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Kanon【12】


・・・。


1月29日 金曜日


・・・。


窓の外を眺めていることが多くなった。

教室の喧噪に背を向けて、青い空に流れる雲を、ただ見上げていた。


「・・・時間が止まったように思えるのよね」


四角い窓に、美坂香里の姿が映っている。


「こうやって空を見上げていると・・・」


俺の席の前に立ち、同じように窓の外を眺める。


「本当に時間が止まるわけ、ないのにね」


香里の表情からは、あの夜の面影を感じることはできなかった。


「香里・・・」
「なに? 相沢君」
「昼飯はもう食ったのか?」
「昼食なんて、もう何日も食べてないわよ」


そう言って、穏やかに笑った表情は、少しやつれて見えた。

食べていないのは、昼だけではないのだろう。


「相沢君はもう食べたの?」
「ああ。 苦しいくらい大量に食った」
「そう」
「なぁ、香里・・・」
「なに?」
「・・・まだ栞のことを避けてるのか?」
「・・・・・・」
「あいつは、今を精一杯生きてるんだ」
「・・・・・・」
「残された時間があとどれだけか、なんて関係ない」
「・・・・・・」
「最後まで、栞のことを妹とは認めてやらないのか・・・?」
「相沢君」
「・・・・・・」
「あたしは・・・栞なんて子、知らないわ・・・」
「・・・・・・分かった」


足音を残して、香里が自分の席に戻っていく。

そして、チャイムが鳴った。


・・・。


「今日も1番乗りです」


昇降口の先では、すでに栞が手を振っていた。


「・・・どうして今日も栞の方が早いんだ」
「6時間目の授業が、担任の先生だったんです。 それで、ちょっとだけ早く終わったんです」
「詐欺だ」
「違います。 日頃の行いです」


真新しい鞄に、おろしたての制服。

そして、いつものように、穏やかに微笑む。


「行きましょう、祐一さん」
「よし、とりあえず商店街」
「・・・またですか?」
「だったら、俺が案内できるところで栞が行きたいところ」
「・・・商店街でいいです」
「そのかわり、今日は好きなのをおごってやるから」
「わ。 本当ですか?」
「うまい喫茶店があるんだ」


というか、その店しか知らない。


「楽しみですー」


嬉しそうに目を細める栞と一緒に、商店街に向かう。

陽が、また少し傾いていた。


・・・。


「ここがそうだ」


百花屋

俺が名雪にイチゴサンデーをおごらされた喫茶店だ。


「綺麗なお店ですね」
「綺麗なだけじゃないぞ。 うまくてリーズナブルだ」
「至れり尽くせりですね」


カランッ・・・とドアベルを鳴らしながら、店内に入る。


・・・。


「いっぱいですね・・・」


感心したように店内を見渡す。

放課後の百花屋は、学生服姿の客で埋め尽くされていた。

中には、俺たちと同じ制服もあった。

幸い、空いている席があったので、そこに案内される。

 

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「座れましたね」


おしぼりを持って、栞がほっと息をつく。


「この時間帯が一番混むみたいだな」
「・・・祐一さん」


真剣な表情でメニューを開いていた栞が、顔を上げる。


「確か、今日は祐一さんのおごりなんですよね?」
「まぁな」
「何を頼んでもいいんですか?」
「もちろん」
「わかりました・・・」


ぱたん、とメニューを閉じる。


「ご注文はお決まりでしょうか?」

「俺はコーヒー」

「私は、この。ジャンボミックスパフェデラックスをお願いします」


「かしこまりました」


メニューを受け取って、そのままカウンターに消える。


「楽しみですねっ」
「・・・栞」
「はい?」


おしぼりで手を拭きながら、栞が首を傾げる。


「今の、やたらと大げさな名前の食い物はなんだ・・・?」
「パフェです」
「普通のパフェじゃないだろ・・・」
「ちょっと大きいみたいですね」
「ちょっと・・・か?」
「もしかしすると、凄く大きいかもしれませんけど。 3500円しますから」
「・・・は?」
「3500円です」
「なんで、パフェが3500円もするんだ・・・?」
「やっぱり、大きいからですね」


栞は嬉しそうだった。


「まぁ、いいけど・・・」
「ありがとうございます」
「でも、そんなに食えるのか?」


栞は確か、人並みはずれて少食だったはずだ。


「今日はがんばって、たくさんたくさん食べます。 だって、折角のおごりですから」
「残っても知らないぞ」
「その時は、ふたりで食べましょうね」


おしぼりをテーブルに置いて、そしてにこっと微笑む。

他の誰でもない、俺に向かって。


「・・・ひとつのパフェを一緒に食うのか?」
「はい」
「・・・・・・」


想像すると、とても恥ずかしい光景が浮かんだ。

なんとかそんな事態を回避する方法はないかと思案していると・・・。


カランッ。


アベルが鳴って、新しい客が入ってきたようだった。


「あたし、やっぱり帰るわ・・・」
「わ。 いきなり出ていかないでよっ」
「あんまり、こういう店に入りたい気分じゃないのよ・・・」
「ここのイチゴサンデーが、すっごくおいしいんだよ」
「知ってるわよ。 何度も来てるんだから」
「だったら、ね」
「食欲ないって言ってるでしょ・・・」
「なくても食べないとダメだよ」


名雪と、そして香里だった。


「・・・・・・」


栞は、複雑な表情で、新しく入ってきたふたりの客をじっと見つめている。


「香里、少しは食べた方がいいよ・・・」
「ダイエットしてるのよ」
「嘘だよ」
「・・・そうね。 名雪に嘘ついても仕方ないわね」
「今日はわたしがおごるから。 だから、ね」


名雪は、泣きそうな表情だった。


「・・・分かったわよ。 つき合うわ」
「うんっ」


名雪と香里は、俺たちには気づいていない様子だった。


・・・。


「・・・お姉ちゃん」


栞が、ぽつりと言葉を漏らす。

誰にも届かないような、消え入るような声だった。


「・・・・・・」


俺は・・・。


「おーいっ、名雪


席を立って、名雪に向かって手を振って見せた。


「あれ?」


それに気づいた名雪が、驚いたような表情を覗かせる。


「・・・・・・」


同時に、香里も俺の姿を見つける。

そして、その向かいに座っている少女の姿も・・・。


「良かったら、一緒にどうだ?」
「うん。 わたしはいいよ」
「香里は?」


「・・・・・・」

「・・・・・・・・・分かったわ」

 

抑揚のない声で頷く。


やがて、店内の案内で、ひとつのテーブルに4人が座った。


「・・・・・・」

「えっと・・・初めまして」

「いや、こちらこそ」
「祐一じゃないよ・・・」


「・・・初めまして」


遠慮がちに、栞がお辞儀をする。


「わたしは、水瀬名雪。 こっちは、美坂香里


栞と香里の関係を知らない名雪が、香里も一緒に紹介する。


「私は・・・栞です」
栞ちゃん、1年生だよね」
「はい・・・」
「私たちは2年生だよ・・・って、言わなくてもリボンの色で分かるよね」
「はい・・・」


「挨拶はいいから、何か注文したらどうだ?」
「あ、そうだね」


「・・・・・・」


名雪がいつものごとくイチゴサンデーを注文して、香里はオレンジジュースを頼む。


栞ちゃんは何を注文したの?」
「えっと、ジャンボミックスパフェデラックスです」
「わたし、一度食べてみたかったんだ」
「それでしたら、みなさんで食べませんか」
「わ。 いいの?」
「はい。 祐一さんのおごりですから」
「祐一、お金持ち」

 

「いや、別にお金持ちなわけじゃないけど・・・」


「でも、祐一さん。 何を頼んでもいいって」

「え? 何を頼んでもいいの?」


「ちょっと待て!」


「わたし、イチゴのクレープもお願いしようかな」
「おいしそうですね」
「うん。 わたしのお勧めだよ。 一番はやっぱりイチゴサンデーだけど」
「私も食べたいです」


「・・・やめてくれ」


「冗談ですよ」


最初は緊張気味だった栞も、いつの間にか馴染んでいた。

これも、名雪のおかげかもしれない。


「あ、来ましたよ」


やがて、注文の品が、次々にテーブルの上に並べられる。


「おっきいですね・・・」


テーブルの中央には、巨大なガラスの器が置かれた。

バケツくらいはありそうな器に、たっぷりのアイスや生クリーム、そして果物が盛りつけられている。


「・・・確かに、これだったら3500円くらいはするかもしれないな」


「みなさんで食べませんか?」
「うん」


「というか、ひとりで食えるような量じゃないだろ、これは・・・」


はっきり言って、4人でも無理だと思うが・・・。


「いただきますっ」


嬉しそうに手を合わせる栞に続いて、俺と名雪もパフェをすくい取る。

名雪に至っては、自分のイチゴサンデーと交互に口に運んでいる。


「・・・・・・」


そんな中、香里だけは自分のオレンジジュースを飲んでいた。


「香里も食ったらどうだ?」


無駄だとは分かっているが、一応声をかけてみる。


「・・・・・・」


案の定、返事さえなかった。


「・・・・・・」


そんな姉の表情を、悲しげに見つめる妹。

いなくなるのなら、最初から妹なんていなければいい・・・。

香里にとって、栞を妹として認めるということは、逃げられない悲しみを受け入れるのと同じことだった。

悩んで、苦しんで、そして絶望した先にあった答え・・・。


「・・・・・・」


俺とは反対の選択を選んだ香里・・・。

今、その心の奥にある感情はなんだろう、とふと考える。


「全然なくならないね・・・」

「私・・・もう、無理です・・・」


結局、半分以上を残したまま、俺たちは店を出ることになった。


・・・。


夕暮れの商店街を、4人で歩いていた。

名雪はずっと栞と話をしているし、香里はひとことも口をきかなかった。


「大丈夫、栞ちゃん?」
「ちょっと苦しいです・・・」

 

「食い過ぎだ」
「でも、楽しかったです。 みんなで一緒に食事できて、本当に嬉しかったです」


「そうだ。 今度一緒にお昼食べようよ」
「私でもいいんですか?」
「もちろんだよ。 だって、祐一の大切な人だもん」
「・・・え」


思わぬ言葉に、栞が恥ずかしそうに俯く。


「何なんだ、その大切な人っていうのは・・・」
「え? だって、祐一の彼女でしょ?」


「え、えっと・・・」


名雪の言葉に、栞が真っ赤になって俯いている。

俺としても、こうもはっきり言われると、何も言葉がなかった。


「可愛い子だよね。 祐一にはもったいないよ」
「あ、あの・・・」


「ほっとけ」


「ほんと、見る目がないわね」


今まで一言も喋らなかった香里が、不機嫌そうに呟く。


「余計なお世話だ」


「・・・・・・」


一度も栞と目を合わせようとしなかった香里が、妹の顔をじっと見つめている。



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「余計なお世話じゃないわよ・・・。 だって、栞は・・・あたしの妹なんだから・・・」

 

「・・・え」


香里の口から出た言葉・・・。

かたくなに妹の存在を否定し続けていた、姉の口から出た言葉・・・。

その時の、香里の表情・・・。

それは・・・。


「・・・名雪、帰るわよ」
「え?」
「寄りたい店があるのよ。 喫茶店につき合ったんだから、今度はあたしの買い物につき合って貰うわよ」
「う、うん」


戸惑う名雪を促して、そして、歩き出す。


「それじゃあね、ふたりとも」
「・・・ああ」


夕日の中で、じっと栞の顔を見つめていた香里の表情は・・・。

確かに、笑顔だった。


「・・・・・・」


栞は、ただじっと姉の後ろ姿を見送る。

一度も目を離すことなく・・・。

そして・・・。


「・・・ばいばい、お姉ちゃん」


小さく、そう呟いていた・・・。


「・・・俺たちも、そろそろ帰るか」
「そうですね」


頷いて、香里の後ろ姿を見送っていた視線を戻す。


「それでは、ここで解散です」
「そうだな」
「また明日です、祐一さん」
「ああ、また明日だ」
「はいっ」


満面の笑顔を湛えた栞が、ぺこっとお辞儀をする。


・・・・・・。


・・・。

 

 

 

ふと空を見上げてみる。

赤い雲。

赤い空。

そして、赤い世界。


「・・・祐一君」


呼び止める声に、視線を戻す。

 

「・・・祐一君」


もう一度、赤く染まった少女が、俺の名前を呼ぶ。


「なんだ、あゆか」
「・・・・・・」
「久しぶりだな。 元気だったか?」
「祐一君、あのね・・・」


オレンジに染まる羽。

力なく、揺れる・・・。

 

 

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「探し物、見つかったんだよ・・・」


言葉とは裏腹に、寂しげに呟く。


「良かったじゃないか」
「・・・うん」
「大切な物だったんだろ?」
「・・・うん。 大切な・・・本当に大切な物・・・」
「見つかって良かったな、あゆ」
「・・・・・・」


赤い雲の影が、地面の上を流れている。


「あのね・・・探していた物が見つかったから・・・ボク、もうこの辺りには来ないと思うんだ・・・。 だから・・・祐一君とも、もうあんまり会えなくなるね・・・」
「・・・そう、なのか?」
「ボクは、この街にいる理由がなくなっちゃったから・・・」
「だったら、今度は俺の方からあゆの街に遊びに行ってやる」
「・・・祐一君」
「あゆの足で来れるんだから、そんなに遠くないんだろ?」
「・・・・・・」
「また、嫌っていうくらい会えるさ」
「・・・そう・・・だね」


あゆの小さな体が、赤く染まって・・・。


「ボク・・・そろそろ行くね・・・」


夕焼けを背景に・・・。


「・・・ばいばい、祐一君」


あゆの背中が見えなくなるまで、俺はその場所から動くことさえできなかった。


・・・・・・。

 

・・・。

 

 

1月30日 土曜日


いい天気だった。

まばらに空を覆った雲が、ほとんど流れることなく形を変えている。

眩しいくらいの陽光に照らされて、緩やかな水面が金色に輝いていた。

石畳に浮かび上がる黒い影と白い雲。

1月30日。

ぴんと張りつめた空気は冷たく、まだまだ冬の本番もこれからだが、それでも今日の気候は幾分か過ごしやすかった。

学校が午前中で終わり、そして、走って家まで戻り、簡単に着替えを済ませて家を飛び出す。

約束の時間まではまだ余裕もあるが、ただ、じっとしていることが嫌だった。

限られた時間。 あと、僅か・・・。


・・・。


「・・・あっ、祐一さんっ!」


眩しく視界を遮る光を手のひらで遮りながら、声のした方向に目を凝らす。

同じように私服に着替えた栞が、心臓の鼓動を沈めるように、胸に手のひらを宛いながら駆け寄って来る。


「あれ・・・? もうそんな時間ですか?」


不思議そうに、きょろきょろと街頭の時計を探す。


「いや、まだ約束の時間までだいぶあるぞ」
「ですよねっ。 だって私、急いで来ましたからっ」


白く弾む息を整えながら、俺の元へ。


「もっとゆっくり来ても良かったのに」
「先に来たかったんです。 祐一さんよりも」
「残念だったな」
「残念です・・・。 でも、次は負けませんからねっ」
「じゃあ、ふたり揃ったところで出かけようか」
「はいっ」


無邪気に元気よく頷く栞。

その笑顔を眩しそうに見上げながら、俺もゆっくりと立ち上がった。


「それで、どこに行く?」
「そうですねぇ・・・」


口元に白い手をあてながら、微かに俯いて思案する。


「やっぱり、まずは腹ごしらえだよな」
「アイスクリーム」
「腹ごしらえにアイスクリーム・・・か?」
「アイスクリームを食べましょう」


うんうん、と満足げに頷く。


「もっと腹に溜まる物がよくないか?」
「アイスクリーム、ふたつ」
「数の問題じゃないと思うが・・・」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど、昼飯をちゃんと食べてからにしような」
「それは大丈夫です」


嬉しそうに笑顔を見せると、得意顔で頷く。

そして、どこからともなくハンカチで包まれた弁当箱のような物を取り出した。


「実は、大好評にお応えして、またお弁当を作って来たんです」
「いつ大好評だったんだ・・・?」
「えっ! 違うんですか?」


本気でびっくりしている。


「確かに、結構うまかったけど、大好評ってほどじゃないな。 まぁ、強いて言うなら中好評ってとこだな」
「そんな語呂の悪い中途半端な評価、嫌です。 祐一さん、嫌いですっ」


ぷいっと横を向く。


「じゃあ、中の上好評」
「一緒ですっ。 やっぱり嫌いですっ!」


横を向いていた栞がそのまま後ろを向く。

まぁ、拗ねるのはいつものこと・・・。


「3秒も経てば機嫌も戻るだろう」
「・・・思いっきり聞こえてますよ」


苦笑を浮かべながら、くるっと振り返る。


「そんなこと言った罰です。 今日こそは本当に全部食べてくださいね」
「・・・そうだな」


土曜日の正午。

元気よく走り回る子供たちの喧噪を聞きながら、俺と栞は歩き出す。


「今日は残さず全部食べる」
「約束ですよっ」
「ああ」
「絶対に、絶対に約束ですよっ」


上着のポケットに突っ込んだ俺の手を取るように、栞が横に並ぶ。


「アイスクリームも忘れないでくださいね」
「そうだな・・・。 じゃあ、商店街でアイスクリームを買ってから、弁当を広げられる場所を探そうか」
「はいっ」


上着越しに栞の体温を感じながら、

ゆっくりと遠ざかる水の音を聴きながら、

小春日和と呼ぶには遅すぎる日常の中を、

今はただ、ゆっくりと歩いていく。


「あったかいですー」


いつまでもこんな時間が続けばいいのに、と・・・。

悲しい期待を隠しながら・・・。


・・・。


「わぁ、大盛況ですねー」


土曜日の商店街。

特に、放課後の学生が集まるこの時間は大勢の人で溢れかえっている。

俺たちの学校の生徒だけではなく、他の学校の生徒も大勢混じっている。


「私、今までは人の少ない時間に出かけることがほとんどだったので、びっくりです」
「俺だってびっくりだ」


今日は暖かいから、いつもより人が多いのかもしれない。


「・・・祐一さん」


掴んだ腕を引っ張りながら、栞が俺の顔を見上げる。


「私たち、立派な恋人同士に見えますよねっ」


満面の笑顔だった。


「立派がどうかは分からないけどな」
「そうですね」


他愛ないやりとりに言葉を弾ませ、昼下がりの雑踏を歩く。

特別なことなんて何もない。

他人が見ればくだらないと思うようなことでも、俺にとっては大切な時間。

そして・・・。


「栞、楽しいか?」
「どうしたんですか? 急に?」
「いや、なんとなくな」
「楽しいですよ。 すっごく。 でも、私が楽しいだけではダメです。 側に居てくれる人が、同じ時間を一緒に感じて、一緒に楽しんで、それで初めてかけがえのない思い出になるんです。 えっと・・・」


言葉を止めて、微かに俯く。


「よくは分からないですけど・・・たぶん、そういうものなんだと思います。 あはは・・・私、ずいぶんと勝手なコト言ってますよね?」


もう一度顔を上げて、そして微かに笑う。


「いや、そんなことはないぞ」
「祐一さんも楽しいですか?」
「ああ」
「・・・後悔、していませんか?」
「・・・・・・」


その問いかけを無言で否定するように、栞の細い腕を掴む。


「え・・・わっ!」


そして冬の喧噪の中、商店街を走る。


「わっ、わっ!」


腕を引っ張られて、つんのめるように走り出す。


「ゆっくり行きましょうよぉっ」
「走った方が暖かいぞ」
「今日は走らなくてもあったかいですよっ」


栞の言葉を背中に聞きながら、人混みの商店街を走り抜ける。


「ゆっくり行ってくれないと、祐一さん嫌いですっ!」


栞の非難の声をきっぱりと無視して、やがて目的の場所まで辿り着く。


「着いたぞ」
「・・・つ、つきました」


けほけほと息を詰まらせる栞。

それでも少し落ち着いたようで、ゆっくりと深呼吸している。


「アイスクリームはとりあえずここでいいだろ?」


商店街の奥の方にある、洋菓子専門店。


「わー」


店の看板を見上げて、目を輝かせている。


「ここのアイスクリーム、すっごくおいしいんですよ」
「そうなのか? この前、名雪がシュークリームを買ってて、それで知ったんだ」
「ここはシュークリームもおいしいんですよー」
「栞、涎でてるぞ」
「出てないですっ!」
「冗談だ」
「そんな通りすがりの人が誤解するような冗談言わないでください・・・」
「さて、じゃあ買ってくるか」
「あっ、私、チョコチップがいいですっ」


さっきまでの不機嫌な表情から一変、無邪気に注文を告げる。

見ていて思わず笑みがこぼれるくらい、ころころと表情が変わる。

最初に出会った頃の、どこか不思議な浮世離れした雰囲気は、今では微塵もなかった。

おそらくこれが、本来の栞の姿なんだと思う。


「どうしたんですか?」
「いや、何でもない」
「ふーん・・・」
「そんなことよりも、早く並ぶぞ」
「あ・・・はいっ」


さすがにうまいというだけあって、店の前にはちょっとした人だかりができていた。

もっとも、この季節にアイスクリーム目当てで並んでいるのは、俺とその横の女の子くらいのものだ。


「・・・祐一さん」


じーっとショーケースに貼りついて、色とりどりのアイスクリームのケースを見つめる栞。


「・・・やっぱり、ストロベリーにしてもいいですか?」
「どうせなら、両方食べたらいいんじゃないか?」
「両方はちょっと・・・太りますから」


ガラスに映った顔が、恥ずかしそうに俯く。


「なんだ、そんなこと気にしてたのか?」
「そんなこと・・・じゃないです。 きわめて重要なことです」
「そういうものなのか・・・?」
「そういうものなんです」


神妙な顔で頷く。

やがて、並んでいた客も流れて俺たちの番が回ってきた。


「いらっしゃいませ。 何になさいますか?」
「えっと、バニラひとつ」
「はい」
「それと・・・」


まだ迷っている栞を促す。


「ストロベリーひとつ・・・と、チョコミントも」
「はい。 しばらくお待ちください」


軽くお辞儀をして、クーラーボックスを開ける。

そして、器の中のアイスクリームを機械ですくい取ってカップに入れていく。


「・・・太るから1個にするんじゃなかったのか?」
「・・・これくらいなら、大丈夫です・・・たぶん」
「ふっ・・・だといいけど」
「なんですか、その意味深な『ふっ』は」
「ふっ・・・」
「・・・祐一さん、嫌いです」


ぽつりと呟く。


「お待たせしました」


アイスクリームの入ったカップを袋に入れて、店員が戻ってくる。

中にドライアイスが入っているのか、少し開いた袋の口から白い蒸気がカウンターに漏れる。

とても冷たそうだった。

アイスクリームの袋を見て一瞬で機嫌を直した栞が、店員から嬉しそうに受け取る。


「ありがとうございました」


おそらく久しぶりにアイスクリームをすくったであろうと思われる店員に見送られて、俺と栞は店を後にした。


「さて、問題はどこで食うかだな」


アイスクリームだけなら、別に歩きながらでもいいのだが(もっとも、間違いなく奇異の目で見られるが)弁当もあるとそうはいかない。


「・・・今日は、祐一さんの知っている場所に行きたいです」
「俺の知ってる場所なんて、ほとんど限られてるぞ」
「そうですか?」
「商店街と、学校と、それと居候先の家・・・あとは、栞に教えてもらった公園。 この中で行きたいところなんて、あるのか?」
「祐一さんの家がいいです」
「俺の家・・・?」


予想外の答えに戸惑っていると、栞が真剣な表情でこくんと頷く。


「はい。 祐一さんの住んでいる家を見てみたいです」
「普通の家だぞ」


見たって特別面白いことがあるとは思えないけど。


「それでもいいです」
「商店街の方が12倍は面白いと思うけど」
「どんな基準ですか?」
「何となく」


くすっと微笑みながら言葉を続ける。


「それでも構いませんよ」
「そうだな・・・わかった」
「祐一さん、変なこと考えてませんよね?」
「さて、行こうか」
「わー。 質問に答えてないですー」
「そうと決まれば、走って行くぞ」
「どうして、そんないきなり乗り気なんですか?」
「腹が減ったんだ」
「・・・ホントですか?」
「栞の弁当、楽しみだな」
「・・・そう言っていただけると、嬉しいですけど」
「というわけで、行こうか」
「・・・はい」


アイスクリームの袋を抱えたまま、先に歩き始める。


「わ。 待ってくださいー」


慌てて、栞もついてくる。


「お弁当、重いんですけど・・・」
「俺だって、アイスクリームが重いんだ」
「ぐす・・・少しは持ってください・・・」


情けない声を上げる栞と一緒に、商店街を抜ける。


「仕方ないな、半分だけ持ってやるから」
「はいっ」


栞の、屈託のない笑顔と一緒に・・・。


・・・。

 

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「ついたぞ」
「ここですか?」
「どうだ、見るからに普通の家だろ?」
「ここで、祐一さんは暮らしているんですね・・・」


栞が、感心したように水瀬家の門を見ていた。

商店街からここまでは、それほど遠くはない。

見上げると、まだまだ陽は充分に高かった。

昼飯を食うには、少し遅い時間ではあるが・・・。


「・・・・・・」


見上げた視線を戻すと、栞はまだ家の外観を眺めていた。


「・・・・・・」


この風景を、心のどこかに刻み込むように・・・。

まるで、もう二度とこの場所に訪れることはないと、確信しているかのように・・・。


「・・・少し、寒いですね」


栞が、ストールの裾を合わせる。


「・・・そうか?」


もちろん、寒いことには変わりない。

だけど、今日は風も穏やかで、商店街にいた頃と比べてもさほど差はないような気がした。


「・・・寒い・・・です」


もう一度、栞が呟く。

と同時に、白い息が漏れる。


「こんなところに突っ立ってても仕方ないから、とりあえず中に入るか」
「・・・はい」


栞が、どこか力なく頷いたのを確認して、俺は先に門を開けた。


・・・。


「・・・お邪魔します」


玄関にあがった栞が、遠慮がちに声を出す。


「・・・あら?」


ちょうどその時、リビングのドアが開き、中から秋子さんが顔を出す。


「お帰りなさい、祐一さん」
「ただいま・・・。 ちょっと、お客さん来てるんだけど」


半歩横に移動して、後ろの栞を紹介する。


「おじゃましています」


ぺこっと頭を下げて、挨拶をする栞。


そして顔を上げる。


「・・・・・・」


その顔を、秋子さんがどこか真剣な眼差しで見つめている。


「えっと・・・」


秋子さんが、微かに首を捻る。


「あ・・・栞です。 美坂栞
栞ちゃんね」
「はい」
「何もない家ですけど、ゆっくりしていってね
「ありがとうございます」


もう一度、ぺこっとお辞儀をする。


「2階にいます」


秋子さんに断ってから、栞を促す。


栞ちゃん


階段を上がろうとする栞を、秋子さんが呼び止める。


「・・・もし、祐一さんに変なことをされそうになったら、悲鳴をあげてくださいね」


秋子さんがひどいことを言う。


「はい。 分かりました」


栞も素直に頷く。


「・・・・・・」


少し悲しかった。


「冗談ですよ」


階段の上で、栞は笑顔だった。


「一番奥のドアが、俺の部屋だから」
「一番奥ですね? 分かりました」


とたとたと、階段をのぼっていく。


「祐一さん・・・ちょっと」
「はい?」


振り向く俺を、真剣な表情の秋子さんが見つめ返していた。


「・・・どうしたんですか、秋子さん?」
「・・・栞ちゃん、どこか悪いの?」


真剣な顔そのままで、そう問いかける。


「・・・全然、そんなことないですよ」
「そう・・・それならいいのだけど・・・」
「・・・・・・」
「ごめんなさいね。 変なこと訊いてしまって」


頬に手を当てて、いつもの穏やかな表情に戻っていた。


「・・・いえ」


俺は低い声で小さく頷きながら後ろを向く。

そして、階段を駆け上がった。


「あ・・・祐一さん」


2階にあがると、ドアの前に栞の姿があった。


「先に入ってても良かったのに」
「そういうわけにもいかないですから」
「変に律儀だな」
「普通です」


栞が横に移動して、場所をあける。

俺を先頭に、栞と一緒に部屋に入った・・・。


・・・。

 

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「・・・ここが、祐一さんの部屋ですか」
「ちゃんと片づいてるだろ?」
「私の部屋よりも綺麗です」
「まだ、1ヶ月も暮らしてないからな」


ふたりで座れるような机もないので、部屋の中央に弁当箱やアイスクリームを置く。


「よく考えたら、座布団もないな、この部屋・・・」
「私は平気ですよ。 床の上でも」


そう言って、ベッドにもたれるように、ちょこんと星座する。


「冷たくないか?」
「雪の上よりは暖かいです」
「確かにな」


俺も、その向かいに座る。

しかし、栞の短いスカートでは、床の上はいかにも寒そうだった。


「ストールを下に敷いたらどうだ?」
「ストールは、敷くものではないです。 それに、このストールは私のお気に入りですから」
「だから、いつも羽織ってたのか」
「1枚しか持っていないんですけどね」
「今度、俺が編んでやろう」
「わー、嬉しいですー」
「いや、冗談だけど」
「わー、嬉しいですー」
「いや、だから・・・」
「祐一さんの手編みのストール、楽しみです」
「・・・俺、編めないって」
「大丈夫ですよ、本を読めばできるようになります。 時間はかかるかもしれませんけど、いつか、きっと・・・」


寂しそうに最後の言葉を締めくくる。

その表情の意味を、俺は知っている。

栞との本当に他愛ない話・・・。

そんな小さな幸せの時間さえ、白い肌の少女には残されていなかった。

約束の時間は、明日で終わる。


「栞」
「はい・・・きゃっ!」

 

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栞の小さな体が、後ろに倒れる。


「・・・祐一さん」


すぐ横で、栞の戸惑うような声が聞こえる。

気がついたとき、俺は栞の体を抱きしめていた。


「・・・祐一さん、苦しいです」


力一杯抱きしめた、栞の小さな体・・・。

それは思った以上に小柄で、そして、柔らかかった。


「・・・祐一さん、恥ずかしいです」


言葉通り恥ずかしそうに、顔を赤く染める。


「もう少しだけ・・・」


このままでいたかった。


「私、すごく恥ずかしいんですけど・・・」
「・・・・・・」
「でも、分かりました・・・もう少しだけです」


静かだった。

動くもののない部屋で、栞の鼓動と時計の動く音だけが聞こえる・・・。


「このまま、時間が止まったらいいのに・・・」


そんな栞の言葉さえ、遠くに感じながら・・・。


「栞、キスしたい」
「わ。 ダメですよ・・・」


栞の言葉を、途中で重ねた唇が覆う。

 


「・・・・・・」


栞は真っ赤になって、ぎゅっと目を閉じていた。


「・・・祐一さん、ひどいです・・・そんなことする人、嫌いです」
「俺は、好きだけど」
「・・・・・・」
「栞のこと、ずっと好きでいる」
「・・・・・・」

「約束する」
「祐一さん、恥ずかしいこと言ってますよ・・・でも・・・嬉しいです・・・」


真っ赤な顔で涙ぐみながら、栞が精一杯に微笑む。

俺は、そんな栞が本当に愛おしく思えた。

そして、栞を好きでいられたことが、本当に嬉しかった。

 

「わ・・・」


俺は、栞の唇にもう一度自分の唇を重ねた。

触れあった部分から、栞の体温が流れ込む。

間近で感じる、栞の息づかい。

やがて、どちらからともなく唇が離れた・・・。


・・・。


「・・・いきなりでしたので、びっくりしました」


ベッドから起きあがって、栞が息をつく。


「ごめんな・・・栞」
「祐一さん、私は謝られるようなことをされた覚えはないですよ」


顔を真っ赤に染めて、恥ずかしそうに微笑む。


「私、嬉しかったですから・・・」


その言葉が、その笑顔が、俺には嬉しかった。

だけど・・・。


「お腹、空きましたよね?」


残された時間、あと僅か・・・。


「よく考えたら、朝食べたっきりだよな」
「たくさんありますから、いっぱい食べてください」


笑顔のまま、弁当箱の包みをほどく。


「・・・また、えらく豪快な弁当だな」


中から、色とりどりの具で満たされた弁当が顔を出す。


「でも、この前よりは少しだけ少ないですよ」
「・・・そうかぁ?」


何種類あるのか判別できないくらい大量の具。

ほとんど丸ごと入っている果物。

炊飯器の中身を全て移植したかのようなご飯。

そんな盛りだくさんの巨大弁当箱が、3つ・・・。


「ですから、少しだけ、です」


栞が微笑む。


「こうなったら、全部食ってやる」
「私も応援します」
「・・・他に助っ人を呼んでもいいか・・・?」
「ダメですよ、祐一さんが食べてください」
「できれば、応援だけじゃなくて、栞も手伝ってくれ・・・」
「私は、アイスクリームがありますから」


嬉しそうにアイスの袋を開ける。


「こうなったら、倒れるまで食ってやる・・・」


箸を持って、ひとつ目の弁当箱に取りかかる・・・。


「どうですか?」
「うん。 前よりもうまくなってる・・・」
「良かったですー」


ほっと、息をつく。

笑顔の向こう側にある、悲壮な決意から目を逸らして・・・。

俺は栞の弁当箱に視線を戻す。

リンゴのうさぎは、この前よりはうさぎだった・・・。


・・・。


約束通り弁当を空にして・・・。

もう動けないとその場で倒れる俺に、栞が膝を貸してくれる・・・。

見上げた視界に映るものは、見慣れた天井と、少女の笑顔だった・・・。

栞の膝枕の感触を楽しみながら・・・。

やがて、陽は落ちていく・・・。

また、1日が終わる・・・。


・・・。


1月31日 日曜日

 

・・・。


目が覚めていた。

カーテン越しに差し込む光は眩しくて、今日が良い天気であることを物語っていた。

体をゆっくりと起こして、壁にかかっているカレンダーを見る。

1月のカレンダーの、1番下の数字。

1月31日。

1月最後の日。

そして、栞と約束した1週間が、終わりを告げる日・・・。

栞と会える、最後の日。

そんな1日が、まるで何事もなかったかのように、ただゆっくりと動き出す。


・・・・・・。


・・・。

 

「今日もいいお天気です」


商店街を歩きながら、隣で微笑む少女が、ぐっと背伸びをする。


「私の日頃の行いですね」
「でも、夜は雪になるらしいぞ」
「夜は、祐一さんの日頃の行いです」
「どうして、そんな都合よく分かれるんだ」
「日頃の行いがいいからです」


たおやかに微笑んで、そしてもう一度伸びをする。


「本当に、いいお天気ですね。 それに、やっぱり外は空気が気持ちいいです。 家の中の、25倍は気持ちいいです」
「どんな基準だ、それは」
「それくらい、外の方がいいってことですよ・・・」
「・・・栞?」
「はい?」
「・・・さっきから気になってたんだけど・・・ちょっと顔色悪くないか?」
「いつも通りですよ」


そう言って、首を傾げる。

しかし、そんな何気ない仕草も、どこか憂いを帯びて見えた。


「・・・・・・」
「わ。 じっと見ないでください・・・ちょっと恥ずかしいです」


照れたようにふいっと横を向く。


「・・・栞、ちょっと待て」


栞の手を掴む。


「・・・・・・」


栞の、小さくて柔らかい手・・・。


「もしかして、熱があるんじゃないか・・・?」


その手は、明らかに熱を帯びていた。


「・・・えっと」
「えっと・・・じゃない!」
「ちょっと、だけです・・・」
「でも・・・」
「本当に、ちょっとだけですから・・・」


普通の人にとっては、ちょっとだけかもしれない。

しかし、栞にとっては・・・。


「今日は、ずっと祐一さんと一緒にいます」
「・・・・・・」
「お願いします・・・」


栞にとっても、俺にとっても最後の日・・・。


「本当に大丈夫なんだな?」
「はい」
「分かったよ・・・」
「嬉しいですっ」


栞の表情が、ほころぶ。


「そのかわり、本当に無理はするなよ・・・?」
「はいっ」
「よし、じゃあまずはどこに行く?」
「ゲームセンターがいいです」
「この前の雪辱戦か?」
「はいっ。 今度は負けませんっ」
「じゃあ、今回も負けるにジュース1本」
「祐一さん、ひどいですー」
「だったら、栞は勝つ方にジュース1本だな?」
「わ、わかりましたっ」
「楽しみだな」
「・・・負けないですっ」


栞の笑顔と、その先にある現実の姿・・・。

最後まで、いつもと何も変わらない日常の中を、たったふたりで歩いていく・・・。

それが、少女の望みだから・・・。

俺が栞にしてやれる、たったひとつのことだから。


・・・・・・。


・・・。


流れるように、時間が過ぎていた。

朝。

白く光る粉雪が舞い落ちる街で、

約束の時間よりも早く着いた俺を、白い帽子を被った少女が遅いと言って笑っていた。

昼。

吹き荒ぶ木枯らしにコートの襟を合わせる人の行き交う街で、

お腹をすかせたふたりが、お互いの顔を見合わせながら、どちらからともなく笑い合っていた。

夕暮れ。

帰路を急ぐ大勢の人が、たったひとつの色に染まる街で、

大きな流れに逆らうように、手を繋いだふたりが赤い雪に影法師を落としていた。

そして、夜。


・・・。


「見てください祐一さん、息がこんなに白いですよ」


口元に当てた手のひらの中に、何度も息を吹きかけながら、

上目遣いに俺の顔を覗き込む少女が、陽の落ちた闇の中でたおやかに微笑んでいた。


「祐一さん」


深呼吸をするように息を吐きながら、うっすらと朱を帯びた顔を上に向ける。


「・・・手、繋ぎませんか?」
「そうだな」


ストールを押させる栞の白い手。

ゆっくりと差し出される小さな手に、俺の手のひらを重ねる。

栞の手は、柔らかくて、温かくて・・・。

そして、栞の体にまだ温もりが残っていることに安堵の息を吐いて・・・。

そんなことを考えてしまった自分にどうしようもなく憤りを感じて・・・。

まるでそんな心の内を見透かしたように・・・。

栞は、穏やかに微笑んでいた。


・・・。


淡い証明に照らされた公園。

お互い無言だった。

どちらからともなく向かった先は、静寂の闇を流れる水の音だけが響く場所。

表面の凍った雪をぱりぱりと踏み割りながら、俺と栞はふたり、その場所に立っていた。

雪の結晶に公園の照明が反射して、白い絨毯がきらきらと輝いている。

 

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「・・・・・・」


そんな景色を、栞はただ無言で見つめていた。

栞に言葉はない。

だけど、胸は微かに上下し、小さな唇からは白い息が規則正しく吐き出されていた。


「少しだけ、疲れました・・・」


俺の体にもたれるように寄りかかり、力なく言葉を吐き出す。


「そうだな・・・今日は・・・たくさん歩いたもんな」
モグラさんも叩きました」
「そうだな・・・上手になったな、栞」


俺はこみ上げる感情を押し込めて、努めて平常に言葉を吐き出す。

少女の白い息がすぐ間近で闇にとける。


「・・・どうしたんですか?」


俺にも、そして栞自身も気づいていた。


「・・・あはは、少しだけじゃないかもしれません」


すでに栞の体は、この季節の風に耐えられる状態ではなかった。


「きっと、遊びすぎだな・・・」
「・・・そうですね」


力なく笑った表情が、痛々しかった。


「祐一さん・・・」


栞が、真剣な表情で俺に向き直る。


「もう一度、訊いてもいいですか?」

 

真っ白な息を吐きながら、精一杯の表情で、言葉を紡ぐ。


「・・・1週間前のこと・・・後悔していませんか? 私を受け入れたこと・・・私と一緒にいること・・・今日という日を迎えてしまったこと・・・後悔、していませんか?」
「約束しただろ・・・栞。 俺は後悔なんてしていないし、これから先もずっと同じだ。 今、目の前に栞がいることが、何より嬉しいんだ。 俺は、最後まで栞のすぐ隣にいたいと思っている」
「・・・祐一さんは、強いです」


栞が、笑ったような気がした。


「強いのは栞の方だ」
「それは、違いますよ・・・」


そう言って、ゆっくりと左手の袖をまくる。


「今はほとんど残っていないですけど・・・」


そして、差し出した左手・・・。


「私、自分の手をカッターナイフで切ったことがあるんです」
「・・・・・・」
「祐一さん、最初に出会った時のこと・・・覚えていますか?」


食い逃げをしたあゆと一緒に、ただ闇雲に走った先で、俺は栞と出会った。

雪の上に座り込んで、呆然と俺たちの顔を見上げていた。

散乱した紙袋の中身を、拾うこともなく・・・。


「その日の夜に、私は手首を切ったんです」
「・・・・・・」


言葉はでなかった。

ただ、呼吸に合わせて、白い息が風に吹かれて流されていった・・・。


「3学期の、始業式の日でした。 自分の部屋からお姉ちゃんを見送って、そして、私も部屋を出ました。 普段は、ほとんど使うことのできなかった、このストールを羽織って・・・。 このストール、お姉ちゃんから貰った物なんです。 ちょうど1年前・・・プレゼントをせがんだ私に、お姉ちゃんが特別にって言って、1日早く渡してくれたんです。 ほとんど、使うことはなかったですけど・・・」
「・・・・・・」
「商店街のコンビニでカッターナイフを買って・・・必要もないのに、他にも色々な物を買って・・・大きな紙袋を持って、最後の雪景色を楽しみながら家に帰りました・・・その途中です。 突然、雪が降ってきて・・・そして、祐一さんと、あゆさんに出会ったんです」
「・・・そう・・・だったのか」


あの時の、何かに怯えたような栞の表情・・・。

その向こう側にあった、悲壮な決意・・・。


「あの夜のこと・・・私、覚えています・・・電気の消えた、自分の部屋で・・・たったひとりで・・・静かでした・・・何も聞こえなくて・・・。 何も見えなくて・・・。 何も考えられなくて・・・。 この世界に、ひとりだけ取り残されたような感覚・・・。 自分だけが、場違いな所に迷い込んでしまったような・・・そんな、夜でした・・・」


・・・。

 

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「家に帰って・・・雪で濡れた紙袋を開けて・・・黄色いカッターナイフを握って・・・銀色の刃を押し出して・・・自分の左手に宛って・・・ゆっくりと呼吸をして・・・右手に力を入れて・・・左手に、赤い筋が走って・・・それでも、何も考えられなくて・・・ふと、笑い声が聞こえたような気がして・・・それは、昼間出会った、あの人たちの声で・・・あの笑顔を、あの楽しそうな声を思い出して・・・今の自分がどうしようもなく惨めに思えて・・・つられるように笑って・・・本当に久しぶりに笑って・・・次の誕生日まで生きられないと、お姉ちゃんに教えられた時にも流さなかった涙が流れて・・・笑って出たはずの涙が止まらなくて・・・もう、おかしくもないのに涙が止まらなくて・・・赤く染まった左手が痛くて・・・自分が、悲しくて泣いていることに気づいて・・・そして、ひとしきり笑ったら・・・腕、切れなくなってました」
「・・・・・・」


小さな少女の、悲痛な言葉・・・。

それでも、少女は笑顔で・・・。


「もしかしたら、これが奇跡だったのかもしれませんね・・・」


その笑顔が痛かった・・・。

目の前にある現実を、ただ受け入れるしかない・・・

そう信じている・・・栞の心が痛かった・・・。


「それは、栞の強さだ・・・」
「・・・そんなこと・・・ないですよ・・・。 私は、弱い人間ですから・・・他人にすがらないと生きていけない、弱い人間なんです・・・」
「それでいいじゃないか・・・」
「・・・・・・」
「誰だって、人にすがらないと生きていけないんだから・・・」
「・・・・・・」
「起きる可能性が少しでもあるから、だから、奇跡って言うんだ」
「・・・私には、無理です」
「だったら、俺と約束してくれるか?」
「・・・約束・・・ですか?」
「もし奇跡が起きたら、学食で昼飯おごりな」
「・・・分かりました。 約束します」
「俺は、いっぱい食うぞ」
「その時は、たくさん用意します」
「楽しみにしてる」
「・・・・・・」


手を繋いだまま、ゆっくりと、雪の中を歩く。


「・・・祐一さん・・・」


握った手に、僅かに力が入る。

 

「今日は楽しかったです・・・」
「俺も楽しかった」
「今度、行きたいところがあるんです・・・。 この前、祐一さんと一緒に入った喫茶店に、もう一度行きたいです・・・それから、祐一さんと一緒に、商店街を歩きたいです」
「そうだな・・・歩くだけなら、ただだし・・・な・・・」
「もちろん、買い物もしますよ」
「俺も居候の身だからな・・・あんまり金持ってないぞ・・・」
「ダメですよ、たくさん買って貰いますから」
「・・・そう・・・だな・・・」
「欲しいものもあります・・・」
「・・・ああ」
「・・・それに・・・昨日、新しいお友達ができたんです・・・他のクラスの人ですけど・・・今度、一緒に遊びに行こうって・・・誘ってくれたんです・・・」
「・・・そっか・・・よかったじゃないか・・・」
「・・・はい」
「・・・もうすぐで、新しい学年だな」
「私はたぶん・・・もう一度1年生です・・・」
「大丈夫・・・栞だったら、充分1年生でも通用するから・・・」
「・・・それって、どういう意味ですか・・・」
「小さいからな」
「・・・そんなこという人、嫌い、ですよ・・・」
「・・・そうだな」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「行きたい場所・・・」
「・・・・・・」
「やりたいこと・・・」
「・・・・・・」
「まだまだ・・・たくさん・・・たくさん・・・たくさん・・・あるのに・・・」
「行きたい場所があるんだったら、俺が連れて行ってやる。 やりたいことがあるんだったら、俺も一緒についていってやる」
「でも・・・私・・・祐一さんを困らせることばかりしていました・・・それなのに・・・最後の最後まで・・・迷惑をかけていますよね・・・」
「俺は迷惑だなんて思っていない」
「・・・本当に・・・優しいですね」
「俺は優しくなんかないって」
「それは嘘です」
「自分に正直なだけだ」
「・・・・・・嬉しいです・・・本当に・・・」


雪が、強くなっていた・・・。

舞い降りる光の粒が、空いっぱいに広がっている。

栞の手をぎゅっと握って・・・。

本当に好きだと言える人と一緒に・・・。


「・・・あれ・・・」


横を歩いていた栞の体が、風に流されるように、大きく揺らぐ。


「・・・あはは・・・歩けないみたいです・・・」


崩れかけた栞の体を、できるだけ優しく支える。


「ありがとうございます・・・」


肩にもたれかかったまま、それでもまだ笑顔で、俺の顔を見上げる。


「少し、横になりたいです・・・体、熱いです・・・」
「そこのベンチまで連れていってやるから・・・だから・・・」
「熱いです・・・」
「歩けないんだったら、俺がおぶってでも連れていってやるから」
「私、芝生の上がいいです・・・。 雪の上、冷たそうです・・・冷たくて、綺麗で・・・私・・・雪が好きですから・・・だから・・・」
「分かった・・・」


すでに、自分の力では立つこともできなくなっていた栞の体を、雪の上にゆっくりと横たえる。


「・・・ありがとうございます・・・祐一さん・・・」


微笑むその横に、俺も体を並べる。

 

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見上げた夜空からは、絶え間ない雪・・・。

すぐ隣には、雪に負けないくらい白い肌の少女・・・。

繋いだ手から伝わる温もりだけが、すべてだった。


「祐一さんと出会って、たったの3週間でしたけど・・・」


白い吐息と一緒に、ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぐ・・・。


「私は、幸せでした・・・。 夕暮れの街で、初めて出会いました・・・。 雪の舞う中庭で、再会しました・・・。 一緒にアイスクリームを食べました・・・。 ふたりで商店街を歩きました・・・。 がんばってモグラさんを叩きました・・・。 噴水のある公園を、一緒に散歩しました・・・。 夜の公園で、初めて好きな人の温もりを知りました・・・。 制服を着て、学校に行きました・・・。 好きな人と一緒に、学食でカレーライスを食べました・・・。 好きな人のために、一生懸命お弁当を作りました・・・。 喫茶店で、大きなパフェを食べました・・・。 その夜、本当に久しぶりに、お姉ちゃんとお話しできました・・・そして」


俺の手を、ぎゅっと握りしめる。


「たった3週間の間に、これだけたくさんのことがありました・・・全部、大切な思い出です・・・でも・・・おっきな雪だるまを作れなかったのは・・・残念です・・・私・・・たぶん、死にたくないです。 本当は、祐一さんのこと好きになってはいけなかったんです・・・でも・・・ダメでした・・・」


いつも笑顔で、ずっと笑っていた少女・・・。

最後の最後まで、流れ出る涙をこらえながら・・・。


「私、笑っていられましたか? ずっと、ずっと、笑っていることが、できましたか?」
「ああ、大丈夫だ・・・」
「・・・良かった」


螺旋の雪が、降っていた。

真っ黒な雲から、溢れ出るように流れていた。

聞こえてくるのは、水を叩く噴水の音だけ。

時計の針が回るように、真っ白な雪が螺旋を描いて空に舞っていた。


「あと、どれくらいでしょうか・・・」
「そうだな・・・」


街灯に照らされた、大きな時計・・・。


「これで、私もやっと祐一さんのひとつ下です・・・」


あと、数分で日が変わる・・・。

新しい時間。

新しい月。


「・・・ちゃんと、プレゼントだって買ってあるんだ」
「・・・ほんと・・・ですか・・・?」
「・・・高かったんだからな」
「・・・嬉しいです・・・」
「でも、まだだ・・・」
「・・・そうですね・・・」
「あの時計の針が、0時をさすまで・・・」
「・・・もう・・・少しですね・・・」
「そうだ・・・もう少しだ・・・」
「・・・はい」


そして・・・。


「・・・栞」


・・・。


「誕生日、おめでとう・・・」

 

 

 


====================


夢を見ていた。

とても仲のいい、姉妹の夢。

姉は、誰よりも妹を可愛がっていた。

妹は、そんな姉が大好きだった。

一緒の制服を身に包んで・・・

同じ学校に通って・・・

温かい中庭で弁当を広げて・・・

そして、楽しそうに話をしながら、同じ家に帰る。

そんな些細な幸せが、ずっとずっと続くという・・・

・・・悲しい・・・夢だった・・・。


=====================

 

 

 

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・・・。


誰かの声が聞こえる・・・。

すぐ近くから・・・。

大好きな人・・・。

その人の声・・・。

たったひとつの言葉・・・。


『さようなら、祐一さん』


そして、唇に触れる、温かな感触を残して・・・。

声は、聞こえなくなった・・・。


・・・。


夢から覚めたとき・・・。

その場所に、栞の姿はなかった。

俺の体を包み込むようにかけられたストール・・・。

唇に残る、柔らかな感触・・・。

そして・・・。

降り積もった雪の上に、1冊のスケッチブックが残されていた。

栞への誕生日プレゼント・・・。

そこに描かれた、たったひとつの似顔絵・・・。

目が細くて・・・。

口が大きくて・・・。

色がはみ出していて・・・。

相変わらず下手くそで・・・。

誰を描いたのか分からないような・・・。

そんな、どうしようもなく滑稽な似顔絵・・・。

だけど・・・。

俺はその似顔絵に、ひとりの少女の・・・。

髪の短い、白い肌の少女の・・・。

穏やかな笑顔を重ねて・・・。

そして、最後の言葉・・・。


『さようなら、祐一さん』


その言葉の意味を、知っていて・・・。

俺は・・・。

その場所に崩れ落ちることしか、できなかった・・・


・・・。

 

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『わたし、笑っていられましたか? ずっと、ずっと、笑っていることができましたか?』

 


・・・・・・。

 

・・・。

 


ゆっくりと、

本当にゆっくりと、

見慣れた街並みが姿を変えていた。

街を覆っていた薄暗い雪雲は晴れ、屋根に積もった雪が、路上に流れ落ちる。

うららかな日差しが、開け放たれていたカーテンから差し込み、薄闇の部屋をオレンジ色に浮かび上がらせていた。

穏やかな目覚めだと思った。

あれだけ嫌だった寒風も、緩やかな春風に姿を変えつつある。

後、ほんの少しで、本当の春が訪れる。

白一色に彩られた光景が嘘のように、新しい姿を見せる街並み。

それは、眩しくて、穏やかで、そして俺の知らない姿だった。

布団から身を起こし、制服に着替えて、そして部屋を出る。

相変わらず閑散とした朝の風景にため息をつきながら、名雪の部屋をノックする。

しばらくの沈黙。

曖昧な返事と共に、ゆっくりと扉が開く。

そして、間延びした朝の挨拶。

最近は珍しく寝起きがいいのだという。

やはり、それも春の日差しのせいだろうか。

もう一度着替えに戻る名雪を残して、俺はひとりで階段を降りた。

そして、食卓では秋子さんと顔を合わせて、朝の挨拶。

この冬の間、ずっとこれが朝の姿だった。

小さな変化はあった。

だけど、そんな小さな変化は、全て白い雪に覆われて、まるで風景が凍りついたように同じことの繰り返しだった。

退屈ではなかった。

退屈どころか、毎日が楽しかった。

名雪を起こして、

秋子さんの用意してくれた朝ご飯を食べて、

名雪がのんびりしているものだから時間がなくなって、

名残惜しそうに食器を見つめる名雪の手を引っ張り学校に向かう。

雪の街並みを歩き、

舞い落ちる粉雪の中、

いつの間にかすっかり慣れてしまっていた通学路。

名雪と一緒に学校に向かうこと。

今まで一度も顔を合わせたことのなかったクラスメートと一緒に授業を受けて、

休み時間にはくだらない話で盛り上がる。

そして・・・。

ひとり、雪の中庭に立つ少女。

寂しそうなまなざしで、

全てに怯え、

全てを克服して・・・。

そして悲しみを受け入れて・・・。


『そうですね、奇跡でも起きれば何とかなりますよ』


雪のように白く、


『起こらないから奇跡っていうんですよ・・・』


楽しいときには笑って、

怒ったときには拗ねて、

寂しいときには甘えて、

だけど、悲しいときには決して泣かなかった。

涙を凍らせたように、緩やかに微笑んでいた。


なぁ、栞。

俺は・・・約束守ったぞ。

もうすぐ、長かった冬は終わりを告げる。

誰もが待ち望んでいた瞬間。

もうすぐ。


「・・・名雪
「どうしたの? 祐一」
「春、好きか?」
「うんっ」


白いかけらが舞い落ちていた。

見上げると、どこまでも青く広い空。

名残雪さえ姿を消した街並み。

もう一度、ひらひらと何かが舞い落ちる。

名雪が手のひらをかざしてそのかけらを受け止める。


「・・・桜」


珍しいものを見つけた子供の様に無邪気な笑顔で、自分の手のひらを見つめる。

もう春なんだな・・本当に。


「俺は、冬の方がよかったな」
「どうして?」


不意に呟く俺に、不思議そうなまなざしを送る。


「祐一、寒いの苦手だったのに」
「寒いのは今でも嫌いだけど・・・」


だけど・・・。

雪だるま作れないのは、残念だな。


授業中。

あれだけ室内に響いていた空調の音も消え、黒板をノックするチョークの音が、一際教室に響いていた。

何気なく顔を上げると、すぐ目の前に英語教師の姿があった。

さすがにこの席だと黒板がよく見える。

もっとも、両端に書かれた文字だけは、光が反射して余計に見えにくいのだが。


「・・・・・・」


席替えがあった。

新しい机は、教卓前の特等席だった。

もっとも、これは自分で希望したことだ。

くじ引きに運を託すより、担任に頼んでこの席にしてもらう方を選んだ。

さすがにこの場所を希望する生徒は他になく、俺の願いはあっさりと叶うことになった。

・・・どうしても、窓際の席だけは嫌だった。

やがて、間延びしたチャイムの音が、昼休みの到来を伝える。

俺はいつものように、財布だけを持って立ち上がる。

名雪の姿を確認して、廊下へ。


「・・・ずっと、学食ばっかりだね」


可愛い色の財布を胸元で抱きしめる。

不満を言っている割に楽しそうだった。


「そう思うんだったら、名雪が弁当でも作ってくれ」
「うん、いいよ。 そのかわり、交互につくるんだよ」
「交互って・・・?」
「もちろん、わたしが作った次の日は祐一が作るの」
「・・・マジか?」
「うんっ」
「しばらく学食でいいや・・・」
「残念」


廊下に落ちる日溜まりの中、幼なじみが緩やかに微笑む。

暖色に浮かび上がる、四角く切り取られた陽光。

生徒の影で賑わう廊下。


「・・・・・・」
「どうしたの? 外ばっかり見て?」
「・・・いや、何でもない」
「ん?」
「行くぞ、名雪っ」
「あ・・・! 廊下は走ったらダメなんだよ・・・」


・・・。


「おーい、名雪、大丈夫か・・・?」


いつも通り手軽ね定食を注文して、カウンターで料理を受け取る。


「・・・ごめん、祐一。先に行ってて・・・」


いつも通り、要領の悪い名雪が食券を渡せず手間取っている。


「だから、一緒に取ってきてやるっていったんだ」


数人の頭越しに、名雪らしき姿に声をかける。

この段階で、すでに名雪の姿は人垣で見えなくなっていた。


「だって・・・」


その後の声は、雑踏にかき消されて届かなかった。


「・・・なんか、今日は特に混んでるよな」


これだけの人に囲まれると、さすがにかなり暑い。


「・・・そういえば、ずいぶん暖かくなったな」


生徒で賑わうカウンターの横。

業務用のクーラーボックス。


「・・・もう、おかしくないよな」


たまには、食べてやってもいいかもしれない。

いくら暖かくなったとはいっても、こんなものを好きこのんで食べる物好きも他にいないだろう。

白く曇った業務用のクーラーボックスを開ける。


「・・・あれ?」


しかし、ボックスの中は空っぽだった。

突然の大人気で売り切れ・・・?


