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G線上の魔王【30】(終)

 

・・・。

 

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たったいま、漁船から、日本の領海を離れたと報告があった。

現在、父を海上で、別の船に引き渡しているという。

安堵した。

心の底から、ため息が出た。

ようやく勝ち得た安息。

長かった。

柄にもなく涙が出た。

徹底的に破壊つくした街並みに、もはや感慨すら覚える。

もう二度と、見ることのない景色。


時田警視正から、しきりに着信がある。

おれは電話に出て一言だけ告げた。


「協力を感謝する、警視正


静かに、通話を切った。


「全員、撤収準備は済んでいるな」


おれは、今回の地獄を演出するためにつきあってくれた仲間――大半は金で雇ったが――たちに別れを告げた。


「以上で、解散とする」


おれは独り――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「死にたくなかったら、そこをどけ」


おれはバスの運転席でうたたねをしている少年に銃口をつきつけた。

なんだてめえってな顔をしていたが、おれの後ろには本物の極道が三人ほど、鬼のような顔をつきつけていた。


いったいどこから窃盗してきた車両なのか。

二台の大型バスが、セントラル街の一つの通りを横並びに塞いでいた。

おれたちは、その一台の運転席に近づいて車両の奪取を試みた。

運転席に座っていた少年は、恐れをなして去っていった。


「堀部さん、あとは任せましたよ」
「わかりやしたよ。
なあに、キーがなくても、車を動かす方法はあるんですわ。 おい」


なにやらドライバーを持ち出して、子分に命じていた。

車両窃盗の手口は、見ないでおくとするか。


「浅井さん・・・」
「どうした、宇佐美?」


なにやら、考えるような顔をしていた。


「いえ・・・ぞろぞろと人が集まり始めましたよ・・・」


騒ぎを聞きつけたのだろう。

少年たちがぽつり、ぽつりと姿を現した。

そこに、ヤクザの一人が、空に向けて短機関銃を撃ちまくった。


「てめえら、目を覚まさねえか!」


ありったけの大声で叫んだ。


「もう警察が来るぞ! おれたちは終わりだ!」


とたんに少年たちの群れに動揺が走った。

彼らも疲れていたのかもしれない。

破壊という破壊、犯罪という犯罪を繰り返し、ふと我に帰ったときの恐怖を突いてやる。


「人質の居場所が知られた! 警察は容赦なこう踏み込んでくる!」


少年の国を作るなどと、馬鹿げた夢から覚めさせてやればいい。


「おれたちは利用されたんだ! 武器を捨てろ! 捨てないと警察に殺されるぞ!」


また、掃射があった。

 

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五十人以上の人だかりができていた。

誰かが声を上げた。


――あいつの言うとおりだ!


聞いたような声だった。

ひょっとしたら、改心した橋本かもしれない・・・などと甘いことを考えた。

ざわめきが際立っていた。

群衆はすでに、百人を越えていた。

少年たちだけではなく、中年や老人の姿も見えた。

思った以上に、生き残った人々は多いようだ。

それに危害を加えようとする者はいなかった。

暴徒たちは、すでに、保身を考え始めている。

背後でバスのエンジンがかかる音が響いた。

もう煽る必要もないようだった。

バスが建物の外壁を削りながらゆっくりとこちらに向かってくる。


封鎖が解かれる――!

 

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園山組の男が運転したバスはクラクションをふんだんに撒き散らしながら、人の塊に向けて突っ込んできた。

もう、暴徒もなにもなかった。

我先にと、外の世界へと飛び出していった。


――いまだ!


――助けて!


――警察に捕まりたくなかったら、逃げろ!


悲鳴と怒号があちこちで飛び交う。

こちらの異変に気づいた外の警官隊も拡声器やスピーカーを使って、叫び始めた。


――止まって下さい!


――走らないで!


無駄だった。

群衆は、津波のように押し寄せていく。

ジュラルミンの盾を持った機動隊員も、迫り来る集団にどう対処していいのかわからないようだった。

暴動でもデモでもないから、対応に困っているのか。

たしかに、逃げ惑う人々には、少年から老婆までいる。

サラリーマンにヤクザ者に外国人に学生に・・・とにかく、ありとあらゆるタイプの人間が、これまでセントラル街に閉じ込められていたのだ。

衣服をかき乱した少女や血まみれの青年もいる。

武器を手放した少年がもはや暴徒なのか一般市民なのか、まったく区別がつかない。

警察官が、誰彼かまわず捕まえようとしているが、逆にもみくちゃにされている始末だった。

応援を、応援を、などとしきりに叫んでいた。

そこに、人の波を割って現れる一団があった。

人数は二十人くらいだろうか。

他の警官とは明らかに異質な装備と服装をしていた。

脇に、物騒な銃を抱えている・・・多分、特殊部隊かなにかだろう。

彼らは、隊列を組み、中に突入してきた。

その、素早く訓練された動きは、群衆という嵐のなかにあって、一本の稲妻のようだった。

おれたちには目もくれず、あっという間に通りの彼方に走り去っていった。

向かう先は、おれたちが示唆した、ビジネスホテルの方角だった。


・・・これで、"魔王"も終わりだろう。


「・・・さん・・・浅井さん・・・!」


喧噪の中だったので、宇佐美の声が上手く聞き取れなかった。


「電話です・・・!」


電話?


いったい、この状況で誰からかかってくるというのか。

おれはひとまず、人ごみを抜けた。


「誰からだ?」
「・・・出てみれば、わかるかと・・・」


なにやら神妙な顔をしていた。

おれはためらいがちに、宇佐美から携帯を受け取った。


「もしもし・・・」


相手の声に、驚愕した。


「京介か・・・」

 

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とっさに、声が出なかった。

あたりの喧騒が、いきなり聞こえなくなった。


「京介・・・驚いているだろうな・・・」
「な、なんだっていうんだ、いきなり!?」


"魔王"は、これまで聞いたことのない穏やかな声で言った。


「最後に、少し、話がしたくてな・・・」
「え?」


心臓を鷲づかみにされる思いだった。


「父さんは、ついに釈放された・・・だからもう、思い残すことはない」
「なっ・・・!」


知らなかった。

警察は、"魔王"の要求を呑んだのか。


「そ、それで・・・?」
「いや・・・それだけだ」
「それだけって・・・」


おれは今の自分の気持ちをどう表現していいのかわからなかった。

憎い"魔王"のなかに、優しかった兄が混じって、わけがわからない。


「あ、あんた・・・まさか、死ぬつもりなのか?」


"魔王"は答えなかった。

答えないことが返事になった。

・・・そういえば、そうだ。

セントラル街を占拠したからといって、いったいどうやって逃げる算段だったのか。

規模が大きいだけで、ビルの立て籠りと変わらないのだ。


「いや・・・死ぬつもり、だったんだな」
「詮無いことだ」
「・・・っ・・・」


おれはそのとき、初めて、"魔王"の覚悟を知った。

彼は、たった一人で、これまで生きてきたのだ。

たった一人で、国家に挑み、そして打ち勝った。

自らの命と、引き換えに・・・。


「い、いや・・・それでも、お前は、大罪を犯した・・・」
「わかっている」
「大勢の人を殺し、欺いた」
「わかっている」
「赦されることではないだろう!」


いつしか、拳を握り締めていた。


しかし、"魔王"は・・・いや、恭平兄さんは、おれに許されるために声をかけてきたわけではなかった。


「お前が、封鎖を解除したんだな、京介・・・やればできるじゃないか」
「・・・・・・」
「そうか・・・強くなったんだな・・・」


胸が熱い。


声に出して叫びたかった。


「で、でもおれは、母さんを・・・」
「運命だ」


慰めるようなひと言に、もう限界だった。


家族が、逝ってしまう。


清美、母さんに続き、兄さんまで・・・。


「なんと、呪われた一家かな・・・」


自嘲していた。


「しかし、私とお前は違う」
「兄さん・・・」
「私は復讐にだけ生きてきた。
けれどお前には、ほら、隣にいるのだろう?」


宇佐美・・・。


「ああ、いる・・・いるさ・・・いまも、おれたちの会話に聞き耳立ててやがる・・・おれを心配してくれてるんだ・・・」


兄さんは笑った。


「私はその少女を許すことができなかった。
お前は許せ。 許して、復讐の業を断ち切るがいい」


おれは、もはや、なんと声をかけていいかもわからなかった。


ただ、無情に時が流れる。

 

かすかに粉雪が舞う。


「さらばだ。 京介・・・」


その直後だった。


夜だというのに、遠くの空が、赤く染まった。

黒煙が立ち上り、その方角から大勢の人が逃げ込んでくる。

警察の怒号が飛び交っていた。

ホテル・・・爆弾・・・かろうじて聞きとれた。

おれは携帯を耳に当てたまま、呆然としていた。


もう、なにもかも、忘れたくなった。


せめて、なにかひと言、かけてやる言葉はなかったのだろうか。


大勢の人にとって極悪人の"魔王"は、おれにとってはたった一人の兄だったのだ。


「兄さん・・・」


おれは再び、携帯のリダイヤルボタンを押した。


無我夢中だった。


つながるはずがなかった。


けれど、何度も、かけなおしてみた。


おれの腕をつかむ、髪の長い少女がいた。


「浅井さん・・・」


少女は、短く、けれど、厳しく言った。

 

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「――騙されてはいけません!!!」


宇佐美ハルの瞳に、憎悪がみなぎっていた。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「フフ・・・」


さて、逃げるとするか。

おれは、京介が解いた封鎖地点にまで来ていた。

人の群れに溶け込み、あせらず、急がず外を目指す。


・・・誰が、死ぬものか。

ようやく父に会えるというのに。


まったく、勇者ご一行は大活躍だった。

思惑通り、特殊部隊をかのビジネスホテルへ誘導してくれた。

ホテル内には、多量の爆薬をしかけておいた。

突入半が今川の監禁されているドアを開けると同時に爆発するしくみになっている。

警察が発見するのは、焼け焦げた死体。

軍服を着て、皆、ご丁寧に武装している、テロリストの自決の残骸。

目的を達成した過激派が、特殊部隊の突入に観念して、自爆するというシナリオだ。

当然、おれたちの死体ではない。

そう、山王物産で捕まえた人質たちだ。

だから、あらかじめ、おれたちと同数の男性を確保しておいた上で、女を優先的に殺していったというわけだ。


彼らは、バスに乗せただけで、すぐホテルに戻させた。

京介たちが、人質がバスに乗り込む瞬間を写真に収めてくれたのは、僥倖だった。

焼死体をテロリストのものと照合するには、時間がかかる。

おれたちが、日本を離脱するくらいの時は十分に稼げる。

おれの顔を知っている者は、暴徒のなかにはいない。

宇佐美と京介くらいのものだ。

この人の嵐のなかであれば、外にいる警察も楽に振り切ることができる。

勇者に感謝しなくてはな。

おれは、まさしく、この瞬間のために、貴様と遊んでやっていたのだ・・・。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

「浅井さん、これは罠です・・・!」
「な・・・え・・・?」


兄を亡くした衝撃に打ち震えていたおれの腕を、宇佐美がしっかりと握る。


「どうも、うまくことが運びすぎていると思ったんです」
「ど、どういうことだ・・・?」
「"魔王"は、いつでもわたしを殺すことができました。 なのに、殺さなかった」


・・・。

 

 

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「わざわざわたしを山王物産の屋上に連れて行ったときから、"魔王"の姦計は始まっていたんです。
さも演出だのお遊びだの言いながら、わたしが、人質の居場所を探ることを予想していたんです。
"魔王"はわたしに銃口を突きつけて、屋上から突き落としました。
しかし、そのときは気づきませんでしたが、いま思えば、"魔王"は、きちんとわたしをゴンドラのある位置まで誘導していたんです。
それが証拠に、"魔王"はゴンドラにひっかかったわたしを殺しませんでした。
屋上から、いくらでも狙い撃ちにできたはずなのに」


・・・それは、そうかもしれない。

普通、人が落ちたなら、下を確認するはずだ・・・。


「それから、わざわざ明かりを全開にした大型バスを使い、これまた不自然なまでに明るい道を選んで、人質を移動させました。 それも、ゴンドラの上のわたしから見える方角です」


・・・そうだ、そんな都合のいい話があるはずがない。


「じゃあ、宇佐美は利用されていたってことか?」
「おそらく、わたしが助かることまでは予想してなかったでしょう。
けれど、携帯電話で、人質の居場所を浅井さんに伝えるぐらいはできると考えたはずです」


・・・。

 

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「次に、あのホテルで写真を撮ったときです」
「ああ・・・」
「なぜ、"魔王"は、もっと必死に追ってこなかったのでしょうか?」


おれは言葉もなかった。


「彼らはプロです。 山王物産のそばに隠れていたわたしを音もなく捕まえた彼らが、なぜわたしたちみたいな素人を取り逃がしたんでしょうか?」
「・・・たしかに、追ってきたのは"魔王"一人だった」


おれは、まんまと追っ手を振り切った気になっていたが・・・。


・・・。

 

「そして、この封鎖地点の防備のもろさです。
わたしたちが結束して解ける程度なら、警察も苦労もなく乗り越えて来ていたでしょう。」
「おれたちは・・・警察をなかに招き入れるために利用されたのか?」


宇佐美がうなずいた。


「見てください。 特殊部隊が人の群れを割るようにこちらに進んできたことで、さらなる大混乱が発生しています」


息の詰まるような大混雑。

どこを見渡しても人、人、人。

機動隊とOLと老人と警官と少年とホステスがごった返している。

騙されたと悟ったおれは、激しい怒りを燃やした。


「"魔王"が逃げるには絶好の機会だ・・・!」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

「・・・予想以上の混乱だな・・・」


おれにとって、唯一の懸念はタイミングだった。

警察をホテルへ招き寄せるのは、交渉が成立してからだった。

もし、父の釈放を警察が渋っていれば、京介たちの大活躍はそのぶん、遅れることになった。

カメラや携帯電話のたぐいを取り上げ、監禁してやったことだろう。

もちろん、彼らが、おれの思惑通りに動かないことも想定していた。

その場合は、仲間の一人が裏切って人質の居場所を告げるてはずになっていた。

封鎖も、こちらで解除する予定だった。

しかし、二人は本当によくやってくれた。

まさか、宇佐美が生きているとは思わなかった。

強くなったな、京介よ・・・。

昔から、センチメンタルな甘さが魅力の男の子だった。

いまごろ、一人感動して涙を流しているかもしれんな。

出口に近づいたそのとき、背後の喧騒のなかから、声があった。


「"魔王"・・・!」


はっきりと、おれを呼んでいる。

振り返れば水商売風の女を挟んだすぐ後ろに・・・。

 

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・・・宇佐美!

気づかれたというのか。

たしかに、冷静になってあとを振り返り、事件の第三者のような目を持つことができれば、不審な点は見つかるだろう。

けれど、ヤツは、何度も死にかけたはずだ。

この命を懸けた極限状況のなかで、おれのたくらみを見破ってきたというのか・・・!


「お遊びが過ぎたな、"魔王"・・・!!!」
「くっ・・・!」


たしかに、少しだけ・・・。

宇佐美をかわいがりすぎたのだ。

おれの予想を凌駕する地点まで、勇者を成長させてしまった。


「警官の皆さん、あの男です! あれが、事件の主犯です!」


・・・まずい・・・!


宇佐美のうすら長い髪に目を引かれた警官が、いくらかおれに目を向け始めた。


――そこの男、止まりなさい。


パトカーのライトが、一斉にこちらを向けた。


機動隊員が盾を構えて、おれの前方に立ちはだかっている。


「おのれっ!!!」


策に溺れるとはこのことか!

おれは出口まで進みかけていた足を止めた。

反転し、退路を探す。

向かってくる人の波をかきわけ、邪魔な人間を撃ち殺した。

悲鳴が上がる。

警察官が、何事か叫び、銃を構えた。

かまわず、道路を封鎖していたバスに近づいた。

前方のドアが開いている。

エンジンをかけっぱなしにしていて、マフラーから白い煙が上がっている。

ステップに登り、一度背後に向けて、銃を乱射した。


おれはバスに乗り込み、窓ガラスを撃ち抜いた。

追ってきた警官にも命中したようだ・・・。

さらに、慎重に狙いを定める・・・。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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現場は、地獄と化していた。


"魔王"が、バスのなかから、銃撃戦を仕掛けてきている。

銃弾が飛び交い、ばたばたと人が倒れた。

倒れた人の上に、さらに人が倒れていく。


「浅井さん、銃を、銃を貸してください!」


宇佐美が血走った目で、おれにつかみかかってきた。


「ば、馬鹿! 落ち着け!」
「殺すんです! いましかない!」


狂気にとりつかれていた。


「あいつは、あなたを騙したんだ!!!」


汗と涙を飛び散らし、声高に叫んだ。


「卑劣に、お母さんを殺したんだ!!!」
「無茶を言うな!」
「憎くないんですか!?」
「ああ、憎いさ!」


ヤツは、最後の最後まで、おれを欺いた。


「でも、この場で、お前がどうにかできる相手じゃない!」


すでに、警察がバスに近づいていた。

遮蔽物を排除し、タイヤを撃ち抜いていた。

しかし、バスが動き出すことはないだろう。

道路にはまるで地獄の亡者のように人が溢れている。


「ぐっ、離して、離してください!」


死の願望にでもとりつかれているのか。

宇佐美は前進をやめようとしなかった。


「宇佐美、やめろっ!!!」


バスに近づきすぎている。

"魔王"が、バスの後方・・・おれたちのいる側の窓に近づいてきた。

テロリストのシルエットがバスの後部、非常口のあたりに見えた。


「逃げろ!!!」


「いまだ!!!」


――この馬鹿やろうが!


おれたちのせいで、警察が発砲をためらっている。

大混乱のなかでは、バスの包囲もままならないようだ。

 

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「あいつを殺して、ヴァイオリンを弾くんだ!!!」


呪われた勇者が、修羅の声を上げたとき、さらなる銃声があった。

バスの窓が撃ち抜かれ、血が飛び散った。


「がああっ――――!!!」


"魔王"の絶叫が夜を切り裂く。

さらに、車内がいきなり明るくなった。

 

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火柱が立ち昇る。

道路にしたたっていたガソリンにも燃えうつる。

大小、様々な爆発音が轟いた。

"魔王"の所持していた銃弾やら爆薬やらが暴発したのか。

火の手はバスのそばの建物や、街路樹に燃え移り、一気に火勢を増していった。

避難、避難、と警察が煽り、惨劇を加速する。

炎に包まれた車内。

断末魔の叫びが上がった。

"魔王"が、バスの外に出てくるのをはっきりと見た。

火だるまになりながら、道路に崩れ落ちる。

それでも拳銃を手放そうとしない。

なんという執念か。

悪鬼となって、ゆらりと起き上がり、こちらに向かって歩いてきた。


「あ、あ、あ・・・」


しかし、"魔王"はおれたちにたどり着くことなく、沈んでいった。


「逃げるぞ、宇佐美!」


それから先は、一気だった。


宇佐美を連れて、人の群れをがむしゃらに突破した。

様々な声が飛び交う。

警官の叫び。

女の悲鳴。

爆薬の破裂する音。

地を揺るがすような足音。

消防車のサイレン。

ふと、パトカーの横を通り過ぎたとき、無線機から漏れる声を耳にした。


――被疑者の死亡を確認しました。

 


・・・・・。

 


・・・。

 

 


どこをどう走ったのかわからない。

おれは、宇佐美を抱きすくめ、頭をなでた。

少女はずっと、おれの胸で泣きじゃくっていた。

ごめん、ごめんなさい、と己の蛮行を悔いていた。


「いいんだ、宇佐美・・・」


どっと、疲れが押し寄せてきた。


「えっ・・・」
「もう、終わったんだ・・・」
「・・・あ、え・・・?」
「終わったんだよ、ハル・・・」


宇佐美は、いきなり魔法の解かれたお姫様のように、呆然としていた。


「そう、なんだ・・・」
「ああ」
「そっか・・・」
「ほら、笑えよ。 助かったんだぞ」
「あ、う、うん・・・」


けれど、少女が頬を緩ませることはなかった。

とめどない涙を拭おうともせず、声に出して泣き始めた。

少女のまぶたに落ちた雪が、切なさを際立たせた。


「さあ、ハル・・・帰ろう」


おれは肩に回した腕に力を込めて、少女の嗚咽を受け止めた。


「帰って、クラシックでも聞こうぜ・・・」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

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「しかし、てめえ、引きこもってんじゃねえよ」
「浅井さんだって、昨日は一日中寝てたじゃないですか。 病院行けって言ったのに」
「うるせえ」
「ぎゃあ」


あれ以来、宇佐美はうちに入り浸っている。


「すいませんね、すっかり彼女面しちゃって」
「・・・メシ作れ」
「あ、はーい」


宇佐美はいそいそキッチンに消えていった。

テレビをつける。

どのテレビ局も、先の封鎖事件をやっていた。


――国会議員今川恒夫の拉致に始まった広域封鎖事件は、おとといの朝七時に、今川および、人質数十名の死亡をもって、一応の収束をみるにいたった。

突入した警察は、封鎖区域にいた人間を拘束。

一般市民はその場で釈放、負債者は病院へ搬送、暴徒と思しき少年は取り調べ、罪状が明らかなものは緊急逮捕となった。

ただ、混乱のなかで逃亡し、身元が確認できなかった者が、一千名以上はいるらしい。

そのなかの一人がおれというわけだ。

でも、まあ、現場に残った映像記録やら、捕まった暴徒の証言から、そのうち警察から呼び出しがかかるだろうな。

実際、芋づる式に検挙されているようだ。

拳銃は捨てるに捨てれず、いまもコートのポケットに入れてある。

・・・警察に見つかったら厄介だ・・・その筋の方に引き取ってもらうとしよう。

恐ろしいことに、死傷者は二千人を超えているらしい。

そのなかに、ホテル内に閉じ込められていた岩井もいた。

彼は、重傷を負いながらも死を免れたようだ。

意識を取り戻した彼の証言から、警察は犯行グループの思惑を知ることになった。

主犯格の男は、生前"魔王"と呼ばれていたそうで、現在、詳しい調べを進めているらしい。


「いや、浅井さんも、そのうち逮捕ですね」
「うるせえよ」
「拳銃は捨てたって言ってましたよね?」
「ああ・・・」


嘘をついておいた。

正義漢の宇佐美に見つかったら、厄介だな・・・。

ああ、やだやだ。

権三が死んで、おれにはもう後ろ盾はない。

その権三だが、堀部以下、園山組の主だった者が参列できなかったという理由で、葬儀は一時見合わせられたようだ。

後日、また連絡が来るという。

被害にあった学生や教員も少なくなかったらしく、学園も一週間の休校となっている。


「しかし、お前、部屋でも制服なんだな」
「ええ、まあ。 同じ服、何着も持ってるんで」


ホントかよ・・・。


ふと、栄一から着信があった。


「おう、京介、生きてたか?」
「うん、まだ警察も来てない。 このまま逃げ切れねえかな」
「いや、無理じゃね。 オレもさっきまた、呼び出されたぜ?」
「はあ、そうなの・・・」
「いや、なんつーの、オレが警察を中に入れたようなもんじゃん、むしろ」
「そうかねえ・・・」
「いや、でも、お互い生きてて良かったな。 宇佐美も無事だって話だろ?」
「ああ・・・ぴんぴんしてやがる。 他のみんなはどうだ?」
「白鳥も椿姫もてめえらを心配してたぞ。 花音は?」
「ああ、あのテロのせいで、空港が一時封鎖になったらしい。
だもんね、まだ帰ってきてないよ」
「そっか、ユキ様なんだがな・・・」
「うん・・・・・・」
「どうも、警察に行ったっきり、帰って来ないんだわ・・・」
「そうか・・・」


二、三日は取調べだろうな。

まあ、時田も法廷に引き出されるような罪は犯してないだろう。


「お前も気をつけれよ」
「わかってる。
おれはビルの窓をぶち破ったり、発砲したり、クラブ燃やしたり、いろいろやらかしたからな」
「おいおい、お前ってついこの間、二十歳になったんだろ?」
「うん、去年の十二月な。 知る人ぞ知るおれの誕生日よ。 一人寂しく過ごしたぜ」
「ダブりすぎじゃね?」
「うるせえから」
「ばれたら、きっと死刑じゃん」
「ばれなければいい。ばれなければ犯罪じゃない」
「クズの理屈じゃねえか」


・・・お前にクズとか言われたくないが、まあいい。


「じゃあ、オレ、ペットの餌買いに行くから」
「あっそ。 いってらっしゃい」


外には雪がちらついていた。


「浅井さん、浅井さん・・・!」
「なんだ、ドタバタすんな」
「今日、バレンタインデーって知ってました?」
「え・・・?」


今日じゃなくね?


「今日、浅井さんの誕生日らしいじゃないですか」
「なにたくらんでんだ?」
「いやもう、アレですよ、お祝いですよ。 自分の誕生日含めて」
「はあ・・・」
「そこで、ほら、で、デートとか連れて行ってくれてもいいんじゃないですか?」
「こんな時間から?」
「ええ、ディナーとか」
「なるほど、メシ作るの失敗したのか?」
「すみません。 フォアグラのトリュフを作っていたんですが」


・・・もう、なに言ってんのかわかんねえよ。


「お前、自炊とかしてなかったんだな。 貧乏人のくせに」
「基本、カップラでした。 あと、もやし」
「もやしかよ・・・」
「じゃあ、決まりですね。 どこ行きます?」
「つってもなあ・・・セントラル街は無理だし・・・」
「西区はどうです?」
「・・・まあ、いいけど」
「ご飯を食べて海をみるわけですよ、二人で」
「砂浜じゃねえけどな」
「いいじゃないですか、昔、お別れした場所じゃないですか」
「不吉なこというなよ」


・・・しまった!

 

 

「・・・あ、う、うれしいです」


おれはコートを羽織った。


「おら、とっとと出る準備をしろ」


・・・・・・。

 


筋肉痛と打撲でひりひりする足を動かして、車を出した。

適当な洋食店で、宇佐美の所望するステーキを食った。

ガツガツ食うものだから、ムードも何もなかった。

そして、再び車を動かして港までやってきた。

 

・・・。

 

 

 

「うわあ、満点のほしぞらぁっ」
「いやいや、微妙に雪ふってっから」
「ムードでてきましたねっ」
「・・・あのな」


・・・。

 

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「浅井さん・・・」


そっと、身を寄せてくる。


「なんだよ、超さみいんだろ?」
「ばれましたか・・・」
「ったく・・・今度買ってやるよ・・・」
「本当ですか?」
「勘違いするな。 一緒に歩いてて恥ずかしいからだ」
「あ、それは、真面目にすいません・・・」


・・・いや、冗談のつもりだったんだが・・・。

 

「あのう・・・それで、けっきょく・・・」


言いよどんでいた。


「浅井さんのお父さんはどうなりましたか?」
「今、政府が身柄の引渡しを要請しているらしい。
でも、向こうの態度は固いらしい。 今回のテロには一切関知していないのだからと」


実際、父さんの乗った船は日本の領海を出て、その後の正確な行方はわからないらしい。


「きっと、また会えますよ・・・」
「だといいがな」
「お願いなんですが・・・」


宇佐美は唐突に真剣な顔になった。


「お父さんに会ったら、ぜひ、わたしのことを紹介してもらえませんか?」
「・・・・・・」


もし、おれが、いままでのおれだったら、この瞬間に、少女を殴り倒していたかもしれない。

けれど、人は、いつまでも憎しみを抱いてはいられないものらしい。


「いいよ・・・」


ぎこちなく言った。


「もし、会えたらな・・・」


宇佐美はなにも言わず、頭を下げた。

憎しみあいは、もう終わりだ。

"魔王"の死とともに、争いは終わった。


「お祝いをしよう・・・なんか知らんが」
「あ、すみません、バレンタインデーはあさってでした」
「そうか・・・じゃあ、あさってもだな」
「はい、自分、がんばってチョコ作りますんで」


期待できそうにないが、とりあえずうなずいておいた。


「寒いか?」
「あ、いえ・・・」


はにかむように笑った。


「もう、寒くはないです」
「・・・・・・」
「・・・いっしょにいてくれる人がいますので・・・」

 

思えば寂しい少女だった。

おれと同じよう家族を失った。

こいつを幸せにできるのは、この世でおれくらいだろう。


「来いよ・・・」
「あ・・・」


少女の身体から力が抜ける。

そっと腕を回す。

優しく優しく、水流に笹舟を浮かべるように・・・。


「んっ・・・!」

 

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「・・・・・・」
「・・・・・・」


甘い、口づけ。

二人で、求め合う。

お互いから欠けてしまったものを補いあおうとするように。


「京介くん・・・」


涙交じりの声で、ささやいた。


「好きです・・・」


言葉を返す代わりに、おれはさらに深く抱きしめた。

幼き約束を交わした少女。


――ハルを、離すまいと強く口づけた。


空から舞い落ちる雪はいずこかに溶けてなくなった。


ハルのG線の上にいた悪魔といっしょに――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 



 

 

 

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・・・。

 

 

 


・・・・・・。

 

 

 

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この季節、なぜか、思い出したように連日、雪が降る。

今日は、バレンタインデーだった。

マンションに近づいたとき、オートロックのドアから人が出てきた。

軽い挨拶を交わし、エントランスに入る。


・・・。

 

 

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宇佐美は、いまごろなにをしているだろうか。

手作りチョコレートでも本気で作っていたら、笑える。

エレベーターを登り、部屋の前に立つ。

インターホンを押す。


「はーい!」


部屋のなかから、うれしそうな少女の声。


「早かったですねえっ」


どたばたと玄関に駆け込んでくる。


早く、会いたかった。


待ち遠しい。


換気口から、なにやら甘い香りが漂ってきている。


「いま、開けますよー」


ドアがゆっくりと開いた。

 

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そこには、どこか懐かしくすら思える少女の顔があった。

お帰りのキスでも期待していたのか、目を閉じていた。

おれは、ドアの隙間に足を挟み、言った。

 

 

 

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「――会いたかったよ、宇佐美」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

そのときの宇佐美の顔をなんと形容したものか。

さながら、一度はふやけていた雪が、また凍りついていくようだった。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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・・・まったく、ハルのヤツ。

バニラエッセンスを買って来いだとか抜かしやがった。

かくしておれは、パシリとなって、商店街から戻ってくるところだった。


ふと、着信があった。

携帯はどこかに落としたので、新しいものに変えている。

取引先かと思って、いちおう出てみた。


「どうも、坊ちゃん」
「ああ、堀部さん・・・父の葬儀の日程は決まりましたね」
「ええ、それは、まあ、いいんですがね・・・」


・・・なんだ?


「いやね、坊ちゃんに聞いてもしょうがねえことなのかも知りませんがね・・・」
「ええ・・・」
「てまえの子分に、ミキヒサってのがいるんですがね、知りませんかね?」
「いや・・・名前も初めてですが・・・どうかしましたか?」
「そすか、ですよねえ・・・あの野郎、どこに消えちまったんだ・・・」
「消えた?」
「ええ、あの、セントラル街での事件以来、行方不明になっちまったんです」


胸騒ぎがする。


「最後に、その人を見たのは?」
「ええ・・・ヤツは、ほら、封鎖をとくためにバスを動かしたじゃないですか。
その運転を命じてたんですがね・・・」
「バス・・・」


はっとして、あのときの光景を思い返した。

おれはたしかに見た。

燃え盛るバスのなかから、火だるまになった男が・・・。


「・・・なんてことだ・・・」
「え、どうしやした?」
「く、詳しい話はあとで・・・!」


通話を切った。


すぐさま、ハルに電話をかける。


一回目のコール・・・ハルは出ない。


二回目のコール・・・ハルは出ない。


自宅でチョコを作ってるはずのハルから、まったく応答はなかった。


買い物袋を放り出して駆け出す。


「くそっ!」


あの火だるまになった男は、"魔王"じゃなかった。


バスの運転席にいたヤクザ者に拳銃まで握らせて、身代わりにしたのだ。

・・・そういえば、"魔王"が一瞬、非常口の窓に寄ったのをおれは見ていた。

警察と銃撃戦をするふりをして、バスの窓ガラスを破り、燃料を撃ち抜いたんだ。

そして、あの混雑を利用して逃走した。

おれたちが警察から逃げ切れるくらいだから、"魔王"には簡単なことだったろう。


急げ!


"魔王"は、生きている!

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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宇佐美ハルは、玄関先に立つ"魔王"の姿に心底恐怖していた。

とっさに、"魔王"から離れるようにリビングに駆け込んだ。


「初めて上がったが、なかなかいい部屋に住んでいるな」


"魔王"が、いつもながら余裕そうに言う。

ハルは、驚愕に目を見開き、キッチンのほうに後ずさりしていく。


「どうした、宇佐美。 声もないか?」
「・・・生きていたか」
「生きていたさ。 本当ならすぐにでも父に会いに行きたいところだが、やり残したことがあるのでな」
「・・・チョコレートでももらいに来たか?」


"魔王"は笑った。


「私のためにがんばったわけではなかろう?」
「・・・じゃあ、なんだ?」
「もちろん、お前に地獄を味わわせるためだ」


"魔王"が踏み込んできた。

その顔からは、生気のかけらも感じられなかった。


ハルはキッチンの奥に逃げ込んだ。

手探りでナイフを探す。

ない。

どこだ。

"魔王"が迫ってくる。

ハルは鍋をつかんだ。

蓋をあけて放り投げる。

ぐつぐつと煮える湯と溶けて液状になったチョコレートは、しかし、"魔王"の顔面に降り注ぐことはなかった。


「・・・どうした?」


"魔王"は、もう笑わない。

一切の感情を排除した表情にはなんの迷いもためらいも見出せなかった。


――死神のよう。


"魔王"がチョコレートにまみれた床に足を伸ばした瞬間を狙った。

死に物狂いで突進する。

"魔王"が身構えるが、かまわず体当たりした。


死神がわずかによろめいた。

顎を狙って拳を振った。

見切られていたようにかわされる。

ハルはバランスを崩して、リビングの床まで転がった。


「・・・終わりか?」


"魔王"は床に倒れたハルを、上から死人を見るような目で見つめていた。


これまでの"魔王"とは何かが違う。

遊んでいるのでも、弄んでいるのでもない。

もっと、凶悪で深遠な謀を秘めているようだった。


額から汗が噴き出す。

恐怖に震える手を握り締めた。


――仇が、いる!


自分の手で、殺しそこなった母の仇が、再び現れた。

天がくれたチャンスではないか。


ハルは立ち上がった。

憎悪を爆発させて、"魔王"の輝きのない双眸(そうぼう)を見据えた。


たとえ、刺し違えてでも――。


ハルは身構え、全身に力をみなぎらせた。


瞬間、一発の銃声が響いた。


"魔王"が身を悶えさせる。

肩口に命中したようだ。

血が飛び出て、スーツを濡らす。

撃った方向を見た。

京介が銃を構えていた。


続けざまにもう一発撃つ。


今度は当たらなかった。

"魔王"はうめき声もあげず、猛然と京介に突進していった。

 

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「"魔王"・・・!!!」


躊躇なく引き金を引いた。

しかし、たった数メートル先の標的にも弾は逸れていく。

"魔王"の腕が懐に伸びる。

黒い鉄の塊・・・拳銃を抜いた。

しかし、どういうわけかその場に投げ捨てた。

 

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「どけっ!」


腹に一撃を受けた。

体がくの字に折れる。

膝を突く前に、もう一度銃を振り上げる。

が、あっさりと手首をひねられた。

拳銃が床に転がった。

"魔王"は、おれを蹴り飛ばし、玄関へ走っていった。

 

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「京介くん・・・!」
「ハル・・・無事か?」
「わたしは、だいじょうぶです」
「おれも、へ、平気だ・・・」


折れそうになった膝をなんとか伸ばす。


「追いましょう!」
「あ、おい・・・!」


ハルはおれの脇をすり抜けて、外に飛び出した。


「待て!」


危険すぎる!


「警察を、せめて、園山組を呼び出すまで待て・・・!


手探りで床に落ちた拳銃を探す。


ない。


ハルが持っていったのか!


おれは"魔王"の落とした一丁の拳銃を拾い、ハルのあとを追った。

 

・・・・・・。

 


・・・それにしても妙だ。


"魔王"はなぜ、逃げたのか。

拳銃を抜いただけで、撃っては来なかった。

ハルを殺しに来たのではないのか。


・・・なぜだ・・・そしてどこへ逃亡するというのか。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

後ろから、しっかりと宇佐美の靴音が響いていた。


「・・・っ・・・」


肩をかすめた一発が、響いている。


「くっ・・・」


思惑通り、宇佐美はおれを追ってきている。


・・・足がふらつく。


もっと、人通りの多いところまで出るつもりだったが・・・そううまくことは運ばないか・・・。


さあ、京介よ・・・これが、最後の試練だ。


お前も地獄を味わえ。


おれは、会心などしない。


弟への情など・・・いや、情があるからこそ、このまま京介を赦すわけにはいかないのだ。


左手に、小さな公園があった。


遊具はなく、小さな砂場があるだけ。


"魔王"が最後をかざるには、ふさわしい遊び場だ。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 


宇佐美ハルを突き動かすもの。

それは、復讐心であり、ある種の強迫観念でもあった。

 

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"魔王"と聞くだけで、あのときの光景が蘇る。

銃声と悲鳴。

ちぎれた腕とはみでた内臓。

悪夢は加速する。

殺さなければ殺される。

だから、ハルは"魔王"を追う。

京介が落とした拳銃を片手に、発砲の経験など皆無にもかかわらず。


脳裏に"魔王"の声が蘇る。


「母は、最期までお前のことを案じていた。
娘だけは助けてくださいと、何度も頭を下げた」


"魔王"はハルを煽り、弄んだ。


「お前もそうだ、宇佐美ハル。 やっと私にめぐりあえた。 お前はただの死に損ない。
お前に必要なのは、愛でも友情でもなく、敵であり悪であり、そう仮託できる思い込みだ」


長い戦いのなか、"魔王"は勇者に呪いをかけていった。


「だから、ヴァイオリンも捨てたのだろう?」


まったく、悪魔は人の心の弱さにつけるのが上手い。

ハルはすでに、自制を失っていた。


・・・。

 

 

 

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決めていた。

もはや、誰の声も届かない。

追い詰めて、ためらいなく殺す。

だが、どうやって・・・?


すでに、ハルは、自分が拳銃を握っていることすら自覚していなかった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

 

 

ハルと"魔王"を駆け足で追う。

あたりは閑静な住宅街。

不意に、前方を走るハルが、左に曲がった。

あそこはたしか・・・小さな公園があったはずだ。


だが・・・。


おれは、怯みそうになった。

ハルが道を逸れたとき、その横顔が見えた。

いつものうすら馬鹿のハルは、そこにはいなかった。

見たこともない恐ろしい表情で、獲物を狙っていた。

まるで、どこぞの神話か民謡を思い出す。

悪魔を追い詰めた勇者が、やがて悪に染まる・・・。


「そうか・・・」


おれは、そのとき、"魔王"の真の狙いに気づいた。

なんと壮大で、深いたくらみか。

頭を抱えたくなるのをこらえる。


・・・終わりだ。


ああ・・・。


思わず、空を見上げてしまった。


・・・。

 

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空に神様はいないと知りながらも、なぜ、おれは見上げてしまうのか。

これから、起こる出来事を想像し、思わず天を仰いでいる。


ハル・・・。


すまなかった。


復讐の連鎖を断ち切ったと思っていたのは、おれだけだったんだな。


業を終えたと思ったのは、おれだけだったんだな。


せめてもう少し、時があれば、わかりあえたかもしれない。


もっと、話をしていれば・・・。


――どうした、京介。


誰かが、ふと、耳元でささやいた。


頭上から拳を振り下ろされた気分だった。


おれに、そんな真似をするのは、あの怪物しかいない。


・・・・・・。

 

 

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おれをかばい、死んでいったあの男しか・・・。


ああ、わかったよ。


おれも、あんたを見習うとしよう。


長いつきあいだからな。


――そうか。


怪物は、ニタリと笑った。


おれは、いつまでも、あんたの息子なんだろうな・・・。


・・・。


おれは銃の安全装置を外し、迷うことなく公園まで駆け抜けた。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「・・・どうした、宇佐美?」


おれは公園の中央に立つ大木の幹によりかかり、宇佐美の接近を待った。

宇佐美は、肩で息をしていた。

目つきが異常だった。

まさしく、おれの望んだ"魔王"そのものに変貌していた。


「さあ・・・」


見たところ安全装置は解除されている。

ちゃんと両手で構えている。

あとは、引き金を引くだけだ。

この距離ではどんな素人でも、まず、外しようがない。

あたりに人気はないか・・・しかし、銃声を聞けば、近所から人が飛び出してくるだろう。

宇佐美の拳銃を持つ手が震える。

逡巡に溺れているわけではない。

ようやく悪夢から解放される喜びに、心底安堵しているのだ。

その指が、引き金にかかった。


死ね――――!


髪を振り乱し、絶叫した。


その瞬間、宇佐美の後方から滑り込んでくる影があった。


・・・いいぞ。


もともと、宇佐美の腕を押さえるようなタイミングを京介に与えるつもりは決してなかった。


乾いた音が連続する。


腹に一発。


焼けるような痛みが広がる。


・・・そうか、こうなったか。


あの拳銃は素人でもわりと的に当てやすい。


撃たれた衝撃に目を細めながらもしっかりと見た。


背後からの銃声に驚いた宇佐美。

 

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落雷に打たれたかのように、その場に崩れ落ちた。


目が、かすむ・・・。


だが、これでもいい・・・むしろ・・・。


――我が謀は、成れり・・・。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「"魔王"・・・」


ありったけの弾を撃ちまくって、"魔王"のそばに近づいた。

公園の土のうえに崩れ落ちたハルがいた。

すぐさま、物騒な拳銃を奪い、懐にしまった。

周囲の閑静な住宅地から、悲鳴が上がっていた。

警察を呼ぶ声がある。

おれを指差している中年の男がいた。

そんな光景を、満足げに眺める男が目の前にいた。


「・・・京介・・・よく、やった・・・」


おれには、なぜ"魔王"が自ら死にに来たのかわかっていた。

理由は一つしかない。


「父さんは・・・鮫島利勝は、亡くなったんだな?」


"魔王"は、ゆっくりとうなずいた。


「父は、心臓の持病を持っていた・・・知っているか?」


おれは、首を横に振った。


「だろうな・・・だからお前は・・・救われんのだ・・・」


いまにも閉じそうな目に、再び憎悪が募った。


「あんたは、予想してたんだな。
いや、最悪の事態を想定していたというべきか」
「・・・・・・」
「父さんを釈放させたまではいい。
しかし、父さんはもう歳だ。 長い船旅に耐えられるだろうかという懸念があった」
「不安は現実となった。 そう、私が殺したようなものだ」
「父さんには会えたのか?」
「いいや・・・遅かった」


背負いきれぬ悲しみをなお背負い、"魔王"は続けた。


「地獄でいくらでも父にわびよう・・・だが、あれで良かったとも私は考える・・・不当な判決を下したこの国に殺されるよりも・・・せめて最期に希望を持たせてやれればと・・・私はテロを断行した」
「そして、一方で、ハルを煽り立て続けた・・・」


かすかに笑った。


「ハル、か・・・」


笑いは、若干の吐血を招いた。


かまわず、言った。


「京介よ・・・なぜ、母のそばにいてやらなかった?」
「・・・・・・」
「私は、言ったはずだ。 母を頼んだと」
「・・・・・・」
「なぜ、あの借金取りの養子になどなった?」


答えようがなかった。


・・・極貧生活を脱出して母を迎えに行くため。


・・・浅井権三すら凌駕する金持ちになって一家を罵った連中を見返してやるため。


どんな答えも、鮫島恭平の前ではいいわけにしかならない。


「金、か・・・金、だろうな・・・金はいつでも戦いを招く・・・金は意志を持つ・・・戦争も、そうだった・・・」


ごほっと咳き込んだ。


「だが、金の奴隷になるような弱い人間が、私は、大嫌いでな・・・」


わかっている。


だからこそ、"魔王"はおれに引き金を引かせたのだ。


「あまつさえお前は、にっくき宇佐美の娘と恋をした・・・」


許せなくて、当然だ。


おれたちの幸せを許すには、仏のような度量がいるだろう。


「強くあれ、京介・・・お前は、償うべきだ・・・わかっているようだがな・・・」


だからこそ、おれも引き金を引いた。


「そこの少女は、お前と違って、柔軟ではなかったようだ・・・せいぜい目を覚まさせてやるんだな・・・復讐に意味はないと・・・」


自嘲の笑み。


「・・・くっ、ふっ・・・まさに、浅井権三の、言うとおりだったか・・・」


復讐に救いを求める愚か者の笑みだった。


「京介・・・っ・・・私を撃ち殺したお前がどうなるか、わかっているな?」


おれは、うなずいた。


「そうか・・・ならば、私を憎むがいい。 憎悪は、人を・・・」


いいかけて、己の失言を恥じるようにうつむいた。


「いや、愛も、また・・・」


・・・。

 

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なにか言いかけたまま、動かなくなった。


物言わぬ肉の塊に、雪が降り積もる。


同情はしない。


涙もでない。


"魔王"は、最期の最期まで、"魔王"だった。


邪悪で、卑劣で、狡猾な策を完遂し、逝った。


ふと、彼がクラシックを聞かないことを思い出した。


なぜか、そんなことだけが、悲しかった。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

だが、悲しみに暮れている時間はない。


「ハルっ・・・」


呼びかけても、意識を取り戻す気配がなかった。

こんなところで寝かせていては、カゼを引いてしまうだろう。

おれはハルを抱え自宅に向かった。

道行く人が、おれを指差す。

銃口をハルに向け、さも人質にしているような態度を取った。

 

・・・。

 

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暗い部屋。

ハルをベッドに寝かせ、おれは一人、考えをまとめていた。

視線の先には、ヴァイオリンケース。

ハルの母の形見だ。

もう一度、聞いてみたかったが・・・かなわぬ夢か。


夢・・・。


ヴァイオリニストという華やかな夢。


かなえさせてやらねば。


そばにいて、その夢を支えてやることもできないか・・・。


いや、むしろ、邪魔になる。


ハルは、いまでも、三島春奈というアーティストなのだ。


引退したというようなことを言っていたが、本心では続けていたいに決まっている。


つまり、おれがそばにいれば、マスコミの格好の餌食になるということだ。


彼らの恐ろしさは、おれも幼少のころ、身をもって知った。


だから、目立つのは嫌いだった。


いや、これからは、いやでも目立つことになるわけだが・・・。


すまない、ハル・・・。


もう一度、弾けるようにしてやると決意したおれなのに・・・。


もう、そばにはいてやれない。


――おれは、殺人を犯したのだから。

 

「んっ・・・」


パトカーのサイレンに目を覚ましたようだ。


おれはテラスに出て、携帯を駆使した。


・・・・・・。

 

「あー、ミキちゃんか・・・うん、お久しぶり・・・頼みがある。
うんうん、お願いするよ・・・最後の頼みなんだ。
ああ、椿姫って女がいるんだが・・・」


・・・。


「どうも、堀部さん。 申し訳ない、父の葬儀には行けなくなりました。
まあ、詳しい事情はニュースでも見ていてください。
それで、まあ、ちょっとお願いが・・・」


・・・。


ややあって、テラスの窓が開く音が聞こえた。

 

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「京介くん・・・?」
「やっと起きたか」


おれは努めて、冷たい声を出した。


「な、なにがあったんです?」


・・・よく覚えていないのか。


これは、幸いだ。


「もうすぐ、警察が来る」
「えっ!?」
「おれは人を殺した」


ハルがたじろぐ。


「ひ、人って・・・"魔王"、ですよね?」
「そうだ。 おれは出頭する」
「そんなっ!!!」


悲鳴と同時に、飛びついてきた。

 

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「ま、待って! 待ってください!」


必死に、しがみついていた。


「おかしいじゃないですか!」


溢れる涙を隠そうともしない。


「だ、だって、あれは、正当防衛じゃ・・・!?」
「馬鹿を言うな」


冷たく言った。


「ヤツは丸腰だった。 おれはいつでも警察を呼べた。
なのに、逃げるヤツをわざわざ追いかけて、撃った。 どこが正当防衛だ」


さらに、おれは銃を不法に所持していた。

これも、いつでも手放す機会があった。

ほぼ、間違いなく殺人。

それも兄弟を殺したのだから、罪は重い。


「で、でもっ、"魔王"は、極悪人で、死刑になって当然なんですよ!」
「それとこれとは話が別だ」


ハルがわかりきっていることで泣き喚いているのは、自分のせいだと思っているからだろう。


「そんな・・・だって・・・こんな、こんなことって・・・」


混乱し、あえいでいる。


「ご、ごめん、ごめん、なさいっ! わたしも、わたしも罰を受けます!」


おれは腹に力を込めて言った。


「何を言っている、宇佐美」


苗字を呼ばれて、不意に我に返ったようだ。


「お前がなにをした?」
「わたしが、わたしのせいで、京介くんが、引き金を引いたんです!」
「・・・・・・」
「わたしを止めるには、もう、間に合わないと思ったから、京介くんが撃ったんです!」
「・・・・・・」
「き、気づくべきだったんです! 罠だったんです!
あんな人目のつくような公園に逃げ込んで、さも力尽きたように木の幹によりかかるなんておかしいんです!」


ハルの言うとおり、"魔王"の計画は完璧だった。

ハルを誘い、おれにとって絶望的なタイミングを見計らっていたのだろう。

止める術は、おれが引き金を引く以外になかった。

"魔王"は、最初から、おれかハルを殺人犯に仕立て上げるつもりだったのだ。

おれは、ハルを殺人犯にするわけにはいかなかった。

こいつには、将来があるのだ。

ヴァイオリニストとしての、輝かしい未来が。


「わけがわからんな。 お前は、なにもしていなかったが?」
「わ、わたしは・・・銃を・・・あ、あれ・・・?」


記憶が曖昧なのだろう。


「銃だって? 別にお前は銃なんて持っていなかったが?」


説き伏せねば。


「・・・そんなはずは・・・」


道すがら、誰とも出くわさなかった。

ハルが拳銃を所持して"魔王"を追い掛け回していたところを目撃した者は、おそらくいない。


「で、でも、そんなはずは・・・!」
「お前は、なにもしていない。 いいな?」
「い、いやだ!」
「頼むからおれの言うことを聞け!」


目に力を込めた。


「や、やだ! いやだ! いやだ!」


駄々っ子のようにわめき散らす。


「す、好きなんだよ!」


・・・すまん。


「大好きなんだよ、ずっとずっと、好きだったんだよ!」


すまなかった。


「いっしょに、いっしょにぃ、いたいんだよっ・・・。
なんで、なんで? や、やっと、やっと、そばに・・・。
幸せに、二人っきりで、暮らせると思ったのにぃっ!
そばに、いられると、思ったのにぃっ!」


涙がこみ上げる。

が、流すものか。

ここで、泣き、ハルを強く抱きしめてはならない。

情に流されれば、足が止まる。


「そうか・・・おれのことを、そんなに・・・」
「うんっ、うんっ!」


不意に、

 

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――恋人とか、いるの?


――勇者はおませさんなんだね。 女の子のほうがそういうの興味あるって父さんが言ってた。


――いいから、いるの、いないの?


――いないよ。 そういうのは考えたこともなかったなあ。


――しょうがないわね、なら、わたしが結婚してあげるわよ。 また会えたらね。 覚えていたらでいいから。 わたし、これから引っ越すの。 運命の再会っていうのかな。 ロマンチックじゃない?


――引っ越す?


――そう。


――なんで?

 

『ヴァイオリンの勉強するの』

 

別れを告げる少女の泣き顔が、昨日のことのように思えた。


おれは、だから・・・。


だからこそ・・・。

 

・・・。

 

 

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突き放した。


「あ・・・」


置き去りにされた子供のような顔に背を向けた。


「そんなに好きなら、この先どうすればいいかわかるな?」
「え?」
「どうすれば、おれが一番喜ぶか、わかるな?」
「あ・・・や・・・」


わかるはずだ・・・この子は頭がいい。


「や、やだ・・・」


かすれた声で、おれを呼ぶ。


「いかないで・・・」


足を踏み出した。


おれたちは出会い、別れ、その繰り返しだ。


残酷なときの流れが、おれから思い出を奪い去った。


再び巡りあったとき、少女は大きく成長していた。


そして、もう一度、別れ。


「・・・京介・・・くん・・・お願い・・・」


今度は、もう会えない。


「もう少し、せめて、もう少しだけでも・・・!」


再会は、二度と、許されない。


・・・。

 

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「お願い、お願い、しますっ・・・!!!
神様! 助けてっ・・・彼を、助けてください! なにも、なにも悪くないんです!
京介くんは、なにもっ、なにもっ――――!」


嗚咽交じりに、泣きじゃくっていた。


少女の震える肩に、雪が落ち、あっという間に消えていく。


神様、神様、と祈り捧げるハルが、白い雪をまとって輝いていく。


善良な少女だった。


神様も、こんな美しい少女の祈りなら、聞き届けてくれるのかもしれないな・・・。


だが、なにも悪くないなんてことはない。


おれは大なり小なり罪を犯している。


椿姫や花音を筆頭に、大勢の人間を欺いて生きてきた。


母も、父も、兄も救えなかった。


"魔王"が命を懸けて残した最後の試練、受けてたとうじゃないか――。


「・・・京介くんっ・・・!!!」

 

・・・・・・。

 

 

すでに、マンションの前には、数台のパトカーが入り口を囲むように停車していた。

おれは両手を上げて投降の意志を伝えた。

二丁の拳銃も警察官の目に見えるような位置に置いた。

そのほか、あらゆる準備を済ましておいた。

二月十四日夜、おれは警察官に手錠をかけられることになった。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

 

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それから三日たった。

おれは、警察署内で連日、休む間もなく取り調べを受けた。

先日の封鎖事件の主犯格を殺害したと思しき男として、警察はおれを徹底的に調べ上げるつもりのようだった。

一度、自宅のマンションに連れられ、様々な写真を撮られた。

"魔王"を殺害した現場や、拳銃にもフラッシュが飛ぶ。

手錠をされ、腰紐をまかれ、おれは警察署の裏手にあった留置所に入った。

財布や携帯など持ち物は全て、警察に預け入れられた。

指紋をとられ、服を脱がされたあとは身体測定が始まる。

ベルトや靴紐などは取られて、40と銘打たれた指定のサンダルに履き替えさせられた。

居房に入って、鉄格子と金網のかかった窓を見上げると、不安が募った。

逮捕されてすぐに、弁護士に知り合いはいるかと聞かれていた。

いるにはいるが、権三の後ろ盾のなくなったおれに快く手を貸してくれるとは思えなかった。

けっきょく、警察が紹介してくれた当番さんとやらに任せることにした。

目に力のない疲れた初老の弁護士だった。

ぼそぼそとしゃべる口からは、やる気は伝わってこなかった。

その後、検事に会って、黙秘権だの弁護士を雇う権利だのを聞かされたあと、さらに留置所生活が続く。

取調べはいきなり厳しくなった。

何度も同じ質問を繰り返され、何度も似たような書類に指を押した。

どうも、刑事のなかでも、捜査一課の課長がじきじきにおれを取調べているようだった。

笑みを絶やさない中年の男だったが、まなざしは常に鋭かった。


「だいたいわかったよ・・・じゃあ、もう一回聞くがね・・・」


本当に、もう何度目かわからなかった。


「浅井京介くん・・・きみは」
「浅井ではありません。 鮫島です。 先日役所で離縁の手続きをしましたから」
「失礼、聞いていたね。
では、鮫島くんに聞こう。 君は、先の広域封鎖事件の主犯と目される "魔王"の弟だという」
「はい・・・疑いようがありません」
「ふむ、それについては我々も目下調べを進めている。
だが、そうすると、君は兄を殺したということになるね?」
「ですから、何度もそう言っているじゃありませんか」


刑事は机を何度か指でコツコツと叩いた。


「殺人事件の経緯はこうだ。
君が自宅に戻ると、兄が少女に暴行していた。 少女の名前は宇佐美ハルだったね?」
「・・・はい」


わずかに、動揺が走ったのを刑事は見逃さなかった。


「安心していい。 少女は未成年だ。 なにかあっても、世間に実名が公表されるようなことはない」


・・・しかし、少女Aなどと、煽り立てられることになる。


「続きをどうぞ」


老練な警察官とやりとりするには、胆力が必要だった。


「同棲していたのかい?」


嘘など通じまい。


「はい」
「だろうね。 あの日はバレンタインデー。 手作りチョコレートのあとが、床にこびりついていたよ」
「ええ、ですから、続きをどうぞ」


・・・なんだ?


狙いがわからなかった。


それとも、ただ、動揺を誘っているだけだろうか。


「少女の危険を察した君は、所持していた拳銃で躊躇なく兄を撃った。
ちなみに、拳銃は、どこで入手したんだい?」
「ですから、封鎖事件のときに・・・」
「そうだった。 だが、君はそれを、いつでも手放すことができた。
なぜ、警察に届け出るなりしなかったんだ?」
「知り合いのヤクザに売り飛ばすつもりでした」
「つい、忘れていたのでもなく?」
「はい。 先に話したとおり、セントラル街では、おれもいろいろとやったので、警察に関わるのが怖かったのです」


嘘はついていない。


刑事は深くうなずいた。


「君がセントラル街で行ったことが罪にあたるかどうかは、また後日、別の者が取調べを担当する。 さて、話を戻そう」
「はい」
「君の兄は、発泡にひるんだのか、マンションから逃亡をはかったという。
殺人鬼が逃走したのは、現場の指紋、血痕、足跡などから我々も確証を得ている」
「そうですか」
「けれど、君はそれを追いかけた」
「・・・・・・」
「なぜかな?」
「とっさのことだったので、よく覚えていませんが・・・」
「慌てていたと?」
「はい」
「慌てながら、自宅から百メートル先の公園まで追いかけ、木の幹によりかかっていた兄に向け、無我夢中で銃を撃ちまくった」
「はい」
「たしかに気持ちは察する。
君の兄は、稀有な凶悪犯だ。 殺さなければ殺されると思った君は、とても冷静ではいられなかった。
となると、検察官の対応も変わってくる。 言っている意味がわかるかな?」
「はい」


・・・たとえ殺人にしても、おれの精神がまともじゃなかったとすれば、罪は軽くなるだろうという話だ。

わずかに、希望が見えた。

が、刑事の目つきが変わった。


「すると、不信な点がある」


・・・なんだ?


