゃあっ! 心が、心が痛い!」
「わかっていた事ではありますが、やっぱり女の敵ですね。宮代先輩。最低です」
「ふぐうっ!」
「………タク、最低」
「ふぁごおっ!」
「最低!」
「最低!」
「最低!」
「うおおおおおおおおお!!!!!!」
……我ながら、酷い妄想だった。
しかしまあ、本当に在学中に出来ちゃった婚をすることになったら、確実にこういう態度に陥るだろう。
注意してかからねば。
ここで香月にキスをしたら、今妄想した展開へと一直線かもしれない。
しかし、まだ、キスはしていない。
これから、するのだ。
香月の顔が、30センチ前に迫る。
いや、実際には香月は目を閉じたままそこにいるだけだ。迫っているのは僕の方だ。
着陸船は既に月の引力に囚われていて、自身の力では軌道に戻ることはできない。
ぷるぷるの唇は、ただ、僕の到着を待っていた。
──と、その時。
「ん?」
なぜか、香月がゆっくりと目を開けた。
「ん? ん?」
ぼんやりとした瞳でパチパチと瞬きをしている。
「ん? ん? ん?」
目の焦点が合っていないようだった。
「ん? ん? ん? ん?」
何度目かの瞬きの後、ようやく目の前に僕の顔が迫っている事に気付いた。
「んんん!!!???」
もちろん、僕は香月のその異変に気づいていた。
しかし、既に着陸態勢に入っている僕の唇は、慣性の法則により急に止める事はできなかった。
「か、かづきっ!」
「んーーーーーーっ!!!!!」
──!
香月は反射的に僕の身体を両腕でめいっぱい突き飛ばした。
たまらず僕は床に転がる。
──パシャ……!
──パシャ……!
カメラマン「いいねー! 予定とはちょっと違ったけど、これはこれで幸せな家庭を感じさせる良い写真になるよ! あっはっはっは!」
「あ、はは……」
なんというか。
今日は転んでばかりだな……。
………
……
……
「はあ……酷い目にあった」
「……ん」
ようやく元の服に戻った僕と香月は、特にあてもなく渋谷の街を歩いていた。
107に入る前は青空だったのに、今は空一面を灰色の雲が覆っている。
時々ごろごろと嫌な感じの音が聞こえてくる。
「雨が降りそうだな」
「……ん」
「僕、傘持ってないんだよな」
「……ん」
「えーと……」
「……」
「……はあ」
会話が続かない。しょうがないので黙って歩く。
あの写真屋でキスする直前に、『華』がいなくなり、いつもの香月に戻った。
──!
「いつつ……写真屋で転んだ時、ひねったのかな」
「…………申し訳、ない、かも」
「ああいや、香月のせいじゃない。すべてはあいつの責任だ」
「………ん……」
香月の返事になにか迷いが混じっていたように聞こえたけれど、それがなんなのかは分からなかった。
「とはいえ、これからどうすればいいのかな……。この後どういう予定だったのか、あいつしかわからないんだよな……。香月、お前はあいつがなにを考えているのか、わからないんだよな?」
「ん……」
ほんの少しだけ頷く。
「ということは、あの時、あいつが突然いなくなった訳もわからないわけか」
「ん……」
さらに首の角度が小さくなって、良く見てないと頷いているのかよくわからない。
歩きながら考える。
あの時キスをしていれば、『華』の目的は達成していた筈だ。なら、なぜそれを途中でやめたんだ?
単に僕をからかって楽しんでいるだけなのか?
非モテの男子高校生が狼狽している姿が見たいだけなのか?
(……それとも)
それとも、口ではああ言いながらも、やはり香月本人の意志を尊重しようとしているのか?
青春を謳歌するのは『華』ではなく、香月だと考えているんだろうか?
