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-ノベルゲーム・タイピング-

世界でいちばんNGな恋【25】

 

このブログはゲームのテキストを文字起こし・画像を投稿していますので、ネタバレを多く含みます。

読んで面白いと思ったら購入し、ぜひご自身でプレイしてください。

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--------------------

 

 

 

 

─2月14日─

 

……

 

 

 

 

「…はぁ」


ウェイター「お客様…申し訳ありませんが、そろそろラストオーダーのお時間でして」


「…今、何時かしら?」


ウェイター「11時半になります。閉店は0時ちょうどで…」


「そう…」


ウェイター「同じものをお持ちしましょうか?」


「…じゃ、いただくわ。申し訳ないけど、閉店までいてもいいかしら?」


ウェイター「それは構いませんが…お連れ様の方は…」


「どうやら振られちゃったみたいね…」


ウェイター「………」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

 

 

「寒…」

 

──電話をかける麻実。


「来れないんなら連絡くらいよこしなさいよ…したい時にしか呼ばないくせに、もう」


アナウンス『この電話は、現在電波の届かない地域にあるか、電源が切られています』

 

 

 

「…って、そうしろって言ったのはこっちか。ということは、自業自得? さあてと…見たところ、タクシーはいないし。電車、動いてるかしらね?」



 

 

「たまには…歩いて帰るか。1時間もあれば何とかなるわよね………雪がなければ、ね」

 

………

 

……

 

 

 

──ピリ、ピリリ……。

 

 

 

 

「あ……理?」
『あ、麻実…その、今日はごめん…僕が誘ったのに、行けなくて』
「ううん、それよりも大丈夫? 電車止まってた?」
『いや…ダイヤは乱れてたけど、なんとか動いてた』
「怪我とかしてない? 骨折、治ったばかりなんだから、今日みたいな日は来なくて良かったわよホント…」
『そっちも大丈夫。ピンピンしてる。ただ、その…どうしても外せなくて…』
「そうなんだ…大変だったわね」
『………ごめん』
「理が謝ることなんてないわよ。大して待ってなかったんだし」
『そ、そう…?』
「それより、本当に何でもないのね? 事故とか怪我とか黙ってたら、承知しないわよ?」
『うん、そっちは本当に大丈夫。ただ…今は側についててあげないと…』
「え?」
『本当に悪かった! 今度埋め合わせする。また連絡するから!』
「あの、理?」
『それじゃ、もう遅いから…』
「え? え、ええ…それじゃ、また」
『………本当にごめん、麻実』
「………」


──ツー……ツー…。


「…なんなの? なんなのよぉ、それって。わたしの4時間を返してよ…。ううん、返して欲しいのは時間じゃなくて…ああもう、今から来たって別にいいじゃない!」


──ぐー……。


「…そういえば、お酒しか飲んでなかったっけ。晩ご飯、何も買ってないな…仕方ない、チョコ開けよ。なんて…なんてわびしいバレンタイン…」

 

………

 


……

 


──2月25日─

 

 

 

 

「…は?」
「だから…勇気を出して、卒業式に告白した方が良いでしょうか? それとも、このまま諦めた方が…」
「ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってよ! なんでわたしにそんな話を!?」
「だって先生いつも『困ったことがあったら何でも相談して』って…」
「そ、それは言ったわよ言ったけど…だからってそういう青…瑞々しい相談が来るとは思ってなくて」
「わたし、真剣なんです! だから先生も真剣に答えてください!」
「そ、そういう相談はまず友達に…」
「トコちゃんに相談できるはずないし…倫子ちゃんに相談したら、何故か凄い勢いで逃げられちゃって」
「そ、そう…」
「入学したときからずっと見てきたんです。剛志君のこと。明るくて、行動的で、運動神経抜群で…ちょっと三枚目で」

 

 


「ほんと、誰かさんとは対極的なのよね、尾関君…」

 


「人気者だったから狙ってる子多くて…二年の頃までは、声かけるだけでみんなに睨まれたし」



「そのプレッシャー、覚えがあるなぁ…そんなところだけは似てるのよね」

 


「三年になって、トコちゃんや倫子ちゃんと同じクラスになって、剛志くんが二人に友達みたいに話しかけるから。わたしも友達みたいに話すことができるようになって…」
「そうね…」
「でもわかってる。わたしなんか、ちっとも相手にされてないって。それどころか、彼の好きな人は、わたしの親友で…」
「………」
「だから、今告白したって、OKしてくれる可能性は限りなく低い。そんなこと、わかってる」
「じゃ、じゃあ、もう少し様子を見てみたらどうかしら? どうせ近所に住んでるんだし、会いたくなったらいつでも…」



 

「ううん…そんなの嘘」
「え…?」
「ここで何も言わないと、もう接点がなくなっちゃう。このまま自然消滅していっちゃう」
「そ、そんなことないと思うけどなぁ。だってあなたたち、友達でしょ?」
「駄目だよ…一度卒業しちゃったら、もう、話す勇気がなくなっちゃうの」
「本田さん…」
「今までは、毎日会えたから気軽に話もできた。学校行事とかで理由があったから、電話もできた」
「理由…」
「でも卒業しちゃったら、何の言い訳もできない。ただ、会いたかったり、声が聞きたいって理由で、電話しなくちゃならない」
「そ、それは…えっと…」
「わたし、まだそんな勇気ない…。相手の気持ちも確かめてないのに、そんなことできない」
「相手の気持ち…」

 

 

 

「そんなふうに、一度ためらっちゃうともう駄目。電話できない、約束ができない…だから会えない」
「あ…会えない?」
「そんなふうに一月たち、二月たち、会えない時間が当たり前みたいになっちゃって…」
「………」
「わたしも彼も、新しい生活で忙しくて…そんなふうに…風化していっちゃうのが、怖い…」
「っ…」
「ね…卒業したって会えるなんて嘘でしょ? 約束がなければ…ここで止まっちゃうのよ先生」
「ここで…止まる? 約束がなければ…それっきり…?」
「ねぇ先生…わたし、どうしたらいいと思う? 無理だとわかってても、告白するしかないかなぁ?」



 

「………どうしよう」
「だから、それを一緒に考えて…」
「接点、なくなっちゃうんだ、わたしたち…会うことが、できなくなっちゃうんだ…」
「えっと、先生のことじゃなくてね…」

 

………

 


……

 

 

 

 


─2月29日─

 

 

 

 

 

──プルルルル……。

 

「埋め合わせするって言っといて…」


アナウンス『この電話は、現在電波の届かない地域にあるか、電源が切られています』


──ガチャ……!!


「2週間ほったらかしってなんなのよ!」


女性教師「ひぃっ!?」


「ああいえね! 業者に発注してた新年度用の冊子がまだ届かなくて! いやぁねわたしったらもう!」


女性教師「そ、そうだったんですか? 普段温厚な香野先生だけに怒ると迫力ありますね…」



 

「本当ごめんなさい、こんな姿、生徒には見せられないわ」


女性教師「いいえそんな、教師だって人間ですもの。それより困りましたねぇ、業者と連絡が取れないなんて。…教頭先生に相談してみましょうか?」



 


「こんなこと相談したら二度と担任まかせてもらえないから」

 

 


女性教師「何かお手伝いできることありますか? なんなら別の業者を探して…」


「印刷所のほうに直接電話してみますわ! お気遣いありがとうございます!」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

──プルルルル……。



 

「あの、澤嶋さん…」
「ん? 私に?」



 

「いえ、休暇中の芳村さんに。…山田さんと名乗る芳村さんの奥さんから」
「………こっちに繋いで」

 

………

 

 

……

 

 

 

 

 

 

「お………温泉っ!?」
下呂温泉やその近辺に三泊四日ですって。まぁ、大きなプロジェクトも終わったし、最近は土日も休んでなかったから許可したわよ」
「そ、それって岐阜じゃない! 理の地元じゃない! …実家まではそこから車で2時間かかるけど」
「卓球と温泉卵とインベーダーを堪能してくるんですって。おっさん臭いわよねぇ」
「どうして…?」
「それはまぁ…合格祝いと卒業旅行を兼ねて」
「美都子ちゃんと……一緒に…っ」
「まぁ、確かにトコちゃんも一緒だけど」
「実家に…挨拶に?」
「それはまぁ、少しくらい寄るかもしれないけど」
「嘘…そんな、嘘よ」
「あ、すいません、コーラおかわりください」
「とうとう、美都子ちゃんと…? 理が…理が…つ、あああああっ!」
「あ…あと、ソーセージ盛り合わせも」
「わたしもう、おしまいよぉ~! ついでに理もおしまいよぉ~、社会的に」
「また始まった…」
「あ、あなたどうして平気なんですかっ! 美都子ちゃんのこと、心配じゃないんですか? いつもの独占欲は一体どうしちゃったんですかぁ~!?」
「まぁ、いろいろと事情がありまして…」
「どうしよう…ねぇ、どうすればいいかしら?」
「どうしようもないわよ。だってあなた、理さんの前だとすぐいい顔するじゃない。『わたしがここを食い止めてる間に先に行って』みたいに」
「だってそういう立場定着しちゃったし…」
「一度でも『もう一度結婚して』ってすがってたら、今の関係変わったんじゃないかしら? 大体、最初の結婚の時もあなたがプロポーズしたのよね?」
「え~え~そうですとも。どうせわたしは一度だって理にプロポーズされたことなんかありませんよ~」
「あ~もう駄目だ我慢できない。夏夜さん一体どこをほっつき歩いてるのよ~」
「そうよ、駄目なのよ…理は、普通の幸せを掴むべきなのよ。わたしみたいな女じゃ、駄目なのよ…」
「確かに、ここまでグダグダじゃ駄目かもね」


──プルルルル……。


アナウンス「え~、この電話は現在電波の届かないところにあるか、電話と取る気のない人のところにあります」


「見捨てないでよ夏夜さん! 私、こんな陰鬱なところに取り残されるの嫌よ!」

 

「すいません、この赤、ボトルごとください…」


『この前あたしがそう思ってずっと電話してたときさぁ…姫様、こっち無視して理くんと二人っきりで飲みに行っちゃったよねぇ?』
「謝るから! おごるから! だから早く来て! この人、見る見るうちに腐っていくのよ~!」
『あたしはその状態に3時間付き合わされた訳だけど』


「んく、んく、んく…」


「もし今から来てくれなかったら、この人、五号室に連れ帰るからね?」
『…なんて卑劣な』
「そうやってのし上がったのよ。澤嶋は」


──!


「わたしもう、ダメダメよぉ~!」


『………』
「………」


「うう、ひっく…ふぇぇ…せっかく…せっかく忘れたって思ってたのにさぁ。なんで再会なんかしちゃったんだろうなぁ…」


『…30分待って。それまでに帰ってもいいけど』
「絶対に待ってるから! もしかしたら奥さんしかいないかもしれないけど」


「ん、んぅ…」


『それと…例の件はちゃんと秘密にしてある?』
「…だから腐ってるんじゃない」

 

「すぅぅぅ…ん、んぅ…」


『さんざん熟成したところで勝負よ。禁断症状が出始めるまで絶対に喋らないこと』
「まったく、なんで私たちがこんな目に…」


「くぅぅ…ふぅ…ん…」


『一度は惚れた男のためでしょう? 手を抜かないの』
「ふぅ…本当に手のかかる」


「理ぅ…やだ、こんな格好、恥ずかしい…」


「寝入ったとたんに変な夢見ないでよっ!」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

─3月1日─

 

宅配員「香野さん、香野さ~ん! 宅配で~す!」


「やめてやめて…頭にガンガン響く~。昨夜のお酒が~」


………

 

 

 

「ふああ…何よもう、朝っぱらから。なんなの、これ?」

 

………

 

「あ…下呂のにほひ………うぷ」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

──3月7日─

 

 

 

 