「君は二丁の拳銃を所持していた」
「それが、なにか?」
「一丁は、殺人鬼が落としていったというね」
「はい・・・」
「たしかに、疑いはないようだ。
遺体から検出した指紋と、拳銃に付着していた指紋が一致している」
「ですから、それがどうしました?」
「わからないかな。 君は、拳銃を持ち替えているんだ」


はっとした表情が、表に出ていないことを祈る。


「君は自室で撃った拳銃を手放し、わざわざ兄が落とした拳銃を拾って外に飛び出した」
「・・・・・・」
「なぜかな? 君はほとんど錯乱していたんだろう? よくそんな余裕があったもんだ」
「・・・さあ、よく覚えていませんが・・・」
「君が自室で使用した拳銃には、すでに実弾が入っていなかった。
君はそれを知っていて、新しい銃に持ち替えたんじゃないのかな?」


そうか・・・ハルが持ち出した拳銃には、もう弾は、入っていなかったのか。


・・・どう答えていいのかわからなかった。


認めれば、おれの精神がまともだったという判断材料になるのだろう。


しかし、刑事の次の言葉がおれを凍りつかせた。


「事件の参考人として、君の彼女に事情を聞いた。 すると興味深い話が出てきた」
「・・・・・・」
「殺人鬼を追って部屋を飛び出したのは、自分だと、少女は言っている」


どんな言い訳も思いつかなかった。


「京介くんは、彼女のあとを追って、部屋を出てきたらしいが、どうなんだ?」
「・・・そうだったかもしれませんが、それが、なんです?」
「ここで、一つ、仮説を話そう。
君は、無謀にも殺人鬼を追いかける彼女を引き止めるべく、あとを追いかけた」
「・・・・・・」
「公園にたどりついた君は、殺人鬼と彼女が対峙している姿を発見した。
彼女の身の危険を察した君が、背後から駆け寄り、殺人鬼を撃ち殺した」


刑事は誘っている。


おれは、はい、そうです、と罠にかかるのを誘っている。


「しかしだ。 近所の住民の証言がある。
公園から『死ね』という女性の絶叫が聞こえたという」


・・・これまで、か。


やっぱり、警察を欺くなんて無理だったのか。


「君の彼女が叫んだのか、本人に聞いてみたが、覚えていないという答えが返ってきた。
なかなか正直で理知的な子だね。
まず嘘はついていないと思うのだが、状況から考えるに『死ね』と叫んだのは彼女以外にありえない」


手がこわばり、呼吸が浅くなった。


「すると、彼女には殺意があったと推測される。
君の兄は、その段階では、武器を所持していなかった。
さらに、君は言ったな。 兄は木の幹にもたれかかって、観念した様子だったと」
「・・・・・・」
「つまり、彼女の身に、危険は迫っていなかった。 先ほどの仮説は否定される。
彼女は兄を殺すつもりだった。 そして・・・」


おれの心臓は、いまにも耳から出そうだった。


「おそらく、彼女は、拳銃を所持していた」


めまいすら覚えた。


「彼女は、床に落ちた拳銃を拾ったかどうかは、よく覚えていないと言うが・・・」


がたがたと膝が震える。


「実際には、拳銃から彼女の指紋が検出された」


おれはなんとうい愚か者か!


なぜ、なぜ、指紋のことを考えなかった!


これでは、ハルが・・・罪に問われてしまう!


「が、指紋はあったものの、彼女が発砲した形跡はない。 拳銃はすでに弾がなかった。
殺意があったにしては、やや間抜けをいわざるを得ない。
彼女がそれだけ、錯乱していたとも受け取れる」


ああ、どうすればいいんだ・・・!?


「いずれにしても、拳銃を握り締め、逃げる敵を追い掛け回し、止めを刺そうとしたのなら、彼女を引っ張らななければならない・・・ああ、逮捕するという意味だよ」
「・・・なんの罪で?」


少し考えるようにして言った。


「目立つ容疑は銃刀法違反。
同棲していたのだから、君の部屋に拳銃があったと彼女も知っていただろう。
いくらでも捨てる機会はあったはずだ」


違う!


ハルは、知らなかった。


これも、浅はかなおれが招いた結果か!


「そのほか、過剰防衛・・・いや、殺人未遂に当たるか・・・詳しく状況を調べてみなければはっきりしないがね」


殺人未遂・・・!?


背筋を嫌な汗がつたう。


「さて、今の話を踏まえて、もう一度、君の供述を聞きたい」


どうする・・・どうすれば・・・!?


「どうした?」


やはり、無理だ。


ハルが、逮捕されてしまう。


ハルが撃ち殺したわけではないし、ハルは完全に錯乱していた。


だから、重い罪に問われることはないとは思う・・・。


でも、拳銃を持ち出した。


少女には未来がある。


前科者のヴァイオリニストの演奏など、誰が聞くというのか。


ハルの"魔王"に対するトラウマなど、誰もわかってくれないだろう。


マスコミは煽り立てる。


ハルの表面だけを見て、足をすくおうとする。


・・・ああ、拳銃なんてとっとと捨てておけばよかった。


・・・いや、"魔王"が拳銃をわざと落としていった以上、結果は変わらなかったのか・・・。


「どうしたんだ、急に黙りだして」


考えろ・・・。


唇を噛み締め、パニックに陥った頭に血をめぐらしていった。


負けるものか。


これは、兄の残した最後の罠。


「さあ、最初から、自供したまえ」


おい、と背後に立つもう一人の大柄な刑事が身を乗り出してきた。

それを、手で制止する目の前の刑事。


「君の自白は、裁判でも大きな証拠になるんだよ?」


・・・自白!?


なにかの本で読んだが、日本の裁判では犯人の自白ほど強力なものはないらしい。


いったん自白を認める供述書にサインをしたら、たとえ無実でも有罪になるとか・・・。


だが、現実はわからない。


わからない、が・・・。


――やるしかない。

 

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「まあ、つまりこういうことですよ、刑事さん・・・」


おれは突如、笑い出した。


「・・・まったく、あの女は使えない」
「あの女・・・彼女のことか?」


刑事の目が厳しくなった。


「おれがセントラル街から持ち出した拳銃にあの女の指紋がついているのはね、おれが握らせたからなんですよ」
「握らせた・・・」


刑事は首をふった。


「そんな話は、彼女から聞いていないが?」
「はっ、そりゃそうでしょう。
夜中に寝ているすきに、こっそりつかませたんだから」


心を、凍りつかせた。


「それが証拠に、あの女は、おれが拳銃を持っていることすら気づいていない」


・・・これは、事実だ。

裏を取られても問題はない。


「興味深い話が出たな。
それで、拳銃を握らせてどうするつもりだったんだ?」
「もちろん、"魔王"を、鮫島恭平を殺させるんですよ。
あの女は、常日頃から、"魔王"を恐れてましてね。
機会さえあれば、殺すんじゃないかと思ってました」
「ほう、君はなぜ、恭平を殺すつもりだったんだ?」
「少しは考えてくださいよ。 ヤクザの世界には仇討ちってのがあるんですよ」
「恭平が、君の元養父、浅井権三を殺したからか?」
「そう・・・権三は、おれの崇拝する男でした。
誰よりも強く、金に貪欲で、恐れを知らない。 まさに、理想の悪漢でした」


これも、いまとなっては嘘はない。


「だが、"魔王"を殺しておれがムショに入るなんて、なんだか割に合わないじゃないですか。
本当なら、ヤツが、自宅に来たときに殺しておきたかったんですがね・・・」
「たしかに、恭平が部屋に踏み込んできた時点では、正当防衛で裁判を争えただろう」
「だから、おれはあの女をけしかけたわけです。
だが、知っての通り、おれの拳銃にはすでに実弾が入っていなかった」


ここが、最大の難関だろう。

目撃者させいなければ・・・!

ハルが拳銃を所持していたことさえわからなければ!

ハルが、拳銃を持って公園までたどりついたとき、おれの知る限り、通りには誰もいなかった。

駆けつけたおれは、すぐにハルから拳銃を奪った。


頼む!


誰も、見ていないでくれ!


「あの女は、思惑どおり、恭平を追いかけて行きました。
殴るなりなんなりして殺してくれればよかったものを、怖気づいたのか、その場で気絶しやがったんです」
「つまり、少女は、そのとき・・・いや、一度も、自ら拳銃に触れてはいないと?」


言いながら、刑事は後ろの人間になにか指示を飛ばした。

裏づけを取りに、現場を捜索させるのだろう。


「まあ、そういうことになりますかねえ。
まったく、弾さえ入っていれば、拳銃を渡してやったものを」
「しかし、君にはもう一丁の拳銃があった。
それを、なぜ、狂乱する少女に手渡さなかった?」
「あの女は、おれの制止も聞かずに走り出しましてね・・・」


これも、事実。


「追いついたときには、すでに気絶してました・・・まったく、役立たずですよ、あいつは」


そのとき、後ろの大柄な刑事が、目を剥いた。


――この野郎!


ヤクザに勝るとも劣らない眼光で、おれをにらみつける。


おれも、ひるむわけにはいかなかった。


「少し、待て・・・」


刑事の目が、鋭く光った。


「なるほど・・・君はたしかに、浅井興行の影役として、生意気なことをしていたようだね。
泣かされた企業も多いと聞く」
「それが、なんですか?」
「では、聞くが、"魔王"が生きていたことをどうして知っていた?」


おれはとっさに頭脳をフル回転させ、刑事の思惑を推察した。


つまり、火だるまになったはずの"魔王"が生きていたことを、そもそもおれが知らなければ、ハルに拳銃を握らせておく意味がわからなかったのだ。


なぜなら、おれは、ハルに"魔王"を殺させるつもりだったのだから。


けれど、堀部に聞いたというのではまずい。


堀部から電話がかかってきた段階で、"魔王"の生存を知ったのであれば、ハルに拳銃を握らせておく余裕はなかったと突っ込まれる。


「無能な警察は見逃したようですが、おれは、見ていたんですよ。
バスが燃えるときに、脱出する"魔王"の姿をね」


あの大混乱のなか、おれたちが必要以上にバスに近づいていたことは、調べればわかるだろう。


「だが、あの混雑では見失ってしまった。
だから、おれは再度の復讐の機会を狙い、あの女に拳銃を握らせておいたというわけです」


刑事の顔が、徐々に憤怒に歪んでいく。


「あの女、あの女というが・・・少女はお前のことを心から愛しているようだったぞ?」


胸を突かれる思いだった。


鈍く重い痛みが全身を駆け巡る。


「お前を信じて、お前の帰りを待ち、慣れない手つきでチョコレートを作っていたんだぞ?」


ひきつりそうになった口元を、無理やり吊り上げた。


「そうですか・・・そんなに・・・はは、こりゃ傑作だ。
おれもジゴロの才能があるのかな」


胸が張り裂けそうだった。


「多少頭は回りますが、恋愛に関しては初めてでしてね、ヤツは・・・」


いやだった。


少女をなじらなければならない自分が、嫌だった。


胸張り裂ける思いで、言葉をつないだ。


「おれにとっては金が全てなんですよ。
あんな金にならない女は、殺人に利用するくらいしか使い道がなかった」
「貴様・・・」
「はは・・・なにが、手作りチョコレ――」


痛い。


ハルの笑顔。


おれにプレゼントするのを楽しみにしていた、あのあどけない笑顔。


だが、しゃべらなければ!


心に修羅を宿す。


生けれども生けれども、道は氷河なり。


人の生に四季はなく、ただ、冬の荒野があるのみ。


流れ出た血と涙は、拭わずともいずれ凍りつく――。


「手作りチョコレートだなんて、くだらん・・・」


瞬間、目の前に風が起こった。

背後に控えていた大柄な刑事が、おれの胸倉をつかんでいた。


――このガキが!


そうだ・・・もっと怒れ。


冷静さを失って、事件の詳細を追おうとするな。


「おいおい、いてえなあ・・・弁護士にいいつけるぞ」


おれは、引きずりまわされた挙げ句、床に叩きつけられた。


「ぐっ・・・!」


いいぞ・・・そうやって、見え透いた悪に飛びついて来い。


この悪は、ただの悪ではない!


あとはハルだった。


必死に、おれの潔白を訴えるかもしれないが、刑事の目には、たぶらかされたウブな女としか映らないだろう。


もう、後戻りは出来ないのだ。


警察の科学捜査が、ベテラン刑事の勘が、おれの嘘を見破るかもしれない。


しかし、おれはこの証言をくつがえさない。


裁判になれば、どんな判決が出ようとも控訴はしない。


結審すれば、事件は終結する。


ハルは、頭がいい。


きっと、理解してくれるはずだ・・・。


理解して、ヴァイオリンを・・・!

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

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警察に厄介になって、十日ほど過ぎた。

おれはまだ、留置所にいた。

ハルが逮捕されたという話は聞かなかった。

何度か、差し入れが届いていた。

手紙もあった。

差出人は様々だった。

おれはその日、取調べの合間を縫って、接見を許された。

拒否することもできるようだが、念のため確認したいことがあった。

ミキちゃんが仕事を果たしてくれたかどうか・・・。


「浅井くん・・・」


おれは陰湿な笑みを浮かべて、椿姫を迎えた。

 

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接見時間は二十分らしい。

手短にしたかった。


「・・・浅井くん、嘘だよね?」


この善良な少女を前にすると、心が折れそうになる。


「おいおい、冗談でこんな場所に入れられるかよ」
「だって、信じられなくて・・・」


・・・また、それか。


信じるだのなんだのと・・・。


思えば、最初におれの冷たい心に火をつけたのはこの少女だった。


「・・・おれは人殺しだ」
「嘘だよ・・・なにか、理由があったんでしょう?」
「ああ、ヤツは、浅井権三を、おれの養父を殺したからな。
その仇討ちってやつだ。 かっこいいだろ?」


おれは薄く笑った。

笑みがぎこちなくならないよう、続けざまに言った。


「お前の弟が誘拐されたときのことだがな・・・」


椿姫の顔が歪む。


「いまだから教えてやるが、おれは、とっととお前たちに家を出て行って欲しかったのさ」


よほどのショックを受けたのだろう。


「おれは善意でお前たち家族に協力していたんじゃない。 すべて、金のためだ」


椿姫はがたがたと震えだし、やがて言った。


「・・・ちょっと前にね、おうちに小包が届いたの」
「・・・・・・」
「中身、なんだと思う?」
「・・・・・・」
「お金だよ。 五千万はあるって、お父さんが言ってた」
「・・・・・・」
「送ってくれたのは、"魔王"だって。
いままでの罪を反省してるって添え状があったの」
「ほう・・・そりゃ、良かったな」
「うん。 お父さんも、宏明もみんな喜んでた」
「そうかそうか。 いや、めでたいじゃないか。 これも日ごろの善行のたまものだな」


突如、少女の顔が曇った。



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「でも、わたしは素直に喜べないんだよ」
「なに?」
「だって、それは・・・そのお金は・・・きっと・・・」


涙に濡れた目でおれを見据えてくる。


「なんだよ、"魔王"が反省してるって言ってたんだろ。 椿姫のくせに、人を疑うなよ」
「わたしはあの事件で、少しだけ変わったんだよ」


・・・ああ、知ってるよ。


少しだけ、人間らしくなったってか。

 

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「いいんだよ、浅井くん・・・」
「あ?」
「わたしたち、お友達だよね?」


悲しみにわななく唇を無理に開いていた。


「・・・だからね、殺人犯のお友達でも、平気だから」


―――っ!!!


「今日もね、おうちに、どこかの雑誌の人が来たよ。
学園での浅井くんの様子を聞かれたよ。
わたしね、こう答えたんだ。
浅井くんは冷たそうだけど、本当はとってもいい人ですって!」


涙が、頬を伝い落ちた。


「だから、平気なんだよ・・・」


どこまでも、どこまでも、馬鹿な女だ・・・。


おれをかばうと、今後世間からどんな目で見られるか・・・そういうことがわかっていないのだ。


「はっ、なんだよ、お前・・・」
「・・・なあに?」
「まさか、お前、おれに気があったのか?」
「・・・っ」
「だったら、残念だったな。 おれはお前みたいな女が大嫌いでね」


椿姫は時を止めたように押し黙った。


「二度と来るな。 お前の顔なんて見たくもない」


おれは看守に接見の終わりを告げるべく首を振った。


「浅井くん、待って!」


すまない、椿姫・・・。


「待って! 待ってよおお――――っ!」


さようなら、家族と仲良くな・・・。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

留置所では手紙のやりとりは自由だ。

といっても検閲は入るが、封筒と便箋さえあれば外にも出せる。

おれには、ぜひとも、手紙を出したい相手がいた。


・・・。

 

 

========================


岩井裕也殿


お元気でしょうか。

ご存じの通り、私は殺人を犯し、現在起訴を待つ身となっています。

山王物産のビルではお世話になりました。

あなたの勇気と行動力のおかげで私は死をまぬがれたのです。

あなたにぜひ、お願いがあります。

宇佐美ハルの面倒を見ていただけないでしょうか。

あなたは、山王物産の社員で、お父上も亡き染谷専務の後釜といわれるほどの重役と聞き及んでいます。

あの日、屋上でも申し上げたかもしれませんが、私と宇佐美ハルは、別に交際しているわけでもないのです。

少なくとも私にその気はありません。

ただ、あれは身寄りのない哀れな女です。

外道の私にもいくばくかの情がないでもありません。

よろしければ、かわいがってやってください。

ぶしつけなお願いですが、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

                              鮫島京介


========================

 

 


・・・これでいい。

岩井のような勇敢な男なら、ハルを幸せにしてくれるだろう。

経済力もある。

ヴァイオリンを学ぶには金がいるからな。

おれは願いを込めるつもりで、看守に手紙を渡した。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

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・・・さらに数日後、また接見を求められた。

椿姫の泣き顔を思い出していたおれは、もう、薄ら笑いを浮かべる余裕はなかった。

本当なら絶対に会いたくはなかったのだが、もう二度来ないよう、きつく言っておかなければならない。

 

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「兄さん、だいじょーぶ?」


声は軽いが、表情は重かった。


「世界をまたにかけるトップアスリートがこんなところに何の用だ?」
「んー、かまってほしいから」


そんな、甘えたひと言が、留置所の外の世界を思い出させる。


「ねえ、兄さん、すごい人気者じゃない?」
「人気者?」
「だって、大魔王をやっつけたんでしょ? なんでこんなところにいるの?」
「さあな・・・」


本気で理解できないらしい。


「いま、テレビじゃどこもかしこも、兄さんのことやってる」
「へえ・・・」
「のんちゃんなんか目じゃないくらい人気者だよ」
「・・・そうか、用は、それだけか?」


・・・。


直後、花音がそれまで堪えていた涙を開放した。

 

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「みんな、兄さんの悪口言ってるんだよ・・・!」


くやしくて、くやしくて、と漏らした。


「・・・兄さんが、ヤクザだとか、兄さんのお父さんのこととか関係ないことまで持ち出して・・・!」
「事実だ」
「犯罪者の息子も犯罪者って!」
「そんなもんだ」
「だって、だって・・・兄さん、目立つの大嫌いじゃない!?」


おれを哀れみ、泣いていた。

ありがとう、と言いたかった。

けれど、看守も見ている前では、下手なことは言えない。

おれは、ハルを利用した薄汚い男として生き続けるしかない。


「一つだけ言っておくぞ、花音」
「え・・・?」
「おれはもう、お前の兄貴じゃない」


こんなときのために、離縁しておいて良かった。

 

「だから、もう、お前とは会わない」
「な、なんで・・・?」
「会いたくないからだ」


おれに関われば、人気フィギュアスケート選手としての花音の名声が落ちる。

離縁したとはいえ、これまで、兄妹だったのだ。


「もう来るな。 来てもおれは接見を拒否する」
「や、やだよ・・・!」
「わがままを言うな!!!」


大声を張り上げたとき、背後に控えていた看守がおれをとがめた。


「頼むから・・・もう、来るな・・・」


頭を下げた。


「お前は、陽の当たる道を行け。 大勢の観客に感動を与えるのがお前の役目だ」
「・・・にいさぁん・・・!」
「さあ、行け。 お前はこんなところにいてはいけない・・・」
「・・・いいの?」


ぽつりと言った。


「それで、兄さんは、いいの・・・?」


おれはうなずいた。

花音は、泣きじゃくる。

いつまでも、いつまでも、悲しみに震えていた。


・・・もっと、かまってやるべきだった。


この少女は、まだまだ不安定で、大人になりきっていなかった。


もし、違う人生があれば、そのときは支えてやりたいものだ。

 

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「わたし・・・っ・・・わたし、が、がんばる、よ・・・」


看守が、接見の終わりを告げた。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

花音が来たその日、手紙が届いた。

目を覆うような汚い字に、差出人が誰かわかった。

 


========================


京介ちゃんよお、やってくれたじゃないの。

なんつーの、オレクラスの鬼畜もんになるとよお、面会とかしゃらくさいわけよ。

あえていかないわけよ。

だって、オレの顔を見たら、お前はたぶん泣いちまうだろ?

こうなったら、おまえは裏の世界でトップになれよ。

オレは表の世界でのしあがるから。

あ、あとよ、ついにノリコをモノにしたぜ。

マジで。

いや、マジだって。

マジだからよ・・・早く、出てこいよ・・・。


========================

 

・・・最後のほうの文字が、妙に歪んでいた。

おバカなあいつにしては、つまらないギャグだった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

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すでにおれは、かなり参っていた。

連日に及ぶ取調べ。

留置所と地検を往復させられ、現場検証も数回行われた。

縄でつながれながら外に出るのは、正直、とても恥ずかしい。

あくまでおれの主観だが、どうやら、おれの自白を覆すような決定的な証拠は見つかっていないようだった。

もうそろそろ、規定の拘留期間が終わるはずだ。

そうすれば、少しは楽になると聞いた。


だが、まったく、堰を切ったように人が来る。

おれにとって、意外な女だ。

けれど、そいつが、一番手紙を出してきた。

わけがわからず、一度だけ会ってみることにした。

 

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「・・・浅井くん・・・」
「まさか、お前が来るとはな、白鳥・・・」
「来ちゃいけないの?」


口を尖らせていた。


「・・・まあいい、時田はどうなった?」
「いま、二人でアパートを借りて、一緒に暮らしてるわ」
「へえ・・・」


時田も、とくに、罪を問われるようなことはなかったみたいだな。


「わかった・・・で、何の用だ? お前はとくに、友達ってわけでもなかったはずだが?」
「・・・っ!」


そのひと言が、予想以上に、白鳥を傷つけたようだ。


「ね、姉さんから伝言・・・」
「うん・・・」
「『いったい、いつ、あなたにお金を払えばいいの?』って」


・・・金?

ああ・・・そういえば、立て籠もりの件で、そんなことを言ったな。


「おれが出て来るまで待て。 そして、必ず払えと伝えておけ」


白鳥は、ふてくされたような顔でうなずいた。


「あ、あと・・・」
「なんだ?」
「クラシックの鑑賞会・・・あ、ありがとう・・・」
「は?」
「つきあってくれて」


眉をひそめたそのとき、白鳥の体の芯が折れた。

 

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「あ、りがとう・・・助けてくれて・・・」


涙が目の前のアクリル板に飛んだ。


「あなたは、怖い人たちから、姉さんと私を、助けてくれた・・・」


・・・あの倉庫でのことか。


「ありが、とうって・・・」
「・・・・・・」

 

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「ず、ずっと言いたかった・・・」


顔を歪ませる白鳥の横顔に、胸が締めつけられた。


「い、いままで、言えなくて・・・ごめん」
「・・・・・・」
「わ、わたし、いつも、そうで・・・いつも、思ったこと言えなくて・・・」
「・・・・・・」

 

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「こんな、こんなことになるなんて・・・!」


後悔をかみ締めるように言った。

もしかすると、おれは、この少女とすれ違ったのかもしれない。

もっと、語り合えたのかもしれない。

だが、おれは、こいつを利用しようと考えていたのだ。

こいつだけではない。

椿姫も、花音も同じだ。

いまさら、間違えた過去に手が届くはずもない。


「話はわかった。 じゃあな・・・」
「・・・ま、待って、聞いてっ!」

涙に潤んだ瞳が、渾身の勇気に輝いた。


「あ、あのね、わ、わたし――――」

「看守」

「・・・あ、あなたのことが―――!!!」

「接見を終えます」

 

・・・。


おれは席を立った。

背後で、悲鳴のような声が聞こえた。

白鳥水羽の告白を受け止める余裕は、いまのおれにはなかった。


・・・・・・。

 


・・・。

 


二十一日目にしてついに、起訴となった。

刑事部長が読み上げる書面には、主に、殺人と銃刀法違反について書かれていた。

それから先は、停滞した時が流れた。

拘置所に入れられたおれは、その後、たんたんと裁判の経過を見守っていた。

全ての容疑を認めた上で、証言もはっきりしているせいか、はたまた弁護士のやる気がなかったせいか、法廷ではたいした争いはなかった。

手紙は、ばったりと来なくなった。

裁判の過程で、ハルの姿をひと目見られるかもしれないと期待した。

けれど、ハルは証人として出廷することもなかったようだ。

それはそれで、良かった。

拘置所内では、よく新聞や週刊誌を読んだ。

記事をくまなくチェックしたが、おれの事件でハルないし少女Aという名前は見当たらなかった。

一部の週刊誌周りは、堀部に、にらみを利かせてもらうよう、捕まる前に頼んでおいた。

それが功を奏したのだろうか。

堀部はなぜか、金回りも期待できないおれの言うことを聞いてくれていた。

拘置所の檻のなかでは、あまり四季を感じられなかった。

夏が来て、秋が来て、また冬が来る。

朝六時四十五分に起床とたたき起こされ、夜九時には消灯。

規則正しい毎日が続いた。

風呂には毎日入れてもらえなかったが、髪は切ってもらうことができた。

ほとんど坊主同然にされた。

あまりに似合わなさ過ぎて、ハルのことをバカにできなくなった。

ガンセン、タクサゲ、ネガイゴト・・・様々な専門用語を自然と身につけ、なにより挨拶が体になじんでいった。

暴力団の男、家庭内暴力の男、窃盗および放火の男、多種多様なアウトローと交流を持った。

飲酒運転で人を殺した男とは決して、口をきかなかったけれど・・・。

そして、事件発生から約一年後。

何度も訪れた地裁の法廷で、裁判長がいつもより険しい顔でおれを見下ろしていた。

判決が下る。

おれは、ただ、ハルを、想った。

けれど、それは、最期の想いだった。

これで、凍結される想い。

とある芸能雑誌の記事にあった。

三島春奈というアーティストが、再び活動を再開したという。

もう、思い残すことはなかった。


主文――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

 

 

 

 


「お世話になりました・・・」

 

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浅井京介は空を仰いだ。

黄金色に染まった二月の空。

八年前に見上げたのは濃灰色(のうかいしょく)の雲に覆われたうす曇の空だった。

天空から音もなく雪がちらついていたあの夜、京介は少女と永遠の別れを誓っていた。

二度目の別れから、もう八年も経っていた。


不意に、肩幅より広げた足を閉じた。

長い服役生活が、許可なく運動をしていいのかと、京介に問いかけていた。


京介は嘆息し、肺に堀の外の空気を大量に入れた。

よどみのない、澄んだ風が吹き渡る。

年を重ねた肌に、二月の乾いた風は冷たかった。


あの頃は、まだ暖かく感じた。

ふと、思い立ってしまう。

学園で、友人たちと馬鹿話に興じた日々。

自宅で大人相手に生意気な交渉をしていた日々。

卑屈に、目立たぬよう、笑われぬよう過ごしていた日々。

あの頃の京介は、弱い、金の奴隷だった。

浅井権三という巨魁の前でうろたえるだけの小僧にすぎなかった。


京介は、また空を見た。

雪がちらつきはじめた。

あの頃は、少女のまぶたに落ちた雪を見て、切なさに胸を詰まらせたものだった。


あの少女。

冷たい外道の道に、光を差してくれた。

幼き日の馬鹿げた約束が、唯一ぬくもりを与えてくれた。

初めて肌を重ね、一つになったとき、京介は紛れもない幸福に包まれた。


目を閉じた。

深呼吸を繰り返し、気を静めた。

振り払った。

天国のごとき安息は、もう、訪れない・・・。


目を開けた。

誰もいない。

孤独は、京介が望んだことだった。

彼は独り、歩みを進めることにした。

行くあてはない。

孤高な一匹狼のように、胸のうちに底知れぬ悲しみを秘めながら・・・。

 

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抜け殻の足を向けた先に、人影があった。

大きな影と小さな影。

親子連れか。

こちらに向かって道を渡ってきた。


京介の心は暗くなった。

刑務所内では女性や子供の声を久しく聞いていない。

親子は、手をつなぎ、楽しげに童謡を歌っている。

ときおり笑い声。

京介は虚ろな眼差しを地面に落とした。

早く、過ぎ去って欲しかった。


けれど、母子の声が遠のくことはなかった。

むしろ、近づいてくる。

そして、あろうことか、京介の前で立ち止まった。

 

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「はじめまして」


幼い声。

くりくりした瞳が京介を見上げていた。


「お久しぶりです」


平坦な、母親の声。

足元まで届きそうな髪が風になびいていた。

京介は、はじめ、返す声もなかった。

長い獄中生活で、少女との再会は何度となく夢見た。

その度に、己を戒め、苦しんできた。


もし・・・。


もし、刑務所を出て、少女に会うようなことがあればこう言おう。


心で何度となく繰り返していた言葉がある。


「おめでとう」


京介の牢には何者にも触らせない宝物があった。

市販のフィルムケースだった。

国内外はもちろん、獄中にまで響き渡っていた三島春奈の活躍記事が、ファイルいっぱいにスクラップされている。

美しい大人の女性に変貌した少女が言った。


「音楽がなくて、寂しかったでしょう」
「頭にバッハがいたよ」


少女が笑う。

京介は笑えなかった。

日向を行く少女と、肩を並べて笑い合ってはならない。

かたや実刑を受けた殺人犯、かたや世界を股にかけるヴァイオリニスト。

雪が、落ちる。

二人の間を隔てるように・・・。

京介の脳裏に、母と過ごしたあばら屋の窓から見える景色が飛来した。


「で、なにか用か?」


きついひと言に、少女は細めた。

かまわず、氷柱のような言葉を選んだ。


「警察から聞いたろう。 おれはお前を・・・」
「もういいんです」


ハルがさえぎって言った。


「もう、いいんです」


繰り返した。


京介は、ふっと嘲笑した。


白い吐息が、娘の眼前で霧散した。


「岩井裕也が、お前を助けてくれたんだな?」
「はい」


小さくうなずいた。


「そういう申し出はありました」


・・・申し出はあった?


京介は違和感を覚えながら、下劣な薄笑いを浮かべることにした。


「そうか。 それはよかったな。
お前がいまの名声を得られたのも、岩井のおかげだろう」
「感謝しています。 この子も可愛がってくれています」
「いまいくつなんだ?」


答えは、下から返ってきた。


「七つだよ、おとうさん」


危うく、そのさりげないひと言を聞き逃すところだった。


――お父さん!?


京介の時が固まった。


視線が、お父さんと声を発した子供に注がれる。


深まる確信。


似ている。


口元といい、顎先といい、小賢しい目元といい・・・。


「嘘を、言うな」


震える声で少女に言った。


「間違いがないことは、わたしが一番よく知っています」


きっぱりとした返しに、京介は狂乱した。


「あなただけです。 わたしには、あなたしかいないんです」


呪った。


天を。


気まぐれな神を。


残忍な悪魔を。


子宝を司る何者かをなじらねば気がすまなかった。


いや、どれだけ呪詛の言葉を投げかけようとも、目の前の現実が変わらないことに、京介は底なしの絶望を味わっていた。

殺人犯の娘が、またなにか言っている。


「おとうさん、頭なでて」


殺人犯の孫は、京介の冷たい手を求めていた。

ふらりと、吸い寄せられる、京介の腕。

やわらかい髪の毛。

幼子の頭にふれた。


ふれて、しまった――。

 

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瞬間、浅井京介の顔に修羅が宿った。


「違うんだ・・・!」


この子を、殺人犯の娘にしてなるものか――!


「京介くん、もういいんだよ・・・」


ハルの声が涙にかすむ。

京介の視界が涙にかすむ。


「・・・やめろ、違う・・・おれの子じゃ・・・」
「もう、泣いていいんだよ」
「・・・おれの、子じゃ・・・」
「お疲れ様」
「ち、が・・・あ・・・ぐっ・・・」


こみ上げる嗚咽に、それ以上の言葉が続かなかった。

幼子の頭に置いた手のひらが、はりついたように動かない。


「また、一からやりなおそう。 今度は三人だよ。 ねえ、京介くん」


京介の顔が失意に歪んでいく。

がああ、がああ、と狂人の叫び声があった。

復讐と憎悪の連鎖を断ち切ろうとした一匹の獣の咆哮だった。


「おとうさん、ずっといっしょだよ。 おかあさんも、いるよ。 わたし、ピアノしてるんだ。 ねえ、見て、聞いて」


娘が幸福を招くように、笑う。

笑い声がいつまでも、耳に残る。

おとうさん、おとうさんと、心を揺さぶる。


浅井京介は泣いた。

京介の歩んできた悪魔だらけの人生で、最後の最後に現れた穢れなき天使に、なすすべもなく泣くしかなかった。

やがてハルが娘の名前を告げたとき、舞い散る粉雪がはたとやんだ。

まるで、ずいぶんと早い春の訪れを察したかのように――。

 

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END

 

G線上の魔王【29】

 


・・・。

 


・・・・・・。

 

 

エレベーターは上昇を続けていた。

狭い箱の中で、"魔王"は腕を組み、じっとハルを観察していた。

ハルも同様に、飛びかかる機会をうかがっていた。


"魔王"はあきらかに状況を楽しんでいるようだった。

ハルを拘束もせずに、ただ見据えてくる。

まるで、なにか策があるなら試してみろといわんばかりに、口の端を歪めていた。


エレベーターのドアが開く。

薄暗い通路を進み、たどり着いた先は、屋上だった。

 

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「京介も、街に来ているのだろう?」
「・・・それがどうした?」


見上げれば曇りがかった空があった。

地上からの無数の光が厚い雲を突き上げるように輝いていた。


「ここで、京介と出会ったらしいな」


"魔王"が昔を懐かしむように言った。

武器も構えず、あくまで傲岸にハルと対峙している。


「なんの真似だ、"魔王"」
「お前の死に場所を演出したいと思ってな」


にたりと笑う。


「本来なら外郭放水路で殺したいところだが、この封鎖状況ではかなわない」


ハルは眉をひそめ、挑むような目を向けた。


"魔王"が言った。


「昔、京介とゲームをしてな。
夜中まで遊んだものだ。 ロールプレイングゲームとかいうジャンルらしい」
「・・・それが、なんだ?」
「勇者と"魔王"が最後に戦うのが、ちょうど、ここのように、いわくのある場所なのだ」


満足げに遠くを眺めていた。


「勇者は成長し、やがて"魔王"を倒すのだが、お前はどうかな?」
「・・・・・・」
「私の十年は、復讐がすべてだった。
対象は、国家であったり、浅井権三であったり様々だが、憎悪の中心にいるのは、いつも宇佐美だった」
「それは、わたしも、同じことだ。 お前がわたしの人生を狂わせた」
「私を殺すというのか。 京介の兄である私を?」


ハルの顔がわずかに強張った。

逡巡めいたものがこみ上げてくる。


「京介がかわいそうだと思わないか。
あれは私を慕っていた。 私が死ねば、きっと少なからず悲しむことだろう」
「この期に及んで命乞いか?」
「いいや」


さもおかしそうに首を振った。


「お前だって、悪を犯そうとしていると教えてやりたかっただけだ」
「そんなことはわかっている」


不意に、"魔王"が目を見開いた。

瞳には憎しみがみなぎっていた。


「宇佐美よ、どんな人間も、最後まで自分の正しい世界に生きて死んでいくのだ」


わかっている。

いまのハルも、"魔王"を叩き伏せることに正当性を見出そうとしている。

人が暴力を許すとき、この自己の正当性という、誰もが大好きな弱さを頼みにする。

武器を持ったテロリストであろうと、かよわい少女であろうと、いったん殺し合いともなれば、彼らは必ず正義でありたがるのだ。


「人はいつまでも同じ感情を抱いてはいられないという。
私も、ときには、お前を許そうなどと考えないでもなかった。
親は親、子供は子供と、当たり前の主張が良心に語りかける」


ハルもそうだった。


復讐なんて馬鹿げた真似をせずに、普通に暮らそうと、ふと我に返る夕暮れもあった。


「だが、けっきょくは憎しみが勝った。
父が言っていた。 ハルという少女を殺さなければ、宇佐美に思い知らせてやれないと」


つい、口を開いた。


「わたしも、けっきょくは、お前を追うことをやめられなかった。
ヴァイオリンケースを開くたびに母の無念が蘇る」


"魔王"は納得したようにうなずいた。

いままでで一番深いうなずきだった。

彼はもしかしたら、免罪符を得ようとしたのかもしれない。

"魔王"がハルを憎むように、ハルも"魔王"を憎んでいて欲しかったのだ。

少なくともハルは、"魔王"が自分を憎んでいてくれて、どこかほっとした気分だった。


復讐の連鎖はどこまでも救いがない・・・。


「なあ、宇佐美。
この世でもっとも長生きする感情は、憎悪だと思わないか。
だからこそ、何千年の昔から、戦争が絶えないのだ」


ハルには、わからなかった。


「もう一つくらいはある・・・」


"魔王"は笑う。

彼にはハルが何を言いたいのかわかっているようだ。

ハルの胸のうちを支配しているのは憎悪だけではない。

ハルは少なくともこの十年、ずっと、京介のことが好きだった。


「京介か・・・」


ハルはぎょっとした。

"魔王"の目に、初めて優しさのような光が募ったからだ。

ほんのわずかな一瞬とはいえ、不憫な弟を思いやる兄がそこにいた。

束の間、"魔王"はいつもの薄ら笑いを浮かべた。


「安心しろ。 お前を殺したあと、京介もあの世に送ってやる。
いつまでも二人仲良くやってるがいい」


陳腐なセリフだった。

哀しい男だとも思った。

鮫島恭平は常軌を逸した才能と行動力を持ち合わせていたばかりに、復讐に生涯を捧げることになった。

最後の最後まで寓意的(ぐういてき)に"魔王"であろうとするのだろう。


「さて・・・」


"魔王"が上着の奥から拳銃を抜いた。


「私を殺しに来たというからには、なにかまた新しい策を用意してきたんだろうな」


じりと床を鳴らし、一歩詰め寄ってきた。

間合いを取るように、ハルも後退する。

正面きっての腕力勝負で、勝ち目がないのは明らかだった。


――どうする?


この状況で、ハルが"魔王"に勝っている部分はなんだろうか。

格闘は論外。

武器もない。

屋上にはなにか"魔王"の注意をそらせるようなものはないだろうか。

いや、"魔王"もこの建物の構造は熟知しているのではないか。


「やはり、首を絞めて殺すか・・・」


・・・やはり、この慢心こそが、"魔王"の最大の弱点ではないか。

いつでも引き金を引ける。

いつでも仲間を呼べるこの状況で、なお敵を弄ぶような余裕を示す。

とはいえ、それでも、この状況を打破することは難しい。

"魔王"は演出がどうのと言いながら、ハルを逃げ場のない屋上に連れ込んだ。

全身からみなぎる殺気は、これがただのお遊びではないことを物語っていた。

対してハルには、なんの用意もなかった。


ハルは、気圧されるように後ろに下がる。

"魔王"がその分だけ距離をつめてくる。


「お前は高いとことが得意だったようだな」


とうとうハルは、屋上のフェンス際まで追い詰められた。

逆襲の手立ては、なにも見出せない。

銃口に追いやられるまま、フェンス際を伝って移動する。


――玉砕するしかないのか。

 

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そのとき、頭上で轟音があった。

上空をヘリが旋回している。

マスコミの類だろう。

とくにこちらに気づいて近づいてくる様子もないし、また近づいてきたからといって助けてくれるわけもない。


けれど、"魔王"の注意がわずかにそれた。

あごを上げて、空を見やっている。


――いまか!?


いや、違う。

あれは誘いだ。

それが証拠に"魔王"が言う。


「フフ・・・チャンスではなかったか?」


突如、"魔王"が突進してきた。

ハルは逃げ道を探す。

取っ組み合いになったら、今度こそ殺される。

けれど、遮蔽物のなにもない屋上。

"魔王"とハルでは足の速さが違いすぎる。


逃げ場は――フェンスの奥しかなかった。


風があった。


ハルは"魔王"の手をぎりぎりのところでかわし、屋上の端に足をつけた。

地上からつきあげるような風を背中に感じた。


「まあ、山王物産のビルから落ちて死ぬというのも、悪くないかもしれんな」


"魔王"が銃口を向けた。

引き金には指。

背筋が凍ったのは、寒さのせいではない。

"魔王"と向き合いながら、首だけでちらりと地上をみやった。

ハルは最後の希望をつかんだ気がした。


「さらばだ。 あの世で母親に会うがいい」


直後、弾丸を避けようと、ハルは身をよじらせた。


"魔王"の放った一発は、命中しなかった。


そのかわり――。


「・・・うあっ!」


足がもつれる。

体が空中に投げ出されていく。

たしか、落ちるのは二回目だ。

幼かったあのときは、あの少年が助けてくれた。


――京介くん。


闇雲に腕を伸ばす。


もがいた。


必死で何かをつかむ。


雪だった。


手のなかで無情に溶ける。


悲鳴。


自分のものとは思えぬ声で救いを求めた。


――死ぬ!


あらゆる音が消えていった。


ハルは自らが落ちていくのをはっきりと自覚した。


"魔王"の顔があった。


もう笑ってはいなかった。


粛々と死者を送る大人の表情だった。


ハルの視界は、カメラが高速移動するように、"魔王"の顔から、底なしに暗い空へと移り変わっていった。


高く伸ばした右腕の指先が屋上の角に触れた。


けれど、体重を支えるには足りなかった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「異常はなさそうだな」


宇佐美がビルから落ちるのを確認したおれは、踵を返して、人質の様子を見に来ていた。

なぜなら、そろそろ警察から連絡が来るころだからだ。

おれは携帯電話をかまえた。

警察との交渉に携帯電話を選んだのは、こちらの居場所から人質の居場所を推測されにくくするためだ。

警察は、おれがいま、どこからかけているのかをきちんとつかんでいる。

けれど、おれはさきほどはオフィス街からかけたし、次も別の場所で応答を受けるつもりだ。


・・・。

 

「そろそろ時間だな、警視正
「ああ、そのことなんだが、実はまだ決定が降りてこないんだ」
「それは残念だ。 こちらの誠意が足りなかったようだな」


電話を片手に、室内の様子を見やった。

抵抗する気力のありそうな人間はほとんどいない。

皆、壁際でうずくまり、重そうな顔をしている。

いや、一人だけ、おれをにらみつける男がいた。

若い青年社員といった風貌だった。

肩に包帯を巻いている。

育ちのよさそうな顔立ちだが、瞳には状況を打開しようという強い意志が見て取れた。


・・・なるほど、彼が、子供をかばったという社員か。


「そこで、相談なんだが・・・」
「言ったはずだ。 時間の延長は一切認めない」
「わかっている。 けれど、君もわかっていたのではないか?」


・・・プロだな。


「現実的に八時間というのは、短すぎるとは思わないか?
総理以下、関係閣僚を招集するだけでもかなりの時間がかかったらしい。
その上、これほど重大な決定を下すには、どう考えても時間が足りない」
「それで?」
「せめて、あと五時間待ってもらえないだろうか?」
「五時間待つと何かいいことがあるのかな?」
「それだけあれば、決議はおりるというのが警察の見解だ」


おれは軽く舌打ちした。


「のろまは罪だと思わないか?」
「待て。 早まるな」
「いまから人質の一人を殺す。 銃声をきちんと聞き届けるように」
「落ち着け。 人を殺してなんになる。
たしかに我々は要求された時間に間に合わなかった。 しかし、君はプロだろう?」
「だったら?」
「せめてもう少し時間をくれ。
少しの猶予が、君の計画にそれほど支障をきたすのか?
君はそんな甘い算段を持って、我々に挑戦してきたのか?」


見事な交渉テクニックだ。

犯人のプライドをくすぐり、現実を直視させようとしている。

やはり、時田ユキを使って、父親は排除しておくべきだったかな・・・。


「我々がプロであるからこそ、時間には正確ありたいのだよ」


その瞬間、躊躇なく拳銃を抜いた。


引き金を引く。


女の頭が背後の壁に吹き飛んだ。


人質たちの間に漂う、重苦しい空気が一気に切り裂かれた。


悲鳴がフロアにこだました。


撃ち抜かれた女性社員の名前が呼ばれ、すすり泣きが聞こえる。


「聞こえたかな?」


時田警視正は屈辱に声も出ないようだった。


「一時間後、また連絡をもらおう。 人質はあと十人はいる。
言っている意味がわかるかな?」


一時間につき一人、死んでいくというわけだ。


通話が途切れた。


ふと、おれを呼ぶ声があった。


「おい・・・!」


さきほどの若手社員だ。

何を言い出すかと思えば・・・。


「次は、俺をやれ。 なぜかよわい女性を・・・!」


目に涙を浮かべ、義憤にかられていた。

おれは薄笑いを放り、その場をあとにした。

あのような勇敢な男を殺しても効果は薄い。

効果的な悲鳴というものは、いつだって女が上げるものだ。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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橋本が出て行ったドアには当然のように、外から鍵がかかっていた。

おれは、まさしくこれから公開処刑を待つ捕虜のように、監禁されたというわけだ。

懐にしまってあったはずの携帯電話も、どうやら取られたようだ。

助けは呼べないし、助けて欲しいのは栄一と宇佐美のほうだろう。


・・・考えろ。


部屋の中を見回す。


ドア以外に、どこにも出口はなかった。

換気扇すらない、濁った密室だった。

壁を伝って隅のがらくたに寄った。

漫画雑誌やポルノ雑誌が束になって散らばっていた。

運よく、壁を破壊できそうな削岩機や、実弾つきのマシンガンなどは落ちていなかった。


考えろ、どうやって脱走する・・・!?


外に出て、宇佐美と栄一を救うには・・・!?


あのドアを開けるには・・・!?


弱気になりかける心を叱咤する。


おれは正義のヒーローでもなんでもないのだ。


絶望し、いままでの人生を振り返りながら、仲間が助けてくれるような展開を期待してはならない。


考えろ。


おれは、あの浅井権三の息子だ。


これまでの人生、人に誇れるような善行は何ひとつつんでこなかったが、橋本ごとき小悪党にやられるほど、甘く生きてきたわけではない。


もし、権三がこの場にいたら、こんな無様なおれを許さないだろう。


今日は、ヤツの葬式・・・ヤツの魂はまだ現世にとどまっている。


――葬式!?


思わず、笑みがこぼれた。


見てろ、権三。


おれの命がけの脱出を肴に、地獄に落ちていけ。


・・・。

 

おれは部屋の中央に雑誌や木でできた丸テーブルなどを集めた。

積めるものは積み、ばらけるものはばらして井桁をくみ上げる。

とにかく燃えそうなものはなんでも薪にした。

丸めた紙に、テーブルの上で転がっていたライターで火をつける。


さあ、燃え上がれ。


火勢が強くなるまで、慎重に足し木をした。

木材や合板は乾燥していて、いったん燃え移ってしまえば、あとは見守るだけだった。

赤く吹き上がり始めた黒煙が、天井を覆い始めた。

火の粉がはじける。

たまりきって行き場を失った煙が、徐々に下へ下へと迫ってきた。

室内の気温が一気に上昇し、顔が熱くなっている。

刻一刻と厚みを増した黒煙が、出口を求めてのたうちまわっていた。


・・・もっとだ。


もっと濃密になるがいい。


あのドアが開いた瞬間、爆風となって吹き荒れろ。

 

・・・。

 


「ぐっ、ごほっ・・・!」


尋常なけむたさではなかった。

とても目を開けていられない。

空気がなくなりかけていく。

火の勢いが弱くなって、そのぶん、煙が濃くなってきた。

おれはドアのそばでうずくまった。

 

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呼吸困難に負けず、猛烈な勢いでドアを叩き始めた。

上の階には栄一が捕らえられているのだという。

当然、見張りの一人や二人はいるはずだ。

騒ぎを聞きつけてかけつけてこい。

ドアが開いたその瞬間、皆殺しにしてやる。


ドアを叩く。


足音に耳を澄ます。


誰も来ない。


なぜだ。


「ごほっ、ごほっ・・・!」


閉じた目から涙が出てくる。


・・・出て来い!


なぜ、様子を見に来ない!?


力の限りドアを殴った。


恐怖が噴き出す汗となって背筋を伝っていった。


もし、誰もいなかったら・・・?


たとえようもないほど間抜けな死に様だ。


「あ、ぐっ、ごっほ、ごほっ・・・!」


背後では、炎がすでに、ぶすぶすと不完全燃焼の音を発していた。

ドアの下から入ってくるわずかな空気を求め、顔を押し当てた。

叩くのをやめるわけにはいかなかった。

右手に力が思うように入らない。

たまに、意識がはっきりと空白になる。

だが、あきらめるものか。

ここで死んだら・・・!


爪が皮膚に食い込むほど拳を固く握った。


宇佐美はどうなる!?


浅井権三は、なんのために死んだのだ!?


父よ・・・ああ、父よ・・・あんたはおれをかばって死んだ!


真実はどうでもいい!


おれはまだまだ、あんたのところにはいかんぞ!


煙にまかれた肉体が、活動を停止しようとしたのに対して、意志だけが絶命を拒んでいた。


おれはもうおれではなくなっていたのかもしれない。


一頭の野獣となって必死にドアを連打していた。


思い知らせてやらなければならない。


おれがなめられるということは、浅井権三がなめられるということなのだ。


怒りを成就させるべく、憎悪を燃やした。


前後の記憶がかなり曖昧になっていた。


それははじめ、鼻に差し込んでくる空気として自覚した。


脳細胞が不意に活性化し、突然、意識が明瞭につながった。


自分が他人の体のように思えた。


ドアを叩いていたはずの右手が、さっきから空ぶっている。


煙が奔流となって飛び出していった。


ドアがない。


開いている。


入り乱れる足音。


酸素を取り入れて再びぱちぱちと爆ぜる火の粉。


おれは牙を剥いた。


狼狽した叫びが聞こえる。


水。


消せ。


つまり、獲物のさえずりだ――。


立ち上がり、煙の方向を見定めたあとは、理性の出る幕ではなかった。


ありったけの力で突進した。


ハイエナが、一人、二人・・・。


おれの形相に怯んだ。

腕を振り回し、顔面を陥没させた。

絶叫を待たず、その横を駆け抜けた。

まっしぐらに階段を駆け上がる。

背後からおれの腕を捕まえようとした輩に、頭上からめちゃめちゃに蹴りを振り下ろした。

手足に鈍い感覚が何度かあった。

その度に、悲鳴が上がっていた。

おれが強いのではなく、やつらに覚悟が足りないのだ。

手負いの獣ほど狂暴なものはない。

黒煙が出口を求めて天井を走っている。

おれはそのあとを追う。

煙を追い抜いたとき、一階にたどり着いていた。


誰かとぶつかって、もみ合いになった。

 

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「お、お前っ!?」


聞いた声に体が反応した。

肺のなかが空気に満たされるにつれて、憎悪が猛々しく燃えた。

止まらぬ咳、止まらぬ涙、止まらぬうめき声。

床や天井がのたうっている。

頭痛に、吐き気に、胸がむかつき、呼吸ができない。

喉や器官の火傷、悪寒、発熱、擦り傷打撲の合併症。

無我夢中で、目の前の小悪党を蹂躙した。


「殺せるものなら殺してみろ!」


それから先は、橋本のどこをどう殴ったのかおれにもわからなかった。


人を最後の最後まで奮い立たせてくれるもの、それはいつだって怒りだ。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

全身がぎしぎしと痛んだ。

身動きするだけで骨がきしむ。

顔がひんやりと冷たい。

雪だ。

雪が降っている。

雪の冷たさを感じられる。

ということは、生きている。

 

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空が見える。

まだまだ深い夜だ。

肘がとくに痛む。

きっと大きな青あざができていることだろう。

ハルは自分が気を失っていたと知った。


しかし、なぜ生きているのか。

屋上から転落したのは間違いない。


「あ・・・」


もしかすると・・・。

落下の瞬間を思い出す。

屋上の端から、ちらと地上を振り返ったあのとき、希望が見えた。

あれに向かって飛び降りられれば助かるかもしれないと期待していた。

 

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ハルは、いま空中にいた。

窓ガラス清掃用のゴンドラにひっかかって、地上に叩きつけられるのを回避していた。

屋上までの距離は五メートルほどだった。

どうやら、足から落ちることができたらしい。

昔から、高いところは得意だ・・・。


ハルは大きく深呼吸した。

強風がいつでも心に恐怖を招く。


落ち着け。

ゴンドラを吊るしているワイヤーは非常に丈夫なようだ。

慌てなければ、落ちることは多分ない。


だがどうやって・・・。


――ここから脱出すればいいのか?

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

 

「我々をどこに連れて行こうというのかね?」


銃口を突きつけられた染谷室長が、ぼそりと言った。


「これから、皆で大型バスに乗っていただきます。 当然、今川先生も一緒です」
「観光気分ではないのだがね」
「ご安心を。 十分もすれば、目的地に到着します」


新しい、監禁場所にな。


人質をいつまでも同じ場所に囲っておくのは危険だ。

警察は、事件の発生がこの山王物産のビルから始まったことをすでに調べ上げているだろう。

さらに、当日の今川の行動スケジュールも把握しているだろうから、まず、山王物産にあたりをつけているはずだ。

もし、屋上から空挺部隊が急襲してきたら、大きな被害が出る。


「それぐらいの距離なら歩いてもいける」


今川も、まだまだ元気なようだな。


「さすがはCO2削減を標榜(ひょうぼう)している先生ですな。
しかし、外には暴徒が充満しておりましてね。
私の命令も聞かない血気盛んな若者がいるかもしれませんが、それでもよろしいですか?」


実際、外での暴動はおれの感知するところではない。

欲望のままに遊び尽くせと命じただけだ。

おれですら安全とは言い切れない。

薬物に頭をおかしくした少年に、いきなり撃ち殺されるかもしれないのだ。


「おわかりですね。 では、出発しましょう」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「京介っ・・・っ、おい京介っ・・・!」


拳がひりひりと痛む。


「京介ったら・・・!」


荒い息が耳にうるさい。


「あ、え、栄一・・・か・・・無事だったのか?」
「無事じゃねえけどな・・・なんつーの、満身創痍ってヤツ?」
「ヤツらは?」
「みんな逃げたよ。 火事だから」


妙に、焦げ臭い。


火事?


はっとして気づいた。


おれがやったのだ。


おれが、橋本を床にねじ伏せていた。


橋本は腫れ上がった顔で、なにやらうめいていた。


アドレナリンが引いたからか、全身が悲鳴を上げていた。


特に、橋本を殴りつけるために酷使した腕は、ほとんど感覚がなくなっていた。


「おい、京介、逃げるぞ・・・!」


おれの脇に、ぼろぼろになった栄一が立っていた。


「ヤツらがまた現れる前にずらかろうぜ」


相当な暴行を受けたのだろう、足元がふらついていた。


「このクラブは、外に通じてるらしいな」
「ああ、そうだよ。 だから、急げっての。 火に巻かれるぞ!?」
「・・・おれの携帯、知らねえか?」
「あ? 携帯? 知らねえよ。 んなもんまた買えよ、ボンボンだろ!」


栄一がはやしたてるのも無理はない。

地下から這い上がった火の手はすでに、このフロアにも迫ってきていた。


「おい、急げよ。 出られなくなっちまうぞ」


建物が炎上すれば、当然、警察もこの場からは踏み込んで来れないか・・・。


「お前の携帯をよこせ」
「オレもねえよ! こいつらに取られちまった!」」


なら、橋本から奪えばいいか。


「おい、京介・・・なんだよ、てめえ・・・」


・・・宇佐美の番号は・・・090・・・。


完璧だ、憎たらしいほど覚えている。


「ちょ、ちょっと落ち着けって。
いや、お前の考えてることはオレにはわかるぜ、さすがに」


何度も無駄にかけてきやがったからな。


「無茶すんなって。 こいつらみんな狂ってんだぞ!?
つーか、おめえ、オレ以上にぼろぼろじゃねえか・・・」


おれは、どうやら、本気で・・・。

 

・・・。

 

 

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「なんだ、宇佐美!?」
「あ、つながった」
「あ?」
「自分、携帯電話とか持つの初めてでして。
はあ、なんだかドキドキしますね、マイケータイは」
「はあっ?」
「あ、とくに用事はないです。 つながるかな、とドキドキしたかっただけです」

 


・・・。

 

 

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「ですから、ちょっとだけでよろしいんですがね」
「て、言われてもなあ・・・朝方・・・ようは四時とか五時とかみんな初詣が一段落したあたりなら、なんとかなるかもしれんが・・・」
「決まりですね」
「まてまてまて、なにが決まったんだ」
「ようは、わたしを選べってことです」
「もういい、帰れ」

 


・・・。

 

 

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「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あれ?」
「はい?」
「おめかしは?」
「してるじゃないすか」
「ジャージじゃね?」
「おめかしじゃないすか」

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

刑務所にいる父さん・・・。


すまない。


おれは、仇の娘に・・・。

 

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「栄一、お前は一人で逃げろ・・・」
「なっ!?」


おれは気を失った橋本の懐に手を伸ばした。

長方形で固い感触。

あった、携帯電話だ。


「京介よぉ、なんで? わけわかんねえよ、てめえ。
いまなら、逃げられるんだぞ?」
「・・・だな」
「け、警察に任せておけって。
オレたちみたいなガキがどうにかできる話じゃねえって」
「そうだろうな・・・」


だが、その警察も、いまは動きが取れないでいる。


「お、女か? そんなに女が大事なのか・・・?」
「・・・違う」
「ぐっ、わ、わかったよ、じゃあ、オレも・・・」
「いらん。 てめえは役立たずの足手まといだ」


つい、口が必要以上の暴言を吐いてしまう。


「・・・いや、外に出て警察に駆け込め。
警察も、なかの情報はのどから手が出るほど欲しいはずだ」
「でもよ・・・」
「うるせえ、行け!」


橋本が所持していたらしき拳銃が、床に転がっていた。

おれはそれを拾い、栄一に向けた。


「・・・しょうがねえヤツだな、お前は・・・」
「悪いな・・・」
「わかったよ・・・」


うなだれるように、そう言った。


「次の部活を楽しみにしておくよ」


栄一は戸口に向かって走り去っていった。

おれも煙にまかれる前に、とっとと建物を出るとしよう。


「あ、ぐっ・・・」


橋本が気づいたようだ。

おれは頬に平手を打った。


「あ、浅井・・・てめえ・・・」
「死にたくなかったら、とっとと逃げるんだな」


ぎしぎしと悲鳴を上げる体を起こし、おれは外に向かって飛び出した。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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遥か地上で、車のエンジンが聞こえた。

バスだろうか。

大型車両がライトを煌々とつけてアイドリングしていた。

明かりにうっすらと人影が浮かび上がっている。

ぞろぞろと列になって、バスに乗り込んでいった。


人質か。


行くあてを見定めなければ・・・。


携帯が鳴った。


驚いて足を滑らすところだった。

ふらふらとゴンドラが揺れる。


「浅井さん・・・!」


ひどく懐かしく聞こえた。

思わず、目に涙が溜まる。

無事か、と彼は言った。


「浅井さんこそ、変な電話番号からかかってきましたが?」


気にするな、と返ってきた。

いまどこにいる、と低い声で聞いてきた。


「それが、上手く説明するのが難しいんですが・・・」


ハルは現在の状況を打ち明けた。

屋上から落ちたこと。

落下の途中にゴンドラに引っかかって一命を取り留めたこと。

いまなお、ゴンドラに揺られていること。


「さっきから、窓ガラスを破ろうとしてるんですが、どうにも非力でして・・・」


再び、短い質問。

何階だ?


