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-ノベルゲーム・タイピング-

世界でいちばんNGな恋【23】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
または
Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。

 

 

 


--------------------

 

 

 

……

 

「んじゃ、行ってきます…」


「尾関…」


「あ…」


「そ、その……おはよ」


「………おはよう、陽坂」


………

 

 

 

「………」
「………」
「あ、あの…」
「推薦決まった。北洋南」
「え…?」
「昨日、香野先生から連絡あってさ。これで一足先に受験地獄から解放。あとは卒業式を待つばかりってな」
「あ、おめでとう尾関。よかったね、あんたの努力、実ったじゃん」
「春休みになったらすぐに練習に参加するから、そろそろトレーニング再開しないとな。…どれだけナマったか怖ぇよ」
「うん、うん、本当、すごいよ。…あ~、ええと、試合は一回しか見てないけど、なんとなく凄いかもってのはわかってるから!」
「そんなわけで…勉強会も解散だ。今までありがとうな、陽坂」
「あ…」
「ここ二月ばかり、本当、楽しかったし勉強になった。…実はさ、年末の統一テスト、結構自信あんだよ。もしかしたら自己ベスト更新できるかも」
「………」
「以上。じゃ、俺先に行くわ陽坂。今日から走って登校することに決めたから」
「あ…」
「お前も特待試験もうすぐだよな? 今の俺が言うと嫌味かもしんないけど、頑張れな!」
「あ、あ…っ」
「おっしゃ~、そんじゃ気合い入れて…」
「待って尾関!」
「あ~、いや、ほら、自主トレを…」
「駄目。ちゃんと話をするために待ってたんだから…。だから、このままうやむやにするのは駄目だ」
「あ、だから…俺は別にいいって」
「ううん、ハッキリ言わなくちゃ駄目だ。でないと、尾関に失礼だから」
「…俺としてはハッキリ言われる方が堪えるんだけど」
「うん、でもあたし、自分勝手なんだ。人の気持ちが考えられない、悪い意味でのお子様なんだ」
「………」
「だからごめん…ハッキリ言う。あたし『好きな奴がいるからつきあえない』!」
「あ、あ~…」
「本当は、泣きながらじゃなきゃいけないんだっけ? でも、泣く方はこの前散々やってみせたよね?」
「陽坂…」
「尾関には本当に酷いことした。その人のこと、ずっと好きだったのに、心が辛くなったとき、何度もあんたに頼っちゃったりした」
「いや、俺は…その、濃々(こいこい)気づいてたし」
「なのにあんた…あたしの想い、気づかせてくれた。あたしが馬鹿だったって、思い知らせてくれた」
「俺も馬鹿だったってあの後思い知ったけどな」
「感謝、してる。仇でしか返せないけど、ね」
「もういいよ、陽坂…」
「本当に良かった…あんたが推薦受かってて。あたしたちの、初めての大事な時期に、酷いこと、巻き込んじゃって、ごめんね」
「酷いことになってんのはお前の方だろ? 大丈夫なのか? 特待試験?」
「わかんない…ここ最近、勉強、全然手につかないから」
「おいおいおい…」
「でも、これもあたしのせいだもん。卒業までは受験に専念しておけばよかったのに、早めに諦めようとして、かえってドツボにはまってさぁ」
「来週だろお前の試験…なんとか切り替えろよ」
「無理じゃないかなぁ…。あ~あ、タイミング悪ぅ」
「戦う前から諦めてんじゃねえよ……どっちもさ」
「しょうがないじゃん。あたしの心、手先ほど器用じゃないもん。『それはひとまず置いといて』ってできないもん」
「…なら入試前に決着つけろよ。少なくとも、相手に気持ちだけは伝えとけ」
「そんなことしたら、彼、すっごく苦しむよ。あたしのこと、娘だって思ってくれてるのに。他に好きな人だっているのに…」
「自分勝手なんだろ? 相手の都合なんかお構いなしなんだろ?」
「え…」
「それとも何か? 好きな男のためだったら自分の気持ち抑えられるのか? …そりゃまた、本当に自分勝手だな、お前」
「………」
「なんだよ?」
「あんたって…実はすっごい優しいね、尾関…」
「だからリストラされました、陽坂に」
「………ごめん」
「いや、それネタだから。お互い苦笑いするところだから」


………

 

……

 

 

 

 

 

「絶交ね」
「………」
「あたしさ、こうなっちゃったの、自分の責任もかなりあるってわかってる」
「そんなこと…ないって」
「そんなことある。トコがいけない恋してるから目を覚まさせたくて、先生や尾関や…あんたをけしかけたんだから」
「そうだったんだ…」
「先生と旦那さんが元通りになるか、トコと尾関がいい雰囲気になるか…ならなくても、あんたが今の恋を諦めてくれればって……」
「心配かけちゃってたんだね、倫子にも」
「だって最近のトコ、すっごい辛そうだったし。だからって、後押しなんかできるわけないし。だったら、邪魔するしかないじゃない」
「そんなに駄目かな? あたしの恋って…」
「冷静に考えてみなよ? あんた今いくつなのよ? 相手、もう30だよ?
「29だよ…まだ二十代だよ」
「先生の元旦那さんだよ? 先生だって、未練ありありなんだよ?」
「だったらなんで別れたりするかなぁ…。あたしだったら、好きなら絶対に離れたりしない」
「旦那さんだって、きっとまだ先生のこと想ってる。近くで見てたトコが一番良くわかってるよね?」

「それでもあたしを一番大事にするって…ずっと、守ってくれるって言ってくれたもん」
「そんなの親代わりとしてでしょ? 恋人になりたいなんて言ったら苦しむよあの人」
「そんなの、告白してみなくちゃわかんない」
「尾関はどうなの? あいつ本気だったんだよ? 本気で、トコのこと…」
「いい奴だし甘えてたし悪いって思ってる。だけどあたしが好きなのは理くんだけだもん!」

 


──パシッ……!!

 



 

「………」
「………」
「とりあえずさ…あたしの責任も色々あるんだけどさ…」
「倫子…」
「それでも、トコが尾関にした仕打ちを許すつもりはないから」
「うん…そだね。あたしも、許されるべきじゃないと思う」
「いい加減目を覚ましなよトコ…」
「目、覚めたよ。だからあたし、嘘つくのやめたんじゃん」
「もし、あんたの想いが届いたとしてもさ…あんた以外、誰も幸せにはならないんだよ?」
「…かもね」
「先生も尾関も…先生の旦那さんだって、みんな、あんたのワガママに巻き込まれて、辛い思いをするんだよ?」
「尾関には…倫子からも謝っといてね。ホント、悪かったって」
「ねぇ、やめようよ……。そんな駄目な恋なんて誰も応援しないよ…」



 

「応援なんていらない。一人で頑張るの……慣れてるもん」
「トコ!」
「…もう、いいかな? そろそろ職員室行かないと」
「…っ」



 

「香野先生に呼ばれててさ……。冬休み明け初日から、妙に忙しいね、あたし」
「……そう」
「ごめんね、倫子」
「謝らなくていい。だって、あたしとトコは今、絶交状態なんだから。口も利かない関係なんだから」
「本当に…ごめん」
「………」

 

……

 

 

 

 

「……………っ……泣くなあたし…自分の選んだ道じゃんかぁ!」


………

 

 

 

 

「別にね…今回の結果が、入試に影響あるかって言うと、そんなことはないの」
「うん…」
「これは業者の模擬試験だし、内申点には影響ないし。それにあなたの場合、一般入試よりもかなり前だから、受験校にこの結果が行くことはない」
「そか、よかった…」
「よくないわよ…入試、もう来週なのよ? どうしちゃったのよ一体…?」
「………」



 

「5教科で総合280点…平均56点、校内202位って…しかもわたしの数学がよりにもよって…」
「16点かぁ……ちゃんと正解あったんだ。全部あてずっぽうだったのに」



 

「…もしかして、わざと?」
「だったら、カッコいいよね」

 

 

 

「美都子ちゃん!?」
「ちゃんと真面目にやったよ…これが今の、あたしの実力なんだよ」
「そんな訳ないでしょう? あなた前のとき、455点取ったのよ? 校内2位だったのよ?」
「そんなこともあったね…」
「あったってね…二月前よ?」
「そっか…」
「ねぇ美都子ちゃん? 一体何があったの? あなたあれだけ頑張ってたじゃない。絶対に特待で秋泉大附行くんだって」
「何…って」
「理だって、姫緒さんだって、一生懸命勉強を見てくれてたじゃない。今でも家庭教師続いてるんでしょう?」
「ま、ね」



 

