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-ノベルゲーム・タイピング-

世界でいちばんNGな恋【24】

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

ご意見・ご要望がありましたら
─メール─ zippydle.scarlet@gmail.com
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Twitter─ @Zippydle_s
まで連絡下さい。

 

 

 


--------------------

 

 

 

 

 

『あ、あの…おっしゃる意味がよくわからないんですが』


男性教師『…ということは、あなたもご存じなかったんですか?』


『ご、ご存じも何も………嘘でしょう?』



 

男性教師『本人に確かめたら、あっさり認めましたよ。しらばっくれるかと思ったけど、意外でした』


『………』


男性教師『危うく騙されるところでした。…不妊症だなんて、まったく』


『っ…!』


男性教師『離婚歴があることも、年上ということも、僕にとっては問題じゃなかった。…そんなに心の狭い男じゃないつもりです』


僕の視界に、何か白いもやがかかる。



 

男性教師『けれど、子供ができないというのでは致命的だ。そんな結婚、ウチの両親が認めてくれるはずがない』


耳から入ってきてるはずの目の前の人の声が、どこから脳に伝わってきてるのか、わからなくなってきた。


男性教師『僕は次男でしてね。家は継がなくてもいいんですが、その代わり、一国一城の主として、僕が家族を盛り立てて行かなくちゃならない』


理解も、納得もできない。

けれど言葉だけがするすると頭の中に入り込む。


男性教師『なのに、子供が作れないなんて…年を取っても、夫婦二人きりなんてありえないですよ』


『子供が…作れない』

 



 

『家庭を持って、子供を産んで、育てて…そうしたら、理は普通に子供好きの、わたしが望むお父さんになれるかなって』

 



 

男性教師『そりゃ、最近は共働きだのセックスレスだので、子供を作らない家庭が増えてるのは知っています』


麻実は、教えてくれるって…

家庭を構えて、子供を愛して、

家族のために働く幸せを…

そんな嬉しさや楽しさに包まれた未来を…


男性教師『でもね、そうのうのは間違ってると思うんですよ。少なくとも、教育者としてはね』


『間違ってる…?』


麻実の目指したものが?

僕に語ってくれた未来の夢が?


男性教師『教育って学校だけじゃない。家庭だって重要なんです。だって、自分の子供に愛を注げないのに、他人の子供を導けるはずがないですよね?』


そうじゃない…

目の前の『こいつ』が否定してるのは、

そんな、どうしようもない現実なんかじゃなくて。


男性教師『だから僕も教育者である以上、愛情ある家庭を作りたい。自分の子供にしっかり愛を注げる親でもありたいんです』


ただ、その現実に直面してしまった麻実そのものを、間違ってるって、否定して…

『作れない』と『作らない』をいつの間にか混同して、いるはずのない犯人を、頭の中に作り出して…



 

男性教師『ほんと、今回は勉強になりましたよ。僕もまだまだ若いって、思い知らされました』


麻実の夢が、潰えてしまったことも…

そのために取らざるを得なかった愚かな行動も…

なにもかも、なにもかも、なにもかも…否定して。


『そ…』



 

男性教師『すいません、愚痴を聞いてもらっちゃって。けれど、同じ境遇のあなたならわかっていただけるかと。全く、危うく騙されるところで──』


『そんなのが…』


男性教師『え? なんです?』


『そんなのが麻実のせいなのかぁぁぁ~!?』

 


──ッ!!

 


………

 

 

 

 

第14話 『夫と父と男の決断』

 

 


………

 

 

 

 

 

「え~と、それじゃ酒は行き渡ったか~?」

「………」

「あ、ごめんなさい、そこの麦コーラいただけるかしら?」

「はい、お嬢様。こちらに箱で用意してございます」

「………」



 

「さてと、準備できたみたいだな。それじゃ始めますか~!」

「………」


「ではまず最初に~! 合格者たったの十数名という超難関をくぐり抜けて、見事特待試験合格を勝ち取った大家ちゃんから一言~!」


「あ…うん」


──パチパチパチ……!



 

「おめでと~トコちゃん!」


「お嬢様、そういうのは挨拶が終わってから…」

「………」



 

「あ、え~と…ども。その、なんというか、今日はあたしのために、かくも盛大なお祝いの席を用意していただき…」

「うわぁ堅ぇ!」


「………」



 

「え、えっと、色々ご迷惑もおかけしましたが、こうして無事、進学できることも決まり、その、感謝の気持ちでいっぱいで…」


「トコちゃん頑張れ~」

「………」



 

「あ、あと、その…春から、その…通う秋泉大附は…」

「………」


「秋泉大の、広いキャンパスの中に…えと…」

「………」



 

「あたしは…だから…」


「………」



 

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」


「………」

 

 

 

「ああもうっ! 俺、リストラ呼んでくる!」

「だ、駄目っ! いいってば八須永君!」

「いいわけないじゃん! 大家ちゃんの次に頑張ってたのあいつじゃんよ。やっぱここにいなきゃおかしいって」

「疲れてるんだから! たまにはそういう日もあるんだから! だからお願い、そっとしといてあげて!」

「けど、何があったって、今日だけはさぁ…大家ちゃんが一番祝って欲しいのが誰かくらい…」



 

「嬉しいから! あたし、みんなに祝ってもらえてすっごく嬉しいから!」

「トコちゃん…」

「………」


「あたしが悪かったね…ちょっと挨拶、ど忘れしちゃってさぁ。ごめん、もう一回いいかな?」

「………わかった。おい熊! ご隠居! あんたらも盛り上げろよ! 無一文の面(つら)してんな!」


「…お前、『無一文の面』って、それ比喩でも何でもないじゃん」

「一本取られちまいましたねぇ。これは…」


「夏夜さんも…ね? トコちゃんの大切な日にそういう態度、許さないわよ?」

「…ちぇっ。まだ酒が入ってないからこういう顔してるだけだってばさぁ」



 

 

「それじゃ続き行くね~! ええっとぉ、秋泉大キャンパスってすっごい広くてさぁ、でね、附属は正門入ってから一番奥の方に校舎があってさ」

「そうそう! バス停二つくらい平気で歩かされるのよね~!」

「面接に遅刻しそうになったときは勘弁してよって思ったけどね~」


………

 


……

 

 

 

 

 

 

──全員『かんぱ~い!』

 

「始まったみたいね」
「………」


壁の薄い壁越しに、みんなの陽気な声が聞こえてくる。



 

「ね、理。わたしたちも行かない? 美都子ちゃんの合格パーティ」
「………」



 

「もともとは、あなたが企画したんでしょ? ほうら、こんなところで暗くなってる場合じゃないわよぉ」


そう…

本当なら、この部屋で開くはずだった宴。

僕が、僕こそが待ち望んでいた瞬間。

この一年の、トコの頑張りが報われたことを、今日だけは、何を置いても、ただそれを祝おうと。

…そうやって、午前中から準備してたのに。



 

「じゃあさ…わたし、少しだけ顔出して来るわね。美都子ちゃんに挨拶して、飲み物でももらって…理?」
「………」



 

「ほんのちょっと外すだけよ。すぐ戻ってくるって」
「………っ」


けれど今の僕は…

せっかく準備した部屋に、何も言わずに居座り、周囲に陰気な空気をまき散らし。

そして…麻実の手を握りしめ、片時も側から離さない。



 

「あなたがそんなに落ち込むことじゃないでしょ。…そりゃ、まぁ、黙ってたのは悪かったけど」
「っ…ぅ…っ」


麻実の、優しくて、呆れ気味で、

そして諦め気味な声が、僕の負の感情を、

嫌になるくらい押し上げる。

知らないまま、知らされないまま僕らが辿り着いた結末は、その前提が違っていたなら、どのように変わっていたんだろうか。

考えて、考えて、そして恐ろしい仮説に突き当たり、

後悔して、後悔して、新たな涙がこぼれ落ちる。



 

「わかったわよ。しばらく一緒にいるから。でも、泊まっていかないわよ?」
「う…ん…」
「だって、理と一緒に一晩過ごしてると、昔を思い出しちゃうから、ね?」
「麻実…っ」


僕の手を握り返し、一緒に壁にもたれると、

僕の肩に頭をちょこんと載せ、

いつもの香りを運んでくれる。

僕を落ち着かせてくれる、

麻実の、髪と身体の匂いを…


………

 

 

 

 

「知ったのは、別れる半年くらい前かな」
「………」
「ちょっと調子悪くなって、今度こそ来たかなって、結構期待して産婦人科行って」
「それって、あの時…」


麻実が僕に初めて口にした『できたかも』のとき…


「あの時は先走っちゃって悪かったわね。ちゃんと検査するまで何も言わない方が良かった…」
「そんなこと、ないって」


一緒に住み始めて、二年半。

一緒の籍になって、一年半。

『ついに』とか『やっと』とか『とうとう』とか…

日々の忙しさに埋もれてしまいつつあった生活が、劇的に変わる予感と、覚悟が、あった。


「でもわたしもね、『今度こそ』って思ってたから。一人で抱えてるのが我慢できなくなって…」


最初から子供を作ろうって約束してた僕たちは、結婚してからの二年間、一度も避妊をしていなかった。

一月経ち、二月経ち、半年経ち…

新婚気分が少しずつ抜けてきて、

けれどそれは、夫婦として成熟してきたと解釈して。

『今すぐ』というほどには思わなくなったけれど、

『まぁ、いつかは』と、まだまだ楽観的で。


「検査に行ったら、妊娠はしてないって。けれど何故だかわからないけど、検査だけは続けるようにって」


それが一年も経った頃…

僕らの最初の結婚記念日を過ぎた頃…


不妊症の疑いがあるから…って」


僕らの間では、その話は、タブーになりつつあった。


「最初はね、隠しておくつもりはなかった。わたしたち、そこそこ秘密のない夫婦やってたし、熱愛とまでは言わないけど、仲悪いなんて思ってなかったし」
「当たり前だよ、そんなの」


会話はあまり多くなかったかもしれない。

残業、休日出勤当たり前で、二人の時間がなかなか取れなかったかもしれない。

けれど僕らは、喧嘩だってほどほどだったし、互いの温もりを感じながら眠ることも多かった。


「それに、もともと子供作るって宣言してたの、わたしだし。理は、そんなに落ち込まずに受け入れてくれるかなって」
「………」
「…うん、読みが甘かった。わたしが理に、過大な期待抱かせ過ぎちゃったのよね」
「そんな、ことは…」
「実家のお義母さんとの電話とか、駄目だったって言ったときの反応とか、そういうの見てたら、どんどん言えなくなっちゃって…」
「聞こえてたの、あれ…?」