「多分、四十八か七階のあたりではないかと・・・」


わかった。

そして、最後のひと言。


待ってろ――。


「え・・・」


唖然としたまま、通話が切れた。


――まさか、助けに?


そのとき、がくんと、ゴンドラが揺れた。

支えているワイヤーが嫌な金属音を立てていた。


ハルが落ちたとき、その衝撃で・・・。

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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山王物産のビルを目指し、おれは通りを渡り歩いた。

休みたがる体を酷使し、足を前に突き出す。

右手には、橋本が持っていたごつい拳銃。

実弾射撃の経験はないでもない。

一メートルくらいまで近づけば人間にだって命中させられる。

メインストリートは静けさに包まれていた。

連中もいい加減、破壊に飽きたということか。

まだ、生き延びている人間も少なからずいるようだ。

雑居ビルの窓からこちらを覗いていた女が、おれと目が合うと、とっさにカーテンを閉めた。

いまのおれは、どこからどう見ても、まともじゃないらしい。


「坊ちゃんじゃないですか・・・」


不意に、路地の影から、数人の男が姿を見せた。

園山組のヤクザたちだ。

事務所はセントラル街にあるのだから、巻き込まれていて当然といえば当然だが・・・。


「よくご無事で・・・」


男たちは武装も服装も様々だった。

抜き身の刀を持つ上半身裸の男、スーツにサングラスといった出で立ちに拳銃を握る男。


「いやあ、坊ちゃんこそ、災難でしたねえ・・・」


こんな状況でも、笑顔を絶やさない堀部はどこかユニークですらあった。


「いやね、自分らもいままではやられる一方だったんですがね、さすがにガキは寝る時間じゃないですか。
そろそろ反撃に出ようかと思ってたところなんですよ」
「そうですか・・・」
「なにせ新鋭会のゴミどもまで、ガキに加担してるって話じゃないですか。
ったく、オヤジが許してやった恩を忘れてくれちゃってまあ・・・」


残忍に笑っている。

こいつは、死んでも死ななそうだな。


「父の葬儀には参列できそうにありませんね」
「そこですわ。 オヤジの死に目に会えなかったばかりか、葬式にも顔だせねえとあっては、末代までの恥ってヤツでしてね」


おれはゆっくりと首を振った。


「浅井権三に、形式ばった葬儀など不要ですよ」


堀部のめつきが変わった。


「ヤツはきっと、いまごろぶちキレてるでしょう。
聞こえませんかね、怪物の雄たけびが・・・」


俺の葬式などいらん、はむかう者を皆殺しにしろと。


「なあ、堀部さんよ」
「・・・・・・」
「聞こえませんかね?」


堀部は、おれを値踏みするように眺め、やがて、すっと道を開けた。

おれは前へ足を踏み出す。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

「兄貴、どうしたんです?」
「いけねえ、いけねえ、この堀部、ついぶるっちまった」
「はい・・・?」
「一瞬、オヤジが地獄から帰ってきたかと思ったぜ。
ありゃあ、やっぱ、怪物の息子よ」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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静けさに包まれたセントラル街を歩く。

咳が止まらない。

身体の痛みがぶり返し、悪寒と吐き気が足を取ろうとする。

おれはよろめき、ふらふらとしながら夜を掻き分けていく。

道端に寝転がっていた少年がゆっくりと起き上がる。

初めはおれの顔、次に、握っている拳銃に目をやった。

少年は道をよけていった。

見回りをしているようなグループやバイク、自動車をみかけるが、変に逃げたり隠れたりしなかったせいか、呼び止められることはなかった。

車が止まり、すぐに走り去っていく。

道行く暴徒はガンを飛ばしてくるが、たいまち嫌悪感に眉をひそめた。

煤にまみれ、垢にまみれ、汗と血にまみれたおれの行く手をさえぎるものはなかった。

地面がのたうっている。

明かりが宙で揺れている。

歩きに歩いた。

気を失うのはまだまだ先の話だ。

唯一おれを力づけている感情があった。

愛なのか憎しみなのかわからない。

この力をいま少し残してくれるよう悪魔に祈る。


せめて、たどりつくまでは・・・。

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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ゴンドラを吊るしている四本のワイヤーのうち、一本が、切れていた。

耳障りな金属音とともに、ゴンドラが傾いてくる。

傾斜は刻一刻と深くなっていった。


建物側にある一本のワイヤーも、つないである太いネジが取れかかっていた。

腕を伸ばし、ネジを回そうと試みるが、素手では無理な話だった。


・・・二本切れたら終わりだ。


ゴンドラは空中ブランコみたいに回転し、足場が完全になくなる。

ハルは窓ガラスを叩いた。

懸命に、しかし、足場を揺らさないよう慎重に。


けれど、窓ガラスまびくともしない。

なにか、固いものはないか。

分厚いガラスを破れるような・・・。


ない。


何もない。


パニックに陥りそうになる。


慌てればそれだけゴンドラが揺れるとわかっていながら、足が震えだした。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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たどりついた。

高くそびえ立つビルを見上げる。

空は暗く、宇佐美がいるというゴンドラは発見できない。


・・・しかし、妙だ。

山王物産のビルには大勢の人質がいるはずだ。

つまり、テロリストが立て籠もっているはずなのに。

まるで、もぬけの殻といった印象。


・・・ためらっている場合ではない。

中に、入るのだ。


・・・。


エントランスに人気はなく、静寂だけが支配していた。

おれはエレベーターを探し、足を引きずるようにして歩いた。


・・・本当に、誰もいないのか。


はっとして立ち止まる。

暗闇の向こう、非常灯の明かりに、ぼんやりと人影が浮かび上がった。

カチャと音を鳴らし、黒くて大きい銃を構えなおしていた。

なにやら英語で暗闇に向かって話をしている。

円形の大きな柱の陰に隠れながら、様子をうかがう。

敵は、あろうことか、エレベーターホールの前にいた。

直立不動の姿勢で、ぴたりとも動かない。


三十秒・・・一分と、なにもできない時間が過ぎた。


・・・どうする?


いきなり襲い掛かってみるか。


・・・いや、ありえない。

あの背格好と装備からするに、相手はプロだろう。

では、なにか注意を逸らして・・・そうたとえば、物音を立てて、敵がこちらに近づいたときに、一気にエレベーターに駆け寄る。


「・・・・・・」


しかし、何機あるか知らないが、エレベーターが都合よく一階に下りてきているとも限らないし、そもそも、稼働しているのかどうかもわからない。

では、このままヤツがいなくなるまで待つのか?

それが、最も賢い選択に思える。

どういうわけか、テロリストどもは拠点を放棄したようだ。

ずっと待っていれば、あいつも撤収するはずだ。


だが・・・。


すぐ左手に非常口のランプが光っている。

馬鹿な考えが頭をよぎった。

非常口の先には階段の手すりが見えた。


まったく、無謀な考えだ。


けれど、全身がうずく。


じっとしてはいられないと、何かがはやし立てる。


宇佐美が、おれの助けをいまかいまかと待っているかもしれないのだ。


待てば待つほど、力が抜けていく。

休んでいると、不意に眠りたくなる。

反対に、一歩足を踏み出せば、活力が満ちる。

それでいいと、耳元で誰かが吠えた。

その助言に、どこか安心した気持ちになって、おれは階段を目指した。


――そう、四十七階にだって歩いていける。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「も、もしもし、浅井さんですか・・・?」


ハルはたまらず、携帯を手に取っていた。

なんだ、とまた素っ気無いひと言が返ってきた。


「自分、だいぶやばいなと・・・い、いまどちらです?」
「ビルのなかだ」


ぐらりと地面が揺れたような気がした。


「ちょ、ちょっと、正気ですか? テロリストが立て籠もっているんですよ?」
「どうやら、いまは手薄なようだ」
「あ・・・」


そうか。

先ほど人質を移動するためのバスが発進していた。

となると、もう、このビルを守る必要がないのだ。

ならば、もう少し待てば、助けは来る・・・!


「エレベーター、動いてるんですね?」
「さあな」
「・・・え?」


稼働していないのか。

そういえば、先ほどからビルのなかが一気に暗くなったような気がする。


それとも、まだビル内に見張りが残っていて・・・などと考えていると、京介がまた野太い声で聞いてきた。


「だいじょうぶか」
「え、い、いや・・・あのですね、ワイヤーが一本切れまして・・・」


そのとき、電話の向こうでガタンと音がした。

耳障りな風の音が響く。


「どうしました!?」


うめき声が返ってきた。

しかし、どういうわけか、直後に返ってきたのは落ち着き払った声だった。


「いまにも落ちそうなわけだな?」
「え、ええ・・・」


わからなかった。


浅井京介の身になにが起こっているのか。

胸騒ぎが止まらない。


「ビルのどちら側にいるかわかるか?」
「おそらく西側ではないかと。 大手百貨店のデパートがある方角です」


返答がぽつりと途切れた。

空白のときを置いて「わかった」と京介が言った。

続けざまに、また低い声が響いた。


「十分で行く」


京介が怪我をしているのは予想ができた。

けれど、この落ち着きよう、胆のすわりようは、いったい・・・?


「まさか、浅井さん・・・」


通話が切れた。

あとに残るのは吹き上げる風の音のみ。


「まさか・・・」


彼はまさか、一階から階段を登ってきているのではないか。

ハルは知らない。

彼はもっと利口な男のはずだ。

ハルを抱きながらも、好きだと口にしたことも一度だってない。


――なぜ?


ただ、胸のうちで熱いものがこみ上げてきて――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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闇のなか、足を踏み出す。

非常灯の薄明かりだけが頼りだ。

一つ、また一つと階段を登っていく。

鉛のように重い足を前に突き出す。

意識はまるで、眠りに落ちる前のようだった。

もうろう状態が続いている。

だが、まだ自分でちゃんとコントロールしているものがある。

最後に隠し持っていたとっておきの意識みたいなものが、おれを上へ、上へと押し上げていく。

むしろ、自分ではない何かに、引っ張られているような感覚。

そいつが、一刻も早く歩けと命じていた。


もう、それほど時間はないのだと。


凄まじい重力で押さえつけられている足の裏を何度引き剥がしたことか。


太ももは、ぱんぱんに腫れていることだろう。

同じような箇所を何度も回るものだから、めまいが加速していく。

吐き気をごまかして、力を足に集約する。

すでに、十階は踏破したと思う。

たったの十階。

これが、あと五回近く続くのだ。


・・・まったく、なんの罰ゲームか。


くそ、宇佐美め・・・。

 

・・・。

 

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もし、ヤツと再会しなければ・・・。

 


・・・。

 

何度か足がもつれ、階段から転げ落ちそうになった。

壁に寄りかかったとき、そのまま意識を失いそうになった。

眠気というより、純然たる闇が、頭を黒く染め上げようとする。

ふと、壁にあった数字が視界の隅に入った。


26。


「ぐっ・・・」


まだ、二十六階。


暗闇のなか、うめき声が無情に響いた。

圧倒的な寒気に、歯ががちがちと鳴り始めた。

けれど、おれはまだ、腰をおろしてはいない。

よろめいても、ふらついても自分の足で立っている。

誰の助けもいらない。

前に見える階段の踊り場に目標を見定め、そこに向かって踏み出した。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

 

 

また傾斜が深くなった。

みしみしと、金属がねじれるような音がする。


あと、どれくらいもつのだろうか。

緊張のためか、とめどなく汗が噴き出してくる。

汗をぬぐおうにも、それでバランスを崩したらと思うと無駄な動きは一切できない。


窓ガラスの向こうを見やった。

彼の顔を思い浮かべ、目の前に現れる瞬間を想像した。


考えろ。

なにかいま、自分にできることはないだろうか。

ハルは、自分が、京介に愛される資格があるのかどうか、ふと疑問に思うことがあった。


・・・。

 

 

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彼は許してくれたのだろうか。

彼の家庭をめちゃくちゃにしたのは、他ならぬハルの父なのだ。

だからこそ、このまま無力なお姫様のように震えているだけでいいのだろうか。

 

・・・。

 

ハルは冷静に、切れかかっている一本のワイヤーを見た。


――あれが、切れたらこのゴンドラはどうなる?


おそらく、水平だった地面が、垂直になる。

面はなくなり、あとに残るのは・・・。


ハルは慎重にゴンドラの前方に移動し、さらにワイヤーにつながるパイプの上に足をかけた。

意味があるかどうかはわからない。

けっきょく、四本あったワイヤーが二本になれば、長くは持たないだろう。


時間稼ぎにしか・・・。


いや、彼は十分で来るといったのだ。

信じなくては。

ハルは大きく深呼吸して、救いの手を待つことにした。

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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・・・いま、何階か。

いったい、いくつの段を越えたのか。

ぐらぐら、ぐらぐらと、床がうねっている。


熱い。


焼けるようだ。


喉が、肺が、ぜえぜえ、ぜえぜえと、うるさい。


なにを、ぐずぐずしている。


急げ。


足を、前へ、振り上げろ。


くそったれの靴の裏。


地球の中心がここだといわんばかりに、びたりと床を離そうとしない。


横っ腹が息をするたびに刺すような痛みを上げる。


独りだった。


光も風もない人口のビル。


月の光も差し込まない。


役立たずで気まぐれな神様よ、お前の手は借りん。


孤独が人を強くする。


孤独の果てに守るべき女がいればなおいい。


止められるものなら止めてみろ。


この階段は天国には続かない、ぐれた男の花道だ。


獣のいななきが鼓膜を切り裂く。


おれの、声。


「どうしたあっ――!!!」


浅井権三の、声。


宙ぶらりんの自意識が、己の声すら錯覚させる。


おれの心の真髄に染み渡った恐怖の怪物が、吠えに吠える。


さあ、進め。


虫けらのようにひねり殺された母の業を背負い、


復讐の狂気に取りつかれた兄の哀しみを胸に、


仇の娘のもとへ――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 


「・・・っ?」


何かに頭をぶつけた。

硬い、鉄の壁。

押してもびくともしない。

指先が痙攣を起こした。

屈辱の火柱が体内で燃え盛る。

ふと壁を見やった。


四十六階とペイントされている。


防火扉だ。


一度はおれと宇佐美を救ってくれた分厚い壁が、今度はおれの行く手を阻んでいる。

奥歯を噛み締めて身を奮起させた。


・・・こんな・・・。


こんな、馬鹿なことがあってなるものか。


あと少し。


あと、たったの一つか二つ登るだけなのだ。


どこかに、上階にいたる道があるはずだ。


折れそうになった心と足をひきずり、四十六階のフロアを探索した。


亡者のように、歩き回る。


いまさらだが、エレベーターを使うというのはどうか。


いまなら、テロリストはいないかもしれない。


・・・いや。


エレベーターの前まで行ってみて気づいた。


まだ、稼働している。


動かないエレベーターを見張る必要はない。


ということは、一階には、まだまだ銃を持った男がいるということだ。


エレベーターを呼べば、必ず、不審に思って上がってくるだろう。


ならば、他の手立てを・・・。


たとえば、荷物運搬用の小さなエレベーター。


たとえば、人が通れそうなくらいの換気口。


たとえば・・・たとえば・・・なんでもいい・・・。


秘密の隠し通路とか。


テロリストが上階の床を爆破したとか。


なにか、なにか・・・糸口は・・・?


探せ。


もう、約束の十分はとっくに過ぎている。


おれはまた、約束をすっぽかすのか。

 

・・・。

 

 

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宇佐美っ!


ヤツはきっと、今度こそおれを信じている。

なのに・・・それなのにっ!


・・・。

 

「くそおおおっ――――!!!」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

f:id:Sleni-Rale:20191228120117p:plain



「次こそは、誠意ある回答をもらえるんだろうな?」


きっかり一時間後、警察から連絡があった。

わかっている。

時田警視正もつらい立場なのだろう。

政府や警察上層部は、あくまで強気の姿勢なのだろう。

釈放など許さない構えだ。

しかし、囚人は釈放しない、人質を解放しろで、その上、おれに投降しろなどと虫がよすぎる話だ。

どうせ、政府は死傷者の数に見合うだけの警察官の首を切ればいいとでも考えているのではないか。

だが、時田警視正の次の発言はおれの予想を覆すものだった。


「君の要求を、政府は部分的に呑むと、決定が下った」


おれは鼻で笑った。


「交渉人にはフェイクという戦術があるそうだが?」
「にわかには信じがたいだろう。 しかし、これは事実だ。
我々は人命尊重の観点から、君たち武装グループの要求を条件付きで認めることにした」


予想よりも五時間も早い。

正直、政府が要求を認めるかどうかは、やってみなければわからないところがあった。

よほど、今川の命が惜しいのか。

それとも、罠なのか。


「条件とは?」
「まず、君が指名した全ての人間を釈放することは認められない」


・・・いいぞ。


「とくに、国内過激派の主格、過去に政府転覆を企てた・・・」


時田警視正は、そう前置きして、一人二人と、おれの用意したダミーの名前を上げていった。

もともと、そいつらの身柄などどうでも良かった。

警察との交渉材料になると思ったからこそ、さも釈放を匂わせたのだ。


「ふざけた条件だな・・・」


本心をいえば、すぐにでも了承したいところだが、いきなり飛びついては逆に怪しまれる。

腹を立てるふりをしながらも、譲歩の姿勢を示すのだ。


「ということは、残ったのは・・・」
「筧洋介、南田君江、鮫島利勝の三名だ」
「ふざけるな。 たったの、三人だと・・・?」


予想通り、おれの父はリストに残った。

なぜなら、鮫島利勝は、過激派の一派と噂されていた時期もあったが、本物ではない。

実際には政治的な思想などなにひとつ持ち合わせてはいない、善良な死刑囚なのだ。


「これでも最大限の譲歩だとは思わないか?」


ああ、思うさ・・・素晴らしい。


「断れば、武力解決も辞さないというわけだな」
「最大限の譲歩と言っただろう。
これがいかに常識を逸脱した決断か、察してもらえないだろうか」


おれは、ひとまずうなずいておいた。


「回答は後回しにして、他の条件を聞こう」
「無論、人質の解放。 封鎖区域での暴徒の鎮静化。 そして・・・」
「我々の投降というわけだな・・・」


日本の法律で裁かれるなら、まず間違いなく死刑だろうな。


「では、囚人の身柄についてだが・・・」


おれは、どうやって父を含めた三名を国外に逃がすかを指示した。

日本海沿岸の小村まで空輸させ、そこから船で北朝鮮に・・・武器の密輸と大して変わらない。

船が日本の領海を離れれば、あとは手配しておいた仲間が父を拾ってくれる。


「了解した。 それでは、この取引は成立したと考えていいのかな?」
「五分後にかけ直す」


そう言って、通話を切った。

けれど、五分後の答えは決まっていた。

おれは、さすがに満たされる気持ちを抑え切れなかった。


・・・勝ったのだ。


感無量だった。


父さん・・・。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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ハルの予想通り、ワイヤーは無情にも切れた。

いまや、ハルの足元を支えるのは、一本の棒でしかない。

さきほどまで体重を支えていたワイヤーは二本になり、みしみしと音を立てていた。


「・・・っ・・・あ・・・」


まるでサーカス。

もはや、バランスを取ることすら難しい。

ふらふらと、半壊したゴンドラが揺れる。

体勢を立て直そうとするハルを、いたずらな風が煽る。


もう、限界だった。


ワイヤーが持たない。


引きちぎれていくワイヤーの音が、死神の囁きに聞こえる。


「京介、くん・・・」


切れ切れの吐息で呼んでみた。

窓ガラスの向こうに、人が現れる気配もなかった。

自分の恐怖に青ざめた顔があるだけだ。

なんとか歯を食いしばってみるものの、状況はなんら好転する気配を見せなかった。


ひどく、寒い。


また雪がちらついてきた。


ほとんど重さのないはずの雪ですら、いまは、ゴンドラに降り注いで欲しくなかった。


――ああ、どうすれば・・・。


心臓の音が耳の奥で爆発している。

足が、ついに、がたがたと震えだした。

勇者が欠いてはならないはずの勇気が、刻一刻としぼんでいく・・・。


恐る恐る、上を見た。

二本のワイヤー。

ハルの体を支える最後の命綱。

すでにその役割を終えようとしていた。


――京介くん、ごめんなさい。


最後に、ハルは彼を想うことにした。

恐怖に震えたまま死にたくはなかった。


気持ち悪いといいながらも、いつもかまってくれた。

幼少のころに交わした安っぽい約束を思い出してくれた。

彼こそが、暗い人生に暖かい春をもたらしてくれた。

彼を想っていたからこそ、復讐だけにとらわれることもなかった。


「ヴァイオリン・・・もう一度くらい・・・」


・・・せめて、彼のために弾いてあげたかった。


そして、その瞬間は唐突に訪れた。


足場の感触がなかった。


心臓が浮いた。


血液が逆流する。


無様な悲鳴を上げてしまう。


最後の悪あがきと、窓に手を伸ばす。


無駄だった。


窓ガラスは実になめらかだった。


視界が絶望に閉ざされた。


不意に、ガラスが割れる音が闇を切り裂いた。


ああ、彼は来てくれたのだ。


しかし、間に合わなかった。


ハルの身体は、もうすでに空中に投げ出されていた。


重力がハルを死の淵へと誘う。


意識が断続的になり、やがて途切れた。


最後に、京介の絶叫を聞いたような気がした。


彼を悲しませてしまったのが、心残りでならなかった・・・。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

 

 


それははじめ、ハルを呼ぶ声として自覚された。

死を認めたはずの脳が外からの刺激に再び活性化し、活力を与えられた細胞が息を吹き返そうと試行錯誤を繰り返している。


胸のすぐ下、胃の辺りに特に強い刺激があった。

締め付けられるような感触。

ぬくもりすらあった。

一度捕らえたものを逃すまいとする、獣の牙のような力強さがあった。


「ハル・・・!」


また、名前を呼ばれた。


今度は、すぐ耳元。

熱い吐息に思わず体が反応する。

男の声。

自分の下の名前を呼び捨てにする男性は、亡くなった父くらいのものだ。

ということは、ここは地獄なのか。


「目を開けろ・・・!」


しかし、この火照り具合はどうだ。

まるで、彼に抱かれているようだ。

夢でもいい。

ためしに目を開けてみようか。


もしかしたら。


そう、こんなことは、前にも一度あったような気がする。

あのときの空は夕焼けだった。

母からもらった大切な時計を落としてしまったが、命は助かった。

少年はハルをかばうように、抱きすくめてくれていた。


今も、そう――。

 

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「・・・京介、くん・・・!」


背後に、たしかな息づかいを感じた。

荒々しくも優しい吐息は十年前の少年のものだった。

いきなり悪態をつくような男の子ではなかったが。


「・・・手間かけさせやがって」


涙が、止まらなかった。


「どう、して・・・わたし・・・落ちたんじゃ・・・?」
「ああ、ぎりぎりだった。
銃には安全装置ってのがあるんだったな。 もう少しもたついてたら、終わりだった」
「どういうこと・・・?」
「ガラスをぶち破ったんだ、拳銃で」
「それは・・・なんとなく覚えているけれど・・・?」


落下の瞬間に、手をつかまれたような覚えはない。

が、現実にハルはいま、建物のなか、しっかりとした床の上にいる。


「間に合ったんだね・・・そっか・・・落ちたと思ったのは、錯覚だったんだね・・・」
「錯覚じゃねえよ。 実際、落ちてきたよお前は」
「・・・え?」


落ちて、きた――?


京介がしゃべるのもめんどくさそうに言った。


「ここは四十六階だ。 防火扉のせいでそれより上には行けなかった。
おれは下の階から、お前の乗っているというゴンドラを探した。 言っている意味はわかるな?」


うまく、頭が回らなかった。

ずっと彼の声を聞いていたいような甘酸っぱい感情が胸に募る。


「お前は胸もでかいし、髪もバカみたいに長い。
落下してきた瞬間を捕まえるくらい、わけなかったよ」
「そんな・・・」


簡単なはずがない。

ハルは四十八階か四十七階くらいの高さにいたのだ。

そこから、この四十六階までの距離は、最低でも三メートルはあったはずだ。

その落下速度とハルの体重を考えれば、支えた人間が無傷でいられるはずがない。


窓際を見やった。

床から一メートルほど上がったところに窓枠があった。

その一メートルほどの壁に京介は足腰をかけて、踏ん張ったのだろうか。

それがなければ、捕まえた本人も外に放り出されてしまっただろう。


「よく、最後まで生き残ろうとしたな」
「・・・はい?」
「窓にへばりつこうとしやがっただろ。 蛙みたいに」


ふん、と笑っていた。


そうか・・・。


窓のすれすれを落下したからこそ、捕まえてもらえたのだ。


「あ、ありがとう・・・ございました・・・」
「礼なんていい・・・」


とたんに、京介の腕から力が抜けていくのがわかった。

彼は死力を尽くしていたのだ。

煤にまみれた衣服と擦り切れた指を見れば、いかに辛らつな状況を切り抜けてきたかが理解できた。


「礼なんていいから・・・」
「あ、お、お金ですか・・・?」
「違う・・・」


声が、かすれていく。


「・・・もう一度、ヴァイオリンを・・・」

 

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それきり、京介は動かなくなった。

息はある。

気を失ってしまったのだ。


ハルは身をよじらせた。

けれど、もう少しこのままでいたいとも思った。

このままなにもかもを忘れて眠ることができたらどれだけ幸せだろうか。


命懸けで自分を救ってくれた男の腕の中で、少しだけ――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 


「・・・ぐ・・・っ・・・」


ずいぶん寝ていたようだ。

おかげで熱病のようにうなされていた意識はわずかに持ち直した。

けれど、腰や手足、太ももの痛みが思いなおしたように活気づいていた。

すでに、山王物産からテロリストたちは撤収していたが、おれたちは安全のため、再び階段を使った。

二人とも、のろのろと、亀のような動きで、途中、何度も休憩を挟んだ。

 

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「だいじょうぶですか?」
「ああ・・・」


心配されるのは苦手だ。

笑う膝を、なんとかごまかす。


「・・・実は、移動した人質の居場所がわかったんです」
「どういうことだ?」
「ゴンドラに乗っているときに、地上で移動するバスを見つけたんです。
ビルの前から出発して、ちょうど、セントラル街の奥のホテル街の方へ行きました」
「よく見ていたな」
「ええ、バスは明るかったですし、移動するルートもネオンでいっぱいの明るい道でしたから」
「うん、それで?」
「この情報は大きな武器になるのではないかと?」


おれは曖昧にうなずいた。


「なるほどな・・・人質の、得に今川議員の居場所さえつかめれば、警察も突入してくるだろうな」


思案した後、言った。


「近くまで行って、確認してみよう」
「え・・・いいんですか?」
「このまま、あるのかわからない脱出路を探すよりは、確実性がある」


ここまで来てただ逃げ出すのでは、腹の虫が治まらないという理由も少しあった。

怪物の仇を討てと、おれのなかの獣が牙を研いでいた。

おれたちは、互いに肩を支え合いながら、セントラル街の奥へ向かった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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事件発生から約十六時間後。

・・・午前、五時。

警察の対応は迅速だった。

日本海沿岸の漁村に潜む仲間から、先ほど囚人三名をこちらの手配しておいた漁船に乗せたと報告があった。


「結構だ。 鮫島利勝以外の二名は、警察との取引に使ってもいいし、邪魔ならば海に突き落としてもかまわん」


さて・・・。


勝利は約束された。


あとは・・・京介、だろうか。


「フフ・・・せいぜいがんばってほしいものだな」


期待しているぞ、我が半身よ。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

栄一の親父が経営しているというホテルの前を横切った。

 

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「たしか、あっちの通りの方へ・・・」
「ああ、バスが停まってるな・・・」


小さなビジネスホテルがあった。

入口には、銃を構えた男が立っている。


「あそこですね・・・」


おれたちは通りをはさんだ路地の角から、ホテルの様子を探っていた。

突如、入り口のドアからぞろぞろと人が出てきた。

スーツ姿の一団・・・捕らえられていた人質たちだ。

岩井の姿もあって、心底安堵した。

一列に並んで歩き、バスに乗り込んでいく。

人質の列のなかに、今川の姿はなかった。


「浅井さん、これではっきりしましたね・・・」
「ああ、今川はあのホテルに捕らえられているんだろうな」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

「こちらは約束どおり、囚人を所定の場所で引き渡した」
「ご苦労だった。 では、こちらも人質を解放しよう」
「今川議員も?」
「察しがいいことだ。
彼については、仲間が操舵する船が日本の領海を出たら、解放しよう」
「封鎖区域で行われている暴力行為を即刻やめさせたまえ」
「努力しよう。 すぐに収まるものではないと思うがな」
「さて、肝心の君たちの投降についてだが・・・」
「慌てるな。 約束は守る。 もはや、この身がどうなろうともかまわない」


交渉の合間に、ホテルの屋上から周辺を偵察しているアランからある報告があった。


・・・おれはほくそ笑んだ。


勝利だ。


もはや、船は止まらない。


あとは・・・。

 

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

おれは宇佐美に小声で話しかける。


「問題は、どうやって警察に信じてもらうかだが・・・」
「ええ、もう少し明るければ、写メでも撮ってやるところなんですが」
「でも、もう少し近づけないかな?」


人質が乗り込んでいくバスは、かなり明るい。

車内の照明が外まで漏れている。


「・・・たしかに、明かりが取れそうですね」
「暴徒Aが素通りするとみせかけて、こっそり盗撮する」


ホテルの入り口と、人質が護送される瞬間を捉えた一枚があればいいだろう。

おれたちは意を決して、おずおずとバスに向かっていった。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「時田警視正、少し待て」


おれは、不意に通話を切った。

ホテルの外に向かって飛び出した。

懐から拳銃を抜き、バスに乗り込んでいく人質の列を割って通りに出る。

 

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・・・宇佐美!


ヤツは屋上から落とした。


・・・まさか、生きてこの場に現れるとはな・・・。


京介と二人、堂々と通りの真ん中を歩いている。


なぜ、ここにいるのか?


このホテルが人質の居場所だとにらんだ結果だろう。


なにやら、まっすぐに歩いているようで、徐々にバスに接近してくる。


バスに近づいてどうする気か?


まさか、銃撃戦を演じて人質を助けようとはしないだろう。


ふと、京介の右手のなかで、フラッシュが炊かれた。


――カメラか。


警察を呼び込む気だ。


おれは冷静に、二人に向かって発砲した。

 


―――――

 

 


「・・・っ!」


おれの頬のすぐ横を銃弾がかすめていった。

 

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振り向けば、黒い"魔王"。


「鼠が・・・!」

 

・・・。

 

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直後、おれと宇佐美は計り合わせたように、地面を蹴っていた。

酷使しすぎた筋肉が、一斉に悲鳴を上げる。

死にたくなかったら動けと、身体に命じた。

もう、写真は抑えたのだ。

逃げ切れば、助かる!


再び、銃声。


生命本能に火がついた。

おれは走りながら、振り向きざまに一発、撃ち返す。

当然、"魔王"に命中するはずもなく、ただ、反動で手首を痛めただけだった。

しかし、一瞬の足止めにはなったようだ。


「あっちです!」


おれたちは細かい路地に逃げ込んだ。


・・・。

 

―――――

 


・・・。

 

銃声が響いた先の路地を追った。


「ちっ・・・!」


宇佐美と京介が逃げ込んだのは、行き止まりの袋小路だった。

にもかかわらず、二人の姿はない。

右手には居酒屋やスナックの裏口らしきドアが三つ連なっていた。

左手にもドアが一つ・・・こちらは物置のようだ。


どのドアか・・・。


候補は右に絞るべきだ。

左を選べば、逃げ場はなく、閉じ込められる形になる。

なぜなら、居酒屋やスナックには表の出口があるだろうが、物置は行き止まりだからだ。

では、三つあるうちのどれが正解か。

一番手前が最も怪しい。

慌てて逃げている状況では、余計な距離を走る余裕はないはずだ。

ためらいなく、手前のドアのノブを回す。

鍵がかかっている。

ヤツらが内側からかけたのか、それとも、もとからかかっていたのか。


・・・いや、待て。


さらに奥のドアを見て気づいた。

ドアの鍵穴が撃ち抜かれている。

さきほど、この路地から一発の銃声が響いた。


つまり、ここだ・・・。


・・・。


ドアを押し開ける。


しゃがんで武器を構え、万一の逆襲に備えた。


いない・・・。


明かりのない居酒屋の店内。

読み違えたか。

椅子は乱れ、テーブルの上に食器が割れている。


不覚。


逃げる二人が踏み荒らしたにしては、店内は荒れすぎている。

鍵穴を打ち抜いたのは、暴れまわった"坊や"たちということか。

路地から聞こえた一発の銃声はただのおとりだったわけだ。

そのとき、目の端に動きが見えた。

路地を挟んだ物置のドアが、ゆっくりと開く。

銃口がのそりとこちらを向いた。

とっさに身を伏せ、弾丸をやりすごした。

弾が床に跳ね返る甲高い音を聞きながら、おれはトランシーバーを取り出し、仲間を呼び出した。


「私だ・・・」


宇佐美も京介もなかなか悪運が強いな。


愉しかったぞ・・・。


しかし、おれの決意は固い。


いまさら警察を呼んでも無駄なのだ。


おれはアランに告げた。


「お遊びは終わりだ。 わかるな?」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

どうやら、思ったほど傭兵の数は多くないようだ。

おれと宇佐美は、追ってを振り切り、セントラル街のメインストリートまで来ていた。

宇佐美が荒い息を整えながら言う。

 

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「お怪我は?」
「いまのところ平気だ」


しかし、たった一日で、一生分の体力を使い果たしたような気がする。

もう、足が、完全に棒になっていた。


「追われたことで、あそこに人質がいるってはっきりしたな」
「ええ・・・しかし、警察にどうやって画像を送ればいいのかと・・・」
「時田に協力してもらおう」
「なるほど・・・そういえば、ユキから二回くらい着信がありましたね。
電話を受ける暇もなかったわけですが」
「時田はたしか、お偉いさんの娘だろ。
おれたちが暴徒じゃないって証明してくれるかもしれない」


宇佐美はさっそく電話をかけた。


「・・・あ、もしもし、ユキか・・・わたしだ。
うん・・・無事だ・・・そっか、ニュースでだいたいのことはわかってるな?
今川議員の所在をつかんだ。
いまから画像をメールするから、なんとかしてお父上に取り計らってくれ・・・」


でも、犯人との対決の真っ最中に、警察官が家族からの連絡を受け入れてくれるものなのだろうか・・・。


いや、緊急で、事件に関係する重要な情報の提供なら・・・。


警察も、今川議員の場所はとにかく知りたいだろう。


「任せといてと言ってます」


・・・ひとまず、時田を信じるしかなさそうだな。


「やはり、"魔王"なのか、とも・・・」
「そうか・・・」


時田は"魔王"と会ったことがあるのだから、その人物像も警察に語るだろう。

当然、警察は"魔王"と時田の関係を追及することになる。


「ちょっと代われ・・・」


宇佐美から携帯をひったくる。


「よう、時田」
「元気? その様子じゃ元気じゃないみたいね」


挨拶につきあっている暇はない。


「この暴挙の首謀者は、お前も知ってる"魔王"だ」
「いま聞いたわ。
ニュースでは、アサイと名乗っていると言っていたけれど」
「そうなのか・・・しかし、おれたちはいまさっきも襲われたところだ。 犯人は"魔王"だ」
「わかったわ。 私もこれから、知っていることを警察にあらいざらい話すわ」


やはりか・・・。


「わかっているだろうが、学園での立て籠もり事件のことは警察には言うなよ」


時田はためらいがちに言った。


「・・・承知したわ」


通話を切った。

しかし、"魔王"の関係者とわかれば、時田もただではすまないだろうな。

過去に"魔王"に従って、いくらかの犯罪者と出会ったというが、その際に、わずかな罪も犯していないとは言い切れないだろう。


・・・まあ、それは、時田が自分でまいた種だ。

自分で、けりをつけるだろう。


「さて、あとは警察が来るのを祈るとしよう」


幸いにも、おれは形だけは武装している。

ごつい拳銃がお守りとなって暴徒を追い払ってくれるだろう。


「・・・・・・」
「ん、どうした?」


なんだ、難しい顔しやがって・・・。


「いえ・・・」
「ん?」
「・・・なにかが、ひっかかりましてね・・・」
「たとえば・・・」
「いえ、漠然としているんですが・・・」


・・・。

 

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「なにか・・・おかしいような・・・」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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数十分後、おれは再び警察との交渉に乗り出していた。

だが、不意に、時田警視正の流暢な口調が淀んだ。


「・・・投降してこい・・・いまから一時間以内に武装を解除し・・・」
「なんだ?」
「なんでもない。 機材のトラブルだ。 さて、どこまで話したかな?」


・・・なにかあったな。


「どうした、アサイ


おそらく、京介たちの送った画像が、対策本部に届いたのだ。


「おい、聞こえているのか?」


特殊班とSATが突入してくるのも、時間の問題だな。


「ああ、聞こえている。 安心してくれ。  約束どおり、投降の用意はある」
「だが、いまだに人質は解放されていないが?」


間違いないな・・・警察もいくらか強気に出てきている。


「負傷者がいるため、手間取っていた。 いま、人質を乗せたバスが発進したところだ」


・・・しかし、もう遅い。


父を救えたのだ。


やるべきことを成し遂げたおれは、母を想った。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

しかし、十分、二十分とたっても、一向に警察が突入してくるような気配はなかった。


「なぜでしょうね?」
「わからんが・・・考えられるのは、突入経路がないからじゃないか?」
「ですね・・・なんとかして、こちらから作れないものでしょうか」
「・・・・・・」


宇佐美の目は真剣だった。

やってやれないことはなさそうだった。

おれのなかに、今日昨日と培ってきた闘志が蘇る。

確認したとおり、プロフェッショナルの傭兵らしき男の数は、暴徒に対して圧倒的に少ない。

ということは、封鎖地点にも、もろい箇所があるはずだ。

道を塞いでいるトラックを動かすことができれば・・・。

「宇佐美、堀部の電話番号はわかるか?」
「え? あ、はい・・・アイスアリーナの一件で」
「ヤツらの協力があれば、封鎖地点を守るガキの一人や二人、排除できるだろう」
「では・・・」
「ああ、こうなったら強引に、警察を招きいれてやる」


"魔王"め、あんたの思い通りにはさせないぞ。


兄さんの悲しみはわからないでもない。


母親を守れなかったおれが、兄さんを責める資格はないのかもしれない。


けれど、"魔王"は、宇佐美を殺そうとした。


何度も、弄んだ。


報いを受ける理由は、それだけで十分だろ、恭平兄さん・・・。

 


・・・。

 

G線上の魔王【28】


・・・。


翌朝、おれは時田を自宅に招いた。

 

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「ノリコ先生の反応はどうだった?」
「概ね許してくれるそうよ」


「ユキ・・・あまり一人で悩むなよ」
「・・・・・・」


どこか釈然としない様子だった。


「さあ、"魔王"について知っていることを話してもらおうか」
「といっても、ほとんどわからないのだけれどね・・・」


時田は"魔王"と出会った経緯から話し始めた。

話を聞き進めるうちに、"魔王"の実力がかいまみえた。


「それで、"魔王"はいったい、お前からどんな見返りを求めていたんだ?」
「それが、まったく。 てっきり、父を利用するのだと思っていたのだけれど・・・」
「わからんな・・・子供を集めてなにをしようっていうんだろう・・・」


"魔王"は人の心を弄ぶのが好きみたいだが・・・。


「"魔王"の潜伏先は?」
「驚かないで欲しいけれど、このマンションのすぐ近くよ。
もっとも、複数ある拠点の一つなのだけれど」
「ひとまずそこを探ってみないか?」


「いえ、もう、もぬけの殻でした」
「手がかりの一つも?」
「それどころか、まるでわたしをあざ笑うかのように、部屋の鍵が開いていました。
くまなく探しましたが、髪の毛一本落ちていませんでした」


時田が考えるように言った。


「"魔王"はよく、山王物産のビルに出入りしていたようよ」
「うん・・・昨日も、なにか怪しげだった」


そこで思いついたのか、宇佐美は昨日メモを描いた似顔絵を掲げた。


「この外人さんなんだが、見たことないか?」
「あ・・・」


目を細めた。

 

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「会ったことあるわ。 傭兵だって紹介されたけれど」
「傭兵?」
「名前は、たしか、アランだったかしら。 偽名だと思うけれど」
「どんな話をしたんだ?」
「戦場での話を少し。 といっても、とっくに引退しているって言ってたわ。
"魔王"とはかなり深い関係にあるみたいね」


ますます不安が募る。


「時田、お前がまんまと誘惑されるくらいだから、"魔王"はやはりとんでもなく交渉上手なのか?」
「語学は堪能みたいよ。
警察のマニュアルにあるような交渉の基本的なスキルは熟知しているみたいね。
なにより、人を騙すことにかけては病的なまでに得意だわ」
「病的?」
「本物の社会病質者はね、嘘を嘘だと自覚しないまま話すことができるの。
彼は本物ではないと思うけれど、それに近いくらいの凄みがあるわ」


「"魔王"は、人を手にかけることになんのためらいもない」


苦々しい顔でうなずいた。

聞けば聞くほど、ため息が出る。

昔おれと一緒に遊んでいたころの、強くて優しい恭平兄さんはどこにもいない。


「"魔王"の目的は、おれの父、鮫島利勝の釈放だ」
「となると、傭兵を雇って、武器も資金も潤沢にある"魔王"の行動は・・・」


「脅迫でしょうね。 どこぞに爆弾をしかけたとか・・・」


「あるいは、人質を取って山王物産のビルに立て籠もるか」


おれの発言に、二人ともうなずいた。

"魔王"は、山王物産に恨みを抱いていると思う。

父さんの裁判は、なぜか圧倒的に宇佐美に有利だった。

父さんにも同情の余地がある点は、わずかに触れられただけで、大きく報道されることはなかった。

これについては、山王物産の現専務の染谷が、かばいだてしたのではないかと裏では噂されていた。

なぜなら宇佐美の悪行が知られると、甘い蜜を吸っていた染谷も一緒に捕まるからだ。


「ひとまず、街に出てみよう」


宇佐美も続いた。


「時田は白鳥のお守りだろ?」


ふっと笑った。

 

 

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「助けてくれてありがとうね、京介くん」
「いいから金を用意しておけよ」


「また連絡する。 水羽と椿姫によろしく」


おれたちは外に出た。

 

・・・・・・。

 

はやけに冷え込んでいた。

 

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「昨日の晩、雪が降ったらしいっすよ」


今年最後の寒さが、肌を刺す。


「今日も降りそうだな・・・」

 

・・・おっと。


珍しいヤツから電話だ。


「やほー、兄さん元気ー?」
「よう、海外からか?」
「携帯も進化したねー」


相変わらず能天気そうな花音だった。


「パパリン死んじゃったって?」


誰かが連絡したのだろう。


「通夜は今日だ。 無理して帰ってこなくていいぞ」
「いまもう空港だから」
「・・・まあ、わかった。 着いたら連絡しろや」
「やったー、迎えに来てくれるんだねー」
「じゃあな」
「あ、ちょっと・・・!」


おれは一方的に通話を切った。

花音に、ショックを受けた様子はなかった。

権三の死を、いまだに信じていないのかもしれない。

思えば花音も不憫だな。

ヤクザの組長を父親に持つ、人気フィギュアスケート選手。

権三がにらみを利かせていたうちは、スキャンダルになることもなかったが、これからはわからないな。

問題のある親の子供であるというだけで、差別は確実に・・・。


「浅井さん・・・?」


覗き込むように、宇佐美が見ていた。


「宇佐美・・・」


家族が問題を起こしたというだけで、家庭は崩壊する。

それを、おれはよく知っているつもりだ。


「どしました? 自分のことが好きなんですか?」


同意の上とはいえ、肌を重ねた少女。


「てれますね、見つめないでください」


・・・違和感の正体は、これか。


「ちょっと、市役所寄っていいか?」
「ま、まさか、婚姻届ですか!?」


おどける宇佐美とは対照的に、おれの気分は沈んでいた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


数時間後。

 

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「悪い、待たせたな」
「まったく、なんなんすか。 嫁をハンバーガーショップに置き去りにして」
「証人が二人いるって言われたから、ちょっと時間がかかった」
「どういうことか説明してもらえるんでしょうね、浅井さん?」
「もう、浅井じゃねえんだわ」
「はい?」
「離縁の手続きをしてきたんだ。
おれはもう権三の養子じゃない。 今日、この日から、鮫島京介だ」
「マジすか? なんでまた?」
「まあ、なんとなくな。 気持ちの整理っていうヤツか?」
「しかし・・・いいんですか?」
「ああ、権三も死んだしな。 もう小判ザメでもいられないし、浅井って名乗っている意味がないんだ」
「自分は、これからあなたをなんと呼べばいいんですか?」
「好きにしろよ。 京介でいいじゃん」
「・・・恥ずかしいんですよね、素で言うのは」


離縁なんて、形式上のことなのだが、なにかすっきりするものがあった。

母さんは死んだ、兄さんは"魔王"になった。

そして、父さんは・・・。


いままで、おれは逃げていた。


・・・父さんに、会いに行こう。


「あ、ちょっと待ってください。 これで、花音とも兄妹じゃなくなるんですよね?」
「それがどうした?」
「いえ・・・ちょっとやきもちを」
「そういうのは、黙ってたほうがかわいいと思うぞ」
「そすかね」
「とっととオフィス街に向かうぞ」


目指すは山王物産のビル。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

・・・やけに人通りが多いと思ったら、今日は休日か。

 

 

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「昨日は、静かだったんですがね」


セントラル街にはいつも通りの活気があった。


「おい、京介」

 

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「よう、久しぶりじゃん。 生きてたか?」
「そりゃ、こっちのセリフだよ。 事情はユキ様から聞いたよ。
なに二人してばっくれかましてんだよ」
「学園とか超なつかしいんだけど」


「エテ吉さん、その後、ノリコ先生はどうなりましたか?」
「いやもう、俺の女よ。 この前、優しいところ見せちゃったから。 これからデートよ」


・・・本当かねえ。


「立て籠りの件に関しては、ユキ様を恨まねえよう、とりあえずビシッとしつけといたから」
「頼りになりますねえ」


「栄一、最近、街で変わった噂とか聞かないか?」
「噂?」
「"魔王"とかよ」
「聞かねえけど、昨日の夜は、なんか大きなイベントがあったらしいな」
「どんな?」
「いや、路上をよ、トラックが十台くらい走ってた。 ホストの宣伝みたいだったけど・・・」
「十台ってのは普通じゃねえな」
「あとは、オフィス街へのメインの道路で、事故があったの知ってるか?」
「マジで? なんか工事してたよな? 下水かなにかの」
「破裂したらしいぜ。 水道管が」
「んじゃ、いまは、通行止めか?」
「噂じゃ、なんかラリったチンピラの仕業らしいぜ。
作業員にいきなり襲い掛かったらしいよ」


・・・ただのいたずらにしちゃ、度が過ぎているな。


「まあ、わかった。 じゃあな」


「デートがんばってください」


「おう・・・お前らも、なんか知らねえけど、ヤバいことに首突っ込むなよ?」


珍しく真面目な顔で、おれたちを見送ってくれた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「山王物産まで行って、どうします?」
「来客ぶって、なかの様子を探ってみる。
ひょっとしたら、"魔王"ないし、橋本なしい、例の外人を見かけるかも」


いちおう、染谷専務とは東区の開発のときに、顔を合わせたことがある。

いきなり会いにいってアポが取れるとは思えないが、社内にいる口実の一つにはなるだろう。


・・・・・・。

 

・・・。


山王物産のエントランス。

休日だろうが、人の出入りは激しいようだ。

公用車らしきセダンが二台、正面入り口の前でとまった。

 

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「浅井さん、あの人って・・・」


ドアから、黒服に守られるように出てきたのは、政治家だった。


今川恒夫。


ニュースでよく顔を見る、与党の幹部だ。

現首相の忠実な下僕としてあらゆる政策の先頭に立ち、次期総裁も噂されている実力者だ。


「"魔王"は、政治家にもつながりがあるんでしょうか」


だとしたら、もう、おれたちなんかの手に負える敵ではないかもしれないな・・・。


「ハルちゃん? ハルちゃんじゃないか?」


不意に、背後から声をかけられた。


「あ、裕也さんじゃないすか。 ども」


岩井裕也だった。

童顔だが、体操選手のように引き締まった体をしている。


「偶然だね。 元気にしているかい? 親父も、なにかとハルちゃんのことを気にかけていてね」


まぶしいくらいに爽やかな笑顔。


「どうも」
「こんにちは、先日、屋上でお会いしましたね」


おかげで、宇佐美との思い出を取り戻すことができた。


「無事、再会することができたんですね」


心底うれしそうに言う。


「ええ・・・」
「いや、良かった。 幼いころの二人は、まるで恋人どうしでしたからね」


「すいませんね、自分は、あなたのことシカトしてたみたいで」
「ははっ、ハルちゃんは変わってたからねえ。 なかなか声もかけられなかったよ」


にじみ出る雰囲気は、なんとなく椿姫に似ていた。

幸福な家庭に育ち、まっとうで明るい人生を歩んできた者特有のにおいがする。


「そうだ、食事は済ませたかい?」
「いえ・・・」
「いまランチタイムでね。 よかったら、三人でどうです?」


おれは岩井の誘いに乗ることにした。


「そうですね、思い出話もかねて、屋上で弁当でも」


これで、社内に長居する口実ができる。

そんな思惑も知らずに、岩井は口元を緩めた。


「いいですね。 三階にうまい弁当屋があるんです」
「企業のビルなのに、そんなのあるんですか?」
「レストランもあるし、郵便局の出張所もあるし、スーツの仕立てをしてくれる店もあるよ。
最近じゃ、歯医者もできたんだ」


さすがに、巨大企業は違うな。


「それじゃ、行きましょうか」


紳士のように、さっと手を差し伸べてくる。

手を見れば、その人間の歩んできた人生がわかるという。

おれには、そんな慧眼(けいがん)はないが、岩井の手は爽やかな外見とは裏腹に、ごつごつしていた。


「ああ、学生のころ、日雇いのバイトをしていましてね」


無遠慮な視線に気づいたのか、てれくさそうに言った。

父親が、山王物産の重役とはいえ、苦労知らずのお坊ちゃんというわけではなさそうだ。

岩井裕也は、おれにとって、目を合わせていられないタイプだった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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山王物産の役員室を目指し、堂々と歩みを進める集団があった。

アランも現役を退いたとはいえ、足音も立てずに歩いている。

他の三人の傭兵たちも、来客のビジネスマンを装いながらも、周囲に目を光らせている。

総合商社のビルを、白人と黒人がアタッシュケースを持って歩いていたとしても、なんら違和感はない。

道順は目をつぶってでもわかるよう入念に調べあげていた。

四十九階にある、染谷専務の執務室。

思惑通り、来客中らしかった。

重々しく閉ざされたドアの横で、カードリーダーのランプが訪問者を拒絶するように赤く点灯していた。

かまわず、用意しておいた偽造カードで、ドアを開ける。

 

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「失礼いたします」


慇懃(いんぎん)に礼をしてぞろぞろと中に入る。


「・・・君は・・・っ」


広々とした室内には、専務の染谷と与党の政治家今川が、革張りのソファに腰掛けていた。

他にも、今川の秘書役が一人、山王物産の役員が三名ほど顔をつき合わせていた。

今川の後ろには、SPらしきスーツの男が二名。

上着の下に、拳銃を所持しているふくらみが見えた。


「なんだ、君たちは! どうやって入ったんだ?」


役員の一人、脂ぎった顔をした初老の男が息をまいた。


「ご無沙汰ですね、染谷室長。 その後、いかがです?」


室内の中年どもが、一斉に染谷を仰ぎ見る。

ぶしつけな乱入者と、面識があるのかと動揺しているようだ。


「日中に会うのは初めてだな。 いや、こうしてみると、やはり若い」


憮然として言った。


「なんの用かな、"魔王"」
「さすがに肝が据わっていますね。
この場で、私の存在を隠そうとしないのは好感が持てます」
「君は大切なビジネスパートナーだ。
皆さんにご紹介しよう、彼こそが、我が山王物産を影で支えてくれた男だ」
「どうも初めまして。 そちらは、今川先生ですね?」


今川、彫りの深い顔の眉間に、しわを刻んだ。

こいつが、今日、染谷との面会に来訪するという情報は前もってつかんでいた。


「実は染谷室長、今日は、長年お仕えしてきたぶんの、報酬をいただきにうかがいました」
「・・・そうかね」


まるで、覚悟を決めていたかのようにうなずいた。


「染谷さん、いったいなにが始まるのです?」


今川のあごが染谷に向けられた直後だった。

 

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銃声と同時に、二人のSPが倒れた。

わざわざ脳天に一発ずつ。

パフォーマンスとしては十分だ。

遅れて上がる、役員どもの悲鳴。


「お静かに。 あなた方は殺しません」


腰を抜かしていないのは染谷と今川の二人だけだった。


「・・・いったい、なにが目的だ?」


口がきけるとは、さすがに大物政治家は違うな。


「いい執務室ですな、室長」


室内を見渡す。


「トイレも、バスルームも完備ですか。
そちらの冷蔵庫にはビールでも冷やしてあるのですか?」
「ああ、おつまみもある。
一日や二日籠城するにはもってこいの部屋だよ」
「助かります。
では、全員、私がいいと言うまで、両手を頭の上に置いてください。
そう、そのまま。 部屋の隅に集まってください」


染谷が、全員を促した。


「指示に従ってください。 彼は本気だ」
「ずいぶんと素直ですな
「いつか、こんな日が来るとは思っていたよ。 なぜなら君は"魔王"だからね」
「机の下にある、非常用ボタンは押さないのですね」


染谷は力なく笑った。


「警察のSPですら瞬時に殺した君たちに、警備会社の人間が太刀打ちできるとは思わんよ。 今川先生も、馬鹿な考えはおやめください」


今川は先ほどから、しきりに胸の辺りに腕を伸ばそうと、機をうかがっていた。

おそらく外で控えている警護の人間に連絡を取ろうとしていたのだろう。

おれはひとしきり満足した。

最初に抑えるべきは、三点。

この染谷の執務室を含む四十九階のフロア。

人質の確保は問題なく成功した。

次に、ビルの管理をつかさどる四十七階のコンピュータールーム。

ビル内の、空調、温度調節などの環境管理、電気関係などのエネルギー管理、電話システムなどの通信監理をスーパーコンピューターが一手に引き受けている。

制圧すれば建物のありとあらゆるドアや、通用口、防火扉の開閉を行うことができる。

最後に、屋上だ。

警察は必ず屋上からの急襲を想定する。

屋上には絶えず歩哨を立たせておかなくては・・・。


「アラン、この場は頼んだぞ」


アランの肩を叩き、おれは部屋をあとにした。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「いやあ、実を言うとね、幼いころから、君たちとは友達になりたいと思っていたんだよ」


売店で買った弁当をつつきながら、楽しそうに言う。


「よく、ここで二人を見かけていたからね」
「近づきがたい雰囲気でもありましたか?」
「うん、君たちは、恋人同士なんだろう?」


「ど、どうなんですか、浅井さん?」


おれはたまらず首を振った。


「まさか・・・」
「ガーン!」


「あれ、そうなんだ」


岩井はまた、椿姫みたいな笑顔を見せる。


「あたなは、独身ですか?」


・・・なぜか、そんなことを聞いてしまった。


「自分と結婚しろ的な話を、裕也さんのお父様からされましたが?」


岩井が頭を抱える。


「親父のヤツ・・・まだそんなことを」
「・・・本当ですか?」


宇佐美と岩井は、そんなに親しい関係なのだろうか・・・。


「いや、誤解しないでください。
うちの父は、ハルちゃんのお父さんを慕ってましてね。 ハルちゃんを不憫に思ってるんです」
「・・・まあ、なんでもいいですが」


・・・なんでもよくはないのだが、つい尖った態度を取ってしまった。


「気を悪くしたらすみません。
僕も、もう二十六ですから、親父もいい相手の一人くらいいないのかと、うるさくて・・・」
「宇佐美がいい相手とは・・・なかなか変わった好みをしていますね」


「またトガる!」


おれは腰を上げて、屋上を取り囲む鉄柵に寄った。

超高層ビルの屋上からの景色を眺める。

たしかに、大発展したな。

都心のベッドタウンとして、市内に住宅地がひしめいていた。

宇佐美と初めて出会ったころは、セントラル街もなかった。

ふと、下を見る。

高所恐怖症ではないが、さすがに肝が冷える。

外壁に窓ガラス清掃用のゴンドラがあったので、よけいに地上との距離感がつかめてしまった。


「昔を懐かしんでいるんですか?」


と、そのとき、屋上の入り口の鉄扉が開いた。

浅黒い肌に彫りの深い顔立ち。

外国人らしき長身の男が、おれたち三人に目を止める。

スーツ姿にアタッシュケース・・・社員が休憩でも取りにきたのか・・・?


