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……
渋谷ヒカリヲの中にある多目的劇場シアターキューブのエントランスの隅っこに、香月華はいた。
既にビルは閉館していて、エントランスも照明が落ち、窓ごしに伝わる街の明かりが、ぼんやりと空間を浮かび上がらせていた。
「………」
ホテルで宮代拓留と別れてから、どこをどう歩いてここに辿り着いたのか、正直覚えていない。
それくらい、『華』との会話を宮代拓留に聞かれたことは、香月を動揺させた。
パニックな頭で歩き回り、気付けばここにいた。
「…………」
このままここで泣き続けて、やがて朝が来る。
その時、自分はどうすれば良いのだろう。
宮代拓留に自身の嘘がばれた。
もう新聞部には、戻れないのではなかろうか。
そう考えたら、胸の奥がぎゅうっと苦しくなり、涙が更に溢れた。
「…………」
──『んもー、いつまで辛気くさいことやってんのよ』
「ん!?」
香月が顔を上げると、目の前に『華』が立っていた。
「ど、どうして……!? どうして、あなたが、そこにいるの!?」
『はあ、エンスーしてる時しか回転しないその頭、もう少しなんとかした方がいいんじゃない? ここはあんたが心の中に作り上げた空間よ。シアターキューブのエントランスに見えるけど、ただの心象風景。ま、現実のあんたも同じ所にいるんだけどね。閉館して誰もいないエントランスの端っこでしくしく泣いてるわ。ホント、寂しい女よねあんた』
「ううう……。自分の別人格に人格を否定されてる……」
香月は、まだ乾ききってないジャージの背中に手を入れ、ごそごそと漁った。
そして手を抜くと、そこには雨のおかげでよれよれになった雑誌が握られていた。
雑誌のタイトルはクールキャットプレス。拓留のキャンピングカーで見つけた物だ。
そう。拓留は気付いていなかったが、デートの最初から、彼女が肌身離さず持っていたのだ。
それはつまり、『華』だけでなく"香月もそのことを知っていたということだ"。
ホテルで拓留に聞かれた通り、香月と『華』は最初から意思疎通ができていた。
『華』は、香月の宮代拓留への想いを遂げさせるために、行動していたのだ。
『まったく、体育倉庫の時も、さっきの写真屋でも、あとちょっとでキスできたのにさー。なんでギリギリの所で日和っちゃうかなあ』
「だ、だって……」
『だって、なに?』
「んんん……」
黙り込んでしまう香月に、『華』はイライラしながら言った。
『ここはあんたの心の中なのよ? あたし以外は誰も聞いてないんだから、言いなさいよ』
「……ん。反則、かも」
『反則? どういう意味?』
「拓留先輩の、気持ちを動かしてるのは、わたしじゃなくて、あなただから。拓留先輩が、キスしたいと思ってくれたとしても、それはわたしじゃなくて、あなただから。わたしは、なにかをする勇気もないのに、ただ見ているだけ。ただ、あなたに頼ってるだけ、かも」
自分で言っていて情けなくなり、じんわりと瞳が熱くなる。
ぽたりと涙が零れ、雑誌の表面を濡らした。
「……わたしのほうが、いいの、かも」
『いいって、なにが?』
「拓留先輩が、もしも受け入れてくれたとしても、それはわたしじゃなくて、あなた。今日が終わって、この身体からいなくなる人格は…………わたしのほうが、いいの、かも。拓留先輩も、その方が、嬉しい、かも」
『…………はあ』
『華』は、小さく息を吐き、そして香月の前まで来てしゃがんだ。
『あんた、そんなことで悩んでたのね。今日が終わればあたしという人格が消える。それを寂しいと思ってくれてるのね』
「……ん」
『ありがと。でもね、その心配はいらないの。あたしのことなら気にしないで、って意味じゃないのよ? 最初から、そんな心配は必要なかったのよ』
「ん? よくわからない、かも」
『いい? あんたの妄想は[私は、宮代先輩が魅力を感じる女の子になりたい]、だったでしょ?』