「というか、入荷してないだけだろうな・・・」


考えてみれば当然だ。

その当然のことに、やっと学校が気づいたのだろう。


「・・・まあ、いいか」


もっと暖かくなった時。

もっともっと暖かくなった時。

その時に、また・・・な。


「・・・・・・」


ここの風景も、ずいぶん様変わりしていた。

俺の知っている中庭の景色。

一面の雪に囲まれて、冬の冷たい風に揺れる木々。

相変わらず人の姿はないけど・・・。

それでも、もっともっと暖かくなれば、きっと弁当を抱えた生徒で溢れることになるだろう。


「そうなったら、本当に知らない場所だな・・・」


うららかな風を辿るように、陽光に照らされる校舎を見上げる。

開け放たれた窓ガラスの向こう側に揺れるカーテン。

楽しそうに机を並べて、昼食をとる生徒・・・。


・・・。

 


そして・・・。


「・・・で、何やってんだ、こんなところで」
「来たら、ダメなんですか?」
「・・・家で寝てないと・・・治るものも・・・治らないぞ・・・」
「大丈夫です。 今日から学業再開ですから」
「・・・そうか・・・」
「はい」
「もうすぐ3学期も終わりだぞ・・・」
「はい」
「もう1回・・・1年生確定だな・・・」
「そんなこと言う人、嫌いですよ」
「・・・約束、覚えてるだろうな」
「ちゃんと、覚えてますよ。 だから、ここに来たんですから」
「俺、今日はもう昼食食べたぞ」
「ダメですよ、無理してでも食べてください。 折角、いっぱい買って来たんですから」
「そうだな・・・もう、ずいぶん暖かくなったもんな・・・」
「はい。 やっぱり、寒い時より暖かい時に食べた方がおいしいですから」
「当たり前だ・・・」


暖かな日差しだった。

あの白い風景が嘘の様に、

土の香り、

春の風、

そして、紙袋を抱えた少女。


「起こらないから奇跡っていうんです」
「・・・そうだったな」
「でも・・・」


ひとつ、ひとつ、

確かめるように、


「私・・・嘘つきですよね・・・」


噛みしめるように、


「ああ、そうだ」
「祐一さん・・・」


緩やかな表情が、

ゆっくりと、

本当にゆっくりと、


「こんな時・・・」


今まで決して人に見せたことのなかった表情、

誰も悲しませたくないから、

凍った涙の中に隠していた少女の思い。


「こんな時は・・・泣いていいんですよね・・・?」
「泣いてくれないと俺が困る」
「どうして、ですか・・・?」
「男が先に泣くわけにはいかないだろ」
「あはは・・・そうです、よね」


乾いた地面に、アイスクリームの入った袋が落ちる。

 

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「う・・・うぐっ・・・えぐっ・・・祐一・・・さんっ。 私、本当は死にたくなかったです・・・っ・・・お別れなんて嫌です・・・っ・・・ひとりぼっちなんて・・・嫌ですっ・・・うぐっ・・・えっ・・・ううぅ・・・」


絶対に人に見せなかった、悲しい涙。

冬の雪が溶けるように・・・。

地面に落ちる涙、拭うことなく・・・。


「悲しいときには、泣いたっていいんだ」
「えぐっ・・・ううっ・・・っ!」
「ずっと、今まで我慢してきたんだから」
「・・・はい・・・っ」


栞の小さな体を抱きしめながら、

二度と来ることの無いと思っていた時間を確かめながら、

震える少女の肩に手を重ねながら、

耳元で微かに聞こえる声を聴きながら、

俺は、

春の暖かさを、背中一杯に感じていた。


・・・。

 

==================


夢。

夢が終わる日。

雪が、春の日溜まりの中で溶けてなくなるように・・・。

面影が、人の成長と共に影を潜めるように・・・。

思い出が、永遠の時間の中で霞んで消えるように・・・。

今・・・。

永かった夢が終わりを告げる・・・。

今・・・。

ひとつだけの夢を叶えて・・・。

たったひとつの願い・・・。

ボクの、願いは・・・。


====================

 

 

 

 

真っ白な雲の合間を縫うように、頭上からは眩しい陽光が差し込んでいた。

瞼を閉じても赤く染まる暖かな光。

その眩しさに思わず手をかざしながら、瞳を細め青い天井を仰ぐ。

 

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「動かないでくださいっ」


ぷ~っと頬を膨らませながら、空と同じように青いスケッチブックを抱えた少女が、困ったように声をあげる。

静かな公園に、水面の揺れる音が響いていた。

遠くには、微かに聞こえる人の声。

石畳に浮かび上がる影法師を応用に、無邪気に走り回る子供たちの喧噪。

そのすべてが、一足遅れの春の日差しを心から喜んでいた。


「ちょっとくらい、いいだろ」
「ダメです」


真剣な表情できっぱりと却下される。


「今日は最後までつきあってもらいますよ」
「最後って・・・どれくらいかかるんだ」
「ちゃんと描けるまでです」
「・・・ちゃんとは・・・無理だろ」
「・・・うー」


上目遣いで非難の視線。


「そんなこと言う人、嫌いです」


緩やかに表情を崩して、そして、たおやかな笑顔を覗かせる。


「ひどいことを言った罰です。 やっぱり最後まで動かないでください」
「背中が暑いんだけど・・・」
「寒いよりはましです」
「確かに・・・そうかもしれないな」
「はい」


頷いて、スケッチブックに視線を戻す。

再び訪れる静かな時間。


「祐一さん」


スケッチブック越しに、栞の穏やかな声が聞こえる。


「例えば、ですよ・・・。 例えば・・・今、自分が誰かの夢の中にいるって、考えたことはないですか?」
「何だ、それ?」
「ですから、たとえ話ですよ。 祐一さん、退屈そうでしたから」


自分が、誰かの夢の中にいる・・・。


「俺は、ないな」
「私もなかったです」
「なかった・・・ってことは、今は違うのか?」
「そうですね。 そうかもしれません」
「曖昧すぎて俺には分からないけど・・・」
「私にもよく分からないです。 でも、私はこう考えているんです。 私の、私たちの夢を見ている誰かは、たったひとつだけ、どんな願い事でも叶えることができるんです。 もちろん、夢の中だけですけど」
「どうして、そいつは願いを叶えることができるんだ?」
「最初から願いを叶えることができたわけではないですよ。 夢の世界で暮らし始めた頃は、ただ泣いていることしかできなかった。 でも、ずっとずっと、夢の中で待つことをやめなかった・・・そして、小さなきっかけがあった・・・」
「・・・・・・」
「たったひとつの願い事は、永い永い時間を待ち続けたその子に与えられた、プレゼントみたいなものなんです。 だから、どんな願いでも叶えることができた・・・本当に、どんな願いでも・・・例えば・・・ひとりの重い病気の女の子を、助けることも。 たったひとつだけの願いで」
「・・・・・・」
「どうですか、祐一さん? 今のお話は? ちょっと意味ありげでかっこいいですよね」
「別にかっこよくはないけどな」
「祐一さん、ひどいですー」


拗ねるような表情で、そしてすぐに微笑む。


「・・・そういえば、最近あいつの姿見ないな」


ダッフルコートに手袋姿で、いつも元気いっぱいに走り回って・・・。


「あゆさん、ですか?」
「ああ」


子供っぽくて、そして、無邪気で・・・。


「最後にあゆと会ったのは、いつだったかな・・・」


確かまだこの街が真っ白な雪に覆われていた頃・・・

落ちる粉雪の中で・・・。

最後の言葉は何だっただろう・・・。


「相変わらず、元気にたい焼き持って走り回ってるんだろうな」
「もう、たい焼きの季節じゃないですよ」
「そっか・・・そうだな」


季節は春。

舞い落ちるものは、桜の花びら。

木々を覆うものは、新緑の木の葉。


「栞・・・」


呟いて、俺は一歩を踏み出す。


「わっ。 まだ動いたらダメですっ」


吐く息は空気に溶けて、

青一色の空に、白く、どこまでも広い雲のかけら。

木々は緑の帽子を乗せて、

乾いた地面に影法師が落ちる。


「だ、ダメですよっ」


声と共に、栞の小さな体を包み込むように、

真正面から栞を抱きしめる。

 

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「・・・そんなことする人、嫌いです・・・」


耳元で大切な人の声が聞こえる。

そんな、本当にささやかな喜びの中で、

俺は、温かなぬくもりを感じていた。


「結局、作れなかったですね・・・雪だるま。 残念です」


季節は巡り・・・。

そしてまた雪が降る頃・・・。

その時はまた・・・。


「雪だるま作ろうか」


取り戻した時間、再び。


「折角ですから、おっきいの作りましょう」


色とりどりの陽光、そして、雪解けの泉。


「そうだな。 全長50メートルくらいの作るか」


温かな髪にぽんと手を置き、くしゃくしゃになるくらい乱暴になでてやる。

困った表情を覗かせる少女は、それでも、今まで見た中で一番の笑顔で・・・。

精一杯の笑顔で、

氷結した時間を、

来るはずのなかった時を、

そして、あるはずのなかった瞬間を、


『起こらないから、奇跡って言うんですよ』


凍った涙、溶かすように・・・。

 

 

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「はいっ」

 

・・・。

 

 

 


美坂栞編 END

Kanon【11】

 

・・・。


~1月21日 木曜日の途中から~


今日は4時間連続で座りっぱなしだった。


「お疲れさま」
「・・・やっと昼休みだな」
「わたし、学食行ってるけど・・・祐一はやっぱり来ないんだよね?」
「・・・そうだな」


いつもなら、俺の向かう先はひとつだった。

この時期には誰も居ないはずの場所。

ただ一面の雪に囲まれた、寂しい空間。

だけど俺は・・・。


『ごめんなさい、です・・・』


「・・・今日は・・・。 ・・・やっぱり、学食には行かない」


自分でも、どうしてそう答えたのか分からなかった。

もう、あの場所には本当に誰も居ないと分かっているのに・・・。


「・・・悪いな、名雪
「ううん、いいよ」
「なんか嬉しそうだな」
「そうかな?」
「顔が笑ってるぞ」
「えっとね・・・。 祐一らしいな、と思ったんだよ」
「どういう意味だ?」
「わたしにも分からないよ。 何となく、だよ」


一度言葉を区切ってから、真剣な表情で俺の顔をじっと見る。


「でもね、今日の祐一、ちょっと元気がなかったから心配してたんだよ」
「・・・そうか」


そういえば、朝からそんなことを言っていたな。

自分ではいつもと同じでいるつもりなのだが、この名雪と秋子さんには通用しないらしい。


「・・・じゃあ、ちょっと行ってくる」
「うん」


・・・。


たくさんの生徒が、扉の前を通り過ぎていく。

そんな中で、俺だけがその扉を押し開けて外に出た。


・・・。


まず視界に飛び込んでくるのは、雪。

地面に、木の枝に、花壇に、見渡す限りの場所が白く覆われていた。


「・・・・・・」


足跡をつけることさえためらわれるような、真っさらの雪。

真上から降り注ぐ太陽の光が、雪の表面に乱反射していた。

寂しくて、冷たくて、そして誰もいない場所。

その風景の中に、白い肌の少女の姿はなかった。


「・・・・・・」


時間が過ぎていく。

見渡す光景は、影の位置が微妙に変わっていること以外、何も変化がなかった。


「・・・・・・」


・・・ざっ。


雪を踏む音。

変化のなかった景色が変わる。

 

 

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「・・・・・・」


その足音の先に、ひとりの生徒が立っていた。


「何やってんだ、こんなところで?」
「・・・寒いわね、ここ」


俺の問いかけに、質問を無視して答える。

短い言葉は、真っ白な息に変わっていた。


「こんな所、人の来る場所じゃないぞ」
「ほんと、そうよね・・・」


押し殺したような声だった・・・。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


それっきり、ふたりとも黙り込む。

また、時間だけが流れる。

さっきと同じ風景の中で、違うのは香里が立っていることだけ・・・。


「昼はもう食ったのか?」
「・・・まだ」
「今から学食に行くか? まだ少しは時間もあると思うけど」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・やめとくわ」
「・・・・・・」
「・・・だって」


香里が顔を上げると同時に、昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴る。


「・・・ね」


力無く微笑んだその表情が、どこか痛々しかった。


・・・。


俺と香里は別々の道で教室に戻った。


・・・。


午後の授業が終わり、そのまま放課後に突入する。

まっすぐ変える予定だったが、名雪の部活が休みということで、商店街に寄って帰ることになった。


・・・。


本屋で雑誌を数冊購入してから、名雪の催促で喫茶店に向かう。

いつもの店でイチゴサンデーを食べて、そして帰路についた。


・・・。


夕飯を食べてしまうと、特にすることもなくなってしまった。

テレビも、先週観た限りでは、これといって面白そうなものは放送されていない。

引っ越す前に観ていたドラマも、この街では、今週やっと第1話が始まったところだった。


(・・・寝るか)


すでに服は着替えていたので、部屋の電気を消して布団に潜り込む。


(・・・・・・)


考えることはたくさんあるような気がした・・・。

だけど、俺はわざと思考を閉ざして目をつむった。


・・・。

 

~1月22日 金曜日の途中から~


・・・。


「祐一、お昼休みだよ」
「知ってるって」
「お腹すいたね」
「朝、ちゃんと食わなかったからだ」


隣の席の名雪とそんなやりとりを交わしながら、ふと斜め後ろの席を見ると、そこはすでに無人だった。


「香里、また居ないな」
「・・・うん、そうだね。 学食にも来てないみたいだよ」
「・・・・・・」
「・・・祐一は、どうするの?」
「・・・俺は・・・悪いけど、今日も学食はやめとく」
「お昼も食べないの?」
「時間があったら食べる」


曇った窓を一瞥してから席を立つ。


「良かったら、祐一の分も買っておくよ」
「じゃあ、カレーパン」
「うん。 頼まれたよ」
「ふたつ」
「売り切れてたら知らないよ」
「頑張って走ったら大丈夫だ」
「うん。 分かったよ・・・」


渋々、といったふうに頷いたいとこの顔は、それでもどこか嬉しそうに見えた。


・・・。


昼休みの廊下。

学食へ向かう生徒の流れに逆らって、俺はひとりで鉄の扉を押し開けた。

僅かに開いた隙間から、屋外の冷え切った風が吹き込んでくる。

間違いなく真冬の、それも雪の街の気候だった。


・・・。


すでに見慣れたその場所は、いつもと変わらない佇まいを見せていた。

一面の雪。

そして、知っている顔。


「・・・・・・」


昨日と同じ場所に、美坂香里が立っていた。


「・・・相沢君」


表情以上に冷たい声で、俺の名前を呼ぶ。


「昼飯も食わずに何やってるんだ?」
「・・・分からないわ」


栞に似ていると思った。

外見よりも、その雰囲気が似ていると感じた。


「・・・栞は家で大人しくしてるのか?」
「・・・・・・」
「それとも、もう制服着て普通に登校してるのか?」
「・・・栞って誰・・・」


以前にも全く同じ台詞を聞いたことがあった。


「・・・あたしに妹なんていないわ」
「一言も妹だなんて言ってないけどな」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・相沢君は知らないと思うけど・・・」


しゃりっ、と雪を踏む音がする。


「この場所って、今の時期はこんなに寂れてるけど・・・雪が溶けて、そして暖かくなったら・・・もっとたくさんの生徒で賑わうのよ」


記憶を辿るように瞼を伏せる。


「休み時間にお弁当を広げるには最高の場所・・・。 今そんなこと言っても、まったく説得力ないけどね」
「・・・それは、暖かくなるのが楽しみだな」
「その頃、あたしたちは3年生ね・・・」
「もう1回2年生って可能性もあるけどな」
「あたしはないわよ。 こう見えても品行方正で通ってるから」
「だったら、揃って3年だな」
「あたしがその時この学校に居たら・・・ね」
「転校でもするのか?」
「・・・そうね」


曖昧に首を動かす。


「この街は、悲しいことが多かったから・・・」
「・・・・・・」
「暖かくなったら、この場所で一緒にお弁当を食べるって約束したこと・・・。 そして、そんな些細な約束をあの子が楽しみにしていたこと・・・。 全部、悲しい思い出」


まるで独り言のように、最後の台詞を囁く。


「あたし、そろそろ教室に戻るわ」


しゃりっ、と雪が鳴る。


「ここは、寒いから・・・」


自分の足跡を辿るように、昇降口の方向に歩いていく。


「・・・寒いんだったら、来るな」


すでに雪の向こう側に見えなくなったクラスメートの姿を見届けて、俺も校舎の中に戻る。

その時、冷たい扉の向こう側に見た風景。

また、誰もいなくなった寂しい場所・・・。

雪上の足跡が、まるで傷跡のように残っている・・・。


「・・・・・・」


いつもと同じ・・・。

寂しくて・・・。

悲しくて・・・。

・・・そして、栞のことが本当に好きだったと言うことに気づいた場所。


「・・・・・・」


静かに扉が閉まり、そして休み時間の喧噪が戻っていた。


・・・。


~1月23日 土曜日の途中から~


・・・。


今日1日、美坂香里の席に誰かが座ることはなかった。


「・・・風邪かな」
「風邪ひいたって来るよ。 香里は」


机から視線を逸らしながら、神妙な表情で答える。


「香里って、学校に来るの好きだから」
「・・・そうか?」
「祐一、疑ってる?」
「だって、学校が楽しいやつなんかいないだろ・・・」
「香里は楽しいみたいだよ。 学校が。 それに、わたしも嫌いじゃないよ」


(・・・そう言えば、栞も好きだって言ってたな)


白い肌の少女の言葉を思い出す。

今俺が居る席に座って、眩しそうに空を見上げていた。


「・・・香里、本当にどうしたんだろう」
「どうせ、そんな大した理由じゃないって」
「月曜日になったら、来るよね?」
「そうだな・・・」


言葉にすると、自分で思っていた以上に曖昧な答えになった。


「・・・・・・」


思った通り、名雪が不安そうな表情を見せる。


「大体、休んでる理由が何なのかも知らないのに、はっきりと答えられるはずないだろ」
「・・・最近の香里、変なんだよ」


それは俺にも分かる・・・。


「香里、祐一に何か相談があるみたいだったよ・・・」
「俺?」
「・・・うん」
「相談だったら、俺よりも名雪や北川の方が適任だと思うけど」
「そんなことないよ」
「どうしてだ?」
「祐一は、きっと祐一が思っているよりずっと頼りになるよ」
「根拠は?」
「だって、祐一だもん」
「・・・なんか、言ってることが秋子さんみたいだな」


根拠なく言い切るところが似ていると思った。

でも、不思議と秋子さんの言葉が今までに間違っていたことは一度もなかったな・・・。


「じゃあ、わたし部活があるからもう行くね」
「大変だな」
「もう慣れたよ。 それで、祐一はどうするの?」
「俺も帰宅部があるから」
「頑張ってね」
「ああ」


最後に少しだけ笑顔を覗かせた名雪と別れて、俺はひとりで家路についた。


・・・。


部屋に戻って、制服のままベッドに仰向けになる。

少しの間、この微睡みを感じながら・・・。

気がついたときには、夜のとばりが降りていた。


・・・。


「・・・ふわ」


手で口元を押さえて、名雪が眠そうに息を吐く。


「・・・ちょっと眠い」
「寝ろ」
「この映画最後まで見てから・・・」


俺と名雪は、リビングで9時から放映されている洋画を見ていた。

ちなみに、正確には9時5分からだ。

秋子さんはついさっき自室に戻っていったので、リビングにはふたりしかいなかった。


「見てから・・・って、半分寝てるんじゃないか?」


パジャマに半纏を羽織った姿で隣に座っている名雪の方を見ると、


「・・・くー」


半分どころか、完全に眠っていた。


(・・・今日も部活だって言ってたもんな)


「・・・うにゅ」


安心しきった表情で安らかに寝息を立てている。

ちょうど映画はCMに入っていた。

壁の時計を何気なく見ると、10時を少し過ぎたところだった。

3分ほどのCMが終わり、映画が再開される。


「・・・あ・・・わたし、寝てた・・・」


どうやら目が覚めたようだ。


「映画・・・どうなったの・・・?」
「タイミングが悪かったな。 さっき真犯人が明らかになったところだ」
「・・・えっ? わたしも見たかったよ・・・って、そんな映画じゃないよ~」
「ちょっと寝てただけだから大丈夫だ」
「あ・・・そうなんだ」


安心した様子でテレビに戻る。


プルルルルル・・・


「電話?」


ふたりで同時に、リビングに置いてあるコードレスの電話を見る。

受信を知らせる赤いランプが、呼び出し音に合わせて点滅していた。


「いい、俺が出るから」


立ち上がりかけていた名雪を制して、代わりに受話器の前に立つ。


「えっと、水瀬だよな?」
「うん」


確認してから着信ボタンを押す。


「はい、水瀬です」
「・・・・・・」
「もしもし?」
『・・・相沢・・・君?』


ぼそぼそと呟いた声。

電話の雑音とテレビの音にかき消されそうな、か細い声。


「香里か?」


俺の声に、テレビの音量が小さくなる。

名雪が気を利かせてくれたのだろう。


『・・・うん』


さっきよりはっきりとした声。

美坂香里に間違いなかった。


「どうしたんだ?」
『あなたたちって、本当に同じ家に住んでたのね・・・』
「まぁ、親戚だからな」
『親戚ね・・・』
「で、なんの用なんだ? まさかそんなことを確認するために電話してきたんじゃないんだろ?」
『あたしは、そんなに暇じゃないわよ』


受話器の向こう側から、街の喧噪が聞こえる。

おそらく、公衆電話からなのだろう。


「だったらなんの用なんだ?」
『ちょっと話があるんだけど・・・今から出てこれない?』
「誰が?」
『相沢君が』
「寒いから嫌だ・・・」
『・・・・・・』
「と、思ったけど・・・まあいいや」
『・・・・・・』
「何時に、どこに行けばいいんだ?」
『・・・今すぐ、学校で』
「分かった」
『じゃあ、待ってるから』


ガチャッと、受話器の戻る音。

そして、ツーーツーーと発信音だけが聞こえてくる。


「・・・どうしたの?」
「悪い、ちょっと出かけてくる」
「うん。 行ってらっしゃい」


穏やかに手を振る名雪を残して、リビングを後にする。


「祐一」


後ろから、呼び止められる。


「力になってあげてね」
「・・・ああ」


簡単に身支度を整えて、そのままの足で外へ。


・・・。

 

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外は、当然のように闇の中だった。

風も強く、そして冷たい。


・・・。


街頭の明かりを頼りに、駆け足でいつもの通学路を走る。


「くそっ、寒いぞっ」


コートの上からでも突き抜ける寒風。


「やっぱ、断れば良かったかな・・・」


だけど、どうしても香里の言葉を拒絶することができなかった。

いつも通りの口調だった。

でも・・・。

放っておくと、香里が今にも泣き出しそうに思えたから・・・。


・・・。


夜の学校は、想像していた以上に寂しくて冷たい場所だった。

揺れる木々のざわめきと、揺らす風の足音。

歩道に配された街灯が青白く光り、足下をほのかに照らしていた。

閑散という言葉がしっくりくる。

閉ざされた昇降口。

闇に溶ける廊下のガラス。

浮かび上がる枯れ木の影。

ゆっくりと流れる薄黒い雲。


そして・・・。

 

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「・・・・・・」


街灯の下に、美坂香里がただ立っていた。

制服姿の香里が、俺の姿を見つけて視線だけを動かす。

真上からの照明に照らし出されて、落ちた影が四方に散らばる。

冷たい真夜中の風に揺れる影を押さえることもなく、無表情で俺の視線を正面から見据える。


「ちゃん来てやったぞ」
「・・・遅いわ」
「なんの説明もなしに呼び出しといていきなりそれかっ」


香里が動く気配もないので、俺の方から歩いていく。


「・・・ちょうど2週間ね」
「何が?」
「・・・色々と」
「頼むから、俺に分かるように説明してくれ」


香里が立っている光の輪に、俺も足を踏み入れる。


「2週間・・・いろんなことがあったよね」
「・・・そうだな」
「2週間なんて・・・あっと言う間・・・」


痛みに耐えるような表情で、微動だにせずに・・・。


「きっと・・・1週間はもっと短いでしょうね・・・」


俺がこの街に来てから、2週間。

名雪と再会してから、

新しい学校に通い初めてから、

香里と初めて顔を合わせてから、

そして、栞と出会ってから・・・。


「・・・・・・」
「それで、話ってなんだ?」
「・・・・・・」
「栞のことか?」
「・・・妹のこと」
「・・・・・・」
「あたしの、たったひとりの妹のこと」
「・・・続けてくれ」


妹。

今まで、かたくなに妹の存在を拒絶し続けていた香里の口から出た言葉。

その言葉の重さ。

そして、意味。


「相沢君、あたしに言ったよね・・・あの子のこと、好きだって」
「ああ」
「今でも?」
「ああ」
「・・・そう」


最初に香里がこの質問を投げかけた時と同じように・・・。

そしてそれ以上に、深い悲しみの表情で俯く。


「あの子、生まれつき体が弱いのよ」
「それは知ってる。 だから、ずっと学校に来ることができなかったんだろ?」
「あの子、楽しみにしてたのよ・・・。 あたしと一緒に、あたしと同じ学校に通って・・・。 そして、一緒にお昼ご飯を食べる・・・。 そんな、本当に些細なことを・・・あの子は、ずっと切望していたの」
「・・・・・・」
「あと1週間で、あの子の誕生日。 つぎの誕生日まで生きられないだろうと言われた、あの子の誕生日」


さっきまでと同じ口調だった。

感情の起伏を抑えて、淡々と言葉を紡ぐ。


「・・・・・・」


だから・・・香里の言葉の意味が分からなかった。


「・・・どういうことだ」
「言葉通りよ」


俺の言葉を待っていたかのように、呟く。


「あの子は、医者に次の誕生日までは生きられないだろう、って言われているのよ」


栞の明るい表情、

元気な仕草、

そして、雪のように白い肌・・・。


「でも、最近は体調も少しだけ持ち直していた。 だから、次の誕生日は越えられるかもしれない・・・」
「・・・・・・」
「でも、それだけ。 何も変わらないのよ。 あの子が、もうすぐ消えてなくなるという事実は」
「・・・そのことを、栞は知ってるのか?」
「知ってるわ」


・・・。


「・・・いつから知ってたんだ・・・栞は」
「もう、ずっと前・・・」


青白い外灯のあかりが、香里の姿を闇に浮かび上がらせる。


「去年のクリスマスの日に、あたしが栞に教えたのよ」


俺が初めて栞に出会った、ずっとずっと前から・・・。


「どうして、そんな話を俺にするんだ・・・?」
「あの子、あなたのこと好きだから」
「どうして、栞に本当のことを教えたんだ?」
「あの子が訊いてきたから」
「どうして、栞のことを拒絶したんだ?」
「・・・・・・あたし・・・」


いつも気丈にふるまっていた香里の姿は、そこにはなかった。

不意に、抑えていた感情が流れ出る・・・。

 

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「あたし、あの子のこと見ないようにしてた・・・。 日に日に弱っていくあの子を、これ以上見ていたくなかった・・・いなくなるって・・・もうすぐあたしの前からいなくなるんだって、分かってるから・・・」


俺の服をつかんだ両手が震えているのが分かった。


「普通に接することなんてできなかった・・・。 だから・・・あの子のこと避けて・・・妹なんか最初からいなかったらって・・・こんなに辛いのなら・・・最初から・・・最初からいなかったら、こんなに悲しい思いをすることもなかったのに・・・」


香里の嗚咽の声が、夜の校舎に響いていた。

流れる涙を拭うこともなく、ただじっと泣き崩れる。

妹の前では、決して見せることのなかったであろう姉の涙。


「・・・相沢君。 あの子、なんのために生まれてきたの・・・」


夜風にさらされながら、俺はその場所から動くことができなかった・・・。

香里の最後の問いかけに答えることもできずに・・・。

その言葉だけが、ずっとずっと俺の中で響いていた・・・。


・・・・・・。


・・・。

 

 



『あの子、なんのために生まれてきたの・・・』

 

 


1月24日 日曜日


「・・・・・・」


気がついたとき、周りの風景は全く同じ佇まいを見せていた。

開け放しの窓に、淡い色のカーテンが揺れている。

流れる生地の裾から、黒い風景が顔を覗かせていた。


「・・・・・・」


気怠く重い身体。

闇に瞳が慣れて、初めて自分が私服のままであることに気づく。

汗を吸収した生地は、ごわごわと身体を締めつけ、それでなくても不快な寝起きをさらに憂鬱な気分にさせる。

一瞬、ほとんど寝ていないのだと思った。

しかし、休みの日に1日中寝ていた後のような、頭の中身が鉛にすり替わってしまったような感覚。

そして・・・。


「・・・どうせなら、起こしてくれたらいいのに」


ドアの前に置かれたお盆。

その上にのった食器。

冷めてもいいように、わざわざおにぎりにしてくれている。

起きてすぐに食べられるようにとの配慮だろう。


「・・・・・・」


食欲なんてない。

ただ喉が乾いていることに気づいて、皿の横に置かれているコップを手に取る。

手に張りつくくらい冷えた水をしわがれた喉に流し込み、不意に周りを見渡す。

開いた窓。

揺れるカーテン。

秒を刻む時計。

静かな部屋。

本当に静かな部屋。

それこそ、気が狂いそうになるくらいに・・・。


『あの子は、医者に次の誕生日までは生きられないだろう、って言われているのよ』


不意に鎌首をもたげる言葉。

あんな表情の香里は初めてだった。

その短い言葉が意味する内容。

今までの、栞の言葉・・・。

元気な仕草・・・。

明るい表情・・・。

そのどれもが、たった一言で暗転する。

鉛入りの頭がずきずきと痛む。

夢。

そう思いたかった。

しかし、夢と現実の区別がつかないほど俺の意識は混濁してはいなかった。

コップを持ったままベッドに腰掛け、何をするわけでもなくカーテンを見つめる。

栞の誕生日まで、あと1週間・・・。


「・・・・・・」


コンコン・・・。


闇の静寂の中で、遠慮がちなノックの音が聞こえる。


「・・・祐一?」


問いかけるような声。


「・・・ああ」
「入るよ?」
「・・・ああ」


微かな音を立てて、扉が開く。

漏れる光。

廊下からの逆光に照らされて、名雪がひょこっと顔を出す。

 

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「わ・・・真っ暗だね」
「・・・ああ」
「とりあえず、明かりつけてもいい?」
「だめだ、灰になる」
「だったら、ドアも閉めるね」


バタンと扉が閉まり、部屋の中が再び闇に包まれる。


「わ・・・もっと真っ暗だね」
「・・・なんでまだ残ってるんだ」
「灰になるから」


呟いて、俺のすぐ横に腰掛ける。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


闇に慣れた瞳も、一度光を見てしまったせいで再び閉ざされていた。


「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・何がしたいんだ?」
「分からない」
「・・・・・・」
「分からないけど・・・でも、側にいた方がいいような気がして」
「・・・余計なお世話だ」
「うん、そうだね。 余計なお世話だと思うよ」


それっきり、お互い無言だった。

俺は何も言わないし、名雪もこれ以上詮索はしない。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


さっきまでと同じ静寂の中、時間だけが流れる。

だけど、そんな静寂が嫌ではなかった。

 

名雪
「ん?」
「ちょっと出かけてくる」
「外、寒いから気をつけてね」


立ち上がり、まだベッドに腰かけたままの名雪を残して、扉を開ける。


「祐一」
「なんだ?」
「そのおにぎり、食べてもいいかな?」


おなか空いたから、と照れたようにつけ加える。


「好きなだけ食べてくれ」
「うん」
「・・・それから・・・ありがとうな」


言い残して、俺は夜の街に飛び出した。


・・・。


あてがあるわけではなかった。

ただ、じっとしていたくなかった。

容赦のない冬の風。

真正面から吹き荒ぶ透明で冷たい風。

・・・雪が降ると吹雪だな。

澄んだ空。

光を散りばめた空。

思いつく限りの場所を、ただ歩く。


・・・。

 

栞と初めて出会った場所・・・。

栞を毎日顔を合わせた場所・・・。

栞と一緒に歩いた場所・・・。

そして、栞と最後に会った場所・・・。

 

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「ここは、夜の方が綺麗ですよね」


四方を取り囲む街灯のオレンジに照らされて、一人の少女が微笑んでいた。

地面に落ちる半透明の影が、少女を中心に四方に伸びている。


「俺は寒いから昼の方がいいな」
「残念です」


穏やかな表情のまま、くるっと俺に背中を向ける。

その前方には、光を浴びて輝く噴水が以前と同じ佇まいを見せていた。


「・・・噴水、こんな時間でもちゃんと動いているんですね」
「止めたら凍るからな」
「あ・・・それでなんですね」
「噴水は、見てると余計に寒くなるから嫌いなんだけど・・・どこかに栓とかないか?」
「そんなのないですよ。 あっても、止めたらダメです」
「・・・・・・」
「こんなに綺麗なんですから、見ていたいじゃないですか・・・。 ずっと、ずっと」
「・・・・・・」


いつの間にか、上空の風は穏やかなものに変わっていた。

肌をそよぐ風が、少女の短い髪を揺らす。

ストールの裾を手でなでつけながら、少女はただ闇の中で立っていた。

止まることのない水面を見つめながら、流れる風に身を任せながら。

やがて、ゆっくりと水の音が小さくなる。

中央の大きな水柱が消え、周りを取り巻く小さな噴水から新たな水の柱が幾つもの光をまとって水面を揺らす。

穏やかに、優しく・・・。


「祐一さん」


静寂の闇の中で、不意に俺の名前を呼ぶ。

真夜中の公園で、逆光に照らされた俺のシルエットを見つめながら。


「・・・・・・」
「・・・えっと」


一度言葉を止め、自分の心の中の葛藤を押し込めるように、もう一度強く俺の名前を呼ぶ。


「祐一さんには、謝らなければいけないことがたくさんあります」
「・・・・・・」
「そして、感謝しなければいけないことも、たくさん、たくさん・・・」


表情は分からなかった。

そして、あえて抑揚を抑えたような声。


「立ち話もなんだし、そっちに行ってもいいか?」
「・・・はい」


頷く栞は、俯いたまま背中を向ける。

俺は栞の背中を追いかけるように、噴水に向かって歩を進める。


「座ろうか」
「・・・・・・」


今度は無言で頷く。

背中を押すように、ゆっくりと少女の体に手のひらを重ねる。

栞は促されるまま、噴水の縁に腰を下ろす。


・・・。

 

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いつかの光景と同じように、俺もその横に座る。

ちょうどその時、止まっていた噴水が勢いよく水を吹き上げる。

静かな空間を揺らす水の音。

飛沫がコンクリートを濡らす。


「・・・寒いですね」
「栞は、寒いの得意だろ?」
「得意じゃないです」
「そうか? いつもアイスクリーム食べてただろ」
「アイスクリームは好きです」


一度、間を空ける。


「でも、この季節に食べるものではないです」
「そうだろうな」
「もっと暖かくなってから、食べたかったですよね」


淡々と紡ぐ言葉。


『あと1週間で、あの子の誕生日』


『次の誕生日まで生きられないだろうと言われた』


『・・・あの子の誕生日』


・・・。


「・・・話してくれるのか?」
「・・・はい」


視線を夜の公園に向けたまま、言葉を続ける。

聞きたくなかった。

知りたくなかった。

だけど、それが事実であるのなら、俺はその事実を知りたい。

栞の・・・俺が本当に好きな人の口から、直接。


「祐一さん、ごめんなさい」
「・・・・・・」


謝罪の言葉を、無言で受け止める。

今、自分がどんな表情をしているのか、俺には分からなかった。


「私、祐一さんに嘘ついてました」
「本当は風邪なんかじゃなかったんだろ?」
「はい・・・。 本当は、もっともっと、重い病気・・・たくさんのお薬を飲んで、もっとたくさんの注射をしても治らない病気・・・そして・・・お医者さんに次の誕生日を迎えることはできないって・・・言われて・・・」


言葉が曇る。


「・・・なんの病気なんだ・・・?」
「病名・・・ですか?」


初めて俺の方を見つめて、

笑顔で、

悲しいくらいの笑顔で、

 

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「えっと・・・覚えてないです」


にこっと微笑む。


「何か、難しい名前だったことは覚えていますけど」
「・・・・・・」
「だって・・・病名が分かっても・・・どうにもならないことに違いないですから。 だから・・・名前なんて、そんなの意味ないです」
「・・・・・・」


笑顔だった。

すべてを受け入れて、すべてを諦めて・・・。


「もうひとつ、謝らないと・・・」
「・・・・・・」
「私、祐一さんのこと、好きです」
「・・・・・・」
「たぶん、他の誰よりも祐一さんのことが好きです」
「・・・・・・」
「本当は、誰も好きになったらいけなかったんです。 誰にも心を開いたらいけなかったんです。 辛くなるだけだって・・・分かっていたから・・・」


言葉が出てこなかった。

俺の瞳をまっすぐ見つめる少女。


「でも、ダメでした」


綺麗な瞳だと思った。


「どんなに迷惑がられても、私は祐一さんのことが好きです」
「・・・・・・」
「・・・本当は、こんなこと言っても・・・何の意味もないのに・・・悲しくなるだけだって、分かってるのに・・・私・・・馬鹿だから・・・お姉ちゃんに嫌われるくらい・・・馬鹿だから・・・」
「・・・・・・」
「ごめんなさい、祐一さん・・・また、嘘ついてしまいました」


そして、いつものように、ただニコッと笑う。

この少女は、泣くことはないのだろうか・・・。

ふと、そんなことを思う。


「・・・それだけが、どうしても祐一さんに謝りたかったんです」
「・・・栞」
「はい?」
「・・・ドラマだと、これはどんなシーンなんだ?」
「・・・え?」
「・・・・・・」
「・・・そう・・・ですね・・・ありがち・・・ですけど・・・キスシーンです」
「お約束すぎるな・・・」
「そう・・・ですね・・・。 でも・・・私はそんなお約束は嫌いではないです・・・。 だって・・・お話の中でくらい・・・ハッピーエンドが・・・見たいじゃないですか・・・辛いのは・・・現実だけで・・・充分です・・・幸せな結末を夢見て・・・そして・・・物語が生まれたんだと・・・私は思っていますから。 ちょっと・・・かっこいいですよね・・・」


震える声で・・・。

精一杯の言葉を・・・。


「栞・・・」
「はい・・・」
「俺は、ドラマはあまり見ないけど・・・。 でも、今ここで・・・そんなありがちな場面を見てみたい」
「・・・・・・どうして・・・ですか・・・?」
「やっぱり、栞のことが好きだから」
「・・・・・・」
「ずっと一緒にいたいと思ってる。 これから・・・何日経っても、何ヶ月経っても、何年経っても・・・栞のすぐ側で立っている人が、俺でありたいと思う」
「・・・ホントに・・・ドラマみたいですね・・・」
「そうだな・・・」
「祐一さん、ひとつだけ約束してください」


視線を俺の方に向けて、そして一度区切った言葉を、もう一度続ける。


「私のことを、普通の女の子として扱ってください。 学校に通って、みんなと一緒にお昼を食べて・・・好きな人と、商店街を歩いて・・・お休みの日は、遠くまで出かけて・・・夜遅くなるまで遊んで、お父さんとお母さんに怒られて・・・でも、お姉ちゃんがかばってくれて・・・」
「・・・・・・」
「私は戻ることができるんです。 楽しかった、あの頃に・・・元気だった、ただその日その日を精一杯生きていた、あの頃に」


一瞬だけ覗かせた、泣き笑いの表情。

だけど、それもすべてを諦めた様な笑顔にとってかわられる。


「でも、1週間だけです。 1週間後の2月1日・・・私は、祐一さんの前からいなくなります。 それ以上の時間は、私にとっても、祐一さんにとっても、悲しい思い出を増やすだけですから・・・」
「・・・・・・」
「ですから、1週間です。 私の誕生日に、私は、普通の女の子であることを捨てます。 そのあとは、お医者さんの言いつけ通り、病院のベッドで静かに時を刻みます。 祐一さんとの思い出を、何度も何度も繰り返しながら・・・それでも、本当に私を受け入れてもらえますか?」
「・・・・・・」
「本当に、私のことを、普通の女の子として・・・笑って話しかけてくれますか?」
「約束する」
「ありがとうございます」


無邪気な笑顔が痛かった。

信じたくないであろう事実を突きつけられて、それでも精一杯生きることができる小さな少女。

事実から目を背けることもなく、真正面から受け止めること。

俺に、この強さがあるのだろうか?

もし、直視することのできない事実を目の前の突きつけられたときに、

俺は事実を事実として受け入れることができるのだろうか?

だからせめて、俺は栞をひとりにはしたくなかった。

好きだから。

本当に好きだと言える人だから。

夜の公園。

冷たい風。

ざわめく水。

街灯の明かり。

噴水の縁に座るふたり。


「一ヶ月早かったら、ちょうどクリスマスですね」
「そうだな」
「ちょっとだけ、残念です」


本当に残念そうに、それでも笑顔を続けながら、ゆっくりと目を閉じる。


・・・。


噴水が止まっていた。

静寂が夜の公園を包んでいた。

緩やかな水面に、二人の姿が映る。

抱きしめた少女の体は小さくて、

怯える小動物のように小刻みに震えていた。


・・・ゆっくりと、時間が動く。

・・・どちらからともなく、顔を近づけ・・・。

 

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初めて触れる、雪のように白い少女の唇は、柔らかくて、そして温かかった。


「あったかいです・・・」


すぐ間近で、栞が微笑んでいた。

そして、

この瞬間、栞は普通の女の子になった。

自分の精一杯のために。

1週間の間だけ・・・。

夜の公園。

また風が出てきたのか、見上げた夜空には雲が流れていた。


「えっと、それではこれで帰ります」
「大丈夫か?」
「大丈夫です。 私の家、この近所ですから」
「だったら大丈夫だな」
「もし、痴漢がでたら大声あげますから、助けに来てくださいね」
「誰も好きこのんで栞なんか狙わないだろ」
「そんなことないですっ。 そんなこと言う人、嫌いですっ」
「冗談だって」
「冗談でもひどいです」
「で、本当に送らなくて大丈夫なのか?」
「はい、本当に大丈夫です」
「そうか、じゃあ気をつけてな」
「それでは、また・・・」
「ああ、また明日な」
「はいっ」


頷いて、振り向いて、そして歩き出す。

遠ざかる栞の背中。


「・・・・・・」


闇に溶けるように。


「栞っ!」
「・・・・・・」


呼び止めた声。

もう一度振り返る栞。


「・・・・・・」
「何とかならないのか・・・」
「・・・・・・」
「もう、どうしようもない状態なのか・・・」
「・・・はい」


小さく、それでも確かに首を傾ける。


「本当に、どうしようもないのか・・・!」


それでも何かにすがるように、言葉を続ける。

それが、栞にとって苦痛にしかならないことを知っていながら。


「そうですね・・・」


雪のように白い肌・・・。


「奇跡でも起きれば何とかなりますよ」
「・・・・・・」
「・・・でも」


穏やかに微笑みながら、自分の運命を悟り、そして受け入れた少女が言葉を続ける。


「起きないから、奇跡って言うんですよ」


冷たく流れる風の中、

飛沫をあげる水の音、

俺は、栞の姿が見えなくなるまで、ずっとずっと闇の中に立っていた。


・・・。


1月25日 月曜日

 

・・・。


朝。

薄いカーテンから差し込む光を瞼の奥に浴びながら、微睡みの中を浮かんでいた。

長かった夜が明け、また、いつもの冬の日が始まる。

俺は鈍く痛む頭を擦すりながら、体を起こした。

確かに、睡眠時間は充分とはいえなかった。

時計を見ると、ちょうど7時半。

俺はベッドから抜け出した、カーテンを左右に開ける。

網膜に飛び込んでくる白。

痛いくらいの純白。

今日も、いい天気で・・・。

まるで、夢の続きのように・・・。


・・・。


「おはようございます、祐一さん。 名雪もおはよう」


名雪を引っ張って食卓に顔を出す頃には、すでに8時を回っていた。

楽しそうに朝食をテーブルに並べながら、秋子さんが出迎えてくれる。


「・・・眠い」
「寝るな」
「・・・おはようございます」


お辞儀、というか机に突っ伏す。


「・・・くー」


やっぱり寝ていた。


「何やってんだ・・・」
「・・・うにゅ」


返事なのか寝言なのか微妙なところだった。


「こんなところで寝てると、ジャムの中に髪の毛が入るぞ」
「大丈夫・・・」
「どうして?」
「ジャム、好きだから・・・」
「寝てるな。 完全に」


「祐一さん、今日は大目に見てあげてくださいね」


テーブルに散らばった髪の毛を後ろで束ねながら、秋子さんが穏やかに応える。


「この子、昨日は祐一さんが帰って来るまでずっと起きていたみたいですから」
「ずっと・・・?」
「でも、途中で寝てしまっていましたけど」
「そうですか・・・」


昨日のことでは、名雪にはずいぶんと心配をかけていたようだ・・・。


「どうしましょうか?」


すでに、朝食を食べているような時間さえなかった。


「どうするもなにも・・・」


「・・・くー」


「どうしましょうか・・・」


名雪は、間違いなく夢の中だった。


「わたしが起こしますから、祐一さんは先に行っていてください」
「・・・分かりました、お願いします」


熟睡中の名雪を秋子さんに託して、俺はひとり鞄を背負った。


「行ってらっしゃい、祐一さん」


・・・。


秋子さんに見送られて、ひとりで家を出る。

雪の残る風景を眺めながら、俺は寒空の下、学校への道を急いだ。


・・・。


朝食を抜いたためか、思っていた以上に早く学校まで辿り着いた。

この時間に学校へ来る生徒が一番多いのか、雪の積もった校門は制服姿であふれ返っている。

道すがら数人のクラスメートから声をかけられる度に、いつの間にかこの街に馴染んでいる自分に気づく。

俺がこの雪の街で生活を始めてから、3週間近くが過ぎていた。

色々なことがあった。

本当に、色々なことが・・・。


「おはようございますっ」


どんっ、と体当たりするように誰かが俺の背中にくっついていた。

首を動かして、視線を後ろに向ける。

 

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真冬の学校。

所々に残る雪。

雪溶けの水で湿った赤煉瓦の上に、ひとりの少女が立っていた。


「えーっと・・・すいません、嬉しくて体当たりしてしまいました」


よく知った少女が、見たことのない姿で申し訳なさそうに頭を下げていた。


「・・・・・・」


俺は、とっさに何も言葉を返すことができなかった。

ただ脳裏をよぎったのは、公園での言葉。


『最後にひとつだけお願いがあります』


『私のことを、普通の女の子として扱ってください』


『1週間、だけですけどね』


「・・・栞」
「はいっ」


真新しい制服に身を包んだ栞。

丁寧に両手を前で揃えて、綺麗な鞄を大切そうに抱えていた。


「今日から一生懸命お勉強です。 がんばりますっ」
「・・・そうか」
「そうだ、今日は一緒にお昼食べませんか?」


名案、という風にぽんと手を叩く。


「俺は、別に構わないけど・・・」
「それなら、4時間目が終わったら祐一さんのクラスに・・・」


不意に表情が曇る。

しかし、それも一瞬のこと。


「あ・・・やっぱり、学食で待ち合わせしましょう」
「そうだな・・・」
「それでは、私行きます」


ぺこっとお辞儀をして、生徒の流れに身を任せる。

そして、途中でくるっと振り返り、大きく手を振る。


「待ってますよっ。 遅れたら嫌ですよっ」
「ああ」
「祐一さんのおごりですよっ」
「ああ・・・ってちょっと待てっ!」
「冗談ですよっ」


一際大きく手を振る。

通りすがりの数人の生徒が、栞の姿をちらりと視界におさめて、何事もなかったかの様にまた歩き出す。

今の生徒には、栞の姿はどう映っているのだろうか?