「すぐに降りろ」


発せられた日本語には違和感がなかった。

年齢は二十代にも四十代にも見える。

さらにもう一人、似たような風体の外国人が屋上にやってきた。

二人とも厳しい目つきをしている。


「どうかしましたか?」


外国人は岩井の言葉を無視して、懐に腕を伸ばした。

 

戦慄が走った。

 

「降りるんだ」


威圧感の漂う口調で拳銃を向けていた。


「あなたたちは・・・?」
「指示に従え」


連れの男も、いつの間にか拳銃を抜いていた。


「お前たちは人質だ」


すぐには言葉の意味を把握できなかった。


「この建物は、1300時から、すでに我々の制圧下にある。
状況を理解したら、指示に従え。 この者について行くんだ」


言って、もう一人の男に英語で何か命じていた。


「浅井さん・・・」


おれのすぐ隣で宇佐美がぼやいた。


「ああ・・・」


・・・占拠?


そんなことを急に言われても、まったく現実感がない。


しかし、"魔王"なら・・・。


「・・・わかりました」


岩井が引きつった顔で、ちらりとこちらを見た。

おれたちも、この場は両手を上げて、指示に従うほかなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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無線から声が届いた。


「よし、コンピュータールームはおさえたな。 四十八階はどうだ?」


クリアしたと、報告が届く。


「余分な人質は多ければ多いほどいい。 それも、無抵抗な女であることが望ましい」


間を置いて、屋上からの連絡があった。


「屋上、確保しました」
「結構。 屋上に人はいなかったか?」
「社員が一名、子供が二人いました。 現在、四十八階に移送中です」
「よろしい」


・・・しかし、子供か。

社員の子供でも紛れ込んでいたか・・・なんにせよ人質としては使える。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

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四十八階のランプが点滅していた。

銃口に急かされ、エレベーターを降りる。

パーテーションで区切られた広々としたオフィスだった。

窓際の一箇所に、大勢の男女が集められていた。

銃を構えた男がそれを上から見下ろしていた。

人質の群れに加わるよう、うながされた。


「浅井さん・・・」


後ろを歩く岩井が、小声で言った。


「左手の通路の奥は非常階段だ」


言われた方向をちらりと見ると、非常口のランプがあった。

距離にして十メートルほど。


「ハルちゃんを連れて逃げてくれ」


・・・待て。


・・・どうする気だ?


けれど、岩井はおれの懸念など気にもかけなかったようだ。


直後、背後で岩井のうめき声があった。


「・・・苦しい・・・」


膝を折り、床に崩れ落ちる。

背後の外国人が岩井に銃を向けた。

立て、と英語で叫ぶ。

岩井は苦しそうに、腹を押さえて、その場にうずくまった。

男がさらに何か叫んで、岩井の背広をつかんだ。


「・・・っ」


瞬間、宇佐美の腕を引いた。


くそ!


宇佐美は足をもつれさせながら、なんとか駆け出した。


止まれ!


背後から揉み合う音が聞こえた。


銃声と、悲鳴と、怒号が連続する。


・・・・・・。

 

無我夢中で床を蹴った。

通路を折れ、非常口の闇に飛び込む。

薄明かりのなか、階段を二段、三段と飛ばし降りる。


再び銃声。


全身が恐怖に凍りつくより早く、足を動かす。

隣を走る、宇佐美の荒い吐息。


「このままじゃ、追いつかれます!」


ことここにいたって、宇佐美は冷静だった。

冷静に、頭上から迫る足音に気づいていた。

ガキの鬼ごっことはわけが違う。

凄まじい速さで階段を駆け下りてくる。


「宇佐美、お前はこのまま走れ!」


階段の踊り場で、不意に足を止めた。


「できません!」
「いいから行け!」


追手の足音はすでに一つ上の階まで迫っていた。

猟犬のような息づかいが聞こえる。


「浅井さん!」
「ぐずぐずしやがって!」


言い争いをしている暇はなかった。

おれは猛然と、いま降りてきた階段を駆け上がった。

宇佐美の涙混じりの声が耳にまとわりついた。


もう、破れかぶれだった。


銃を持ったテロリストに素手で立ち向かう。

外道の最後にはふさわしい、無様な死に様だろう。


「京介くん!!!」

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


「人質に逃げられた?」


例の、屋上にいた子供たちらしい。


「いや、問題はない。 いまから四十六階の防火扉を閉めて、それより下のフロアを閉鎖する。 努めて追う必要はない」


四十六階より上を完全に支配下に置くのだ。

もともと不特定多数の人質を確保する予定ではあったが、一人や二人欠けても計画に支障はない。


「持ち場に戻れ。
いまは、作戦を時間通り遂行させるのが先決だ」


・・・・・・。

 


・・・。

 


―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 


不意に、得体の知れない音が非常階段に響き渡った。

警戒音とともに、頭上からキャタピラが回転するような音がした。

シャッターらしきものが降りてくる。


「危ない!」


はっとして前を向いたとき、銃口が迫っていた。

弾丸が頬をかすめていった。

とっさに足がもつれ、床に尻もちをついた。

けれど、第二射はなかった。

目の前にはいつの間にか、厚いシャッターが折りて、追ってを防ぐ壁となっていた。


「はあっ・・・っ・・・」


ようやくまともに呼吸ができたような気がする。


「浅井さん、お怪我は?」
「・・・だいじょうぶだ・・・」


状況はわからないが、とにかく命拾いしたようだ。

手足がこわばり、次第にがたがたと震えてきた。


「お互い、無我夢中でしたね」
「そうだ・・・岩井は・・・?」


宇佐美が黙って首を振る。

答えが用意されているはずもなかった。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

再び報告の連絡があった。

子供たちには逃げられたらしい。

どうにも社員の一人が二人をかばって、不意に襲い掛かってきたらしい。


「その勇敢な男は、死んだのか?」


拳銃の底で殴りつけて昏倒させたという。

 

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「見上げた男じゃないか。 手厚く看護してやるといい」


さて・・・。


街の様子はどうなっているかな・・・。

 


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

「どうやら、いま我々は四十六階にいるみたいですね」
「ああ、占拠されたっていうのは本当らしいな」


ようやく気分が落ち着いてきた。


「なぜ逃げなかった?」
「いえ、浅井さんには、この前も助けていただきましたし」


時田の件かな。


「あれはおれも血迷っていただけだ。 次は、おれの言うことを聞けよ」
「・・・・・・」
「ひとまず、このビルを出よう」
「・・・しかし・・・裕也さんが・・・」
「見捨てるしかない」


ためらいなく言った。


「助けだせるわけないだろう?
だいたいなんのために、あの人が身をていしておれたちをかばってくれたと思ってるんだ?」
「・・・わかっていますが・・・」
「・・・なんだよ、そんなにあの人に世話になったのかよ」
「それもありますが・・・"魔王"が・・・」


おれはさすがに吹き出してしまった。


「お前、この期に及んで、まだ"魔王"を捕まえたいとか思ってるのか・
映画の『ダイハード』見たか? おれはブルーズヴィリスじゃねえんだぞ?」


銃弾がかすめたときの、空気を裂くような音が、いまだに耳に残っている。


「いま、こうして五体満足で生きていられるだけでも、奇跡みたいなもんだ」


必死さが伝わったのか、宇佐美もようやくうなずいた。


「ひとまず、ここにいるのは危険ですね」
「そうだ。 とっとと出よう」
「・・・・・・」
「頼むよ、ハル。 おれはお前を危険な目に合わせたくないんだ・・・!」


つい、口が勝手に動いた。

 

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「あ、ありがとうございます・・・」
「いや・・・」


まるで呪いだな。

まともな頭が働けば、この状況で逃げないやつなんていない。


・・・ヴァイオリンか。


「出よう。 あとは警察に任せるしかない」
「はい・・・すみません、自分、どうかしてましたね」


おれはそっと、宇佐美の肩に手を置いた。


「"魔王"は勝手に捕まるだろうさ。
ビルを占拠するなんて、自ら逃げ道をふさいでいるようなもんだ」
「そうですね・・・だと、いいんですが・・・」


傷ついた少女の顔をしていた。


「帰って、クラシックでも聞こうぜ」


下の階で、喧騒があった。

『逃げろ』『エレベーターが動かない』などと叫んでいる。

どうやら上の階の騒ぎが、下にも伝わったらしい。


「どうやら、逃げられそうだな」
「ですね。 "魔王"も、五十階あるビルのすべてのフロアを制圧する必要はないでしょう」


・・・まだ、"魔王"の考えを読み取ろうとしているのか。


「人質は、我々が見た数十人と・・・おそらく、例の政治家の方でしょうね」
「わかったわかった。 家でじっくりと、ニュースを見よう」


おれは宇佐美の手を取って、一歩一歩階段を下りていった。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

 

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同日午後一時三十分。


富万別市のセントラル街にある交番に、血相を変えて飛び込んでくる若い巡査の姿があった。


――大変です!


セントラル街では、一日に何度も聞く台詞だった。

とにかく激務で知られている交番なのだ。

一日に、千件を越す道案内、落し物の届出受理。

風俗店のトラブルや、違法な客引きの取り締まり。

酔っ払いの喧嘩に、暴力団の小競り合い。

なにより多いのは未成年者の補導に指導だった。

交番長の警部補は慣れたもので、新聞のスポーツ欄に目を落とした。


――火災です! ドラッグストアで放火が!


警部補はふと顔を上げた。

巡査の後ろに、数人の若者がいる。

見慣れた悪がきどもだった。


――なにか用か?


少年たちは答えなかった。

恐ろしく無表情。

いったい、なんだ。


パン、と音がした。

目を剥いて倒れた巡査の後ろで金髪の少年が銃を構えていた。


まったく、状況が理解できない。


けれど、警部補の脳の処理速度など無視して、銃口が再び火を噴いた。


少年たちが、嬌声を上げてはしゃぐ。


パン、パン、パパパパン。


まるでお祭りの爆竹のような陽気さが――。


・・・。

 

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同日午後一時三十五分。

山王物産の本社ビルがある区域にも、ちらほらと雪が舞い落ちていた。

俗にセントラルオフィスと呼ばれる商業区画では、山王物産をはじめ、世界中のあらゆる企業が参入している。

いわば富万別市の財布ともいえる地域だった。

山王物産から二百メートルの範囲には、細い道路がいくつもある。

ビルとビルの間を、毛細血管のように張り巡らせた路地だ。

休日であろうと、様々な商品を運んだトラックが道幅狭しと通行している。

その路地に大型トラックが堂々と鎮座していた。

道路に対して横向きになるように停車している。

あたかも血の流れを塞ぐように、道を詰まらせていた。


――おい、なにしてやがんだ、くそ野郎!


柄の悪そうな男が、声高にトラックに近づいていった。

トラックのドライバーに食って掛かる。

ドライバーは、なんの冗談か、軍服を着ていた。


――北区域、全域を封鎖しました。


わけのわからないことを無線機に向かってつぶやいていた。


――あ、あんた、いったいなんだ?


柄の悪そうな男の声がしぼんだのは、ドライバーが拳銃の引き金に指をかけていたからだ。

逃げようと思ったときには遅かった。

自衛隊

いや、違う。

もっと頭のいかれた――。

 

・・・。

 

 

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同日午後二時三十分。

警視庁警備部警護課第三係の警部は、係員からの定時連絡が途絶えたことを懸念していた。

通常、SPが選挙運動期間中でもなしに、政治家の警護に派遣されることはないのだが、警護対象が、かの今川恒夫であれば話は別だった。

つい先日、今川は熱烈なまでの親米政策を打ち出し、野党はおろか国内過激派の逆鱗に触れるにいたった。

連日に渡る脅迫まがいの文書やいたずら電話に頭を悩ませた今川が、警視庁に身辺警護を要請してきたのである。


――なにがあったのか?


SPは、要人警護の性質上、警察官のなかでも優秀な人材がそろう部署だ。

とくに格闘術、射撃術においては、普通の制服警官の実力を上回る。


それが、一切の緊急コールもなしに打ち倒されるとは、とうてい考えられる事態ではない。

覆面パトカーのなかで不安げに山王物産ビルを見上げていた警部の耳に、爆音が届いた。

それもビルからではない。

セントラル街の方角だ。

見れば、火災でも発生したらしく、黒い煙が上がっている。

火の元は、一つや二つではなさそうだ。

ガソリンスタンドに引火でもしたのか・・・。

ビルのエントランスから、にわかに人があふれ出してきた。

皆、血相を変えて、外に飛び出てくる。

着の身着のままという格好だ。

中には転んで踏み潰された人もいるらしく、悲鳴と怒号が聞こえる。


――なんだ、どうした?


警部が車内から降りたその瞬間だった。

カカカッという聞きなれない銃声が鳴った。

制服警官が持っている警察の正式拳銃も、そのような乾いた連続音はしない。

人がばたばたと倒れ、悲鳴がさらに極まった。

警部はとっさに、所轄の警察署に応答を願った。

なかなか返答はなかった。

度を越えた非常事態に、報告が相次いで、対応できないとしか考えられない。

再び、例のカカカッという銃声が耳に届いた。

さらに、耳元で騒ぎとは対照的に落ち着いた声が上がった。


「こんにちは」


短機関銃をかまえた男が二人、さらに一歩進み出る若い男がいた。

身を乗り出して、警部の持っていた無線端末を勝手につかんだ。


「前線基地が確保できたら、いまから言う携帯にご連絡を」


そして、颯爽と歩き去った。


警部は、声も発することができなかった。

脇の二人の男が構えていたのは玩具ではない。


三人組は、逃げ惑う人々を駆り立てるように、短機関銃を闇雲に乱射していた。

空に浮かぶ黒煙。

絶えることのない悲鳴と絶叫。

ニュースで見る中東市街地での暴動のような光景が、いままさに繰り広げられつつあった。


直後、銃口が目の前にあって――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 


―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

「・・・浅井さん・・・」


おれたちは、ビルから大挙して逃げ惑う人々の群れに混じっていた。

我先にと階段を駆け下りる大人たち。

転倒して怪我をする者も多かった。

行列を組んだ避難民のように出口を捜し求める。


「浅井さん、これは・・・」


ようやく外の空気を吸い込んだとき、おれたちは知った。


「宇佐美・・・」


ビルから出れば、ひとまず助かる・・・そう思っていた。


「はい。 予想の斜め上をいかれました」


占拠されたのは山王物産の本社ビルだけではなかった。

前方から機関銃の発射音とともに、悲鳴が上がった。

安全など、どこにもない。


・・・。

 

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容赦なくなぎ倒される人の波。

飛び散る、血と肉。

常に上がり続ける、悲鳴、銃声、激突音。

空気がこんなに焦げ臭くなるなんて知らなかった。

しかも、何が燃えているのかわからないくらいの火の手が上がっている。

遠くの空は煙に霞んでいた。

 

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「ひとまず、どこかに身を隠しましょう」


現実感の希薄な世界にいたおれは、宇佐美にうながされるまま、セントラルオフィスの路地を目指した。

路地に差しかかったあたりで、パトカーが走りこんできた。

サイレンを鳴らしながら、路肩に停車する。

おれはパトカーが連想させる警察・・・国家権力という響きに、思わず、ほっと胸をなでおろした。


「逃げましょう・・・!」


とっさに腕を引かれた。

物陰から、十数人の少年たちが鉄パイプを片手に飛び出してきたのだ。

パトカーのフロントガラスやボンネット、さらには出てきた制服警察官の頭を目がけて殴りかかった。


・・・そんな・・・冗談だろ・・・!?


少年たちの一方的な暴行には、なんの躊躇も見出せなかった。


「浅井さん、早く!」


飛び込んだ路地で、おれたちはさらなる暴挙を目の当たりにした。

普段は、路上生活者などが暮らす、薄暗い細道。

数人の男が女性に乱暴していた。

脇にうずくまって痙攣しているのは、女性の連れか。

不意に、上方でガラスが割れた音がしたとかと思うと、空から人が降ってきた。

ヤクザ風の男はすでに血まみれで、口から泡を吹いていた。

それに、髪を赤く染めた少年が角材を振り下ろし、止めを刺した。

誰かがおれたちに向かって指を差した。


殺せ、犯せ・・・笑いながらにじり寄ってくる。

おれは宇佐美の手を握りながら走りに走った。

徐々に、体が現実を認識し始めた。

まるで、テレビで見る、アジア各地の半日デモのような世界。

セントラル街は、すでに暴力の坩堝(るつぼ)と化していた。

飲食店のガラスは叩き割られ、レジに群がる少年たちがお札をばらまいていた。

スポーツカーが人だかりを蹴散らし、普段は渋滞する道路を我が物顔で突っ切っていく。

道端では、サラリーマン風の中年がよってたかって血祭りにあげられていた。

交番の外壁に、公衆トイレの落書きみたいな文字がスプレーされていたのを見て、ようやく悟った。

警察の助けなど、まるで期待できない。


「クーデターっていうんですかね・・・」


違うだろう。

テロというには無差別すぎるし、反乱や蜂起というには下品すぎる。


「地獄だ・・・」


宇佐美がうなずいた。


"魔王"が、地上に地獄をもたらしたのだ――。

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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午後四時ちょうど。

おれはセントラル街の最後の路地を封鎖したとの報告を受けた。


「結構。 これで、山王物産を中心とする半径約三キロの区域は、我々の国となった」


国の名前は、ネバーランドでも富万別市国でもなんでもいいが、とにかく、おれの求める地獄が地上に姿を現した。

右を見ても左を見ても、破壊と暴力しかない。

どうやって、この無法地帯を成立させるか・・・それに長年の準備を費やしてきた。

このセントラル街には約四十の出入り口がある。

せれをすべて、これまで入念にかわいがってきた"坊や"たちが制圧した。

道路を塞ぐだけならたったの十分で済むという試算があった。

前もって盗んでおいた貨物用トラックなどを、建物に突っ込ませ、路地を通行止めにするバリケードとするのだ。

さらに、建物とトラックの隙間などに土嚢を高く積み上げ、有刺鉄線を張り巡らせる作業がたったいま完了した。

山王物産の占拠と、国会議員今川の拉致もこれに合わせて練られた計画だった。


「よくやってくれた。 みんなで力を合わせて国を守ろう」


報告をしてきた"坊や"に優しく言った。

彼らには、この計画が荒唐無稽な夢物語ではないことをじっくりと説いてきた。

多少の知恵と、多少の異常性があれば、誰にでもできる。


携帯が鳴る。


警察が使う番号だった。


・・・さて、警察にも、現実を認識させてやるとしよう。

 

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「こんにちは、あなたは本件の責任者かな?」


ボイスチェンジャーなどは用いない。

どんな機材を使ったとしても、いまの警察技術では、声紋は必ず分析されるからだ。


「私は県警捜査一課特殊班の時田だ。 本件の責任者と考えてもらってかまわない」


声には強い意志と、威厳が備わっていた。

この県警の特殊班は警視庁のSITや大阪府警のMAATと並んで、体制が充実している。

彼らは、人質立て籠り事件、誘拐事件、企業恐喝などのプロフェッショナルとされている。

おれのような凶悪犯相手には、重装備で出動し、説得が通じない場合は強硬突入してくる。


「初めまして、時田警視。 いや、警視正かな?」
「警察の階級に詳しいようだな。 君はまさか、警察内部の人間じゃないだろうね」


さすがは本物の交渉人。

いきなり、さぐりを入れてくるか・・・。


「私のことは"浅井(アサイ)"と呼んで欲しい。
ひょっとしたら公安あたりが実態をつかんでいるかもしれないから、聞いてみるといい」
「わざわざすまないね。 手間がはぶけるよ。
お礼と言ってはなんだが、こちらがいかにして君たちを包囲しているか忠告してもいいだろうか?」
「ぜひお願いする」
「現在、セントラル街、セントラルオフィスに至る全ての道路を完全通行止めにしてある。 歩道も同様だ。
ロープを張って、カメラを抱えたマスコミもシャットアウトしている」
「手際がいいな。 事件発生からまだ三時間しかたっていない。
警視庁からも応援の機動隊が来ているのかな?」
「細かい説明は不要のようだな。
各封鎖地点にはすでに装甲車両やSATの移動用バスも待機しているぞ」
「お見事。
では、防備のもろそうな、ドラッグストア近くの封鎖地点に装甲車両を突っ込ませて、突入経路を確保したらどうかな?」
「ご指摘ありがとう。
だが、今川議員の現在地、安全が確認できない現状では、突入は見合わせる方針だ」
「賢明だな。 いま、こちらでどんな騒ぎが起きているかは知っているな?」


セントラル街には、犯罪防止用の監視カメラがいくつか設置されている。


「さっき、カメラから送られて来た映像を見た若手が、トイレに駆け込んでいったよ。
いやはや、まるでこの世の出来事とは思えないな」
「暴挙に及んでいるのが、ほぼ未成年だという点に注目していただきたい」
「承知しているよ。
少年たちの行動は無秩序で野蛮そのものだが、計画の立案者は実に周到だ」
「もし、この問題先送りで評判の国の総理が、未来をになう少年少女を皆殺しにしろとSAT隊に命令できたら、これからは私もきちんと選挙に行くとするよ」


しかし、相手は未成年者であろうがなかろうが、警察もおいそれとは突入できない。

あれだけの高さを誇るトラックを乗り越えてくるのは、実際、傭兵であっても難しい。

よじ登っている最中に狙い撃ちにされるのは、目に見えているからだ。

当然、犠牲を省みずに攻め込んでくれば突破されるだろうが、果たして警察上層部が、そんな分の悪い強行突入を許可するだろうか。

おれにとって一番の脅威は、やはり自衛隊だ。

日本の自衛隊は、こと白兵戦においては世界でもかなり上位の実力を秘めていると、傭兵仲間の間でも話題に上がっていた。

さすがに軍隊とやり合っては勝算が薄い。

けれど、日本の陸自が市街地におけるテロ対策を考え始めたのはここ数年のことだという。

民間人を巻き込んでの戦闘ともなれば、その圧倒的な火力を発揮できないだろう。

空挺部隊が上空から押し寄せてくる可能性もあるが、誰が民間人で、誰がテロリストなのかわからない条件下では、やはり同じことだ。


「虐殺命令が降りてこないことを祈っているよ。 そうならないように、私が来ている」
「話し合いで解決するのが一番だな、時田警視正。 我々は味方だろう?」


はは、と乾いた笑いが帰ってきた。


「いや、浅井には驚かされるばかりだよ。
君は、交渉人のマニュアルなど熟知しているのだろう?」
「どうかな。 少なくとも、無理に会話を引き伸ばす必要はない。
私は"粗暴犯"ではないつもりだ」
「・・・そのようだな」
「ついでに、あなたがFBIにも留学したエリートだということも知っている。
長らく閑職についていたことも、ユキという養女がいることも・・・」
「参ったな。
いま、私にわかるのは、君が日本人で、年齢が二十代後半から三十代前半。背が高くて痩せ型ということだけだ」


優れた交渉人は声を聞いただけで、相手の年齢や出身地、知性や現在の心理状況まで把握できるという。

体格についても同様に、声の大きさや高さから、声帯の大きさ、ひいては慎重や体重まで推し量ることができるという。


「それでは、通常の交渉の段階をすっ飛ばして、あえて聞いてみてもいいかな?」


さらに、相手の出方次第で違う仮面をかぶることができる。

しかし、おれには通用しないと判断したのだろう。


「要求はなんだ・・・!」


それまでの柔和な態度はどこへやら。

時田警視正は、仮面をぬぎさって、敵意をむき出しにしていた。

卑劣な凶悪犯をなんとしても捕まえようとする警察官の矜持(きょうじ)が、電話越しにも伝わってくる。

おれは礼節を持って応えることにした。


「首相に要求する。 今から私が言う者を即刻釈放せよ」


そうして、国内の政治犯、過激派と呼ばれる人間の名前を、一人、一人、あげていった。

そのなかには、過去に過激派とのつながりを疑われていた、俺の父、鮫島利勝の名前も含まれていた。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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ところどころえぐられているタイル張りの歩道。

散乱したガラスの破片。

折れ曲がって、今にも落ちてきそうな街灯。

かつての商店街は、いまはもう見る影もない。


「・・・宇佐美、どうだ?」


おれたちは大破した車の陰に隠れながら、脱出路を探っていた。

 

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「ここも、ダメです」


セントラル街を抜ける大通りでは、大型バスが横転していた。

車体の上に土嚢が積み上げられ、それより先は見えない。

セントラル街の外からは、救急車や、パトカーのサイレンがけたたましく鳴っている。

拳銃や短機関銃を手に掲げた軍服の男や少年が、外に向かって威嚇するかのように、発砲していた。

あたりでは、相変わらず殺戮が繰り広げられている。

ストリート系ファッションの男の子たちが、不幸にも街中に取り残された人々を追い立てていた。

なかには女もいた。

皆、示し合わせたかのように、拳銃か鉄パイプを手に握っていた。


「・・・さん・・・」
「ん、何か言ったか?」


鼓膜が、すでに音を拾う許容量を越えていた。

コンクリートが破壊される音。

絶叫と銃声。

けたたましい金切り声。

地面を蹴る音。

人がぶつかり合う音。

断末魔の叫び。


――おい、てめえら。


だから、おれたちに背後から浴びせられた声にも気づかなかった。

宇佐美がおれの手を引いてくれた。

 

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全力で走り抜ける。

折れ曲がった道路標識の下をくぐり、すすにまみれたガソリンスタンドを突っ切った。

そこかしこから、はやし立てるような声と口笛が聞こえる。


「・・・っ・・・!」


宇佐美がつらそうに顔をゆがめていた。

きっと、おれも同じくらいに情けない顔をしているだろう。

あごが上がり、すっぱいものが喉を駆け上がってくる。

窓ガラスの全て割れた喫茶店に飛び込み、ようやく背後を振り返る。

髪の毛を逆立てた男が、にやけながら近づいてきていた。


「・・・っ、ここは、まずい、ですっ!」


そうだ・・・。

出入口が一つしかないような建物に逃げ込んでどうする・・・!


酸欠にめまいを覚えながら、割れたガラスの散らばる地面を蹴った。


――あそこだ!


呼応するかのようにどたばたした足音がする。

路上に出ると、再び、足腰を叱咤した。

蓋の開いたマンホールを飛び越え、道路を横断する。

老人の死体や壊れた自動販売機が通りすぎていった。


しかし、それは絶望的な逃走をいえた。

どこをどう逃げ惑おうとも、暴徒たちは沸いてくる。


「どこかに・・・っ・・・身を、隠さなくてはっ・・・!」


走っているというだけで目立つ。

ビルの角を一つまがった。

二百メートルほどさきに、デパートの看板が見えた。


「あそこだっ!」


逃げ込めそうな場所はそこしかなかった。

大手百貨店のデパートには出入口は複数ある。

店内にはトイレや階段や洋服の影など、隠れられそうな場所はいくらでも考えられる。

小悪魔たちは、おれたちだけを追い回しているわけではない。

見失えば、きっとあきらめるだろう。


・・・。


デパートのなかは外とたいして変わらなかった。

ショーケースが割られ、床に貴金属が散乱している。

引き裂かれたバッグや、倒れたマネキンの上を乗り越えて、おれたちは身を隠せそうな場所を探した。


・・・。

 

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「はあっ、はあっ、はあっ・・・」


デパートの二階。

洋服店の試着室で、おれたちは身を寄せ合って小さくなった。

嗚咽交じりに肩で息をし続けると、ようやく生きた心地がしてきた。


「・・・宇佐美、怪我はないか?」
「鍛えてますので・・・」


かすかに笑った。


「さて・・・どうするかな・・・?」
「しばらく逃げ回って、暴徒が沈静化するのを待ちましょう」
「沈静化するかな?」
「彼らはとくに目的を持って破壊を続けているわけではなさそうです。
壊すものや人がいなくなれば、飽きるでしょう」
「それは、つまり、おれたちみたいな餌がなくなるまで、ずっと隠れてろってことか?」
「そこなんですがね・・・」


宇佐美が、考えるように息を潜めた。


「・・・えっ?」


直後、カーテン越しに、足音が聞こえた。

とっさに押し黙り、息を殺した。


「誰かいんのかあっ?」


いかにも不良少女といった感じの巻き舌の声。

おれたちの話し声を聞き取っていたらしい。

靴音が迫ってくる。

どうする、と目で宇佐美に言った。

見つかれば、もう逃げ場はない。


「おい!?」


・・・いっそのこと飛び出すか。

不意をつけば、発砲が逸れるかもしれない。

もう一度、宇佐美を見つめた。

この非常時に、肌を重ねあったときの感触が、どういうわけか蘇る。

おれは意を決した。

なんとしても、こいつを・・・。

カーテンが開いた瞬間に飛び掛るべく、おれはゆっくりと腰を上げて――。


「いやあっ、やめてえっ!!!」


瞬間、腕をつかまれた。

やわらかい感触が手のひらにあった。

室内の壁に逃げるように身を引いて、自ら上着をたくし上げる。


「・・・っ!」


動揺よりも混乱よりも先に頭を回した。

宇佐美と長らくつきあってきて理解している。

こいつは、おバカだが、やけに機転が利くのだ。


「おとなしくしやがれっ、このアマ!」


とっさに下着の下に手を這わせた。


「泣いてもわめいても無駄なんだよ!」


少女を押し倒す。


「やっ、離して!」


ふと、頭上から声があった。


「おいっ・・・」


ちらりと仰ぎ見ると、片手に拳銃を構えた金髪の少女が、おれたちを見下ろしていた。


「い、いやっ、やああっ!」


宇佐美が必死に身をよじらせる。


「なんだ、お楽しみ中か・・・」


おれはできるだけ悪そうな声音を選んで言った。


「そういうことだ、てめえは失せな。 こいつはおれの獲物ってわけよ」


少女は拳銃を下げた。


「勝手にやってな・・・」


踵を返し、エスカレーターに向かって歩き去っていった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

「ふうっ・・・なんとか助かったな・・・」
「いや、ありがとうございます。 さすが浅井さん」
「痛くなかったか、胸」
「あ、いえ・・・」


恥ずかしそうに唇を噛んだ。


「しかし、浅井さん、完全に悪党でしたね。
某世紀末アニメに出てくるモヒカンばりでしたよ。 シビレました」
「好きだな、それ」


・・・しかし、よく減らず口がきけるもんだ。


「いまので確信しました」
「うん?」
「彼らには、特に、誰が味方で誰が敵かという区別がないようです」
「・・・そのようだな」


恰好もまばらだし、なにか味方であることを示すような印を身につけているわけでもない。


「単純に逃げ惑う人や、武器を所持していない人、あからさまに青少年ではない大人たちが、彼らにとっての獲物というわけです」
「そうか・・・よく冷静に観察していたな。 しかし、なぜだろう?」
「おそらく、"魔王"が警察の突入を躊躇させるためです。
誰が一般人で、誰が暴徒なのかわからない状況では、警察官の動きも鈍るでしょう」
「うん・・・そうかもしれんが、いまはそんなことはどうでもいいじゃないか。
とにかく生きてこの地獄から脱出しなかれば・・・」


ただ、希望は見えてきた。


「おれたちは見た目もガキだし、隠れていれば、連中をやり過ごすことができそうだな」
「・・・ええ」


なにか、不満げだった。


「けれど、連中のなかに、我々を知っている人間がいれば話は別です」
「・・・む」
「浅井さんはよくセントラル街をうろついていたでしょう。
自分も、バイト先のドラッグストアの看板娘として有名ですから」


・・・なにが看板娘か。


「ひとまず、日が落ちるまではここに隠れていよう」
「・・・わかりました」


宇佐美が無表情にうなずいた。

未曾有の危機にあって、勇者は、驚くほど冷静だった。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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「・・・繰り返す。 不当に逮捕された同志たちを解放せよ」


おれは要求を突きつける。


「いまから八時間の猶予を与える。 八時間以内に誠意ある回答を期待する。
さもなければ、我々はこの街が焦土と化すまで破壊をやめない。
今川を筆頭に、多くの人質が命を落とすだろう」


これだけ派手に街の人間を殺しておいて、いまさら人質もなにもないように思えるが、実際は違う。

国会議員と一般市民とでは命の重みが違うからだ。

今川が死ねば、おれの知る限り、少なくとも三つの巨大企業と、鉄道会社、道路事業団などが利権を失うことになる。

さて、時田ユキの父親の切り返しに期待するとしようか・・・。


「ひとまず、了解した」


交渉人は犯人の要求を拒んではならないとされている。


「突っ込んだ質問をいいだろうか」
「なにかな?」
「君は、過激派の一味なのかな?」


・・・鋭いな。


「それ以外のなんだと?」
「いや、そうか・・・すまなかった」


国内過激派の一味にしては、おれの年齢が若すぎると踏んでいるのだろう。

せいぜい、犯人像の特定に時間を費やすがいい。

"魔王"の正体が鮫島恭平であるということは、京介と宇佐美に知られてしまっている。

おそらく、京介の周りのヤクザ連中には知れ渡ったことだろう。

けれど、まだ、この乱の首謀者が"魔王"だとは警察もつかんでいないだろう。

いずれわかるにしても、死んだはずの鮫島恭平の人物像を特定するのは困難だ。

おれは警察の厄介になったことはないし、写真もほとんど残っていない。

これまで宇佐美と遊んでやったときも、物証だけは残さぬよう細心の注意を払ってやってきた。


残り、八時間。


引き伸ばしはあるだろうが、それだけ逃げ切ればいいのだ。

電話の向こうで、時田警視正が考えるように言った。


「しかし、要求の達成は限りなく難しいと、君もわかっているのではないか?」
「フフ・・・ピザを差し入れろというのとはわけが違うからな」
「そう。 囚人の釈放は、私はもちろん、警察で対応できる要求ではない」
「だから、首相を出せと言ったのだ。
内閣総理大臣以下、関係官僚を招集して即刻会議にかけろ」
「報告しておこう。
ただし、八時間以内で意思表明できるかどうか、確約はできない」
「できるはずだ。
現在、地方遊説中の閣僚はいない。 時間の延長は一切認めない」


交渉人はよく、返報性の原理とよばれる心理学を応用し、犯人の要求を受け入れる姿勢を見せる代わりに、犯人からの見返りを求めてくる。


「八時間以内。 一分一秒の遅延も許されない」


よくあるのが時間の引き延ばしだ。


「了解した」


と言いつつ、期限が迫ればありとあらゆる手段でデッドラインを引き延ばそうとするのだろうな・・・。


「時田警視正。 私はあなたと交渉するつもりはない。
警察レベルで判断できる要求ではないことは重々承知している。
従って、あなたは私の意志を伝える連絡役となってもらえればいい。
いわば、ただの友人だ」
「光栄だな。 では、友人として、私の個人的な見解を述べてもいいだろうか?」
「どうぞ」
「君の望みが、かなえられる可能性はある」


・・・どういうつもりだ。


「政府および警察は、人命を重んじて、過去にいくつもの事件で、超法規的に犯罪者の逃亡を幇助してきた。 1970年の事件などは君にとって好例だろう」
「・・・・・・」
「安心したまえとは言えないが、勝算はある。
だからこそ、いますぐにでも、街で行われている破壊活動をやめてはどうかな。
一般人に死傷者が出ている以上、釈放を検討する会議において反対意見が出ることも予想される」


おれはゆっくりと首を振った。


「犯罪者の釈放について、政府が方針を転換していることを、私は知っている。
先の同時多発テロでは、首相がテロリズムには屈しないと声明している」
「・・・・・・」
「もはや、時代が違うのは承知している」


心が凍りついていく。


「だからこそ、私は前例のない規模でのテロを敢行しているのではないか?」


通常のテロでは、超法規的措置も、指揮権発動も期待できない。

政府が強気の姿勢を見せるのは、時田警視正が言うような過去の事件で、国内外からの非難が高まったからだ。


「飛行機をハイジャックする程度では、貴様らの目が覚めんと思ったからこそ、この地獄絵を描いたのだ・・・!」


父を返せ・・・。

 

・・・。

 

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なぜ死刑か。


たったの四人。


たとえば飲酒運転で殺人を犯した者、計画性のある犯行で幼児を惨殺した者が、のうのうと死刑を免れるというのに・・・!


・・・。


底無しの憎悪、底無しの悪意が、胸のうちで暴れまわった。


「今回の惨劇は全世界に報道されることだろう。
さらに我々はインターネット上に、殺戮の光景をくまなく流布している。
ぜひとも知るがいい。 死は間近にあるとのだと。
平凡な休日を過ごそうと恋人や家族とショッピングに出かけた矢先に、理不尽な死刑がいくらでも転がっている。 他人事だと思うなかれ。
一方的な殺戮が行われているのは、紛れもなく、平和で治安の優れたこの国だ。
我々は、いつでも、どこの街でも同じような事件を起こす」


前例のない規模でのテロ。

日本政府はもちろん、世界すら震え上がらせるために、おれはこの十年を捧げてきた。


「時田警視正。 約束しよう。
要求が満たされれば、我々は市内における破壊活動を即刻中止し、以後、二度と惨劇を繰り返さない」


つい、口が滑りそうになった。

我が父を解放するくらい、安いものではないか、と・・・。


「どうしても政府が体面を保ちたいと言うのなら、非公式な形での海外への亡命としろ。
釈放はしないが、身柄は解放するというわけだ。 そういった言葉遊びは、お手の物だろう?」


その提案こそが、おれのできる、唯一の譲歩だった。


「確認したいことがある」


神妙な声で聞いてきた。


「人質は無事だ。 後ほど、この街の商店街のホームページにリアルタイムで動画をアップする。 他に質問は?」


返答はなかった。


「では、八時間後。 なるべく早い段階での回答を期待する。
遅くなればなるほど、なんの罪もない一般市民が殺されていくのだからな」


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

夜になって、おれたちはデパートを出た。

おれは歩道に転がっていた角材を握り、宇佐美は折れ曲がった鉄パイプを手に持っていた。

これで、一見して暴徒の一味には見える。

 

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「逆に警察に見つかったら、撃ち殺されますね」


おれたちは堂々と路上を歩いた。

思惑通り、呼び止められることはなかった。

どこもかしこも、破壊と暴力の残滓(ざんし)が見て取れた。

死体、割れた窓、出口のない店の入り口。

とくに、死体は殴り殺されたのか、撃ち殺されたのか死に様は様々だ。

そこに、カラスが飛んできて、顔の辺りをうろつき始めた。


「・・・惨すぎます・・・」


宇佐美の読みどおり、暴徒はある程度沈静化していた。

いい加減疲れたのか、通りは不気味なこうらい静まりかえっている。

ときおり思い出したように、悲鳴と銃声が聞こえるくらいだ。


「出口を探そう」
「あるといいんですがね」
「細かい路地が無数にある繁華街だ。 どこか一箇所くらい抜けがあってもおかしくは・・・」


宇佐美が首を振った。


「目に見えてわかるような抜けがあれば、いまごろ警察が突入しているでしょうね」
「そうだな・・・」
「たとえば、密集しあった建物と建物のわずかな隙間はどうでしょう?」
「ありえる。 他にも、さっきのデパートみたいに、出入り口がたくさんある建物なら、中をつたって、セントラル街の外に出られるかも」
「心当たりは?」
「そうだな・・・セントラル街の出口に面していて、わりと大きい建物は・・・コーヒーショップと、カラオケ店、あとは・・・」


繁華街の風景を思い浮かべているときだった。


「おい・・・!」


はっとして振り返る。

素行の悪そうな男が五人。


「やっぱり、浅井と宇佐美じゃねえか」


最悪だった。

にたにたと笑っていたのは、クラスメイトの橋本だった。


「よう、橋本。 元気か。
その手に持っているのはなんだ。 オモチャか?」


ごつい鉄の塊が、外灯の明かりに銀色に輝いていた。

どこかで見たことのあるタイプの拳銃だ。


・・・そうだ、権三にしたがって、遠くの山に狩に行ったときだったな。

『慣らしに行くか?』などと誘ってきた養父が、もはや懐かしい。

そういえば、今日は権三の通夜じゃないか。

参列できそうにないな・・・。


「デートでもしてたのか? お前らも運がなかったな」
「まったくだ。 とんだ災難だよ」


五人組は、おれたちを獲物と判断したようで、じりじりと距離を詰めてくる。


「なあ、浅井、ものは相談だがよ」


意外な提案だった。


「おれたちの仲間にならないか?」
「・・・へえ、なぜだ?」
「時田から聞いたよ。 お前、ヤクザの息子なんだろう。
おまけにすごいボンボンじゃねえか。 そういうヤツは仲間に引き入れろって言われててな」


・・・橋本は、おれと"魔王"の関係を知らないようだな。

宇佐美の視線を感じた。


・・・この状況を切り抜けるには、従うしかなさそうだが・・・。


「宇佐美はどうなる?」
「そいつはわかんねえな」


口の端をゆがめて、取り巻きの少年たちにあごを向けた。

どいつもこいつも、いやらしそうな目つきをしてやがる。


「どうすんだ、浅井?」


すっと片腕を上げて、銃口をおれの顔面に向けてきた。

宇佐美の足元で、ぱりとガラスが割れる音がした。


おれの腹は決まっていた。


「なめたことぬかすんじゃねえ!」


瞬間、橋本に向かって角材を投げつけた。

銃口が火を吹いた。

しかし、おれにはわかっていた。

あの手のごつい拳銃は、片手で撃つものじゃない。

しかも、思いのほか当たらないのだ。

顔面を狙って当たるとは、どうしても思えなかった。

案の定、橋本は、発射の反動で腕をひねったらしく、無様に悲鳴を上げていた。


「宇佐美っ!」


掛け声と同時に、走り出す。

宇佐美もわかっていたかのように、おれのあとをついてきた。


「に、逃がすなっ!」


・・・。

 

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セントラル街のメインストリートを二人で突っ切った。

昼間の逃走よりも、はるかに分が悪い。

なぜなら、すでに獲物の絶対数が少なくなっているからだ。

暗がりのそこかしこから、橋本と似たような格好の少年たちが、くらげのように沸いてくる。

歩道の地べたに座り込んでいたB系スタイルの男女も、騒ぎを聞きつけて立ち上がった。

闇雲に拳銃を乱射し、嬌声を上げながら迫ってくる。


・・・どうする!?


逃げれば逃げるほど、追手の数が増えていく。


「はあっ、はあっ・・・」


前方にセントラルオフィスのビル群が見えた。

刺激の少ないオフィス街には、それほど若者もいないのではないか?


「うっ!」
「・・・っ・・・だいじょうぶかっ!」


死体かなにかに、足をひっかけたようだ。

転倒すれすれのところを、手を引いて引き上げた。


・・・しかし、まずい!


連中は、すぐ後ろまで迫ってきている。


「逃がすな、囲め!」


辺りからは悲鳴のような男たちの声。

差し迫る無数の足音。

目の前に殺気立った顔が並ぶのは時間の問題だった。


「すみませんっ・・・!」


膝でもぶつけたのか、痛そうに眉を吊り上げていた。

おれも、あごが上がってくるのを自覚していた。

もし、捕まればどんな目に合うか。

彼らは薄汚いハイエナ。

おれは殺されるだけで済むだろうが、宇佐美は・・・!


「宇佐美、お前はこのまま走れ!」


宇佐美の了解を待たず、おれは暴徒の群れにむかって反転した。

背後で、おれを制止する叫び声が上がる。

かまうことなく、突進した。


「二手に別れたぞ、追え!」


どうやら宇佐美も、四の五の言わずに駆け出してくれたようだ。

無論、おれも、黙って捕まるつもりはない。


「馬鹿ども、こっちだ!」


手を振って連中を招いた。

細い路地に飛び込む。

道幅の狭い場所なら、囲まれることはない。

誰か一人を殴り倒し、拳銃さえ奪えれば切り抜けられるかもしれない。


「・・・っ!?」


頭上から、何かが降ってきた。

顔面に衝撃を受けた直後、視界が暗転した。

上からいきなり飛び掛かってきたのは、人間だった。

フードをかぶった少年。

もがくおれを地面に押し倒した。

荒い息を上げながら、ナイフを振りかざす。

とっさに腕をつかんだ。


「ぐっ・・・!」


凄まじい腕力だった。

マウントを取られた格好では、抵抗する力が入らない。

少年の薬物で白く濁った目が間近にあった。

ナイフの鋭い光が眼前にきらめく。


「く、そおっ・・・!」


ハル・・・!


脳裏に瞬いたのは、やはり、あの気持ち悪い少女だった。


ゴッ、という鈍い音とともに、少年の目が裏返った。

ナイフを持つ手から力が抜けていくのがわかった。

少年の頭の向こうで、棒切れを握った人が立っていた。

まるで、自分がしたことを後悔するかのように震えていた。

見知った顔に、おれは言った。


「おいおい、いいのかよ、お前がこんなシリアスなシーンに出てきて・・・」

 

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「オレだっておっかねんだ、バカ!」


相沢栄一はおれを引き起こすと、すぐさま走り出した。


「早く隠れろ、この野郎!」


・・・そういえば、こいつもセントラル街に来ていたんだったな。

おれは栄一に促されるまま、路地の裏にあった店に駆け込んだ。

 

・・・。

 

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そこは、西条とかいう異常者を迫っていたときに立ち入ったバーだった。

店内は、窓が一つ割れているだけで、酒や食器が荒らされた様子はなかった。


「それにしても、オレ初めて人殴っちゃったよ。
ついにやっちまったよ。 これで、オレも真の鬼畜もんかねえ」
「助かったよ、マジで」
「マジ感謝しろ。 命の恩人だぞ」
「ああ、しかし、よく生きてたな」
「いや、オレも無我夢中でよ。 なにが起こってるのかわからねえし、とりあえずウサギの第六感ってヤツ? ずっとここに隠れてたわけよ」


・・・なんて悪運の強いやつだ。


「あ、ちょっと待て・・・」


おれは店内を見渡す。


「・・・ノリコ先生は?」
「・・・っ」


栄一の肩が震えた。


「ノリコは・・・あいつらに捕まって・・・」
「・・・・・・」
「つーのは嘘で」
「は?」
「デートの約束すっぽかしやがったからそもそも街に来てない」
「いや、いまはそんなんでも和むわ」


ほっと一息。


・・・いや、一息ついている場合ではない。


携帯を手にとって、宇佐美にかける。


けれど、電波の調子でも悪いのか、いつまでたってもつながらなかった。


「なあ、なにがどうなってんだ?」
「おれもわからんが、街からは出られないようだ」
「マジかよ・・・やっぱりな・・・そこらじゅうで悲鳴が沸いてるしよー・・・アメリカと戦争でも始まったかと思ったぜ」
「戦争というより、一方的な虐殺だ。
それも、ガキが大人をぶち殺す絵になってる。 交番も病院も役所も容赦なく火をかけられてたぞ」
「まさかと思うがよ、これも例の"魔王"とかいうヤツの仕業なのか?」
「・・・おそらくな」


・・・そういえば、主犯が魔王であるという証拠はなにもないが、おれと宇佐美は魔王がやったことだとほぼ確信していた。


「お前こそ、宇佐美はどうした?」
「・・・わからん」
「マジかよ。 つきあってんだろ、おめえら。
二人して学園さぼって温泉行ってるって噂だったぜ?」
「つきあってねえよ。 なんだ温泉って・・・」


時田あたりがてきとうなことを言ったのだろう。


「とにかく、おれは宇佐美を探す」


バーの出口に向かう。


「え、どこ行くの?」
「行くあてはないがな・・・」
「宇佐美と携帯がつながるまで待ったほうがいいんじゃねえのか?」
「いや・・・」


携帯を使えないほど危険な状況におちいってるのかもしれない。


「ま、待てよ、正気か!?」


栄一がおれの肩をたたいたそのときだった。


出口の扉の向こうにやつらがいる。


「浅井、そこにいるんだろう!?」


くそ・・・もう見つかったか。

容赦なくドアを殴りつけている。


逃げ道は・・・!?


割れた窓が一つ・・・裏口はなさそうだ。


栄一にわかるよう、窓を指差した。


「ダメだ・・・」


小声で言った。


「囲まれてる・・・」


銃声とともに、ドアが蹴破られた。


ぞろぞろと、ゾンビの群れのように、店内に押し寄せてきた。


橋本が煤(すす)や垢で黒くなった顔面を突き出して言った。


「逃げられねえよ」


学園で見かけていたバスケ部員の少年の面影は、どこにもなかった。


「てめえは、じっくり嬲り殺してやるよ」


不意に、背後から風圧があった。


目の前で火花が散った。


頭が焼けるように熱い。


「ぐ・・・っ・・・・・・」


視界が暗黒に包まれた。

栄一の甲高い声が聞こえたような気がするが、もはや、指先ひとつ動かせなかった。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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――京介くんは無事だろうか。


宇佐美ハルは、身をていして自分をかばってくれた男に胸を痛めていた。

彼のおかげで、なんとか暴徒の追跡を振り切ることが出来た。

本当に、冷たいくせに肝心なときに助けてくれる勇者だ。

すぐにでも安否を確認したかったが、それもかなわない。

何度電話をかけてもつながらないのだ。


セントラル街から離れたオフィス街では、暴徒たちの姿はあまり見えなかった。

少年たちのかわりに見かけたのは、銃を構え軍服に身をつつんだ大人だった。

ユキの言っていた、傭兵だろうか。

一人しかその姿を確認していないことから、人数は多くないのだと思う。

見かけた一人も、むやみに人を撃ち殺したり、追い回したりせずに、あたりに目を光らせながら粛々と巡回していた。


ハルは、いついかなるときでも考える。


モスクワの劇場を爆破され、母を失ったあの日から、いかなるときでも"魔王"への怒りを忘れない。


プロフェッショナルを配置するということは、"魔王"にとって、このあたりが、特に重要な区域だからだ。

次に、"魔王"にとって、なにが重要なのかを考察してみる。

"魔王"の要求は、京介が言うように、父、鮫島利勝の釈放だろう。

主な人質は、今川という政治家。

他にも山王物産の社員などを囲っていた。

これはおそらく、警察が交渉を渋ったときに、見せしめとして殺害するためだろう。


果たして警察は要求を呑むだろうか。

囚人の釈放はすでに警察レベルで対処できる問題ではない。

けれど、"魔王"もそのへんは心得ているはずだ。

勝算もなく、ここまで大がかりな犯罪を起こすとは思えない。

過去に前例のない規模でのテロを起こすことで、政府の判断を迷わせているのかもしれない。

警察はもちろん、テロには屈しないという姿勢だろう。

では、すでに一般市民にも死傷者が出ている状況で、警察が強行突入をためらう理由はなにか。


一、暴徒の大半が未成年者であるから。
二、突入経路が確保できないから。
三、今川議員の監禁場所が不明であるから。


一、については、"魔王"の周到さが理解できる。
未成年者の犯罪は、日本でもちらほら見かけてきたが、欧米に比べられるものではない。
とくにSAT隊が強行突入するほどの凶悪事件、それも未成年者が主体の立て籠り事件など、まったく前例のないものであるから、対応するにしても、警察上層部の判断を曇らせるだろう。

二、についてだが、いくらか疑問が残る。
セントラル街にいたる主要な道路や歩道が封鎖されているとはいえ、一縷のすきもない完璧なバリケードなど現実的に可能なのだろうか。
防備のもろそうな箇所はかならずあるはずだ。
建物に装甲車両を突っ込ませたり、爆薬を用いて土嚢を吹き飛ばしたり、突破口を作るだけならやりようはあるのだと思う。

それを躊躇させているのが、今川議員の存在だ。
ハルはよく知らないが、よほどの大物なのだろう。
彼の所在がわからなければ、たとえ突入ルートを確保して、SAT隊がなだれ込んだとしても、監禁場所にたどり着くまでに、今川は殺されてしまうだろう。


だからこそ、"魔王"は、これだけの範囲を立て籠もり場所としたのだ。
もし、強行突入班が闇雲に今川を探したとしても、そこらじゅうから暴徒が沸いてくる。
一般市民なのか、テロリストなのかわからない未成年者が相手では、引き金にかかった指の動きも鈍るというもの。

そこで、ふと、京介の声が聞こえたような気がした。


(おいおい宇佐美、なに考えてんだ・・・)。


たしかに、ハルは思った。

自分はなにを考えているのか。

いま考えるべきは、一刻も早く京介と合流し、この地獄抜け出すことだ。


(帰ってクラシックでも聞こうぜ)


正直、もうクラシックなど聞きたくもなかった。

京介がまたヴァイオリンを弾いてくれというに決まっている。

まさか、自分のファンだとは思わなかった。

もう、弾けないというのに・・・。


全て、"魔王"のせいだ。


G線の上に現れる幻の悪魔が、少女の最も大切なものを奪ったのだ。


――殺してやる。


ハルは山王物産の本社ビルの外壁を見上げた。

窓ガラスを通して黒い箱が上下している。

エレベーターが稼働していた。

防火扉がおりてきたことから、てっきり上階を封鎖したのかと思ったが、どうやら解除したようだ。


なぜか?

人質を移動させるためではないか。

警察側も、今川議員を護衛していたSPからの連絡が途絶えた場所・・・つまり、山王物産に議員がいると当たりをつけているはずだ。


よし、新しい監禁場所を押さえてやる――。


今川の居場所さえわかれば、警察も踏み込んでくるだろう。

自分の手で"魔王"を殺害できないのは残念だが・・・。


「これは、驚いたな」


背後から、声。

 

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まったく気づかなかった。


「いったいいつの間に、と思っているのなら、もう少し相手を知ったほうがいい」


いつも通りの余裕の表情を浮かべて"魔王"が見下ろしていた。

"魔王"の隣には、先日見かけた白人が銃口を向けていた。


「拠点に近づくネズミを発見し、音もなく背後から始末する。
私はともかく、仲間は現役のプロフェッショナルなのだから」
「"魔王"・・・」
「髪の長い少女というから、もしやと思って来てみたのだが、まさか宇佐美だったとはな」


どこか楽しげに、かたわらの白人に英語で話しかけていた。

どうやら、ハルを紹介しているようだ。


「この街でよく生きていたな。 うれしいぞ」
「テロにあうのは二回目だからな」
「そういえばそうか」


まるで、忘れていたかのような口ぶりだった。


許せない。


「それで、勇者はここで何をしていたのかな。 ただ逃げ回っていたわけではなさそうだが?」
「もちろん、お前を殺しにきたんだ」
「当てて見せよう。 今川の所在を探りに来た。 違うかな?」
「トップシークレットみたいだな」
「いやはや、見上げた根性だな」


おどけるように、肩をすくめた。

そしてハルの背後、山王物産のエントランスに向かってあごを向けた。


「来てもらおうか」
「なに?」


なぜ、この場で殺さない?