「……うぅ」


女性教師「どうしたんですか香野先生? 最近、なんか顔色悪いですよ?」


「あ…いえ、ちょっと。最近、あまり眠れなくて」


女性教師「お体の具合でも?」


「いえ、そういう訳じゃないんですけど、なんだか、その…気が晴れなくて」


男性教師「香野先生は3年生受け持つの初めてですからねぇ。いよいよ来週、お別れですなぁ」


「卒業式…かぁ」


女性教師「しばらくは胸にぽっかり穴が開いたような感じになるかも。まぁ、何度か経験すれば慣れますけどね」


「…この上そんな思いするの? 勘弁して欲しいわ」


女性教師「はい?」


「はぁぁぁぁ~」


女性教師「こ、香野先生?」


男性教師「あらら…こりゃ重症かねぇ」


女性教師「あら、森山先生? タバコ、また始めたんですか?」


男性教師「おっと…バレちゃったか」


女性教師「確かこの前の健康診断で肺に影が見つかったから、すっぱり禁煙するって言ってたじゃないですか」


男性教師「うん、三か月くらいやめてたんですけどねぇ。実はこの間、二次健診で詳細なレントゲン撮ったら、これがまた綺麗なもので…」


女性教師「…で、禁煙も解除ですか? せっかくやめたのに」


男性教師「異常がないってわかって安心しちゃったんですよねぇ。それで病院からの帰りに、最後の一本のつもりで吸ってみたら…」


女性教師「吸ってみたら?」


男性教師「それが美味いのなんのって! 今まで我慢してたせいかな? もう天にも昇る心地で」


女性教師「それ確実に天国に近づいてるんですよ」


男性教師「もうね、やめる前よりも美味くて美味くて! 我慢したおかげで逆にやめられなくなっちゃった」


女性教師「知りませんよ、もう…」


男性教師「人間、我慢はよくないよねぇ。余計にどうしようもなく堕落しちゃうから」


女性教師「お子さんだっているんですから。香野先生も何か言ってあげてくださいよ」


「………わかる」


男性教師「え?」


女性教師「香野先生…?」


「それわかります森山先生! 長いこと、ずっとずっと我慢してたのに、ついつい禁を破っちゃったときの気持ちよさったら!」

 

男性教師「え、え?」


女性教師「ちょ、ちょっと…」


「やめる前と同じくらい…ううん、それ以上にやめられない。もう嬉しくて嬉しくて…とことんハマっちゃいますよね! よかった、わたしだけじゃなかったんだぁ」


男性教師「へ、へぇ、話せるなぁ香野先生」


「自分がどんどん駄目になっていくのがわかっちゃって…辛い…本当に夜泣きするほど辛いんですよ…」


女性教師「それ…タバコの話、ですか?」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

 

─3月13日─

 

『理?』
『あ、麻実…その、今日はごめん…僕が誘ったのに、行けなくて』
『ううん、それよりも大丈夫? 電車止まってた?』


「どうして来なかったのよぉ…こっちは職員会議サボってまで駆けつけたのに」


『いや…ダイヤは乱れてたけど、なんとか動いてた』
『怪我とかしてない? 骨折、治ったばかりなんだから、今日みたいな日は来なくて良かったわよホント…』


「だったら這ってでも来なさいよ…あなた、わたしに会いたくないの?」


『そっちも大丈夫。ピンピンしてる。ただ、その…どうしても外せなくて…』
『そうなんだ…大変だったわね』


「何よそれ…なんなのよ」


『………ごめん』
『理が謝ることなんてないわよ。大して待ってなかったんだし』

 

「ごめんじゃないわよ! 謝って済むとでも思ってるの!?」


『そ、そう…?』
『それより、本当に何でもないのね? 事故とか怪我とか黙ってたら、承知しないわよ?』


「そのくらい察しなさいよ! 自分の都合のいいように解釈してんじゃないわよ!」


『うん、そっちは本当に大丈夫。ただ…今は側についててあげないと…』
『え?』


「側に、いてよ…」


『本当に悪かった! 今度埋め合わせする。また連絡するから!』
『あの、理?』


「いつよ…いつなのよ…いつになったら…電話、くれるのよぉ…っ」


『それじゃ、もう遅いから…』
『え? え、ええ…それじゃ、また』


「うぅ…ぅ…ぅ~っ」


『………本当にごめん、麻実』

 

「うぅぅぅぅ…ふぅぅぅぅ~っ、ぃぅっ、ぅっ…ぅぁぁぁぁ…っ」

 


──ピ、ピ、ピ……。


『理?』
『あ、麻実…その、今日はごめん…僕が誘ったのに、行けなくて』
『ううん、それよりも大丈夫? 電車止まってた?』


「ごめん今の嘘! わたし怒ってなんかないから! だから…だから…また、会ってくださいっ!」


………

 

……

 

──3月14日─

 


………

 



 

 

「うん…いい天気。絶好の卒業式日和、かな」


……



 

 

「よしっ! 今日だけは…いつも通りのわたしでいよう。みんなを、笑顔で送り出してあげよう」



 

 

「3年D組最後の一日…張り切って行きますか!」

 

………

 

……

 

 

 

 

 

 

最終話 『×1回目のプロポーズ』

 

………

 

 

 

 

 

 

「ちょっとごめんなさいよ。そちらのおかき、回していただけませんかね?」

「ご隠居のポテチと交換な。あ、あと、チョコ棒どこやったっけ」

「あ、こっちにあるからあげる。…空箱だけど」

「ちょっとぉ! いつのまに食べちゃったのよ!? 大体、おやつ代は全部わたしの負担だったじゃない!」

「ご心配なくお嬢様。こういうこともあろうかと、全て私のポケットマネーから出しておきました」


母親1「………」


父親1「………」

 

「すいません申し訳ございません……」


後ろの夫婦らしき人たちの、ビデオカメラを構えつつ泣きそうな視線に、僕まで泣きそうになる。

式が始まってもこの調子だったら、この人たちは延々、僕らの宴会風景ばかりを収め続けることになるんだろうなぁ…

そんなことになったら、ご両親、あとで娘に口きいてもらえるのかなぁ…


「話せるねぇ番頭さん。さ、どうだい一杯?」

「あ、いえ、私はその………では、いただいてよろしいですか?」

「佐々木さんが遠慮してどうすんのよ。全部あなたのお金なのに…んく、んく…ぷぅ…あ~、やっぱ朝から飲むお酒は最高ね~」

「ちゃんとジュースも買ってきたんでしょうね? 佐々木」

「ううう…なんてこった。ここには一体どんだけ人がいるんだよ…あと何人社会的に葬れば、俺は救われるんだ…」

「煽るな叩くなリンク張るな。俺らみたいに大人しくしてろっての!」


母親2「………」


母親3「………」


「誠に…心の底からお詫び申し上げますっ!」


隣のお母さんたちが、いつもなら誰にも負けないはずのお喋りを、今日は妙な集団の酒宴に全てかき消されてしまっている。

こういう人たちの常として、自分に向けられる冷たい視線には鈍感でも、他人に向ける冷たい視線の鋭さは特筆に値するというのがある。

…けど、今回ばかりは彼女たちの気持ちがわかりすぎて、ひたすら頭を下げるしかない僕がいるわけで。


「み、み、み、皆さん…あのですねぇ…」

 

教頭先生「それでは時間となりましたので始めさせていただきます」


「あ…」


始まった…


さすがにテラスハウス陽の坂軍団もその声で静まり返り、いよいよ本日のメインイベントを厳かに迎え入れる準備は整った。


教頭先生「卒業生、入場」


──パチパチパチパチ……!


体育館のドアが開き、いよいよ卒業生…

トコが、入場してくる。


「っ…」

 

ただ、そう思っただけで、鼻の奥がツンとなってしまう僕は、救いがたい過保護なのか、ただの感激屋なのか…

だけど、今日くらいはいいじゃないか…

だって、今日は僕とトコの一年間の締めくくり。

僕が望んで、トコも頑張って、色々あって…

本当に色々あった末の、トコの、卒業式。


「いよいよですねぇ!」

「人が…人がこんなに! 畜生、皆が俺を見て笑ってやがる…ああ嫌だ、早く帰ってブログ炎上させたい…」

「誰かこの人をネットのない工事現場に放り込んでくれ…どうせそれでも平気で生きてるから」

「トコちゃ~ん! 頑張って~!」

「まだ出てきてないし頑張る必要もないし」


「あの、皆さん…もう少しお静かにできませんか? さっきから周りの人たちにご迷惑を…」


「あ、トコちゃんだ! お~い、トコちゃぁぁぁ~ん!」

「どこですかあそこですね!? トコ~! いいぞトコ~! うわ入ってきた入ってきましたよ!」


「…あんたら二人だけ遠くに行ってくれる? 具体的には体育館どころか街から出てけ」


今日の、この、トコの記念日…

僕らテラスハウス陽の坂組は、保護者席の最前列を占拠して、僕らの誇る、大家さんの卒業を、全員で祝う。

今日は身長順でなく出席番号順だから、トコもいつもの真ん前ではなく、真ん中からちょっと後ろめを歩いていた。


「トコちゃぁぁぁ~ん! こっち、こっち~!」

「トコ~! お~い! トコぉぉぉ~!」


「まいったねこりゃ…」

「若旦那も姫様も、もうちょっと世間体てものをはばかっていただきたいですねぇ」

「まったく、恥ずかしくてしょうがないぜ。このみっともない姿を動画にしてアップしてやろうか」

 

もはや、僕と姫緒さんは、周りの迷惑とかそんな些細なものは、一切頭から抜け落ちていた。

トコは、そんなみっともない僕らに、ちょっと怒ったような『しぃ~っ!』の仕草を見せ、ぷんすかと行進していく。

そんなトコの前の長谷川さんは、呆れたような視線を保護者席に向け、後ろの本田さんは、ツボに入ったらしく、くすくす笑っている。


「トコ~! トコぉぉぉ~…っ!?」


──!


「いたっ!?」


「いい加減にしなさいっ!」


「あ…」


いきなりの後頭部への打撃は、どうやら、丸く巻かれた卒業式プログラムによるものらしかった。

なぜなら、振り向いたそこには、そのプログラムを右手に持ち、腕を組み、足を肩幅に開き、こめかみに青筋を浮かべた…


「あ…麻実っ!?」

「香野です! 周りの迷惑を考えてください、陽坂さんの保護者さんっ!」


トコの担任教師が僕を睨んでいたから。


「いいですか? ここには卒業生や保護者の皆さん、来賓の方々、それに教職員も含め、こんなにも大勢の方がいらっしゃってるんですよ?」

「そ、それは…そうですね…」

「皆さん節度を守り、静かに卒業生を送り出してくださっているのに、それをあなた方と来たら…」

「う…」


言葉もなさすぎる…


「卒業生をお祝いしたいのはあなた方だけじゃないんです。それがわからないようでしたら、今すぐ退出していただくことになりますが?」

「そ、それだけは勘弁してください。ごめんなさい…静かにしてます」

 


「相変わらず理くんの前では見栄張るねぇ」



「一月ぶりに顔見れたものだから、もう生き生きしちゃって…」

 

 


「そこも静かに!」

 

………

 


教頭先生「開式の言葉」


全卒業生の入場が終わり、少しのざわめきが残ったまま、いよいよ卒業式が始まる。


校長先生「ただ今より、第29回四宮学園卒業式を行います」


麻実に言われたからじゃない…こともないけれど、口を閉ざし、背筋をぴんと伸ばし、厳かな気持ちで壇上に目を向ける。

…僕が緊張しても、始まらないんだけど。


教頭先生「卒業証書、授与」


今日は、トコの、卒業式。

お別れの、儀式。


………

 

……

 

 

 

 

 

そして、一月遅れになってしまったけれど、僕と、僕らの『決着の日』。

 

………

 

 

 

 

「トコちゃん…トコちゃぁぁんっ!」
「真鶴…」
「うわぁぁぁ…ふえぇぇぇぇぇ~ん」
「卒業…おめでと」



 

「わたし、わたしねぇっ…剛志君に…剛志君にふられちゃったぁ…っ」
「そうなんだ…告白、したんだね」
「第二ボタンくれなかった…もう、あげちゃったって…本命に、あげちゃったんだってぇっ!」
「………あたしじゃ、ないよ?」
「剛志君もそう言ってた…でも、誰にあげたのか言ってくれなかった…」
「…そか」
「うっ…う、ぅぅ…ふぇぇぇぇ…ぅぇっ…」
「真鶴は、可愛いんだからさぁ…進学先で、新しい恋、見つかるって」
「ホント…? ホントに、見つかるかなぁ?」



 

「あたしが保証する。尾関よりカッコ良くて、勉強できて…あいつより運動神経上なのはなかなか見つからないけど」
「で、でも、でもさっ…剛志君でなくちゃいけないんだもん…。ずっと、ずっと、諦めきれないんだもん」
「それもアリだよ、真鶴」
「トコちゃん…?」