俺は、何気なく昨夜の言葉を思い浮かべながら、歩き出した。


『奇跡でも起きれば何とかなりますよ』


『でも・・・』


『起きないから、奇跡って言うんですよ』


・・・。


幸い、名雪はぎりぎりのところで遅刻を免れていた。

 

『全速力で走ったよ』


そう言って、肩で息をしていた。

もしかすると、俺よりもよっぽど名雪の方が足が速いのかもしれない。


・・・。

 

1時間目、2時間目、といつも通りの風景が流れていた。

俺が転校してきてから3回目の月曜日の授業。

窓の外は雪景色で、黒板には白い文字が連なっている。

横を向くと、まだ眠たそうな表情の名雪の姿があった。

その後ろには、香里が座っている。

登校してきた俺に、普段と何も変わらない挨拶をした香里・・・。

昨夜、栞と出会わなければ、すべて夢あったと思えたかもしれない。

やがて、4時間目の授業が始まって、そして終わった。

俺は、名雪の誘いを断って、ひとりで学食へ向かった。


・・・。


いつもながら小綺麗な学食は、相変わらずたくさんの生徒でにぎわっていた。

冬の寒空の中、屋外で弁当を広げようという生徒は当然のように誰もいない。

おかげで、暖房が効いている学食に人が集まるわけだ。


「おーい、栞」


学食の入り口でそわそわしている栞の姿を認めて声をかける。

 

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「あ、祐一さん・・・」


安堵の表情で俺の方にやってくる。


「こんなところで待ってなくても、先に座ってたらよかったのに」
「緊張してしまって・・・」
「初めてなんです。 学食に来るの」


そう言って、怖々と学食の中を覗き込む。


「人が、たくさんいますね」
「そりゃな」
「お邪魔していいんですよね?」
「大丈夫だろ、制服着てるし」


というか、入らないと食べられない。


「そうですね、がんばってみますっ」


無意味に決意を新たにする栞を引っ張って、学食の中へ。

ちょうど向かい合わせの席が空いていたので、栞に座っていて貰う。


「栞は何がいい? 俺がとってきてやるけど」
「えっと、それでは、祐一さんと同じものでいいです」
「俺はカレー頼むけど?」
「・・・・・・」
「・・・どうした?」
「えっと、何でもないです・・・。 それでは、私もカレーお願いします」
「分かった。 ちゃんと席取っていてくれな」
「任せてくださいっ」


ぽんと自分の胸を叩く栞を残して、俺はひとり席を立った。

程なくして、俺と栞の目の前にカレーライスがふたつ並ぶ。

スプーンの柄をぎゅっと握りしめ、福神漬けののったカレーを見つめる栞。


「・・・おいしそうですね」


言葉とは裏腹に、どこか緊張した面もちだった。


「ここのカレーは、結構本格的だからな」
「・・・・・・」
「・・・?」


カレーを見つめる栞を不思議そうに見ながら、カレーを口に運ぶ。


「・・・いただきます」


俺にならうように、栞もスプーンを動かす。

鈍色に輝くスプーンをご飯に差し込み、ご飯だけをすくい取り、ご飯だけを口に運ぶ。


「・・・おいしいです」
「全然カレー食ってないだろっ」
「こ、これからですっ」


もう一度、スプーンを動かす。

スプーンを福神漬けの山に差し込み、福神漬けだけをすくい取り、福神漬けだけを口に運ぶ。


「・・・こりこりしてておいしいカレーですね」
「・・・栞、思いっきりわざとに見えるぞ」
「そ、そんなことないですよ」


みたびスプーンを動かす。


「次はらっきょうか」
「・・・そんなこという人、嫌いです」
「カレーがダメなんだったら、別のものにすれば良かったのに」
「・・・ダメ、ではないんです」


俯きながら、今度はカレーをすくい取る。

スプーンの先の方で、ほんの少しだけ。

そのまま口に運ぶ栞。


「・・・・・・」


スプーンをくわえたところで、栞の動きが止まる。

 

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「・・・うぅ~」


栞の表情が、見る見る涙目になっていた。


「・・・だ、大丈夫か?」
「・・・・・・」


うんうん、と頷くものの、やはり瞳は潤んでいた。


「・・・水、飲むか?」


差し出した水を、一気に傾ける。

コクコク・・・と喉を鳴らしながら、コップの水を半分くらい飲み干したところでテーブルの上に戻す。


「・・・ふぅ」


ほっ、と息をついている。


「どうしたんだ?」
「えっと・・・。 私、実は辛いの全くダメなんです・・・」
「からい、って普通のカレーだぞ」
「普通でも、私にとってはダメなんです・・・」
「家でカレーとか食べるときはどうしてるんだ?」
「・・・子供向けの、レトルトカレーを食べてます」
「・・・味気なくないか?」
「それくらいがちょうどいいです」
「しょうがは?」
「見るのも嫌です」
「わさびは?」
「名前を聞くのも嫌です」
からしは?」
「人類の敵です」
「アイスクリームは?」
「大好きです」
「だったら、アイスクリームでも食べとけ」
「はい・・・」
「買ってきてやるから」
「ご迷惑をおかけします・・・」


申し訳なさそうにうなだれる栞を残して、もう一度カウンターへ。

いつものアイスクリームを買って、すぐに栞の元に戻る。


「これだけでいいのか? さすがに腹減ると思うけど・・・」
「大丈夫です。 いつもあまり食べませんから」


嬉しそうにカップの蓋をあけて、木のスプーンでバニラアイスをすくい取る。


「この蓋についてるのは食わないのか?」
「食べないですよっ」
「もったいないな・・・こういう所の方がうまいと思うんだが」
「それは、貧乏性です」
「そうかなぁ・・・」
「そうですよ」


心底嬉しそうに、一口目を口に入れる。


「・・・うー」
「今度はどうした?」
「舌がひりひりします・・・」
「器用な奴・・・」
「うー」


情けない声を上げる栞。


「・・・時間はあるから、ゆっくり食べろ」
「・・・はい」


カレーライスを(ふたり分)食べる俺と、アイスクリームだけをゆっくりと食べる栞。

この不思議な取り合わせは、案の定、とても目立っていた。

周りに座っている生徒や、横を通りかかった生徒が、奇異の視線を送っている。

学年も違えば雰囲気も違うふたり。

だけど、周りがどう思おうと今のふたりは恋人同士だ。


「そうだよな、栞」
「はい?」


急に声をかけられて、訳も分からず『?』を浮かべながら俺の方を見る。


「えっと・・・すみません、お話を聞いていなかったんですけど・・・。 でも、私もそうだと思います」


口元に手を当てて、うんっと頷く。

その何気ない仕草が、本当に嬉しかった。


「しかし、ずっとアイスクリームばっかり食べてると牛になるぞ」
「・・・なんか、違いません?」
「そうか?」
「・・・うーん」
「でも、アイスクリームばっかり食べるわけにもいかないだろ?」
「それなら、明日はお弁当を作ってきます」
「弁当か・・・それもいいな」
「はい。 ちゃんと祐一さんの分も作りますからね」
「ああ、期待してるよ」
「はいっ、期待しててください」
「分かった。 味以外は期待してる」
「味も、期待してくださいっ」


拗ねたように横を向いて、


「そんなこと言う人、嫌いです」


直後、いつものように屈託なく笑う。

そこには、本当にいつも通りの栞の姿があった。


「・・・ところで、どうだ? 久しぶりの学校は」
「えと・・・ちょっとだけ疲れました」
「まぁ、そうだろうな」
「でも、楽しいです。 みんな、私が学校に来たことを喜んでくれます・・・。 嬉しかったです。 本当に、嬉しかったです・・・本当に、本当に・・・」
「・・・・・・」


楽しい昼休み・・・。

だけど、不意にそんな風景が虚構に思えて・・・。

栞の笑顔が遠くに見えて・・・。

日常が霞むように・・・。

風景がモノトーンになったように・・・。


「・・・どうしたんですか?」
「・・・いや、何でもない」
「ホントですか?」
「本当だって」
「なんか、怪しいです・・・」
「怪しくない怪しくない」
「やっぱりなにか怪しいです」


ころころと表情を変える栞。

最初に出会ってから、たくさんの栞の表情を見てきた。

無邪気に笑って、悲しそうに俯いて、怒って拗ねて・・・。

でも・・・。

泣き顔だけは見たことがなかった・・・。


・・・。


気がつくと放課後だった。

驚くくらい早く、時間が流れていた。

傾く夕日に目を細めながら、1日がこんなに短かったのだと初めて気づく。


・・・・・・。


・・・。


いつものように家に帰って、

いつものように夕飯を食べて、

リビングでテレビを見て、

風呂に入って、

そして部屋に戻るころには、今日もあと僅かだった。

何気なくカーテンを開ける。

窓の外には、ゆっくりと雪が降りていた。

街の光を遮るように、白い結晶が流れる・・・。

やがて・・・。

今日が終わり、明日が今日に変わった。


・・・。


1月26日 火曜日

 

・・・。


ゆっくりと、


ゆっくりと意識が集まっていく・・・。


瞼の裏から入り込む陽光がぼんやりとオレンジ色に浮かんでいた。

意識が戻ると同時に襲ってくるものは焦燥感。


寝汗を吸い込んで冷たくなった布団を剥がし、ベッドから起きあがる。


「・・・・・・」


いつもの朝。

カーテンレールの軋む音を聴きながら、凍った部屋に陽光を招き入れる。

暖色に照らされた室内。

凍った空気を溶かす日溜まりの中で、俺は身支度を整えた。


・・・。


「いいお天気・・・」


ぽーっと上空を見上げながら、ぽつりと白い言葉を吐き出す。

今日は(比較的)すんなり起きてくれた名雪と一緒に、いつものように水瀬家の門をくぐる。


・・・。


「天気がいいのは結構だけど・・・やっぱり寒いことに変わりはないな」
「風が穏やかだから、今日はずっといいお天気だよ」


空からの光を体で浴びるように、ぐぅっと体を伸ばす。

風はなかった。

雲もなかった。

端から端まで、一面の青。


「今日はきっといいことがあるよ」


雪の残った屋根の下、嬉しそうに歩く。


山羊座だし、B型だし・・・」


テレビの占いコーナーをじっと見つめながら、ニコニコしていた名雪の姿が思い浮かぶ。


「占いなんて信じるもんじゃないぞ」
「・・・そんなことないもん」
「大体、運勢が12個しかないって段階で嘘臭い」
「たまに13個あるよ」
「一緒だ」
「そんなことないよ・・・」


下を向いて、とぼとぼと歩く。

とても悲しそうだった。


「なぁ、2月1日生まれって何座になるんだ?」
「・・・知らない」
「ただでとは言わない」
「・・・イチゴサンデー」
「いくら何でも釣り合わないだろ・・・」
「それなら、イチゴクレープ」
「・・・まぁ、それくらいが妥当だな」
「確か、水瓶座だったと思うよ」
「今週の運勢は?」
「良かったよ」


山羊座ほどじゃないけどね、とつけ加える。


「・・・そうか」
「んと、2月1日って・・・祐一じゃないよね?」
「ああ」
「誰?」
「さぁ」
「内緒?」
「内緒」
「うー」
「さ、学校行かないとな」
「うー」


・・・。


少しずつ、同じ制服を着た生徒の姿が増えてくる。

何気なくひとりの少女の姿を目で探しながら、やがて校門に辿り着いた。


・・・。


昼休みの到来を知らせるチャイム。

 


「祐一」


待ちかまえていたように、隣の席から声がかかる。


「今日のお昼はどうするの?」
「うーん・・・」


今日は栞との約束がある。

もっとも、弁当を作ってくれるというだけで、どこで待ち合わせとかは決めてなかった。


「とりあえず学食に行くけど・・・」


たぶん、栞もそこに来るだろ。


「気をつけて行ってきてね」


ただ学食に行くだけで、気をつけてもないと思うが・・・。


名雪はどうするんだ?」
「香里とお弁当」


振り返った視線の先では、香里がふたり分の弁当を広げていた。


「・・・・・・」


香里と視線が合いそうになり、思わず避けてしまう。

 

「どうしたの?」
「いや、何でもない・・・じゃあ、行ってくるから・・・」


軽く手を振って、廊下の方に歩いて行こうとした、その時・・・。


「あの~、すみません~っ」


まだ喧噪に包まれる前の教室に、妙に緊張した声が響く。

教室にいた生徒が、一斉に声のする方を向く。


「あ、あの~」


クラス全員の視線を浴びながら、教室の扉を半開きにして、1年生の制服を着た女の子が首を出していた。

両手でドアにしがみつくようにして、恥ずかしそうに声を絞り出す。


「相沢さん、いらっしゃいますか・・・?」


「・・・お前、1年生に手を出してたのか」
「北川・・・いきなり誤解を招きそうなことを言うなっ」
「くそ、可愛い子じゃないか」


「・・・・・・」


香里が、複雑な表情で俺と女の子と北川を順番に見ていた。


「・・・あの~」


北川に触発されて、他の男子生徒も騒ぎ出す中、女の子の泣きそうな声だけが虚しく響いていた。


・・・。

 

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「は~、どきどきしました~」


並んで廊下を歩きながら、自分で自分の体を抱きしめるような仕草をする。


「やっぱり、上級生のクラスに行くと緊張しますね」
「緊張したのは俺の方だ・・・」
「そうですか? それならおあいこですね」
「・・・そうだな」


よく分からない理屈に頷き返しながら、胸元で抱きかかえられた弁当らしき包みに視線を落とす。


「ちゃんと、約束通り祐一さんの分も作ってきましたから」
「楽しみだな」
「・・・えっと、あんまり期待しないでくださいね」
「大丈夫。 俺は食い物だったら味は全然気にしない」
「・・・少しは期待してください」


悲しそうに俯く。


「もちろん、うまいに越したことはないけどな」
「はいっ」
「でも、なんでわざわざ2年の教室まで来たんだ? 昨日みたいに学食で待ってたらよかったのに」
「えっと・・・」


考え込むように、首を傾げる。


「憧れていたんです、こういうのに。 ・・・ただ、それだけですよ」


・・・。


おそらく、学食にしては広くて綺麗な方だと思う。

それでもこの時期になると、席はほとんどが埋まり、カウンターの前は生徒でごった返していた。


「やっぱり、人がたくさん居ますね・・・」


ぽかんと口を開けて、学食全体を眺める。


「突っ立ってても場所はとれないぞ」
「あ・・・はいっ」


慌てて走り出す栞。

つまずきそうになりながらも、俺の背中をひょこひょこと追いかけてくる。


「あ、ここが空いてますよっ」


栞が指さす先、ちょうど向かい合わせにふたり分の席が空いていた。


「よくやったぞ、栞」
「はいっ、がんばりました」


ぽん、と栞の頭に手を置いてやる。


「・・・あの、あの」


くすぐったそうに目を細めて戸惑う栞。

そんな仕草が可愛いと思った。

そして、どうしようもなく悲しかった。


「どうしたんですか?」


問いかける栞には答えず、席に着くように促す。

学食の小さな椅子に座り、そして調味料ののったテーブルにやけに巨大な弁当箱がふたつ並ぶ。


「ひとつが俺の分だな」
「両方とも祐一さんの分です」
「・・・は?」
「両方とも、祐一さんが食べてください」
「・・・食えないぞ、こんなに」


どう見ても、ひとつで普通の弁当の4倍はありそうな大きさだった。


「両方とも祐一さんのために作ったんですから、残さず食べてくださいね」
「・・・無理」
「食べてくださいね」


笑顔だが目が真剣だった。

マジだ。


「・・・栞の分は?」
「私は、いつもほとんど食べませんから。 少し食べただけでもお腹いっぱいになります」
「俺だって、そんなに食うほうじゃないぞ・・・」


巨大な弁当箱に、色とりどりの具が詰め込まれている。

しかも、それがふたつだ。


「どう・・・ですか?」
「どう・・・と言われても」
「ちょっと多かったですか?」
「・・・ちょっとな」
「ごめんなさい・・・。 作りたいおかずがたくさんあって・・・それで・・・」
「全部入れてみた・・・と」
「・・・はい」


しゅん・・・と俯く。


「まぁいいや、とりあえず食ってみるから」
「はいっ」


箸を受け取り、手近にあった卵焼きをつまむ。

そして、口に運ぶ。


「・・・・・・」


一連の動作を、真剣な眼差しでじっと見つめる。


「・・・どうですか?」
「うん。 ちょっと甘いけど、でもうまいと思う」
「よかったです~」


ほっと胸をなで下ろしながら、魔法瓶からお茶を注いでいる。

そのお茶を受け取り、喉を潤す。


「それでは、私もいただきます」


お互い、弁当箱に箸を伸ばしては、おかずを口に運ぶ。

その都度感想を言い合って、そして、また弁当に箸をつける。

もちろん箸を動かす回数は俺の方が遙かに多いのだが・・・。


「ふぅ、お腹いっぱいですぅ」
「俺もだ」


新しく注いだ熱いお茶で一息つきながら弁当を見ると、まだ半分以上がそのまま残っていた。


「もっと食べてください」
「無理」


即断で却下する。


「大丈夫です」
「根拠は?」
「祐一さんならできます」
「いや、マジで無理」


ある程度時間を置けば何とかなるかもしれないが、今の状態では一口も喉を通らない自信がある。


「祐一さんなら、本気になればカレーライス8杯分くらいは平気なはずです」
「そんなやつ人間じゃない」
「そんなことないですよっ。 いるかもしれないじゃないですか・・・そんな人が」
「少なくとも俺には無理・・・」
「・・・そう、ですか」


俯いて、まだ中身の残った弁当箱を見つめる。


「・・・ちょっとだけ悲しいです。 でも、おいしいって言ってもらえて嬉しいです。 もしちゃぶ台ごとひっくり返されたらどうしようかって、ホントに心配だったんです」


心底ほっとしたような表情で、コップの中のお茶を傾ける。


「栞、よく料理とかするのか?」
「えっとぉ・・・」


湯気の立ち昇るお茶をテーブルに戻して、困ったような、それでいて照れたような表情を見せる。


「実は・・・お料理も、お弁当も、初めて作ったんです」
「今日が全くの初めて?」
「あはは・・・そうなんです~。 ですから、食べられる物ができるか本当に心配だったんですけど・・・大丈夫だったみたいですね」


あはは・・・と照れ笑いを浮かべる栞。

その表情に、微かに憔悴の色が混じっていた。


「・・・ふわ~」


手のひらを口元に当てて、小さくあくびをする。


「栞、大丈夫か・・・?」
「大丈夫です~。 ちょっと眠たいだけですから~」


疲れたような表情で、それでも笑顔で・・・。


「ありがとうな、栞」
「これくらい、全然へーきです。 だって、すっごく楽しかったですから。 メニューを考えて、材料を買いに行って・・・。 お料理の本を見ながら、ひとつひとつ作っていくんです。 味見して、お弁当箱に詰めて・・・失敗もいっぱいいっぱいしましたけど・・・。 知ってますか祐一さん? 卵を電子レンジに入れると爆発するんですよっ」
「ああ、俺もやったことあるぞ」
「それと、アルミホイルをレンジに入れると花火みたいで綺麗なんですよっ」
「・・・それは、いくら綺麗でもやらないほうがいいぞ」
「それに、それに・・・あっ!」
「どうした?」
「すっかり忘れていました・・・」


そう言って、ごそごそと何かの包みを取り出す。


「実は、デザートも作ってきたんです」


どんっ、と第3の弁当箱が机の上に出現する。


「デザート・・・?」
「はい。 やっぱり食後はデザートですよね~」


嬉しそうに水色のハンカチをほどく。

中からは、今までと同じ大きさの弁当箱。

そして蓋を開けると、中には本当に色とりどりの果物がぎっしりと詰まっていた。


「ごちそうさまでした・・・っ」
「待ってくださいっ!」


立ち上がる俺の制服を、栞ががっしと掴む。


「・・・絶対に無理」
「まだ何も言ってませんよっ」
「・・・もう食えない」
「大丈夫です」
「・・・根拠は?」
「甘い物は入る場所が違うといいますから」
「俺は一緒なんだ~」
「そう・・・ですか・・・」


丁寧にひとつひとつ皮を剥いて、食べやすい大きさに切られた果物の山。

銀紙の器に盛られて、綺麗に並んでいる。


「あ・・・ほら見てくださいっ」


果物の盛り合わせに負けないくらいカラフルなプラスチックの楊枝を取り出し、デザートの山に刺す。


「うさぎさんですっ」


うさぎの耳に見立てて包丁が入れられたリンゴを、嬉しそうに掲げて見せる。


「左右の耳の大きさが違うぞ」
「・・・うー」
「こっちなんか、片方の耳がないぞ」
「・・・うー」
「まだまだだな」
「左右の大きさが違っても、片方の耳がなくても、ウサギさんはウサギさんですっ。 そんなこと言う人、嫌いですっ」
「冗談だって」
「冗談でも傷つきました」


ぷいっ、と頬を膨らませて横を向く。


「ひどいこと言った罰です。 せめてうさぎさんだけは食べてください」


まぁ、時間が経ったのでさっきよりは幾分か入るかもしれない。


「分かった、そのうさぎ俺がバリバリ食ってやろう」
「・・・なんだか嫌な表現ですけど、でも嬉しいですー。 私も、ちゃんと応援しますから」
「応援だけじゃなくて、できれば手伝ってくれ」
「分かりました、それではひとつだけいただきます」
「遠慮するな」
「遠慮します」


お互い楊枝を持って、リンゴのうさぎをつまみ口に運ぶ。

しゃりしゃりという音だけが聞こえる。

無言でリンゴをかじる。

ゆっくりと、ゆっくりと・・・。


「祐一さん・・・」
「・・・ん?」
「えっと・・・」


不意に栞の表情が曇る。

泣き笑いのような表情に、微かに涙が滲んでいた。


「作っているとき、楽しかったです・・・」
「・・・・・・」
「でも、好きな人に食べてもらっている時の方が、もっともっと楽しいですよね」


リンゴのウサギを頬張ったまま、今、この瞬間を心から楽しむように・・・。

涙の滲む目を細めて・・・。

精一杯の笑顔で何度も何度も頷いていた・・・。

 

「なぁ、栞」
「はい?」


リンゴをもごもごと頬張ったまま、栞が頷く。


「・・・なぁ、明日学校サボらないか?」
「どうしたんですか? 急に・・・」


こくんと飲み込んで、栞が不思議そうに俺の顔を見上げる。


「学校サボって、朝からずっと一緒にいよう」
「・・・・・・」


限られた時間、俺は少しでも長く栞と一緒にいたい。

それは、決して言えない言葉。

栞と約束したから。

栞のことを、普通の女の子として扱うって・・・。

だから、俺はこれ以上の言葉を続けることができない。


「・・・・・・」


栞の言葉をじっと待つ。

やがて、栞の言葉が続き、そして、昼休みを終了するチャイムの音。

また、1日が終わる・・・。


・・・。


1月27日 水曜日


・・・。


現国の授業が続いていた。

俺は適当に教科書を机の上に開いていた。

たぶん、授業内容とは関係のないページだと思う。

でも、そんなことはどうでも良かった。

もとよりまじめに授業を受けるつもりもない。

もっとも、最初から授業に集中できるとも思えなかったが・・・。


「・・・今日も、寒そうだな」


左手で頬杖をつきながら、揺れる木々を眺める。

その視界を、白い粉が一瞬だけ遮り、そしてまた同じ景色に戻る。

雪は降っていなかった。

おそらく、風にさらされて、屋上に積もった雪が舞い落ちたのだと思う。


「・・・・・・」


コツコツと黒板を白いチョークが叩く音。

他の生徒たちはまじめに授業を聞いているのか、それとも寝ているのか。

6時間目の教室は、静寂しかなかった。


「・・・・・・」


あと、15分。

教室の壁にかかった時計。

左手の腕時計にも目を遣る。

やはり、あと15分。

薄ぼんやりと漂う空気の中、俺は昨日の栞との会話を思い出していた。


『・・・なぁ、明日学校サボらないか?』
『どうしたんですか? 急に・・・』
『学校サボって、朝からずっと一緒にいよう』
『・・・・・・』
『時間があれば、いろんな場所に行けるし・・・』
『祐一さん』


俺の言葉を、栞が穏やかに遮る。


『そんなことを言うと、まるで・・・もうすぐ会えなくなるみたいじゃないですか・・・』


そう言って笑った。

最後の言葉。

俺は栞の顔を見ていない。

だから、その言葉を紡いだ時の栞の表情を、俺は知らない。


『明日の放課後、一緒に遊びましょう』
『・・・そうだな』
『約束ですよ。 放課後の校門で待ってますから』
『・・・・・・』


俺の思考を、現実のチャイムが遮る。

教室がざわめき、担任がやってきて、そしてホームルームも終わる。

長かった授業が終わり、これで放課後。


・・・。


「祐一、ほうきと雑巾どっちが好き?」


右手にほうき、左手に雑巾を持って、名雪が俺の前に立ち塞がる。


「・・・どっちも嫌い」
「嫌いでも、掃除当番だからちゃんとしないと」
「・・・マジ?」
「うん。 まじだよ」


笑顔で脅迫する名雪からほうきをひったくって、史上まれにみる速度でほうきがけを終わらせた時、

すでに栞との約束の時間は過ぎ去っていた。


・・・。


「遅いですっ」


待ち合わせ場所に顔を見せるやいなや、ふくれ顔の栞が待っていた。


「こんな、か弱い女の子を待たせるなんてひどいですっ。 そんな人、嫌いですっ」
「いや、悪い」
「ずっと待ってたんですよ」
「元気だな、栞」
「そんなこと言ってごまかさないでください」
「でも、そんな言うほど遅れなかったと思うけど」
「それでも、すっごく寒かったんですから」
「ごめん、悪かったよ」
「ふぅ・・・分かりました。 今日は許してあげます」


白いため息を吐きながら、くるっと後ろを向いて歩き出す。

雪を乗せた校門を通り抜け、雪の残る歩道に向かう。


「祐一さん、早く行きましょう」
「そうだな」


遅れた分は、ちゃんと取り戻さないとな。

先をゆく栞を追い越すように、俺も走り出す。


「あっ! 置いていかないでくださいよっ」


短い冬の太陽が、ゆっくりと地面に落ちていた。

あと5回太陽が沈むとき・・・。


「気合いで走れっ」
「わー、無理ですー」


この瞬間も、やがて思い出に還る・・・。


・・・。

 

学校を出てから商店街までの十数分。

風にさらされた雲が流れるように、空の色が変わっていた。

赤く染まる商店街。

赤い道。

赤い人。

赤い影。

赤い雪。


「わぁ~、綺麗ですね~」


無邪気に喜ぶ栞の体も、赤く染まっている。


「私、こんな夕焼け初めて見ました」
「夕焼けなんて、そんな珍しい物じゃないだろ」
「祐一さん、それでもムードっていうものがあるじゃないですか」


困ったように笑いながら、もう一度天上を仰ぐ。


「眩しいですね・・・」


うっすらと滲んだ瞳も赤く染まっていた。

たくさんの赤・・・。

少し薄い赤。

紫がかった赤。

黄色っぽい赤・・・。

幾通りもの赤。


「祐一さん」


腕を引っ張りながら俺の名前を呼ぶ。


「どこに行きます?」
「そうだな・・・」


さっきよりもさらに傾いた太陽。

あまりのんびりしている時間もなさそうだった。

とはいえ、穴場を知っているほどこの街での暮らしは長くはない。


「ウィンドウショッピングなんてどうですか?」
「そうだな、歩いているとなにか凄い発見があるかもしれない」
「凄い発見があるかどうかは保証しませんけど、でもきっと楽しいですよ」


掴んだ腕を引っ張るように、栞が夕暮れの街を歩き出す。


「よし。 何かいいものがあったら、俺が買ってやるぞ」
「わ。 ホントですか?」
「値段にもよるけどな」
「いくらくらいまでならいいんですか?」
「200円」
「・・・祐一さん、最初から買うつもりないですね?」
「でもな、手持ちの金がこれだけしかないんだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「それなら仕方がないですね」


本当はもう少し持っているが、この金は大切なプレゼント購入資金だ。

栞への誕生日プレゼント。

まだ何を買うかは決めていないが、栞の誕生日までにはなんとかしないとな。

しかし、そのためには栞が欲しい物をつきとめなければいけない。

しかも、本人に悟られないように。


「なぁ、栞」


とりあえず、遠回しに欲しい物を探ってみる。


「はい、なんですか?」
「仮に、宝くじで1億円当たったらどうする?」
「びっくりします」
「・・・・・・」
「だって、凄いじゃないですか1億円なんて」
「・・・それで、びっくりした後にどうする?」
「夢じゃないかどうか確かめると思います」
「・・・・・・」
「見たことあるんです。 そういう夢。 ほっぺたつねったら痛くなかったんです」
「・・・それで、夢かどうか確かめた後にどうする?」
「たぶん貯金します」
「・・・・・・」
「・・・あの・・・どのような意図のお話なんですか?」
「・・・いや、もういい」


遠回し過ぎたようだった。


「変な祐一さん・・・」


まぁいい。

時間はまだあるんだ・・・。


まだ・・・。


「あっ、あのぬいぐるみ可愛いと思いませんか?」


立ち並ぶ店の一軒を指さしながら、栞が声を上げる。


「でかいな・・・いくらくらいするんだ?」
「えっと・・・」


ガラスに顔を近づけて、値札を確認する。


「8000円・・・」
「結構高いな・・・」
「あ・・・でも、定価は50万円だそうです」


値札には赤で2本の線が引かれ、金額が書き直されていた。


「・・・もの凄い値引き額だな・・・」
「人気、ないんでしょうか・・・?」
「持ち主が謎の変死を遂げる呪われた人形、とか・・・」
「かっこいいですね」
「・・・そうか?」


時々、栞のセンスがよく分からなくなる。


「私、これ欲しいです」
「やめとけって、こんな呪われた人形」
「まだ呪われていると決まったわけではないです・・・」
「とにかく、もっとまともな物にしような」
「・・・祐一さん、まるで私のセンスがまともじゃないみたいな言い方ですね」
「とりあえず、次の店に行こうか」


先に歩き始める。


「・・・祐一さん、嫌いです」


言って俺の横に並ぶ。

その表情は、笑顔だった。


栞ちゃんっ!」
「きゃうっ」


突然、隣を歩いていたはずの栞の姿が、小さない悲鳴と共に消える。


うぐぅ・・・びっくりしたよ・・・」
「えぅ~、私もびっくりしました・・・」


地面を見ると、あゆと栞がもつれるように倒れ込んでいた。


「・・・なにやってんだ?」
「私、知らないです~」


ふらふらと立ち上がる。


「ということは、お前だな・・・」
「え? ボクはただ栞ちゃんに飛びついただけだよ」
「やっぱり原因はお前じゃないか!」
うぐぅ・・・挨拶だよ・・・」


「だ、大丈夫です・・・ちょっとびっくりしただけですから・・・」


スカートについた雪を、ぱたぱたと払っている。


「あゆ、せめて相手は選べ・・・」
「久しぶりに会えたから、嬉しかったんだよ」
「それで、何の用だ?」
「だから、久しぶりに会えて嬉しかったんだよ」
「つまり、用はないわけだな」
「そんな言い方、いじわるだよ」
「そうですよ、祐一さん」


ふたりして頷き合っている。


「またふたりでお出かけ?」


「まぁな」

「はい」


俺と栞が同時に頷く。

 

「祐一君と栞ちゃんって、やっぱり仲のいい兄妹みたいだね」
「違うぞ」
「そうなの?」
「俺たちは・・・恋人だ」
「わっ、そうなんだ。 ボク、知らなかったよ」


「私も知らなかったです」
「・・・って、何で栞が否定するんだ」
「冗談です」


「やっぱり仲いいね」


俺たちのやりとりをあゆは笑顔で眺めていた。


「それで、あゆは何をしてるんだ?」
「ボクは探し物だよ」


そう言って、力なく笑う。


「・・・まだ探してるのか?」
「うん。 もう少しで見つかるような気がするんだよ」
「そっか・・・。 見つかるといいな」
「うんっ」


「事情はよく分からないんですけど・・・がんばってくださいね」
「ありがとう、栞ちゃん。 ボク、がんばるよ」


元気に頷くあゆの表情に、どこか疲れが見て取れた。


「なぁ、あゆ」
「・・・ん?」
「疲れてないか?」
「全然そんなことないよ。 ボクはいつも元気だもん」
「・・・だったらいいけど。 あまり無理するなよ」
「うん。 心配してくれてありがとう。 ボク、そろそろ行くね」
「またな、あゆ」


「またです、あゆさん」
「うんっ。 ばいばい、祐一君、栞ちゃん


手を振って、そして走っていく。


「・・・・・・」


その姿をじっと見送る栞。

結局、プレゼントも決まらないまま、また1日が終わる・・・。


・・・。


1月28日 木曜日


・・・。


放課後になると、俺はすぐに教室を飛び出した。


・・・。


まだ人の少ない廊下を走り抜けて、昇降口に急ぐ。

靴を履き替えて、外に飛び出す。

1分でも早く、1秒でも早く・・・。


・・・。


「なんだ・・・今日は俺の方が早いと思ったのに」
「残念でした」


校門に背中をもたれるように立っていた少女が、ぴょこっと姿勢を正す。


「全速力で走ってきたのに、なんで栞の方が早いんだ」
「1年生は、今日5時間授業なんですよ」
「なんだ、そうなのか・・・って、だったら1時間以上もここで待ってたのか?」
「そうですね」
「昨日約束したときに言ってくれればよかったのに」
「実は、私も今日知ったんです」


寂しそうに笑う。


「そっか・・・」
「では、今日はどこに行きましょうか」
「よし、今日は思う存分商店街でデートだ」
「嬉しいですー。 ・・・でも、昨日も商店街でしたね」
「大丈夫だって、あんなに広いんだから、まだ行ってない場所がたくさんあるはずだ」
「そうですね」


今日こそは、栞に渡す誕生日プレゼントを買わないと・・・。

そんなことを考えながら、商店街に向かって歩き出した。


・・・。


「真っ赤です」


嬉しそうに夕焼けを眺めながら、栞が呟く。


「あ。 この辺りはまだあまり来たことがないですね」


この一角は、いかにも女の子向け、と言った感じの店が並んでいる。

ひとりだと、まず近寄らない場所だ。

しかし、女の子への誕生日プレゼントを探すのであれば、これほど最適な場所はないのかもしれない。

問題は、何をプレゼントするかだ・・・。

女の子への誕生日プレゼントなんか買ったこともないから、いったい何をあげたら喜んでもらえるのか全く分からない。

かといって、まさか本人に訊くわけにもいかないし・・・。


「祐一さん、あの店に入ってみませんか?」


栞が指さした店は、ぬいぐるみや人形が所狭しと並んでいた。


「・・・この店に入るのか?」
「ダメですか?」
「さすがに、男が入るのはちょっと・・・」
「そんなことないですよ。 祐一さんだったら、違和感ないです」


ぬいぐるみや人形と違和感がないと言われても、全然嬉しくない。


「だったら、俺はここで待ってるから、ひとりで行ってきたらどうだ?」
「そうですね・・・。 分かりました。 ちょっと言ってきますから、待っててくださいね」


言い残して、店に入っていく。


「ちゃんと待っててくださいね」


ひょこっと顔を出して、そして店の中に消える。

さて・・・。


「今のうちに、何か買っておくか・・・」


降って湧いた、プレゼント購入のチャンス。

しかし、一体どんな物を買えば喜んでもらえるのか・・・。


「祐一君っ」


うーむ・・・と思案していた俺の背中を、誰かがぽんと叩く。


「・・・なんだ、あゆか」
「なんだはひどいよっ」


不満そうだが、とりあえず無視しておく。


「うーん・・・」


目の前には、色とりどりに飾りつけられた店の入口がひしめき合っている。

まさに、誕生日プレゼントを買うには打ってつけの場所のようだった。

しかし、何を買うのかさえ決まっていない俺は、どの店に入ったらいいのかさえ分からない。


「無視~無視~」


構ってほしいのか、目の前でぴょんぴょんと飛び跳ねている。


「悪いけど、今はあゆに構っている暇はない」
「いいもんいいもん! 今度祐一君に道で会ったら、こっそり羽つけるもん!」
「それだけはやめてくれ・・・」
「でも、どうしたの? 複雑な顔で考え込んでるけど?」
「・・・いや、ちょっとな」


こういう場合、まずは相手の特徴を考えてそれに合ったプレゼントを用意するものだと思う。

栞の特徴・・・。

アイスクリームが主食で、趣味は巨大な雪だるまを作ること。


「なぁ、あゆ・・・」
「うん?」
「誕生日プレゼントに、アイスクリームとシャベルを貰って喜ぶ女の子がいると思うか?」
「いないと思う」
「やっぱり、そうだよな・・・」
「どうしたの?」
「そうだな・・・ダメ元であゆの意見を訊いてもいいかもしれない」
「ダメ元・・・って言うのが気になるけど・・・うんいいよ、ボクで良ければ相談に乗るよ」
「女の子って、誕生日に何を貰ったら喜ぶと思う?」
「たい焼き!」
「それは、お前だけだろ・・・」


なんか、アイスクリームと次元が一緒のような気がする・・・。


「でも、とってもおいしいよっ」
「うまくても却下。 俺は女の子全般の意見を聞きたいんだ」
「じゃあ、お金」
「・・・お前、妙なところで現実的だな」
「だって、お金があったらたい焼きいっぱい買えるよっ」
「やっぱりたい焼きか!」
うぐぅ・・・だって・・・」
「・・・おまえの頭の中には、たい焼きしかないのか?」
「おいしいもん」
「うまくても却下だ。 もうちょっとましなもの・・・というか一般的な物、思いつかないか?」
「それは難しいね・・・」


俺は、誕生日プレゼントを訊かれて、たい焼きと答える方が難しいと思うが・・・。


「えっと・・・それで相手はどんな女の子なの?」
「どんな・・・といわれても困るけど・・・・・・アイスクリームが主食で、趣味は巨大な雪だるまを作ること」
「・・・アイスクリーム?」
「そんな女の子は、何を貰って喜ぶと思う?」
「・・・アイスクリームとシャベル」
「だろ?」
「う~ん・・・」
「う~ん・・・」


商店街のど真ん中で、ふたり揃って考え込む。

道行く人にとっては、かなり滑稽な様だと思う。


「・・・プレゼントする相手って、栞ちゃん?」


遠慮がちに、訊ねる。


「ああ」
「そっか・・・」
「・・・?」
「・・・他に、趣味とかないのかな?」
「他の趣味・・・」

 

・・・。


・・・あ。


「思い出した・・・絵を描くことが趣味のはずだ」
「それだよっ」


確かに絵を描く道具となると、色々と思いつきそうだ。


「よし、じゃあ早速買ってくる」
「うん・・・がんばってね」
「ありがとうな、あゆ」
「これくらい朝飯前だよ・・・」


栞が戻って来るまで、そんなに時間は残っていないはずだ。

その前に買っておいた方がいいだろ。

俺はあゆに別れを告げて、それらしい店に入っていった。


「・・・・・・」


その背中を、あゆが複雑な表情で見つめていた。

ショーケースに映った、どこか悲しそうな姿。


「・・・・・・」
「・・・どうした?」


その様子が気になって、店の入口で振り返る。


「何でもないよっ」


振り返った時、あゆは笑っていた。

いつもの笑顔で、穏やかに笑っていた。


「じゃあ、ボクも帰るねっ」


そう言い残して、その場所から走り出す。

夕暮れの長くて赤い影が、あゆの背中を追うように走っていく。

赤く染まった羽が、なぜか印象的だった。


「・・・・・・」


あゆの影を見送って、俺も店の中に消える。

店内で、スケッチブックと画材用具を一式買って、そして店を出る。

外に出ると、ちょうど栞が帰って来ていた。


「お待たせしました」


ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、息を整える。


「ナイスタイミングだ」
「・・・はい?」
「いや、何でもない・・・」


俺は鞄の中に包み紙を隠して平常を装う。


「じゃあ、行こうか」
「あ・・・はいっ」


夕暮れの街で、今日もまた1日が過ぎていく・・・。

記憶の中に、赤く染まるあゆの羽が、今でも印象的に焼きついていた。


・・・。

Kanon【10】


・・・。


~1月16日 土曜日の途中から~


教室を出るときに時間を確認すると、1時ちょっと前。

栞との約束の時間まではあと少しだったが、これなら待ち合わせの場所までの距離を考えると、ちょうどいいくらいだった。


(一応、あそこも学校の中だからな・・・)


放課後の予定を熱心に話し合う下校途中の生徒をかき分けながら1階へ降りる。

いつものように、直接中庭に出ようかとも考えたが、今日は校舎の中に戻ることもないようだから、昇降口へ移動する。

靴を履き替えてから、一度外に出る。

少し遠回りになるが、校舎沿いに歩けば中庭に行けるはずだ。


・・・。


「・・・相沢君」


昇降口を出たところで、丁度香里と顔を合わせた。


「今から帰るところか?」
「相沢君もそうでしょ・・・」
「いや、俺はまだ帰らない」
「・・・そう」


どこか疲れたような表情だった。


「どうしたんだ?」
「・・・どうもしないわよ」
「そうか・・・?」
「そうよ・・・。 じゃあね」


素っ気なく言い放って、正門の方に歩いていく。

何か声をかけようかと思ったが、すぐに他の生徒の影に隠れて見えなくなってしまった。


「・・・まぁいいか」


香里の態度が引っかかったが、すぐに本来の予定を思い出した。

下校する生徒の流れに逆らって、中庭の方へ移動する。


・・・。


「あ、祐一さんっ」


俺の姿を認めて、栞が元気に手を振る。


「祐一さんっ、祐一さんっ」
「そんなに呼ばなくても気づいてるって」
「今日は土曜日で学校が半日なので、ちょっと嬉しいんです」
「休んでるんだから、関係ないだろ」
「そんなことないですよっ。 気分の問題ですから」
「しかし、それだけ元気そうだったら来週からは学校行けそうだな」
「・・・うーん。 それを決めるのは私ではないですから」
「医者か?」
「はい。 お医者さんです。 明日、病院に行きます」
「明日って・・・日曜日だろ?」
「そうですけど」
「休みなんじゃないのか?」
「そうですけど」
「どうやって診察してもらうんだ?」
「大丈夫です。 私はこう見えても常連さんですから」
「常連でも休みは休みだと思うけど・・・」
「もちろん冗談ですけど」
「・・・・・・」
「・・・えっと、私の親戚がお医者さんなんです。 だから、特別サービスです」
「なんか、つくづく病院と縁のある生活だな」
「ホントそうですね・・・」


ストールに触れていた手を、ぎゅっと胸元で握り締める。


「その格好、寒いんじゃないのか?」
「大丈夫です。 もう慣れました」


慣れても寒いものは寒いと思うけど・・・。


「しかし・・・俺たち何でこんな場所で待ち合わせしてるんだろうな」
「そうですよね・・・」


ふたりで顔を見合わせてから改めて辺りを見る。

放課後の喧噪さえ届かないような、静かというより寂れた場所。

雪だけに囲まれて、人を待つには最悪の立地条件だった。


「校舎裏でデートの待ち合わせしてるのって、私たちくらいですよね。 きっと」
「デートじゃないけどな」
「そうでしたね」


くすっと笑いながら、栞が歩き出す。


「今度は別の場所がいいですね」
「そうだな。 できれば学校じゃない場所がいい」
「考えておきます」


それから、少し首を傾げるような仕草で空を見上げる。


「今日はいいお天気です」
「そうだな」


同じように見上げた空・・・。

まばらに散らばる雲も、ほとんど風に流されることなく、その場で形を変えていた。


「そろそろ行きましょうか、祐一さん」
「じっとしてても仕方ないしな。 それでどこに行きたい?」
「私が決めていいんですか?」
「ただし、俺が知ってる場所にしか連れていってやれないぞ」
「知ってる場所ってどこですか?」
「商店街」
「他には?」
「学校」
「・・・他には?」
「居候先の自宅」
「・・・他には?」
「これくらいだな」
「・・・商店街でいいです」
「悪いな・・・俺、あんまり知らないから」
「祐一さん、もしよろしければ私が知っている場所に案内しましょうか?」
「さすがは原住民だな」
「・・・変な表現しないでください」
「それで、どこなんだ?」
「・・・無視しないでくださいー」
「冗談だって」
「ひどいですー」


ぷーっとふくれた顔がどこかおかしくて、そして可愛かった。


「えっと、それでどうする? どっちに行く?」
「私はどちらでもいいですから、祐一さんが決めてください」
「本当に俺が決めていいのか?」
「はい」
「だったら・・・栞の知ってる場所でいいぞ」
「本当にいいんですか?」
「俺が案内したって、どうせ商店街くらいしか行くところがないからな」
「・・・・・・」


口元に指を当てて、何かを考え込んでいる様子だった。


「やっぱり、今日のデートは商店街にします」
「どうしたんだ、急に?」
「私の知っている場所は、次の機会にとっておきます」
「まぁ、俺はどっちでもいいけど・・・」
「行きましょう、祐一さん」


俺の手を引っ張るように、嬉しそうに歩き出す。


「・・・言っておくけど、デートじゃないぞ」
「早く行きましょう、祐一さん」


もう一度同じ言葉を繰り返して、ふたり分の足跡を雪の上に残しながら・・・。

俺たちは、誰もいない中庭を後にした。


・・・。


土曜日の商店街といえば、場所に関わらず大抵の場合は学校帰りの生徒で賑わっている。

この街の場合も、その大抵の中に含まれていた。

 

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「わぁ・・・人がたくさん居ますね・・・」


驚いたような感心したような、そんな複雑な表情で佇む。


「確かに今日は多い方だよな」


この天気のせいもあるだろう。


「そうなんですか?」
「そうだと思うけど」
「私、あまり人の多いところに行ったことがなかったので、ちょっと新鮮です」
「でも、商店街くらいは行ったことがあるだろ?」
「ありますけど、こんなに人が多いときに来たのは初めてです」


そう言って人混みを見渡した栞の表情は、どこか楽しそうだった。


「行きましょう、祐一さん」
「そうだな。 人ばっか見てても仕方ないしな」
「それはそれで楽しいんですけど・・・」
「そうかぁ・・・?」
「はいっ。 そうです」


疑わしそうに問い返す俺に、栞は屈託のない笑顔で答える。


(そういうものなんだろうか・・・)


「あ」


商店街の一角を指さして、栞が声をあげる。


「あれって、ゲームセンターですよね?」
「そうだけど、そんなに珍しがるようなものか?」
「私、一度でいいですからゲームセンターでゲームをしてみたかったんです」
「・・・ということは、一度もやったことないのか?」
「中に入ったこともないです」
「・・・変なやつ」
「変じゃないですよー。 今までたまたま機会がなかっただけです」
「だったら、ちょっと寄っていくか?」
「はい。 お願いします・・・」


緊張した面持ちで、ゲーセンの入り口をじっと観察している。


「緊張しますね・・・」
「そうか・・・?」
「でも、私がんばります」


ぐっと両手を握り締める。


「・・・それで、何かやってみたいゲームとかあるか?」
「私、ゲームセンターにあるゲームはインベーダーを撃つゲームしか知らないです」
「栞・・・本当は何歳だ?」
「たぶん、祐一さんのふたつ下です。 私、早生まれですから」
「・・・ちなみに、今のゲーセンにはないぞ」
「え? そうなんですか?」


どうやら、ゲーセンに入ったことがないどころか、ゲーム自体もほとんどプレイしたことがないようだった。


「私、よく分からないので祐一さんに全てお任せします。 あ・・・でも、簡単なゲームがいいです」
「簡単なゲームか・・・」


最近のゲームはどれも操作が難解になる一方で、実は俺もほとんどついていけないことが多い。


「そうだ・・・これなんかどうだ?」


店先に置かれている大きな機械を指す。


「・・・これ、どんなゲームなんですか?」


栞が興味深そうにその筐体をじっと覗き込んでいる。


モグラたたきくらい知ってるだろ?」
「えっと・・・名前は聞いたことあります」
「・・・本当に名前しか知らないのか?」
「・・・はい」
「穴が一杯あいてるだろ? その中からモグラ出てくるから、それをこのハンマーで叩くんだ」
「・・・はい」
「時間内に、どれだけたくさんのモグラを叩くことができるか競うゲームだ」
「はい・・・」
「どうだ、簡単そうだろう?」
「・・・はい。 それなら私にもできそうです」
「じゃあ、やってみるか」


財布の中からコインを数枚取り出して、投入口にカシャカシャと放り込む。


「あ・・・始まりましたよ!」


液晶がきらびやかに点滅しながら、ゲームがスタートする。


「・・・緊張しますね」


ハンマーを両手でぎゅっと握りしめて、言葉通り緊張した面持ちで筐体を見つめる。


「・・・え、えっと」
「始まってるぞ、栞」
「わ、分かってます」
「その割には、思いっきりタイミングがずれてるぞ」
「わ、分かってます」
「・・・・・・」


ゲームスタートから数十秒後・・・。


「あ・・・終わってしまいました・・・」


栞が、悲しそうにゲーム筐体から離れる。


「・・・俺、0点なんて初めて見た」


栞は、予想を遙かに上回るくらい下手だった。


「・・・どーせ、私は反射神経ないですよ」
「いや、あそこまで完璧にタイミングを外すのはなかなかできる技じゃない」
「そんなこと言う人、だいっきらいですっ」
「冗談だって」
「冗談でも傷つきました」

 

 

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「うん、祐一君が悪いよ」
「・・・誰だお前は?」
「誰だじゃないよ。 ボクだよ」


いつからそこに居たのか、あゆが会話に参加してくる。


「えっと・・・」
「お久しぶりだねっ、栞ちゃん
「・・・栞・・・ちゃん?」


戸惑うようにストールをぎゅっと握りしめる。


「あ・・・さっき祐一君が名前呼んでるのを聞いたんだよ」
「そうですか」


少し表情が軟らかくなる。

どうやら納得したようだった。


「えっと、お久しぶりです・・・」
「うんっ。 元気だった?」


緊張気味の栞に対して、あゆはまるで十年来の親友と再会したかのように話しかける。


「学校を休んでいますから、元気ではないですけど・・・」
「え・・・? そうなの?」
「風邪ですから、もうすぐよくなると思いますけど」
「それは大変だね・・・ボクも気をつけないと」


「あゆは大丈夫だ」
「どうして?」
うぐぅは風邪引かないって言うからな」
「言わないよっ!」


「あの・・・うぐぅって何ですか?」
「ううん、何でもないよっ!」
「そうですか・・・」


納得したように頷いたものの、頭には『?』が浮かんでいた。


「こんなところで何やってるんだ? あゆ」
「ゲームセンターに来てやることはひとつだよ」
「釣り銭泥棒か?」
「違うよっ!」


「ゲームですか?」
「もちろんだよ。 ・・・それで、祐一君たちは?」


「折角の土曜日だからな、栞と一緒に商店街を歩いているんだ」
「デート?」
「そう見えるか?」
「ううん、見えない」


「どういうふうに見えますか?」
「うーん・・・仲のいい兄妹、かな?」
「そうですか・・・」


「じゃ、俺たちはそろそろ行くから」
「うんっ、またね」


「失礼します」
「ばいばいっ」
「えっと・・・ばいばい・・・です」


相変わらずの羽をぱたぱたと揺らして、無意味に元気よくゲーセンの中に入っていく。

あゆと別れて、俺たちはまたふたりに戻った。


「・・・祐一さん、これからどうしましょうか?」
「まだ時間は大丈夫か?」
「全然平気です」


時計も見ずに答える。


「栞、日本語間違ってるぞ」
「今はいいんです」
「それもそうだな・・・」
「だから、全然平気です」
「時間いっぱいまで、商店街を歩き回るか?」
「歩くだけですか?」
「途中で何か食べようか」
「はいっ」
「言っとくけど、おごりじゃないからな」
「えー」
「俺、居候だから貧乏なんだ」
「冗談ですよ」