「こんな結果持って帰ったら、二人ともパニックよ? 理なんて、熱出して寝込んじゃうかも。…わたしからは、とても教えられないわよぉ」
「あたしから言うからいいよ…先生は別に、理くんに会わなくていいよ」
「あ~…ごめんなさい。生徒を責めてどうするのよわたし。今いちばんショックなのは、美都子ちゃんだっていうのに」
「そうでもないよ…試験終わったときに、こんなもんだろうなって思ってたから」
「どうして…? 本当に、何も心当たりがないの? それとも、わたしには言えないこと?」
「話してもいいけどさ…」
「なら話して。わたし、あなたとは教師と生徒だけなんて思ってない。それに…この前の恩もまだ返せてないし、ね」
「わたし、先生に恩なんか売った覚えはないけどなぁ」
「一月も世話になったじゃない。テラスハウス陽の坂に」
「あれは理くんが勝手にしたことだし。貸してる部屋に何人で住もうと、大家としては何も言わないよ」
「それだけじゃない…理が治るまでの間、ずっと食事の面倒見てくれたし、本当、プライベートでも何から何まで世話になって…」



 

「あたしは、理くんさえ望めば、何だってしてあげたいって思ってるよ。…先生と同じでさ」
「…美都子、ちゃん?」
「だからさ…あたしの話の前に、先生に、教えてもらいたいこと、あるんだよ…」
「な、なぁに?」



 

「………先生、さ。あの日…クリスマスイブの夜。理くんと…何か、あった?」
「え…っ?」

 

………

 

 

 

 

「いた…」


約束の時間の5分前。

あの、クリスマスの日と同じように、そわそわも、きょろきょろもせず、ただ淡々と、僕が来るのを待っている。


「麻実…お待たせ」



 

「理…」


今日も、途中で履き替えてきたのか、高めのヒールで僕との身長を合わせてきてくれた。

服は、いつもの仕事用のスーツだけど、仕事帰りにしては、化粧も直ってるみたいだし、僕と会うために、色々と準備をしてきてくれたことが伺えて…


「あ…」
「ごめん…少しだけ」


この前と同じように、目の前の麻実の存在を、目以外で確かめたくなってしまう。


「理…もう、みんな見てるわよ?」
「すぐ離れるから。ちょっとだけだから…」


すぐに僕の嗅覚が届くところにある麻実の髪。

頭を抱きかかえるように、僕の胸に寄せて、ゆっくりと、目を閉じ深呼吸を繰り返す。


「すぅ…はぁぁ…ああ、麻実の匂いだ…」
「理…あなた」
「やっぱり麻実だ…いつもの香りだ…」
「いつもそんなふうにしないと落ち着けなくなっちゃったの? 一体、どんな辛く厳しい毎日を送ってるのよ?」
「………」
「…理?」
「二月ぶりくらいの仕事だからね。ペースを取り戻すまでは、なかなか気が休まらなくてね」
「本当に…それが理由なの?」
「それ以外に何があるって言うんだよ…」
「他に…悩みがあるんじゃないの? もっと、大きくて深い」
「…麻実」
「ん?」
「それじゃ、食事に行こうか? 前回が贅沢しすぎたから、今日はシャンゼリアでいいだろ?」
「あ…」



 

すぅっと身体を離すと、麻実は、少しぼうっとした表情で僕を見上げたままだった。

その視線は、僕を咎めているようにも、そして、見透かしているようでもあり、ほんの少しだけ、居心地の悪さを感じた。


………



 

「え…?」
「だから、年末の統一模試の結果。もう出たんだろ? 冬休み明けには発表だって言ってたし」
「あ、ああ、あれね…あれ…そうねぇ」
「トコどうだった? 前回はトップと2点差の2位だったからなぁ。今度こそ狙ってたんだよなぁ」
「あ、あなたが受けるわけじゃないでしょ?」
「それはそうだけど…僕がトップを取るより重要なことだし」
「そう…」
「どうした? もしかして、トップ取れなかったとか?」
「あ、あ~、そうじゃなくて…ごめん、わたしまだ結果見てないの。始業式終わった後、すぐ職員会議が始まっちゃって~」
「…普通、確認するだろ? 三年生の担任なんだからさぁ」
「そ、そうよね…ほんとドジ。これだから二年目の若造は…」
「いや、麻実の場合二年目だけど若くは…」
「その方向での嫌味はお互いを深く傷つけ合うから自重しときなさい、理」
「は、はい…」


ちょっとだけ、ドスが利いていた。


………

 


「え…?」
「だから、美都子ちゃん、冬休みの間どうしてた? 年末にアパート出てっちゃったから様子がわからなくて」
「あ、ああ、トコね…トコ…そうだなぁ」
「………」
「べ…別に何もおかしなことはなかったと思うよ? 一緒に初詣も行ったし、一緒におせちと雑煮も食べたし。…お年玉は今月の給料まで延期してもらったけど」
「…そう」
「きょ、今日、会っただろ? いつも通りだっただろ?」


そう…トコには"それほど"おかしなところは見られない。

時々、ふっとした瞬間に、僕を惑わせる表情を見せるだけで、別にそれ以外は何もない。


「いつも通り…?」
「す、少なくともトコは…」


…"それ"が僕の精神衛生にとって致命的なのを除けば、冬休みの僕らは、仲睦まじく、二人の時間を過ごしてた。

それこそ、クリスマスイブの、あの麻実との夜が、実は僕の初夢に過ぎなかったんじゃないかと思えるくらいに、トコと僕だけの正月だった。


「彼女、ちゃんと笑ってる?」
「そりゃ、まだ怒られることの方が多いけど…」
「冬休みの間も? 理には優しかった?」
「三が日は寝正月だったけどね。トコの部屋でテレビ見て、おせち食べて、うたた寝して…」


トコの部屋でおとそとビールとお酒をご馳走になってたら、いつの間にか朝までこたつで寝てしまった日もあったっけ。

…次の日にお年始に来た姫緒さんに、サッカーボールのように蹴り飛ばされたけど。


「ずっと…一緒だったの?」
「当然だろ? 初めての、水入らずの正月なんだし」
「………」


でもトコは、悪びれずにころころと笑い、その後も、僕をずっと自分の側から離さなかった。

僕の足の裏を、足の指でくすぐってきたり、僕の足に、プロレス技と称して自分の足を絡ませてきたりと、ちょっと悪ふざけの過ぎる年始を過ごしていた。

それどころか、僕が部屋に戻ることや、外出しようとするのを必死で足止めしようとしてたふうにも……これは気のせいか。


「ま、ちょっと疲れたけど、充実した三が日だった。こんな賑やかな正月は生まれて初めてだった…」
「生まれて初めて…って」
「あ! いや、だからさ…麻実と過ごした正月は、静かなものだっただろ?」
「………」


賑やかで、疲れて…

だからに違いない…

夜も眠れないくらい落ち着かなくなってしまったのは。

こうして麻実を呼び出して、彼女の混じった空気を吸わないと、いつか心臓が破裂してしまいそうになったのは…


「なんのつもりよ…あの子」
「麻実?」
「ワイン…頼んでいい? ボトルで」
「え…?」


麻実はそう呟くと、呼び出しボタンを押すとともに、まだ半分以上残っていたグラスワインを一気に煽った。


………

 

 

 

 

 

『な…なんでそんなプライベートなこと、あなたに話さないといけないの?』
『…あたしとは、教師と生徒だけなんて思ってないんじゃなかったっけ?』
『み…美都子ちゃん?』
『プライベートでも何から何まで世話になったって、たった今、言ったばかりだよね?』
『どうしたのよ一体……大体、クリスマスだってあなたが行かないって言うから……』



 

『そうだよ。あたしが譲ったんだ…あの日、先生に理くん、あげちゃったんだ…っ』
『え…』
『だったらさぁ、聞かせてくれてもいいじゃん。あたし、先生にどのくらい負けてるのか知りたい…』



 

『そんなこと知って…どうするつもり?』
『どうするつもりか知って、どうするつもり?』
『そんな子供みたいにふざけないで』
『あたし子供だもん。だから負けなんか認めないもん』
『美都子ちゃん…あなた…』



 

『前言撤回する…娘でなんか、いてやるもんか。あたし、理くんのこと、諦めるの諦める!』
『あ…あ…』
『もう遅いかもしれない。先生と理くん、たぶん、もう仲直りしちゃったよね? きっと、手遅れなんだよね?』
『それは…その…』
『それでも…まだ諦めないことにした。二人が少しだけ仲直りしてたら、一生懸命頑張る。二人がとっても仲直りしてたら…どんな手を使ってでも頑張る!』
『あなた…自分が何を言ってるかわかってるの? 入試一週間前に、こんな…』
『受験に失敗したって理くんが面倒見てくれるもん! あたしには、理くんがいるんだもん!』
『そんなの滅茶苦茶よ! 理がなんのために今まで頑張ってきたのかわかってるの!?』



 

『先生に言われたくないよ! 一度は理くん捨てたくせに!』
『あ、あれは…あれはっ!』



 

 

『先生、卑怯じゃん……なんの障害もなく理くんに愛されて、なのに別れて、でも、まだ理くんに想われてて…っ』
『それが子供の考えだった言うのよ。なんにもわかってないくせに!』

 

………

 



 

「んく、んく、んく…ぷぅ。…ほんっと、なんにもわかってないくせにさぁ」
「も、もしもし…あの、麻実さん?」


5分でボトルが空いた…


「あ~…も一本いいかなぁ? あの~、すいませ~ん」
「飲むなら場所変えよう! なっ」


シャンゼリアで酔ってクダを巻くというのは、店側にとっても客側にとっても、想定外の事態と言わざるを得ない訳で。


「まったく…なんでわたしがさぁ…あんなこと…あんなことっ!」


というか、思い出し怒りほど対処に困る現象はないと思うんだけどどうだろうか。


「今日、学校で何があったの? そんなに嫌な思いでもしたのか?」
「言えるわけないでしょぉ。…って、それも計算のウチかぁ、あっちはぁ」
「…あっちって?」
「言えるわけないって言ってるでしょ! 男のくせにしつこいわね!」
「ご、ごめん…」


早く退店したい…店員さんや子供連れのお客さんの視線が痛すぎる…


「はぁぁぁぁ…でもなぁ、あっちの気持ちもわからないでもない、か…」


どうしたんだ、麻実は?