 

「想い続ければ、いつか絶対振り向いてくれるなんて言わないけどさ…万に一つは…そういうことだってあるんだからさ」
「そ、そうだよね? そうだよねっ! わ、わたしっ、学校別になっても諦めないから! 絶対に、振り向かせてみせるから!」
「うん…頑張れ、真鶴」

 

………

 



 

「あ…」

 

 

 

 

 

「………」
「………」
「………卒業、おめでと」
「倫子もね。あと、合格おめでと………北洋南」
「なにその含みのあるおめでと?」
「…べっつにぃ?」
「しょ~がないじゃん、近いんだし、そんなに無理しなくても行けそうなとこ、あそこくらいしかなかったし」



 

「だからべっつにぃって言ってんのにさぁ。なんでそんなに言い訳がましいかなぁ?」
「はぁ、もういい。批判はあえて受ける」
「あはは…それじゃね。元気でね、倫子」
「帰るの?」



 

「うん…みんな、外で待ってるし」
「そう…」
「じゃあ、ね…」
「ん…」

 

……

 

 

 

「…………っ! トコっ!」


「え…?」


「…絶交したこと、ごめん。……仲直りしてくれて、ありがと」


「倫子が怒ったの、親友だからだもん。全部、あたしのためだったんだもん。だから、謝られる理由ない」


「あのとき絶交したことは後悔してないけど、そのせいで、あんたが泣いてたとき側にいてやれなかった。…そのことは、すっごい後悔してる」


「倫子…」


「あたしのせいで、あんた、一人で乗り越えて…本当は、まだ乗り越えてないのかもしれないけど…」


「乗り越えたよあたし…だから仲直りしたんだ。もう…倫子を心配させること、ないから」


「…ごめん」


「謝られる理由ないって言ってるじゃん。これからも、ずっと親友だからね? あたしたち、三人」



 

「じゃあ、ありがとって言うね。これからも、よろしくって言うね…」


「うん、それが正しい」


「春休み、電話するね。せっかくだから、また三人で遊びに行こうよ? …この前みたいに、保護者同伴でもいいし」


「うん、楽しみにしてる」


「それじゃトコ………また、ね?」


「うん、またね!」

 


「………」


「…あ、それとさ」


「ん?」

 

「どうせすぐにバレるんだし、第二ボタンくらいは真鶴に譲ってあげたら? …あ~あ、今度は倫子が絶交されるかもねぇ」


「あ、ああああああれはあいつが無理矢理っ!」

 

………

 


女子生徒1「いい~、撮るよ? はいチーズ…って言ったら撮ったからね!」


男子生徒1「下らねぇフェイント入れるなって!」


女子生徒2「あははは…先生、今度はあたしたちとね」



 

「ええ、もちろん。じゃ、今度は桜の下で撮りましょうか?」

 


男子生徒2「あ、その後でいいから、その、俺とツーショットお願いしますっ!」


男子生徒1「てめぇふざけんなよ! そんなんが許されるなら、俺らだって最初から頼んでるよ!」



 

「あら? 別に構わないわよ? みんなの時間が許すなら、だけど」


女子生徒1「あ…先生それ言っちゃ…」


男子生徒1「俺二番手っ!」


男子生徒3「三番手っ!」


男子生徒4「四番手から十番手とっぴ! というわけで俺6枚ね」


男子生徒5「おい、こいつ六人でボコろうぜ」


女子生徒3「ね~ね~わたしも~! 香野先生~、こっちこっち~!」

 

 

 

「もう、みんな慌てなくても………あ」


女子生徒2「どうしたの先生? 桜の方で撮るんじゃないの?」


「ごめんなさい…ほんのちょっとだけ待っててくれる?」

 

………

 



 

 

 

「美都子ちゃん…」
「ごめんね。みんなとのお別れの途中で呼び出したりして」

 

 

 

「ううん、あなただって、みんなの中の一人だもの。…卒業おめでとう、美都子ちゃん」
「………」
「………」
「………」



 

「え、ええと……?」
「ねぇ先生…あたしに何か、聞きたいことがあるんじゃないの?」
「あ、いえ、それは…」
「本当は、すごく気になってることがあるんじゃないの? この一月、ずっと、もやもやしてたんじゃないの?」



 

「………」
「質問なら、随時受け付けるけど? なんなら、この間の続きでもいいよ?」
「………今日はめでたい日ですから」
「ふぅん…大人だね」



 

「あなたも進学したら、少しは『わきまえる』って言葉の意味を覚えた方がいいわよ」
「そんなふうに、いつも『わきまえて』ばっかりだから…結婚失敗したりするんだよ」
「だからそういうのがね…」
「いっつも貧乏くじ引いちゃってさ、後悔してるのにさ、本人目の前にすると見栄張っていいカッコして…それで結局また貧乏くじ引いちゃって」
「………」
「愚痴って、泣いて、逃げて…いつまでも引きずって、みっともないよそういうの…」
「………今日のところは言い合いしないの。挑発になんか乗らないんだから」
「これが最後でも? あたし、今日で卒業だよ?」
「…卒業したって、いつでも遊びにいらっしゃい。先生、いつでも歓迎するわよ?」

 

 

 

「理くんと…会えなくなっちゃっても?」
「関係ないこと言わないでよ…」
「うん、関係ないね。だって理くんは、あたしの関係者だから」
「…っ」
「だからさ…あたしと先生が会わなくなったら、先生も、理くんと会えなくなっちゃうね」
「そんな安い挑発になんか乗らないって言ってるでしょ…」
「あのね、先生。理くんが、ずっと先生に会おうとしなかったのはね…」
「いいわよ、そんなこと言わなくても」
「あたしがワガママ言ってね。理くんのこと、ずっと、捕まえてて…」

 

 


「やめてよ…やめてよ…もう、いじめないでよ…」

 


「………」
「せっかく、今日だけは泣かないでおこうって…みんなを笑顔で送り出そうって…泣くのは、また明日からにしようって…」
「ふぅん…昨日まで…泣いてたんだ?」
「っ…泣きたくもなるわよ。約束すっぽかされて、一月もシカトされて、挙げ句の果てに、教え子にいじめられて…」
「だってさぁ…こっちだって、いじめたくもなるよ」
「なんでよぉ…わたしがあなたに、何したってのよぉ…っ」



 

「そうだね…例えば、進学諦めてたあたしに、一生懸命力貸してくれた。先生がいなかったら、秋泉大附なんて絶対に無理だった」
「そんなの教師として当たり前のことじゃない…っ」
「あたしの境遇のこと、一人で抱え込んでくれた。あたし、ずっと先生に憎まれ口ばかり叩いてたのに、それでも見捨てずに、守り抜いてくれた」
「あなたが真面目ないい娘だったから…いつも一生懸命頑張ってたからに決まってるじゃない」
「ありがとね、先生…あたしがこうして卒業できたの、先生のお陰なんだよ」
「いじめないでって言ってるでしょ………え?」

 

 

 

「だからね、だからね…くやしいけど…とってもくやしいけどさぁ…っ」
「美都子ちゃん…?」



 

「ありがとう…ございましたっ!」


──!



 

「あ、ちょ、ちょっと、美都子ちゃ…」


──「麻実…」


「え…っ?」

 

………

 

 

 

 

振り向いた麻実は、僕の顔を見ると、一瞬ぽかんとして、その後、慌てて走り去るトコの後ろ姿を目で追った。


「あ、あ、あ…あの子っ!?」


トコが自分を挑発した理由が真後ろにいたことに、憤りと焦燥と、照れの表情をまざまざと見せながら。


………


ああ、そうか、そうだったのか…


その、僕の知る麻実らしくない表情が。

夏夜さんや姫緒さんや、みんなの語る麻実像が。

僕が、ずっと昔から、彼女のことを何もわかってなんかいなかったことを、何度も何度も思い知らせてくれる。


「ちょ、ちょっと待って! ほんのちょっと待っててね!」


つい一時間前、僕を威勢良く怒鳴った麻実は、一体どれだけの予行演習をこなしてきたんだろうか。

今は、突然の展開に、アドリブがついていかず、一度背を向けて、目をこすって、三度深呼吸して…

 

 

 

「美都子ちゃん、卒業、おめでとう。頑張った甲斐あったわね、理」

「麻実…」


そして振り向いたとき、麻実は完璧に『香野先生』であり、『別れたけど友達づきあいは続いてる昔の奥さん』だった。

少し涙ぐんでいるのは、卒業生との別れを惜しんで。

あとはいつも通りの軽い笑みと、くだけた優しさ。


「でも、これからもまだまだ頑張らないとね。彼女と一緒にあのアパートを守っていかないとね」


そして、達観した口調と、その口調どおりの台詞。


「だから、その…これからも力になれることがあったら遠慮なく言ってね。わたしも…えっと…これからも、あの子の力に…」

「麻実」

「え…?」


僕の声が、ほんの少しいつもより大きいことに、麻実はぴくっと、敏感に反応した。


「ごめん、約束すっぽかして。それに、一月も連絡せずに」

「そ、そんなのいいってば! だって理、去年怪我でずっと休んでたんだもの。仕事頑張って取り戻さなきゃね!」


ただの謝罪に、過剰に緊張してみせた。


「それに、お土産送ってくれたじゃない。ありがとう。職員室で、みんなでいただいたわ」

「ああ、あれはちょっと、旅行ついでに実家に寄ってて…」

「卒業旅行ですって? 美都子ちゃん喜んだでしょ?」

「え? あ、ああ、けど…」

「ずっと一緒だったのよね。あの子と…一緒、だったのよね」

「うん、一緒だった。けどそれは…」

「まぁ別に、わたしにはそれほど関係ないけどね。だって、理の選択に口を出す権利なんかないんだし…」

「麻実?」

「あ、そうだ、みんなを待たせてるんでそろそろ戻るわ。ま、また連絡していい?」

「ごめん、もう少しだけ。すぐに済む話だから」

「は、春休みに入るんだし、明日からならいくらでも時間取れるから」

「駄目だ、決心が鈍る…」

「ええと、何の話かはよくわからないけれど、別にゆっくり時間をかけて決めればいいじゃない。わたしたちの間に、そんなに急ぐ事情なんか…」

「聞いてくれ…」

「………嫌」


やけにテンションが上下して、無駄な会話ばかりで、結論も約束も、先延ばしを望んで。

麻実は、明らかに、平常心を失っていた。


「麻実に、伝えたいことがあるんだ」

「わたしは別に聞きたいことなんかない…」


それが、卒業式の感傷によるものなのか他の理由なのか、今までずっと何もわかってなかった僕には、わかるはずもないけれど…

ただ一つ…

今が、攻め時だとわかっただけで、十分だった。


「結論出すのに…いや違うな。それをどうやって伝えようかって、色々と考えて…こんなに長い時間がかかった…本当に、ごめん」

「だからぁ、何も聞きたくないって…」


僕がうつむくと、麻実は僕の顔を覗き込む。

僕が見つめると、麻実は視線を泳がせる。

二人は、お互いの表情をとらえつつ、けれど決して視線を合わせない。


「僕が今さらこんなこと言うのは、麻実にとって、とても困ることかもしれないけど」

「困る、そう困るの! わたしは今のままがいいの!」


麻実が、僕の言葉を怖がる。

今の僕たちが、変わってしまうのを恐れてる。


「トコとも約束したんだ。ハッキリさせるって」

「どうしてわたしの願いを聞いてくれないの? いつもあの子ばかり選ぶの…?」

「今のままだと、僕は麻実を傷つけてばかりだから…」

「わたしそんなふうに思ってないの! 今が…今のままが幸せなの!」

「いいや、言う。麻実、あ、あの、あの…っ」

「いや! 絶対に嫌!」

 

 

 

 

「僕ともう一度結婚してください!」
「お願いだから捨てないで!」

 

「………」

「………」

 


何かが…


何かが、壮絶に食い違っていた。

 

………

 

 

 

『ねぇ、理くん…今の理くんは、もう、先生と別れたときの[欠けた理くん]なんかじゃない…』
『トコ…』
『一生懸命、あたしを育てて…"娘"として、ずっと愛して…普通の…ううん、ちょっと子煩悩な親に、なったんだよ?』


トコは、泣いていた。



 