「……ふむ」
なんとなく、この推測が正しい気がしている。
根拠はないが、今日一日『華』と接していて、辿り着いたのがこの感覚だ。
あいつは、一見ちゃらんぽらんに見えるが、行動には一貫性があるように思える。
「……ん」
急に香月が立ち止まり、空を見上げた。
「どうした?」
「…………雨……降ってきた、かも」
釣られて見上げると、頬にポツッと雨粒が落ちた。
そして、たちまち夕立になった。
捻った足のおかげで素早く走れず、僕と香月はたちまちずぶ濡れになってしまった。
「とりあえずあそこで雨宿りしよう!」
「ん!」
軒下を借りたのは、見た事があるようなないような建物だった。
入った記憶があるようなないような所だが、なんの建物かは分かる。
ラブホテルだ。
2人でとぼとぼと歩いている間に、いつの間にかラブホテル街を彷徨っていたらしい。
(しまった……)
あきらかに場違いなので長居したくはないのだが、周囲に見える建物はどれも似た様なラブホテルだった。
かつ、雨足がますます強くなっていて、この中を駅前まで走るのは勘弁だ。
「ひとまず、雨が収まるまでここにいよう」
「ん」
エントランスは無人で、僕らがここにいても文句を言いに来る人はいなそうだ。
「くしゅっ」
可愛らしいくしゃみの音に振り向くと、香月がティッシュをまるめてカバンに入れていた。
「香月、寒いのか?」
「ん-ん」
首を振るが、香月は身体をぶるりと震わせ、自分を抱きしめるみたいにして身体をさすり始める。
元々薄着なのもあるだろう。ショートパンツから伸びるふとももを何本もの雨の筋が伝っている。
上に来ている長袖のジャージも雨がじっとり染みていて、腕や腰のラインが生々しく浮き出ていた。
「くしゅっくしゅっ」
更にくしゃみが続く。
「……」
僕はエントランスを振り返り、次に豪雨になりつつある外の風景を見て、最後に財布の中身を確認した。
「…………はあ。香月、中に入るぞ。休憩していく」
「……」
「んんんんんんっ!?」
香月が頬を赤くして、目を大きく見開き、瞬時に三歩後ずさったので、僕は慌てて訂正した。
「ち、違う! 文字通りの意味だ! いやらしい意味じゃなくて!」
「……ん?」
「そのままだと風邪を引くだろ。それで後で来栖に怒られるのは僕だ。シャワーを浴びて、服をできるだけ乾かす。お前には指一本触れない。約束する」
「んんん……」
香月はまだ逡巡しているようだった。僕は我ながら情けないと思いながら最後の切り札を出した。
「安心しろ。僕がそんな度胸のある男に見えるか?」
「…………ん」
ようやく納得してくれたようで、香月は黙って僕についてきた。
……多少、複雑な気分ではある。
………
エントランスの壁に並んでいる部屋一覧のパネルから、一番安い部屋を選んで押すとチケットが落ちてくる。
そのチケットにお金を添えて小さな窓口に置くと、向こうからぐいっと手が伸びてきてそれを受け取り、代わりに部屋の鍵が差し出される。
緊張しながらそれを受け取り、エレベーターへと向かった。
………
「……ん」
エレベーターが動き出すと、香月が僕を少しジト目で睨んだ。
「なんだ?」
「……なんか、慣れてる、かも。ラブホの、入り方」
「……こんなの、男子高校生の常識だ」
「……そう、なの?」
クールキャットプレスの『初めてのラブホマナー』を熟読した成果だとは、言わないでおいた。
……
……
部屋には丸井回転ベッドがあった。なぜかそれを見るとぞわぞわとした気分になるのだけどそれは気にせず、まずは浴室を探し、湯船にお湯を溜めた。
本来ならそこで香月を風呂に入るように言うと『お湯が溜まってからでいい』と言われた。
僕たちは靴下とか、脱げる物は脱いで、バスタオルで濡れた身体を拭いた。
……
お湯が溜まるまでの微妙に長い時間。ラブホテルの一室に二人きり。
僕はその状況がどうにも恥ずかしくて、香月に背を向けていた。
すると、珍しいことに、香月の方から話しかけてきた。
「拓留先輩は、優しい、かも」
「なんのことだ?」
少しの沈黙。
「つき合う義理が、ないのに。ここまで、してくれる。……それに」
「それに?」
「こんなシチュなのに、襲ってこないし」
「するか! ……優しいんじゃない。断ったり襲ったりする度胸がないだけだ。どちらかといえば、僕は人には冷たい方だ」
「ん-ん。そんなことない。先輩は、優しい。先輩だけじゃなくて、新聞部の人は、みんな、やさしい」
「どういう意味だ?」
「みんな、わたしが困ってると、なにも言わなくても、助けてくれる。部活に入った時も、そう」
「ああ、そういえば、香月は来栖に誘われて新聞部に入ったんだったな」
「ん」
前に来栖に聞いたことがある。
新学期が始まって何日かした頃、来栖は廊下でプリントを散らばせてしまい、困っている香月に出会った。
香月は、自分から一切喋らないのを良いことに、クラスメイトや担任教師からいいように雑用係として使われていた。
歩く正義感である来栖がその状況に抗議し、校内に居場所を用意できないかと思い、新聞部に誘ったのだ。
数日後に香月は部室に現れた。来栖自身はダメもとのつもりだったので、逆にびっくりしたそうだ。
以来、窓際でエンスーに励む彼女の姿が日常になった。
……
「来栖は、優しいっていうか、困ってる人を見過ごせない奴だから。なんていうか、世話好きなだけだ」
「ん-ん。それも、やさしさ」
よくわからない。
「まあ、もし来栖がいなかったら、香月が今みたいに放課後エンスーやってることはなかっただろう。来栖に感謝するといい」
「……ん-ん。それだけじゃ、ない」
「え?」
「わたしが、あそこにいられる理由。乃々先輩だけじゃ、ない」
「どういう意味だ?」
「ん…………それは」
と、その時。
──ピ、ポ、パ、ポ……!