「うっ……自分そっくりの顔に、自分がした妄想を口にされるのは、信じられないほど恥ずかしい……。でも、うん……そう。私はそう妄想した」
『つまり、あんたはあたしを作り出したわけじゃないのよ。あたしは、最初から[もう一人の香月華]じゃない。あたしは、[あんたの有り得る未来の可能性]なの』
「……え?」
『だから、あたしが消えちゃうなんて心配はしなくていい。あたしは、あんたの未来の可能性の一つにすぎない。最初から、あんたの中にはあんたという人格しかいないのよ』
「そう、なの?」
『当たり前じゃない。完全に分離された人格? そんな物が突然生まれる筈ないでしょ? それともなに? [自分の存在とはいったいなにか]とか[なにをもって自我と定義するのか]みたいな議論がしたいの? やめてやめて! 恥ずかしすぎるから』
「うううっ」
恥ずかしさのあまりまた涙が零れてしまう。けれど、さきほどまでよりは、ずっと心が軽く感じられた。
『それにね、もっと言えば、今の説明すら、本来は必要ない物なのよ? これを聞いたら、あんたはもっと驚くと思うわ』
「まだ、あるの? 今でも、恥ずかしすぎて、頭が沸騰しそうなんだけど……」
『残念。本題はここからよ。あんたには聞く義務がある』
ピンク華はにっこり笑って言った。
『言っとくけど、あんた、今回ギガロマニアックスの能力使ってないから』
「…………ん?」
ピンク華が口にしたことの意味が、頭に入ってこない。
「え、だって、あなたが──っ!」
『あなたがここにいるじゃない』と言いかけて、声が出なくなる。
『さっき納得したよね? あたしは存在しないんだって。あんたの能力は、言葉にした事が現実に出現してしまうってものでしょ?』
「ん……」
『けれど、あたしは実在していない。つまり、あたしはあんたの能力で出現した物ではないってわけ。簡単でしょ?』
「い、言われてみればその通りだけど……。じゃ、じゃああなたは一体……?」
『うーん、教えるのは簡単だけど、自分で考えて欲しい所ね』
ピンク華は少し考えた後、からかうような目を華に向けた。
『もう新聞部には戻れないんでしょ? なら時間はもう少しあるわ』
『もう少し』の意味がよくわからなかったけれど、華は最初から考えてみることにした。
(そもそものきっかけは、拓留先輩のメモが書いてあるクールキャットプレスを読んだことだった。それを読んで、メモに書いてあるような女の子になったら、先輩がわたしを意識してくれるのかなと思って)
(それで、『もっと男の子を誘惑できる女の子になりたいな』って呟いた。それがきっかけで、わたしは時々意識が『華』に切り替わって、拓留先輩を誘惑するようになった)
(わたしは、それを自分が能力を発現させた結果だと思っていたけど、そうじゃないとしたら──)
「…………ん?」
香月は、その時ようやく、今までまったく意識していなかった可能性に気付いた。
「んんん?」
いや、実際にはとうの昔から気づいていたのだけど、あんまりにもあんまりなのでこれまで無視していた物だった。
「んんんんんん?」
なぜなら、それが事実だった場合、あまりにも"恥ずかしいこと"だったからだ。
「んんんんんん!!!!!??????」
『どう? 答えは見つかった?』
「…………も、……もももも、もしかしてぇ……」
言葉が勝手に小さくなっていってしまう。
『華』は、わざとらしく耳に手をあててこちらに向けた。
『うん? もしかして?』
「あなた、はぁ……」
『あたしは?』
「わたし、のぉ……」
『あんたの?』
「……お」
『お?』
「……おぉ」
『お?』
「……おぉ!」
『ほら、言っちゃえ!』
「ん-! お……、思いこみなの!?」
『だーいせいかい!』
「う、そっ!?」
『あたしは能力で生まれたわけじゃない。あんたが[宮代先輩好みの女の子になりたい]と思いつめるあまり、作り上げてしまった人格にすぎない。でもそれはもう一つの人格があるって、自分自身に暗示をかけてるだけで、どっちもあんたなわけ。ただ、こっちの人格に切り替えている間は[これは私の意志じゃない]って言い訳して、リミッターを解除できる。だからあなたは、必要に応じてあたしとあんたを切り替えて、宮代先輩へのアプローチを繰り返してたってわけだ。それがいいことか悪いことかはわからないけど、あたしは別に気にしてないよ。だって、あたしはあんたなんだもん』