いつの間にか、すっかり機嫌もなおっているようだった。


「今日は私がおごりますよ」
「いや、それはさすがに遠慮しておく」
「どうしてですか?」
「恥ずかしいから」
「何いってるんですか。 今日はデートではないんですから、恥ずかしくないですよね?」


笑顔の栞が、くるっと回りながらストールを羽織り直す。


「・・・祐一さん。 本当に、時間いっぱいまでこうして居られたらいいですよね・・・」
「そうだな」
「はいっ」


元気よく頷いたその笑顔の向こう側に・・・。


「・・・どうしたんですか?」
「いや・・・別に・・・」
「・・・? 変な祐一さん」


笑顔の向こう側に・・・何があるというのだろう・・・。

突然ふってわいた形のない疑問。


「栞のモグラたたきよりはマシだ」


その答えどころか問いかけの内容さえ分からなくて・・・。


「そんなこという人、嫌いですー」


今はただ、雪のように白い少女の笑顔が温かかった。


・・・・・・。


・・・。

 

「・・・あ、もうこんな時間です」


赤く染まる街頭の時計を残念そうに見つめる栞の顔も、今ではオレンジに染まっていた。

夕暮れの風は穏やかで、薄い雲をゆっくりと押し流している。


「そろそろ帰らないと、真っ暗になるな」
「祐一さん、今日は本当に楽しかったです」
「俺も面白かった。 特にモグラたたきが」
「全然面白くないですー」


赤い笑顔のまま・・・。


「見ててください、私、密かに特訓して上手になりますから」
「栞、実は負けず嫌いだろ?」
「そんなことないですよっ。 祐一さんを見返したいだけですから」
「分かった、期待してる」
「本当に上手になりますから・・・」


真剣な表情で、そして上を向く。


「祐一さん、また今度ご一緒していただけますか?」
「そうだな・・・風邪が治ったらな」
「・・・・・・」
「・・・そうだな、約束だ」
「はいっ、約束です。 ・・・そう言えば、来週の火曜日が午前中で終わりって知っていますか?」
「午後から休みなのか?」
「はい。 なんでも、次の日に大きな行事があるらしくて、その準備だそうです」
「だったら、その日にまた遊びに行こうか?」
「私は大丈夫ですけど、祐一さんは予定ないんですか?」
「予定も何も、半日だってこと自体知らなかったんだから大丈夫だ」
「それもそうですね」


楽しそうにくすっと笑う。

 

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「それなら、来週の火曜日はデートです」
「時間と場所はどうする?」
「時間は、今日と同じ1時で構わないですか?」
「俺は大丈夫だ」
「それから、場所ですけど・・・」
「・・・ちなみに、デートじゃないぞ」
「商店街のどこか、にしましょうか?」


俺の言葉は、自然の流れで無視されていた。


「うーん、商店街はちょっと分かりづらいな」


少しだけ考えて、一ヵ所だけ待ち合わせできそうな場所を知っていることに気づいた。


「そうだ、駅前なんてどうだ?」


駅の場所なら当然覚えている。


「分かりました。 それでは駅前に1時」
「ああ」
「それでは、今日はこれで失礼します」


ぺこっとお辞儀をして、俺とは反対の方向に歩いていく。


「・・・・・・」


2、3歩あるいたところで、ふと振り返る。


「ばいばい、祐一さん」


少し恥ずかしそうに、小さく手を振る。


そして、そのまま走るように夕暮れの商店街に消えていった。


・・・。


~1月18日 月曜日の途中から~


・・・。


「祐一、お昼休み・・・」


いつものように名雪が嬉しそうに駆け寄ってくる。


「・・・なんだけど、香里知らない?」
「そこに居るだろ?」


俺の斜め後ろの席を指さすと、その場所はすでに無人だった。


「・・・あれ?」
「ね。 居ないでしょ?」
「ひとりで先に学食に行ったんじゃないか?」
「でも、それだったら一言くらい声かけて行くと思うよ」
「それもそうだな・・・」
「・・・祐一」


名雪が声を落として、囁くように名前を呼ぶ。


「どうした?」
「・・・ごめん、何でもない」
「・・・・・・」


俺の名前だけ呼んで用件を言わないことが流行っているんだろうか・・・。


「祐一、お昼はまた外で食べるの?」
「そうだな・・・」


いつの間にか、この不思議な習慣がすっかり板についていた。


「それじゃあ、またね祐一」
名雪はどうするんだ?」
「学食に行ってみるよ。 もしかすると香里も居るかもしれないから・・・」


言葉ではそう言っているが、名雪自身その可能性は少ないと思っているようだった。


・・・。


「よお」
「おはようございます、祐一さん」
「おはようございます・・・って時間でもないと思うけど」


冬場は一部例外を除いて誰も近づかない雪の中庭。


「実は、さっき起きたところなんです」


北風の吹き抜ける校舎で、その例外ふたりが雪の上で向かい合っていた。


「ちょっとだけ走ってきました」


にこっと微笑みながらストールの裾を合わせる。


「元気そうだな・・・」
「元気だけが取り柄ですから」
「病欠してる生徒の台詞じゃないな」
「冗談です」


首を傾げるように笑った少女の表情は、少し疲れた様子だった。


「何度も言ってるけど、あんまり無理するなよ」
「何度も言ってますけど、私は大丈夫です。 それに、こんなにいいお天気なのに家の中に居るなんてもったいないです」
「でも、いい天気は何も今日だけじゃないんだから・・・」


明日も同じくらい晴れるかもしれない。

あさってだって、その次の日だって、いい天気かもしれない。

それに、春になればもっと澄んだ空が見られるだろう。


「そんなことないですよ。 同じような晴れの日はこれからもあると思いますけど、今日と同じ日はもう来ないんですよ。 ですから、すっごくもったいないと思います」


真上から校舎裏に照らす太陽の光が、真っ白な雪を鮮やかに浮かび上がらせていた。

間違いなくいい天気だ。


「・・・でも、寒いな」
「・・・寒いですね」


見た目がどんなに晴天でも、この冬の寒さは隠しようがなかった。


「風も強いですし」


建物の合間を吹き抜ける風が、今日は一段と強かった。


「わ・・・飛ばされそうですー」


右手でストールを押さえて、左手でスカートの裾を持っている。


「今なら無防備だから攻撃すれば倒せるかもしれないな」
「わっ、何ですか攻撃って!」
「試しに雪玉でもぶつけてみるか」
「わーっ、そんなコトしたら祐一さんのこと嫌いになりますよっ」
「・・・俺は別に構わないけど」
「私は構いますっ」
「だったら・・・」


くすぐってみたら面白いかもしれない・・・。

とても意味がないどころか間違いなく栞が怒るとは思うが、この際なので気にしないことにする。


「どうしてにやにやしながら近づいて来るんですか~」


怯えたように一歩後ずさる。


「試しにくすぐってみようと思って」
「・・・本気で怒りますよ」


言葉通り、声が本気で怒っていた。


「もちろん冗談だ」
「・・・本当に冗談ですか?」
「本当だとも」
「・・・それならいいですけど」


表情を和らげて、少しだけ微笑む。


「・・・でも」


風に持っていかれそうになるスカートの裾を懸命に押さえる。


「今日は、ちょっと大変ですね・・・」


最初はまだ緩やかだった風も、今ではストールどころか栞の小柄な体が飛ばされそうな勢いで吹き荒れていた。


「・・・今日は、さすがにここで昼飯食うわけにはいかないよな」
「きゃあ! スカートが、スカートが!」


返事はなかったが、俺と同意見のようだった。

 

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「だったら、今日はこれで解散だな」
「あ・・・そうですね、仕方ないです」


残念そうに頷く。


「しかし、まだ風邪は治らないのか・・・?」
「・・・・・・もう少し、ですよ」
「もう少しって、どれくらいなんだ?」
「・・・そうですね。 ・・・次の・・・私の誕生日くらいです」


よく分からない例えだった。


「いつなんだ、その誕生日って」
「・・・2月1日です」
「・・・2月1日って、あと2週間もあるじゃないか」
「2週間も、じゃないです。 2週間しか、です」
「2週間も休むと、もう1回1年生をすることになるぞ」
「・・・大丈夫ですよ」


吹き荒ぶ風にかき消されて聞こえなくなるくらいの小声だった。


「祐一さん、明日の約束覚えていますか?」
「明日・・・」
「まさか忘れたりしてませんよね」
「・・・もちろん・・・覚えてる」
「良かったです」
「覚えてるけど・・・でも、ヒント」
「・・・何ですか、ヒントって」
「だったら、第2ヒント」
「・・・もしかして、覚えてないんですか?」
「・・・えっと」
「・・・覚えてないのなら、それで構わないです」


そう言って頷いた栞は、気のせいかもしれないけど、どこか寂しそうに見えた。


「変なこと言って、申し訳ありませんでした・・・」
「午後から遊びに行く約束だろ?」
「・・・祐一さん」
「・・・えっと」
「・・・覚えていたんですか・・・?」
「もちろん」
「・・・・・・」
「悪かった・・・ちょっと、からかっただけなんだけど・・・」
「祐一さん・・・本当に嫌いになります」


いつもの笑顔は、今の栞にはなかった。


「ごめん・・・悪気はなかったんだ・・・」
「私、ずっと楽しみにしていたんです・・・明日のこと・・・」
「・・・・・・」
「ひどいです」


俺の目を、真正面から見据える。


「・・・ごめん」


今まで気づかなかった。

栞が、俺との約束をどれだけ大切に考えていたか。


「・・・でも、いいです。 ・・・私もわがまま多いですから、これでおあいこです」
「ごめんな・・・本当に」


栞の真剣な表情を見ていると、さすがに軽率だったと思う。


「それに祐一さん、ちょっと間違ってます。 午後から遊びに行く、じゃないです。 午後からデートする、です」


そう言って顔を上げた栞は、間違いなく笑顔だった。


「それでは、今日はこれで帰ります」


こくんと首を傾げて、軽く目を伏せる。


「気をつけて帰れよ」
「大丈夫です。 それほど子供でもないですから。 それと・・・明日、楽しみです」


もう一度お辞儀をして、そのまま雪の上を歩いていく。

小さな足跡を残しながら、時々振り返っては小さく手を振っている。

その後ろ姿を見送って、俺は校舎の中に戻った。


・・・。


「・・・・・・」


扉をくぐって廊下に戻ってくると、廊下にひとりの女子生徒が立っていた。

校舎の中に生徒が立っていることなんて珍しくもないが、なぜかその子は俺の方をじっと見ていた。


「・・・あの」


思わず後ろを振り返る。

俺の他には誰の姿もなかった。


「・・・今、外から出てきましたよね?」


全く見覚えのない女の子だった。

制服のリボンが緑色なので、他人の制服を着ているのでなければ、1年の生徒だろう。

どうして見ず知らずの俺に話しかけてきたのか、見当がつかなかった。


「・・・あ」


ひとつだけ思い当たることがあった。


「大丈夫。 上履きの泥は外でちゃんと払い落としたから」
「あの・・・違います」


遠慮がちに俯く。

どうやら、上履きのまま外に出たことを注意したかったのではないらしい。


「・・・さっき、一緒にいた女の子・・・美坂さんですよね?」


かなり躊躇した末、やっとという感じで言葉を続ける。


「美坂って、栞のことだよな・・・?」


もしかすると、この子は栞のクラスメートなのかもしれない。

そう考えると納得できる。

学校を休んでいるはずのクラスメートが、何故か私服で中庭をうろうろしているのだから、不審に思っても当然だ。


「名前までは・・・ちょっと覚えていませんけど・・・」


申し訳なさそうに声を落とす。


「1回だけしか話をしたことないですけど、でも、さっきの人に間違いないと思います」
「・・・なんだ、栞のクラスメートじゃないのか?」


さすがに、クラスメートだったら1回しか話をしたことがないなんてことはあり得ないだろう。


「・・・いえ、クラスメートです」


伏し目がちに、首を横に振る。


「美坂さん・・・1学期の始業式に一度来ただけなんです・・・」


女の子の口から、予想していなかった言葉が漏れる。


「・・・一度だけ・・・?」
「本当に、それっきりだったんです・・・。 その後、美坂さんがどうして学校に来ないのか・・・先生も教えてくれませんでした・・・。 誰も知っている人の居なかった教室で、私に最初に話しかけてくれたのが美坂さんだったのに・・・。 ・・・最初の友達になれると思ったのに・・・」


その話の意味を理解するのに、数秒を要した。


『でも、病気で長期に渡って休んでいる女の子って、ちょっとドラマみたいでかっこいいですよね』


そう言って笑っていた。

屈託なく笑う少女の、その笑顔の向こう側にあるもの・・・。

いつか感じた形のない疑問・・・。


「・・・・・・」


いつの間にか、なかったはずの形がすぐ目の前に広がっていた。

しんしんと降り積もる、真夜中の雪のように・・・。


・・・。

 


~1月19日 火曜日の途中から~


・・・。

 

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「あっ」


駅前のベンチに座っていたストールを羽織った女の子が、俺の姿を見つけて元気よく手を振る。


「こんにちは、祐一さん」
「こんにちは」


ベンチの方に歩いていくと、栞も駆け寄ってくる。


「いいお天気になって良かったですね」


眩しそうに青い天上を仰ぐ。


「きっと、私の日頃の行いのせいですよね」
「だからこんなに寒いのか」
「わー、祐一さんがひどいこと言ってますー」


白い肌の少女が、頬を膨らませて非難の声を上げる。


「それにしても、何時から待ってたんだ? まだ約束の時間までは30分以上もあるだろ?」
「ええっと・・・。 確か、ここに来たのは10時くらいだったと思います」
「それは、早すぎ」
「あはは・・・やっぱりちょっとだけ早かったですよね」
「ちょっとじゃないぞ」
「でも、私は待つことは嫌いではないです」
「変なやつだな」
「わー、一言で片づけないでくださいー」
「普通、待つのが好きなやつなんかいないぞ」
「そうですね・・・。 でも・・・待つことさえできなかった人だっているんですよ」
「どういう意味だ?」
「意味なんてないですよ。 何となく格好良かったので言ってみただけです」
「・・・・・・」
「そろそろ行きましょうか?」
「・・・そうだな、ここで向かい合ってても仕方ないしな」
「寒いですし、ね」
「それで、どこに行く?」
「確か、約束しましたよね? 次は私が知ってる場所に案内しますって」
「そう言えばそうだったな」
「というわけなので、私が案内します」


ストールの裾を合わせて、ゆっくりと歩き出す。


「ここから歩いて行けるとことなのか?」
「そうですね、40分くらいはかかりますけど」


振り返って答える。


「私たち、いつも同じ場所で会っていましたから、たまには散歩もいいです」
「確かにそうだな」


俺も栞の後ろに続いて歩く。

平日の駅前は、まだまだ人通りもまばらだった。


・・・。


栞と並んで雪の道を歩いていると、どこか覚えのある場所に出た。



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「・・・祐一さん、この場所を覚えていますか?」
「確か、あゆが食い逃げして逃げ込んだ場所だな」
「そうなんですか?」


笑いをこらえるような表情で問い返す。

 

「それで、栞と出会ったんだよな?」
「はい」


穏やかに頷く。


「祐一さん、その時のこと覚えていますか?」
「ある程度は覚えてるぞ」


あゆと一緒に逃げてきたこの場所・・・。

小さな悲鳴が聞こえて、そして雪の上に座り込む少女と出会った・・・。

紙袋の中身を広げて、雪と同じくらい白い肌のその少女は、戸惑ったように俺たちを見ていた・・・。


「・・・運命」


栞がぽつりと呟く。


「確か、あゆさんがそう言っていましたよね」
「そうだったか? そこまでは覚えてないけど」
「私は全部覚えていますよ。 その日のこと、全部。 私にとって、本当に大切な思い出ですから」
「思い出って言うほど昔のことでもないだろ?」
「祐一さん・・・思い出に時間は関係ないです。 その人にとって、その一瞬がどれだけ大切だったか・・・どれだけ意味のあることだったのか・・・それだけだと思います」
「・・・そんなに貴重な時間だったか?」


思い返しても、いつものようにあゆをからかっていたという記憶しかない。


「だって、あの時の祐一さんとあゆさん、面白かったですから」
「そうか?」
「私、あのあと家に帰ってずっと笑っていました。 本当に・・・涙が止まらなくなるくらい・・・笑ったんです」
「あゆはともかく、俺は普通だぞ」
「そうですね」


楽しそうに頷いて、そして再び歩き出す。


「行きましょう、祐一さん。 目的の場所はまだ先ですから」


・・・。


それから10分ほど歩くと、林道が大きく開けた場所に出た。



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「ここです」


くるっと振り返って、満面の笑顔で大きく手を広げる。

その後ろで、さらさらと水の流れる音が規則的に聞こえていた。


「・・・こんな場所があったのか」


そこは、雪を実らせた木々に囲まれた、大きな公園だった。


「私のお気に入りの場所です。 しかも、誰もいないですー」


確かに、俺たち以外は全く人の姿がなかった。


「よく考えると、平日だもんな」
「良かったですね。 貸し切りですよ」
「野球だってできるな」
「雪合戦だってできますね」
「・・・・・・」
「雪合戦」
「何もこんな所に来てまで雪合戦しなくても・・・」
「ダメですか?」
「・・・勿論ダメじゃないぞ」


半分は開き直っていた。


「今日は両腕がちぎれ飛ぶまで雪合戦だ」
「わー、嬉しいですー」


文字通り手放しで喜んでいる栞を見て、ため息をつく。


「私、雪玉作りますね」
「・・・・・・」


せっせと雪をかき集めている栞の嬉しそうな表情。


「俺も作る」
「わー、それ私が集めた雪ですー」


そんな少女を見ていると、雪合戦もいいかなと思う。


「早いもの勝ちだ」
「わーそれ私が作った雪玉ですよー」


結局、腕はちぎれなかったものの、右手があがらなくなるまでは雪合戦を楽しんだ。


・・・。


「・・・さすがにちょっと疲れましたね」


噴水の縁にもたれかかるように座って、ストールを羽織り直す。


「しかし、平日の真っ昼間に誰もいない公園で倒れるまで雪合戦してる俺たちって、いったい何なんだろうな・・・」
「そんなの決まってます・・・」


栞が俺の方を向きながら、当然というように答える。


「デートですよ」
「なるほど・・・そうかもしれないな・・・」


同じように噴水に座って、栞の方を向く。


「風が気持ちいいです・・・」
「確かにな・・・」


運動して火照った体に、冬の冷え切った風が心地よかった。

仰向けに倒れるように空を見上げると、真っ白な雲の隙間から太陽が見え隠れしていた。

今、何時くらいだろうか・・・。

俺は時計を持ち歩かないし、それは栞も同じだった。


「そういや、腹減ったな」


正確な時間は分からないが、1時に待ち合わせだったのだから腹が減って当然だ。

しかし、この辺りに店があるとも思えない。


「そうですね・・・。 もうすぐ3時ですから」
「なんだ、時計持ってたのか?」
「持ってないですよ」


ほら、とセーターを捲って自分の腕を見せる。


「私、腕時計って苦手なんです」
「俺も、腕時計はしない方だな・・・」
「時計ならそこにあります」


栞の視線の先・・・。

公園の中程に、大きな街頭時計が立っていた。


「2時50分・・・」
「思ったより時間が過ぎてたんだな・・・。 道理で腹が減ってるわけだ」
「そうですね・・・。 そろそろお昼にしましょうか?」
「もしかして、何か食い物持ってきてるのか?」
「食べ物ですか・・・? ・・・お薬ならたくさんありますけど」


言いながら、スカートのポケットから薬瓶を取り出す。


「・・・いっぱいあるな」
「・・・えっと、これで全部ですね」


あっという間に、噴水の縁が薬屋の陳列棚になっていた。


「・・・食べます?」
「やばいだろ・・・さすがに」
「そうですよね」


・・・それ以前に、なんでこれだけの量がポケットの中に入ったんだ?


「全部で何十個あるんだ・・・」
「お薬以外にも他色々と入ってますけど」
「・・・どうやって?」
「それは内緒です」


口元にちょこんと指を当てる。


「それはいいですけど、お昼ご飯を困りましたね」
「全然よくないが、確かにな」


少し時間はかかるが、商店街に出るしかないかもしれない。


「えっと・・・たまにですけど、車で露天を開いてることがありますよ」
「この時期にか?」
「ですから、たまに・・・です。 一応、行ってみましょうか?」


自信なさげに立ち上がって、そして公園の奥を見る。


「日頃の行いが良ければ、お店開いてるかもしれませんよ」
「そうだな・・・。 今から商店街に行くのも大変だからな」
「私、日頃の行いはいいですから」


にこやかに歩き出す栞と一緒に、昨日まで知らなかった公園を奥まで歩く。


・・・。


「ほら」


嬉しそうに振り返った少女のその先に、露天の店がカラフルな傘を開いていた。


「簡単に何か食べて行くか」
「アイスクリームがいいです」
「俺は焼きそばにするけど、栞は何がいい?」
「アイスクリームのバニラがいいです」
「フランクフルトなんかうまそうだぞ」
「アイスクリームのバニラを食べます」
「おっ、お好み焼きもあるのか?」
「・・・・・・」
「しかも珍しく広島風だぞ」
「・・・祐一さん、嫌いです」
「でも、やっぱり冬といったらアイスクリームのバニラだよな」
「はい」
「・・・・・・」


結局、真冬の公園でアイスクリームをおいしそうに食べる栞の姿を横目に見ながら、焼きそばを頬張ることになった。

・・・何となく予測していた事態ではあったが。


「うぐ・・・おいしいです」
「そうだな」
「祐一さんも一口食べますか?」
「焼きそばにバニラは合わないだろ」
「食べてみたら意外とおいしいかもしれませんよ」
「・・・自分で言ってて、それは違うだろって思わないか?」
「食べるのは、私ではないですから」
「うわっ、ひでぇ」
「くすっ、冗談ですよ」
うぐぅ
「わ。 何ですか、それ?」
「秘密」
「そんなこと言うと気になりますよー」


誰も居ない場所で、真冬にアイスクリームを食べる少女と他愛ない話で笑い合う。

何気ないやり取りのひとつひとつが、栞の言う通り大切な思い出に還っていく・・・。


「祐一さん、顔に焼きそばのソースがついてますよ」
「うわっ、取ってくれっ」
「わー。 ストールで拭かないでくださいー」
「俺、ハンカチ持ってないんだ」
「そんなことする人、嫌いですー」


いつまでもこんな時間が続けばいいのに、と純粋にそう思えた。


・・・・・・。


・・・。


「そう言えば、栞って趣味とかないのか?」
「趣味・・・ですか?」


公園で簡単に昼食を食べた後、俺たちは商店街に向かって歩いていた。

時間はまだ3時過ぎ。

解散するには早すぎたし、俺たちもまだ遊びたりなかった。


「薬コレクションとアイスクリームを食べること以外に」
「両方趣味じゃないですよ」


ぷーっと膨れてから、そして考え込むような仕草を見せる。


「・・・趣味ですか・・・そうですね・・・」


暫く歩いて、ふと立ち止まる。


「私、絵を描くことが好きです」


言ってから、気恥ずかしそうに目を細めて照れたような笑顔を覗かせた。


「最近は描かなくなりましたけど、昔はスケッチブックを持ってよく絵を描きに行ってました。 今日の公園も、その時に偶然見つけたんです」
「絵って、抽象画とかか?」
「風景画です。 それと・・・似顔絵もよく描いていました」
「結構本格的だったんだな」
「まだまだヘタですけど・・・。 でも、絵を描いていると楽しいんです。 何もなかった真っ白な画用紙が、色とりどりの絵の具で埋まっていく・・・。 そして、最後にはひとつの風景がその中にできあがるんです」


いつの間にか、俺たちは再び歩き出していた。

編み目の張った枝の隙間から青い空が覗き、光に透けた雪がきらきらと光る。

雪の街でしか見ることの出来ない、どこか神秘的な、情景の中を歩く。

この風景も、栞はスケッチブックに描いたのだろうか・・・。


「でも、私ヘタですから、あんまり風景に見えないんです・・・。 似顔絵の方が得意です、私」
「今度見てみたいな。 栞の描いた風景」
「屋です。 恥ずかしいですから・・・」


顔を赤くして、足下を見る。


「だったら、自信のある似顔絵でいいぞ」
「・・・自信はないですけど」


本当に自信がなさそうに、声が小さくなる。


「・・・あ。 それなら、祐一さんの似顔絵描きます」


視線を戻して、俺の顔をじっと見つめる。


「それでいいですか?」
「俺なんかがモデルでいいのか?」
「そうですね、やめましょうか」
「うわ、ひでぇ」
「冗談です」
うぐぅ
「わー。 やっぱり気になりますー」
「やっぱり秘密」
「ひどいですー」


顔を見合わせてひとしきり笑った後に、栞が表情をほころばせたまま言葉を続ける。


「えっと、それで祐一さんの似顔絵、構わないですか?」
「俺は全然」
「それでは、今度スケッチブック持ってきますね」


やがて、雪の林道に出口が見えてきた。

そのすぐ先は、もう商店街だった。


・・・。


特に目的地があるわけではないが、栞とふたりで商店街を出て何気なく街中を歩く。


「ただ歩くだけでも楽しいです」


そう言って微笑んだ栞の言葉に心から頷く。

やがて、その視界の先に休日の校舎があった。


「さすがに静かだな・・・」


午前中で生徒は帰らされたので、校舎の中は無人のはずだ。


「・・・・・・」
「どうする栞? まだ時間はあるけど・・・」
「・・・そうですね」


何が見えるのか、校舎の方をじっと眺めているようだった。


「どっか、行きたい場所とかあるか?」
「・・・・・・」
「俺の知ってる場所で良ければ、今から連れていってやるぞ」
「・・・行きたい場所」
「・・・・・・」
「・・・学校」
「学校がどうかしたのか?」
「・・・学校に、行きたいです」


とつとつと言葉を呟く。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


校舎から視線を逸らすこともなく、どこか泣きそうな表情だった・・・。


「・・・・・・」


時折、笑顔の合間に栞が見せる表情・・・。

そして、そんな表情を覗かせたときの、栞の次の台詞はいつも一緒だった。


「・・・冗談です」
「・・・・・・」


見せたくない表情を笑顔で覆い隠すように・・・。


「・・・祐一さん?」
「学校行こうか、今から」
「・・・え?」


栞の小さな手を引っ張って、いつも通っているはずの校門を越える。


「わっ。 だ、ダメですよー」
「どうせ誰も居ないから大丈夫だって」
「でも、もし見つかったら怒られますよー」
「その時は走って逃げる」
「私、走るの速くないですよー」
「その時は俺がおんぶして逃げてやる」
「・・・ホントですか?」
「あんまり重いと無理だけど」
「わ。 失礼ですよー。 私そんなに重くないですー」
「だったら、大丈夫だ」
「・・・・・・」
「ちょっと校舎の中を歩くくらい問題ないだろ?」
「・・・そうですね。 分かりました」
「よし、じゃあ、日が暮れる前に行くぞ」
「はい」


複雑な表情で校舎を見つめる栞を促して、開いていた昇降口から中に入る。


・・・。


「本当に誰もいないな・・・」
「そうですね・・・」


こつこつとリノリウムの床を叩く音だけが長い廊下に響いていた。

生徒はもちろん、先生の姿させ校舎の中にはなかった。

「残ってる先生は、全員明日の準備で体育館の方に行ってるんだろうな」
「見つからなくて済みそうですね」
「俺は別に見つかってもいいけど」
「私は良くないです」
「そうだよな」


ふたり分の足音を残しながら、廊下をただ歩く。


・・・。


やがて、栞がひとつの教室の前で足を止めた。


「ここは・・・1年生の教室か・・・」
「・・・・・・」


開いたドアから教室の中をじっと見つめていた栞が、こくんと頷く。

そして、誘われるように教室の中へと入っていく。

ゆっくりと、本当にゆっくりと・・・。

まるでそこが思い出の場所でもあるかのように、栞が教室を歩く。


「・・・・・・」


教室の中程で足を止める。

 

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「ここが私の席・・・」


しかし、その机からは乱雑に中身がはみ出していて、とても女の子の机には見えなかった。


「今は、違いますけどね」


教室に入ってから、初めて栞が俺の方を向く。


「1学期の始業式の日。 ひとつ前の席の女の子に、思い切って話しかけたんです。 私もひとりだから、これから友達になろうって・・・そう・・・言ったのに・・・その子・・・喜んでくれてたのに・・・」
「栞のこと、ずっと気にかけてくれてたみたいだぞ、その子」
「・・・え?」


驚いたように、栞が俺の顔を見上げる。


「偶然会ったんだ、その女の子と」
「・・・そうですか」


すぐに視線を外して、また教室の中を歩き始める。


「・・・祐一さんの席はどこですか?」
「俺の座ってる場所か?」
「はい」
「俺は・・・」


コツコツと床を鳴らしながら、窓際の後ろの席まで歩く。


「ここだ」


一番窓際の、後ろから2番目の席。

2階と3階の違いはあるけど、同じ場所だ。


「・・・・・・」


椅子を引いて、その席に座る。

そして、四角い窓から、外の風景を眺める。


「これが、祐一さんの見ていた風景なんですね・・・」
「ここは3階だから、ちょっと見えるものが違うけどな」
「大丈夫ですよ・・・」


・・・。

 

 

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「この空は祐一さんと同じですから」


差し込む光に目を細めながら、どこまでも広がる空の風景を仰ぐ。

絶えず姿を変えながら、どこまでも流れていく雲のかけらを、雪のように白い肌の少女がただじっと眺めていた。


「今日はいいお天気ですよね」


ガラス越しに降り注ぐ、眩しいくらいの日差し。


「明日もあさっても、ずっといいお天気だったらいいですね」
「ずっとは困る人がいるだろ」
「だったら、今月中だけでもいいですよ」
「そうだな、それくらいだったらいいかもな」
「はい」


じっと窓の外を見つめたまま、時間と雲が流れていく。


「祐一さん」


やがて、ぽつりと呟く。


「分からない答えを探すために来ている」


それは、今までも何度か栞が口にした言葉。

どうして、毎日俺に会いに来るのか、訊ねたときの答えだった。


「それで、見つかったのか」
「まだですね・・・きっと・・・」
「・・・・・・」
「私、お姉ちゃんと違って、頭良くないですから」
「ひとつ訊いていいか?」
「・・・はい」
「・・・1日しか学校に来なかったって、どういう意味だ?」
「言葉通り、ですよ」
「本当なのか?」
「はい」


視線は窓の外を見たまま、まるで空のその先にある風景を見ているように思えた。


「新しい学校で、新しい生活が始まる、その日に・・・私は倒れたんです。 それっきりです」


窓に映る栞の表情は、ただ穏やかだった。


「本当は、その日もお医者さんに止められていたんです。 でも、どうしても叶えたかった夢があったんです。 お姉ちゃんと同じ学校に通うこと・・・。 お姉ちゃんと同じ制服を着て、そして一緒に学校に行くこと・・・。 お昼ご飯を一緒に食べて、学校帰りに偶然会って、商店街で遊んで帰る・・・。 生まれつき体が弱くて、ほとんど外に出ることも許されなかった、私のたったひとつの夢」
「・・・・・・」
「そのことを言ったら、お姉ちゃん笑ってました。 安上がりな夢だって・・・。 でも、そんな些細な夢さえ、私は叶えることができなかったんです」


窓に映る少女は、それでも穏やかで、

どこか諦めにも似た、そんな表情だった・・・。


・・・・・・。


・・・。


~1月20日 水曜日の途中から~


・・・。

 

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昼休み。

名雪と一緒に、北川も教室から出て学食へと向かっていく。



「・・・・・・」


結果的に、俺と香里だけ取り残される形になった。


「・・・・・・」


視線を合わせることもなく、同じ窓の外だけを見ている。


「じゃあ、俺も行ってくるから」
「相沢君・・・」


香里が抑揚のない声で呼び止める。


「・・・ひとつだけ答えて」


相変わらず外を眺めたまま、香里が小さく呟く。


「・・・その子のこと・・・好きなの?」
「・・・・・・たぶん、好きなんだと思う」


寂しげに雪の中で佇んでいた女の子・・・。

今、香里がそうしているように、悲しげに窓の外を見つめていた白い肌の少女・・・。


「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・そう」
「・・・・・・」


それっきり、黙り込む。

俺は、無言のまま香里の前から立ち去った。


・・・。


「祐一さんっ」


俺の姿を雪の中で見つけて、元気良く手を振る。


「ちょっとだけ遅刻ですよー」
「悪い。 ちょっと教室にいたんだ」
「ところで、今日は体育館で何かあるんですか?」


ここからは見えないのだが、栞が何気なく体育館のある方向を見る。


「何でも、放課後に舞踏会があるらしい」
「あ・・・昨日準備していた行事って、これのことなんですね」
「飾りつけとかしてたか?」
「凄かったですよー」
「大きなシャンデリアもありましたし、白い布もたくさん運び込まれてました」


両手を広げて、大きなシャンデリアを表しながらその時の様子を話す。


「ふーん、やっぱり本格的だったんだな」
「舞踏会って、ちょっと憧れますよね」
「だったら、今日の舞踏会に出たらいいじゃないか」
「わ、わ、わたしは全然ダメですよー」
「・・・どうして?」
「ドレスなんか、絶対に似合わないですし・・・」


恥ずかしそう自分のつま先をじっと見る。


「確かに、身長と胸が足りないかもしれないな」
「どうして人が気にしてることはっきり言うんですか!」
「気にしてたのか?」
「ちょ、ちょっとだけですけど・・・」


下を向いた表情が、真っ赤になっていた。


「・・・そんなこと言う人、嫌いです・・・。 って、祐一さん笑わないでくださいっ!」
「いや、悪い。 栞にも、普通の女の子らしい悩みがあるんだなぁと思って」
「当たり前ですっ。 こう見えても、私だって女の子なんですから・・・」


ころころと表情が変わって、本気で恥ずかしがっているようだった。


「それに、私だっていつかおっきくなります・・・」
「おっきくってことは・・・もしかして、胸の方を気にしてたのか?」
「祐一さん、嫌いですっ」
「それはそうと、昼ご飯食わないのか?」
「一言で話を逸らさないでくださいー」
「アイスクリーム買って来たんだけど」
「わ。 食べますー」


・・・。


「今日はスケッチブックを持ってきました」
「スケッチブック?」
「それと、道具も一式持ってきました」
「ああ、確か俺の似顔絵を描いてくれるんだよな?」
「ホントに、あんまり上手くないですけど・・・。 私、まだ修行中ですから」
「だったら、早く食ってしまわないとな」
「そうですね・・・。 もう、あんまり時間ないですし。 ごちそうさまでした」
「こめかみとか痛くないか?」
「どうしてですか?」
「いや、普通はこの時期にアイスクリームを食べたら痛くなるものだ」
「それなら、私はきっと普通ではないんですね」
「いや、そう言う意味でもないんだけど・・・」
「冗談ですよ・・・。 あ、祐一さん、動かないでくださいっ」


栞は、どこからともなく空色のスケッチブックを取り出していた。


「似顔絵だろ? だったら多少動いたって・・・」
「ダメですっ」
「・・・・・・」


表紙をめくって、真剣な表情でスケッチブックにコンテを走らせる。


しゅっ、しゅっ・・・。


休み時間の喧噪も届かない校舎裏に、紙の擦れる音だけが響く。

そんなゆっくりとした時間が、しばらくの間、流れていた。

でも、不思議とその時間が退屈ではなかった。


「・・・もう少しでできますよ」
「そういや、普段は誰を描いてるんだ?」
「そうですね・・・」


しゅっ、しゅっ・・・。


「家族、です・・・」


声が少し沈んだような気がしたが、スケッチブックに隠れて表情は分からない。


「でも、私がスケッチブックを持って行くと、みんな逃げるんですよ」
「どうして逃げるんだ?」
「モデルになるのが嫌みたいです・・・」
「確かに、長時間じっとしていないとダメだからなぁ」
「・・・出来ました」


ぱたん、とスケッチブックを閉じる。

 

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「お。 出来たのか?」
「・・・見ます?」
「もちろん見るぞ」
「・・・見ても、怒らないでくださいね」
「大丈夫だって」


スケッチブックを受け取って、栞の心配げな視線を感じながら表紙を開く。


「・・・・・・」
「どうですか?」


緊張の面もちで、俺の反応をじっと窺う。


「・・・栞」
「・・・はい」
「・・・正直、向いてないと思う」
「・・・やっぱり、そうなんですか?」
「ほとんど子供の落書きだ」
「・・・普通、本当にそう思っても、そこまではっきりとは言いませんよ」
「いや、正直に言った方が本人のためかな、と・・・」
「それでもひどいですー。 もう少し言い方があるじゃないですか」
「そうだな・・・。 だったら、味があるとか」
「・・・あんまり嬉しくないです」


俯いた顔が悲しそうだった。

もしかすると、家族がモデルになるのを嫌がった理由って・・・。


「祐一さん、もしかして失礼なこと考えていませんか?」
「い、いや、全然」
「なんか怪しいですよー」


栞はとても鋭かった。


「でも、折角だからこの似顔絵貰ってもいいか?」
「いいんですか、こんな絵で?」
「栞が俺のために描いてくれたものだからな、どんなのでも嬉しいよ」
「どんなのでも、という台詞が気になりますけど・・・でも、そう言って貰えると嬉しいです」
「それに、好きなんだったら、いつか上手くなるって」
「・・・はい」


栞の頭にぽんと手を重ねると、栞はくすぐったそうな表情で頷いた。


「・・・あ」


やがて、チャイムの音が中庭にも響く。


「昼休み、終わってしまいましたね」


名残惜しそうに微笑む。


「・・・栞」
「はい?」
「今日、もう一度会えないか?」
「わ。 祐一さんが誘ってくれるなんて珍しいですね」


それは、自分でも思う。


「それで、どうだ?」
「そうですね・・・」


口元に指を当てる仕草で、うーん・・・と思案する。


「えっと、大丈夫だと思います」
「だったら、放課後に・・・場所はどうする?」
「駅前でどうですか?」
「・・・うーん・・・やっぱりこの前の公園でどうだ?」


目的を考えると、あの公園が一番いいような気がした。


「分かりました。 それでは、4時に噴水の前で待ってます」
「ああ」
「楽しみです」
「じゃあ、またな栞」
「はい。 またです」


栞と別れて、駆け足で教室に戻る。


・・・。


チャイムが鳴って、俺はそそくさと帰り支度を始める。


「祐一、放課後だよっ・・・って、わ。 もう帰る体勢になってる」
「じゃあな、名雪
「う、うん」


戸惑う名雪を残して、俺は真っ先に教室をあとにする。


・・・。


「・・・あ、祐一さん」


噴水の前で、ぽつんと栞が立っていた。


「ここって、本当に人が少ないな・・・」
「穴場ですから」


とたとたと俺のところに駆け寄る栞が、大きく伸びをする。


「今日もいいお天気ですー」


青さを実感するように空を見上げる。

風は穏やかで、そして陽の光は確かに暖かかった。


「やっぱり、私の日頃の行いですよね」
「さて、雷雨になる前に帰るか」
「どうして、そういうこと言うんですか」
「冗談だ」


水の流れる音。

降り積もった雪が、微かな風にさらされて、白く舞っている。


「とりあえず座ろうか、栞」


噴水の縁に残った雪を払いのけて、そして、先に栞を促す。


「ありがとうございます、祐一さん」


栞は笑顔で頷いて、そしてゆっくりと腰を下ろす。


「ちょっと冷たいです」


困ったように微笑んで、俺の顔を見上げる。


「本当に、いいお天気ですね」
「そうだな・・・」


本心からそう思う。

間近で聞こえる水の音・・・。


「祐一さんも、座ってください」


白い吐息が流れる。


「私だけ冷たいなんて不公平です」
「・・・そうだな」


うなずき、栞のすぐ横に腰掛ける。

雪解けの湿ったコンクリートは、確かに冷たかった。


「・・・今、ちょっと思ったんですけど」


噴水の縁に、ちょこんと腰かけた栞が、ふと思い出したように顔をあげる。


「今の私たちって、ドラマでよくありそうなシチュエーションですよね?」
「栞、ドラマとか見るのか?」
「私、こう見えても放送されているドラマは全部見てますから」
「ちょっと意外だな」
「そうですか?」
「何となく、な」
「家にいると、本を読むかテレビを見るくらいしか、やることがないんです」
「それで、ドラマだとこれはどんなシーンなんだ?」
「・・・そうですね。 ありがちですけど、キスシーンです」
「お約束すぎるな」
「そうですねぇ。 でも、私はそういうお約束は嫌いではないです。 だって・・・お話の中でくらい、ハッピーエンドが見たいじゃないですか。 辛いのは、現実だけで充分です。 幸せな結末を夢見て・・・そして、物語が生まれたんだと、私は思っていますから」


どこか寂しそうに笑いながら、小首を傾げる。


「ちょっと、かっこいいですよね」
「栞・・・」
「はい?」
「俺は、ドラマはあまり見ないけど・・・。 でも、今ここで、そんなありがちな場面を見てみたい」
「・・・え?」


俺の言葉に、驚いたような、戸惑うような声をあげる。


「・・・どうして、ですか・・・?」
「栞のことが、好きだから」
「・・・・・・」
「ずっと一緒にいたいと思ってる。 これから、何日経っても、何ヶ月経っても、何年経っても・・・。 栞のすぐ側で立っている人が、俺でありたいと思う」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ホントに、ドラマみたいですね・・・」
「そうだな・・・」
「・・・祐一さん。 私、ダメです」


小さく、それでもはっきりと言葉を続ける。


「祐一さんの気持ちに、応えることはできないです・・・」


そこにあったのは、確かな拒絶の意志だった。


「・・・そうか」
「・・・私・・・今日は帰ります」


立ち上がって、スカートの雪も払わずに、頭を下げる。


「・・・・・・」
「・・・祐一さん」


背中を向けたままで・・・。


「・・・ごめんなさい、です」


そして、走り出す。


「・・・ごめんな、栞」
「・・・謝らないでください。 悪いのは、全部私なんですから・・・」
「・・・・・・」


お互い、言葉が続かなかった・・・。

やがて、栞の背中が見えなくなる・・・。


「・・・俺も、帰るか」


静かな公園に、水面を叩く噴水の音だけが響いていた・・・。


・・・。

 

 

Kanon【9】


美坂栞編―


~1月9日 土曜日の途中から~


・・・。

 

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「人に会いに・・・って、誰に会いに来たんだ?」


少なくとも、こんな場所で待っていないと会えないような人に思い当たる節はなかった。


「それは秘密です」


口元に指を当てたまま、小さく微笑む。


「秘密と言われると、余計気になる」
「そうですよね」
「せめてヒントだけでも」
「ヒントですか・・・?」


呟きながら、困ったように眉を寄せる。


「・・・実は、私もその人のことよく知らないんです」
「・・・は?」
「名前も知らないですし、何年のどのクラスかも分からないです」
「会ったこともないのか?」
「いくらなんでも、それはないですよ」


少女の言っている意味はよく分からないが、つまりはやっぱり秘密ということらしい。


「まぁ、どうせ俺が知ってる名前じゃないだろうしな・・・」
「・・・・・・」


・・・。

 


~1月11日 月曜日の途中から~


・・・。


名雪は廊下で立ち止まり、そして窓の外をじっと見つめている。

 

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「寝てるのか?」
「起きてるよ・・・」
「どうしたんだ、名雪?」
「・・・外、寒いよね」
「そりゃ、これだけ雪が積もってるんだから・・・」
「・・・あの子、何してるんだろうね」
「あの子?」


名雪の見つめる先。

結露の浮かんだ窓ガラスの向こう側に、うっすらと人影を見て取ることができた。


「・・・寒くないのかな?」


不安げに首を傾げる名雪を制して、俺は窓の前に立ち、制服の裾で窓を拭った。


「祐一、汚い」


名雪の批判を無視して、さっきまで名雪が見ていた視線の先を確認する。

中庭、というより校舎の裏側。

この季節はほとんど誰も足を踏み入れないであろう場所。

そんな一面の銀世界の中に、少女がぽつんと立っていた。


「誰かな? あんなところで何してるのかな?」
「・・・たぶん、風邪で学校を休んでいるにも関わらずこっそり家を抜け出してきたこの学校の1年生だろう」
「祐一、知ってる人?」


名雪が不思議そうに首を傾げる。


「・・・俺、ちょっと行ってくる」
「えっ?」
名雪は先に戻ってていいぞ」
「どこに行くの?」
「外」
「気をつけてね」


名雪は、のどかに手を振っていた。


・・・。


昇降口で靴を履き替えるのももどかしくて、上履きのまま外に飛び出す。

まっさらな雪、そしてその先・・・。

 

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「・・・あ」


新しい足跡を残しながら、白い少女の元に歩いて行く。


「祐一さん、こんにちは」


微かに目を細めて、少しだけ頭を下げる。


「また来たのか・・・」
「はい。 また来ました」


以前に出会った時と同じ場所で、同じストールを羽織った少女が微笑む。


「病気の方はどうなんだ?」
「えっと・・・」


少しだけ言いづらそうに視線を逸らす。


「まだ、休んでいないとダメみたいです・・・。 でも、きっと・・・もうすぐよくなりますよ・・・」
「ちゃんと薬飲んでるか?」
「いっぱい飲んでます」
「栄養のあるもの食ってるか?」
「ちゃんとニンジンも食べてます」
「医者の言うこと素直に聞いてるか?」
「ええっと・・・」


困ったように空を見上げる。


「あはは・・・あんまり聞いてないです」
「風邪なんだから、医者の言うことは聞いた方がいいぞ」
「・・・分かりました、ちゃんと聞きます」
「だったら大丈夫だ。 きっとすぐによくなる」


ぽんぽん、と栞の頭に手をのせる。


「・・・あ、はい」


くすぐったそうに目を細めて、子猫のように首をすくませる。

間近で見ると、本当に真っ白な肌だった。


「それで、今日は何しに来たんだ?」
「祐一さんに会いに来ました」


冗談めかして・・・という風でもなく、穏やかに微笑みながら俺の方を真っ直ぐに見る。


「・・・ご迷惑ですか?」


俺が黙っていたためか、不安そうに言葉を続ける。


「いや、別に構わないけど・・・」
「嬉しいです」
「でも、なんでわざわざ俺に?」
「楽しい人ですから」


質問の答えになってるのか、なってないのかよく分からない反応を返しながら、言葉通り楽しそうに頷いていた。


「・・・・・・」


よく分からない女の子だった。

想像していたよりも元気な仕草、そして明るい表情。

言葉を交わせば交わすほど、どんどん最初の先入観が薄れていく。

これが本当の少女の姿なのだろうか?

だったら、最初に出会ったときの、あの怯えたような表情は何だったのだろう?