『子供ができたかも』って、『父親になるかも』って、初めて伝えた相手は、普通で考えれば常識的な人選だった。

…僕の家庭環境を考慮に入れなければ、だけど。


「お義母さん、元気にしてる? …あまり喧嘩しちゃ駄目よ?」
「っ…」


僕が、母に電話したのは、もともと、単純に嬉しかったから、だけじゃなかった。

僕の記憶にある母は、父と喧嘩が絶えず、一人息子に無関心で、それどころか生んだことを後悔している節もあり。

母に抱かれた記憶も、温かい言葉を掛けてもらった記憶も、それどころか、罵倒された記憶さえも残っていなくて。

だからその時『あなたに子供が育てられるのかしら』という何気ない、本当に、嫌味でも心配でもない素直な感想を聞いたとき。

僕は、電話口で、母に向かって啖呵(たんか)を切っていたっけ。

『絶対に、自分の力で育ててみせる』って。

『誰の力も借りず、一人前にしてみせる』って。


「それから…あなた、ちょっと変わったわよね」


余談だけど…

半年後、『麻実と別れた』と伝えたときの母は、今度も、嫌味でも心配でもない素直な感想っぽく、『やっぱりねぇ』と、一言つぶやいた。


「前以上に仕事に打ち込むようになって、どんどん大きな仕事任されるようになって、どんどん、自分にプレッシャーかけていって」


仕事的には、あの頃が絶頂期だった。

入社して5年も満たない平社員が、億をさらに1~2桁繰り上げた額を動かす歪な職場で、周りが何も見えなくなるくらい打ち込んでいた。

…その一年後、不正経理が発覚するまで、僕はあの職場で、部長よりも大きな金を動かしていた。


「傍目には気づかれないくらいの小さな変化かもしれないけれど、一緒に暮らしてる人間には、その気の遣われ方が、痛かった」
「僕のせいだ…」
「ううん、わたしのせい」
「僕がそのことに気づいてれば…少なくとも、麻実に悩みがあるって気づいてれば…」


『できてなかった』と伝えられたとき、

僕は『そうなんだ』と、普通に答えることができたと思ってた。

でもそれは、間違いだった。


『普通に答えられた』のが正解だと思うこと自体が間違いだったんだ。

あれだけ嬉しそうに可能性を語った麻実こそが、あの時一番苦しんでいたのは誰にも予想できたのに。

自分が落ち込んでいないことを示してほっとして、相手が自分と同じ態度を取っているなんて思いもよらなくて。


「無理なのよ、理には…そういうことわからないの」
「でも、でも僕は…っ」
「そんな理だからこそ、子供が必要だって思ったんだもの。一緒に育てようって決心したんだもの」
「あ…」
「だからもう、ああ、これは駄目だって思ったの。わたしといると理は、わたしの目指した理にならないなって。公約、守れなくなっちゃったなって」


偏食で、人の気持ちに鈍感で…

そんなふうに、人として欠けるところだらけだから、他人に強く出られなくて。

麻実の『別れましょう』にも、最後まで抵抗できなかった。


「でも本当のこと話すと、理は別れてくれないでしょう?」
「当たり前だろ…そんなの全部僕のせいじゃないか」
「そうやって、ずるずると夫婦を続けて数年後に後悔するより、スパっと別れちゃった方が、お互いやり直しも利くかなって」
「麻実…」
「教師になりたいってのは本当に学生時代からの夢だったし。…導く相手が、一時期だけ、たった一人の大人に変わったけど」


人生を賭けて、僕を導いてくれるはずだった麻実は…

僕のための、一番大切な教材が自分に欠けていることに気づいたとき、その役目を降りた。


「だから、理が気に病むことなんかない。わたしは今でも、あの時の判断は正しかったって信じてる」
「麻実ぃ…っ」


麻実の伝えるのは事実だけ。

自分が、その教職に居続けたかったのか、それとも離れたがっていたのか…

そんな『真実』は、語らない。


「まぁ、理の方があそこまで落ちちゃってたのは予想外だったけど。そういう意味では、ちょっとだけ後悔してるかな?」


『初めての再会』の瞬間。

僕の顔を見て笑い出すまでの数日間。

麻実は、どんな過程を経て、あの笑顔を作ったんだろうって、思う。


「あ、でもね、今の理はいいよ…とってもいい。抱かれたいって思っちゃうくらい、いい」
「ぅっ…ぅ、ぅぅ…ぃぅっ…」
「一人の女の子を一生懸命守って、育てて、愛して…わたしが与えられなかった気持ち、自分で掴み取ろうとしてる」


握りしめる手が、優しくて、温かい。

自分の面さを全部消化して、さらに、僕を励ましてくれて。


「あなたがあまりにも一生懸命なせいで、女の子のほうの気持ちが、凄いことになっちゃってるけど、ね」
「ごめん…ずっと、今までずっと…ごめん」


涙なんか、止まるわけがない。


「こっちこそごめん…再会しちゃって」
「嬉しかった…痛かったけど、本当に、懐かしかった」
「それにごめん…ちょっとだけ、焼けぼっくいに火がついちゃった」
「嬉しかった…全然、変わってなくって、さぁ…」
「嬉しかった、けど…でもそろそろ、やめないとね」
「っ…」

 

いつの間にか、隣の喧噪はすっかり止んでいた。

ずっと待ち望んでいた、トコの合格の日。

トコと僕の一年が、やっと報われたその日は…

僕の…僕と麻実との二年間に覆い尽くされた。


………

 

……

 



 

「え~古来より子はかすがいと申しまして…」

「それ今日はやめとけってご隠居。まるっきりシャレになってないから」

「どうするのかね…あの二人」

 

 

 

「って、どの二人のことで? 今なら三通りの組み合わせが考えられますけど?」

「今日は大家ちゃんをネタにするのはよそうぜ? 一応、すっげーめでたい日なんだからさぁ」

「リストラ、元は田舎もんだしなぁ。子供できないってのは、大きなハンデかもなぁ」

 

 

 

「最近はいい雰囲気だったんですけどねぇ。…それこそ若大家さんが気が気でなくなるくらいに」

「けど、できないからって美都子ちゃん(こども)を選ぶってのも30男の倫理観として終わってるしなぁ」


──!


「いい加減にしろよあんたら! このままじゃ俺が今日一番の常識人じゃないかよ!?」

 

………

 

 

 

 

 

「やっぱり、あたしなら別れないな…」
「じゃあ、どうするのよ?」

 

 

 

「子供が欲しければ、どこで作ってもいい…自分の男の子供なら、あたしの子供じゃなくても愛せるよ」
「あなたはそれでいいかもしれないけれど、そんなふうに考えられる人なんてめったにいないわよ?」
「あの人は、独占欲が強くてそれができなかったんだろうね。…大家さんとどっこいどっこいなくらいに」
「一人よりも二人って思うのはいけないことなのかしら? 三人になれないなら一人って、なんだか寂しい…」
「あんたは二人でも三人でもお構いなしだもんね。大家さんが絡むと」

 

 

 

「見てきたような嘘を言わないで頂戴。私はいつでもトコちゃんと二人きりよ」

 

 

………

 

 

 

 

「………受かったよ…理くん……。あたし頑張ったよ…頑張ったんだよ?」


………


「なんで………なんで、こうなっちゃうのかなぁ? ねぇ誰か…世界中でたった一人でもいいよ…あたしのこと、認めてよ…。あたしの気持ち、正しいって…間違ってないって、言ってよぉ…っ」


………


結局、その後…


「…ね、理」
「ん?」
「そろそろ帰らないと…」
「………」
「もう、これ以上は、ね? 終電もなくなっちゃうし」
「………」
「美都子ちゃんに…悪いわよ? 今日のうちに、彼女を祝ってあげないと」
「…っ」
「…もう」


夜が明けて、僕が眠りに就くまでは、ずっと、手を握って、僕の側から離れずにいてくれた。


………

 

……

 

 



 

「ええ、ええ、そうです。では見積もりの方何時間以内にいただけますでしょうか?」


………


「はぁ? あ、そうですか…。しかし、それでは今週中の納品に間に合いませんが?」


………


「…そうですか。元々一週間かかると…ええ、ええ、わかりました。よく、わかりましたよ」


………


「…それでは見積もりの方、明日の朝一でお願いします。失礼します」


──ガチャ……。


「丸池鉄工………このままなら切る、と。さて、次は…」


──「…こら」

 

 

 

「…姫緒さん?」


突然の上から物申す声に顔を上げると、そこには仁王立ちで何故だか怖い顔をした直属上司がいた。


「どうしたんです? 今日はもう帰ったんじゃ?」



 

「今日っていつのことよ? 何月何日?」
「ええと…金曜日だから…2月1日ですね…」
「残念。ただ今より、2月2日、午前1時をお知らせします」
「あ~、そっか………こっち11時じゃなかったっけ」

いつの間にか左右の感覚に疎くなったらしい。



 

「この時間までつきあってくれる取引先に向かって、なんて無慈悲なこと言うのよ?」
「大丈夫ですよ。切る云々は向こうには伝えてませんから」
「『見積もりを明日朝一に』の方よ! 相手に徹夜させる気?」
「金額もう出てるんですから一時間もかかりませんよ。大体、本来なら昨日中の約束だったんですから」



 

「なんて無慈悲な…ウチがそんな大口叩ける会社だと思ってるの?」
「天下の澤嶋グループもその程度ですか…」
「…大企業病?」


グループトップのご息女がそのワードを知っているとは…将来に渡っても我が社は安心かもしれない。


「わかりましたよ…姫緒さんがおっしゃるのでしたら、午前中いっぱいは待ちましょう。ただ、二、三社と相見積は取らせていただきますがね」


価格もさることながら、一番のポイントは納期だ。

締め切りを守らない相手はどんどん切っていくしかない。

それが…クライアントというものだから。

ウチのような、売る方にも買う方にも回る会社としては、相手に守らせるルールは自分も守るというのが大前提だけど。


「わかった。その件はこれ以上口を挟まない。けど…もう一ついい?」
「手短にお願いしますね。朝までに全資材の手配書を書かなくちゃいけないんで」



 