『だからもう…理くんと先生の間の障害なんか、どこにもない…二人が別れる理由、綺麗さっぱり、なくなっちゃったんだよ』


僕の、目の前で。

小さな肩を震わせて。

心だけ、一生懸命背伸びして。



 

『だって、だってさぁ…そんなの、当たり前じゃん、ねぇ?』


僕が決断をするためには…

トコを選ぶにしても、麻実を選ぶにしても、苦しんで、苦しんで…

のたうち回るってことを知ってるから。



 

「こんな素敵なパパ…世界中探したって、どこにもいるわけないじゃんよぉ!」


トコは…そんな風に、僕が、ただ自業自得で苦しむことすら、救おうって…



 

『トコ…』
『あっ…っ』


少しずつ、少しずつ、雲の上、トコとの距離を一歩ずつ詰めて。

やっと…僕の腕に収めた。

トコを、抱きしめた。


『………ごめんっ』
『っ…! あ、あ…あぁぁ…ふあぁぁぁ、あ、あぁぁっ』


ただ、僕の決断を伝えるために。


『ああぁぁぁぁっ…うあぁぁぁ…っ、ふぇぇ…ぅぇぇぇぇぇ…ぁぁぁぁぁぁ~っ!』
『トコ…トコ…っ、ごめん、ごめんな…トコ』
『理くん…理くん理くん…っ、ふあぁ…うわああああああああああああああ~っ!』


トコを…選ばなかったことを、伝えるために。

 

………

 



 

「ちょっと…待ってよ…」
「これまでさんざん麻実を苦しめて、傷つけて、自分の都合と欲望ばかりを押しつけてきて…今さら虫が良すぎる申し出だってわかってる」
「だから待ってってば…」
「一度は麻実に見限られた僕だから、とんでもなく思い上がった申し出だって…身に染みてる」
「見限ってなんか…あ、でも、えっと…そんな…駄目に決まってるでしょう?」
「だけど、麻実が僕から離れた理由を知って、どうしようもなく、辛くなって、悲しくなって…」
「そうよ…わたしは駄目なんだってば…理のこと、幸せにできないから、だから…」
「自分の馬鹿さ加減に嫌気が差して、腹が立って、悔しくって、絶望して」
「あ~、もうっ、だからぁ、あなたが落ち込むことなんか何もないんだってば。責任感じることなんて、全然ないんだから…」
どん底まだえ落ち込んだら…最後に…希望が残ってた」
「ぇ…?」
「麻実がもう一度、僕の方を振り向いてくれるんじゃないかって、希望が」
「あ、え? えぇ? ちょ、ちょっと理…人の話、聞いて…」
「麻実は、僕のことを見限った訳じゃなかったんだって。それどころか、僕のためだけに、僕と離れることを選んだんだって」



 

「あ~、いや、それは…そういう解釈も成り立つかもしれないけど~」
「だったら、もしかして…まだ、僕のことを愛してくれてる可能性もあるかなって」



 

「………」
「それが僕の都合の良すぎる解釈なんだけど。…どうかな?」



 

「…それは答えられない。答えたって意味のないことだもの」
「ある。もしそうなら、二人の気持ちは同じってことになる。麻実が僕と別れた理由が消えてなくなる」
「だからそれって議論のすり替えよ。わたしがあなたと一緒にいられないのは…」
「僕はもう、二年前の僕じゃない」
「お、理…」
「一年前、トコに拾われて…素直に人を愛せる、慈しむことのできる人間になったって、ちょっとだけ、自負してる」
「………」
「だから麻実、僕は今度こそ、何度でも言う。僕と、もう一度…」



 

「あ、ちょ、ちょっと待って…まだ心の準備が…」
「さっき言ったことを繰り返すだけだから」
「だから待ってってば!」


──!

 

──「いたぁっ!? ちょっ、ちょっと! 押さないでよ!」


──「後ろ、後ろに文句言ってよ!」


──「熊さんが押しちゃ駄目だよ。この馬鹿力!」


──「いや、だって…みんなだってどんどん前に…」


「それよりもみんな早くどいて~! 今俺が何人に踏まれてるかわかるか?」


──「ちょっとみんな! 理くんのプロポーズの邪魔はしないって約束でしょ!? 肝心なところで何やってんのよ~!」

 

 

 

「………」
「………」


何かが…


何かが、壮絶に台無しだった。

 

「っ!」
「あ…あ、麻実っ!」


僕の公開プロポーズに耐えかねたのか…

麻実がくるりと背を向けて、僕と反対方向…校門の方に向かって駆け出す。

通り道の物陰に陣取っていたテラスハウス陽の坂組に、思いっきりキツめの視線を送ることも忘れなかった。

けれど…

 

 

 

「べぇ~だ」

「~っ!」

 

誰もが気まずそうに笑ったり、そっぽを向いたりする中、トコだけはその視線を堂々と受け止めるばかりか、麻実を見上げ、挑発的に舌を出したりする。

麻実は、その視線に睨み返すこともできず、悔しそうに肩を震わせて、そのまま校庭を横切り…

 

──パチパチパチ……!!

 

 

 

「えぇぇ!?」


両側を取り囲んだ教え子たちの列に、思いっきり後ずさった。


女子生徒1「先生おめでと~!」


男子生徒1「めでたくない、めでたくないって!」


女子生徒2「い~じゃんい~じゃん。先生もバツイチから卒業だね~。また同じ相手ってのがマンネリかもだけど~」


男子生徒2「なんであんな奴がいいんだ~! どうして二度もあんな奴を選ぶんだ~?」

 

 

「え、え、え…えええええ~!?」


しかも、自分の周辺事情がどう考えても教え子たちにバレバレなことに戦慄し。

 

 

 

「あ…あなた方っ!? なんてことを!」


「教室で平気で痴話喧嘩する教師が何を今さら」

「なんだろねぇ、この初々しい反応は。生娘じゃあるまいし」


正確に情報源を突き止めて詰め寄るも、そんなことを意に介するような人たちじゃないし。

だからこそ僕は、こんな衆人環視の中での羞恥プロポーズに挑むことになったわけで。

 

真鶴「先生、腕組んで~」


倫子「先生、ほらブーケ! 受け取ったらこっちに投げてね~」


「っ!」

 

「あ」


度重なるあまりの羞恥プレイに耐えかねたか…

いや、僕も相当に耐えがたいものはあるけれど、麻実がとうとう全力疾走で、校門を飛び出す。

あの調子だと、もはやプロポーズの返事がどうこうとか、今聞けそうな雰囲気じゃないけれど…


「早く追いかけるんだよ理くん! 今日中にOKもらわないと家に入れてあげないんだからね!」

「トコ…」


それでも、トコはもう、僕の先延ばしを許さない。

今日までの一月…

麻実を選んだ僕との新しい関係を構築し、新しい絆を深め、そして応援してくれたトコ。

御岳の山頂でプロポーズの練習をさせられたときは、山彦で帰ってくる『結婚してください』のエコーに、何度も耳を覆いたくなったけど。

僕がこうして、生まれて初めての求婚を口に乗せられたのは、間違いなく、この娘のおかげで…

 

「ほら、行けよリストラ。『魅惑の女教師』を口説き落として来い」

「八須永君…」


──パシッ!


「頑張れリストラ。『素敵な奥様シリーズ』に新たな一ページを刻め!」

「熊崎さん…ていうか他にもっと言いようが…」


──パシッ!


「正念場だよ若旦那…きっちりと人情噺(にんじょうばなし)で落としてくれよ?」

「ご隠居…」


──パシッ!


「行ってらっしゃい理さん。明日は午後出社で勘弁してあげるわ」

「………取締役」


──パシッ!


「じゃあね、理くん。あまり大声でイチャイチャするのは勘弁ね。…隣のご夫婦さん」

「お隣さん…」


──パシッ!

 

次々と差し出される手を叩き、

いよいよ最後に、トコの前に立つ。

トコは、いつもみたいに優しい笑みで僕を見上げて…


「理くん…」

「トコ…っ!?」

 



 

──ッ!!

 

 

みんな「あ…」

 


そして…

 


「頑張れっ!」

 


耳がキンキン鳴るくらいの、きっと『最後の一発』を、お見舞いしてくれた。


「トコ…」

「っ…」


トコが顔を伏せると、僕からはもう表情は伺えない。


「行ってくる。頑張ってくる」


だから後はもう、振り返らない。

トコが示した道を、ただ前へと進む。

トコの気持ちがどうであろうと、もう、余計なことを考えない。


励ましと冷やかしと羨望と嫉妬と憎悪の、拍手とライスシャワーと小石と平手と握り拳が炸裂する中。

僕は、麻実を追って、彼女の走り去った方向へと、駆け出していく。


3月14日。四宮学園卒業式。

そして、それとはあまり関係ない追跡劇の始まり。

花道を往くプロレスラーの気持ちが少しだけわかったような気がした。

…ついでにその背中の痛みも。


………

 

 

 

『なぁ、トコ』
『…ん?』


雪の帰り道…

僕らが、一つの関係を終わらせて、

もう一度、今まで通りの関係に戻った帰り道。


『僕は、大丈夫だから』
『理くん…』


背中におぶさるトコは軽かったけれど、ちょっとだけ体力と脚力の落ちている僕は、足を取る雪に、ちょっとだけ悪戦苦闘していた。


『トコは、僕の娘だけど、僕の、最愛の娘だけど…』


それでも僕はトコを下ろそうとしなかったし、トコも、僕に気を遣って下りるなんて言わなかった。


『それでも、僕と麻実の娘でなくていい。トコが辛い選択なんかしなくていい』


だってこれは儀式。

僕らの正しい関係を象徴する行為なんだから。


『僕は、大丈夫だから。今までトコにもらった優しさだけで、麻実を、そして僕を幸せにしてみせるから』
『できるの? 理くんに』
『できなくても、するよ。絶対に、してみせるから、信じて』
『………うん』


今まで、僕がトコに見せてきた僕では、絶対に守れそうにない公約だったけれど、それでもトコは、僕の背中で頷く。

くたっと、僕の首筋に、おでこをくっつけて、その温かさで、返事をしてくれる。


『そしていつか…トコも、幸せにしてみせる。トコにもらった優しさを、トコに返すから』
『いいよ…あたしはもう、十分に返してもらってる』
『そんなことない…僕は、トコに一生かかっても返せないくらいの…』
『違うよ…あたしはただ、あげた以上に返して欲しくなっちゃっただけ。分不相応な願いを持っちゃっただけだもん』
『………』


背中から聞こえてくる声に、時々、しゃくり上げる音が混ざってる。

雪を踏みしめる音に混じって聞こえてくる、そのかすかな声は、僕の両脚に外れない枷をはめて、僕を動けなくさせようとする。


『ねぇ、理くん』
『ん?』
『理くんはさぁ…理くんはさぁ…あたしのこと、好きだった?』
『僕は今でもトコが好きだ。大好きだ…』


それでも僕は、その鎖を引きちぎり、

トコに、言わなくてもいい言葉を突き刺す。

僕らが、『僕だけが望んだ関係』であるための、緩やかな決別の言葉にして、残酷な求愛の言葉を。


『酷いなぁ…先生だけが好きだって…あたしなんか好きじゃないって、言って欲しかったのにさぁ』
『ごめん…僕は、酷い本当のことは言えるけど、都合のいい嘘だけは、つけないから』
『大人のくせに…大人のくせにさぁ…っ、う…ぅぅ…ふぇぇぇぇ…っ』
『トコ………ごめん。大好きだよ』
『言うな…言うなぁぁ…っ! ぅぇぇぇぇぇぇっ、えぇぇぇぇ…っ』


………

 



 