「どうしたんですか? 複雑な顔をしてますけど?」
「いや、何でもない」
「もしかして、風邪ですか?」
「違うって」
「今年の風邪はたちが悪いですから、気をつけてくださいね」


栞が言うと、妙に説得力があるんだかないんだか、微妙なところだった。


「あの?」
「いや、大丈夫だから」
「そうですか。 一安心です」
「とりあえず、人の心配よりも自分の体の心配をしろ」
「そうですね・・・」


ばつが悪そうに首をすくめる。


「あの、祐一さん?」
「なんだ?」
「雪、好きですか?」


唐突な質問だった。


「冷たいから嫌いだな」
「なま温かい雪の方がもっと嫌ですよ」
「それはそうだけど・・・」
「私は好きですよ。 雪」


しゃがみ込んで、手のひらで撫でるように足下の降り積もった雪を集める。


「だって、綺麗ですから」


雪に負けないくらい白い手が、小さな雪玉を作る。


「祐一さん、雪だるま作りませんか?」
「もしかして、今からか?」
「はい、今からです」


すくい上げた雪を手の中に納めたまま、そっと立ち上がる。

さらさらとした粉雪が、小さな指の隙間から砂のように流れ落ちてゆく。

都会では決して見られない風景だった。


「この地方に住んでるのなら、雪だるまなんか作り飽きてるんじゃないか?」


そう言えば、俺も昔に名雪とふたりで家の中をすべて雪だるまで埋め尽くしたことがあったのを思い出した。

もちろん、そのあとに思いっきり怒られたが・・・。


「小さな雪だるまじゃないです。 おっきな雪だるまです。 私ひとりだと、小さなものしか作れませんから」
「大きいのって、どれくらいだ?」
「全長10メートルくらいがいいです」
「作れるかっ!」
「材料ならたくさんありますよ」
「材料があったって、無理なものは無理だ」
「・・・ダメですか?」
「ダメというか、不可能だ」
「私、おっきな雪だるまを作ることが夢だったんです。 幼稚園の頃の夢ですけどね」


照れたように少女が微笑む。


「あんまり人に言わないでくださいね。 恥ずかしいですから」
「わかった。 だったら、栞の病気が治ったら俺が手伝ってやる」
「ほんとですか?」
「ただし、全長10メートルは保証しないぞ」
「分かりました、我慢します」
「だから、今日は大人しく帰るんだ」
「昼休みが終わったら帰りますよ」
「約束だぞ」
「はい。 約束です」


時計がないので具体的には分からないが、あと数分で予鈴が鳴るはずだ。


「・・・これ、どうしましょうか?」

 

さっきから持ったままの小さな雪の固まり・・・。


「捨てろ」
「折角、綺麗に丸めたんですけど・・・」
「だったら食ってしまえ」
「そんなこと言う人、嫌いです」


台詞とは裏腹に、表情はほころんでいる。


「雪合戦はどうですか?」
「雪合戦?」
「はい。 雪合戦です」


手に持った雪玉を地面に置いて、足下の雪をもう一度かき集める。

そして、おむすびを作るように、ひとつひとつ丸めていく。


「・・・よいしょ、よいしょ」


楽しそうに作業をしている。


(まぁいいか・・・)


栞の白い肌と赤くなった手のひらを見ていると、時間までならつき合ってもいいかなと思う。


(それにしても・・・)


雪だるまの次は雪合戦か・・・。

もしかすると、遊びたいのかもしれないな。

家の中ではなく、外で、思いっきり・・・。


「祐一さん」


雪を丸めていた栞が、顔を上げる。


「雪玉の中に石を入れてもいいですか?」


怖いことをさらっと言う。


「ダメだ!」
「ダメですか・・・?」
「当たり前だ!」
「でも、その方がちょっとエキサイティングですよ」
「エキサイティングでなくていいから、入れるな・・・」
「ちょっと残念です・・・」


本当に残念そうに俯く。

やがて、8個の雪玉が同じ雪の上に並んだ。


「もう少しです・・・」


そして、9個目を置いた時・・・。


「・・・あ」


休み時間の終わりを告げるチャイムの音・・・。


「・・・・・・」


ゆっくりと立ち上がる。


「終わっちゃいましたね・・・」
「そうだな・・・」
「一生懸命作ったんですけど、無理でした。 ごめんなさいです」


微笑む表情が、どこか寂しげだった。


「じゃあ、これで解散だな・・・」
「はい。 帰ります」


次に頷いたとき、寂しげな表情は影を潜めていた。


「俺も急がないと、5時間目が遅刻になるな・・・」


たぶん、先に戻ったはずの俺たちよりも香里の方が・・・。


「・・・あ」


思い出した・・・。

ずっと引っかかっていたこと・・・。


美坂香里
「え?」


栞の表情が目に見えて変わった。


「香里と名字が一緒だったんだ・・・」


鈴木とか佐藤とかならまだしも、美坂なんてそうそうある名前ではないはずだ。


「・・・・・・」
「もしかして、香里の妹か?」
「・・・えっと」
「それか、弟」
「本気で怒りますよ」
「じょ、冗談だって」
「・・・お姉ちゃんを知っているんですか?」


ということは、本当に香里の妹に間違いないようだ。


「ああ。 偶然だけど同じクラスだ」
「そうですか・・・」


複雑な表情で言葉を濁しながら、ゆっくりと空を見上げる。

連なる校舎。

雨よけには雪が積もり、窓は白く凍りついていた。


「もしかして、香里に用があって来たのか?」
「・・・いえ、そういうわけではないです」


視線を校舎に送ったままそう呟く。

表情は分からなかった。


「・・・さて、いい加減そろそろ戻らないとな」
「そうですね・・・残念ですけど」
「ひとりで帰れるか?」
「帰れますっ。 子供じゃないですから・・・」
「そうか? 雪だるまも雪合戦も充分子供っぽいと思うけどな」
「・・・そんなこと言う人、嫌いです」


膨れた表情で、くるっと背中を向ける。


「いいか、家で寝てるのが寂しい気持ちは分かるけど、ちゃんと安静にしてないと治るものも治らないぞ」
「・・・そうですね」


頷いて、そしてもう一度振り返る。

今度は俺の方に向かって。


「祐一さん・・・」
「なんだ?」
「約束・・・ですよ。 病気が治ったら、雪だるま作ってくれるって・・・」
「ああ・・・約束だ」
「はいっ」


自分の精一杯で、元気よく頷く。


「今日は楽しかったです」
「そうか・・・?」
「はい。 とっても楽しかったです。 ありがとうございました」


ぺこっとお辞儀をして、そのまま雪の地面を歩いていく。

やがて、栞の姿は雪の中に溶けていった。


「・・・俺もそろそろ戻らないとな」


確か、予鈴が鳴ってから5分で本鈴だったはずだ。

見上げると、風にさらされた粉雪が舞い、誰もいない中庭に取り残された雪玉もやがて新しい雪に埋もれていく・・・。


・・・。


「ただいま」
「おかえりなさい」


廊下に戻ると、同じ場所で名雪が待っていた。


「祐一、あの子と知り合い?」
名雪は知ってるのか?」
「ううん、知らない女の子だよ」
「そうか・・・」
「誰なの?」
「秘密」
「わっ。 余計気になるよっ」


(香里に直接訊いてみるか・・・)


「無言で歩いていかないでよ~」


・・・。


教室に戻ると、当然のように学食組は俺たちふたりを除いて全員戻ってきていた。

 

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「どうして先に戻ったはずのあんたたちが一番遅いのよ・・・」
「こいつが道に迷ったんだ」


「ええっ! わたしは関係ないよ!」
「やれやれ、迷惑かけた上に言い訳か」
「悪いのは祐一だよ~」


「大丈夫だって。 みんなどっちが嘘ついてるかくらい分かってるから」


「おーい、先生が入ってきたぞ」

「あ、ホントだ。 じゃ、またね」


先生の姿を確認して、すぐ近くの自分の席に帰っていく。

香里には訊きたいことがあったのだが・・・。


(まぁいいか・・・)


・・・。

 

~1月12日 火曜日の途中から~


・・・。

 

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「・・・おい、相沢」


後ろの席の北川が、小声で話しかけてくる。


「あの子・・・またいるぞ」
「あの子って?」


同じくらいの小声で返す。

そして、返してからその言葉の意味に気づいた。

窓の下。

雪に覆われた冷たい場所の中心。


「・・・・・・」


いつからその場所にいたのかは分からない。


「女の子だろ? 何やってんだろうな」


たったひとつの足跡が辿り着くその先に、雪のように白い肌の少女が立っていた。

小柄な体に、ストールを羽織っている。

間違いなく美坂栞だった。


(・・・はぁ)


思わずため息が出る。

もしかしたらとは思っていたが・・・。


(・・・・・・まぁいいか)


勿論よくはないのだが、授業中なのでどうすることもできない。

それに、無下に追い返すことが忍びないのも事実だった。

しばらくして、4時間目の終了を告げるチャイムが響いた。

担任が出ていって、一気に教室内が昼休みムードに染まる。


「祐一、今日も学食?」
「いや、俺は外」
「え?」
「じゃあな、名雪
「え? え?」


・・・。


この時期の校舎裏は、当然のように学内の喧噪からは隔離された場所だった。

白い葉をつける木々が立ち並び、暖かくなれば格好の休憩所になりそうな階段の段差も、今は雪に覆われている。


「・・・よぉ」
「こんにちは」


台詞だけ聞いてると何でもないやりとりだが、場所が場所だけに不思議な情景だった。


「寒くないか?」
「もちろん寒いですよ」


ストールを羽織ってはいるが、短いスカートが特に寒そうだった。


「でも、暑いよりはいいですよ」
「そうか? 俺はどっちも嫌だけど」
「服をたくさん着ることはできますけど、服を脱ぐことができる枚数には限りがありますから」


いつもと変わらない笑顔で、にこっと微笑む。


「それに、暑いと雪だるまが溶けてしまいます。 悲しいです」
「もしかして、この場所が好きなのか?」


ふと思った疑問を声にする。


「どうしてですか?」
「いつもここにいるから」
「そんなことないですよ。 ちゃんといろんな場所で目撃されてると思います」
「だったらどうしてここにいるんだ?」


最初は誰かに会いに来たと言った。

次は俺と話をするために来たと言った。


「私がここにいる理由ですか?」


少女が首を傾げる。


「実は、私にもよく分からないです」
「・・・・・・」
「分からない答えを探すために来ている、という答えはどうですか?」


微かに垣間見せた、今までとは明らかに違う表情。


「祐一さん・・・」


不意に、栞が笑顔を見せる。


「今の台詞、ちょっとかっこいいですよね?」
「全然」
「うわっ、ひどいですよ。 これでも一生懸命考えたんですから」


いつの間にか、いつもの栞に戻っていた。


「そんなの考える時間があったら、風邪を治すことを考えろっ」
「こう見えても暇なんですよ」
「それは昨日も聞いた」
「明日は他の理由を考えておきます」
「考えなくていいから、家でじっとしてろ!」
「・・・残念です」


さっき見せた悲しげな表情は、今は微塵もなかった。

少なくとも、俺が一番知っている栞の姿だった。


「しかし、いつまで風邪引いてるつもりだ?」
「私に訊かれても困ります」
「医者は何て言ってるんだ?」
「医者の言うことを聞かない困った患者だって言ってます」
「いや、そうじゃなくて・・・」
「冗談です」


にこっと微笑んだとき、く~と小さくお腹の音がした。



「あはは・・・お腹すきました」


恥ずかしそうに、照れながらお腹を押さえる。


「俺だって、まだ何も食べてないんだ」
「困りましたね。 ここには雪しかないです」
「雪なんか食ったら、絶対に腹壊すぞ」
「おいしそうですけどね」
「・・・そうか?」
「かき氷みたいですから、シロップをかけたら食べられるかもしれません」
「シロップなんてないぞ」
「だったら諦めます」


お腹を押さえて、小さく微笑む。

く~~、ともう一度お腹が鳴った。


「腹減ってるんだったら・・・」
「嫌です」
「・・・まだ何も言ってないぞ」
「帰れって言うんですよね?」


先に言われてしまう。


「・・・・・・」
「ひどいです・・・祐一さんだけはそんなこと言わない人だって信じてたのに・・・」
「信じてたも何も、今までに何度も言ってるだろ・・・」
「あ、そうでしたね」


ころころと表情を変える。


「とにかく、すぐに帰れ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
「嫌いでもいいから帰れ」
「・・・・・・」


不意に押し黙る。


「・・・分かりました」


そして頷く。


「私も、嫌われてもいいですから帰りません」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・はあ・・・分かったよ」


結局、俺が根負けする形になった。


「ただし、昼休みの間だけだぞ。 その間だったら、俺もつき合ってやるから」
「・・・すみません、ちょっとわがままでした」


さすがに申し訳なさそうな表情で下を向く。


「俺は別に構わないから」


それに・・・。

この白い肌の少女の真意を知りたかった。

どうしてそう思ったのかは分からないけど・・・。


「そうだ。 俺が何か買ってきてやろうか?」
「学食ですか?」
「そうだな」


学食の購買部に行けば、サンドイッチでもカレーパンでもなんでも売っているだろう。


「何でも好きなの買ってきてやるぞ」
「ホントに何でもいいんですか?」
「ただし、ここまで持って帰ってこられるものだぞ」
「分かりました・・・」


一呼吸置いて、栞が呟く。


「アイスクリームがいいです」
「・・・は?」
「私は、アイスクリームがいいです」
「・・・アイスクリームって、あの冷たいアイスクリームか?」
「温かいアイスクリームって、あるんですか?」
「さぁ・・・」
「それでは、冷たいアイスクリームでお願いします」
「・・・栞」
「はい?」
「なんでこの時期にアイスなんだ?」
「大好物なんです」
「・・・・・・」
「アイスクリーム、嫌いですか?」
「嫌いじゃないけど・・・」


食べる時期によると思うぞ、俺は。


「本当にアイスでいいのか?」
「はい」
「・・・分かった、買ってくる」
「ありがとうございます」
「じゃあ、すぐに行ってくるから」
「あ・・・祐一さん」


校舎の中に戻りかけた俺を、栞の真剣な声が呼び止める。


「バニラをお願いします」


もう、苦笑するしかなかった。


・・・。

 

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「・・・おいしい」


木のスプーンをぱくっとくわえて、栞が嬉しそうに目を細める。


「そりゃ、うまいとは思うけど・・・」


時期が時期だけに売っていないことを期待したのだが、俺の願いは叶えられなかった。

冬にアイスを販売する非常識な学園にため息をつきながら、俺もツナサンドをくわえる。


「祐一さんは、アイスクリーム食べないんですか?」
「医者に止められてるんだ」
「そうですか、だったら仕方ないですね」
「栞こそ大丈夫なのか・・・?」
「私はお医者さんに止められていませんから」


確かに、普通はそんな当たり前のことをわざわざ言ったりはしないだろう・・・。


「・・・んく・・・おいしい」


雪と比べると、白と言うよりクリーム色のアイスクリームをカップからすくい取って、そして小さな口に運ぶ。


「・・・・・・」


ちなみに、こっちは見ているだけで寒い。


「祐一さんも、一口だけ食べますか?」
「俺は医者の言いつけは守ることにしている」
「残念です・・・」


俺のために差し出したアイスを、仕方なく自分の口に入れる。


「やっぱり、おいしい・・・」


真冬の中庭で、雪に囲まれてアイスクリームとツナサンド食べる。

校舎の隙間を吹き抜ける風が、時折ひゅうひゅうと音を立てていた。


「・・・せめて校舎の中で食わないか?」
「ダメですよ・・・私こんな格好ですから」


自分の服装を見下ろしながら、栞が首を横に振る。


「見つからなかったら大丈夫だって」
「絶対に見つかると思いますよ」
「根性のない奴だな」
「根性があっても、絶対に見つかると思いますよ。 それに・・・」


栞が言い淀む。


「えっと・・・何でもないです」
「・・・・・・」


そのまま視線を逸らしたので、特に追求はしなかった。

やがて、特に会話を交わすこともなく、昼休み終了のチャイムが鳴った。

結局、昼休みの時間全てを使って、昼食をとったことになる。


「この季節は、ゆっくり食べてもアイスクリームが溶けないからいいですよね」


俺は、今日何度目かの苦笑を漏らした。


「また、来てもいいですか?」


スカートの雪を払いながら、栞が立ち上がる。


「昼休みの時間だけならな」
「はい」
「でも、本当は先に風邪を治した方がいいと思うけどな」
「あはは・・・そうですね。 それでは、今日はこれで帰ります」


お辞儀をして、ゆっくりと校門に向かって足跡をつけていく。


「祐一さん・・・」


くるっと雪の上で振り返って、スカートの裾がふわっと風に舞う。

 

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「また明日です」


にこっと微笑んでいた。


その後は、振り返ることもなく歩いていく。


「また明日か・・・」


とりあえず、栞が制服姿で現れることを願いながら、俺も校舎の中に戻った。


・・・。


~1月13日 水曜日の途中から~


・・・。

 

 

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香里の顔を見て、ふと浮かんだ疑問。

香里は、栞がここに来ていることを知っているのだろうか?

そう言えば、今までに栞のことを香里に話したことはなかった。


「なぁ、香里・・・」


多少の躊躇はあったが、やはり香里に訊いてみようと思った。


「栞が毎日学校に来てるって知ってたか?」
「・・・・・・」


反応はなかった。


「・・・栞って、誰?」


そして、ぽつりと呟く。


「・・・誰って・・・」
「聞いたことない名前だけど、相沢君の知り合い?」
「姉妹じゃないのか・・・?」
「姉妹・・・? 誰の・・・?」
「香里の」


俺の視線を怪訝な表情で返す。


「知らないわ、あたしはひとりっ子よ」
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「・・・・・・」


栞は、確かに香里のことを自分の姉だと言った。

しかし、香里は自分に姉妹なんていないと答えた。


・・・。


どっちかが嘘をついている?

普通に考えればそんな結論に達する。

でも、それならどっちが・・・?


(大体、何のために・・・?)


そんな考えを中断するように、休み時間の終了を伝えるチャイムが鳴った。


「・・・じゃあね、相沢君」


香里は自分の席に戻り、名雪はまだ黒板消しと格闘していた。


・・・。


かわり映えしない授業風景を眺めながら、先生の話を右から左に聞き流している。

別に授業を受けるのが嫌なわけではないのだが、さすがに内容が全く分からない授業となると話は別だった。

先生も変わって、教科書もノートも新しくなって、授業内容も微妙に違う。


(3年になったら頑張る・・・)


自分にそんな言い訳をしながら、授業風景は過ぎていった。


・・・。


4時間目の担任が教室を出て、後を追うように廊下側の生徒が教室の外に走り出す。


「・・・俺も移動するか」


学食組が一通り席を立ったあと、俺もゆっくりと教室を出る。

場所は決まっていた。

誰もいない、あの場所へ。


・・・。


中庭へ通じるドアを開けると、外は薄暗かった。

どんよりとした分厚い雲に覆われて、青空はかけらも見ることができなかった。

風も強い・・・。

それこそ、いつ雪が降るどころか吹雪になってもおかしくないような空模様だった。

音を立てて吹き荒ぶ風が雪の積もった木々を揺らし、一足先に吹雪の様相を呈していた。


「・・・・・・」


そんな中で、ひとりの少女が立っていた。

ストールとスカートの裾を押さえて、困ったような表情で雪の中に佇んでいた。


「あ、祐一さ・・・きゃっ!」


風に運ばれて、そのまま流される。

 

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「わっ、わっ・・・スカートが・・・」

「・・・・・・」


とても大変そうだった・・・。


「とりあえず、中に入ったらどうだ?」


何もこんな時に外に立っていることもないだろう。


「だ・・・ダメですよ・・・わっ!」


スカートの方に気を取られていたので、代わりにストールを風に持っていかれる。


「楽しそうだな」
「そ、そんなこと言う人、嫌い・・・きゃっ」
「・・・やっぱり、楽しそうに見えるけど」


しばらくして、風が収まるまでそんな状態が続いていた。


・・・。


「・・・はぁ、少し落ち着きました」


風の通りの少ない壁際に移動して、ほっと息をつく。

吐いた息もすぐに流されていく。

中庭のど真ん中に比べて少ないとはいえ、決して穏やかな場所ではなかった。


「大丈夫か?」
「ちょっとふらふらします」
「そうだろうな・・・」
「で、でも、元気です」
「目、回ってるんじゃないのか?」
「ふぇ・・・大丈夫ですぅ・・・」
「それならいいけど・・・」
「は、はい・・・」


本当に大丈夫なのかはとても怪しいところだが、一応は落ち着いたらしいので話を進める。


「とりあえず、何か食べるか?」
「えっと・・・そうですね・・・」


小さな口元に白い指を当てる。


「やっぱりお腹すきましたから・・・よろしくお願いします」
「じゃあ、また学食行ってくるから何か欲しいもの言ってくれ」
「アイスクリーム」
「・・・・・・」
「アイスクリームのバニラ」
「・・・・・・」
「あ、今日はお腹すいてるのでふたつお願いします」
「・・・今日は違う物にしないか?」
「それなら、アイスクリームのチョコレートお願いします」
「・・・・・・」
「えっと・・・チョコとバニラが半分ずつ入ってるアイスでもいいですけど・・・」
「・・・分かった・・・もうなんでもいい」


どうやら、アイスクリームだけは譲れないようだった。


「それなら、バニラお願いします」


栞の笑顔に見送られて、俺は校舎の中に引き返した。


・・・。


昼休みに入ってから少し時間が経ったこともあって、カウンター前の人混みはそれほどでもなかった。

俺は、なぜこの時期に動いているのか分からないクーラーボックスの中からバニラカップをふたつ取り出した。

そして、代金を払ってすぐに引き返す。

途中、奇異の視線で見られていたような気もするが、とりあえず無視する。


・・・。


中庭に出ることのできる鉄の扉。

このドアを開けて外に出るのは、今日2回目だった。


「・・・・・・」


・・・。


「見なかったことにしよう・・・」


ばたんっ!


「祐一さんっ、何事もなかったように戻らないでくださいっ」


冷たいドアの向こう側から、栞の非難の声が聞こえる。


・・・。


「いや、冗談だ」
「・・・本当に冗談ですか?」
「もちろん」
「・・・・・・」
「それよりも、昼飯買ってきたぞ」
「・・・ごまかしてませんか?」
「全然」
「それならいいですけど・・・」


笑顔を覗かせながら、アイスクリームをふたつ受け取る。


「祐一さんは、お昼どうするんですか?」
「俺は・・・」


・・・。


「・・・しまった」


よく考えると、自分の分を買うのを忘れていた。


「ひとつあげますよ」
「・・・・・・」
「私は、ひとつで充分ですから」


そう言って微笑む栞の後ろには、風景を覆い尽くすような雪が舞い降りていた。


「俺は・・・見てるだけで充分だから・・・」


一歩後ろにさがる。


「食べないと、お腹すきますよ」


そのかわり、食べたら絶対に腹を壊すだろう。


「本当に食べないんですか?」
「・・・・・・」


確かに、このまま何も食べずに午後からの授業に臨むのは心許なかった。


「・・・そうだな・・・食ってみる」
「はい」


何がそんなに嬉しいのか、笑顔で頷く。


「・・・・・・」


早まったかも・・・。

栞の笑顔を見て、そんな気がしてきた・・・。

昨日の場所は完全に雪に埋もれているので、ドアのひさしの下で食べる。

幸い風が一時よりは弱まったので、頭から雪をかぶることはなかった。

もちろん、寒いことには全然変わりがないどころか、今までで一番の寒さだった。


「おいしいですね」
「・・・そう、かもな」
「食べてないんですか?」
「いや、一応食べた・・・」


でも、味なんてほとんど分からなかった。


「おいしいですよね」
「・・・・・・」


結局、そのまま最後まで食べさせられることになった。


「・・・何となく、腹が痛いような気がする」


食べ終わっても、まだ雪は降り続いている。

風に運ばれた結晶が、空っぽのカップの中に積もっていた。


「お腹のお薬ならありますけど・・・」


まだ食べ終わっていない栞が、心配そうに木のスプーンをくわえていた。


「今、持ってるのか?」
「はい。 常備薬のひとつですから」
「・・・そ、そうか」
「他にも、風邪薬、解熱剤、胃薬、頭痛薬、うがい薬・・・ある程度は揃っていますけど?」
「それは頼もしいな・・・」
「腹痛のお薬ですよね? ちょっと待ってください」
「・・・・・・」
「あ・・・ありました。 はい、どうぞ」
「今、どこから取り出したんだ?」
「スカートのポケットですけど?」
「・・・その中に、さっき言った薬が全部入ってるのか?」
「はい、そうですけど?」
「四次元か・・・」
「はい?」
「いや、何でもない・・・」
「・・・腹痛のお薬、要らないんですか?」
「いや、ありがとう」
「一応、食後がいいみたいなんですけど・・・これって、食後ですよね?」
「そう、だな・・・」


しかし、その昼食をとったために腹を壊しているのだから、本末転倒だった。


「はい、祐一さん」


差し出した白い手に、白い錠剤が3粒のっていた。

それを受け取って、そのまま胃の中に流し込む。


「ふぅ・・・楽になった・・・」
「そんなにすぐには効きませんよ」
「それもそうだな・・・」


それでもマシになったような気がするんだから、俺も単純だ。


「・・・ごちそうさまでした」


俺が薬を飲んでいる間に、栞がアイスクリームを食べ終わる。


「おいしかったです」


空のカップに蓋をして、幸せそうに息をつく。

屈託なく笑う少女。

でも、その笑顔の向こう側に、ほんの些細な違和感があった。

香里の言葉。

それが、どうしても引っかかっていた。


「・・・栞」
「はい?」


俺は、思い切って香里の話をしてみることにした。


「今日、香里に妹のことを訊ねたんだ」
「・・・はい」
「そうしたら、自分はひとりっ子だって言ってた」
「・・・・・・」


不意に俯いて、そして何かに耐えているようにぎゅっと口を閉ざす。


「・・・そう、ですか・・・」


やがて、重苦しい沈黙を破るように栞は言葉を紡ぐ。


「それは・・・きっと、私の思い違いです」


栞の表情が、いつもの穏やかな顔に戻っていた。


「祐一さんのクラスに、私のお姉ちゃんと同姓同名の人が居たんですね」
「・・・別人なのか?」
「私のお姉ちゃんは、きっと他のクラスに居るんです」
「でも、香里って名前はともかく、美坂なんて名字・・・」


しかも、名字と名前がまったく同じ生徒が同じ学年に居るなんて、普通に考えると信じがたい。


「その人が違うと言っているんですから、違うんですよ・・・」
「・・・・・・」
「私、こう見えてもそそっかしいんです・・・」


その言葉を最後に黙ってしまったので、それ以上訊ねてることもできなかった。


「・・・じゃあ、そろそろ戻ろうか」
「・・・祐一さん」
「どうした?」
「・・・明日も、また来てもいいですか?」
「来るなって言っても来るだろ?」
「来るなって言われたら来ません。 そのかわり、来てもいいって言われたら、どんなことがあっても来ます」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・分かって、来てもいい」
「・・・え?」


俺の言葉が予想外だったのか、小さく開いた口からはその後の言葉がでなかった。


「そのかわり、無茶はするなよ」
「はいっ」


今までで一番の笑顔だと思った。


「じゃあ、今日はこれで解散」
「はい。 解散です」
「栞、傘持ってるか?」
「ちゃんと持ってますよ」
「・・・どこに?」
「ポケットの中です」
「・・・・・・」
「あ、もちろん折り畳み傘ですよ」


それだって普通は入らないと思うけど・・・。


「それでは、帰ります」
「気をつけてな」
「はい」


頷いて、そして雪の中へ。


「栞」
「はい?」
「今日は、雪が止むまで待っててもいいぞ」
「そうですね・・・」


俺の表情と分厚い雲を交互に見て、そして首を横に振る。


「やっぱり帰ります。 雪、やむとも限りませんし」
「そうか・・・。 だったら気をつけてな」
「はい」
「この前みたいに転ぶなよ」
「そんなこと言う人、嫌いです。 それに、あれは私のせいではないです」
「俺のせいでもないぞ」
「あゆさん・・・でしたよね?」


栞が記憶を辿るようにぽつりと呟く。


「きっと今頃、くしゃみしてるぞ」
「あの・・・」


この少女にしては珍しく、伏し目がちに声を出す。


「どうした?」
「えっと・・・」
「・・・?」
「・・・あ、チャイム」
「・・・それが言いたかったのか?」
「えっと・・・そうです」
「・・・・・・」
「それでは、帰ります」


ぺこっとお辞儀をして、傘を開く。

そして、白く埋め尽くされた中庭を、時折振り返りながら歩いていく。

まるで、雪の中に溶けるように・・・。


・・・。


教室に戻ってくると、すでにほとんどの生徒が帰ってきていた。


「あれ?」


名雪が俺の姿を見つけて、不思議そうに首を傾げる。


「祐一、外に出てたの?」
「ちょっと外でアイスクリームを食べてたんだ」
「アイスクリーム・・・?」
名雪、疑ってるだろ?」
「こんなに寒いのに、アイスクリーム食べる人なんていないよ」
「でも、この時期に食べたいって思う奴もいるかもしれないだろ?」
「うーん・・・やっぱりいないと思うよ。 何か理由があるのなら別だけど・・・」
「この時期にアイスクリームが食いたくなるような理由か?」
「例えば、暖かくなるまで待てないとか・・・」
「それだったら、結局ただのアイス好きじゃないか」
「あ・・・そっか」
「・・・そう言えば、何の話だっけ?」
「・・・えっと・・・あっ! 祐一が外に出てた理由だよ」
「だから、外でアイスクリーム食べてたんだって」
「・・・うーん」


納得しているのか微妙なところだったが、それ以上何も言わずに自分の席に戻っていった。

午後の授業中、俺はずっと窓の外を見ていた。


「・・・・・・」


不規則に流れる灰色の雲を眺めながら、時間だけが過ぎていった・・・。


・・・。


~1月14日 木曜日の途中から~


「祐一っ、お昼休みだよ」


先生が教室を出ていくと同時に、名雪が俺の席に現れる。

ちなみに、言われなくても分かっている。


「今日もひとりで外に出るの?」
「そうだ」


心配げな名雪の声に頷きながら、席を立つ。

窓の外を見ると、昨日とは打って変わって白い雲さえないような晴天だった。

気温もずいぶんとましだろう。

もちろん室内とは比べるべくもないが・・・。


「でも、どうして外なの?」


名雪が当然の疑問をぶつけてくる。


「さぁ、何でだろうな・・・」
「ごまかしてる?」
「いや、本当だ」


それは本心からだ。

栞が毎日学校に姿を見せる理由・・・。

そして、そんな栞に毎日つきあっている自分の気持ちさえも分からない・・・。


「・・・風邪、気をつけてね」
「大丈夫だって」


名雪が心配してくれているのは分かっているので、その言葉は素直に受け取っておく。


「じゃあ、ちょっとアイスクリーム食ってくる」
「うん」


教室を出るとき、振り返って香里の姿を探したが、教室の中には居ないようだった。


・・・。


(栞と香里・・・)


休み時間の活気に溢れる廊下を、ひとりで走る。

途中で学食に寄ってから、改めて目的の場所へ向かう。


・・・。


いつものように、渡り廊下に通じる扉を開けて外に出る。

当然のように、こんな時期にこの出入り口を使う生徒は俺の他には誰も居なかった。


・・・。



昨日の風景が嘘のように、仰いだ空は澄み渡っていた。

それでも、昨日の雪が夢でないことは、真っ白に染まった地面を見れば分かる。

小さな足跡さえない雪の絨毯。

冷たくなったノブから手を離して、一歩だけ外に踏み出す。

しゃりっとした雪の感触が上履きの裏から伝わってくる。

少し遅れて、鉄の扉が後ろで閉まる。


「・・・・・・」


穏やかな風が、雪の地面を撫でるように走り抜けていく。

そんないつもと変わらない場所に、いつもの少女の姿はなかった。


「・・・・・・」


あと数歩、中庭の中心に向かって歩く。


「・・・・・・」


誰も居ない場所に、俺ひとりの足跡だけが残る。

時計を持っていないので時間は分からないが、すでに休み時間に入って10分は経過していると思う。

いつもなら俺よりも先にこの場所に立っているはずの少女。


「遅刻か・・・」


学校を欠席している生徒に遅刻も何もないような気もするけど・・・。


「・・・・・・」


しばらく、その場所でじっと空を見上げる。

青い空と四角い窓。

窓には、陽の光と空が眩しく映りこんでいた。


「確かに・・・この時期だとアイスクリームは溶けないな」


栞のために買ってきたアイスクリームのカップがふたつ。

冷たいを通り越して、すでに指の感覚がなかった。


・・・。


時間と風だけが過ぎていった。

それでも、俺はこの場所を動くわけにはいかなかった。


『来てもいいって言われたら、どんなことがあっても来ます』


「・・・・・・」


・・・。


後ろから、しゃりっ、しゃりっ、と雪を踏む心地よい音が聞こえる。


「・・・・・・」

 

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「・・・すみません、遅れました」


胸元に手を当てて、真っ白な息を何度も吐き出す。

何度も何度も深呼吸をするように、小さな肩が上下に動く。


「・・・祐一さん?」


遅れてきた少女が、遠慮がちに俺の名前を呼ぶ。


「馬鹿だな」
「わ。 折角来たのにその言い方はひどいです」
「無茶はするなって言っただろ」
「それほどでもないです」
「息を切らしながら言ったって説得力ないぞ」
「大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ?」
「これくらい、真冬にアイスクリーム食べることに比べたら全然大したことないです」
「自覚があるんだったら、食うな」
「それでも、アイスクリームは好きですから」
「やっぱり馬鹿だ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
「アイスクリーム買ってあったんだが・・・」
「わ。 今の、嘘です」
「もう、あんまり時間ないぞ」


苦笑しながらアイスクリームを手渡す。


「それでもいいです」
「そうだな・・・」


嬉しそうにアイスクリームのカップを受け取って、そしてこの前並んで座った場所の雪を払いのける。


「ちょっと冷たいですけど」


困ったような表情で、その場所に腰を下ろす。


「・・・大丈夫ですか? 祐一さん」


平然とした顔でアイスクリームを食べながら、心配そうに俺の顔を覗き込む。


「・・・頭が痛い」
「かき氷食べると痛くなりますよね。 同じ原理ですか?」
「・・・多分」


かき氷よりは遙かにマシだろうけど、それでも真冬にアイスクリームはやっぱりこたえる。


「でも、今日はどうしたんですか?」
「何となく俺もアイスクリームが食べたくなったんだ・・・」


そう答えて、もう一口アイスを口に運ぶ。


「・・・・・・」


無口になる味だった。


「おいしいですよね?」
「多分・・・」
「私の分も食べますか?」
「栞・・・」
「はい?」
「わざと言ってるだろ?」
「あはは・・・冗談です」
「・・・なんか、腹も痛くなってきた」
「・・・大丈夫ですか?」
「なんで栞は平気なんだ・・・」
「私は、アイスクリームが好きですから」


好きだったら平気というものではないと思うが・・・。


「そう言えば・・・時間、あとどれくらいなんですか?」


アイスクリームにはつきものの木のスプーンでアイスをすくい取りながら、そう訊ねる。


「昼休みか? 時計がないから分からないけど、もうそんなにはないと思う」
「だったら、早く食べてしまわないとダメですね」
「気が重い・・・」
「がんばりましょう」
「がんばりたくない・・・」
「お薬ならたくさんありますから」
「嬉しくない・・・」
「飲み薬の他にも、貼り薬、塗り薬・・・各種取りそろえてますから」
「・・・どこに?」
「もちろん、ポケットの中です」
「やっぱり四次元・・・」
「何ですか?」
「いや、何でもない・・・」


・・・。


「あ・・・チャイム・・・」


屋上に取りつけられたスピーカーを見上げる。


「休み時間、もう終わりか」
「まだ、残ってるんですけど・・・」


今度は自分の手元に視線を落とす。

そこには食べかけのアイスクリームがあった。


「俺だって半分以上残ってる」
「大急ぎで食べてしまいましょうか?」
「・・・そうだな」
「はい」


・・・。


「ごちそうさまでした」
「口の中が冷たい・・・」
「今日はありがとうございました」


改まって、栞がぺこっと頭を下げる。


「何のことだ?」
「私が来るまで待っていてくれたことです」
「いや、帰ろうとしたらちょうど栞が来たんだ」
「ふーん・・・」
「何だ、そのふーんって言うのは」
「何でもないですっ」
「もう待たないからな」
「そんなこと言う人、嫌いです」


微笑んで、そしてくるっと振り返って歩き出す。


「えっと、冗談です・・・」


後ろを向いたまま、思い出したように言葉を繋げる。


「だって、私、祐一さんのこと好きですから」


一度だけ振り返って、そして雪の上を走るように足跡を残す。


「・・・・・・」


栞の背中が見えなくなるまで、同じ場所で見送る。


「俺も戻るか・・・」


来た道を引き返すように扉まで戻って、そして一度振り返る。

さっきまでは何もなかった雪面に、今ではたくさんの足跡が刻み込まれていた。


・・・。


~1月15日 金曜日の途中から~


合鍵で玄関を閉めて、そのままポケットに突っ込む。


(・・・さて、どこに行くか)


少し考えて、学校の方に向かって歩いていくことにした。

学校には何の用もないけど、もしかすると新しい発見があるかもしれない。

それに・・・。


(何か昔のことを思い出すかもしれない・・・)


・・・。

 

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「・・・結局、学校まで辿り着いてしまった」


特に目新しい発見もなく、気がつくとすでに校門の前だった。


(・・・引き返すか)


陽もずいぶんと傾いていた。

鮮やかな空が、見慣れた校舎を別の色彩に変えている。


「・・・・・・」


今日が祭日ではなかったら、きっとまだ部活の生徒で溢れている場所。

今日が平日だったら・・・。


「・・・・・・」


平日だったら、きっと・・・。


「・・・さすがに、それはないだろ」


言葉では否定しても、どこか否定しきれない部分があった。

もしかすると、今日も来ていたのだろうか・・・。


「・・・・・・」


この場所で突っ立ってても確認することはできない。


「・・・どうせ、暇だからな」


自分に言い訳するように呟いて、俺はゆっくりとその場所に向かった。


・・・。


真っ白な風景が、赤く染まっていた。



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「・・・いいことを教えてやろうか?」
「はい」


中心に佇む少女が、小さく頷く。


「今日は成人の日で祭日だ」
「知ってます」


表情は、よく分からない。


「なにやってんだ、こんなところで」
「私にもよく分からないです」


少女が、ゆっくりと俺の方に歩いてくる。


「祐一さんは、どうしたんですか?」
「俺は、近くまで来たからちょっと寄ってみただけだ」
「どうしてですか?」
「明日に備えて落とし穴でも作ろうと思ってな」
「わ。 そんなことする人嫌いです」
「・・・栞」
「はい?」
「もしかして、昼からずっとここに居たのか?」
「えっと・・・あはは、そうなりますね」


照れたように笑う栞の表情は、どこか悲しげだった。


「祐一さん・・・。 本当のこと言います・・・。 今日は、来るつもりなかったんです・・・。 でも、気がつくとこの場所に立ってました。 どうしてかは、自分でもよく分かりません。 誰もいないって分かってるのに・・・。 それなのに、こんな場所に立ってて・・・。 やっぱり、誰もいなくて・・・」
「・・・・・・」
「がっかりはしなかったです。 だって、私がおかしいんですから・・・。 それなのに、この場所を動くことができなかった・・・。 もしかしたらって、そんな曖昧な希望にすがって・・・。 結局ひとりぼっちで・・・。 いつの間にかこんな時間になってて・・・。 ほんと、馬鹿ですよね・・・」
「本当に馬鹿だな」
「ひどいです・・・」


微かに笑ったような気がした。


「そんなこと言う人、嫌いです・・・。 でも、嬉しかったです。 祐一さんに、会えましたから・・・」
「・・・栞、ひとつだけ正直に答えてくれ」
「・・・・・・分かりました。 体重以外なら答えます。 あ・・・スリーサイズもダメです・・・自信ないですから・・・」
「どうして、毎日学校に姿を見せるんだ?」


どうして、俺に会いに来るんだ・・・?


「・・・そうですね」


少し考えて、言葉を紡ぐ。


「風邪は、人にうつすと治ると言いますから」


夕焼けの下、栞が穏やかに微笑む。

いつもと同じ栞の笑顔。


「・・・・・・本当は、私にも分からないんです・・・。 一度、言いましたよね? 分からない答えを探すために来てる・・・って。 あれ、本当です」
「それで、答えは見つかったのか?」
「・・・分かりません」
「・・・栞、明日はどうするつもりだ?」
「明日ですか・・・?」
「土曜日だから昼休みはないぞ」
「そうですね・・・盲点でした」
「だったら、放課後どこかに遊びに行かないか?」
「デートですか?」
「・・・そうは言ってないけど」
「分かりました、明日は祐一さんとデートです」
「いや、だからデートとは言ってないんだけど・・・」
「明日の放課後、この場所で待ってます」
「そうだな、じゃあ1時に待ち合わせだ」
「はいっ。 約束です」


・・・。

 

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「じゃあ、これで解散だな」
「はい」


いつもは白い肌の少女も、今日は西日を浴びて赤みを帯びていた。


「明日、忘れないでくださいね」
「大丈夫だって」
「約束ですよ・・・」
「俺は、約束は守る方だ」
「はい。 期待してます。 それでは、これで帰ります」


いつものようにぺこっとお辞儀をして、そのまま歩き出す。


「祐一さん、また明日です」
「ああ」


いつものように栞の後ろ姿を見送って、俺も家路についた。


・・・。

 

Kanon【8】

 

・・・。


1月22日 金曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


・・・。


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


・・・。


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


・・・ん。


『朝~、朝だよ~』


・・・朝・・・?


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


・・・学校・・・?


「・・・起きないと・・・」


布団から手を伸ばして、目覚ましの頭を押す。

かちっ、と小さな音がして、部屋には静寂が戻った・・・。


「・・・マジで眠い」


重たい頭・・・。

そして、執拗にまとわりつく眠気・・・。

そのふたつと懸命に戦いながら、俺は体を起こそうとした・・・。


「・・・動かない」


しかし、体は言うことを聞かなかった。


「・・・もう少しくらいなら・・・大丈夫・・・」


涙でぼやけて見える天井を眺めながら、微睡みの中に身を委ねる。


気持ちよかった・・・。

まるで、夢の中にいるようだった・・・。


・・・・・・。


・・・。

 

名雪っ、時間っ」
「えっと・・・」


慌てて、腕時計に視線を落とす。

 

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「一生懸命走れば間に合うよ・・・。 ・・・2時間目に」


思いっきり、遅刻だった。

一度顔を見合わせてから、全速力で走る。


名雪がいつまでも寝てるからだ」


吐いた息が、風景と共に後ろに流れる。


「今日は、祐一だって寝てたもん」
名雪なんか、毎日だろ」
「毎日じゃないよ」
「でも、ほとんど毎日だろ?」
「う・・・」


名雪は、言い返せなかった。


「しかし、秋子さんは大変だよな。 ずっと名雪の面倒を見てきたんだから」
「・・・うん。 わたし、お母さんのこと本当に大好きだし、それに、感謝もしてるよ」
「でも、ずっとふたりっきりで、寂しくなかったか?」
「・・・寂しくなんて・・・なかったよ」


その言葉とは裏腹に、表情は寂しそうだった。


「それに、今は祐一がいるもん」
「・・・・・・」
「ずっと、このままだったらいいのにね・・・」
「・・・なぁ、名雪
「なに?」
「・・・名雪って、好きなやつとかいないのか?」
「みんな好きだよ」
「そうじゃなくて、好きな男のことを訊いてるんだ」
「・・・好きな男の人・・・?」


記憶を辿るように、大空を見上げる。


「昔は、いたよ」
「昔って、どれくらい前だ?」
「小学生の頃かな」
「それで、どうなったんだ?」
「ふられちゃった」


あはは・・・と笑う。


「そいつとは、それっきりなのか?」
「・・・うん・・・それっきり・・・」


もう一度、力なく笑う。


「でも、名雪が好きだったのって、小学生の頃のそいつなんだろ?」
「・・・うん」
「だったら、今会っても全然変わってる可能性だって、あるだろ」
「でも、変わってない可能性だって・・・あるよ」
「それは・・・そうだけど・・・」
「・・・わたしは、変わってないと思う」
「・・・・・・」


それから先はお互い無言で、やがて、校舎の屋根が見えてきた。


・・・。


「・・・疲れた」


教室に滑り込むと、ちょうど休み時間だった。


「ついに遅刻だな、相沢」
「悪かったな・・・」
「しかし、1時間の遅刻とは豪快だな」
「昨日の夜、色々とあったんだよ」
「・・・色々?」


「うん。 色々とあったんだよ」
「・・・・・・」


「待てっ! 無言で去って行くな」
「やっぱりそういう関係だったんだな」
「だから、誤解したままで戻って行くなっ!」
「だったら、ちゃんと説明してくれ」
「分かったよ・・・。 名雪の部屋で、一緒に試験勉強をしていただけだ」
「・・・似たようなもんじゃないか」
「どこが」
「真夜中に、女の子の部屋にふたりっきりでいたんだろ? 充分、驚くような事態だって」
「相手はいとこだぞ」
「でも、兄妹じゃないだろ」
「同じようなものだ・・・」


やがて、2時間目の授業開始を知らせるチャイムが鳴った。


「じゃあな」


言い残して、北川が自分の席に戻る。

そして、授業が始まった。


・・・。


結局、試験と関係のない授業では、ほとんど眠っていた。

6時間目も寝てしまい、気がつけば放課後だった。



「・・・祐一・・・おはよう・・・」
「ああ、おはよう」

 

どうやら、名雪も同じらしい。


「今日も部活か?」
「・・・うん・・・急いで行かないと」
「だったら、昇降口まで一緒に出るか」
「・・・うん・・・そうだね」


まだ眠そうな名雪と一緒に、教室を出る。


・・・。


「それじゃあ、わたし部活があるから」


昇降口を出て、それぞれ別の方向に歩いていく。


「・・・あれ?」


歩きかけた名雪が、ふと立ち止まる。


「どうした? お金でも見つけたか?」
「・・・うさぎさん」
「うさぎ?」
「・・・うん、うさぎさん」


学校の敷地に植えられた芝生。

その白く染まった芝生を名雪はじっと見ていた。


「・・・・・・」


そして、近づいていく。


「・・・やっぱり、うさぎさん」


名雪の視線のその先・・・。

芝生の上に、白くて小さな固まりがあった。

小判型にまとめられた、雪の固まり。

その上に、葉っぱが2枚、耳に見立てて刺さっていた。


「雪うさぎ、か?」


雪の体に、葉っぱの耳。

そして、木の実でできた瞳は、真っ赤だった。


「・・・誰が作ったのかな?」


しかし、よく見るとその雪うさぎは、心ない生徒に蹴飛ばされたらしく、半分以上が崩れていた。

足跡まではっきりと残っている。


「・・・・・・」


その雪うさぎの元にしゃがみ込むと、おもむろに雪をかき集めだした。


「おい、そんなことしてると部活に間に合わないぞ」
「・・・でも、かわいそうだから」


崩れた雪をかき集めて、小判型にまとめる。


「・・・・・・」


直接雪を触っている手は、真っ赤になっていた。


「分かった、俺も手伝うよ」
「・・・ありがとう、祐一」
「お前はとろいからな、ひとりだと本当に遅刻するぞ」
「・・・うん」


学校の片隅で、雪うさぎを作る。

はたから見れば、滑稽な姿かもしれない。

 

「できたよっ」


葉っぱの耳を2本刺して、雪うさぎの形に戻った。


「でも、片方の目がないね・・・」


どこかへ飛ばされてしまったのか、それとも元からなかったのか、赤い木の実はひとつしかなかった。


「・・・そうだ」


何かを思いだして、ポケットを探る。

そして、小さな赤い玉を取り出した。


「祐一、これ使ってもいいかな?」


それは、この前買ってやった、真っ赤なビー玉だった。


「お前、本当に持ち歩いてたのか」
「うん。 だって、祐一からのプレゼントだもん。 大切な物だけど・・・でも」
「俺は、構わないぞ」
「ホントに?」
「片目だけっていうのも、かわいそうだからな」
「・・・うんっ」


頷いて、雪うさぎにビー玉をつける。


「・・・ちょっと、大きさが違うね」
「それぐらいは大目に見てもらわないと」
「そうだね」


新しく完成した、雪うさぎ。

その姿に、どこか懐かしさのようなものを感じた。


「わたし、そろそろ行かないと」


名雪が、雪を払って立ち上がる。


「そうだな、俺も帰るか」


人通りがばまらになった校門の前で、名雪と別れたあと、ひとり家路についた。

芝生の上には、小さな雪うさぎだけが、ぽつんと取り残されていた。


・・・・・・。

 

・・・。

 

「・・・そろそろ始めるか」


風呂からあがって、鞄の中から普段は滅多に持って歩かない教科書を取り出す。

今日の目標は、国語だった。


「・・・やっぱり、名雪に教えてもらいながらの方が効率がいいな」


教科書や筆記用具を持って、部屋を出た。

幸い、名雪の部屋からはまだ明かりが漏れていた。


コン、コン・・・。


名雪の部屋を、ノックする。


「・・・・・・」


コン、コン・・・。


もう一度、ノックする。


「・・・・・・」


しばらく待ってみたが、返事はなかった。


「・・・もしかして」


部屋の中からは、物音ひとつしない。


「・・・名雪、開けるぞ」


一度断ってから、ドアを開ける。

 

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「・・・くー」


テーブルの前に座り、ノートを開いたままの状態で名雪は眠っていた。


「・・・やっぱりか」


予想通りだった。


「おい、名雪


体を揺すってみる。


「・・・うにゅ?
「勉強するんじゃないのか?」
「・・・え? 祐一?」
「ノックをしても返事がないから、きっと座ったまま寝てるんだろうと思って、起こしに来たんだ」
「・・・ふぁ・・・ありがとう・・・」


まだ眠いのか、あくび混じりの声だった。


「それで、できれば今夜も勉強を教えて欲しいんだけど」
「・・・うん。 いいよ」


名雪に促されて、その向かいに座る。


「わたしも、祐一がいてくれた方が助かるよ」
「お。 名雪も国語を勉強してるのか?」
「うん。 漢字を覚えようと思って」
「俺もそうなんだ」
「わ。 偶然だね」


名雪と同じ教科書を広げて、シャーペンを取り出す。

しばらくはお互い無言で漢字に集中していたのだが、そう長くは続かない。


「ふぅ・・・どうも進まないな・・・」
「ずっと詰めてるからね」
「ちょっと休憩を入れるか」
「それなら、頭がすっきりする、いい場所があるよ」
「すっきりする場所?」
「うん。 目も覚めるよ」


・・・。

 

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「雪で滑りやすいから、気をつけてね」
「おわっ」


言われたそばから、足を取られる。


「祐一、ご近所迷惑だよ」


闇の中、名雪が笑っていた。


「・・・戻ろう」
「わ。 まだ出たばっかりだよ」


ベランダは、ふたり立っても充分余裕があるくらい広かった。

そこから見える街並みは、すべて白く闇の中に霞んでいた。

そして、家の屋根だけではなく、ベランダにも、その手すりにも薄く雪が積もっている。

街灯の明かりもここまでは届かないので、名雪の部屋から漏れる光だけが全てだった。


「・・・やっぱり、戻らないか?」
「まだ、もう少しだけ」


ベランダから身を乗り出して、周りの風景を楽しんでいた。


「・・・・・・」


俺は、窓の近くで、そんな名雪の姿を見ていた。

ふと、名雪の幼い頃の姿が浮かんだような気がした。


「・・・どうしたの?」
名雪、もしかして髪型変えたか?」
「髪型?」


質問の意味が分からなかったらしく、首を傾げる。


「小学校の頃って、三つ編みじゃなかったか?」
「うん。 三つ編み」
「やっぱりそうか・・・」
「でも、ずっと三つ編みだったわけじゃないよ」


夜風に流れる自分の髪を触る。

闇に透ける名雪の髪は、長くて、綺麗だった。


「三つ編みは、1年くらいでやめちゃった」
「どうして?」
「うーん・・・どうしてだろうね」


俺から視線を逸らして、もう一度ベランダにもたれかかる。


「・・・祐一、この街に慣れた?」


それは、ずっと前に訊かれた質問。

ほんの数週間ほど前・・・。

だけど、ずいぶん昔のことのように思えた。


「そうだな・・・。 最初よりは寒いのも気にならなくなったけど・・・。 でも、やっぱり寒いな」
「当たり前だよ・・・」


くるっと俺の方を向いて、微笑む。


「わたしだって寒いもん」
「なんだ、そうなのか」
「ずっとこの街に住んでるけど、寒いものは寒いよ。 でも、わたしはこの街が好きだから・・・。 冬は白い雪に覆われて・・・春は街中に桜が舞って・・・夏は静かで・・・秋は目の覚めるような紅葉に囲まれて・・・そして、また雪が降って、大好きな冬が始まる。 この街、ならではだよね」
名雪は、冬が一番好きなのか?」
「うん」


こくん、と頷く。


「冬はね、特別なんだ」


遠くを見るように、思い出を懐かしむように・・・。

長い髪を、夜風に揺らしながら・・・。


「・・・そろそろ戻ろっか?」
「そうだな、まだまだやらないといけない範囲も、たくさん残ってるからな」
「目も覚めたし、ね」


・・・。


それから1時間ほどして、俺も自分の部屋に戻った。

眠気はあった。

だけど、その夜はなかなか寝つけなかった。


・・・。


そして、俺は夢を見た。

雪が降っていた。

目の前に、大きな建物があった。

雪の積もった木のベンチに座って、俺はただ泣いていた。

涙を拭った手は、小さな、まるで小学生のような手だった。

辺りに人影はなかった。

ベンチを照らす街灯だけが、唯一の明かりだった。

どうして泣いているのかさえ分からない。

どうしてこんな場所にひとりぼっちなのかも分からない。

だって、これは夢だから。

記憶の片隅だから。

昔の思い出の・・・。

7年前の思い出の、記憶だから。


「・・・やっと見つけた」


街灯の明かりに照らし出されて、俺の目の前に、ひとりの少女が立っていた。


「・・・家に帰ってなかったから・・・ずっと捜してたんだよ・・・見せたい物があったから・・・ずっと・・・捜してたんだよ・・・」

 

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「ほら・・・これって、雪うさぎって言うんだよ・・・。 わたしが作ったんだよ・・・。 わたし、ヘタだから、時間かかっちゃったけど・・・。 一生懸命作ったんだよ・・・。 ・・・あのね・・・祐一・・・これ・・・受け取ってもらえるかな・・・? 明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど・・・でも、春になって、夏が来て・・・秋が訪れて・・・またこの街に雪が降り始めたとき・・・。 また、会いに来てくれるよね? こんな物しか用意できなかったけど・・・。 わたしから、祐一へのプレゼントだよ・・・。 ・・・受け取ってもらえるかな・・・。 ・・・わたし・・・ずっと言えなかったけど・・・祐一のこと・・・ずっと・・・」


1月23日 土曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


「・・・・・・」


『朝~、朝だよ~』


「・・・・・・」


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


目覚ましから流れてくる名雪の声を、上の空で聞きながら、俺はただ天井を眺めているだけだった。

夢のかけら。

靄(もや)のかかった頭の中に、1コマの風景が残っていた。

その夢の意味するところを、俺はまだ知らなかった。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


「・・・そうだな」


まとわりつく気怠さを振り払って、俺は体を起こした。

目が覚めてしまえば、いつもと何も変わらない朝だった。


・・・。


「・・・あ、ちょっと待って」


靴を履きに玄関に出たところで、後ろから名雪に呼び止められる。


「時間、3分だけ」


お願いをするように、両手を合わせる。


「今日だって、そんなに余裕はないぞ」
「お願い、祐一」
「分かったよ。 じゃあ、今から3分」
「ありがとう、祐一」


・・・。


リビングに戻った名雪が、リモコンでテレビをつける。


「天気予報か?」
「占い」
「・・・占い・・・?」
「ちょうどこの時間に、来週1週間の運勢が出るんだよ」
名雪、占いなんて信じてるのか?」
「信じてるわけじゃないけど・・・」


やがて、番組の中の占いコーナーが始まる。


「・・・・・・」


信じてないと言う割には、真剣に画面を見ていた。

そういえば、名雪の誕生日っていつだっただろう?


「なぁ、名雪・・・」
「祐一、静かに」
「・・・・・・」


画面に運勢が表示されてるんだから、別にうるさくても問題ないと思うが・・・。


「あ・・・」


名雪が、小さく声を上げる。


「うー・・・今日から1週間の運勢、最悪だって・・・」
「そうなのか?」
「・・・うん」
「占いなんて気にするなって」
「・・・うん」
「それで、名雪の誕生日っていつなんだ?」
「祐一、わたしの誕生日覚えてないの?」
「・・・え?」
「昔、祐一がこの家に来た時、何度も誕生会やったのに・・・」


怒ったような拗ねたような表情で横を向く。


「12月23日だよ」


そのまま、ひとりで玄関まで出ていく。


「うー・・・やっぱり、占い当たってるかも・・・」


・・・。


「・・・あ」


いつもの通学路の先に、どこかで見たことのある羽が揺れていた。

 

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「あゆちゃん?」
名雪さん、おはよっ」


俺たちの姿を見つけて、あゆが走り寄ってきた。


「奇遇だな」
「うん。 ほんとだね」
「じゃあ、またな」
「うん・・・じゃないよっ」
「違うのか?」
「途中まで同じ道なんだから、一緒に行こうよっ」


「うん。 わたしも賛成」


「仕方ないな」


「祐一はこんなこと言ってるけど、本当は嬉しいんだよ」


「そうなの?」
「そんなことない」


「ほら、嬉しそうだよ」


ぼかっ。


「・・・痛い」
「くだらないこと言ってるからだ」
「・・・やっぱり、占い当たってるかも」


よく考えたら、来週の運勢なんだから、明日から有効なのではないだろうか?