「どうしてあなたが資材調達の仕事をしてるのよ? 私は経理部に戻したはずよ? 以上」
「…手短ですね」


素っ気なく応えつつも、心の中で少し冷や汗をかく。

よくも僕の守備範囲逸脱をしっかり見抜いたな。

最近の姫緒さんは仕事に関して普通に的を射た見解を示してくる。

実際、ここ数か月での成長は目を見張るものがある。

…四月から大学に戻るというのは少し惜しい気もするくらいに。


「誰もいないオフィスにただ一人残って、取引先の担当を深夜残業に巻き込んで、それでしてる仕事が担当外ってどういうこと?」
「怪我で一月も休んじゃいましたからね。取り戻すためにはこれでも足りないくらいですよ」



 

「上司が指示もしていない仕事に残業代を払えと?」
「…大丈夫ですよ、残業つけてませんから」
「そんなことしたら組合が黙ってないでしょ!?」
「それなら大丈夫。見逃してもらう代わりに組合執行部の仕事も引き受け…あ」


ちょっとばかり、経営側の視線が怖い。



 

「…今週の役員会でかなり話題になってたのよ。去年からずっと進捗が遅れていた蟻馬再開発プロジェクトが、最近になって怒濤の巻き返しを見せてるって」
「それはいい傾向ですね。年度末も近いですし、ここらで少しは成果を上げておかないと…」

 

 

 

「まさかこんなところに元凶がいたとはね…」
「元凶とは悪事の中心にいる者のことでして、吉事に適用されるのはいかがなものかと…」
「私が帰るときも来たときも、いつもいるのが当然だったから気がつかなかった。…ずっとアパートに帰ってないなんて」
「う…」
「理さん、あなた一体何のつもりよ? 経理部と調達部と不動産部でそれぞれ1日8時間働いてるって、正気の沙汰じゃないわよ!」
「いや、そんな無茶はしてませんよ。…本業以外は1日7時間です」
「………」
「その空き時間にちょっと組合仕事をするだけで…」
「………」
「風呂にだって入ってますよ。近所のサウナ。それに時間見つけてコインランドリーにだって」
「食事は?」
「あ、知ってます? 最近、レンジで茹でたてパスタを作れる商品が…」



 

「………」
「結構お気に入りで…三食それでもいいかなって…」
「………」
「………僕が休んでたせいで遅れたプロジェクトですから」
「あなたはもともと蟻馬の担当じゃなかった」
「う…」
「それに、一人の能力に頼り切りなんて、会社の仕事として間違ってる」
「それは…」
「それこそ理さんがまた怪我をしたら今度はプロジェクトそのものが頓挫するのよ?」


三時間前、平木副部長にも同じようなことを言われた。

『君は、もっと人に頼ることを覚えたまえ』と。


…私生活じゃ頼りっぱなしなんだけどなぁ。


「でも、その…去年、迷惑かけたから…この会社にいるためには、僕は…」

 

 

 

「ただの逃避なんでしょう?」
「っ!?」


お小言と、突っ込みと、罵倒だけならよかったのに…

適当に『もうすぐ帰りますから』とお茶を濁して、もう少しは時間稼ぎができると思ったのに…


「…このままじゃ、壊れちゃうわよ? あなたの奥さんだって、トコちゃんだって、そんなの望んでないのよ?」
「仕事が好きなんですよ! それじゃ駄目なんですか?」


せっかく、忘れていられたのに。

お金の計算して、取引先と値引き交渉をして、惜し気もなく資金調達して不動産を買い占めて。

大きなプロジェクトであるほどギリギリの勝負ができた。

背負うリスクと、それに伴う殺伐とした戦いと、そして勝ったときの果てしない達成感が、僕から、あの日の記憶を奪っていてくれたのに。



 

「ほんと、危ういわね。夏夜さんの言った通り。放っておくと、死んでも気づかずに働いてそう」
「あ…」
「でもね…そんな命削っての『逃げ』なんか、認めるわけにはいかないの」
「少しくらい…放っておいてくださいよ」


忙しさの中に身を置いて、決着をつけることから逃げて、考えることを放棄して。

そして、僕の中の考えも、一歩も前に進まないまま、ただ二週間、たくさん仕事がはかどっただけで。



 

「ちょっとくらい、心配するこっちの身にもなりなさいよっ! 理さんには自覚ないかもしれないけど、私はっ…」
「私は?」
「あなた、を…」



 

いつも通り、僕を怒鳴り散らす姫緒さんは、いつもとは違う方向に向かった感情を、僕の方に見せた。

顔をそらし、歯を食いしばり、肩を震わせて…

なんか目の中に溜まり始めて…


「姫緒さん…?」


僕の前で見せることなんか屈辱に違いない、

そんな、姫緒さんらしくない態度を…

 

「佐々木っ!」



 

「はい、お嬢様」

「いたの佐々木さんっ!?」


一声呼ばれると、佐々木さんは僕の背後でいきなり気配を現わす。

…というか呼ばれるまで気配を殺せるのかこの人は?



 

「理さん…第二秘書を部屋まで運ぶわよ! 必ず、今夜はぐっすり寝かせてやるんだから!」

「かしこまりました…ふんっ!」


──!


「うわぁっ! ちょっ、ちょっとちょっとちょっと! 佐々木さんっ!?」


『今夜』と来たら『寝かさない』だろう

という常識はさておき…

佐々木さんは、背後から僕の脇に手を入れると、

羽交い絞めにして軽く持ち上げた。

体格は向こうの方が上とはいえ、僕の身長だって相当侮れないはずと自負していたのに、佐々木さんにかかれば…


「さぁ、大人しくしてください芳村様。…とはいえ、激しく抵抗する男性を無理やり抱きしめるのも、それはそれで猛烈な役得感が」

「…大人しくついていきますので離してくださいお願いします」


いたいけな少年も同然だった…?


………

 

……

 



 

 

「理くんと飲むのも久しぶりよね。ささ、ぐっといってぐっと」

「わたし、今日はこのドクトルスパイスっていうの試してみようかな?」

「寝かせるんじゃなかったんですかっ!?」


アパートに強制送還を喰らった僕は、そのまま自分の四号室…の隣に運び込まれた。

テーブルの上にはクラッシュアイスと沢山のボトルとペットボトル。色とりどりのおつまみに、僕の好みを考慮したのかデリバリのピザ。

それに…


「それは大家さんから。…今日こそは理くん連れ帰るって言ったら、差し入れって」

「トコ…」

「うわぁ…」


明らかに、僕の栄養面を考慮した、ラップにくるまれた食事。

焼き物、煮物、おひたし、酢の物。

ご飯、汁物、果物までも。

バランスとか、味とか、冷めても大丈夫なものをとか、そういった、相手のことを全てにおいて思いやった、『娘』の作った『おふくろ』の味。


「っ…」


どうしてあの娘は…ここまでいい娘なんだろう。

僕の娘でいてくれることすら勿体ないのに、どうしてそれ以上のことまで僕に求めてくれるんだろう。

勿体なさ過ぎて、涙が出そうになる。


「ほら、泣くのは食べながらでもできるでしょ? 始めようよ、理くん」

「あ、あの、理さん。私もちょっといただいてもいい? トコちゃんのご飯、久しぶりで…」

「じ、自分で頼んで作ってもらえばいいじゃにですか! これはトコが僕の、僕だけのためにっ!」

「なんてはしたない恩知らず!? あなた、どうしてトコちゃんが絡むとそこまで大人げなくなるのよ!」

「そりゃ、だってトコは僕の…っ!? え、ええと、トコは、その、僕の…つまり…要するに…」


ちょっと前までは堂々と公言できたトコと僕との絆。

けれど今は…いつの間にか、後ろめたさを感じるようになってしまった、トコと僕の、微妙な関係。

僕は、トコを…


「………さ、乾杯しよっか。なくなってしまった理くんへの倫理への哀悼の意を表して」

「ぶっ!?」

「今日までの理さんの無駄な加藤を称えて」

「な…ちょっと?」

「こんな情けないノッポさんにまだ惚れてる、馬鹿な女たちの前途を祝して」

「誰のことですかそれはっ!?」


──!


夏夜&姫緒
「かんぱい」

 

………

 



 

「だから言ったでしょ。目を離したら駄目だよこの人。放っておけば何日でも寝ずに仕事するんだから」

「ほんと、迂闊だったわ。毎日いつも通りで、一生懸命働いてたから、すっかり騙された…」

「騙してなんか…」


──!


「二週間で10時間しか寝てないってののどこが騙してないって言うのよ!?」

「あの…それ美味しいですか?」


麦コーラのみならずドクトルスパイスまで、こうも勢いよく制覇されると、何と言うか、タチの悪いペテンにかけられているような気がする。



 

「理くんってさぁ、前の職場でもそうだったけど、家に帰りたくない時、すぐに仕事に逃避するよねぇ」

「あ、あの時はっ………残された取引先の人たちが…」

「あたしもそう思って、きゅぅんってキちゃったんだけどさ~、今思うと、単に大家さんに顔向けできなかっただけなんじゃ…」

「ストップ安!?」

「でさ、昔もそうだったんじゃないかって。何か奥さん…センセと顔合わせ辛いことがあると、急にバリバリ仕事こなして帰ってこなくなるとかさぁ」

「そ、そ、そ………それはっ」


心に当たるモノが多すぎて痛い…



 

「言ってたわよね奥さん…理さん、同期で一番の出世頭だったって」

「若手のくせに、凄く大きなプロジェクト任されてたって。…理くんが失脚したのだって、同期や上司から嫉妬を買ったせいってのもありそう」


そうか、これが誉め殺しか…勉強になる。



 

「つまり、奥さんが理さんと別れたのは…」

「仕事にかまけて自分から逃げてばっかりの夫に、ほとほと愛想が尽きたからで…」

「子供がどうとか言うのは、自分を納得させるための後付けの理由で」

「今だってもう全然冷え切ってて、けど再会しちゃった手前、今さら蒸し返すのもなんだし、とりあえずいい顔しとこうって」

「心の中じゃ『今さらヨリを戻そうなんて、調子良いこと言ってるんじゃないわよこのダメ亭主』とか理さんを罵倒してたり」


そして今度は本気で殺(や)りに来てるし…


「そう…なんでしょうか」


でも…

同じ『隠された事実』なら、

僕にとっては、こっちの方がよほど救われるわけで。



 

「………」

「………」


最近の、僕らのいい雰囲気も、

単なる麻実の同情で、僕は盛大に勘違いしてて…

麻実に心の傷なんかなくて、

僕とのこともすっかり振り切れてて、

子供のこともすっぱり諦め切れてて…

もしそうだったら、

僕らはお互い苦笑しあい、

もう一度、握手から始めることが…



 

「全っ然、違うわよね」

「あれベタ惚れのままよね」

「スイッチ入った理くんの虜(とりこ)よね」

「スイッチ?」

「なんだっけ、『僕よりも幸せに出来る男はいない!』だっけ?」

「ぶっ!?」


──!