「麻実っ!」


「っ…」


追いかけて、追いかけて。

とうとう、その背中に追いついた街の中。

陽は西に傾きはじめ、

けれど麻実の歩調はずっと早足を崩さずに、

僕の呼びかけを、拒絶し続ける。


「麻実」


「………」


「麻実、待って」


「………」


僕が一歩進むたびに、麻実は1.5歩くらい進む。

僕らの歩幅を考えると、それが同じくらいの速度になる。


「話を聞いてくれ。麻実、麻実ってば!」


「こんな街中でやめてよっ! 恥ずかしい」


「じゃあゆっくり話のできるところに行こう。喫茶店でも、シャンゼリアでも、トリトンでも」


「わたしの方に話すことなんかないの」


僕が早足になると、麻実は駆け足になる。

そうしないと、1.5倍の歩数が稼げないから。


「僕にはある。ものすごく大事な用があるんだ」


「いい加減しつこいわね、理のくせに!」


「麻実が止まってくれないからじゃないか」


「昔のあなたはこんなふうにしつこく食い下がったりしなかった! …あれの時を除いて」


僕が駆け出すと、麻実は全力疾走する。

…で、僕は年末の怪我のせいで全力疾走は無理だから、僕らの距離は、ギリギリの緊張感のまま縮まらない。


「結婚しよう麻実。もう一度、やり直そう!」


「周りにまる聞こえじゃない!? どうしてここでそういうこと言うのよ!」


「誰に聞こえたっていい。だから麻実、君も聞いてくれ!」


「恥を知りなさい恥を! こんな恥ずかしい告白、離婚歴のある30男のすることじゃないわよ!」


僕が…足の痛みを覚えて疾走を止めると、麻実は…全力疾走をゆるめて、普通に走り出す。


「まだ29だ。僕らお互いまだ20代だよ。いくらでもやり直しが効くんだよ!」


「そういう問題じゃないって何度言ったらわかるの! あなたはわたしと結婚するべきじゃないの! 最初っから間違ってたのよ!」


「僕はもう大丈夫だ! トコと暮らしていくうちに変わったんだから」


「だったらどうしてあの娘は泣いてるのよ? あなたへの『好き』の意味を取り違えるのよ?」


「それは…」


「あなたはまだちっとも治ってない。人を愛するやり方を、一つしか知らない」


僕が、早足すらもできなくなると、麻実は、走るのをやめる。

僕らの距離は、縮まらない。

けれど…広がりもしない。


「それでも麻実…僕は、麻実と、もう一度歩いてみたい」


「っ…」


「今の僕にとって、世界で一番大事なのはトコだけど、世界で一番最初に恋をしたのは、麻実だから」


「そんなの…今さら変わらないじゃない」


「そして…今で世界で一番恋をしてるのは、麻実だから」


「そんなの…そんなの………信じない」


僕らの距離が…縮まった。


「子供は欲しいけど、確かに欲しいけど」


僕は、歩いてる。

けれど麻美も、歩いてる。


「でも僕は…麻実の方が、欲しい」


一歩あたり数十センチの歩幅の差が、僕と麻実の間を、埋めていく。


「ずっと、言えなくてごめん。一度も、プロポーズできなくてごめん」


手を伸ばせば触れられる。

麻美の、髪の匂いを胸一杯に吸い込める。

 

 

 

「結婚しよう、麻実…」
「駄目…」


そして僕は…

自分の欲求通りに、麻実を思いっきり抱きしめた。


「幸せにするって保証はできないけど、幸せにするよう努力する保証はするから」
「駄目、駄目だってば…そうやって、今まで全然言ってくれなかったこと、今さらこれ見よがしに言うのやめてよぉ…」


通りゆく人々が、じろじろと見ていったり、気まずそうに目をそらしたりしている。

でも僕は、そんな周囲の視線なんかお構いなしで、麻実の首筋に唇を押し当て、その匂いを深く吸い込む。


「あ、これ、理っ…みんな見てるじゃないのよ…」
「それが?」
「あ、あなた、本当に理?」


いくら麻実が諭しても、今の僕には、その程度の羞恥、なんともない。

この一月で、トコやみんなに鍛えられた。

人前で、堂々と愛をささやけるように、人には見せられない特訓まで受けさせられた。


「やっぱり、麻実を抱いてると落ち着く。麻実が側にいないなんて考えられない」


会えない時間を積み重ね、麻実を、心細くさせる作戦だって説明してた。


「だから、だからぁ…そういうこと、昔は全然…っ」
「ごめん…」
「謝るなら離して…そうやって、なし崩しみたいに抱きしめないで」


けど、その作戦には裏があって…

僕の気持ちが盛り上がりすぎて、我慢が効かなくなってしまうのも、多分、あの人たちの計算通りで。


「なぁ麻実。ゆっくりと…話し合おう?」
「理…あっ…」


麻美を抱きしめる腕に力を込めると、次第に麻実の身体の強張りも取れてきた。

きっとそれは、僕が本気だということを察してくれたから。


「話し合わないまま、ただ駄目だなんて納得できない。僕らは、ちゃんと話し合うべきだ…」
「わ、わかった、わかったわよ。もう逃げないから、ちょっと待って」


すっかりと体重を僕に預け、いつもの芳しい香りを届けてくれる。

 

僕は、そんな麻実の身体をしっかりと抱きしめ、たくさんの人々の行き交う中、二人だけ、時間を止めた。

 

………

 

……

 

 

 

 

 

 

「本当に、ここで良かったの?」
「君の希望だろ? 僕はシャンゼリアでも良かったと言ったのに…」


一度解散して支度をし、夕方6時に待ち合わせをしてやってきたのは、クリスマスに食事をしたトリトンホテル。

でも、今回は招待状を持っているわけでもなかったから、最上階ではなくて、リーズナブルな値段で食事ができるレストラン。

そうはいっても、それなりの値段はするけど…。


「もう…誰かに見られて、あまり噂を広められたくないのよ」
「世間は狭いしね。従業員の人が、誰かの保護者だったりして」
「そんな不安になること言わないで。落ち着かないじゃない。もし、知り合いにでも見つかったら、なんて言われるか…」
「今さらじゃないか。生徒にもアパートの住人にも見られてたんだから」



 

「おかげ様で、学園に戻ったら、先生方にまで問い詰められちゃって、大変だったのよ」


さすがに、卒業式の片付けも放置して姿をくらましてしまったのはいただけなかったのだろう。

麻美曰く先生方の態度はお小言3割、興味7割といった感じだったらしい。



 

「それは…ごめん。お疲れ様」
「他人事みたいに言わないでよ、もう…」


怒りをどこにぶつけていいのか分からなくて、麻実は自分の太股を何度もピシピシと悔しそうに叩く。


「でも、僕はもう何と言われたとしても、ありのままを伝えるだけだし。後ろめたいこともないからね」
「なんか、理のくせにむかつく」
「教師なのに、そんな言葉を使うのは、どうかと思うよ」



 

「~~~~っ!! 本っ当、理のくせにぃ~!!!」


こんなにも乱れた麻実を見るのは、いつ以来だろう。

酒が入った席でも、ここまで乱れることはなかったし、思わず微笑んでしまう。


「何を笑ってるの? わたしが困っているのが、そんなに楽しい?」
「素直に言えば、そうかもしれない」



 

「そこは、素直にならなくてもいいの。もっと、わたしの気持ちも考えてよ…」
「考えた上で、できるだけ麻実を尊重して、今に至るはずだけど?」
「それもそうね…。取り乱したりして、悪かったわ」


諦め半分納得半分で、麻実は小さくため息をつき、周囲を見渡す。

同僚の先生達に何を聞かれたのか詳細を知りたいけど、

これ以上聞いてしまうのは、麻実が泣き出してしまうかもしれないからやめておく。

 

 

「とりあえず、わたしの見知った顔は、ここにはないわね…。理の知り合いはいそう?」
「ん~、今の所はいないね」
「なら、いいんだけど…」
「麻実は気にしすぎだよ。店の人にも失礼だし、落ち着いたら?」

 

 

「いったい誰のせいでこうなってると思ってるのよ!」
「僕のせいかな?」
「わかってるなら、逆撫でするようなことを言わないで…」
「…なるべく注意する」


落ち着こうと思っても、麻実は落ち着けずに、視線をキョロキョロとさせている。

そんな麻実相手にも動じることなく、給仕が白ワインをグラスに注ぎ、僕らはそれを片手に持つ。


「それじゃあ…無事に麻実の生徒達が卒業できたことに、乾杯」
「…乾杯」


芳醇な香りを持ち合わせたワインは、口腔に潤いとフルーティーな爽やかさを与えてくれる。

喉越しは柔らかく、誰でもすっきりと飲める味。


「そういえば、学園に戻って、生徒には会わなかった?」



 

「会ったわよ。校門をくぐったら一直線にやってきて、芸能人にでもなった気分だったわ」
「はははっ。それほど、好かれてるってことじゃないか」
「ただの、やじうま精神が働いてるだけよ」
「でも、生徒達だって応援してくれてるんだろ?」
「元生徒達よ」
「苦楽を共にした仲間でもあるんだから、そんな言い方はひどいんじゃないか?」
「いいのよ。卒業すれば、もうわたしに甘えることなんてできないんだから」


もし甘えてきたら真剣に受け止めるだろうし、寂しそうな声色が含まれているんだから、説得力のかけらもない。

最初に出てきた料理は、鶏肉と有機野菜のオリーブ和え。

予約したときにコースで頼んでいるから、注文をせずともタイミングを見計らって料理を運んできてくれる。


「美味しいね。ソースに酸味があって食欲がそそられるよ。これは、すし酢でも使ってるのかな?」
バルサミコ酢よ。それに、すし酢は合わせ調味料だから、そういうの使わないんじゃないかしら」
「なるほど、これがバルサミコ酢か…」


どこかで口にしたことはあるのかもしれないけれど、意識するのは初めてだから、とても新鮮な味わい。



 

ブラックオリーブもグリーンオリーブも、えぐみが少なくて、美味しいわ」
「あっ、本当だ。さすが、トリトンホテルに入っているレストランなだけはあるね」
「ええ、そうね」


そんな和やかなムードで食事が進む。

と思ったんだけど…



 

「なんで、こんな普通に食事を楽しんでいるのよ…」


二品目のスープを食べているときに、急に麻実が嘆くように呟いた。


「美味しい食事なんだから、自然と楽しんでしまうものだと思うけど?」
「そうかもしれないけれど、違うの。大切な話だからこそ、ここを選んだんでしょ? それなのに、どういうことなの?」


ゆっくり話し合おうと言ったのは僕。

場所を指定したのは麻実。

それなのに、肝心の話は一切進んでない。


「僕は僕の気持ちを一先ず伝えたし、もちろん話し合うつもり」
「それなら…」
「だけど、食事が冷めてしまったら勿体無いだろ? 美味しいものは、美味しいうちに食べるべきだと思う」
「………」


あまり口に合わないものなら、肝になる話をしながら、ゆっくりと食べようとしていたけど、予想に反してるんだから、仕方がない。



 

「やっぱり悔しいわ。こんなにわたしの気持ちを揺さぶっておきながら、自分は飄々としているなんて」
「それは僕も驚いてる。不思議と心が落ち着いてるっていうか、穏やかなんだよね」
「そう…もういいわ。わたしも食事を楽しむことにする」
「うん、それがいい。今日は僕らのことを抜いたとしても、めでたい日なんだから」


それからの麻実は、いつもを思い出したように、来年度の話やこれまでの苦労の話をしてくれて、楽しい時間を過ごす事ができた。

 

………



 

 

「ごちそうさまでした」
「うん、美味しくいただきました」


デザートのバニラアイスのパイ包みを食べ、最後に再びワインを飲み、僕らの胃は幸福で満たされた。


「どうだった?」



 

「ええ、さすがトリトンホテルに入っているだけある、という感じね」
「いつから、麻実は料理評論家になったんだい?」
「理が感想を聞くから答えただけでしょ」
「そうでした、すみません…」


いつもと同じテンポの会話。

これから人生を変えるかもしれない話をするというのに、緊張感がない。

いや、むしろ、そのほうが好都合。

麻美も冷静に考えられるだろうから…。


「少し待ってくれる?」
「ええ…」


グラスに残っているワインを口に運び、頭の中を整理する。

決して酔った勢いで言うのではなくて、麻実の心に直接届けるように言えるように。


「…これまで、僕は麻実に迷惑をかけたり、時には傷つけたりしてきた」
「傷つけたなんて思ってないわよ。それに、迷惑なんて、お互い様じゃないかしら」
「そうだとしても、僕が男として、人として君を支えられる人間だったら、優しい人間だったら、もっと違う道を歩めていたと思う」


離婚などせずに、明るい家庭を築いていたはずだと、そう確信している。


「でも…離れたからこそ、もう一度出会えたからこそ、ここにいる僕が存在して、君が存在している」
「………」


麻美が何を思って、僕の言葉を聞いているのか、その表情から読み取れない。

だけど、僕は、僕の気持ちを…

一番分かりやすい言葉で伝える。


「麻実…結婚しよう」



 