脇に控えた白人も同じ疑問を抱えたようだ。

"魔王"に抗議するようにまくしたてている。


「すまん、アラン。 いつもの悪い癖でな。 殺しの前は、どうも遊びたくなる」


その余裕、その傲慢が、我慢ならなかった。


母が殺されたとき、"遊び"で自分は生かされたのだ。

ハルは屈辱を押し殺し、"魔王"のあとに従った。

首筋にひんやりとした寒気を覚えた。

雪がちらほらと、忘れたように降ってきた。


・・・・・・。

 


・・・。

 

 

―――――

 

 

・・・。

 


・・・・・・。

 

 

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ずしんと鉄のドアが閉まる音がして目が覚めた。

頭がずきずきと痛む。

やがて、ぼやけた視界が焦点を結ぶ。


「お目覚めかい?」


橋本が薄ら笑いを浮かべて指を鳴らしていた。

そこは、一見して地下室のようだった。

一辺が十メートルくらいの、四角い部屋。

遮断された息苦しい静寂と、淀んで動かない空気。

窓はなく、明かりは、天井から吊り下げる、むきだしの白熱電球だけだった。

おれは殴られた悪寒と苦痛に耐えながら口を開いた。


「ここは・・・?」
「捕虜収容施設さ」


肩をすくめた。

捕虜など、いなかった。

吸い殻がたくさん落ちている床に、女の死体が二つ転がっているだけだった。

切り裂かれた衣服をまとい、虚ろな目をこちらに向けていた。


「お前がやったのか?」


自分の動悸が驚くほどの大きさで耳から聞こえた。


これから起こる事態を先取りした恐怖に他ならなかった。


「ここはクラブの地下でな。 ユーリって聞いたことないか?」


・・・大箱のクラブだ。

たしか、セントラル街の外れに位置していたと思う。


「なるほど、出口を求めて逃げ込んでくる人間を、待ち伏せするにはいい場所だな」
「ご名答。 一階の東側の出口は、この国の外に通じてるからな」
「国?」


橋本はふっと、笑うだけだった。

おれはもう一度室内を見渡した。

壁際にあるテーブルに、酒のビンやライター、灰皿が散らばっていた。

そこにもたれかかって倒れるサラリーマン風の男がいた。

もちろん、死んでいた。


「お前、こんなことして、許されると思ってるのか?」
「許される? 誰に?」
「もちろん、警察だ。 いくら未成年でも、これだけ派手にやらかしたら、どうなるかわかるだろう?」


橋本はまた冷笑した。

同情と、それに倍する嘲り。


「逃げられると思ってるのか? もう、この区域は警察が完全に包囲してるだろうよ」
「逃げねえよ」
「・・・なに?」
「ここは俺たちの国なんだから、逃げる必要はねえんだ」


おれは顔を上げて橋本をにらみつけた。


「おれたちのリーダーは、ここら一帯に治外法権を要求しているんだ」
「通訳してくれ。 意味がわからない」
「わからねえかな。 封鎖状態にあるセントラル街と、その上空は、もう日本じゃねえってことだよ」


おれは、さすがに言葉を失った。


「警察権力の介入と、日本の法律による取り締まりは受けない。 まさに、夢の国だろう?」


たんたんと語る橋本の目にはいささかの虚偽も欺瞞も含まれていなかった。

ただ、ぼんやりと、何かに対する信仰心のような光があった。

さながら狂信者のように、恍惚に頬をゆがめていた。


「お、お前・・・そんな話を真に受けているのか・・・?」
「じゃあ、浅井は、ある日突然、セントラル街が戦場になるなんて話をされて、真に受けるか?」


押し黙るしかなかった。


「いいか、浅井。
俺の親父はよ、俺とは違って、糞真面目に学園の教員やってたんだよ。
教頭になるって、けっこうすごいことらしいぜ?
それがよ、白鳥の親父にハメられたばっかりに、なにもかもおかしくなっちまった。
うちには毎日のようにテレビ屋が来るし、母親は実家に帰っちまうし、妹は小学校でいじめられてんだ」


おれも似たような経験はあるから、こいつの哀しみはわからないでもなかった。


「そんなときによ、ほいっと拳銃渡されたら、つい人でも殺したくなるだろ?」


けれど、こいつの心根の卑しさには決して同情できない。

血気盛んな若者は、プライドが全てだ。

なめられたら終わり。

やられたらやり返す。

家庭をめちゃくちゃにされたのなら、他の人間の家庭もめちゃくちゃにしてやるというわけだ。

"魔王"は、その辺の心理を、よく心得ている。


「・・・わかった。 でも、よく考えろ。 国なんて作れるわけがない」
「作れるさ」
「まず、食料はどうするんだ?
一週間くらいは持つかもしれないが、それからはどうする?
日本と断交するんなら送電だって止められるだろ。
武器弾薬だってそのうち底を尽きる。
そしたら、こんな小国、あっという間に滅ぼされるぞ」
「"魔王"がなんとかしてくれる」
「話にならん。 お前らは利用されてんだ」
「みんな最初はそう言うよ。
でも、ことここにいたってそんなこというヤツは一人もいねえ」


そりゃあ、もう、数え切れないくらいの犯罪行為を繰り返したからだろうな。


もう、"魔王"を信じるしかないんだ。


なにかの本で読んだが、悪徳宗教の教祖は、とにかく信者に後戻りできないような絵を踏ませるらしい。

日本のセントラル街では、とにかく武器を持たない物、人を襲わない者が、狙われていた。

人を殺さなければ、逆に仲間に殺されるという図式が描かれていたのだ。

それも全て、未成年における犯行。

射殺するにしろ、警察が二の足を踏むのは明らかだ。

めまいすら覚える。

兄の計画性に満ち溢れた残忍さに絶望した。


「俺を説得して助かろうったって、無駄だ」
「ああ、知ってるよ。 お前はもともと、クラスでも友達ってわけでもなかったからな」
「そうそう、お前の友達は、いまどうなってると思う?」


栄一・・・?


「いま、上の階でのびてるよ。 仲間になる、とか言っといていきなり襲い掛かってきやがった。 みえみえだっての。 マジでバカだよ、あのチビ」
「・・・まったくだな」


つぶやいた声は、自分でも驚くほど異様に乾いていた。


「まだ、生きているんだな?」
「ああ、これから、みんなで面白い見世物しようって話になってんだ」


嬉々として言う。


公開処刑ってヤツ?
ほら、ネットの裏サイトとかで、中東の兵士が惨殺されるアレあるだろ?」
「・・・あるな」
「いま、いろんな残虐シーンをよ、ネットにアップしてるんだよ。
すると、世界中の人間がおれたちを恐怖するってわけだ」


もはや、正気ではないのだろう。

おれも瞬間的に腹をくくった。


「なんか知らんが、それを栄一にやろうってんだな」
「お前もな」


橋本はためらいなく、うなずいた。


「悪いことだってのは知ってる。
でも、悪こそが人を救ってくれるってようやく理解したんだ」
「別に、おれもお前らとたいして変わらん小悪党だとは思うが・・・」
「あ?」
「お前はさらに小物だ。
"魔王"っていう巨悪に踊らされるだけで、てめえではなにも考えようとはしない」


棺おけのなかにいる父を偲んだ。


「本物の悪党はな、誰にも媚びず、従わない、孤高な生き物なんだよ。
おれも最後まで理解できなかった。
だから、てめえなんかがなにかを悟ったようなことを言うな」


いきなり橋本が飛び掛かってきた。

顔色が変わっている。

十分な反動をつけた足が鋭く跳ね上がってきた。

手でブロックしようとしたが、体がうまく動かなかった。

鈍痛を意識したときは、壁際まで吹っ飛ばされていた。

意識は明確だが、呼吸ができない。


「もういっぺん言ってみろ!」


腹部に強烈な一撃がめり込んできた。


声が出ない。


うめき声をあげてのたうちまわった。


「立て!」


体をゆっくりと起こした。

肉体はとてつもなく重い。

喉奥を這い回る異物感と、呼吸困難。

ようやく上体を上げると、手を使い、足を伸ばして踏ん張った。

橋本が一歩後ろに下がった。


くそ、飛びかかるつもりだったのに・・・。

床から手をはなし、なんとか立ち上がった。

立っている、歩いている、いますぐにでも宇佐美に会いにいける。


「ボンボンが!」


橋本がおれを突き飛ばし、また横殴りに蹴りを飛ばしてきた。


雑魚、雑魚、と罵声を上げ続けている。

やつの取り乱し方が尋常ではないのは、おれの顔が気に入らないからだろう。


「おら、立てよ!」


立ってやる。

何度でも立ち上がってやる。

が、床はぐらぐらと揺れており、足を据える場所を見出せない。

前につんのめったり、後ろに引き倒されたりしながら、膝を立て、腰を上げる。

二本の足で上体を支えて・・・。


今度は手を使って殴ってきた。

再び地べたに尻をつくはめになったおれは、傲善(ごうぜん)と小悪党を見据えた。

やつのほうがあせって余裕をなくしている。

おれは、低く笑った。

のたうっている床の振れ幅が大きくなり、酸欠に耳が痛くなってきた。


「決めた。 てめえは、あとで火あぶりにしてやるよ」


橋本が上から見下ろしていた。

おれは精一杯の罵声を浴びせるつもりだったが・・・。


「小悪党が・・・!」


けっきょくつまらない文句になってしまった。

橋本おれをたっぷりと見下ろしてから、去っていった。

ドアのしまる音がすると、なにも聞こえなくなった。

押し寄せる苦痛と寒気と戦いながら、おれは長い時間をかけて身を起こしていった。

よろめきながら立ち上がり、あらゆるものを罵りながらドアを目指した。


どうということはない。


これくらいの暴力に呑まれるほど、権三はやわにおれを育ててなかった。

ドアノブをつかむ。


開け!


開くわけがなかった。

 

・・・くそ・・・。


宇佐美っ・・・!

 

・・・・・・。

 


・・・。

 

 

G線上の魔王【27】

 


・・・。

 

 

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宇佐美ハルは単身、街に出ていた。

気温はかなり低い。

京介に上着でも貸してもらえばよかったと思いながら、当てもなくうろついていた。


――妙だ。


若者の数が、目について少ない。

コンビニの前でわけもなく座り込んでいる男たちや、ライブハウスのそばでたむろしている女の子の姿もない。

待ち合わせスポットらしき街灯の下にも、人の影はまばらだった。

路上に徘徊しているのは、キャッチと思しき青年ばかり。

彼らも、獲物の少なさに退屈そうにしていた。


ハルは、電柱にもたれかかって携帯をいじっていた男に声をかけてみた。


「いま、なんか街でやってるんですか?」


男は、ハルを値踏みするような目で上から下まで眺め、やがて興味を失ったように首を振った。

ジャージ姿がまずかったのか・・・。

どうやら、今日の深夜に、とある大きなイベントが行われるらしかった。

しかし、どこでやっているのかは知らないらしい。

男も不気味だと言っていた。

暴力団が覇権をしのぎあっているだけあって、ここセントラル街の治安はあまりよくない。

街のど真ん中に交番があるのも、いかに少年犯罪が多いかを物語っていた。


大通りを渡ったそのとき、見知った顔が路地裏から現れた。


――ル〇ン・・・じゃなくて、橋本さん。


橋本は、フードにジーパンというスタイルで、似たような男の子を二人連れていた。

学園立て籠もり事件はいまだ表ざたにはなっていない。

しかし、橋本は、以来、学園には来なくなったのだという。

自宅にも帰らずに、いったいなにをしているのか。

ハルは橋本のあとを追った。


・・・・・・。

 

・・・。

 

いつの間にか、毒々しく輝くネオンの光が減っていた。

もう少し歩けば、オフィス街に出る。

企業の高層ビルが乱立しているだけで、若者に用はないはずだった。

尾行を気取られる気配はまったくなかった。

橋本はなにやら余裕そうに、連れの二人に話しかけていた。


やがて、一行は、ひときわ豪壮な山王物産のビルにまでたどり着いた。



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ビルのエントランスの前に、数台の高級車が停車していた。

後部座席から男が二人出てきた。

いかにも紳士然とした初老の男と、外国人らしき肌の白い男。

鍛え上げられた筋肉がダークグレイのスーツを押し上げていた。

胸の辺りに、拳銃を所持していると思しきふくらみが見えた。

驚いたことに、なんら接点もなさそうな橋本が、彼らにうやうやしく挨拶をし始めた。

表情や声までは判然としない。

わかるのは、彼らが仲間であるということだった。

老人がなにやら親しげな仕草で橋本に手をふった。

小指が欠けていた。

橋本たちは、後ろについていた車に乗り込んだ。

老人たちも再び社内に戻った。

外国人風の男は、あたりを探るように首を振ってから、後部座席に身を乗り入れた。

ただ、漠然とした不安だけが募った。

いったい、何が起きようとしているのか。

車のあとを追うこともできず、ハルは踵を返した。


・・・・・・。


・・・。

 

京介のマンションに戻る前に、一度自分の部屋に足を運んだ。

そして、なにを血迷ったのか、ヴァイオリンケースを手につかんだ。


・・・。

 

 

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「それは、ひょっとしたら、新鋭会の内藤組長かもしれないな・・・」


帰宅すると、宇佐美から街の様子を聞いた。


「マジすか・・・こんな顔だったんですが」


電話台のメモ用紙を勝手に使い、さらさらと似顔絵を描きだした。


「・・・うん、多分そうだ」


内藤組長は、権三の死をもっとも歓迎している人物の一人だろう。

病気と称して、今日昨日の総和連合の会合には顔を出していない。


「もう一人の外人さんはこんな感じでした・・・」


また、すごい速さで絵を描く。


「いや、さすがに知らんな・・・」
「なにか、妖気を感じませんか?」
「まあ、臭うな。
明日はおれも同行しよう。 今度は車も出す。
もし、今夜みたいなことになったら、あとをつけてみようじゃないか」


宇佐美はうなずいて、テレビをつけた。


「・・・権三さんが亡くなられた件について、警察はどう動いているんですかね?」
「ニュースでは、よくある暴力団の抗争の一環ということになっている。
でも、実際は"魔王"という犯罪者について、ひそかに警察も調べを進めているらしい」


権三が、そんなことを言っていたな。


「わたしたちも、警察に知っていることを話したほうがよさそうですね・・・」
「いや、もう、"魔王"がおれの兄の鮫島恭平であるという話は、総和連合に広まっている。
警察もその辺を調べあげただろうさ。 そのうち、おれのところにも刑事が来るだろう」
「"魔王"はこれまで、異常なまでに警察の介入を恐れていましたね」
「ああ、しかし、今度は違う」


おれは、一息おいて、宇佐美を見据えた。


「そこで、一つ、聞きたいんだがな」
「わたしが、なぜ、"魔王"を追っているか、ですね」
「ようやく事情が聞けるわけだな・・・」


大方の予想はついていた。


「浅井さんほどのマニアであれば、わたしの母がどうして亡くなったかはご存じですね?」
「ああ・・・モスクワの劇場だったか? たしか、爆弾テロにあって・・・」
「テロの目的はコンサートに招かれていた中東の国の大使だったそうですが、母も巻き添えになりました」
「そのときに、お前は"魔王"を知ったのか?」
「ええ・・・お前は宇佐美の娘か、と聞かれました。 まあ、話すと長くなりますんで・・・」
「・・・ふうん・・・」


まあ、おいおい聞き出すとしよう。


「ところで、それはなんだ?」


ソファの後ろに置いてあった、ヴァイオリンケースを指差す。


「なんすかね」
「思いなおして弾いてくれることにしたんだな」
「・・・どうすかね」
「なんだよ、突っ張るなよ」


ちょっとだけ昔の宇佐美を思い出した。

おれはソファに寝そべって、宇佐美にあごを向けた。


「三島さんにインタビューしたいんですが」
「なにニタニタしてんすか」
「ドイツで生まれたそうですが?」
「まあ」
「あれだろ、ドイツの科学力は世界一なんだろ」
「浅井さんのドイツはそんなですか。
・・・って、なんで自分がツッコミに回らなくてはならないんですか」
「気持ち悪いだろう。 いつもと立場が逆だからな。 嫌ならちゃんと考えろ」
「・・・わかりましたよ」
「やっぱり、チョコレートとか好きな子供だったのか?」
「え?」
「いやほら、いまでこそ日本でもいろんなチョコがあるけどよ、本場はヨーロッパだろ」
「まあ、店の前でジタバタしてた記憶はありますね。 『買ってくれないと動かないー』みたいな」
「ふうん・・・わりと普通の子供だったんだな。 フラメンコとか見に行ったのか?」
「それ、スペインすけどね。 まあ、旅行で一度見に行きましたね。
舞台上で女の人が真っ赤なドレス着て踊ってるんですよ。
自分、二歳くらいだったと思うんですが、いまでもなんとなく覚えてます」
「ちなみにお前、踊れたりするの?」
「いえ、ぜんぜん、自分は子供のころから凄まじいインドアっぷりでしたから」
「じゃあ、おままごととかで遊んでたんだ?」
「やってましたね。 人形とか買ってもらってました。
向こうの人形はやたらリアルでしてね。 顔立ちとかちょっと怖いんすよ」
「父親からたまに、日本で売っているような人形とか送ってもらわなかったのか?
ほら、あの、流行ってたじゃん。 カリちゃん人形だっけ」


我ながらひどい。


「ああ、ありましたね。 でも、あれはドイツの友達に貸したっきりですね」
「仮パクされた?」
「いや、なんていうんですかね。 そういう感じなんですよ、向こうは。
貸してあげるって言っても、一度持ったら自分のもの、みたいなところがあって」
「ああ、聞いたことあるな。
海外の人って悪気なしに、ペンとか紙とか持ってくらしいな」
「ちなみに自分がちょっと図々しいのもそこからきています」
「嘘をつけ」
「でもまあ、日本に戻ってきたときは、正直きつかったですね」
「習慣が違うからか?」
「まず、給食っすかね。 なんでみんなと同じもん食うんだよ、とか思ってましたね」
「へえ、口に合わなかったわけではなく?」
「いやドイツでも和食だったんすけどね。 なんでしょう、こっちって、余ったものわけあったりするじゃないですか。 気ぃ使うじゃないですか、なんか」
「いや、そこがいいところなんだよ」
「そうなんでしょうけど、余ったプリンとか、自分が全部いただいたことだあるんですよ、そしたらなんか、みんなの視線が冷たくなって」
「まあ、そういう空気はあるよな」
「向こうは、その、自分は自分、みたいな感じでしてね。
すごいのになると、昼食にキャベツとか持ってくる子とかいまして。
でも、ぜんぜん浮いてないんです。 キャベツでもOKなんです」
「なんか嘘くせえけど、まあいい。 どんなところに住んでたんだ?」
「ケルンにいたときは、大自然に囲まれてましたね。 近くに牧場がありました。
といっても、田舎という感じでもなく、とにかく広かったです」
「お前って、いちおう富万別市でも暮らしてたんだよな?」
「そうですけど、いまと昔じゃ大違いですよ。 十年前はセントラル街なんてなかったじゃないですか」
「だから、街の地理に不慣れなんだな。
たしかに、すごい勢いでビルとか建っていったからな。 そのへん、向こうはゆったりとしてるんだろ?」
「人も時間ものんびりです。
日本みたいに小さな個人商店が大きなスーパーにかわってるようなこともないです」
「向こうは家の天井も高いらしいな。 ヴァイオリンの音もさぞ響いたんじゃねえか?」
「ですね、日本で暮らしてたときは、とにかく音がぶわーっとこもる感じで、慣れるまで時間がかかりましたね」


ようやくヴァイオリンの話にこぎつけた。


「ヴァイオリンを選んだのは、やっぱり、母親の影響か?」
「でしょうかね。 母のコンサートとか見て、キレイだなって思ってました」
「しかし、よりにもよってヴァイオリンか・・・」
「ええ、楽器は高価だし、目指す人も多いし。
わたしがやってみるって言ったとき、母も複雑な顔してましたね」
「子供はそんな事情知らんからな」
「最初は、弾けたら楽しいっていうだけでやってましたよ。
音楽教室に通ってたんですが、先生の前で弾くといつも手を叩いて喜んでくれるんです」


にわかに、宇佐美の表情がほころんできた。


「母も仕事が忙しく、よく家を空けていたんですがね。
帰ってくるたびに、褒めてくれました。 『またちょっとうまくなったね』って。
自分はそれがうれしくて、今度はもっと褒めてもらおう、とかわくわくしながら練習してました」
「はっ・・・」
「だもんで、学校が終わったら夜中までこもって弾いてましたね。
寝るか、食うか、ヴァイオリンか・・・そんな毎日が半年くらい続きました」
「へえ、発表会とかどうだった?」
「グループで同じ曲を弾くんですけどね、自分だけなぜかちょっと目立ってたらしいですね。
終わったあと、『あなたはヴァイオリンが大好きでしょう』とか言われました」


・・・実際、大好きなのだろうな。


「それからは、もっといろんな人の前で弾いてみたいとか思うようになりまして」


あどけない笑顔。


「それで、母も本格的に自分に教えてくれるようになりましてね・・・」


穢れを知らない幼女のように目を輝かせて話す宇佐美を、おれは知らない。


「本気を出した母は、厳しかったですよ。 なにをやっても無駄無駄無駄でした。
いかに自分が感覚だけでやってたかわかったのは、日本で、あるコンクールに出たときなんです」
「ほう・・・」
「とにかくやたら怖いんです。 静かですし、真っ暗ですし、審査員の方はクールですし」
「向こうのコンクールは、もっとアットホームなのか?」
「発表会に近い暖かさがありましたね。 だもんで、結果はひどかったですよ」
「まあ、あれだろ。 日本のコンクールっていかに正確に音階をとれるかとか、そういう技術的なところを重視するんだろ?」
「いちおう『海外なら評価されるでしょう』というひと言をいただきましたが、とにかく思い知らされました。 だから、ヴァイオリンの持ち方、構え方から見直して、猛練習したんです」
「合宿とか行ったか?」
「行きました行きました。 いま、海外で活躍しているような子ともいっしょになりましたね。
こんなすごい子といっしょになっていいのかな、とかびくびくしてました」


びくびくする宇佐美なんて、想像もできないな。


「ガキのくせに、肩こりとかひどかったんじゃねえか?」
「いえ、むしろ痛いのは背中ですね。
あとは、写真とかとると、いつも左肩が上がってるとか言われましたね。
筋肉が変についちゃって・・・」


ふと、素に戻るように口を閉ざした。


「まあ、いまはそんな悩みもありませんが」


悲しみを隠しきれない自虐の笑みは、見ていて気持ちのいいものではなかった。


ソリスト志望だったんだろ?」
「ええ、オーケストラは、気ぃ使いますんで。
自分のせいでアンサンブルを乱したら・・・とか思うと無理でした」


わりと小心者だったんだな。


「でも、おれには気を使う必要はないぞ」
「え?」


優しげに言うと、宇佐美がまた少女の顔に戻った。


「もっと、いろんな人の前で弾いてみたいんだろ?」
「・・・・・・」
「さあ、聞かせてくれよ」
「・・・・・・」
「この部屋は家賃が高いだけあって、防音もばっちりだ。
たとえどんな下手くそな演奏でも、おれにしか聞こえない」


宇佐美の肩が、かすかに震えた。

息を呑み、じっとヴァイオリンケースを見つめる。


「・・・ハル・・・」


名前を呼ぶと、弾かれたように宇佐美が顔を上げた。

 

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「・・・わかりました、京介くんになら」


頬を赤らめ、そそくさとケースをつかんだ。

宝石箱をあけるような手つきで、ケースの留め具を外していく。

硬いケースのなかに、さらに布のケースが見えた。

宇佐美がそれをいかに大切に扱っていたかがわかる。

やがて、年季に艶だった色をしたヴァイオリンが姿を現した。


「高そうだな、おい」
「実に浅井さんらしい意見ですが、お金には代えられません」


おそらく、母が使用していた楽器なのだろう。


「ちょっとお待ちを」


宇佐美はケースと一緒に持ってきたバッグを漁りだす。


「チューナーとか持ってないですよね?」
「さすがに、おれは聞くのが専門だから」
「参りました。 忘れてきたようです」
「おいおい、まさかいまさらやめるなんて言うなよ?」


たしかに、ヴァイオリンは木でできているだけあって、温度や湿度に音が左右される。


「いいんですか?」
「別にいいよ。 いまが梅雨の季節だったら、おれもうるさくて言うかも知れんけどな」


湿度が高いと弦が伸びやすく、すぐに音がくるってしまうらしい。


「いちおう、毎日チューニングはしてるんですが・・・」
「なんだよ、毎日練習してるんじゃねえか」
「いえいえ、手入れをしているだけで演奏はしていません」


つまり、未練があるのではないか?


不本意ですが、わかりました」


言いながら、黒い石鹸のようなものを手に取った。


「それは、松ヤニか?」
「よくご存知で・・・」


それを、いまから弓に塗るわけだ。

軽く押し付けるようにして、根本から満遍なく塗っていく。


「意外と覚えているもんですね・・・」
「なにが?」
「あ、いえ・・・つけすぎるのもよくないし、かといって足りないと音が弱くなってしまうんです」


最適な量を体が覚ええていたってことか・・・。


「あ、浅井さん・・・食器洗い用のスポンジかなにかもらえませんか?」
「ん?」
「長らく弾いてないもので、"肩当て"がなくて」
「ああ・・・」
「使わない方も多いですが、自分は服の下に入れるとけっこう安定するんで」
「でも、家庭用のスポンジでいいのか?」
「ええ、自分はよく、それで練習してましたから」
「わかった。 "あご当て"は・・・?」
「ついてます。 といっても、化粧をしているわけではないので、そこまで気にしなくても・・・」
「いやいや、汗がヴァイオリンに滴ったらどうするんだ?」
「そんな激しい曲を弾かせるつもりですか?」
「うーん、とりあえずバッハかな」
「やはりですか・・・まあ、バッハはわたしも好きです」
「おいおい、誰を前にして好きとか言ってるんだ? おめーがバッハのなにを知っていると?」
「バッハの数学的な才能に惹かれました」
「ほほお・・・少しは話せるようだな。
たしかにある曲のメロディは最初から弾いても最後から弾いても同じになったりする」
「ええ、まるで回文みたいに。 本当に神秘的な人です」
「よし、じゃあ・・・アレだ。 『主よ、人の望みの喜びよ』でいけ!」
「いけっ! ・・・って、楽譜もないのに」
「弾けないのか? 三島春奈は一度聞いた曲はすべて弾きおおせるという話は、やっぱり話題作りのための嘘だったのか?」
「どこからそんなデマが・・・まあ、なんとなくでよければ弾いてみせましょう」
「ひとまず今日のところはある程度てきとーでも許してやる」
「今日のところはって、今後もあるんですか?」
「当たり前だ。 お前、おれの女だろ?」
「・・・うっ・・・」


照れくさそうに、演奏の準備に入る宇佐美。


「電気消すぞ・・・」
「またそうやってハードルを上げる・・・」

 

・・・・・・。


室内に闇が訪れる。


「あ、待った。 やっぱり『G線上のアリア』がいい」
「浅井さんが一番好きな曲ですか。 わがままさんですね」


ぼやきながら、宇佐美は弓を取り、ヴァイオリンを左の肩にのせた。


・・・。

 

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月明りに浮かび上がる、宇佐美のしなやかな肢体。

足まで伸びた黒い髪に、眠ったように閉じられた瞳。

いつもの宇佐美とは違う、神秘的な印象を受けた。


「・・・慣らし演奏とか、いらんのか?」
「けっこうです」


突き刺すように言った。

右手で弓を緩く構え、左手の指がネックの上にかかった。

肌を重ねあって知ったが、宇佐美の指先は触れてわかるほどに硬かった。

おそらく、成長期の子供のころに猛練習を重ねたからだろう。

その指が、ゆっくりと弦を押さえにかかった。

おれは息を呑み、手に汗握る思いで、演奏の瞬間を待った。

さぞ、艶やかな音色を奏でるのだろう。

そのとき、おれは、たしかに宇佐美ハルという少女に、魅入っていた。

弓の毛が、ヴァイオリンのG線・・・もっとも低い音を出す弦に触れる。


「・・・すみません」


はじめに、ささやきがあった。


「・・・いませんか?」


次に、形のいい眉が脈打った。


「・・・ほら、fホールを這い上がって、G線の上に・・・」


直後、黒板を爪でひっかいたような音が響いた。


「・・・悪魔が、いませんか?」


耳を疑った。


「す、すみません・・・浅井さん・・・」


震えだす。


「わ、わたしには、むり、です・・・」


・・・なんだ?


宇佐美は、なんと言った?


「あ、悪魔・・・?」
「ええ、邪魔をするんです、いつも、い、いつも・・・すみません、おかしなこと言って・・・」


天才的な才能を持つ演奏家には、演奏中の肉体的精神的苦痛をコントロールし、自分を一種のトリップ状態に置ける能力があるという。

想像を絶する恍惚の果てに、たとえば妖精を見たり、悪魔の助言があったりすることもあるらしい。


「あ、や、やっぱり、いませんね・・・すみません、どん引きさせてしまって・・・」


冗談にしか聞こえないが、冗談にしては宇佐美の体の震えは異常だった。


「ただ・・・思い出すんです・・・」


浅い呼吸を繰り返していた。


「母の弓がヴァイオリンのG線にかかりひときわ力強い低音が響いたその瞬間・・・!!!」
「宇佐美っ!」

 


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


その音は、美しいヴァイオリンの旋律をすべてかき消した。

地響きが伝わり宙に浮いた。

音感のいいハルの耳を突き破り、音は破壊をもたらした。


爆薬の炸裂。

 

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劇場のあちこちから煙がたち登っていった。

大勢の人間が叫んでいる。

なにを叫んでいるのかは不明だった。

一面に人が倒れている。

すでに人の形をしていないものもあった。

かつての人間の一部。

血と肉が黒い汚れとなって、少女の目前に水溜りを作っていた。


玉砕された大理石の柱、がれきの山に、折れた枝のようなものが見えた。

根本から引き裂かれた腕だった。

客席の椅子に張りついたように尻をつける男がいた。

祈るように腹を抱いている。

やわらかいなにかがたれ、鈍い色で光っている。

はみでた腸だった。


血まみれだった。


なにもかもが焼け焦げ、黒ずんでいた。

あたりには息絶えた者と、絶えつつある者しかいない。

少女は、目を閉じることもできず、硝煙の名残のなか凍りついていた。

すでに世界は一変している。

技巧を極めた母の演奏は、いつの間にか、うめき声の重奏低音に変わっていた。


絶叫が一筋走った。

同時に機関銃の発射音が連続する。

少女の前方で容赦ない掃射があった。

血の流れが何本か、蛇のようにうねって伸びてきた。

少女はようやく、恐怖に歯を鳴らすことを許された。


死は間近だった。


あきらめかけたとき、声があった。

少女を呼ぶ声。

ハル、ハル・・・と、少女を求めていた。

返事をしようと喉を振り絞るが、声がでない。

ひゅう、ひゅう、と喘息を思わせる音が、空気の振動を自在に操る能力を持った母へ向けられた、最期の言葉だった。


「宇佐美の娘か」


頭上から落ち着き払った声が降ってきた。

上から下まで黒い。

顔をすっぽり覆った帽子のなかで、唯一、目だけが不敵に笑っていた。

熱気に陽炎のようにゆらめく男は、まさしく地獄から来た悪魔のようだった。


「宇佐美、ハルだな?」


悪魔の問いに、少女はなんと答えたか、いまでも覚えていない。

けれど、なにか名乗ったのだろう。

悪魔は嘲るような笑みを返してきた。

中東のほうの言語が飛び交っていた。

悪魔は同じ言葉でなにか応じた。

足元の血だまりがしぶきを上げた。


「私は、"魔王"だ。 また会えるといいな、勇者よ」

 

・・・・・・。

 

以来、少女のなかでなにかが壊れた。

まるで弦の一本欠けたヴァイオリンのように、少女の心は正常に機能しなくなった。

ただ、憎悪を得た。

二度と、ヴァイオリンを奏でられなくなったかわりに・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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宇佐美の呼吸はだんだん荒くなり、顔面は月明かりにもわかるほど蒼白になっていった。


「こ、殺したんです・・・"魔王"は、わたしの、母を・・・いいえ、わたしを・・・わたしからヴァイオリンを奪ったんです・・・」
「わかった、もういい・・・!」
「ご、ごめん・・・ごめんなさい・・・京介くん・・・。
弾けるかなって・・・思ったの・・・。
京介くんの前なら・・・京介くんのためなら、弾けるかなって・・・」


どうして、宇佐美みたいなただの少女が、"魔王"を追っているのか。

無謀にも思えた行為の理由が、ようやくわかりかけてきた。


「でも、ダメだった・・・ごめんなさい・・・!」


打ちひしがれた少女は、救いを求めて、いままでさまよっていたのだ。


「そうか・・・よく話してくれたな・・・」
「うっ・・・ごめん、ごめんねっ・・・」
「いいんだ」
「ごめんね、楽しみにしてたのに・・・」
「気にするな。 おれも悪かった」


おれは宇佐美を抱きすくめようと、腕を伸ばした。


「心配するな。 あとはおれがなんとかする」
「・・・なんとか?」


色のない声で聞き返してきた。


「ああ、"魔王"を捕まえる」


それしか、宇佐美に救いはないように見えた。


「・・・捕まえる?」


直後、目を見開いた宇佐美。


想いをかさねようとも、しょせんは他人。


おれは、宇佐美の哀しみの片鱗も理解していなかった。

 

 

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「・・・違います・・・殺すんです・・・!」

 

・・・・・・。

 


その夜、おれは宇佐美ハルに宿った悪魔を知った。

親から続いた因縁はもはや宿業となり、おれたちに、いつまでも冬の帳を下ろしている。


「また、弾けるようになるさ・・・」


いや、おれが、立ち直らせてみせる。


もう、役にも立たぬ神様に祈ったりはしない。


一人の人間として、おれが、ハルを・・・。


その夜は、少女を何度も抱いた。


動物のように求め合い、精をハルのなかに放った。


激しい性交渉。


二人とも、相手の魂すら欲していた。


やがて夜は更け、抱き合うように眠りに落ちていった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


「待ちわびた・・・」


ついに、決行の日がやってきた。

おれは、この日、このときのために準備してきた十年の歳月を振り返らずにはいられなかった。

 

・・・・・・。

 

 

 

・・・。

 

 

 

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商社マンだった父、鮫島利勝に憧れ、おれは幼いころから留学を希望していた。

十年前、おれは金も実力もないただの小僧だった。

ロンドンの王立大学に通っていたおれは、将来的には資格も取って、父の会社で働こうなどと考えていた。

歳の離れた弟、京介はまだ幼く、頼りなかった。

たまに帰国するとよくテレビゲームの相手をさせられた。

人なつっこく、気さくなところは父そっくりだった。

母の雑事を手伝うおれを、よくカメラで追い回していたのを覚えている。

父の尽力のおかげで、鮫島家は貧乏ではなかった。

しかし、おれは渡英の費用や学費、仕送りなどは一切断った。

体の弱い母がいつ何時倒れるかわからなかったし、父はさらにもう一人、家族を増やそうとしていたからだ。

当面の金策のため、おれはロンドンの友人たちと輸入雑貨の商売をしていた。

輸入雑貨といえば聞こえはいいが、やっていることは行商だった。

日本で買いつけたTシャツや洗剤、鉛筆、仏像などをロンドン市内の雑貨屋に売りつける。

日本製の調理用ラップやトイレ用品はウケがよかったし、他にも漢字のロゴが入った下着は、よく注文が入った。

父はよく、そういった商品をダンボールに積めて、イギリスまで送ってくれていた。

『お前も立派な商社マンだな』などと笑い、心底おれを応援してくれていた。

アランに出会ったのは、アルコールの匂い消しを売りに、とあるパブに出向いたときだった。

見てくれは四十代後半。

千鳥格子のハンチングに、安っぽいフェイクファーのついたジャンパー、くたびれたスラックス。

ギネスビールを飲みながら、ときおりパイプに火をつける様は、どこからどう見ても、労働者階級の英国人だった。

『ハーイ』などと気さくに手を振って、在庫の一つを買ってくれた。

日本人が大好きだと言う彼は上客だった。

そして、何度か顔を合わせているうちに、ファーストネームで呼び合うようになり、酒の一杯でもおごってもらうころには、こっちの氏素性から、特技、趣味まですっかり知られるようになっていた。

治安に優れた国で義務教育を施されたおれは、情けないほどに無防備だった。

百戦錬磨のスカウトマンだったアランにとって、日本人の青年など赤子のようなものだったのだろう。

果たして、彼が傭兵という言葉を口にしたとき、おれはアルコールに呑まれていた。


『私は、傭兵だった・・・』


聞きなれない言葉に、酔いが回ったおれは警戒心よりも先に好奇心を募らせた。

戦争ビジネスを底辺で支えているのが、死の商人の末端構成員たる、傭兵徴募業者だ。

利害の一致さえあれば、あっという間に金儲けのシステムは構築される。

天文学的な数字の動く戦争をビジネスにして、骨の髄までしゃぶってやろうという悪魔がいくらでも沸いてくる。

アランは、たとえばアラブ諸国の超大物代理人や、資本主義を代表する巨大企業の手先ではなく、もっと小さい単価で商売をしている悪魔の一人だった。

資格を持ち、正規の人材派遣業者に所属している。

ただし、傭兵のスカウトはおおっぴらにはできない。

理由は、国際法であり、外交上のしらがみであり、地下組織とのつながりである。

気ばっかり大きくなっている青二才に、アランはまくしたてた。


『クロサワ』『ヤマトダマシイ』などとあおりながら、おれをけむにまき、さながら悪徳宗教の勧誘のように、獲物が思考停止する瞬間を狙っていた。

しかし、おれはイエスとは言わなかった。


「人殺しは悪です」


アランはそんなことは知っているとばかりにおどけてみせた。


『けれど、人殺しは正義が救ってくれないものを、救ってくれる場合がある』


彼はそう言った。


理解しがたかった。


男の冒険心をくすぐるものはあったが、傭兵、などという得たいのしれない稼業につく理由はない。

世界では絶えず戦争が行われているが、おれには関係のないことだった。


『力が必要になったら、いつでも連絡してくれ』


アランは言った。


それからしばらく月日が流れた。


妹が生まれ、死んだ。


清美の遺影の前で、落胆に暮れる父の姿はいまも目に焼きついている。


それからまもなく、その父が殺人の容疑で逮捕された。


母から電話を受けたおれは、目前に迫っていたアラビア語の試験を放り出して帰国した。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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富万別市内の留置所。

取調べを理由に、三度追い返された挙げ句、ようやく父の面会を許された。


「手紙は読ませてもらいましたよ、お父さん」


アクリル板越しの父は、軽くうなずいた。

こけた頬の上で、やつれた瞳が不眠を訴えていた。


「心臓のほうは、どうです?」


父は曖昧に首を振った。

手紙には、一行足りとて弱音を吐かなかったが、父は何度か倒れたことがある。

心臓の病気からくる発作だった。


・・・それが、清美に遺伝したと、嘆いていた夜もあった。


「死刑だなんて大げさな・・・どうか、あきらめないでください」


父は宇佐美義則と、その部下加藤、他に、現場に居合わせた宇佐美の麻雀仲間二名を殺害していた。

父は、極刑を言い渡されるのだろうか・・・?

父への同情の余地は十分にあるだろう。

とはいえ、父の犯行は計画的で、手口も残忍ととらえられて仕方がないものだった。

せめて、宇佐美だけなら、と無念に駆られた。

とくに、宇佐美以外の三人は、せいぜいが、虎の威をかりて、父を侮辱するだけが能の小悪党に過ぎなかった――もっとも、そういった輩こそ、死んで当然だといまのおれは思うが。

父の友人という弁護士に話を聞いたが、三年も四年も先になる判決に、絶対の自信を持って死刑を免れるとは言い切れるはずもなかった。

正直、不安だった。

なぜか、世論が宇佐美に同情的なのが気にはなっていた。

父の手紙の文面にあったように、宇佐美が詐欺を働き、また賭博の常習者だったことは、新聞でもテレビでも、一切報じられていない。

宇佐美は政治家にもコネクションがあったという。

三島薫という著名人が妻であるのも関係しているのだろうか。

そして、そういった諸事情が、判決に影響することがあるのだろうか・・・。


「安心してください。 万一に備えて、死刑廃止論者の団体の方々にも協力をお願いしています」


けれど、彼らの会合、勉強会などに参加するにつれて、おれは希望を失っていった。

おれが救いたいのはこの国の将来ではなく、今後死刑を言い渡される可能性のある父だった。


――恭平。


父が、穏やかにおれを呼んでいた。


――ありがとう、恭平。


涙を流す父は、けれど、瞳にある種の達成感のような光を宿していた。

おれは思い切って聞いてみた。


「お父さん・・・あなたは、人を殺したことに、後悔はなさっていないのですね」


父は唇を噛み締めた。


――すまない・・・。


そのひと言は、おれたち家族に向けられたものであり、けっして、宇佐美ら四人に対してのものではなかった。

おれは裁判の光景を想像した。

被告人には改悛(かいしゅん)の情がなく・・・などと検察官が声高に叫ぶ。

事実、父が、宇佐美に対して頭を下げるなどありえないし、あってはならないことだ。


――恭平・・・秀才のお前が、ぜひ父に教えてくれないか。


仏に救いを求めるような顔をしていた。


――父さんは、世間でいわれるように、悪魔なのか?


悪魔だろう。

胸のうちで、理性や道徳心が、冷酷にそうつぶやいた。

勤勉で、なによりも家庭を愛してくれた父。

父がもたらしてくれた笑顔は数知れない。

熱いものがこみ上げ、恩知らずの理性や道徳心をなじった。

 

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「父さんは、正しい・・・」


少なくとも、おれにとっては・・・。

そのひと言、その決意こそが、今後のおれの人生を決定づけることになった。


「お父さん、おれはイギリスに帰ります。
しかし、必ず戻ってきます。 何年先になるかわかりませんが、希望を捨てないでください」

 

・・・・・・。

 

数年先の判決を、ただ指をくわえて待っているつもりはなかった。

富万別市の自宅に戻ると、おれは荷物をまとめ、母と京介に別れを告げた。

二人とも、おれがいなくなることにひどく不安を覚えていた。

しかし、不幸を嘆いていても父は救われないのだ。

京介に母を託し、おれはイギリスに戻った。

唯一の誤算は、浅井権三という獣を見誤ったことだ。

当時、父の、いわれのない借金を取り立てに来ていたヤクザは、父が留置所に入ったくらいではあきらめなかった。

権三の魔手は取り残された母親に及ぶのだが、それを知ったのは、ずいぶんとあとになってからだった。


・・・・・・。

 


例のパブで、アランは満面の笑みでおれを出迎えた。


『戻ってきそうな気はしていたよ』


おれは率直に聞いた。

あんたについていけば、たとえば刑務所から囚人を釈放させられるほどの力を身につけられるのか?

そのとき、初めて、アランのおれを見る目つきが変わった。


『私は傭兵の女衒(ぜげん)をしているんだ。 恭平が、まさか、テロリスト志望だとは思わなかった』


呼び方など、どうでもよかった。


テロリストであれ、洋平であれ、正規軍の兵士であれ、とにかく父を確実に救うための道を模索したかった。


『ひとまずうちで働いてみるといい。 二、三年もすればFA宣言をして、自由に活動する者もいる』


アランについていくことに、迷いがなかったわけではない。

日本の母と、何年も連絡が取れなくなるからだ。

ふんぎりがついたのは、ロンドン市内の地下鉄爆破事件に巻き込まれたときだった。

英国が抱える民族問題にテロリストが奮起し、スーツケース爆弾が駅のホームを吹き飛ばした。

死傷者は、約五百人。

そのうちの一人が、たまたま地下鉄の階段を下りている途中のおれだった。

怪我は腰を少し打った程度で済んだが、恐慌に走り回る人々の波に呑まれ、財布やパスポートの入ったバッグを現場で紛失してしまった。

翌日のニュースを見て、心底驚いた。

死者の一覧に、はっきりと日本人・鮫島恭平とあったからだ。

当時のロンドン警視庁の捜査の荒さは、日本にも届いているくらいだから、信じられなくもなかった。

たとえば、大学に在籍して一ヶ月もしたころ、友人がいきなり逮捕された。

婦女暴行の罪だという。

しかし、犯行時刻に、おれと食事をしていたアリバイが明らかになるとすぐに釈放された。

警察は、暴行されたと訴え出た友人のガールフレンドの証言だけで逮捕に踏み切ったという。

他にも、大学のさる有名な助教授が、講義中に短機関銃を構えた警察隊に囲まれるという珍事があった。

これも、さるパキスタン系移民の証言によるものだ。

テロリストとその教授の風体が似ていたという、それだけの理由だった。

緻密な操作で絶対の証拠をつかんでから逮捕に踏み切る日本では、冤罪事件など滅多に起きない。

しかし、英国では、誤認逮捕され、マスコミにも大々的に報道されてから、実は、無実だったという、被害者にとっては洒落にならない事件が、ままある。

長年、テロリズムの脅威にさらされているとはいえ、逮捕どころか路上でいきなり射殺される場合もあるというから、うかうか夜道も歩いていられないものだった。

だから、ヘロインをやりながら入国管理をしている人間が、日本人留学生のパスポートをぱっと見ただけで、生死確認の連絡の一つもよこさなかったのだとしても、納得できないわけではなかった。

大使館に、自分が生きている旨を告げようとしたおれを、アランが引きとめた。


『このまま死んだことにすれば、恭平の夢の実現は五年は短くなる』


死の偽装によるメリットは、後におれが諜報活動を専門にする傭兵となったときに実感することになる。

徴募業者の周辺には、履歴を偽装する業者が実在する。

イギリスであれば大物マフィアの看板を背負った、インドパキスタンの移民が下請けをやっている。

彼らは世界中に巨大なネットワークを持っているから、無茶を言わなければたいていの履歴は偽装してくれる。

取引商品は、パスポート、運転免許証、銀行口座から各種公的機関が発行するIDカード、クレジットカードからトラベラーズチェックまで、予算に応じてなんでも買うことができる。

ただし、いくら近代に入っても戸籍がいい加減な欧米でも、生きた人間を死んだ人間に偽装するよりも、死んだ人間を死んだ人間に偽装するほうが、はるかに安価で確実だった。

なにせ、追跡調査をかけようにも、履歴上完全に死んでいるのだから、真の人物像も探りようがない。


『恭平、はっきり言って君は逸材だ』


アランは富万別市のセントラル町を闊歩するスカウトマンとはわけが違う。

目をつけて声をかけるのは、未経験でもなんらかの期待を持てそうな男ばかりなのだろう。

おれは、その期待に応えるわけでもなく、ただ、自らの目的のために、仮契約書にサインをした。

翌日には、下宿先を引き払い、ロンドン郊外にある農地に向かった。


・・・・・・。

 

 

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一見してただの牧場だった。

いや、実際に、牛もヤギも羊もいて、呑気に乳をしぼっていた。

奇特な牧場主の副業だというが、どこかのコングロマリットかシンジケートが出資しているのは間違いなかった。

つまり、傭兵を大量に斡旋している大金持ちの総元締めだ。

どこの国でも金持ちがやるのは、徹底した経費削減だった。

粗末なロッジがあり、禅寺の精進料理みたいな食事が与えられる。

そこでは、おれと同じように悪魔に誘われた馬鹿どもが、五、六人のグループにわけられ、五日かけて身体検査、体力測定、特技、経験などを詳しく調べられる。

要するに、家畜の品評会だ。

しかし、これは形式的なもので、逃亡犯、指名手配犯など、若干の異常者が選考から漏れることはない。

イギリスでは多民族国家であるからして、集まった人間も様々だ。

顔色の異常な男とタコ部屋に押し込められ、三日もすれば泣きべそをかく大男まで現れた。

適正を厳しく検査されたおれは、唐突に別室に呼ばれることになった。

そこでは、軍服を着たいかつい白人が手招きしていた。

どうやら、履歴書に『カラテ、ブラックベルト』などと書いたことが興味を引いたらしい。

その白人がどうにも見かけ倒しだった。

ロンドンの路上でも一度暴力沙汰に巻き込まれたことがあるが、西洋人というのは、とにかく腕力でねじ伏せようとする傾向がある。

きちんと間合いを取って、大味の突きと蹴りをかわせば、あとは急所に一撃を入れるだけだった。

この自己アピールは、ある意味とんでもない自殺行為で、かくしておれは、一段上の訓練を施され、五段は上の戦場に派遣されることになった。

この通称「檻」と呼ばれる施設は、ヨーロッパの各地に点在する。

やはり、偽装した牧場や農地が多いが、国によっては堂々と看板をかかげていることもある。

品評会が終わり、傭兵斡旋業者と本契約を結んだおれは、傭兵産業の伝統あるスイスの民間軍事学校に入所させられた。

おれの担当教官は、"魔王"とあだ名されていた。

背の低い優男で、軍服を着ていなければブランド洋品店のマネージャーかと思うほどの紳士だった。

"魔王"というわりには、物腰は穏やかで、映画に出てくるような鬼教官っぷりは微塵も見えなかった。

"魔王"はイギリスの特殊部隊の隊員だったという。

もちろん、素性は一切口にしない不文律があったから、それが本当かどうかはいまでもわからない。

しかし、たしかに"魔王"は高度な技術を目の前で見せつけた。

朝の四時に起床、二十一時に就寝という毎日で、たまにゲリラ戦を想定して深夜に"魔王"が襲撃をかけてくることもあった。

カリキュラムは実技と学科に別れていた。

実技では、武器弾薬の扱い方から、射撃、爆弾の製造と解体、破壊工作、各党、斥候など。

学科では通信、ナビゲーション、サバイバル術などを学んだ。

過酷な訓練課程のなかで脱落する者や、事故で再起不能になった者もいた。

他の連中より履修がスムーズだったのは、おれが英語とアラビア語、さらに日常会話程度のドイツ語とフランス語、スペイン語を扱えたからだ。


『坊やはお遊びが好きなようだな』


ある格闘訓練を終えると、"魔王"が珍しく厳しい口調で詰め寄ってきた。

たしかにおれは、対戦相手を組み伏せてすぐに止めを刺さなかった。

窮地におちいった敵がどういった反応を示すのか観察したかったからだ。


『かすかに笑っていたぞ?』


自覚はなかったが、有無を言わさぬ様子だった。


『敵には敬意を払うのだ。 我々は犯罪者ではない』


イギリスには紳士道なる美徳がある。

彼は殺人教育を片手に、そんなモラルを説いてきたのだ。

おれは殺気立っていたとは思う。

なにしろ来る日も来る日も人の殺し方を学んでいるのだ。

食事中も休憩中も誰もが寡黙にうつむいている。

お互いの顔も見たくない。

見れば殺したくなる。

銃を構えた監視員がいるなかで、敵に敬意払うなど無理というものだった。

おれはたまらず腹をかかえて笑った。


――では、先日中東での戦争で、一部英国兵士が行った蛮行をどう弁解なさるのですか?


偽善者はよく、ひとりひとりの善行の積み重ねが世界を救うのだと本気で信じている。

そういった輩をけむにまくには、たとえを大きくすればいい。

人は、国は、社会制度は、民族は、そもそもお金というものは・・・などと、小説家の説教のような前文句をつけて話を進めれば、必ず相手をうならせることができる。

殴られるのは覚悟の上だった。

おれはそのとき"魔王"を初めて尊敬した。


『その通りだ、坊や。 我々はいまどこにいる?』


掃き溜めです、そう言った。


『そう、掃き溜めだ。
いま日本で前例のないテロ事件が起きた。
アフリカでは相変わらず秒単位で人が死んでいく。
だが、我々には関係ない。
我々は世界に生きているわけではない、いつでも個人で生きている』


そうして、先ほどの紳士ぶった仮面を取り外した"魔王"は、まさしく"魔王"とでも言うべき歪んだ笑みを浮かべた。


『この施設はヨーロッパでも屈指の軍事訓練学校だ。
まともに卒業できるのはよほどの無神経か、暗く孤独な信念を持った者だけだ』


期待している、と肩に手を置かれた。

なるほど、ことの善悪は主観的なものだとしよう。

すると、一切の客観性を排除し、究極まで個人で生きられた者こそが、悪の王、"魔王"になれるのかもしれない・・・。

傭兵業者も慈善事業ではない。

早ければ二週間、長くても五週間ほどで市場に回さなければペイにならない。

卒業のとき、"魔王"はおれにコードネームをひとつ提案した。

それが、"魔王"だった。

しかし、そんな冗談みたいなコードネームを使う人間など、世界中のどこの傭兵や殺し屋を探してもいない。

おれは仲間内だけで、あるいは、コードネームを使う必要のないオペレーションのときだけ、自らを"魔王"と名乗り、かの訓練教官を偲んだ。

というのも、おれが初の戦場に赴いた時点で、"魔王"は人知れず他界していたからだった。

初めて人を殺したとき、新兵の反応は様々だというが、おれはその場にいた部隊長も驚くほど冷静だったという。

敵を待ち伏せし、草むらに隠れ、訓練で習ったとおりに照準を定めた。

冷静もなにも、動くモノというモノに乱射しただけなのだから、「殺った!」などという感慨など沸くわけもない。

ただ、唯一、おれの心のなかで"魔王"が、日本人鮫島恭平に向かって言った。

ご遺体ではなくBody,仏さんではなくItだと。

そのささやきが、おれを良心の呵責や後悔、現実逃避から守ってくれた。

同じ部隊で一番先頭を歩いていたアメリカ人が、戦闘後、泣きながらぶつぶつ言っていた。


『私は人殺しではない。 殺人犯ではない。 殺人犯は自分より弱い者を狙う。 だから、私は人殺しではない』


一番先頭を歩かされるというのは、つまり、錯乱して味方を撃たないようにとの配慮だった。

次の作戦行動のため移動を開始した直後、彼は振り返って味方に銃を向けた。

その瞬間、わかったいたかのように部隊長が彼を射殺した。

おれも、とっさに、きちんと銃を構えていたという。

 

屁理屈を言うと死ぬということを学んだ。

おれは約二年の間、歩兵として戦場を渡り歩いた。

期間はそれぞれ二週間から長くて五ヶ月程度。

ダイヤモンド鉱山の警護、民主化に反発するゲリラの殲滅、特殊部隊を持たない国の正規軍として陽動作戦に従軍することもあった。

ジャングルでネイティブの案内役とはぐれたときは、さすがに命を落とすかと思ったが、幸いにして安全な水源を確保できたおかげで、なんとか生きながらえた。


二年後、おれは再びアランに出会った。


・・・・・。

 

 

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『私の目は確かだった。 よくいままで生きていたな』


傭兵斡旋業者と傭兵の関係は、たとえばヤクザとヤクザからシャブを買う風俗嬢の関係に似ている。

つまり、いくら働いても儲からないという泥沼の無間地獄だ。

実際、多くの戦友は契約期間を過ぎても、さらなる修練を積みに、業者が紹介する軍事学校に入所する。

駆け出しの傭兵の給料など、日本のコンビニでアルバイトをしたほうがわりがいいくらいなのだが、それでも第三世界の紛争国出身の人間には家族を何年も養える大金だった。


『恭平、お前は金を求めてこちらの世界に足を踏み入れたわけではないのだろう?』


無論だった。

金はもちろん必要だが、壮大な復讐計画を実行に移すには、コネクションが必要だった。

そう、復讐。

大勢の人間を特に理由もなく殺していった結果、おれの考えは変わっていった。

宇佐美義則を含む四人を殺したくらいで、なんだというのか?

彼らは人間のクズであり、たとえば民族解放のために立ち上がった義勇兵でもなければ、生まれたときから人を殺すことしか教えられなかった中東の少年兵でもない。

殺される理由がある人間が、逆におれには珍しく見えていたほどだ。

たとえ民間人を撃ったとしても、その紛争に勝利さえすれば、戦後に軍法会議にかけられることもない。

そういった様子を見ているうちに、父が裁かれることすらおかしいと思えてきた。

父を救いたいなどとかっこうのいいことを言っていた小僧は、いつの間にか、日本のありとあらゆるものを破壊してやりたいという衝動に駆られていた。


『これからは恭平も、フリーのエージェントとして、こちらも好きなときに声をかけさせてもらうよ』


おれは、もう紛争地でドンパチやるのは御免だと話した。

実際のところ、おれは戦闘にはあまり向いていなかった。

日本人のくせに背が高いのが敗因だった。

的が大きければすなわち、狙われやすい。

実際に、優れた戦闘能力を誇る傭兵は、中肉中背の一見して目立たない男ばかりだった。

映画に出てくるような筋骨隆々のゴリラもいるにはいるが、たいていはすぐに死ぬか、発狂して使い物にならなくなった。

加えておれには、どうやら、不敵な遊び心というか、人殺しをゲームとして楽しんでいるような不遜な気質があった。

おれ自身、そんなつもりはまったくないのだが、わざと急所を外すような殺し方をしていると、何度か指摘されたことがある。

これは、一瞬の判断が生死を分ける戦場では命取りになる弱点だ。

けれど、おれには語学を生かした渉外能力があった。

おれは復讐の準備の第二段階として、諜報活動を生業とすることにした。

傭兵といえば、とにかく陸軍だという先入観がおれにもあった。

しかし、実際には潤沢な資金を好き勝手に投入するクライアントが依頼するオペレーションは、おのずと仕事が難しく、何ヵ月、あるいは何年も前から入念に準備されている機密性の高いものだった。

当然、事前の調査は周到に行われなければならない。

アランがおれをスカウトした理由の一つに、おれが東洋人であるという事情があった。

傭兵の絶対数からいえば、日本人はとても希少なのだ。

かくしておれは、台湾人、韓国人、香港人・・・とりわけ能天気な日本人観光客というカバーのおかげで、とくに警戒されることもなく、仕事に従事できた。

情報戦の重要性はわざわざ語るまでもなく、報酬も歩兵だったころとは雲泥の差だった。

その分、リスクはついて回る。

条約もなにもない傭兵稼業では、敵地に偽造パスポートを持って潜入したまま、いつでも身元不明の死体になることができる。

死を偽装したおかげで、足がつくことのないおれは、有能なスパイとして次第に名を上げていった。

あるとき、モスクワの将校と、軍用爆薬の取引をしていたとき、興味深い話題を耳にした。

三島薫というヴァイオリニストが、近く劇場でコンサートを行うのだという。

相談相手の将校は、来賓の中にアラブの大物がいて、それがアメリカの代理人であり・・・要するに殺したいというようなことを言っていたが、おれの注目は三島薫に注がれていた。


かの宇佐美義則の妻。

よし、殺すとしよう。

まるで、今日の食事の献立を決めるのと変わらない。

将校は笑顔で帰っていった。

ある程度人脈も整っていたおれは、傭兵仲間を通して、金に汚い人間を集めた。

すなわち、麻薬カルテルのボディーガードや、誘拐ビジネスに手を貸すような男たちだ。


・・・・・・。

 

 

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作戦の指揮はすべておれが取った。

事前に遠くはなれた銀行を爆破するという情報を流し、官憲を振り回しておいたおかげで、爆破は実にスムーズだった。

場内にはおれが直接C4爆薬を持ち込んだ。

このときも、日本人の観光客という天下ご免状役に立った。

まんまと起爆装置をセットすると、三島薫の演奏に合わせて爆破のスイッチを押した。

爆風に巻き込まれ、半死半生の三島薫に止めを刺したときには、中間決算でも済ませたかのような達成感があった。

娘の宇佐美ハルという少女とも出会った。

気でも触れていたのか、自らを勇者だと名乗っていた。

たしかに、おれには不敵な遊び心があるのかもしれない。

なぜ殺さなかったのかと問われれば、面白そうだったからと答えてしまう。

京介と昔遊んだコンピューターゲームでは、村を焼き払われ家族を失った勇者が成長を重ね、やがて大魔王を倒すという王道のストーリーが展開されるのだ。


いや・・・。


正直に告白すれば、なくしたはずの良心がうずいたのかもしれない。

親は親であり、娘は娘なのだと、無関係な母親を殺したあとで、いまさらながらに感じたのを覚えている。

幼い子供を惨殺するという行為に、一般的な倫理観が警鐘を鳴らしていた。

けっきょく、さらに歳月を経て現在にいたったとき、おれは宇佐美ハルなんて忘れていたのだが、とにかく、官憲も迫っていたその場を見逃してやることにした。


その後に、日本での父の状況を探った。


・・・。


第一審は、死刑。


危惧していたことが現実となった。

もっとも、無期だろうが、懲役五年だろうが、おれは計画を実行に移すつもりだった。

父はおれの言葉を信じたのか、控訴して争う構えだった。

悔やんでも悔やみきれないのは、母の存在だった。

こっそり会いにいったとき、母は病院のベッドにいた。

調べたところ、心の病を患って、長らく一人で暮らしているのだという。


一人で?