「ちょちょちょちょちょちょ、ちょっと待って!」
『華』が楽しげに答え合わせを披露してくるけど、華にはそれを普通に聞いている余裕がなかった。
頭の中は大混乱だ。
「え、じゃあ、え? あなた、じゃなくて、わたしがしてきたこれまでのことは……」
『うーん、そうね……。思い込みが激しすぎて自分自身にエロ暗示をかけちゃった好奇心旺盛な痛い思春期少女、って感じかな』
「はうううっ!?」
あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になり、頭をかきむしる。
「しししし、しかも、あなたが、わたしだってことは……。あなたがこれまで先輩にしてきたことは……」
『そういうこと。あたしが宮代先輩にしてきたことは、ぜーんぶ、元々はあんたがしたかったことよ。あんた、実は超むっつりスケベ処女よ?』
「はわわああああああっ!!!????」
人は羞恥のあまり気絶できるだろうか?
今まさに恥ずかしさのあまり頭が真っ白になりつつある香月がそれを証明するかもしれない。
「はうう……」
体がぐらりと揺れた時、いつの間にか『華』が目の前にいて両肩を支えた。
『しっかりしなさい。こんな所で気を失ったりしないでよね。あたしの体が風邪引いちゃうじゃない。それに明日の朝、清掃員か誰かに発見された時になんて言い訳するわけ?』
『[自分が肉食系女子だったことを知って気絶してました]とか?』
「ううう、自分にダメ出しされてる……」
『あ』
「え?」
『今、[自分]って言ったね。それ良い傾向。あたしがあんたなんだって、受け入れてる』
「あ……」
『素直に、単純に考えれば、答えなんてすぐ見つかるのよ』
「ん……そう、かも」
『んふ。素直でよろしい。なら、もう一個正直になっちゃおうか』
「もう一個?」
『そ』
『華』は、香月に顔を近づけて、囁いた。
『宮代先輩のこと、どう思ってるの?』
「はわっ!? それは、えっと、その……んんん……!」
『自分自身に嘘をつく必要はないわ。誰も聞いてないんだから。どう思ってるのか、聞かせてよ』
「その……拓留、先輩は……」
考える。
自分自身に嘘をつく必要はない。その通りだ。
今回の騒動は、そもそも自分の気持ちを無理矢理おさえこんだから起きたことなのだ。
その決着を付けるためには、自分の気持ちをまっすぐに見つめ、答えを出す必要がある。
そして、今、それをすべきなのだ。
「………ん。拓留先輩は、わたしに居場所をくれたの。先輩は、突然新聞部に居ついたわたしを、事情を聞くこともなく受け入れてくれた」
「黙ってエンスーやり続けても、文句言わずにいてくれた。わたしが喋りたがらない理由も聞かずにいてくれた」
「きっと、それは、先輩にとってはなんでもないことなの。きっと、わたしは部員の数合わせにすぎないの。でも、嬉しかった。わたしを必要としてくれて、わたしがしたいことを尊重してくれることが嬉しかった」
「それに、拓留先輩は、優しい人なの。普段はすっごく偉そうだし、みんなをバカにするような言い方しかしないけど、本当は凄く優しい人なの。きっと、今も、わたしを捜して走り回ってる筈」
「だから、わたしは……わたし、は……」
声が尻すぼみになっていって、喋れなくなる。
顔もうつむき、視線が床を彷徨ってしまう。
『華』が一歩近づき、目の前に立つ。
『わたし、は?』
優しく手を握り、聞いてくる。
『大丈夫、あたしがついてるから。言ってごらん』
「…………ん。わたしは……拓留先輩が……好き…………かも」
顔を上げる。
『華』は目尻に涙を浮かべながら、微笑んでいた。
『…………ん。ようやく、自分の気持ちを言えたね』
「……ん……うん……!」
──!