「なんで、このタイミングなのよ…もっと、別の機会でいいじゃない」
「今じゃなきゃいけないんだ。本当に麻実を愛しているって気付いた、今じゃなきゃ…」
「わたし達は、一度離婚したのよ? また、同じようなことになるかもしれないのよ?」
「絶対ない。僕が麻実を幸せにして、僕も幸せになるから、離婚なんてありえない」



 

「…他にも素敵な人はいるじゃない。どうして…どうして、わたしなのよ」
「他の人なんて関係ない。僕は麻実が好きだから…愛してるから、結婚して、人生を並んで歩いていきたいんだ」



 

「おかしいわよ。頭がどうかしてるわよ…」
「そう思ったって構わない。でも、僕が麻実を思う気持ちは変わらない」
「わたしが嫌いって言ったらどうするの? 理の言葉を受け入れなかったらどうするの?」
「麻実が縦に首を振ってくれるまで、何度もプロポーズする。もちろん、シチュエーションは変えて」



 

「そう…」


ため息を落とすようにそれだけ口にして、麻実は黙り込んでしまう。

内心呆れているだろうし、こんなしつこい男に付き纏われて、面倒だと思っているだろう。

それで僕の心が治まれば身を引いて話は終わりだろうけど、時間が経つにつれて気持ちは強くなるばかり。


「あのさ…僕らが再会した日のことを覚えてる?」



 

「忘れられるはずがないわ。あんなの…」
「僕もだよ。まさか、麻実がトコの担任だなんて…。でも、今思えば、それは偶然じゃなくて運命だったと思う」



 

「そうね。神様のイタズラかもしれないわね」
「だけど、久し振りに会った麻実はしっかり教師をしていて、トコのことを担任だからという理由だけじゃなくて、人間として懸命に考えてくれた」
「当たり前でしょ。あんな境遇の子、普通はいないもの」
「保護者として、父親としてお礼を言うよ。ありがとう」
「どういたしまして。教師として、ありがたく頂戴するわ」


淡々とした言葉のキャッチボール。

それは、僕が伝えたいことをガードするように、麻実は言葉を返してくるから。

だけど、僕は止めない。

まだ、麻実への想いの1%も伝えてないから。


「僕が骨折したとき、麻実は他人であるはずなのに、なりふり構わず看護してくれたよね」



 

「だって…あれは、わたしのせいだもの」
「体を拭いたり、ご飯を作ってくれたり、お風呂に入れてくれたり、一緒に寝てくれたり…最初は戸惑いもあったけど、嬉しかった」
「わたしも、楽しかったわ。ずっと一人で暮らしていたから…」
「それからも、僕が辛いときには必ず側にいてくれて、甘えないようにしようとし思っていたけど、気付かないうちに寄りかかったりもしていた」
「人は一人じゃ生きていけないものよ。誰かと一緒にいるから、生きていけるのよ」
「僕には麻実が必要で、いかに掛け替えのない存在で愛おしいのか…それに気付くのに、時間が二年以上も掛かってしまってごめん」
「どうして謝るのよ。理由なんてないじゃない」
「そうかもしれないけど、言いたかったから…。これも、最愛の人が気付かせてくれたんだ。教えてくれてんだ」
「………」
「だから、こうして僕は麻実に全てをぶつけてる。愛してるって言ってる。結婚しようとプロポーズしてる」


麻美は、すぐに言葉を返してくれなくなってしまった。

俯いたまま表情を隠して、何を考えているんだろう。

でも、僕は言うべきことを続ける。


「昔の欠けていた僕とは違って、今は麻実を幸せにできる自信がある。誰よりも幸せにしてみせる」

 

 

 

「…無責任なことは言わないで」
「だから結婚しよう。やり直しじゃなくて、過去も含めて、今も、未来も…共に歩んで笑っていられるように…」



 

「わたし、子供ができないのよ?」
「そんなの大したことじゃない」
「わたし…今でも理を愛してるのに…ううん、別れる前も、別れた後も愛している。それなのに、あなたをふったのよ?」
「もう一度、判を押して、役所に届けを一緒に出しに行こう」



 

「あなたって、あなたって…どうしてそこまで、お人好しなのよぅ…」


正面に座って、真っ直ぐ僕を見ている麻実は、止め処なく涙を流す。

化粧が落ちてしまいそうになるのも気にせず、拭きもせず、重力に逆らわずに涙を流す。


「自分勝手なだけだ。迷惑な感情を麻実に押し付けてる、酷い人間だ」
「そんなこと、ないわよ…。あなた以上に思いやりがあって、優しい人なんて、知らないわよ…」


それから先、麻実は口を閉ざしていた。

ただ一度、化粧室に行くと言っただけで…。


………

 



 

 

「…ご馳走様」
「お粗末様でした。財布は寂しくなったけど、充実した時間だった」


それだけ交わすと、お互いに別れ話も世間話も出てこなくて、ホテルの入り口の脇で突っ立っているだけ。

幾分か暖かくなった季節だけど、頬を撫でる夜風はまだ冷たい。

でも、アルコールで火照った体にはちょうど良かった。


「麻実は、来年度も四宮学園の教壇に立つの?」


ふっと沸いた疑問を、そのまま投げてみる。



 

「ええ、そのつもりよ。生活のためだけじゃなくて、自分のために教師を続けたいから」
「好きなんだ、教師」
「単純に子供が好きってこともあるけどね」
「十分な理由だと思うよ。僕なんて、教壇に立ったりしたらからかわれるだけだろうし」



 

「そんなことないわよ。今のあなたなら、生徒思いの良い教師になれるはずよ」
「う~ん、今更、教育学部に入って免許を取る気はしないな。色んな意味で」
「ふふふっ、そうね」


やる気よりもお金の問題があって、

自分が大学に行くくらいなら、トコのために使う。

麻美もそれを見越しているから、笑ったりする。


「でも、理が免許を持っていたとしても、教師になるのは反対ね」
「どうして? 良い教師になれるって言ったばっかじゃないか」



 

「あなたってば、熱中し出すと止まらないから、不眠不休年中無休で働きそうだからよ」
「いくら僕でも、そこまではできないって」
「どうかしら。人が思いもしないくらい、無茶をするんだから」
「もし、そうやって働いて倒れたりしたら、君が僕の世話をしてくれるんだから構わないよ」



 

「勝手に決めないで。わたしは、理の保護者じゃないんだから」
「困っている人を放っておけない君だよ? 僕が助けを求めれば、必ず助けてくれる」
「どこから、そんな自信がくるのよ。気が変わって沖縄とか北海道で教鞭を執っているかもしれないのに」
「麻実だからだよ。全てじゃないけど、僕はそれなりに麻実を知ってるつもり」
「わたしだって、理が思っている以上に理のことを知っているつもりよ」

愛していると言わなくても、愛し合った記憶は消すことができない。

麻美もそrを感じたようで、肯定するように僕から視線を外して信号待ちをしている車に目を向ける。


「それじゃあわたし、やることがあるから、ここで──」
「一緒にいたい」

 



 

「えっ…?」
「プロポーズの返事をしてくれないなら、今日は僕の願いを叶えさせてくれ」


もう引いたりはしない。

麻美に僕の全部を伝えるまで、諦めたりはしない。


「…うん、わかったわ」


だけど、確信めいたことがあった。

必ず麻実は僕のプロポーズを受け入れてくれると。

 

 

 

「どこへ行くの?」
「君も知っている場所だよ」

 

………

 


……

 

 

 

 

 

「理が来たかった場所って、ここ?」
「ああ、そうだよ。ここなら誰にも邪魔をされずに、二人で過ごせるから…」


歩いていて薄々気付いていただろうけど、麻実は怪訝そうな顔をしている。



 

「理の部屋まで行くの?」
「今から帰る?」
「…いいえ。あなたの願いを叶えるって言ったから、全うする」
「無理はしなくていいから。嫌がるのに強制するつもりはないし」
「ここまで連れてきて、そんなことを言うの? 強引にやるのなら、最後まで貫き通しなさいよ」
「うん、わかった」


忠告通り、僕は麻実の手を鎖のように絡めて取る。

離そうとしたって、もう離しはしない。

檻に閉じ込めるように…。

 

……



 

 

 

……

 

 

 

「静かだけど、今日は誰もいないの?」
「そんなことないと思うけど…。夜も遅いし、寝ちゃったんじゃないかな」



 

「それなら、いいんだけど…」
「とりあえず、早く部屋に行こう」


麻美だって、こんなところを見られたくないだろうから。


……

 

 

 

「適当にくつろいでて。何もでないけど」
「え、ええ…」


部屋の中央で手を離すと、麻実は怯えた猫のように不安そうな顔をする。



 

「やっぱり、帰ってもいいかしら」
「ここまで来たのに?」
「だ、だって…」
「帰さない。強引にやるなら最後までって言ったのは麻実だからね」



 

「………」


麻美の中での葛藤が外にまで溢れ出ているんだろう。

でも、麻実は強引に動けば、それに従う。

昔からそうだ。



 

「ねぇ、これから、何するの?」
「とりあえず…寝よう。もう明日になってしまいそうだし」



 

「えっ…そんな、ここで…?」
「それ以外に、どこでって言うんだ?」
「だけど、他の部屋には人がいるんだし、壁が薄いって…」
「骨折してたとき、そんなの気にせず隣で寝てたじゃないか」



 

「そうだけど…服はどうするのよ。このままじゃ、さすがに…」
「麻実のパジャマなら、ピッタリのを持ってる」
「えっ…なんであるの?」
「返しそびれてたけど、世話そしてくれていた時の忘れ物」
「そう…」


もう反論できなくなったのか、用意周到な答えに呆れてしまったのか、ため息をつく麻実。

僕だって、パジャマの件は言われて思い出しただけなんだけど。


「あっ、ちょっとそこ空けて、布団敷くから。それと、これが麻実のパジャマ」
「あ、ありがとう…」

 

……

 

 

 

一枚だけの敷布団と、一枚だけの掛け布団。

この部屋で寝るのであれば、この布団を共有するということ。

何もしないで二組になるわけがないし、麻実も躊躇いもなく着替えを始めている。


「同じ布団で、構わないよね?」


それでも、確認をするだけしてみる。


「ええ…あなたさえ、迷惑でなければ」
「一緒に寝れば暖かいだろうし、気持ちよく眠れそうだ」
「わたしは湯たんぽ代わり?」
「まだ、何も被らずに寝られるほど暖かくはないんだから、布団に入ればお互いがそうなるよ」


麻美が着替え終わるよりも早く、僕は寝る支度を終わらせてしまい、さっさと布団に入る。

骨折していた時は、横になるのにも多少の労力は必要だったけど、今はすんなりとできる。


「おいで、麻実」


ペットを扱うように、優しく呼びかける。


「ええ…」


パジャマ姿に身を変えた麻実は、ワンテンポ静止してから、ゆっくりと僕の隣に舞い降りてくる。



 

「ねぇ、寒くない?」
「麻実がくっついてくれてるから、そんなに。麻実こそ、寒くない?」
「ええ、大丈夫よ…」


寄り添って天井を見上げる姿は、恋人もしくは夫婦にしか見えないだろう。

でも、一か月間はこうして寝ていたんだし、久しい感触が蘇ってくる。


「ねぇ、理…」
「うん?」
「理は、わたしのどこが気に入ってるの? わたしよりも魅力的な女性はたくさんいるはずよ」
「麻実以上の人は、どこを探してもいない。だから僕は、もう一度結婚したいんだ」
「その言葉、今日で何回目よ…」
「わからない。心の中でも何度も言ってるから、数え切れてない」
「そう…」