ここまで人に対して怒りを露わにするのは、かなり付き合いが長いと自負できる僕でも、あまりお目にかかったことがない。


「だけど、だけどさ…こっちがこうなっちゃったの、あっちのせいじゃない…」


離婚のときにさえ、こんなに取り乱さなかった。


「いや、ちょっと違うか…あっちの『おかげ』だった。…おかげでこんなにややこしくなっちゃったけど」


それどころかあの時の麻実は、なんだか虚無感が漂ってて、僕がどれだけ感情を乱しても、申し訳なさそうにちょっと苦笑するだけだった。

離婚の…ときにさえ…?


「麻実…あの、もしかしてさ」
「何よぉ?」
「例のプロポーズの彼のこと…?」


なら、それ以上、感情を乱すとなれば…結婚?


「………………ああ」
「…違ったみたいだね」


その代わり、麻実の怒りを霧散させることには、図らずも成功してしまったみたいだけど。


「ううん、別に大外れでもないわよ。さっき、あなたと会う前にきっちり話をつけてきたし」
「………なんだって?」


怒りに紛れて、危うくスルーしてしまいそうな勢いで、麻実がさらりととんでもないことをのたまう。

2か月も前からずっと保留してきた…

そう、僕と一緒に住んでいる間でさえ答えを出さなかった、『三つ年下の』同僚からのプロポーズ。

あんなに、ニコニコ笑って僕に自慢してた、『二回目の』人生の一大転機。


………


いけない、僕も少し怒りが湧いてきてるらしい。


「そ、そ、そ…それで?」
「何が?」
「返事だよ! 決まってるだろ?」
「すいませ~ん、ワインボトルでもう一本…」
「話が終わってからね、ね?」
「…そんなに気になるわけ?」
「当たり前だよ! 決まってるだろ?」
「なんで?」
「な、なんでって…いくらなんでも僕にその質問はないだろ?」
「…と言いつつハッキリ答えないのが理式よねぇ」
「ぐっ…」


もと夫婦だったというだけじゃない。

僕らはこの間、『もと』でいられる関係を、逸脱したばかりじゃないか。

この件に関しては、僕の存在が、麻実の決断に深く関わってるって自負もあるし、麻実の決断が、僕の今後の人生に深く関わる可能性だってある。


「教えてくれたっていいじゃないか…それくらい」


…などと口に出しては言えない僕チキン。


「理…」
「麻実…」
「あなたの飲み残しのビールもらうわね。んく、んく…」
「え? あ、ちょっと…これ以上お酒は…おい麻実」


と、今度こそ真摯に受け止めてもらえると思った僕が馬鹿で…


「断られた」
「………え?」

 

………

 

 

 

 

「ちょっとぉ! 次の店、いつになったら着くのよぉ?」
「もうちょい、もうちょいだから…」


明らかに悪酔いの気配を見せてきた麻実をシャンゼリアから隔離して、夜の街をさまよう。

…彼女にこれ以上飲ませることを躊躇して、なるべく酒場らしき看板を見せないよう気を配りつつ。


「あ~、スナックめっけ~。ほら理、行くわよあのビル、5階だって~」
「駄目あそこ! エレベーターないから! 階段の途中で吐くから!」


呼び込み「嘘言っちゃ困るなぁ。ちゃんとエレベーターあるよお兄さん」


「余計な声かけないでくださいっ!」


油断も隙もあったもんじゃ…


「な? 麻実。今日は帰ろう? 久々の仕事で疲れてたからそんなに酔うんだよ」


間違いなく一気飲みの悪影響だけど…


「何よぅ気ぃ使って理らしくない……人の気持ちが全然わからなくて墓穴掘ってこそあなたじゃない」
「泣きたくなるような『これぞ僕』を捏造しないで」


少しくらいは冗談を交えてくれてるんだろうか、今のコメント。


「大丈夫よ~、全っ然落ち込んでないから。27バツイチ女がふられたくらいでショック受けてられますか」


麻実がショックを受けていないかどうかは、正直言って『人の気持ちが全然わからない』僕にはわからない。

だけど、ビールを半分しか飲んでいない素面の僕の気持ちなら…


「わかった、わかったから。さ、こっちこっち。駅行くよ」
「…何がおかしいのよ?」
「…なんにも」

やばいな…

ちょっと顔に出てたらしい。


「もういいの。いいんだから。わたしはもう、誰とも結婚しないし」
「え…なんで?」
「…何が悲しいのよ?」
「…なんにも」


やばいな…

ちょっと顔に出てたらしい。


「………ふぅん」
「な、何?」
「あなたって、最低だなって」
「だから捏造はやめてと!」
「大丈夫よ。すぐにあなたは今の言葉を自分で口走ることになるから。…そうね、一週間以内に」
「しかも縁起でもない予言まで…」
「あ~あ、理もとうとう犯罪者か…別れといて正解だったのかなぁ…」
ノストラダムス以上に言ってる意味がわからないから、それ」


今日の麻実は、本当にとことん変だ。

怒るわ怒るわ怒るわで、これじゃあまるでト……短気な人だ。

その怒りは、誰に向かってるんだろうか?

僕? 例の『三つ年下の』同僚教師?

それとも…正体のわからない『あっち』?


「なぁ、麻実」
「なによぉ?」
「そんな見る目のない男に引っかからなくて良かったな…」
「………」


正体がわからない相手はともかく、とにかく、麻実の傷を、少しでも癒すことができたら。

ここ最近は、僕が癒されてばかりだし、たまには僕が彼女の悩みを和らげることができたら…

と言いつつ、今も麻実の柔らかい身体に触れ、酒臭くても、いい香りの残る麻実の匂いを吸い、こうして気持ちの落ち着く時間を過ごさせてもらってる訳だし。


「この世に、麻実ほど気の合う相手はいないし、麻実ほど落ち着く相手だっていやしないから」
「理…」
「だからさ…きっとそのうち、麻実の価値がわかる人間が…」


それが僕の知らない誰かというのは、なんだかとても微妙な気分がするけど。


「けどそれって理の主観でしかないわよね?」
「そ、それが何か?」
「理の価値観でわたしが最高だからって、それが他の男の人に通用するのかしら?」
「………」


通用しなくては困るけど、通用してもなんだか困る…


「そもそもあなた、どうしてわたしがフられたかわかってるの?」
「もしかして…僕のせい?」
「………」
「え、え、え…まさか…」


僕が怪我をしたときの…

麻実と僕が、一つ屋根の下どころか、一つ部屋の中で一月一緒に暮らしたこと?

赤の他人でも、親兄弟でもない、何があってもおかしくない元夫婦という間柄で、ずっと着替えもお風呂も下の世話もさせてたこと…?

それとも、そんな疑惑の一月をも吹き飛ばす、12月24日、たった一日の『事実』…?