その途端、景色がぐにゃりと歪んだ。
「え、なに……?」
『もう脳内会話は終わり。現実に戻りな』
「え、どこ? どこにいるの?」
『どこにもいないよ。あたしは、最初からどこにもいない。今は、あんたの心の中に戻った所。そしてもうすぐ消える。あんたが素直に自分の気持ちを話せる間は、もう出て来たりしない。だから、あたしが出てこなくていいように、がんばんな』
「……ん。頑張る」
『よろしい! どう? 今の気持ちは』
「……正直に言うと……滅茶苦茶、恥ずかしい……!」
『あはっ!』
『華』が噴き出した。
目尻から零れた涙を拭っているのが想像できた。
『そうだよね。わかるよ。でもね、このあともっと恥ずかしいことになるから、気絶しないようにね』
「え?」
『ごめんね、あたし、あんたに嘘をついてたの』
「え?」
『ここには誰もいないって言ったでしょ。あれ、嘘なの』
「……え?」
『奥の方、見てごらん』
言われて、視線を巡らせる。
無人のエントランスの奥。シアターに向かう階段よりも更に奥。
そこには非常用の連絡路への扉があった。半分開いている状態で。
「え?」
扉が開いているのは、誰かが今開けたばかりだったからだ。
「え? え?」
"その人"は、開けた扉のドアノブを掴んだまま、呆然とした顔でこちらを見つめていた。
「え? え? え?」
その人は──
──宮代、拓留だった。
月明りしかないのに、宮代拓留の顔が真っ赤になっているのが分かる。
華の一世一代の『告白』を聞かれていたのは明白だった。
「えええええええええええええ!!!!!!?????? ななななな、なんで!?」
『いやー、こうでもしないと、告るとか無理っぽいからさー』
「でででで、でもでもでも! だって、自分自身には嘘をつけないって……!!??」
『えー? あたしそんなこと言ってないよ? [自分自身に嘘をつく必要は無い]って言っただけ。嘘をついちゃいけないわけじゃない』
「そんなあーーー!!!」
『まあ、丸一日つき合ってもらったことへの、あたしからのプレゼントだね。あとはあんたが上手くやんな。じゃあね』
胸の奥から、すっとなにかがいなくなった。
「あ……」
体が少しだけ軽くなった気がした。
それは、嬉しいことでも、悲しいことでもあるような気がした。
胸に手を押さえて、呟く。
「……ありがとう」
そして顔をあげ、宮代拓留の方に歩いて行った。
「……か、香月?」
「ん」
手に持っていたクールキャットプレスを持ち上げて示す。
「取り返して、くれたんだな」
「……ん」
「……ええと……さっきの言葉……」
「っ! ……」
「ええと、あれは。なんていうのかな、お前の、本心なのか? つまり、香月は──」
「──僕が、好き、なのか?」
「っ!!??」
このシチュエーションで確認するの!?
どんだけコミュ力無いのこの人!?