麻美は、先程と同じ言葉を口にして、同じようにため息をつく。

吐息や足を動かしたときの衣擦れだけが耳に入り、時折、近所迷惑な声を上げているオジサンの声が遠くで響いている。


「わたし…理と再会した日、とても嬉しかったの」


体温は分け合って同じ天井を見上げたまま、麻実は独り言のように呟いた。


「驚きもあったけど、それ以上に嬉しかった。もう、会うことはないと思っていた忘れられない人だったから…」
「あの時の顔は覚えてるよ。あんなマヌケな顔の麻実は初めてだったからね」
「あなただってマヌケだったわよ。長身であんな顔してたら、誰にでもイジメられそうなくらいに」
「いくらなんでも、そこまで言わなくったっていいだろ」
「わたしの恥ずかしい顔を見た罰よ。これからも思い出すたびに、恥ずかしい気持ちにさせてあげるんだから」
「麻実のいないところで思い出すようにするよ」
「…今日のあなたは、本当にめげないわね」
「きっとこれも、本物の芳村理だよ」
「そうね…。守るべき存在を見つけてから、男として、人として、魅力的になったものね」
「僕自身も、実感してる。こんなにもがむしゃらに守れたのは、麻実がいてくれたから…」
「わたしは、たまに相談に乗って、負担を軽くしてあげただけよ」


回された腕に、気にしていないとわからないくらいの力がこもる。


「どうして、理はこんなにも人間らしくなってしまったのかしら…」
「昔の僕の方が良かった?」
「どうでしょうね。あなたを愛し続けてるから、わからないわ」
「男冥利に尽きることを言ってくれるんだね」
「わたしは、本当のことを言っているだけよ」
「そっか…」
「もし、わたしが別の人間だとして、今の理にプロポーズされたら、迷うことなく結婚しているわ。そう、わたしが、わたしでなければ…」


どんなに気持ちを伝えてくれても、『結婚する』とは口に出さない麻実。

襟を掴む手が、離さないとでも言っているようでも、プロポーズの返事はしてくれない麻実。


「麻実…結婚してくれる?」
「………」
「また、一緒に暮らして…支え合って、生きていこう」
「…理は、あとどれくらい、その言葉をわたしにささやくの?」
「今回は、麻実が返事をしてくれるまで…かな」
「拷問されるって、こんな気分なのかしらね…」
「返事をしてくれれば、すぐに楽になれるよ」
「ふふっ、そのセリフも、ありきたりなシーンのものね」
「今度は、しっかりお互いを見つめて、同じ幸せへと歩いていこう」
「わたしだって、早く楽になりたい…。流されて、楽な方向へ行きたいわよ」
「麻実を必ず幸せにすると言ったけど、僕を幸せにできるのは、麻実…君だけなんだ」
「本当にできるの? 今のわたしにできるの?」
「できるさ…君が僕を愛してくれるのなら」


ありえないくらい強引で、なし崩し的な酷い求婚。

こんなの、普通じゃできない。

でも、今の僕は普通じゃないし、

麻美に受け入れてもらうためなら、何でもする。


「僕は…麻実を愛してる。誰よりも愛してる。だから…もう一度、僕と結婚してください」
「…もっと、強く抱きしめて」
「これでいい?」
「…キス、して?」
「うん…」


麻美の願いを聞き入れ、

僕は愛する者への唇へと顔を寄せる。


「んっ…」
「…んっ…」
「もっとちょうだい…飽きるまで、キスをちょうだい…んんっ!」
「…飽きる、ものか…んんっ…麻実とのキスなんだから…」


何度も何度も重ねるキスと愛の言葉。

唇が焼けてしまうほど熱くなって、

麻美と一つとなったように感じる。


「んっ…んんっ…」
「…愛してるよ、麻実…んんっ…」


どれくらい唇を合わせていたんだろうか。

幸福感に時間も忘れ、思い出したように、

僕らはどちらからともなくキスをやめた。


「…おやすみなさい、理」
「おやすみ」


まるで何事もなかったかのように、淡々と挨拶を交わす僕ら。


十分に体温を感じ合ったことに満足したようで、

麻美は本能的に寝ようと、体の向きを直す。

でも、背を向けることはなく、頭を僕の腕と胸に乗せるようにして。


「今日だけは、何も考えずに、あなたの胸で眠らせて?」


その声は少し震えていて、弱々しくて、改めて守りたいと強く思う。

僕は返事をする代わりに、彼女の頭を引き寄せて応えた。


………

 


……

 


 

 

 

 

 

「………」

「ん…」

「理…」

「すぅぅぅぅ…ん…」

「ごめん…なさい…」

「すぅ…すぅぅ…」

「わたしが二年間、あれだけ泣いて、悩んで…一生懸命耐えて出した結論を、ここまで否定されるわけにはいかないの」

「ふぅ…ん…ぅぅ…」

「あなたが間違ってるの。わたしたち、今さら元になんか戻れな…」

「あさ、み…」

「だからあなたが、これ以上の関係を望むんだったら…」

「結婚しよう…結婚…」

「わたし、もう二度とあなたに会えなくなっちゃう…」

「また、しよう…」

「今よりも、悲しい関係に…ううん、関係が、なくなっちゃう…」

「大丈夫、結婚なんて怖くない…よ」

「ねぇ、理」

「僕を…僕を…」

「この、意気地なし」

「幸せに…してください…」

「人の話を…聞きなさいよぉ。寝ながらでもいいから…」

「ん…んぅ…麻実、麻実…」

「あなたが今まで、今日の1分の1でも同じ事を言ってくれてれば」

「僕の…麻実…」

「そしたら、わたしたち…」

「ふぅぅぅ…ん…んぅぅぅ…」

「わたし、たち…」

「すぅ…ぅぅ…」

「………」

「ん…」

「………」

「ん~…すぅぅ…」

「っ…!」

「ん…すぅ…ぅぅ…」

「っ! うぇぇ…ぅぁぁぁぁ…っ、もう、もう…理のばかぁっ…あなたが…あなたが…っ、今まで一度だって、今日みたいにわたしを口説いてくれてたら…そしたら、わたしたちぃ…っ、二度も、結婚すること…なかったのよぉ…っ」

 

………

 

……

 

 

 

 

 

 



 

……

 



 

女性スタッフ「ドレスの方はこちらのカタログから選んでいただきます」


「うわぁ~、こんなにたくさん! 目移ししちゃうわね」


女性スタッフ「もちろん全て試着も可能ですからお気軽にお申し出ください。なんなら今から2、3点試してみますか?」

 

女性スタッフ「い、いいのぉ? あ~、じゃあね…やっぱり白がいいなぁ。これと、これと…」


「いや、あのね麻実…今日はまだあと三軒回らないと」


女性スタッフ「こちら、レンタルとお買い上げの両方が選べるようになっております。価格はそれぞれこのように…」


「ん~、やっぱり一生の記念だし、ずっと手元に置いておきたいなぁ…」


──「レンタルで十分」


「………」


女性スタッフ「………」


「………」


「それに、何よこの勘違いしたみたいなヒラヒラのドレス…今さら白って歳でも立場でもないでしょうに」

「ああああああなたねぇっ!?」

「それよりさぁ、こっちのカクテルドレスの方がシックでいいじゃん。安いし、汚れも目立たなそうだし」

「そ、それって汚れてるわたしにはお似合いだって、そういう意味!?」

「全然違うから。トコは実利性のことしか言ってないから」


ちょっとだけ好意的に解釈すると。


「だいたい、前の時のドレスもレンタルだったんでしょ? 先生の卒業式の日にレンタカーで軽井沢の教会行って、友達しか呼ばなくってさぁ」

「どこまで話したのよあなた!?」

「あたしと理くんの間に隠し事なんかないんだもん。ね~、理くん?」

「え? あ、いや…まぁ…その…」


結構真実なところがまたタチが悪く…


「昔はそんな尖ったことやってたのにねぇ。今じゃ招待客の席順一つに大わらわなんだもんねぇ」

「あのねぇ…さすがに社会人も数年経つと、色々と無視できないしがらみが増えてくるんだからね」

「招待状の話で思い出したんだけどさ…平木副部長、今になって媒酌人(ばいしゃくにん)は嫌だってごね出してさ」

「ええっ!? そんなの今さら変更なんて無理よ!」

「だからさぁ、あたしの結婚に対する夢をあんまり奪わないで欲しいんだけど…」

「でも『僕をこれ以上表舞台に引きずり出すな』と、目の前で泣かれちゃったら…」


さすがの僕も少し退いたけど…ここ最近、一体どんなストレスを溜め込んだんだろう。


「そんな…今さら代わりをやってくれそうな人なんて…社長は最初に断られてるし、吉富副社長…?」

「そんなことになったらスピーチが終わる頃には次の組の披露宴の時間だ…」

「だってあと残ってる候補って言ったら…」

「いるじゃん、澤嶋元取締役。理くんの直属の上司だよ?」

「冗談やめてよっ!?」

「本気に取るなよ麻実…そもそも媒酌人は夫婦が基本だ」


その後の嫁娘問題は一向に解決の兆しを見せず、泥沼化は深まるばかりで…

というか、そういう問題が噴出するということで、今の僕の状況が説明できるわけでもあるけれど。


………


式は、来年の春。

とうとう三十路の僕と、そのたった二つ下の麻実は、『お仕着せの式も悪くないかな』なんて、そんな丸くなった大人の論理に落ち着いて。

周りの『二回目なんて堂々とやるもんじゃない』なんて罵詈雑言をあっさりと聞き流すあたり、僕らもおじさんおばさんになりかけてるのかもしれない。

それでも、ま…

お互いが幸せなら、それに勝る喜びはないわけで。

僕らの問題は、解決への努力を始めるところで、ひとまず、めでたしめでたしとなる。

 

………

 



 

「さ、次のホテル行くよ。二人とも急いで…」

「あ、ねぇ理。新婚旅行、どこにしよっか?」

「え? あ、ああ、僕はどこでも。…麻実が側にいるんだし」

「え?」

「あ…」



 

「理…」

「えっと…その…」

「んふふ…ふふっ」

 

 

 

「………」

「じゃあわたしはね…そうだなぁ、ここは人気の高いヨーロッパに…」

下呂温泉で十分。次の日に御岳登って、二泊目は理くんの実家で宿泊。三日目は名古屋観光で姫緒さんちに泊めてもらって」



 

「嫌よそんな帰省コース!」

「あたしの卒業旅行と同じなんだけどなぁ」

「だってわたし、お義母さん苦手なんだもん。嫌われてる訳じゃなさそうなんだけど…」

「最初っからこれじゃあ、先が思いやられるね。あ、最初じゃないからいいのか」



 

「言いたいことはそれこそ御岳の標高くらいあるけれど、一生に二度の新婚旅行くらい豪勢に行きたいと思わない?」

「だってあたし、大学進学するつもりだよ? 学費どうするの?」

「そうかトコ! 大学行く気になってくれたんだ! それじゃあ貯金しないと…」

 

 

 

「あなたどっちの味方よ!?」

「大丈夫だって先生。名古屋にだってイタリアあるんだから」

デンマークだってあるぞ。それに隣の三重にはスペインだって…」



 

「楽しみだねぇ理くん。今度こそゴンドラ乗ろうね!」

「って、あなたついてくるつもり? わたしたちの新婚旅行に」

 

 

 

「銀婚式のときは遠慮してあげるよ~?」

「美都子ちゃんっ!?」


「お、おい、ちょっと…」


式は、来年の春。

今や堂々と僕の娘を名乗ってくれるトコは、傍目には、最愛の父親の再婚が面白くなくて、新しい母親に何かと突っかかる僕の子供に見えてるんだろうか。

…だとしたら、それはそれで忸怩(じくじ)たるものがあるけど。

 

 

 

 

 

「あのね、これはね、理とは関係なく、あなたの元担任として忠告させてもらうんだけどね?」
「その前提は無意味じゃないかなぁ。理くん関係なかったら先生なんかに突っかからないよ」
「人のこと『なんか』って何よ! 人が心からあなたの将来を心配してあげてるのに!」
「先生に心配いただかなくても~、あたしはもっともっと勉強して大学出て社会出て、先生とは比べものにならないほどいい女になってやるもんね~」
「そこまで言うならわたしと理の大学入ってみなさいよ。言っておくけど秋泉大なんかメじゃないんだからね~?」
「そうやって見下す大人の態度って大嫌い。少なくとも理くんはそういう言い方絶対しない」
「理がそうやって甘やかすから、あなた自分がどんどんワガママで我慢のきかない、年相応のお子ちゃまになっちゃってるって気づいてる?」
「理くんは今のあたしの方がいいって言ってくれるもん。ずっとずっとあたしのこと愛してくれるもん」
「理が女として愛してるのはわたしだけなんだから! 子供のあなたとは扱いが違うんだから!」
「そうやってムキになるところなんかが、自分に対する自信のなさの現れに見えちゃうんだよね~」
「よくも言ったわねぇこのコは! いつまでもいつまでもいつまでも諦めの悪い」
「っ! ちょっとの差で負けただけだもん! うかうかしてたらいつの間にか取り返されるかもね?」
「理はね、あなたに一度ふらつく間に、わたしには何度だってふらつくんだからね? 図に乗ってんじゃないわよ!」

 

 



「ちょ、ちょっと二人とも…喧嘩はやめて…」

──!