 

「あの時の話はやめてよっ! 奥さんが言ってたこと思い出すじゃないっ!」

「あれ? 姫様耳塞いで聞いてなかったんじゃなかった?」


「あなた方は僕のいないところでどんな話を聞かされてるんですかっ!?」

 

いけない…いや、いい傾向かもしれない…

彼女たちの色毒だらけの軽口に惑わされ、

ずっと酔えなかったはずの酒が、回ってきた。


………

 


で…一時間後。

 



 

「あ、ども…」


「氷取って」

「ん…」

「さんきゅ」

「ねぇ、そっちのチョコレート残ってる?」

「あ…ちょっとだけなら」

「空けちゃっていいかしら?」

「ど~ぞ」

 

「ふぅ…」


「んむ…」

「んく、んく…」


「………」

 

「…(ぽりぽり)」


散々僕への心温まる罵倒で盛り上がっていた二人が、さすがにネタが尽きたのか、段々と物静かになっていき。


「で…どうするの理くん?」

「どうしたいの? 理さん」


「どう…って?」


「センセと…もう一度やり直したい? それとも、新しい恋を取る?」


「っ…」


そして…思い出したように、核心を突く。


「何日も頑張って先送りにしたところで、いつかは決めなくちゃならないことでしょう?」

「だったら早く決めちゃった方がさぁ…理くんを追い込んじゃった方も、理くんに生殺しにされてる方も、どっちも可哀想だよ」


「夏夜さん…姫緒さん…」


彼女たちは、純粋に僕を心配してくれている。

僕が、自分で抱え込んだまま自滅するのを見かねて、背中を押してくれている。

僕の進む方角は、どちらも崖を向いているけれど…

それでも落ちてみなければ、何も始まらないうちに終わってしまうから。

だから、僕は…


"麻実はもう、僕のところに戻っては来ない"


「麻実はもう、戻ってきてはくれません…」


やっぱり後ずさる。


「それって…要するに戻ってきて欲しいってことでしょう?」

「違います。戻ってこないってことです」


前になんか、進めるわけがない。

かつて、愛する人を突き落とした崖下なんか、見たくない。


「理くんの予想を聞いてるんじゃないよ。理くんの気持ちを聞いてるんだよ…」

「そんなこと聞いて何になるって言うんです? 僕は、今までずっと、麻実を傷つけてたんですよ?」


彼女が、突き出た岩にしがみつき、未だに僕の助けを待ってるとか、そんな夢物語を信じるほど、僕は強く生きてこなかった。


「麻実の辛さに気づかず、全部麻実に決めさせて、全部麻実に背負わせてしまったんですよ…っ!?  げほっ、ごほっ…けふっ、こふっ…う、ふぅ、ふぅぅ…」


「理くん…大丈夫?」


夏夜さんのお気に入りのスコッチを、生のまま喉に流し込む。


「再会してからだって、ずっと自分のことばっかりだった」


灼けるような熱さに激しく咳き込み、苦しくて、息ができなくて…目尻を濡らす。


「困ったことがあったら、向こうの都合なんかお構いなしに相談に乗ってもらって、慰めてもらって…言葉も何も伝えてないのに、受け入れてもらって…」


「理さん…」


そうだ…

麻実を抱きしめるとき…僕は、一度だって、麻実に対して気持ちを伝えなかった。


「そんな僕が今さら、『やっぱり麻実のことが好きだった』ですかぁ?」


ただ『安心する』とか『いつもの匂い』とか…

自分が誰を求めているのかわからないまま、曖昧に、麻実なら拒絶しないだろうって卑怯な計算をして。


「諦めきれないから、夫婦だった二人にやっぱり戻ろうって…そんな勝手が許されると思いますか!?」


やばい…回ってきた。

言っちゃ駄目な言葉が、次から次へと溢れ出る。


「っ…ぅ…す、すいません、怒鳴ったりして」


アルコールの苦しさに我慢しきれずに、流しちゃ駄目な涙が、次から次へと溢れ出る。


「でもさぁ理くん…」


夏夜さんが、僕の背中をさすりながら、ゆっくりと、染みいるように、僕の耳元にささやく。


「わかったようなこと言うみたいで悪いけど、それって結局、センセの方が判断することじゃないの?」


「そうですよ? で、麻実は判断したんです。僕らはもう、二度と戻ることはないって」


「奥さんがそう言ったの?」


「え~、言いましたとも。二度も三行半叩きつけられた男ってのもそうはいませんよね~。う…んぅっ…ぷぅ」


『嬉しかった、けど…でもそろそろ、やめないとね』


身体はあんなにぴったり馴染むのに、心はどうしてこんなに届かないんだろう…


「で、どうするつもり?」

「どうするもこうするもありません。何もしないんですよ。だって、何もできないから」

「それでいいの? 理くんは」

「いいも悪いもありません。できないことをやっても意味がないだけです!」


体中に酔いが回ってる。

頭が、ぼやけてくる。

抑え込んでいた感情が、

熱く酒臭い息と共に湧き出てくる。


「信じられないな~、それって」

「何がですか、どうしてですか…。みんな、どうして僕みたいな情けない…男に…」

「だってあたしたちはさぁ…芳村理のビジネスを知ってるんだよ?」

「…ぇ」

「粘り強くて、用意周到で、したたかで…ボロ負けの戦いを引き分けにまで持って行く、絶対に負けない卑怯な手腕を知っているのよ?」

「絶対に、負けない…」


そういえば…

以前、同僚に『5回コールド負けを降雨ノーゲームに持っていく天才』なんて揶揄されたこともあったっけ…


「ね、理さん…もしこれが『勝率0%の競合入札』だったら、あんたはそんなに簡単に諦めるかしら?」

「発注先の会社を買い占めてでも、強引に入札しちゃいそうだよね」


「その行為にどんなメリットがあるんですか…」


「そうねぇ…自分のものを、もう一度手に入れられるかしら?」

「それはそれは…とっても自己満足に浸れるわね、それ」


「………」

 

自分のものを、もう一度、自分の手に…

自己満足にしか過ぎない、その行いは。

今までのマイナスを、ゼロに戻すための、

その戦いは…

もしかしたら、とても尊くて、

苦難に満ちているけれど、

可能性はゼロじゃないかもしれなくて。


「どうしてそんな…自分でも最低だって思う僕を励ましてくれますか、あなた方は…」


だから、なんだか眠くなってきた。


「別に、応援する義理はないんだけどね。ま、なんとなく」


今なら、悪夢を見ずにすむかもしれない。

灯りを消しても、叫び出さずにすむかもしれない。


「私としては、部下が潰れないよう気を配るのが、最近では上司の大切な業務になっている風潮を考慮して…」


「………ん」


「あたしも姫様も、理くんに今でも惚れてるからさぁ。少しでも幸せを目指してくれたらなって…」

「現在進行形みたいに言わないでよっ! それじゃまるで私が諦め悪い負け犬みたいじゃない!」

 

………


「センセとヨリを戻す方法は二つかな…一つ目は、プライベートでもスイッチを入れて、センセを骨抜きにしちゃう…」

「最初から身も蓋もないわねあなたは」


「………」


「でもセンセ、本当に好きモノだったじゃない? 効果的な手だと思うんだけどなぁ」

「それはそうだけど…強引な理さん…って、あああああっ! また想像しちゃった!」


「………」


「二つ目は…さ。彼女がハンデだと思ってることを、無力化してしまう」

「どうやって?」

「二人の間に子供がいればいいのよ」

「だけど、それができないから彼女は…」

「つまりさ………あ」

「何よ、どうしたの?」

「しぃ~!」

「え…?」

「ほら」


「ん…ん~…」


「あ…」

「ふふ…か~わい」

「私たちより随分年上の男性にその言い方はないんじゃ…」

「そ? だって見てみなよ」


「んぅ…んぅぅ…」

「っ…理、さん…」

「何照れてんのよ? すっぱり諦めたんでしょ?」

「だ、誰も………そんなこと…」

「膝枕と~っぴ。理くん、こっちおいで~」

「ああっ!? ちょっとぉ! そういうのって普通ジャンケンで決めるんじゃないの?」

「へ~…そなんだ? じゃあ、勝ったらちゃんとやるんだね? 膝枕…」

「う…っ!?」

「いいよ、なら譲ってあげる。その代わり、あたしは彼の腕枕もらうわね」

「あ、あ、あなたっ! どうしていつもいつもそんなに卑怯極まりないのよっ!?」


「すぅぅ…すぅぅぅぅ~」

 

………

 



 

「っ…ぅ、ぅぅ…ひぅっ、う、く…っ、ふぇぇ…っ」


──ガチャ……。


「っ!?」

 

 

 

「ん…?」


「あ、あ………あ」


「大家さん…」



 

「こ…これ、は…っ」



 

「夜更かししてまで盗み聞き? ホント、理くんの言う通り、いけないコになっちゃったね~大家さん」
「う、う、う…うるさいなぁっ! あたしのアパートであたしが何してようが、そんなのあたしの勝手じゃん!」
「なんてね…久しぶりに理くんの顔が見たくて見たくて一睡もできなくって、ついつい様子をうかがいに来ちゃったってとこでしょ?」
「っ…なんで、わかるのよぉ?」
「ん? 当てずっぽうに決まってるでしょ?」
「………」



 

「ほんと…女に、なっちゃったね。ちょっと早すぎるよ、大家さん…」
「訳わかんないこと言わないでよ。自分のこと棚に上げちゃってさぁ…」
「ん? なんのことかな?」
「夏夜さんだって今夜理くんのこと慰めるついでに、誘惑しちゃおうかって考えてたくせにさ」
「…どうしてわかっちゃった?」