京介はどこにいったのか。

それを知ったとき、殺意が芽生えた。

母を守るべき弟は、あろうことか浅井権三の養子となって、金儲けに奔走していたのだ。

母は、顔つきの変わったおれを、恭平だと気づくことはなかった。

おれはさらなる準備に明け暮れた。


・・・・・・。

 

 

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諜報活動も長く続けていると商社の諜報屋と出会う。

とくに山王物産ほどの大企業ともなれば、五人や十人は、真面目に勤務するかたわら、パートタイムで貿易商社の持つ膨大な情報を切り売りしているものだ。

おれは彼らの一人に近づき、さらには社長にまで迫った。

当時、山王物産には巨大企業が抱えがちな悩みがあった。

たとえばせいぜいが数百億円規模の売り上げで、社長がベンツだクルーザーだのとガス抜きしているうちはいいのだが、これが数千億数兆円規模になってくると、もう軍事予算に食いつかなくては会社を維持できないのだ。

山王物産も海外では、中南米の工場などで密かに拳銃を作って第三世界に売りさばいていたが、軍事産業全体からみればまだまだ零細企業といえた。

だからおれは、思い切って、日本の別の商社で製造されている武器の輸出を提案した。

武器の輸出が禁止されている国だからこそ、実現すれば莫大な富をもたらす。

この世界には、アタッシュケース一つで商売する、一匹狼の武器商人がいくらでもいた。

彼らを仲介し、日本のくつかの漁港に拠点を設け、販路を開拓する。

新潟や福井の漁港から北朝鮮の漁船に海上で引き渡し、ピョンヤンから陸路でウラジオストク、さらにモスクワまで運べばもう足がつくことはなかった。

さらに、日本の税関には、袖の下は通じないが、コンテナを二重三重にするという古典的な技がこと輸出に関しては通用する場合もあった。

かくして"魔王"は、山王物産の暗部を引き受けるかたわら、もう一つのビジネスを計画していた。

おれはアランに声をかけた。


『日本で、傭兵の斡旋をしようって?』


アランの目は輝いていた。

すでに、初めて出会ったときの若造を見るような態度ではなく、おれを一人の男として認めてくれていた。


『たしかに、君もそうだが日本人の需要は高い。
しかし、日本は裕福な国だ。 誰が志願するっていうんだい。
とても採算が取れるとは思えないが?』
「私も裕福な家庭に育った。
けれど、物質的な豊かさに関係なく、心の貧しい人間というのは、どこの国でもいるものだ」
『それは、たとえば?』
「未来をになう坊やたちです」


アランのような西洋人には、日本人とは礼儀正しく時間に正確で、同族意識の強い、世間や家族を常に気にかけるという印象がある。

たとえば企業の不祥事などで、代表が世間にご迷惑をおかけして申し訳ありませんなどと謝辞を述べる。

凶悪犯がご遺族に申しわけないと言うのも、欧米ではあまり聞かない。

こういった身内意識が、穏やかな規範となって日本での凶悪犯罪の抑止につながっているらしい。

しかし、近年では、環境の変化によって、同族意識が薄れ、個人主義的な色彩が強くなってきた。

家庭で十分な愛情を受けず、学校や地域社会でも疎外された少年少女の凶悪犯罪が、ぽつり、ぽつりと目立つようになってきているそうだ。

おれはとある本の内容をそのままアランに語り、さらにオリジナルの愉しい提案をしてみた。


「彼らに銃を与えてみたらどうか」


たとえば、いじめという問題はどこの先進国も抱えているものだが、とりわけ日本では、自殺してしまう子供たちが目につく。


「私はひどく悲しいんだ、アラン。
これがアメリカだったら銃を片手にギャングの仲間入りをするという道があったろうに」


才能を発掘して英才教育を施せば、後に出資に見合うだけの人材となる。

こういった、アングロサクソン的配慮というか、人さらいの発想は欧米人にウケがよかった。

なぜなら、傭兵のスカウトなんて最たるものは、数こそ減ったが、現在でもヨーロッパの各地で行われているからだ。


『協力は惜しまないよ、"魔王"』


・・・・・。

 

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そうして、おれは日本のストリートを歩き回ることになった。

はじめは大企業の重役の息子や政治家の隠し子などを狙った。

教育に失敗したとしても、親に身代金を要求するなどの利用価値があるからだ。

他には、暴力団の下部組織、あるいは一歩手前の暴走族などにも声をかけた。

求める人材は、家庭や学校、職場から理不尽な扱いを受けて、もう暴力に頼るしか道のない哀れな子供たちだった。

覚せい剤で稼ぐ知恵を貸し、銀行襲撃のための武器を与え、彼らが成長していくさまを見守るのは、おれにとっても喜びの一つとなっていた。

日本の子供のネットワークというものはすごいもので、"魔王"というウワサが広まると、黙っていても人が集まるようになった。

まあ、トラウマや複雑な家庭事情などなくても、男の子というものは、一度くらいは44マグナムをぶっ放してみたいと考えるものだ。


なかには時田ユキのような逸材もいた。

女性の傭兵というものは、噂でしか聞いたことがないが、それだけ希少なのだろう。

時田が宇佐美の知り合いでなければと、非常に残念に思う。


さて・・・。

 

 

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「はじめるとしよう・・・」


父はつい先日、最高裁で死刑を言い渡された。

ぎりぎり間に合ったといっていい。

もし、父が殺されていたら、この街だけでは済まさなかっただろうな・・・。

山王物産のビルを見上げる。

父の年季奉公先であり、武器の密輸入のためにおれも利用させてもらった。

宇佐美義則を不当にかばって、父を極刑に陥れた憎き会社も、ついにつけを払うときがやってきたのだ。

唯一気にかかるのは、勇者と裏切り者の京介の存在だが・・・。


『坊やは、お遊びが好きなようだな』


目を閉じると、スイスの訓練所の風景と、訓練教官の声があった。

 

 


「もう、坊やではありませんよ、"魔王"」

 

 

・・・

 

 

G線上の魔王【26】

・・・。

 

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小学校の帰り道。

おれは父、鮫島利勝に会いに、父の職場を訪れていた。

しかし、忙しい父が、勤務中に子供の相手をしてくれるわけもなかった。

だったら、この高い建物の屋上に登ってみようと、幼心に思った。

五十階建ての超高層タワービル。

屋上からの景色は満点だった。

黄金色の空が広がっていた。

影絵のような雲が、ゆっくりと覆っていく。

ぼんやりと眺めていると、夕陽が頂に雪を残した山々の向こうに消えていった。

少年だったおれは、眼前に広がる絶え間ない空の美しさに、素朴に感動していた。

鉄柵の向こうに、そいつを見つけ出すまでは。

 

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「なにしてるんだ?」


そいつは屋上のはしに座り、空中に足を投げ出していた。


「ねえ、キミ・・・怖くないのか?」


そいつは、なにも答えない。

分厚そうな本を読んでいる。

当然、風は強く、何度もページが飛ばされていた。


「本、読んでるのか?」
「見ればわかるでしょう」


変なヤツだと思ったが、逆に興味が沸いた。


「なんでこんなとこで読むんだ? 危ないぞ」
「落ち着くから」


ぶすっとしていた。


「怖くないのか?」
「なにも」
「落ちたら死ぬぞ」
「肉や骨が飛び散るでしょうね。
でも、大丈夫。 ゴミ袋を用意してるから。
落ちるときはそれにくるまるよう努力するつもり。
清掃の人も、それで少しは楽ができる」


しゃべりながら、本のページをめくった。


「なんかわかんないけど、おかしなヤツだな・・・」
「わたしは、あなたたちと違うの。
あなたたちみたいに、世間とつながっていないと、孤独に発狂してしまうような連中とは違うの」


理解しがたいことを平気で言うようなヤツだった。


「キミって、女だったのか」


髪型からして男の子かと思っていた。


「悪い?」
「んーん。 わるかないよ」
「なんで?」
「え?」
「どうして悪くないと思ったの? 女の子なら普通、髪は長いでしょう? 常識を逸脱してるじゃない」


わけもわからず、おれは言った。


「えっとな、ボクは髪が長い子が好きだ」
「・・・ふうん・・・って、そんなこと聞いてないわよ」
「まあいんじゃないの。 髪が短くてもとくに困ることないでしょ」


笑うと、すねたように聞き返してきた。

 

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「あなたこそなにしてるの?」
「ボクは、父さんを待ってるんだ」
「お父さんは、ここで働いてるんだ?」
「え? なんでわかんの!?」
「あなたみたいな子供が、一人でこの商社のビルに入って来れるわけないでしょう」
「キミも子供じゃん」
「そうね」
「あ、待てよ。 てことは、キミのとーさんも、ここで働いてるんだな?」
「だったら、なに?」
「遊ぼうぜ」
「・・・・・・」
「ボク、暇なんだ」
「わたしは暇じゃない。 本を読んでる」
「なに読んでるんだ。 貸せよ」


ちらりと見た限り『罪と罰』と、表紙にあったような覚えがある。


「人は人を殺してもいいのか、悪とはなにか・・・興味ある?」
「ねえよ」
「じゃあ、向こういってて」
「名前なんていうんだ?」
「は?」
「キミの名前だよ」


妙な間があった。


「勇者」
「なんだって?」
「勇者」
「なに、勇者?」
「田中」
「田中勇者って、なんだそれ?」
「勇者じゃダメなの?」
「ダメじゃないけど・・・勇者っていうくらいなら、強いんだろうな?」
「もちろん」
「魔法使える?」
「グーテンターク」
「おお、すごい」
「グーテンモルゲン」
「おおおー」
「らんらんるー」
「どういう魔法なの?」
「わたしもわからない」
「なにそれ・・・」
「さ、帰ろうかな・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 


山王物産の屋上で、おれは幼き勇者との出会いをすべて思い出していた。


まさしく病気にかかっていたとしか言いようがない。


あんな、大切な記憶を封じ込めているなんて。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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さて、次は宇佐美だ。

権三を殺した興奮冷めやらぬまま、おれは東区に来ていた。

宇佐美義則の一人娘、その死に場所は前々から決めてあった。

 

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宇佐美は、時田ユキから、おれの情報を聞きだしたはずだ。

時田には、それなりにおれの活動を話している。

外郭放水路のこと、おれとつながる外国人勢力のこと、潜伏先の一つに泊めてやったことすらある。

どの情報も、時田が裏切ったときのことを想定して、おれの今後の計画に支障をきたすようなことはないが・・・。

ただ、宇佐美の今後の行動は読みづらいものになる。

しかし、相手の出方もわからないのならば、相手の動きを指定するようにこちらから働きかけるのが、戦略の基本だ。


「・・・ふむ」


・・・やはり、もう一度鬼ごっこをするかな。

最初に宇佐美に渡した携帯電話は、まだ使用回数が残っているかな・・・。

コールしてみる。

通話はすぐにつながった。


「よう、宇佐美。 ご機嫌いかがかな?」


宇佐美はうめいた。


「権三さんを殺したな?」
「フフ・・・ニュースで盛大にやっているのかな。 これでこの街も騒がしくなりそうだ」


関東総和連合で、もっとも力のあった園山組の親分の死。

闇社会の勢力圏が塗り替わることだろう。

浅井興行を筆頭とするフロント企業も終わりだ。


「時田ユキはどうした?
「・・・・・・」
「警察に自首しないのか?
不法侵入に殺人未遂・・・まだまだあるな。 立派な凶悪犯ではないか?」


時田ユキが捕まれば、当然県警の捜査一課にも動揺が走る。

父の時田彰浩は優秀な人物だという。

できることなら、戦いたくはない。

しかし、宇佐美は挑発には乗ってこなかった。


「何の用だ?」
「会いたい」


宇佐美が息を詰まらせる。


「東区の公園はわかるな。 もと椿姫の家の近くだ」
「・・・・・・」
「その近くに、とある排水機場がある」
「そこへ来いと?」
「正面から堂々と来られては困る。
こんな時間に、外郭放水路の見学はやっていないからな」
「裏口でもあるのか?」
「無数にあるさ。 この街を含む隣県の水の流れを一手に引き受けている施設だぞ。
親父から聞いていなかったのか?」


宇佐美は答えない。


「排水機場より西に二百メートルほど行った場所に、地下トンネルへの入り口がある。
もちろん、鉄柵に鍵がかかっているが、お前のために特別に開けておくとしよう」
「・・・それは、ありがとう」
「心配するな。 今の時期は水もない。 トンネルのなかは外より暖かいぞ」
「いいだろう」


なにをかっこつけているのやら。


「最後の闘いだな」


お前にとっての、な。


父と同じように、くびり殺してやるとしよう。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

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「さ、帰ろうかな・・・」


勇者と名乗った。

とくに理由はなかった。

視線の先に、たまたま勇者という文字があった。

たまたま、口にしてしまった。

少年に興味はなかった。

少年は、半ズボンのポケットを探った。

小さな懐中時計をつかんだ。

お気に入りの一品。

かわいらしいペンギンの柄が入っていた。


「もう、時間。 帰る。 それじゃ」


懐中時計を握り締めて、立ち上がった。


「おい、待てよ」


突きあげるような風があった。

すさまじい勢いで、ビルの合間を這うように登ってきた。

足をすくわれた。

バランスを崩した少女は、そのときになってようやく少年の顔を見た。


「危ない」


少年の腕が伸びた。

必死そうな表情も迫ってきた。

うめいた。

よろめいて、もがいた。

夕空に懐中時計の光が瞬いた。

落ちる、と思った。

死の間際。

冷静だった。

ゴミ袋を用意して、落下に備えなければ・・・。


・・・。

 

 

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耳元で少年の息づかいがあった。

空しか見えない。

いつの間にか背中を預けていた。

かばうように抱きすくめられていた。

少年のぬくもりを感じる。

恐怖よりも先に、恥ずかしさがあった。


「馬鹿野郎、危ないっていったじゃないか」


また吐息がかかった。

助けてもらったのだと、知った。


「懐中時計」


つぶやいて、ポケットを探った。

あるはずもなかった。


「そんなもん、落っこっちゃったよ」
「困る」
「命があっただけでも、よしとしろよ」
「やだ」


少年は、いいかげん、腹を立てたようだ。

少女から離れると、タコのように口を尖らせた。

少女は、また屋上のはしに寄った。


「あれ、お母さんからもらったの」


下をのぞきこむようにして見た。

地上五十階から落下した小さな懐中時計が、見当たるはずもなかった。


「大事なものだったのか」
「うん。 でも、あきらめる」
「いいのか」


少女は少年と向き合った。


「しょうがない。 ばらばらに砕けてしまっただろうし」


うつむいて、言った。


「寂しいこというなよ」


寂しいことを言ったつもりはなかった。

少女は、ただ、うつむいただけだった。

夕陽が、いたずらに少女の顔を寂しそうに見せたのか。


「わかったよ。 探してやるから、待ってろ」


少年は背を向けた。

わけがわからなかった。

探して欲しいだなんて、誰が頼んだというのか。


――いいって、言ってるのに。


けれど、少女は、少年を制止する言葉を口にできなかった。


・・・・・・。

 

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暗くなった。

呆然と、立ちすくんでいた。

そろそろ、ヴァイオリンの練習を始めなければならない時間だった。

待った。

闇は深くなり、屋上にも機械的な光が募った。

星は見えない。

強風が雲を運んできたようだ。

寒い。

ただ、待っていた。


屋上の扉が勢いよく開いた。

叫び声があがった。

こちらに向かって走りこんでくる影があった。

再び、うれしそうな声があがった。

声は、自分が発したのだと気づいた。

懐中時計は、無事だった。

小さな傷はあれど、秒針はきちんと時を刻んでいた。


奇跡だった。


まるで、魔法のようだった。

勇者が魔法をかけたのだと、少年は言った。

幼心に、暖かい火が灯った。

少女にはむしろ、少年のほうが勇者に見えてならなかった。

少年を見つめた。

優しそうなまなざし。

すぐさまありがとうと、言いたかった。

ひねくれた心が、それを許さなかった。

見つめられると、照れくさくて仕方がない。


「雪だ」


少年が、大きく腕を伸ばして空を見上げた。

目が逸れた。

チャンスだった。

いまなら言える。

胸がうずく。


「寒くないか。 ボクのコート着るか?」


また目が合った。

少年の思いやりに熱くなる胸。

反対に、こみ上げる羞恥心。


「わ、わたし、友達いなくて、お父さんもいつも仕事で忙しくて」


不意に、唇が浮ついた。

止まらなかった。


「引越しばっかりで。 そう、それで友達いなくて。
あの、それで、だから、みんなわたしのこと変なヤツだっていって・・・だから、友達いなくて、その・・・」


狼狽する自分を、初めて知った。

いつもはもっと冷静に、論理的に話をすることができる。


「あの、ほんと、驚くぐら友達いなくて・・・」


同世代の子供たちには無視されるばかりだった。

だからこちらも無視してやることにした。

"孤高"という単語を本で知った。

孤高でありたかった。


「ご、ごめん、ごめんなさい」


涙声で、詫びた。

内気で多感な子供の素顔が、じんわりと表情に滲んでいく。


我慢しろ、我慢しろ。


少女は自分に言い聞かせた。

どうせすぐに海外へ旅立つのだ。

少年とも、どうせすぐに別れるのだ。

孤高でいろ、孤高でいろ・・・。


「さよなら、もう帰る」


逃げ出した。

自責の念が胸を突いた。

駆け出したとき、少年が名乗った。


「おれ、キョウスケっていうんだ。 また、会えるよな、勇者」


少女は答えなかった。

ただ、思わず足が止まってしまった。

それが、答えになった。


――キョウスケくん・・・。


名前を心のうちで何度も反芻した。


雪が、積もってきた。


反対に、少女の心は雪解けを待っていた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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"魔王"に教えられたとおりの場所に行くと、なだらかな斜面の下にコンクリートの横穴がぽっかりと空いていた。

壊されていた鉄柵の間をくぐり、薄暗い通路をすすんでいくと、やがてハルは地下トンネルに降り立った。

広く野太い穴だった。

水害の際には、首都圏の雨水がすべてここを通るのだという。

ハルは、父、宇佐美義則のことを思った。

タバコの匂いと、麻雀牌の音。

それが、ほとんどすべての父の記憶だった。

ハルは母の薫に従って、海外を点々としていたからだ。

だから、鮫島利勝という人に惨殺されたと聞いても、実感が沸かなかった。

葬式の際に集まった父の同僚たちのほうが、涙を流していた。

父は慕われていたのだと、そのときは思った。


時を経て、父にも非があったことを知った。

違法賭博にどっぷりとはまり、鮫島利勝に借金の肩代わりをさせた疑いがあった。

ハルは母に連れられてドイツへ渡った。

世間の目を逃れ、体よく逃げ出したのだ。


――京介くんに恨まれても、仕方がないな。


なつかしい記憶。

両親のごたごたなど知らずに、山王物産の屋上で出会って、他愛のないことを語り合った。

少年京介は、明るく爽やかで勇敢な男の子だった。

ドイツで生まれ、日本の学校になじめなかったハルには、当時友達がいなかった。

けれど、京介だけは違った。

鮫島京介こそが、宇佐美ハルにとっての勇者だった。


"魔王"はどこだ。


ハルは暖かい思い出を振り払うように、母の仇の足跡をさぐった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「また、本読んでるのか?」


懐中時計を拾ってやった、次の日。

おれは再び山王物産のビルの屋上に来ていた。

ひょっとしたら、またあの勇者に会えるかもしれないと思って。


「また来たんだ?」
「うん、キミに会いに来た」
「そ、そうなんだ・・・ふうん・・・で、なにか用なの?」
「だから、遊ぼうって」
「なんでわたし?」
「さあ・・・」
「家族と遊んでれば?」
「とーさんは、仕事。 かーさんは、病院。 にーさんは、外国」
「外国?」
「うん、イギリスだって。 にーさん、すごい頭いいんだー」
「歳はけっこう離れてるのね?」
「んー、十くらい違うかなー。 キミはボクと同じくらいだろ?」
「だったらなによ・・・。
と、友達になってくれるっていうの?」
「もちろん」
「で、でも、わたし、来週にはニューヨークに行くんだ」
「なんで?」
「お母さんのお仕事についていくの。 わたしも前座みたいなことするの」
「なに前座って。 どんなお仕事?」
「大勢の前でヴァイオリン弾くの」
「ボクね、Gせんじょーのアリアが大好きなんだ」
「そうなんだ」
「とーさんがね、よく聞いてるから覚えたの。 最近のとーさん、そればっかり聞いてる」
「ふうん・・・だったら、今度、弾いてあげ・・・なくもないけど」
「あとね、『魔王』も好き」
「え、無視?」
「ガッコで習った。 なんか怖いけどかっこいい」
「『魔王』って・・・ふうん・・・」
「ねえ、帰ってくるんだろ?」
「ん?」
「ほら、ニューヨークから」
「まあ、いつになるかわからないけど・・・いちおう、日本に家があるから」
「なに、いちおうって」
「ん、別に・・・」
「なんか、さみしいのか?」
「え? なんで?」
「キミのとーさん、忙しいんだろ? ボクもなんだ。
ちょっと昔にね、妹がいたんだけど、死んじゃったんだ」
「そう・・・」
「清美っていうんだけどね、かわいかったなー。
でも、ボクんちは明るいよ。 たまに、にーさんも帰ってきてくれるし。
この前、ボクが写真撮ってあげたんだ。 ボク、カメラ使えるんだよ?」
「カメラくらい、わたしも使えるよ」
「今度、キミも撮ってあげるね」
「い、いいよ・・・なんで?」
「記念に」
「ヤダよ・・・わたし、女の子っぽくないし」
「いいから、今度、ボクのおうちにおいでよ」
「だから、ニューヨーク行くってば」
「いつでもいいからさ。 みんなでご飯食べよ。 住所教えるね・・・」
「考えておくけど、あまり、期待しないでね・・・」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


目の前に、暗いトンネルの入り口がある。

外郭放水路

泥水を引きずったような、足跡が複数あった。

まってろ、宇佐美・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 


耳を澄ませば、足音が遠く響いている。


宇佐美だ。

一人、か?

これは面白い。

警察に通報してもよさそうなのに。

つまり、ヤツはヒロイズムに酔っているということだ。

あくまで自分の手で捕まえたいらしい。

最も、警察の影が見えれば、おれが尻尾をまいて退散すると読んだ上での単独行動か。

なんにせよ、死にに来たということだ。

幼き勇者。

なんの力もないくせに、よくぞ執念深くおれを追ってきたものだ。

素直にヴァイオリンの世界で生きていれば良かったものを。


・・・終わらせてやるとしよう。


「宇佐美、こっちだ!!!」


おれは叫び、少女を死地へと誘った。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 


その後、勇者との再会を心待ちにしていたおれに、次々と転機が訪れた。

ある夜、家に警察から電話がかかってきた。

父、鮫島利勝が、殺人を犯し、警察に逮捕されたというのだ。

あのときの母の優しさと強さは忘れない。

どうしたの、と母に聞いたおれ。

なんでもない、とはにかむように笑ったのだ。

翌日から、学校に行くのが恐ろしくなった。

それまでクラスのリーダー的な存在だったおれの居場所はどこにもなかった。


『京介くん、だいじょうぶかい。 倒れそうな顔してるよ。 困ったことがあったらいつでも言うんだよ?』


担任の教師に、ホームルームで、そんなことを言われた。

大勢の友達の顔がひきつり、遠慮がちにおれを見つめていた。


『みんな、京介くんと仲良くするんだよ。 京介くんのお父さんと、京介くんは違う人だからね。 つまり、関係ないんだ。 応援してあげようね』


それが、いじめの引き金となった。

死刑という言葉が子供たちの間ではやり、昼休みになると縄跳びが机の上においてあった。

学校から帰ると、いつもは台所で料理をしているはずの母が、椅子にうなだれていた。

生気を失った顔でおれの帰宅を認めるとこう言った。


『学校で、なにも言われなかったかい?』


おれは必死になって、首に輪を描いたあざを両手で隠していた。

インターホンがひっきりなしに鳴り響く。

ドアを開ければ、マスコミのカメラが雲霞のように群がっている。

たきつけられる激しいフラッシュにめまいがした。


――おい、子供は映すな。


――あとできっておきますから。


――ねえ、ボク、ちょっといいかな?


――お母さん呼んできてもらえる?


彼らは肉の壁となり、幼いおれを圧倒していた。

ドアを閉めようとしても、大人たちの手が、ゾンビの群れのように詰め寄ってきた。

おれを逃がすまいと、足をドアの隙間にはさみこんできた。

そして、そんなほんのわずかな隙間からも、カメラを差し込んでくる彼らの執念に、おれはついに気を失った。

それから先は、苦痛の毎日だった。

幸福だった家庭に連日のように訪れるマスコミ。

言いたいことをいう近所の住民。

忘れたころに現れる、浅井権三という名の取り立て屋。

救いは、母と、急遽帰国してきた兄、鮫島恭平だった。

恭平兄さんは、おれを叱咤し、母をいたわり、亡き妹の遺影に線香を上げると、退学の手続きのため、一時イギリスへ帰国した。

しかし、不幸は重なるのか、兄は、ロンドン市内の爆破事件に巻き込まれ命を失った。


・・・。

 

 

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兄の葬儀。

地下鉄のホームに仕掛けられた強力な爆弾は、兄の肉片ひとつ残さなかったという。

父のいない葬儀は、母が喪主を執り行った。

限界だったと思う。

母の顔は、絶望の色に青白く染まっていた。

集まった親戚たちは、母を助け、手際よく段取りを進めてくれていたようだ。

しかし、彼らは好意の裏で、大罪を犯して社会的立場を失った父から、どうやって財産を搾り取ろうかという謀議をしていた。

父は、借金に苛まれながらも、自宅だけは売らなかった。

家は家族の砦。

そもそも、払ういわれのない借金に、なぜ、おれと兄さんと清美の思い出の詰まった家を売り払わなければならないのか。

しかし、親戚にはそんな道理は通じない。

借金返済のために、いくらか父に金を貸してくれた叔父もいた。

その叔父が坪あたり一千万の値のつく土地を奪い取るべく、先頭に立って人寄せから段取りから、精力的に尽くすのも当然だった。

兄の葬儀の場において、彼らの頭のなかには、死者への想いではなく、ただ、黄金の輝きだけがあった。


「京介くんも、大きくなったべなあ」


北海道の漁村で漁師をしている叔父が言った。

父の家系で、父だけが出世頭だった。

貧しい家庭に育った父は、猛勉強の果てに一流大学に入り、山王物産に入社したのだ。

兄弟たちからの僻みや金の無心は、相当なものだったろう。

それでも父は、月に十万ほど、実家への仕送りを欠かさなかったようだ。

積もり積もった仕送りの額面から考えても、叔父たちは父の味方であって当然だった。


「清美ちゃんは、残念だったべな。 利勝も、五十を間近に子供なんか作るから・・・」


おれは幼心に、親戚たちの良識ぶった顔の裏に潜む悪意を、はっきりと感じていた。

襖を隔てて、密談のひそみ声がする。


――利勝も馬鹿をしてくれたもんよ。


――昔から、わしらになんの相談もせんかったべさ。


――嫁さんも大変じゃ、なんでも富山のほうの分家の子供らしくての。
利勝と離縁せんと、家に残してもらえんとな。


――あの様子だと、利勝と別れる気はないようだの。


――だから、内地の女は怖いとあれほど言ったんだべよ。


――そだのう、不幸は重なっておるが、利勝の財産だけはあの嫁が握っておるからな。


――めんこい顔して、まっとうな子供も生めん体だったべ。


――わしに任せておいてけらっしょ。


――金か?


――家に迷惑かけた利勝から、ちょっとくらいもらってもバチはあたらんべよ。

 

・・・・・・。


僧侶の読経を聞きながら、どうして自分はこんなところにいるのだろうと思った。

つい先日まで、学校にはたくさんの友達がいて、家族はいつも明るくて、山王物産の屋上から見える空はどこまでも広がっていたのに。

留置所にいる父。

いまにも倒れそうな母。

肉片ひとつない、兄。

群がる金の亡者と、執拗なマスコミ。

どうして、八方ふさがりの地獄のような気分を味わい、くもの巣にからめ取られた虫のように、じたばたと苦しまなければならないのだろう。

周囲の視線やささやきに、びくびくしなければならないのだろうか。

部屋の隅で、膝を抱えてくすぶっていたおれを見下ろす影があった。


「京介くん、おっかさんにお願いしてもらえんべか」


姑息な微笑は、父の兄弟とは思えないほど似ていなかった。


「おっかさんに、実家に帰ってもらえんかの?」


遠まわしに、この家を明け渡せと言っていた。


「京介くんも、つらいべよ。 よその学校のほうがいいべよ?」
「ボクは母さんと一緒にいるよ」


場所もわきまえぬぞんざいな叔父に、おれは立ち上がった。


「利勝はの・・・おっとさんは、えらいことをしたんだわ。
そういうことをしたもんはよ、家族ひっくるめて、家を出て行くもんなんだべよ」
「父さんは悪くない・・・」


あっ、と声を上げて叔父は他の兄弟と顔を見合わせた。

諍(いさか)いには不慣れなくせに、狡猾に立ち回っているだけの連中だった。


「いいか、京介。 おっとさんは、四人も殺したんよ。 人殺しだべ。
おっとさんを信じるのはいいが、人殺しが悪くないと言ったらいかん」
「でも、でも、母さんも、父さんが大好きだもん」
「そりゃ、旦那が金さ持ってるからだべ。
そんなことよう言えんから、こうして身内が気を揉んでるんだわ。 子供にはわからんだろうがの」


叔父は脅すような顔になった。


「一方的ですまんがよ、わしの言うことを聞きなさい。
頼れる身内もおらんのだべよ。 母さんに苦労させたくないべ?」


おれはやり場のない怒りに身を震わせていた。


「わかったよ・・・」


お母さんに苦労をさせたくはない・・・そういう意味でうなずいた。

しかし、叔父たちは、おれを懐柔したのだと思ってほっと息をついていた。

母さんを想った。

一族に取り囲まれた話し合いの場で、母さんはなにを主張できるのだろうか。

たった一人で、自らの潔白と、正義を訴えても誰が信じてくれるのだろうか。

何ひとつ悪いことはしていないのに、理不尽だと子供心に思った。

弱くて無知な幼い自分が腹立たしかった。

父さんがいれば、こんなヤツらを殴りつけてくれるのに。

兄さんがいれば、饒舌な言葉で追い払ってくれるのに。


誰でもいい、助けて欲しい。


母さんの正義を代弁してくれる人がいれば、たとえ結果が同じであろうともどれだけ心強いことだろうか。

読経が終わって、おれはその場にうずくまった。

泣き顔を見られたら負けだ。

奥歯を噛み殺して、必死であらゆる重圧に耐えた。

奥の襖が、そろりと開いた。

 

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「お邪魔しまーす!!!」


いつ、ニューヨークから帰ってきたのか。

小さい体に信じられないほどの覇気を込めて、幼い勇者が乗り込んできた。


「兄ちゃんに、お線香あげに来ました!」


突然の乱入者に、一同の間にどよめきが走った。


「ど、どこの子だ!? 場所をわきまえなさい!」


少女と目が合った。

目に悔し涙を浮かべていたおれを見て、悟ったのだろう。

勇者は、ぐいと叔父を睨み潰した。


「場所をわきまえるのはお前らのほうだ!」


いかにも身内の不幸を聞きつけてきたというふうだった。


――まさか、清美ちゃん?


――馬鹿、清美は死んだと聞いておるべ。


――でも、兄ちゃんって・・・!?


大人たちは、ようやくここが葬儀の場だということを知ったようだ。

親戚の誰もが知らない子供が、いきなり沸いて出てきたのだ。

少女を見る顔が、幽霊を見るように青ざめていった。


「お前らよってたかって白いものを黒だとぬかし、おっかさんや京介くんをいじめるのか!」


少女の賢さと勇気に、涙が止まった。


「わざわざ天国から出張ってきたんだ。 ふざけたことぬかしたら、まとめて連れて帰るぞ!」


「そ、そんな・・・馬鹿な・・・」


さっきまで強欲に顔を歪ませていた叔父が、明らかにひるんでいた。


最高だった。


地獄のような場所に、勇者が助けに来てくれたのだ。


そのとき、母さんが初めて涙を流した。


あるいは母さんも清美が現れたと思ったのかもしれない。


頬を伝う涙は、悲しみだけに染まっているわけではなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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――どこだ、どこにいる・・・?


広大な空間にそびえ立つ無数の柱に、"魔王"の影を探った。

耳が痛くなりそうな静寂のなか、まったく物音がしない。


ハルは自らが狩場にやってきたことを知った。

"魔王"が身を隠す場所はいくらでもある。

いままさに、銃で狙われているかもしれない。


「素晴らしい場所だと思わないか?」


どこからともなく"魔王"の声がした。

反響に反響を繰り返した声の居場所を探ることは容易ではなかった。


「お前の父、宇佐美義則も、地獄で誇らしげに自慢していることだろう」


感慨など沸かなかった。

呑み込まれそうなほどの暗闇は、まさしく"魔王"の住処のように不気味だった。


「鬼ごっこの次はかくれんぼか。 そろそろ姿を見せたらどうだ?」
「気が早いな。 勇者と魔王の戦いの前には、演出が必要だと思わないか?」
「お前とおしゃべりをするつもりはない」
「面白くないな、まったく」


じりと、靴音が鳴った。


意外と近くにいる。


ハルは耳を澄まし、わずかの物音も逃さぬ気構えで、暗闇を見据えていた。


音がした。

背後を振り返る。

コンクリートの破片が床に散っていた。


囮だった。


遊んでいるのか。


緊張に、わずかに呼吸が乱れた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


柱の影から宇佐美の様子をうかがう。



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問題は、宇佐美が丸腰かどうかだ。

まず、第一に飛び道具の有無。

海外経験の豊富な宇佐美のことだから、実弾を撃った経験もあるかもしれない。

この日本でどうやって銃を手に入れるか。

そして、この暗闇のなか、弾を当てることができたらたいしたものだが、万が一ということもある。

先ほど小石を投げたとき、振り返った宇佐美の全身を確認した。

腰の辺りに、拳銃を隠しているような角ばった輪郭は発見できなかった。

胸のふくらみに隠してあったりしたら面白いが、そんな場所から抜いている暇を与えるつもりははない。

とはいえ、ヤツはなんらかの武器を所持している。

宇佐美の右手の先に注目する。

だらりと下がっているようでいて、強張っている。

つまり、なにかあったときに、とっさに動けるように構えているのだ。

となると、右手の近く・・・スカートのポケットがもっとも怪しい。

どんな凶器か。

小型のナイフか・・・いや、痴漢撃退用のスプレーか、あるいはスタンガンか・・・日本には、ペン型のスタンガンすらあるというからな。

さて・・・。


「勇者に敬意を表そう」


宇佐美の反応はない。


「友人はおろか、警察にも頼らずに、たった一人でおれを追ってきた」
「よく言う。
警察の影でも見えれば、尻尾をまいて退散するつもりだったくせに」


・・・その通りだ、あくまでこれはいお遊びなのだからな。


「だから、私も、お前をライフルで狙撃したりはしない」
「余裕だな」
「ネズミを狩るのに、猟銃は用いないだろう?」


しかし、ネズミは厄介な病気を蔓延させる。」


「お前は、くびり殺すのが一番だと思ってな」


父と同じようにな。

そうすれば、おれも、少しは父さんと一緒の業を背負うことができるかもしれない。


地面を蹴った。


柱の影から影に向けて、跳躍する。


「・・・っ」


二度、三度と、移動を繰り返す。


「・・・っ・・・っ・・・」


宇佐美の呼吸が乱れていくのがわかる。

おれの言葉を鵜呑みにしていないのはさすがだ。

おれのスーツの裏には、拳銃が下がっている。

不用意に身をさらして突進してきたら、撃ち殺してやるつもりだ。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


今度は右。

豹のような素早さで、柱の影を渡りついでいる。


"魔王"のこちらを翻弄するかのような動きに、ハルは焦りを覚えていた。


命を懸けたやり取りなど、経験がないからだ。

ヴァイオリンをやめてから、空いた時間を空手に費やしたものの、"魔王"に通用するとは思えなかった。

いまが、"魔王"を倒す最大のチャンスだ。

なんの力もない少女と遊びたがるその心の慢心こそ、つけいるすきがある。

 

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機は、一瞬だろう。

隠し持ったスタンガンを再度確認する。

長さ十センチほどの凶器は相手の体に押し当てるだけで、電極部が出て連続スパークする。

電圧は50万ボルトと説明書にあったから、どんな大男でもまともにくらえば失神する。


ハルは"魔王"の動きに合わせ、接近を試みた。

さきほどまで"魔王"がいた柱にまで移動し、背中を柱に貼りつけた。

強張る右の手のひらが、汗にじんわりと滲んでいった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


何度か、お互いの居場所を交換し合うようなやり取りが続いた。

円形の広場。

等間隔に屹立(きつりつ)する柱。

似たような地形に、宇佐美の方向感覚は少なからず蝕まれていることだろう。

それが、証拠に、おれは宇佐美の背後をとらえていた。

もちろん、宇佐美は背後にもい気を回しているだろう。

距離にして五メートルほど。

飛び掛って、その細首をしめあげる。

可能か。

宇佐美は、おそらく、武器を隠し持っている。


だが・・・。

武器を持っているなら、なぜ、いま、手に持っていない?

ナイフにしろ、スタンガンにしろ、すぐさま応戦ができるよう、構えておくはずだ。

宇佐美は凶器を持っていないのか、あるいはそう思わせる狙いなのか。



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・・・・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・・・・。

 


「らちが明かんな、宇佐美」


問いかけたそのときだった。

それまで聞かなかった異質な響きがあった。


「・・・っ!」


カツン、と鳴ったそれは、おそらく宇佐美の制服のなかにある武器だろう。

柱の角にでもぶつけたか。


フ・・・。

 

おれは再び闇の中を走りぬけ、宇佐美と距離を取った。


「どうした、こっちだぞ!」


こうなったら、獲物が弱るのをじっくりと待つとしよう。


「はあっ・・・っ・・・!」


なんの訓練も積んでいない女学生の体力はいずれ尽きる。


「息が上がってきたな、どうしたどうした?」
「うっ・・・はあっ・・・はあっ・・・」


おれははっきりと後姿をさらしながら、柱と柱の間を縫うようにじぐざぐに駆け抜けた。

宇佐美はご丁寧に追ってくる。


「お前の執念はそんなものか!?」


どれだけ鬼ごっこを続けただろうか。

ちらりと後ろを振り返ると、宇佐美の顔が非常灯の明かりにさらされていた。

あごが、上がっていた。

右手に黒い凶器・・・おそらくスタンガンの類だ。


「はあっ、"魔王"・・・っ・・・はあっ・・・!」


足がもつれたその瞬間を見逃さなかった。


柱の角に足を引っかけたらしい。

前のめりに床に突っ伏す宇佐美。

宇佐美の右手から離れる黒い物体。


「ぐっ・・・!」


おれは身を翻し、猛然と倒れた宇佐美に迫った。


「うわっ!」


慌てて身を起こそうとした宇佐美に飛び掛り、押し倒す。


さあ、死ね――!


透き通るような白さを誇る首に、手をかけた。

 

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「うっ・・・あ、ぐっ!」
「どうした、勇者! 頭を使え!」


言葉とは裏腹に、脳に血がいかないよう万力を込めた。


「ぐっ、くっ、うぅうあああっ!」
「よく味わえ! お前の父もそうやって死んだんだ!」


徐々に、宇佐美の抵抗が収まってきた。


命を奪っている。


ある種の陶酔すら覚えた。


父、鮫島利勝は、少女ハルの死を願っていた。


そうしなければ、宇佐美義則という悪魔は思い知らない、と。


容赦などしない。


良心など痛まない。


このまま宇佐美の命を絶つ。

 

「う・・・あ、ああ・・・」


瞳からにわかに生気が失われていった。


反対に、おれの顔は歓喜に歪んでいることだろう。


父よ、できることならこの場を見て欲しかったぞ・・・!


おれは、ついに宇佐美を――――!


・・・。

 

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胸に迫る、なにか――。


思わずそれに目を向けた。


脳裏に飛来する、驚愕と後悔。


慢心していた。


凶器は一つだと、誰が言った!?


直後、屈辱に奥歯が砕けた。


「宇佐美いぃぃぃっ――――!!!」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


雨のように降り注ぐ"魔王"の絶叫。


ハルはかまわず、最後の力をふりしぼった。


スカートのポケットに潜めていたもう一つの凶器。


握り締めたスタンガンは、完全に"魔王"の胸をとらえていた。


「地獄で母さんに詫びろ!!!」


母への思いを込めて、ヴァイオリンをあきらめた憤りを込めて、宇佐美ハルは腕を突き出した。


稲光にも似た閃光が瞬く、はずだった――。


目を疑った。


押し当てるだけで電撃が流れるはずだった。


故障か。


いや、違う。


"魔王"の胸のうちで、なにかが接触をさえぎった。


硬い、なにか。


市販されているスタンガンには、よく硬いものに対しては動作しない保護機能がついている。


――拳銃か!


再び別の場所に押し当てようと思いなおしたときには、遅かった。


「なるほどな・・・」


"魔王"の笑みが降ってきた。


「しょせんは市販のおもちゃだったか・・・」


力が抜けていく。


最後の武器も振り払われて遠くに飛ばされた。


「なかなかがんばったな、宇佐美」


首が、絞まる。


絶望が、ひしひしと募っていった。


「次は、どんな策を用意しているんだ?」


もう、策はなかった。


「そうか、もう遊びは終わりか。 楽しかったぞ・・・」


終わる。


なんの意味もなかった。


"魔王"への抵抗など、最後の最後まで遊びに過ぎなかった。


殺される。


父と同じように殺される。


首を絞められた体がその活動を終えようとしているのにつれて、意志も瀕死に近づいていった。


前後の記憶は曖昧だ。


頭のなかが真っ赤に染まり、生と死の境界が見えなくなったといえばいいか。


いまや完全に行き来自由になった状態になりかけていた。


苦痛の極みを通り越し、空を飛んでいるような高揚感すら覚えた。


開いた瞳孔、せり上がる眼球。


迫り来るあらゆる活動の停止・・・。

 

――京介、くん・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「勇者、昨日はありがとうな!」


葬儀に乱入した翌日、京介が屋上に現れた。


「ごめんね、勝手に妹さんのふりして」
「いいんだよ。 すごいかっこよかったよ!」


ハルは、そんな子供の小細工はいっときのものでしかないと予想していた。

けっきょく、彼らは家を出て行くことになるだろう。


「ボク、キミのこと大好きだ!」


屈託のないひと言が胸をついた。


言えなかった。


少女の父親こそが、少年の父をたぶらかし、挙句殺害された男だとは。

 

言えなかった。

 

これから世間の目を逃れるべく、海外に移住するだなんて。


「好き・・・?」


背筋をなめる冷や汗。

作り笑いを浮かべるつもりが、うまくいかなかった。


好き、という言葉の発する力に、口の中がからからになった。


「わたしが、好きって・・・京介くんは、ほら、お友達多そうじゃない?」
「うん・・・多かったんだけどね」


京介の声に、暗い影が落ちた。


なんと無神経なことを言ってしまったのか。


少女の鼓動は駆け足を始めていた。


「恋人とかいるの?」


あくまで平然を装って聞いた。

でも、本を持つ腕は震え、いまにも地上五十階から飛び降りてしまいそうだった。


「勇者はおませさんなんだね。 女の子のほうがそういうの興味あるって父さんが言ってた」
「いいから、いるの、いないの?」
「いないよ。 そういうのは考えたこともなかったなあ」


少年の口元が綻び、少女も安堵した。

いや、ため息をついている場合ではない。

ありったけの勇気をかき集めた。

決意を胸に、干上がる口内に息を送り込んだ。


「しょうがないわね、なら、わたしが結婚してあげるわよ」


笑顔を、作れない。


あふれるのは涙ばかり。


勢いに任せて少女は言った。


平然と、淡々と・・・。

 

「また会えたらね。 覚えていたらでいいから。
わたし、これから引っ越すの。 運命の再会っていうのかな。 ロマンチックじゃない?」
「引っ越す?」
「そう」
「なんで?」
「ヴァイオリンの勉強するの」
「また外国?」
デュッセルドルフ。 ヨーロッパね」
「そんな、やだよ・・・」


少年の声が曇った。


「寂しい?」
「当たり前だよ」


嬉しくて、胸が弾んだ。


「だから、ほら、また会えたら結婚してあげるって。
こういう約束って、大人に言わせれば恥ずかしいんだろうね。
でも、いいじゃない。 勇者からのお願い」


一息にしゃべり、しゃべったあとに言葉の意味を自覚した。

膝がかじかんだように震える。

大胆な告白に、体が悲鳴を上げていた。


「結婚・・・?」
「嫌なの?」
「本気なの?」
「ほ、本気よ」


今度ははっきりと声が震えた。

変な女の子だと思われただろうか。

図々しいと嫌われただろうか。

結婚だなんて、子供っぽいと笑われただろうか。

ああ、そういえば、京介くんは髪の長い子が好きなんだ・・・。


けれど、少年は、ハルの砕け散ったガラスの心を拾い集めるように優しく言った。


「わかった。 約束するよ」
「覚えていなさいよ。 わたしのお母さん、すごい美人なんだからね。
この意味わかるかな。 つまり、わたしもこれからすごい美人になるってこと」


そう、髪だって伸ばす。


少女は立ち上がって、少年を振り返った。


心で泣きながら、弾ける笑顔をぶつけた。


高鳴る胸のうちとは裏腹に、もう少年と会うことはないだろうという予感があった。

会えたとしても、そのときはきっと少年も大人になっている。

殺人犯の息子と、被害者の娘として再会することになるのだ。

京介くんは、きっと、わたしを恨むことだろう・・・。


かまうものか。


「約束ね」


また笑って見せた。

少年も笑顔を返した。


「わかった。 ヴァイオリン、がんばってね」


穏やかなまなざし。


優しい声音。


少年のすべてが哀しかった。


淡くはかない夢は、長い年月を経て時の流れに呑まれてしまうのだろう。


ずっと、このままでいたかった。


でも、これ以上少年の前にいると、笑顔を保ち続ける自信がない。


いまは、泣くものか。


悲しみにくれる時間は、これからたっぷりあるのだから。


「んじゃね、とりあえずフェリーでどこかの空港までいくらしいから。 気が向いたら港まで見送りに来てよ」
「うん、ぜったい行くよ」


夕空が、少年の頬を染め上げた。


こわばる唇を無理やり吊り上げて、少女は手を振った。


二歩、三歩と歩き出す。


振り返って、抱きつきたかった。


初めての想い人の胸の感触を想像しながら、少女は駆け出した。


涙に視界が霞み、嗚咽が風に流された。


見上げた空は、ちょうど冬から春に変わる色をしていた。


ハルは願いを込めた。


いつか、どこかで、約束は果たされる。


親のいざこざなど知らず、お互い無垢な天使として再会する。


冬ばかりの人生に、穏やかな春の到来を夢見た。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「・・・くん・・・」


宇佐美がなにかぼやいている。


「京介、くん・・・」


瞳に涙すら浮かべていた。


まるで、おれの内なる良心をくすぐるように。


「・・・宇佐美・・・」
「あ、っ・・・きょうすけ、くん・・・」


わずかな頭痛を覚えた。


首にかけた手が緩みかける。


「・・・・・・」


殺したと思っていた甘さが、鎌首をもたげる。

 

――親は親、娘は娘。

 

宇佐美ハルという少女に、なんの罪があるのか。


「ぐっ・・・黙れ、宇佐美・・・」


けれど、京介を呼ぶ声はやまなかった。


「泣いてもわめいても、京介は現れんぞ!」


心を凍りつかせた。


そう、おれは"魔王"。


復讐に救いを求め、復讐にすべてを投げ出した男だ。


浅井京介と名乗った半端者とは違う!


もう一度、首に圧力を込めた。


今度こそ殺す。


おれはうめき、体をよろめかせながら、一つの生命を握りつぶしていった。


「――死ね、宇佐美っ!」

 

闇を掻き分ける足音があった。


荒い息づかいが、その男の必死さを訴えていた。


もう近くまで来ている。


おれの姿を探し当てたようだ。


そうか・・・尾行されていると思ったが・・・お前だったか。


家族を裏切り、浅井権三の養子となった男。


権三を釣る餌として、今日の夜半に電話を入れてやった。


取り乱したことだろう。


おれは死んだはずだからな。


裏切り者は殺してやる予定だった。


フロント企業フィクサーの真似事などをしていると知ったとき、おかしくて仕方がなかった。


弱虫のお調子者の分際で。


しかし、その男の足取りに迷いはないようだった。


電話をかけたときは、自分こそが"魔王"だと勘違いして、錯乱していたというのに。

 

「きょう、すけ、くん・・・」


ふん、そういうことか・・・。


おれが死線をくぐっている間に、穏やかな純愛を育んでいたわけか。


「やめろっ・・・」


そいつが言った。


「宇佐美に手を出すな・・・」


声色からは、なんとしても少女を守るのだという気概が感じられた。


「誰に向かってものを言っているのか、わかっているんだろうな?」
「ああ・・・」


よくも邪魔をしてくれるものだ。


京介ごときが・・・。


――このおれ、鮫島恭平に向かって。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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いまでも思い出す。

あのときの言葉。

旅立ちの前に、海は穏やかな波を打っては返していた。

少女はいままさに、乗船しようとしていた。

おれは少女に聞いた。


「ねえ、名前なんていうの?」
「勇者は勇者よ」
「教えてよ」
「じゃあ、わたしが本当の勇者になったら教えてあげる」
「え? まだ勇者じゃないの?」
「うん・・・」


きっと、素直になれない自分を未熟だと感じていたのだろう。


「わかったよ」


おれは歯を見せて笑った。


「キミは勇者になるんだね」
「うん・・・」
「だったら、ボクは・・・」


だったら、ボクは・・・。


――おれ、浅井京介は。

 

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「勇者を守る、仲間になる!」

 


「京介えぇっ――!」


・・・。

 

「恭平兄さん・・・いや、"魔王"!」


一歩、詰め寄った。


「宇佐美を離せ。 お前の悪行もこれまでだ」


ぐっとおれを見上げた"魔王"。


瞳に、凄まじい憎悪を燃やしていた。


「これまで、だと?」
「すでに園山組の方々に連絡はつけてある。 お前は袋の鼠だ」
「なかなか手際がいいな。 養父を殺されて、家でめそめそ泣いているかと思っていたぞ」
「おれはもう昔のおれじゃない」


「きょうすけ、くん・・・」


宇佐美がおれの姿を認め、そのまま、ゆっくりと目を閉じていった。


「兄として、弟の成長を嬉しく思うぞ」
「兄さんも、生きていてくれてなによりだ。 爆弾で吹き飛ばされたんじゃなかったのか?」
「当時のロンドン市警の評判を聞いたことがあるか?
事故現場にパスポートを残しておけば、あっさりと死んだことにしてくれたよ」
「なぜ、そんなことを?」
「私はお前と違って、やることがあるのでな。
死んだことにしたほうが日本警察の目もごまかしやすいし、なにより・・・」
「なにより、浅井と名乗って触れ回ることで、おれに罪を着せるつもりだったんだろう?」
「正確にはアサイと名乗っていたのだがな。
まあ、それでも、権三を含め、大勢の人間がお前を"魔王"だと勘違いしてくれた」
「おかげで、動きやすかっただろうな。
あんたが権三の車を爆破したときは、みんなしておれを疑っていたよ」
「なあに、車に爆弾など、北アイルランドではよくある話だ」
「あんたはテロリストに与しているのか?」
「フフ・・・似たようなものかな・・・」
「だから、ライフル銃に軍用爆弾なんて物騒なものを扱えたのか」
「あんなもの、中東では十歳の子供でも使える」


恭平兄さんがいなくなって、長い年月が流れていた。

昔から冷たそうではあったが、内面にほとばしる激情を滲ませていた。

 

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「京介よ、お前はなぜ私に力を貸さない?」
「・・・・・・」
「よく聞け。 父はたったの四人、それも死んで当然の人間を殺して死刑になったのだぞ?
この国ではなんの罪もない幼児を惨殺しておいて極刑に至らない人間もいるそうじゃないか?」
「お前の目的は、父さんの釈放か?」
「いかにも。 この十年、そのために準備を重ねてきたのだ」
「準備だと・・・?」


おれは義憤のようなものを背筋に感じていた。


「椿姫の弟を誘拐し、権三を殺し、時田を裏で操っていたのも準備だというのか!?」


しかし、"魔王"は笑みを取り下げなかった。


「浅井権三は死んで当然ではないか。 母が心を壊したのは誰のせいだ?」


たしかに、それはおれも否定しきれない。


「椿姫はいい"坊や"だった。
穢れを知らぬ娘は簡単に悪に染まる。
もう少し時間があれば、時田と同じように仲間に加えてやったものを」
「・・・子供を集めて、なにをするつもりだ?」
「それを今話すのは面白くないな」


あくまで傲岸(ごうがん)。

昔から天才的な頭脳を持っていた恭平兄さんは、いまや才能を完全に悪い方向に開花させたようだ。


「京介、いまからでも遅くはない。 私に従え。 いっしょに父さんを救おうじゃないか」
「断る!」


強く、自分に言い聞かせるように叫んだ。


「おれがなぜ、お前に協力しないのか・・・」


宇佐美を見つめた。


幼き勇者。


孤独だったおれを救ってくれた。


たとえいっときとはいえ、春を感じさせてくれた。

 

「"魔王"、お前は、おれの女を弄んだ」


遊びと称して、椿姫や時田との友情を引き裂いた。


あまつさえ、いままさに、手にかけようとしている。


「もう一度言う。 宇佐美を離せ。 その少女がなにをした?」
「失望したぞ、京介よ・・・」


"魔王"はゆっくりと身を起こした。

 

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「お前は父の面会に足を運んだのか?」                                  

さすがに、痛いところをついてくる。


「父の無念を、なぜわかってやらない?」
「・・・・・・」
「過去の闇を捨て、都合よく生きようなどとは、おこがましいにもほどがある」


そのとき、おれの背後から無数の足音があった。


坊っちゃん、京介さん、などと巻き舌でおれを呼ぶ声があった。


「京介よ、この場はひいてやる」


おれを見下ろすように薄笑いを放つと、"魔王"は宇佐美を解放した。


宇佐美を人質にしても、組長の仇を討とうと躍起になっている園山組の連中には効果がないと判断したのか。


「だが、次に会うときは死を覚悟しておけ」


ぞっとするような怨嗟のこもった目の色だった。


「家族と人間のクズはいくらでも両立する。 仇の娘に惚れた男など、もはや弟でもなんでもない」


覚えておけ――。


"魔王"は闇の彼方に走り去った。


追うことはできなかった。


用意周到な罠が待ち構えている可能性もあったし、なにより、意識を失った宇佐美をこのままにしてはおけなかった。


「っ・・・」


暗がりでもはっきりとわかるくらいに、血の気を失っていた。


「宇佐美、おいっ!」


おれは宇佐美を抱きかかえ、軽く頬を打った。


「・・・っ・・・きょうすけ、くん・・・」
「だいじょうぶか?」


まさに間一髪だった。


「来て・・・くれたんだ、ね・・・。 やっぱり・・・京介くんは・・・」


ふらりと首を落とす。

再び意識を失ったようだ。


「わたしの、勇者・・・」


まるであの日、あのときの少女のようなあどけない顔だった。

そっと、手を握る。

冷え切った体に、そこだけ春の陽だまりのような熱を感じた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

―――――

 

 

 

・・・。

 

 

 

・・・・・・。

 


あれから宇佐美を背負って、地下トンネルを抜け、家まで連れ帰ってきた。


「ん・・・」


ベッドからうめき声が漏れた。


「起きたか?」


突如、がばっと、布団を蹴飛ばしてきた。

 

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「こ、ここは・・・天国ですか?」
「おれの家だ、馬鹿」
「なぜにわたしはこんなダサい服を着てるんですか?」
「お前のジャージだから。 わざわざお前の部屋まで行って取ってきたんだぞ」
「どうして、わたしのうちを?」
「時田と白鳥に聞いた。 家の鍵は勝手に拝借させてもらったぞ」


宇佐美の家はたしかに、このマンションのすぐ近くだった。

会社の倉庫らしき建物の二階を間借りしていたようだ。


「わたしの部屋に無断で入ったと?」
「ああ、安心しろ。 時田と白鳥も同伴だ」
「かわいいものがたくさんあって萌えたでしょ?」
「気持ち悪いぬいぐるみばかりでひいたわ」


モヒカン頭のペンギンがずらりと並んでいた。


「ユキと水羽はどこに?」
「二人とも帰ったよ。 明日は・・・いや、もう今日か・・・普通に学園に行くらしい」


宇佐美の顔色が曇った。


「しかし、ユキは・・・」
「ああ、警察に自首する前に、ノリコ先生にわびに行くらしいな」


時田の決意は固いようだった。


「でも、一人残される水羽はどうなります?」
「その辺はおれにもわからんよ。 まあ、あとで来るって言ってたから、話し合ってみろや」
「でも、こんな格好を人に見せたくないです」
「おれ、おれ! もう見せてるから!」


まったく、心配して損をしたな・・・。


「制服はクリーニングに出しておいたから。 明日まで我慢するんだな」
「ひとまずお礼を言っておきます」


ちょこんと頭を下げる。


「ありがとうございました」
「ああ・・・」
「ありがとうございました」
「なんで二回も言うんだよ」
「浅井さんが来てくれたなかったら、わたしはいまごろ極楽に旅立っていました」
「ふん、高くつくぞ・・・」
「それでは」


と、玄関へ向かう。


「お、おい待てよ、どこへ行く?」
「とくにあてはありませんが、ここにいてはいけないような気がしますので」
「・・・なぜだ?」
「なぜって・・・」


目を伏せ、唇を噛む。


「わたしは、あなたのそばにいてはいけないのです」
「親の因縁があるからか?」


さらっと言うと、宇佐美はしたたかにうなずいた。


「恨まれても仕方がありませんから」
「そうだな・・・おれが鮫島利勝の息子だと知って、よくもひょうひょうと現れたもんだ」
「すみません、ひょっとして気づいていないんじゃないかと思って、ラッキーとか思ってました」
「宇佐美とかいう名前にはピンと来てた。 けれど、まったく考えないようにしていた」


その結果、幼いころの約束すら記憶の彼方に飛んでいた。


「伸ばしすぎだから」
「え?」
「髪だよ」
「・・・・・・」


宇佐美が息を詰まらせるのがわかった。


「昔は、男の子かっていうくらい短かったのにな」
「お、覚えていたんですね・・・」
「ああ、結婚の話もな」
「あっ・・・」
「まったく、馬鹿馬鹿しい」
「ですよね・・・」
「ああ・・・」


しばし、見つめ合う。


葛藤はあった。


記憶のなかの勇者への憧れと、現在の宇佐美への気持ち。


少女はおれを救ってくれたが、宇佐美ハルは仇の娘なのだ。


「ま、ひとまず、ここにいろよ」
「いいんですか?」


なにやらうれしそうに声がうわずっていた。

おれも、なぜか高鳴る鼓動を感じていた。


「おい、宇佐美」
「あ、はい」
「シャワー浴びてこいよ」
「え、えっ!?」
「なにテンション上げてんだよ。 ずっと地下トンネルを駆けずり回ってたんだろ?」
「あ、そっすね。 頭くせーっすね、自分」


わたわたと、脱衣所に消えていった。

かくいうおれも、服を脱ぐ宇佐美の布擦れの音を、妙に意識してしまった。


おれの、女・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


夜明けにはまだ遠い季節だった。

悶々としながら三十分ほど過ごすと、宇佐美がひょっこり風呂から出てきた。

髪も勝手に乾かしたようだ。


「コーヒー牛乳飲みたいんすけど」
「・・・・・・」
「風呂上りですし、ぐいっと」
「・・・黙れ」


どこまでもふざけたヤツだな。


「変ったよな、お前」
「はあ・・・どのへんが?」
「いや、昔はもっと、なんつーのかな、突っ張ってたじゃねえか?」
「はあ・・・スカしてましたか?」
「そのしゃべり方もな・・・ホントに、あのときの勇者かよ?」
「まあ、あなたももっと素直で明るい子でしたけどね」


お互い様か。


歳月は人の性格を変えるが、人の想いはどうなのだろうな。


「で・・・お前は、その・・・なんだ・・・」
「ええ、あなたのことは、ずっと好きでしたよ」
「いや、そんなふうにさらっと言うから、ギャグかと思っていたんだ」
「そすか。 もうちょっとロマンチックな雰囲気で言えばよかったですね」
「別に、どうでもいいんだが・・・」


どうにも居心地が悪い。


「話題を変えよう」
「相撲の話でもしますか?」
「うるさいわ」
「実は空手は心得ありなのです」
「ほんとかよ?」
「黄帯ですが」
「なん級だよ、それ」
「"魔王"と格闘になって、荒っぽいことにはまったく向いていないことが発覚しました」
「髪がな・・・ケンカでつかまれたらアウトじゃねえか」
「しかし、浅井さんのお好みがどれほどのロングかもわからないので、切ろうにも切れませんでした」
「ほんと、馬鹿だな・・・」


しかし、妙に会話が弾む。


「あ、ひとつ、聞いていいですか?」
「あ?」
「浅井さんには、いま、どれくらいのイロがいるんですかね?」
「イロって・・・女はいねえよ」
「椿姫は?」
「まさか」
「花音は?」
「妹だぞ」
「水羽にユキ」
「なわけねえだろ」
「よく電話で話しているミキちゃんという方は?」
「あれは男だ。 ゲイバーのマスターをしてるが、金次第でどんな情報も集めてくれる。
ちなみに、おれのことはお気に入りらしい」
「そすか」
「なんだよ、まさか嫉妬してたのか?」
「ええ。 実は、ここぞというタイミングを見計らって浅井さんの家にお邪魔していたんです」
「・・・マジかよ・・・そういや、思い当たる節もあるな」

 

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「よく、数々の誘惑を振り切ってわたしを選んでくれましたね」
「なに嘘泣きしてんだよ」


選んだ・・・?