心の中で絶叫しつつ、香月は必死に気持ちを落ち着けた。
『華』がくれたこのボーナスステージを台無しにしたくなかった。
ふっと、誰かに背中を押された気がした。
「……ん。好き、かも」
「……………………あ、ありが、とう」
「! ……」
それは、今、一番聞きたかった言葉だった。
「……………ん」
………
……
……
放課後。僕は新聞部室の前に立ち尽くしていた。
「……………はあ。どんな顔して会えばいいんだよ……」
結局、僕は香月のためになにもしてやれなかった。
………
あの日、僕はホテルの部屋から出て行った香月を見つけることができず、自分のキャンピングカーに戻った。
するとそこには、新聞部の仲間が集まっていた。
僕はそこで初めて、自分の朴念仁振りを理解することになった。
「いったい、どうなってるんだ? あの二人は、いったいなにがしたいんだ?」
「はあ? もしかして宮代先輩、まだわかってないんですか?」
「え、なにが?」
「はあ……。我が弟ながら、あきれ果てるわね」
「なんだよみんなして」
「あのねえタク。華ちゃんは、タクのことが好きなんだよ」
「……え? なにを言ってるんだ? そうか、みんなして僕をハメようとしているんだな?」
「ちーがーいーまーすー。華の顔見てれば分かりますよ。宮代先輩が鈍いだけです」
「え、そうなの? 俺は全然気付かなかったけど」
「伊藤くんは黙っててくれる?」
「ハイ」
「さあ、拓留、どうするの?」
「え!? ど、どうするって……」
「香月は、能力の力を借りたとはいえ、あなたに想いを告げたのよ。受け入れるにせよ、そうでないにせよ、ちゃんと答えてあげないと、可哀想よ」
「そうだよ、タク」
「みんなの言う通りですよ。宮代先輩」
「…………とにかく、香月を捜そう。すまない。みんな、手伝ってくれ!」
………
こうして、新聞部のみんなで手分けして、渋谷中を走り回った。
いつもなら、香月が部室に常駐して、みんなの中継役になってくれていたのだけど、今回はそれがなかった。
そのことが、なにかにぽっかり穴が空いている気がして、苦しかった。
今はただ、香月に会いたかった。
……
夜になっても、香月は見つからなかった。
「くそ、どこにいるんだよ……!」
と、その時、
──!
「メール? ……香月からだ!」
届いたメールにはたった1行『シアターキューブ』と書かれていた。
「シアターキューブ!」
………
表玄関は閉まっていたので、非常階段に潜り込んで登った。
……
「ここだ!」
──!
「わたしは、拓留先輩が、好き、かも」
「っ!」
その後のことは、覚えていない。
頭が真っ白になって立ち尽くしていると、香月がこちらに歩いて来た気がする。
僕はなにかを言った気がする。
香月は『ん』と頷いた気がする。
そして僕は、『ありがとう』と言った気がする。
香月の思いの丈の詰まった告白に対して、なんとも間抜けな返事ではないか。
けれど、香月は、笑って頷いてくれた、気がする。
………
あの後、香月となにを話したのか、まったく覚えていない。
長々と話した気もするし、なにも言わずに見つめ合っていたような気もする。
どうやってキャンピングカーに戻ったのかも、覚えていない。
香月と一緒に帰った気もするし、ヒカリヲの真下で別れた気もする。
それくらい、僕の頭は香月の言葉に満たされていて、他のことはなにも考えられなかった。
正直言うと、その混乱は今も続いている。だから、どういう顔で部室に入っていいのかわからない。
ただ、一つ言えることは。
今、とても気分が良いということだ。
「もう来てるのかな、香月」
──「ん」
「ひあっ!?」
後ろから突然声がして、声が裏返る。
「か、香月!?」
「ん?」
いつもの香月だった。
昨日の夜は、かなりあわてふためいていた気がするのだが……。
あれは僕が見た妄想だったのだろうか。
もしかしたら、あの告白も──
急に香月が僕の顔の前に手を伸ばした。
手には、華が咥えているのと同じロリポップが握られていた。
「え?」
「ん!」
僕が戸惑っていると、華はむっとした顔になり、無理矢理僕の口にロリポップをほおばらせた。
「ふわっ!? な、なにすんだよ!?」
「ん」
香月は満足げに頷いてから僕に背を向け、部室の入り口の前に立った。