 

 

 

「当てずっぽうに決まってんじゃん」
「…あは、あはは」
「面白くないっ」



 

 

「こぉ~のコはぁ、ほんっと執念深いなぁ。あたしですら負けるよ」
「うるさいよっ!」
「頑張ってね大家さん。…応援しないけど、ね」
「っ…ふんっ」


………

 

……

 

 

 

 

 

次の日…

 

 

 

「うわああああああああああああああ~!?」

 


「ん…んぅ…」

「ん~…うるさぁい」

 


「わ~! わ~! わぁぁぁぁぁ~!?」

 


僕が目覚めると…

僕の両腕に抱かれて眠っていた夏夜さんと姫緒さんが、寝ぼけまなこで、僕にすがりつく腕に力を込めた。


………

 


……

 

 

 

 


──キ~ンコ~ンカ~コ~ン……。

 

 

 

 

「失礼しま~す」


「あ…」


女性教師「あら陽坂さん。そうそう聞いたわよ。みんなより一足先に合格おめでとう」



 

「あはは、ありがとうございます、小川先生!」


女性教師「特待合格なんて我が校としても鼻が高いわ。卒業式の答辞はあなたで決まりね」


「え、え~、それはちょっと…あたし学校行事それほど積極的じゃなかったし」


女性教師「その分お家のお手伝いで頑張ってるんでしょ? 私としては、推薦する資格十分だと思うんだけどね。ね? 香野先生?」



 

「え? あ、ああ…そうですね…まぁ…」

「………」

「あ、あは、あはは、そ、それで美都子ちゃん、今日は?」

「あ、そうだったそうだった。あの~、香野先生」



 

「な、なあに?」

「…ちょっと込み入った話があるので場所変えませんか?」

「ひぃっ?」

 

………

 



 

「今の…トコ、と…先生?」

 

……

 

 

 

 

「…さすがにこの時期ともなると、放課後の三年の教室は静かなものね」
「もう自主登校だもんね」
「一般入試は今週がピークだしね。ちょうど今頑張ってる子も何人かいるわね」
「そなんだ…あたしだけ一抜けして、ちょっと申し訳ないなぁ」



 

「それはあなたの努力によるものなんだもの。堂々と胸を張ってもいいのよ」
「ううん、あたしだけの力じゃないよ。だって、母親が失踪中なのに特待生になっちゃったんだよ?」



 

「あ、あ~…それはねぇ…それを言われると、ちょぉっと教職者としてはやっちゃった感漂うというか、なんというか…」
「先生、完全に共犯だもんね。もしこのことが秋泉大附に知れたら、ウチからの推薦枠なくなっちゃうだろうね」
「お、脅かさないでよ! わたし、ここをリストラされたらこれからどうやって生きていけばいいのよぉ?」



 

「そうなったら今度は先生が"リストラさん"だね。あはは、あははははっ」
「わ、笑い事じゃ…ふふっ。あはははは、ほんと、酷い不正入学よねぇ」
「あは、あはは…ありがとう先生。今まで、あたしのために色々と頑張ってくれて」
「ウチのクラスの一番の問題児なんだもの当然よ」
「あ~、ひど~い」
「それに、むしろ大変なのはこれからよ? 学生と大家、これからも両立させていくんでしょ? 秋泉大附レベル高いわよ。ついていける?」
「うん、頑張るよ。あたしには、それしかできないからさぁ」
「…合格、おめでとう。美都子ちゃん」
「ありがと、先生」



 

「ごめんなさい、合格祝いに参加できなくて。お祝い、遅くなっちゃったわね」
「ううん、いいよ。だってあの時は仕方なかったし」
「美都子ちゃん…」



 

「理くん…離してくれなかったんだし。先生だって、ずっと側にいてあげたかったんだろうし」
「っ…」
「先生も色々あったんだし…正直、同情するところだってあるかなって…」
「同情は…しなくていい。ううん、して欲しくない、かな」
「え…?」



 

「これは、わたしの選んだ道なんだもの。『仕方ない』なんて思いたくないの。それに…思われたくもない」
「先生…」
「あ…ごめんなさい。ちょっと言い方がキツくなっちゃったかな?」
「ううん…そんなことない。先生の言う通り、あたしが間違ってたよ」
「美都子ちゃん…」
「そうだよね。同情なんて、今、一生懸命頑張ってる先生に失礼だもんね。うん、本当ごめん先生。あたしいつも一言多くてさぁ」
「そ、そんな…わたしの方こそ…」



 

「………だったらさぁ」
「え…?」
「そのことで理くんを悩ませるの、やめて欲しいんだよねぇ」
「っ!?」


………

 


……

 

 

 

 

「あたしはこれからも、ずっと理くんと暮らしてく」
「み、美都子…ちゃん」
「彼のために毎日ご飯作って、身の回りの世話して、一緒にアパート守って…そして、彼に守られていきたいって、思ってる」
「………」
「そんな、"あたしの"理くんをさぁ…これ以上、苦しめて欲しくないな」
「それは…保護者としての理? 娘として、親を独占する美都子ちゃん?」
「そんなことが先生に関係あるのかなぁ?」
「あるに決まってるでしょう…ことと場合によっては、あなたはわたし以上に理を苦しめることになるのよ?」
「答えになってないよ…それ理くんの問題じゃん。やっぱ先生関係ないじゃん」
「っ!?」
「先生は、自分で選んだ道に理くんを連れて行かなかった…理くんと一緒に歩くのをやめたのに、後悔してないって言った」
「そ、それは…それはっ」
「だから、これは理くんとあたしだけの問題で、先生にどうこう言われる筋合いなんて全然なくって…」
「待ちなさいよ…どうしてそういう話になるのよ…」
「どうしてならないかの方が知りたいよ。あたしとしてはさぁ」
「一緒に歩いて行けないからって、どうして無関係だって言いきれるのよ? どうして心配すらしてはいけないのよ?」
「先生…」
「たとえ一緒に歩かなくても、ずっと見ていたらいけないの? 彼のこと、もう考えてもいけないって言うの?」
「じゃあ、どうしたいの先生は?」
「ずっと…今のままの関係を続けられたらって、思ってる」
「…なに、それ?」
「たまに会って、たまに食事して、たまにお酒飲んで。で、たまに、ちょっと盛り上がっちゃって…その…」
「そんなの、理くん生殺しじゃん…酷すぎるよ先生…」
「だってあなたと理なんて、認められるわけないでしょ? だったらわたしがどんな手を使ってでも、理を止めるしかないでしょ?」
「…それって、あたしの担任として? それとも、理くんの元奥さんとして?」
「両方よ。決まってるでしょ?」

「っ…」
「自分の教え子が間違った道に進もうとしてたら、正しい方向に導いてあげないといけない。…たとえ、自分がちょっとばかり道を踏み外しても」
「間違ってない…あたしは、全然、間違ってないよ…」
「あなたがどれだけ頑張って理に想いを伝えても、わたしは何度でも止めてみせるから。身体でも、なんでも使って、ね」
「好きな人に想いを伝えるのがそんなにいけないこと? 道徳だって、保健だって、そんなこと習わなかった…」
「いつか理に、本当に相応しい相手が見つかるまで、ずっと理の、都合のいい女でい続ける」
「先生こそ間違ってる…そっちこそ、おかしいよ」
「どうせ、何したって子供できないんだもの…こういう役目ならお手のものよね」
「そんなの…本末転倒じゃない」
「怪我の功名…かしら? ふふ、洒落にもならないわね」


………

 

 

 

 

「ど、どうしよ、どうしよう…トコってば…あんた、なんて身も蓋もない話してんのよ…。って言うか、先生も直球で打ち返さないでよ…あたしもう、心労で倒れそう…」


──「お? お~い、どしたんだ長谷川? まだ帰らないのか?」


「っ!?」


──ッ!!

 

 

 

「っとぉ?」

「こ、これ以上あたしの寿命を縮めないのあんたはっ!」

「…と言いつつ首を締めるな首を。知らない奴が見たらどう見てもキスシーンだ」

「大体、なんであんたがここにいるのよ? 推薦通ってもう学校来る必要ないでしょ?」
「いや、ロッカーに残してた教科書とか引き取りに…」
「教室は今取り込み中!」
「塗装業者! ペンキ塗りたて! しばらく入れないから!」
「そうなの? 困ったな…せっかく来たのに」



 

「そういうわけだから、あんたはここにいなさい。で、教室に来る人がいたらそう言って言い返して!」
「いいけど…お前は?」
「あたしは…業者の様子を見てるから! 頼んだわよっ!」



 

「…作業中だからって、隠れて覗くことないのに」

 


………



 

 

 

「どうして…あたしじゃ駄目なのかな…そこまであたしって、理くんに似合わないのかな?」
「ううん、理にとって、まさに理想の相手だと思う。強くて、優しくて、まっすぐで、元気で、面倒見がよくて、…彼のこと、とっても愛してくれて」
「だ…だったら、さぁ…っ」
「5年後のあなた、だったらね…」



 

「~~~っ」
「ね、もう少し待てないかな? 美都子ちゃん。せめて秋泉大附を卒業して、その後にまだ、今の気持ちを持ち続けていられたら…」
「どうして、どうしてよ…みんなあたしのこと、まだ早い、まだ早いって…」
「だって実際早いんだもの」



 

「うるさいなぁうるさいなぁうるさいなぁ! 5年後だって愛してるよ! 100年後だって愛してるよ! だから今でもいいじゃん! 好きなんだから仕方ないじゃん!」
「だからって、今あなたの気持ちに応じたら理には地獄が待ってるのよ? なのにわたしが応援できると思う?」
「…あたしそんなに酷い女? ママの娘だから、みんな信用してくれないの?」
「あなたは初恋が遅すぎたのよ…だから理のこと、憧れで消化できなかった」
「憧れるわけないじゃん…理くんだよ? 情けなくて報われなくていつも謝ってばかりいる、あの理くんなんだよ?」
「なら…生まれついての恋愛下手なのかもね」
「上手けりゃいいってもんじゃないじゃん! 最初の恋が一生モノだって信じて何が悪いの!?」
「一生モノの恋なんて信じて、それで結局壊れちゃったら…どれだけ悲しいか、わかる?」
「誰のことよそれ! ほうら、自分のこと棚に上げてよく言うよ! やっぱり好きなんじゃん! 理くんのこと大好きなんじゃん!」

──!