選んだ、のか?

こみ上げる羞恥心に、思わず宇佐美から目を逸らした。


「で、浅井さん・・・」
「なんだ、もじもじしやがって」
「じ、自分、シャワー浴びてきましたけど?」
「・・・っ」


思わず、宇佐美の体を意識してしまった。


「それは、つまり・・・」
「ええ・・・そういうの、苦手ですけど」
「なんだよ、経験なしか?」
「え、い、いや、あれですよね、ラブホテルには交換日記みたいなのが置いてあるんですよね?」


童貞丸出しの発言じゃねえか・・・童貞じゃねえけど。


「・・・えっと・・・どうなんですか?」
「まあ、次に会ったら、犯すだけじゃ済まさんと言ったからな」
「そ、そうでしたね・・・別に、いいですよ、京介くんになら、どんなマニアックなプレイされても・・・」
「き、京介くんって・・・呼ぶなよ・・・」
「あ、じゃあ、かわりにハルって呼んでもらってもかまいませんよ?」
「なにが、かわりに、だ・・・」
「残念です・・・」
「ひとまず、風呂に入ってくる・・・」
「あ、じゃあ・・・ベッドでお待ち申し上げていればいいんですかね?」


おれは半ば呆れながら、脱衣所に向かった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

風呂から上がると、いつの間にか部屋の電気が消えていた。


「おい、宇佐美・・・」


もぞもぞと、ベッドの布団が動く。


「ぐーぐー」
「寝たふりすんなよ、なにびびってんだ」


かくいうおれも、水をぐいっとあおって気持ちを静めた。


「座るぞ」
「・・・ひっ」
「お前な、おれだって、驚いてるんだよ・・・まさか、お前みたいな女を抱くなんて・・・」


おれは宇佐美の体に覆いかぶさるように、ベッドに横になった。


「あ、あわわ・・・な、なにか」
「なんだよ?」
「か、固いものがっ!」
「ああ、そういうもんだ・・・」


なぜか、心が猛る。

この少女を、おれのものにしたいという衝動が抑えられない。

それは、仇の娘を征服したいという感情ではなく、もっと優しく、穏やかな、なにかだった。

宇佐美の手が、おれのまたぐらに触れる。



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「う、うおおおおおおおっ!」
「うるせえんだよ!」
「びっくしたー! おーびっくしたー!」
「おいこら、逃げるな!」

 

おれたちはお互いを求め合った・・・。

 

・・・・・・。

 

 

・・・。

 

 


ことが終わり、しばし、宇佐美と抱き合うようにして身を横たえていた。

やがて、宇佐美がもそりと起き上がり、いそいそと服を着替え始めた。

 

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「しかし、よく、覚えていてくれましたね」


にっこりと笑う。


「ん、なにが?」
「十年も昔の話です。 屋上で誓い合った、二人で宇宙を手に入れるっていう・・・」
「そんな約束はしてません。
昨日、山王物産の屋上に行ってな。 そこで、岩井っていう人に会ったんだ」
「ああ、裕也さん・・・」
「知り合いらしいな」


岩井裕也。

山王物産に勤める若手社員だ。


「お前、その人の家族に世話になってるんだろ?」


父親は、宇佐美義則の部下だった。


「はい。 こっちに引っ越してきたとき、住む場所を紹介してもらいました。
もう返しましたが、少しだけお金も借りたことがあります」
「岩井の父親は、宇佐美の親父のことを尊敬していたみたいだな」
「・・・仕事場では、信頼の篤い人だったみたいなので」


気まずそうにうつむいた。


「それで、いきなり声をかけられたんだよ。 昔、ここで宇佐美って子と会いませんでしたかって。
岩井も、当時は親父に会いに山王物産に遊びに来てたらしいんだ。
それで、何度か、おれたちを見かけたらしい」
「聞いてます。 声をかけられて、無視したこともありましたから」
「なかなか誠実そうな男だったぞ」
「ええ、裕也さんはいい人です。 わたしに同情してくれています」


・・・なぜか、下の名前を呼んでいることが、気に触った。


「まあ、そいつといろいろ話しているうちに、思い出したわけだよ」
「浅井さん、あなた、心因性健忘症にかかっているというのは本当ですか?」
心因性・・・なんだって?」
「いきなり記憶が飛んだりするような病気だそうです」
「たしかに、物忘れはひどいが・・・」


おれは笑うしかなかった。


「よく頭痛がひどいと・・・」


・・・秋元がそういう診断を下したのだろうか。


「どうだろうな・・・医者ってのはなんでもご大喪な病名をつけたがるもんだろ・・・」
「とにかく、一度よく診てもらってください」
「まあ、暇があったらな。 これから、権三の葬儀やらなんやらで忙しくなりそうだから」
「やはり、お亡くなりになったんですね」


おれもいまだに実感がない。

まだ権三は生きていて、いまにも呼び出しの連絡でも来そうだった。


「少し、疑問があるのですが・・・」
「うん?」
「あなたが病気にかかっているという話は、権三さんから聞いたんです」
「会ったのか?」
「つい昨日の晩に、屋敷を訪ねました。 ユキを許していただけるようお願いに上がったんです」
「おいおい、権三がそんな頼みを聞くわけないだろう」
「しかし、すでに、権三さんの興味は、ユキにはありませんでした。
そこで、電話がかかってきたんです」
「あ、ちょっと待てよ、それって・・・」
「あの電話は、あなたからだったんですね?」


おれは昨晩の出来事を思い返す。


「山王物産をあとにしたおれに、いきなりある電話がかかってきたんだ。
おれは仰天した。 そいつは死んだはずの兄貴だったからだ。
"魔王"は、話があるから、港まで来いと誘ってきたんだ。
気が動転していたおれは、ひとまず権三に報告した。
おれは"魔王"じゃないってことを伝えたんだが・・・」


いま思えば、それこそが"魔王"の罠だったのだ。

つまり、"魔王"は、おれを餌に権三を港までおびき出した。

おれはもちろん、権三も殺すつもりだったのだろう。


「港では、どんな出来事が?」
「権三は、精鋭を引き連れて"魔王"を待ち構えていた。 さすがに罠だと気づいていたらしい」
「しかし、撃たれてしまった・・・」
「ああ、おれが、タクシーで乗り入れたとき、不意に車から出てきてな・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・え?」


宇佐美の顔が険しくなった。

 

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「遠くからライフルで狙撃されたと聞きましたが」
「あ、ああ・・・」
「権三さんは、浅井さんが現着するまで、車の中に身を隠していたんですか?」
「だと思うが・・・権三の車の窓はスモークがかかってるからな、狙い撃ちされることはない」
「では、なぜ・・・飛び出してきたんですかね?」
「わからんが・・・」
「わからない?」


責めるような、それでいて悲しそうな複雑な顔になった。


「そうですか」
「なんだよ?」
「いいえ。 きっと自ら身をさらけ出すことで、"魔王"の位置を探ろうとしたんでしょう」
「なるほどな。 たしかに、その後の部下の人たちの動きは凄まじく早かった。
さすがは、親分だな・・・勇敢というか、無謀というか・・・」
「・・・・・・」


じっと、見つめてくる。


「なんだよ・・・よせよ・・・」


指先がにわかに震えてきた。


・・・まさか、そんなはずはない・・・。


「たしかに、おれは、"魔王"がライフルで狙っていることも知らずにのこのこと現れたよ・・・でも・・・」


――京介よ、のこのこと現れれば死ぬぞ。


そのひと言が、鼓膜から全身の神経にいきわたり、愕然とした。


「ば、馬鹿な・・・ありえんよ・・・」


権三の最後は、いまも目に浮かぶ。


・・・。

 

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「お、お義父さん!」


怪物は、地面に倒れた。

瞳に修羅を宿し、ぐいとおれを見据えていた。


「寄るな」


駆け寄ろうとしたおれの膝が、小刻みに震える。


「す、すぐ、救急車を・・・!」
「黙れ」


手負いの獣の威圧感に、おれの体は凍りついた。


「・・・京介、よ・・・惜しかったな」


泡を含んだ血液が、口からこぼれ出た。


「・・・俺がもう少し早く死ねば・・・お前も親元に帰れただろうに」
「・・・死ぬなんて、そんな・・・」


信じられなかった。


おれの人生の前に、山のように聳え立っていた男が死ぬなど、想像もできない。


「"魔王"を、追え・・・子分どもには、そう言い聞かせてある」


たしかに、組長が死にかけているというのに、誰も看取りに来ない。

仁と義のはびこるヤクザ社会において、ありえない事態だった。


「こ、これが、あなたの作った組織だというのですか?」
「・・・"魔王"を捕まえれば・・・金ははずむと言ってある」


どこか愉しそうに言った。


金と権力になびかぬものなどいない。


死の間際にあって、浅井権三は自分の生き方が間違っていなかったのだと、満足しているのかもしれなかった。


「五千出す。 さあ、お前も行け」
「し、しかし・・・!」
「二億の借金を忘れたわけではあるまいな」


これから、死ぬというのに、なにが二億の借金か。

けれど、浅井権三の目は、地獄の底からでも回収に来るぞ、と雄弁に語っていた。


「失せろ、京介」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

「そんな・・・そんなはずがない・・・」


拳を握り締め、否定した。


「宇佐美、お前は権三を知らないから、そんなおとぎ話みたいな想像ができるんだ」
「・・・・・・」
「いいか、ヤツはな、初対面の人間を殴った席で、流血を見ながら酒をあおれるような男なんだぞ?」
「・・・・・・」
「その席でな、花音をてなずけるために、犯しておけなどと本気で言いやがったんだぞ?」
「・・・・・・」
「椿姫の弟が誘拐されたときも、おれを殴りつけてだな・・・」
「・・・・・・」
「花音のことも、いい金稼ぎの道具としか見ていなかったし・・・」
「・・・・・・」
「そ、そうだ、ヤツは、母さんを、おれの母さんに鬼のような仕打ちをしたんだぞ!?」
「・・・・・・」
「あの浅井権三がっ、あの神をも恐れぬ冷血漢がっ!」


・・・・・・。

 

・・・。

 


あの夜、タクシーから不用意に降りたおれ。

 

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突如、浅井権三が、猛然と迫ってきた。


驚いたおれは、とっさに身を伏せていた。


「京介えええっ――――!!!」

 


・・・・・・。

 

・・・。

 

 


「赦されるのか!?」

 

ありえない!


そんな生き様が、いや、死に様が赦されるはずがない。


「そんな妄想は、浅井権三に対する冒涜だ!」


否定しなければ、気が狂ってしまいそうだった。


権三に従った数年間。


一度足りとて、優しさなど見せなかった。


来る日も来る日も、金、金、金だ・・・。


金を生み出さぬ家畜は、殴られるだけ。


暗黒の哲学をおれに叩き込んでくれた養父を置いて、おれは走り去ったのだ。


「わかりました、五千ですね」


五千ですね――。


最後の言葉が、それだった。


最後まで、金の話だった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「さん・・・浅井、さん」


おれを呼んでいる。


「泣かないでください・・・」


おれは床に跪き、両手を合わせていた。


「なあ、頼む・・・っ!」


手を合わせた先に、地獄の底で笑う権三がいた。


「穢れなき少年の瞳を、おれにくれっ!」
「・・・・・・」
「怖いお父さんが、最後の最後で息子をかばってくれたのだと、おれに信じさせてくれ!」
「・・・・・・」
「頼む・・・!」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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権三よ、本当のところはどうなんだ!?

お前は、ただ"魔王"と決着をつけるべく、車から飛び出てきたのか?

それとも、それとも、まさかっ・・・!

脳天まで響く、獣のような叫び声。

ぐおお、ぐおお、と泣き叫ぶおれは、さながら腹をすかせた動物の赤ん坊だった。

しかし、父親は狩から帰ってこない。


いくら待っても、帰ってこない――。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

いつの間にか眠っていたようだ。

頭に柔らかい感触。

 

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「おはようございます。 もう、朝ですよ」


おれは、宇佐美の懐に抱きつくように寝ていたらしい。

異様に喉が渇いていた。

時刻はすでに朝の八時を回っていた。


「まずい!」
「どうされました? 学園に行かれるんですか?」
「権三の葬儀の段取りをしなければならん。
総和連合の大親分が出張ってくるらしいから、さすがに顔を出さなくては」


これから園山組はどうなるんだろうな。

堀部あたりが、五代目に就任するんだろうか。

それとも、別の組から組長代理を立てるのか。


「わかりました。 もう行かれるんですか?」
「ああ、夜には一度帰ってくる。 それまでゆっくりしてろ」
「残念です。 わたしの手料理をご馳走しようと思っていましたのに」


・・・なんかグロそうだな。


「じゃあなっ」
「あ、お見送りに」


玄関から飛び出すと、宇佐美も続いてきた。


・・・・・・。

 

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「・・・っと」


時田と白鳥。

エレベーターを降りてエントランスを抜けると、ばったり出くわした。


「おはよう、京介くん。 ハルはどうだった?」


冬の青空に負けないぐらいの笑みを浮かべていた。


「どうだったって・・・」
「食べたんでしょ?」


「姉さん、朝だよ?」

 

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「そうだ、場所をわきまえろ。 ひとの家の前だぞ?」


「あら、ハル。 いたのね」


前髪をなで上げる時田の仕草には、どこか物憂げな影があった。


「お義父さん、亡くなられたわね」
「ああ、おかげでお前らも、お天道様のもとを歩けるぞ。
これから園山組は跡目争いで大忙しだ。 お前らなんかに用はない」


「お母さんも・・・」
「ああ、死んだよ。 白鳥は、宇佐美から聞いたんだな。 ちなみに同情や慰めはけっこうだ」


「そうね、それはハルの役割だもんね」


やはり、どこか暗い。


「時田は、明日から留置所暮らしか?」
「フフ・・・ご挨拶ね」
「まあ、好きにしろよ。 おれの知ったことじゃない」
「ええ、好きにさせてもらうわ」
「まあ、わかってるだろうが、お前がパクられたところで、誰も得しないぞ?」
「・・・・・・」


・・・なんだよ、なにか言い返してこいよ。


「よく考えろよ、時田。
まず一番の被害者の白鳥理事長でさえ、お前に逆恨みこそすれ、ことが公になるのを望んでいない。 お前が自首したら、学園の占拠事件まで報道されるからな。
白鳥にしろ宇佐美にしろ、お前のことが好きみたいだん。
つまり、この事件に関わった人間はお前を訴えるつもりがないんだ。
警察も暇じゃねえんだ。 出頭したところで、けっきょく不起訴になるかもしれんぞ?」
「ノリコ先生と橋本くんは違うわ」
「ああ、そうだったな。
ノリコ先生はただ巻き込まれただけだし、橋本はお前の従犯だ。 その二人については、知らん」


宇佐美が口をはさんできた。


「ユキ、考えを変える気はないのか?」


「姉さん、思い直して。 ノリコ先生には、いっしょに謝ろう? きっと許してくれるわよ」


時田は苦い顔で、首を振った。


「・・・京介くんが言っているようなことは、ずっと考えていたわよ」
「へえ・・・」


おれはなんとなく頭にきていた。


「宇佐美は唯一の親友を失い、白鳥はまたひとりぼっち」
「・・・・・・」
「お前の父親の刑事もせっかく栄転したってのに、また田舎暮らし」
「・・・・・・」
「お前が自首して得るものは、ただの自己満足だけじゃねえか。 立派な正義感だな」


いつもは雄弁な時田が、黙っておれの話に耳を傾けていた。


「お前は罪を犯した。 そりゃ、教科書には時田自首しろって書いてあるよ。
しかし、獄中で罪を償った気になる前に、まず金を払え」
「・・・お金?」


さすがの時田も胸をつかれたようだ。


「お前のせいで、園山組の若い衆がてめえのシノギ放り出して駆けつけたんだ。
その人件費と、あの倉庫の一晩の電気代、慰謝料なんかも含めると・・・百や二百じゃきかねえな」
「・・・は」


時田の顔がひきつる。


「とにかく払うもの払ってからにしろ。
その前に警察に逃げ込んだりしたら、てめえの家族から回収させてもらうからな」


ちらりと、時田にわかるように、白鳥をにらみつけた。

 

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「冗談でしょう?」
「冗談かどうか知りたければ、いますぐ警察に駆け込んでみろ。
ちょうどおふくろも死んでな。 おれも気が立ってるんだ」
「・・・っ」


うめきを漏らし、じっとおれの全身を観察してきた。

得意の心理学みたいなもので、おれの真意を探っているのだろう。


「とりあえず、時田には"魔王"について聞きたいことがある。 逃げるなよ」


無駄話している時間の余裕はなかった。

三人を残して、権三の邸宅に向かった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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屋敷の周りに整列する、黒服という黒服。

おれは挨拶とガンの応酬にもまれにもまれ、ようやく門をくぐることができた。

そこで、葬儀の段取りを聞いた。

通夜は明日、告別式はあさって。

権三の遺体は、総和連合の幹部が亡くなったときによく使われる式場に運ばれていた。

おれは、関係者への連絡や、お返しものや料理の手配、供花の注文など・・・要するに雑用に追われることになった。

総和連合の最高幹部の方々と話をして、正直、緊張に胃がおかしくなりそうだった。

権三の死を表立って嘆く者は一人もいなかった。

同時に、彼らは、皆一様にどこかほっとしたような顔をしていた。

いかに浅井権三が、周りから疎まれ、そして畏怖されていたかがわかる。

さらに、そこかしこで飛び交う、"魔王"という言葉。

彼らには、"魔王"の正体が、おれの兄、鮫島恭平だということは知れ渡っているようだった。

葬儀が一段落したら、おれへの詰問が待っていることだろう。


・・・"魔王"。


おれはただ、黙々と、体を動かしていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

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「お帰りなさいませ」


部屋に戻ると、当然のように宇佐美が居座っていた。


「ご飯になさいますか、お風呂になさいますか?」
「新婚ぶるなよ」
「一度言ってみたかったものでして」
「・・・って、なんか焦げ臭いな」
「はい。 イベリコ豚のソテーを作ろうと思って失敗いたしました」
「うんうん、火事にならなくて良かったですね」


もはや、ツッコむのもめんどくさかった。


「意外とお早いお帰りでしたね」
「ああ、また九時くらいになったら出るぞ」
「ちょっとの合間も、わたしに会いに来てくださったんですね?」
「・・・違うから」


まったく、なんでこんな女が気になるんだろうな、おれは・・・。


「おい、時田は何か言ってたか?」
「いえ・・・」
「ふうん・・・」


明日にでも、呼び出すとしよう。


「ひとまず魚焼いてますんで。 浅井さんはゆっくりしててください」
「おう・・・」


とはいえ、やることはたくさんある。

権三が亡くなったいま、浅井興行も店じまいだ。


・・・久しぶりに音楽でも聞くかな。


おれはCDラックを漁る。

悪魔的な曲がいい。

クラシックの分野で悪魔的といえば、早弾きによる超絶的な技巧を指すことが多い。

しかし、ここは、モーツァルトかな・・・悪魔が書かせたものらしいし・・・。


・・・ん。


「おい、宇佐美」

一枚のCDを手に取り、思わず呼びつけてしまった。


「お呼びでしょうか?」
「こ、これなんだが・・・」

 

 

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それは、おれのお気に入りの奏者のデビューアルバムだった。

弱冠十三歳の天才ヴァイオリニスト。


「ミシマ、ハルナ・・・」
「嫌なものを持ち出してきましたね」
「え?」


宇佐美を見つめる。

どことなく、面影がある。


「十三歳でこんな氷の上にいなくてもいいすよね」
「マジで?」
「マジです」
「ミシマ・・・三島って」
「はい」
「いや、待て。 この子はだな、あの三島薫さんの娘なわけだが?」
「ええ、わたしの母です」
「は?」
「いや、ホント、僭越です。 そのCDはいま現在、日本では売られていないはずなんですが」
「ちょ、ちょっと待て。 本気か?」
「これが恐ろしいことに、真実なんですよね」
「いや、三島春奈はだな・・・お、おれの好きなアーティストなわけで・・・」
ロリコンすね、浅井さん」
「春奈ってなんだよ、芸名か?」
「ですね。 母が、本名はやめておけと」
「なんでまた」
「ですからその・・・言いにくいんですが、わたしはいちおう殺された被害者の娘でして・・・このCDを発表した当初は、まだ幼女だったわけですし」
「幼女ってわけじゃねえだろうけど・・・」
「いえ、レコーディングのときは、12だったんです。 まだまだストライクゾーンです」
「む・・・なんでもいいが・・・いや、芸名なんて珍しいから、ついな・・・」


いまのいままで、宇佐美ハルが三島春奈だとは気づかなかった。


「で、あの・・・」
「はい」
「次のアルバムはいつごろになるんですか?」
「気持ちわるいっすね、なんか」


こいつに気持ち悪いとか言われるとなんか無性に傷つくな。


「もう出ませんよ。 レコード会社との契約もとっくに切れてますし」
「そうか・・・活動休止といいつつ、実質引退してたのか」
「ホント、ガキがなめんなって感じですよね。 親の七光りで半ば強引にCDデビューしたようなもんなんです」
「たしかに、お前の母親の薫さんはよ、チャイコフスキーで1位取ってから、ベルリンとかバーミンガムとかフィラデルフィアだのの楽団を飛び回って公演してたすごい人だったよ」
「ええ、ですから、母がすごいんですよ」
「だから、レコーディング方面でお前が目ぇつけられるのもわかるよ。 まあ、ぶっちゃけ容姿もいいって評判だったからな」
「あ、いまのところもう一度」
「え?」
「まあ、ぶっちゃけ・・・なんです?」
「まあ、ぶっちゃけこんな気持ち悪い女だったとは思わなかった」
「そすか・・・」


しょんぼりしていた。


「いや、でも三島春奈さんはよー・・・あ、いや、お前か。
お前は、ほら、ドイツの学生コンクールで優勝してるじゃないか」
「よくご存知ですね。 これだから浅井さんは恐ろしい」


深いため息が返ってきた。


「だから、それなりに実力も買われてたってことだろ。 こうして目の前にファンもいたわけだし」
「正直、あなたすごいマニアですよ。 いま自分なんて誰も知らないすから」
「じゃあ、とりあえず弾いてみてくれよ。 飯とかいいから」
「いやですよ」
「おれがこうして頭を下げてるのに?」
「・・・勘弁してもらえませんかね」
「お前、おれがどれだけ生演奏から遠ざかってるか知ってるか?」
「水羽とデートで行ってたじゃないですか?」
「ソロが聞きたいんだよ、ソロが」
「・・・いや、ほんとに・・・すいませんけど・・・」


・・・どうやら、本当に嫌みたいだな。

下手なものは弾けないというプライドでもあるのか。


「お前って、だからうちの学園に来たんだな」
「ああ、はい。 いちおう編入のときに芸能活動歴ありみたいな話は通してました」
「するとちょっとは出席日数が甘くなったりするんだったか?」
「ですね。 奨学金借りてますけど」
「ふうん・・・」
「なんすか?」
「いや、ようやく、お前のことがわかりかけてきたな」


やっと人間らしく見えてきたというか。


「じゃあ、ひとっぷろ浴びて出るわ」
「あ、そすか・・・自分の制服は?」
「ああ、忘れてた。 クリーニングに出してた」
「じゃあ、取りに行ってきます。 少し、街の様子も探ってみたいですし」
「街の様子?」
「ええ、"魔王"の動きが気になりまして」


それは、おれもだ。

いまが、束の間の安息の時間であることは、知っている。

ここ一週間で様々なことが起きすぎている。

母の死、権三の死、兄の暗躍・・・・・・。

そして、宇佐美ハルという、幼い勇者との再会。

だから、少しだけ・・・そう、少しくらい気持ちを整理させて欲しかった。


「あ、浅井さん、浅井さん」
「すまんが、夕飯は帰ってきてからにしてくれ。
極悪フェイスに囲まれっぱなしで緊張しまくりでよ、胃が縮こまってるんだ」
「いえ、お風呂なんですがね」
「うん? 先に入りたいのか?」
「い、いえ・・・そうではなくて・・・」
「なにあせってんだ?」
「わたしから言わせる気ですか?」
「さっぱりわからんが、背中でも流してくれるのか?」
「ビンゴです」


指を鳴らした。


「意外とつくすんですよ、自分」
「てめえで言うな」


・・・・・・。


浴室にて。


「つーか、髪整えてこいよ。 やたらぺちゃぺちゃしてうざったいぞ」
「は、はあ・・・」


ごしごしと、スポンジをこする。


「お、そのへんそのへん・・・あー、人に洗ってもらうと違うなー」
「ど、どうも・・・」


おれの背後で、しどろもどろになってる宇佐美。


たまに熱っぽい吐息がかかる。


「お前も、洗ってやろうか?」
「え、自分裸ですけど」
「知ってるよ。 さっきから胸が当たってるからな」
「こ、これは失礼しました・・・」
「とにかく、洗ってやるから後ろ向けよ」
「い、いえいえ。 わたしは結構です」
「遠慮するな」
「いや、遠慮とかじゃなくて」


宇佐美は、いそいそと浴槽に逃げていく。


「なんで逃げる」
「いえ、逃げているわけでは・・・」
「逃げてるだろう。 待てって」


湯に浸かろうとする宇佐美を、おれは浴槽の中まで追いかけ、後ろから捕まえた。

 

 

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おれたちはお互いを求め合った・・・。


・・・・・・。

 

・・・。

 

G線上の魔王【25】

 

・・・。

 

息子へ


第一回公判を前に、お前に肉声を伝えたいと、お父さんは筆を執った。

父さんは死刑判決を免れないだろう。

だから、この手紙を殺人犯の言いわけと読んでもらってけっこうだ。

ただ、父さんが宇佐美さんに凶器を握り締めるにいたった過程を、偽らざる気持ちで残しておきたい。

父さんは北海道の漁村の三男坊として生まれ、進学のため上京し、大学卒業後はどうにか天下の山王物産に就職することができた。

経理担当部門に配属された父さんの毎日はめまぐるしかった。

山王物産のような大きな総合商社では扱っている商品の数が尋常ではないからな。

海外で買った商品を輸入して、加工して、輸送して、売って・・・そういったお金の流れを管理するのは大変な労力と神経質なまでの根気が必要だった。

ある支払い締め日に、仕入計上と請求書を目を皿のようにしてチェックしていた父さんはついに過労で倒れた。

しかし、倒れてよかったと思う。

富万別市の病院で看護士をしていた母さんとめぐり合えたからだ。

父さんは上司の目を盗み、なにかと口実を作っては母さんのいる病院に通ったものだ。

お前たちは、明るくて料理のうまい母さんしか知らないだろうが、職場での母さんは口下手で引っ込み思案なところがあった。

あまり人づきあいがうまいほうではなく、同僚との関係に神経をすり減らしていたようだ。

看護士の激務もあって、精神安定剤を服用していたと、あとになって話してくれた。

だが、知っての通り、父さんは直情型で、強引で、冗談好きのお調子者だった(この辺は京介に遺伝しているな)

出会ってから一ヶ月でプロポーズした。

商社で働く以上、遠からず、日本にはいられないと思ったからだ。

遊園地にでかけ、ホテルのレストランで食事をしたそのときに指輪を渡した。

母さんも父さんにまんざら気がないわけでもなかった。

白い肌が真っ赤に染まって、いまにも椅子からひっくり返りそうになっていたのを覚えている。

その翌日に実家までご挨拶に行って、あれよあれよという間に結婚までこぎつけた。

式場では花嫁泥棒と影でささやかれていたようだ。

結婚してすぐに、ドイツへの異動が決まった。

母さんは文句の一つも言わずについてきてくれた。

遠いヨーロッパの国で、すぐに子供ができた。

お前だ、わかるな?

難産だったという。

お前は足から出てきたそうだ。

産声が聞こえたとき、父さんは柄にもなく泣いてしまった。

お前は三歳になるまでドイツにいた。

遊び好きの男の子だった。

初めて覚えた言葉が「遊園地」だからな。

ドイツには移動遊園地しかないから、日本に帰って大きな遊園地に連れて行ってやったんだぞ。

「ボク、毎日遊んでたい。 ずっと遊んでる」

その言葉に、我ながら将来が不安になったものだ。

一方で、お前は秀才だったようだ。

小学校の知能テストで、なぜか父さんが学校に呼び出されたときには、鳶が鷹を生んだと母さんに言われたよ。

それから長らく、平穏な日々が続いたのはお前も知っての通りだ。

内弁慶の母さんと、お調子者の京介と、冷たそうでいて激情家の恭平の四人で、楽しくやっていたな。

おい、気づいているか?

数回の海外出張はあったが、盆や正月、お前の誕生日には、父さんは必ず自宅で過ごしていたんだぞ。

思えば、あのときが一番幸せだった。

宇佐美義則さんと出会ったのは、いつのことだったか。

山王物産系列の建設会社の営業課長をしている宇佐美さんは、いわゆるやり手の人だった。

富万別市外郭放水路は知っているだろう?

洪水防止のために地下に放水路を作り、雨水を貯水する施設だ。

完成すれば直下50mに世界最大級の地下空間ができあがるという。

宇佐美さんは、父さんと初めてあったその場で、外郭放水路の着工権利を自分の力で国からもぎとってきたと豪語していた。

侍のように背筋を伸ばし、凛としてしゃべる人だった。

父さんはこの国が注目する一大プロジェクトに向けて、本社から出向という形で、宇佐美さんとおつき合いすることになった。

もともと、宇佐美さんは顔見知りではないまでも知らぬなかではなかったのだ。

というのも、父さんが学生のころ、学生運動というものが流行っていて、父さんは宇佐美さんと同じセクトに参加していたんだ。

いまとなっては夢物語だが、当時の父さんはそれなりに危ない男だったようで、富万別市付近の活動家の資金を運用、管理するような日陰仕事を言ってに引き受けていた。(おかげで、最近になってもたまに公安の方が私のもとを訪れる)。

宇佐美さんとは、バリケードを作って大学に立て籠もった話などで、盛り上がったものだ。

しかし、宇佐美さんも父さんも、振り返ってみれば積極的な思想など何一つ持っていなかった。

あのときは病気だったと、酒を酌み交わしながらしみじみ思った。

つき合い初めて二週間ほどで、宇佐美さんの自宅に招かれるほどの仲になった。

自宅といっても、東区に建つ築二十年ほどのアパートだったのが意外だった。

彼はエリートだし、もっとそれなりに裕福な生活をしていてもいいと私は考えていたからだ。

「貯蓄はあるんだが、あまり家に帰らないものだから」

彼は笑いながら言った。

それはおかしい、と感じた。

彼には奥さんも娘もいると聞いている。

しかし、奥さんの名前を聞いて、私は納得した。

仰天して、嫉妬すら覚えたと正直に告白する。

かのヴァイオリニスト、三島 薫さんこそが、宇佐美さんの奥さんだったのだ。

彼は私を驚かそうとして、そのときまで黙っていたという。(もっとエンターテイナー気質というか、勿体つけた言い回しをするような人だった)。

お前にも話しただろうが、私は三島さんの大ファンだ。

たしかに彼女はモスクワだのニューヨークだのと、海外公演に大忙しのはずだった。

家に帰る暇がないのも当然のことだった。

不憫だったのは、娘のハルという女の子だった。

出世街道まっしぐらだった宇佐美さんは、それまで転勤や単身赴任も多かったようだ。

娘をあまりかまってやれなかったのだろう。

周りからも変わった子と評されていたようで、私がハルちゃんの部屋をノックしても、なんの挨拶もなかった。

代わりに、ヴァイオリンの調べが返ってきた。

「おじさんにはこの曲」と言って、G線上のアリアを弾きだした。

聞けば、お前と同じようにドイツで生まれ、五歳のころからヴァイオリンを学んでいるという。

母親譲りの、見事な旋律だったと記憶している。

そのとき、父さんと宇佐美さんは、はっきりと親友だったと言っていい。

ハルちゃんは相変わらず口も利いてくれないが、機会さえあれば京介や恭平にも紹介して、家族ぐるみのつき合いをしようと思っていた。

しかし、その機会は永遠に訪れなかった。

つき合いが深まるにつれて、宇佐美さんからは、麻雀に誘われることが多くなった。

連戦連勝する宇佐美さんは、自分が官僚一家の四男坊で、政治家になる頭脳とコネがありながら、今の会社で頑張っていると気分よく語っていた。

父親(有名な閣僚だった)や、兄たちを軽蔑するような発言に、私は危うさを覚えた。

決して、麻雀に負けたくやしさからではない。

あとになってわかったことだが、彼は、実家から勘当された身だったのだ。

しかし、彼は決して無能な男ではなかった。

外郭放水路の建設に向けて社内ではよく部下をまとめ、社外では先陣を切って下請け業者との折衝に乗り出していた。

予算の増資を申し入れるべく、親会社の染谷常務の執務室に単身一升瓶を持って乗り込んだのは、有名な話だった。

ユーモアと機知に富む宇佐美さんが、三島薫さんを口説き落とせたとしても不思議はなかった。

「鮫島さん、折り入ってお願いがあるんだ」

都内の料亭で待ち合わせを終わらせたとき、宇佐美さんはいつものようにもったいつけて切り出してきた。

「鮫島さんにとっても悪い話ではないと思う」

彼は近い将来、独立を果たしたいと言った。

それも山王物産の系列傘下に収まるのではなく、完全な宇佐美義則の会社としての旗をかかげるつもりでいた。

「この話をしたのは、鮫島さんが初めてだ」

熱っぽく語る宇佐美さんは、まるで子供のような顔をしていた。

たしかに彼は、自分の才覚を鼻にかけるきらいはあったが、その実力は社内外でも認められていた。

宇佐美さんならやってのけるだろうと、私は素直に応援したい気分だった。

「ぜひとも、鮫島さんにもついてきて欲しい」

半ば予想していたことだが、彼は私を新会社に誘うつもりだった。

いくらか出資してくれれば、役員として迎えたいと丁重に頭を下げてきた。

私は申し訳ない気持ちで、誘いを断った。

私には野心がなかった。

いまの会社の待遇にも満足しているし、なにより起業にかまける時間があればお前たちと過ごしたいと考えていたからだ。

「残念です」

宇佐美さんは言った。

「申し訳ない。 もうすぐ女の子が生まれますので」
「そうでしたか。 それはおめでとうございます。
待望の女の子ですね。 名前はもう決まっているのですか?」


清美と名づけた赤ん坊が、先天性の心臓病を患っていたことは、お前たちも知っていることだろう。

男臭かった我が家に初めて授かった女の子だ。

父さんのはしゃぎようはお前たちの嫉妬を買うほどだったと思う。

手のかかる娘ではあった。

週に二度は病院に通わなければならず、母さんも貧血で倒れたほどだ。

だが、お前も、ぎゃあぎゃあとうるさい歳の離れた妹のおむつを、すすんで替えてやっていたんだぞ。

心優しい男だと思った。

が、清美は亡くなってしまったな。

生後一年三ヶ月。

春の到来を感じさせる穏やかな日だった。

眠るように死んだと母さんから聞いている。

身内だけで行った葬儀のなかで、お前は少しも涙を見せなかったな。

「なんのために生まれてきたのか!」

晴天に向かって吠えたお前は、きっと神様をなじっていたのだろう。

清美が死んで一週間ほどして、宇佐美さんが三人の部下を引き連れて私を訪ねてきた。

彼らは喪服に身を包み、いきなりおじぎをしてきた。

「お悔やみ申し上げます・・・」

彼の声は涙に濡れていた。

顔を上げた宇佐美さんは、目を真っ赤にして、溢れる涙を隠そうともしなかった。

ああ、この人は清美のために泣いてくれたのだなと、私は素朴に感動していた。

彼は、清美が生まれたときにも、出産祝いとして子供服を贈ってくれていた。

私は宇佐美さんにすっかり気を許していた。

彼は暇を見つけては私を銀座の高級料亭に招いてくれた。

「なあに、女房がハルを連れてまたベルリンに行ってしまってね。 僕も寂しいんだ」

はにかむように笑う宇佐美さんを、私ははっきりと心の友だと信じきっていた。

「いくらほど、ご入用なんですか?」
「なんのお話です?」
「前におっしゃっていたでしょう。 独立資金のことです。
私でよければ、いくらか出資させていただきたい」
「そんな・・・とんでもない。 悪いですよ、鮫島さん。
あなたには大切な家族がいらっしゃる。 とても私のわがままにつき合っている時間などないでしょうに」
「はい。 大変申し訳ないのですが、いまの会社をやめて、宇佐美さんについていくことはできません。 しかし、せめて気持ちだけでも受け取っていただきたい」

私には清美の医療費のためと積み立てておいた五百万程度の預金があった。

それを、清美のために泣いてくれた親友に投資してもいいと、当時の私は判断してしまった。

もちろんお前たちの学費は別に用意していたし、一流企業に勤める父さんの収入から考えても、五百万程度ならと、油断していたのかもしれない。

「有難うございます。 このご恩は、何倍にもしてお返しします」

いま思えば、あのときの私は、清美が死んだことで判断力に乏しかった。

仕事でも瑣末(さまつ)なミスを繰り返していたし、家庭でも母さんにつらく当たってしまったことすらある。

だから私は、清美の遺書に線香を上げたその夜に、宇佐美さんの持ってきた出資を約束する念書にサインした。

二枚綴りの用紙の一枚目にだけ著名をした。

翌日には印鑑証明まで郵送した。

考えてみれば、なぜ出資に念書など必要だったのか。

二枚目の用紙の内容を読まなかった私に罪がある。

この一件は、おそらく裁判で検察が問い詰めてくることだろう。

山王物産の経理を勤めていた人間が、なぜ、こんな単純な詐欺に引っかかったのかと、私の常識を疑ってくるに違いない。

愚かな父さんを許してくれ。

それ以来、宇佐美さんと、食事をともにする機会がめっきり減った。

外郭放水路の建設事業と、自らの独立準備に追われ、忙しいのだと思っていた。

ある休日、家族でキャンプに出かけようとしていたときのことだった。

漆黒のスーツに血の色をしたシャツを着た巨漢が自宅を訪れた。

父さんは学生運動のときに、何人かの急進派の人たちと顔を合わせたことがある。

誰も彼も、異様な顔つきで、歪んだ思想に目をぎらつかせていた。

けれど、目の前の獣のような男の威圧感には及ばなかった。

「しめて、五千だ」

有無を言わさぬ物言いに、父さんは心底震え上がった。

間違いなくヤクザの取り立て屋だった。

大男は私の眼前に、一枚の借用書をつきつけてきた。

信じられなかった。

私はいつの間にか、加藤孝之という人の借金の連帯保証人にされていたのだ。

加藤の名前は知っていた。

宇佐美さんの部下で、私もいっしょに麻雀を打ったことがある。

父さんはわけもわからず、お引取りを願った。

彼は、その日は引き下がってくれた。

次は容赦しないと、彼の凍てついた目が言っていた。

不安そうに私を見上げる母さんの顔がいまも、目に焼きついている。

借用書の内容を見て、私は愕然とした。

元金が五百万の借金、それに信じられない金利がついて五千万にまで膨れ上がっていた。

私は借用書を片手に宇佐美さんの自宅に乗り込んだ。

三島さんとハルちゃんの姿はなかった。

代わりに、加藤孝之を含む三人の男たちと、宇佐美さんは呑気に麻雀卓を囲んでいた。

「鮫島さんを騙すつもりはまったくありませんでしたよ」
「私はあなたに五百万を出資すると言ったんです。
五千万の借金を肩代わりするつもりはない」
「しかし、あなたは、現実に借用書に著名してくださったではありませんか?」

宇佐美さんの演技はたいしたものだった。

まるで私がおかしいと言わんばかりに首を傾げていた。

もし、このときに、宇佐美さんが借用書に仕掛けたトリックに気づいていれば、私も殺人を犯すこともなかっただろう。

いまとなってもわからないのだが、宇佐美さんは二枚綴りの用紙に細工をして、五千万の借金の連帯保証人になる悪魔の契約書を隠していたのではないかと思う。

「とにかく、五千万です。 僕の部下の加藤のために、払っていただけるんでしょうね?」

一流商社に勤めるあんたに払えない額ではないだろうと、傲慢なあごが語っていた。

「これは犯罪ではありませんか、宇佐美さん?」
「よしてください。 どこにそんな証拠があるんです」
「これは詐欺です。 警察に訴えさせてもらいます」
「別にかまいませんがね。
その代わり、あなたが最近犯したミスの数々を、本社の染谷常務宛てに上申させていただきます」

宇佐美さんと染谷常務の蜜月は、もはや社内では知らぬものはいなかった。

宇佐美さんににらまれて会社をあとにした者の噂は、私の耳にも入っていたが愚かな私は彼を信じていた。

「それに、鮫島さん。 私を犯罪者というのなら、あなたもそうでしょう。
何度か赤坂の料亭で国土交通省の方を接待しましたね。 コンパニオンの女性も交えて。
あれはあきらかに過剰接待ですよ。 あのときの幹事は誰でしたっけ?」

麻雀卓を器用に指で回転させながら、勝ち誇るように言った。

「あのときは鮫島さんも大層楽しんでいらっしゃいましたよ」

部下の一人が笑っていた。

「奥さんがいながら鼻の下を伸ばしてましたね」

さらに笑いが連鎖する。

「起業の話は、嘘だったのですね?」

私は苦し紛れに言った。

「嘘ではありませんよ。
いずれ考えていることですが、いまはとにかく、外郭放水路という偉業に専念したいのです」

私は、生後まもなく人生を終えた清美のことを思った。

「あの、涙も、嘘だったのですね?」

あのときの宇佐美の顔を、私は絞首台に登ってもなお、呪うだろう。

「お引取りください。 いま勝負手が入っているところでね」

会社の顧問弁護士に友人が騙されたことにして相談を持ちかけたが、けっきょくのところ払うしかないという結論を突きつけられた。

預金を切り崩してもなお、五千万には至らなかった。

父さんは散財家ではないつもりだが、体の弱い母さんの医療費や、清美の手術代などが少なからず家計を圧迫していたのだ。

実家の両親に頭を下げ、親戚に白い目で見られているうちに、父さんのなかにどす黒い感情が芽生えた。

なぜ、私がこんな目に合わなくてはならないのか。

浅井権三という名の取り立て屋に土下座しながら、父さんは状況の理不尽さを胸のうちに溜めていった。

「とりあえず、二千万までは支払いました。 残りは、宇佐美さん、あなたが負担してください」

白昼堂々、会社でブリーフィングをしている宇佐美さんに食って掛かった。

宇佐美は、大勢の重役に囲まれながら、まったく動じなかった。

「場をわきまえてもらえませんか。 あなたの借金を、なぜ私が補填しなくてはならないのです?」
「よくもぬけぬけと!」

カッとなった私は、気づいたときには彼の胸倉をつかみ上げていた。

そして、それこそが、彼の狙いだった。

暴力沙汰を起こした私に味方をする者は社内にはいなかった。

一週間の自宅謹慎と、減俸が待っているだけだった。

泣き寝入りするしかなかった父さんは、自宅に帰ると、毎日清美の遺影と向き合っていた。

私は宇佐美への怒りと自分の愚かさに全身を震わせていた。

ともすれば、宇佐美が清美を殺したと思えるほどに、私の神経はささくれだっていた。(この辺りが、弁護士が私の心神耗弱ないし、心神喪失を主張する根拠となっているようだ)。

借金を払う目処が立たぬまま月日が流れた。

宇佐美は精力的に立ち回り、ついに事業部長にまで出世していた。

世界最大の規模を誇る外郭放水路

歴史に残る偉業を前にして、父さんの存在など、取るに足らないものだったのだろう。

なあ、息子よ。

こんな男を、私は赦すべきだったのだろうか。

お前たちにはすまないと思っている。

しかし、宇佐美は、清美の死を前にして偽りの涙を浮かべ、心で笑っていたのだ。

お前は葬儀のあと、天に向かって清美の死の理不尽さんを訴えたな。

「なんのために生まれたのか」と。

清美は、宇佐美に利用されるために生まれてきたのか?

違うだろう?

決行前に、私は宇佐美に不意に呼び出された。

遊興好きの宇佐美はノミ屋と呼ばれる違法賭博にどっぷりはまっていた。

一見、なんでもなさそうな喫茶店だった。

しかし、そこに集まっている客は、コーヒーを飲みに来たとは思えない、風体のみすぼらしい連中ばかりだった。

皆、興奮した面持ちで、テレビ画面に映る競馬場の中継を眺めていた。

「妻と娘には内緒ですよ」

陽気に言う彼を見て、父さんは言葉もなかった。

「お金にお困りのようですね」

誰のせいだと心底思った。

「園山組は知っていますか?」

富万別市を本拠とする広域暴力団の名前だった。

「建設業も長くやっていると、そっちの筋の方ともつきあいができるものでしてね」
「相変わらずもったいつけた言い回しですね。 なんの話ですか?」
「実は、一つ、仕事をお願いしたいのです」

それは、早い話が、業務上横領だった。

経理を担当する父さんを抱き込んで、ヤクザに甘い蜜を吸わせようというのだ。

「どうでしょう。
引き受けていただければ、厳しい取り立てをやめてもらえるようお願いしておきますが?」

薄い唇に酷薄な笑みが浮かんでいた。

私は気づいた。

この男は最初から、父さんをはめるつもりで絵を描いていたのだ。

借用書にサインをさせたことなど、序章にすぎなかった。

「宇佐美さん、あなたには善悪の観念というものがないのか?」

宇佐美は鼻で笑うばかりだった。

「鮫島利勝さん。 あなたはまず、名前で負けている。
勝利の反対は敗北ではありませんか。 敗者に道義を説かれる筋合いはないのです。
あの闘争の時代において敗北した連中に耳を貸す人間など、いまの時代にいますか?」
「我々はもう学生ではない。 一人の大人として、貴様に道義的責任を問うているんだ。
お前のやっていることは、闘争などではなく、ただ弱者をいたぶっているだけだ。
お前にも娘がいるのだろう? あのハルという少女が同じ目に合わされたらどんな気分だ?」
「まるで私が清美ちゃんを殺したような物言いですね。 ひどい人だ。
わざわざ部下を連れてお悔やみ申し上げたというのに」

おそらくその瞬間だろう。

私の殺意が、完全に固まったのは・・・。

「だいたい、あなた方夫婦は、出産に当たって年齢を考えなかったのですか?
高齢出産は危険を伴うことなど常識でしょうに」

宇佐美は賢い。

悪魔的な頭脳の持ち主だった。

私の罪を着実に突いてきた。

清美の心臓に異常が見られたとき、私は正直、自責の念に駆られていたのだ。

「私は、子供はハルしか作っていません。
ハルはあなたの子供たちと違って優秀な娘です。 私の遺伝子を引き継いでいるのですからね」
「つまり、悪魔の子か?」
「いいえ、天使ですよ。 親にとって子供はなによりかわいいものです」

あのハルというヴァイオリン弾きの少女になんの罪もないことはわかっている。

しかし、父さんは、この人の皮をかぶった鬼畜に思い知らせてやるには、娘を殺すしかないと憎悪に心を燃やしていた。

頭に、G線上のアリアが流れる。

人間の心は不思議なもので、ある音楽を聴くと、そのときの情景を思い返すことがある。

私にとってG線上のアリアは、もはや宇佐美への復讐のBGMとなっていた。

息子よ、お前G線上のアリアを聞くとき、お前は心にどんな風景を描くのか・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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この幻想的な風景が、人の手によって作られたとはにわかに信じがたい。

富万別市外郭放水路

その地下神殿と称される、巨大な超圧水槽。

富万別市の川という皮から取り込まれ、地下トンネルを伝った雨水がここにプールされる。

水は生命の源であり、ときに恐ろしい災害を引き起こす。

水害恐れた人間たちが、人智を結集して作り上げた防災施設。

同時に、宇佐美義則の悲願でもあった。


「父よ・・・」


もうすぐだ。

おれの耳にもアリアは届いている。

ヴァイオリンのG線は、力強く、親から子へ受け継がれている。


「もうすぐ、あなたを救ってみせよう・・・」


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

 

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警察の監察医務院。

狭い部屋だった。

遺体が一つ。

薄明かりに浮かび上がる白い布の光沢。

間違いなく母です。

頭と胴体のバランスのおかしい[それ]に向かって、そう言った。

制服警官は、これでようやく解剖ができると、胸をなでおろしていた。


あの美しい母。


寒さに震えるおれを抱きしめてくれた母。

大男から身をていして守ってくれた母。

頭が、陥没していた。

それでも、間違いなく母だった。

うつ病と診断され、自宅療養していた母は、事故当日の午後七時になって身支度を整え、突然外出したという。

遺留品の中に、東京羽田行きの航空券があった。

東京行きの最終便に乗り合わせる予定だったようだ。

事件は母が空港に向かうバスに乗るべく、交差点を渡ったときに起こった。

信号は青だったという。

時速120キロの猛スピードで一台の車が突っ込んできた。

運転していた青年は逃走をはかったが、偶然付近を巡回していたパトカーがこれを追尾、逮捕に至った。

検査の結果、青年が酒を飲んでいたことが発覚している。

 

あのあと宇佐美や時田がどう逃げきったのか。

権三に牙を剥いたおれが、これから、どんな仕打ちを受けるのか。

 

すべて、どうでもいい。


母の遺留品の一つに、手編みのマフラーがあった。

おれはそれを握り締め、一人、暗い部屋でまなざしを床に落としていた。


誰か、教えて欲しい。

母に、なんの罪があったのか。

連絡こ受けていなかったが、母はおれに会いにくるつもりだったのだ。

おれは、迎えに行くべきだった。

もっと早くに。

権三のもとを離れてでも、母と暮らすべきだった。

権三に従い、闇の世界に名乗りを上げる。


なんと、幼稚な夢か。


傷ついた母と、静かに暮らす。

それが、おれのささやかな希望ではなかったか。


哀れな母さん。

殺人犯の夫を持ち、借金に追われて心を患い、最後には理不尽に撥ね殺された。


どこに、救いがあるというのか。

この世に天使など、決していない。

いるものか。

なぜなら、おれは、いま、憎悪を糧に正気を保っている。

母を殺した運転手を、どうやって殺してやろうかと、それだけを考えて、なんとか発狂を免れている。

毎度毎度の頭痛が凄まじいが、もはや痛みすら心地いい。


これは罰だ。


母さんを救えなかった、おれへの報い。

この頭痛に身を任せた先に、救いが待っているような気さえした。


「・・・フフ・・・」


笑いが、腹からとめどなくこみ上げてくる。

まかれた種が、雌伏のときをへて、地を割って出てくるようなすがすがしさがあった。


「"魔王"、か・・・」


いままでの不可解な事件を思い返す。

椿姫を巻き込んだ、身代金奪取。

浅井権三を狙った、車爆破事件。

思えば、椿姫は気に入らなかった。

権三のせいで、母のもとに帰れなかった。


動機は十分ではないか。

どれもこれも、おれはここぞという場面で体調を崩していた。

いまとなっては、あまりよく覚えていない。

秋元氏のもったいつけた診断。

宇佐美と権三の疑いの目。

ありえないと思いつつも、肯定したくなってきた。

ありえないこと・・・たとえば、母がいきなり事故で死ぬ・・・そういう理不尽なことはいくらでもあるのだから。


つまり、"魔王"がおれだとしても――。

 


不意に、インターホンが鳴り響く。

権三の使いだろうと思ったが、意外な人物だった。


「開けてください、浅井さん」


総和連合から目下逃走中の宇佐美だった。


・・・。

 

 

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宇佐美を中に入れてやった。

おれの変貌ぶりに、少なからず驚いているようだ。

なにしろここ数日、風呂にも入っていない。

 

「・・・こんなところにいたら、ヤクザに捕まるぞ」
「はい・・・それは、わかっているんですが・・・」
「ですが、なんだ?」


心がうずく。


おれは、宇佐美に対して、ある疑問を抱いていた。


それは、これまで努めて口にしないようにしていた、父にまつわる出来事だった。


「・・・ニュースで、事故のことを聞きまして・・・」
「おれの母さんが死んだからって、お前に何の関係があるんだ?」
「・・・それは・・・」


また、口ごもった。

おれに同情しているらしい。

気まぐれに、聞いてみた。


「お前は、宇佐美義則の娘なのか?」


宇佐美の呼吸が止まった。


「そうか・・・」


笑いそうになった。


「だから、いままでおれにつきまとってきたんだな」
「・・・っ・・・」
「父に代わって謝りたかったのか? それとも、よくも殺してくれたと、復讐の機会でもうかがってたのか?」


・・・。

 

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「・・・う・・・っ・・・」


突如、宇佐美の嗚咽が暗い部屋に響いた。


不快だった。


「なぜ、泣く?」
「・・・す、すみま、せん・・・」
「どこまでも気持ち悪いやつだな・・・」
「すみません、すみま、せん・・・」
「うるさい・・・」


けれど、宇佐美は涙をぬぐおうともしなかった。


「・・・お母さんが亡くなられたと聞いて・・・その・・・い、いてもたってもいられなくなって・・・」
「・・・なんだと?」
「い、いま、ユキと水羽はユキの自宅にいます。 警察の官舎です。
そこなら、権三さんの手の者もよりつけないと思いまして・・・」
「そうか。 それは考えたな。 だから、権三も静かなのか。
それで、どうしてお前だけがここに来たんだ?」
「で、ですから・・・浅井さんに、あ、会いたくなって・・・」
「おれに会いたいだと? 殺人犯の息子に会ってなにがしたいんだ?」


宇佐美はもともと奇抜な女だった。

するりと布擦れの音がした。

被害者の娘は、いきなり服を脱ぎだしたのだ。

 

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「わ、わたしでよければ・・・あの・・・」
「ほう、外道の娘は、売春婦でもあったか」
「す、きです・・・」


心臓を鷲づかみにされる思いだった。


「ず、ずっと・・・好きだったよ・・・」


それは、最低の告白だった。


「こりゃ傑作だ」


いまおれの部屋で行われているのは、純愛などとは縁遠い、最悪の陵辱劇だった。

宇佐美はおれを汚し、自らを貶め、全身を打ち震わせていた。


「ずっと好きだったって?」
「う、うんっ、うんっ!」
「殺すぞ、貴様」
「だって、だって・・・!」
「おれとお前が結ばれるなどありえない!
お前の父がおれの父になにをした!? ええっ、言ってみろ!?」
「でも、でもっ、それはわたしたちには関係ないはず・・・!」
「それは理屈の話だ! 父の無念を思えば、お前に心を許せるはずがないだろう!?」
「わたしはっ、わたしは、それでもあなたがっ・・・!」


宇佐美はいまにもその場に泣き崩れそうだった。

けれど、懸命に、赤く腫れ上がった目を向けてくる。

命そのものを燃やして、おれに挑んできているように見えた。


「好きですっ・・・だめだ忘れようって思っても、ずっと、ずっと好きでしたっ・・・!」


おれのことが好きだという気持ちが、本気なのはよくわかった。


「許して下さい! どうか、あなたを好きでいても、許して下さい!」


そこにいるのは、誰かに絶望的なまでの恋をしている知らない女だった。


「初めて会った、十年前から、わたしは、あなただけを想って、あなただけが忘れられなくて・・・!」


――十年前!?