そして、なにかぼそぼそと呟いた。
「え、今なんて言った?」
すると、香月はこちらに振り向いて、きっ、と僕を睨み付けた。
「ん-ー!!」
「な、なんだよ!?」
香月は無言でまた部室の方を向いて、そして言った。
「……お揃い、かも」
「……っ!」
その時初めて、香月の耳が真っ赤になっていることに気付いた。
香月も、昨日のやりとりが恥ずかしくてしょうがないのだろう。
それはつまり、あれは妄想じゃなかったのだ。
「……ふ、ははは」
思わず、笑いが零れてしまう。
「ん?」
「な、なんでもない。入ろう」
「ん」
いつもと変わらない日常が始まる。
香月のなにかが変わったわけではない。
僕のなにかが変わったわけでもない。
二人とも、人付き合いが苦手だった。
二人とも、人と話をするのが苦手だった。
二人とも、人の気持ちを推し量るのが苦手だった。
だから、これまでは特別な相手を作りたいと思うこともなかった。
でも。
でも、そんな二人だからこそ、相手の力になってあげたいと思える。
力になれなくても、困っている時に傍にいてあげたいと思える。
傍にいてあげられなくても、この世界のどこかにその人がいると思える。
それが、とても素敵なことなんだと、今、僕は知っている。
きっと。
きっと、今僕の横で、耳まで真っ赤にしながらロリポップの棒をブンブン動かしているこの女の子も。
きっと、同じ気持ちなのだと、思う。
二人で部室の入り口に立ち、自然に、二人でノブを握った。
「これからも、よろしくな、香月」
「……」
「……ん」
……
部室には、伊藤、乃々、世莉架、雛絵が揃っていた。伊藤が座っている席に3人が集まり、なにやら話し込んでいる。
「みんな、昨日はありがとう。助かったよ。な?」
「それで、実はみんなに報告したいことがあって。な?」
「わざわざ報せるのもどうかと思うんだけど、みんなには手伝ってもらったわけだし────ん?」
誰も、僕の話を聞いていない。伊藤が持っているなにかを見ながら喋っている。
「なあ、みんな──」
「ふうん、『来栖はツンデレが過ぎるので、もう少し年上のお姉さん的な余裕のあるエロさを醸し出せると良い』ねえ。拓留ってば、姉に大してそういう劣情を感じてたわけねえ」
「ひっ!!!」
「『尾上は、エロ知識のなさとガードの弱さから、気がつくと幼なじみ系エロ展開に持ち込めるかもしれない』。タク、幼なじみ系エロ展開って、なに?」
「ひいっ!!!」
「『有村はエロにオープンな所があるので、その場の勢いで持ち込める可能性がある』。はあん、宮代先輩って、顔に似合わずケダモノなんですねえ」
「ひいいいいいいっ!!!!!!!」
間違いない。伊藤が持っているあれは、『華』に盗まれたクールキャットプレスだ!
「いいいいいい、伊藤!!!!! ななななな、なんでお前がそれを持ってるんだ!?」
「なんでって、部室に来たら置いてあったんだよ」
「だ、だってそれは僕が昨日回収──」
──いや待て。
回収、してないぞ?
あの時、香月は確かにこの雑誌を手に持っていた。
そして、僕に差し出した。
それから、
それから──
──覚えて、ない。
「かかかかか、香月、これは一体──?」
横を見ると、そこには誰もいなかった。
「か、香月!?」
──♪
「へ!?」
いつの間にか香月は窓際のPCに座り、いつものようにエンスーを始めていた。
「か、香月!」
僕が窓際に駆け寄ろうとしたその時、
「拓留ー? これはあなたが書いた物なのよね? 『ツンデレが過ぎる』って、どういう意味か教えてくれる?」
……目が笑っていない。
「い、いやこれは」
「タクー、幼なじみ系エロ展開ってなにー?」
「いや、あのだな」
「宮代先輩、勢いで持ち込んでみます? 私は構いませんよ」
「だ、だから! い、伊藤! 助けてくれ!」
「あ、俺呼び出しだった。じゃあな、あとは頑張れ」
「嘘だろ!?」
「拓留?」
「タクー?」
「宮代先輩?」
「ぎゃああああああああああ!!!!!!」
「……ん……」
「……ふふっ」
………
……
【香月華 Normal end】
………
……
──2015年10月
……
──2009年11月
「くっ! うああっ!?」
(こ、これは……あの地震か!?)