「あ、麻実…僕は…」
「わたしにもわからないけどね。何しろ断られた瞬間に席を立っちゃったから」
「みんなで酔ってたかって僕の寿命を削らないでくれよ!」


誤字だけどニュアンスは伝わるので修正はしない。


「あ~あ、どこかにお金と地位があって容姿端麗で女の過去を気にしない心の広さと浮気しない誠実さと力強く引っ張ってくれる甲斐性を兼ね備えた男がいないかな~」
「そんな人間がいたら、生まれて初めて人に殺意を抱きそうだ」
「ふふ…なんてね。本当はお金も地位も顔もいらないから、いつまでもいてくれる優しい男はいないかな~」

 

「あ…麻実」
「ん?」


"少なくとも、ここに一人…"


「そ、その…本当に、お金も地位も顔もいらない、かな?」
「え…」


多分、麻実にとって、今のは完全な失言だったんだと思う。

お酒の上での戯れ言に決まってる。

なんの意味もない、口から零れた、単なる出任せ。

でも…


「再チャレンジ制度が採用されることが前提だけど、一人心当たりが…あ、でも最低条件ギリギリで」
「………」
「麻実が気に入るかはちょっと微妙だけど、その代わり、気が合うことだけは保証する。きっと、一緒にいると安心できると思うんだ」
「理…」
「えっと、だから麻実…大丈夫だから! 本当に誰ももらってくれなかったら、そいつがもう一度…」
「理」
「え…」
「駄目よ」


そんな失言に付け込んでみたけれど。


「致命的に足りない条件があるの、その男。だから、却下」
「そ…っか」


かつて僕の妻だった女性は、その程度の揺さぶりで没落するような、安い女じゃなかった。


「でも、ま、その気持ちだけはありがたく受け取っておく。…そこまで言ってもらって、心から、女房冥利に尽きます」
「麻実…?」


安い女じゃ…ないんだけど。


「っ…! さて、と…なんだか酔いも覚めちゃったわね。どうする? もう帰ろっか?」


だからと言って、手を伸ばさないでいたら、永遠に届かないわけで。


「なぁ、麻実」
「ん?」
「君と暮らしてたとき、確かに僕は優しくなかったかもしれない」
「違うのよ…」
「だけど、その…またいつか、お互い考えてみないか? 昔潰えた未来の、復元ってやつをさ」
「違うんだってば…」


だから今日は、ほんの少し、扉を叩いてみただけ。

少しだけは、別れる前の関係に戻ることができた僕たちだから、いつか心も、同じ方向に向き直ることができる可能性を信じて。


「今日は、会ってくれてありがとう。今度は三人でお祝いができるといいな。…トコの合格の、さ」
「理…」
「行こうか、麻実。アパートまで送──」
「んっ」
「っ!?」


麻実は、酔いが覚めて、

僕らは、大事な話を終えて。


「ん、ん……んっ…」
「んんっ…ん…」
「理…あ、あなたの…あなたのせいよ」
「な、何、が…?」
「あなたが優しい言葉を囁くから…あなたと…理と離れたくない」
「あ、麻実…?」
「ダメ、なの…?」


真っ直ぐに見上げる麻実の瞳は、何にも例えがたいほど綺麗で、吸い込まれそうになってしまう。


「理…?」


こんなにも、麻実は今日の日を共にしたいと言ってくれている。

素直に嬉しくて…僕も同じ思いだから嬉しくて、出来過ぎのような気がして、ほんの少しだけの間、言葉を忘れてしまった。


「ねぇ、聞いて……んっ!!」


『いいよ』のたった三文字を口にすれば、それで済むのに、勿体無くなってキスで答える。

出来過ぎでもなんでもいい。

今は麻実に触れている。

それが事実なんだから。


「おさ、む…んんっ…少し、激しいんじゃ、ないの…?」


麻実は、息継ぎをしながら訊ねてくるけど、求めているのはお互い様。

何度も何度も唇を重ねている二人。

海外では見られそうな光景だけど、ここは日本。

人通りもあることを気にせずにいるけど、周囲から見た僕らは、別の空間にいるような見世物になっているかもしれない。


「麻実…」
「理…」


どちらからともなくキスを止めて、ただ見つめあいながら名前を呼ぶ。


「行こうか」
「ええ…」


余韻が名残に変化する頃──

手を繋いで寄り添いながら、行き交う人々の中に紛れ込んだ。


………

 


……

 


 


「思ったよりも、人が多いのね。人気があるのかしら?」
「僕でも噂に聞いているくらいの場所だからね」


二人でやってきたのは、少し遅くまで営業している水族館。

いくらか安いサンセットチケットでの入場は大人の時間であり、恋人同士での来場者が多い。

おかげでムードもとても良くて、観て回っているだけで充実した気分になれる。


「そうよ、それが驚きなのよ。あなたがここを選ぶなんて夢にも思わなかったわ」
「それ程までに、僕のチョイスはおかしいのかな?」
「そうじゃないけど…。こんな素敵な場所を選ぶなんてねぇ…」


同じことを二回も言うくらい、麻実は驚いているのが伝わってくる。


「人が成長するのは二十歳までだと思ってたけれど、それ以降でもしっかり成長するものね」
「それは身長のことだろ?」
「例えで出しているだけでしょ、例えで」
「そっか。でも、二十歳以降でも身長は伸びることがあるらしいって、聞いたことがあったような…」
「えっ、そうなの?」
「実際に骨が成長するわけじゃなくて、姿勢が関係するらしいんだ。背筋を伸ばすことで、本来の身長になるというか」
「つまり、普段から正しい姿勢ができるようになれば身長が伸びる…というわけね?」
「正解」
「うふふ、やった」


お茶目に右手でVサインを作る麻実。

酔いが覚めたと思っていたけど、潜在的には、まだアルコールが残っているのかもしれない。


「って、違うでしょ。身長なんかの話じゃなくて、理が成長したって話をしているのよ」
「乗っかってきたのは、そっちだっていうのに」
「それは…そうだけど…」
「………」
「………」
「あは、あはははは」
「うふふふふふ」


特に何がおかしいわけじゃないけど、幸福感に笑みがこぼれてしまう。


「…もし、あの頃の理が、今の理だったら…」
「えっ?」


ヒメダカやタガメなど淡水の珍しい魚から、タツノオトシゴクマノミみたいな熱帯魚が個別に棲んでいる水槽までやってくると、麻実は届かない声で呟いた。


「ううん、なんでもない。理、こっちの水槽、可愛い魚がいるわよ」


沈んだかと思うと、無邪気な笑顔を浮かべて、麻実は小走りで先に行ってしまう。


「はいはい」
「ほら、早く早く」


いつもよりはしゃいでいるのは、気のせいなんかではない。

こんなにも楽しそうで活き活きとしている麻実を目の当たりにするのは、初めてかもしれないくらい。

僕よりも大人びているようなのに、今は子供のようで、可愛いとの言葉が適当だ。



 

「うわぁ~、綺麗…」
「クラゲって、こんなにも神秘的だったんだ…」


順路をしばらく進むと、一際明かりの少ないエリアにやってきた。

そこには、静かに、なめらかに水中を移動するクラゲがいる。


「あはは、こっちに向かってきてる。わたし達のことが見えてるのかしら?」
「ただの気まぐれだと思うけど…」
「色づいた触手がヒラヒラと波打っていて、不思議な感覚よね」
「水の抵抗が、調度良く演出しているんだろうけど…。この放射状に赤い模様が入ったクラゲ、なんていうんだろ?」
アカクラゲよ」
「そうなの?」
「触手には強い毒があり、触れるとミミズ腫れになってしまいます。また、感想して刺糸(さしいと)が空中に漂い、人が吸うとクシャミをすることから、ハクションクラゲとも言われております」
「へぇ~、そうなんだ。詳しいんだね」


喋り方が硬い麻実だけど、精通しているような説明に感心してしまう。


「いえ、そこに書いてある解説を読んだだけよ」


麻実の指差す先には、中に入っている生物の種類と解説が書かれたプレート。

教えてくれたアカクラゲ以外にも、四種類ほどのクラゲがいるみたい。


「なんだ…麻実の趣味かなんかで、勉強したのかと思った」
「わたしだって今の今まで、クラゲなんて海に入って刺されたら痛くて腫れる天敵としか思ってなかったわよ」
「あはは、刺された経験があるんだ」
「うふふ、まぁね」


交わっていた視線が平行に水槽に向けられ、クラゲが泳ぐように穏やかな時間が流れる。

毎日が走るように駆け抜ける最近だったけど、こんなにも楽しくて心が落ち着くのは、いつ以来だろう。

隣にいるのが麻実だから? 水族館なんて、滅多に来る場所でないから?