「占いって?」
「今朝のテレビの占い」
「悪かったの?」
「うん・・・。 わたし、もしかすると、もう二度とイチゴジャムが食べられないかも・・・」


お前の不幸はその程度なのか・・・。


「その気持ち分かるよっ。 ボクもたい焼き食べられなくなったら嫌だもん」


どうしてお前らは単位がいちいち食い物なんだ?


「・・・おい、あゆ」


前を歩く名雪に気づかれないように、小声であゆを呼び止める。


「・・・どうしたの?」
「・・・お前からも、占いなんて気にするなって言ってやれ」
「うんっ、そうだね」
「さりげなく言うんだぞ」
「任せてよっ。 さりげなくは得意だから」


絶対に嘘だ。

と、思わず口をついて出そうになったが、別の言葉を言っておく。


「・・・頼んだぞ」
「うんっ」


必要以上に元気よく頷いて、名雪の元に駆け寄る。


「・・・そういえば、あゆちゃんって誕生日いつ?」
「え? えっと、1月7日」
「それだったら、わたしと同じ山羊座だよ」
「えっ! ど、どうしようっ! きっと何かよくないことがあるよっ!」


「どうもしなくていいから、おとなしく自分の学校へ行け」


案の定、あゆは何の役にも立たないどころか、逆効果だった。


「二度とたい焼きが食べられなくなったらどうしよう・・・」
「大丈夫だから、行ってこい」
うぐぅ・・・」


泣きそうな顔で、自分の学校へ向かう。


「・・・祐一、言い過ぎ」
「どうもあいつの顔を見ると、からかいたくなるんだ」
「・・・祐一、あゆちゃんのこと好きなんだよ」


思いがけない言葉に、思わず吹き出す。


「それは絶対にない」


断言してもいい。


「・・・・・・」


じっと俺の顔を見ていたが、やがて何も言わずに歩き出す。


「・・・どうしたんだ?」
「どうもしないよ」


それだけ言って早足で歩く。


「・・・・・・?」


いつにも増して変な名雪だった。


・・・。


今日は土曜日なので、授業は午前中で終わった。

たまの4時間授業だと、やけに学校が短く感じる。


「祐一」
「終わったな」
「わたしは、これから部活だけど」
「相変わらずだな、お前は」
「でも、土曜日だからできるだけ早く帰るよ」
「試験勉強だってあるしな」
「勉強してるよりは、走ってる方がいいかな・・・」
「ダメだ、早く帰ってこい」
「そうだね・・・」


・・・。


「あ・・・今日はまだ残ってるよ」


昨日の場所を、名雪が指さす。

芝生の上にちょこんと乗った、目の大きさの違う雪うさぎ。


「・・・良かった」


ほっとしたように息をつく。


「それじゃあ、わたしは部活があるから」
「ああ、またな」


名雪を見送って、ふと雪うさぎに視線を落とす。


「・・・・・・」


夢の中に出てきた雪うさぎ・・・。

夢の続き・・・。


「・・・帰るか」


微かな引っかかりを残したまま、俺は家路についた。


・・・・・・。


・・・。

 

「・・・今日は、社会と理科だな」


そして、明日英語を勉強して、これで何とか試験は大丈夫なはずだ。


「・・・今日も、一緒に勉強するか」


必要な物を持って、部屋を出た。


コン、コン・・・。


名雪の部屋に明かりが灯っていることを確認して、部屋をノックする。


「・・・祐一?」


今日は、すんなりとドアが開いて、中からパジャマ姿の名雪が顔を出した。

一瞬だけ、薄暗い廊下がオレンジに染まる。


「今日もがんばろうね」
「俺は、社会と理科を片づけてしまうつもりだけど」
「うん。 わたしもそれでいいよ」


テーブルの前には、すでに座布団が敷かれていた。


「今夜も、ファイトっ、だよ」


そして、今夜もふたりだけの試験勉強が始まった。

 

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「・・・名雪、実はずっと気になってたんだけど・・・」
「うん?」


理科の化学記号を暗記していた名雪が、顔を上げる。


「・・・そのシャーペン、重くないか?」
「ちょっとだけ」
「凄く使いづらそうなんだけど・・・」
「そんなことないよ。 わたしのお気に入りだもん」


どうやら、猫が入っていると無条件でお気に入りらしい。


「もしかして、腕を鍛えてるのか?」
「・・・そんなに重くないよ」


3日目ともなると、お互い勉強のコツも分かってきた。

名雪が何度か居眠りをして頭を叩かれた以外は、順調に進んでいた。


・・・。


「やっぱり、気分転換にはここが一番だね」


体をほぐすように、名雪がぐっと手を伸ばす。

確かに、ここに出てくると部屋の中にはない開放感があった。


「・・・でも、寒い」
「寒くないと、目は覚めないよ」
「確かにな・・・」


風は冷たいが、それほど強くはなかった。

雲もほとんどなく、夜空には星が瞬いていた。



「わたし、冬になるとよくここに出るんだよ」
「こんなに寒いのにか?」
「うん」


頷いて、手すりに積もった雪を手のひらで集める。


「ここなら、外に出なくても雪があるから。 だから、だよ」


名雪の手に積もった雪が、風に運ばれて舞い落ちる。


「わたし、雪は嫌いじゃないから」
「俺は、あんまり雪は好きじゃないけどな」
「それは、ちょっと違うよ。 祐一はきっと、この街が嫌いなんだよ」


まるで何かを見透かしたように、名雪が言葉を続ける。


「・・・間違ってるかな?」
「・・・いや、その通りだ」


俺は、この街が嫌いだった。

ずっと、拒絶し続けていた。

7年前の、あの冬から・・・。

今まで、ずっとこの街は嫌いだった・・・。

だけど・・・。


「・・・わたしは、祐一にもこの街を好きになって欲しいよ。 この街が大好きだった、あの頃の祐一に戻って欲しいよ。 ・・・ダメ・・・かな・・・?」
「分からない・・・」


それが、今の俺にできる、精一杯の返事だった。


「うん。 そうだね」


ふっと、名雪の表情が緩む。


「期待してるよっ」


月明かりの名雪が、今度は間違いなく微笑んでいた。

そして、そんな笑顔を見て、気づいたことがあった。

俺は・・・。

たぶん、名雪のことが好きなんだと思う・・・。

今まで、すぐ近くにあって、それでも見ないようにしていた答え・・・。

まるで霧が晴れるように・・・。

その答えが、今、目の前にあった。


・・・。


自分の部屋に戻って、布団に潜り込む。

眠気はある。

だけど、どこか寝苦しい夜だった・・・。


・・・。


そして、俺は今日も夢をみた。

雪が降っていた。

目の前に、大きな建物があった。

雪の積もった木のベンチに座って、俺はまだ泣いていた。

涙を拭う小さな手。

そして、目の前に少女の姿があった。


「・・・家に帰ってなかったから・・・ずっと探してたんだよ・・・。 ・・・見せたい物があったから・・・。 ・・・ずっと・・・探してたんだよ・・・。 ほら・・・これって、雪うさぎって言うんだよ・・・。 わたしが作ったんだよ・・・。 わたし、ヘタだから、時間かかっちゃったけど・・・。 一生懸命作ったんだよ・・・。 ・・・あのね・・・祐一・・・。 ・・・これ・・・受け取ってもらえるかな・・・? 明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど・・・。 でも、春になって、夏が来て・・・秋が訪れて・・・またこの街に雪が降り始めたとき・・・。 また、会いに来てくれるよね? こんな物しか用意できなかったけど・・・。 わたしから、祐一へのプレゼントだよ・・・。 ・・・受け取ってもらえるかな・・・。 ・・・わたし・・・ずっと言えなかったけど・・・。 祐一のこと・・・ずっと・・・。 ・・・好きだったよ」

 

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その瞬間、少女の差し出した雪うさぎは、崩れ落ちていた。


「・・・祐一・・・?」


戸惑うように、少女が俺の名前を呼ぶ。

さっきまであった雪うさぎは、地面に落ちて、すでに見る影もなかった。


「・・・・・・」


目が取れて、耳が潰れたうさぎ・・・。

差し出した少女の雪うさぎを地面に叩きつけたのは、紛れもなく俺の小さな手だった。


「・・・祐一・・・雪・・・嫌いなんだよね・・・」


涙を堪えるように、名雪が雪うさぎだった雪のかけらを拾い集める。


「・・・ごめんね・・・わたしが、悪いんだよね・・・」


違う。

名雪は悪くなんかない。

悪いのは・・・。

全部、俺自身なんだ・・・。


「・・・ごめんね、祐一・・・」


だけど、その言葉は声にはならなかった。

それ以上に深い悲しみが、その時の俺の中にはあったから・・・。

この街を、

雪を、

全て思い出の中から消し去りたいくらいの絶望があったから・・・。


「・・・祐一・・・さっきの言葉、どうしてももう一度言いたいから・・・明日、会ってくれる?」


涙を堪えながら、少女が健気に笑おうとする。


「・・・ここで、ずっと待ってるから・・・。 ・・・帰る前に・・・少しでいいから・・・。 ・・・お願い、祐一・・・」


堪えていた涙が、頬を伝っていた。


「・・・ちゃんと、お別れ言いたいから・・・」


そして、約束の日・・・。

ひとりぼっちで佇む少女の元に、俺は最後まで姿を見せることはなかった・・・。


・・・。

 

1月24日 日曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


「・・・・・・」


ベッドから起きあがって、しばらくの間、動くこともできなかった。

夢。

夢でみた風景。

あれは、間違いなく、過去の記憶だった。

閉ざされていた記憶の一部。

それが、目の前にあった。


「・・・・・・」


この街に来てからの名雪との何気ない会話・・・。

そして、他愛ないやり取り・・・。

その向こう側にあった、名雪の気持ち。


「・・・・・・」


自分が、どうしようもなく嫌になった。

忘れていたことが、悔しかった。


「・・・・・・」


俺は、服に着替えて部屋を後にした。


・・・。


「おはようございます、裕一さん」


朝の食卓には、秋子さんの姿しかなかった。


「おはようございます・・・」


椅子に座って、秋子さんに問いかける。


名雪、まだ寝ていますか?」
名雪なら、ほら、祐一さんの後ろですよ」


秋子さんの言葉で振り向いた先・・・。


「・・・ふぁ・・・おはようございます~」


たった今起きてきたのか、名雪が瞼を擦っていた。


名雪・・・今日、ちょっと時間あるか?」
「・・・うにゅ・・・テスト勉強・・・?」
「いや、一緒に遊びに行こうと思って」
「・・・でも・・・今日は、えいご・・・」
「たまの息抜きくらい、いいだろ?」
「・・・うーん・・・」


「行ってきたらどう?」


「・・・そうだね・・・うん、つき合うよ、祐一」
「じゃあ、あとで」
「うん」


・・・。


「でも珍しいね、祐一が誘ってくれるなんて」


遅い朝ご飯を食べた後、俺たちは家を出た。


「ちょっと、名雪と一緒に散歩したくなったんだ」
「そんなこと言っても、何も出ないよ」


うららかな日差しを浴びながら、まだ人通りの少ない朝の街を、名雪と一緒に歩く。


「それで、どこに行くの?」
「約束の場所」
「・・・約束?」


不思議そうに首を捻る。


「どうしようもなく馬鹿な男が、約束をすっぽかした場所だ」
「・・・祐一」
「俺は、謝らないといけないんだ・・・。 その女の子に、心から・・・」
「・・・・・・」


・・・。


お互い、言葉を交わすことなく目的の場所に辿り着いた。

朝の光がガラス張りの駅ビルに反射して、きらきらと輝いていた。


「わたし、この場所はあまりこないんだ・・・」


背中を向けたまま、名雪がゆっくりと歩き出す。


「この街から出ることもほとんどなかったし・・・。 それに・・・ずっと、待ってしまいそうだから・・・。 もう、来るはずがないって、分かってる人を・・・」


ベンチの前で、少女が振り返る。

 

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「わたし、馬鹿なんだよ。 昔のこと、ずっと引きずって・・・。 ほんと、馬鹿だよ」
「ごめんな、名雪
「・・・・・・」
「本当に、ごめん・・・」
「・・・ダメ・・・だよ。 ダメだよ、祐一・・・」
「・・・・・・」
「祐一に言いたかった言葉・・・。 もう、忘れちゃったよ・・・」
「俺は・・・」


今の自分の気持ち・・・。

この数週間、ずっと一緒にいて気づいたこと・・・。


名雪のこと、好きだけどな」
「・・・祐一?」
「仲のいい、いとことしてじゃなくて・・・」
「・・・・・・」
「ひとりの女の子として、俺は名雪のことが好きなんだと思う」
「・・・ひどいよ」


穏やかな日差しの中で、名雪がぽつりと呟く。

それは、確かな拒絶の意志だった。


「・・・今頃そんなこと言うなんて・・・ずるいよ・・・」
「・・・・・・」
「・・・わたし・・・分からないよ・・・。 ・・・突然そんなこと言われても、分からないよ・・・」


最後の言葉を残して、名雪の姿が消える。

俺は、その背中を追うことさえできなかった。


・・・。


自分の机に向かってから、数時間が過ぎていた。

明るかった日差しも、オレンジを経由して、今は闇の中だった。

机の上には、英語の教科書が開いている。

あの時以来、名雪とは顔を合わせていない。


・・・・・・。


・・・。


また、時間が進む。


コン、コン・・・。


ノックする音が、静かな部屋に響いていた。

窓を叩く音。

カーテンの外。


「・・・・・・」


ベランダに、名雪が立っていた。


・・・。


「ごめんね、寒いのに・・・」
「いや、もう慣れた」
「今日は、びっくりしたよ」
「・・・・・・」
「いきなり、あんなこと言われるなんて、思ってもみなかった。 もう、祐一があの冬を思い出すことは、ないって思ってたから。 だから、分からないっていう答えしか、出なかった・・・」


月の夜空を仰ぐように、名雪が背中を向ける。


「わたし・・・あれから考えたんだ・・・」


小さな声で、名雪が言葉を紡ぐ。


「ずっと、考えたんだよ・・・。 わたし、あまり頭は良くないけど、でも、一生懸命考えたよ・・・」
「・・・・・・」
「そして、出た答え・・・。 何度考えても、ずっとこの答えだった・・・。 わたしの答えは・・・」


後ろを向いたまま、名雪が言葉を続ける。


「イチゴサンデー、7つ。 それで、許してあげるよ」


名雪の髪が、風にさらされて揺れていた。

風に運ばれた髪が、月明かりに透けて見えた。


「祐一だけ、特別サービスだよ。 だって・・・。 わたしも、まだ・・・。 祐一のこと、好きみたいだから・・・」

 

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月明かりの下で、名雪の体を抱きしめる。

初めて触れた、いとこの体は、想像していたよりもずっと小柄・・・。

そして、暖かった・・・。


「祐一・・・ちょっと、苦しいよ・・・。 ・・・力、入れすぎだよ・・・」


7年前の少女・・・。

そして、すぐ近くにいる少女・・・。

ずっと重ならなかった、ふたつの面影が、

今初めて、ひとつになって見えたような気がした。


「・・・でも・・・」


雪の少女が、思い出の中と同じ表情で・・・。

白い光の中で・・・。


「・・・暖かいよ、祐一・・・」


穏やかに、微笑んでいた・・・。


・・・。


1月25日 月曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


今日は、久しぶりにすんなりと目が覚めた。

頭の重さも、体の気怠さもなかった。

清々しい朝。

そう言ってもいいかもしれない。


「・・・・・・」


俺は布団から這い出て、カーテンを左右に開く。

カシャッと小気味のいい音がして、薄暗かった室内が、光に包まれる。

昨日は早めに寝たので、今日の体調は万全だった。

試験勉強も、完璧とまではいかないものの、それなりにこなすことができた。

これも、名雪のおかげかもしれない。

俺は手早く制服に着替えて、そして光の差す部屋をあとにした。


・・・。


「あ・・・祐一」


廊下に出ると、ちょうど名雪が部屋から出てきたところだった。


「おはよう、祐一」


にこやかに挨拶をする名雪は、すでに制服に着替えていた。


「・・・どうしたんだ?」
「え? どうもしないけど・・・」
名雪がこの時間にちゃんと起きてるなんて、奇跡だ」
「ひどいよ・・・祐一・・・。 わたしだって、たまには早起きするよ」
「1ヶ月に1回くらいだろ・・・」
「だから、たまに、だよ」


鞄を持ったまま、首を傾げるように笑う。


「それに、今日はテストだもん。 あんなに一生懸命勉強したのに、これで遅刻したら嫌だよ」
「確かにそうだよな」


笑顔で頷きあって、そして階段を降りる。


・・・。


「あら・・・?」


俺と一緒に降りてきた名雪の姿を見て、秋子さんが驚いたような顔をしていた。


「おはよう、お母さん」
「珍しいわね、名雪がちゃんと起きてるなんて」


温かいコーヒーの香りに包まれた、3人だけの食卓風景。

 

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「今夜はお赤飯かしら・・・」
「お母さん、変なこと言わないで・・・」


微笑む秋子さんと、顔を赤くした名雪・・・。

そんな、本当に仲のいい姿を見ていると、いつまでもこんな時間が続いたら、と心から願う。


「・・・ごちそうさま」


名雪が最後に席を立って、そのまま玄関へ。


・・・。


「わっ」


靴を履こうとして、名雪がバランスを崩す。


「こらっ、俺にしがみつくな」
「狭いから、仕方ないよ~」
「ふたり同時に靴を履いてるから悪いんだ」
「わっ」
「だから、同時に出るなって」
「難しいよ・・・」


倒れたまま、名雪が情けない声を上げる。

昨日、あんなことがあっても、名雪はいつもの名雪だった。

そして、それが嬉しかった。


・・・。


「・・・ふぁ・・・眠い・・・」
「慣れない早起きなんかするからだ」
「・・・くー」


ぼかっ。


「・・・祐一、少しは手加減して」
「手加減すると起きないだろ、名雪は」


しきりに眠そうな表情を見せる名雪を促して、いつもの通学路を歩いていると、その先に白い羽が見えた。


「最近、よく会うよね」
「そうだな」


あゆも俺たちの姿を見つけて、駆け寄ってくる。


「ボクは、祐一君たちと会えるの、嬉しいよ」


いつものように、無邪気な笑顔だった。


「あれ? そういや、名雪は?」
「あ。 後ろにいるよ」


「・・・くー」


あゆが指さした先を見てみると、電柱にもたれて、名雪が眠っていた。


「あゆ、俺が許す。 名雪を攻撃しろ」
「ボク、そんなことしないもんっ」
「なにっ、そのカチューシャは武器じゃないのか?」
「そんなわけないよっ」
「投げて攻撃する武器じゃなかったのか・・・」
「投げたって飛ばないもんっ」


「・・・うにゅ」


あゆをからかっていると、どうやら自力で目を覚ましたようだ。


「・・・あゆちゃん・・・?」
「うん。 おはよっ、名雪さん」
「・・・おはようございます・・・」


まだ眠そうだった。


「今日はテストなんだから、がんばれ」


「祐一君の学校、今日がテストなの?」
「詐欺みたいな学校だろ」
「そこまでは言わないけど、大変だね」
「あゆの学校だって、そのうちテストがあるだろ?」
「ボクの学校は、そんなのないよ」
「・・・なくは、ないだろ」
「あっ。 ボク、こっちだから」


いつもの場所で、あゆと別れる。


「あゆちゃん、元気・・・」
「あれは、元気すぎるんだ」


やがて、俺たちの学校も見えてきた。


・・・・・・。


・・・。


「よし、それまで」


チャイムの音と同時に、テスト用紙が回収されていく。

これで、最後の英語が無事に終わった。


「終わったね、祐一」


今日はテストなので、5時間で終わりだった。


「これで、やっと試験勉強から解放されるな」
「でも、わたしは部活だよ」
「こんな日にも部活があるのか・・・?」
「うん。 一緒に帰れないのが残念だね」
「部活だったら仕方ないな」


結局、いつものように昇降口まで一緒に帰ることになった。


・・・。


「あ、そうだ」


名雪が、何かを思い出したように声を上げる。


「今日、お母さんに買い物を頼まれてるんだけど、もし祐一も欲しい物があったら、ついでに頼まれるよ」
「そうだな・・・。 だったら、コンビニで雑誌を頼む」
「どんな雑誌?」
「血湧き肉躍るような雑誌」
「・・・全然分からないよ」
「だったら、どきどきするような雑誌」
「・・・一緒だよ」
「だったら、いやらしい雑誌」
「えっちな雑誌?」
「まぁ、そうだな」
「うん。 分かったよ」
「じゃあ、頼んだぞ・・・って、素で流すな!」
「え?}


驚いたように振り返る。


「やっぱり別のにするの?」
「もしかして、止めなかったら本当に買ってきたのか?」
「うん。 頼まれたから」


やっぱり、どこか普通の女の子とは感覚が横に3ヤードくらいずれているような気がする・・・。


「それで、どうするの?」
「週刊の漫画雑誌でいいや」
「うん。 分かったよ」


そのまま部活に向かう名雪と別れて、俺も家に帰った。


・・・。


夕飯を食って部屋でくつろいでいると、ドアをノックする音が聞こえた。


「・・・名雪?」
「うん。 わたしだよ」
「入ってもいいぞ」
「良かった、まだ起きてた」
名雪じゃないんだから、こんな時間に寝たりしないって。 それで、どうしたんだ?」
「頼まれたもの、渡すのすっかり忘れてたんだよ」


そう言って、コンビニの袋に入った、漫画雑誌を俺に渡す。


「そういえば、頼んでたな」


俺も、そのことをすっかり忘れていた。


「ありがと、名雪
「どういたしまして」
「ちょっと待っててくれな、今、金払うから」


雑誌を机の上に置いて、財布から小銭を取り出す。


「・・・・・・」


ふと名雪の方を見ると、どこか落ちおつかない様子で、視線を泳がせていた。


「どうしたんだ、名雪?」


何故か、名雪がそわそわしているような気がした。


「・・・うん・・・ちょっと・・・。 わたし・・・着替えてきていいかな・・・?」
「着替えるって・・・何に?」
「普通の服・・・」
「?」
「・・・パジャマが・・・何となく恥ずかしくて・・・」
「いつもと全く一緒じゃないか」
「・・・そうなんだけど・・・。 ・・・どうしてだろ・・・祐一に見られると、恥ずかしいよ・・・」
「別に、いつもと変わらないと思うけど・・・」


それは、もしかすると名雪の俺に対する見方が変わったということかもしれない。

仲のいい兄妹から、恋人へ・・・。

俺は、そんな名雪を可愛いと思った。

そして・・・。


名雪
「え?」


俺は、名雪を求めるように、抱きしめていた。


「・・・祐一・・・」


戸惑いの言葉。

だけど、抵抗はなかった。


「嫌だったら、やめるから・・・」
「・・・・・・」


名雪の、心臓の鼓動が聞こえる。


「・・・わたしは・・・いいよ・・・。 祐一のこと・・・好きだから・・・。 祐一、だから・・・」


俺は、ゆっくりと、名雪の体をベッドに横たえた。


・・・・・・。


・・・。

 

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「・・・あんまり、わたしの顔見ないでね」


すぐ横に、好きな人の照れたような表情があった。


「・・・じっと見られると、恥ずかしいよ」


静かな部屋の中で、名雪とふたりっきりの時間・・・


「・・・わたし、このまま眠っちゃってもいいかな・・・?」


俺は、返事の代わりに名雪の頭を撫でてやる。


「・・・わ」


微かに戸惑いの色を見せる。


「・・・ありがとう」


安心したように、目を閉じる。

名雪は、俺に拒絶されても、ずっと俺のことを思い続けていてくれた・・・。

だけど・・・。

俺は、どうだろうかと考える。

もし、俺と名雪の立場が逆だったら・・・。

名雪が、悲しみに絶望して、俺を拒絶したら・・・。

俺は、それでも名雪を信じることができるだろうか・・・。

最後まで名雪のことを好きでいられるだろうか・・・

名雪の強さが・・・。

一途な思いが・・・。

俺の中に、少しでもあるだろうか・・・。


「・・・くー」


すぐ横で、安らかに寝息を立てるいとこの少女。

その寝顔をただ眺めながら、形の分からない不安だけが、俺の心をさいなんでいた。


・・・。


1月26日 火曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


・・・。


「・・・まだ眠い・・・」


ぼやけた意識の中で、いつもの名雪の声が聞こえる。

 

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「でも、あんまり時間ないよ?」
「・・・もう少しだけ・・・」
「ホントに、遅刻しちゃうよ?」
「・・・今日の目覚ましはやけに親切だな・・・」
「わたし、目覚ましじゃないよ」
「・・・眠い・・・」
「祐一、もしかして寝ぼけてる?」
「・・・うーん・・・そうかも・・・」
「それだったら・・・」


ガラガラガラ・・・。


何かが開く音・・・。

そして、冷たい空気が流れ込む。


「これなら、目も覚めるよね?」
「・・・寒い」


部屋にふたつある窓が、開いていた。


「祐一、もう時間ないよ」
「・・・うーん・・・」
「うーんじゃないよっ。 遅れるんだよっ」
「・・・もうちょっとだけ、寝る」
「そんな時間ないよ・・・」
「なくても寝る」
「起きないと、上に乗っかるよ?」
「どうぞ、ご自由に・・・」
「えいっ」


ばふっ、と布団の上に圧力がかかる。


「ぐあっ」


バタバタと手足を動かして、闇雲にもがく。

と、不意に重さが消えた。

もはや完全に眠りから覚めた俺は、布団を押し上げてベッドに腰かける。


「・・・マジで潰されるかと思った」
「ひどい~ひどい~」


見ると、制服姿の名雪が拗ねたように立っていた。


「わたし、そんなに重くないもん」
「ふぅ、死ぬかと思った」


やれやれ、と寝汗を拭う。


「だから、わたしそんなに重くないよ・・・」
「それで、時間は?」
「全然ないよ」
「マジか?」
「朝ご飯、食べる時間もないよ」
「・・・仕方ないな」


ため息をついて、それから3分後・・・。

いつもの通学路を、走っていた。

真っ白な息を背中に残しながら、全速力で冬の街を駆け抜ける。


「いい風だね」


悠長に感想を述べる名雪は、まだまだ余裕の表情だった。


「でも、珍しいね。 わたしの方が祐一よりも先に起きるなんて」
「そうだな・・・」
「ちょっとだけ、嬉しかったよ。 祐一よりも先に起きられて」
「喜ぶのは、ホームルームに間に合ってからだ」
「うんっ」


まだまだ人通りの少ない雪の街。

青空に照らされて透明に輝く雪の結晶。

アスファルトに浮かぶ水たまりを避けながら、学校に向かって走る。


・・・。


同じように走る生徒の背中を追い越しながら校門をくぐったとき、ちょうどチャイムが鳴った。


「チャイム~」
「分かってるっ」


開けっ放しの昇降口の扉に飛び込み、高速で靴を履き替える。

白く曇ったガラス張りの廊下を走り抜けて、

露の浮く階段を駆け抜けて、

一気に2階まであがる。

ここまで来ればもう少し。

階段で横に追いついた名雪を促して、教室の扉を開ける。

教室に入ると同時に、廊下の端に担任の姿が見えた。

どうやら間に合ったらしい。


「いい運動」


さすがというか何というか、名雪はほとんど息を切らしていない。

身だしなみを整えながら、自分の席に座る。

そして、今日も授業が始まった。


・・・。


「祐一っ、お昼休みだよ」
「腹減った・・・」
「朝、食べてないからだよ」
「とりあえず、学食で腹ごしらえだな」
「あ、ちょっと待って」


俺を引き留めて、そして鞄の中から何かを取り出す。


「なんだ、それ?」


ハンカチに包まれた、四角い箱。


「お弁当だよ」
「どうしたんだ、それ? 秋子さんが作ってくれたのか?」
「わたしが作ったんだよ」


ハンカチの包みをほどくと、中から弁当箱がふたつ顔を出す。


「ちゃんと、祐一の分も作ったよ」
「珍しいな、名雪が弁当を作るなんて」
「・・・祐一に、食べて欲しかったんだよ」
「遠慮なくもらうぞ」
「それなら、早速食べようよ」


そう言って、俺の席に椅子を持ってくる。


「ちょっと待て」
「うん?」
「もしかして、教室で食べるのか・・・?」
「もちろんだよ」
「・・・・・・」


教室で名雪と弁当(しかも名雪の手作り)を食べる姿は、とても恥ずかしいような気がした。


「どうしたの?」


・・・俺は、覚悟を決めた。


「よし、ここで食べるぞ」
「うんっ」


結局、俺の席に名雪が椅子をくっつける形で、食べることになった。


「お、うまそうだな」


色合いも、おかずもバランス良く整っている。

少なくとも、見た目はうまそうだった。

早速、ミニハンバーグを口に放り込む。


「・・・どうかな?」
「・・・・・・」
「・・・祐一?」
「・・・うまい」


思わず3秒間、間が開くくらいうまかった。

 

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「よかった」


ほっと息をついて、名雪も自分のおかずを口に運ぶ。


「うん。 上出来だよ」
名雪って、こんなに料理がうまかったんだな」
「だって、祐一が食べるお弁当だから」


恥ずかしそうに、下を向く。


「わたしの、本気だよ」


クラスの注目を浴びながら、そんな昼休みの時間は過ぎていった。


「なぁ、名雪・・・。 でも、何というか・・・恥ずかしくないか?」
「祐一、おかしなこと訊くね・・・。 恥ずかしいに決まってるよ・・・」
「・・・え?」
「恥ずかしいけど、でも、祐一とお弁当食べたかったんだよ」

 

最後は笑顔で、名雪が言葉を締めくくる。


(・・・まぁ、いいか)


何というか、この恥ずかしさも、それはそれで良いような気がした。

そして、休み時間も終わりを告げる。

最後のチャイムが鳴って、今日の授業も終了した。


・・・。


今日も部活の名雪と別れたところで、ふと教室に忘れ物をしたことに気づいた。

忘れ物を鞄に詰めて、再び教室を出る。


「祐一っ」


ひとりで廊下を歩いていると、不意に後ろから名前を呼ばれる。

 

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「今から帰るところ?」
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・誰だ?」
「わたしだよ~」
「ああ・・・名雪か・・・」
「当たり前だよ」
「髪型が違うから、一瞬分からなかった」
「・・・一瞬にしては、ずいぶん間があったよ」
「今、部活の途中か?
「うん。 ちょっと忘れ物して、取りに戻ってるとこ」
「俺も同じだ」
「うん、偶然。 それで、これからどうするの?」
「今日は、ちょっと商店街にでも寄っていこうと思ってる」
「そうなんだ・・・」
「何か、買ってきて欲しい物、あるか?」
「・・・そうだね、わたしに誕生日プレゼントを買ってきてくれるとか」
「どうしてそうなるんだ」
「わたしは、嬉しいよ」
「俺は嬉しくない」
「うー・・・祐一、けちだよ」
「あのなぁ・・・って、第一、名雪の誕生日って12月23日なんだろ?」
「うん。 あと1日遅ければクリスマスイブだよ」
「もう過ぎてるじゃないか・・・」
「わたしは、1ヶ月くらい遅れても全然気にしないよ」
「・・・分かったよ、名雪に何か買ってやるから」
「え? ほんと?」


最初に言い出した名雪が、一番びっくりしている。


「安い物しか買えないけど、それでいいか?」
「うん。 祐一が買ってくれるものなら、どんなもにのでも嬉しいよ」
「あんまり期待するなよ」
「楽しみにしてるよ」


名雪と別れて、俺はまたひとりで商店街に向かった。


・・・。


商店街を、特に宛もなく歩きながら、名雪へのプレゼントを探す。

しかし、いざ選ぶとなると、何を買っていいのか分からなかった。

結局、当たり障りのないところで、イチゴのケーキを買った。

そして、気がつくと辺りは夕焼けの赤に包まれていた。


「・・・・・・」


眩しいくらいのオレンジに覆われた街並み。

もの悲しい雰囲気が、賑やかなはずの商店街を包んでいた。

 

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ふと空を見上げてみる。

赤い雲。

赤い空。

そして、赤い世界。


「・・・祐一君」


呼び止める声に、視線を戻す。

 

「・・・祐一君」


もう一度、赤く染まった少女が、俺の名前を呼ぶ。

 

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「なんだ、あゆか」
「・・・・・・」
「久しぶりだな。 元気だったか?」
「祐一君、あのね・・・」


オレンジに染まる羽。

力なく、揺れる・・・。


「探し物、見つかったんだよ・・・」


言葉とは裏腹に、寂しげに呟く。


「良かったじゃないか」
「・・・うん」
「大切な物だったんだろ?」
「・・・うん。 大切な・・・本当に大切な物・・・」
「見つかって良かったな、あゆ」
「・・・・・・」


赤い雲の影が、地面の上を流れている。


「あのね・・・探していた物が見つかったから・・・ボク、もうこの辺りには来ないと思うんだ・・・。 だから・・・祐一君とも、もうあんまり会えなくなるね・・・」
「・・・そう、なのか?」
「ボクは、この街にいる理由がなくなっちゃったから・・・」
「だったら、今度は俺の方からあゆの街に遊びに行ってやる」
「・・・祐一君」
「あゆの足で来れるんだから、そんなに遠くないんだろ?」
「・・・・・・」
「また、嫌っていうくらい会えるさ」
「・・・そう・・・だね」


あゆの小さな体が、赤く染まって・・・。


「ボク・・・そろそろ行くね・・・」


夕焼けを背景に・・・。


「・・・ばいばい、祐一君」


あゆの背中が見えなくなるまで、俺はその場所から動くことさえできなかった。


・・・・・・。

 

・・・。


やがて、夜が来て、楽しかった一日が終わる。

こんな日常が、いつまでも続くとを、願いながら・・・。


1月27日 水曜日


「朝~、朝だよ~」


・・・。


「朝ご飯食べて学校行くよ~」


・・・。


「朝~、朝だよ~」


微睡みの中で、いつもの眠気を誘う声が聞こえる。


「朝ご飯食べるよ~」


ゆさゆさと布団の上から体を揺すられる・・・。


「・・・ん」

「学校行こうよ~」


名雪の声どころか、姿まで見える・・・。


「・・・いや、名雪が2日連続で俺より早起きするはずがない。 ・・・これはまだ夢に違いない」
「祐一、すっごく失礼だよ~」


ゆさゆさ・・・。


「・・・揺れてるけど、これは夢だ」
「わたしだって、早起きするよっ」


ゆさゆさ・・・。


夢にしては、感覚がリアルだった。


ゆさゆさ・・・。


「・・・まさか・・・本当に名雪か・・・?」
「うんっ」


制服姿の名雪が、元気に頷く。

開け放たれたカーテンからは、朝の眩しい光が差し込み、部屋の中を白く染め上げていた。


「・・・どうしたんだ、今日も?」
「どうもしないよ~」


楽しそうに微笑んでいる。


「白状しろ、名雪。 なんかたくらんでるだろ?」
「何もたくらんでないよ・・・。 はい、制服。 先に下で待ってるよ」


壁にかかっている制服を俺に渡して、そして部屋から出ていく。


「・・・ただ、ね」


ドアのところで立ち止まり、くるっと振り返る。


「祐一と同じことがしたかったんだよっ」


楽しそうに笑った表情が、素直に可愛いと思えた。

そして、そう思ったことが少しだけ嬉しかった。


・・・。


制服に着替えて、洗面所で眠気を洗い流す。

食卓顔を出すと、すでに名雪は自分の席に座っていた。


「おはよう、祐一」
「おはよう」


テーブルの上には、人数分の朝食がすでに並んでいた。


「なんだ、先に食べててくれてよかったのに」
「わたしはそんな軽薄じゃないよ」
「はいはい、俺はどうせ軽薄ですよ」


手をひらひらさせると、くすっと名雪が笑う。


「おはようございます、祐一さん」


コーヒーポットを持って、秋子さんがキッチンから顔を出す。


名雪、今日もひとりで起きてきたんですよ」
「お母さん、いちいち報告しなくていいよっ」
「静かなのもいいですけど・・・。 でも、少し寂しいわね」


俺のカップにコーヒーを注いで、本当に残念そうにキッチンに戻っていく。


「お母さん、賑やかなのが好きだったから・・・」
「あれは、賑やかを通り越していたような気もするけどな・・・」
「・・・祐一はいなくなったりしないよね?」
「俺は他に帰る場所もないからな」


淹れ立てのコーヒーを口に含みながら、焼きたてのトーストにバターを塗る。


「・・・うん」


名雪も、いつものようにイチゴジャムを塗っていた。


「おいしい」


そして、相変わらず幸せそうにトーストをかじっている。


「・・・・・・」


じっと名雪の食事風景を眺めていると、顔を上げた名雪と視線が合った。


「どうしたの祐一?」


その視線に気づいた名雪が、くすぐったそうな表情で俺の顔を見る。


「相変わらず幸せそうだな、と思ってな」
「うん、幸せだと思うよ」
「毎日同じ物で飽きないか?」
「うん、飽きないよ」


目を細めて、トーストをはぐっとくわえる。


「祐一もたまにはジャムつけたらいいのに」
「だから、俺は甘い物は・・・」


途中まで言いかけて、ふと名雪の笑顔と目が合った。

ただのいとこ同士だったはずの女の子。

7年前に離ればなれになって、そしてほんの些細な偶然で再会した。

それだけの関係だった。

今までも、そしてこれからもずっとそうだと思っていた。

だけど・・・。


「・・・そうだな、たまには甘い物もいいかもしれないな」


イチゴジャムの瓶をあけて、バターナイフを差し入れる。


「わ。 どうしたの祐一」
「どうもしないって」


これでもかというくらいジャムをのせて、きつね色のトーストに赤いジャムを塗る。


「何かたくらんでる?」
「俺がジャムを塗って何が画策されるって言うんだ・・・」
「うん、そうだね」
「俺はただ・・・」


名雪と同じことをしてみたくなっただけだ・・・。


・・・。


名雪が早起きしたおかげで、今朝は余裕を持って家を出ることができそうだ。


「奇跡だ」
「しみじみ言わないでよっ」


「ほんと、毎朝こうだといいんだけど」
「お母さんもっ」


靴を履き替えながら鞄と時間を確認する。

大丈夫そうだ。


「お母さん、今日もお仕事?」
「ええ、そうよ」


ちなみに、俺は未だに秋子さんが何の仕事をしているのか知らない。


「晩ご飯までには帰るわよ。 ・・・何か食べたいものとかある?」
「えっと、イチゴのケーキ」


「昨日も食っただろ、お前は」
「わたし、イチゴのケーキだったら、朝昼晩、毎食でもいいよ」


名雪は、本気だった。


「・・・わかったわ。 買っておきます」


呆れるように、それでも嬉しそうに秋子さんが頷く。

本当に仲のいい親子だと、改めて思う。


「それでは、行ってきます~」


玄関のドアを開けると、すぐ向こうは白く光る世界が広がっていた。


「行ってらっしゃい、ふたりとも」
「・・・お母さん」


ふと、名雪が振り返る。

 

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「どうしたの?」
「・・・気をつけてね」
「それは、わたしの台詞よ」
「うん・・・そうだけど・・・」


「急がないと、折角早起きしたのにまた走らないといけなくなるぞ」
「あっ、待ってよ~」


・・・。


「祐一、先に行くなんてひどいよ・・・」
名雪が、ぐずぐずしてるからだ」
「ぐずぐずなんてしてないもんっ」


そして、今日も・・・。

穏やかで、平凡で・・・。

そして、幸せな一日になると・・・。

その時の俺は信じて疑わなかった。


・・・。


幸せだった。

ずっとこんな時間が続いて欲しいと、心から願った。

限りある時間を、いつまでも名雪とふたりで歩きたかった。


・・・だけど。


・・・そんな穏やかな時間の終わりは、すぐ目の前にあった。


5時間目の授業中。

見慣れない先生が教室に駆け込んでくる。

それは、秋子さんが病院に運ばれたという知らせだった。

学校を早退して、俺たちは病院に急いだ。

その途中、俺たちは偶然、事故の現場を見ることになった。

原型をとどめていない車。

散らばったガラスの破片。

アスファルトに広がる、赤い染み。


そして・・・。

 

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潰れた、イチゴのショートケーキ・・・。

そのケーキが、7年前に俺が潰してしまった、雪うさぎの姿と重なる。

名雪は、その光景をただじっと見ていた。

言葉もなく、その表情からは何の感情も読みとれなかった。


・・・。


病院に着いても、俺たちは面会を許されなかった。

親族でも面会ができない状態。

それが何を意味するのか、俺にも名雪にも分かっていた。

担当医の話だけを訊いて、その日は家に帰った。

歩道を歩いていた秋子さんに、カーブを曲がり損ねた車が、そのままの速度で突っ込んだという話だった。

相手のドライバーは、幸いにも無事だったらしい。

でも、秋子さんは・・・。

結局、名雪は一言も口をきかなかった。


・・・・・・。


・・・。

 

1月28日 木曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


「・・・・・・」


こんな朝でも、いつもの時間に目が覚めていた。

不思議なものだ。


「・・・・・・」


冷たい部屋に、目覚ましの音だけが悲しく響いている。

まるで、夢のようだった。

昨日までの、幸せだった日々が夢なのか・・・。

それとも、昨日の悲しい出来事が夢なのか・・・。

今、目の前にあるものが現実・・・。

それだけは、決して変わりようがなかった。

同じ部屋なのに、昨日よりも広く殺風景に感じる。

そして、風の巻く音が、寂しげに響いていた。

ただ幸せだった時の終わり。

それなら、今日からは何が始まるのだろう・・・。


「・・・・・・」


俺は体を起こして、毎朝そうしていたように、制服に着替えた。

授業に集中できる自信はなかったが、今は、少しでもたくさんの人に囲まれた場所にいたかった。

ひとりだと、余計なことを考えてしまいそうだったから・・・。


・・・。


物音ひとつしない、薄暗い廊下。

『なゆきの部屋』と描かれたプレートのかかった扉。

その前に立つ。


「・・・・・・」


ノックをしようとして、ためらう。

このドアを開けたとき、名雪はどんな姿でいるだろうか。

悲しみに暮れた表情だろうか。

それとも、いつもと変わらない笑顔を覗かせてくれるだろうか。

せめて、表面上だけでも・・・。

声をかけずに行くのも、ためらわれた。

今、この家には、俺と名雪の、たったふたりしかいないのだから。


コン、コン・・・。


名雪の部屋を、ノックする。


コン、コン・・・。


しかし、中からの反応はなかった。


名雪、開けるぞ」


中に聞こえるような声で呼びかけてから、ドアノブを回す。


「・・・・・・」


しかし、ドアは開かなかった。

強く押しても、同じだった。

鍵がかかっている。


「・・・先、行くからな」


それだけを告げて、1階に降りた。


『おはようございます、祐一さん』


そう言って頬に手をあてる秋子さんの姿は、そこにはなかった。

それでなくても広かった食卓が、余計に広く感じる。

俺は、この家に来て、初めて自分でトーストを焼いた。

たったひとりで椅子に座って、普段はつけることのない、ジャムをつけてトーストをかじる。

この食卓を、4人が同時に囲んでいたこともあった。


「・・・けろぴーを合わせると、4人と1匹か」


『でも、少し寂しいわね』


そう言って微笑んでいた秋子さんの言葉が、今になって心に重くのしかかっていた。

ふたりだけで、この家は広すぎる。

トーストを食べ終わって、いつものように玄関に出る。


・・・。


時間ぎりぎりまで待っていたが、結局名雪は起きてこなかった。


「・・・そっとしておいてやるか」


ため息をついて、鞄を持つ。


「行ってきます」


誰にでもなく挨拶をして、俺は学校に向かった。

返事をする者など、当然のように誰もいなかった。


・・・・・・。


・・・。


いつもの授業風景を、どこか遠くの国の出来事のように感じながら、時間だけが、やけにゆっくりと流れていた。

隣の席には、誰も座っていなかった。

その後ろでは、香里が心配そうに名雪の机を見つめていた。

やがて、長かった6時間が終わった。


・・・・・・。


・・・。


「ただいま・・・」


靴を脱いで、玄関に上がる。

家の中は、まるで朝と同じ風景が凍りついてしまったように、静かだった。

キッチンにも人の気配はなかった。

朝、俺が使った状態、そのまま。


「・・・名雪、何も食ってないんじゃないか・・・」


留守番電話のボタンを押して、設定を解除する。

メッセージ件数は、0件だった。


・・・・・・。


・・・。


朝と同じように、名雪のドアの前に立つ。

手に持ったお盆には、あり合わせの物で作った、簡単な晩飯がのっていた。

とっくに陽は落ちて、もう、晩飯という時間でもなかった。


「おい、名雪


ドアを、ノックする。


「晩飯持ってきてやったぞ。 腹、減ってるだろ」


返事はない。

部屋の明かりも、消えている。


「おい、開けるぞ」


断ってから、ドアノブを回す。

しかし、部屋には、やはり鍵がかかっていた。


「晩飯、ここに置いておくから」


それだけを言い残して、固く閉ざされた部屋の前をあとにした。

自分の部屋に戻ると、明かりもつけずにそのままベッドに入る。

病院からの連絡はなかった。

つまり、悪くもなっていないが、良くもなっていない・・・。

それだけのことだった。

やがて、長かった一日が終わる・・・。


・・・。


目を閉じると、何か夢を見るかもしれないと感じた。

だけど、秋子さんの夢だけは、見たくなかった・・・。


・・・。


1月29日 金曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


・・・。


冷たい部屋に、名雪の元気な声だけが虚しく響いていた。

眠気はなかった。

ただ、疲れが残っていた・・・。

気怠い体を起こしてカーテンを開けると、外は雲ひとつない青空が広がっている。

せめて雨でも降ればいいのにな・・・。

そうすれば、思う存分、泣けるかもしれない。

澄み渡った空は、作り物のようで嫌だった。

全てが幻で、でも現実の中で・・・。


『朝~、朝だよ~』


夢の中にひとつだけ取り残されたように、目覚ましの音だけが空の青さにふさわしかった。


・・・。


静かな廊下。

窓から差し込む光が、廊下に暖かそうな日溜まりを作る。


『なゆきの部屋』


少し傾いてぶら下がっているドアプレート。

静かな部屋。

その前に、昨日と同じままのお盆が置かれていた。

中身もそのまま、まったくの手つかずで残っている。


「・・・まさか、本当にずっと部屋から出てないのか・・・」


ドアノブを回しても、扉は開かない。


「おいっ、名雪っ」


ドン、ドン・・・。


閉ざされたドアを、何度も叩く。

切迫した音が、静かだった廊下に響いていた。


名雪っ」


ドン、ドン・・・。


名雪っ!」


今の俺にできること・・・。

それは、ただひたすらドアを叩き続けることだけだった。

やがて・・・。


「・・・やめて」


部屋の中から、本当に消え入りそうな声が聞こえた。

力のない声・・・。

だけど、間違いなく名雪の声だった・・・。


「・・・お願いだから・・・やめて・・・」
「お前が落ち込んだって、仕方ないだろ」
「・・・・・・」
「お前まで倒れたら、秋子さんが戻ってきた時、絶対に悲しむぞ」
「・・・ごめん・・・祐一・・・」
「・・・・・・」


その言葉を最後に、名雪の声は、聞こえなくなった。


・・・・・・。


・・・。


授業中。

俺は、ずっと窓の外を見ていた。

名雪の言葉が、何度も何度も蘇る。


『・・・ごめん・・・祐一・・・』


そして、気づく。


(・・・まるで、あの時の冬と一緒だな)


絶望して・・・。

拒絶して・・・。

そして・・・。


(・・・全部、忘れて)


あの時と、ふたりの立場が入れ替わっただけだ。

俺と、名雪の立場が・・・。


(・・・・・・)


空は、どこまでも青くて・・・。

ゆったりと流れる雲は白くて・・・。

本当に穏やかで、そして暖かな・・・。

悲しい、空だった。


・・・・・・。


・・・。

 

明かりのついていない階段を、ゆっくりと上がる。

そして、名雪の部屋の前。


「・・・・・・」


お盆の上に置かれた料理が、半分くらいなくなっていた。


「・・・名雪


闇の中で、閉ざされた扉のその向こうに話しかける。


「・・・・・・」


返事はなかった。

しかし、ずっと閉ざされていたドアに、僅かな隙間があった。


名雪、入るぞ」


少し考えてから、そのドアを開けた。

その部屋は、完全に闇の中だった。

物音ひとつしない。

動くものの気配すらない。

以前に入った時とは、まったく同じ部屋であるにも関わらず、その空気の重さが違っていた。


「・・・祐一・・・」


ずっと動かなかった空気が、僅かに振動する。


「・・・出ていって・・・」


小さく呟く、名雪の声。

その先に、名雪の姿があった。

 

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「わたし・・・誰とも会いたくないから・・・」


闇の中に溶けるように、名雪がうずくまっていた。

自分の体を抱きしめるようにして、静かに存在していた。


「久しぶりだな、名雪
「・・・・・・」


現実全てを拒絶するような、沈黙。


「俺の作った晩飯、どうだった?」
「・・・おいしくなかった・・・」
「それは、冷めたからだ。 できたてで食べてたら、もっとうまかったはずだ」
「・・・温かくても、きっと一緒だよ・・・」
「そんなことないって、ちゃんと自分で味見したんだから」
「・・・・・・」
「今から、もう一度作ってやるから、今度こそできたてを食べるか?」
「・・・わたし・・・いらない・・・」
「そりゃ、秋子さんの手料理に比べたら・・・」
「・・・祐一、出ていって・・・」


秋子さんの名前が出た途端、名雪の態度が硬化する。


「このまま、ずっと避けるつもりか?」
「・・・出ていって・・・」
「秋子さんは、まだ助かる可能性だってあるんだ」
「・・・・・・」
「いや、絶対に助かる。 あのマイペースな秋子さんが、こんなことでいなくなるわけないだろ」
「・・・祐一、奇跡って起こせる・・・?」
「・・・・・・」
「・・・わたし、ずっとお母さんと一緒だったんだよ・・・。 ・・・何年も・・・この街で・・・この家で・・・。 ふたりだけだった・・・。 ・・・わたし・・・お父さんの顔、知らないから・・・。 ・・・ずっと、お母さんとふたりだけだったから・・・。 ・・・でも・・・お母さんがいてくれたから、寂しくなかったんだよ・・・。 今まで、がんばって来れたんだよ・・・。 ・・・それなのに・・・。 ・・・これで、わたしはひとりぼっちだね・・・」
「ひとりぼっちなんかじゃないだろ、名雪は。 学校に行ったら、友達がたくさんいるだろ? 香里や、北川や・・・俺だって、ずっと一緒にいる」
「・・・・・・」
「それに、秋子さんだって絶対に帰ってくる」
「・・・・・・」
「・・・祐一・・・」


月明かりを浴びた名雪の姿が、青白く浮かび上がる。

微動だにしなかった名雪が、小さく震えているのが分かった。

 

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「・・・ダメ・・・なんだよ・・・。 わたし、もう笑えないよ・・・笑えなくなっちゃったよ・・・」


無表情だった名雪の瞳に、大粒の涙が浮かんで・・・

せきを切ったように、溢れていた・・・。


「わたし、強くなんてなれないよ・・・。 ずっと、お母さんと一緒だったんだから・・・」
「・・・・・・」


流れう涙と、嗚咽の声が、静かだった闇の中を充たしていた。

涙の雫が頬を伝って、パジャマの生地に吸い込まれる。

俺は、それ以上言葉をかけることもできずに、ただ、名雪が泣きやむまで、その場所で見ていることしかできなかった。


・・・・・・。


・・・。

 