渋谷の街全体が、まるで水の上に浮かんでいるかのように波打っている。
立っていることはおろか、座り込んでいてさえ身体が翻弄され、何かにつかまっていないといられない。
(ということは、ここは2009年、なのか!? なぜ!?)
………
(いったいなんだこれは? いつの間に私は、こんな場所に?)
あたりをゆっくり見回した彼女は、だが、被災者の中に"ある少年"を発見してギョッとなった。
彼は、パニックを起こしている人々の中、ひとり、ブルブルと震えていた。でも、その震えは、地震に対する恐怖とは明らかに違うものだと、澪にはすぐに分かった。
彼が震えているのは、"怒り"のせいだった。
彼の目の焦点は全く合っていない。そして、たったひとりでそこにいるはずなのに、まるで別の誰かがそこにいるかのように、ブツブツと何かを訴え続けているのだ。
「あれは……宮代……拓留っ!」
「う、う、うう……尾上……お願いだ……お願いだよ……」
『なぁに、タク? タクの言うことならなんでも聞くよ? 私、何をしたらいいの?』
「僕の……僕の願いは……っ」
澪は思わず叫んでいた。
ダメだ、宮代!
お前の次の一言が、因果律を狂わせる!
元の世界に戻れなくなる!
だが、澪の声は誰にも届かない。
その代わり、飄々(ひょうひょう)とした、だが不愉快極まりない男の声が割って入った。
──「おいおい、久野里くん。キミもずいぶんと酷なことを言うね。渋谷地震の時、宮代くんはもっと素晴らしいことを願うべきだったんだ。そうすれば、その後の悲劇は何も起こらなかった」
「貴様っ、和久井っ……!」
澪は、背後に突然現れた和久井に詰め寄ろうとした。
だが、不思議なことに澪が近づいた分だけ、和久井の姿が遠ざかり、追いつくことが出来ない。
「キミにだけ、特別に見せてあげよう。渋谷地震の時、彼が本当は何を望むべきだったのか。そしてそのことが、キミたちをどんなに素晴らしい世界へといざなうのか」
「黙れ!」
「そう怖い顔で怒鳴ることはないだろう。それともなにかい? 彼には悲惨な運命(レ・ミゼラブル)こそふさわしいと?」
和久井は、まるでわざと澪をイラつかせるかのように、いささか芝居がかったポーズをとってみせた。
「宮代くんは未来ある若者なんだよ? 彼が正しい道へ進むように導くのは、大人の責任じゃないか」
「そんなのはただの詭弁だ! お前自身の失敗を帳消しにするための欺瞞(ぎまん)にすぎない!」
「やれやれ。確かに僕の失策をリカバーしようという意図を隠すつもりはないけどね……でも、宮代くんの未来だって救って上げたいと、本気で思ってるんだよ?」
「………そんなこと……彼は望みはしない」
「ははは、ずいぶんと肩入れしてるんだねぇ、キミ。まさか、恋でもしちゃったのかい?」
「ふざけるなっ……」
「まぁいい。これ以上キミと話をしていても無意味なようだ。僕の好きにやらせてもらうさ」
「やめろ! 彼は、もう十分に苦しんだ! もうこれ以上、彼の心をもてあそぶな!」
「あきらめるんだね。どのみち、もう止められはしないよ──ほら、因果はすでに書き換えられようとしている」
和久井が、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら宮代を指さした。
「よせ宮代! やめろぉぉぉっ!」
澪の絶叫。
しかし、その声が宮代少年に届くことはなかった。
「う、うう……お願いだ、世莉架……誰でもいい。僕のこと……ほんの少しでも"愛してくれる人"を与えてよっ。僕に、その人のことを、幸せにさせてよ……っ」
少年時代の拓留がそう言った瞬間だった。
誰もいなかったはずの空間に、ユラリと……尾上世莉架が"出現した"。
──!
「……リアル、ブート……」
「くく、くくく……ははは! かくして、因果は書き換えられた。ははは!」
……