「………」


顔は水槽に向けながらも、横目で麻実を盗み見ると、ただジッとクラゲ達を眺めている。

去年の今頃なんて、麻実と再会して、こうして二人きりで水族館に来ているなんて思いもしなかっただろう。

それこそ、今が本当に夢でないかと疑ってしまうほどに…。


「…あっ」
「…きゃ」


幻想的である雰囲気のイタズラか、僕らは同じタイミングで手を取り合おうとして、触れた瞬間、弾けるように逃げてしまう。


「ご、ごめん…」
「わたしこそ…」


気まずい…

いや、こそばゆくて恥ずかしい空気が流れる。

もう何年もの付き合いで、手に触れるなんて何度もしているのに、初めて繋ぐもの同士みたいだ。


「理…」


逃げてしまった、麻実の手をゆっくりとつかむ。

そして、指と指を絡めて再び離れまいと固く握った。


「やっぱり、理、成長した…」
「そうかな?」
「ええ…。こんなにも優しくて、強くて、温かいんだもの…」


握り返してくる麻実の手は柔らかくて、力を込めているんだろうけど痛くはない。

むしろ、心地よさを感じる。

それが、麻実を女性なんだと強く意識させ、再び惹かれ始めている僕を改めて認識させる。


「…もう少し、ここで観ていてもいい?」
「好きなだけ観ていていいよ」
「…ありがとう」

 

それ以上先に進むことはなく、クラゲを眺めていただけで閉館時間になってしまった。

だけど、実際はつないだ手から、お互いの心を伝え合っていたような気がする。

 

………

 

……

 



 

 

「クラゲ、とても綺麗だったわね」
「これで水族館を出てから七回目だ。そのセリフ」



 

「理だって、目を輝かせてたじゃない」
「綺麗だったのは否定しない。だけど、そう何回も言う必要なんてないだろ?」



 

「それくらい綺麗だったってことなの。理は、女心がわかっていないのね」
「いずれ分かるように…努力します…」


水族館で繋いだ手はそのままに、今度こそ麻実の家へと向かっていた。

今日は送っていくだけで、泊まりはしない。

そう線引きをしておかなければ、いつまで経っても別れられなくなってしまうから。



 

「ごめんなさい、無理に付き合わせちゃって…」
「謝らなくてもいいよ。僕だって、麻実とまだ一緒にいたかったから、そうしただけ」
「本当に、そう思ってるの?」
「じゃなきゃ、あの場で帰ってるし、こうして手も繋いでない」



 

「理って、物好きなのね」
「君こそ、そうだろ。こんな僕なんかと、離れたくないだなんて」

 

 

 

「あなたといると、気負わなくていいから楽なのよ」
「つまり、僕には遠慮はいらないってこと?」
「ふふっ、そうとも言えるわね」


そこに含まれている意味は、一時的なものかもしれないから、深く考えることはしない。


「ありがとう、この辺でいいわ」
「ちゃんと家まで送っていくよ。夜道は何があるか分からないし…」
「すぐそこだから大丈夫よ」
「わかった。それなら僕はここで…」


僕は麻実の手を離して、背を向けて歩こうとする。

だけど、麻実は繋いでる手は離そうともせず、足も動かそうとしない。


「このままじゃ帰れないよ」
「うん、知ってる」


麻実から、今日はここで別れよう、という合図をしたのに、どうしたんだろう。


「この二年間とは違って、会いたいときに、いつでも会えるんだから…」
「うん、それもわかってる」
「だったら、そろそろ…」
「もう少し…もう少しだけでいいから、このままでいて」





 

消えてしまいそうな声の懇願を、理由をつけて拒否するなんてできない。

水族館に入る前に、出たらあっさりと帰ろうと約束したのに、意味がないじゃないか。

このままでいたら、僕まで、ずっと麻実と一緒にいたい欲求を満たしたくなるじゃないか。



 

「ねぇ、理…。今日、わたしといて楽しかった?」
「聞くまでもないだろ」
「ううん、わからない。はっきり言ってくれなくちゃ、わからない」


麻実は、こんなにもワガママな人間だっただろうか。


「楽しかった。空いた二年間を埋めるわけじゃないけど、それがなくなってしまうくらい楽しかった」



 

「そっか。良かった…」
「麻実は、何が心配なの?」
「………」



 

問いかけの答えを探すように、麻実は俯いてしまう。

もしかすると、答えはあるけど、それを知らないように演技をしているだけかもしれない。

いや、僕はその答えを知ってるから…


「水族館を入れると三次会になるけど、少し飲みなおしに行こうか?」



 

「…いいの?」
「ああ…その代わり、これが終わったら、今度こそ大人しく帰ること。わかった?」
「…うん」



 

教師は麻実なのに、立場が逆転しているような気もする。

でもこれで、もう少しだけ麻実と同じ時間を過ごせる。

 

 

 

「じゃあ、行こうか」
「ええ」


僕らは来た道を辿るようにして、繁華街へと向かう。

同じ時間を共有すればするほど、別れた後の寂しさが強くなるのを知りながら。


………

 

……

 

 

 

 


「え…?」


まだ、ちょっとだけふらつく麻実の腰を抱き、道案内に導かれるまま、新しいアパートへと向かっていた途中。

いつの間にか、長いこと会話が途切れていた僕たちの間に、麻実が一つの爆弾を落とした。

 

 

「だから、年末の統一模試の結果。もう出てたのよ。冬休み明けには発表だって言ってたでしょ」
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ麻実……だってさっき、まだ結果知らないって」
「あれは嘘。この時期に、三年の担任がそんなのんびりしてる訳ないわよ」
「嘘…って」

 

 

 

「5教科で280点。学年総合202位。クラスでは25位。国語はなんとか80点……わたしの数学は……16点」
「な…」
「第一志望の秋泉大附が合格率20%のD判定。もちろん、一般入試での話だから、特待合格の可能性なんて…」
「…それも、嘘なんだろ?」



 

「試験の業者が採点ミスしたか、彼女が名前でも書き忘れたか、それとも回答欄を一つずつ間違えたか」
「なら業者だ。トコがそんな初歩的なミスをするはずが…」
「そうね、本人もそう言ってた。…その上で、この得点に納得もしてたけど」
「そんな…」


どこまでが嘘で、どこまでが本当なんだ。

今ごろ、コップ半分のビールが回ってきた…

ずきずきと頭が痛み、胃が締めつけられてくる。

さっきまでの、高揚感と安心感の混ざった不思議な空気が薄れ、また、僕を息苦しくさせていく。


「大丈夫…彼女にも言ったけど、この結果は特待試験には影響しないわ。だって、本番はもう来週なんだもの」


そうだ…

トコの一世一代の勝負は、もう来週なんだ…


「なんでだ…」


僕も姫緒さんも、もちろんトコも、受験対策に抜かりはなかったはずだ。

一体、なにが起こってるんだ?


「別に、準備不足とかそういうことはないと思う。ただのスランプよ。何かきっかけがあれば、すぐにう元通りに…」
「きっかけって…?」
「………」


今までだって、何度も怒らせたし、何度も迷惑をかけた。

それでも、穂香さんがいなくなって一時的に落ちた成績は、僕がここに来てからは、ずっと右肩上がりを続けてた。

高度経済成長期のように、トコの成績がずっと上がり続けるなんて幻想は抱いてなかったけど…

それでもバブル経済崩壊のように、突然急降下するなんてことも、非現実だと思ってた。


「なぁ、麻実。僕はどうすればいい? どうすれば、トコはスランプを抜け出せる?」
「それをわたしに聞くの…?」


さっきまで抱きしめていた、さっきまで甘えていた相手に、僕は、とんでもなく酷い態度を取っている。


「だって…麻実はトコの担任だろう? あの子の悩みとか、ちゃんと相談に乗ってくれよ」


かりそめの安心を与えてくれていた相手に、突然、その安心を取り上げられて、理不尽な怒りをぶつけている。

麻実にとって、割り切れなさすぎるのはわかってる。

言い訳はしないけど…でも、改めることもできない。


「…保護者にだって、彼女をケアする義務はあるでしょう?」


だから麻実の言葉にも、僕の理不尽を消化しきれない響きが残る。



 

「ううん、プライベートな問題なんだから、本当なら、あなたこそがなんとかすべきなのよ」
「プライベートなのか…? 僕になんとかできる問題なのか?」
「ちょっと違う…あなたにしか、できない」


担任としての義務を放棄したような態度でもない。

ただ純粋に、本当に自分では何ともならないという諦めが、麻実の悔しそうな表情から見て取れる。


「どうすればいい? 麻実、僕はどうすればいいんだ?」
「ごめん理…そろそろ、わたしに逃げるのはやめて」
「っ!?」


誰とも正面から向き合っていないという罪悪感が、麻実のその言葉で、汗とともに一気に噴き出てくる。


「…そうじゃないわね。あなたがわたしに逃げ続ける限り、彼女の悩みは解決しないの」
「意味がわからない……どうして麻実に頼ったら駄目なんだ?」


一月の寒い風が吹きすさぶ夜道で、僕は、止まらない汗を額に浮かべ、声を震わせる。



 

「美都子ちゃんに直接聞いてみなさいよ…」


そんな僕の変化を、麻実は痛ましい目で見つめて、けれど突き放す態度を、もう変えようとしない。


「今なら、ちゃんと彼女は教えてくれる。自分が何に悩んでて、どうすれば解決できるのか」


僕をけしかけるような言動を、僕を引き留めるような視線で。

「…あなたが想像もしていなかった、いいえ、無理やり思いつかないようにしてた答えを」

 

………

 


……

 


 



 

 

 

「そっか…先生、理くんに話したんだ」
「うん…」


翌日…

僕の家庭教師の当番の日。

トコは、僕の問いかけに、力なく微笑んでみせた。



 

「そっかぁ…先生、また理くんに会ってたんだ」
「え、えっと、それは…僕の方から会いたいって連絡取って…」



 

「ううん、いいよ…また離されちゃったみたいだけど…今さら後悔したって遅いもん」
「トコ…?」


タツの上で手を組んで、うつむいて。

また、僕に表情を読ませないようにして…

トコが、なんだか意味のわからないことを呟く。


「そだよ。ちょっと成績、落とした」
「ちょっとって…」


二か月前に90点を超えていた平均点が、いきなり60点を割り込んだってのに?