ふと、

 

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「・・・・・・」

 


謎の光景。

遠い山の向こうでかすかに瞬いた雷光のように、記憶の闇を切り裂いた。

それも一瞬のことで、すぐにおれは憎悪に心を黒く染め上げた。


「そうか・・・お前は、おれを慰めにきたわけか?」
「す、すみません、浅井さんは同情なんて、大嫌いだと思いましたが・・・それでも、なにか力になれればと・・・」
「それも?」
「はい、好きだからです・・・」
「押しつけがましい純愛だな。 おぞましいことこの上ない」


なにが、勇者だ。


悪魔の娘め。


「わかった。 脱げよ」
「・・・はい・・・」


下着にかかった手はあきらかに強張っていた。

経験などないのだろう。

白く透き通るような肌があらわになる。


「ぬ、脱ぎました・・・」


おれの男性器は尋常ではないほどに張っていた。

宇佐美の身体に欲情したからではない。

父を殺人犯に追いやり、家庭を破滅させた人間の娘を犯す。

それは凄まじい魔力を秘めた誘惑だった。

父の無念もいくらかは晴らされるのではないか。

なぜか、目から涙が溢れる。

父から受け継いだ血の涙だと、自らに言い聞かせた。

泣きながら股を開く女と、泣きながら陰茎を屹立させる男。

まさしく悪魔の描いた地獄絵に違いなかった。


「・・・み、ちゃん・・・」


そのとき、宇佐美が、あろうことか、その名をつぶやいた。


「・・・ごめん、なさい・・・!」

 


「うせろ、宇佐美いぃっ――――!!!」

 

ひぐっ、と子供がしゃくり上げるような反応が返ってきた。


「これが、おれの最後の良心だ!」
「・・・ぐっ、うっ・・・!」
「次に会うときは、お前を犯すだけでは済まさんぞ!」
「あ、ぐっ、うぅうっ・・・」


わななく手足で懸命に服をまといだした。


「二度とおれの前に現れるな!」


次は、間違いなく殺す。

いまだって嬲り殺したい。

が、宇佐美は、亡き妹の名を呼んだ。

清美に、ごめんなさいと、どういうわけか心を込めて謝った。


「さようならっ!」


床を蹴飛ばし、室内の闇に転びそうになりながら、宇佐美は逃げていった。


あとに残る圧倒的なまでの静寂。


襲い来る耳鳴り、頭痛。


いま、このときを持って、おれのなかで"魔王"が目覚め出す・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

f:id:Sleni-Rale:20191206151257p:plain



さて・・・。


すがすがしい朝だ。

時田の立て籠もり事件から、ちょうど一週間経過している。

おれはいま、自分がやるべきことを、自分に問うている。

玄関で物音があった。

扉が開く音。

土足で駆け上がってくる無数の靴。


「これはどうも、堀部さん」


おれは堂々と、殺気立ったヤクザの群れを出迎えた。


坊っちゃん、朝早くにすみませんね」
「いえいえ、どんな御用でしょうか?」


堀部は残虐な笑みを浮かべた。


「組長(オヤジ)があなたの首をご所望です」
「ほう・・・おれを、殺すと?」
「聞けば、坊っちゃんこそが、"魔王"だったそうじゃないですか」
「フフ・・・どうかな?」
「おやおや、しらばっくれてもダメですよぉ。
あのアイスアリーナの一件で、ほとんどクロだったんですから」
「なんのことで?」
「坊ちゃんには、いくら電話してもつながらなかったじゃないですか?」


・・・そんなことか。


「あの混雑です。 仕方がなかったでしょう。
僕だって、必死にあなた方と合流しようとしていたんですよ?」
「またまたぁ、やめてくださいよ。
つい昨日のことですがね、山王物産の染谷っていうお偉方に組長(オヤジ)がじかに会いに行きましてねぇ」


まったくうれしそうに語る。


「つい先日まで、浅井という名の相談役を飼っていたそうなんです。
若くて、頭が切れて、まるで坊っちゃんにそっくりだったそうですよ」


おれは、ニタリと笑う。


「ああ・・・染谷さんね・・・」


堀部も、口角を吊り上げた。


「認めるんですねえ?」
「さあ、まったく覚えがないなあ・・・」


瞬間、眼前に銃口があった。


「まるで顔つきが変わりましたね、坊っちゃん。 それがあんたの本性ってわけですかい?」


じりと、詰め寄ってきた。

この場で殺す気だろう。


「侘びの一言でもあれば、手前が承っておきますよ?」
「侘び?」
「坊ちゃんは、お義父さんに拾われて、ここまでなれたんじゃないですか?」


まったくその通りだ。

権三に拾われたおかげで、おれの人生は滅茶苦茶になった。


「さあ、なにもありませんか?」


・・・ふむ。

どうやって、この場を切り抜けるか。

敵は堀部以下、三人の骨太な男たち。

出口は完全に塞がれている。

窓から飛び降りようにも、ここは地上十八階だ。


となると・・・。


「なんですか、坊っちゃん?」
「いえ」
「まさかアクション映画の主人公みたいに、うちらに逆襲できるとでも思ってるんですか?」
「まさか・・・暴力のプロに暴力で歯向かうなんて馬鹿のすることですよ」


が、こいつらは、しょせんは権三の犬でもあるのだ。

しょせんは金の奴隷。

おれは、拳銃を持つ堀部の目を見据えた。

すなわち、必殺の気構えでこの場にやってきたのか、あるいは、どこかに交渉の余地があるのか。

本当に引き金を引くつもりがあるのか、それともただの威嚇なのか。


・・・よし。


「では、堀部さん、一つだけ」


堀部が目を細めた。


「父は、ただ、おれを、殺せと命じたのですか?」
「ただ・・・?」


おれは銃口に目線を合わせたまま、金庫を指差した。

父の借金のため、母の未来のために貯めていた金がそこにある。

いまのおれには、無用の代物だった。


「へへ・・・そうですね、中身のゲンナマも回収させてもらいますよ」


読みどおり、金の亡者は誘いに乗ってきた。


「やはりそうですか。 これは困ったな。 五千万以上はありますからね」
「じゃあ、それを開けてもらいましょうか」


勝ちを確信したのか、堀部が銃口を金庫に向けてしゃくった。


「わかりました」


金庫に近づき、ゆっくりと開錠の番号を押して、扉を開けた。


黄金の輝きに、目を奪われていることだろう。


「いやいや、坊っちゃんはなかなか交渉上手ですねえ」
「それはどうもありがとうございます」


振り返ると、堀部は、弱者をいたぶる前の至福の笑みを浮かべていた。


「で、そいつで、この場を見逃してもらおうっていう腹でしょう?」
「ええ、いかがでしょう?」
「だめですわぁ・・・!」


近づいた堀部の顔に、青筋が走った。


「ほんと、憎たらしい小僧だな、おい。 往生際が悪いんだよ、このがきゃあ」


間近で見ると、なかなか恐ろしいものだな。

おれは、こんな連中をあごで使っていたのか。

おれは言った。


「なるほど、いままでの非礼は心よりお詫び申し上げましょう。
しかし、この場はひとまずおれの勝ちです」
「なんだと!?」
「あなたは、おれに銃口を突きつけながら、金庫の扉を開けさせました。 この意味がわかりますか?」
「ああっ!?」
「さきほど、あのままおれを撃ち殺していたのなら、ただの単純殺人でした。
けれど、金庫を開けさせた上で殺せば、中身を盗ろうが盗るまいが、強盗殺人です」


堀部の、剃りこみすぎて形のない眉が跳ねた。


「おわかりか?
あなたみたいな悪党のことです。 まず、無期、いや下手すれば極刑もありうる」


堀部の視線がかすかに床に落ちた。


「あなたは生粋のヤクザ者でしょう、堀部さん。
オヤジのために、殺人を犯してムショに入るのならともかく、そこに強盗という汚名がついたら、たとえシャバに出れたとして、総和連合にあなたの居場所がありますかね?」


さあ、考えろ。

おれみたいな小僧のために、一生を棒に振るのか?

計算高い堀部なら、わかるはずだ。


「こりゃあ、一本とられましたねえ・・・」


ここが、人知れぬ山奥で、堀部以外の人間が銃を握っていたら、話は変わっていただろうな。


「こういうのはどうでしょう。 あなたがたが踏み込んだときには、すでにおれの姿はなかった」


堀部は舌打ちをして、またいつもの極悪フェイスに笑みを貼り付けた。


「わかりました」
「恩に着ます」
「で、坊っちゃん・・・」


最後のひと言は、さすが堀部だった。


「この五千のうち、いかほど包んでもらえるんですかね?」


もう、会うこともないだろうな。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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徒歩で移動中、着信があった。


「よう、椿姫。 どうした?」
「あ、なんか久しぶりだね。 元気かな?」
「ああ、実にすがすがしい気分だよ」
「学園、来ないのかな?」


学園か・・・懐かしい響きだ。


「ハルちゃんも、水羽ちゃんも、ユキさんも来てなくて・・・」
「へえ・・・寒い日が続いているからな」
「なにかあったの?」
「さて、おれは知らんな。 おれは仕事に忙しくてな。 いや、遊びか・・・」
「まあ、元気ならいいや。 そのうち学園にも来てね」


通話が終わる気配があった。


「ああ、椿姫」
「どうしたの?」
「いや、家族はどうだ? 仲良くやってるか?」
「うん、なんのかわりもないよ」
「悪かったな、あのときは」
「なにが? 浅井くんは、よくしてくれたじゃない?」
「いや、なんでもない。 じゃあな」


ばいばいと、椿姫は明るく電話を切った。

大家族一家か・・・。

家族がいるだけ、幸せというものだ。

金なんて、あとからいくらでも積み上げられる。


さて、どうするか・・・。


やはり、浅井権三か・・・。


車が爆破されたとき、死んでおけばよかったものを・・・。


よし・・・殺すか。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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その前に、ただ、一点、気になることがある。



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あの記憶。


あれだけが引っかかる。


十年前・・・と宇佐美は言った。

あの風景は、山王物産の本社ビル、その屋上ではないか?

幼少期、おれは、宇佐美と会っているのか?

確かめてみよう。

復讐は、それからでも遅くはない。

おれは山王物産のビルを目指した。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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夜が更け、活動の時間がやってきた。

おれはいま、最後の準備を済まし、山王物産をあとにしてきた。

浅井京介・・・いや、鮫島京介と宇佐美ハルは、幼少のころに交流があった。

二人とも、お互いの両親のことを知らずに、不器用な心の触れ合いを繰り返していたという。


「ふ・・・はは・・・」


笑える話だ。

十年ぶりの再開。

幼馴染が、ずっと片思いをしていたというわけか。

かなわぬ恋だな、宇佐美よ。

お前が、人並みの幸せを求めるなど、おこがましいというものだ。


「さて・・・父に残された時間はあとわずかだ」


最終計画を実行に移す前に、ぜひとも殺しておかねばならない男がいる。

おれは、その男に連絡を取るべく、携帯電話を手に取った。

コール音を耳に響かせながら、おれはすべての私情を廃していった。

いままで生かしてやったことをありがたく思え・・・。

通話がつながり、おれは言った。


「ご無沙汰だな。 この場合、どういう、挨拶が適当かな・・・?」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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宇佐美ハルは、単身、浅井権三の屋敷を訪れていた。

想い人に拒絶された少女にもう希望はなく、ただ母を殺した"魔王"を追い詰めるべく合理的にことを進めるだけだった。


ハルの突然の来訪に、浅井権三はぎょろりと目を向けた。

 

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「死人の匂いが強くなったな、宇佐美ハル」


"魔王"の仲間であるユキを逃したことで、ハルはこの場で権三にくびり殺されることも覚悟していた。


「ユキから聞き出した"魔王"の情報はすべてお話します。
ですから、ユキには手を出さないでいただけませんか?」


やはり、この街で浅井権三を敵に回して生きていけるはずがなかった。

ユキと水羽がいる警察の官舎を一歩出れば、権三の手の者が待ち構えている。

じわじわと獲物が弱るのを待つように、ユキへの監視は続けられていた。


「ユキが許されるのであれば、わたしはどうされてもかまいません」


頭を下げるのではなく、挑むように権三と向き合った。

この巨漢に媚は通じない。

背を見せるのではなく、腹を見せる覚悟がなくてはまともに相手をしてもらえないだろう。


「時田の娘については、ひとまずおく」


権三の興味は別のところにあるようだった。


「"魔王"の情報など、もはや必要ない」
「といいますと?」
「お前も知っての通り、京介こそが"魔王"だ」


ハルは、耳を疑った。


「京介は精神科医にかかっている。
話を聞いたところ、やつは、どうやら心因性健忘症という病にかかっているようだ」
「それは・・・どういう?」
「脳の組織に異常が生じ、突然過去の記憶がなくなったり、部分的に空白になる、非常に珍しい疾患だ」
「そんな・・・それは、なにが原因で?」
「ストレスの積み重ねだ。
そして、ストレスがあっても外に出せず、感情を押し殺すようなタイプに起こりうるという」


ハルは胸を詰まらせた。

京介の凄惨なまでの過去は、察するに余りある。

そして、学園では陽気に振舞う彼の仮面の奥を理解してあげられる友人など、これまで一人もいなかったのだろう。


「浅井さんは・・・京介くんは、"魔王"じゃありません・・・」


自らに言い聞かせるようにつぶやいた。

ハルは、口では京介を疑うようなことを言うが、内心では愚直なまでに京介を信頼していた。

とはいえ、身代金を奪い、権三の車を爆破した張本人が京介ではないと、権三を説得するに足りる根拠は見出せなかった。


「お前は、過去において、京介と接点があった」
「よくご存知で」


瞬間、怪物は目を見開いた。


「好いていたか?」
「はい」
「京介は?」
「・・・あのときは」
「そうか」


ふっと、権三から絶え間なく発せられていた豪気が緩んだように、ハルは感じられた。


「そうか」


と、権三は繰り返した。

ハルはただ、胃が縮む思いで、権三が京介に与えるであろう裁きを待った。

 

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「生けれども、生けれども、道は氷河なり」
「・・・・・・」
「人の生に四季はなく、ただ、冬の荒野があるのみ。
流れ出た血と涙は、拭わずともいずれ凍りつく」


それは、京介のことを言っているのか、それとも権三自身の生涯を表現しているのか、ハルには判断がつかなかった。

奥の襖から声があった。

権三が応じると、黒服が電話の子機を持って現れ、物言わず退室していった。

浅井権三は電話を受けて、しばし無言だった。

相手が何者で、どんな内容の話をされているのか、検討もつかなかった。


「京介よ・・・」


威厳を響かせ、言った。


「のこのこと現れれば、死ぬぞ」


それで、会話が途切れたようだった。

突如、権三が席を立つ。

ハルのことなど、もはや眼中にないようだった。


「あ、あの・・・!?」


権三は懐に拳銃を忍ばせ、傲然(ごうぜん)とした足取りで外に出でた。


獣が狩に発つ。


ハルに止める術はなかった。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

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獲物が網にかかった。

二台のベンツが夜の港に急行してきた。

車から、頑丈そうな男たちが飛び降りてくる。

護衛の数は、六人か。

なめられたものだ。

装備はしょせん、ピストルの類の豆鉄砲だろう。

しかも、実際に人を殺したことがあるのは、六人のうちどれだけいるだろうか。

ヤクザとはいえ、実際に拳銃に触れ、遠い山奥で実弾射撃訓練に日々の時間を費やした者はそういない。

問題は、肝心の浅井権三が、フルスモークの車から出てこないことだ。

おかげで照準望遠鏡(テレスコープ)の十字線に、権三の胸をとらえられない。

しかし、機はいくらでもあるだろう。

平和な国に生きる彼らが、まさか二百ヤードも離れた廃ビルの屋上からライフルで狙われているとは思うまい。

おれの狙撃の腕は、そう威張れるほどでもないが、優秀なテレスコープが補ってくれる。

工学技師の手で入念な焦点調整が施されており、いったんあわせた照準は、おれの頭が多少ぶれたとしてもずれることはない。

ライフル銃を構え直すと、機械油の匂いが鼻をついた。

テレスコープのレンズを振って、状況を探る。

狩り場を港に選んだのは正解だった。

だだっ広く、標的がすぐに身を隠せる遮蔽物がほとんどない。


「・・・・・・」


一人のボディーガードらしき大男が、車の後部座席に向かって声をかけている。


オヤジ・・・ヤツの姿は見当たりません・・・。


静かな夜に、野太い声は響くものだ。

浅井権三は、間違いなくこの場に来ている。

用心深く、配下の者に周りを探らせているのだろう。

あとはどうやって、車の外にあぶりだすか・・・。

銃口に柔らかな綿布を巻きつけた棒を差し入れる。

狙撃前の掃除を終えて、薬室に五発の弾薬をこめた。

弾の先端は大半の防弾チョッキを貫通できるよう、セラミックのものに付け替えてある。

検出される薬莢をすぐ回収できるよう、ライフルの持ち運びに使った楽器ケースから、台所用のふきんを取り出しておいた。

スリングを左腕に巻きつけ、肘をしっかりと地面に固定する。

腕力ではなく、骨で銃を支えている感覚を確認すると、頬と右手の親指を銃床の引き金の上に押し当てた。

狙撃の準備はほぼ終わった。

海は穏やかで、風はかすかだ。

他にも、湿度や地表付近の小さな上昇気流まで考えをめぐらしてみるが、文句のつけようがなかった。

あとは権三の姿を確認し、照準を微調整するだけだ。

おれは権三が出てくるであろうベンツのドアに狙いをつけた。

そのとき、車のエンジン音が聞こえ、おれは再びレンズ越しに状況を偵察した。

タクシーが一台滑り込んでくる。

権三のベンツのそばにいったん停車すると、すぐに走り去った。

タクシーから降りてきた人影を見つめ、おれはほくそ笑んだ。

機風の影響を公式に当てはめ、テレスコープを再調整する。

重力の影響を相殺するべく銃身がわずかに上にかたむいた。


さあ、出て来い権三。


一発で仕留めてやる。


「・・・・・・」


しかし、どういうわけか気持ちが落ち着かない。

狩の前に高揚しているわけではない。

ましてや、母を追い詰めた怪物に同情しているわけでもない。



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その刹那。

おれの心の動揺を悟ったかのように、浅井権三がベンツから飛び出した。

猛獣を思わせる俊敏な動きで、身を低くかまえながら、走り出す。

 


「京介えええぇっ――――!!!!」

 


咆哮。

あろうことか、権三はこちらを向いていた。

まるで、ライフルで狙われているのがわかっていたかのように。

狙撃地点を予想していたかのように。


・・・なぜだ!?

狙撃を警戒していたことはある程度予想できる。

だから、ヤツは車から降りてこなかったのだ。


しかし、なぜ・・・!?

 

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考えるより先に、殺意が勝った。

テレスコープに、浅井権三の巨躯が映った。

傲然と、こちらを見上げている。


――いまだ、やれ!


怪物は、自ら死地にやってきたのだ!

 

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十字線が、浅井権三の胸部に焦点を結ぶ。


息を整える。


吸う、吐く、吸う・・・。


目に万力をこめる。


ひきつる目蓋。


定まる狙い。


引き金に指。


ほんのわずかな圧力をかけた。


――ライフルが火を噴いた。


澄んだ音が響き渡り、巨体の上半身が揺らいだ。

弾は肺からやや下に逸れた。

それでも必殺だろう。

弾心には微量の爆薬を込めてある。

いまごろ、あの怪物の内蔵は・・・。


・・・・・・。

 

なんだと・・・!?


「"魔王"よ、聞けっ!!!」


両足に根でも生えたのか。


「悪とは、いまだ人のうちに残っている動物的な性質にこそ起源がある!!!」


折れぬ膝に、猛る顔面。


血走った目玉がいまにも眼窩(がんか)から飛び出しそうだった。


「復讐に救いを求め、救いに悪を成さんとする貴様は、遠からず己が悪行のもろさを知るだろう!!!」


まるで、弁慶の立ち往生か。


絶命間近の野獣の咆哮に、身がすくむ思いだった。


「嗤おう、盛大に!!!」


次の瞬間、浅井権三の口から、大量の血が溢れ出した。


笑み。


流血の海に溺れながら、浅井権三は断末魔の哄笑(こうしょう)に命のともし火を費やした。


かたかた、かたかた、と耳元でライフルが震える。


いや、震えているのは、おれの腕だった。


二百ヤードも向こうにいる怪物が、なぜか、おれのはらわたを食い尽くしているような悪夢に襲われた。


・・・落ち着け!


おれが、ヤツを殺したのだ。


浅井権三は死んだ、間違いない!


そうだ、慌てることはない・・・。


最後の絶叫など、負け犬の遠吠えではないか。


嗤え、だと?


ふん、獲物を仕留めそこなったハイエナの痙攣のようなものか。


「ぐ・・・っ・・・」


どれだけ余裕ぶったところで、動悸がおさまらない。


生物としての格の違いでも見せつけられたか。


再びテレスコープを覗いたとき、おれははっきりと恐怖した。

 

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誰もいない――!?


王を失ったはずの獣どもは、微塵の動揺も見せず、さらなる狙撃を警戒して綺麗に散開していた。

ただ、地べたにどうと倒れた権三の躯があるのみ。


・・・まずい!


残りの標的をあの世への道連れにしてやる暇などない。


甘く見ていた。


日本のヤクザなど、がなりたてるだけが脳の馬鹿の群れと侮っていた。


彼らは親分の死にひと言も口を漏らすことなく、おれを探している。


指揮官を失ってなお機能する軍隊。


これでは、狙撃の瞬間、銃口が閃光を発する瞬間を見ていた者がいてもおかしくはない。


つまり、おれの位置は特定されていると用心していい。


すぐさまライフルを片づけ、撤退の準備をした。


・・・。

 

廃ビルの非常階段を駆け下りる。


音を立てぬよう慎重に、かつ迅速に。


ビルから出て、倉庫の影づたいに港から離れた。


まさに間一髪だった。


ヤツらは二人一組で、お互いの死角をかばいあいながら、いままさにおれがいた廃ビルへと突入していった。

連携の取れた動きは、特殊部隊のバディシステムを想起させた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

 

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「・・・はあっ、はあっ・・・」


これまでのどんな戦場よりも生きた心地がしなかった。

まさしく辛勝。

いや、おれ自身、どうして権三を仕留められたのかわからなかった。

権三はなぜ、車内にいる優位を捨てて、身をさらけ出したのだ?


・・・わからん。


しかし、悪魔はおれに微笑んだ。

母を追い詰めた怪物に復讐の鉄槌を下した。

満足するとしよう。


「さらばだ、浅井権三・・・」


さて、宇佐美。

次は、お前だ・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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「む・・・」


ライフルの入った楽器ケースを置きに戻ったときだった。

背後の曲がり角。

おれと歩調をあわせるような足音。


・・・つけられている?


園山組か。

なんて対応の早さだ。

おれはしばし、尾行を確認するべく、道の角を何度も曲がり、やがて同じ場所に戻ってきた。


「・・・気のせいか?」


尾行者の影はなかった。

そもそも、園山組なら、尾行などせず、おれを見つけた時点で襲い掛かって来るだろう。

しかし、万全を期すべく、仲間を呼び集めているのかもしれない

この場は離れたほうがよさそうだな。

おれは一路、東区を目指した。


夜はまだまだ続く。

時刻はすでに深夜十二時を回っていた。


・・・。

 

G線上の魔王【24】

 

・・・。


 

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ようやくハルからの着信があった。

ユキはハルがどんな罠を用意したのかと気を引き締めながら、応答した。


「待ちくたびれちゃったわよ」
「ごめん。 気持ちの整理がつかなくて」
「言いわけはいいから、とっとと理事長をなかに入れてもらえる?」
「それは・・・」


そこに理事長の声が割り込んできた。


「わかった。 ここを開けろ」


「いいのね、ハル?」
「ああ・・・やむを得ないという話になった」


・・・芝居くさい。

が、まだまだ出方をうかがう必要がある。


「けっこうだわ。 じゃあ、入ってきてちょうだい。 いまから扉を開けるわ」


通話を切ると、ユキは倉庫の出入り口に歩み寄った。


「姉さん、私はどうすれば?」
「あなたはもう必要ないわ。 理事長が入ってきたら、解放してあげる」
「ううん」


水羽は頑なに首を振った。


「姉さんの力になりたいよ」
「なぜ?」
「だって、いままで姉さんになにもしてあげられなかったから。
姉さんに助けられるばっかりじゃ、悪いよ」


愚かな妹だと思ったが、不思議と不快ではなかった。


「とにかく、私は、ここを動かないから」


強情に床に座り込んだ水羽を黙殺し、ユキは扉に手をかけた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


直後、がこんと、扉の向こうで留め具を外すような音が聞こえた。

扉が横にスライドし、月明かりが倉庫内に差し込んだ。


「どうぞ」


時田は顔だけを晒し、手招きした。

飛び出して、時田に襲い掛かるのは危険といえるだろう。

こちらからは見えない鉄扉の向こうでは、時田がいまにも白鳥の首筋に釘を突きつけているのかもしれない。

理事長が、恐る恐る、なかに足を踏み入れる。


「じゃあね、また連絡するわ」


おどけた調子で言うと、すぐに扉が閉ざされた。


・・・けっきょく、こうするしかなかったな。

 

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「・・・・・・」


宇佐美は黙って、事の成り行きを見守っていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


ハルの狙いはどこにあるのだろうか。

ユキは慎重に理事長を倉庫に招きいれた。


「父さん、助けて・・・私、死にたくない・・・!」


ユキのすぐ下から声がした。

水羽は、いまだに人質の役割を演じてくれていた。

水羽は床に座り込み、腕を後ろに回して縛られているふうを装ってくれている。

だからこそ、白鳥理事長の抵抗はまったくなかった。


「両手をあげてちょうだい。 下手な真似したら、わかるでしょう?」
「姉さんの言うことを聞いて、お願い!」


理事長はすっかりあきらめきった様子で、ユキの眼前で両手をあげた。

やつれきった中年の手のひらには脂汗が滲んでいた。


「片倉は来た?」
「ああ、つい先ほど・・・」
「じゃあ、あとで呼ぶわ」


ユキは、手近にあった金属製の工具を手に取った。


「さて、なにか言い残すことがあれば聞くわよ?」
「す、すまなかった・・・正美には悪いことをしたと思っている」


母の名が出た。

汚されたようにユキには聞こえた。


「あらあら、ずいぶん態度が小さくなったわね?
前にも謝ってくれたけど、そのときはふんぞり返ってなかった?」
「葬儀にも出られなかったのは、私も悔やんでいたんだ・・・」
「お仕事が大変だったのね?」
「あ、ああ・・・忙しくて・・・」
「お線香の一つもあげに来られないほど忙しかったのね」


憎悪を爆発させた。


「賄賂を受け取っている時間はあったのに・・・!!!」


理事長は縮みあがった。


「ま、待て。 私を殺してなんになる!?」


その目に、狡猾な光が宿った。


「こうは考えられないか、ユキ。 私はたしかに人格者ではない。
そんな人間のために、人生を棒にふってどうするんだ?」
「そうね。 それは何度も考えたわ。 あなたを殺そうと思うたびに、そういう考えが袖を引いたの。
あなたは私の母さんを殺しておいて罪に問われないのに、なぜ私だけ刑務所に入らなければならないのかって」
「そうだろう。 落ち着いて、もう一度考えるんだ」


ほっとしたような顔に、サディスティックな心がうずいた。


「だから、あなたを殺したあとは、日本から脱出するつもりなの」


"魔王"とのつき合いを重ねるうちに、ユキは日本海沿岸の港から朝鮮半島への密航船が出ていることを知っていた。

国外脱出は困難を極めるだろうが、やってやれないことはない。


自分の身だけを守るのは、そう難しいことではない。

しかし、いま、ユキにとって一番の障害は、別のところにあった。

 

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水羽だった。

騙され、人質にされながらも、まだユキを姉と慕ってくれている。

この心優しい少女を、殺人犯の妹にしていいのだろうか。

ただでさえ、白鳥家の世間の風当たりは冷たいのだ。

一生を棒に振るのは、ユキだけではない。


「た、助けてくれ・・・ユキ・・・!」


哀願する小物を殺すことにためらいはない。


しかし・・・。


ユキは母とのつらい記憶を思い起こした。

母は、のたれ死ねと吐き捨てた外道を恨みながら、血を吐いて死んだ。

母の無念と水羽への配慮を天秤にかけて悩みに悩んだ。


こんなことなら、水羽に近づかなければよかった。

すると、あらゆる罪悪感が訪れてきた。

目の前の小動物のような男は水羽にだけは優しいようだ。

だからこそ、危険を承知で倉庫に入ってきた。

そんな父親を殺してしまったら、少女は少なからず嘆くだろう。

ユキにとって憎き敵が、水羽にとっては大切な父親なのだ。


もう一度、水羽を見下ろした。

少女は悲しみに胸を詰まらせていた。

幼少のころ、いつも笑っていた水羽を悲しませているのは、ほかならぬユキだった。

少女から父親を奪っていいのだろうか。

やめるべきかもしれない・・・いまやはっきりとそう思った。


――いや、待て!


はっとして、白鳥理事長を見据えた。

かろうじて、男の手が懐に伸びた瞬間を目撃した。

だから、ぎりぎりのところでその一撃をさけることができた。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


おれは宇佐美と肩を並べて、倉庫の様子を固唾を呑んで見守っていた。

 

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「宇佐美・・・どう思う?」
「なにがです?」
「中の様子だよ。 まずい展開になってるんじゃないのか?」
「まだ、なにもわかりません」
「たしかに、お前にしては思い切ったやり方だな。
だからこそ、時田も意表を突かれることになるかもしれないが・・・」
「ええ・・・」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


眼前で火花が散った。

ばちばち、と蛍光灯が蛾を殺すような電気的な音がした。

理事長の手が再び迫る。

黒いもの――おそらくスタンガンの類だろう――の先端をユキの顔めがけて押し付けてきた。

横に跳んでそれをかわす。

くぐもった怒声とともに高圧電流が迫ってくる。

とっさに手に持っていた工具を投げつけると、ようやく奇襲から逃れることができた。


距離を取り、武器になりそうなものを探す。


「やってくれるわね・・・」


荒い呼吸の合間をぬって言った。

それは、ハルに向けてのひと言だった。

まさか、理事長を刺客として差し向けるなんて。


さきほどまでの愛玩動物のような表情はどこへやら。

白鳥理事長は狂気じみた笑みを口元に携えていた。


「まったく、親子そろって聞き分けのない女だ・・・!」


じりと、一歩詰め寄ってきた。


「最初から、そのつもりだったのね?」
「娘のためだ」
「よく言うわよ」


うかつだった。

くたびれた中年の男と見下していた。


「おかしいと思ったのよ。 あなたは水羽の代わりになるためにここに来たのに、そんなことはひと言もくちにしなかった」


よくよく思い返してみれば、理事長の目尻はなんらかの策謀を隠していた。

恐怖に強張ったように見えた唇には狡猾な嘘が含まれていた。


「私は水羽からあなたの悪口を聞いたことがないわ。
だから油断してしまった。 けれど、あなたのいいところも聞いたことがない」


優しい少女は、きっと心で父親への不満を耐えていたのだろう。


「面の皮のあつい男ね、まったく」


理事長は笑った。


「少しぐらい弁が立たねば、警察も手を引かんよ」


最近の収賄事件で、警察はけっきょく起訴まで持ち込めなかったのだ。


「そうやって狡猾に立ち回った挙げ句、母さんに無実の罪を着せて追い出したのね?」
「なんのことだかまったくわからんな。
ただ、正美が出て行った年には、おかげで会社の保養所を建てることができたぞ。
それについては正美の墓前で報告したいと思っている」
「保養所という名の別荘でしょう?」


母が横領したことにされた金が、回りまわって理事長の懐に入ったことは、ユキも知っていた。


「まったく、人として恥ずかしくないの?」
「立て籠もり犯に人の道を説かれる筋合いはないが、別にいいわけはせんよ。
会社経営には、お前たち子供にはわからない苦労があるのだが、多くは語るまい」
「外道の分際で、なにを余裕ぶっているのかしら」
「子供にとってわかりやすい悪役でいてやろうという親心だよ。
それとも、私の身の上話でも聞きたいか?」
「けっこうよ」


この男も、私生児なのは知っていた。

親を憎み、身一つで会社を起こしたという。


「ユキは昔から賢い娘だった。
お前が再び私の前に現れたとき、ただでは済まないだろうとは思っていた。
だから、先の学園で要求してきた五百万くらいならくれてやってもいいんだぞ」
「それはありがとう、お父さん」
「しかし、殺人はまずい。 復讐はもっと法の網から逃れやすい形で行うべきだ」


このひと言が、白鳥理事長のすべてを物語っていた。

そこにいるのは、警察やマスコミの追求に怯える中年でもなく、ましてや水羽にとっての優しい父親でもなかった。

あくまで傲岸(ごうがん)な悪の塊だった。


「さあ、もうあきらめるんだ。 表へ出よう。
心配するな、警察に突き出したりはしない。 娘が実刑を受けるのはしのびないからな」
「あきれるわね、自分のスキャンダルをこれ以上増やしたくないだけでしょう?」


ここまで善悪の観念の薄い人間がどうして出来上がるのか、ユキは興味すら覚えていた。


「こっちへ来い」


スタンガンを向けながら、また一歩踏み込んできた。

逃げ場はない。

ユキの背中には、資材を包んだブルーシートの感触があった。


直後、目を見張った。


「やめてっ!」


水羽の悲鳴。

飛び出してきた。

理事長の腕に、背後からしがみついた。

床に転がる黒い凶器。

それこそが、理事長の余裕を保っていた武器だった。

怒号が走り、水羽が振りほどかれる。

ユキはすでに理事長の胸倉をつかんでいた。

風を感じた。


背負い投げは、ほぼ完全に決まっていた。

理事長は受身もとれずに、背骨を固い床に打ちつけることになった。

痛みの衝撃で口を半開きにしたまま、悶絶していた。


ユキは呼吸を整え、芋虫みたいに丸まった実の父を見下ろした。


「思い直したわ、やっぱりあなたを殺すって」


「姉さん・・・」
「ごめんね、水羽。 でも、あなたも悪いのよ。 こんな父親を野放しにしておいたんだから」


自分で言っておいて、胸がうずいた。

水羽に罪はないとわかっていながらも、どうにもならない。

溢れんばかりの憎しみに支配されながら、ユキは理事長の腕をロープで縛っていった。


「よく考えたら、私たちって姉妹じゃないじゃない」
「え?」
「法律上の話ね。
だから、殺人犯の姉を持つってことにはならないじゃないの。 私ったら、なに勘違いしてるのかしら」
「なに言ってるの? 私たちは姉妹だよ?」
「そういうのはもういいわ。 私たちは他人。 助けてくれたのは感謝してる。 でも、もうお別れよ」


ユキは細長い釘を拾い、理事長のそばにかがみこんだ。


「さあ、教えてちょうだい」


ユキがよほど酷薄な表情をしていたのか、理事長の顔に今度こそ疑いようのない恐怖が浮かんだ。


「あなたは片倉に命じて家に火を放ったのよね?」
「うっ・・・」


ユキは、家が燃え上がった晩のことを思い出した。

灼熱の炎が四方から迫っていた。

母は病をおして立ち上がり、寝ぼけ眼のユキを背負って窓から外に飛び出した。

やけどにただれた母の腕に、ユキは涙を落とした。


「言いなさい。 殺すわよ?」


釘の切っ先を、理事長の首に突きつけた。

理事長は切れ切れの吐息で言った。


「そうだ・・・わ、わたしの指図だ。
当時金に困っていた片倉くんに話を持ちかけたんだ。
しかし、放火までしろとは言っていない、本当だ」


ユキの心のなかで悪魔が激昂した。


「じゃあ、なんで火がついたんだ!!!」
「や、やめろ、本当だ!」


涙と唾がはじけた。


「か、か、片倉くんが勝手にやった、信じてくれ!」


「ね、姉さん・・・!」


「うるさい!」


もはや、ユキの耳には何者の声も届かなかった。

水羽への思いやりも、ハルへの申し訳なさも、義理の父親への感謝も、すべて吹き飛んだ。

ただ、己のうちで目覚めた悪魔に身を委ねるのみ。


涙と唾液でぐちゃぐちゃになった理事長の顔面を殴りつけると、ユキは携帯を取った。


――もう一人、殺さなくては。


通話はすぐにつながった。


「どうしたんだ、ユキ。 理事長を引き渡したら、水羽を解放してくれる約束じゃなかったのか?」


よく言う。

その理事長にスタンガンなんて物騒なものを渡したくせに・・・。


ユキは笑った。

けっきょくは、ハルも偽善者なのだ。


「ちょっとトラブルがあってね。 でも、もう水羽には用はないから安心して・・・」


興奮冷めやらぬ口調とは裏腹に、ユキの心は冷え切っていった。


「片倉が来てるらしいじゃないの。 中に入れてもらえるかしら?」
「・・・・・・」
「あ、そう。 嫌なんだ。 じゃあ、この人間のクズを殺すわ」


いまや、後先考えずに、この場で殺してやってもいいとすら思えた。


「落ち着け、ユキ。 わかった。 片倉さんも納得してくれている」
「もう小細工はなしよ、ハル。 あまり怒らせないでちょうだい」
「ああ・・・」


ユキは再び扉の前に立った。


「開けるわよ?」


怒りに冷静さを失っていたのかもしれない。

ユキは人質を盾にすることもなく、扉に手をかけていたことに気づいた。


扉が開いた瞬間に襲い掛かってこられたら――?


しかし、それは杞憂だった。

海風が入り込んでくる。

すぐ目の前に、小柄な男が棒立ちになっていた。

スーツに、切れ長の眼鏡。


「片倉ね・・・」
「そうだ」


ユキは即座に男の腕を右手で引いた。

左手には凶器の釘。

それを片倉の首筋に突きつけた瞬間、声が上がった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


時田が倉庫の入り口で男を捕まえた瞬間だった。


「宇佐美、いまだ!」


時田が無防備に扉を開けてきたいまが好機だった。

 

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「はいっ!」


おれは倉庫の扉が再び閉じられぬよう手で押さえつけた。


「なんのつもり!?」


時田が目を剥いた。

捕らえた男の背後から首に腕を回し、羽交い締めにしている。

もう一方の腕には、ぬらりと光る細長い釘があった。

じりじりと後ずさりしていく。

おれは腕を振って、園山組の若い衆に合図した。

宇佐美を先頭に、一気に倉庫のなかになだれ込む。

遠くから数台の車がこちらに向かってきているのが見えたが、気にしている余裕はなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

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「これが見えないの!? 近寄ったら片倉を殺すわよ!?」


ユキの制止を無視して、極道たちは、ぞろぞろと、倉庫に踏み込んできた。

距離にして五メートルほど。

ユキを中心にした半円を描くような包囲ができた。

連中は皆、殺気立っていて、圧倒的な暴力の匂いがする。

先頭に立った親友に聞いてみた。


「気でも触れたの、ハル?」
「ああ、これが、最後の手段だった」
「呆れるわね。 よく考えてごらんなさい。 状況はなにも変わっていないのよ?」


余裕の笑みを浮かべた。


「私は人質を取っている。 いまにも殺すことができる」


むしろ、水羽を人質に取っていたときよりも、事態はユキにとって好転したといっていい。

腕のなかでもがいている片倉という男は、殺しても飽き足りないほどの卑劣漢なのだ。


「ユキ、落ち着け」
「落ち着いてるわよ」


そう、いまなら、落ち着いて人を殺せそうだ。


「頼む。 もうこんな馬鹿なことはやめてくれ。 わたしはユキが大好きなんだ」
「大好きなら、"魔王"のことを教えてくれてもよかったじゃない?」
「すまない。 下手に話したら、迷惑がかかると思ったんだ」
「気づかいありがとう。 おかげですれ違ったわね」


片倉の首をさらに締めた。

必要以上に力が入った。

狂気がユキに力をみなぎらせていた。


床に転がった白鳥理事長を一瞥した。


「火に油を注いだわね、ハル」
「なに?」
「いっときはね、復讐なんてやめようかとも思ったのよ。 水羽のおかげでね」


水羽は呆然と立ちすくんでいた。

切迫した状況についていけないという顔だった。


「外道の父親を持っているだけでも肩身が狭いのに、その上、人殺しの姉まで加わったら、いくらなんでもかわいそうでしょ」


言葉の内容とは裏腹に、もはや、良心はうずかなかった。

ハルのせいだ。


「あなたが理事長をけしかけなかったら、ハッピーエンドだったのにね。
たいした勇者様だこと」


ハルの顔が険しくなった。

吊りあがった目で理事長を見下ろしている。

後悔しても遅いというのに・・・。


「わかった。 わたしが代わりに人質になろう」
「冗談はやめてよ。 たしかに、あなたには失望したけれど、それでもあなたを殺す理由はないわ」
「そうか・・・」
「人質には人質たる理由がいるのよ」


当たり前のことをつぶやいていた。

もう、ハルにかまう必要はない。


「さあ、道をあけてちょうだい。 車は用意してあるんでしょう?」
「ユキ・・・」
「それともなに? 片倉を見殺しにしてでも、私を捕まえる?
言っておくけど、少しでも変な動きを見せたらその場で殺すわよ。 なんの遠慮もないわ」


しかし、ハルはどこうとしなかった。

 

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「何度でも言おう。 その人を放すんだ。 お前を人殺しにはさせない」
「いいかげんにしてよね・・・」


ため息をつきながらも、ユキは、ふと違和感を覚えていた。

ハルの立ち居振る舞い。

背筋を伸ばし、堂々と相手を見据える姿勢には、敗北者のそれが感じられない。


――なぜだ・・・なぜ・・・?


虚勢だろうか。

ハルとは古いつき合いだからわかる。

嘘をついている気配はなかった。

ここからどんな大逆転があるというのか。

狂気にもやがかっていた頭に、平静さを呼び込む。


――そういえば・・・。


ヤクザ連中に焦点を合わせた。

どいつもこいつも人相が悪い。

いまに飛び掛かってきそうな勢いだった。


「・・・・・・」


いや、なぜ、飛び掛かってこないのか――!


ユキは、焦りを覚えつつも自然と、片倉の後頭部に視線を這わせていた。


「その人は片倉さんじゃない」


ハルが言った。


「・・・・・・」
「園山組の方だ。 浅井さんにお願いして、協力してもらった」


唖然としている暇はなかった。

が、いつもは饒舌な口が、うまく動かなかった。

だから、ヤクザは躊躇していた。

彼らが片倉の命を気にかける理由は見当たらない。

人質が身内だったからこそ、抑制が効いていたのだ。


「俺にも家族がいるんだ。 勘弁してもらえねえかな、嬢ちゃん」


ユキが盾にしていた男――片倉だと思っていた小男が巻き舌で言った。


ユキは呆然と、ハルを見つめるしかなかった。


「人質には人質たる理由がいる。 そうだろう、ユキ?」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


「ちなみに言うとだな、時田・・・」


おれは一歩歩み出た。


「宇佐美は別に、理事長をけしかけてなんかいない」
「・・・え?」
「そこの理事長さんは、普段からスタンガンを持ち歩いているみたいだな。
白鳥と飯を食ってたとき、そんな話があった。 後ろ暗いことが多いんだろう」


時田の話から推察すれば、おそらく理事長が不意を突いて時田に襲い掛かったんだろう。

まったく馬鹿なことをしてくれたものだ。


「さあ、ユキ、その人を放すんだ」
「くっ・・・」
「頭のいいお前ならわかるだろう? その人を殺してもなんの意味もないんだ」


たしかに、宇佐美にしては卑劣なやり方だった。

時田の心理状況にもよるが、下手をすれば、身代わりになったヤクザが殺されるかもしれないのだ。

時田の私怨とは無関係とはいえ、人質を取られていることには変わらない。

宇佐美の言うとおり、この状況で時田が抵抗をあきらめないという確証はない。


「もし、私が、無関係な人を殺すこともいとわなかったらどうするの?」


しかし、宇佐美は時田を信じていたのだろう。


「ユキにそんな真似はできない」


ぴしりと言うと、時田はひるんだように目をそむけた。


「このままこの人を人質に逃げ出したらどうするの?」


今度はおれが言った。


「どうやって逃げるんだ? 運転はどうする?
そんな釘一本で極道を脅せると思っているのか?」
「そうね・・・どう考えても分が悪いわね」


時田の腕から力が引いていくのがわかった。


「私の負けよ・・・疑ってごめんね、ハル・・・」

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

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時田は人質を解放すると、その場に呆然と立ちすくんだ。

凶器の釘が、からんと音を立てて床に転がった。


「あ・・・ね、姉さん・・・」


白鳥がかろうじて声を発していた。

縄でしばられていなかったところを見るに、やはり、時田と白鳥は協力しあっていたようだ。


「・・・た、助けてくれ・・・」


理事長も生きているようだ。


「はあっ、はあっ・・・ユキ、貴様、ただで済むと思うなよ」


元気なことだ。


「浅井さん・・・お願いです」


さて、ここからが、おれの仕事か。


「ち・・・」


時田を助けてくれってか・・・。


「ユキが"魔王"の関係者だということを、ここにいる人たちに知られたら・・・」
「わかっている・・・」


ひどい拷問が待っているだろうな。


「すみません」


くそ・・・なんでおれが・・・。

まあ、この場をしのぐくらいならなんとかなるか。


「皆さん聞いてください」


おれは極悪面の群れと向き合った。


「よる遅くまでありがとうございました。
この恩義は浅井京介、生涯忘れません。
後ほど御礼にうかがいますので、いまはひとまず解散としていただけませんか?」


連中のなかには、おれたちの会話を聞いて、時田が"魔王"とつながっていることを知っているヤツもいるかもしれない。


「父には僕から報告しておきますので」


ヤクザどもは、悪態をつきながらも、金子にありつけるのならといった様子で、徐々に散っていった。


「・・・む?」


突如、入り口付近の人の動きが鈍った。

声高にどすのきいた挨拶が飛び交う。

ひときわ背の高い巨漢が獣の群れを割って、おれの前に躍り出てきた。


最悪だった。

 

 

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倉庫に突入するとき、車が接近しているのを見たが、権三だったか・・・。


「うちの狼どもは、いつからお前の家畜になったんだ?」
「お義父さん・・・申し訳ありません」


ゴッという音が脳に響いた。


「あ、ぐ・・・っ!」
「立て籠もりの話は聞いた。
時田の義理の娘が親に復讐していたようだな?」


時田に向けてあごをしゃくった。

ふと、理事長が顔を上げた。


「あ、浅井組長・・・・・・」
「・・・・・・」
「よくおいでくださいました。 おかげさまで大変助かりました」


へつらうように言った。


「息子さんには感謝しております」
「・・・・・・」
「どうか、どうか、今後ともよしなに・・・」


権三が眉一つ動かさず言った。

 

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「外道には外道の報いがある」
「・・・っ!?」
「貴様が原因でうちの若い衆がこき使われたようだな?」
「わ、私ではありません、そこの女が・・・!」
「手当てとして、一人につき五百払え」


おれは二十人以上は集めた・・・つまり、一億だ・・・。


「そ、そんな大金は・・・」
「黙れ」


理事長の顔色が蒼白になっていく。


「お、お義父さん。 もう問題はありません・・・勝手に、皆さんに動いてもらったのは申し開きのしようもありませんが・・・」
「なにを隠している」
「隠して・・・?」
「痴れ犬が、宇佐美もいるではないか?」


なんて嗅覚だ。

権三はこの事件と"魔王"との関係をしきりに疑っている。


「言え」
「ぐっ・・・!」


胸を締め上げられた。


「俺は貴様に"魔王"を探れと命じた。
が、貴様はまったく関係のない事件に俺の私兵を投じたというのか?」


権三が怒るのも、もっともな話だ。


「"魔王"は捕まえ次第、八つ裂きにする。
"魔王"の子飼いも生きたまま皮を剥いでやろう」
「・・・っ」
「これより、三つ数える。 その間に真実を述べねば、貴様の連れも皆殺しだ」


・・・連れ?

宇佐美と白鳥と時田のことか・・・。


「ひとつ!」


連れ・・・なのだろうか・・・友達、なのだろうか・・・。


「ふたつ!」


おれは、なにをしている?

権三に従うべきではないか。

ふと、酸欠に朦朧とした意識のなか、脳裏に浮かぶ光景があった。

 

 

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弟をかばう椿姫。

 

 

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物言わず去っていった花音。

 

 

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そして、白鳥には手をかけなかった時田。

その時田が遠巻きに言い放った。


「やめて」


・・・。

 

 

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「京介くんを放して」


無表情に、顔だけをこちらに向けていた。


「貴様か」


権三はおれを手放し、時田に歩み寄った。


「その通り。 私は"魔王"を知っているわ」
「お前が時田の娘だな?」
「ええ、父さんとお知り合いなの?」


権三は時田の問いには答えずに、ガンを飛ばした。


「"魔王"はどこだ?」
「わからないわ」
「知っていることを、洗いざらい話せ」
「ほとんど知らないわ、本当よ」
「本当かどうかは俺が決める」


権三の目に殺意が宿った。


・・・もう、おしまいだ。


権三は時田を赦さない。


短いつきあいだったが、時田とはそれなりに気が合った。


正直、もう少し、関わってみたかった。


理事長への復讐に燃える時田には、白鳥への恨みも少なからずあったことだろう。


なぜ、手にかけなかったのだろうか。


白鳥を人質に取れば、状況は時田に圧倒的に有利だったはずだ。


なぜだ・・・なぜ・・・?


おれの周りにいる連中は、おれの知らない暖かいものを備えている。


「さらえ」


権三が下々の者に命じた。


思わず目を背けたくなったそのとき、すすり泣きが聞こえてきた。


「やめ、て・・・ください・・・!」


それは、あまりにも無意味で、無力な哀願だった。


・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 

 

 

 

愚かな少女だと、ユキは思った。

 

 

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「姉さんは、悪くないんです・・・!」


復讐を果たせなかったユキの心は、すべてをあきらめ、捨て鉢のようになっていた。


「な、なにも・・・悪くないんです・・・!」


水羽は馬鹿だ。

何の意味もない。

多くの犯罪者を見てきたユキにはわかる。

泣こうがわめこうが、目の前の巨漢の心は動かない。


「赦して・・・姉さんに、ひどいことしないで・・・!」


状況もよくわかっていないのだろう。

ユキが"魔王"とつながっているということも知らないくせに、水羽はただ、泣き叫んでいる。


――まったく、なに泣いているのかしら・・・。


「わたし、わたしがっ、わたしが、いけないんです・・・」


浅井権三の眼光に射すくめられ、水羽の唇が恐怖に強張っている。


「わたしが、姉さんに、話を持ちかけて・・・ひ、人質のふりをしていたんです・・・!」


愚か過ぎる。

誰がそんな与太話を信じるというのか。

そもそも浅井権三は、立て籠もり事件などに興味を持っていない。


「ま、"魔王"は、私が、知ってます。 姉さんは、関係ないんです・・・!」
「ほう・・・」


権三の声に、震え、怯えながらも、水羽はたどたどしく言葉をつむいだ。


「だから、姉さんを赦してください!」


マフラーに落ちる、涙・・・。

むしろ、腹が立つ思いだった。

黙っていればいいものを。

このままでは、水羽にまで拷問の手が及んでしまう。

まったく、昔から足を引っ張ってくれる・・・。


ユキは、水羽のマフラーを見つめながら浅井権三に言った。


「まさか、その子の話を信じるわけじゃないでしょう?」


権三はユキを一瞥した。

なにを考えているのかわからない、底冷えのするような目だった。

水羽は、この視線に刃向かっていたというのか・・・。


「ほ、本当です!」


水羽がまたわめいた。


「話にならないわ、水羽。 黙りなさい」
「やだよ!」
「殺されるわよ?」


・・・なぜだ。

ユキは水羽に戸惑っていた。

少しは、自分の気持ちもわかって欲しい。

ユキは水羽を巻き添えにしたくはなかった。


また、瞳から溢れた涙が、頬を伝ってマフラーに落ちる。


「おい・・・」


ついに、浅井権三が口を開いた。

彼の尖った唇は茶番につき合うつもりはないと主張している。


「あれは、なんだ?」


水羽を指差した。


「さあ・・・」


ひきつって笑うしかなかった。


「あれは、お前の妹か?」
「・・・・・・」
「だったら、わかるな?」


親分の意を察して、数人の男たちが水羽に詰め寄った。


「あ・・・」


否定しなければ。

だが、否定してどうなる。

もはや、どうにもなるまい。

水羽は堰(せき)を切ったように泣きじゃくる。

水羽の絶叫が、空気を切り裂いた。


「姉さんは、姉さんは、いままでずっと大変だったの!
もう赦してあげて! 大変だったんだから!」


貧弱な語彙。

なんの説得力もない。

ユキを救うにはあまりにも弱々しい言葉に、しかし心が震える。

水羽に贈ったマフラーが、止めどない涙に滲んでいく・・・。


「そうよ、妹よ・・・」


声は、消え入るように細くなり、湿り気を帯びた。


「よく見てよ・・・」


・・・。

 

 

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『みずははいつでも、ねえさんの味方だよって』

 

・・・。

 

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「――そっくりじゃない?」


まるで似ていない妹に向けて、手をあげた。


あげてしまった――。


いったい自分はなにを口走ってしまったのか。


姉妹そろって愚か者。


否定しなければ。


さあ、考えろ。


どうやったら、馬鹿な妹を言い聞かせられるのか。


「あ、う・・・っ・・・」


考えろ。


妹を巻き込むな。


地獄行きは自分一人で十分だ。


さあ、話せ。


得意のおしゃべりはどうした。


"悪魔"に魂を売ってまで学んだことを、いま活かさないでどうする・・・!


「ぐ・・・うっ、あ・・・」


声が、出ない。


どうあがいても、出ない・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 


―――――

 


・・・。

 

・・・・・・。

 


そのときのおれの行動は、浅井権三にとって意表を突かれたことだろう。

おれ自身も、意表を突かれていた。


「動くな!」


背後から、権三の野太い肩をつかんだ。

一方の手には、時田が落とした凶器。


「気でも触れたか、京介?」


事実、気が触れていたことだろう。


「宇佐美、時田と白鳥を連れて逃げろ!」


なんだ、なにをしている・・・?


「さあ、道を開けろ! 権三が殺されてもいいのか!?」


おれは、なにをやっているんだ・・・?


「ほう・・・」


にたり、と哂った。


まるで、獲物を食い殺す前に見せる野獣の余裕。


恐怖より先に、体が動いている。


「浅井さん!」
「もたもたするな!」
「くっ・・・!」


さすがに宇佐美は状況がわかっているようだ。

ここでもたつくのは真に愚か者。

すぐさま時田の腕を引いた。


「面白い」
「・・・・・・」
「俺は完全に油断していたぞ、京介」
「・・・・・・」
「なにがあった?」
「わかりません」


答えようがなかった。

ただ、顔が浮かぶ。

椿姫、花音、白鳥、時田・・・四人の泣き顔がおれをけしかける。


「くく、はははっ、ふはははっ!」


「浅井さん、すみません!」


宇佐美は素早く、白鳥を抱え、先頭を切った。

時田も白鳥も、意思を失ったかのように呆然と、宇佐美に従った。


「どけ! こいつを殺すぞ!」


宇佐美たちが動く。

さながら急流を裂く岩のように、人の群れが分かれていった。

権三は微動だにしない。

やがて、外から、車のエンジンがかかる音が聞こえてきた。

時田がおれに用意させた車だ。

タイヤを軋ませながら、宇佐美たちが去っていく。


・・・。

 

「おい・・・」


とたんに、底無しの絶望が襲ってきた。


「ぐあっ・・・!」

 

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「俺はお前に驚いている」
「・・・っ」
「俺を上回る恐怖に出会わねば、裏切らぬと思っていた」


おれも、そう思っていた。


「お前は、俺にへつらうだけの家畜ではなかったのか?」


がたがたと、手が震えだした。


「俺に拾われ、母を捨て、金の奴隷になったのではなかったのか?」


もはや、どんな言いわけも通じまい。

おれ自身、自分の行動に説明がつかないのだ。


「で、どうするのだ、京介?」
「どう・・・?」


おれの未来のことだ。

権三に牙を剥いたおれに、どんな将来があるというのか。


「お前は金を溜めて、母を迎えるつもりだった」


おれは、恐る恐るうなずいた。


「そんなお前にとって残念な知らせが、先ほど届いた」


え・・・?


「死んだぞ」


掌から凶器が滑り落ちて、床にバウンドした。


「母親だ」


視界が、闇色に染まる。


「撥ねられたらしい」


足元がおぼつかない。


「飲酒運転の車に」


固いはずの床に、ずぶずぶと体が引き擦り込まれていく。


「・・・・・・」


権三の目には真実しか見出せなかった。


「そ、んな・・・」


鼓膜を切り裂く、身をひきちぎるような叫び声。

 

おれは、白目を剥き、天を仰ぎ、力の限りに叫び続けていた。


・・・。