 

 

「理は黙ってて!」
「理くんは黙ってて!」

 


「はいっ!?」

 

 

 

「………」
「………」

 

 

 

「………ぷっ」
「あは…あははははっ」

 


「…はい?」

 


「さってっと、お腹空いちゃったな。お昼食べない?」
「あ~、だったらねぇ、近くにイタリアンのいいお店知ってるのよ。夜だと一万近く取られるんだけど、ランチなら千円」
「いいねそれ。あ、でもそれなら夜はあたしが作るよ。ちゃんと理くんの栄養バランス考えないとね」
「頼りにしてます。芳村家の栄養士さん」
「あはは…じゃ、行こっか、先生」
「ええ、美都子ちゃん」

 


「…お~い」


二人仲良く語らいながら、僕を置き去りにして歩いていく麻実とトコは…

確かにさっきまで、あまりにもくだらない理由でものすごい大喧嘩を繰り広げていたはずで。


「何やってんの理くん?」

「早く来ないと置いていくわよ~」

 


「………はいはい」

 

呆れと諦めと…

そして、心からの笑みを浮かべて、

僕は、二人の最愛の女性に、両手を差し出す。


これが、僕の望んだ未来。

心から望んで、やっと手に入れた、新しい人生。

再婚した妻と仲の悪い子供の将来を心配する、情けない父親で、そして夫として。

これからも、嬉々として彼女たちの喧嘩を仲裁し、とびっきりの笑顔を与えてもらうから。

 

………

 


……

 

 

 

 

 

 

 

「んん~~っ!! 今日は良い天気だね」
「ええ、そうね」


ベンチに座りながら大きく伸びをして、脱力する。

最近の休日は出かけたり、仕事をしたり、アパートの手伝いをしたりしてたから、まったりとした時間を過ごすのは久し振りのような気がする。


「布団を干さなくちゃ、もったいないかもしれないな」



 

「ふふっ、ちゃんと干してきたから安心して」
「じゃあ、今日はふっくらとした布団で寝られるんだね。良い夢を見れそうだ」


僕はリストラされることなく会社で勤め続けていて、麻実は相変わらず生徒に頼られる存在で充実した教師生活を過ごしている。


「そういえば、昨日、不思議な夢をみたよ」
「理とわたしが離婚していたとか?」
「たとえ夢でも、そんなものは絶対見ないし、起きたらすぐに記憶を抹消するよ」
「そうかしら。あなたのことだから、朝食中にでも話してくれそうだけど」
「まあ、そうかもしれないけど…って、茶々を入れないでくれよ」
「ごめんなさい。理らしくなかったから」


麻美は言葉とは裏腹に、悪びれもなさそうな笑みを浮かべる。


「それで、どんな夢だったの?」
「僕らに子供ができていたんだ」
「美都子ちゃんじゃなくて?」
「トコは長女だったよ。その下に女の子、男の子、女の子は三人いた。みんな仲良しで、女の子は麻実みたいに美人で可愛かった」
「それなら、男の子は理みたいに背が高かった?」
「まだ、十歳にもなってなかったと思うけど…それなりに大きかったような気がする」
「意外に曖昧なのね」
「僕の夢の記憶に、そこまで求めないでください…」
「自分の子供なのよ? 覚えてあげていないと可愛そうじゃない」
「…ごめんなさい」


反射的に謝ってしまう。

麻美ではなくて、夢の中の子供に対して。

 

 


「とにかく、一回り以上も離れた子供達がトコをお姉ちゃんって慕っていて、パパ、ママって僕らを呼んでいて、円満な家族だった」
「非現実的ね…」
「そんなことない。不妊治療だって、一緒に頑張ってるだろ? もしかしたら近い将来のことかもしれないじゃないか」
「あなたがいるから一緒に頑張っていられるけど…淡い希望は、切なさを運んでくるだけよ」
「麻実は悲観的すぎるんだよ」
「あなただってそうじゃない。都合のいいことだけ、夢を見ちゃったりして」
「いいじゃないか。夢は夢なんだし、叶えるためにあるんだろ? 教師が生徒に夢を与えないでどうするんだよ」


いつの間にか、寝て見る夢から将来への願望の夢に、麻実にとっては空想に近い夢に話がシフトする。


「わたしは、理の先生ではなくて妻よ。もちろん、子供ができたら嬉しいけど…期待しすぎないほうがいいと思うわ」
「僕は、必ず麻実との子供を産んで、育てて、泣いてやるんだ」
「どうして、そこで泣くのよ」
「嫁に行ってしまうことを考えたら、今にも涙が溢れてきそうだよ」
「気が早すぎるわよ。でも…うふふ、やっぱり、あなたには敵わないわね」


笑顔を見せてくれる麻実からは、やはり子供を作りたいという希望が伝わってくる。

夢では一人多いけど、昔から、子供は三人がいいと言ってたから。


「あっ、この前のトコの成績表、見た?」


トコは秋泉大附を卒業し、そのまま秋泉大へ進学することになった。

最後の学年末でも、手を抜いてもいいのに優秀な成績を収めて、優秀な生徒として、優秀な娘として卒業した。


親としては、鼻高々だ。


「ええ、嬉しそうに見せてくれたわ。あの子は元々できる生徒だったし、あなたも勉強を見てあげてるんだから、当然の結果よね」
「もう少し、素直に喜んだらどう? まずは目標にしていた大学に入れたんだぞ?」
「これでも喜んでいるわ。だけど、美都子ちゃんは何かがあると、急に成績を落としてしまったりするから…」

 

元教え子としてか、保護者としてか、麻実はすでに大学卒業の心配をしている。


「何かがあるとって、何が?」
「あなたと喧嘩したり、友達との関係が悪くなったり、もしかすると、彼氏ができて──」
「か、彼氏ぃ!?」


思いもしなかった単語に、声が裏返ってしまう。


「まさか、トコに彼氏なんて…。いや、可愛いトコなら、仲のいい異性がいたとしてもおかしくない。でも、これまで女子校に通っていたのに彼氏なんて、やっぱり…」
「落ち着きなさいよ。例えばの話でしょ、例えばの」
「あ、ああ、そうだったね…」
「でも、覚悟はしておかないといけないわね。いつかは、美都子ちゃんもお嫁に行く日がくるかもしれないんだから」
「僕の大切なトコをさらっていくのは誰だ! トコを幸せにできるかどうか、僕が試してやる!」
「だから、どうしてあなたは、そんなせっかちなのよ。まだまだ美都子ちゃんは結婚なんて考えてないだろうから、心配ないわよ」
「そうかもしれないけど…」


結婚することで幸せになる。

それを実感しているからこそ、嫁に行くな、なんて決して言えはしない。


「でも、わたしと理が結婚するとき…今でもそうだけど、美都子ちゃん、あなたにべったりだから、親離れするのか心配よね」
「僕は、それでもいいけど…」
「お~さ~む~」
「…ごめんなさい」


続く言葉はきっと、『わたしを放置するの?』だろう。


「そ、そういえばさ、そろそろ、2回目の再婚記念日だね」
「そうね、あっという間に経ってしまうわね…」

 


──「前回の記録に近づくんだから、そろそろ頑張らないと危ないんじゃない?」

 


「み、美都子ちゃん!?」



 

「大学の準備で忙しい娘に掃除を任せて、昼下がりのデートを楽しんでるとは良い身分だね」


「ど、どこから聞いていたの?」



 

 

「さぁ、どこからでしょう?」


クイズ番組の司会者のように、イジワルそうに笑うトコ。


さっきの話を聞かれていたんだろうか。

もし、そうなら、あまりトコに見られたくないというか、恥ずかしいというか。


「掃除は終わったの?」

「終わったから、ここに来てるんじゃん」

「お疲れ様。でも、大家の仕事をできる範囲でしっかりやりたいと言ったのは、あなたでしょ?」

 

 

 

「それとこれとは話が別だって。デートだって聞いてたら、あたし、阻止してたもん」

「あなた、親の幸せの邪魔をするのに躊躇とか遠慮はないの?」

「遠慮なんて言葉は、とうの昔に忘れました」

「『昔』は間違いじゃないの? 出会った頃と身長も見た目も変わらないんだから、『知りません』が正しいと思うわよ」

「そんなことないよ! 身長、ちゃんと伸びてるもん!」

「伸びてるって言っても、数ミリ程度のことでしょ?」



 

「うっ…」


図星の言葉に、怯んでしまうトコ。

事実であるから、フォローしようにもできない。



 

「…こほん。それで、二人はいつ別れるの? あたし、ちゃんと理くんを迎え入れる準備をしなくちゃ」

「わたしと理が離婚するわけないでしょ」

「さぁ、どうだろうねぇ~。なにせ、再婚2周年目が近づいてるんだからねぇ~。ね、理くん?」

「トコがいるなら、僕らは大丈夫だよ」

「ちょっと理、今のはどういう意味よ」

「そのままの意味だよ。トコは大切な存在だから」

 

 

 

「それって…あたしのことを愛してるっていうこと?」

「もちろん。僕はトコを愛してるよ」

 

 

 

「そっか…愛してるか…ふふふっ」


「理、過剰な愛情は、子供の性格を歪ませるだけよ」

「これくらい、普通じゃないの?」

「明らかにおかしいわよ。その愛情の半分を、わたしに加えてくれてもいいのに…」

「愛してるよ。だから結婚したんだろ?」

 

「でも…」

「麻実は幸せじゃない? そうだとしたら、もっと幸せになるように、努力するよ」

「理…」



 

「なんだ…そうなんだ…。愛してるっていってくれたのに、やっぱ奥さんを取るんだ…」

「だ、誰も、そんなこと言ってないって。愛してるって、本心からだよ」

「理が、そんな軽い男だとは思わなかったわ」

「ち、違うよ。愛してるなんて、本当に愛してる人にしか言えないから」

「…わたしには、直接愛してるなんて言ってくれないくせに」

「なに言ってるんだよ。昨日の夜だって、言っただろ」



 

「そう、なんだ…あたしの知らないところで、二人でイチャイチャしてるんだ…」

「それは、夫婦であるからで、この前も二人で映画を観に行ったじゃないか」

「そうだったんだ…。二人ともいないと思ったら、映画に行ってたの…。散歩に行っただけって言ってたのに」

「えっと、それは、トコからのお願いであって…」

「わたしよりも、美都子ちゃんを取るのね」

「まさか! そんなはずないだろ! 麻実は僕の奥さんなんだから」



 

「じゃあ、あたしももういらない子なんだね。こんなにも理くんを愛しているのに…」

「ト、トコも愛してるよ。だから、泣かないでよ」


麻美を宥(なだ)めればトコが涙を浮かべ、

トコを宥めれば麻実が頬を膨らませる。

これが、今の僕らの関係を象徴してると例えらえるかもしれない。


「ちょっと、理。この際、ハッキリしてくれないかしら」

「な、何を…?」

「どっちの方を愛しているかに決まってるじゃない」

「そうだよ! 今日こそハッキリさせてよ!」

「え、えっと、そうだな…」


どっちって言われても、どっちも選んでしまう。

麻美も愛しているし、トコも愛してる。



 

「理くん!」

「理!!」


だけど、比べるとなると、そんなのは十階建てのビルから目薬をさそうとするくらい無理なことであって…

 

 

 

 

「そんなの、結論を出せるわけがないじゃないか~~~っ!!!!」


柔らかな陽射しの降り注ぐ温かな春の空に、裏返った嘆きの声が響き渡る。

麻美と最初に結婚をしてから7年目、

トコと出会ってから4年目の春は、

いつもよりも騒々しく過ぎていく。

麻美がいて、トコがいて、そして僕がいる。

世間からしたら、ほんの少しズレた家族だろうけど、どこの家庭にも負けない愛に溢れている…と思う。

これからも、こんな幸せな何気ない日々が続いていくと想像すると、思わず、笑みが零れてしまった。

 

……

 

 

 

香野麻実編 END