「ダンナ愛してて何が悪い!?」
「っ…!」
「理はねぇ、わたしが18の時から目をつけてて、4年もかけてやっとのことで口説き落とした、一生モノの男だったのよ! 背が高くてカッコ良くて勉強も仕事もできて…ちょっと情けないけど、流されやすいけど、偏食だけど。それでもわたしにとって憧れの、最高の男だったのにっ! それをそんな…そんな簡単に諦められる訳ないでしょうがっ!」
「ならどうして別れちゃったのっ!?」
「大人には色々あるのよっ!」
「逃げた! 逃げたね今? あたしを子ども扱いして逃げ出したよね!?」
「逃げてない! 答える必要を認めないだけ!」
「好きならどうして一生懸命考えなかったの! 理くんと別れない方法、考えなかったのっ!?」
「そんなに簡単に見つかるなら苦労しないわよ! おこちゃまにはわかんないでしょうけどね!」
「わかるわけないよおばちゃん! そんなふてくされた考え方なんか理解できるもんか!」


………

 

 

 

 

「あああああ…教育が…崩壊していくぅ~。誰か、誰かあたしの記憶を消してぇぇぇ…」

「なぁ長谷川。俺、日を改めるから、そろそろ帰らないか?」

 

「だからあんたはこっち来るなっての! 二度と恋なんかできなくなっちゃうから!」

 

………

 


……

 

 

 

 

「ええ、ええ…まだチェックの方が終わってなくて。そうね…あと30分くらいかな?」


「………」


「ダメよ、先に帰るなんてできるわけないでしょ? わたしはねぇ、あなたみたいなしがないヒラ事務と違って、決裁権まで持ってる取締役…」

 

「ん…」


「ええ悪かったわねぇお飾りで! 秘書がいないとなにもできないイエスマンでごめんね! じゃ、そういうわけでわたし首を縦に振るので忙しいから」


「すぅ…ん、ん…すぅぅぅぅ…」


「…なんでそんなに必死なのよ? そっち、あなた以外に誰かいるの?」


「んぅ…?」


「…なんか怪しいなぁ。妙な厄介ごとに私を巻き込もうとしてない?」


「あ…れ…?」


「そう? わかった。ええ、なるべく早く上がれるようにするから、じゃあ」


──ガチャ……。


「姫緒、さん?」



 

「あ…ごめんなさい、起こしちゃった?」


ぼやけた視界に映るのは、長い髪をかきあげ、小首を傾げ、机に片手をついて、僕の顔を覗き込む姫緒さん。

けれど当たりを見回すと、ここはテラスハウス陽の坂ではなく、たくさんの机と椅子が整然と並べられた広いフロア…


「って、ええっ? も、もしかして今、仕事中ですか!?」


視界と脳がはっきりしてくると、ここが本来目覚めるべき場所じゃないことを知り、慌てて跳ね起きる。


「…って、あれ? 他の皆さんは?」


時計を見ると、10時を少しばかり過ぎたところ。

窓の外を見ると、多分、夜。

とはいえ、いつもならまだ十人以上は残ってるはずの時間。

何しろここは、商事会社。

…なのにフロアには、何故だか僕と姫緒さんの『澤嶋取締役チーム』しか残っていなかった。



 

「半分は帰って、半分は打ち上げに出かけたわよ。今ごろどんちゃん騒ぎじゃないかしら?」
「打ち上げ…って?」



 

「あなた、ほんの数分寝ただけで、今日自分が何を成し遂げたか忘れちゃった?」
「今日…?」


今日と言えば…

0時から不動産関連の決裁資料を書いて、2時から経理部の本業に戻り、5時に仮眠室で仮眠。

6時から地鎮祭のために現場に赴き、10時に戻って各部の来年度の予算折衛。

昼休みに組合の会合に出席して…



 

「5時からの役員会! 蟻馬再開発のスケジュールが一月遅れを取り戻したどころか、とうとう前倒しになっちゃって」
「あ、あ~」


あまりにも僕の回想が前から過ぎたのか、しびれを切らした姫緒さんがさっさと答えを告げてしまう。



 

「今期の予測収益が余裕で達成できそうだって。それどころか上方修正もあるかもしれないって。…ほんの一月前には頭抱えてた社長たちが大興奮」
「凄いですよね本当に! 僕、この会社に入れてよかったです!」


吉富副社長によれば、下半期の道浜商事の業績は、年が明けてからは、序盤の低調さが嘘のように恐ろしいほどの回復曲線を描いているらしい。

今日はともかく、最近はオフィスが活気に溢れ、毎日皆夜遅くまで頑張っていたから、その成果が形として現れるのも当然のことで…


「…あなたのせいなのよ?」
「そんなわけないでしょ? 会社は一人では回りませんよ。皆さんの努力の賜物です」



 

「ええ、皆死に物狂いで頑張ってたわね。…まるで不死身の化物に脅迫されたみたいに」
「随分と勤勉で真面目な化け物ですね、それ」



 

「今ごろ、打ち上げじゃその化物の悪口で大盛り上がりよ。『一月もサボってたくせに部長までアゴで使いやがって』…ってね」
「…けしからん部下もいたものですね」


何か姫緒さんの視線にまで刺がいっぱい含まれてるっぽい。


「…自分の現実逃避に会社ごと巻き込むのはやめなさい。みんな過労で倒れちゃったらどうするつもりよ?」
「けど、平木副部長も、姫緒さんも、僕に『もっと人に頼れ』って…」


だから『取締役命令』という紋所を何度か懐から取り出した。



 

「こき使えとまで言ってないわよ! この二週間でみんなげっそり痩せちゃって…」
「まぁ、いいじゃないですか。それも今日で終わりです」


本日、めでたく新現場が立ち上がったおかげで、今後のメイン業務は取引先の建設会社がメインになる。

明日からも、様々なフォローや調整業務は入るものの、ウチの会社の負荷は飛躍的に下がるはず。



 

「結局…わたしたちが何を言っても、あなたは聞きやしないのね」
「姫緒さん…?」


けれど、どうやら姫緒さんが怒っていたのは、僕が会社を私物化したことだけじゃないみたいだった。


「何度休めって言っても働き続けて、アパートにも帰ってこなくて、トコちゃんにも先生にも連絡すらしない」
「それは…」


姫緒さんに、強制的に連れ帰られてから二週間。

結局、あの週末を過ごして以来、今日まで僕はアパートに戻っていなかった。

バッグに着替えを詰めて部屋を出て、仮眠室とコインランドリーとコンビニを行き来して、相変わらず会社に住み込みのような生活を送っていた。


「わたしたちのしたことって、無駄だったの? 理さん…あなた、いつまで逃げ続けるつもりなの?」



 

姫緒さんの言葉は、怒りでも、呆れでもなく、ただ純粋な心配と、労わりと、寂しさが感じられた。

自分以外の人間が、自分以外の人間のことで悩んでるのに、そんなことお構いなしで心配してくれた。


「無駄なんかじゃない…です。あの日があったから、僕は今日まで頑張れたんです」


夏夜さんもそうだけど…

僕の周りの女性陣は、魅力的過ぎるくせに、面倒見まで良すぎて、とても心のやり場に困る。


「頑張れなんて言ってないじゃない。わたしたちはただ、逃げないでって…」
「だから、逃げるのをやめました」
「そんなこと言って一月前と何も変わってない…仕事ばかりで、全然帰らなくて…。彼女たちと向き合おうとしなかったじゃない!」
「だって、会うと決断できなくなりますから。…僕は流されやすいんです」



 

「それは認めるけど…」
「だから一人で一生懸命考えてました。トコのこと、麻実のこと。…僕の、愛してる人たちのこと」
「理さん…」
「ずっと彼女たちのこと考えつづけて、いつしか会いたくて禁断症状になるまで考え続けて、それでも結論を出すまで会わないって言い聞かせて…。頑張って、考えました」


寝ずに考えて。

気を失うまで考えて。

ほんの少しの眠りから覚めたら、また考えて。

僕は、トコを愛してる。

僕は、麻実を愛してる。

そんな決まりきった結論なんか、今さらどうでも良くて。

ただ、世界で一番を決めるとしたら…


「仕事は、ついででやってました。どうせ寝ないんなら働いても同じかなって」



 

「ついでであんな量をこなしてたの…? あなたって、ある意味恐ろしい人ね」
「どうやら仕事とプライベートのマルチタスクは可能なようでして」


体は…そろそろガタがきてるけど、脳のほうは、まだもう少しだけ動きそうだった。


「で…結論は出たの?」
「わかりません」
「あ、あなたねぇ…」
「ただ、夢を見ました」
「夢…?」
「ええ…彼女の、夢を」

 

………

 

 

 

 

「わたしもう、教師失格よぉ~!」
「………はぁ」
「教え子を怒鳴ってしまうなんて…あんな酷いこと言ってしまうなんて…」
「あ~、これおかわりちょうだい」
「それも、教育でも指導でもなんでもない、ごくごくプライベートな…よりにもよって男のことで喧嘩しちゃうなんてぇ…」
「あ、あとチーズ盛り合わせ」
「しかも、美都子ちゃんと…あんなに一生懸命指導してきた生徒と決裂しちゃうなんて…」
「遅いな姫様。…さてはこっちの状況を見破ったか?」
「ちょっとぉ、聞いてるのぉ!?」
「聞いてるもなにも、さっきから数えてそれ5回目だから」
「はぁぁぁぁ~、もうわたし駄目ぇ。誰か助けてよぉ。誰でもいいからぁ」
「理くん以外の男に寄りかかれば楽になるよ?」
「すいません、おかわりください」
「ちょっと、聞いてるの?」

 

………

 