1月30日 土曜日


その日は、朝から雪だった。

窓の外を見上げると、灰色の空に、白い雪が舞っていた。

しんしんと・・・。

音も立てずに・・・。

絶えることなく、降り続いていた。

今までで、一番相応しい朝だった。

俺は、私服に着替えて、名雪の部屋の前にいた。

手には名雪に借りていた目覚まし時計を持っている。

そして、名雪の部屋をノックする・・・。


「・・・名雪


返事はない。


「俺は、今日一日、あの場所で待ってる。 ずっと、待ってるから・・・」


返事のない部屋に、一方的に用件だけを伝える。


「それと、この目覚まし時計・・・」


ことん、と部屋の前に置く。


名雪に、返すから」


部屋の前を離れる。


「じゃあな、名雪


名雪からの返事がないまま、俺は家を後にした。


・・・。


雪が降っていた。

傘の花が開いていた。

制服を着て、学校に向かう生徒たち。

そんな中を、俺は傘をささずに歩いていた。

真新しい雪がコートの上に降り積もり、そして、冷たい風がさらっていく。


・・・。


7年前の、約束の場所。

雪を避けて、人通りのなくなったその場所に、俺はひとりで立っていた。

半分以上雪に隠れたベンチ。

雪を払って、そして座る。


「まるで、あの時みたいだな・・・」


ほんの、3週間ほど前・・・。

俺は、この場所にひとりで座っていた。

大雪の舞う中、その時は珍しかった光景を眺めながら、名雪が来るのを待っていた。

ため息も白く染まる街で、数年ぶりに訪れたその場所で・・・。


「結局、2時間以上も待たされたんだよな・・・」


そして、1本の缶コーヒーを貰った。

確か、遅れたお詫びだった。


「・・・・・・」


しかし、今日はあの時とは違う。

絶望して、全てを拒絶した名雪

俺は、それでも名雪のことを好きでいられた。

名雪の支えになりたいと思った。

だから、俺はこの場所で待ち続ける。

7年前の、あの日と同じ・・・。

この、雪の舞う場所で。


・・・・・・。


・・・。

 

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街灯の照明が、ベンチの上を照らしていた。

陽は落ちて、辺りが闇に包まれても、雪はまだ、降り続いていた。

舞うような螺旋の雪が、青白い照明に照らされて、どこか幻想的な光景だった。


「・・・・・・」


すでに、辺りに人影はなかった。

何時間ここにいるのかも、わからなかった。

コートの雪を払うこともなく、ただじっと、待ち続ける。

今日が終わるまで、ずっと・・・。


「・・・・・・」


そして・・・。

時計の針が、真上を指して・・・。

静かに、今日が終わった。


「・・・・・・」


まだ、雪は降り続いている。

俺は、好きな人の支えになることすらできなかった。

絶望感と、孤独感が、俺をさいなむ。

名雪も、同じだったんだろうな・・・。


・・・。

 

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目を閉じると、幼い名雪の姿があった・・・。

ベンチにちょこんと座って、不安げな表情で、ただ流れる雪を眺めていた。

何時間も、何十時間も・・・。

約束の場所で、俺を待っていた。

だけど、俺は来なくて・・・。

少女は、いつまでもひとりぼっちだった。


・・・。


「学校、さぼってる人発見」


不意に、現実の声が重なる。

雪のカーテンの向こう側に、人影があった。


「・・・お前だって・・・そうだろ・・・」


絶望の先にあったもの。


「そうだね。 だったら、おあいこ」
「そうだな・・・。 これで、おあいこだ」



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「・・・うん」


雪の中に、雪を纏った少女が立っていた。


「でも、遅刻だぞ」
「走ってきたんだけど、ダメだったね・・・」
「おかげで、ずいぶんと待ったぞ」
「一生懸命、走ってきたんだけど・・・遅刻だったね」
「でも・・・」
「遅刻はしたけど・・・間に合ったよね?」
「もう少しで、帰るところだったぞ」
「寒かったよね・・・」
「それも、お互い様だ」
「・・・祐一・・・雪、積もってるよ」
「それだって、お互い様だ」


頭の上に、雪をのせて・・・。

目には、大粒の涙をたたえて・・・。

それは、本当に久しぶりに見る、名雪の笑顔だった。


「祐一・・・」


名雪の表情が、不意に崩れる。


「わたし、やっぱり強くはなれないよ・・・。 だから・・・祐一に、甘えてもいいかな・・・? 祐一のこと・・・支えにしても、いいかな・・・?」
名雪は、女の子なんだから」
「・・・うん」
「強くなくたって、いいんだ」
「・・・うん」
「俺が、名雪の支えになってやる」
「・・・祐一。 あの言葉、信じてもいいんだよね?」
「・・・ああ」
「わたし、消さないよ。 だから、ずっと証拠残ってるよ? それでも、本当に頷いてくれる? わたしに、約束してくれる?」
「約束する」
「・・・うん」
「もし約束破ったら、イチゴサンデーおごる」
「・・・ダメだよ、イチゴサンデーでも許してあげない」
「だったら、約束破るわけにはいかないな・・・」
「・・・うんっ。 祐一・・・順番、逆になっちゃったけど・・・遅れた、お詫びだよ・・・。 それと・・・わたしの、気持ち・・・」


"名雪・・・俺には、奇跡は起こせないけど・・・"


"でも、名雪の側にいることはできる"


"約束する"


"名雪が、悲しい時には、俺がなぐさめてやる"


"楽しいときには、一緒に笑ってやる"


"白い雪に覆われる冬も・・・"


"街中に桜の舞う春も・・・"


"静かな夏も・・・"


"目の覚めるような紅葉に囲まれた秋も・・・"


"そして、また、雪が振り始めても・・・"


"俺は、ずっと側にいる"


"もう、どこにも行かない"


"俺は・・・"


"名雪のことが本当に好きだから・・・"

 

 

 

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真っ白な雪に囲まれて・・・。

名雪の赤い唇が、そっと触れる。

雪にまみれた唇は、最初冷たくて・・・。

そして、温かった。


目を閉じると、そこにはひとりの少女が立っていた。

2本のおさげを揺らしながら、頭の上に、ちょこんと雪うさぎをのせていた。


「ほら・・・これって、雪うさぎって言うんだよ・・・。 わたしが作ったんだよ・・・。 わたし、ヘタだから、時間がかかっちゃったけど・・・。 一生懸命作ったんだよ・・・。 ・・・あのね・・・祐一・・・これ・・・受け取ってもらえるかな・・・? 明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど・・・。 でも、春になって、夏が来て・・・。 秋が訪れて・・・またこの街に雪が降り始めたとき・・・。 また、会いに来てくれるよね? こんな物しか用意できなかったけど・・・。 わたしから、祐一へのプレゼントだよ・・・。 ・・・受け取ってもらえるかな・・・。 ・・・わたし・・・ずっと言えなかったけど・・・祐一のこと・・・ずっと・・・好きだったよ」

 

「俺もだ・・・名雪・・・」


====================


夢。

夢が終わる日。

雪が、春の日溜まりの中で溶けてなくなるように・・・。

面影が、人の成長と共に影を潜めるように・・・。

思い出が、永遠の時間の中で霞んで消えるように・・・。

今・・・。

永かった夢が終わりを告げる・・・。

最後に・・・。

ひとつだけの願いを叶えて・・・。

たったひとつの願い。

ボクの、願いは・・・。


====================

 

 

・・・・・・。


・・・。

 

 


季節の風が、うつろいでいた。

変わることなんてないと思っていた街並みが、新しい色に染まっていく。

街を覆っていた雪は消えて、その下から様々な色が姿を見せる。

雪の衣を脱ぎ捨てた街。

風はまだ冷たくて、春と呼ぶにはまだ遠いけど・・・

それでも、確実に季節は変わっていた。


「・・・そろそろ、あいつを起こすか」


布団から抜け出して、カーテンを左右に開く。

その時、窓の外を何かが舞った。

それは、小さな桜の花びらだった。

 

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「おはよう、祐一」


廊下に出た俺を、制服姿の名雪が迎える。


「・・・名雪、熱でもあるのか?」


名雪が、俺よりも早く起きている。

しかも、すでに制服を着ている。


「・・・熱なんてないよ。 失礼だよ~」
「そうか、分かった。 俺が夢を見てるんだな。 早く起きないと遅刻だっ」
「・・・違うよ」
「だったらどうして?」
「今日から3年生だもん。 わたしだって早起きくらいはするよ」
「・・・名雪、夕べ何食べた?」
「祐一と同じ物だよ」


楽しそうに笑う、名雪の笑顔が嬉しかった。


「明日から毎日こうだと助かるんだけどな」
「まかせてよっ」


ぐっと小さくガッツポーズをする姿が、どこかおかしくて・・・。


「あ。 祐一ひどいよ。 笑わないでよ~」


そして、愛おしくて・・・。


「それにしても、本当によく起きられたな」
「うん。 目覚まし時計のおかげかな?」
「また新しい目覚まし買ったのか?」
「ううん。 買ってないよ~」


どこかいたずらっぽく笑う。


「・・・名雪
「ん?」
「まさか、あの目覚まし使ってるんじゃないだろうな・・・」
「おかげで、ちゃんと朝、目が覚めるよ」
「今すぐ消せ!」
「嫌だよ」
「俺が消す!」
「だ、ダメだよ祐一っ」


部屋に入ろうとする俺を、名雪が後ろから抱き留める。


「あんな恥ずかしいもの、いつまでも残しておくなっ」
「あ、やっぱり恥ずかしかったんだ」
「当たり前だっ」
「恥ずかしくても、あれは証拠だから、消したらダメだよ」
「あのメッセージを残しておくのはいいけど、目覚ましに使うのはやめろ」
「そしたらわたし、また明日から起きられないよ」
「その時は、また俺が起こしてやる」
「でも、毎日だよ?」
「毎日だって、起こしてやる」
「これから、ずっとかもしれないよ?」
「ずっとだって構わない。 何年経っても、何十年経っても、俺が起こしてやる」
「わ。 祐一、もっと恥ずかしいこと言ってるよ」
「悪かったな」



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「遅いと思ったら、なにやってるのふたりとも」
「わ、お母さん」
「わ、お母さん、じゃないわよ。 早く行かないと遅刻よ」


名雪、時間」
「わっ」


腕時計を見た名雪が、驚いたような声を上げる。


「時間、ないよ」
「何でないんだっ」
「不思議」


のんびりと首を傾げる。


「でも、走ったら間に合うよ」


そして、たおやかに微笑んでいた。


・・・。


空の青さが眩しかった。

そよぐ風が心地よかった。

そして、すぐ横を走る少女の笑顔が嬉しかった。


・・・。

 

 

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「どうして、新学期早々走ってるんだろうな、俺たち」
「わたしは、ちゃんと早起きしたよ」
「俺だって、起きたぞ」
「祐一が、ゆっくりしてるからだよ」
名雪が、のんきにトーストかじってるからだ」
「だって、お母さんのイチゴジャム、大好きだもん」
「秋子さんのジャムは、いつだって食えるんだから、遅刻しそうなときくらい我慢しろっ」
「・・・そう、だよね・・・。 ・・・お母さんのジャム、いつだって食べられるんだよね・・・」


名雪が、泣き笑いのような表情で眩しそうに空を見上げていた。


「・・・今度、あのジャムも食べてやれよ」
「それだけは嫌」
「薄情なやつだな」
「それなら、祐一が食べて」
「俺はジャムアレルギーなんだ」
「そんなの初めて聞いたよっ」


一瞬、横を走っていた名雪の姿が消えて、そして、背中に温かな感触があった。

 

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「祐一の背中、広いね」
「こらっ、重いだろっ」
「ひどいよ~、重くないよ~」


耳元で、名雪の楽しそうな笑い声が聞こえる。


「祐一、また同じクラスになれるといいよね」
「なれるさ、絶対に」


俺は、名雪の温かさを感じながら、頷いた。

俺たちは今、いくつもの奇跡の上に立っていた。

名雪と、この街で再会できたこと・・・。

名雪のことを好きでいられたこと・・・。

そして・・・。

秋子さんの穏やかな微笑みも・・・。

名雪の暖かな笑顔も、奇跡・・・。

たくさんの奇跡と偶然の積み重ねの上で・・・。


「きっと、同じクラスにだってなれるさ」
「うんっ。 嬉しいよっ」


ずっと、ずっと・・・。

今の時間を眩しく思いながら・・・。

遅い春は、もうそこまで来ていた。


・・・。

 

 

水瀬名雪編 END

 

Kanon【7】


・・・。


1月17日 日曜日


その日も朝から静かだった。

あれだけ毎晩のように騒ぎを起こしていたその張本人がいないのだから、無理もなかった。

久々に充分な睡眠を取れたのはいいが、頭が重く、あまり気持ちのいい朝ではなかった。

寝すぎたのかもしれない。

着替えて1階へ降りてゆくと、すでに朝食は終わっていたようで、秋子さんと名雪はふたりがかりで洗濯に取りかかっていた。


「おはよう。 朝食、置いてあるから」


すれ違いざま、名雪が台所のほうを指さして、通り過ぎていった。

俺はひとり食卓に向かい、そしてひとり朝食をとった。


・・・。


午後になると、晴れていた空は重苦しい灰色の雲で覆われはじめた。

洗濯物を干していた秋子さんは、残念そうに窓からその様子を眺めていた。


「降ってきそう」

「・・・・・・」


俺もその場で足を止めていた。


「・・・・・・」
「あの、秋子さん」
「ん? どうしたの?」
「えっと・・・出かけてきます」
「そう。 温かくしてね」
「ええ。 夕飯までには帰ってきますから」
「じゃ、美味しい夕飯作って待っているわね」


そう言って、秋子さんは笑う。

玄関に降りて、靴の紐をきつく結び直すと、俺は冷たい外気へとその身をさらした。


・・・。


これといった用もなく、俺は商店街の中で時間を潰していた。

ただ、やはりこの目で確かめておかなくてはいけないことがあったからだ。

ゲームセンターの店先に設置されたゲームを何度も繰り返しプレイする。

コインが尽きた頃にはもう夕刻だった。

そして今日、何度目になるだろうか商店街の端から端を往復すると、ようやく探していたものの見つけるに至る。


(・・・・・・)


間違いない。

あの見慣れた背格好に服装はあいつ以外の何者でもない。


(元気そうじゃないか・・・)


真琴が、いつもい肉まんを買っていた店先に立っていた。

やはり自分の家に戻っていたのだろう。

家もこの商店街の近くにあるに違いなかった。

俺は安心した。

皆には虚勢を張り続けていたが、やはり胸の内では気が気ではなかった。

もしかしたら、帰る場所させわからないままのあいつを突き放して、路頭に迷わせてしまようなことになったのではないか。

そう気を揉んでいたのだ。

久しぶりに帰った家で、早速小遣いをせしめ、肉まんを買いにきたのだろう。

それで俺の用は済んだ。

真琴の元気な姿を見る。

それが目的で、ずっとこんなところで時間を潰していたのだから。

俺は声もかけず、立ち去ることにする。

もしまた偶然会うことがあったら、その時は肉まんでも奢ってやるとしよう。


「元気でな、真琴」


そう呟いてから俺は、背中を向けた。


・・・。


1月18日 月曜日


「・・・朝か」


いつものごとく目覚まし時計に起こされて、ベッドから這い出る。

眩しい朝の光を手で覆って、外の風景を眺める。

相変わらずの雪景色。

そして、いい天気だった。


・・・。


名雪ーっ、起きろーっ」


ドアを叩きながら、名雪の名前を連呼する。

少し間をおいてみるが、返事はない。


名雪ーっ! 今日から学校だぞーっ!」


さっきよりも激しくドアを叩く。


「・・・にゅ」


今度は、中から微かに反応があった。


名雪、起きたのか?」
「・・・起きたよぅ」


中から確かに返事があった。

しかし、名雪の場合はこれで安心できない。

名雪にとっては、寝ながら返事なんて朝飯前だ。


「本当に起きてるんだったら、今から言う質問に答えろ」
「・・・うにゅ」
「25+7は?」
「・・・さんじゅう・・・に・・・」
「今日は何月何日だ?」
「1がつ・・・18にち・・・」
「スリーサイズは?」
「上から・・・80・・・って、わっ!」


ばたんっ、と中から何かが落ちるような音がする。


「祐一、なんてこと訊くんだよっ」
「どうやら本当に起きたみたいだな」
「うー・・・」
「じゃあ、先に降りてるからな」
「うー・・・」


・・・。


洗面台で顔を洗って、そのまま食卓に顔を出す。

 

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「おはようございます、祐一さん」


と、いつものように秋子さんが朝食の準備をしながら微笑んでいた。

すでにテーブルの上には、サラダやジャムの瓶、そして殻を剥いたゆで卵などが、綺麗に並べられている。

名雪の話では、掃除や洗濯もほとんど秋子さんが朝のうちに片づけてしまっているらしい。


「今日もいいお天気ですよ」


こんがりと焼けたトーストを、俺の前に置く。

しかし、一体秋子さんは何時に起きているんだろうか・・・。

名雪と違って、秋子さんが眠たそうな顔をしているところなんて、俺は一度も見たことがない。

それは、真夜中に起きてきた時も一緒だった。

 

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「おはようございます・・・」


頭を押さえながら、名雪が食卓に顔を出す。


「どうしたの、顔が赤くなってるわよ?」
「ベッドから落ちた・・・」


「まったく、ドジだな」


何食わぬ顔で、トーストをかじる。


「祐一のせいだよ・・・いきなり変なこと訊くから・・・」
「変なこと?」
「ううん、何でもない」
「そう」


にこっと笑って、キッチンの奥に消える。


「訊いたけど、答えてくれなかっただろ」
「もう少しで言いかけたよ・・・」
「明日から、起こすときはこの手でいくか」
「やだよ」
「だったら、今、答えるとか。 そしたら、もう訊くこともないだろ」
「そんなの、人に言うようなものじゃないよ」
「俺なら言えるけどな」
「それは、祐一が男の子だからだよ。 わたしは女の子だから、やっぱり恥ずかしいよ」
「まぁ、冗談だけどな」


別に本当に知りたかったわけでもないし。


「・・・・・・」


しかし・・・。

そんなことよりも、名雪がちゃんと俺との関係を、男と女として見ていたことが驚きだった。

名雪のことだから、そんなものはまったく意識していないとばかり思っていた。


「どうしたの?」
「デコが赤いぞ」
「祐一のせいだよ・・・」


今まで気にもしていなかったが、よく考えると、俺と名雪の関係って不思議だよな・・・。

いとこで、

幼なじみで、

クラスメートで、

同居人で、

そして・・・


「ごちそうさまでした」


ぽん、と手を合わせる。


「やっぱり、イチゴジャムおいしいね」
「時間は?」
「うん。 今日は余裕があるよ」
「俺の起こし方がよかったからな」
「でも、もうやめてね」


釘を刺すように言って、席を立つ。

俺も立ち上がって、玄関に移動する。


・・・。


ばたばたと靴を履き替えて、外に飛び出す。

今日は時間があるはずなのに無闇に慌てているのは、染みついてしまった日頃の習慣である。


・・・。


「そう言えば、秋子さんって、ずっと家にいるのか?」


ふと気になっていた疑問を、隣でとことこと歩いている名雪に訊ねてみる。


「そんなことないよ。 ちゃんと仕事に行ってるよ」
「いつ?」
「わたしたちが学校に行ってる間だと思うよ」
「・・・そうだよなぁ」


さすがに、専業主婦と言うことはないだろう。


「それで、秋子さんってどんな仕事してるんだ?」
「どんな仕事してるんだろうね」


俺の問いに、名雪が首を傾げる。


「・・・もしかして、知らないのか?」
「うん。 わたしは知らないよ」
「マジか・・・?」
「うん」


秋子さんの仕事・・・。

想像できないだけに気になる・・・。


「今度、お母さんに直接訊いてみたらいいよ」
「そうだなぁ・・・」


曖昧に頷いて、雪の残っている通学路をゆっくりと歩く。

その先には、同じ制服を着た生徒が数人、グループになって登校していた。


「たまには、ゆっくり歩くのもいいよね」
「たま・・・じゃなくて、できれば毎日がいいな」
「そだね」


うんっ、と名雪が頷く。


「雪が溶けて暖かくなったら、きっと早起きできるよ」
「なんか、その台詞だけ聞いてると、俺が寝坊して困らせてるみたいじゃないか」
「そうだね」


屈託なく笑って、逃げるように走っていく。

学校の校舎は、もうすぐ目の前だった。


・・・・・・。


・・・。

 

これといったハプニングが起こることもなく、平和に授業風景が流れていく。


・・・。


名雪っ、放課後だぞっ」
「どうしたの?」
「いや、いつも名雪に言われてるから、今日は先手を打ってみた」
「祐一って、いつもあんまり意味のないことに一生懸命だね」
「ありがとう。 最高の褒め言葉だ」
「それで、本当にどうしたの?」
「暇だったら一緒に帰ろうと思って」
「ごめん、祐一。 今日も部活なんだよ」


本当に申し訳なさそうに俯く。


「いや、部活だったら仕方ないな」
「昇降口まで一緒に帰ろうよ」
「そうだな」

 

・・・。

 

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「あ」


昇降口の前で、名雪が足を止める。


「今年もやっぱりあるんだ」


名雪は、廊下の壁に貼られていたポスターを見ていた。


「何のポスターだ?」


きらびやかに光る大きなホール。

真っ白なテーブルやろうそく、そして豪華な食事が並べられているという、かなり現実離れしたポスターだった。


「虫歯防止のポスターか?」
「・・・どうしてこれが虫歯防止に見えるの?」
「真面目に訊き返されても困るけど」
「あさっての、学校行事の告知だよ」
「何の行事なんだ?」
「舞踏会」
「・・・名雪が天然じゃないボケを」
「ボケてないよ」


ポスターを指さす。


「ほら、書いてあるよ」


『平成11年度学園舞踏会』


「舞踏会って、学校行事だったのか?」
「毎年恒例らしいよ。 わたしは参加しなかったけど」
「どうしてだ?」
「だって、どう考えても場違いだもん」
「参加しなくてもいいのか?」
「自由参加だよ」
「それを聞いて安心した」


どう考えても、俺だって場違いだ。


「それで、その日は学校が休みになったりとかするのか?」
「ううん。 普段通り」
「何の役にもたたないイベントだな・・・」
「でも、その準備で明日は半日で学校も部活も終わりだよ」
「それは嬉しいな」
「あ。 わたしそろそろ行かないと」
「そうだな。 俺もとっとと帰るか・・・」


・・・。


「それじゃあね、祐一」
「ああ」

 

・・・。


部活に急ぐ名雪と別れて、俺はひとりで帰宅した。


・・・。


夕飯を食べて、テレビを見て、そして風呂に入る。

机に座って学校の宿題をあくび混じりに片づける。

宿題のプリントが全て回答で埋まる頃には、すでに深夜と呼んでも差し支えのない時間になっていた。


(・・・明日からに備えて、寝るか)


電気を消して、冷たい布団の中に潜り込む。

目を閉じると、その先は夢の中だった。


・・・。


1月19日 火曜日


朝、目が覚めると、眩しい光がカーテンの向こう側から射し込んできた。

それでも暖かさではなく寒さが先に立つのは、この街ならではだと思う。

手早く着替えて、そして部屋を出た。


・・・。


「祐一」


すぐ隣の名雪が、俺の顔を見上げる。


「今日は午前中で終わりだね」
「何が?」
「学校だよ」
「そうなのか?」
「うん。 明日の舞踏会の準備があるから」
「しまった! だったら、体操服なんかいらなかったんだ!」
「5時間目だからね。 あれ? でも、祐一、体操服なんて持ってないよ?」
「中に着込んでるんだ」
「暖かくていいよ」
「それもそうだな・・・」
「あ」


歩いていた名雪が、小さく声をあげて立ち止まる。


「・・・どうした?」
「時計、止まってる」
「・・・誰の?」
「わたしの腕時計」
「さっき、今日はまだ時間に余裕があるから、ゆっくり歩いても平気だもん・・・って言ってる時に見てた時計か?」
「だもん、とは言ってないけど・・・」
「もしかして、急がないとやばいんじゃないか?」
「かも」
「・・・・・・」
「・・・・・・」


一度頷きあって、そして同時に走り始める。


「やっぱり走るのか・・・」
「健康にはいいよ」
「だといいけど・・・」


・・・。

 

「あ。 まだ人がたくさんいるよ」
「どうやら間に合ったみたいだな」

 

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「よお」


「北川君、おはよう」


「北川、今何時だ?」
「あと3分で予鈴ってとこだな」


何時かと訊いて残り時間が返ってくるあたり、わきまえていると言ったところか。


「やっぱり時計がないと不便・・・」
「帰りに商店街で換えてもらったらどうだ?」
「うん。 祐一も一緒に行こうよ、商店街」
「・・・そうだな、他に予定もないし」
「うんっ、決まり」
「でも、今日はおごらないぞ」
「うん、いいよ。 でも、やっぱりイチゴサンデーは食べるよ」
「甘い物ばっかり食ってると、虫歯になるぞ」
「大丈夫だよ。 ちゃんと食べる度に歯を磨いてるから」
「律儀なやつだな・・・」
「祐一は、ちゃんと磨いてる?」
「磨いてるぞ、たまに」
「たまに、はダメだよ・・・」
「大丈夫だって、そんなしっかり磨かなくても」
「祐一、さっきと言ってることが違うよ・・・」


「おーい、あんまり余裕ないぞ」


昇降口の方で、北川が手を振っていた。


「わ。 時間・・・」


慌てて時計を見る。


「・・・やっぱり、不便」


予鈴が鳴って、辺りを歩いていた生徒も、一斉に走り出す。


「俺たちも走るぞ」
「・・・うん」


・・・。


校舎の中に駆け込んで、大急ぎで靴を履き替える。


・・・。


「今日も間に合ったね」
「・・・って、ゆっくり感想を言ってる暇もないぞ」
「あ、先生・・・」


教室のドアを開けて、担任の石橋が入ってくる。


「全員、席につけ」


その声に急き立てられるように、バタバタと自分の机に戻っていく。

そして、いつものように朝のHRが始まった・・・。


・・・。


今日の授業は半日で終わり・・・。

となれば、どれだけの生徒が授業に集中しているかは、怪しいものだ。

ほとんどの生徒が、頭の中は放課後のことで一杯だろう。


「・・・・・・」


ふと、窓の外を見てみる。

屋根には雪が残り、木々は白い枝を残している。

時折、風の鳴る音が聞こえて、条件反射で体をすくませる。

教室の中はまだ穏やかだが、外は極寒の地だった。


(・・・それにしても)


机に頬杖をついて、ひとつあくびをする。


(・・・眠い)


名雪でなくても、そう感じる。


(・・・・・・)


名雪でなくてもそう感じるのだから、名雪当人はどうだろう・・・と横を見てみると、

 

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案の定、こくりこくりと揺れていた。


「・・・ふぁ」


それでも眠らないように、一生懸命授業に集中している。

さすがに放っておくのも忍びない。

俺はノートを1枚ちぎって、そして丸めた。

シャーペンでも投げようかと思ったが、さすがに刺さると大事だろう。


「・・・・・・」


そして、先生が黒板の方を向いている隙に、名雪にぶつける。


こんっ!


「・・・?」


寝ぼけたような表情で、きょろきょろと周りを見回す。

何が起こったのか分からないようだった。


(・・・これでよし)


そして、退屈な時間が過ぎていく・・・。


・・・。


「祐一、放課後だよ」


4時間目とHRが終わると、真っ先に名雪が駆け寄ってくる。


「今日も一日ご苦労様」
「まだ半日あるけどな」
「そうだね。 商店街に行って、時計の電池を換えないと。 祐一も一緒に行くんだよね?」
「ああ、どうせ暇だからな」


軽い鞄を持って、席を立つ。


「祐一、何も持って帰らないの?」
「持って帰ったって、使わないからな」
「それもそうだね」


名雪も、自分の鞄を持つ。

こっちは、俺と違って中身がたっぷりと詰まっていた。


「いこ、祐一」


促す名雪と、一緒に教室を出る。


・・・。


名雪と歩く商店街。

半日で学校が終わったので、陽はまだ高かった。


「あとで、おいしい物食べに行こうよ」
「また、百花屋か?」
「ううん。 今日は違うところ」
「なんだ、珍しいな」
百花屋のイチゴサンデーはすっごくおいしいけど、でも、たまには別のお店もいいよ」
「どっか、うまい店知ってるのか?」
「うん。 いろいろ知ってるよ」
「だったら、店は名雪に任せる」
「うん。 任されるよ」


すぐ隣を歩く名雪が、柔らかに微笑む。


「屋台のたい焼き屋さんなんてどうかな?」
「絶対にダメだ!」
「どうして?」


不思議そうに首を傾げる。


「・・・実は、たい焼きアレルギーなんだ」
「わっ。 そうなの?」
「たい焼きが半径1メートル以内に入ると、発疹が出るんだ」


とても嘘臭かった。


「・・・そうなんだ。 だったら仕方ないね」


しかし、名雪は信じていた。


「わたしもアレルギーだから、その気持ち分かるよ」


同情するように何度も頷く名雪


「それなら、別のお店考えとくよ」


しかし、我がいとこながら、変な性格だとつくづく思う。

これで、全然性格の違う俺と血が繋がっているのだから、不思議なものだった。


「困ったね。 どこにしようか・・・」
「・・・ところで、先に時計屋行った方がいいんじゃないか?」
「そうだね。 時計が止まったままだと不安だからね」


しばらく歩くと、目的の場所はすぐに見つかった。


「ちょっと待っててね、すぐに電池交換して貰うから」


言い残して、名雪が時計屋に入っていく。

俺も追いかけようかと思ったが、時計屋に何も用事がなかったので、素直に外で待っていることにする。


「・・・・・・」


しばらく待っていると、ぽんと背中を叩かれた。


名雪か?」

 

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「こんにちは、祐一君っ」


振り返ると、名雪ではなく、あゆが笑顔で立っていた。


「何だ、あゆか」
うぐぅ・・・何だはひどいよ・・・」
「てっきり、名雪だと思った」


しかし、よく考えてみると俺は時計屋の入り口を見て立っていたんだから、いきなり背後に回り込まれるわけがなかった。


「・・・なゆき?」


あゆが、聞き慣れない名前に首を捻っている。


「・・・食べ物?」
「食うな」


そういや、あゆは一度も名雪を顔を合わせたことがないのか・・・。


「秋子さん、知ってるだろ?」
「うん。 ボク秋子さん大好きだよ」
「秋子さんの、娘さんの名前だ」
「そうなんだ・・・」


あゆが感心したように頷いている。


「ちなみに、俺のいとこだ」
「もしかして、一緒に住んでるの?」
「そう言うことになるな」
「そうなんだ・・・」

 

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「お待たせ、祐一・・・?」


店を出てきた名雪が、あゆの姿を見つける。


「こいつが名雪だ」


あゆのために、簡単に紹介する。


「・・・・・・」


紹介されたあゆは、緊張の面持ちで名雪の姿を見ている。


「・・・・・・?」


そして、名雪は事情が分からず首を傾げていた。

とりあえず、俺がそれぞれを紹介する。


・・・。


「えっと、あゆちゃんって呼んでいいのかな?」


自己紹介が終わって、名雪が先に話しかける。


「うん、あゆちゃんでいいよ」
「わたしのことも、なゆちゃんでいいよ」
「・・・なゆちゃん?」


あゆちゃんと、なゆちゃん・・・。


「ややこしいから、やめてくれ」


「・・・うん。 やっぱり名雪さんって呼ばせてもらうよ」
「残念・・・」


名雪は、なゆちゃんと呼んで欲しかったらしい。


「あゆちゃんは、これからどうするの?」
「ボクは・・・ちょっと、ね」


寂しそうに笑う。


「何か用事でもあるのか?」
「・・・うん。 大切な用事」
「だったら、引き留めて悪かったな」
「いいよ。 話しかけたのはボクだから」


「今度、一緒にイチゴサンデー食べようね」
「うんっ。 またね、名雪さん、祐一君」


いつものように手を振って、パタパタと羽を揺らしながら走っていく。


「可愛い子だね」


あゆの姿が見えなくなると、名雪が楽しそうに呟く。


「誰が?」
「あゆちゃん」
「そうかぁ?」
「祐一、照れてるだけだよ」
「・・・・・・」


名雪は、時々人の考えを見透かしたような意見を言うことがある。

普段がぼーっとしてるだけに、余計そう感じるのかもしれないが・・・。


「わたしたちも、そろそろ行かないと」
「・・・そうだな」


いつまでも、こんな所にいても仕方ない。


「どこに行くか決まったのか?」
「まだ」


言ってから、再び動き出した腕時計に視線を落とす。


「だけど、歩きながら、考えるよ。 時間は、まだたっぷりとあるから」
「そうだな・・・」


見上げた空は高くて、遠くて・・・。

これで寒くなければ、散歩するには最高の条件だった。


・・・。

 

「・・・お腹いっぱい」


店から出たときは、すでに辺りは夕暮れだった。


「けっこううまかったな」


振り返って、今日初めて入った甘味処の店名をチェックする。


「うん、そうだね」


名雪も満足だったのか、こくんと頷く。


「ここだったら、また来てもいいな」
「でも、今度は百花屋さんに行こうね」
「イチゴのデザートがなかったからか?」
「うん」


さすがに、女の子の甘味屋に対するチェックは厳しかった。


「分かったよ。 今度は百花屋にしような」
「うん。 イチゴサンデー食べるの」
「じゃあ、今日はそろそろ帰るか」


この既設は、日が落ちるのも早い。

今から帰って、ちょうど日が落ちた頃に家につくだろう。


「ちょっと待って・・・」


名雪が、家とは反対の方向を指さしている。


「あと少し、寄りたいお店があるんだけど・・・」
「暗くなるぞ」
「大丈夫だよ。 祐一を一緒だもん」
「分かったよ」


俺は苦笑して、名雪のあとに続いた。


「ありがとう、祐一」


すぐ横で、いとこの少女が微笑む。

 

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「なんだか、デートみたいだね・・・」
「そうか?」
「うんっ」


俺には、仲のいい兄妹が一緒に買い物をしているようにしか見えないけど・・・。

もっとも、実際は兄妹ではなくて、いとこなんだけど・・・。


「このお店」


商店街の奥に数分歩いたところで、名雪が一軒の店の前で立ち止まる。


「ここって、どんな店なんだ?」
「何でも屋さん、かな」
「雑貨屋だな」
「うん。 そんなところ」


頷いて、名雪が先に店の中に入っていく。

ここで立っていても寒いだけなので、俺もその後ろに続く。

店内は、確かに何でも屋という風体だった。

名雪は、嬉しそうに色々な物を物色している。

しかし、俺にはこれといって興味のわかない物ばかりだった。


「あの目覚まし時計、ここで買ったんだよ」
「俺が借りた、余計に眠気を誘うやる気のなさそうな目覚ましのことか?」
「祐一、ひどいこと言ってる?」
「いや。 ただ、珍しい目覚ましだなって思って」
「わたしの、2番目にお気に入りの目覚まし時計だよ」
「だったら、1番はどれなんだ?」
「歯車に見える時計」
「歯車・・・?」
「すっごくおっきくて、文字盤が透明で、中の歯車が見えるの。 今度部屋に入ったら、探してみて」
「でも、どうしてそれが1番のお気に入りなんだ?」
「高かったから」
「・・・なるほど」


一番説得力のある答えだった。

名雪と一緒に、一通り店内を見て回る。

やがて、一周して元の場所に戻っていた。


「これで全部」
「うん。 そろそろ出よう」
「そうだな・・・」


・・・。


「結局、何も買わなかったのか?」
「欲しい物はあったんだけど、今月はお金がちょっとなくて」
「買い食いばっかりしてるからだ」
「そんなにしてないよ。 部活がないときだけだよ」
名雪は、バイトとかしないのか?」
「うー・・・部活があるもん」


確かに、あのスケジュールではバイトをしている余裕はなさそうだ。


「例えば、祐一が何かプレゼントしてくれるとか・・・」
「それは、夢のまた夢だな」
「ちょっと残念」
「だいたい、俺だって経済状況は名雪と似たようなものだ」
「わたし、これでいいよ」


そう言って、店の外の棚に置かれていた物を手に取る。

それは、ばら売りされた真っ赤なビー玉だった。


「安いよ、20円」
「ビー玉なんか、何するんだよ・・・」
「何もしないよ。 ただ持ってるだけ」
「まぁ、それくらいだったら、買ってやるけど・・・」
「ありがとう、祐一」


何がそんなに嬉しいのか、たったひとつのビー玉を、胸元で抱きかかえるように持っていた。


「ほら、20円」


十円玉を2枚、名雪に手渡す。

 

「うん。 買ってくるね」


大事そうにビー玉ひとつを抱えて、再び店の中に入っていく。


「やっぱり変なやつ・・・」


ビー玉1個貰って、何が嬉しいんだろう・・・。


「お待たせ」


ぴょこっと、名雪が戻ってくる。

手には、チェック模様の小さな紙袋に入ったビー玉があった。


「ありがとう、祐一」
「じゃあ、帰るぞ」
「うんっ」


頷く名雪と一緒に、ほとんど沈みかけた夕日を浴びながら、家路についた。


・・・。


夕飯を食ってしまうと、いつものようにやることがなかった。

ベッドに横になっていると、自然と瞼が下がってきた。


「・・・今日は、もう寝るか」


電気を落として、改めて布団に潜り込む。


・・・。

 

1月20日 水曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


「・・・・・・」


いつものように、やる気のない目覚まし時計に起こされる。


「・・・ふぁ」


大きくあくびをして、時間を確認する。

いつも通りの時間。

本当に、普段を変わらない朝だった・・・。


「・・・くー」


すぐ横で眠っている、こいつを除けば・・・。


「・・・何で、名雪が俺のベッドで・・・?」


パジャマに半纏を羽織った名雪が、俺の毛布にくるまって、気持ち良さそうに寝息を立てていた。


「・・・・・・」


はっきり言って、俺にはまったく見に覚えがなかった。


「・・・さて・・・」


このまま放っておくわけにもいかないので、とりあえず名前を呼んでみる。


「おい、名雪っ。 朝だぞっ」

「・・・くー」

名雪っ、起きろっ」


名前を呼んでも、まったく起きる気配すらなかった。

今度は、体を揺すってみる。


「おーいっ、起きろーっ」

「・・・う」


名雪が、小さく声を漏らす。

やっと、少しは目が覚めたようだった。

それでもほとんど眠ったまま、名雪がゆっくりと体を起こす。

 

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「・・・うにゅ」
「うにゅ、じゃないぞ・・・」
「・・・うにょ」
「うにょ、でもないって・・・」
「・・・・・・」


瞼を擦りながら、不思議そうに部屋の中を見回す。


「・・・・・・」


俺と、目が合う。


「・・・あれ? わっ。 ここどこ?」
「俺の部屋だ・・・」
「えっ! 祐一、まさか・・・」
「待てっ! 俺は何も知らないぞ」
「わたしを驚かそうとして、寝ている間に運んだんじゃないの?」
「そんなことするかっ」


だいたい、その、『驚かそうとして』って発想はどこから来るんだ・・・。

相変わらず、考え方が普通の女の子よりも少しずれてるよな・・・。


「それなら、どうして・・・?」


まだベッドに入ったまま、しきりに首を傾げている。


「・・・それに、何で半纏を羽織ったまま寝てるんだ?」
「え? あ、ホントだ」
「普通、寝る時って脱ぐよな・・・」
「うん。 もちろんだよ」
「だったら、どうして半纏を羽織ったまま、俺の部屋で寝てるんだ?」
「・・・わたしに訊かれても」
「・・・他に、誰に訊くんだよ」
「あ」


俺のベッドに座ったまま、ぽんと手を鳴らす。


「何か思い出したのか?」
「・・・わたし、真夜中に目が覚めたんだよ」
「それで?」
「それで、お手洗いに行って、部屋に戻ったら・・・」
「・・・・・・」
「祐一の部屋だったみたいだね」
「みたいだね、じゃないだろ!」
「寝ぼけてたみたいだね」
「限度があるだろ」
「困ったね」


まるで、他人事のような物言いだった。


「はぁ・・・。 もう分かったから、とりあえず自分の部屋に戻って着替えてこい」


こんなところを秋子さんにでも見られたら、大事だ。


「そうだね」


頷いたものの、名雪の動作は鈍かった。


「・・・しかし、普通は同年代の男にパジャマ姿なんて見られたくないんじゃないか?」
「どうして?」
「・・・どうしてって・・・見られて恥ずかしくないのか?」
「でも、服着てるよ」
「裸じゃなければ何でもいいのか、お前は」
「そんなことはないよ」
「そんなことあるだろ」
「やっぱり、わたしだって恥ずかしいよ」
「・・・そうは見えないけどな」
「それは、相手が祐一だからだよ」
「・・・・・・」
「祐一以外の男の人に見られたら、やっぱり恥ずかしいと思うよ」


そう言い残して、部屋を出ていく。


「・・・そういうものか」


確かに、俺たちは血が繋がってるからな・・・。

ほとんど、兄妹と同じようなものか・・・。

名雪の言うことも、もっともかもしれない。


・・・。


「おはようございます、祐一さん」


食卓に顔を出した俺を、秋子さんが温かく迎えてくれる。

秋子さんと朝の挨拶を交わした後、自分の席に座っていると、服を着替えた名雪が降りてきた。


「おはよう、名雪
「おはようございます・・・」
「今日は、いつもより早かったわね」
「うん・・・」


それでも眠そうな目を擦りながら、名雪の椅子に座る。


「祐一に、起こしてもらったから・・・」
「大変ですね、祐一さんも」


そう言って、ふたり分のトーストをテーブルに並べる。


「秋子さんだって大変だったでしょう?」


俺が来るまでは、秋子さんひとりだったんだから。


「わたしは、諦めてましたから」
「わたし、起こされたらちゃんと起きるよ・・・」


イチゴジャムを塗ったトーストをかじりながら、名雪が拗ねたように口を挟む。


「そうだといいけど」


目を伏せて、秋子さんがキッチンの奥に消える。


「・・・うー」


名雪は、不満そうだった。


・・・。


「今日は舞踏会だね」


俺たちには珍しく、ゆっくりと、木漏れ日の落ちる通学路を歩く。


「そっか、今日だったな」
「結局、祐一はどうするの?」
「どうもしない」


どう考えても、俺に舞踏会は場違いだ。


「そうなんだ」
名雪はどうするんだ? 出ないのか?」
「わたしは、柄じゃないよ。 それに、着て行けるようなドレスも持ってないし、ね」


名雪がドレスを着れば、場違いどころか相当似合うのではないかと思うけど、それは言わないでおく。

確かに、名雪の柄じゃないしな。


「でも、香里とか参加するんじゃないのか?」
「香里も出ないよ」
「そうか? いかにもあいつ好みの行事だと思うけど」
「そんなことないよ。 香里もわたしと一緒で、柄じゃないって言ってたから」
「そうなのか・・・何となく意外だな」
「香里って、目立つの嫌いなんだよ。 いつも明るく振る舞ってはいるけどね・・・」


・・・。


チャイムが鳴って、そして今日の授業は全て終了した。

今日も、極めて平穏無事な一日だった。


「祐一、これからどうするの?」
名雪はまた部活だろ?」
「ううん、今日はお休みだよ」
「そうか・・・。 たまには一緒に帰るか?」
「うん」


嬉しそうに頷く。


「商店街寄って帰ろ」
「そうだな、時間もあるし」
「うん」


同じ台詞。

だけど、さっきよりもさらに嬉しそうだった。


「あー、HR始めるぞー」


「じゃあ、詳しいことは後でな」
「うん」


・・・。


「楽しみだね」


学校を出て、俺たちは約束通り商店街に向かった。


「ホントに、楽しみだよ」


名雪は、終始にこにこしていた。


・・・。


放課後の商店街は、俺たちと同じような学校帰りの生徒で賑わっていた。

街灯の下や店の軒先に残った雪山が、傾いた日差しを浴びてきらきらと白く光っていた。

 

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「あのぬいぐるみ、可愛かったね・・・」
「そうだな」


俺には名雪の言う可愛いの基準が分からないが、とりあえず頷いておく。


「欲しかったなぁ・・・」
「俺が大金持ちになったら買ってやるぞ」
「うん。 期待してるよ」


赤く染まる街を、名雪と並んで歩く・・・。


「これで、何度目だろうな・・・」
「うん?」
名雪と一緒に商店街を歩いた回数だよ」
「えっと・・・」


名雪が、記憶を辿るように首を傾げる。


「たくさん、だよ」
「そうだな」


苦笑しながら、夕暮れの商店街を歩く。


「たまには、手でも繋いでみるか?」
「どうして?」


適当な冗談に、名雪が真顔を問い返す。

こういうところが、本当に昔のままだった。


「冗談だって」
「わ。 祐一、からかうなんてひどいよ」
「だから、冗談だって」
「ひどいよ~」


拗ねたり、笑ったり・・・。

表情をころころと変えながら・・・。

昔から良く知っている、いとこの少女と一緒に・・・


「繋いでみよっか」
「・・・え?」


俺が訊き返す隙も与えず、名雪が俺の手を取る。


「ちょっと不思議な感覚だね」
「馬鹿。 クラスのやつに見られたら困るから、やめろ」
「祐一が最初に言ったんだよ」
「だから、あれは冗談なんだって・・・」
「祐一の手、大きくなったね」
「だから、人の話聞けって」
「大きいし、それに、温かいよ・・・」


名雪が微笑む。

俺はどう返していいのか分からず、ただ夕暮れの街を歩いていた。

よく知っているはずのいとこの横顔が、どこか大人びて見えた。


「・・・祐一、お腹すいたね~」


しかし、それも数秒のことだった。


「あ。 あんなところに偶然、甘味屋さんがあるよ」


まるでたった今見つけたように、無邪気に店を指さしている。


「偶然も何も、いつも行ってる店じゃないか・・・」
「折角だから、食べていこうよ」


何がどう折角なのか分からなかった。


「今食べると、夕飯が中途半端になるぞ」
「ちょっとだけなら大丈夫だよ」
「秋子さんに怒られるぞ」
「うー」


名残惜しそうに、店先を見つめている。


「また今度、時間がある時、一緒に来ようか」
「約束」
「ああ、約束だ」
「やった、祐一のおごり」
「待て! 誰もおごるとは言ってないぞっ」


オレンジ色の光が眩しく感じるくらい傾いた夕日の中で・・・。

俺と名雪はゆっくりと家路についた。

繋いでいたはずの手は、いつの間にか解けていた。


・・・。

 

夕飯を食べて、リビングで適当に時間を潰したあと、俺は部屋に戻ってきた。


「・・・眠いな」


今日は、いつもよりも眠気があった。


「・・・ちょっと早いけど、寝るか」


明かりを落として、布団に潜り込んで・・・。

そして、目を閉じた・・・。


・・・。


1月21日 木曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


「・・・眠い」


名雪に借りた目覚まし時計で時間を確認する。

俺は、毎朝そうしているように、カーテンを左右に開け放った。

眩しい光。

白い景色。

そして、今日も雪の街で、一日が始まる・・・。


どん、どん・・・。


何度も名雪の部屋をノックする。

多少うるさいくらいでは、名雪は起きない。

それは、この数週間で身についた知識だった。

しばらくドアを叩き続けていると、やがて中から眠そうな声が聞こえる。

そして、カチャッ・・・とドアが開いて、中から寝ぼけ眼の名雪が顔を出した。


「・・・うにゅ」
「朝の挨拶は、うにゅじゃないだろ」
「・・・おはよ・・・祐一」
「ほら、起きたんだったら、とっとと着替えろ」
「・・・くー」


ぼかっ。


「・・・痛い」
「いいから、着替えてこい」
「まだ、このままでいいよ・・・」
「全然良くないだろ」
「わたし、この半纏お気に入りだから・・・」
「全然関係ないと思うけど・・・」
「猫さんのはんてん」
「それは見れば分かる」
「こっちの猫さんが、『いちご』で、こっちが『めろん』・・・。 この隅っこの猫さんが、『ぶどう』で、その横が『きうぃ』・・・」
「もしかして・・・全部に名前がついてるのか?」
「うん」


全部果物の名前で、しかも、何のひねりもアレンジもなかった。


「・・・相変わらず変なやつだな」
「猫さんが好きなだけだよ」


猫好きで、猫アレルギー。

猫が好きなのに、抱きしめることもできない。

確かに、かわいそうではある。


「わたし、着替えてくるね」
「ああ、できるだけ急げよ」
「うんっ」


・・・。


朝ご飯を食べて、いつもの通学路を名雪とふたりで歩く。

穏やかで、日差しが眩しくて・・・そして、寒い朝だった。


「・・・あ」


名雪が小さく声を上げる。


「・・・まさか、また猫か?」
「羽」
「・・・はね?」
「うん。 羽」


名雪の視線の先・・・。

道行く人影に混じって、白い羽が見えた。

どこかで見たことのある羽だった。

というか、羽なんてそうそう見るものでもない。


「おーいっ、あゆ」


俺の声が届いたのか、羽の生えた少女が、こっちに振り向く。

 

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「・・・あっ」


表情を綻ばせて、ぱたぱたと駆け寄ってくる。


「おはよっ。 祐一君、名雪さん」
「おはよう、あゆちゃん」


「あゆも、今から学校か?」
「うんっ」


何がそんなに嬉しいのか、元気良く頷く。


「だったら、途中まで俺たちと一緒に行くか?」
「いいの?」
「もちろんだよ」
「うんっ。 ありがとう」


いつものふたりにあゆを交えて、そして雪の通学路を歩く。

名雪をあゆはよほど気が合うのか、終始笑顔で話をしていた。


「そういや、前々から思ってたんだけど・・・」
「うん?」


名雪の方を向いて、ふと思ったことを口にする。


名雪、っていい名前だよな」


「あ、ボクもそう思うよ」


「・・・そうかな?」


意外、という感じで顔を上げる。


「何というか、イメージ通りの名前だ」
「わたしが?」
「いかにも『名雪』って感じだからな、お前は」
名雪って感じ・・・?」
「一応、誉め言葉だ」
「言ってることが良く分からないから、褒められてる気がしないよ・・・」


困ったように肩をすくめる。

確かにその通りだ。


「例えばだ、もしこいつが『名雪』なんて名前だったらどうする?」
「ボク?」
「まず、詐欺だな」
うぐぅ・・・どうして~」
「名前のイメージが違いすぎる」
うぐぅ・・・}


「でも、わたしもあゆちゃんはやっぱりあゆちゃんのほうが似合ってると思うよ」
うぐぅ・・・そうかな・・・?」


「あゆって聞くと、活発で元気で食い意地が張ってて口癖がうぐぅって気がするもんな」
うぐぅ・・・祐一君、いじわる~」
「俺じゃないって、世間一般の認識だ」
「そんな具体的な認識ないもんっ」


「あゆちゃん、学校は?」


ふと、思い出したように名雪が足を止める。


「あ・・・」


後ろを振り向く。


「・・・うぐぅ・・・行き過ぎだよ・・・」
「それなら、ここで解散」
「うん」
「またね、あゆちゃん」


「また来週な、あゆ」
うぐぅ・・・まだ木曜日」


悲しそうに、べそをかいて、手を振りながら来た道を引き返す。


「祐一、あんまりあゆちゃんにひどいこと言ったらダメだよ・・・」


あゆの羽が見えなくなると、名雪がため息をつきながら咎めるように言う。


「うーん・・・。 言うつもりはないんだけど、あゆの顔を見てると不思議とこうなるんだ」
「・・・・・・」


上を向いて、何か考え込んでいる。


「・・・それはきっと・・・」


何か言いかけて、言葉を飲み込む。


「どうしたんだ?」
「ううん。 何でもない」
「何か途中まで言いかけてなかったか?」
「内緒」
「ヒント」
「わたしが言っても仕方ないことだって途中で気づいたんだよ」
「ヒント2」
「ダメ。 ヒントはひとつだけ」
「ボーナスチャンス」
「ないよ。 そんなの」


鞄を持ち直して、少し早足で歩き出す。


・・・。


朝のHRは、いつものように滞りなく・・・は終わらなかった。


「・・・出題範囲は今配った通りなので、各自勉強しておくように」


手元にある藁半紙には、5科目分の出題範囲がびっしりと書かれていた。

突然の試験通達だった。

対象は全校生徒。

実施日は1月25日。

来週の月曜日だ。

しかも、どうやら1日で5科目全て実施するらしい。

5科目とはもちろん、国語、数学、社会、理科、英語のことだ。


「・・・なんで、この時期にテストがあるんだ」


石橋が出ていったあと、思い空気の漂う中、名雪に声をかける。


「・・・わたしに訊かれても」


名雪が、困惑顔で首を傾げる。


「去年もあったのか?」
「なかったよ」

 

どうやら、突発的な試験らしかった。


「とにかく、いきなりテストなんて言われてもな・・・」


しかも、すでに1週間を切っている。


「困ったね・・・」
「とりあえず今夜から勉強しないとダメだな・・・」
「そうだね・・・」


出題範囲のノートは名雪に借りて今日中にコピーして・・・。

その日の授業は、全て試験関連の話になった。

詳しい出題範囲や、テストの傾向などが、担当教師から通達された。


・・・。


「祐一、放課後だよ」


全ての授業が終わると、いつものごとく名雪が現れる。

しかし、その表情にいつもの笑顔はなかった。


「・・・テスト、嫌だね」


落ち込んでいる原因は、名雪も同じだった。


定期テストじゃないから、少しは気分が楽だけど・・・」
「でも、試験には変わりないからな・・・」
「そうだよね・・・」


ふたりして落ち込んでいると、香里が鞄を持って自分の席を立った。

 