クラスの過半数に抜かれたってのに?


「ごめんね理くん。こないだ嘘ついた」


『あ、ああ………ばっちりだった』


そういえば…

あのときも、トコは僕と顔を合わせていなかったっけ。



 

「こんなに、一生懸命勉強見てくれてるのに…秋泉大附、ダメかもしんない…ホントにごめん」
「僕に謝る必要なんかないよ。ただ、その…どうして?」
「………」
「二学期の期末だってクラストップだったよね? 数学だって、どんどん上がってたじゃないか」


麻実だって、トコに世話になったお礼も兼ねて、一生懸命数学の面倒を見てくれた。

おかげで、期末の点数は92点。

苦手な数学で90超えたの初めてだって、僕らはまた手を取り合って喜んでたのに…



 

「あはは…よく我慢してたよねぇ、あたし」
「我慢…って」
「あの頃はさぁ、何だかんだ言ってさぁ、勉強してる時は、色んなこと忘れられたもんねぇ。雑念振り払う余裕、あったもんねぇ」
「トコ…」


なんでそんなに寂しそうに笑うんだよ…



 

「あたしの気持ちは、あたしの思い通りにいじれるって、そんなふうに気楽に考えてたもんねぇ」
「不安? 受験のことで、ナーバスになってる?」
「ちょっとだけ、違う」
「違うって、何が?」
「受験の方が、タイミングが悪かっただけ。今のあたしなら、普段通りやれば大丈夫だと思う」
「じゃあ…来週の入試と面接は? それまでに、切り替えられる?」



 

「………」
「トコ…」


もじもじと、左右の手を組み替えて、トコが、何だか話しづらそうに僕の顔を上目遣いに見上げる。

その表情には、いつもの『人に頼らない』という決意に満ちた強さは見られない。

自分の悩みも、不安も、全部さらけ出して、誰かが解決してくれるのを待ち望んでいるような…


「僕はどうすればいい…?」


具体的に誰かと言えば…

目の前で今言葉を交わしている相手、が。

 

「理くん…」


だから、僕が実際に差し伸べた手を、躊躇なく、両手でぎゅっと掴んでくる。


「まだ、あたしのために無理してくれる? あたしが求めてる幸せ、叶えてくれる?」


爪が、食い込むくらいに…


「前にも言ったかもしれないけど…僕ができることなら…」
「できるよ理くんなら…ほんのちょっと、我慢してくれるだけでいいんだ…」


両手でつかみ取った僕の右手を、胸のところまで引き寄せ、唇を寄せ、吐息を吹きかける。


「あ…っ」


その、灼けるほどの熱さに気づいたとき、もう、僕は、トコの束縛から抜け出ることはできなくなっていた。


「抱っこ………して」


──!


………

 

 

 

 

「ト…トコ…」


反射的にトコの両手を振りほどき、コタツから後ずさる。

倒してしまった湯飲みからこぼれたお茶が、コタツ布団にまで染みを作るけど、今の僕には、慌てて布団を取る余裕はない。


「どしたの理くん…? あの台風の日は…してくれたじゃん」


トコは、僕のその態度を予測してたのか、ショックを受けるでもなく、でも…とうとう僕をまっすぐに見据えた。


「怖くて、痛くて、寂しくて、理くんの部屋で泣いてたあたしをさぁ、朝まで抱きしめてくれたじゃん…」


ずっと表情を読ませなかった弱々しい態度を一変させ、強い意志を持つ、濃い瞳の色で僕をしっかり捉える。


「嫌いに、なった? もうあたし、理くんに甘えちゃ駄目なのかなぁ?」


それは要するに…今の彼女の言動が、冗談ではあり得ないという意味で。


「嫌いになるわけがない。甘えたっていい。でもトコ…どうして?」
「どうしてって…」
「何が怖い? 何が痛い? 何が…寂しいの?」


混乱してる僕は、前後のつながりも滅茶苦茶に、ただ、トコとの距離を置こうと後ずさる。


「そんなこともわからないかなぁ?」


と、背中に扉を感じ、後は上にずり上がるしかなくなっていく。


「他にしてあげられることは? い、いや、決して…嫌って訳じゃないんだけど、その…」


嫌どころか…その反対の気持ちがわき上がりそうなのが、僕を激しい不安と恐怖と…期待に誘っていく。


「じゃあさ………キス、してくんないかなぁ?」
「~~~っ!」


こんなの、想像なんかできるわけないだろう…麻実?



 

「ごめんね、理くん」
「ど、どうして…トコが謝るんだよ」


扉を背に立ち上がった僕に、トコの柔らかい重みが当たってくる。


「だって理くん…こんなに困ってる。本当は邪魔なのに、振りほどきたいのに、けれどあたしのこと考えて、それもできなくってさ」


そこまでわかってて…

でもトコは、僕に預けた身体を決して退かない。


「邪魔じゃない! 邪魔なんかであるわけがない…でも、でもさぁ、トコ…」


見上げた瞳は、まっすぐで…本当に、まっすぐで。

身長で作られた距離を、必死に埋めようと、僕の肩に掴まり、必死で背伸びをする。


「うん、わかってる…いけないことだね」


保護者なんだって…

僕は、この娘を何があっても守らなくちゃならないって。


「あたしがこんなふうに理くんのこと想うの、すごく…いけないことだよね?」


トコだって、わかってるって…

だから、僕をここに置いてくれて、叱ってくれて、そして何よりも、慕ってくれて…


「でもねあたし…理くんが好き」


だけど…

たった今、何かが音を立てて崩れ去る。


「ぼ、僕だってトコのことが好きだ。けどそれは…」
「理くんが好き」
「僕はトコの保護者で…トコを守る権利があって…」
「理くんが好き」
「だから大好きだって言ってるじゃないか! けど違うだろう!?」
「理くんが好き」
「トコ!」
「理くんが好き。理くんが大好き。理くんを…愛してる」
「あ、あ…あ…っ」


見上げる瞳から、いつの間にか涙がぽろぽろ零れてる。



 

「好き、好き…ふぇぇ…っ、ご、ごめん、言っちゃってごめん…困らせちゃって、ごめんなさぁいっ」


トコの方も、自分の感情を持て余し気味で、目から零れるしずくに戸惑い、僕の胸に押しつけて鎮火しようとする。

でも、いつまで経っても瞳が乾くことはなく、ただ、僕のシャツを濡らしていくだけ。


「僕なんか…駄目だって。もう、こんなにおじさんで…情けなくて」
「おじさんでも、情けなくても…理くんだもん。あたしの好きな、大好きな理くんなんだもんっ!」
「理由になってないよ…トコ」


奥歯がガチガチ鳴っている。

広げた両手は、もうどこにも伸ばせない。

天井を見上げた顔は…もう決して下に向けられない。


「頼りない理くんが好き。優しい嘘をつく理くんが好き。一生懸命あたしを守ってくれる理くんが大好き」


だって、もし下ろしたら、あの涙まみれの瞳に吸い込まれるから。


「夏夜さんに取られそうになって、辛かった。姫緒さんに取られそうになって、泣きそうになった」


それは、夏のこと。

それは、秋のこと。

今じゃない、昔のこと。


僕がまだ、トコのことを美都子ちゃんと呼んでいた…

僕がトコに対して、こんなに激しい苦しみを抱いていなかった頃。


「先生に取り返されて…めちゃめちゃ泣いた。あたしが仕向けたことなのに、悲しくて悲しくて、何もかも、手につかなくなっちゃった…」


そしてそれは…クリスマスの日。

統一試験の、ほんの少し前。

つまり…

何もかも、僕のせいだって、トコは…



 

「だから理くん…お願い。あたしにもう一度だけ、チャンスをください!」
「トコ…」
「理くんが抱きしめてくれたら、あたし安心できる。理くんがキスしてくれたら、あたし頑張れる。入試なんか、へっちゃらだよ…っ」
「あ…あ…」


今のトコは、今の僕と同じ。

自分の胸を突き動かす感情を持て余し、自分が一番安らげる相手にとことん頼ろうとしてる。

いや、そうじゃない…

トコの方が、よっぽど純粋で、正しくて、まっすぐで。

僕に対しての感情を持て余し、僕に安らぎを求めるトコ。

トコに対しての感情を持て余し、麻実に安らぎを求める僕。


『あなたって、最低だなって』


ああ…麻実の言う通りだった。

僕は、最低だ。


「ずるいよ、理くん…」


そして、トコの言う通りだ、僕は、ずるい。


「理くんが立っちゃったらさぁ…あたし、何もできないじゃん」
「ごめん…」


トコが、両足をぶるぶる震わせ始める。



 