「あぁぁぁぁ~わたしもう、教師失格よぉ~!」
「6回目…」
「教頭先生に報告しなきゃならないわよね。どんな処分が下されるかしら…」
「そんな痴話喧嘩を自己申告しても教頭先生困ると思うよ…」
「もしかしてリストラかしら…」
「夫婦そろって『リストラさん』ですか」
「ねぇ、もしそうなったら、どうしたらいいかしら? わたし、教師以外に手に職とかないのよ…」
「スナックで働くとかは? 大家さんのお母さんみたいに」
「そうなったら理、お店に通ってくれるかしら? 美都子ちゃんのお母さんの時みたいに」
「通ってくれたら納得するわけ?」
「………はぁぁぁぁ~」
「このダメ女…あたしに言われるなんて相当のものよ?」
「本当にダメね、わたしって…どうしてこうなっちゃうんだろ」
「大体ねぇ、そこまで理くんにこだわるならさぁ、どうして子供ができないくらいで別れちゃったのよ?」
「あのときは、その、勢いで…」
「もしかして、後悔してる?」
「い、今はそんな過去のことをほじくり返してる場合じゃ」
「…してるのね」
「だ、だけど仕方なかったのよ! 理には、命をかけて愛情を注ぐ対象が必要なのよ。彼、親に愛されないで育ったから…」
「でも今のセンセには、一緒にいて安らげる相手が必要なようにも見えるけど? 親に愛されて育ったせいかな?」
「わたしのワガママで、理の人生を狂わせる訳にはいかないわよ。子供の産めない女なんて、彼には重荷でしかない…」
「…って思って別れたら、理くんの人生狂っちゃったけどね」
「ほんとにどうしてこうなるのよ…わたしもう、女失格よぉ」
「いつの間にかスケールアップしてるし」
「はぁぁぁぁ~」
「なのに理くんの前ではいいカッコばっかするんだもんなぁ」
「ついつい見栄張っちゃうのよねぇ。こっちから別れたのに心配されるなんて辛いじゃない」
「理くん、センセのこと絶対に勘違いしてるよ? 強くて自立しててカッコいいけど、自分にはいつまでも優しい聖母みたいな人だって」
「だって…理にそう思われるのって、それはそれで凄く嬉しいし…」
「もうちょっと本音で頼ってたら、別れることにもならなかったんじゃない?」
「仕方なかったのよ。理には、命をかけて愛情を注ぐ対象が…」
「それも何回目だか…」
「わたしもう、人間失格…」
「早く来てよぉ姫様…あたしもうめげそう」

 

………

 

……

 

 

 

 

「さっき、うつらうつらしてたときも、彼女の声が、聞こえました」
「………」
「ここ最近、目を閉じればずっと彼女の姿ばかりが浮かんできます」


姫緒さんに向ける笑顔に曇りはないけれど…

それでも頬に伝うものが、あくびのせいだとは、とても誤魔化しきれそうにない。



 

「会いたい?」
「会いたい、です…っ」


会いたい…

ものすごく会いたい。

会えなかった、たった一月が、

まるで一生のように感じるくらい、

遠く、果てしなかった。

今顔を見たら、衆人環視の中だろうがなんだろうが、

思いっきり抱きしめてしまうかもしれないくらい、

僕は、彼女に参っている。



 

「じゃあ、出てるんじゃないの、結論。何も迷うことなんかないじゃない」


それでも…


「怖いんです」


僕は、自分の背中に手が届かない。



 

「怖いって、何が? 相手に拒絶されることが?」


いつもなら『いつまでウジウジしてるのよ!』って、怒鳴られていてもおかしくない、僕の後ろ向きの態度。

それでも姫緒さんは、僕を正面から見据え、我慢強く耳を傾けてくれる。


「僕が一つの決断をすることで、僕の好きな人たちの人生に影響を与えてしまうのが、です」
「………」
「彼女のためを思ってした決断が、彼女までも不幸にしてしまうかもしれない…だって僕には、そんな経験がある」


あの時、僕に残されていたのは、承諾するか否か…

名前を書くか、破り捨てるかの、たったの二つの選択肢だった。

そんな簡単な引っかけ問題さえ、壮絶に間違えて…

二年間も、一人の女性を不幸のまま放置してしまった。


「今の僕には、たくさんの好きな人がいる。僕の財産で、僕の栄養で、僕の…かけがえのない宝物。…もちろん姫緒さんだって、そのうちの一人です」



 

「っ…」
「そんな人たちに順位をつけて、今までの関係を壊して…挙げ句の果てに、二番の人を傷つけて、一番の人をもっと傷つけて…。そんなふうにならないって保証…ありますか?」


僕は、僕の決断に自信が持てない。

何故なら、今まで人を幸せにしたことがないから。

頑張っても、努力しても、死に物狂いであがいても、幸福は、指の隙間からこぼれ落ち、間違った結果だけが残り…



 

 

「…なるわね、絶対。一番はわからないけれど、二番は確実に傷つく。かなりの確率で、自分が不幸だって、そう思うはず」


愛する人を傷つけて、自分だって傷ついて…


「だったらやっぱり、決めることなんて…」
「でもね…私に言わせれば、今さら何を言ってるのよって感じ」
「…ぇ?」


姫緒さんの、確信に満ちたその口調は、それでも僕のことを、全然他人事と捉えてる感じじゃなかった。

 

 

 

「あなたは今までだって、ちゃんと決断してた。その結果、とっくに人を不幸にしてる。あなたに捨てられて、泣いてる女がいるのよ」
「ちょ…ちょっと待ってください…そんな馬鹿なことが…」
「馬鹿なことだろうがなんだろうが、事実なの。だって、私が知ってるだけでも二人いるから」
「二人…?」


それって、もしかして…

いや、けど、そんな馬鹿な?

…いや、本当に"馬鹿な"なのか?



 

「おめでとう。あなたには、一年で三人の女性を切り捨てるという、羨ましくも最低な栄誉が与えられた…誇っていいわよ?」


姫緒さんの言うことが事実なら、それは確かに、最低な男の最低な人生だ。

そして…去年の僕を振り返り、全ての事実を、自分に都合のいいように解釈したとしたら…


「そんな…馬鹿な」


やっぱり、それは"馬鹿な"で。

だとしたら、そんな僕は、最低だ。

これじゃまるで女性の敵だ。


「ね、理さん?」


そして、その都合のいい解釈の中では…

今、僕の目の前で、僕を励ましてくれているひとは…


「今、あなたがしようとしてる決断は、一人のひとを切り捨てるだけじゃなくて、一人のひとを抱きしめるためのものでしょう?」


もしかしたら、僕の敵であり、

最低な男に泣かされた二人のうちの…

 

 

「だから、一生に一度の決断だとしても何も怖がらないで? たまには勇気、見せなさいよ」
「姫緒さん…」
「『後悔なんて後からついてくる。まずは動け』って、仕事の時のあなたの台詞でしょ?」
「『結果なんて後からついてくる』です…」



 

「男でしょ? 社会人でしょ? もういい歳でしょ? …いつまでウジウジしてるのよ!」
「あ…」


僕の、おっかない年下の上司が、やっと、僕の後ろ向きの態度を叱り飛ばしてくれた。

得意の、上から見下ろすアングルで、あまり得意でない、叱咤激励をしてくれた。

背中を、押してくれた。

見つめる瞳は、少しイライラしてたけど、それでも僕を、僕の決断を我慢強く待っていてくれて。



 

「澤嶋取締役」
「なに? 芳村ヒラ社員」
「明日…お休みいただいてもよろしいでしょうか?」
「…本来なら休暇申請は一週間前がルールだけど?」
「大事な用時があるんです…僕の一生を左右しかねないくらいの」



 

「それは………穏やかじゃないわね」
「だって…バレンタインデーですから」



 

「…あぁ」


だから僕は…

いよいよ、打って出る。

どっちを向いても茨が生い茂るこれからの道を、ただ、両手で顔を覆うだけで、駆け抜ける。



 

「どうしても、休みたい?」
「できれば…ですけど。プロジェクトの方も一段落ついたみたいですし」


姫緒さんは、やっぱり上からのアングルで、今度は悪戯っぽい瞳をたたえ、僕を見下ろしてくる。


「なら…」


そして、視線だけでなく、口調までも悪戯っぽいものに変わっていき。



 

「明日、休むのなら、これから食事に行かない?」
「え?」


とうとう、その言葉の内容までもが、悪戯っぽいものとなった。



 

 

「みんなも打ち上げに行っちゃったし、私だけ一人寂しく帰るのもなんだし、ね?」


それは、遠まわしの許可がメインだったのか、それとも『だったら』の後が本命だったのか、よくわからない提案だったけど。


「でも姫緒さん…さっきの電話の相手は…?」
「あ~、いいのいいの。たまには抜け駆けさせてもらったって、バチは当たらないでしょ」
「そう、なんですか?」
「さ、じゃ上がりましょう。今日は徹夜で飲み明かすわよ!」
「一杯だって飲めないじゃないですか…」


それでも僕は、ありがたく姫緒さんの好意に甘える。

今度こそ、決着をつける。

 

 

2月14日。

社会人の平日に。

女性から、愛を告げてもらえるはずの日に。

僕は、彼女に愛を告げる。

 

 

「ところで…」

「何ですか?」

「あなたが夢に見た彼女って…まさかトコちゃんのことじゃないわよね?」

「…今まで散々格好いいこと言っておいてそれですか? 僕がトコを選んじゃいけない理由でもあるんですか?」

「いけないことだらけじゃないのっ!? 常識で考えなさいよ常識で!」

 

 

 

 

………

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う~、寒ぃと思ったら降ってきてるよ~!」

「なんてこった…これじゃ部屋を一歩も出られねえ」

 

 

 

「…今月に入って一度でも部屋出たか熊ちゃん?」

「明日は出ようと思ってたんだよ! 家賃を下ろしに銀行に…けどこの天気じゃなぁ」

「その理由、今思いついただろ絶対そうだろ」

「ホワイトバレンタイン、ですねぇ…」

「こんな日はチョコレートを肴に熱燗をこうキュっと…」

「…自分以外の人に言われるとやたらとつまんないですねぇ」

「買う? 買い取る俺のチョコ? 義理は一律500円、本命は1000円から5000円まで。各種取りそろえてございますよ~?」

 

「で、こっちは女の子の気持ちを量り売りしますか…」

「やだなぁご隠居! 違うってそんな不確かなモノじゃないって! ちゃんと生写真付きだからじっくり選んで…」

「どうせ全部八のお手つきだと思うとなぁ…」「

「あたしゃそんな他人任せにしなくても、若大家さんからちゃんと貰ってますからねぇ、ほうら」

「お~すげぇ。なんかメチャクチャ手間かかってんじゃんこれさぁ」

「というか『住人の皆さんでどうぞ』だろそれ!? お、俺にも寄越せよご隠居っ!」

「どんな想いを込めて作ったんでしょうねぇ。今年のチョコレートは…」

「むぐ、むぐ………甘い」

「けど…やっぱ、少し苦いな」

 