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「香里、帰るの?」
「そう言う名雪は帰らないの?」
「わたしは、今日も部活・・・」
「テスト前でも部活があるの・・・?」
定期テストの前は、ないけど・・・」


今回は、中間、期末の定期テストではないので、部活はいつも通りあるようだった。


「・・・そうだ。 香里、勉強教えて」


名雪が、拝むように手を合わせる。


「人に教わるよりは、自分で勉強した方が絶対に効率いいわよ」
「分からないところだらけだから」
「そうね・・・あたしで良ければ、力になるけど」
「恩に着るよ、香里」
「それは、大げさだって」


表情を綻ばせながら、香里が教室を出てゆく。


「なぁ、名雪・・・。 香里って、もしかして勉強できるのか?」
「ずっと、学年で1番だよ」
「・・・は?」
「1年生の時から、ずっと1番だよ」
「・・・・・・」


思わず、香里の出ていった先を見てしまう・・・。


「凄いよね、香里」
「・・・・・・」


香里の、正直予想外の一面だった。


(・・・まだまだ、俺の知らないことだらけだよな)


そう、痛感した。


・・・。


部活に行く名雪と別れて、俺は借りたノートを持って商店街に向かった。


・・・。


コンビニでノートをコピーして、そのまま家路につく。


・・・。


夕食を食べ終えて、自分の部屋に戻る。

本来ならリビングでテレビでも見ている時間だが、さすがに今日からはそんな事をしている余裕はない。

ほとんど使っていない机に向かい、ノートのコピーと教科書を広げる。


「全然わからん・・・」


試験範囲に2学期の分が含まれていることが致命的だった。

受けていない授業のテストなんて、詐欺のようなものだ。

名雪に教えてもらおうかとも考えたが、さすがにこの時間はまずいだろう・・・。


「・・・どうしよう」


試験勉強以外のことで悩んでいると、微かにドアをノックする音が聞こえたような気がした。


こん、こん・・・。


今度は間違いない。


「・・・祐一、起きてる?」


遠慮がちに、名雪の声がドア越しに聞こえる。


「起きてるぞ」

「・・・開けるよ?」

「ああ」


ガチャッ・・・。

 

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「こんばんわ」
「どうしたんだ、こんな時間に? ノートなら全部返したぞ」


壁の時計で時間を確認すると、もうすぐ今日が終わるという時間だった。

どうしたんだというほどの時間でもないような気もするが、1日の睡眠時間10時間を誇る名雪が起きているのは奇跡に近かった。


「・・・テスト勉強、はかどってる?」
「自慢じゃないが、さっぱりだ」
「わたしも、さっぱり・・・」


はぁ・・・、とふたり揃ってため息を吐く。


「・・・祐一」
「ん?」
「・・・ひとりよりふたりだと思うんだよ」
「何が?」
「・・・テスト勉強、だよ」
「まぁ、そうかもしれないな」
「祐一、一緒に勉強しようよ」


思いがけない申し出だった。


「そうだな・・・色々と教えてもらいたいところもあったし」
「うん」
「それで、どこで勉強するんだ?」
「わたしの部屋に、テーブルも座布団もあるから、そこで勉強しよ」
「分かった、じゃあ準備して行くから先に戻ってていいぞ」
「うん」


ドアを閉めかけて、そしてぽつりと呟く。


「ふぁいとっ、だよ」


小さくガッツポーズ。


「ああ、頑張ろうな」
「うんっ」


心強い励ましの言葉を残して、名雪が部屋を出ていく。

俺も自分の筆記用具と教科書をまとめて、部屋を出る。


・・・。


薄暗い廊下に出て、名雪の部屋を小さくノックする。

俺と名雪の部屋以外からは光が漏れていない。

秋子さんも、もう寝ているのだろう。


「・・・祐一?」


カチャッ、と内側からドアが開く。


「来たぞ」
「・・・うん」


名雪に招かれて、部屋に入る。

 

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名雪の部屋は、やはりどこか雰囲気が違っていた。

何というか、やはり男の部屋と女の子の部屋では、こうも変わるのだろうか。

たとえそれが、いとこの部屋であっても・・・。


「遠慮なく座っていいよ」


名雪に促されて、机の前に座る。


「相変わらず、大量の目覚まし時計だな・・・」


部屋の棚は、様々な形の目覚ましで溢れかえっていた。


「たくさんないと、起きられないから」
「いや、たくさんあっても変わらないと思うけど・・・」


実際、名雪が目覚ましで起きたところなんて、この家に来てから、一度も見たことがない。


「祐一には感謝してるよ」
「そう思うんだったら、あと5分でいいから早く起きろ」
「そうだね」


名雪が微笑む。


「あと、あの目覚まし時計・・・」
「祐一に貸した目覚まし?」
「メッセージ、録音しなおしてもいいか?」
「わ。 ダメだよ」
「どうして?」
「苦労したから」
「苦労・・・って、たったの、ふたことじゃないか」


時間にして10秒もなかった。


「それでも、凄く苦労したんだよ。 わたし・・・機械とか苦手だから・・・」
「まぁ、別にいいけどな・・・」


あの目覚ましのおかげで遅刻したことが一度もないのが、今でも不思議だった。


「・・・祐一」


名雪が、辛そうな声で俺を呼ぶ。


「・・・わたし、眠い」
「まだ、勉強を始めてもいないぞ」
「・・・うん。 ・・・でも、眠い」


目を擦りながら、机を挟んで俺の向かい側に座る。


「もし、途中で寝ちゃったら、起こしてね」
「その時は、顔に落書きしてやる」
「わ。 寝てる間にいたずらしたら嫌だよ・・・」
「嫌だったら、勉強に集中するんだ」
「・・・くー」


ぼかっ。


「・・・痛い」


さい先は、とても不安だった。


・・・。

 



机に向かって、すでに2時間が経過していた。

途中、何度も名雪をたたき起こしながら、一応、勉強ははかどっていた。

 

 

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「・・・頭が痛い」
「知恵熱だな」
「・・・違うよ」


情けない声を出して、頭を押させる。


「祐一が、何度も叩くからだよ~」
名雪が寝るからだ」
「・・・だって、眠いもん」
「俺だって眠いんだ」


時間は、すでに真夜中の2時を過ぎていた。


「ふわぁ・・・」


名雪が何度目かのあくびをする。


「眠いよ・・・」
「気合いだ、気合いで切り抜けるんだ」
「うん・・・ふぁいとっ、だよ・・・」


真剣な表情で、再び机と向かい合う。


「うー」
「とりあえず、あと30分くらいで、今日はお開きにするか」
「うん」


1日目で飛ばしすぎて、あとが続かなかったら意味がないからな。


「でも、こうやって祐一と向かい合っていると、昔を思い出すね・・・」
「昔?」


名雪の言葉に、教科書から顔を上げて、いとこの顔を見る。


「・・・昔、ふたりで冬休みの宿題をしたことがあったんだよ。 その時も、今みたいにわたしの部屋で教科書を広げていたんだよ」
「・・・・・・」
「ちょうど7年前の・・・。 最後の、冬だよ」


・・・7年前。


・・・最後の冬。


その時のできごと・・・。


「・・・祐一、やっぱり覚えてないんだね」
「・・・・・・」


懸命に記憶を辿ろうとしても、すぐに真っ白な靄(もや)の中に隠れてしまう・・・。


「ごめんね、変な話しちゃったね」


申し訳なさそうに、名雪が謝る。


「・・・・・・」


どうして、俺はこんなにも忘れてしまったんだろう・・・。


大切な時間。


かけがえのない思い出のはずなのに・・・。


「きっと、悲しいことがあったんだよ」
「・・・悲しいこと?」


俺の心を見透かしたような名雪の言葉に、思わず訊き返す。


「悲しくて、心が潰れてしまいそうなくらい悲しくて・・・。 心が、思い出を閉ざしてしまうくらい、辛いできごと・・・。 そんなことが、あったのかもしれないね」
「・・・・・・」
「がんばろうね」


名雪の声が、弾む。


「テスト、がんばろうね」
「ああ・・・がんばらないと、な・・・」


約束通り30分経って、俺は自分の部屋に戻った。

最後の方は、ほとんど試験勉強は上の空だった。


・・・。


「・・・心が思い出を閉ざしてしまうくらい、辛いできごと」


それは、名雪の言葉。


「・・・・・・」


その言葉を、何度も心の中で繰り返しながら、やがて眠りの中に落ちていった・・・。


・・・。

 

 

Kanon【6】


・・・。


1月15日 金曜日(成人の日)


目覚めるなり、その目と鼻の先に異様な物を発見して、俺は思わずおののいてしまう。

水気を失い、かすかすになっている不気味な直方体の物体・・・

豆腐だった。

水に浸けても元には戻らないだろう。

すでに傷んでいる。


(いつになったら懲りるだろうな・・・)


それをごみ箱に捨てて(秋子さんが見たら、びっくりするだろうが)俺は朝食をとりに部屋を出た。


・・・。

 

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「おはよう、祐一君」
「ああ、おはよう・・・」


「秋子さん、ご飯おかわり」
「はいはい」


「ふぁ~、名雪のやつはやっぱりまだ寝てるのか」
「今日は部活も休みみたいだから、好きなだけ寝かせておいてあげましょう」
「そうですね」
「お腹が空いたら、昼過ぎには起きてきますよ」
「しかし、よくあれだけ寝ていられるな」


「秋子さん、卵おかわり」
「はいはい」


「あれ? そう言えば、真琴のやつは?」
「あの子なら、今朝は食欲がないって言って、外に出かけていったみたいよ」
「そうですか・・・」
「心配ですか?」
「どうせ食欲がないのは、肉まんの食い過ぎです」


「秋子さん、お醤油もらっていいかな」
「はいはい」


「今日は面接だから、あいつの場合は少しくらい元気がない方が・・・」


「秋子さん、このお漬物すごくおいしいよ」

「・・・って、何やってんだ、あゆ!」

「おかわり」
「そうじゃなくて、なんでここにいるんだ!」
「・・・朝ご飯食べてるから」
「自分の家で食えっ!」
うぐぅ・・・」


「祐一さん、それくらいにしてあげてください」


「そうだよ」
「自分で言うなぁっ!」


「祐一さん、それくらいにしてあげてください」
「秋子さんも、庇わないでください」
「でもね、わたしが招待したのよ」


「うん」
「・・・招待?」


いまいち事情が飲み込めない。


「外にゴミを出しに行ったときにね・・・」


秋子さんが、その事情をとつとつと話し始める。


「その時に、偶然あゆちゃんが通りかかったのよ」
「うん。 通りかかったんだよ」


「それで?」
「一緒に朝ご飯でもどうですか?って」
「・・・それで?」
「それだけよ」
「秋子さん・・・」
「はい?」
「・・・道端で出会ったというだけで、朝食に招待しないでください」


ため息と一緒に吐き出す。


「賑やかな方が、楽しいですから」


頬に手を当てながら、それだけを言い残してキッチンの中に消える。

・・・なんというか、相変わらずの秋子さんだった。


「祐一君、秋子さんって料理なら何でも得意なんだね」
「お前も、少しは遠慮しろ」
「お腹空いてたから」


にこっと微笑んで、おかわりのご飯にしばづけをのっけている。


「大体、いつからこの家の朝食は和風になったんだ・・・」


昨日までは間違いなく、トーストにゆで卵だったはずだ。


「秋子さんが、パンとご飯どっちがいいですか?って訊いたから、ボクはご飯がいいって・・・」


それでわざわざご飯を用意したのか、秋子さんは・・・


「うちはファミレスじゃないぞ・・・」
「このしばづけ、秋子さんが自分で漬けたんだって。 料理上手な人って、羨ましいよね」
「お前はどうなんだ? 料理できるのか?」
「ボクも料理くらいは余裕でできるよ」
「やけに自信たっぷりだな」
「ボクにだって特技のひとつくらいあるもん」
「食い逃げか?」
うぐぅ、料理だもん!」
「料理・・・」
うぐぅ・・・」


あゆには悪いが、どっから見ても料理が上手そうには見えなかった。

しかし、見た目に反して、実は凄い料理の腕の持ち主という可能性も、全くのゼロではない。


「?」


不思議そうに首を傾げるあゆを後目に、運ばれてきた朝食を頬張る。

俺の朝食はご飯と焼鮭だった

確かに秋子さんは和食も絶品だった。


「いつか、祐一君をびっくりさせるような料理を作るもん!」


しかし、俺があゆの手料理を食べるなんてことが、果たしてこの先に起こり得るのだろうか・・・。

・・・ないな。

一緒に住んでいる名雪の手料理ならともかく、あゆの料理を食う機会があるとも思えない。


「・・・どうしたの?」
「残念だったな、あゆ」
うぐぅ、言ってる意味がわかんないよ」


頭の上に『?』を浮かべるあゆを後目に、俺は秋子さんの焼いてくれた鮭を頬張っていた。


・・・。


「あゆ、今日はこれからどうするんだ?」


朝食を食べ終えて、帰るというあゆを見送るために家の前までつき合う。


「ボクはこれから商店街だよ」
「まだ10時にもなってないから、ほとんどの店は閉まってるぞ」
「うん。 お店は閉まってても、歩道を探すことはできるから」
「探すって・・・」


『落とし物を探してるんだよ』


「まだ探してたのか・・・」
「うん。 見つかるまで頑張るよ」
「そっか。 見つかるといいな」
「うんっ。 応援しててね」
「ああ・・・」
「ばいばい、祐一君。 ご飯、おいしかったよって秋子さんに伝えておいてねっ」


今日は休みだから、俺も一緒に探してやろうかと思ったが、言葉にするよりも早く、あゆの姿は消えていた。


「せっかちなやつだな・・・」


もっとも、それだけ大切な物ということなのかもしれない・・・。


「見つかるといいな・・・」


外でじっとしていても寒いだけなので、そそくさと部屋の中に戻る。


・・・。


リビングに戻っても、まだ名雪の姿はなかった。

ぐっすりと眠って、部活の疲れを癒やしているのだろう。

チャンネル片手にテレビをつけてみたが、これといった番組もなく、すぐに消してしまう。

この街に引っ越してきて、1週間以上が過ぎていたが、まだ休みの日に気安く遊びに行けるような友人は居なかった。

つまり、暇だった。


(・・・名雪でも起こして遊ぶか)


一瞬、そんな考えも脳裏をよぎったが、さすがに可哀想なのでやめておく。


(俺も寝るか・・・)


今までとは全く違う新しい生活。

疲れていることは間違いなかった。


・・・。


「・・・・・・」


ベッドに横向けに寝転がって目を閉じてると、自然に眠りに入ることができた。


・・・・・・。


・・・。

 

「ふぁ・・・」


目を開けるとオレンジの光が眩しくて、俺は無意識に寝返りを打った。

どれだけ時間が経ったのかは分からないが、少なくともベッドで寝ころんでいると西日が気になるような時刻ではあるらしい。


「・・・・・・」


一番近い枕元の時計をたぐり寄せて、時間を確認する。

4時。

平日なら、丁度学校から帰ってくる頃だ。

体を起こしてベッドに腰掛ける。

静かだった。


「ふぁ・・・」


もう一度あくびをかみ殺してから、赤く染まる部屋を後にした。


・・・。


「・・・静かなはずだ」


家の中には、誰もいなかった。

名雪と秋子さんは、どうやらふたりで夕飯の買い物に出かけたようだ。

それでなくても広い家が、ひとりだと余計に広く感じられる。

俺はリビングのソファーに体を沈めて、テレビのスイッチをオンにした。

しばらくは普段見ることのない平日のテレビ番組を眺めていたが、それもすぐに飽きる。

名雪も秋子さんも、なかなか戻ってこなかった。

これといって出かける用事も思いつかず、結局、面白くない番組を眺め続けていた。


・・・・・・。


・・・。


「ただいま~」


やがて、玄関から名雪の声が聞こえてくる。

秋子さんも一緒のようだ。

 

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「あれ? 祐一ここに居たの?」
「ああ」
「今日は祐一の好きなカレーライスだよ」


嬉しそうに、買い物鞄を掲げて見せる。


名雪、晩ご飯の準備手伝ってくれる?」
「あ・・・はーいっ」


おそらくカレーの材料が入っている買い物鞄を持って、ぱたぱたとキッチンに入っていく。


「・・・・・・」


ひとり取り残されて、俺はそのままテレビ画面を眺めていた。

ドラマの再放送らしかったが、内容なんて分からなかった。


・・・。


夕飯後。

部屋に戻ろうとして、廊下に出ると、玄関に人影があった。


「ん?」


それは真琴だった。

急いで靴を履いている。

夕飯の間も俺とは目を合わさず、慌しく食べ終わると、ひとり食卓を後にしていた。

今日は面接があったはずだったから、その結果を訊かれるのが嫌で逃げているのだろう。


「おい、真琴」
「わっ」
「待て、わってなんだ」

 

慌てて出ていこうとする真琴の首根っこを捕まえる。


「あぅ、肉まんーっ」
「面接はどうしたっ」
「行ったよ」
「行ってどうした」
「面接したよ」
「して、どうした」
「落ちたよ」
「落ちたって・・・結果報告はまだだろ?」
「だって、もう帰っていいよ、って、面接の途中で」
「なにしたんだ、おまえ」
「なにもしてないよ」
「うそつけ」
「ただ・・・ウトウトってしちゃって、それでくーッて・・・」
「・・・・・・」
「・・・お店、閉まっちゃうよ」
「こいっ」


また引きずるようにして、真琴をリビングへと連れてゆく。


・・・。


「さて、真琴は何をしたい?」
「遊びたい」
「働くんだよ、ばかっ」
「そんな、怒鳴らなくても・・・」
「おまえなぁ、こうやって世話焼いてやってるんだから・・・」
「また選ぶの?」
「選ぶんだよ」


本立ての中から、アルバイト情報誌を引っぱり出してくると、それを再び真琴の目の前に並べる。


「ほら、自分で探せ」
「あぅーっ・・・」


真琴がいつものうなり声を連呼していると、興味津々の面もちで秋子さんが寄ってきた。

 

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「なに見てるの?」
「アルバイト情報誌ですよ」
「誰がアルバイト始めるの?」


「祐一」
「おまえだろっ!」
「あぅ・・・」


「え? 真琴がアルバイトするの?」
「ええ。 ただ遊んでるだけじゃ申し訳ないからって」


「そんなこと一言も言ってないんだけど・・・」


「じゃ、わたしの知り合いに紹介してもらいましょうか?」
「そりゃ、ちょうどよかったです。 どんなお仕事ですか?」


真琴の呟きを余所に、話は進展してゆく。


保育所をやっていて、いつでも人手が足りないそうなの」
保育所・・・」


俺はその仕事内容を思い浮かべながら、真琴の顔に視線を移す。


「あぅ・・・」


どう考えても、子供の相手をするほうではなく、真琴のほうが預けられそうな立場である。


「子供と遊ぶだけだから誰だってできるし。 それに保母さんはわたしの友達だから、何かあっても安心だし」


名案とばかりに秋子さんは両手を合わせている。


「できるかな、真琴に・・・」
「できるできる。 わたしが保証してあげる」


秋子さんに丸め込まれるようにして、真琴も首を横に振ることになる。

それは秋子さんの人柄によるところだ。

強引だけども、決して相手を不安にさせない。

その口振りは、はたで聞いていても一緒に落ち着いてしまうほどだった。

年の功というのか、俺もこのぐらいになれば、真琴に馬鹿にされずに済むんだろうな、なんてことを思う。

その晩のうちにも秋子さんが連絡をして、明日にも真琴はその保育所で手伝いをすることになりそうだった。

面接もなにもなく、いきなり明日から実地というわけでもある。


「はぁ・・・子供かぁ・・・」


うまく言いくるめられてしまった真琴は、終始不安げにため息をついていた。


・・・。


部屋に戻って気がつくと、もう10時を回るような時間だった。

俺は風呂に入るために部屋を出る。


・・・。


「うー・・・さみっ」


体の芯まで冷え切っている感じだ。

このまま熱い風呂に入ったら、素晴らしく気持ちよさそうだ。


「ん・・・」


向かう風呂場から真琴が出てくるところだった。

湯上がりなのか、頬を上気させていた。


「なんだ、もう出たのか。 今から入ろうとしてたのに」


そう言うと、何かを思い出したように含み笑いを漏らした。


「なんだ、不気味な奴だな・・・」
「いい湯だったわよ。 早く入ってくれば?」
「言われなくてもそうするよ」


そのまますれ違い、俺は風呂場へと向かった。


・・・。


脱衣所で服を脱いでいると、そこはかとなく味噌汁の匂いが漂っているような気がした。

今頃、秋子さんが味噌汁を炊いているのだろうか。

不思議に思いながら、俺は風呂場の戸を開く。


「なっ・・・」


そして予想外の異様な光景に俺は呆然と立ちつくす。

湯船に張られている透明なはずの湯が、濃い茶色の味噌汁と化していたのだ。


「おい、真琴ーーーっ!!」


俺はタオル1枚を腰に巻き付け、廊下に向かって叫ぶ。


「降りてこい、真琴ーーっっ!!」


怒鳴り続ける。


「どうしたの、祐一さん」


その声に秋子さんも、名雪も集まり始める。

そして、


「・・・おみそ汁」


あたり一面に立ちこめる臭気に、揃って漏らした。


「なになにぃーっ?」


最後に真琴が嬉しそうに現れる。


「真琴・・・」
「ん?」
「こんな大量の味噌汁作ってどーするっ!」


ぽかっ!


「あぅっ・・・イターイ!」

「すごいことになってるわねぇ・・・」


湯船を覗き込み、秋子さんが呆れたような声を漏らす。


「わっ・・・お風呂がお味噌汁になってる! 一体誰が・・・」
「おまえしかいないだろっ!」


ぽかっ!


「イターーーイッ! 証拠あるのーーッ」
「こんなバカなことを名雪がするのか、秋子さんがするのか、俺がするのかっ!」
「真琴だってしないよぅっ」
「おまえの悪戯以外に考えられるかっ。 俺だけならまだしも、他の人間にも迷惑かかることを少しは考えろっ!」
「あぅーっ・・・」


「一袋ぜんぶ入れたの?」
「うーっ・・・」
「こんなことしたら、飲めなくなるでしょ? 食べ物を粗末にしたらダメよ」
「うーっ・・・うん・・・」


秋子さんの説教が始まっていた。

家主である秋子さんにまで嘘を突き通す度胸はないらしい。

まったく中途半端な度胸である。


「しかしどうすんだ、これ・・・」


かき混ぜてみたりしている名雪の背中越しにそれを見下ろす。


「これから一ヶ月、ここから掬って飲むのか?」

「わたし、眠い・・・」


名雪だけは別のことを考えていた。


「はぁ・・・仕方がない、流すか・・・」


俺はチェーンを引っ張り、ぽんっと栓を抜いた。


・・・。


湯を張り直したのはいいが、味噌汁の匂いだけはとれず、その後に入った人間がことごとく味噌臭くなって出てきたのには閉口するしかなかった。


「みんな、おミソ臭い・・・」
「おまえのせいだろっ!」


ぽかっ!


「あぅっ・・・」


・・・。


テレビを見て部屋に戻ってくると、人の気配がしないかを確かめる。


「・・・・・・」

 

部屋には俺以外には誰もいなかった。

今夜は別の手でくるか。


夕べは見過ごしてやったが、防げるならその悪戯をひとつずつ事前に潰してやったほうがいいのかもしれない。


そうすれば、いつか諦めるかも知れない。

が、悪戯の方法なんてそれこそ無限大だ。

逆に言えば、それは一生続く、ということなのかもしれない。

その想像をしてしまって、思わずぞっとする。


「とっとと、寝るか・・・」


まさか、大人になってまでそんなことが続くとは常識的には考えられなかったし、もとより真琴との同居生活がそんなに長く続くこともないだろう。

あくまで身元が判明するまでの、短い付き合いでしかないのだ。


・・・。


しばらくの辛抱だろうな、と見切って、俺は床に入った。


・・・・・・。


・・・。

 


「・・・・・・」


ぶるっと身震いと共に目を覚ますと、俺は布団から抜け出し体を起こした。

時計に顔を近づけて睨み見ると、まだ深夜の1時を回ったところだった。


(トイレ、いっとこ・・・)


立ち上がり、部屋を出る。


・・・。


暗がりを足元に気を付けて歩いてゆく。


ごんっ!


足元ばかりに気をとられていたら、額を何かにぶつけた。


「イタイ~ッ」


それはそう叫んだ。

頭を上げると、そこには真琴の顔があった。


「なにやってんの、おまえ。 こんな夜中に」
「は・・・えっと・・・うんとっ・・・」
「おまえの向かっている先には俺の部屋しかないぞ」「えっ? あ・・・眠れなくて暇だから遊びにいこうかなって・・・」
「こんな真夜中にか・・・?」
「うん・・・」
「じゃあ、これはなんだ」


俺は真琴の手をとって、それを真琴自身に突きつけてやる。

その手には袋入りの中華そばが握られていた。


「あ・・・あぅーっ・・・お腹すいたから・・・一緒に食べようかなと思って・・・」


相変わらず分かりやすい嘘だった。

どうせ熟睡する俺の顔面にぶっかけようとでもしていたのだろう。


「うーっ・・・」

俺がどう反応するのか、追いつめられた子供のように気まずく待つ真琴。

そこで俺は中華そばを・・・


「それ、冷蔵庫に戻しておけよ」
「食べない? 食べないよね、あははーっ」


助かったとばかりに、真琴は安堵の息をつき、そして廊下をとてとてと引き返していった。


「早く寝ろよーっ」
「うんーっ」


見逃してやったのだから、今夜はもう大人しく寝るだろう。

俺も用を足すと、真っ直ぐ引き返して布団の中に引きこもる。

だが、俺は甘かった。


・・・・・・。


・・・。


べちょっ。


「・・・・・・」


顔面に冷たい麺の触感。

あいつの執念を思い知らされる。

俺もこうなれば自棄だ。

このままで寝続けてやる。

もし、寝坊して誰かが起こしにきたなら、その異様な光景に悲鳴をあげるに違いなかった。


・・・。

 

1月16日 土曜日


『朝~、朝だよ~』


・・・。


『朝ご飯食べて学校行くよ~』


朝から脱力するような目覚ましの音に起こされて、カーテンを開けてベッドから這い出る。

制服に着替えて、鞄の中身を確認して、そしてぐぅっと伸びをする。


「・・・土曜日か」


壁に貼ったばかりのカレンダーを見てから、部屋を出る。

そして、一週間の最後の日が始まった。


・・・。


「おはようござ・・・おわっ!」
「おはようございます、祐一さん」


食卓に顔を出すなり、机の上に異様な物体を見つけ驚いたのだが、それに対する秋子さんの反応はいつも通りだった。

相変わらず周りに流されない人である。


「・・・うにゅ」

「おわっ!」


突然、机の上の謎の物体がのそっと動き始めた。

 

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「・・・おはようございます~」


謎の物体が挨拶をする。


「・・・くー」


謎の物体は、寝ていた。


「・・・なんだ、名雪か」


机の上に突っ伏していたので、長い髪の毛が散らばって異様な物体に見えていた。


「・・・くー」

「しかし、俺よりも先に起きてるなんて珍しいな」


「わたしが起きたときもここに居ましたよ」


「・・・くー」


「それって、まさか・・・」
「テーブルに座ったまま、寝てしまったみたいですね」


「・・・くー」


「器用なやつ・・・」
「ごめんなさい、起こしてもらえますか?」
「・・・分かりました」


「・・・くー」


少し体を起こしていた名雪だが、力尽きたのかまた机の上にぽてっと倒れる。


名雪っ! 起きろっ!」


頭のひとつでも叩いてやりたいところだが、さすがに秋子さんの前で力技はまずいだろ。

とりあえず、体を揺する。


「うー・・・地震・・・だおー・・・」


だおーってなんだ、だおーって・・・。


「くー・・・」


すでに、何事もなかったように熟睡している。

今日の名雪は、いつにも増して手強かった。


「あまり寝ていないのかもしれないわね」


秋子さんが、俺の分のトーストを運んでくる。

確かに、昨夜は風呂が味噌汁になって大騒ぎだった。


「そう言えば、こいつは8時になると寝ていることがあるようなやつだったな・・・」


ため息をついて、そしてもう一度体を揺する。


「くー・・・」


慣れきってしまったのか、机に倒れ込んだまま、まったく反応なく眠り続けている。

さて、どうするか・・・。


俺は、作戦を実行することにした。

俺はおもむろに自分のトーストを掴んで、上に普段はほとんどつけることのないイチゴジャムを塗りたくる。

そして、食う。


「・・・イチゴジャム・・・」


思った通り、反応があった。


「今日のイチゴジャムは特にうまいな」
「・・・イチゴジャム~」
「さて、名雪の分のトーストも食ってしまうか」
「うにゅ・・・ダメだお~」


目を擦りながら、名雪が皿を掴む。


「・・・・・・」


そして、ふと俺と目が合う。


「おはようございます・・・」
「やっと起きたか・・・」
「うにゅ・・・」
「やっぱり眠そうだな」
「くー・・・」


というか、寝ていた。


「お母さん。 娘さんの頭にジャムを塗ってもいいですか?」
「ダメですよ、食べ物を粗末にしたら」


「くー・・・イチゴジャムおいしい・・・」


名雪は夢の中で朝食を食べているようだった。


「えらく都合のいい夢だな・・・」
「くー・・・お腹いっぱい・・・」
「よし、腹一杯だったら問題ない。 学校に行くぞ」
「うん・・・」


こくり、と頷く。

そして眠ったまま席を立つ。

ほとんど条件反射のようなものだった。


「というわけで、このまま連れていきます」
「お願いしますね、祐一さん」


「いってきますー・・・」


眠りながら手を振る名雪は、相変わらず平和だった。


・・・。


「よし、時間はまだある。 行くぞ、名雪
「くー」
「って、名雪まだパジャマじゃないか!」
「うん・・・」
「とにかく着替えろっ!」
「うん・・・」


頷いてパジャマを脱ぎ出す。


ぼかっ!


「・・・痛い」
「部屋で着替えてこいっ!」


大体、ここで脱いだって制服がないだろ・・・。


「・・・部屋」


呟いて、トイレのドアを開ける。


ぼかっ!


「・・・痛い」
「そこは部屋だけど服を着替えられるような場所じゃないだろ・・・」
「・・・くー」
「とにかく、自分の部屋で着替えてこい!」
「・・・自分の部屋」


確認するように頷いて、とたとたと階段を上がっていく。


・・・。


・・・・・・。

 

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「くー」


ぼかっ!


「制服だっ!」
「・・・制服」


もう一度頷いて、階段をのぼっていく。


・・・。


・・・・・・。

 

「くー」
「よし。 今度は上出来だ」
「くー」


まだ眠ったままの名雪を引っ張って、外に飛び出す。

 

・・・。


「わっ」


名雪が驚きの声を上げる。

どうやらやっと目を覚ましたらしい。


「・・・気がついたら家の外・・・?」


そりゃ驚くだろう。


「ちゃんと制服も着てるし・・・」


しきりに首をひねる。


「そんなことより、急がないと遅刻だぞ」
「でも、お腹はすいてる・・・」
「そんなことないぞ。 ちゃんと朝は食べただろ?」
「え?」
「イチゴジャムをうまそうに食ってただろ」
「・・・そう言えば、食べたような」
「だったら問題なしだ」
「うー・・・」


お腹を押さえながら、それでも俺の後ろをついてくる。

しかし、名雪の表情には、終始『?』が浮かんでいた。


・・・。


通学路を走り抜けて、一気に学校までの距離を稼ぐ。

「わたし、髪の毛ぼさぼさ~」


悲しそうな名雪を無視して、ひたすら急ぐ。


・・・。

 

「おはようっ」
「おはよう、北川。 今日も相変わらず同じ服だな」
「お前だってそうだろ」
「俺のは一見同じに見えるが、実は毎日着替えてるんだ」
「オレだって実はそうさ」
「嘘つけ。 どっから見ても寸分違わぬ同じ物じゃないか」
「裏側が違うのさ」
「俺なんか、つけてるボタンが・・・」


「・・・くだらないことで張り合ってないで、ほら、石橋が来たわよ」


「勝負はお預けだな。 北川」
「望むところだ。 相沢」


「仲いいね。 ふたりとも」


名雪は何故か嬉しそうだった。

2日ぶりの教室でクラスメートと挨拶を交わして、自分の席に荷物を投げ出すと同時に、チャイムが鳴った。

土曜日の短い授業が、何事もなく過ぎ去っていく。

4時間目の授業が終了して、そのままHRが始まる。

今日は特に話題もないらしく、1分程度でその時間も終わった。


「ふ~、1周間終わった」
「お疲れさま」
「とりあえず、風呂」
「ここ、学校・・・」
「だったら、メシ」
「わたしに言われても・・・」
「ノリが悪いぞ、名雪
「そんなこと言われても、わたし困るよ・・・」
「こんなことでは、立派な社会人にはなれないぞ」
「祐一、言ってることが無茶苦茶だよ」
「まぁ、冗談はいいとして・・・。 名雪、今日も部活か?」
「うん。 今日は帰るのも夜遅くなると思う」
「しかし、大変だな」
「うーん・・・ちょっとだけ大変かな」
「とっとと辞めてしまったらいいのに」
「わっ。 辞めるなんて考えたこともないよ」
「俺なら5秒で辞めるな」
「それは、早すぎ」
「しかし、よく続けられるな」
「頑張ってるもん」
「もしかして、何か弱みでも握られてるのか?」
「ないよ、そんなもの」
「どっちにしろ、俺には絶対にまねできないな」
「そんなことないと思うよ。 祐一ならできるよ」


笑顔で断言する。

いまいち根拠も希薄だと思うが・・・。


「それで、ゆっくりしててもいいのか?」
「あ。 ごめん祐一、わたし先に行くね」


時計を見て、慌てて鞄を持つ。


「またね。 祐一」
「また明日な。 名雪
「明日じゃないよ・・・」
「時間、いいのか?」
「あ」


小さく声をあげて、慌てて廊下に出ていく。


「さて、俺も行くか・・・」


・・・。


「・・・さて」


とりあえず廊下に出て考える。


「・・・帰るか」


特に用事も思いつかず、腹も減っていたのでまっすぐ帰ることにする。

家に帰ると、秋子さんの温かい手料理が待っていることだろう。

本当に、今まででは考えられない生活だった。


・・・。


家に帰って来て、まず部屋に荷物を置く。

昼を食べるために1階へ降りてゆくと、ちょうど真琴が帰ってきたところのようだった。

それで思い出したが、今日から真琴は保育所の手伝いを始めていたのだ。

にしては、帰宅が早いようだが。

リビングに赴くと、そこで秋子さんと真琴が話をしていた。


「おまえ、早いな」


「今日は、土曜日だし、昼までにしてもらったのよ。 みんなでお昼食べたいじゃない?」


真琴より先に、秋子さんが答えた。


「で、保育所の手伝い、どうだったんだ」
「あ・・・うん・・・楽勝よ、あんなもん」
「おまえ、子供を取り巻きにしてガキ大将気取ってるんじゃないだろうなぁ」
「そんなことないわよぅ、ちゃんと、コラって叱ったり、ヨシヨシって頭撫でたりしたもん」


「そう。 頑張ったわね」


俺がさらに言葉を返す前に秋子さんが、先に割って入っていた。


「うん、頑張った。 頑張ったから、ものすごくお腹すいちゃった」
「たくさんあるから、たくさん食べなさいね。 お野菜もね」


秋子さんの後について、真琴もキッチンへと消えていった。


・・・。


久々に買い物にでも出かけようかと思い立った。

未だ実家から持ってきたものばかりで生活していたから、本にしてもCDにしてもそろそろ飽きてきた頃だった。

その辺りの私物を一度整理して、夕方前には好きなものを買いに出かけることにした。

部屋に引きこもり掃除も兼ねて、散らかっていた私物を整理する。

それを終え、出かけようと思った頃にはもう3時を回っていた。


・・・。


出かけ際、真琴の部屋の前を通ったところで、そのドアががちゃりと開く。


「あれ? どこかいくの?」


そこから真琴が顔を出す。


「ああ。 ちょっと買い出し」
「ふぅん」
「一緒にいくか?」
「用があっても、祐一とはいかないっ」


誘ってもこれだ。

いつものように俺の好意を受け入れることなく、そのドアを閉ざした。

俺もそれ以上は執拗に誘わず、当初の予定どおり、ひとりで出かけることにした。

門を出て最初の角を曲がろうとした所で、べちん!と音がした。

今、出てきた家の方である。

振り返ると、門のところで真琴が転んでいた。

段のところで躓きでもしたのだろう。


「大丈夫か、あいつ・・・」


俺と目が合うと、ぱっと立ち上がって、家の中に引きこもってしまった。


「・・・・・・」


大したことはなさそうだったので、俺は気にせずに放っておくことにした。


・・・。


しばらく歩いていくと、背後から追ってくる気配に気づく。

一度、自動販売機に向かう振りをして、来た方向をちらりと見ると、わっ!と驚く真琴と目が合う。


「おいっ」


声をかける間もなく、真琴は身をひるがえすと、どこかへ走り去っていってしまった。


「・・・・・・」


困った奴である。

また悪戯でもしようと、後をつけてきているのだろう。


・・・。


それからも黙って歩いてみるが、真琴はずっとついてきているようだった。


「なに、ついてきてるんだよっ」


隠れる場所もないような大通りで、俺は振り返り、大声で言ってやる。

 

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「ち、違うわよぅ・・・ついていってないもん」


道のど真ん中で、困ったように真琴が言い訳をした。


「そうか。 じゃあ、次の角はどっち曲がる?」
「うんと・・・右・・・かな?」
「ならここでお別れだな。 俺は左にいく」
「えっと・・・あ、そう・・・じゃあね」
「ああ、夕飯までには帰ってこいよ」
「うん・・・」


・・・。


角を曲がると、駅前に出る。


「・・・・・・」


振り向くと、相変わらず真琴がついてきていた。

 

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「・・・どうして、こっちに来てんの、おまえ」
「え? あ・・・別の用、思い出したから・・・」
「じゃあ、俺が向こうにいく」
「うん・・・」
「じゃあな」
「うん、じゃあね」


真琴の脇を抜けて、逆方向へと歩き出す。

それで予定とは向かう方向が変わってしまった。

こちらの方向には一体何があっただろうか。

さすがに7年ぶりとなると、記憶もあやふやだった。


(まあ、それを確かめてみるのもいいか)


気楽に考えることにした。

もとよりそんな大事な用なんてない。


・・・。


「・・・・・・」


やはり、真琴は俺を追っかけてきていた。


「・・・どこに行きたいんだ、おまえは」
「わっ・・・奇遇・・・」
「見え透いた嘘をつくなっ」
「ほんとうだもん。 こっちに用があるのを思い出したの」
「はぁ・・・」


ぼりぼりと頭を掻きむしり、少し考えた振りをした後、提案した。


「帰る」


言って俺はきびすを帰した。


「えっ・・・どうしたの?」
「おまえが帰ってきてから出かけることにする」
「そんなぁ・・・真琴、夕御飯まで帰ってこないかもしれないよ・・・?」
「だったら、明日出かける」
「・・・明日も真琴、出かけるかもしれないよ・・・?」
「じゃあ、その次の休みだ」


帰路を辿る俺の後ろに、真琴もずっとついてくる。


「何か欲しいものあったんでしょ・・・?」
「ガキじゃあるまいし、我慢できる」
「・・・・・・真琴のせい?」
「ああ。 おまえのせいだ」
「・・・待ってよぅ」


真琴が俺の二の腕を掴んでいた。

俺は足を止めて、その真琴に向き直る。


「なんだよ」
「じゃあさ・・・真琴が帰る」
「・・・・・・」
「・・・それでいい?」
「おまえな・・・どうして、一緒に歩くっていう発想が出てこないんだよ」
「・・・え?」
「どうして同時に出かけたら、どっちかが帰らないといけないんだよ」
「こうしてふたりで外に出たんなら、ふたりで歩けばいいだろ?」
「・・・・・・」
「それじゃなんだ? 不意打ちできないって?」
「そんなこと・・・ないけど」
「じゃ、一緒に歩こう。 たまたま外で出会ったんだから」
「あぅーっ・・・」


俺たちは珍しく(というか初めてだ)肩を並べて歩いてみる。

実際そうしてみると、真琴の体が思っていた以上に小さいことを知る。


(こいつも、こうやっておとなしくしていれば可愛いもんなのにな)


そんなことを馬鹿らしいとは思いながらも考える。


「そういやさ・・・」
「うん?」
「おまえって、困ると『あぅーっ』って言うよな」
「え? そんなことないと思うけど・・・」
「そうか?」
「そうだって・・・」
「・・・・・・おまえ、さっき門のところで転んでたよな」
「べ、べつにっ・・・好きで転んでたわけじゃないわよぅっ・・・」
「そんなこと、わかってるよ」
「じゃ、なによぅ」
「大丈夫だったか」
「なにが?」
「怪我とかしなかったか、ってことだよ」
「怪我・・・?」
「どこも痛くないか?」
「あ・・・うん・・・だいじょぶ」
「そっか。 そりゃ良かった」
「うん・・・よかったかも・・・」


俺が心配しているのだって、素直には感じ取っていないようだった。

何か裏があるとでも勘ぐって、ずっと警戒を解かなかった。


「なに仏頂面してんだよ」


ぽむっ、と頭に手をおいてやると、わっ、と驚いて、それからようやく緊張を解いたのだった。


・・・。


べつに取り立てて用なんてなかったが、こうやって真琴と歩いているだけで、それは暇つぶしとしては楽しい気がした。

今までいがみ合ってばかりで、鬱陶しさばかりが先立っていたが、やはり真琴だって女の子である。

客観的に考えれば、女の子とふたりで散歩なんて、贅沢というものだ。


「ねぇ、どこ向かってるの?」
「さぁな」
「なにそれ・・・無責任」


俺の早足に合わせ、真琴は小走りについてくる。

出来る限り、河沿いの景色がいい道に進路をとった。

せせらぐ川面に落ちる雪を眺めながら歩くのが好きだった。

圧倒的な量の雪が、その水面に触れるたび、溶けては消えてゆく。

その自分まで吸い込まれてゆきそうな感覚が子供の頃から好きだったのだ。


グニュ・・・!

 

「あれ? なにか踏んだ・・・」
「ん?」


真琴が立ち止まり、足元を見ていた。


「仔猫だ・・・」
「よくそんなもの気づかずに踏めるな、おまえ・・・」
「こんなところで寝てるからよぅ」


真琴が当てつけがましく言い放つ。

仔猫は何事もなかったように、体を伸ばして欠伸をしていた。

 

「大丈夫のようだな」
「ほら、ネコの心配なんてしないで、雪が降ってくる前にいこうよ」


真琴が俺の背中を押した。

それで俺たちは再び歩き出す。


・・・。


うにゃぁ、と声がした。


「わぁ、ついてきてるっ」


振り向くと、真琴の足元に先程の仔猫がまとわりついていた。


「踏んだこと根に持ってるのかなぁ・・・」
「そんなふうに見えるか?」


ネコは鼻先を真琴のブーツに擦り付けている。


「見えないことない」
「無理して見るな。 普通に見れば、おまえに懐いてるぞ」
「うーっ・・・うっとうしい・・・」
「ほら」


俺はその仔猫を抱きかかえると、真琴の顔面に押しつける。


「わ、なによぅ」
「抱いてみろ」
「ヤだ」
「温かいぞ」
「寒くていいもん」
「いいから」
「ヤだ」
「帰りに肉まん買ってやるから」
「ほんとっ?」
「ああ、約束する」
「じゃ、ちょっとだけね」


そう言って、嬉しそうに仔猫を胸に抱く。

それが打算の笑顔であっても、今は仕方がないか、と思う。

こいつは人間不信のきらいがあるから、動物に対してのほうが心を開きやすいだろう、という俺なりの配慮だった。

はなから俺は嫌われているし、今のままの暮らしを続けるなら、真琴にとっても酷だ。

こういう触れあいで、少しでも考えが軟化すればいいと思う。


「わぁ、温かいよ」
「だろ。 って、おいっ!」

 

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「ん?」


真琴は仔猫を頭の上にのせていた。

仔猫のほうも、体を伸ばしきって居座っているのだから、それも不思議だ。


「ま、いいか・・・」


その部分が凹凸であったかのようにぴったりと馴染んでいたので、放っておくことにした。


・・・。


いつもとは反対側から商店街へと入る。


結局、遠回りをして、ここに辿り着いただけだった。

そして、やることも、いつものように真琴に肉まんを買い与えるだけだった。


「祐一も食べるの?」


袋の中身をのぞき、真琴が訊く。


「当然だ。 みっつも食う気か」


その中のひとつに手を伸ばして、鷲掴みにする。


「あぅーっ・・・」
「そいつにもやれよ」
「そいつ・・・?」
「頭の上にのっかってる奴だ」
「えぇ~っ」
「えぇ~って、なんだ。 ふたつもあるんだから、ちょっとぐらいいいだろ」
「食べるのかなぁ・・・」
「やってみろ」


真琴は半信半疑で、肉まんを持つ手をそろそろと頭上に乗るネコ目掛けて近づけてゆく。


ぱくっ!


「わっ・・・」


ネコは肉まんに飛びかかると、それを丸ごとくわえたまま、地面に降り立った。


「こらーっ! ひとつ丸ごと食べたらダメーーッ! 返しなさいよーーーっ!!」


真琴はしゃがみ込んで、地面に手をついてまでして、取り返そうと躍起になっている。


はぐはぐ・・・」


一方、当のネコはというと、素知らぬ顔で湯気の上がる肉まんを食べ続けている。


(同レベルというか・・・、ネコのほうが大人に見えるな・・・)

 

「おい、真琴」


一目もはばからず怒声をあげている真琴の首根っこを掴んで、起きあがらせる。


「わぁっ、なによぅ」
「ほら、俺の半分やるから、それぐらいにしておけ」
「うー・・・半分・・・?」
「半分だよっ、全部やったら俺が食う分がなくなるだろ」
「わかった」


はい、と早速手を伸ばしてくる。

子供扱いすると怒るくせに、子供と同じ方法でなだめられるところがまったく矛盾している。

でもそれで実際機嫌が直るのだから、こっちにしてみれば扱いやすいのだが。

 

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歩道橋の中途で、流れる車を見下ろしながら俺たちは息をついていた。


「さ、肉まんも食べたし、コイツはもう用ナシね」


その言葉を聞いて、俺は呆れる他ない。


「おまえ、すごいこと言うよな」
「すごいこと?」
「そこまで懐かれていて、よくそんなこと言えるな、ってことだよ」
「そんなことって・・・祐一はそうは思わないの?」
「なにがだよ」
「動物なんて、結局要らなくなったらポイって」
「そりゃそういうご時世ではあるけどさ、俺はそこまでは思わないよ」
「うそだぁ」
「ほんとだって。 そいつも、家に連れていけばいいよ。 他に家があるんだったら、出ていくだろう。 なかったら飼ってやればいい。 どうせ秋子さんも文句言わないよ」
「そんなの可哀想。 なまじ人に飼われて平和な暮らしを知るよりは、このまま野に返してやるべきよ」
「野ってな、おまえ・・・。 それにこいつ、野良猫じゃないぞ」


その人間に対する無防備さ、懐き方は、生まれた頃より人に飼われていた証拠だ。


「放したほうが、よっぽど危険だ」
「・・・・・・」
「おまえが面倒見ればいいじゃないか。 な」
「・・・・・・」


真琴が俺のほうをちらりと見た。

そしてふっと、真琴の手の中からネコが消えた。


「あ、おいッ!」


手を伸ばすが遅い。

ネコは眼下を通り過ぎる軽トラックの荷台にポテッと落ちると・・・


「うにゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ・・・」


悲鳴と共に瞬く間に遠ざかっていった。


・・・。


「いっちゃった」
「いっちゃった・・・だってぇっ!? なにやってんだよ、おまえはぁっ!」


俺は憤りに任せて、真琴の上着の襟元を引っ掴む。


「あいつっ・・・あのまま飼い主の元どころか、遠いゴミ捨て場にでも捨てられたりしたらどうすんだよっ!」
「あのトラックの運ちゃんが拾ってくれるわよぅ・・・」
「そんな無責任な話があるか、ばかっ! おまえ、あれだけのことをしておいて、どうして冷静でいれるんだよっ!」
「な、なによ、あれだけのことって、大したことじゃないわよっ! 無責任も何も関係ないっ! 最初からそんな責任なんて負ってないものっ!」
「このぅ・・・」


俺は片腕を上げる。

そして・・・


「ばかぁっ!!」


殴る代わりに、出せる限りの大声をあげて蔑んでやった。

今、腕を振り下ろしていたなら、本気で殴ってしまっていただろう。


「は・・・ぅぐっ・・・」
「泣いたって、取り返しがつかないんだからなっ」
「いいもん・・・もう祐一のことはわかったから・・・」
「なにがだよ」
「もぅ、祐一となんか一緒にいないっ!」


どんっ!と体当たりをされ、不意をつかれた俺は、そのまま後ろ向きに倒れる。


「おい、真琴っ!」


尻もちをついたまま顔をあげたときには、真琴は小さな後ろ姿となっていた。


・・・。


結局当初の予定が買い物だったなんて、帰ってくるまで忘れていた。

それでも家に戻ってきた頃には、もう辺りが暗くなりはじめたような時刻だった。


・・・。


「おかえり」


居間へ顔を出すと、台所のほうから秋子さんの声が聞こえてくる。


「真琴、知らない?」


俺の顔を見て、そう訊ねた。


「え、いないんですか?」
「ええ、ドタバタと音はしてたから、帰ってきてはいたみたいなんだけど、もう一度出ていったみたい」
「・・・・・・なにやってんだ、あいつは」


俺はため息をついて、居間を後にする。


・・・。


そして真琴の部屋へと向かった。

真琴の部屋は、まるでがらんどうになっていた。


「・・・・・・」


あれだけ山になっていた漫画本や雑誌が跡形もなく消えていた。

いつもだらしなく広げられていた布団も、部屋の隅に丸めてある。


「どうしたの・・・?」

 

秋子さんが後ろに立っていた。


「あら、片づいてるわね」
「違うよ、秋子さん。 出ていったんだよ、あいつは」
「え?」


秋子さんは驚いてみせたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。


「でもまた、夕飯時になったら戻ってくるわよ」
「だといいけど・・・」
「なにかあった?」
「あったけどさ・・・俺は悪くないと思う」
「そう・・・でも、正しいことでも、その子にとっては触れられたくない傷であったりすることもあるのよ」
「・・・・・・」


あんなの常識だ。

あいつの生き物を物として扱うような考えに、同情の余地なんてあるわけない。


「電話かかってくるといいけどね」


ぽん、と俺の肩に手を置いて秋子さんが言った。


・・・。


結局真琴は夕飯時になっても、帰ってこなかった。

イタズラの電話ぐらいはあるかな、と思っていたが、それもなかった。

もとより、この家の電話番号を知らないのだ、あいつは。


・・・。


仕方なく3人で、遅い夕食をとる。

ただ真琴の分の、ひっくり返った茶碗が、その不在感を際だたせていた。


「大丈夫。 この家に居るのが飽きて自分の家に帰っただけだよ。 どうせ記憶がなくなっていたなんて嘘だったんだろうし」


俺はその言葉でみんなを安心させようと思った。

思っただけだった。


・・・。


静かな夜だった。


ギィ・・・


・・・ギィ・・・ギィ・・・

 

俺はその音に敏感に反応していた。

廊下を忍び歩く音・・・あいつに違いない。

みんなと顔を突き合わせるのが嫌で、こうして真夜中に戻ってきたのだろう。

それを悟って秋子さんも、玄関の鍵を開けておいたのだ、きっと。

俺は布団から抜けだし、廊下へと出た。


「・・・・・・あれ、起こしちゃった?」


目を擦りながらに訊く、名雪がそこにいた。


「・・・・・・いや、トイレ」


それだけを答えて、俺は名雪の脇を抜け、1階に降りた。

トイレの前に立とうが、何も出やしなかった。


・・・。