「どれだけ背伸びしても全然届かないよぉ…なんでこんなに背が高いのよぉ…っ」
「ごめんな…トコ」


一生懸命爪先立ちで背伸びして、僕に届こうって、ずっと頑張ってたんだ。



 

「あたしは…あたしはね? 理くんが屈んでくれなければ、キスもできない女の子、なんだよ?」
「うん…」


両腕の金縛りがようやく解け、トコの頬に両手を当てる。

目から零れ出る涙を親指でぬぐうと、そこには甘えん坊の女の子の素顔が覗いてる。

…女の子、だ。

すごく綺麗で、とんでもなく可愛い、

正真正銘、僕の、いとおしい…


「理くん…」
「っ…」


"目を、閉じて…"


「目を、閉じて…」
「理くん…っ!」


瞬間、目の中に溜まっていた涙が、ぽろぽろぽろって、激しくこぼれ落ちる。


「ん…んむっ!?」


僕の目の前に、トコの可愛い顔がアップになり、耳から心臓が飛び出そうなほどの鼓動を感じながら、僕は、トコの唇に、自分の唇を重ねた。


「ん…」
「ふ…んんんんんっ…んぅぅぅぅぅ~っ!」


一瞬にも、数時間にも感じられる、たぶん一秒。



 

「んっ…あ」


唇を離し、すとんと地面に立たせると、トコはぼうっとした、けれどほんの少し不満そうな表情を残す。


「…酷いよ」
「…ごめん」


トコが僕を責める理由は、最初からわかってた。


「あたしのファーストキスなのに…まだ、子供扱い、してぇ」


トコの両脇に手を入れて、僕の高さまで、ひょいっと持ち上げてキスをした。

背伸びしてた爪先は、地面から浮き上がり、口づけてる最中に、トコは足を前後にばたつかせてた。

覚悟に、身体の反応がついていってないみたいだった。


「あんなんじゃ納得できないよ。もっときちんとしてくれなくちゃ嫌だよ…」
「だって…抱っこしてって…」
「そっちは…立ったままじゃないよぉ」
「………だと、思った」
「やりなおし…やりなおしっ。抱っこして、キスして…ね、理くんっ?」


ほんの少し子供扱いしたことを根に持って、トコが、子供みたいなワガママを口にする。

けれど僕は…


「じゃ…おいで、トコ」


そんなトコを、たしなめるでもなく、止めるでもなく、普通に続きを受け入れてしまった。


「うん…理くんっ」


トコが、躊躇なく僕の胸に力一杯飛び込む。

僕は、その軽い身体を抱きとめて、ゆっくりと、ドアに預けた背中をずり下げる。


「理くん…理、くぅんっ」
「トコ…っ」


なんてことだ…

今、はっきりと自覚してしまった。

ずっと、麻実に癒してもらっていた、

原因のわからなかった、心のざわつき、激しい鼓動、

そして…掻きむしられる胸。


「うれしい…うれしいよ理くんっ。ん、んぅ…ん~♪」


僕は、トコを、愛してる。


………

 

 

 

 

僕の膝の上にちょこんと乗っかり、僕の首に両手を絡め、必死でしがみついてくるトコ。

両腕で抱きとめたら、すっぽり僕の中に入ってしまうくらい、小さくて華奢な身体が、激しく脈打ってる。

…やっぱり、トコと触れあってたときに感じた鼓動は、僕だけのものじゃなかったらしい。


「んっ、んっ………ん~っ、…理くぅん」
「っ…ト、トコ…」


小さな、ほんとうに小さなピンクの唇が、僕の唾液に濡れて、蛍光灯の灯りにてらてらと反射してる。

そこから漏れる吐息も、赤く染まった涙まみれの瞳も、僕の感情をますます刺激するばかりで、どうしようもない。


「ごめん、ごめんね理くん…理くん、先生いるのに、あたし…あたしさぁっ」
「トコ(子供)がそんな心配するもんじゃないの…」
「でも理くん、本当は辛いでしょ? 先生裏切って、悲しいんだよね?」
「それでも僕は、トコが好きだよ」
「ああ…ごめん先生、あたし、あたしさぁっ…すごく嬉しいよ…酷いよね…こんなふうに思っちゃうなんて、さぁ」
「もういいから…泣かないで。もう一回、目を閉じて…」
「お、理くん…理くんっ!!」


目尻からこぼれる涙を唇ですすって、そのままトコの唇に押し当てる。

唇を合わせるだけのキスだけど、トコは全身を震わせて僕の唇に敏感に反応する。


「トコ…ぉ」
「お、理くぅん…ひぅっ、うっ、う…ごめんね、あたし…理くん、無理やり、ひぅっ…」
「僕こそごめん…その、何というか、どっちもこっちも…」


いくらトコからと言ったって、責任ある大人として、許されない行為。

けれど、それを免罪符にして、今までトコの気持ちから目を背けてきた現実。

二重の意味で、トコを裏切ってきた。

そして今は、トコと麻実の両方を裏切ってる。


「ね、ねぇ、理くん…」
「ん?」


でもトコは、口の周りを僕の唾液でべたべたにしながら、とろけるように幸せな表情を見せる。


「理くんは…あたしのために、屈んでくれたんだよね? あたしの気持ちまで、下りて来てくれたんだよね?」
「トコ…」


『理くんが屈んでくれなければ、キスもできない女の子、なんだよ?』


僕はトコを、拒絶、しなかった。

それどころか、夢中になって唇を押しつけた。

トコに…激しく溺れた。


「ねぇ理くん、あたしに命令、して」
「え…」
「もし落ちたら、あたしを捨てるって、脅して」


でもトコは、男と女の関係に全然慣れてなくて、ただ、自分を弱い立場だと思い込む。


「なに…言ってるんだよ。僕がトコを、そんな…」
「そしたらあたし…死ぬ気で頑張るよ。理くんに好きでいてもらえるよう、頑張るから!」
「っ…」
「あっ…理くん…好き、好きぃ…もっと、もっと、もっと…一緒に、今だけでも、あたしと一緒にっ」
「トコ…トコ…んんっ」
「ん、ふぁ…ふあぁぁぁっ…あ」


僕にしがみついて離れないトコを、力一杯抱きすくめ、何度も何度も、唇を押しつける。

抱きしめて、口づけて、泣いて、ときどき喋って。

そうして僕らはこの夜を…ずうっと、抱きあったまま、朝まで過ごした。


………

 


……

 


 

 

 

 

「行ってきま~す!」


「あ~ちょっと待ってしばし待て!」


「なによ理くん。急がないと遅刻しちゃう」
「こ、このお守りも持ってって! 先週の日曜に秋泉大近辺の神社で揃えてきたんだ」
「…って、この上5つもぉ? カバンの中に38個入ってるのに~」
「まだ入るだろう? ギュウギュウに詰めればさぁ」
「代わりに筆記用具を抜いたらね~」
「む、むぅ…」


数日後…

そこには元気に入試に出かけるトコの姿が。

もう二度とトコを悲しませたりしないよ。

…は、いいとして。


「で、その筆記用具は万全だね? 鉛筆はちゃんと削ったのを5本は用意した? あと消しゴムも複数持ってる?」
「大丈夫だよ~。いざとなったら試験官の人だって貸してくれるってば」
「…落ち着いてる? 平常心?」
「そっちも大丈夫…だって、理くんが、毎日…」
「勉強教えてるもんなぁ! この一週間!」
「うん、教えてくれてるよね。…色々と、ためになること」
「~~~っ!」
「あははっ、ま、ここで理くんからかってても遅刻するだけか。それじゃ今度こそ、行ってきま~す!」
「頑張って! でも落ち着いて! あと…失敗しても落ち込む必要ないから!」



 

「うん、その時は理くんに一生面倒見てもらうから大丈夫だよ~」


「一般入試があるよっ!」


それよりも、十メートル離れた距離でしてる大声の会話で、そんな際どいことを言わないで欲しい…



 

「理くんの方こそ覚悟しときなよ~! あたし、間違いなく合格するからね~!」


「ああ、絶対に合格だ!」



 

「そしたら…結論出すんだよ~! どっちか選ぶんだよ~! ちゃんと覚えてるかなぁ?」

 

「はははは早く行って!」

 

「あっはっはっはっは~! は~い、愛してるよ~、理く~ん!」

 

「トコぉっ!」


周りから聞いたら、完全に冗談に聞こえるくらい明るく…

でも本当は…

一生懸命、本気のメッセージを込めて。


「頑張れっ! トコ、頑張れぇっ!」

 

 

 

「お~!」

 

 

 

 