「ひぃっ! な、なんだ!?」
突然室内に響いた音に、身体がビクッと震える。
「お湯が、溜まったんだと思う」
「そ、そうか! 驚かせるなよな……。さあ、入ってこい」
「んーん。先に、どうぞ」
「僕は後でいいよ。香月の方が冷えてるだろ」
「……んんん」
「なんだよ」
「……シャワーの音が聞こえたら、恥ずかしいから」
いつになく感情の籠もった香月の声が耳に届き、勝手に身体が熱くなっていく。
「どれくらい聞こえるのか、確かめたい。だから先に、入って」
「……そ、そうか! そうだな!」
声が裏返りながら僕はぎこちなく立ち上がり、洗面所に走った。
……
熱いシャワーが肌を伝い、冷え切っていた身体を温めていく。
(香月はなにを言いかけたんだろう?)
『それだけじゃ、ない。わたしが、あそこにいられる理由。乃々先輩だけじゃ、ない』
(香月が、新聞部にいられる理由……って、なんだ?)
僕の印象では、香月は気がつくと部室に居ついていた。
来栖から聞くまで、香月の入部の経緯も知らなかったくらいだ。
新聞部のメンバーは、良い意味でも悪い意味でも、他人のパーソナルスペースに無理に入ろうとしない所がある。
香月のように、人嫌いではないが他人と喋るのが苦手な人間には、居心地の良い空間なのかなと勝手に思っていた。
(……ふむ)
まあ、いいか。僕には関係のないことだ。
「……気にしないことにしよう」
──「なにを気にしないの?」
「ひああっ!?」
予期しないほど近くで声がして、思わず悲鳴を漏らす。
振り返ると、浴室の真ん中に、香月が立っていた。
「お、お前! 香月じゃないな!?」
「YES! お背中流しに来ました!」
香月は、黒のビキニの上から、ショート丈の薄いTシャツのような物を被っていた。
水着のボトムは超ローライズで、強い波が来れば脱げちゃうじゃないかってくらい細い紐で結ばれている。
トップはトップで香月の恐るべきおっぱいを支えるには心許ない面積で、それによってより巨大さが強調されていた。
「どう? 可愛いでしょ!」
両手を広げながらこちらに近づいてくる。
『華』が一歩進むたびに、おっぱいが揺れてTシャツの隙間から肌色の豊かな曲線が零れ、僕の心臓を跳ね上がらせた。
「ななな、なんて格好をしてるんだ!」
「裸の先輩に言われたくないなあ」
言われて、ようやく僕は自分の格好を思いだした。
「ぎゃーーーーー!!!!!」
慌てて下を両手で押さえ、背を向ける。
「隠さなくていいよお。先輩思ったより筋肉質だね」
「うううう、うるさい! 質問に答えろ! なんで水着なんか着てるんだ!」
「えー? 宮代先輩は、こういうの脱がせるのが好きなんだと思ってた。それともやっぱり水着より制服が良かった? 今日は持ってきてないけど、この後家に寄ってくれれば着てあげるよ♪」
「なんの話をしているんだ!?」
「着衣プレイの話でしょ?」
「してない!!」
「まあまあ、いいじゃない」
僕のすぐ後ろに立った『華』は、僕の腕をやさしくつかみ、濡れた手の平でゆっくりとなで回してきた。
「ね、先輩。ラブホに入ったの、運命だったんだよ。あたしと先輩は、こうなる運命だったの。だから、楽しもうよ。今日一日だけだからさ。先輩だって、こんな可愛い子にしてもらえるんだよ? きっと、今まで生きてきたなかで、一番気持ちいい経験になるよ。大丈夫、全部あたしがしてあげるから。先輩はじっとしてるだけでいいの。きっと、忘れられない思い出になるよ……」
──!