 

 

………

 

……

 

 

 

 

 

 

「…10分経過」


駅前の大時計が一直線からさらに5分経過した7時10分。

約束の時間から、まだたった10分しか経過していないその時刻、僕は、いてもたってもいられずに、三か月前に『トコ』と訂正させられた液晶画面を睨む。

僕がここまで彼女の遅刻を心配するのには訳がある。

それはまぁ…

ちょっと上空を見てもらえればわかると思うけど…


「寒っ!?」


一時間ほど前から、突然激しく降り出した雪は、都会の交通機関をちょっとだけ混乱させつつ、今も今年一番の猛威を振るっていた。

2月14日、木曜日。

今日は、製菓会社が世間に対して一方的に締結した記念日。

その名も『バレンタインデー』。


「…11分経過」


テラスハウス陽の坂から駅まで徒歩15分。

けれど、もう道路にもうっすらと雪が積もり始めていた。


「転んだりしてないかな? 怪我とか…大丈夫だよな?」


僕が、トコを誘ったのは今朝のこと。

僕の一方的な事情…という名の精神状態のせいで、一月もほったらかしになっていた、トコの合格祝い。

プレゼントを買って、食事して、少し歩いて。

もしかして、トコからもいいものをもらえて。

そんな、親子とも、カップルとも取れなくもない、僕らにとって最後の、微妙で、優しい時間を過ごし。

そして…僕の出した答えを、告げる。


「戻ろう…」


いろいろと想像するうちに、いてもたってもいられなくなり、アパートの方向に歩を進める。

東萩守を覆い尽くす勢いの雪は、すでに僕の足を何度も取るくらいに、道を凍らせ始めていて…

最初から抱えていた僕の不安を増幅させ、新たな、そして最悪の想像をかきたてる。


「頼む…無事でいてくれよ、トコっ!」

 

──「だからさぁ、そうやってすぐにあたしを亡き者にしようとしないでくれる?」



 

 

「だって心配なんだから仕方ないじゃないか! ………トコぉ! よかった、よかったぁ~!」


──!


「ちょっ、ちょっとぉ…理くん」


自分で作り上げた最悪のイメージをいきなり覆されて、観劇のあまり、トコを思いっきり抱きしめて、周囲の奇異の視線を大人買い


「そ、その、ごめん遅れて。どの服にしようか…本気で迷ってさ…」
「うん、うん、よかった…」
「人の話聞きなよ…」



 

トコが、ちょっとはにかんだ声とともに、はにかんだ態度で僕を引きはがす。

 

「あ…ご、ごめ…」
「ちょっと、かがんで」
「え…」
「ほうら、あたしの背の高さまでさ。ね? かがんでよ…」
「そ、それは、えっと…」


今日のトコは…

いや、『あの日』以降のトコは、僕に対しての態度を、もう隠さずに…

 

 

 

「ほ~ら、頭の上、こんなに白くなっちゃってさ~。いくら30が近いからって、まだ白髪って歳じゃないでしょ?」
「…そゆことね」


僕の頭に積もった雪を、無造作にぱんぱんと払う。

30分以上も降り続けられていた僕の頭や肩は、思わずトコが顔をしかめるくらい、大量の積雪を記録していたらしい。



 

「はいおしまい。理くん、待つなら駅の中にいればよかったのに。…遅刻したあたしが言うのもなんだけどさぁ」
「ごめん。待ち遠しくて、そういうこと頭回らなくて…」



 

「っ…答え保留してる最中に、そゆこと言わないで欲しいなぁ」
「え? あ…」

 

 

 

「………」

 


そういえば…


今の僕は、トコが嘘つきでなければ、トコからの告白をずっと保留し続けている酷い男なわけで。

そんな僕が『待ち遠しい』って言ったり、いきなり抱きしめたりしたら、トコが思いっきり戸惑ってしまうのは、当然のことで…

 

「プ、プレゼント買いに行こうかプレゼント! その後は駅ビルの最上階の美味しいお寿司屋で…」
「うん、楽しみ。今日はちゃんとエスコートしてね、理くん?」
「う、うん…よろしく」


この前の…わざと女の子らしさを排除したクリスマスイブの前日に比べると、今日のトコは、完璧に"女の子"だった。

外出用のコートに、しおらしい態度。

僕の提案に笑顔でうなずき、そして…


「いこ…」


右手だけ、手袋を外し…


「あ…」


僕の左腕の手袋も引っ張って外し、お互いの素手を、絡ませる。


「冷た…理くんの、手」
「トコがあったかいんだ」
「心冷たいから、あたし」
「そりゃ…世界で一番面白いジョークだな」
「………」


左の手には、手袋と、去年のデートでも持っていたバスケット。

たとえ今日がどんな日か知りすぎてても、その中身を、今は詮索しないことにして…


「合格おめでとう、トコ」
「ありがと…」
「じゃ、行こうか」
「うん…理くん」


僕らは、夜の街へと繰り出した。


………

 

……

 

 

 

 

 

「うわぁ…」
「いつの間に…」


僕らがショッピングモールを周り、

寿司屋で舌鼓を打っている最中に、世界はこんなにも激変した。

東萩守を覆い尽くす勢いの雪は、そのまま何時間降り続いたのか、とうとう街全体を白く覆い尽くしてしまった。

駅前のバスやタクシーも消え、道を行き交う車の数も激減し。

取り残された、道行く人たちが、困ったように駅のホームへと消えていったり、おっかなびっくり歩いて家路に向かったりしていた。



 

「凄いね、真っ白だね……」
「明日…出勤できるのかなぁ?」



 

「もう…な~んでそこでロマンチックな一言が出ないかなぁ理くんは~」
「社会人にもなると雪がもたらす交通障害が無視できなくてね…」


会社にたどり着くのに3時間とかやられた日には、この真っ白で冷たい結晶に、文句の一つも言いたくなる。



 

「雪合戦、できるね。雪だるまも、作れるよね?」
「そうだね…」


だから、そんな無邪気な感想を素直に漏らすトコを見ると、僕は、この娘のことを、どうしても"子供"として意識することになる。


「でも、もう止んじゃったからなぁ。明日の朝まで残ってるかなぁ」
「これだけ積もれば大丈夫だよ。出かける前に、雪だるま作ろうか?」
「ほんと理くん!? じゃ、じゃあ明日5時起きだよ? 絶対だよ!?」
「あはは…約束する」


それは、僕らにとって、

正しいことなのか、いいことなのか、

嬉しいことなのか、辛いことなのか。

そろそろ…定義づけなくちゃならない。

トコに、言わなくちゃならない。

僕の、決断を…


「あ、あのさ…トコ!」
「あ、そだ!」
「っ…なに?」


…などという、一世一代の決意は、第一ラウンドでは、あっさりかわされた。

 

 

 

「理くん…もうちょっと時間ある?」
「え?」
「ほんの10分くらい。ちょっと渡すものがあるだけだから」
「あ、ああ…もちろん。後はトコと一緒に帰るだけだし」



 

「それじゃあさ…あ、そこのベンチ座ろ? ちょっと雪どけるね」


と、トコは駅前のベンチの雪を、手袋をした手で思い切りはたくと、一人分の座る場所を確保する。


「どぞ、理くん。ここ、ここ」


そして、僕をそこに座らせると、膝の上に、ずっと左手に掲げていたバスケットを置く。


「これは…?」
「…今日、その中身を聞くのは、いくらなんでもアレじゃないかなぁ?」
「…すいません。未だに自分に自信がないもので」
「理くんにどんだけ自信も自覚もなくったってさぁ…最低でも義理くらいはもらえるって思うでしょ普通?」
「あはは…」
「でも、もちろん義理じゃないよ。心も、手間も、込めました。ただ、理くんのためだけに」
「はは…は…っ」


僕の、あまりの被害妄想っぷりに、とうとうトコは、サプライズをあきらめ、僕にそのバスケットの中身の本気を告げる。


「大好きだよ、理くん。だから…受け取って、ください」
「トコ…」


僕が、勝負をかけるって、多分察知して、

だから、きっとこれが最後の主張で。


「あのさ…今日まで、その…逃げてて、ごめん」
「………」
「本当ならさ…トコが合格したときに、決める約束だったのに。一月近くも宙ぶらりんのままでいて、ごめん」
「そんなの仕方ないって。…仕方、ないんだよ」
「ずっと、トコを悩ませたままで放っておいて…保護者としても、男としても、人としても失格でさ…」
「そんな話はいいからさぁ、開けてよそれ…せっかく作ったんだからさぁ」
「トコ…」


僕の話が、急激に核心に迫りつつあることに躊躇したのか、トコがまた、僕の言葉を遮る。


「一口だけでも食べて…そしたら、話聞くから」
「…わかった。ありがと、トコ」
「………」

バスケットの金具を外し、蓋を開けると、中にはクッキングペーパーで包まれた、手のひらサイズのチョコレートケーキ。

ゆっくりと、紙をはがし、黒くコーティングされたケーキを、バスケットの中から取り出して…


「………え?」


そして、ケーキの表面に、ホワイトチョコで描かれたメッセージ…


「あたし、先生のこと、だいっ嫌い。だって、同志だから。あたしとおんなじだけ、理くんのことが大好きだから。だから、許せなかった。でも理くんは、ずっと前から先生が好きで…先生に捨てられたのに、それでも先生が好きでさぁ…っ。先生も、理くんが好きで…理くんを捨てたくせに、めちゃくちゃ理くんが好きでさぁ…。そんな二人がずっと近くにいて、それでも一緒にいないって、ものすごく迷惑なんだよねぇ。すぐ側で見つめあって、辛そうにされたって、あたしとしては、困るだけなんだよねぇ。だってあたし…先生の同志だもん。理くん大好きなんだもん。理くんが悩むところなんて、見たくないんだもん! だからね…だから…二人に子供がいないことが…理くんを不幸にしたのなら…」

 

 

 

「あたしが娘になる……理くんと、先生の…二人の、娘になるから! だから、さよなら理くん…そして、これからも…ずっとよろしくね…お父さんっ」

 

……