陽坂美都子、四宮学園三年生。


学園生活最後の試練、第一ラウンドにして大本命への挑戦。

秋泉大附特待試験。当日。

 

頑張れ。

僕の…トコ。

 


………

 


……

 


 


──キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン……。

 

 

 

 

「…あれ?」


「あ、長谷川さん。久しぶりだね」
「………ども」


校門の前で久々に見た長谷川さんは、なぜか僕の顔を見ると、ほんの少し気まずそうに俯いた。

人見知り…するような子では全然なかったけどなぁ。


「今日、土曜なのに休みじゃないの?」
「えっと…自主補習受けてるんで」
「そういえば、最近遊びに来ないね。って、そっか、受験だもんなぁ」
「それもあるけど…絶交中なんで」
「え…?」
「旦那さんこそどうしたんです今日は? トコは今日、合格発表だから来てないですよ?」
「知ってるよ…もちろん」
「そですか…」


一週間前の筆記試験と、その翌日の面接試験…

トコは二日とも、帰って来るなりVサインとともに、僕の胸に、ぎゅって飛び込んだ。

そろそろご隠居たちに、トコのあからさまな態度がバレてそうな気配があるんだけど、それでも彼らは、何故かまるっきり態度を変えずに、僕らに接してる。

さすがの不良住人も、トコに対してだけは優しいのか、さすがに今度ばかりはネタにし辛いのか…

夏夜さんだけは、めっきり冷たくなったけど、ね。



 

「じゃあ、香野先生ですか? 呼んできましょうか?」
「ああ、いいよ。約束の時間より早く来ちゃっただけだから」
「…本当に先生目当てなんだ」
「ちょっと…大事な話があって」
「………」


土曜の学園は、本来なら休日ってこともあって、行き来する生徒も先生も、いつもよりもかなり少なめに見える。

そんな人気の少ない校門でずっと佇む僕は、きっと周りの住人から、かなりの不審者扱いを受けているに違いない。

「職員室に案内しましょうか? 寒いでしょう?」
「いいよ、部外者だし。それに、校内で話すような内容じゃないし」
「………」


今日は、トコの合格発表。

トコが、秋泉大附の特待生となるか、秋泉大附の新入生候補のままでいるかの審判の日。


『どっちか選ぶんだよ~!』


そして…結論の日。


「あの…」


僕が麻実を求めたのは、非保護者の少女への激情を抑えきれなかったから…

そんなふうに言ったら、呆れられるだろうか。

それとも、嫌悪されるだろうか。


「旦那さん?」


その上で、まだ二人のどちらかを選べず、天秤の片方に、こうして相談に来てしまう常識のなさを、彼女はどう考えるだろうか。


…呆れるけど、一緒に考えてくれそうな気がする。

麻実って、何だかんだ言って面倒見いいから。


「えっと…芳村さん?」


それに、そもそも麻実は、僕を選ぶなんて言ってない。

昔僕を捨てたままで、今のつかず離れずの関係を築いてる。

…考えれば考えるほど不思議な関係だ。

僕は今まで、トコの気持ちが全然わからず悩んでたけど、実は麻実の気持ちだって…


「あ、先生とトコが包丁とノコギリ持ち出して取っ組み合いしてる…」


「やめろぉぉぉ~! 誰か二人を止めてくれぇぇぇ~!」

「………」

「…あ」


今の僕のリアクションは…なんなんなんだろうか?


「ええと、旦那さん。ちょっと、先生とトコのことで話が…」
「え? あ、いや僕は…ほら、大事な用が!」
「ほんのちょっとでいいんです。三角形の各頂点間の距離の算出方法について…」


男性教師「あの…」


「そ、そういう数学的思考は香野先生が得意かと」



 

「残念。論理的思考で証明できる定理じゃないんですコレが。何しろ頂点の一つは他の二つに比べてあまりに小さくて…」


男性教師「芳村理さん…ですよね?」


「いや、点が小さいと言われても…点には単独の大きさや面積なんか…」

「Y座標が145センチメートルくらいでして…で、大きい方の点が189センチ…でしたっけ?」


男性教師「ちょっとお話が…あるんですが」


「いや小さい方のY座標、相変わらず144。多分公称だとサバ読んでるけど」

「見栄張ったって伸びるわけでもないのにねぇ…」


男性教師「すいません! こっちの話を聞いてください!」


「っ!?」

「え? あ…松本先生…?」

「え…それって…」

 

僕は…

目の前の、若い、髪の毛がサラサラな男性教師を、

知っているような気がした。


………

 


……

 

 

 

 

「…ふぅ」


女性教師「あら? 香野先生はまだ帰られないんですか? 確か3時には上がるって…」



 

「その予定だったんですけどね…一人、合格発表の連絡待ちでして」


女性教師「へぇ、もう発表ですか? あ、もしかして秋泉大附の…」

「ええ、陽坂さんの特待試験の結果が…もう発表あったはずなんですけど」


女性教師「陽坂さんなら大丈夫でしょう。成績も申し分ないし、しっかりしてるし、何より真面目で礼儀正しいし」



「…わたしに対しても、もうちょっと礼儀をわきまえて欲しいけど」

 


女性教師「なんなら私が代わりに連絡待ちしましょうか? どうせまだ仕事残ってますし」

 

 

「え? あ、でもそれは…」


女性教師「だって彼氏と待ち合わせなんでしょう? さっき校門で背の高い男の人がうろうろ…」



 

「…まったくもう、あのランドマークは」


女性教師「ほらほら、行ってらっしゃいな。陽坂さんから報告あったら携帯に連絡入れますから」


「いえ、やめておきます。…後で変に勘繰られても嫌だし」


女性教師「誰に?」



 

「真面目で礼儀正しい模範生にです」


女性教師「は、はぁ…?」


──!


──「香野先生! 香野先生いる!?」



 

「長谷川さん…?」


女性教師「こらっ、廊下を走らないの! それに補習も終わったはずでしょ? いつまで残ってるの?」



 

「そ、それどころじゃない…それどころじゃないんだってば…っ」

「どうしたの? 何か事故でもあった?」


女性教師「もしかして、校門前の不審者? ああ、あれなら香野先生の彼氏で──」


「小川先生っ!?」

「そんなの知ってる…知ってるって。先生…芳村さんが…旦那さんが…」


女性教師「だ…旦那さん、だったの…?」


「理…? 理が、どうかしたの?」

「松本先生と取っ組み合いの喧嘩始めちゃったのよ! 早く止めてぇっ!」

「なんで、すって…?」


………

 

……

 


 

 

 

 

 

「………」


「あ…」


「理…」


見られた。



 

 

「どうなってるのよ、これ…」


校庭に、仰向けにぶっ倒れている僕の姿。

やられるだけやられて、

何もできなかった不甲斐ない僕の姿。

そして…

 

 

 

「泣いてる、の?」

「っ…」


見られたく、なかった…


女性教師「あ、あの、私…松本先生を捜してきますっ!」


僕の拳は、一発も当たらなかった。

あんなに何度も振り回したのに。


「どうして…?」

「………」

「ええと…松本先生に連れてかれて、校庭の隅っこで話し込んでたと思ったら…そしたらいきなり旦那さんが怒り出して…」


「え…?」


長谷川さんの目撃証言は、とても正しかった。


「先に出したのも旦那さんで。でも、全部避けられて、それで今度は殴り返されて。そしたらそっちは全部命中して…」



 

「当たり前じゃない! 生まれてこの方、喧嘩したことないのよこの人!」

「うん…本当にそんな感じだった。松本先生とじゃ、最初っから勝負にならなくて」

「っ…ぅ…っ」


悔しい…

殴られたことがじゃない。

喧嘩したことがじゃない。

あの男の先生に『あのこと』を告げられたことが…


「理、理…しっかりして。今、保健室に運ぶからね?」

「いい…平気、だから…」

「そんな訳ないでしょう? だってあなた、立てもしないじゃない」

「違う…これは…う、うあぁ…ぁぁぁぁぁっ」

「理…?」


知らなかったことが。

話してくれなかったことが。


「麻実…どうして…どうして僕に、言ってくれなかったんだよ…」

 

 

 

「………もしかして、聞いちゃった?」


そして…

その理由が、なんとなくわかってしまうことが。


「わたしが子供作れないって…聞いちゃったんだ、理」

 

「ぇ…?」

「~~~!!!」

 

その後、僕が叫んだ言葉は覚えていない。

ただ、顔や体の痛みと熱さを凌駕する悔しさと悲しさが、全身を駆け巡って、どうしようもなくて…

だからその時、携帯に入っていた着信も、僕には、遠い世界の出来事のように感じられて…


………

 


……

 

 

アナウンス『ただ今、電話に出ることができません。発信音の後に、メッセージをお願いします』

 

「あ、理くん? トコです。えっとね…あのね…その……えへへ…えへへへへ………っ、やったぁぁぁ~! 合格だよ~! 特待生だよ~!」

 

 

……