-POSITIVE TRIGGER ON-
「じゃあ、お背中流しますね」
「へ?」
『華』はそう言うと、僕から少し離れて、Tシャツを脱ぎ始めた。
「な、なにを」
「んふ」
そして背中に手を回し、水着のトップの後ろの紐をするするとほどき、そのまま床に落とした。
「なっ!?」
更に、ボトムの紐も引っ張ると、香月の身体を覆っていた最後の布が、スローモーションのように落下していった。
「ちょっと準備しますね」
ボディーソープをスポンジに落とし、それをぽしゅぽしゅと叩く。
たちまち、『華』の両の手の間に、真っ白な泡の塊が生まれた。
「んふ」
『華』は微笑みを浮かべながら、その泡を自分の全身になでつけていった。
「さあ、準備できました」
「じゅ、準備? な……なんの?」
「先輩の身体を洗う準備です」
『華』は、今や泡だらけで肌色部分がほぼ見えなくなっている胸元を指さした。
「スポンジはあ・た・し」
「なっ!?」
『華』はその胸元を僕の背中にべったりとくっつけ、ゆっくりと上下に動かした。
今まで肌で触れた物の中でもっとも柔らかい二つの塊が、僕の背中を擦っている。
それ自体が気持ちいいとかは問題ではなく『自分が今なにをされているのか』が、脳内から快楽物質を大噴出させていた。
「先輩、わかる?」
「な、なにが?」
「おっぱいのさきっちょ♪」
「さ、さきっちょ!?」
「そ。どこにあるかわかる?」
背中に意識を集中させる。
押しつけられている二つの柔らかな物体は、確かに、それぞれの中心あたりに、少し突起があるように感じた。
「こ、これが!!!」
「そうだよ。私も先輩とこうしてて、興奮してるの」
『華』が耳元で囁く。
「さきっちょ、勃っちゃった」
その言葉に、僕の理性は崩壊した。
「ぬあああああ!!!!!! かづきいいいいい!!!!!!」
「せんぱあい! あたしをあいして!」
……なにを馬鹿なことを考えているんだ、僕は。
これまでの経緯から、『華』は単に僕をからかいたいだけで、一線を越える気がないことは分かっている。
それに、『華』は香月の意志を尊重しているようにも思える。
だから、僕が理性を保てる限り、そういう展開にはならない筈だ。
落ち着け。僕。
「なーんてね。嘘」
「……はあ?」
「華が恥ずかしがって先輩を先にシャワー浴びさせたでしょ。でも、やっぱり身体冷え切って限界だったみたいなの」
「……結構くしゃみしてたもんな」
「そそそ。で、もう我慢できなくて、どうしようって"あたし"に相談してきてさ」
「お前に?」
そんなこともできるのか。
「ん。それで、だったら宮代先輩と一緒にシャワー浴びればいいって提案したの。華は恥ずかしがったけど、水着を着るし、脱がないってことを約束して、あたしに切り替えさせてもらったの。というわけで、一緒にお風呂入ろうよ。宮代先輩♪」
「こっ、断る! お前は構わないのかもしれないが、こっちは裸なんだぞ!?」
「気にしないって言ったじゃーん」
「そっちが気にしなくてもこっちが気にするだろ!?」
「大丈夫だよ。もう全部見ちゃったし。なかなかいいモノ持ってるね先輩」
「さらっと凄い事言ったな今!?」
『華』は強引に僕の腕を取り、バスタブの方まで引っ張ろうとする。
「ほらほら、肩まで浸かろうよ。身体が芯まで温まるよ」
「ば、バカ、やめろ!」
片方が下半身の絶対防衛領域を隠しているのもあって、『華』の方に引っ張られてしまう。
「えーじゃあさ、こういうのはどう?」
「どうって?」
「湯船に浸かっている間。華のおっぱいを枕にして寝ていいからさ♪」
「なっ!?」
悲しき男のサガで、ほんの一瞬、その情景を想像し、ほんの一瞬、身体の力が抜けた。
その間も『華』は僕の腕をひっぱり続けていた。
その結果、僕の身体に絶妙な運動エネルギーが加わり、両の足がツルッと床のタイルから滑った。
「え?」
「え?」
一瞬で風景が一回転し──
──!
──僕は頭から床に激突した。
「あがっ!!」
「うっそ! ちょっと先輩! 大丈夫!?」
心配げに叫ぶ『華』に答える事もできず、僕の意識は急速に薄れていった。
「起きて! ねえ、起きてってば!」
ああ。
「先輩!」
今日は、転んでばかりだな……。
………
「……もう、やめたい、かも」
『どうして?』
「ん-……!」
……
「……んん……」
誰かの声が聞こえた気がして、うっすらと目を開ける。
頭の中がもやが懸かっているみたいになってて、自分が今どこにいるのかが一瞬分からなかった。
「……いてっ」
後頭部に小さな痛みが走り、そのおかげで頭のなかのもやが晴れた。
──!
(風呂場で頭をぶつけて気を失っていたのか。情けない話だな……)
どうやらベッドに横たわっているらしい。まだ後頭部は少し痛むけど、それ以外は正常だ。
(よいしょ、と……)
ベッドの上で身体を起こす。部屋は薄暗く、周囲に人の気配は無い。
(……バスローブを着ている。香月が着せてくれたのか?)
その状況を想像すると今すぐ自殺したくなるので、必死に意識から外す。
と、その時。
──『ここまで来たんだから、最後までやろうよ』
──「……んんん。でも……こんなのよくない、かも」
洗面所の方から声が聞こえた。
ドアは開いていたが、僕のいる場所からは洗面所の中が見えなかった。
(香月か? でも、誰かと話しているような……?)
香月の声に少し思い詰めた物を感じ、声をかけるのがためらわれた。
僕はなんとなく音を立てないようにベッドから下りて、ゆっくりと洗面所に向かう。
その間も会話は続いていた。
『よくないって、なにが?』
「なにが、って……んんん……」
洗面所に辿り着き、そっと中を覗き込む。
香月がいた。洗面所の隅っこにうずくまり、うつむいて膝を抱え、縮こまっていた。
他には、誰もいなかった。
(どういう、事だ?)
「だって、こんなのズルい、かも」
香月が呟く。すると──
「……」
『ズルい? どこがズルいの?』
(なっ!?)
瞬時に香月が『華』に変わり、"自分自身に答えていたのだ"。
(二人で会話してるって事か?)
「んんん……」
『ダメよ。ちゃんと言葉にして』
「ん……」
盗み聞きはよくないと思ったが、"二人"の会話が途切れず進んでしまい、中に入る機を逸してしまった。
「だって……拓留先輩の気持ちを利用してる、かも」
(利用してる? どういうことだ?)
「先輩は、あなたのワガママに振り回されてると思ってる、かも」
『その通りじゃない。だからあんたが気にすることなんかなんにもないのよ』
「んんん!」
香月は大きく首を振った。
「それが、利用してる、かも」
『わかんないわね。利用してるって、誰が?』
「ん……」
香月は一度言葉を詰まらせ、そして言った。
「私、達、かも」
『あたし達?』
「……ううん、違う、かも。拓留先輩の気持ちを利用しているのは──」
香月の言葉はどんどん小さくなっていき、最後には消え入りそうだった。
「──わたし、かも」
『…………ふう。そうね、その通り。宮代先輩の気持ちを利用しているのは、あたし達じゃなくて、あんた。あんただけよ。確かにあたしは宮代先輩とできるだけ長くデートがしたい。キスがしたい。できるんだったら処女だって捧げたい。でもね、分かってるんでしょう? あたしがどうしてそんなに宮代先輩が好きなのか』
「…………ん……それ、は。わたしが望んでいるから、かも」
(……え?)
『華』の行動を、香月が望んでいるっていうのか?
香月は、突然自分の中に生まれた『華』という人格に振り回されて、大迷惑なんじゃないのか?
『そうよ、あんたが望んでるから、あたしはここにいる。引っ込み思案で、コミュ障で、おまけに厄介な能力のおかげで喋ることもママならないあんたの代わりにここにいるの。"あんたが宮代先輩とデートをしたいと思ってるから、あたしはここにいるのよ"』
(……はあっ!?)
あまりに予想外の展開に、僕は一瞬、ほんの一瞬、身体のバランスを崩し、小さくよろけた。
体勢を保つために、壁に向かって自然に手が伸びた。
そこに、たまたま、洗面所の電灯のスイッチがあった。
ぱっと洗面所が明るくなり、香月がハッと首を跳ね上げ、僕と視線を合わせる。
「……っ!?」
「あ、いや、香月、これは──」
「んんんん!!!!」
──!
華は真っ青な顔で立ち上がり、こちらに向かって来る。
「か、香月、立ち聞きしたのは悪かった。でもな──」
「……」
「は、話を──」
僕を無視して洗面所から出ようとするので、思わず香月の肩を掴んだ。
「んっ!!」
──!
香月は大きく身体を振って、僕の手をほどいた。
そのまま玄関に出て、扉に手をかける。
「香月! 待ってくれ!」
香月は一瞬立ち止まり、こちらに振り返った。
香月は、泣いていた。
「…………ごめん、なさい」
──!
「香月!」
……